和歌山

飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百五十弾:
2023年1月14-15日
 
関西地方の和歌山県に足を運び、和歌山県に位置する岩出市民民族資料館、和歌山県立紀伊風土記の丘、和歌山市立博物館、和歌山市立こども科学館、和歌山県立博物館、和歌山県立自然博物館を観光しました。

14日12:30車で出発、和歌山県岩出方面に向かう。

岩出市民民族資料館:岩出市の歴史や文化を学べる岩出市民俗資料館
地域のふるさと創生の核として設置されたもので、館内には、根来寺周辺の多数の埋蔵文化財を展示している。

和歌山県立紀伊風土記の丘;古代の人の生活を身近に感じて、タイムスリップ感覚!
園内59万平方メートルに特別史跡岩橋千塚古墳群、竪穴住居や古い民家がたち並び、古代体験ができる。歴史系の資料館などがある。古墳の石室にもはいれる。

16:00和歌山市和歌山城付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

15日8:30車で出発、和歌山市内の博物館巡り。

和歌山市立博物館:「資料が語る和歌山の歴史」が感じとれます!
館内には、郷土に関する考古資料や歴史資料及び美術資料などを展示している。和歌山の文化や歴史を学ぶのに最適。

和歌山市立こども科学館:親子で楽しめるイベント満載の科学館
館内には、和歌山の自然、科学模型などに関しての資料を展示している。館内にはプラネタリウムもある。

和歌山県立博物館:文化財や芸術と触れ合える博物館、館内には、和歌山県ゆかりの美術工芸品や歴史資料などを展示している。展示物には、紀州徳川家旧蔵品や紀州の三大窯などがある。

12:30海南方面に向かう。

和歌山県立自然博物館:水族館と標本などの展示がいっしょになった、楽しく学べる学習施設
豊かで美しい和歌山県の自然をわかりやすく紹介する施設。第1展示室は、水族館コーナーとなっており、大水槽「黒潮の海」では、ドチザメやマダラエイなどが悠々と泳ぎ、まるで海中に身を置いたかのような臨場感が楽しめる。和歌山県内にすむ生きものを展示しており、その種類数は全国有数。第2展示室では、動植物、昆虫、貝、化石、鉱物などを展示し、和歌山県の自然を標本や模型で紹介しており、和歌山の自然を体感できる。

14:30帰路に向かう。

関西地方の和歌山県に足を運び、和歌山県に位置する岩出市民民族資料館、和歌山県立紀伊風土記の丘、和歌山市立博物館、和歌山市立こども科学館、和歌山県立博物館、和歌山県立自然博物館を観光楽しみました。

岩出市民民族資料館、和歌山市立博物館、和歌山市立こども科学館、和歌山県立博物館は、初めての訪れです。

和歌山市立こども科学館は子ども用博物館ですが、ゲーム感覚でわかりやすく大人も楽しく学ぶことができる博物館でした。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百五十七弾:和歌山県和歌山駅、和歌山市駅、南海和歌山市駅、紀伊田辺駅、道成寺駅、湯浅駅、海南駅、紀三井寺駅周辺散策観光
2021年1月23-24日
  

近畿地方の南に位置する和歌山県に足を運び、和歌山県に位置する和歌山駅、和歌山市駅、南海和歌山市駅、紀伊田辺駅、道成寺駅、湯浅駅、海南駅、紀三井寺駅周辺を散策観光しました。

23日13:32天王寺特急くろしおで出発
14:16和歌山駅到達、散策

和歌山駅:
徳川御三家の一つ、紀州藩の居城・和歌山城をはじめ根来寺など史跡が多い町エリア、万葉集に詠われた景勝地、紀州徳川家55万5千石の居城跡「和歌山城」,,国内屈指の近現代版画コレクション「和歌山県立近代美術館」など

和歌山市駅:当駅には、南海電気鉄道の南海本線と和歌山港線のほか、JR西日本の紀勢本線が乗り入れている。以前は改札を出ずに乗換が可能な共同使用駅であったが、2017年の改良工事により、両社の改札口が別となった。南海本線と紀勢本線は当駅が終点、和歌山港線は当駅が起点となっている。いずれの線も全列車が停車する。南海本線の大阪方面からの列車は当駅折り返しが大半だが、特急「サザン」と急行のそれぞれ一部のみ和歌山港線に乗り入れる。

15:57和歌山市駅出発、和歌山駅で特急くろしおに乗り換える。
17:26紀伊田辺駅到達。駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
24日7:15出発。

紀伊田辺駅:田辺は、和歌山県の海岸線のほぼ中央に位置し、太平洋に面した田辺湾を望み、黒潮の影響により、冬は暖かく、夏は比較的涼しい温暖な地域であります。
田辺の歴史は古く、その昔「牟婁の津」と呼ばれ、熊野詣が盛んになった平安時代中頃より、交通の要衝として栄え、熊野古道中辺路と大辺路の分岐点にあることから『口熊野』と呼ばれていました。さらに江戸時代には、紀州藩主徳川頼宣公の執政家老安藤帯刀のもと、城下町として栄え、紀南の政治・経済・文化の中心地として発展してきました。
当地は、英雄・文化人も多く輩出し、ゆかりも深く、遠くは、武蔵坊弁慶に始まり、博物学・民俗学の南方熊楠翁や合気道の開祖植芝盛平翁などが有名です。この地で育まれたり活躍した偉人の足跡が、世界遺産に登録されている闘鶏神社(正しくは『鬪雞神社』)をはじめ市内のあちこちに残されております。
また、風光明媚なところであり、ナショナルトラスト運動で一躍世界中に名を馳せた天神崎をはじめ奇絶峡、ひき岩群など、山々の緑と清らかな水、美しい海岸線に恵まれた自然の景観を楽しむことができます。

9:09紀伊田辺駅出発。
9:49道成寺駅到達、散策、御坊駅に向かう。

道成寺駅:能や歌舞伎で有名な安珍清姫伝説。この伝説の舞台となっているのが、道成寺です。道成寺は、文武天皇の勅願で大宝元年(701年)の創建といわれ、国宝の千手観音菩薩、日光菩薩、月光菩薩をはじめ、数々の重要文化財が保存されています。

10:33御坊駅出発。
10:51湯浅駅到達。

湯浅駅:熊野三山へと続く熊野古道の宿場町として、古くから栄えた和歌山県の湯浅町。醤油発祥の地としても有名なこの町では、江戸~明治時代の風情を感じさせる建物が軒を連ね、趣のある町並みを歩きながら、歴史に思いを馳せることができます。
湯浅町は、紀伊半島西部にある広さ20平方キロメートルほどの町。入江の奥に位置するこの町は、海路の便が良かったこともあり、古くから物流の中心地として栄えてきたほか、1800年代初頭にはなんと92軒もの醤油屋が営業していたという醤油醸造の町としても有名です。

ここには、平成18年に文部科学省から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されたエリアがあり、いまでも江戸~明治時代の面影を残したままになっています。近年では、醤油醸造の歴史に触れ、時代を感じられるその町並みが、観光スポットとしても注目されています。


12:16湯浅駅出発。
12:38海南駅到達、散策、紀三井寺に向かう。。

海南駅:海南市は、古くから熊野古道の要衝の地として栄え、熊野九十九王子の中でも特に格式高い五躰王子の一つで熊野聖域の入り口とされる藤白王子、全国に200万人といわれる"鈴木さん"のルーツといわれる鈴木屋敷などたくさんの歴史的資産があります。
また日本四大漆器の一つである紀州漆器の里・黒江の町並み、黒沢ハイランドや和歌山マリーナシティも近くにあります

14:28紀三井寺駅出発

紀三井寺駅:早咲きの桜として有名で、また西国第2番の札所でもあり、巡礼姿のお遍路さんが杖をつきながら、ひたむきなまなざしでお参りしているのが見受けられます。
名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」「清浄水(しょうじょうすい)」から来ています。
さて、楼門をくぐると、目の前に231段の階段がそびえ、一瞬立ちすくんでしまいます。しかし、苦しさが多ければ多いほど、喜びもまたひとしおであると思い、この坂を一段一段無心で登り始めると、いつしか身体の細胞1個1個が目覚めていくような感じがしてきます。
登りきったところでホッとして振り返ると、美しい和歌浦湾が遠望でき、旅情がかきたてられます。
この寺は、宝亀元年(770)、唐の僧為光(いこう)上人によって開かれました。和歌山城からほど近いところにあるため、歴代藩主が訪れ、紀州徳川家の繁栄を祈願した寺です。
宝歴年間(1751~1764)に本堂を新築。その本堂のなかには10代藩主治宝(はるとみ)が寄進した多宝塔が安置されています。
本堂横の入口、霊宝堂のなかには、治宝直筆の掛軸、一休和尚の額、その他、西国三十三箇所の絵図などが多数展示してあります。
また、六角堂は、西国三十三箇所を巡礼するのに等しい功徳があると伝えられ、他府県からもたくさんの人が年中途切れることなく参拝に訪れています。

15:55天王寺駅到達。

今回の旅行、近畿地方の南に位置する和歌山県に足を運び、和歌山県に位置する和歌山駅、和歌山市駅、南海和歌山市駅、紀伊田辺駅、道成寺駅、湯浅駅、海南駅、紀三井寺駅周辺を散策観光し楽しみました。

生憎の2日間共雨、小雨の中を散策観光しました。4万6000歩、歩行距離35km堪能しました。





 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十四弾:和歌山県お城・城下町巡り観光
2018年2月17日-18日
 

僧兵集団が力を持ったエリアで、戦国時代に入っても、織田信長、豊臣秀吉に反発した。やがて秀吉の奇襲征伐によって、有力な拠点が相次いで陥落、秀吉は和歌山城を築城し、紀州での支配力を強化した和歌山県に足を運び、御坊から南に点在するお城7か所を訪れました.

17日17:00車で出発、御坊に向かう。
18:30御坊駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日7:30車で出発、お城巡り。

平須賀城:築城年代は定かではないが室町時代に野辺弾正忠忠房によって築かれたと云われる。 野辺氏は源経基の子満快の後裔という。

野辺氏は高田土居城を居館として忠房の頃に平須賀城を築いたという。 野辺氏は畠山氏の被官で、湯川氏に属していた野辺光房は永禄5年(1562年)に河内国若江で三好氏と戦い討死した。その子、野辺春弘のとき幡山要害城を築いて居城を移したという。

田辺城:元和5年(1619年)安藤直次によって築かれた。

安藤直次は和歌山に入部した徳川頼宣の付家老で、田辺三万石を賜り田辺城を築いた。これ以前に紀州を領していた浅野氏の家臣浅野氏重が在城した湊城があったが、浅野氏が安芸国広島に転封となると氏重もまた備後国三次へ移った。田辺城の普請は天保年間まで続いた。

龍松山城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)山本忠行によって築かれたと云われる。 山本氏は清和源氏の子孫ともいわれるが、忠行が紀伊国櫟原荘の地頭として入部したことに始まる。

天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州攻めでは三ヶ月に及んで対峙し和睦となった。しかし、翌年和睦の為に、大和郡山城の羽柴秀長を訪れた山本康長ら13人はその帰路藤堂高虎の館にて謀殺された。

八幡山城:築城年代は定かではないが安宅氏によって築かれたと云われる。

享禄3年(1530年)に安宅氏の跡目相続争いがあり、安宅嫡家大炊頭実俊の弟治部大輔が籠もったという。

安宅本城:築城年代は定かではないが享禄年間(1528年~1532年)安宅河内守によって築かれたと云われる。 安宅氏は橘姓で足利尊氏の命により淡路国沼島の海賊を退治するため、淡路国由良に居城していたという。

天正13年(1585年)羽柴秀吉による紀州攻めで帰参し羽柴秀長に仕えた。

勝山城:安宅勝山城は安宅本城の南に聳える標高212.4mの山頂に築かれている。

主郭は山頂にあり南北二段で土塁が巡る。北が高く南が低い。南の曲輪は西に虎口を開き土塁の内側に石積を残す。東側の土塁には雁木のような石段が見えている。

山頂の主郭から東、西、南の三方に伸びた尾根を堀切で遮断しているが、東の尾根は岩盤を削った圧巻の五重堀切で一番内側の部分は石積を伴っている。また、この堀切に面した曲輪の側面にも石積がある。

