島根

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十九弾:島根県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年6月30日−7月1日
  

中国地方の日本海に東西細長く位置し、日本の中国地方の日本海側である山陰地方の西部をなす県。県庁所在地は松江市。離島の隠岐島、竹島なども島根県の領域に含まれる。旧国名は出雲国・石見国・隠岐国であり、現在でも出雲地方・石見地方・隠岐地方の3つの地域に区分されることが多い。全国では鳥取県に次いで2番目に人口が少ない島根県に足を運び島根県に点在する比較的マイナーなお城8か所、小京都重要伝統的建造物群保存4か所を訪れました。

6月30日18:15伊丹空港出発。
19:05出雲空港到達、レンタカーで松江市内に向かう。
19:40松江市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
7月1日7:30レンタカーで出発、お城、小京都重要伝統的建造物群保存を巡る。

松江:宍道湖に面した松江の風景はここにしかないものだ。特に松江城の天守閣に立って眺めると湖が海のように見えるためその感が強い。日本を代表する平城である「松江城」を築いたのは堀尾吉晴で、その後は松平家が十代に渡って松江を治めている。特に七代藩主の松平治郷(不昧公)は茶人としても有名で、当時の茶室の明明庵も保存公開されている。お堀に沿って武家屋敷の塀が並ぶ通りを、家老の塩見家の屋敷があったことから塩見縄手と呼んでいる。

後に「知られざる日本の面影」など数々の作品で日本を紹介した小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは、松江で英語の教鞭を取っていたころに過ごした家(元々は武家屋敷)が記念館と隣り合わせて立っている。

小泉八雲は日本では、怪談の作者として有名だが、国際的には日本の研究家として知られていた。

市内から少しだけ離れたところにある松江しんじ湖温泉は人気の温泉。

また、松江は古代出雲文化圏の中心地でもあったため、市内には山代二子塚、神魂神社などの古墳古社がある。律令時代の出雲国庁もこの地にあった。

満願寺城:満願寺城は宍道湖と日本海を繋ぐ佐蛇川の入口に面した標高27m程の丘陵に築かれている。

東麓にある満願寺の裏山が城山で、遺構は丘陵全体に拡がっていたようであるが、現在は墓地や警察学校の敷地になっている。

遺構が良好に残るのは満願寺の裏にある墓地の南、宍道湖に面した丘陵部分で高い切岸に囲まれた曲輪の北西下を横堀が巡り、そこから二条の短い竪堀が落ちている。

白鹿城:築城年代は定かではないが永禄年間(1558年〜1569年)に松田氏によって築かれたと云われる。

尼子十旗の一つで、毛利氏侵攻のときの城主松田誠保の父満久は尼子晴久の姉婿である。満久は備前国松田一族の松田満重の次男である。

永禄6年(1563年)に毛利元就による侵攻では吉川元春が真山城を向城として築き攻めたて、まず小白鹿が陥落、月山富田城の尼子義久からの援軍も撃退され落城した。 このとき、毛利元就は大森銀山の坑夫を使い地下道を掘らせて井戸を抜いたという。 誠保は落城後隠岐へ逃れ、元亀元年(1570年)布部山合戦に参加している。

新山城:平安時代に平忠度が築いたとの伝承があるが定かではない。

永禄6年(1563年)毛利元就による出雲侵攻で尼子氏の居城月山富田城の重要な支城である白鹿城を攻略するための向城として吉川元春が築いて陣を置いた。 白鹿城攻略後は真山城をこの地方の拠点とし、多賀元信を城主とした。

永禄12年(1569年)毛利氏が兵力の大半を率いて豊後大友氏との戦いに向かうと、再興をはかった尼子勝久は隠岐を経由して忠山城に入り、勝久は各地に激を飛ばして将兵を集め、真山城を落としここを本拠として出雲回復を狙う。 尼子方は月山富田城を囲んだが、天野隆重の謀略により落とすことができず、毛利方が九州から帰国すると次第におされ、元亀2年(1571年)真山城も吉川元春の攻撃により落城し、尼子勝久は織田信長を頼って落ちた。

十神山城:築城年代は定かではない。城主は松田備前守で安来荘の荘官であった。 応仁の乱では山名氏に属し月山富田城の尼子清定を攻めたが撃退され逆に十神山城は清定に攻められ落城した。

尼子氏の持城となった十神山城は尼子十砦の一つに数えられ、松尾遠江守が在城した。 毛利氏によって月山富田城が攻められ落城する頃には毛利氏部将の安芸国草津城主児玉就忠によって落城した。

勝山城:築城年代は定かではない。 古くは滝山城と呼ばれ尼子十砦の一つとして数えられ、城主は田中三良左衛門といわれる。

現在残る遺構は永禄年間(1558年〜1570年)に出雲に侵攻した毛利氏によって築かれたもので、 京羅木山城砦群とも呼ばれるように尼子氏の本城月山富田城を見下ろす京羅木山にはいくつかの陣城が築かれ、勝山城もその一つであった。

広瀬:この町は佐々木義清が雲隠の守護となって富田城に入城してから山陰地方の中心へとなっていった。1607年(慶長12年)、堀尾吉晴が移城のために松江城の築城に着手してから富田は急速に荒廃したが、1666年(寛文6年)、松平近栄によって広瀬藩が創設、再び城下町の面影を取り戻した。しかし、同年の秋、大洪水によってこれまでの富田の市街地は流されてしまう。その後、新たに富田川の西部に広瀬町の中心街となる町が建設され、名前も広瀬と改められ、現在に至る。

熊野城:熊野城は標高280mの要害山山頂に築かれている。

要害山は山頂から南と東に尾根が展開しており、熊野城もこの尾根に階段状に曲輪を展開している。東麓には「土居成」と呼ばれる屋敷地があり熊野氏の居館があった所とされている。また西麓にも「城屋敷」という地があり天野氏の屋敷跡と伝えられる。

現在山は中腹から上が酷く荒れており、密集した竹藪をかき分け何とか山頂の主郭に至ったものの、城の遺構を詳しく見て回るような状況ではなかった。東尾根から登ったので、こちらからは階段状になった曲輪群を確認できたが、南尾根に展開する曲輪群は確認していない。東側の中腹から麓近くまで非常に細かな階段状の段が展開している。

三笠城:築城年代は定かではないが牛尾氏によって築かれたと云われる。 牛尾氏は信濃国の神氏の支流中沢真直が大原郡牛尾荘を領して牛尾氏を名乗った事に始まる。尼子十旗の一つ。

その後、出雲国守護京極氏に従い、戦国時代には尼子氏の重臣となったが、尼子義久が毛利氏に降ると毛利氏に属した。

尼子勝久を大将に尼子再興軍が興ると三笠城主牛尾弾正忠は尼子方として五百騎を率いて参陣する。再興軍は出雲国へ上陸すると破竹の勢いで出雲を制圧するも、富田城を落とす事ができず、急を知って九州より毛利軍の主力が引き返してくると、それを迎え撃つべく布部山に陣を置いたが支えきれずに敗走する。牛尾弾正忠は一旦三笠城へ退き、毛利方に属していた高平城の牛尾大蔵を攻めるも、毛利氏の援軍によって逆に三笠城は落城した。

