千葉

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十七弾:千葉県お城・城下町巡り観光
2018年3月17日−18日
  

関東地方の安房、上総、下総の房総三国で乱を起こした平忠常の後裔・千葉氏が基盤を築いたあと、里見氏が台頭し、戦国時代には安房国を支配した。天下統一後は、江戸に近い将軍のお膝元として有力大名が配された千葉県に足を運び、比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

17日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:23東京駅到達、レンタカーで千葉県市原方面に向かう。
16:00市原市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
18日6:30レンタカーで出発、房総半島に点在するお城巡り

佐貫城:築城年代は定かではないが応仁年間(1467年〜1469年)に武田義広によって築かれたのが始まりとされる。

天文6年(1537年)家督相続争いで武田信隆が峰上城、佐貫城、海造城を拠点とし、小田原北条氏を頼って武田信応に対抗したが、信応方の足利義明、里見義堯によって落城することとなる。

その後は里見氏の城となり、里見義弘の頃には本城ともなったが、里見義弘が没するとその子梅王丸に家督を継がせた加藤信景が佐貫城に入って安房の里見義頼と敵対する。天正8年(1580年)里見義頼は上総へ侵攻し、佐貫城を攻めたてたため、加藤信景は梅王丸の助命を求め開城した。

天正18年(1582年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は内藤家長に二万石を与え佐貫城主とした。

館山城:築城年代は定かではないが里見氏によって築かれた。 天正10年(1582年)頃には岡本城の支城として存在していたようである。

天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方として参陣するが、里見氏が保護していた御弓公方足利氏の遺児頼淳のために鎌倉を回復しようと企て、また、惣無事令に違反した咎もあって里見氏領の上総領は没収され、安房国一国を安堵された。

これによって上総領の家臣は安房国へ引き上げることを余儀なくされる。これが居城を岡本城から館山城へ移す要因の一つとされ、天正19年(1591年)以降里見氏は館山城に居城を移した。

慶長19年(1614年)里見忠義は大久保忠隣の罪に連座する形で安房国を没収され、伯耆国倉吉に三万石で転封となり、元和8年(1622年)忠義が没すると嗣子なく里見家は断絶となった。里見氏の後、館山城は完全に破却された。

稲村城:築城年代は定かではないが里見氏によって築かれた。 里見氏は上野国碓氷郡里見郷の発祥で、新田義重の子義俊が里見郷に住んで里見を名乗ったことに始まる。

相模国に逃れた里見義実は三浦氏の援助を受けて、安房国白浜を拠点に勢力をひろげ、房総里見氏の祖となる。里見氏の嫡流は義豊の代で途切れ(前期里見氏)、それ以後は庶流の義尭の系統となる。この義尭以後、稲村城は破棄された。

一般的には義通の子義豊が幼少であった為、後見人として弟実尭が義豊が元服した後も義豊に譲らず、義豊は実尭を自刃させ、実尭の子義尭が父の仇として義豊を討ち、里見氏が庶流の血筋へと替わっていく。

しかし、「さとみ物語」(館山市立博物館)によれば、義豊は既に家督を譲られて成人していたということである。義豊は実尭を殺害し、正木通綱をも滅ぼすと、実尭の子義尭は上総国百首城にたて籠って小田原北条氏の支援を得て義豊を安房から追放、翌年には義豊の軍勢を犬掛けの合戦で討ち取った。

勝浦城:勝浦城は、天文十一年(1541)の頃、勝浦正木氏の初代、正木時忠が入城。それ以前は、真里谷武田氏の砦のようなものであったろうと言われています。その後、二代時通、三代頼忠の居城となります。しかし、天文十八年(1590)、豊臣秀吉により安房里見氏が領地の一部を没収されると、里見氏と親交のあった勝浦城主正木頼忠も城を明け渡し、安房に逃れます。なお、頼忠の娘は、後に徳川家康の側室(お万の方)となり、紀州徳川頼宣と水戸徳川頼房をもうけます。高名な水戸光圀(黄門)は、お万の方の孫にあたります。また、絶壁を布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、神社裏の断崖絶壁が舞台です。

万喜城:万喜城は、三方を夷隅川に面した丘陵(城山)山頂部に築かれている。 城山全山が城塞化されていると云っていいほどの堅固な城だ。

 現在は山頂部の二段の曲輪と物見台(展望台がある)が主郭部を構成し、主郭南側は侵食谷によって隔てられた痩せ尾根が幾筋もあり、この支尾根を削平して曲輪を置き、更に堀切を随所に設けて防衛ラインを構築している。

 北麓から山頂の公園までの車道の両側には民家敷地ともなっている曲輪群が幾段にも構築されて、比較的緩やかな登りとなるこのルートの防備を固めている。 これらの縄張りを見て、かつ実際の遺構を見ると、この城が里見氏からの幾度も続いた来攻を凌いだ「要害の城」であると肌で感じることが出来る。

大多喜城:天正18年(1590年)本多忠勝によって築城された。 徳川家康が関東に入部すると、家康は里見氏への押えとして本多忠勝を根古屋城に十万石で配置する。忠勝は根古屋城が防備に適さないとして、新たに大喜多城の築城を家康に願い出て許された。

・慶長6年(1601年)本多忠勝は伊勢国桑名に転封。
・慶長6年(1601年)忠勝の次男忠朝が五万石で残り、元和元年(1615年)大坂夏の陣で戦死。
・元和元年(1615年)甥の本多政朝が遺領を継ぎ、元和3年(1617年)播磨国龍野へ転封。
・元和3年(1617年)武蔵国鳩谷より阿部正次が三万石で入封、元和5年(1619年)相模国小田原へ転封。
・元和9年(1623年)武蔵国岩槻より青山忠俊が二万石で入封、寛永2年(1625年)改易となる。
・寛永15年(1638年)阿部正能が一万石で入封、寛文11年(1671年)正能は武蔵国忍の養子ととなる。
・寛文11年(1671年)武蔵国岩槻より阿部正春が一万六千石で入封、元禄15年(1702年)三河国刈谷へ転封。
・元禄15年(1702年)三河国刈谷より稲垣重富が二万五千石で入封、同年下野国烏山に転封。
・元禄16年(1703年)相模国玉縄より(大河内)松平正久が二万石で入封、以後明治に至る。