南尾根は長く竪堀を伸ばした三重堀切で、主郭の南東下に土塁囲みの小さな腰曲輪が備わっており、この外側に畝状竪堀群がある。

西尾根は主郭南の西虎口から降りると帯曲輪があり、その北端から竪堀、その先に堀切が一条あり遮断しているが、この部分はだいぶ埋まっているようである。

新宮城:元和4年(1618年)浅野忠吉によって築かれた。 関ヶ原合戦後、浅野幸長が和歌山城主となると、家老の浅野忠吉に二万八千石を与え新宮に置いた。この忠吉によって新宮城の築城が始まったが、元和の一国一城令によって一旦は廃城となる。しかし、元和4年(1618年)に築城は再開された。

元和5年(1629年)浅野長晟が安芸国広島に転封となると忠吉は備後国三原へと移った。 浅野氏に代わって徳川家康の十男頼宣が入封するとその付家老として遠江国浜松から水野重仲が三万五千石で入封、この水野氏の時代に完成したという。

16:00終了、帰路に向かう。
今回の旅行、和歌山県のお城巡り、第二弾、御坊から南に点在するお城を巡り楽しみました。
城跡が公園に整備さてていたところが多かった。













 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十二弾:和歌山県お城・城下町巡り観光
2017年11月4日-5日
 

近畿地方の南に位置し太平洋に接し僧兵集団が力を持ったエリアで、戦国時代に入っても、織田信長、豊臣秀吉に反発し、やがて秀吉の奇襲征伐によって、有力な拠点が相次いで陥落、秀吉は和歌山城を築き、紀州での支配力を強化した和歌山県に足を運び、和歌山県に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

4日16:00車で出発、17:30和歌山市駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:00車で出発、お城巡り。

手取城:築城年代は定かではないが南北朝時代に玉置大宣によって築かれたと云われる。 玉置氏は大和国十津川地域の出身で、奥州岩城判官の後裔を称す。
南北朝時代に大和国から日高川の上流地域に鶴ヶ城を築き、さらに下流へ降って山崎城の川上兵衛則秋を攻略してこの地域を支配した。
その後は亀山城の湯川氏とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々続いた。 天正13年(1585年)羽柴秀吉の紀州侵攻に対し、亀山城主湯川直春は娘婿である手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを望んだが、玉置氏はこれに従わなかった。怒った直春は二百余名で手取城を攻め焼き払った。

亀山城:築城年代は定かではないが湯川氏によって築かれたと云われる。 湯川氏は甲斐源氏の武田三郎忠長が熊野の賊を平らげて芳養庄を賜り、内羽位に館を構え湯川(湯河)氏を称したことに始まる。
亀山城が築かれたのは貞和4年・正平3年(1348年)頃とも永享11年(1439年)頃とも云われ定かではないが、日高に進出した湯川光春によって築かれたと云われる。
その後代々湯川氏の居城であったが、十一代湯川直光は天文18年(1549年)頃に小松原館を築いた。これは単なる居館ではなく平城であったと云われる。移した理由については「亀山城は寒風の季節は住みにくい」というものであった。
天正13年(1585年)羽柴秀吉が紀州へ侵攻すると、湯川直春は娘婿の手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを望んだが、玉置氏はこれに従わなかった。怒った直春は二百余名で手取城を攻め焼き払った。その後、秀吉の大軍に攻められた湯川氏は城を焼き払って退去し後に和睦する。しかし、天正14年(1586年)湯川直春は羽柴秀長の居城である大和郡山城で没した。一説に謀殺されたとも伝えられる。

入山城:築城年代は定かではない。
大永2年(1522年)阿波の三好義長が由良に上陸して小坊子城を築き、畠山氏と戦い勝利した。入山城はこの時に小坊子城の支城として築かれたと考えられる。義長は子息の三好義継を小坊子城に置いて阿波へ引き上げたが、畠山氏と湯川氏が結んで小坊子城を落としており、入山城は湯川氏の支配に置かれたと推測されている。
戦国時代には青木勘兵衛由定の居城となっており、秀吉に属して三好氏との戦いに功があったとも伝えられるが、不明な点も多い。入山城は北の城山と南の本丸という二つの城郭が同じ丘陵に存在していることから、歴史が混同されて伝えられているようである。

鹿ヶ瀬城:

湯浅城:康治2年(1143年)湯浅宗重によって築かれた。
湯浅氏は藤原鎌足の子孫で、平治の乱では熊野まいりから引き返す平清盛に兵30騎を率いて加勢した。
源平合戦では源氏に付き後に鎌倉幕府から阿て(氏に_)河荘・保田荘・田殿荘・石垣荘の地頭職に任ぜられた。
南北朝時代には南朝方となったが、南朝方が不利になるに従い湯浅衆も内部分裂し勢力は衰退した。

鳥屋城:築城年代は定かではないが鎌倉時代末期から南北朝時代初期頃に湯浅宗基によって築かれたと云われる。 湯浅宗基は湯浅氏の祖である湯浅宗重の孫で宗光の子である。石垣氏の祖となったことから石垣城とも呼ばれている。
応永7年(1399年)に紀伊国守護職として畠山基国が入国すると、その弟の畠山満国が城主となり外山城と改められた。その後、鳥屋城と改められ畠山氏の一族や守護代神保氏等が城主を務め、天正13年(1585年)畠山貞政が城主のとき羽柴秀吉に攻略され廃城となった。

大野城:築城年代は定かではない。建武年間(1334年~1338年)に紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国がこの大野城に入城していたという。
その後、建武年間(1334年~1338年)には南朝方の浅間入道覚心、その子浅間忠成、保田氏、北朝方の細川氏が続いて大野城に入城した。
細川氏が南朝方の急襲によって敗走すると、紀伊守護職に任ぜられた山名義理が、永徳2年・弘和2年(1382年)に大野城を攻略して大野城主となった。しかし、六分の一殿と呼ばれるまでの勢力を持った山名氏を抑えようと、将軍足利義満が画策し明徳の乱が勃発する。山名義理は紀伊から兵を出さず動かなかったが、乱の平定の後に罰せられ、紀伊国と美作国を取り上げられた。紀伊を召し上げられた後も大野城から出なかった山名義理に対して、将軍は大内義弘を送って攻めせると、義理はこれに対応しようとしたが紀伊の国人衆はこれに従わず、義理は再起を図る為に城を脱して淡路国由良へ脱した。
応永6年(1399年)大内義弘が和泉国境で挙兵した応永の乱の後、紀伊国守護職に任ぜられた畠山基国が再び大野城に入城したが、基国は応永8年(1401年)に広城を築いて移り、大野城は二男の満則に守らせた。

雑賀城:妙見山城とも。天正五年(1577)織田信長の紀伊侵攻に備え、鈴木佐大夫が築いた本拠城といわれる。
佐大夫が妙見山北端に築き、中世城下町を形成。その子である孫一(重秀とも)の時に信長との雑賀合戦が勃発し、石山本願寺の顕如上人を死守しようとした。信長の軍勢は雑賀党の鉄砲に撃ちすくめられてあえなく撤退したとされる。巷説では織田信長10万の軍勢に対して、雑賀衆はわずが3千の兵であったともいう。その時に雑賀党の老若男女が勝利を祝って踊ったのが今でも残る「和歌祭り」の中の「雑賀踊り」であるとされている。
信長の歿後、天正十三年(1585)、豊臣秀吉が6万の大軍で紀伊に侵攻。根来寺・雑賀衆らが太田城に籠もる一方で雑賀城も雑賀孫六を主将として頑強に抵抗する。しかし顕如上人から降服すべき旨の書状が届き、開城に至ったと云われている。
千畳敷とよばれた広大な平地がかつての城跡で、城を中心に城下町が広がっていた。雑賀港の背後の階段状の斜面に家が建ち並ぶ奥和歌浦を見下ろす雑賀崎に本丸があったされる。しかし戦国時代の城址地は明確にはできず、一説にその後の江戸時代に城址へ紀州藩が海の見張りをするための番所を築いたとも云われている。現在、古城の面影は一切ない。

中野城:築城年代は定かではないが室町時代に雑賀党によって築かれたと云われる。
孝子峠越えと大川峠越えの道が交差する付近で、土入川沿いの微高地に位置する。 天正5年(1577年)織田信長の雑賀攻めでは、中野城は和泉国に近く前線となって攻められ落城、弥勒寺山城に本陣を構える雑賀党に対する織田方の陣として中野城は利用された。

太田城:延徳年間(1489年~1492年)第64代国造俊連が築城したとも云われる。 天正4年太田源太夫が築いた太田城は 天正5年織田信長は雑賀を攻めると太田衆はその先導を勤める。翌年雑賀衆は太田城を攻めるが、守りの堅い太田城を攻略できずに和議となった。
天正13年には羽柴秀吉の紀州侵攻軍が、根来寺などを次々と落とし太田城に来襲、三千の先陣が紀ノ川を渡岸しようとした所を弓・鉄砲で迎撃するなど抵抗する。 容易に落ちぬとみた秀吉は備中国高松城攻めでも見せた水攻めによる攻略を実行し、約一ヶ月の籠城戦で落とした

根来城:大治元年(1126年)に覚鑁上人(かくばん)が石手荘を寄進され、大治5年(1130年)に高野山に伝法院を建てたことに始まる。 戦国時代には根来衆と呼ばれる僧兵集団を持ち、雑賀衆(さいか)とともに石山本願寺の要請を受け、たびたび織田軍と戦った。
天正13年(1585年)羽柴秀吉により焼き打ちにあい、根来寺は壊滅的な打撃を受けたが、徳川家康の時代になると紀伊国徳川氏の庇護のもと復興された。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近畿圏の南に位置する和歌山県に足を運び、和歌山県に点在する比較的マイナーなお城11か所をおとずれ楽しみました。

なかなか地味な城跡が多く、案内板も不十分、見つけるのが一苦労、特に山城は大変苦労しました。

最後に訪れた根来字、霊場巡りで訪れたことがありましたが城跡であったこと驚きました。
次回は御坊から南、新宮までのエリアに点在する城跡を訪れたいと思います。
  
 





和歌山県友ヶ島観光
2011年8月17日


紀淡海峡に緩やかな曲線を描いて浮かぶ神島、地の島、沖ノ島、虎島の四島を合わせた総称の友ヶ島に足を運び、第2次大戦の終わるまでは旧日本軍の軍用地で一般の人は立ち入ることが出来ず、島内には大戦中の施設も多く残され6カ所の砲台跡のほか紀伊防備隊の海軍聴音所、弾薬庫、軍馬舎、将校官舎、厠なども当時の面影を偲ばせてくれます。また、島内の歩道はほとんどがかつての軍用道路で、今も舗装されていない風情ある道路で島内を巡ることが出来ます友ヶ島の沖ノ島を訪れました。

12:20車で出発、阪神近畿阪和自動車道経由して
13:40加太港到達

供養のために2万体ともいわれるひな人形が奉納されている本殿は天正13年(1585年)、豊臣秀吉の紀州征伐で全焼した後、浅野幸長が再建、紀州徳川家初代・徳川頼宣が修復、江戸時代末期に第十代・徳川治宝が造営したものである。昭和54年(1979年)には傷みが目立つようになった社殿を覆うような形で新社殿が造営された淡嶋神社を訪れる。

14:00加太港フェリーで出発
14:20
沖ノ島友ヶ島港到達、散策する。

明治五年に英国人ブラントンにより設計された、日本で8番目に出来た洋風建築の灯台、
友ヶ島灯台を訪れる

第二次大戦まで使用された軍用地で今でも七ヶ所の砲台跡があります。

砲台は燈台と隣接していますが、非常に荒れていて草木が生い茂り、立ち入り禁止部分や閉鎖されたところもあります第1砲台を訪れる。

高台にある他の砲台と違って海岸線にあります。と言う事は敵艦からも発見され易く、そのためかより頑丈に作られていた様です。しかし終戦後に米軍によって爆破され、崩れ落ちたり、ひび割れしたりしている部分が多く、中心部は立ち入り禁止となっていて、残念ながら中には入れません第2砲台を訪れる。

規模も小さく、掩蔽部が残っているだけの第5砲台を訪れる。

聴音所とは水中のソナーで敵艦や潜水艦のスクリュー音などを察知し、発見する
任務を負った場所です。島内の砲台は陸軍の所属でここだけが海軍のものでした海軍聴音所を訪れる。

友ケ島で最も有名な場所です。観光案内などにも必ずと言って良い程ここの写真が使われています。その理由は最も規模が大きい事、将校宿舎から棲息掩蔽部に至るトンネル辺りが比較的整備されており、特に素晴らしい事などによるものでしょう。全部で4つの砲座がありますが、その内のひとつが整備され観光コースから簡単に降りれる様になっているのも良い第3砲台を訪れる。