三沢城:嘉元2年(1304年)に三沢為長によって築かれたと云われる。 三沢氏は信濃豪族で木曾義仲の後裔あるいは片切氏(片桐)の分流飯島氏とする説がある。 本丸の東屋にある三沢氏の歴代当主では、後者の飯島氏を採用している。

信濃国飯島城主飯島為光は承久3年(1221年)の承久の乱で戦功を挙げ、出雲国三沢郷の新補地頭を賜った。その後、為長がはじめて三沢に来住し、三沢氏を名乗り三沢城を築いたという。

三沢氏はタタラ製鉄などで地盤を固め、為時のときに布広城を築き、信濃守為忠は横田荘へ進出、永正6年(1509年)遠江守為忠のときに藤ヶ瀬城を築いて居城を三沢から移した。しかし、享禄4年(1531年)三沢為国のとき尼子氏が背後の「桶ヶ嶺」から攻められ藤ヶ瀬城は落城、三沢氏は尼子氏に降った。

天文8年(1539年)尼子晴久が安芸国吉田郡山の毛利氏を攻めた際には、三沢為幸が従軍し、首級十三首をあげる活躍をしたが元就の馬廻から射出された矢を七本受け、元就家臣井上七郎に討ち取られた。

為幸が討死したとき嫡子為清はわずか四歳であったが、天文10年(1541年)大内義隆が尼子の富田城を攻めたときには他の出雲の国人衆と同様に大内氏に従った。しかし、富田城攻城戦のさなか、三沢氏は大内氏に降っていた出雲の国人衆と大内氏を裏切って再び尼子方となり、大内軍は敗走した。

大内義隆が陶晴賢に討たれ、その陶晴賢も毛利元就に討たれ大内氏が滅亡すると、毛利元就は尼子領へ侵攻した。三沢為清・為虎父子は毛利氏に降り、尼子氏が滅んだ後に尼子再興軍が蜂起した際も毛利氏に従って各地を転戦した。

天正17年(1589年)三沢為虎は三沢領を没収され毛利輝元に幽閉された。その後、釈放されて長門国厚狭郡に一万石の所領が与えられた。関ヶ原合戦後も毛利氏に属し、毛利秀元を当主とする長府藩が立藩されると付家老として二千七百石が与えられ、三沢氏は家老として代々続いた。

大森: 大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区は,幕府 直轄地約4万8千石,約150か村の中心の町で あった。銀山は14世紀初めに発見されたと伝えら れ,産銀量は17世紀初頭にピークをむかえ海外に も輸出された。町並みは銀山川沿いの谷間に延び る約2.8キロの範囲で,代官所跡や郷宿,武家屋 敷,商家などが現存し,背後の山裾には社寺や墓地, 石切り場なども残され,鉱山町の歴史的景観を良 好に伝えている。

温泉津: 大田市温泉津伝統的建造物群保存地区は,天然の 温泉が湧き出る港町で,中世より石見銀山の外港 として発展してきた。狭隘な谷を切り開いた約 80 0メートルの町並みは,近世の地割をよく残している。 江戸末期から昭和初期にかけて建てられた町屋を 中心に,旅館や社寺などの多様な建造物が並んで いる。それらが周囲の海や山とともに,港町・温泉 町の景観を形成している。

7月1日19:35出雲空港出発
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行中国地方の日本海に東西細長く位置する島根県に足を運び比較的マイナーなお城8か所、小京都重要伝統的建造物群保存4か所をおとずれ楽しみました。
今回のお城は山城が多く、かなり地味で案内板のみで遺残はほとんどが見受けられませんでした。
一方小京都重要伝統的建造物群保存巡りは、何回も訪れたことのある松江、松江城、小泉八雲の屋敷、武家屋敷、昔を忍ばせ感動でした。
他の重要伝統的建造物群保存巡りは中世の街並みの散策癒されました。
 













飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十弾:島根県お城・城下町巡り観光
2017年9月30日−10月1日
   

中国地方の日本海に東西細長く位置し、室町時代に京極氏が守護になると、同族の尼子氏を守護代に据え、守護代を継いだ尼子経久は戦国大名になるべく野心を見せ、京極氏にいったん役目を解かれたが、やがて力を盛り返し出雲を手中に収めた島根県に足を運び、島根県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

9月30日17:10伊丹空港出発。
17:55出雲空港到達、レンタカーで出雲市内に向かう。
18:40西出雲駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
10月7:30レンタカーで出発、お城巡り。

七尾城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に益田兼高もしくは益田兼時によって築かれたと云われる。 益田氏は一般的に藤原氏の後裔とされるが、歌人柿本人麻呂の後裔とする系図も庶流の周布氏系図として残っている。初代は御神本兼高こと益田兼高で、元暦元年(1184年)源頼朝の呼びかけに応じて一の谷の合戦に参加し、翌年の壇の浦の合戦でも戦功を挙げた。この功によって鹿足郡を除く石見国五郡を与えられ、那賀郡上府から益田に移った。

兼高が益田に居住した所は諸説あるが、上久々茂土居、大谷土居そして三宅御土居へと益田川の上流から次第に下流へと移っていったと考えられている。そしてその詰城として築かれたのがこの七尾城で、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れ防長二カ国に減封となった毛利氏に従い、長門国須佐へ移るまでの累代の居城であった。

益田氏城館:応永3年(1370年)頃に益田兼見によって築かれたと云う。
大谷土居屋敷が火災により全焼したことによって三宅の地に新たに土居が築かれた。七尾城を詰城とした平治の居館である。

浜田城:元和6年(1620年)古田重治によって築かれた。 元和5年(1619年)吉田重治が大坂の役の功によって五万四百石余を領し、伊勢国松坂より浜田へ加増転封となり元和6年(1620年)浜田城を築いて浜田藩となった。

慶安元年(1648年)浜田藩主二代古田重恒が嗣子なく没して古田氏は改易となり、播磨国山崎より(松井)松平康映が入封する。

(松井)松平氏は康映から康宦・康員・康豊・康福と五代続き、宝暦9年(1759年)松平康福のとき下総国古河へ転封となり、代わって下総国古河より本多忠敞が入封した。

本多氏は忠敞から忠盈・忠粛と三代続き、明和6年(1769年)本多忠粛のとき三河国岡崎へ転封となった。代わって三河国岡崎より(松井)松平康福が入封するが、この康福は 宝暦9年(1759年)に下総国古河へ転封となり三河国岡崎を経て再び浜田へ戻ってきている。

第二期(松井)松平氏は康福から康定・康任・康爵と四代続き、天保7年(1836年)松田康爵のとき、陸奥国棚倉へ転封となった。代わって上野国館林より(越智)松平武厚が六万一千石で入封した。

(越智)松平氏は武厚から武揚・武成・武聰と四代続いたが、慶応2年(1866年)第二次長州征伐のさい、浜田口を守備していた長州藩の大村益次郎に敗れ、浜田城を自ら焼き払って出雲国松江に逃れた。その後、武聰は飛領地であった美作国鶴田に陣屋を構えて鶴田藩として明治を迎えている。

