徳島

飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十三弾:徳島県お城・城下町巡り観光第二弾
2016年3月26ー27日

瀬戸内海・紀伊水道・太平洋に面している一方で、山地も多く、県全体面積の約8割を占めているという自然に恵まれた地域です。また、阿波人形浄瑠璃や情緒あふれるうだつの町並み、そして四国八十八ヶ所霊場などの歴史や文化が今も多く残る町の徳島県に足を運び紀伊水道沿いに点在する比較的マイナーなお城・城下町の4箇所を巡りました。

26日14:30車で阪神淡路鳴門自動車道経由して徳島に向かう。
16:25徳島市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

27日7:00車で出発、紀伊水道沿いに点在するお城・城下町を巡る。

平島館:築城年代は定かではないが藤原清兼によって築かれた平島塁がその前身である。天文3年(1534年)室町幕府11代将軍足利義澄の二男足利義維(後の義冬)が阿波国守護職細川持隆に招かれ、三千貫の所領を与えられて阿波へ移り、平島塁を修築して住んだのが平島館である。

平島館に代々住んだ足利氏は阿波公方あるいは平島公方と呼ばれた。足利義冬の長男が永禄11年(1568年)に三好三人衆に奉じられて第十四代室町幕府将軍となった足利義栄である。江戸時代になって蜂須賀氏が支配するようになると平島公方の所領は減らされ、わずか百石となった。四代義次のときには足利から平島に改めるように命じられ、以後平島氏を称するようになる。文化2年(1805年)九代義根のとき阿波から脱出して紀州経由で京へ上った。これにより平島館は廃城となった。

牛岐城:築城年代は定かではない。 観応2年・正平6年(1351年)足利義詮の家臣で淡路国由良城主である安宅備後守頼藤と、同族で紀伊国周参見見氏が竹原庄を知行したとき、牛牧庄を預かっている。
延文3年・正平13年(1358年)に安宅氏は南朝方に与したが、貞治元年・正平17年(1362年)頃には阿波国の南朝勢力は一掃され、安宅氏も阿波を追われた。
その後、阿波国守護職細川氏の家臣新開氏(しんがい)が入部した。この新開氏は武蔵国新戒を出自とする豪族である。
天正3年(1575年)土佐の長宗我部元親が阿波への侵攻を開始すると、天正8年(1580年)には牛岐城主の新開遠江守実綱入道道善も降伏した。
天正10年(1582年)中富川の戦いでは長宗我部方として戦ったが、同年10月に丈六寺に招かれて謀殺された。その後、元親は弟の香宗我部親泰を海部城から牛岐城へ移し、阿波の拠点としている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で、木津城が落城したことから香宗我部親泰も牛岐城を破棄して土佐へ退いた。その後、阿波へ入部した蜂須賀家政は家臣の細山帯刀(後に賀島主水正と改名)が一万石で城主となり、阿波九城の一つとなった。
賀島氏が入城した後、牛岐から富岡に改称され富岡城と呼ばれたが、寛永15年(1638年)一国一城令によって廃城となった。

日和佐城:築城年代は定かではないが元亀年間(1570年〜1573年)日和佐肥前守によって築かれたと云われる。天正5年(1577年)(一説に天正3年)日和佐氏は長宗我部元親に降った。

海部城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)頃に海部左近将監友光によって築かれたと云われる。
海部川流域に勢力を持った海部氏が戦国時代末期に海部川下流の鞆浦に築城したのが始まりであった。海部氏は三好氏に従っていたが、長宗我部元親が土佐国を統一すると阿波国の最前線となっていた。
元亀2年(1571年)長宗我部元親の末弟である島弥九郎親益は、病気療養の為に土佐国から海路有馬温泉に療養に赴く途中、強風によって那佐湾に停泊した。この知らせを聞いた海部友光は手勢を率いて島弥九郎を討ち取った。これを期に長宗我部元親は阿波国へ侵攻することとなる。
天正3年(1575年)大軍を率いて海部城を攻めると、海部方の武将で鉄砲の名手栗原伊賀右衛門は攻め寄せる敵兵を尽く打ち落としていた。しかし長宗我部方の武将で槍の名手である黒岩治左衛門によって討たれてしまい、ついに海部城も落城した。一説にこの戦いは宍喰城での戦いで、海部城では主力が三好氏に従軍して留守であったため、抵抗する間もなく開城したとも云われる。
海部城を攻め落とした元親は弟の香宗我部親泰を海部城に入れて阿波国の拠点としたが、その後に牛岐城へ移っている。
天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐によって蜂須賀家政が阿波国へ入封すると、阿波九城の一つとして大多和長右衛門正之を入れ改修された。その後、城番は中村右近大夫重友、益田宮内一政そして一政の子、益田豊後守行長へと替わった。この行長は藩の掟を破り、木材を切り出して江戸で売り払い私腹を肥やして謀叛を企て処刑された。
寛永15年(1638年)海部城は廃城となり、かわって東麓に御陣屋が築かれた。

12:30終了、帰路に向かう。

今回の旅行、徳島県に足を運び、紀伊水道沿いに点在する比較的マイナーなお城・城下町4箇所を訪れて楽しみました。
徳島のお城巡り第二弾で今回で徳島のお城をほぼ制覇しました。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十九弾:四国徳島お城・城下町巡り観光
2015年12月12ー13日

四国の徳島に足を運び、阿波細川氏の勢力が強かったエリア、家臣の三好義賢が反逆し、阿波を手中に収め、細川氏と三好氏は以後も争うが、それが長宗我部元親の介入を呼び、天正13年の長宗我部氏による四国制覇につながった徳島県のお城・城下町13箇所を訪れました。

12日12:30車で出発、阪神神戸淡路鳴門自動車道経由して徳島到達、城巡り。
撫養城:築城年代は不明である。 古くは小笠原氏の居城であったが天正10年(1582年)長宗我部元親によって攻略され真下飛騨守が城番として置かれた。
しかし、天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国平定で阿波一国は蜂須賀家政の領するところとなり阿波9城の一つとして益田氏を置いたが一国一城令により廃城となった。
現在は櫓跡に天守を模した鳥居記念館が建ち、本丸には妙見神社が建つがその本殿の裏には布積みの石垣が残っている。