大正期に放棄されました。他の砲台が一応終戦時まで存続したのに較べると20年以上先に放棄された事になります。場所が桟橋から離れている事もあり、訪れる人の少ない砲台です。構造は第3砲台と類似しており、やや小規模です。また全く手入れがされておらず、かなり荒れています第4砲台を訪れる。

大蛇伝説の残る、約400種もの植物が群生する湿地帯。「県指定文化財・天然記念物」の深蛇池を訪れる。

16:30
沖ノ島友ヶ島港出発
16:50加太港到達、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、和歌山県の4つの島の総称、友ヶ島に足を運び友ヶ島の沖ノ島を散策し、明治期に建設され、第2次大戦終了時まで現役であった、しかし一度も実戦には参加する事のなかった砲台の煉瓦作りの遺跡と、関連施設の遺跡があり、廃墟好きな方にはたまらない砲台跡に接し時間を過ごしました。

意外と知らない近場の友ヶ島の遺跡巡り、楽しめました。










和歌山県高野山&龍神観光
2011年4月27日


海や山に湧く温泉や静かに信仰の歴史を語る世界遺産の魅力ある和歌山県に足を運び、1200年の法灯を守る真言宗の聖地高野山、日本三美人の湯、龍神温泉と高野龍神スカイラインを訪れる。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
14:30 1200年に及ぶ歴史をもつ、弘法大師(空海)が開山した真言密教の聖地。標高約900mの山上に金剛峯寺を含め117カ寺が集い、一大宗教都市を発展させてきた。壇上伽藍と奥の院を中核にした霊場には、今日もなお大師信仰を求める多くの人々が参拝に訪れる。町の周辺は森林地帯になっているので、寺巡りをしながらハイキングも楽しめる高野山到達。

高野山壇上伽藍にあり、堂宇は1847年(弘化4)の再建。弘法大師の御影と10大弟子と祈親上人、真然大徳の肖像が安置されている。毎年旧暦3月21日、旧正御影供の法会が行われる。堂の正面に囲いをされた松は、大師が唐から帰る際に、伽藍建立の地を求めて投げた三鈷杵がかかったといわれる三鈷の松の御影堂[高野山]を訪れる。

高野山内に現存する建物のなかで最古の堂。1198年(建久9)に行勝上人が一心院谷に創建したものを移築した。本尊の不動明王坐像(重要文化財)と運慶作の八大童子立像(国宝)はいずれも霊宝館に収蔵の不動堂[高野山]を訪れる。

本尊に薬師如来を祭る高野山一山の本堂。創建当時は講堂とよばれていた。度重なる火災に遭い、現在の本堂は1932年(昭和7)に再建されたもの。本尊薬師如来は高村光雲の作で秘仏の金堂[高野山]を訪れる。

高野山壇上伽藍にあり、高さ約50mの5間4面の多宝塔で真言密教の根本理念を表す。弘法大師が着手し、2代座主の真然大徳のときに完成。1843年(天保14)に焼失し、以後再建されずにいたが、1937年(昭和12)に再建。内部は大日如来の本尊を中心に東西南北に金剛界四仏を置き、周囲の柱に十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に表している根本大塔[高野山]を訪れる。

高野山にある小堀遠州作庭の池泉観賞式庭園(名勝)。枯山水の様式を備え、斜面を利用した2段式庭園。寺は加賀3代藩主の正室天徳院の菩提寺の天徳院[高野山]を訪れる。

高野山にある徳川家康・秀忠親子の霊を祭る2基の霊屋(重要文化財)。向かって右側が家康、左側が秀忠。3代将軍家光が1643年(寛永20)に建立。いずれも約6m四方の一重宝形造で、銅瓦葺の屋根の頂に露盤を載せ、周囲に縁と勾欄を配している。正面の向拝は唐破風。家康は寅、秀忠は兎の干支の彫刻がある。内部は非公開。壁面・天井・厨子にいたるまで、金銀の蒔絵や極彩色の装飾金具など絢爛豪華な飾りが施されている徳川家霊台[高野山]を訪れる。

高野山の豊かな自然環境を利用して、自然体験ができる施設。草木染めなど各種教室や自然観察の指導も受けられる。園内にはログハウスもあり、宿泊しながら各種体験に参加することもできる高野山森林公園を訪れる。

源頼朝の菩提を弔うために妻の北条政子が創建。1211年(建暦元)の創建当時は禅定院とよばれていたが、1223年(貞応2)、現在の寺号に改めて、多宝塔(国宝)を建立。鎌倉時代には、高野版とよばれる教典による教学の拠点で、高野山の中心的存在であった。大火の類焼を免れた寺の境内には、運慶作といわれる五智如来坐像(重要文化財)を安置する多宝塔のほか、鎌倉・室町時代の建築物が残る。客殿(重要文化財)は、江戸時代の建築だが、大広間にある襖絵『梅花雉子図』は雄大華麗な作風が見事で、本堂の十一面千手観音像、愛染明王像とともに国の重要文化財に指定の金剛三昧院[高野山]を訪れる。

父苅萱道心と母千里姫、その子石童丸の親子の悲劇の物語を絵で紹介する堂で、中にある厄除親子地蔵尊は、道心と石童丸の合作の地蔵と伝えられる。物語は、高野山に出家した父親を追って麓の学文路まで来るが、女人禁制のために母を残し、石童丸だけが入山。修行中の父に、いつわりの父の死を告げられ、学文路に戻るがすでに母は他界。高野山に戻って出家し、実の父とは知らずに苅萱道心について厳しい修行を積んだという。高野聖によって全国に語り伝えられた苅萱堂[高野山]を訪れる。

龍神~高野山を結ぶ延長42.7kmの山岳道路高野龍神スカイラインを通過し龍神に向かう。

龍神温泉元湯前の高台に立つ温泉寺は、弘法大師が開湯の折に瑠璃光薬師如来を安置した草庵が始まり。1705年(宝永2)に明算という僧侶が頑固な腫れ物を治した礼に薬師堂を再建したといわれる温泉寺[龍神温泉]を訪れる。

1863年(文久3)に尊皇攘夷を訴え挙兵した天誅組の志士8人が、再挙を計って小又川へ逃れたが、同年9月22日に自首し、幽閉された倉。復元された茅葺屋根に白壁の倉の内部には、天誅組のリーダー水郡長雄が血書した辞世の歌なども残っている天誅倉を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回は近場の和歌山県に足を運び、真言宗の聖地、寺院が点在する高野山、かつては秘境と呼ばれた日本三美人の湯龍神温泉を訪れ有効な時間を過ごすことができました。

今回の和歌山の訪れでほぼ和歌山県を制覇できました。











和歌山県有田&日高観光
2011年3月23日


海や山に湧く温泉、静かに信仰の歴史を語る世界遺産、紺碧の海の風景など魅力いっぱいの和歌山県に足を運び、有田川、日高川周囲に点在する歴史的遺産、自然など見所が多い有田、日高エリアを訪れました。

12:30車で阪神近畿阪和自動車道経由して下津インター下車
13:40有田到達。

1214年(建保2)に栄西禅師によって創建されたと伝えられる寺。一重裳階付きの釈迦堂(本堂)(国宝)は、鎌倉末期の唐様仏殿建築。七堂伽藍の大寺院だったが、この釈迦堂のみ現存の善福院釈迦堂を訪れる。

戦国時代に栽培が始まった有田ミカン400年の歴史をビデオや模型を使って紹介するほか、世界中の柑橘類に関する資料や文献、古文書などを展示。柑橘類の栽培方法も紹介されているみかん資料館を見学。

日高方面に向かう。

2億5千万年以上前のペルム紀の石灰洞穴。総延長がわずか100mの小さな鍾乳洞だが、この年代の鍾乳石は学術的にも貴重。洞内は石柱の間、影観音の間、玉石の間、平静の間、蟹の横洞、針天井の間の6区画からなり、なかでも針天井の間にある「天のカーテン」は最大のみどころ。屈んだり、横歩きで通ったりと小さいながら探検気分が味わえる戸津井鍾乳洞を訪れる。

日高川河口から日の岬へ向かって弓なりに伸びる砂浜で、全長約4.6km、幅は最も広い所で約500mもの松林が続いている。これは初代紀州藩主徳川頼宣が塩害を防ぐために植えさせたもので、伐採が禁じられていたため、現在も当時の姿をとどめている。また、この松林を通して海を見ると波頭が煙って見えることから、煙樹ケ浜の名が付いたといわれている煙樹ケ浜を訪れる。

1540年(天文9)、吉原(現美浜町)に湯川直光が建立した浄土真宗本願寺派の寺。豊臣秀吉の紀州攻めの際に焼失し、1595年(文禄4)、現在地に移転。以来「御坊さん」と呼ばれ、御坊市の名の起こりとなった。1825年(文政8)に現在の本堂が再建。1877年(明治10)、別院の称号を得た。境内には、樹齢410年のイチョウの巨木(県天然記念物)がそびえる本願寺日高別院(日高御坊)を訪れる。

ハマボウはアオイ科の落葉低木で、暖地の海辺に生息する植物。1979年(昭和54)には市の木に、1994年に市の花木に指定された。特に日高川河口・北塩屋の国道42号沿いには、全国でも五指に入る規模の大きな群生地があり、6月下旬~7月中旬には鮮やかな黄色い花が咲くハマボウ群生地を訪れる。

現在は燃料以外にも様々な使い方がされている木炭。平安時代は紀南地方で生産される炭が熊野木炭とよばれ、良質堅炭として珍重された。さらに、江戸時代に備中屋長左衛門という炭問屋が普及に努めたことから備長炭の名がついた。現在、みなべ町は年間約3万3千俵を生産。高純度の炭素、火持ちのよさ、独特の火力を誇る備長炭は、ウバメカシやアラカシの原木を、熟練した職人が勘を頼りに、約1週間かけて焼き上げる。備長炭の歴史や製造法、使用法の展示・紹介のほか、窯の無料公開もしている紀州備長炭振興館を訪れる。

南部梅林正面からすぐの所にある南高梅の販売店。おすすめはダイヤモンド梅、こんぶ梅、塩分4.8%の低塩よろこんぶなど。2Fぷらむ庵はカフェギャラリーになっており、ゆっくりとくつろげる。予約すれば工場での梅製品の製造過程も見学できるぷらむ工房を訪れる。

17:30終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の紀州和歌山県に足を運び、有田川、日高川周辺の歴史的建造物、自然に触れ楽しめました。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第百二十八弾:和歌山県白浜&串本&那智勝浦観光
2011年1月15ー16日


海や山に湧く温泉や静かな信仰の歴史を語る世界遺産、深呼吸したくなる紺碧の海の風景、魅力いっぱいの和歌山に足を運び、関西有数の温泉リゾートの白浜、今も昔も交通の要衝に位置する田辺市、巡礼の道、熊野古道とその目的の地、熊野三山に加え、黒潮の海が果てしなく広がる壮大な風景も大きな魅力である熊野古道・那智勝浦・串本を訪れました。

15日12:30車で阪神近畿阪和自動車道を経由して
13:30紀伊田辺到達

紀伊田辺駅の北、会津川のほとりに立つ「弘法さん」で親しまれる寺。寺伝によると、草創は聖徳太子で、弘法大師が中興したとされ、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちされた。境内を見渡すと、文化年間(1804~18)に建てられた多宝塔がひときわ目を引く。また、縄文時代の貝塚跡や、墓地には南方熊楠や合気道創始者の植芝盛平の墓もある高山寺を訪れる。

5世紀初めに、熊野権現を勧請し、建立されたと伝えられる神社。社名は、弁慶の父といわれる熊野別当湛増が、壇ノ浦の合戦の際に源平両軍から支援を求められ、どちらにつくか迷ったので、この神社の境内で紅白の鶏を闘わせて占い、源氏に加勢したことから付いた。境内には江戸時代建築の社殿が立ち並び、社務所には、湛増の鉄烏帽子や鉄扇、源義経愛用の笛、弁慶の産湯の釜が、社宝として展示されている闘けい神社を訪れる。

田辺湾北部に突き出た岬で、21万平方mの広大な岩棚には、イソギンチャクや貝類、磯浜の小動物など、多くの海洋生物が生息している。またここは、宅地開発から自然を保護するために、市民が出資、全国からの募金と併せて土地を買収するという、環境保護運動のナショナルトラストが1974年(昭和49)に行われた地として有名。この運動で守られた土地は、ほかの保護区とは違い、だれもが自由に出入りできる場所として解放され、釣りや潮干狩りなどが楽しめる天神崎を訪れる。