二ツ山城:築城年代は定かではないが貞応2年(1223年)富永朝助(出羽朝祐)によって築かれたと云われる。記録に残る築城年代としては石見国では益田氏の七尾城に次ぐ古さである。

出羽氏(イズハ(ワと発音))は伴姓で祖富永祐純は近江国三上荘の荘官であったが治承4年(1180年)源頼朝の挙兵に呼応して木山義経に味方し平家に反旗を翻した。これによって石見国邑智郡久永荘に流罪となった。文治元年(1185年)壇ノ浦合戦で平家は滅亡し、佐々木定綱が石見国守護に補任されたこともあって荘園別当和田氏とともに瑞穂・石見町の支配することとなった。

南北朝時代には出羽氏は北朝方として各地を転戦した。康安元年・正平16年(1361年)阿須那の藤掛城主高橋師光・貞光父子は足利直冬の要請によって南朝方となり、北朝方の出羽氏を攻めた。高橋氏はもともと備中国高梁を領し、北朝方として高師直に従っていたが、高師直の失脚によって阿須那に転封となっていた。高橋氏の出羽侵攻は半年余り続き、出羽実祐は次第におされ二ツ山城に押し込められると高橋氏は火を放って山を焼き尽くしたという。実祐は火中で自刃して果てたが、嫡子祐忠は地頭所城に籠って佐波氏からの攻撃を退けた。

二ツ山城を落とした高橋氏は本城を築いて居城とし、その後、安芸国・備後国にも勢力を拡げている。出羽氏は横領された出羽郷の旧領回復を執拗に嘆願していたが、明徳3年(1392年)大内義弘によって南北朝の統一がなされ、高橋氏は出羽郷七百貫のうち二百五十貫の領地を出羽氏に返還することで和議が調い、出羽氏は出羽郷の宇山城に居城した。
戦国時代になると台頭してきた安芸国の毛利元就に接近し、享禄3年(1530年)高橋氏が毛利元就によって滅ぼされると出羽郷の旧領を回復した。この時、本城は破却されたが、宇山城から二ツ山城に居城を移したかどうかは定かではない。

出羽元祐(元実)は嗣子として毛利元就の六男鶴法師丸を迎え、元服して出羽元倶と名乗ったが、元亀2年(1571年)僅か十七歳で早世した。家督は元祐の実子元勝が継いだ。この元勝は天正17年(1589年)従五位下出雲守に叙任され豊臣姓を賜わっている。天正19年(1591年)出羽氏は出雲国頓原の由岐に転封となった。

慶長5年(1600年)毛利氏が関ヶ原合戦で防長二ヶ国に減封となると、出羽氏もそれに従って移り、御手廻組と大組(元勝の子元智を祖とする)の二家存続した。

福光城:築城年代は定かではない。はじめ福光氏の居城であったと云われる。

永禄2年(1559年)石見に侵攻して温湯城の小笠原長雄を降した毛利元就は、吉川経安に福光氏の所領を与えた。これを機に吉川経安は福光城を改修して殿村城から居城を移した。

永禄4年(1561年)本明城の福屋隆兼が毛利元就に叛いて挙兵し、福光城の吉川氏を攻めたが、これを撃退している。

天正9年(1581年)織田信長の家臣羽柴秀吉が因幡国鳥取城を攻めたとき、信長に降ろうとした城主の山名豊国を家臣の森下道誉と中村春続が追放した。森下と中村は吉川元春に支援を要請、これに応じて吉川経安の子、吉川経家が鳥取城へと派遣された。鳥取城に籠城した経家は兵糧がなくなるまで織田軍に抵抗し、最後は城兵の解放を条件として自身が切腹し開城した。

その後は経家の子経実が城主となったが、毛利氏が関ヶ原合戦に敗れ、防長二カ国に減封となると、経実は吉川広家の家老として周防国岩国へ移り廃城となった。

鵜の丸城:元亀2年(1571年)毛利元就によって築かれた。 山陰側の毛利水軍の拠点として築かれたもので、都野氏に在番を命じている。

山吹城:延慶2年(1309年)大内弘幸によって築かれたと云われる。

銀山争奪のため、大内・尼子・毛利氏によって激しく争奪戦が行われたが最終的には毛利氏の所有となっり、江戸時代には天領となって廃城となった。

高瀬城:築城年代は定かではない。 南北朝時代に建部伊賀が築いたとの伝承もあるが、今残る形状は戦国時代に米原氏によって築かれたものと思われる。尼子十旗の一つ。
米原氏は近江国坂田郡米原郷の発祥で、佐々木六角氏の支流といわれ、出雲国守護代となった尼子氏の被官として下向したものであるが、その年代については定かではない。
永禄5年(1562年)米原綱寛のとき毛利氏に降り、毛利氏に従って豊後大友氏との戦いに従軍していたが、永禄12年(1569年)尼子勝久が再興をはかり出雲に入国すると帰国し尼子方へ復帰した。
しかし毛利氏によって尼子再興軍も次第に勢力を削がれ、高瀬城と 真山城を残すのみとなったが、元亀2年(1571年)3月高瀬城は落城し、綱寛は真山城へと逃れその真山城も同年8月落城した。
この後は吉川元春が入城し尼子再興軍一掃の拠点となったが、尼子氏が滅亡すると廃城となった。

三刀屋城:築城年代は定かではないが三刀屋氏によって築かれた。尼子十旗の一つ。
三刀屋氏は清和源氏満快流で承久3年(1221年)諏訪部扶長が出雲国三刀屋郷の地頭職を得て、16代為扶の時に三刀屋氏を名乗った。 この時居城として築かれたのがじゃ山城(石丸城)であり、その支城として築かれたのが現在の三刀屋城(城山)で、戦国時代にじゃ山城(石丸城)から三刀屋城(城山)に本拠を移したといわれる。
天文11年(1542年)周防大内氏が出雲の国人衆を率いて出雲に侵攻すると、三刀屋氏もこれに降り、尼子氏の居城月山富田城へと侵攻する。 しかし出雲国人衆は尼子氏に再び寝返り大内氏は嫡子義房を水死させる大敗を喫した。
永禄5年(1562年)毛利氏が出雲に侵攻するとこれに降り、以後毛利氏に属して各地で転戦したが、天正16年(1588年)に上洛したさい徳川家康と面会したため毛利輝元から疑われ領地を没収される。

16:00終了、出雲空港に向かう。
16:30出雲空港到達。
18:25出雲空港出発
19:15伊丹空港到達。

今回の旅行、中国地方の日本海に面してに位置する島根県に足を運び、島根県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。
比較的案内板がしっかりしていてスムーズに訪れることができました。
今回は出雲より西に点在するお城を訪れました。次回は東方面を訪れたいと思います。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十六弾:島根県中国三十三所観音巡礼観光
2017年4月1−20日
  

