鳥取

飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百九十三弾:鳥取県お城・城下町巡り観光  
2014年11月29−30日
 

鳥取県に足を運び、比較的マイナーで地味なお城・城下町18箇所(若桜城、景石城、山崎城、太閤ケ平砦、二上山城、桐山城、道竹城、天神山城、防己尾城、鹿野城、羽衣石城、打吹城、岩倉城、由良台城、船上山城、尾高城、米子城、江美城)を訪れました。

29日12:30車で出発、近畿中国自動車道経由して山崎インター下車しお城めぐる。

若桜城:若桜鬼ヶ城は応安二年(1369)矢部若狭守が築城したと言われています。その後矢部氏は矢部山城守まで十六代まで続きました。永録年間(1558−1569)に矢部兄弟が跡目争いをしている隙に、尼子勝久、山中鹿之介幸盛らが襲撃し、城を奪い取りました。これに対して吉川元春がさらに奪い取りましたが、天正六年(1578)には播磨から因幡に攻め入った羽柴秀吉が攻略し、荒木平太夫、木下備中守重賢に守らせました。同九年、鳥取城落城にあわせて重賢は八東、智頭二郡二万石の領主となりましたが、のちの関ヶ原の戦いに西軍に属したがために天王寺にて自刃しました。その後は山崎左馬允が二万五千石で入城しましたが、元和三年(1617)には移封され、一国一城令によって廃城となりました。

景石城:この城が何年頃築かれたかは明らかでないが、太平記に延文の頃(1360年頃)既にあったと記されている。その後、山名の城となったが天正八年(1580)豊臣秀吉の鳥取城攻略の重要な拠点として磯部兵部大輔にこの城を攻めさせ、山名勢を追い払い、磯部を城主として鳥取城への備えとした。ところが磯部が若桜鬼ヶ城に所用のため不在の折、鳥取山名に攻め落されたが、翌天正九年、秀吉再度の鳥取城攻略により、鳥取城は落城この際磯部は許されて再度景石城主となった。以来城下町として用瀬宿を発展させたが、関ヶ原の戦いに西軍に味方したため咎を受け、この城を去らなければならなかった。替って智頭八東二郡の領主となった山崎左馬介の持ち城となった。ところが元和元年(1615)一国一城の端城御禁制の令が出され、この城は廃城となった。今に昔を物語るものとして、下城・馬洗場などの地名が残っており又、本丸・二の丸・物見櫓などの広場と石垣又矢竹の群生が見られる。

山崎城:山城(242m/100m)天文年間(1532年〜1555年)頃毛利氏によって築城された。毛利氏は大江広元の末裔とあるので安芸の毛利氏と同族と思われる。現在、殿町でダムを建設中のようだった。もしかしたら埋もれてしまうのか?

17:30鳥取駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

30日7:00車で出発、お城をめぐる。

太閤ケ平砦:天正九年(1581)の羽柴秀吉の包囲作戦と吉川経家の籠城とによる対陣は、鳥取城の歴史の中で最大の攻防戦であった。この戦いは、天下統一をめざして中国地方を征討しようとする織田信長と、これを阻止しようとする中国地方の雄毛利氏との対立の中で展開されたものである。信長の派遣した部将羽柴秀吉は、姫路から但馬口を経て天正九年七月十二日鳥取に到着し鳥取城背後の東北の山頂(太閤ヶ平)のこの位置に本陣を置き、左右両翼と前面の袋川沿いに各陣を布いて、二万余の軍勢により兵糧を絶つ鳥取城包囲作戦を展開した。太閤ヶ平(本陣山)は、西方前方に鳥取城を望み、左方に芳心寺に至る一帯の山々をひかえ、右方にははるかに円護寺・覚寺・浜坂・賀露に至る一帯を見下し、総本陣としては最も適した場所であった。これを迎え撃つ鳥取城は、毛利氏の一族で石見国福光城主吉川経安の嫡男経家が城将として守備しており、その兵力は芸州毛利氏よりの加番衆四百と因幡国方衆千余であった。案内板にある太閤ヶ平の縄張り  毛利氏からの援軍・食糧の補給が阻止されて、包囲後三ヶ月過ぎるころには、「籠城兵糧つき、牛馬人等喰い候」という状況となった。ついに十月二十五日、吉川経家は城兵を助けるために開城し、自身は城中広間で切腹した。時に三十五歳であった。死の前日、十月二十四日に本家吉川広家にあてた遺言状に、「日本二つの御弓矢境において忰腹に及び候事、末代の名誉たるべく存じ候」と、経家は記している。織田信長と毛利氏という「日本二つの御弓矢」の正面対決による鳥取城攻防戦での切腹を、大きな名誉と感じていたのである。この太閤ヶ平には、当時の鳥取城攻防の歴史を物語るかのように、土塁と空濠を廻らした曲輪の跡が厳然として残されている。また、この一帯は鳥取自然休養林であり、摩尼寺に至る中国自然歩道も整備され、広く市民の憩いの場として親しまれている。

二上山城:ニ上山城の位置するニ上山は標高三四六・六メートル、所々に位置する巨岩と、標高ニ〇〇メートル前後からの急勾配をもつ、きわめて険阻な山です。城は山頂部の一の平帯曲輪を中心とし、北東方向へ向かってニの平、そして大小八ヵ所の削平地からなる三の曲輪と続く主要部からなっています。このほぼ一直線にならんだ城の状況を見ると、ニ上山城は北側からの寄せ手を意識して築城されていたようです。東西両斜面はかなり険しく、この方面からの攻撃は不可能と思われます。一方で、他の斜面に比べゆるやかな南側の尾根づたいのルートは非常時の逃げ道となっていたようで、こちらからの攻撃は少ないものと考えられていた様子がうかがわれます。