白浜に向かう。

ラマ教や密教秘仏約120点を展示している。チベット式の上楽王仏像やインドのミトウナ彫刻などが並び、独特の雰囲気が漂う。美術館の奥には約1300年前の祭祀礼拝所遺跡の岩屋を祭る歓喜神社があり、岩に彫られた男女の陰陽のレリーフが今も残されている白浜美術館・歓喜神社を訪れる。

南方熊楠は1867年(慶応3)和歌山市に生まれ、動植物の研究調査のためアメリカ、キューバ、イギリスへ14年間遊学した。帰国後は田辺に居を移し、多方面で功績を残した。ことに菌類の研究では多数の新菌種の発見もしている。その彼の生涯を6つのコーナーに分けて紹介している。ビデオを使って彼の生涯を紹介するほか、キノコ、粘菌類の標本や、1929年(昭和4)、天皇への御進講の際に手渡したのと同じキャラメル箱を利用した標本箱も展示されている南方熊楠記念館を訪れる。

京都大学が運営し、2010年には開館80年を迎える歴史ある水族館。白浜近海の海の生物約500種を展示しており、なかでもエビやウニなど無脊椎動物は約360種5800点と充実しており国内随一の京都大学白浜水族館を訪れる。

臨海湾に浮かぶ南北130m、東西35m、高さ25mほどの無人の小島で、正式には高島という。中央部分に円型の海蝕洞が開いていることから、円月島の名が付いた。夕景の美しさは格別で、白浜を代表する夕景ポイントの高島(円月島)を望む。

湯崎の沖合100mに突き出した、高さ18mの真っ白な塔。別名「コーラルプリンセス(サンゴ礁の女王)」とよばれ、水深8mのところにある12の丸窓からは悠々と泳ぐグレやチヌ、季節によってチョウチョウウオやルリスズメなどカラフルな魚も見られる白浜海中展望塔(コーラルプリンセス)を訪れる。

湯崎の南約1km、瀬戸崎の先端にある新生代第三紀中新生の大きな白い岩盤。柔らかい砂岩でできているため、長年の荒波の浸食によって石畳ならぬ岩畳のような地形が造り出された。広い岩畳は、何層もの階段状になっているので、容易に先端の波打際まで歩いて行ける。風の強い日は波が岩に砕け散って豪快。夕景もまた美しい千畳敷を訪れる。

高さ50~60m、南北約2kmにわたる海に突き出た屏風のような断崖。絶壁の際まで続く遊歩道があり、先端の展望台からの眺めは雄大。展望台前には三段壁洞窟の入口がある。また勇猛果敢で知られ、壇ノ浦の戦いで源平の争いに終止符を打つ要因となった弁慶の父、湛増が率いた熊野水軍の舟隠し場でもあったため、その番所小屋も復元されている三段壁を訪れる。

三段壁の展望台前に寺の本堂をイメージしたような三段壁洞窟入口の建物がある。そこから36m下の洞窟内部へ、エレベーターで一気に降り、洞窟へ。自然の海蝕洞窟で、赤茶色の洞窟内には1周約200mの通路があり、水の神様、神社仏閣の守護神ともいわれる牟婁大弁財天が祭られている。洞窟からは対岸に荒波が打ち上げる潮吹き岩なども一望できる三段壁洞窟[三段壁]を訪れる。

17:00千畳敷近くのロッジ到着後、車で白浜駅に向かい食事を済ませて宿に戻り就寝。

16日7:00車で出発、串本方面に向かう。

詩人の野口雨情が生前に愛した地を記念して造られた、紀州にゆかりのある童謡をモチーフにした公園。園内には『まりと殿様』や『鳩ぽっぽ』などのブロンズ像や歌碑がある。また、すさみ町近海に棲むエビやカニが飼育されている、すさみ町立エビとカニの水族館も併設する日本童謡の園を散策する。

串本海中公園内にあり、沖合140mの海底に設置。40ものガラス窓から、水深6mの海中を眺められる。サンゴの間を泳ぎ回るメジナ、チョウチョウウオ、ニシキベラなど約80種類が生息している海中展望塔[串本海中公園]を訪れる。

江戸時代の画家、円山応挙と長沢芦雪の美術館。1961年(昭和36)、無量寺境内に建てられた。収蔵作品には、応挙の『波上群仙図』、芦雪の『龍虎図』などがある。応挙、芦雪の障壁画55面が国の重要文化財の串本応挙芦雪館を訪れる。

虎関師錬開山の臨済宗東福寺派の寺。1786年(天明6)、津波で大破していた寺を愚海和尚が再建した際、友人の画家・円山応挙が再建祝いとして方丈の障壁画を描き、その作品を弟子の長沢芦雪が寺に届けた。芦雪もまた、この寺に滞在している間、多くの襖絵などを描き残したため、「芦雪寺」とよばれている無量寺を訪れる。

潮岬へと続く坂道にある展望公園。ここからは、上浦・下浦の2つの浜にはさまれた串本の町並みがよく望める。大島・橋杭岩・熊野灘・枯木灘などを一望できるビューポイント。夜には、小函館といわれる串本の夜景を楽しめる馬坂園地を訪れる。

本州最南端に立つ白亜の灯台。初点灯は1873年(明治6)。光力130万カンデラ、光達距離は19海里(約35km)にも及ぶ。68段のらせん階段を上れば、水平線が丸く見える絶景ポイントの潮岬灯台を訪れる。

潮岬の南端にある展望台。7・8階の展望室は海抜100mで、眼前に広がる太平洋の広大なパノラマがすばらしい。天気のいい日には、遠く那智山まで見渡せる。入館すれば、潮岬を訪れた証しとして、「本州最南端訪問証明書」も発行してもらえる。また、岬の突端には、「望楼の芝」とよばれる10万平方mに及ぶ芝生が広がっている潮岬観光タワーを訪れる。

幕末のペリー浦賀来航の62年前、1791年(寛政3)に2隻の米国商船が大島に寄航、貿易を申し込んできた。これが初めて公文書に記された日米間の接触で、その歴史的場所に建てられた記念館。館内には、当時の様子をジオラマで展示。商船レディ・ワシントン号の模型や修交に関する文献、写真なども見ることができる日米修交記念館を見学。

大島の南側の海岸は、40mもの険しい断崖絶壁が連なる豪快な岩礁地帯。海面から突き出たピラミッド型の巨岩が、太平洋の荒波にもまれる光景は壮観だ。鷹ノ巣展望台からの眺めがよい。名前の由来は、朝鮮半島の名勝金剛山に発する海金剛を訪れる。

1890年(明治23)、オスマントルコの特派使節一行を乗せた軍艦エルトゥールル号が帰国の途中、暴風雨のため熊野灘で座礁・沈没。69人が大島の人たちに救出されたが、580余人という多くの犠牲者を出した。この水難事故に際し、島の人たちは死者を弔い、その翌年、樫野崎に遭難碑を造った。碑の近くに建てられたトルコ記念館では、沈没したエルトゥールル号の模型や遺品、写真、トルコの民芸品などを展示するトルコ記念館を見学。

日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、1870年(明治3)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~3月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている樫野埼灯台を訪れる。

海岸から大島に向かって延長850m、一直線に並ぶ大小40もの奇岩群(名勝・天然記念物)。その規則的な並び方が、橋の杭に似ていることからこの名が付いた。第3紀層の軟らかい頁岩が波によって浸食され、石英粗面岩の岩脈だけが断続して残ったもの。弘法大師と天の邪鬼が、一晩で橋を架ける競争をし、杭にするための巨岩だけが残ったという伝説もある橋杭岩を訪れる。

町内を流れる古座川がつくり上げた渓谷。幅500m、高さ100mの巨大な一枚岩(天然記念物)や表面に無数の穴があいた蟲喰岩など、七川ダムから下流に向かって約20kmも奇岩・怪石が続く。澄んだ清流には鮎などが生息。カヌー下りのメッカとしても名高い。周辺は「古座川弧状岩脈」として日本地質百選に選ばれている古座川峡を訪れる。

古座川沿いに点在する奇岩のなかでも、もっともスケールが大きく、国の天然記念物に指定。川淵からそそりたつ高さ100m・幅500mの巨大な岩は、石英粗面岩が風食によってできたもの。継ぎ目も割れ目もない赤茶色の巨岩は、ついたてのようだ。周辺は一枚岩自然公園として整備され、遊歩道やキャンプ場もある一枚岩[古座川峡]を訪れる。

古座川の支流の小川にあるミニ渓谷。岩でできた川底は、侵食されて凸凹になり、大小の奇岩の間から滝が落ちている滝の拝を訪れる。

太地ぬ向かう。

燈明崎の南に位置する岬。周辺は岩礁や暗礁が多く、熊野灘を航海する船はこの岬を目標として進路を決めて梶をとっていたため、この名がついた。かつては燈明崎と同様に山見台が置かれていた場所で、現在白い灯台のある一帯は見晴らしのよい芝生の広場に。大きなくじら供養碑が立ち、4月29日には鯨供養祭も開催。ここから燈明崎までは断崖と磯が織りなす豪快な海岸線が続き、海沿いに所要40分の遊歩道が延びている梶取崎を訪れる。

日本初のプロ野球選手の個人記念館。ロッテや中日、巨人などでプレイし、史上初の快挙である3度の三冠王をはじめ、輝かしい活躍を残した落合博満氏の記念館。六角形2階建ての洋館は、落合選手の背番号6に因んで設計。彼の野球人生を物語る500点以上のトロフィーや写真などを展示するほか、ビデオシアターでは活躍シーンの放映もある。2階には信子夫人の油彩画も展示しており、喫茶店、ベースボールヒーローからは熊野灘の眺望が楽しめる落合博満野球記念館を訪れる。

太地湾の東にある岬で、古くから航海の目印とされていた。古くは754年(天平勝宝6)、遣唐副使であった吉備真備が唐からの帰路、遭難して漂着したといわれる場所でもある。捕鯨が盛んなころには、沖にやって来る鯨の群れを見張る山見台が置かれ、捕鯨船に鯨の居場所を教えた狼煙場跡や支度部屋跡などに当時の面影が残る。1636年(寛永13)には、日本初の鯨油を用いた行灯式の燈明台があった。ここから眺められる紀ノ松島や梶取崎の風景は雄大で美しい燈明崎を訪れる。

太地くじら浜公園にある、世界でも珍しい鯨専門の博物館。まず目に入るのは、天井に吊るされた実物大15mのセミクジラの模型。骨格標本や身体各部のホルマリン漬け、剥製、太地の捕鯨の歴史を伝える古式捕鯨の用具類・絵図など1000点以上の貴重な資料を展示。博物館の横には入江を利用した自然プールがあり、クジラとイルカのショー、イルカとのふれあい体験が楽しめる太地町立くじらの博物館[太地くじら浜公園]を訪れる。

太地出身の洋画家、石垣栄太郎の記念館で、1991年に評論家の妻綾子氏が設立した。1909年(明治42)、栄太郎は移民として渡米し、1920年(大正9)から40年代にかけてアメリカ画壇で活躍。当時は世界恐慌から第2次世界大戦へ至る暗い時代で、彼の作品もアメリカの苦悩などをテーマにした力強いタッチのものが多い。油彩、デッサンなどを中心に遺品や綾子氏の著作も展示する太地町立石垣記念館を訪れる。

那智勝浦に向かう。

インドから熊野の海岸に漂着した裸形上人が開山した寺。本尊は千手千眼観世音菩薩像(重要文化財)で、平安時代に作られたもの。補陀洛とは古代サンスクリット語の「ポータラカ」の音訳で、観音菩薩の住む浄土を意味する。かつて那智の浜は、補陀洛浄土に通じていると信じられ、この寺の住僧は臨終間際になるとわずかな食料を屋形付きの小舟に積み、扉を封印して、補陀洛へと旅立った。これを補陀洛渡海という。境内には渡海船が復元されているほか、隣には熊野詣の際、潮垢離をしたといわれる浜ノ宮王子跡に、熊野三所大神社が立つ補陀洛山寺を訪れる。

那智四十八滝のなかの一の滝を那智の滝(名勝)とよぶ。高さ133m、幅13mもある大瀑布。勝浦の海上や那智山へ向かう山道から見えることも。滝壺へは那智山上にある飛瀧神社の鳥居をくぐって、老杉に囲まれた石段を降りていく。やがて、轟音とともに、切り立った崖から純白の布を垂らしたように落下する滝が現れる。滝の背後には那智の原始林(天然記念物)が広がり、暖地性の植物を中心に300種に及ぶ植物の宝庫となっている智の滝[熊野那智大社]を訪れる。