木津城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1570年)に篠原肥前守自遁によって築かれたと云われる。 篠原自遁は三好氏の家臣で篠原長房の弟である。
天正5年(1577年)三好長治は荒田野で細川真之と戦って敗死すると、長治の実弟で讃岐国十河城主となっていた十河存保が勝瑞城に入ることとなった。自遁はこれを歓迎せず抵抗したが敗れ、勝瑞城入城の先導役を務めた。
天正10年(1582年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城は落城、十河存保は讃岐国虎丸へ退いた。自遁はこの戦いには参加せず城に籠もっていたが、本能寺の変により織田信長が倒れると城を捨てて淡路へ逃れたという。 長宗我部元親は木津城に桑野城主東条関之兵衛を置いて守らせた。
天正13年(1585年)羽柴秀吉による四国征伐では、羽柴秀長・秀次を大将とする大軍が押し寄せた。籠城方も奮戦して良く防いだが、水の手を切られ落城したという。

勝瑞城:板野郡井隅荘は承久の乱(1221)の時阿波国守護になった小笠原氏は、この地に守護所を設け、阿波一国の軍事・警察の任に当った。南北朝内乱期に細川家の三代守護詮春は、守護所を秋月城(土成町)からここに移し、勝瑞城と称した。歴代守護細川氏は京都の管領家を支援し、たびたびこの城から大軍を畿内に送って活躍した。また城下に五十ほどの寺院があるなど、四国最大の守護町が形成され、大井に賑わった。
 天文二十一年(1552)に守護の細川持隆は、執事の三好義賢と対立して謀殺され、その後は戦国大名三好氏の居城として栄えた。天正十年(1582)に阿波へ侵攻した土佐の長宗我部元親との間に攻防がくりひろげられ、城主十河存保は敗れて讃岐に退去した。当地に三好三代の墓もある。
 天正十三年(1585)に入部した蜂須賀家政は、徳島城の早期築城をすすめるため、廃城となた勝瑞城から石材や建造物の一部を持ち去ったという。
 城跡は旧本丸の部分といわれ、いまは三好家の菩提寺である見性寺が下克上の舞台竜音寺を吸収し、その境内となっている。
 中世城郭は、山城が圧倒的に多い中で、中富川の水運を利用した平城の勝瑞城は、全国的に貴重な城郭として注目されている。なお見性寺に伝わる三好長輝と長基の画像も県有形文化財に、また徳島藩の儒員で四国正学といわれた那波魯堂の撰になる勝瑞義家碑は町の参考資料に選定されている。
 勝瑞城は、室町時代の阿波国守護細川氏及び、その後三好氏が本拠とした城で、県内に残る中世城郭の中では珍しい平城である。十五世紀中頃に細川氏が守護所を土成町の秋月から勝瑞に移したとされ、その後、勝瑞城を中心として形成された守護町勝瑞は、阿波の政治・文化の中心として栄えた。勝瑞城は、京都の管領屋形に対して阿波屋形または下屋形とも呼ばれた。応仁の乱では東軍の後方拠点となり、また両細川の乱では細川澄元党、次いでその子晴元党の拠点となった。
 天文二年(1553)、家臣の三好義賢(後に実休と号する)が守護細川持隆を殺害し、その実権を奪った。このころ三好長慶らは度々畿内に出兵し、三好の名を天下に轟かせた。
 勝瑞は、吉野川の本支流に囲まれ、水運の便に恵まれた土地で、畿内で活躍した細川・三好両氏は、畿内から多くの物資や文化をもたらせ、畿内と直結した文化都市としても全盛を誇った。そのことは発掘調査で出土した遺物からもうかがえる。また、城下には多くの寺院が立ち並び、市が賑わい、かなりの城下町が形成されていた。本丸の周辺には寺院跡をはじめ各種の遺跡や伝承が残されている。
 天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親は十河存保の守る勝瑞城に大挙して押し寄せた。八月二十八日、存保は中富川の合戦で大敗を喫し、勝瑞城に篭城したが九月二十一日、讃岐に退き、ここに勝瑞城は歴史の幕を下ろすこととなった。
 その後、天正十三年(1585)の蜂須賀家氏の阿波国入部により、城下の寺院の多くは徳島城下に移転され、町は衰退した。
 周囲を濠に囲まれた当地は本丸跡で、昭和三十年二月七日に徳島県の史跡に指定されている。城内にある見性寺は、三好氏の菩提寺であり、当時は城の西方にあったが、江戸時代の中期にこの地へ移転してきた。境内には、之長・元長・義賢・長治らの墓が並んでいる。また、見性寺が所蔵する絹本着色の三好長輝(之長)・長基(元長)の肖像画は徳島県の有形文化財に指定されている。

西条城:西条東城は一条神社の近くにある天守台と呼ばれる小高い丘のあたりが城跡らしいといわれている。築城したのははっきりしていないが、三木左近将監備前守春之が秋月城の支城として築城したという記録がのこっている。
 天文年間には岡本美作守清宗が居城し、勝瑞城の主君細川持隆に仕えていた。清宗の娘は持隆の側室となったが、傾国の美女として長宗我部元親の侵略を招いたといわれているほどである。その後天正十年(1582)八月、元親により落城した。
 天正十四年(1586)、蜂須賀家政がこの城を阿波九城の一つとして修築し、家臣森監物に守らせたが、のちの元和元年(1615)の一国一城の令により寛永十五年(1638)に阿波九城は廃城となった。

17:00徳島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

13日8:00車で出発。

一宮城:一宮城は延元三年小笠原長宗が構築したもので自然の地形を利用した城として知られる。また、阿波山岳武士の根拠地として、さらには戦国時代の一宮氏の拠点として活躍した名城であった。
 今月残っている本丸の城壁・明神丸等の跡はこの頃のものであろう。その後長宗我部氏の侵入・豊臣秀吉の四国統平の際の攻防場となり、天正十三年、元和元年一国一城の制により廃城となっている。
一宮城は、前方に鮎喰川、後方に険しい山々がそびえ立つ自然の要害に築かれた大規模な山城であった。
 現在では、標高百四十四メートルの本丸跡に石塁が残っており、その他、明神丸、才蔵丸、水手丸、小倉丸、倉庫跡の遺構も明らかで、貯水池といわれるくぼ地もその跡をとどめている。
この城は、南北朝時代、南朝に味方していた山岳武士の拠点であり、一宮氏が長年居城としていたが、成裕のとき土佐の長宗我部氏に占拠された。
 その後、豊臣秀吉が四国を平定し、天正十三年(1585)、蜂須賀氏が最初入城したのが、一宮城であった。翌年、蜂須賀氏が徳島城に移ってからは、その支城として有力家臣を置いて守らせたが、元和元年(1615)の一国一城令により、廃城となった。
 なお、一宮城跡は県指定史跡となっている。
 また、一宮城跡周辺には、本拠が国の重要文化財に指定されている一宮神社、四国八十八ヶ所第13番札所の大日寺などの観光名所がある。