桐山城:桐山城跡は標高203メートルの日本海を一望できる桐山頂上に有り、郭が頂上と南東尾根に四カ所、東の谷に七ヶ所残っています。古くから浦富には因但国境海上交通の要所の港町でした。築城年代は不明ですが、塩冶周防守が桐山の攻め難く守り易く、かつ眺望の良い地形と、田後・岩本・網代の三村にも尾根が続く独立した山であるため、ここに城を築いたと伝えられています。そして、元亀三年(1572)尼子の勇者、山中 鹿之介が入城。その後は垣屋光成(一万石、子の恒総まで二十年間)、池田政虎(五千石、十五年間)さらに、鵜殿氏(五千石)が幕末まで浦富を領しました。この頂上までの散策道は地権者の方々のご厚意により出来ています。気象条件が良ければ遠く大山や隠岐ノ島が見えます。

道竹城:『因幡誌』によれば、文正元年(1466)因幡国守護である山名勝豊は、巨濃郡岩常の二上山城から高草郡布施にある天神山城へ移り住んだ。そのため山下の治安が乱れたために、天文の頃に地元の要請があり、但馬山名家から三上兵庫が迎えられ、二上山城へ入った。しかし二上山城は高い山の上にあり、不便であったため新井村に新しく道竹城が築かれたのであった。永禄の世になると、次第に尼子の勢力が衰え、毛利の勢力が因幡に及ぶようになると、三上兵庫(山名豊弘)は武田高信や毛利氏と結ぶようになった。しかし永禄七年、因幡守護山名豊数の軍勢に攻められた三上兵庫はあえなく討死、道竹城は以後廃城となってしまった。

天神山城:この小山は、天神山と呼ばれ、室町時代の因幡守護山名氏の居城、天神山城があった。江戸時代の地誌「因幡志」には、文正元年(1466)山名勝豊によって築城されたと書かれている。築城の経緯は不明な点もあるが、天神山城は、山名豊国が天正元年(1573)鳥取城に本拠を移すまで、十五世紀後半から約100年間にわたって、因幡国支配の政治的拠点であった。天神山城は、かつて内堀・外堀を備えており、内堀は天神山を囲んで南北400メートル、東西300メートルの長方形に掘られていた。外堀は布施卯山をも取り込み、湖山池に通じる総延長2.6キロメートルに及ぶものであった。外堀の内側には城下町が形成されていたと考えられ、壮大な規模を誇る城郭であった。発掘調査で土器・中国製の陶磁器・備前焼・古銭・下駄・曲物(まげもの)などが見つかっており、現在も井戸・櫓跡や濠の跡などが残っており、往時をしのばせている。

防己尾城:吉岡将監定勝が築城したといわれる。城跡は本丸・二の丸・三の丸とそれに取り囲まれた町屋とから構成されており、北側には船着場が設けられていた。天正九年(1581)羽柴(豊臣)秀吉鳥取城攻略の時、将監は奇襲によって、たびたび秀吉勢を悩ませた。また、将監の弟右近は秀吉の千生瓢箪の馬印を奪い取ったという。しかし、この城はその後亀井茲矩により落城した。

鹿野城:鹿野城主亀井武蔵守茲矩は1557年に出雲国(島根県玉湯町)に生まれた。茲矩は山中鹿介らと結託し、尼子氏再興を目指し山陰各地で毛利氏と戦う。後に豊臣秀吉の鳥取城攻めに参加し、その功によって鹿野城主となる。茲矩は大変豪壮な武将で、秀吉が「もはや出雲をやることはできなくなった。他に欲しい所はないか。」と尋ねたのに対し、「琉球を下さい」と言い、その大胆な発想を褒め讃えて「亀井琉球守」と軍扇に書いて与えたという。また茲矩は狭い日本には飽き足らず、朱印船貿易により大きな利益を得て、領内の開発を行った。同時期に、茲矩は秀吉の海外大陸進出計画の朝鮮遠征に加えられた。秀吉の朝鮮遠征は順調に成果を上げていった。しかし朝鮮救国の全羅左道水使・李舜臣が亀甲船を率いて戦陣に加わると情勢が一変した。李舜臣は朝鮮半島の唐浦に茲矩の軍が駐泊しているところに奇襲攻撃をかけ、その攻撃を受けた茲矩の水軍は全艦焼失し全員陸へ逃れた。この時、茲矩は秀吉から貰い受けた軍扇を失った。その軍扇は朝鮮救国の虞侯・李夢亀が拾ったと言われている。茲矩はその後、陸上に逃れて各地を転戦する。その道中に虎を生け捕りにし、秀吉にその虎を献上して大変な評判となった。また、茲矩は鹿野城の改築にあたり、朝鮮櫓、オランダ櫓を城内に建立し、懐かしの地の風物を偲んだ。この戦を日本では文禄・慶長の役と呼び、朝鮮半島では倭乱と呼んでいる。1578年羽柴秀吉が亀井茲矩等を先駆として、毛利氏の支城となっていた鹿野城を攻めおとし、羽柴軍山陰攻めの前線基地の役割を持ちました。亀井茲矩は鹿野城の城番を命ぜられ、翌年の秀吉の再出陣までの間、鹿野城を守るのみでなく、近くの諸城を攻め落し、これらの功により城主に任命されました。関ヶ原の戦いの後、世の中がおちつくと、茲矩は城の大拡張を行いました。古い鹿野城は山頂に近い部分だけの山城でしたが、山麓を中心に本丸・周囲に薬研堀、内堀、その外側に外堀をつくり近世の城として面目を一新しました。その一方でまえからの山城を整備しました。城は、仏教思想にもとづく「王舎城」の名が、また、櫓には南蛮貿易を物語る「朝鮮櫓」「オランダ櫓」の名が残っている。