久留里城:築城年代は定かではない。城の創築は定かではないが真里谷武田氏の支城として築かれたとも云われる。 本格的な築城は里見義尭によるもので、義尭は久留里城を居城として小田原北条氏の攻撃にさらされ、永禄7年(1564年)には北条氏康によって攻められ落城する。しかし、永禄10年(1567年)には三舟山で北条氏を敗り、久留里城を奪還した。

天正6年(1578年)里見義弘が没すると、安房国岡本城の里見義頼と梅王丸との間で家督相続を巡る内乱が勃発し、天正8年(1580年)義頼は久留里城を攻略して、後に梅王丸を捕える。以後里見氏の居城は安房国岡本城へと移り、天正18年(1590年)頃には城代として山本越前守が在城した。

天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で里見氏は豊臣方に属するものの上総国の所領を没収され、上総国は関東に入部した徳川家康の所領となる。 家康は榊原康政の子大須賀忠政を遠江国横須賀より三万石で入部させた。

・慶長6年(1601年)大須賀忠政は遠江国横須賀へ転封。
・慶長6年(1601年)相模国より土屋忠直が二万石で入封、延宝7年(1679年)頼直の時、改易となり廃城。
・寛保2年(1742年)上野国沼田より黒田直純が三万石で入封、以後明治に至る。

真里谷城:康正2年(1456年)武田信長によって築かれたと云われる。 上総国武田氏の武田信長は康正2年(1456年)下総国市河合戦のときに庁南城と真里谷城を築き、真里谷城には信長の嫡男信高の二男清嗣(信興)が城主となり真里谷武田氏の祖となった。

天文6年(1537年)真里谷武田信隆・信応兄弟による内訌で、一時は小弓公方足利義明の支援を受けた信応が家督を継いだが、天文7年(1538年)の国府台合戦によって義明が没した後は、北条氏の支援を受けた信隆が家督に復した。しかし、天文12年(1543年)再び真里谷一族に内紛が勃発し真里谷武田氏の勢力は没落した。

土生城:神亀年間(767年〜770年)に鎮府将軍大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのがその始まりとされるが定かではない。
長享2年(1488年)小弓公方足利氏の家臣中野城主酒井定隆が土気城を築いて土気酒井氏の居城となった。 酒井氏の出自は土岐氏の庶流、あるいは藤原秀郷流波多野松田氏の後裔など諸説あって定かではない。

天文7年(1538年)小弓公方足利義明が没すると、後に土気酒井氏は東金酒井氏らとともに北条氏に属した。永禄4年(1561年)上杉政虎(謙信)が越山して関東に出陣すると、北条氏を離反して上杉氏に属したが、政虎が越後に戻ると再び北条氏に属した。 永禄7年(1564年)国府台合戦で酒井胤治は北条氏を離反して里見氏に付いた。しかし翌年北条氏政の軍勢によって土気城は包囲され、酒井氏は里見氏に援軍を要請したが援軍を得ることはできなかった。天正4年(1576年)酒井氏は再び北条氏に属し、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏とともに滅亡した。

大椎城:大椎(おおじ)城は平安時代中期、上総・下総に強大な権力を持っていた平忠常が築城し、長元の乱(1027〜1031)を起こした根拠地と云われている。この忠常は平将門の叔父であった良文の孫にあたり、当時不当な貢税を課した受領(国司)の暴政や貴族権力に反抗した。
この乱の後、忠常の子・常将が初めて「千葉氏」を名乗り、常長・常兼と続き、その子・常重は大治元年(1126)、この城から千葉城(猪鼻城・湯の花城)に移り廃城になったと考えられている。
しかし、「図説・房総の城郭・(千葉城郭研究会編)」によると、「この地はもともと源頼朝に滅ぼされた上総氏の領するところでもあり、千葉氏がここから興ったというのは史実ではなく伝承の域を出ない。」としている。
戦国期には、土気城主酒井氏が村田川流域を押さえる支城として大規模な改修をしたと考えられる。
尚、千葉氏系流は戦国末期の重胤を経て更に現代の千葉胤雄・勝胤までほぼ1千年40代に亘って続いており、千葉県で各地に多く繁栄している。

国府台城:千葉県市川市国府台にある里見公園は、花見の名所になっているが、ここはかつて国府台城だった。1479年、太田道灌の弟・ 太田資忠が臼井城を攻めるために築城したのが国府台城とされる。その臼井城合戦で太田資忠は討ち死にしている。(鎌倉大草紙によれば、下総国 境根原合戦を前に太田道灌が仮の陣城を構えたとあり、これが国府台城であるという説もあり)

特に有名なのが「北条軍 VS 小弓公方および里見軍」で行われた、第一次/二次国府台合戦の古戦場跡であること。戦国時代、下総国支配の決定戦だったと言える。戦後、国府台城は北条氏によってさらに規模が拡張強化されたと考えられる。当時は、真間山(弘法寺)から松戸駅東側(相模台城)までを国府台と呼んでいた。

17:00終了東京駅に向かう。
18:00東京駅到達
18:40東京駅新幹線のぞみで出発
21:10新大阪駅到達

今回の旅行、関東地方の千葉県に足を運び、房総半島に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れ楽しみました。
今回のお城は再建した天守閣等、立派な城跡が多く、城マニアの方だけでなく楽しむことができた城めぐりでした。
千葉県の房総半島、車も少なく、信号も少なく、渋滞のストレスもなくドライブできました。大都会東京から少し離れるとまだまだ田園風景がいっぱいですね。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十四弾:千葉県お城・城下町巡り観光
2016年9月24−25日
 

安房、上総、下総の房総三国で乱を起こした平忠常の後裔、千葉氏が基盤を築いたあと、里見氏が台頭し、戦国時代には安房国を支配した。天下統一後は、江戸に近い将軍のお膝元として有力大名が支配された千葉県に足を運び比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

24日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:23東京駅到達、中央線で新宿に向かう。
17:30新宿京王プラザで宴会に出席。
21:00東京駅付近のホテルにて就寝。
25日8:00レンタカーで出発、千葉北部のお城巡り。