本宮、速玉とともに熊野三山の一つ。みやげ店が並ぶ473の石段を上りきると道が左右に分かれ、右は青岸渡寺、左に行くと熊野那智大社に着く。南向きの朱塗りの拝殿の後ろに独特な熊野権現造の社殿5棟(重要文化財)と、その脇に、8神を合わせ祭る八社殿が東向きに立つ。1581年(天正9)、織田信長によって焼き討ちにあうが、豊臣秀吉が再建した。熊野夫須美大神を主神として、飛瀧権現をも加え、十三所権現を祀り、あらゆる願いを叶えてくれる諸願成就の御利益があるといわれている。境内には推定樹齢800年、平重盛の手植えと伝えられる樟の巨木が大きな枝を広げている熊野那智大社を訪れる。

那智熊野大社と並んでたたずむ、西国三十三カ所第1番札所。補陀洛山寺と同様、裸形上人が開いたといわれ、熊野詣の重要拠点として栄えた。織田信長の兵火で焼失するが、1590年(天正18)豊臣秀吉が再建。最盛時には7カ寺36坊を有したが、明治時代の廃仏毀釈で入母屋造の本堂(重要文化財)を残して、ほとんどが失われてしまった。本堂と那智滝の中間に立つ高さ25mの朱塗りの三重塔は、1972年(昭和47)に再建され、三層の展望台からは那智の滝の全貌を望むことができる那智山青岸渡寺を訪れる。

那智山の南西に位置する標高750mの妙法山と、那智山の中間部にある見晴台。ここからは眼下に広がる勝浦温泉や太地はもちろん、潮岬まで遠く見渡せる。熊野灘に向かって巨大な阿弥陀如来像が立っている那智山見晴台を訪れる。

妙法山の中腹にある真言宗の名刹。平安時代に空海が開山し、その後応照上人が弘仁年間(810~824)に再興した。女人禁制の高野山のかわりに貴族の妻女たちが参詣したところから、女人高野として知られる。山門をくぐると正面が本堂。すぐ左側に有名な「妙法山の一つ鐘」がある。熊野では、昔から人が死ねば、霊魂は枕元のシキミという木を持ってこの妙法山に飛び、その木で鐘を一つ撞き、死出の旅に向かうと信じられている。そのことから、地元の人は現世の安穏と先祖の供養のため、生前にお参りすることが多い。奥の院周辺には、信者たちが捧げたシキミが根づき群生していて、妙法山は別名シキミ山ともよばれる阿弥陀寺を訪れる。

新宮に向かう。

市の西方、千穂ケ峰の南端に位置する神倉山。538段もの急峻な石段を上ると、大きなゴトビキ岩がある。この巨石が古くからの御神体で、古代から神の依代、神の磐座として敬ってきた。祭神は高倉下命と天照大神[あまてらすおおみかみ]だ。1400年もの歴史を誇るお燈祭りが行われる神社としても有名で、毎年2月6日に、白装束に荒縄を巻いた2000人もの上り子(男性のみ)が松明を手に急な石段を駆け降りる。新宮節に「山は火の滝、下り龍」と歌われるほど、豪快な火祭りの神倉神社を訪れる。

本宮、那智とともに熊野三山の一つ。景行天皇の時代に社殿を造営したと伝えられ、主神は速玉大神と夫須美大神。現在の社殿は、昭和になって再建された。速玉大神を祭る速玉宮の社殿は切妻正面に庇を付けた独特の熊野造で、前に礼殿が立つ。参道には、平重盛が植えたといわれる樹齢1000年のナギの巨木(天然記念物)がある熊野速玉大社を訪れる。

熊野速玉大社に伝わる室町時代の蒔絵手箱(国宝)や彩絵檜扇(国宝)など1200点もの神宝類を展示。美術的価値だけでなく、当時の風俗や熊野信仰を知る上でも重要な熊野神宝館[熊野速玉大社]を訪れる。

新宮市出身で熊野をこよなく愛し、「望郷詩人」としても知られる作家・佐藤春夫。東京の佐藤家旧宅を生誕地近くの熊野速玉大社の境内に移築復元し、記念館として公開している。館内には、小説、戯曲、評論、随筆、翻訳と、幅広い活躍をした作家の自筆原稿や自作の絵画、愛用品などを展示する佐藤春夫記念館を訪れる。

熊野川を見下ろす高台にある公園。新宮城(丹鶴城)は1633年(寛永10)に完成し、浅野氏2代、水野氏10代と続いた三万五千石の居城だった。名前は、築城前に源為義の娘である丹鶴姫が開いた東仙寺があったことから。太平洋をよく見渡せるため沖見城とも呼ばれたが、明治時代に城はとり壊され、石垣と天守台しか残っていない新宮城跡(丹鶴城公園)を訪れる。

新宮駅の近くにある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな公園。園内には、徐福の墓や顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祭った七塚の碑などがある。徐福とは、中国の歴史書『史記』によれば、今から約2200年前、秦の始皇帝に方土(仙術者)として仕えた人。皇帝の命を受け不老不死の霊薬を探しに、東方に浮かぶ蓬莱の島に向かって出航した。熊野で不老長寿の木といわれる天台烏薬を見つけたが、気候温暖で風光明媚な土地柄を気に入り、熊野を永住の地とした。土地を開拓し、農耕、漁法、紙すきなどの技術を伝えたといわれる徐福公園を訪れる。

島全体が沼の上に浮いている不思議な森。面積は約5000平方mで、増水すると森全体が浮き上がってくるという。森の中には遊歩道があり、歩くと足元に揺れを感じる。また、寒暖両性の植物の混生群落があり、寒帯性のオオミズゴケ、温帯性から亜寒帯性のヤマドリゼンマイなど、130種類もの植物が自然混生している新宮蘭沢浮島植物群落(浮島の森)を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近場の南紀和歌山に足を運び、田辺・白浜から海岸線に沿って移動、串本・太地・那智勝浦・新宮の観光名所をドライブ観光してきました。

世界遺産の社寺・古道、険しい自然の景勝、数多くの自然と文化遺産の宝庫和歌山観光、満喫しました。

当日は冬型の気圧配置、南紀の和歌山での雪がちらつき、温度も1℃、山沿いは雪も積もり、険しい寒さの中でのドライブ観光でした。

往路は海岸線を高速道路を使って白浜まで到達しましたが、復路は新宮から山越えで十津川経由で考えていましたが十津川の手前で積雪、チエーンが必要とのことでこのルートを断念、本宮から中辺路を経由して白浜に向かい往路と同じ高速道路を使って戻りました。おかげで到着もかなり遅れてしまいました。
冬は4駆のスタッドレス使用の車が欠かせないですね。




























和歌山県加太&和歌浦観光
2010年11月17日


海や山に湧く温泉や静かに信仰の歴史を語る世界遺産、深呼吸したくなる紺碧の海の風景の和歌山県に足を運び、紀州徳川家の城下町和歌山市、郊外の歴史的散歩道の和歌浦、加太を訪れました。

12:30車で阪神湾岸自動車道経由して
13:30加太到達

加太駅から県道を200mほど加太港に向かって進むと道路が直角に大きく折れ曲がる三叉路につく。そのかたわらに「右わかやまみち左あわしまみち」と刻まれた道標が立つ。西に向かう狭い路地こそ、かつて大和の都人が淡路島や四国、九州へとたどったといわれる淡島街道。現在は、道標から淡嶋神社までの部分をあわしま街道とよんでいる。道沿いに、加太春日神社や格子戸や本瓦、白壁の古い家並みがあり、交通の要塞だった頃の面影が残るあわしま街道を訪れる。

瀬戸内海国立公園に浮かぶ沖ノ島、地ノ島、神島、虎島の4つの島々の総称。無人島で明治時代から第2次世界大戦終戦時までの砲台跡がいくつか残る。沖ノ島へは船で渡ることができ、ハイキングやキャンプ、磯遊び、魚釣り、史跡巡りなどが楽しめる友ケ島を加太港から望む。

和歌山市方面に向かう。

正月三が日は地元をはじめ近畿圏から30万人の参拝者が訪れる。紀伊国で最も信仰を集めた一の宮、平安初期に定められた延喜式内社、戦前まで国が助成した旧官幣大社の歴史が示すとおり格式は高い。境内の一番奥まったところ左側に日像鏡を祭る日前神宮、右側に日矛鏡を祭る國懸神宮があり、地元では2社を通称して日前宮とよばれている日前神宮・國懸神宮(日前宮)を訪れる。

和歌浦に向かう。

学問の神様、菅原道真が太宰府に左遷された折、和歌浦に立ち寄ったことから創建された神社。受験シーズンともなると、合格祈願者で賑わう。急な石段を上り詰めると、楼門(重要文化財)と桃山風の華麗な本殿(重要文化財)がある和歌浦天満宮を訪れる。

権現前から水路に沿ってあしべ通りを東に行くと、和歌に詠まれた美しい風景の和歌川河口の干潟が広がる。そのすぐそばには、古くから和歌の神様として多くの歌人の信仰を集めてきた玉津島神社が濃い緑の中にたたずむ。衣通姫尊など3神を祭る境内には、小野小町が着物の袖を引っかけたといわれる小野小町袖掛塀がある。春には衣通の姫桜が咲き、根上り松(鶴松)も見られる玉津島神社を訪れる。

玉津島神社に隣接するもと玉津島神社の祓所。海の幸、安産の神様として親しまれてきた神社で、御神体の塩槌翁尊は輿の窟とよばれる岩穴に鎮座する。傍らに山部赤人の「若の浦に潮満ちくれば…」の歌碑がある塩竈神社[玉津島神社]を訪れる。

玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が1851年(嘉永4)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた不老橋[玉津島神社]を訪れる。

玉津島神社の向かいにある妹背山。そこにかかる県内最古の石橋、三断橋を渡ると、和歌浦から名草山を眺めるため徳川頼宣が建立した水上楼閣がある。現在の建物は1963年(昭和38)に復元されたもの。景勝地としても有名で、名草山にかかる美しい月が眺められる観海閣を訪れる。

片男波公園にある、万葉集の資料館。和歌浦を中心に、県内で詠まれた万葉歌やその背景、風土などをパネルで展示・解説。館内中央にある円形の壁に、きのくにわかやまに関連する歌107首を、奈良の都から新宮市まで「歌地図」で表している。紀伊万葉シアターでは、漫画家・里中満智子さんのイラスト等で万葉の時代をわかりやすく紹介。まさに万葉づくしの施設の万葉館を見学。

国道370号沿いにあり、550年代に創建された古社。本殿、拝殿、摂社武内神社本殿、刀剣など国の重要文化財が多数ある野上八幡宮を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

近場の史跡巡り、2回目の訪れである和歌山県紀北の加太、和歌浦エリアに足を運び、点在する歴史的建造物に触れ、歴史学習できました。







和歌山県紀北紀ノ川沿い観光観光
2010年9月29日


海や山に湧く温泉や静かに信仰の歴史を語る世界遺産、深呼吸したくなる紺碧の海の風景の和歌山に足を運び、歴史散歩に適した見所が多い紀北エリアの紀ノ川沿いの名所を訪れました。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
13:45橋本到達。

9世紀半ばの貞観年間の創建と伝えられ、平安末期の経塚銅鏡などの発掘が続いている。社宝の人物画象鏡(国宝)は、わが国最古の金石文(48文字の銘文)の入った鏡として有名。現在、東京国立博物館に保管され、ここではレプリカが見られる。また5月下旬~6下旬には花菖蒲が咲き、多くの人が訪れる隅田八幡神社を訪れる。

地元では「大寺さん」の名で親しまれる真言律宗の古刹。8世紀前半、聖武天皇の勅命で行基が開山。本尊に漆箔大日如来坐像を祭る。本堂(重要文化財)は南北朝時代の再建。寄棟造本瓦葺で、朱の柱と緑の連子窓が調和している利生護国寺を訪れる。

浄瑠璃で知られる石童丸物語ゆかりの寺。石童丸が高野山に父を捜しに行っている間に母千里姫が没し、ここが菩提寺となった。堂内には守り刀や人魚のミイラと伝わる寺宝がある学文路苅萱堂を訪れる。