羽衣石城:羽衣石城は東伯耆の国人、南条氏の居城として貞治五年(1366)から慶長五年(1600)まで約二三四年間使用された城であるが、城主の南条氏をはじめ羽衣石に関する記録は「羽衣石南條記」などの少数のものしか伝えられていない。また、これらの諸本の成立年代は南条氏が滅んだ後、百数十年たった江戸時代の中頃のものであり、どこまで事実を伝えているかは疑問であるが南条氏を知る一つの手がかりである。さて、これらの諸本によると南条氏の始祖は南条伯耆守貞宗とし、この貞宗は塩治高貞の二男で高貞が滅亡した時越前国南条郡に逃れた。貞宗は成長後、将軍足利尊氏、義詮の父子に仕えて功績をあげ義詮より伯耆守に任ぜられて貞治五年(1366)に羽衣石城を築いたという。この南条氏の活動が盛んになるのは応仁の乱以後である。明徳の乱(1291)応仁の乱(1467〜1477)の為に伯耆国守護山名氏の権力が衰退するに乗じて南条氏は在地支配の拡大を目指して独立領主化をはかり、第八代南条宗勝の時には守護山名澄之の権力をうわまわる武力を保持するに至った。大永四年(1524)隣国出雲の尼子経久は伯耆国へ本格的な侵攻を行い、西伯耆の尾高城、天満城、不動ヶ城、淀江城並びに東伯耆の八城城、堤城、岩倉城、河口城、打吹城の諸城を次々に攻略し同年、五月中頃までにはこれらの諸城は降伏してしまった。南条氏の羽衣石城も落城し、城主の南条宗勝は因幡へ逃亡した。これを「大永の五月崩れ」といい、この乱後、伯耆国は尼子氏の支配するところとなり、羽衣石城には尼子経久の子国久が入城した。しかし尼子氏の伯耆支配も長く続かず、毛利氏の台頭とともに永録年間(1558〜1569)には支配権を失った。南条宗勝は永録五年(1562)に毛利氏の援助により羽衣石城を回復している。以後伯耆国は毛利氏の支配下に入り、南条氏はこのもとで東伯耆三郡を支配した。
天正七年(1579)織田氏の山陰進出が本格的になると南条元続は毛利氏を離反して織田氏についた。毛利氏は羽衣石城を攻撃し、元続は因幡に進出していた羽柴秀吉の援助などによりこれに対処したが天正十年(1582)羽柴秀吉の撤兵とともにら落城し、城主元続は京都に逃走した。
天正十三年(1585)秀吉と毛利氏との間で領土の確定が行われ、東伯耆八橋城を残して秀吉が支配するところとなり、再び南条氏に与えられた。しかし慶長五年(1600)に起こった関ヶ原の役で西軍に属した南条元忠は役後改易され羽衣石城は廃城となった。

打吹城:打吹城は、延文年間(1356〜61)に山名師義が田内城より移ってきた際に築城されたとされる。その後応仁の乱(1467〜1477)を迎えると次第に山名氏の勢いは衰え、代わりに羽衣石城の南条氏、尾高城の行待氏が勢力をの伸ばしていった。大永四年(1524)に、出雲の尼子経久が伯耆国に侵入、山名氏の諸城を攻略していった。この打吹城も周辺の城と同様に陥落した。世にいう「大永の五月崩れ」であった。その後毛利氏の援助によって城を奪還できたものの、それは同時に毛利氏の配下となることであった。天正八年(1580)に吉川元春が打吹城に入ったが、秀吉による鳥取城攻めの後に和睦が成立すると打吹城は羽衣石城の支配下となった。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦ののちには中村一忠が伯耆国に入ると打吹城には入番が置かれるようになった。しかし同十四年には一忠の病死によって幕府の直轄領となる。さらに一国一城令によって伯耆国は米子城を残して他の城は破却されることとなったため、当城は廃城となった。

岩倉城:小鴨氏は、律令時代−奈良・平安時代−すでに名があり、伯耆国庁につとめた在庁官人の家柄と考えられている。平安時代の末期に、寿永元年(282)小鴨基保が西伯耆の豪族紀成盛と戦った記録がある。鎌倉時代に、小鴨氏は岩倉山(海抜247メートル)の山上に砦を築き、ここを代々の居城とした。元弘三年(1333)後醍醐天皇が船上山に潜幸の際、名和氏の軍勢により小鴨城が攻略されたという記事もあるが、よくわからない。応仁の乱(1467〜1477)には、伯耆守護山名教之に従い、小鴨安芸守之基は主人に変わって防戦し、船岡山の戦いで討死した。大永四年(1524)五月、尼子経久が出雲より伯耆へ侵攻し、伯耆のすべての城が陥落し、小鴨氏の岩倉城も落城の浮目にあった。二の丸下の石垣  永禄四年(1561)西国より起こった毛利氏が強くなり、羽衣石城の南条氏と共に毛利氏に加担して尼子氏に反攻。永禄九年(1566)尼子氏は毛利氏に降伏し、小鴨氏は南条氏と共に吉川元春の配下となった。元亀元年(1570)、山中鹿之助の配下に一時奪われたが、因幡の湯原氏の応援を得て奪還した。天正七年(1579)小鴨元満は南条元続と共に毛利氏から離れ、織田氏に帰属するようになった。毛利氏は吉川元長を長として、圧倒的な軍勢ともって、岩倉城に猛烈な攻撃をしかけて来た。天正十年(1582)五月のことである。忠勇十二勇士の誓願盟約による奮戦も空しく、遂に落城した。城主小鴨元清は南条氏を頼って羽衣石に逃れ、ここに岩倉城の歴史は幕を閉じた。

由良台城:江戸時代末期、外国船がしきりに日本の近海に出没し沿岸をおかした。幕府は各藩に命じていっそう海防を厳重にするよう通達した。鳥取藩主池田慶徳は海防上砲台場築造の必要を認めその建設を砲術家武宮丹治に命じた。丹治は文久三年(1863)瀬戸村の武信佐五衛門の宅に来て相談、六尾反射炉をつくった武信潤太郎の建議をもとに由良川の河口に建設することにした。潤太郎はフランス式の築城法をもとに自ら設計し由良藩倉二十一ヶ部落の農民を集め指導監督して建設した。土塁の基礎は東隣の畑の砂を積み上げてつくり、土はかじ山(自動車運転免許試験場)と清水山(元大栄中グランド北隅)より、芝は干目野(県園芸試験場)から運んだといわれる。西側から見た由良台場 由良台場、南側土塁です。  由良お台場は六角形で、東西125メートル、南北83メートル、周囲約400メートル、面積約11913平方メートルである。大砲は七門配置され、この守備には農兵があたり、郷土の護りを固めた。数年後明治維新となり、大砲は廃棄改鋳され、台場は大正十四年八月、由良町(現大栄町)に払い下げられ今日に至っている。この台場はその規模が大きく形の整っていること、原型を完全にとどめている点などから、県内はもちろん全国的にも貴重な存在であり、永久に保存すべきものとして各方面から注目されている。