上桜城:築城年代は定かではないが戦国時代末期に篠原長房によって築かれたと云われる。

篠原長房は三好義賢に仕え、永禄5年(1562年)和泉国久米田の戦いで先鋒を務めたが、大将三好義賢が討死して大敗した。義賢亡き後、長房は紫雲と号して剃髪したが、義賢の遺児長治を補佐して「新加制式」という法令を制定して領内を治めた。

しかし元亀3年(1572年)長房の弟という木津城主篠原自遁の讒言により、三好長治は讃岐国十河城主十河存保、切幡城主森飛騨守、伊沢城主伊沢右近らを大将とする七千の軍勢を動員して長房の籠もる上桜城を攻め、両軍合わせて三千余人の戦死者を出し、長房・大和守父子も討死して落城した。

川島城:天正十三年(1585)蜂須賀の重臣、林道感が阿波九城の一つとしてここに川島城を築き兵300余名を置いた。しかし、元和元年十一月、一国一城令が出て廃城となる。岩の鼻に立てば阿北の山々と吉野川の清流が一望に収まり、道感原には、林道感の碑、朝鮮女の墓、また真福寺境内には板碑があり、史跡の床しい景勝地である。

秋月城:この地は古代秋月郷と呼ばれ、土豪秋月氏がここに居館を構えた。文永年間守護小笠原氏から世継ぎを迎えたと伝えられている。
 細川阿波守和氏らは秋月氏に迎えられ、秋月に居館を構え四国全域に号令、四国管領として大きな勢力を誇っていた。
 秋月城は南北朝から室町時代にかけて、細川氏の拠点として枢要の地歩をしめていた。
 その後、細川詮春が勝瑞城に移った後、秋月中司大輔(森飛騨守)が守ったと伝えられている。
 天正七年(1579)、土佐の長宗我部軍の兵火にあって落城したといわれている。
 この城跡の周辺には、秋月城の名残りとして御原の泉・的場の跡・竈跡等が残っている。

岩倉城:築城年代は定かではない。文永4年(1267年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したという。

永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となった。天正7年(1578年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利した。天正10年(1582年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われる。

重清城: 小笠原家は清和源氏の裔にして小笠原左京大夫信濃守源長時阿波国守護職となる四代長房の孫長親が重清に築城したといわれている。この城は本丸の東方と南方に土盛で二条の空堀を設け北と西は城ヶ谷川と呼ばれる深い切り込みのある絶壁で守られ北は讃岐山脈の南斜面に守られ天然の要害をなしていた。また山脈の中腹には狼煙小屋を置き常時番人がつめていたといわれている。室町期に入り、新守護細川氏が阿波に入るにともない、小笠原一族はこれに抵抗、戦うが、重清城は早くその支配下に入り、正平十八年一の宮城の小笠原宮内大輔成宗も服従し、ここ重清城に退隠している。当時の重清城の貫高は二百貫といわれ、吉野川中流平野部の緒さえの拠点であた。
 ついで動乱の戦国時代に入り、土佐の長宗我部元親は四国制覇の野望のもと、大挙して南北から阿波に侵入する。土佐軍は池田の大西城を落とし、ここ重清城に迫るが、難攻不落の城を攻めあぐみ、天正六年、大西上野介(白地城主大西覚養の弟)、その従兄弟の中島城主久米刑馬の二人を手先に使い、降伏を勧告する。その話し合いの途中、城主小笠原豊後守長政とその子弟を謀殺し、重清城は落ちる。その後、大西覚養が城主となったが、讃岐の十河存保に反撃され、城は一旦小笠原氏にもどる。同年夏、長宗我部軍再度の来攻で敗退し、再び長宗我部軍に奪われ、天正十三年、豊臣秀吉の四国攻めごろまでは存続したものと推定されるが、その後は廃城となった。
 現在城跡南の台地に、大正十五年作られた、従五位小笠原豊後長政公蒋土英魂の石碑がある。

東山城:築城年代は定かではない。南北朝時代に南朝方の新田一族によって築かれ、八ツ石城とともに新田氏一族の拠点となったとも考えられているが、詳らかではない。

戦国時代には白地主大西出雲守頼武の弟(あるいは三男)で、伊予国轟城主でもあった大西備中守元武の城となっていたが、天正5年(1577年)長宗我部元親との戦いで落城し、元武は伊予国宇摩郡妻鳥村で逆徒に襲われ憤死したという。

その後の動向は定かではないが、現在残る遺構から長宗我部氏によって改修されたものと考えられている。

大西城:池田大西城は承久三年(1221)阿波の守護として信濃の深志(現在の長野県)から来た小笠原長清によって築かれ、400年に余って繁栄したが、寛永十五年(1638)江戸幕府の一国一城制により廃城になった。
 この石垣の積み方は野づら積みと言われるもので、昭和五十四年幼稚園改築の際、北側に埋蔵して保存し、東側はコンクリートの下から一部観察できるようにしている。

白地城:白地城は、南北朝時代に近藤京帝が築城した。 その後、子孫は大西氏を称した。 天正4年に大西覚養は、土佐の長宗我部元親に追われてしまう。 
白地城は、元親の四国統一の拠点として大修築された。 天正13年、豊臣秀吉の四国平定により、白地城は廃城となった。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、四国徳島県に足を運び、13箇所のお城巡り楽しみました。
毎度のことですが見つけるのが苦労するお城がいくつか有りました。特に山城は今回も見つけるのに苦労しました。




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十弾:徳島県四国別格二十霊場&四国三十六不動霊場巡り  2015年4月25−26日

四国の東部に位置し、阿波踊り、祖谷狭、鳴門の渦潮などで有名な徳島県に足を運び、四国別格二十霊場の6箇所、四国三十六不動霊場の14箇所をめぐりました。

四国別格二十霊場:四国は弘法大師の御生誕の地でもあり又御修行の地でもあります。御大師さまにまつわる信仰や伝説にもとづいて開かれた寺々は、八十八カ所霊場以外にもたくさんあります。
 別格霊場はその中でも御大師さまとご縁の深い寺院二十ヶ寺が結集した霊場です。この霊場の中には弘法大師さまをご本尊とする寺院も多くございます。

四国三十六不動霊場:徳島県・香川県・高知県・愛媛県内にある36箇所の不動明王霊場寺院の総称で、 弘法大師の生誕の地の四国に、お大師様が深いご縁で結ばれた不動様の霊場を開こうと、霊験ある不動明王が祀られていられる寺院36ケ所が、平成元年に結集し霊場を開いた。年中行事として、春には「不動の火祭り」と称し大柴灯護摩が行われ、秋には霊場会公認の先達会が行われる。