中国地方の島根県に足を運び山陽路から山陰路へとつづく中国三十三所観音霊場、島根県に点在する7か所を訪れました。

1日17:10伊丹空港出発
17:55出雲空港到達、レンタカーで出雲市内に向かう。
18:30西出雲駅前のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

鰐淵寺:浮浪滝を中心とした修験信仰、持統天皇6年(692)に当たる壬辰年在銘の重文・青銅観音菩薩像が示すような観音信仰、ならびに智春上人の滝の行験に期待する薬師信仰の三つから生じた寺で、奈良時代に開創されましたが、平安に入り伝教大師が比叡山に天台宗を開かれますと、第三代天台座主慈覚大師が山陰に足跡を印された折、天台の教義の下に第一番にはせ参じ、天台宗最初の末寺となりました。
 後、出雲大社や比叡山横川(よかわ)三昧院、無動寺との関係を深め、鎌倉時代には、武家との関係を密にし、出雲大社との習合を確立・推進し、別当寺を務めました。又、この頃、南院と北院との存在も伝わります。
  頼源(らいげん)は後醍醐天皇に尽くし、栄芸は毛利元就との親交を深め、本堂再建を輝元の代に完成させました。又、有名な弁慶も当寺で修行し、いまも『弁慶まつり』『弁慶ウォ―ク』として残り、八百屋お七もねむっております。この他、寺との関係のある名僧・武将は数多くその名を残しております。

一畑薬師:出雲神話の国引きで名高い島根半島の中心部、標高三百メートルの一畑山上にあります。「目のお薬師様」として古くから全国的な信仰の広がりをもち、千三百段余りの石段(参道)も有名です。現在は車で簡単に上がれます。山上からの眺めは絶景で、宍道湖を眼下に、東に大山、西に三瓶山を始めとする中国山地の山々を一望できます。静かで眺めの良い宿泊施設(コテージ)もあります。
  お寺の宗派は禅宗(臨済宗)、一畑薬師教団の総本山です。本尊の薬師如来は、平安時代894年に日本海から引き上げられ、眼病、諸病平癒、子供の無事成長はじめ、諸願に霊験あらたかとして篤く信仰されています。全国におよそ50の分霊所、年間数十万人余りの参拝があります。観音堂は、本堂の右側の大きなお堂です。瑠璃観世音菩薩をおまつりし、中国観音霊場の他出雲観音霊場の特別札所となっています。日々のご祈念、例月祭、坐禅会、団体研修、茶会、奉納音楽祭など年間を通じてさまざまな行事があります。

神門寺:出雲大社との係わりに於ても、又、中世時代、山陰地方随一の寺院であったことなど未知のロマンを今も秘めたままになっている。名残りらしきものは欅の巨木の森に囲まれた広大な寺域に垣間見ることができる。
開山が宋肇菩薩、二世は伝教大師、三世が弘法大師である。いかに当時隆盛していたことを物語るもので、弘法大師がこの神門寺から「いろは四十八文字」を四方に弘めたれたということから神門寺ではこの仮名文字の御真筆を現在も収蔵している。
 御本尊は行基菩薩のご自作と伝えられる阿弥陀如来で、法嗣は永く密教を厳修していたが、三十八世良空上人が法然上人の専修念仏に帰依して上洛し、七条の袈裟と六字名号を授かって帰り、山陰地方の念仏弘通の霊場となった。観音堂には慈覚大師作と思われる平安初期の秘仏十一面観世音菩薩像が祀られている。

禅定寺:斐伊川堤から三刀屋町に入る道と国道九号線から宍道町より国道五十四号線を三刀屋に向かう何れかの道にしても三刀屋の町を過ぎて約3km入ったところに鍋山の集落があり、そこから出雲市へ出る道路を2km位入った所に参道入口がある。そして約5〇〇m馬場を登ると山門につく。峻しい山の自然が随所にあり登山は苦しい事もある。しかし、今では車で山門下まで入る事が出来て案ずる事はない。
  山寺が創建された深遠な事は、密教思想の根本でもある、苦行修練の精心を説いたもので、苦難の道に菩提心を養う事が信仰の世界といえる。こうした聖地に建立された寺の山号・寺名についても四方の景観により慶びを迎える山であるというところから慶向山と号し、又禅定三昧に適した所であるところから禅定寺と名づけられた由。
  庫裡の畳の上から中国山脈の連山を眺める時、数10kmの山並は静かに眠る「おろち」のようで四季にはそれぞれの姿を見せてくれる。雄大にして、繊細なその表情は、自然の豊かさを教えてくれる

多陀寺:奇岩と白砂が交互に繰り返し広がる山陰海岸・石見路、その中核の街が「浜田」であり、中世には大陸貿易の主要港として栄えた街である。その浜田、否、石見路を代表する屈指の古刹が多陀寺である。寺は県立自然公園の浜田海岸や天然記念物の石見畳ヶ浦の絶景が一望できる小高い山上に位置する。
  多陀寺開山の流世上人は空海と相弟子で、共に唐に留学僧として渡り、恵果阿闍梨より密法の直伝を受け、空海より2年早く帰国(806年)、諸国を遊歴しながらの上洛の途次、この地での奇瑞を感得し、唐より持帰った金色観音像を安置したのが始まりと、縁起を伝える。
  山陰海岸の落日風景は、えも言われぬ美しさ、荘厳さは定評があり、仏教信者には将に、夕陽の沈む大海原に西方浄土の光芒を見る想いであったろう。
  参道は急な石段からと、山腹を迂回した自動車道がある。仁王門の傍には天然記念物の大楠が天に聳えるのが印象深い。また、珍しい流木仏60余体を蔵していることでも広く知られている。

清水寺:山陰唯一の多宝塔、中海圏の観光名勝古刹静かにうねる中海から南にわずか2km、海抜50m余りの小さな山の谷間にたたずむ清水寺は、東には霊峰大山を望み、西には八雲の峰峰が連なる景勝の地、安来節の故郷、安来市に位置する。
 用命天皇2年の開基で、1400年の法灯を有する山陰随一の観音霊場である。
 根本堂は明徳4年の建立で600余年の歳月を有し、御本尊は推古天皇感得の厄除けの観音様である。
  初詣、厄年のお払い、節分の星祭り、春の還誕祭、夏の御開扉法要、秋の光明真言会、師走の大梵焼祭、そして、毎月17日の観音様御縁日には朝から香煙のたえ間ない、天台密教の祈願道場である。
  又、境内の奥に高くそびえる三重塔は山陰唯一の多寶塔で、登ることができる塔は全国でも珍しい。更に光明閣の書院庭園、重文の佛像他寺宝を収めた宝蔵と、豊かな自然とよく調和した堂舎は中海圏の観光要所として、参拝者のたえることなし。