平安時代に16歳で養父母を失い、親の菩提を弔うために黒髪を売って奥の院の燈籠堂に献燈した孝女お照の供養碑のお照の墓を訪れる。

遁世の歌人・西行の庵跡。西行の出家後、尼になった妻と娘を供養する碑が立つ西行堂と妻娘の墓を訪れる。

平重盛の家臣・滝口入道を慕い、悲恋の内に没した女官横笛を弔う塚、横笛の恋塚を訪れる。

桃山町から高野街道をたどる山間にある。室町時代に建立された本殿(重要文化財)や大日堂(重要文化財)のほかに、沃懸地螺鈿金銅装神輿(国宝)という優美な御輿がある鞆淵八幡神社を訪れる。

中世以来の名家で、江戸時代には紀州藩主頼宣から地士に処遇され、1630年(寛永7)以来名手の大庄屋だった妹背家の住居(重要文化財・史跡)。華岡青洲[はなおかせいしゅう]の妻加恵の実家としても知られる。旧大和街道に面し、参勤交代や鷹狩りなどのときに藩主が宿泊した本陣で、人々からは名手本陣とよばれていた。建物は江戸時代に建てられたもので、御座の間にある入母屋造の母屋や米倉など保存状態がよい旧名手本陣妹背家住宅を訪れる。

「あら川の桃」で知られる桃の生産地・紀の川市桃山町に広がる桃の花の一大パノラマ。3月下旬~4月上旬に、桃山町内の約250万平方mの桃畑がいっせいに開花する。一帯はまるでピンクの絨毯を敷き詰めたかのようになる桃源郷を訪れる。

仏教によって国を鎮めるために、聖武天皇の勅命により一国に一カ所建立したのが国分寺。756年(天平勝宝8)、紀州にも国分僧寺と尼寺が建立され、現在の打田地区側に国分僧寺、岩出地区側に西国分廃寺があった。その後879年(元慶3)に焼失した。近年、発掘が進み、打田地区に塔跡の礎石などが保存されるようになり、歴史公園として開放されている紀伊国分寺跡歴史公園を散策する。

奈良時代に建立された紀伊国分寺跡に隣接。紀伊国分寺跡から出土した土器や瓦、国分寺100分の1の復元模型などを中心に展示し、歴史的背景なども交え、パネルや映像を使いながらわかりやすく紹介している紀の川市歴史民俗資料館[紀伊国分寺跡歴史公園]を訪れる。

根来寺をはじめ、岩出の歴史・文化・風土、人々の暮らしの変遷を紹介する資料館。生活をテーマに映像やジオラマ、コンピュータを使って解説する常設展や、年1回の秋季企画展がある岩出市民俗資料館を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の和歌山に足を運び、紀北の紀ノ川沿いに点在する歴史的建造物を巡り、歴史学習して楽しめました。






和歌山県御坊&田辺観光
2010年6月13日


信仰の歴史を語る世界遺産、深呼吸したくなる紺碧の海の風景の和歌山県に足を運び、今も昔も交通の要衡に位置する田辺、日本一の梅の里みなべ、温暖な気候に恵まれ、スターチスやスイートピーなどがの花の生産地として知られ、フルーツの里でもあり、温州みかんやメロンが名産品。西へ向かった日の岬は、岬全体が日ノ岬パークという公園で、紀伊水道の素晴らしい眺めを堪能できる景勝地のある御坊を訪れました。

10:00車で出発、阪神近畿阪和自動車道経由して
11:30御坊到達。

701年(大宝元)建立。和歌山県下に現存する最古の寺。若く美しい安珍に心を奪われた清姫は募る思いから大蛇となり、道成寺の釣鐘に隠れた安珍を炎で燃やし、自らは入水したという伝説が残る。62段の石段を上り、朱塗りの仁王門(重要文化財)をくぐると、正面に本堂(重要文化財)、右手に安珍清姫伝説の鐘楼跡がある。宝仏殿には平安前期作の木造千手観音立像(国宝)や脇侍の日光・月光菩薩像(国宝)をはじめ、数々の文化財を安置する道成寺を訪れる。

星や宇宙のことを楽しく学べ、宿泊施設も揃ったユニークな公園施設。中心施設の観星塔は口径100cmの望遠鏡を備え、国内屈指の天文台としてファンには広く知られているかわべ天文公園を散策する。

紀伊半島最西端に位置する標高200mの岬一帯。紀伊水道を見下ろす眺望がすばらしい。岬の突端に立つ白亜の灯台、移民の歴史を伝えるカナダ資料館や小動物公園などがある。遊歩道も完備されている日の岬パークを訪れる。

19世紀末に新天地を求めてカナダへ移民した人々が、帰国後に洋館を建てて住んだ集落が日の岬近くのアメリカ村。その村の人々の歴史を紹介する資料館が日の岬パーク内にある。彼らが持ち帰った当時のトランクや、蓄音機・ミシン・衣類などの生活用具、魚網やカンテラ、鋸などの漁業林業道具、パスポートや出生証明書、手紙などの資料、そして太平洋戦争時の強制収容などの苦難の歴史を写真を交えて展示しているカナダ資料館[日の岬パーク]を見学。

日の岬にあるこの灯台の光は、北は淡路島、南はすさみ沖まで達する。1895年(明治28)に設置されたが、太平洋戦争末期に空襲を受けた。現在の高さ14mの灯台は1951年(昭和26)に再建されたものの紀伊日ノ御崎灯台[日の岬パーク]を訪れる。

岩代から目津崎まで約1.3km続く美しい浜辺で、『枕草子』や『伊勢物語』にも景勝地として登場する。近年では、絶滅の危機に瀕しているアカウミガメの産卵地としても有名な千里の浜を訪れる。

南部で収穫された梅を紹介する資料館。工場に併設されており、梅干しの製造工程が見学できるほか、立体映像3D梅シアターやパネル展示室で梅の歴史や効用などの資料を掲示する紀州梅干館を見学。

田辺、みなべ方面に向かう。

道の駅でもある、紀州備長炭記念公園内に併設する、備長炭の資料館。館内を8つのブースに分け、備長炭の歴史などを詳しく紹介している。館内には、かつて使われていた木炭車が展示され、昔の炭焼職人の生活を再現したコーナーや、科学的な分析から家庭で炭利用法を紹介するコーナーもある紀州備長炭発見館を見学。

右会津川上流の龍神温泉に通じる街道沿いの2kmほどの渓谷。ここは田辺南部海岸県立自然公園内にあり、奇岩と巨石が続く。なかでも最高の景勝は、不動明王を祭る不動滝と、その上にある地上100mの岩肌に彫られた三尊磨崖仏。原画は堂本印象画伯によるものといわれている奇絶峡を訪れる。

17:00終了。

今回の近場の名所巡り、信仰の歴史を語る世界遺産が点在する和歌山県に足を運び、温暖な気候に恵まれ、スターチスやスイートピーなどがの花の生産地として知られ、フルーツの里でもあり、温州みかんやメロンが名産品。西へ向かった日の岬は、岬全体が日ノ岬パークという公園で、紀伊水道の素晴らしい眺めを堪能できる景勝地のある御坊。

昔から交通の要衡として栄え、今も龍神、中辺路、本宮への公共交通の起点の田辺、日本一の梅の産地として知られるみなべ。

半日で和歌山の御坊・田辺エリアの名産地、社寺、自然、博物館などを訪れ楽しめました。





和歌山県海南東観光
2010年3月17日


和歌山県海南の東、高野山の麓に点在する観光名所を訪れました。

12:30車で阪神近畿阪和自動車道経由して海南東インター下車
海南東方面に向かう。

海抜430mの松ケ峯の山頂に位置するこの天文台は、公開施設では世界屈指の口径105cmのカセグレン式反射望遠鏡があり宇宙の神秘をより身近に感じられる場所です。施設研究員が案内する星空ツアー(展望会)や施設見学でお楽しめる星の動物園みさと天文台を訪れる。

恐竜のすべてがわかる施設。視る、聴く、嗅ぐ、触れる、考えるの五つの力を使って、恐竜と恐竜の時代や恐竜が滅んで行くまでを、体感学習できるように工夫が凝らしてある花園恐竜館を見学。

迷路のような洞窟を探検できる。一歩足を踏み入れたら、まるで日常からタイムトリップしたよう。夏でも12゜Cくらい、ひんやり感がたまらない。太古の昔住んでいた恐竜が突然あらわれるのもユニーク、また極楽と地獄へ続く2つの道。霊界の不思議体験ができる洞窟ラビリンス恐竜ランド極楽洞を訪れる。

清水町の名所、海にではなく、陸地に浮かぶ美しい島。春には田植えの緑、秋には収穫の稔りの黄金色、そして冬には雪の白銀色と、四季おりおりに美しい変化を見せる蘭島を訪れる。

関西百名山生石ヶ峰(870M)を中心にススキのじゅうたんをしきつめた高原、360度の眺望と四季おりおりの草花に彩られ、特に秋のススキは有名。ハイキングやキャンプなどの絶好のレクリェーション地として、地元はもとより関西一円から訪れる人も多い生石高原を散策する。

17:00終了。

今回の近場の観光、和歌山県海南の東、高野山の麓に点在する観光名所を訪れました。

秘境と言える様な位置に世界屈指の口径105cmのカセグレン式反射望遠鏡があり宇宙の神秘をより身近に感じられる天文台有り

視る、聴く、嗅ぐ、触れる、考えるの五つの力を使って、恐竜と恐竜の時代や恐竜が滅んで行くまでを、体感学習できる恐竜館有り

銅を採掘していた小原鉱山の坑道跡のレジャーランドの洞窟有り

紀泉の山並から遠く淡路島を望むパノラマが開け、ススキが埋め尽くす高原有り

扇形に広がる美しい千枚田有り

なかなか盛りたくさん、意外性のある和歌山郊外観光でした。




和歌山県有田&湯浅観光
2010年2月6日


今回は近場の和歌山県に足を運び、紀州の隠れ湯栖原温泉とみかん畑で有名な有田、醤油発祥の地として発展した伝統が息ずく湯浅を訪れました。

12:30車で阪神近畿阪和自動車道経由して海南インター下車
13:30有田に到達

紀州徳川家歴代藩主の眠る寺。国宝の大門、本堂、多宝塔のほか、鎮守堂(重要文化財)、紀州徳川家廟所(史跡)と歴史的価値が高い。境内には桜をはじめ、ボタンやアジサイが咲く、花の寺としても有名な長保寺を訪れる。

有田市東部にある浄土宗西山派の末寺。琴の名手で天皇から三位の位と中将の名を賜った中将姫ゆかりの寺だ。その昔、姫の名声をねたんだ継母が伊藤春時に殺害を命じる。が、姫の徳に打たれた春時は、逆に剃髪し、名を得生と改め姫を守った。このことが名の起こりといわれる。姫がハスの糸で織った浄土曼荼羅図などの寺宝もある得生寺を訪れる。

湯浅方面に向かう。

湯浅に残る唯一の醤油醸造元、角長。併設の民具館職人蔵は江戸末期の仕込蔵を利用。醸造道具、製造法などの資料類を展示保存している。なかでも、明治時代にパリ万博に出品された陶器の醤油瓶が、出展当時のまま中身の入った状態で展示されているのは必見。同敷地内に醤油資料館もある角長民具館職人蔵を見学。

御坊方面に向かう。

1258年(正嘉2)に源実朝を弔うために建立された寺で、法燈国師(覚心)が開基した。覚心は、醤油の誕生のきっかけとなった径山寺味噌の製法を宋から持ち帰り、この地に伝えた人物。また、虚無僧4名を宋から伴って帰国し、全国に普化尺八を広めたことでも知られる興国寺を訪れる。

白い石灰の岩礁が氷山のように見える、白崎海岸。その先端にある公園で、キャンプ場やダイビング施設も整う。また、貝博士、神田耕一郎の集めた珍しい貝を展示するシェルズギャラリーもある白崎海洋公園を散策する。

17:00終了。

今回の名所巡り、和歌山県に足を運び、ミカン畑で有名な有田、醤油発祥の地として発展した伝統が息ずく湯浅を訪れ社寺を主とした史跡巡り、無事終了しました。

昼からの日帰り名所巡り、和歌山は大阪よりから攻めていってますが、そろそろ地理的に限界です。これから南のほうの訪れは泊りでの観光になるでしょうね。





和歌山県和歌浦&海南観光
2010年1月27日


今回は近場の和歌山県に足を運び、和歌山市郊外の和歌浦湾周囲、海南の史跡を訪れました。

12:30車で阪神近畿阪和自動車道経由して海南インター下車
13:30海南到達

古代から中世にかけて、熊野三山へ参拝する上皇・天皇が宿泊。法楽にも使った王子の中でも格式の高い五躰王子の一つ、藤白若一王子。現在は藤白神社と名を変えているが、子授け・安産・健康・長寿の神様として今も信仰を集めている。近くには全国の鈴木姓のルーツともなった、鈴木氏の鈴木屋敷がある。熊野古道筋に唯一残る、熊野本地仏千躰が藤白王子権現本堂に祀られている藤白神社を訪れる。