関宿城:築城年代は定かではない。 応永年間(1394年〜1428年)に梁田満助による築城とも、長禄元年(1457年)梁田成助による築城とも云われる。 梁田氏は桓武平氏の後裔で下野国梁田郡梁田御厨の発祥という。
梁田氏は代々足利氏に仕え、天正2年(1574年)梁田晴助の時に北条氏によって攻められ落城、晴助・持助父子は水海城へ退去した。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後、関東に入部した徳川家康は異父弟の松平康元を置いた。
元和2年(1616年)(久松)松平忠良が美濃国大垣に転封。
元和2年(1616年)越後国三条より(能見)松平重勝が二万六千石で入封、元和5年(1619年)遠江国横須賀に転封。
元和5年(1619年)下総国古河より小笠原正信が二万二千石で入封、寛永17年(1640年)貞信の時、美濃国高須へ転封。
寛永17年(1640年)遠江国久野より北条氏重が二万石で入封、正保元年(1644年)駿河国田中へ転封。
正保元年(1644年)武蔵国石戸より牧野信成が一万七千石で入封、明暦2年(1656年)親成の時、京都所司代となり摂津・河内国に転封。
明暦2年(1656年)武蔵国より板倉重宗が五万石で入封、寛文9年(1669年)重常の時、伊勢国亀山に転封。
寛文9年(1669年)上総・下総・武蔵・相模国から久世広之が五万石で入封、天和3年(1683年)重之の時、備中国庭瀬に転封。
天和3年(1683年)常陸・下総・下野から牧野成貞が五万三千石で入封、宝永2年(1705年)三河国吉田に転封。
宝永2年(1705年)三河国吉田より久世重之が五万石で入封、以後明治に至る。

臼井城:築城年代は定かではないが臼井氏によって築かれたと云われる。 臼井氏は桓武平氏千葉氏の一族で、千葉常兼の三男常康が下総国印旛郡臼井を治め、臼井氏を名乗ったことに始まる。
文明11年(1479年)関東管領上杉氏と古河公方との争いで太田道灌の弟太田資忠と千葉自胤によって攻められ、臼井城は落城した。
永禄4年(1561年)臼井興胤の時、里見義尭の家臣正木時茂によって攻められ、興胤は結城に退去。その後に生実城を本拠とした原氏が臼井城を居城とする。
永禄9年(1566年)上杉謙信によって攻められ、「実城堀一重」まで攻め込まれたが、辛うじて落城を免れた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は、酒井家次を三河国吉田より四万石で入部させたが、慶長9年(1604年)家次は上野国高崎に転封となり廃城となった。

師戸城:師戸城は印旛沼に面して南へ張り出した台地の南端に築かれている。現在は印旛沼公園として整備されている。師戸城は台地の南端を切り離すように深い空堀が巡らされ、現在は三つの曲輪が残っている。南北に大きく分かれた曲輪の南側が更に東西に分かれている。

本佐倉城:築城年代は定かではないが文明年間(1469年〜1487年)頃に千葉輔胤によって築かれたと云われる。 千葉輔胤のとき、千葉城から本佐倉城へ居城を移し、以後代々千葉氏の本城となった。 千葉氏は天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条氏とともに小田原城に籠城して運命をともにした。

飯高城:築城年代は定かではない。 天正8年(1580年)に平山刑部少輔常時が城内に寺院を建立し、天正19年(1591年)には飯高妙福寺の学室を移し、城地の全てを寄進して日蓮宗の檀林とした。江戸時代には徳川氏の保護を受け明治まで続いた。この平山氏に関しては史料も残されておらず不明とされるが、「千葉県所在中近世城館跡詳細分布調査報告書」では小田原北条氏の家臣で武蔵平山氏を飯高に封じたのではないかと推測している。

坂田城:築城年代は定かではないが千葉氏によって築かれたと云われる。 その後千葉氏の重臣三谷大膳亮胤興の居城となった。 三谷氏(みや)は千葉氏の庶流という。弘治元年(1555年)に大台城主井田因幡守友胤が坂田城主三谷胤興を討ち、坂田城に居城を移したという。天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐で坂田城も落城したという。

御茶屋御殿:徳川家康をはじめ、将軍家が鷹狩りに向かう際の休息所として利用したと伝えられる史跡です。下総国船橋から狩場である上総国東金地方に向かう行程のほぼ中間に位置しています。
御茶屋御殿の創建を直接示す史料は残されていませんが、徳川家康の狩猟のために急遽造られた東金新道(御成街道)とともに建設されたと考えられており、内郭を区画する土塁とその外周に彫り巡らされた薬研堀が非常に良好な状態で残されています。

小弓城:築城時期は定かではありません。平安中期頃、亥鼻城が築城された頃にこの城も築かれたようです。戦国期に入り、千葉氏の重臣の原氏が在城したようです。永正十五年(1519年)、真里谷城の武田怒鑑(信保)は古河公方の足利高基の弟の足利義明を奉じて小弓城を攻め、義明はここに移り、小弓公方・小弓御所と呼ばれました。天文七年(1538年)の第一次国府台合戦で義明が討死したため、原氏(原胤清)が城を奪還するも、この城を廃し、北西に生実城を築城し移りました。

千葉城:千葉市の中心部、千葉県庁や中央区役所のあるエリアに、千葉城と呼ばれている城郭風の建物がある。かつて千葉にこんな城があったと思う人がいるかも知れないが、これは1967年に、千葉市が歴史とは無関係に作った観光施設である。
 竣工当時は「千葉市郷土館」という名称で観光課が運営していたが、1979年、市役所の組織改編で文化課に移管。1983年からは「千葉市立郷土博物館」に改称された。
 現在は生涯学習振興課の所管となって、一部が貸しホール状態になっているが、3階の坂東の名門千葉一族に関する展示は充実していて素晴らしい。

18:30東京駅到達
18:47東京駅新幹線のぞみで出発
21:10新大阪到達。

今回の旅行、東京で講演会に主席後翌日、千葉県の北部に点在する比較的マイナーなお城9か所を巡り楽しみました。
千葉の東京よりは都会、前回の北海道と大きく違い、信号が多く、ところどころ渋滞があり、スムーズに移動できず時間を要しましたが何とか9個のお城をめぐることができました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五弾:九州坂東三十三箇所巡り第二弾観光  2015年3月14−15日

関東地方の千葉県に足を運び、関東地方の全域に点在する霊場、坂東三十三箇所の札所の29札所ー33札所を巡りました。

14日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
16:05東京駅到達、タクシーでザ・プリンス・マーク・タワーに向かう。
17:00講演会出席
19:00講演会終了。懇親会出席。
20:30終了、ホテル・ニューオータニにタクシーで向かう。
20:45ホテル・ニューオータニ到達、就寝。
15日7:30タクシーで東京駅に向かう。
8:00東京駅レンタカーで霊場めぐる。