雲樹寺:中海に面した安来港は、伯太川の河口が発達し、地場産業の積み出し場所として賑わいました。また西回り航路の寄港地として古くから栄えていましたが、松江藩では東の入口に位置したことからも警備も厳しく、番所、制札場などが設けられていました。
  その安来港から伯太川をさかのぼって千代富橋を過ぎ、堤を下ると、左側に臨済宗妙心寺派の名刹・雲樹寺の参道が見えます。拈華微笑仏を本尊とするこの寺は、後醍醐・後村上両朝の勅願寺でした。
  松並木の参道に入ると辺りは水田で、中程にある四脚門を通り、石門を抜けると左に広がる境内に、山門、仏殿、方丈、と伽藍が一直線に並んでいます。禅宗様式と呼ばれる構えで、地方寺院には珍しい貴重なものです。大門から先の繁みには「酒だち地蔵」の祠があります。山門のすぐ脇にある観音堂には、親称「子授け観音」が祀られており、諸願成就と共に、古来より多くの信仰を集めています。
  方丈の背面の山には枯山水形式の禅宗庭園があり、巡拝者の心を和ませてくれます。


16:00終了、出雲空港に向かう。
17:00出雲空港到達。
18:25出雲空港出発
19:15伊丹空港到達。

今回の旅行、中国地方の島根県に足を運び島根県に点在する中国三十三所観音の7か所を訪れ楽しみました。
いずれも立派な霊場で、門から建物までたどり着くのが遠くて時間がかかるところが多く、規模の大きい霊場が目白押しでした。
残るは広島県の霊場のみとなりました。次回訪れたいと思います。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百三十五弾:奥出雲おろち号トロッコ観光
2015年11月7ー8日

中国地方の島根県に足を運び、ヤマタノオロチ神話ゆかりの斐伊川に沿って中国山地に向かうJR木次線。その沿線の大自然の中を駆け抜けるトロッコ列車は、窓の部分が大きく取り払われて開放感がいっぱい。新緑から紅葉の季節まで、中国山地の雄大な景色を満喫できる奥出雲おろち号を乗車しました。

7日15:30伊丹空港出発
16:25出雲空港到達、シャトルバスで出雲駅に向かう。
17:20出雲駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
8日8:45出雲駅奥出雲おろち号で出発
12:24備後落合駅到達
14:34備後落合駅出発
15:58新見駅到達
16:36新見駅特急やくもで出発
17:38岡山駅到達
17:49岡山駅新幹線のぞみで出発
18:42新大阪駅到達。

今回の旅行、島根県の出雲に足を運び、奥出雲のエリアを走行する奥出雲おろち号に乗車し車窓から中国山地に向かうJR木次線、その沿線の大自然の中を紅葉シーズンの風景を望みながらトロッコ電車を楽しみました。

 




  
飛行機で国内&海外の観光地巡り第百五十四弾:島根県出雲観光
2011年8月6−7日


中国地方の日本海に面した東西に細長い島根県に足を運び、縁結びなどむすびの神として知られる大国生命を祭る出雲大社、歌舞伎の祖・出雲阿国の伝承も残り、出雲そばの店が立ち並ぶことで知られ、ぜんざいが新たな名物として登場した出雲を訪れました。

6日13:52新大阪のぞみで出発
14:39岡山駅到達
15:05岡山駅やくもで出発、出雲に向かう。
18:00出雲手前の信号の故障でやくも松江どまり、松江下車、レンタカーで出雲に向かう。
17:30出雲駅付近のホテル到達、近くのレストランで食事を済ませて就寝。

7日6:00レンタカーで出発、出雲エリア巡る。

四隅突出型墳丘墓6基を中心に、27基が点在する墳墓群。全国的にも弥生時代最大級で、国の史跡に指定。史跡公園として整備されている西谷墳墓群史跡公園「出雲弥生の森」を訪れる。

1984年(昭和59)に358本の銅剣、その翌年には銅鐸・銅予が出土。大量の銅剣・銅鐸・銅予が整然と並んだ様子など、発見当時の状態を地表面に再現している。出土品はすべて国宝に指定。出雲地方の勢力を物語る重要な遺跡として注目されている荒神谷遺跡を散策する。

出雲地方の豪農山本家の蔵を利用した資料館。地元で実際に使われたものを中心に、全国から農具、陶磁器などを集めて展示している。老松の美しい庭の入口に立つ長屋門は約260年前の建築。簡素な美しさが漂う母屋には、現在も山本家が居住している出雲民芸館を訪れる。

ゆっくりとくつろげる芝生広場、年中満開の花でいっぱいのガラス室、様々な種類の草花が楽しめる花壇広場の他にハーブ園や水辺、子ども広場などがあり、家族連れで楽しめる。また、季節に応じたイベントや展示会も開催しているしまね花の郷を訪れる。

神戸川の渓谷沿いに約1kmに渡り高さ100〜150mの奇岩がそそり立ち、老松が点景を添える。そのほぼ中央に立久恵薬師で知られる霊光寺や五百羅漢像がある立久恵峡を訪れる。

須佐之男命、稲田姫命らを祭る。縁結びはもちろん、家内安全や子孫繁栄などご利益は数多い。『出雲國風土記』で、須佐之男命が「我名を岩木にはつけず土地につける」と語ったのが「須佐」の名の由来の須佐神社を訪れる。

出雲大社方面に向かう。

1990年、JR大社線の廃止とともに、惜しまれながら役割を終えた駅舎を保存・公開している。1924年(大正13)建築。外観は神社風の造り、内部にはシャンデリアがそのまま保存されており、和洋折衷の不思議な魅力にあふれている旧JR大社駅舎を訪れる。

謎とロマンに満ちた古代出雲が中心テーマの博物館。展示室は、島根を舞台にした神話や伝承を紹介する「神話回廊」、古代から現代に至る島根の人々の生活と交流の姿を紹介する「総合展示室」、「出雲大社と神々の国のまつり」「出雲國風土記の世界」「青銅器と金色の大刀」の3部による「テーマ別展示室」、及び「特別展示室」で構成。館内にはほかに、ミュージアムショップやカフェ、情報交流室などがあり、緑豊かな敷地内に体験工房、体験水田なども設置。ここでは、古代出雲の繁栄を示す、驚異の「数」に注目の島根県立古代出雲歴史博物館を見学。

古代より縁結びの神として崇められてきた古社。松並木の参道の奥には本殿をはじめ、拝殿や彰古館などが立ち並び、荘厳な雰囲気をたたえている出雲大社を散策する。

出雲大社域入口に立つ木の鳥居から境内へ一直線に続く参道。両側からおおいかぶさるように続く松並木は、寛永年間(1624〜44)に奉納されたものの松の馬場[出雲大社]を訪れる。

出雲大社内の総檜造りの拝殿は1959年(昭和34)の再建。巨大な注連縄は周囲4m、長さ8m、重さ1.5トン。「二拝、四拍、一拝」が参拝の流儀なのは、「しあわせ」を願う心からともいわれている拝殿[出雲大社]を訪れる。

出雲大社拝殿に向かって右手脇にあるコンクリート製の建物で、1階は一般参拝者の休憩室・祈祷受付所、2階が宝物殿になっている。収蔵されている社宝の中には、蝶貝を施した美しい秋野鹿蒔絵手箱(国宝)、足利義政寄進の赤糸威肩白鎧兜大袖付(重要文化財)、硬玉・勾玉(重要文化財)など、数々の文化財が含まれる神こ殿[出雲大社]を訪れる。