船上山城:鳥取県東伯郡琴浦町にあった山城(やまじろ)。南北朝時代初期に後醍醐天皇が行在し、寺院を城郭化した城。1333年(元弘3)閏(うるう)2月から5月下旬までの約80日間、天皇が京へ還御するまで行在した、いわゆる船上山行宮跡(せんじょうさんあんぐうあと)である。船上山は標高616m、断崖絶壁の要害で、古くから大山、三徳山と並ぶ山岳仏教の聖地であった。鎌倉幕府によって隠岐に配流されていた後醍醐天皇は、1333年(元弘3)隠岐を脱出して伯耆(現鳥取県)に入り、豪族名和長年(なわながとし)らに守られて船上山山頂の寺院にたてこもった。鎌倉幕府方の佐々木清高らの軍との間で激しい戦いが繰り広げられたが、天皇方が勝利し、これによって反鎌倉幕府勢力を決起させ、鎌倉幕府はほどなく崩壊した。山頂一帯は行宮跡として、また古戦場として、国の史跡に指定されている。

尾高城:米子勤労総合福祉センター(現在米子ハイツ)は、尾高城跡を中心とした約9万平方メートルの敷地内に建設されています。この尾高城は室町、戦国時代には行松氏累代の居城でしたが、1524年(大永4年)尼子方武将吉田光輪が変わって城主となり、その後伯耆因幡制覇をめざす毛利の勇将杉原播磨守盛重が備後から転城し伯耆守護の要害とされました。尼子方の武将で「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った山中鹿之介幸盛は、幾度の戦後、この城の虜因となり、数十度の厠通いで城兵の油断を誘い、汲取口から脱出したとの史実があります。関ヶ原の戦いの後、伯耆十八万石の領主となって入府した中村一忠は、現米子市城山の久米城が完成するまで尾高に在城しました。また、土塁と堀に囲まれ、方形館跡と、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸と続くこの城跡は、中世の城の威容が忍ばれます。現在、城跡は米子市の文化財に指定されています。米子ハイツは、背後に大山を控え、前面には日本海が迫った風光明媚な尾高の地に、城跡の地形を十分に生かして梅園、桜の園、あじさい園、武家屋敷跡基礎復元、日本庭園、自由広場等を整備し四季とりどりの草花木を植え、自然に親しむ憩いの場として、また体育館、テニスコート、ゲートボール場などの体育施設も設け、勤労者の総合的な福祉の向上に寄与することを目的として昭和51年6月建設開業されたものです。ここは、中世の東西交通路をおさえる西伯耆の軍事上の中心地であった。城郭は、鎌倉時代から築かれたようであり、室町時代山名氏支配下では城主は行松氏が、尼子氏が進出すると城主は吉田氏が、16世紀後半になって毛利氏支配下時代には杉原盛重が城主であった。江戸時代初期、米子城築城によってこの城は廃城となった。城跡は、北から二の丸、本丸、中の丸、天神丸、後方の館跡など八つの郭があって掘りや土塁で守られ、平常の生活を営む館と城とがつながっている中世の城郭遺跡である。尼子回復戦のおり、尼子の勇将山中鹿之介が捕らわれ、この城にいたとき、腰痛といつわって汲取り口から脱出したという物語は有名である。行松正盛の居城であったが大永四年(1524)尼子経久に一旦は攻め落とされるが、その後毛利氏の援助で奪回する。その後杉原盛重が城をまかされたが、天正十一年(1583)、後を継いだ元盛は、弟景盛との抗争で殺害され、景盛も直後に自刃させられてしまう。その後は吉川元春が入り、西伯耆地方の要衝を守るようになった。

米子城:米子城のおこりは十五世紀の後半であろうとされているが、それは国道9号線の左の飯山につくられた砦であった。国道右手の湊山を中心とする米子城は16世紀末頃に、出雲東部と伯耆西部を領した吉川広家によってまず四重の天守を中心に城地の築構が始まった。関ヶ原役後、吉川氏は周防岩国に転封され、米子には静岡から中村一忠が伯耆18万石の領主として入部した。中村一忠は四重天守の横に五重天守を建て、城地の縄張りを完成した。約90メートルの湊山山頂の二つの天守を中心に米子城は本丸、二の丸(城主邸宅、武器庫などのある一郭)内膳丸(出丸)、三の丸、采女丸(飯山)などに区画し、周囲と西は海面、他の三面は延約1100メートルの内堀で囲んだ。四重天守は高さ約17メートル、五重天守は約20メートルであった。三の丸には厩舎、作事小屋、米蔵、役人詰所などがあり、城の裏手海岸は深浦と称して船手小屋などをもつ曲輪になっていた。城郭内の総面積は30ヘクタール余、櫓の数20余、内堀を超えて外堀との間は郭内といわれ侍屋敷の並ぶ区域であった。城郭は幕末まで数回の修理で維持したが、明治12年頃天守は売却されて壊された。城主は中村一忠の後、加藤貞泰、池田由之と変わり、寛永9年(1632)池田光仲が因幡・伯耆の領主に封ぜられると家老荒尾成利が米子城を預かり、以後荒尾氏の自分手政治が明治維新まで十一代続いた。

江美城:江美城跡は、だいせん火砕流台地を造成して、築かれた中世の山城で文明年間(15世紀後半)に蜂塚安房守によって築城され、二代・三河守、三代・丹波守、四代・右衛門尉と四代にわたってこの地を治めました。永禄七年(1564)八月六日、尼子氏を攻略する為に山陰へ侵攻してきた毛利氏により江美城は攻略され、蜂塚氏は滅亡しました。その後、美後・備中・美作方面に対する戦略的見地から、毛利氏により、蜂塚時代の中世的城郭から近世城郭へと大幅な改造がなされています。1997年12月の発掘調査により、多数の瓦片に混じって金箔装飾のある鯱瓦が発見されました。このことから安土桃山時代の後期、江美城には金箔装飾を施した鯱瓦を載せた立派な櫓があったことがわかりました。