25日12:30車で出発、阪神神戸淡路鳴門自動車道経由して鳴門インター下車、

大山寺:武烈(ぶれつ)天皇(在位498〜506)、継体(けいたい)天皇(在位507〜531)の頃、西範僧都(さいはんそうず)が開基した阿波仏法最初の道場であり、阿波屈指の古刹で阿讃山脈の大山(691m)の中腹にあります。
 後に弘法大師が四国霊場開創の根拠地として堂塔を整え仏王山と名付け、恵果和尚から授かった千手観世音菩薩を安置したといわれています。
 寿永4年(1185)源義経が屋島合戦の戦勝祈願をし、江戸時代には阿波藩主蜂須賀家の祈願所となっています。
 戦国時代の七条城主・七条兼仲公にまつわる行事としての「力餅」は400年の伝統を誇り、大鏡餅86kg(三方を合わせ169kg)を抱えて歩く距離を競うもので、毎年、1月の第3日曜日に行われています。
 又、開運招福の寺、男女縁結びの寺として知られ、山頂から四方を見渡せる徳島百景の一つになっています。
 国の重要文化財として大治元年(1126)の銘のある経筒があり、義経の愛馬薄雪の墓があります。

蜜厳寺:徳島県徳島市にある寺院である。宗派は高野山真言宗。本尊は新居不動。山号は降魔山。四国三十六不動尊霊場十三番札所。別名は不動院。

東禅寺:

童学寺:飛鳥時代に行基が創建し、弘法大師が幼い頃、この地で書道や密教の学問を修得されたことから寺号を童学寺と称されています。
 日本の民衆教育の最初である「いろは歌」47文字を創作されたと伝えられています。
 大師が42才の弘仁6年(815)、再びこの地を訪れ堂宇を整え、薬師如来、阿弥陀如来、観音菩薩、持国天、毘沙門天、歓喜天を刻み安置されました。本尊薬師如来は藤原時代の作で国の重要文化財となっています。
 その後、天正年間(1573〜1592)兵火に遭い焼失しましたが、元禄年間(1688〜1704)に幕府の援助で再建されています。
 納経所裏手の逍逢園入口に大師が硯の水を求めた泉があり、お加持水として諸病に効き、書道上達の霊水として伝えられています。
 現在、念珠の親玉はここ童学寺のみでいただくことが出来ます。

明王院:

明王院:

最明寺:弥天山 最明寺(さいみょうじ)は徳島県美馬市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。開山を行基として天平年間(729年〜748年)に創建された。この寺には、北条時頼が滞留したという伝説が残されている。本尊は聖観音菩薩。阿波西国三十三観音霊場第33番および四国三十六不動尊霊場第3番の札所になっており、多くの参拝者が集う。

徳島市に向かう。

16:40徳島市内のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

26日7:30車で出発海部方面に向かう。

鯖大師本坊:行基が開創し、弘仁年間(810〜824)この地を訪れた弘法大師が、馬の背に塩鯖を積んだ馬子に出会い、塩鯖を乞われましたが、ののしられ断られました。馬子が坂まで来たとき、馬が急に腹痛で苦しみ倒れ込みました。馬子は懺悔し大師に鯖を献じ、馬の病気を治して下さるように頼みました。大師は馬にお加持水を与えると元気になり、塩鯖を海中に放ちお加持すると蘇り沖に泳いで行きました。そこで発心した馬子は出家し、大師の弟子となり庵を建てて人々の救いの霊場としました。これが鯖大師の由来で、鯖を3年食べないことにより子宝成就、病気平癒の願いごとがかなえられるといわれています。
 境内には鯖を右手に持った大師像が建っています。護摩堂の洞窟の中には不動尊祈願道場があり石仏や写真が並んでいます。

那賀方面に向かう。

正光寺:

勝浦方面に向かう。

慈眼寺:弘法大師が延暦年間(782〜806)に開山したと伝えられ、本尊十一面観世音菩薩は大師作と伝えられています。弘法大師19才の時、世の中の人々の生活苦、病苦及び一切苦厄を除くために修業中、夢の中でお告げがあり、鍾乳洞を発見し邪気払いのため護摩供の修法を行い、堂宇を建てて霊場としました。
 山岳修験寺として有名で洞窟での「穴禅定」が行われています。約2億5000年前に形成された100m程の洞窟で導師の言われる通りにしないと進退窮します。無事にお参りできると「無病息災で長患いをしない」「金運、開運が成就します」「入試、安産、交通安全の成就ができます」といわれています。費用は1500円で1時間前後を要します。
 又、慈眼寺は第20番鶴林寺の奥の院となっていて、途中一心橋を渡ると「潅頂ヶ滝」(別名御来迎の滝)があり落差約60mの名瀑です。深山幽谷の世界にあり、境内からの眺めは絶景です。

健治寺:徳島県徳島市入田町の西龍王山にある寺院。山号は大滝山。宗派は東寺真言宗。本尊は金剛蔵王大権現。四国八十八箇所霊場の第十三番札所・大日寺の奥の院。四国三十六不動尊霊場第12番札所。

加茂不動院:

長善寺:

不動院:

箸蔵寺:天長5年(828)弘法大師がこの地を訪れ、この山で金毘羅大権現の御神託を受け、七堂伽藍を建立し、御本尊金毘羅大権現を刻まれて奉安されました。讃岐・金刀比羅宮の奥の院です。戦国時代には兵火に遭いましたが復興を重ね、以来千有余年の法灯を継ぎ広く信者を集めています。
 又、お寺は箸蔵山(600m)の山頂近くにあり、本殿は銅板葺き八棟造りで小天狗と鴉(からす)天狗の奉納額が掲げられており重厚で、左甚五郎の弟子の作といわれる彫り物は素晴らしいものがあります。護摩堂、薬師堂、観音堂、鐘楼と何れも古く江戸時代の歴史を感じさせる四国霊場の中でも有数の大寺です。
 又、年間を通して数多くの法要があり、特に「箸供養」は全国的に有名であり、大師は金毘羅大権現より「済世利民」のご神託を授けられ、「箸を挙ぐる者、我誓ってこれを救はん」という言葉で表されています。つまり、「全ての人々を救済する」ことを全ての人が使っていた箸にたとえています。これが箸蔵寺の名前の由来となっています。又、護摩供養は朝夕欠かさず2回行われています。又、正月三ヶ日は特別護摩供養を行っています。
 境内一帯は県立箸蔵自然公園となっており眼下に四国三郎・吉野川を見下ろす景勝地となっています。

蜜厳寺:

大瀧寺:奈良時代の神亀三年(726)行基菩薩が、塩江より阿讃山脈五峰の一つ大滝山(940m)に登り、一宇を建立して弥陀三尊を安置されました。平安時代の初期、延暦10年(791)弘法大師がこの地で求聞持修法を修法し、弘仁6年(815)弘法大師42才の時2度目の修法をされ伽藍を再興いたしました。2度目の登山のときに、現世の男女厄難消除、万民安楽の為に、西照大権現の御尊像を安置し、法華経を一石毎に書き、男女厄流しの秘法を修されました。
 又、天安2年(858年)聖宝尊師(理源大師)が登山され、厄除厄流の大護摩を修法され、その法が今に受け継がれ厄流しの寺として有名です。又、第88番大窪寺が東にあり東大窪寺、西大瀧寺と呼ばれています。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、四国の東部、徳島県に足を運び、四国別格二十霊場の6箇所、四国三十六不動霊場の14箇所をめぐり楽しみました。

四国八十八箇所霊場よりも小ぶりで地味な霊場をイメージしていましたが、なかなか立派、お参りに来られる方もたくさんおられ活気に満ちあふれていました。四国の霊場めぐり、四国八十八箇所だけでなくその他の箇所も人気ですね。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百七十三弾:徳島県島々伊島&出羽島観光
2011年12月22−23日
   

徳島県の太平洋側の島々に足を運び、 蒲生田岬の東方沖約6kmに位置し、伊島、前島、棚子島の3島と無数の小島からなっている伊島、島一周の遊歩道があり、出羽島燈台からの眺望は雄大で、東に紀州・西に土佐・南に太平洋・北に四国山脈が展望できる牟岐港から約3.7kmにある出羽島を訪れました。

22日20:00車で出発、阪神神戸神明淡路鳴門自動車道経由して
22:15徳島空港近くのホテル到達、宿泊。

23日7:15車で出発、阿波橘方面に向かう。
8:05阿波橘答島到達
8:30答島連絡船で出発
9:00伊島到達、散策する。

伊島の南東部に広がる断崖。遠くまで海が見渡せる。足摺岬のような景色が楽しめるカベヘラを訪れる。

山がちで最高点はのろし山の121メートル、山頂に伊島灯台を眺望する。

10:00伊島港連絡船で出発
10:30阿波橘答島到達、車で宍喰方面に向かう。
12:00宍喰、竹ヶ島到達。

橋でつながった島でマグロ漁の基地としても有名です。その沖には、環境大臣指定の海中公園があり、ハナサンゴ、シコロサンゴ、キクメイシなどの珊瑚が21種類も確認され、コバルトスズメ、クマノミ、ピングシなどカラフルな熱帯魚が生息しています竹ヶ島を散策する。

12:30牟岐方面に戻る。
13:00牟岐港到達
13:30牟岐港連絡船で出発
13:45出羽島到達、散策。

徳島県南東部、海部郡牟岐町の南方約3.7キロメートルの海上にある島。面積0.65平方キロメートル、周囲約3キロメートル。1800年(寛政12)徳島藩は6戸を移住させ、海上防備を兼ねて開拓にあたらせた。大正初期からはカツオ、マグロ漁でにぎわった。南西部の大池には、世界で4か所しか生息しないというシラタマモの自生地があり、国の天然記念物に指定されている出羽島を散策する。

15:00出羽島連絡船で出発
15:15牟岐港到達。
阿南方面に戻る。小勝島を訪れてから帰路に向かう。

今回の旅行、徳島県の太平洋側の島々に足を運び、クルーザーで何回か訪れたことのある伊島、遊歩道が整備され世界で4か所しか生息しないというシラタマモの自生地がある出羽島、橋でわたることができる竹ヶ島、小勝島を訪れました。

マイナーな島々、際立った観光名所は無いが雑踏から逃れられ癒されました。



飛行機で国内&海外の観光地巡り第百三十九弾:徳島県脇町・吉野川流域&祖谷渓・剣山観光
2011年4月9ー10日


四国徳島県に足を運び、吉野川の恵みがもたらした、産業と文化の脇町・吉野川流域、圧倒的な大自然を抱えたそらの郷、祖谷渓・剣山を訪れました。

9日12:30車で阪神第二神明神戸淡路鳴門高松自動車道経由して
14:30板野インター下車

吉野川流域方面に向かう。

丘陵地の豊かな自然の中にある県立公園。月面での重力が体験できるムーンウォーカーなど、遊んで学べる子ども科学館を中心に、世界有数の明るさを誇る投影機が星を照らし出すプラネタリウム、大型遊具を備えた冒険の国など体験型施設が充実。ウォータースライドの吉野川めぐりも人気のあすたむらんど徳島を訪れる。

1808年(文化5)に建造された藍の豪商・奥村家の屋敷と藍染め作品などを展示した資料館(新館)で構成。藍の栽培・製造・流通工程が理解できる藍住町歴史館藍の館を訪れる。

脇町方面に向かう。

18:00脇町のホテル到着後散策し食事を済ませて就寝。
10日6:00車で出発

阿波市の北西部、桜ノ岡にある日本随一の奇勝。約130万年前の氷河時代に堆積した扇状地がその後隆起し、雨水の浸食作用を受けて形状されたもので、世界的にも希少な特殊地形。雄大な自然の芸術品といえる。国の天然記念物に指定の阿波の土柱を訪れる。

吉野川の河畔に広がる脇町は藩政時代、阿波藍作りが奨励され、藍商を中心とする商人の町として発展した。商家の人々は、その財力で屋根に防火用の袖壁である、うだつを上げた立派な家を造り、その多くが往時の姿のまま残っている。江戸から明治、大正と時代を経るにつれ、しだいに装飾性を増したうだつを見ることができる。1988年(昭和63)に一帯が国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。旧商家の本街道として栄えた南町の通りが散策の中心地。1792年(寛政4)に創業した藍商の「佐直」は必見のうだつの町並みを訪れる。

脇町劇場は、1934年(昭和9)に芝居小屋としてオープン。戦後は映画館となり、歌謡ショーなども開かれた。脇町が松竹映画『虹をつかむ男』のロケ地となった際、オデオン座として登場し、一躍脚光を浴びた。内部は往時の芝居小屋が再現され、回り舞台や花道、大向、奈落などが設けられている脇町劇場(オデオン座)[うだつの町並み]を訪れる。

脇町の歴史資料を展示している。うだつの町並みの写真や脇町の古い絵図などを展示している美馬市観光文化資料館[うだつの町並み]を訪れる。

重要伝統的建造物郡保存地区・うだつの町並みのほぼ中央にある。吉田屋直兵衛が1792年(寛政4)に創業した藍商の屋敷跡で、主屋・質蔵・藍蔵など5棟が中庭を囲むように立ち並ぶ。藍商館の典型的な佇まいを今に残し、往時の繁栄ぶりが偲ばれる。美馬市指定文化財の藍商佐直・吉田邸[うだつの町並み]を訪れる。