出雲大社本殿を囲む瑞垣の外側左右に一列に並ぶ細長い建物。旧暦10月に日本中から出雲に集まってくる神々のための宿舎のひとつといわれる。そのため神無月を出雲では神在月と呼ぶ。創建は寛文年間(1661〜73)で、現在あるのは1748年(延享5)の造営の東西十九社[出雲大社]を訪れる。

出雲大社内にある、玉垣内に鎮座する大社造の大建築(国宝)。現在の本殿は1744年(延亨元)、造替されたもので、垂直に切られた千木が印象的だ。御祭神は大国主大神を主祭神に、ほか5神。現在の高さ24mは他の追随を許さない規模だが、2000年4月、巨木3本を束ねた直径3mにもなる柱が境内から出土。伝承どおり、かつては現在の2倍近い48m前後の壮大な高層神殿だった可能性が高まった本殿[出雲大社]を訪れる。

出雲大社十九社の奥で木立に守られるようにたたずむ宝物館。大小の大国様、恵比寿様がずらりと並ぶほか、神楽用の笙やひちりきなどの楽器類、神社に伝わる古文書類も多数展示。建物は1914年(大正3)に出雲大社全体の宝物館として造られたもので、趣がある彰古館[出雲大社]を訪れる。

出雲大社の西十九社と庁舎の間の門を出ると、巨大な神楽殿が立つ広場がある。ここは神楽や古式の儀式が行われる場所となる。なんといっても目をひくのが注連縄。長さ13m、太さ8m、重さ6トンと日本一のスケールを誇る神楽殿[出雲大社]を訪れる。

大きな幟を掲げた山車を引いて町内を練り歩く、吉兆さんと番内祭りをテーマにした文化施設。吉兆神事をメインに、大社町の文化や伝統、自然を資料展示などで紹介している。道の駅ご縁広場に併設。中国人水墨画家・王子江氏が作成した、高さ1.8m、延長46.5mの水墨画「出雲勝境図」も展示され又高さ48mだったという平安時代の御本殿を10分の1サイズで復元した古代御本殿復元模型を展示。松江工業高校建築科の生徒の製作で、細部まで忠実に復元している。ほかに、現在の瑞垣内の模型などもある吉兆館を訪れる。

大社町で代々造り酒屋を営んできた旧家、手錢家に伝わるさまざまな美術骨董を紹介する美術資料館。江戸時代建築の酒蔵を利用した常設展示室には、出雲地方の窯元・楽山焼や布志名焼、小島漆壺斎の漆器など、約500点に及ぶ美術工芸品や民具を展示。明治時代の婚礼用具などもある手錢記念館を訪れる。

高天原から降った建御雷命が砂に太刀を逆さに立て、大国主神に国譲りの談判をしたといわれる浜。旧暦10月の神在月には、全国の神々がこの浜から上陸するといわれ、神迎えの神事が行われる。夏は海水浴客で賑わう稲佐の浜を訪れる。日御碕方面に向かう。

海辺の濃い樹叢を背に丹塗りがひときわ鮮やかな社殿は、幕命を受けた松江藩により1644年(寛永21)に造営されたもの。楼門を入ると、天照大神を祭る正面の下の宮と、須佐之男命を祭る右手上の上の宮とに分かれており、ともに本殿と拝殿が続いた権現造。楼門や回廊を含む華麗な14棟が国の重要文化財に指定されている。内部には狩野・土佐両派の手になる絢爛豪華な壁画が描かれ、例大祭の8月7日に1時間だけ公開される。旧暦1月5日の和布刈神事は、この神社に伝わる勇壮な神事の日御碕神社を訪れる。

高さ43.65m、海面からの高さは63.3m。39kmに及ぶ光達距離で海上の安全を守っている。完成したのは1903年(明治36)。断崖の上にすっきりと立つ姿がたいへん美しい。内部も見学でき、らせん階段を上り詰めた最上階からは360度のパノラマが広がり、空気の澄んだ日には隠岐の島影も見える。特に夕暮れ時がすばらしい出雲日御碕灯台を訪れる。

島根半島宍道湖方面に向かう。

江戸〜明治期に木綿流通の市場町として栄えた平田。船川運河沿いの、この街道には切妻塗壁の町家が数多く残る。18世紀中ごろの建築という旧地主屋敷の本石橋邸などは内部見学も可。町家を改装した出雲市立木綿街道交流館もある木綿街道を訪れる。

県内の汽水・淡水域に生息する生き物約180種9000点を紹介。全長18mの河川水槽や宍道湖畔を再現したジオラマ水槽、タッチプールなどを巡りながら、その生態を観察できる島根県立宍道湖自然館ゴビウスを見学。

宍道湖を一望する標高約300mの一畑山の上に立つこの寺は、眼病平癒の神として全国的に名高い。起源は894年(寛平6)、地元の漁師が海中から引き上げた薬師如来像を祀ったことに始まる。広大な境内には、本堂、法堂、観音堂などが点在し、1300段の石段も有名。また、宍道湖を借景に取り入れた雄大な庭園を拝観できる一畑寺(一畑薬師)を訪れる。

淡水と海水の入り交じる汽水湖。周囲45kmと日本で7番目の大きさ。シラウオやシジミなど宍道湖七珍に代表される魚介の宝庫で、早朝はシジミ漁の船が見られる。湖畔には名所が点在。夕日が美しく、島根県立美術館から袖師町までの湖岸が格好の夕日スポットとなっている宍道湖の北岸を走行する。。

宍道湖に面した世界最大級の花と鳥の公園。水鳥、熱帯の鳥の2つの温室はじめ、園内各所で世界の鳥とふれあえる。数千種類のベゴニアが年中咲き誇る室内ガーデンも必見の松江フォーゲルパークを訪れる。

宍道湖を一望できる丘陵地に整備された公園。まるでピラミッドのような古曽志大谷1号墳の移築復元をはじめ、各種整備された遺跡や野外展示広場などで構成されている古墳の丘古曽志公園を散策する。

フォーマルガーデンでは、直線で区切った形に植えられた植物やパーゴラの中庭などを散策。一方、自然の風景を生かしたインフォーマルガーデンでは、一見無造作に植栽された植物が自然の美しさを演出している松江イングリッシュガーデンを散策する。

近世には出雲10郡のうち島根、秋鹿、盾縫、意宇の3郡半を支配。事実上出雲大社に次ぐ、二の宮として勢力を誇っていた古社。本殿(重要文化財)は、大社造が3殿並立する珍しいもの。現在の建物は1807年(文化4)の建築だが、貞享年間(1684〜87)以前の様式を引き継いでいる。平安時代末期の彩絵桧扇や室町時代の甲冑、4点の重要文化財など数多くの美術工芸品を所蔵。11月20〜25日の神在祭と9月24日の御座替神事が名高く、特に御座替神事の翌日に奉納される佐陀神能は、神楽と能を融合させた珍しいものとして国の重要無形民俗文化財に指定されている佐太神社を訪れる。