明治から昭和の実業家・新田長次郎の別荘として造園された、約6万平方mにも及ぶ広大な日本庭園。海水を引き入れているため、潮の干満に合わせて水位が変化する池を中心に、茅葺きの茶室や松や庭石を配している。隣接地内には、地元の海洋生物を展示する和歌山県立自然博物館もある琴ノ浦温山荘園を訪れる。

黒江は古い漆器づくりの町。「黒江塗」と呼ばれるこの地域の漆器は、会津塗・山中塗・輪島塗と並び、日本四大漆器の産地として全国的にも有名。川端通り周辺には、昔の漆器職人たちの住居兼職場や問屋が今も残る。建物が通りに対して雁行した形で建つ独特の景観は、「黒江の町並み」と呼ばれている通りを散策する。

紀州漆器発祥の地として漆工芸の伝統技術や工芸品を紹介しており、400年以上漆器の町として栄えてきた黒江のシンボル的存在。黒江塗の起源は根来寺根来塗ともいわれ、海南漆器、紀州漆器として発展してきた。館内には漆塗の生活用具や家具を使用したテーブルコーディネイトを提案するほか、歴史的な資料を展示している紀州漆器伝統産業会館を見学。

黒江の町並みの一角、白壁の造り酒屋・名手酒造の向い側に立つ酒造り資料館。足踏み動力の精米機、釜場、仕込桶、酒槽など、昔の酒造りの工程をそのまま展示。通い樽、酒瓶のラベルや年代物のポスター、帳場なども興味深い。館内を見終わったら向かいの黒牛茶屋で菊御代や近くに湧く名水「黒牛」で作った黒牛などの地酒・奈良漬の試飲食ができる温故傳承館を見学。

和歌浦方面に向かう。

正面の朱色の楼門(重要文化財)をくぐると、231段の長く急な石段が目に飛び込んでくる。石段の中程まで登ると、清浄水、楊柳水、吉祥水の3井戸が心地よい水音を立てる。正式には金剛宝寺護国院というが、紀州の3つの井戸のある寺なので紀三井寺の名が広まった。階段を上り詰めると、山腹の平坦な境内には六角堂、鐘楼(重要文化財)、大師堂が一列に並び、一番奥に唐破風の大屋根を戴く本堂がどっしりと構えている。建物は江戸時代に再建されたものだが、寺そのものの創建は奈良時代の770年(宝亀元)と古く、唐の渡来僧、為光が開いたと伝られている金剛宝寺護国院(紀三井寺)を訪れる。

玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が1851年(嘉永4)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた不老橋を訪れる。

1621年(元和7)、紀州藩主・徳川頼宣が父家康を祭るために創建した権現造の神社。日光東照宮と同様、絢爛豪華な社殿内には、左甚五郎作の緋鯉真鯉の彫刻や狩野探幽の襖絵がある。朱塗の楼門をはじめ、拝殿・本殿など7棟が国の重要文化財に指定の紀州東照宮を訪れる。

紀州徳川家歴代藩主のなかでも文化に造詣が深かった第10代藩主治宝が、1818年(文政元)から8年の歳月をかけて造営した大名庭園(名勝)。老松に囲まれた池泉回遊式庭園には、大浦湾水門から海水を取り込む汐入り池があり、水門は治宝が船で訪れる際の通用口でもあった養翠園を散策する。

奥和歌浦ともよばれる雑賀崎。紀州特有の青石の断崖が続く。なかでも大きく海に突き出た台地は番所[ばんどこ]の鼻といい、紀州藩の海の防備見張番所だったところ。現在は芝に覆われた番所庭園となっている雑賀崎(奥和歌浦)を散策する。

17:00終了。

今回の近場の史跡巡り、和歌山県に足を運び、和歌山市の郊外にある、和歌浦周囲と海南の観光名所を訪れました。

和歌浦湾の景勝地、のこぎり形の家並みや入り組んだ路地がノスタルジックな紀州漆器で有名な黒江の町並み、数多くの由緒ある寺社、博物館等をめぐり有意義な半日を過ごすことができました。






和歌山県高野山観光
2009年12月2日


今回は近場の和歌山県の標高800mの山上に117もの寺院が建ち並ぶ真言宗の聖地、1200年にわたる信仰の歴史を刻む高野山に足を運びました。

12:30車で近畿南阪奈自動車道経由して
14:30高野山に到達。

1200年に及ぶ歴史をもつ、弘法大師(空海)が開山した真言密教の聖地。標高約900mの山上に金剛峯寺を含め117カ寺が集い、一大宗教都市を発展させてきた。壇上伽藍と奥の院を中核にした霊場には、今日もなお大師信仰を求める多くの人々が参拝に訪れる。町の周辺は森林地帯になっているので、寺巡りをしながらハイキングも楽しめる高野山を散策する。

開山以来、表玄関の役割を果たす高野山一山の総門。九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となる。開創当時は現在の位置から500m下の九折谷の谷底に木の鳥居があった。高さ約25mの現在の朱塗の楼門は、1705年(宝永2)に再建されたもの。1986年(昭和61)にも大がかりな解体修理が行われた。大門の両脚に構える高さ4.8mの力強い金剛力士像は、阿形像を仏師康意が、吽形像を法橋運長が造ったとされている。ここからの眺望がよく、晴れた日には山並みの向こうに紀淡海峡から淡路島まで望める。また、大門の左の赤い鳥居から原生林に囲まれた山道を約600m登ると、高野山最高峰の弁天岳に至る大門を訪れる。

奥の院とともに高野山の二大聖地。真言密教の根本道場のために弘法大師が創建した密教伽藍。壇上伽藍の壇上は、諸堂が集まっている場所、伽藍は寺の建物という意味をもち、金堂、根本大塔などの総称の壇上伽藍を訪れる。

本尊に薬師如来を祭る高野山一山の本堂。創建当時は講堂とよばれていた。度重なる火災に遭い、現在の本堂は1932年(昭和7)に再建されたもの。本尊薬師如来は高村光雲の作で秘仏のある金堂を訪れる。

高野山壇上伽藍にあり、堂宇は1847年(弘化4)の再建。弘法大師の御影と10大弟子と祈親上人、真然大徳の肖像が安置されている。毎年旧暦3月21日、旧正御影供の法会が行われる御影堂を訪れる。

高野山壇上伽藍にあり、高さ約50mの5間4面の多宝塔で真言密教の根本理念を表す。弘法大師が着手し、2代座主の真然大徳のときに完成。1843年(天保14)に焼失し、以後再建されずにいたが、1937年(昭和12)に再建。内部は大日如来の本尊を中心に東西南北に金剛界四仏を置き、周囲の柱に十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に表している根本大塔を訪れる。

高野山内に現存する建物のなかで最古の堂。1198年(建久9)に行勝上人が一心院谷に創建したものを移築した不動堂を訪れる。本尊の不動明王坐像(重要文化財)と運慶作の八大童子立像(国宝)はいずれも霊宝館に収蔵。

国宝21件、重要文化財143件を含む、山内に伝わる文化財から約90点を常時展示。鎌倉時代の秀作として名高い運慶作の八大童子立像(国宝)をはじめ、絹本着色の阿弥陀聖衆来迎図(国宝)、五大力菩薩図(国宝)、空海24歳の自筆とされる『聾瞽指帰』(国宝)を展示する高野山霊宝館を見学。

全国3600カ寺に及ぶ高野山真言宗の総本山。1年交代で弘法大師の身代わりを勤める検校法印の就任式や法印転衣式などの重要な行事が執り行われる。金剛峯寺の名称はもとは高野山一山の総称で、ここは青巌寺とよばれていた。1593年(文禄2)、豊臣秀吉が亡母の菩提寺として建立、1863年(文久3)に再建された。明治になり寺号を金剛峯寺と改め、総本山が置かれた。檜皮葺の大屋根をもち、東西54m、南北63mの大主殿をはじめ、別殿、新別殿、奥殿、新書院、経蔵、鐘楼、護摩堂などが並ぶ。大主殿の襖絵は狩野派の作。秀吉の怒りに触れ豊臣秀次が切腹した柳の間もある。雲海の中で一対の岩の龍が奥殿を囲む蟠龍庭は2340平方mの石庭の金剛峯寺を訪れる。

高野七口の一つ、不動口に現存する唯一の女人堂。かつて七口すべてにあった女人堂は高野山が女人禁制だったころに、女性が真言をひと晩中唱えていた場所。高野山の外周には女人道があり、女性は峯から峯を巡りながら樹間から垣間見える壇上伽藍や奥の院に手を合わせて参拝したといわれる。明治になって女人禁制が解かれたあとは、参拝者の休憩所に利用された女人堂を訪れる。

奥の院の入口、一の橋から弘法大師の御廟まで約2kmの参道両側には、戦国武将・大名・高僧・宮家など、鎌倉時代から現代まで約20万基の墓碑が並ぶ。切妻で檜皮葺きの屋根の佐竹義重霊屋(重要文化財)、参道内最古の墓碑、源氏の祖多田満仲の墓や入母屋の銅板葺の上杉謙信・景勝霊屋(重要文化財)も。中の橋脇には一年中衆生の苦を代わって受けて汗をかいている汗かき地蔵と、水面に映る姿の濃淡により命の長短が分かるという姿見の井戸がある。御廟橋までには高麗陣敵味方供養塔、高さ約10m、参道内最大の墓石で通称、一番石塔の崇源院墓(徳川秀忠夫人墓)、芭蕉句碑も。参道沿いには御廟まで19基の町石が続く奥の院参道を散策する。

御廟の前室として、真然が創建。参道正面の石段上にあり、大師へ献上するたくさんの灯籠が堂内いっぱいに下げられている燈籠堂を訪れる。

壇上伽藍とともに高野山の二大聖地で、弘法大師の御廟がある。玉川にかかる御廟橋を渡ると、36枚の橋板と全体を1枚と数え、金剛界三十七尊を表す。1枚ごとに裏面に種子(梵字)が刻み込まれている。参詣する人たちを弘法大師が迎え見送る場所といわれ、僧侶や参詣者が廟に向かって合掌する姿が見られる。この橋は石童丸が父道心と初めて出会った場所でもある。玉川は霊峰揚柳山から湧き流れる川で、かつては禊の場。流れの上に立てられた卒塔婆は、水難や難産で死んだ人たちを供養するためのもので流水灌頂という。右手には先祖供養の水向地蔵がある御廟を訪れる。

龍神~高野山を結ぶ延長42.7kmの山岳道路、高野龍神スカイラインを走行する。

高野龍神スカイライン沿いの紀州一の高峰である護摩壇山頂上付近に立つ展望台。標高は1374mあるごまさんスカイタワーを訪れる。

17:00終了。

今回の観光地巡り、和歌山県高野山に足を運び、弘法大師空海が816年に高野山に修禅道場を開き、約1200年もの歴史を刻む真言宗の聖地、奥の院、壇上伽藍や金剛峯寺などの寺院を訪れ信仰の歴史を学び、かつては秘境と呼ばれた紀州の尾根を走る高野龍神スカイラインのドライブ観光、原生林の風景を楽しみながら紀伊山脈の山々の眺望、堪能しました。

今回の観光地は外人さんが目白押し、やはり世界遺産に登録された観光名所は外人さんには人気がありますね。








和歌山県和歌山市史跡巡り
2009年10月14日


今回は近場の和歌山県和歌山市に足を運び、紀州徳川家の城下町の中心部の和歌山城、総面積55万㎡に及ぶ史跡公園、500以上の古墳をはじめ、文化財民家、万葉植物園、複元竪穴式住居などがある和歌山県立紀伊風土記の丘を訪れました。

12:30車で近畿阪和自動車道経由して

13:30和歌山市東部の丘陵地にある県立の博物館施設。総面積65万平方mの敷地には、約430基の古墳を中心に、復元した古墳時代の竪穴住居や県内の代表的な民家を移築している和歌山県立紀伊風土記の丘を散策する。