標高約600mの箸蔵山頂に立つ寺。828年(天長5)、弘法大師が四国行脚の途中、金毘羅大権現の神託を受けて創建したと伝わり、金毘羅奥の院ともいわれる。四国別格霊場札所として参詣者が多く、本坊から石段の参道に沿って護摩殿・鐘楼・薬師堂・本殿・観音堂などの諸堂が連なる。そのほとんどが国の重要文化財に指定されている箸蔵寺を訪れる。

祖谷渓・剣山方面に向かう。

吉野川が四国山地を横切るところに、激流によって削られた渓谷が約8kmにわたり続く。「ぼけ」とは谷の両岸に山が迫る険しい場所を指す。両岸の岩石は約2億年前の地層で、含礫片岩は徳島県の天然記念物。春のミヤマザクラ、イワツツジ、秋の紅葉のころが観光のベストシーズン。小歩危は、小歩危駅の北1.5km付近から下流の1kmをいう。大歩危の男性的な景観に対し、岩の形もやさしくなる。遊歩道を歩き、奇岩や地層を観察したい小歩危を訪れる。

大歩危駅近辺から下流約2kmをいい、深い淵と奇岩奇石が続く男性的景観が特色。レストラン大歩危峡まんなかから、小歩危方面へ遊覧船が出ている大歩危を訪れる。

世界各地の宝石の原石や鉱物を展示する博物館と、各地の観光情報を紹介する観光情報館で構成。博物館では大歩危の地質を構成する変成岩をはじめ、火星からの隕石や約40億年前の石を紹介している。情報館では大歩危・祖谷周辺の観光案内のほかに、アクセサリー作りの体験も可。地元特産品や世界各国の鉱物や石のアクセサリーを販売する売店や喫茶コーナーもあるラピス大歩危を訪れる。

壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇の御典医、堀川内記が残党とともに祖谷に落ちのび、子孫代々が暮らした屋敷を資料館として公開。平家ゆかりの品々や古文書、民具などを展示している平家屋敷民俗資料館を訪れる。

剣山を源流に西北へ流れる祖谷川が四国山地をV字型に刻んでできた渓谷。激流が高さ数十mから数百mの深い谷を造り出し、新緑や紅葉の季節には雄大な渓谷美、山岳美が楽しめる。祖谷渓の風景は、断崖にはりつくようにして立つホテル祖谷温泉からの眺めはすばらしく、温泉近くには祖谷渓を見下ろす小便岩がある祖谷渓を訪れる。

祖谷街道の難所の一つ、急カーブの七曲にある。渓谷に突き出た大きな岩の上に小便小僧の像が立つ小便岩(小便小僧)[祖谷渓]を訪れる。

野生のシラクチカズラを使って編んだ吊橋で、日本三奇橋の一つ。水面からの高さ14m、長さ45m、幅2m。国の重要有形民俗文化財に指定され、3年に1度掛け替えられる。足を踏み出すとギシギシと揺れ、スリル満点。川の右岸からの一方通行で、帰りは下流の永久橋を渡るかずら橋を訪れる。

山深い祖谷地方で育まれてきた独自の生活文化を伝えてくれる資料館。昔懐かしい囲炉裏を復元した館内には、着物や食器、農作業の道具など素朴な生活用具が展示されている。また、平家の赤旗のレプリカが見られるほか、この地に落ちのびた平家の末裔の由来を東祖谷の風土とともにビデオで紹介している東祖谷歴史民俗資料館を訪れる。

かずら橋から、さらに上流の東祖谷に架かる。まわりを清流と原生林に囲まれ、約20mほどの間隔で男橋と女橋の2本が並行して架けられている。山に自生するシラクチカズラで作られた吊橋で、今も登山者などに利用されている。橋の先には奥祖谷の大自然が満喫できるキャンプ場もある。女橋のすぐ上流には、ケーブルに取り付けられた籠に乗り、人力でロープを引っ張りながら対岸に渡る「野猿」という珍しい乗り物もある奥祖谷二重かずら橋を訪れる。

標高1955m。西日本第2の高峰で、古くから山岳信仰の霊場だった。登山口へは、つるぎ町からリフトのある見ノ越まで行くルートが最短距離。中腹の西島駅まで剣山観光登山リフトが15分で結ぶ。山頂へは健脚向きの尾根道、大劒神社回りの大劒道、遊歩道の3コースがある。山頂付近に平家の馬場と呼ばれる平原が広がり、室戸岬や紀伊半島まで360度のパノラマが広がる剣山を訪れる。
脇町方面に戻る。

1000年以上の歴史をもつという阿波和紙を知るのに最適の場所。伝統ある手漉き和紙の製造工程を見学できるほか、作業場の一角ではハガキなどの紙漉き体験に挑戦できる。1階にこの工房で作られた手漉き和紙製品の販売コーナーがあり、2階のギャラリーでは約1カ月半ごとに各種企画展が開催されている阿波和紙伝統産業会館を訪れる。

17:00脇町インターから帰路に向かう。

今回の旅行、四国の徳島県に足を運び、吉野川流域の藍の産地藍住町、阿波と讃岐の交通の要衝だった板野町、面積の約65%が農耕地の石井町、阿波藍の天然の原料すくもや阿波和三盆糖の上板町、阿波和紙の吉野川市、吉野川の北岸、阿讃山脈の麓に位置し、奇勝・土柱が有名な阿波市、脇町のうだつの町並みなどの歴史的建造物が多い美馬市、

名勝・美濃田の淵の三好市、大歩危・小歩危の大自然の渓谷美やかずら橋、小便岩の祖谷渓、標高1955m、石槌山に次ぐ西日本第二の山、安徳天皇の御剣を山中におさめたという伝説からこの名前がついたと言われている剣山を訪れ一泊二日のドライブ観光堪能しました。

徳島県は太平洋側の海岸線、吉野川流域、山間部の祖谷渓や剣山、見るものが盛りたくさんです。

今回でほぼ制覇した徳島県ドライブ観光でした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百二十九弾:徳島県中部山渓&県南海岸エリア観光
2011年2月5ー6日


四国東部の徳島県に足を運び、中部県立自然公園に属し、四国の中でも大自然の残っている地域で、又温泉や農村舞台、修行場だった札所が点在する中部山渓エリア、室戸阿南海岸国定公園に属し、景勝地の多い県南海岸エリアを訪れました。