美保方面に向かう。

『出雲国風土記』にも登場する古社。祭神は、三穂津姫尊と事代主神。大漁・海上安全・商売繁盛の神として信仰されている。重要文化財指定の本殿は、檜皮葺き・大社造の社殿を2つ並べて装束の間でつないだ、美保造(または比翼大社造)とよばれる珍しい様式。現在の本殿は1813年(文化10)の再建だが、古い様式を伝えている。青柴垣神事(4月7日)、諸手船神事(12月3日)はこの神社の代表的な祭礼の美保神社を訪れる。

島根半島先端の地蔵崎に立つ、山陰最古の石造灯台。1898年(明治31)建築。灯台として全国で初めて国の登録有形文化財に指定。「世界灯台100選」にも選定されている。岬のかなたには、事代主命が釣りをしたという地御前島や、沖御前島の浮かぶ日本海が広がる。食事や喫茶のほか、土産物の販売もする「美保関観光ビュッフェ」隣接する美保関灯台を訪れる。

15:30松江に向かう。
16:20松江到達。
16:56松江駅やくもで出発。
19:36岡山駅到達。
19:56岡山駅のぞみで出発
20:35新大阪到達。

今回の旅行、中国地方日本海に面した東西横長の島根県に足を運び、縁結びなどむすびの神として知られる大国生命を祭る出雲大社、歌舞伎の祖・出雲阿国の伝承も残り、出雲そばの店が立ち並ぶことで知られ、ぜんざいが新たな名物として登場した出雲を訪れ、一泊二日のドライブ観光楽しめました。

今回で4回目の島根県の訪れ、隠岐、石見銀山、松江、出雲、津和野の有名どころを含めてほぼ制覇できました。

なかなかメジャーな名所が目白押しの島根県ドライブ観光でした。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十二弾:島根県津和野&益田&浜田観光
2011年5月7日ー8日


中国地方島根県に足を運び、山口県との県境、津和野川に沿って細長く開けた山間の城下町、山陰の小京都と呼ばれる白壁と赤瓦の家並みが続き、風情たっぷり、史跡や美術館、文豪や芸術家ゆかりの名所が点在する津和野、古くから石見地方の中心として栄え、万葉歌人・柿本人麻呂と画僧・雪舟ゆかりの地の益田、天然の良港に恵まれた立地は、山陰有数の漁港として活気に溢れ、 天然記念物に指定されている石見畳ヶ浦、海洋館AQUASなど、観光レジャーにも最適の浜田を訪れました。

7日13:09新大阪新幹線のぞみで出発
14:30広島駅到達、レンタカーで津和野に向かう。
16:00津和野到達。

手回し式の計算機や、写真機、蓄音機など、明治〜昭和初期の各時代を物語る生活道具を展示する資料館。ほとんどの展示物が自由にさわれ、実際に使えるダイヤル式公衆電話もある津和野今昔館を訪れる。

森鴎外旧宅に隣接して立つ記念館。軍医であり、文学者でもあった鴎外の生涯を、遺品や直筆の原稿、ハイビジョン映像などで紹介している。鴎外は、幼くして『論語』や『孟子』を学び、天才少年の誉れ高かった。7歳から2年間、養老館で学び、10歳で上京し、その後、鴎外は陸軍軍医となり総監に就任。そのかたわら『舞姫』『山椒大夫』『阿部一族』など多くの小説を著した。鴎外が妻や子どもたちに宛てた書簡や、日記も展示されており、家族思いの鴎外という一面も垣間見ることができる森鴎外記念館を見学。

明治の文豪・森鴎外が1862年(文久2)に生まれ、10歳まで過ごした家。父は藩の御典医で、玄関から入って左の3畳間が父の調剤室。その奥の4畳半が鴎外の勉強部屋だったという。1909年(明治42)に発表された『ヰタ・セクスアリス』の中に「このへんは屋敷町で、春になっても柳も見えねば桜も見えない」と書いているのはこの家のことだ。前庭に鴎外の詩『釦鈕』を佐藤春夫の筆で刻んだ碑が立つ森鴎外旧宅を訪れる。

城山の南西麓にある津和野城の鎮守社。建物が一直線上に並ぶ山口独特の神社形式で、社殿は1568年(永禄11)の再建。楼門、本殿とも室町から桃山期の特徴が見られる。境内には鎌倉の鶴岡八幡宮を模した、わが国で唯一原形を留める流鏑馬馬場があり、4月に流鏑馬が行われる鷲原八幡宮を訪れる。

1829年(文政12)、津和野藩の医師の家に生まれ、わが国に西洋哲学を初めて紹介した哲学者。ペリー来航に触発されてオランダに留学し、法学と西洋哲学を学び帰国した。帰国後は15代将軍慶喜の政治顧問を務め、維新後は陸軍・文部・内務省の官僚を歴任。山県有朋のもとで明治憲法の草案作成に関わるなど、多方面で活躍した。森鴎外の森家とは親戚にあたり、家も近い。旧居は津和野川をはさんで鴎外旧宅と相対して立つ。1854年(安政元)再建の茅葺きの母屋と、周の勉強部屋があったという土蔵はともに史跡に指定の西周旧居を訪れる。

「三本松城」「蕗城」ともよばれる津和野城は、鎌倉時代に吉見頼行が30年かけて築城した山城。当時は土塁だけであったが1601年(慶長6)に入城した坂崎出羽守が石垣を築き、出丸として織部丸を増築するなど強化に努め、亀井氏に受け継がれた。建物は1874年(明治7)に取り壊され、現在は東門、天守台、出丸などの石垣が往時の堅固な城の面影を伝え、史跡に指定されている。一帯は木々に覆われて散策によく、秋はモミジの紅葉が美しい津和野城跡を近くで眺望する。

1773年(安永2年)、津和野藩主7代亀井矩貞公が京都の伏見稲荷大神を勧請したもので、日本五大稲荷のひとつ。稲成とあるのは、大願成就の意味が込められているためといい、商売繁盛・開運・厄除け・福徳円満のご利益を求めて多くの参詣者が訪れる。山腹には成就御礼と御祈願のために奉納された約1000本の鳥居が九十九折れのトンネルとなり、朱塗りの社殿とともに美しい景観を造り出している太皷谷稲成神社を訪れる。

津和野独特の赤瓦と白壁が美しい、江戸時代の筆頭庄屋の屋敷を修復した個人美術館。館内には津和野出身の山岳画家・中尾彰と夫人の吉浦摩耶の作品を展示している。太い梁が組まれた民芸調の広い展示室には中尾の連作『林の女人たち』、吉浦の200号の大作『セーヌの女たち』などが並び、スペインの画家、ゴヤの銅版画『闘牛シリーズ』も見られる杜塾美術館を訪れる。

津和野の縄文時代〜現代の歴史資料、約1000点を展示している。特に旧藩政時代〜近代の資料が充実しており、藩校養老館の教科書や武芸書、西周がオランダで買い求めたという顕微鏡など、歴史を物語る資料が揃う。国の登録有形文化財の津和野町郷土館を訪れる。