千葉寺:千葉寺(せんようじ、ちばでら)は、千葉市中央区にある真言宗豊山派の寺院。山号は海上山。本尊は十一面観音であり、坂東三十三観音霊場第29番札所である。境内には瀧蔵神社がある。寺伝によれば、709年(和銅2年)この地を訪れた行基が十一面観音を安置したのに始まり、聖武天皇の命により千葉寺と称したという。1160年(永暦元年)に堂宇を焼失している。千葉氏の居城である千葉城(亥鼻城)に近いことから千葉氏の祈願所となった。

高蔵寺:高蔵寺(こうぞうじ)は、千葉県木更津市にある真言宗豊山派の寺院。山号は平野山(へいやさん)。本尊は聖観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第30番札所である。通称は高倉観音(たかくらかんのん)。用明天皇の代(585年〜587年)に徳義が小像の観音菩薩を感得して寺を建立したという。この観音像は、行基が刻んだ観音像に納められているという。

那古寺:那古寺(なごじ)は、千葉県館山市にある、真言宗智山派の寺院。山号は補陀洛山。本尊は、千手観世音菩薩。坂東三十三観音霊場第33番(結願寺)。通称は那古観音(なごかんのん)。寺伝によれば、行基が元正天皇の病気平癒を祈るためこの地を訪れ、千手観世音菩薩を安置して祈願すると、天皇の病気は平癒し、天皇の勅により建てられたのがこの寺であるという。

仁右衛門島:仁右衛門島は太海(ふとみ)の浜波太(はまはた)漁港の目の前にある小島で、源頼朝や日蓮上人の伝説と新日本百景にも選ばれた鴨川の名勝地です。
蓬島(よもぎじま)や波太島(なぶとじま)という異名もありますが、代々、平野仁右衛門が守り続ける島として古くから仁右衛門島と呼ばれていました。
治承4(1180)年8月、源頼朝は平家打倒に動き出します。伊豆で勢力を持つ山木兼隆を奇襲により討ち取ると、援軍を頼りに石橋山(神奈川県小田原市)に陣を構えます。頼朝勢は僅か三百、対する大庭軍は三千。折りしもの大雨で酒匂川の水かさが増し、頼みの援軍が立ち往生している間に大庭軍は頼朝勢に襲いかかります。多勢に無勢では勝ち目は無く、頼朝は命からがら小舟で安房国へと逃げ延びます。
仁右衛門島には“源頼朝の隠れ穴”と呼ばれる洞窟があります。これは安房で再起を図る頼朝に平家方の長狭六郎常伴(ながさろくろうつねとも)が夜襲をしかけるという噂が伝わった時、仁右衛門が頼朝を匿ったとされる洞窟です。この功績で仁右衛門は島と周囲の漁業権を与えられ、代々島主・仁右衛門とその家族が島を守り続けています

清水寺:清水寺(きよみずでら)は、千葉県いすみ市にある天台宗の寺院。山号は音羽山。本尊は千手観世音菩薩であり、坂東三十三観音霊場第32番札所である。通称は清水観音(きよみずかんのん)。延暦年間(782年 - 806年)に最澄がこの地を訪れて草庵を結んで十一面観世音菩薩を安置し、807年(大同2年)円仁がこの地を訪れ千手観世音菩薩を刻んで安置したという。

笠森寺:笠森寺(かさもりじ)は、千葉県長生郡長南町笠森にある寺院、天台宗別格大本山、坂東三十三箇所の第三十一番札所、山号は大悲山。寺伝によれば延暦3年(784年)に最澄(伝教大師)が楠の霊木で十一面観音菩薩を刻み安置し開基されたとされる古刹で、古来より巡礼の霊場として知られており、十一面観音像が本尊であることから「笠森観音」と通称される。
大岩の上にそびえる観音堂は、61本の柱で支えられた四方懸造と呼ばれる構造で、日本で唯一の特異な建築様式であり重要文化財である。長元元年(1028年)に後一条天皇の勅願で建立されたと伝えられているがその後焼失し、現在の建物は解体修理の際発見された墨書銘から文禄年間(1592年-1595年)の再建とされている。観音堂の 75段の階段を上がった回廊からは、四季それぞれに美しい房総の山々が眼下に眺められ、その景観は一見に価する。他にも重要文化財の鋳銅唐草文釣燈籠など多くの文化財も残されている。
また、笠森寺周辺の森林は、延暦年間の笠森寺草創当時より禁伐林として保護されてきたと伝えられる暖帯林の残存林であり「笠森寺自然林」として国の天然記念物に指定されている。高木層はスダジイを主体とし、多くのシダ類なども見られ、自然が保たれていることからイタチ・アナグマ・リスなどの獣類、フクロウ・コノハズク・アカゲラ・ハイタカなどの鳥類やヒメハルゼミなどの昆虫類も生息し、関東地方の残存林として特徴的である。

東京駅にアクアライン海ホタル経由して向かう。

16:30東京駅到達。
17:05東京駅新幹線のぞみで出発。
19:36新大阪駅到達。

今回の旅行、坂東三十三箇所巡り第二弾、千葉県房総半島に位置する霊場5箇所を巡りました。これで東京、埼玉、神奈川、千葉に点在する坂東三十三箇所の霊場をほぼ巡り、あとは群馬、栃木、茨木に点在する霊場のみとなりました。近いうちに訪れたいと思います。

 








飛行機で国内&海外の観光地巡り第百六十七弾:千葉県房総半島内房エリア周辺観光
2011年11月2−3日


東京湾と太平洋に面した広大な半島部と、北は利根川と江戸川が県境となっている千葉県に足を運び豊かな自然や季節の花を楽しめるレジャースポットもある房総半島内房エリア周辺を訪れました。

2日13:17新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:46品川到達、
16:03品川JRエアポート成田出発
16:50千葉駅到達
17:20千葉駅付近のホテル到達後繁華街を散策し食事を済ませて就寝
3日6:00レンタカーで出発、房総半島北部から南部に向かう。

東金駅の西方約500mのところにある、周囲約800mの小さな湖。東岸に最福寺、西岸に本漸寺の古刹が静かに佇んでいる。3月下旬〜4月上旬には東金桜まつりを開催。湖畔は満開の桜で埋めつくされ、夜はライトアップも行われる八鶴湖を訪れる。

藻原寺の背後に広がる市民公園。面積約16万平方mの園内は、弁天池を中心に芝生広場があり、周囲の豊かな自然と調和している。3月下旬から4月中旬には、2000本超える桜が開花。「日本の桜名所百選」にも選ばれている。ツツジの花も楽しめる茂原公園を訪れる。