今回の旅行、鳥取県に足を運び、比較的マイナーで地味なお城・城下町18箇所(若桜城、景石城、山崎城、太閤ケ平砦、二上山城、桐山城、道竹城、天神山城、防己尾城、鹿野城、羽衣石城、打吹城、岩倉城、由良台城、船上山城、尾高城、米子城、江美城)を訪れ、楽しめました。

 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百十六弾:鳥取県米子&大山&境港観光
2010年10月30ー31日


海や山に囲まれ自然豊かで、話題のスポットからネイチャースポット、魅力的な温泉までみどころ満載の山陰の鳥取県に足を運び、江戸時代城下町として栄えた米子、西日本最大のブナの原生林が残る大山山麓、港町で、水木しげるロードを始め妖怪関連のみどころ豊富な妖怪の町として知られる境港を訪れました。

30日新大阪13:09新幹線のぞみで出発
13:56岡山駅到達
14:05岡山駅やくもで出発
16:11米子駅到達、市街地を散策する。

米子城跡の外堀に合流して中海に注ぐ旧加茂川は、大正時代初期まで小舟が通った運河。河口付近には船着き場のある土蔵や川べりに下る石段・小橋が残り、往時の面影を留めている。回船問屋後藤家住宅(重要文化財)や寺町界隈など見どころも多く、旧加茂川から中海へでる約40分の加茂川・中海遊覧船に乗れば、湊山公園や米子城跡まで眺望できる加茂川沿いを散策する。

旧加茂川の北側に残る、昭和半ばを思わせる古い商店街。茶道具店や駄菓子店などが、500mほどにわたり点在。地元産の原材料にこだわったお菓子やお茶を販売する、「下町館かどや」もあるしょうじき村〜笑い通り[加茂川沿い]を散策する。

旧加茂川の京橋のたもとに立つ、江戸時代の廻船問屋後藤家の住宅。切妻屋根に丸瓦、連子格子や家紋入りの軒瓦など、凝った造りに当時の財力が感じられる。地元の開発にも私財を投じたという後藤家住宅[加茂川沿い]を訪れる。

18:00米子駅付近のホテル到着後、繁華街を散策、食事を済ませて床に就く。

31日6:00レンタカーで出発、大山方面に向かう。

上淀廃寺跡をはじめ古代遺跡が多い淀江町の、古代文化にふれられる史跡公園。復元された竪穴式住居、高床建物のほか、土器作りなどが体験できる伯耆古代の丘公園を訪れる。

米子方面から望むと、富士にたとえられるような美しい円錐形。しかし山容は複雑で、標高1729mの剣ケ峰を最高峰に数々の峰が連なり、北には険しい岩壁が屹立するなど見る方向によってまったく表情を変える大山を訪れる。

老年間(717〜723)に開かれた天台宗の古刹。石段の上に立つ朱塗りの柱に緑色の格子窓をもつ本堂は、往時の大山三院の一つである中門院の大日堂で、1875年(明治8)の神仏分離令で大山寺の根本中堂とされた。明治の廃仏毀釈を免れた文化財は、宝物館霊宝閣に収蔵する大山寺を訪れる。

地学・生物・歴史など、大山をさまざまな分野から学べる博物館。ブナをキーワードに映像やパネル展示、大山の最新情報がわかるコーナーなどがあり、大山の魅力をたっぷりと紹介する大山自然歴史館の前で写真撮影。

南部町、伯耆町の2町にまたがり、大山を望む越敷野にある、日本最大級のフラワーパーク。高さ21m、直径50mのガラス張り温室を中心に、エントランスの西館、トロピカルフラワーが咲く南館、ゆりを展示する東館、映像シアターや喫茶が入った北館の4館があり、すべてを1周1kmの屋根付展望回廊が結んでいる。周囲には、季節ごとの植物を植栽した色とりどりの花壇が広がり、数々の美しい風景に出会えるとっとり花回廊を訪れる。

大山の西山麓に広がる高原。春〜秋シーズン天空リフトを運行。リフトを利用すれば、標高900mまでいっきに上がる事のできる大山唯一の観光リフト。天空展望台からは大パノラマが一望できる大山桝水高原を訪れる。

桝水高原から鏡ケ成方面へ抜ける大山環状道路上で最も高い、標高910mの峠。展望台もあり、ドライブの途中の休憩スポットに最適。眼下には樹海が広がり、ふり仰ぐ大山は、一ノ沢、二ノ沢、三ノ沢が荒々しいアルペンムードあふれる南壁。新緑や紅葉の時期には、鮮やかな木の葉の彩りと岩肌とのコントラストが美しい鍵掛峠を訪れる。

小高い丘の上にたたずむ小祠。縁起のよい名前は、『太平記』に登場する武将金持景藤ゆかり。隠岐から脱出して船上山に立てこもった後醍醐天皇に従い挙兵した景藤が、ここで必勝を祈願したと伝えられている。その武運と「かねもち」の名から、開運、金運の神様として、全国から多くの参拝者がある金持神社を訪れる。

島根県安来松江方面に向かう。

587年(用明天皇2)、尊隆上人開基の天台宗寺院。山陰有数の巨刹で最盛期には僧坊48を数えたが、尼子・毛利の戦火に遭い本堂のみを残し焼失。その後松江藩の庇護を受け、現在の伽藍に復興した。境内には室町様式を残した光明閣庭園、多くの文化財を収める宝物館、1393年(明徳3)建立の根本堂(重要文化財)、1859年(安政6)に建立された山陰唯一の三重塔がそびえる。秋の紅葉時期は特に美しい。出雲の国神仏霊場11番の清水寺を訪れる。

地元出身の実業家・足立全康氏が蒐集した美術品を基に、昭和45年11月に開館。コレクションは近代日本画を中心に、陶芸・童画・彫刻・蒔絵など多岐におよび、総数1300点を数える。なかでも、横山大観の作品は130点を超え、日本一の大観コレクションとして知られている。広大な日本庭園は米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」が実施した庭園ランキングで、2003年から7年連続で日本一に選ばれている足立美術館を見学。