考古・民俗資料を中心とした県立博物館。岩橋手塚古墳群をはじめ、県内各地の出土品を通して和歌山県の歴史を紹介している紀伊風土記の丘資料館を見学。

紀伊風土記の丘にある古墳群。大部分の古墳は5~7世紀に築造されたもの。丘陵の尾根には前方後円墳が、斜面には円墳が所狭しと並んでいる。直径27m・高さ8mの前山A46号墳は、この周辺では一番大きい円墳。横穴式石室が長さ8.5m、高さ3.4mもある。前方後円墳の前山B53号墳は将軍塚古墳と呼ばれ、石室の内部が見学できる岩橋千塚古墳群を散策する。

紀伊風土記の丘資料館に隣接した竪穴住居は、古墳時代のものを復元したもので、実際に竈に火を入れて古代の生活を体験できる。また、4軒の民家は江戸時代のもの。うち商家の旧柳川家と漁家の旧谷山家は国の重要文化財に指定されている竪穴住居と民家を見学。

和歌山城方面に向かう。

1585年(天正13)、豊臣秀吉が藤堂高虎に命じて築城し、弟の秀長に与えたのが始まり。桑山重晴、浅野幸長の時代を経て1619年(元和5)、徳川家康の第10子・頼宣が入城。明治の廃藩置県まで徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城として使われた。岡口門(重要文化財)と特産の青石を使った野面積の石垣などは当時のもの。戦後復元された天守閣は鬼瓦や鎧の展示室を備え、紀ノ川の眺めがすばらしい。城内西の丸の紅葉渓庭園(名勝)は、紀州藩祖徳川頼宣が西之丸御殿に築造したもので、戦後復元した池泉観賞式庭園が存する和歌山城を散策する。

和歌山県立博物館の南側に隣接。日本画、洋画、版画、彫塑、写真、現代陶芸など、近代・現代美術の幅広い作品を収集・展示している。特に版画のコレクションは秀逸。長谷川潔、山本鼎、戸張孤雁など国内作家の作品をはじめ、パブロ・ピカソの『貧しき食事』『ミノトーロマシー』『泣く女』の3作品、ムンク、ルドンなどの版画作品もある。田中恭吉、恩地孝四郎、浜口陽三、石垣栄太郎など郷土出身作家の作品も充実。企画展のほか、屋外スペースではさまざまなイベントを開催する和歌山県立近代美術館を見学。

和歌山の人々の暮らしと文化の移り変わりにスポットをあてた歴史博物館。常設展示では、原始・古代から現代までの歴史を紹介。なかでも中世以降、全国的に信仰を集めた高野山や熊野三山などの霊場の展示が見もの。熊野詣の様子や熊野比丘尼の生活の様子を詳しく解説。『熊野垂迹神曼荼羅図』、『道成寺縁起』、などの貴重な所蔵品も展示している和歌山県立博物館を見学。

天正13年(1585)に和歌山城が築城され、城下町和歌山が拓かれてから、ちょうど400年目にあたる昭和60年(1985)11月に開館いたしました。本館は、郷土和歌山の歴史・文化遺産に関する市民の理解と認識を深め、教育・文化の発展に寄与することを目的とした歴史系博物館です。常設展示は、「資料が語る和歌山の歴史」をテーマに、この地を中心とした歴史と文化を正しく理解し、その継承と発展に資する学習の場として構成されています和歌山市立博物館を見学。

昭和30年代にはモダンな建物が建ち並ぶ歓楽街だった横丁に、最近若い感覚の店が次々にできた。味の店を中心に古い建物をうまく使っておしゃれな町筋をつくり出しているじゃんじゃん横丁を散策する。

17:30終了。

今回は和歌山市に足を運び、1585年、羽柴秀吉が弟の秀長に命じて築城、1619年に徳川家康の第十子、徳川頼宣が入部して、紀州徳川家55万5千石の居城として約250年の歴史を刻んだが第二次世界大戦の戦火によりわずかな建造物を残し焼失したが、1958年に天守閣が再建され、城跡は緑豊かな和歌山公園として整備され散策しました。

総面積55万㎡に及ぶ特別史跡、岩橋千塚古墳群を中心とする史跡公園、園内には500基以上の古墳をはじめ、文化財民家、万葉植物園、復元竪穴式住居などがある和歌山県立紀伊風土記の丘を散策。

国内屈指の近代版画コレクションを持つ和歌山県近代美術館、和歌山県の歴史をわかりやすく展示する和歌山県博物館、和歌山市の歴史を通覧できる和歌山市立博物館を見学。

半日で和歌山市の史跡、歴史建造物、美術館、博物館を訪れ、和歌山市の歴史学習できました。







和歌山県紀の川沿い史跡巡り
2009年7月29日


今回は近場の和歌山県、県都和歌山市を中心とする紀北エリアの紀ノ川沿いと世界遺産に登録された高野参詣の表参道、高野山麓の史跡に足を運びました。

12:30車で近畿自動車道経由して橋本方面に向かう。

13:45戦国武将真田昌幸・幸村親子が、関ケ原の戦いで破れたのち隠棲した寺。正式には善名称院。境内には昌幸の墓や供養塔がある。真田宝物資料館では書状や刀の下げ緒用の真田紐などを展示する善名称院(真田庵)を訪れる。

816年(弘仁7)に弘法大師が高野山開山のために雨引山麓に政所(寺務所)として建立した古刹。高野山表参道の入口にあり、宿泊所も兼ねていた。開山当時は、女人の高野参りはここまでで、大師を訪れた母親もここで逗留。そのため、大師は月に9度下山し、そのことから九度山の地名が付いた。境内にある弥勒堂(重要文化財)は、母親没後、信仰を寄せていた本尊の弥勒仏坐像(国宝)を安置して大師の母の「御廟所」とした。4方3間、宝形造、檜皮葺の堂で、平安時代末期の堂宇建築の特徴を残す。また女人高野ともよばれ、現在も安産、育児などへの信仰が厚い慈尊院を訪れる。

弘法大師によって慈尊院とともに創建された古社。地主神の丹生都比売大神の御子・高野御子大神(狩場明神)が猟師の姿で現れ、従えていた2頭の犬を放たれ大師を高野山に導いたことから祭られた。また、朝廷(国)から免税などの特権のある官省符を下賜されたと伝わる。1541年(天文10)に再建された本殿は3棟からなり、国の重要文化財に指定されている丹生官省符神社を訪れる。

勝利寺の隣にある九度山町の町立施設。弘法大師直伝といわれる高野紙(古沢紙)の紙漉き技法を体験できる紙遊苑を訪れる。

今から千七百年前に創建されたと伝えられる古社で、丹生都比売大神を祀る全国180余社の総本社。元寇の時に幕府がこの神社に祈願をかけ、大風が吹き国難を救ったことから紀伊國の一の宮となった。弘法大師はこの神社から社地を借受けて千二百年前に高野山を開山し、それ以来真言密教の守護神としても知られる。壮麗な彫刻と彩色が施された本殿四殿は、春日造りで最大の規模を誇り、楼門とともに国の重要文化財。鏡池に架かる朱塗りの太鼓橋は、標高450mの天野盆地の里山の風景に溶けこみ四季折々に美しい丹生都比売神社を訪れる。

西に向かう。

1804年(文化元)、西洋医学に先立ち全身麻酔による乳ガン手術に成功した華岡青洲。マンダラゲの花から採った麻酔薬通仙散の開発に、母・於継と妻・加恵を人体実験に用いたことは有名。その青洲ゆかりの地に、青洲の住居や墓所、薬草園が集まっている青洲の里を散策する。

青洲の里にある、華岡青洲の住居兼診療所、医学校を修理復元した施設。手術室と薬調合室のある母屋をとり囲むように、門下生住居棟、病棟、米倉などがあり、人形、音声、画像で当時の医療にとり組む真剣さを伝えている春林軒を訪れる。

青洲の里にあり、建物は建築家・黒川紀章氏の設計によるもの。内部には華岡青洲が使った手術道具や華岡流医学の貴重な資料を展示した展示室、地元でとれた旬の食材を使ったヘルシー料理が楽しめる「レストラン華」、米粉を使ったパンを製造販売する「ヒルベーカリー」がある。南側斜面には薬草園や花壇があり散策もできるフラワーヒルミュージアムを訪れる。

770年(宝亀元)に創建され、『枕草子』にも登場する古刹。正式には風猛山粉河寺。粉河観音宗の総本山で西国三十三カ所第3番札所として名高い。最盛期には七堂伽藍、塔頭550坊、寺領四万石を有し、高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇ったが、秀吉の紀州攻めの際に諸堂を焼失。江戸時代に再建された。大門、中門、本堂、千手堂(いずれも重要文化財)などがたたずむ粉河寺を散策する。

高低差を利用して、庭園越しに本堂を仰ぎ見るように造られた石庭。桃山時代の枯山水観賞式蓬莱庭園、上田宗固の作庭ともいわれる。ソテツ、サツキ、ビャクシン、枝垂れ桜などが植え込まれ、紀州石で枯滝や鶴亀の島を表現している粉河寺庭園を訪れる。

粉河寺境内奥に立つ寺院。1800年(寛政12)、紀州徳川家10代藩主・治宝により建立。東大寺の覚峯上人が、地中から堂塔の四方に吊り下げる宝鐸を得た地といわれることでも知られる。武家屋敷風の庫裏には、治宝直筆の書や道具類を展示。和泉山脈を借景にした枯山水の庭園もある十禅律院を訪れる。

高野山の座主となる覚鑁上人(興教大師)が1126年(大治元)、この地に鎮守の祠と僧房を建てたのがはじまり。のちに、高野山内衆徒との教義上の対立などから高野山を追われ、根来で新義真言宗総本山の基礎を築く。1288年(正応元)に一乗山大伝法院根来寺となり、室町時代末期には領地七十二万石、寺院数2700を数え、その後鉄砲隊を持つ根来衆は数万にまで隆盛を極めた。1585年(天正13)、秀吉の根来攻めでほとんどを焼失し、大塔(国宝)と大師堂(重要文化財)以外の建物は、江戸時代に復興したもの。境内には、種子島から鉄砲を伝えた杉坊の住坊跡といわれる愛染院などの塔頭が立つ。枝垂れ桜など、桜の名所としても有名な根来寺を散策する。

本坊の池庭と平庭、聖天堂南面の聖天池の3カ所が国の名勝に指定。本坊の池庭は洗練された池泉式蓬莱庭園[ちせんしきほうらいていえん]。斜面を利用して滝口の石組に3段の滝を落とし、池には蓮莱島を浮かべて自然石の石橋を渡している。平庭は三尊石の石組みの美しい枯山水庭園で、池庭とともに江戸時代の作庭。また聖天池は浄土池ともよばれ、根来寺開創当時の最も古い庭。中島には当初の石組が残る根来寺名勝庭園を訪れる。

1547年(天文16)に67年の歳月をかけ真言密教の教義を形にして建立された、根来寺の中心的堂宇。高さ40m、五間の木造多宝塔は国内最大級。円形の堂内には胎蔵界大日如来像を囲んで、四仏四菩薩などの像が配されている大塔(多宝塔)を訪れる。

根来寺の大塔とともに根来攻めの兵火から逃れた堂宇。1391年(明徳2)に建立されたと伝わる、中世伽藍建築のなかでも南北朝時代の遺構として貴重な建物。堂内には名前の由来となった真言宗開祖・弘法大師(空海)像を祭り、須弥壇とともに国の重要文化財の大師堂を訪れる。

加太方面に向かう。

医薬の祖神と伝えられる少彦名命を祭り、安産・子授け・婦人病などに霊験あらたかという。またスクナヒコナノミコトは雛祭りの語源といわれ、社を移した日が3月3日だったので雛祭りの日になったとされる。宝物殿では、紀州徳川家から奉納された雛人形や遊具を展示している淡嶋神社を訪れる。

瀬戸内海国立公園に浮かぶ沖ノ島、地ノ島、神島、虎島の4つの島々の総称。無人島で明治時代から第2次世界大戦終戦時までの砲台跡がいくつか残る。沖ノ島へは船で渡ることができ、ハイキングやキャンプ、磯遊び、魚釣り、史跡巡りなどが楽しめる友ケ島を加太港から眺望する。

17:30終了。
18:00加太駅付近で食事を済ませる。
19:00出発、解散。

今回の史跡巡り、近場の和歌山の紀北エリアの紀ノ川沿いの史跡巡り、特に高野山麓の慈尊院周囲は世界遺産に登録された高野参詣の表参道であり、綺麗に整備され無料の駐車場もあちこちに配置しており訪れやすく観光しやすいように出来上がっていました。

世界遺産の高野街道の出発地点、慈尊院からの高野山町石道を見渡すと、ここから歩いて世界遺産の高野街道の全工程をチャレンジしてみたい気分になりますね。