9頭のゾウをはじめ、約100種の動物たちにふれあえる動物園。サッカーやダンスをする人気のゾウのショーが開催される。ショー終了後はゾウに乗ったり、ゾウの鼻にぶらさがって記念撮影もできる市原ぞうの国を訪れる。

久留里駅の東方、標高145mの城山にある山城跡。築城に際して、長雨が降り続いた伝説から雨城の別名をもつ。戦国時代には房総里見氏の拠点、江戸時代には土屋氏・黒田氏など、徳川譜代大名が城主となって明治まで続いた。現在は、再建された2層3階の天守閣がある本丸跡を中心に城址公園となっており、二の丸跡には、城の歴史に関する資料を展示する君津市立久留里城址資料館が建っている久留里城址を訪れる。

全長100m、落差30mを誇る房総半島で最大級の名瀑。ゆるやかな階段状の岩盤の上を清流が絹糸のように滑り落ちる女性的な滑滝で、両岸を覆う木々の緑に調和して美しい。遊歩道が整備されている粟又ノ滝を訪れる。

大多喜駅の西方の丘陵上にある。1590年(天正18)年に本多忠勝が入城、その後、阿部、青山、稲垣、そして9代続いた大河内松平氏と城主が代わり、明治維新を迎えた。本丸、二の丸、三の丸の城構えで、現在、県立大多喜高校の敷地になっている二の丸跡に薬医門、大井戸が残っている大多喜城跡を訪れる。

宇宙航空研究開発機構(JAXA)の人工衛星追跡管制施設。2基のパラボナアンテナで人工衛星を見張っている。第1展示室には、超高速インターネット衛星「きずな(WINDS)、温室効果ガス観測技術衛星「いぶき(GOSAT)」などの人工衛星やロケットの縮尺模型が並ぶ。第2展示室では、宇宙開発に関するビデオ、アニメなどが視聴できる。また、宇宙ゲームができるアンテナコーナーもある勝浦宇宙通信所(JAXA)を見学。

小櫃川をせき止めてできた、県下最大のダム湖。面積は139万平方m。ヤマベやヘラブナ、ブラックバス、鯉が釣れ、ボート遊びもできる。湖岸には長崎キャンプ場と稲ケ崎オートキャンプ場の2カ所のキャンプ場があり、アウトドアが楽しめる。リウマチや婦人病などに効能のある亀山温泉も湧く亀山湖を訪れる。

高宕山県立自然公園となっている標高315mの高宕山一帯は、国の天然記念物に指定されているニホンザルの生息地。その数は確認されているだけでも約1000匹にのぼるという。山の斜面に設置された広いケージの中には、餌付けされたニホンザルの1グループ約130匹が飼育されている高宕山自然動物園を訪れる。

1728年(享保13)徳川八代将軍・吉宗が白牛を輸入し、この嶺岡で飼育。その牛乳で乳製品を作ったことが日本の酪農の始まりとされ、「日本酪農発祥の地」といわれている。ラクダのようなコブがある珍しい真っ白な牛は、さとの人気者。山の傾斜を利用した酪農広場では山羊とふれあえ、緑に囲まれのんびり過ごせる。資料館では、酪農の歴史・乳牛の生態・牛と農家の共存の姿など、楽しみながら自由に学習可の千葉県酪農のさとを訪れる。

緑の中に静かに佇む古刹。神亀3年(726)、僧・行基が聖武天皇の勅願により創建したといわれ、創建当時は石塔寺、後に足利頼氏がこの寺で養育さたことから、頼氏の幼名石堂丸にちなんで改名された。室町後期建築の寄棟造の本堂をはじめ、薬師堂、多宝塔、本堂に安置されている本尊十一面観音立像などは国の重要文化財に指定されている石堂寺(石堂観音)を訪れる。

17:05千葉駅方面に向かう。
18:30千葉駅到達
18:46千葉駅出発
19:28東京到達
19:50東京駅新幹線のぞみで出発
22:28新大阪駅到達

今回の旅行、関東の千葉県に足を運び、房総半島中央を南北にドライブし、マイナーですが点在する自然に接し満喫しました。

房総半島の中央部は比較的平坦で大きな山は無く、道路も広く整備されドライブ観光に適し楽しめました。
しかし大都市東京に近く、車は多く所々渋滞に巻き込まれました。

大都市東京に近い千葉県房総半島ドライブ観光でした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百弾:千葉県成田・佐原・佐倉観光
2010年6月19ー20日


東京湾と太平洋に面した広大な半島部と、北は利根川と江戸川が県境となっている千葉県に足を運び、江戸時代以来、利根川の水郷の町として栄えた佐原や城下町の面影の残る佐倉、日本の玄関口ともいえる成田国際空港を持ち、成田山新勝寺の門前町として栄えた成田を訪れました。

19日14:20伊丹空港出発
15:35成田空港到達、レンタカーで成田エリア名所巡り

年間利用客3400万人と、世界トップクラスの旅客数を誇る日本の玄関口。第1・第2の2つの旅客ターミナルがあり、約300軒のショップやレストランを備える。展望デッキからは飛行機の発着を見学可。食事や買い物での利用もできるが、空港への立入りには免許証などの身分証明書が必要。航空科学博物館隣接する成田国際空港を散策する。

940年(天慶3)、宇多天皇の孫にあたる寛朝大僧正により開山された、真言宗智山派の大本山。全国8カ寺の別院や末寺など合わせて65力寺を有する。本尊は弘法大師開眼の不動明王像と伝えられ、江戸期から「成田のお不動様」とよばれ親しまれてきた。22万平方mの広大な境内には、額堂や光明堂、釈迦堂、仁王門、三重塔(すべて重要文化財)が点在。現在の大本堂をはじめ、前本堂の釈迦堂、旧本堂の光明堂を巡れば、寺の発展の歴史をたどることができる成田山新勝寺を散策する。

18:00成田駅付近のホテル到達、市街地を散策し、食事を済ませてから床に就く。

20日6:00レンタカーで出発、佐原方面に向かう。

ハナショウブとハス、あやめを中心とする水郷地帯の植物園。4月下旬〜6月までは園内の舟巡りもできる水郷佐原水生植物園を訪れる。

鹿島神宮・息栖神社と並ぶ、東国三社の一つ。うっそうと杉が生い茂る神域・香取の森に、武神を祭る社殿が佇む。三間社流造の本殿(重要文化財)は、1700年(元禄13)に徳川第5代将軍・綱吉が造営。朱塗りの楼門(重要文化財)も同年の建造。明治・大正期の海軍軍人・東郷平八郎の額が掛かり、右手に黄門桜とよばれる徳川光圀手植えの桜が茂る。宝物館では、神宮に伝わる海獣葡萄鏡(国宝)などの美術工芸品や古文書を展示する香取神宮を訪れる。