弓ケ浜と島根半島に囲まれた周囲84km、海抜0m、最深17mの湖で、宍道湖とは大橋川、日本海とは美保関町と境港市を隔てる境水道(中江瀬戸)で結ばれている。北岸近くにはアスピーテ型の火山島でボタン栽培の盛んな大根島が浮かぶ。湖岸各所から展望できるが、安来市側からは宍道湖と同様、夕景が美しい中海を訪れる。

古来から製鉄で栄え、現在もハガネの町である安来市や出雲地方。その近代製鉄の歴史や文化について展示・解説している。天秤ふいご(重要有形民俗文化財)などのたたら製鉄に関する収蔵品250点のほか、映像ホールでは臨場感あふれるたたら場の様子を紹介する和鋼博物館を見学。

広大な回遊式庭園は山陰地方随一の規模。庭園では四季の花々に加え、日本一ともいわれる大輪のボタンが一年中鑑賞できる。境港からは江島大橋で結ばれており、ドライブコースとしてもおすすめの由志園を訪れる。

境港方面に向かう。

県民の建物100選に指定された、白壁が美しい古い酒蔵を改築した史料館。約700種4000点の魚のはく製を展示した「水のない水族館」がメインの展示で、カニ・ハリセンボンなどのなじみ深い魚から体長4.2mもあるホホジロザメ、約3mの巨大マンボウ、アマゾンの巨大魚ピラルクといった珍しいものまで種類が多い。2階には、この地に古くからある漁具などの生活用具を展示する一角もある海とくらしの史料館を見学。

境港駅前からアーケード沿いに続く、全長約800mの通り。境港出身の水木しげる氏が描く、鬼太郎や目玉おやじなどおなじみのキャラクターのブロンズ像130体以上が並ぶ。目玉おやじ型の街灯や妖怪ハウス風の公衆電話、河童の泉、鬼太郎グッズのショップ、妖怪神社などもあり、まさに妖怪づくしのユーモアあふれる道。本町アーケードには水木しげる記念館もあり、2009年3月には河童の泉の斜め前「水木ロードポケットパーク」に「水木しげる氏顕彰像も建立された水木しげるロードを散策する。

水木しげるロードにある記念館。水木しげるの仕事部屋を再現したり、妖怪の世界を体感することができる。また、手紙を妖怪ポストに投函すると鬼太郎消印を押してもらえる郵便サービスも好評の水木しげる記念館を見学。

境港市観光案内所や隠岐汽船ターミナルの入るみなとさかい交流館2階にある、世界の航海史と境港の魅力を紹介する資料館。模型やパネル展示だけでなく、実際に汽笛を鳴らしてみたり、ハンドル操作で船を着岸させてみたりと、ゲーム感覚で船の世界を知ることができる。特にバーチャル航海体験ができるプレジャー号が人気のマリンプラザ21を訪れる。

夢みなと公園内にあるタワー。地上43mの展望室からは、大山・島根半島・弓ケ浜・中海・米子などを見晴らせる。1階には大正・昭和初期の町並みを再現したみなとまち商店街、3階には中国など対岸諸国6地域の生活を紹介する展示室などがあり、貿易港としての境港の対外交流の様子を知ることができる夢みなとタワー[夢みなと公園]を訪れる。

米子方面に戻る。

アジア各国をテーマにした博物館が広い敷地に点在。ゲートを入ってすぐの染織館、絣館には、郷土の珍しい繊維類、浜絣などが展示され、続くペルシャ錦館には、2000点ものペルシャ錦を収蔵。すぐ隣の蒙古館はモンゴルの歴史民俗に関する展示、右隣の井上靖記念館は、シルクロードにゆかりの深い井上靖の書斎や応接間などを再現しているアジア博物館・井上靖記念館を見学。

「日本の渚100選」に選定された海岸。名前のとおり、弓なりに続く白砂青松の浜で、一角に皆生温泉も。その果てに大山を望む。弓ケ浜の中央にあたる富益町には弓ケ浜展望台があり、美保湾を全望できる弓ケ浜を通過する。

中海の南岸に設けられたバードウォッチング施設。国内で確認された野鳥のうち約半分の種類が観察できる。11〜3月にはコハクチョウ、7〜8月にはカルガモの親子などが見られ、園内に立つネイチャーセンターには望遠鏡で野鳥を観察できる観察室や、野鳥について調べられるパソコン検索コーナーなどが設置されている米子水鳥公園を訪れる。

17:00米子駅到達。
17:25米子駅やぐもで出発
19:36岡山駅到達
19:49岡山駅新幹線のぞみで出発
20:35新大阪到達。

今回の旅行、山陰の海や山に囲まれ自然豊かで、話題のスポットからネイチャースポット、魅力的な温泉までみどころ満載の鳥取県に足を運び、江戸時代、城下町として栄え、米子城の外堀だった旧加茂川沿いの下町には、当時の面影を留める古い建物が残り、ノスタルジックな雰囲気が漂う米子、
西日本最大のブナの原生林が残り、長く伸びる独特の形状から、見る方向や角度によって表情を変える大山、

日本一の水揚げを誇るベニズワイガニをはじめ、夏のマグロ、冬の松葉ガニなどが名物の港町、水木しげるロードを始め妖怪関連のみどころ豊富な妖怪の町として知られる境港を訪れ1泊2日の観光旅行楽しめました。

当日は台風が通過後、生憎天候が悪く、一日中雨、しかし運よく午前中の大山観光は、時々雨もやみ、かろうじて大山を含めて、大自然の眺望を楽しむことが出来ました。

今回訪れた、島根県の大山、境港、島根県の安来、足立美術館、大根島の由志園、人気のある観光名所、雨にもかかわらず大勢の人で賑わっていました。

特に境港の水木しげるロードはテレビの影響もあって多くの家族ずれの人々が訪れ、込み合っていました。

鳥取県は今回でほぼ制覇出来たと思います。

国内制覇も、もう直ぐです。頑張ります。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百一弾:鳥取県鳥取・浦富&倉吉・三朝観光
2010年6月26ー27日