5日12:30車で阪神淡路自動車道経由して
15:00中部山渓エリア到達

標高1,019m頂上(旭ヶ丸)から東へひろがるゆるやかなスロープ。ここからは、遠く紀伊水道、徳島平野、阿讃山脈、橘湾など360度のパノラマが眺望でき、標高900m付近では、7月上旬から下旬にかけて、約3万本のあじさいが咲きます。頂上付近では、アワノミツバツツジ・アセビなどが群生、遊歩道が整備され、ハイキングに適しています大川原高原を訪れる。

石楠花の寺として知られ、特に前面の断崖、峭壁(俗に壁ヶ嶽という)に自生する石楠花は、樹齢120年を越えるものも多く、数百本に及ぶ老樹や幼木をとりまぜて、開花時は実に比類稀なる壮観な景色で、浄土院寺院にふさわしい極楽浄土の景観を呈する徳円寺を訪れる。

徳島市内に向かう。
18:00徳島市内の徳島駅付近のホテル到着後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

6日6:30車で出発、阿南方面に向かう。

標高284mの津峯山一帯にある公園。阿波の松島と呼ばれる橘湾を一望。8合目までは津峯スカイラインが通る。駐車場から山頂付近へは陣ケ丸遊歩道があり、神明の窟など5つの岩窟や揺すると音の出る揺るぎ岩(天然記念物)が見られる津峯公園を訪れる。

伊水道に突き出た四国最東端の岬。蒲生田大池の駐車場から遊歩道で行ける蒲生田岬灯台からは伊島、前島、棚子島などが一望できる蒲生田岬を訪れる。

日和佐に向かう。

アカウミガメ(国の天然記念物)の産卵で知られる、全長約500mの砂浜大浜海岸を訪れる。

大浜海岸沿いに立つ施設。ウミガメの生態や進化の歴史が学べ、大浜海岸を模した水槽では子ガメを観察できる。感動的な産卵の映像を見ることのできるハイビジョンシアターは必見。屋外の水槽では1mを超えるウミガメも飼育している日和佐うみがめ博物館カレッタ[大浜海岸]を見学。

高さ200m前後の海蝕崖と、美しい松林が約2kmに渡って直線的に続く景勝地。室戸阿南海岸国定公園の特別保護地区に指定され、特に千羽ケ岳付近で見られる垂直の断崖が見ものだ。整備された自然歩道の途中にある通り岩休憩所からは、下が洞穴になった通り岩が見られる千羽海崖を訪れる。

世界中の珍しい貝や貝の化石約2000点を展示する資料館。木造のユニークな外観は巻き貝と二枚貝をイメージしたもの。巨大なオオジャコガイ、アンモナイトの化石は必見。館内の漁師さんの水族館には大小45台の水槽を設置。地元漁師が捕まえた海の生き物100種類と、生きた化石といわれるオウムガイなどを展示している貝の資料館モラスコむぎを見学。

海部川上流にある四国有数の滝。上流の不動滝、鳥返し滝など大小多数の滝も含め、迫力ある景観が続く。夏と秋には祭りがあり、夏は龍王寺から、秋は轟神社から、滝壺に神輿ごと入る神事も行われる。周辺には遊歩道が整備されている轟の滝を訪れる。

17:00帰路に向かう。

今回の観光巡り、四国の東部徳島県に足を運び、中部山渓エリアの海部川、那賀川に点在する渓谷、奇岩、滝、県南海岸エリアの海岸線の数多い景勝地を訪れ、大自然に接し、癒されました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十七弾:徳島県鳴門&徳島タウン&小松島観光
2010年2月10ー11日


今回は四国の徳島に足を運び、東はうず潮と大塚国際美術館、西は歴史遺産の鳴門エリア、山・川・海が集まった町、徳島タウン周辺エリアを訪れました。

10日12:30車で阪神第二神明神戸淡路鳴門自動車道経由して鳴門海峡をまたぎ、鳴門〜淡路島を結ぶ全長1629mの吊橋。1998年に完成した明石海峡大橋と連絡し、神戸〜徳島を結ぶ高速道路になっている大鳴門橋を通過、鳴門北インター下車。

14:00うず潮と大鳴門橋のビューポイント。周辺には観潮船乗り場や大鳴門橋架橋記念館エディ、渦の道、公園を一望するエスカヒル鳴門、大塚国際美術館などの観光スポットが集まる鳴門公園を訪れる。

鳴門公園内にある世界初の陶板名画美術館。延床面積約3万平方mと日本最大級の常設展示スペースを誇り、古代〜現代の西洋名画1000点余を原寸大で鑑賞できる。なかでも教会や礼拝堂を現地の空間まるごと再現した「環境展示」は必見。他にも西洋美術史の流れがわかる「系統展示」や、古今の作家の作品をテーマ別に展示した「テーマ展示」がある大塚国際美術館を見学。

鳴門公園にある施設。270インチのハイビジョン映像のうず潮劇場や、映像に合わせて動く体感型展示室うず丸など、うず潮について楽しみながら学べる。平成20年春に水族館「エディミニミニ魚っちんぐ」がオープン。タッチングプールでは自然の魚たちと触れあえる大鳴門橋架橋記念館エディを見学。

うず潮と大鳴門橋の体験見学施設。橋桁内に450mの遊歩道を設け、途中数カ所の床の一部が真下の鳴門海峡を望む厚いガラス張りになっている。圧巻は一番先にある展望室。2カ所に設けた4枚のガラス張りを通して45m直下の、迫力あるうず潮を眼下に眺められる徳島県立渦の道を散策する。

鳴門市街を見下ろす、標高60mの山に整備された公園。中腹に鳴門ガレの森美術館があり、山頂には世界的に著名な考古学者・人類学者の鳥居龍蔵博士が収集した、貴重な資料を展示する鳥居記念博物館が天守閣を模して建てられている妙見山公園を散策する。

妙見山公園内にある三層の天守閣様式の建物の博物館。徳島出身で東アジアの考古学・人類学に多大な業績を残した、鳥居龍蔵博士が収集した貴重な資料を展示している。モンゴル、シベリア、千島などの民俗資料は必見の徳島県立鳥居記念博物館を見学。

アール・ヌーヴォーナンシー派の指導者として活躍した、フランスのガラス工芸家エミール・ガレの作品を中心にガラス作品100点余りを収蔵。カラー文スフレ花器といった、色や曲線の美しい花瓶やランプ30点余りが展示されている。写真誌の表紙などでも有名な三尾公三の絵画なども展示の鳴門ガレの森美術館を訪れる。残念ながら休館でした。