佐原の大祭(重要無形民俗文化財)は、約300年の歴史がある関東有数の山車祭り。館内では、毎年7月9〜17日の間の金・土・日曜と10月第2土曜を中日とする金・土・日曜に行われる祭りの様子を、3面パノラマによるビデオで放映。大祭に繰り出す山車24台のうち、交替で2台を展示している。高さ7mの山車は迫力満点。祭礼に関する資料もある水郷佐原山車会館を訪れる。

実測日本地図を初めて完成させた伊能忠敬が、30年余りを過ごした商家。国の史跡に指定されている伊能忠敬旧宅を訪れる。

小野川をはさんで伊能忠敬旧宅の対岸に立つモダンな蔵造風の施設。忠敬が作成した伊能図をはじめ、測量具や遺書、遺品などを展示している伊能忠敬記念館を訪れる。

成田方面に戻る。

房総における伝統技術や生活様式を、総合的に体験できる博物館。ふるさとの技体験エリアは、江戸後期から明治初期にかけての房総の町並みを当時の景観環境を含めて再現。実演を見るだけでなく、そば打ち・わら細工・太巻き寿司作りなど約300種類の体験(詳細要問合せ)ができる。自然と歴史を学ぶ風土記のエリアは、県内有数の古墳の数をもつ竜角寺古墳群を中心に整備。資料館では県内各地の遺跡から出土した土器のほか、近くの印旛沼から発掘されたナウマン象の骨格模型も展示。房総の古民家、旧学習院初等科正堂(重要文化財)もある千葉県立房総のむらを訪れる。

佐倉方面に向かう。

江戸時代からの干拓の歴史で知られる。鯉やフナなど釣りのスポットで、サイクリングコースも整備。佐倉ふるさと広場のオランダ風車を背景に、春はチューリップ、夏は1万発の花火大会、秋はコスモスなど、楽しさがいっぱいの印旛沼を散策する。

佐倉城址公園の北側に位置する博物館。日本の原始・古代から近代までの歴史資料が、5つの展示コーナーに分かれて公開されている。土器などの出土品のほか、宋版史記(国宝)、平城京羅城門の復元模型など膨大な資料を収蔵・展示する国立歴史民俗博物館を見学。

江戸時代に堀田氏の居城であった佐倉城の城跡一帯を整備した公園。城の建物は明治初期にすべて取り壊されたが、土塁や空堀跡などが残り、往時の面影をとどめている。樹木の茂る園内には芝生広場や散策路、姥ケ池が配され、桜や初夏の花菖蒲が美しい佐倉城址公園を散策する。

城跡の東にある宮小路町には、土塁と生垣に囲まれた武家屋敷町の雰囲気を残す地区がある。暗闇坂、ひよどり坂といった当時のままの地名の坂道もあり、修復された3棟の武家屋敷を公開している。旧河原家住宅は千葉県の有形文化財、旧但馬家住宅は佐倉市の有形文化財にそれぞれ指定されている佐倉武家屋敷を見学。

武家屋敷3棟の中では最も大きい武家屋敷で、三百石以上の大屋敷に相当。茅葺き屋根の母屋全体がL字状に折れ曲がっているのは、間口の広くない敷地で隣家との間に充分な空き地をとるための工夫。その建築様式から、佐倉に残る武家屋敷の中では最古と考えられている。室内には当時の調度品などをイメージ展示している旧河原家住宅を見学。

佐倉武家屋敷のひとつ。旧所在と同一地点に復元されており、屋敷地や庭木など周囲の環境と併せて保全され、敷地全体で武家屋敷の形状を残している。室内の見学や休憩ができる旧但馬家住宅を見学。

佐倉武家屋敷のひとつ。面積約80平方mで3棟の中では最も小規模。当時の小知(百石に満たない藩士)の住居といわれている。建物内には武家屋敷地から出土した陶磁器や藩士の生活に関係する資料などが展示されている旧武居家住宅を見学。

佐倉藩最後の藩主だった、堀田正倫の邸宅。主屋5棟と土蔵、門番所は国の重要文化財に指定されている。建物を含めた庭園は県の名勝。1890年(明治23)竣工の建物は、明治期の上級和風建築の特色を残している。自然の地形を生かしたさくら庭園は、松やサルスベリと置き石の調和が見事の旧堀田邸を見学。

南の太平洋側方面に向かう。

東金駅の西方約500mのところにある、周囲約800mの小さな湖。東岸に最福寺、西岸に本漸寺の古刹が静かに佇んでいる八鶴湖を訪れる。

金市との境界付近、約3万2000平方mの湿原にある国指定の天然記念物。作田川によって湿潤さが保たれ、多数の植物が自生している。食虫植物の種類は、モウセンゴケ・コモウセンゴケ・イシモチソウ・ナガバノイシモチソウなどがある成東・東金食虫植物群落を散策する。

成田空港方面に向かう。

国内初の航空に関する博物館で、実物のエンジンなどを見ることができる。DC-8シミュレーターや大型模型の操縦なども体験できる。屋外には実際に飛行していた航空機18機を展示。内部見学が可能なものもあるので、のぞいてみたい。5階は360度パノラマの展望室になっていて、成田空港に発着する飛行機が眺められる航空科学博物館を見学。

17:30成田空港到達
18:30成田空港出発
19:55伊丹空港到達

今回の旅行、東京湾と太平洋に面した広大な半島部と、北は利根川と江戸川が県境となっている千葉県に足を運び、日本の玄関口ともいえる成田国際空港を持ち、インターナショナルな魅力と成田山新勝寺の門前町として歴史のある風情が共存している成田。

重要伝統的建造物群保存地区が残る小野川沿いには日本家屋の伝統的な空間の古い町並みと水郷の魅力の佐原。

佐倉藩12万石の城下町であり、歴史を伝える武家屋敷や邸宅跡、趣深い商家の町並みが散策して楽しめる佐倉。

一泊二日で千葉県の歴史的建造物が集合する佐原と佐倉、又日本の玄関口とも言えるジャンボの成田国際空港を持つインターナショナルな成田を巡り堪能しました。

インターナショナルな町、成田の繁華街は多くの外人を見かけました。ほとんどの方が観光客でなく、空港に関係した業務の方だそうです。パイロット、客員乗務員の方と巡り合う可能性が高い観光旅行でした。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十二弾:千葉県千葉タウン&九十九里浜&房総半島観光
2009年6月6ー7日