海や山に囲まれ自然豊かな中国地方日本海沿いの鳥取県に足を運び、県庁所在地であり鳥取藩32万石の城下町の鳥取タウン、鳥取県の海岸部最東部にあたる網代から陸上岬までの美しいリアス式海岸の浦富、室町時代に城下町として栄え白壁土蔵群などが点在する倉吉、清流三徳川に沿った賑やかな温泉街に数多くの温泉宿が連なる三朝温泉を訪れました。

26日12:30車で近畿名神中国自動車道経由して作用インター下車
14:30智頭到達

江戸時代、鳥取から畿内へ抜ける智頭往来の宿場として栄え、今も趣ある民家や古社寺が続く古い町並みが残る。40余りの部屋と、7棟の土蔵をもつ石谷家住宅は、国の登録有形文化財にも登録されている大規模な近代和風建築。豪壮な梁組みをもつ土間や、池泉庭園、茶室などは必見の智頭宿を訪れる。

伝統的建造物群保存地区で、日本の山村の原風景を残す。集落には100年前の古民家を復元した喫茶店があり、こだわりのコーヒーを飲むことができる板井原集落を訪れる。

鳥取タウンに向かう。

久松公園の旧内堀の辺りに立つ近代的な建物。鳥取県の自然、歴史、民俗資料から藩政資料、美術品に至るまで幅広く収蔵展示する鳥取県立博物館を見学。

鳥取県立博物館の対面に立つ白い洋館。1907年(明治40)、鳥取藩主の子孫池田仲博侯爵が別邸として建てた洋館で、同年、山陰を旅行した皇太子(のちの大正天皇)の宿舎となった。本格的な洋風木造建築の例として国の重要文化財指定。2階バルコニーからは、美しい池泉回遊式の宝隆院庭園が望める仁風閣を見学。

市街の北方にそびえる久松山(史跡)は、1545年(天文14)に山名誠通により築城されたかつての鳥取城の跡。羽柴秀吉による鳥取攻めなど戦国時代の激動ののち、江戸時代には池田氏が城主となり、因幡伯耆2国の拠点として長く存続した。山頂には天守閣跡、二の丸跡と城門、石垣が残り、中世と近世の2つの遺構が共存する貴重な例となっている。周辺は桜並木の美しい公園として整備されている鳥取城跡・久松公園を散策する。

樗谿神社の参道に立ち、黄色と緑の外観が目印。8ゾーンからなるメイン展示室を一巡すると、鳥取の文化・歴史・自然がわかる。音声やCG映像を駆使した展示はゲーム感覚で、大人も子どもも楽しめる鳥取市歴史博物館やまびこ館を見学。

童謡とおもちゃをテーマにした文化施設。1階の童謡館では『ふるさと』の作曲家・岡野貞一をはじめ、童謡にゆかりのある人物を紹介し、昔の唱歌教室やアニメソングのカラオケなどで、童謡の歴史を体験学習できる。2〜3階のおもちゃ館では、珍しいからくり人形や懐かしいブリキのおもちゃを見たり、木のおもちゃを作って遊んだりして楽しめる。滝の広場では1時間ごとに登場するからくり時計が、大黒様や白うさぎの演奏で時を知らせるわらべ館を見学。

伊賀越仇討の剣豪・荒木又右衛門の菩提寺。境内には、墓と荒木又右衛門遺品館がある。寛永11年(1634)実際に決闘に使われた太刀や鎖かたびら等多数の遺品資料は必見。庫裏には、高木百拙筆の羅漢襖絵があり、墨一色でのびやかに描かれた羅漢達が味わい深く語りかける。四季折々の風情が楽しめる亀鶴庭など、見所が多い玄忠寺を訪れる。

前のアーケードを抜けた左角に立つ、3棟の土蔵造りの建物がユニークな美術館。館内には日本各地から世界に至るまでの美しく実用的な民芸品を展示する鳥取民藝美術館を見学。

18:00鳥取駅付近のホテル到達、市街地を散策し食事を済ませて床に就く。

27日6:00車で出発、浦富方面に向かう。

山陰海岸ジオパークの中の花崗岩が海に迫る、変化に富んだリアス式海岸。なかでも城原周辺は代表的な景勝地で、海中公園にも指定されている。この近辺の海は透明度が高く、波が穏やかなときには25mにも達する。北に並ぶ無人の島々は菜種五島とよばれ、春には菜の花が咲き乱れる。浦富海岸は、遊覧船やカヌーツーリングで探勝したり、絶壁に沿った自然探勝路をたどることもできる浦富海岸を訪れる。

東西16km、南北2.4km、東は駟馳山から西は気多岬に至るまで続く。千代川の流砂と大山の火山灰と風とが作り上げた砂の丘だ。ゆるやかな起伏や47mを越す丘、40mも窪んだ通称や、風速5〜6mの風が形成する「風紋」、流れ落ちる砂が形成する「砂簾」など自然の造形は見飽きることがない。歩いて回るほか、エキゾチックなラクダ遊覧、空中散歩で砂丘を眺める観光リフトがある鳥取砂丘を散策する。

海岸線を西に走行、倉吉方面に向かう。

東郷湖と日本海の間を隔てる小高い丘には、古墳が多数点在。その一帯に芝、桜、ツツジなどを植えて整備したのが馬ノ山公園で、歌碑の点在する遊歩道もある。海と砂丘を一望する頂上には、遺跡からの出土品を展示したハワイ風土記館がある伯耆ロマンの里「ハワイ・馬ノ山公園」を散策する。

馬ノ山公園付近に点在する古墳時代前〜後期の橋津古墳(史跡)の展示を中心に、湯梨浜町(旧羽合町)の歴史を紹介する。5階の展望台からは北に日本海、南に東郷湖を配した360度の展望が楽しめるハワイ風土記館を見学。

弥生時代から中世にかけての巨大複合遺跡。弥生時代から奈良時代の竪穴住居址や掘立柱建物、井戸などの生活の跡が200棟以上、弥生時代から奈良時代、そして中世の墓が300基以上発掘された。中でも直径33mの大円墳である1号墳からは、ほぼ完全な形で女性の埋葬遺骨が発見され、話題を呼んだ。現在は、1号墳のみ見学ができる長瀬高浜移転復元一号墳を訪れる。