18:00徳島タウンにあるホテル到達、市街地を散策し食事を済ませてから床に就く。

11日7:00車で出発

眉山の山麓に立つ臨済宗妙心寺派の禅寺。江戸初期に造られた池泉回遊式の庭で知られている。山麓の斜面を巧みに利用した庭には、茶室や三重宝塔などが配されており、洗練された風情がある。キリスト教が禁止されていた江戸時代に灯籠にマリア像を刻み、地蔵尊と偽った切支丹灯籠も見逃せない瑞巌寺を訪れる。

小松島方面に向かう。

650年(白鳳元)の創建と伝わる古刹。多くの宝物を所有し、聖観音坐像(重要文化財)は立てば1丈6尺(約5m)にもなるほどで、寺名の由来になっている。境内には、本堂(重要文化財)、観音堂(重要文化財)や、三門(重要文化財)、経蔵(重要文化財)などがある丈六寺を訪れる。

21万平方mの敷地面積を誇り、80種類約400点の動物を飼育。園内は動物の成育環境を再現した温帯・サバンナ・寒帯の各区と、ヒツジやモルモットなどの小動物とふれあえるこども動物園など5つのエリアで構成され、のびのび暮らす動物の姿を観察できる。ゾウのエサやりなどイベントも充実。遊園地や植物園も併設し、一日中親子で遊ぶことができるとくしま動物園を訪れる。

徳島タウンに戻る。

文化施設が立ち並ぶ文化公園。総合管理センター徳島県立21世紀館を中心に、博物館・美術館・図書館などが揃う徳島県文化の森総合公園を訪れる。

徳島県文化の森総合公園内にあり、徳島の自然と歴史を紹介。ティラノサウルスの全身骨格のほか、南米の古生物の骨格標本も充実している徳島県立博物館を見学。

徳島県文化の森総合公園内にあり、ピカソやクレーの絵画、イサム・ノグチの彫刻、池田満寿夫やウォーホルの版画などを収蔵・展示する徳島県立近代美術館を見学。

島で江戸末期から代々続く藍染工房。6代目主人は長年途絶えていた絹の藍染めに成功し、労働省の表彰を受けた。1日4回、3〜4日繰り返し染めて、はじめて鮮やかな色が出る藍染め作業の一端を見学できる古庄藍染處を訪れる。

一年中阿波おどりが楽しめる。2階の阿波おどりホールでは専属連「阿波の風」のステージがあり、踊りに参加することもできる。また、3階に阿波おどりの歴史を紹介した阿波おどりミュージアム、1階には名産品の販売コーナー、5階には眉山ロープウェイ山麓駅がある阿波おどり会館を訪れる。

眉山は眉の形に似たなだらかで優美な山。山頂は公園として整備され、晩年を徳島で過ごしたポルトガル人作家・モラエスの記念資料館や展望広場などがある。徳島市街や吉野川、晴れた日には大鳴門橋や淡路島まで見渡せる眉山公園を散策する。

眉山山頂にあり、妻の故郷・徳島を愛したポルトガルの文人、モラエス(1854〜1929)の作品や遺品を展示するモラエス館を見学。

徳島駅北東に広がる公園で、明治維新まで阿波の領主・蜂須賀家の居城だった。往時の建物はないが、石垣と桃山様式の旧徳島城表御殿庭園がかつての面影を伝える。2006年1月、徳島城跡が国の史跡に指定された徳島中央公園を散策する。

徳島中央公園内の徳島城御殿跡にあり、徳島藩と藩主・蜂須賀家に関する美術工芸品や歴史資料を中心に収蔵・展示している博物館。現存する最古の和船、徳島藩御召鯨船[(重要文化財)をはじめとする徳島藩水軍についての貴重な資料、徳島城御殿の精巧な復元模型や城下町の暮らしぶりなども常設展示し、毎年2〜3月に行う「ひな人形の世界」をはじめ、年4〜5回企画展を開催。入館者は、隣接する名勝・旧徳島城表御殿庭園も入園できる徳島市立徳島城博物館を見学。

徳島中央公園の徳島市立徳島城博物館に隣接。江戸初期に造営され、枯山水の庭と池泉回遊式庭園からなる。別名千秋閣庭園と呼ばれる旧徳島城表御殿庭園を見学。

阿波木偶人形の人形師、人形健[にんぎょうけん]の作品約100体を展示。木偶人形の作り方や、表情が一変する仕掛け、人形を操る仕組みなどをユーモラスに解説してくれる。人形浄瑠璃のひとコマを再現したコーナーも見逃せない阿波木偶人形会館を見学。

鳴門方面に戻る。

第一次大戦で敗れたドイツ兵の板東俘虜収容所跡を中心に整備した公園。周辺には鳴門市ドイツ館をはじめ、鳴門市賀川豊彦記念館、ドイツ兵が残したドイツ橋、メガネ橋などがあるドイツ村公園を散策する。

ドイツ村公園の近くにあり、ドイツ兵と地元の人々との交流を記念して建てられた。館内ではミニチュア模型で当時の日常生活を再現。ベートーヴェンの「第九」が日本で初演されたことにちなみ、その様子を実物大の人形で再現した第九シアター(は、ぜひ見ておきたい鳴門市ドイツ館を見学。

ドイツ村公園内にある。大正デモクラシーの先頭に立ち、非暴力の精神で労働運動、反戦運動などを指導した賀川豊彦(1888〜1960)の記念館。世界の平和を願い、理想社会の建設を目指して活動した生涯を、パネル展示などで紹介。賀川の蔵書や関係書籍も閲覧できる鳴門市賀川豊彦記念館を見学。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、四国の徳島県に足を運び、鳴門市街地から小鳴門橋などを利用して北東に向かうと鳴門観光の中心地、鳴門公園。大鳴門橋、うず潮で有名な鳴門海峡、うず潮を間近に見る施設が点在、美しい海岸線にはリゾートホテルや大塚美術館などが見所の鳴門公園エリア。

神戸淡鳴門自動車道や高松自動車道が接続する交通の要所で、徳島の第二の都市鳴門タウンエリア。

蜂須賀公の城下町として栄えた町、県都ながら、原生林の残る城山や眉山などの自然が豊かに残り、日本三大河川のひとつ吉野川、町中を流れる新町川など、水辺の景観に恵まれ、水郷百選にも選ばれている徳島タウンエリア。

阿波人形浄瑠璃や藍染めなど伝統文化・工芸の見学や体験ができる施設が多く、博物館、美術館などの文化施設が集中している徳島市郊外エリア。

小松島港を中心に古くから栄えてきた港町、阿波三峰のひとつ、日峰山、大神子海岸など、自然が豊かに残り、源義経が小松島から上陸したという伝説があり、ゆかりの史跡が多く残る小松島エリア。

一泊二日で徳島の中心エリアの自然と文化に触れ堪能しました。