ディズニーランドは何回か訪れたことがありますが今回は他のエリア、東京湾と太平洋に面した広大な半島と、北は利根川と江戸川が県境となっている千葉県の全国屈指の水揚げ量を誇る漁港のある銚子、緩やかに海岸線が約66km続く九十九里浜、千葉県南部の太平洋側に面した外房、千葉県南部の太平洋に突き抜けた半島、南房に足を運びました。

6日14:00伊丹空港出発
15:10羽田空港到達、レンタカーで高速湾岸線で千葉方面に向かう。

電化製品メーカーのシャープが運営する展示施設。液晶や太陽電池、環境への取組みなど、最先端技術の今と未来を見ることができるシャープハイテクノロジーホーに寄る。

未来型国際都市として、着々と整備が進められている幕張新都心、この新都心の中にあって、貴重な緑の創出とともに、国際交流の場としての役割を果たせるよう、グローバルな視点から誕生した幕張海浜公園を散策する。

千葉県千葉市中央区に建つ展望施設で、高さ125.1m。千葉県民500万人を突破したことを記念して1984年6月に着工し、1986年(昭和61年)6月15日にオープンした千葉ポートタワーに登り千葉ベイエリアを眺望する。

約1000年前平良文が当地に土着し、三代目の恒将が千葉姓を名乗り、千葉を支配したのが千葉市の起こりと伝えられ、恒将から三代目の常重が1126年猪鼻山に居館を構築して城下町をつくって鎌倉、室町時代にかけ十三代330年間房総の文化の中心として栄え、関東では、鎌倉につぐ繁栄を誇っていました。しかし戦国時代に入り内紛等のため千葉市は衰微し下総の一寒村となってしまいました。昭和四十二年四月千葉市はこの城跡に天守閣をつくり古い歴史と伝統に輝く千葉市をしのび、市民にしたしまれている千葉城跡を訪れる。

自然科学、先端技術、地球環境、宇宙などの科学を、わかりやすい展示で楽しく学ぶことができ、人が主役、参加体験型をコンセプトにする科学館で、幼児から大人まで幅広い年齢層の方々が、さまざまな科学体験ができるよう、ワークショップの場を設け、スタッフやボランティアが楽しくていねいに対応する千葉市科学館を見学。

千葉中央駅付近のホテル到達後、繁華街で食事を済ませてから床に就く。

7日6:00レンタカーで出発、天候快晴、視界良く絶好の観光日和。千葉東金道路を経由して銚子方面に向かう。

犬吠埼灯台の近くにある水族館。熱帯系、温帯系、銚子近海の魚類約230種2500匹を飼育している犬吠埼マリンパークに寄る。

銚子市内で最も高い、標高73.6mの愛宕山山頂にあり屋上展望台からは、北は鹿島灘から筑波山、東と南は太平洋、西は屏風ケ浦から九十九里浜まで見渡せ、360度の大パノラマが一望のもと、330度までが太平洋の水平線なので、文字どおり、地球の丸さを実感できる地球の丸く見える丘展望館を訪れる。

1874年(明治7)、イギリス人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により造られた高さ約32mのレンガ造りの西洋式灯台。99段のらせん階段を登ったあとに開ける眺望は雄大そのもの。隣接して近代灯台の歩みが分かる犬吠埼灯台資料展示館もある。灯台下の磯伝いに遊歩道が整備され、荒波が岩に砕ける豪快な海辺の散策が楽しめる犬吠埼灯台を訪れる。

銚子漁港を見下ろす高台にある全面ガラス張り、高さ57.7mのタワー。最上階からは眼下に漁船の行き交う銚子漁港や銚子の町並み、太平洋の広大な水平線が望める。1階の展示ホールでは観光情報も入手できる銚子ポートタワーを訪れる。

房総半島太平洋側を南下し九十九里浜方面に向かう。

旭市上永井公園内にある展望館。3階建ての館内には、周辺の自然が分かる資料や写真などを展示したパノラマ展望室のある、24時間利用できる半屋外展望スペースの光と風のデッキがある飯岡刑部岬展望館光と風を訪れる。

蓮沼の海岸線約4kmに沿って帯状に延びる敷地内には、変化に富んだ13のプールが楽しめる蓮沼ウォーターガーデン、森林公園、全天候型のテニスコート27面、雄大な九十九里の海を一望できる展望台、ホテル蓮沼ガーデンハウスマリーノなどがある。マウンテンコースターや日本一長いミニトレイン、公園一周のサイクリングコースなどアトラクションも充実する蓮沼海浜公園を散策する。

九十九里浜沿い17.2kmを南北に走る、通称波乗り道路。県道飯岡一宮線(九十九里ビーチライン)からつながる新一宮大橋近くを起点に、北は片貝ICまで続く。南端の一宮休憩所には、遊具施設が並ぶ広場や遊歩道、食堂、売店、展望室などもあるので、雄大な海を眺めながらのんびりひと休みできる九十九里有料道路を走行する。

豊海海岸に立つ白いビーチタワー。巻貝をモチーフに造られた海岸のシンボルで、高さ22mのタワーのらせん階段を上ると、太平洋と九十九里浜の雄大な景色が目の前に広がる九十九里ビーチタワーを訪れる。

青空に真っすぐに立つ高さ17mの塔。正式名称は日・西・墨三国交通発祥記念之碑。慶長14年(1609)、フィリピン諸島総督一行を乗せた船が岩和田沖で座礁、村人が救助に当たり、乗組員の命を救った。これを機に、スペインやメキシコとの交流が始まり、昭和3年に友好の塔として建てられた。塔が立つ高台の公園からは、御宿の町並みと海岸線を一望できるメキシコ記念塔を訪れる。

大正から昭和にかけて活躍し、御宿海岸をモチーフにした童謡『月の沙漠』を作詞した加藤まさをゆかりの品を展示している。外観は幻想的な歌に合わせてアラビア宮殿をイメージしたもの。館内には叙情画、詩、小説などの作品や、加藤氏愛用のピアノ、バイオリン、机、帽子などの遺品を展示する月の沙漠記念館を訪れる。