山陰八景の一つに数えられる、風光明媚な湖。周囲約12km・面積約4kmの汽水湖で、鶴が大きく翼を広げたような形をしていることから、「鶴の湖」の愛称で親しまれている。湖中からは温泉が湧き出し、西岸にははわい温泉、南岸には東郷温泉がある東郷湖(鶴の湖)を訪れる。

中国の歴代皇帝が造り親しんだ皇家園林方式の庭園。鳥取県と中国河北省の友好のシンボルとして平成7年に建設された。設計、資材の調達、加工まですべて中国で行い、建物は一度中国で仮組したものを解体した上で日本に運び、中国人技術者の下、再度建設した国内最大級の本格的な中国庭園燕趙園を見学。

打吹公園の中に立つ博物館。渡り廊下で結ばれた2館で、倉吉の文化・歴史を総合的に展示解説している。市内の上野遺跡から発掘された子持壺形須恵器(重要文化財)といった貴重な出土品のほか、郷土出身の洋画家・前田寛治や日本画家・菅楯彦の作品も数多く収蔵。歴史民俗資料館では、倉吉絣や昔の鋳物師関連資料を展示している倉吉博物館・倉吉歴史民俗資料館を見学。

延文年間(1356〜61)、伯耆国守護山名時氏の長子師義が打吹城を築いた山。標高204m、三角形の秀麗な山容は倉吉のシンボルになっている。城郭そのものは、1615年(元和元)の一国一城令で廃城。現在は特にスダジイを中心に、照葉樹の原生林におおわれた自然豊かな山。展望台のある山頂まで遊歩道が続いているほか、山麓には桜とツツジがみごとな打吹公園、長谷寺、運動公園などが点在する打吹山を訪れる。

玉川沿いの400mにわたって白壁の土蔵が並ぶ市内観光のメインスポット。江戸末期から明治初期の商家街で、当時は酒屋や油屋、米屋、醤油屋などが軒を連ねたという。白い漆喰塗りの土蔵には黒い焼杉の腰板が施され、屋根には赤い耐寒性の石州瓦を戴き、色のコントラストが美しい。蔵と背中合わせになった町屋側の千本格子の家並みも健在で、醤油や地酒の老舗が今も営む。古い蔵を改装して郷土玩具などを販売する「赤瓦」や、みやげ品を揃えた「倉吉ふるさと物産館」も人気の白壁土蔵群を訪れる。

三朝方面に向かう。

三徳川南岸の温泉本通りを中心に、商店や宿が主催するミニギャラリー。陣所の館、理容関係の品々を展示する理容資料館、宮沢賢治と親交のあった木屋旅館所蔵の資料を展示するカムパネルラの館、カエル人形館など、全部で17館が個性を競う湯の街ギャラリー[三朝温泉]を訪れる。

706年(慶雲3)、役行者によって開かれた古刹。山岳仏教の霊場で、標高900mの三徳山全山が国の名勝・史跡。本堂から投入堂へは往復登山参拝1時間40分の山道。途中に文殊堂(重要文化財)、地蔵堂(重要文化財)、鐘楼等が点在する。三佛寺奥院投入堂は標高520mの断崖に建てられた懸崖造の堂宇で、鳥取県で唯一の国宝建造物。宝物殿で拝観できる本尊の蔵王権現立像(重要文化財)は、1168年(仁安3)康慶作の三徳山三仏寺を訪れる。

756年(天平勝宝8)、行基が建立したと伝えられる寺院で、重要文化財に指定された木造地蔵菩薩半跏像を祭る。檜の寄木造で、高さは3.4mと巨大。像内の支柱には、この像が鎌倉時代の造立であり、1640年(寛永17)、地元の人々によって再興されたことが記されている大滝山地蔵院を訪れる。

蒜山高原方面に向かう。

国指定史跡、四つ塚古墳群の出土品や蒜山に伝わる祭りや食、文化について紹介。重要文化財の大宮踊りはパネルや映像から学べる。館外に復元した竪穴式住居がある蒜山郷土博物館を見学。

昭和60年環境省により「全国名水百泉」のひとつに選ばれた塩釜冷泉は、1年中11℃の清らかに澄んだ冷水が湧出しています塩釜冷水を訪れる。

緑の芝生と人工渓流が調和する憩いのスポット。自然を生かした樹林の間を小川が流れている。4月下旬から10月下旬までは放牧中のジャージー牛とふれあえる自然牧場公園を散策する。

ジェットコースターやバイキング、急流滑りなどのアトラクションが楽しめる。地元特産品を販売するショップなどを併設。日本最大級のオオサンショウウオを飼育しているヒルゼン高原センター・ジョイフルパークを訪れる。

丘に広がる植物園。6月下旬〜7月下旬のラベンダーの開花期には丘一面が紫色に染まり、4月下旬の桜、6〜7月のアジサイ、8月下旬〜9月のコスモスなどハーブ以外の季節の花や山野草も楽しめる。お香などハーブ雑貨を販売するショップ、ハーブ・山菜料理が味わえるレストランあり。リース作りなど体験可。開花期は年によって異なる蒜山ハーブガーデン ハービルを訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、鳥取を代表するスポット、鳥取砂丘を思い浮かべるが、旧城下町ゆえの名所や史跡を数多く有す鳥取市街地、宿場町として栄えた面影を残す智頭、国立公園に指定されるリアス式の浦富海岸、鳥取東部の名湯因幡温泉など見所は豊富。また、日本海の冬の味覚、松葉カニは、地元賀露港で水揚げされており、食一品。

鳥取県のほぼ中央に位置するのが倉吉市。赤い瓦と白壁が印象的な白壁土蔵群、三徳山は世界遺産登録活動中の名跡。世界屈指のラジウム泉として有名な三朝温泉800年以上の歴史を持つ山陰屈指の名湯。また、湖に沈む夕景が美しい東郷湖畔にある東郷温泉、はわい温泉。二十世紀梨の本場としても有名。

自然の豊富さは有名ですが、意外と知らない、城下町が点在し、歴史的建造物の多い鳥取県、楽しめました。