勝浦湾の東に突き出た、八幡岬一帯を占める公園。高台で太平洋の眺めが雄大。東・南・西の三方が海の迫る断崖になっているため、古くから天然の要害として利用された。突端にあった勝浦城落城の際には、城主・正木頼忠の娘で後に徳川家康の側室になったお万の方が、炎上する城を背に布を垂らして断崖から海に逃れたという話も伝わっている。園内には子供広場や展望広場があり、お万の方の像も立つ八幡岬公園を散策する。

千葉県立中央博物館の分館。勝浦海中公園に隣接し、房総半島の海の自然を紹介している。展示室は「房総の海」「さまざまな海の姿」「博物館をとりまく自然」「海と遊ぼう」の4コーナーに分かれ、房総の海に棲息する魚の標本や海底のジオラマを展示。海の生き物や自然を紹介したマリタイムシネマを上映のほか、野外での自然観察を主体とするイベントも数多く開催する千葉県立中央博物館分館 海の博物館を見学。

高さ24.4m、水深8mの海中に造られた展望塔。陽光に輝く太平洋の大海原や入り組んだ海岸線を一望に見渡せる海上展望室かららせん階段を下りて行くと、海中展望室。24個の窓から覗き見る海中は、神秘の世界そのもの。これまでに90種以上の魚介類が観察されており、メジナ、イシダイなどの大きな魚からスズメダイやベラなどの小さな魚まで見ることができる。また、運が良ければ大きなサメに出会うこともある勝浦海中展望塔を見学。

千葉県鴨川市の東条海岸と国道128号に挟まれて所在する大規模な総合海洋レジャーセンター博物館相当施設である。様々な生物の繁殖においても世界的な功績を残し、学術的にも存在価値の極めて高い水族館である鴨川シーワールドを見学。

鴨川漁港の南、弁天島、雀島、鵜島など大小7つの島が浮かぶ海上一帯をさす。2度にわたる津波で陸の一部が崩壊してできた島々に松が茂り、日本三景の松島にたとえられるようになった鴨川松島を訪れる。

太海海岸の目前に浮かぶ、面積約3万平方mの島。1180年(治承4)、源頼朝が戦に破れて安房に逃れた際、ここで仁右衛門に助けられたという伝説から、代々世襲の平野仁右衛門氏一戸だけが住み続けている。頼朝が一夜身を潜めたという隠れ穴、日蓮が朝日を拝したと伝わる神楽岩などの史跡が多く、夏から秋には金銀針茄子という赤色の実をつける珍しい植物も見られる仁右衛門島を訪れる。

房総半島の最南端に立つ日本で2番目に古い西洋式灯台。1866年(明治2)、フランス人技師ヴェル
ニーによって建造され、関東大震災後、1925年(大正14)に復旧された。高さ29m、光は約32km先まで届く。らせん階段を上った展望台からは、伊豆諸島までも見渡せる野島埼灯台を訪れる。

島埼灯台併設の灯台に関する資料室。展示室中央には、全長2.54m、直径1.45mの、福岡の玄界灘で使用された烏帽子島灯台のフレネル式レンズが展示されている。これは野島埼灯台の初代レンズと同サイズのものという。ミニライブラリーやミニシアターでは、日本各地の灯台の歴史を知ることができる野島埼灯台資料展示室きらりん館を見学。

城山公園山麓の本館は、原始〜江戸時代の安房の歴史と文化、里見氏の武具や書状、民俗資料などを展示。山頂にある八犬伝博物館は3層4階の天守閣を模した造りで、中世の安房国を舞台にした曲亭馬琴の大長編伝奇小説『南総里見八犬伝』をテーマに、歌川国貞の錦絵や辻村ジュサブロー作の伏姫人形などが見られる。分館の望楼からは市街や館山湾を一望出来る城山公園を散策する。

17:00館山自動車道経由して千葉蘇我インター下車、蘇我駅で総武線に乗り
19:00東京駅到達
19:20新幹線のぞみで出発
21:55新大阪到達

今回の旅行、千葉県の千葉タウンと房総半島の太平洋側の観光地を訪れる。
利根川の河口にあり、全国屈指の水揚げ量を誇り、又古くからの醤油工場があることも知られている銚子エリア。
穏やかに湾岸線が約66km続く九十九里浜の雄大な海岸風景、九十九里有料道路、九十九里ビーチラインが走る九十九里浜エリア。
千葉県南部の太平洋側に面し、大きな漁港も多く、新鮮な魚料理を楽しむことができ、又サーフィンやマリンスポーツなどのアクティビティを満喫できる外房エリア。
千葉県南部の太平洋に突き抜けた半島、温暖な気候で早春から楽しめる花スポットや新鮮な海の幸も魅力な南房エリア。
ほぼ房総半島の太平洋側の観光地を制覇しました。
次回は房総半島の東京湾側と半島中心部の内陸を攻めてみたいと思います。

今回感じたことは天候も良く、風がそこそこあり太平洋側の海岸線はビッグウエーブ、約66kmの長い海岸線の九十九里浜のみならず南房の海岸線のいたるところにサーファーが数多く出没、サーファーがこんなにたくさんいるのかと疑うほど見かけました。
海岸線にサーフアーの車の縦列駐車の台数、海辺の戯れているサーフアーの数、驚くほどの数でした。

尚外房の鴨川エリアの仁右衛門島付近で道が細い交差点、左折時、左のサイドリアフェンダーがガードレールに当たり、浅いキズがつきました。レンタカーですので修理代を請求される、あわてて近くのカーショップでコンパウンド購入、幸いキズが浅く、綺麗にキズを落とすことが出来ました。

又天候もよく、高速代の割引が影響しているのか、多くの方がレージャーに出かけ、帰りの高速自動車道は大渋滞、館山自動車道からアクアラインを経由して羽田空港から飛行機で帰る予定でしたが、渋滞でアクアラインを通過するのに2時間以上掛るとのこと、帰りの飛行機便に間に合わない、急遽館山自動車道、湾岸高速自動車道経由して遠回りで羽田に向かいましたが千葉タウン付近からの湾岸線も大渋滞、仕方なく千葉付近の蘇我インター下車してレンタカーを乗り捨てて返却し、電車の総武線に乗って羽田に向かいました。しかし帰りの飛行機便に間に合わず、結局東京駅で新幹線に変更してのぞみで大阪に向かいました。

今回の飛行機便は変更の利かない先得割引チケットでなくマイルを使っての特典航空券のため変更が可能なチケットであり次回に持ち越しで難を逃れました。
旅はいろいろとハプニング、トラブルがあるものです。これもいい思い出として受け止めることが旅を楽しむには必要、コツですね。