1420年(応永27)に津和野城主吉見頼弘が創建した、歴代津和野城主の菩提寺。江戸時代は曹洞宗の永平寺本山として栄えた。どっしりとした茅葺き屋根の本堂や経蔵、書院などの建物は、1720年(享保14)に再建されたもの。山門にかかる「覚皇山」の額は、明の帰化僧で水戸光圀に迎えられた心越禅師の書。山門左手に森鴎外、本堂裏には大坂夏の陣で徳川家康の孫娘千姫を救出した坂崎出羽守の墓がある永明寺を訪れる。

津和野駅の西、乙女峠に立つ小さな聖堂。1868年(明治元)新政府はキリスト教を禁じ、長崎県浦上の隠れキリシタン3600人余を全国20ヵ所に流罪とし、拷問により改宗を強制した。このうち153人が乙女峠の光琳寺跡に収容され、36人が殉教した。彼らの霊を慰めるため、1951年(昭和26)にドイツ人神父ネーベルが建てたのがこの聖堂だ。堂内には殉教者を描いたステンドグラスがはめこまれている。5月3日には乙女峠まつりが行われる乙女峠マリア聖堂を訪れる。

17:30津和野駅付近のホテル到着後、津和野を散策。

津和野町出身の画家、安野光雅の美術館。漆喰の白壁に瓦を葺いた酒蔵のような外観が目印。館内は展示室のほか、昭和初期の学校の教室を再現した「昔の教室」や、安野作品をはじめとした絵本、美術書を自由に閲覧できる図書室などがある。壮大な宇宙空間や、津和野の四季の夜空を映し出すプラネタリウムも設置。また、自宅のアトリエもそのまま再現されており、ファン必見のポイントとなっている。玄関ロビーの壁面には、安野氏デザインの魔方陣タイルで装飾されている津和野町立安野光雅美術館の前で記念撮影。

津和野には掘割の水を庭に引き込んでいる家が多い。なかでもここの店は裏の池に300尾もの錦鯉や真鯉を飼っており、「鯉の米屋」とよばれている吉永米穀店を訪れる。

浮世絵師・葛飾北斎とその門下生たちの版画、版本、肉筆画約1000点を収蔵する。ほぼ1カ月ごとに作品の一部を展示替えしており、『北斎漫画』や、代表作『冨嶽[ふがく]三十六景』など貴重な作品が並ぶ葛飾北斎美術館を訪れる。

乙女峠のキリシタン迫害の悲劇を繰り返さないようにと1931年(昭和6)、ドイツ人シェーファー神父が建てた教会。重厚なゴシック建築だが、礼拝堂内部は教会には珍しい畳敷きで、色鮮やかなステンドグラスが印象的だ。隣接する乙女峠展示室では、カトリックの殉教に関する歴史資料を展示している津和野カトリック教会を訪れる。

白壁と格子窓の残る藩校跡や武家屋敷門が立ち並び、掘割には町のシンボルである鯉が戯れ遊ぶ。これらの鯉は、もともと江戸時代に飢餓のための非常食用として飼われていたものの殿町通りを通過する。

亀井家8代矩賢が1786年(天明6)に創設し、西周や森鴎外など多くの人材を輩出した藩校跡。儒学・兵学・医学・数学と、幕末には蘭学も教えていた。当初は下中島堀内にあったが、津和野の大火で焼失、1855年(安政2)にこの地に移された。現在残っているのは武道場と、槍術場・文庫のみ。武道場は、津和野町民俗資料館として利用されている。江戸〜大正時代の武家や農家の生活用具、衣装など約2000点の資料が見られ、当時の生活を知ることができる。県指定史跡の藩校養老館(津和野町民俗資料館)を訪れる。

19:00食事を済ませてホテルに戻り就寝。

8日7:00レンタカーで出発。

津和野市街から西に約8kmの郊外にある旧家の庭園で、江戸時代に銅山年寄り役を務め、明治時代には鉱山王として知られた15代堀藤十郎が作庭した池泉回遊式庭園だ。滝や雪見灯籠などを配した庭園の中央には樹齢300年の楓の古木がそびえ、新緑や紅葉期は格別の風情。桜や梅など四季の花も美しい堀庭園を訪れる。

益田方面に向かう。

高津柿本神社と蟠龍湖に接した、小高い丘を整備した公園。園内にはアセビ・カタクリ・カキツバタなど万葉集に登場する植物153種類が植え込まれた万葉植物園や、曲水をイメージした流れがあるまほろばの園、アスレチック広場、広大な芝生広場、200mの藤園、オートキャンプ場などがある島根県立万葉公園を散策する。

万葉の歌人で、益田沖の鴨島で没したと伝わる柿本人麻呂を祭る古社。ツツジや桜に囲まれた石段を登りつめると拝殿があり、その奥に弊殿と変形春日造の本殿が立つ。拝殿脇に人麻呂像がある柿本神社(人麻呂さん)を訪れる。

雪舟終焉の地に立つ記念館。1479年(文明11)に描かれた『益田兼堯像』(重要文化財)をはじめ、右隻に鶴と松、左隻に梅の古木と白鷺を描いた傑作『花鳥図屏風』(重要文化財)(複製)などの雪舟の作品と資料を所蔵している。ロビーからは『花鳥屏風図』をモデルに、石組みや白砂で益田の名勝地を表わした枯山水庭園「八景園」が眺められる雪舟の郷記念館を見学。

益田氏の菩提寺。応安7年(1374)に建てられたという本堂(重要文化財)は7間四方、寄棟造で、力強い屋根の線に鎌倉時代の特徴がよく表れている。鎌倉時代の『絹本着色二河白道図』(重要文化財)や本堂の棟札(重要文化財)、藤原時代の仏像など寺に伝わる貴重な文化財や雪舟作庭の石庭(史跡・名勝)がある萬福寺を訪れる。

1363年(貞治元)創建の崇観寺が前身。戦国時代に衰退し堂宇が焼失したため、益田宗兼が医光寺と合併した。総門はかつての益田城(七尾城)の大手門を移したもの。本堂裏には、5代目住職を務めた雪舟が文明年間(1469〜86)に造った池泉鑑賞半回遊式庭園(史跡・名勝)がある。鶴をかたどった池に亀島を浮かべた武家様式庭園で、裏山の斜面に配したツツジの刈込みや石組の直線的な構図が雪舟の水墨画を思わせる。春は枝垂れ桜が美しい医光寺を訪れる。

浜田方面に向かう。

浜田の美しい海岸線に立つ水族館。飼育生物数は約400種1万点にのぼり、総水量3000トン、延べ床面積は1万300平方mと中四国最大級を誇る。サメなど大型魚類が泳ぐ海底トンネル、タッチプール、アシカ・アザラシプールなど、施設はバラエティー豊か。屋外にはアクアス広場や滝・温室を配した庭園が広がり、1日たっぷり楽しめるしまね海洋館アクアスを訪れる。

芸北・三段峡方面に向かう。

中国山地に深く切れ込んだ約13kmに及ぶ渓谷。原生林を縫う全長約13kmの遊歩道沿いに黒淵、猿飛、二段滝、三段滝、三ツ滝が点在しており、三段峡の五大景観と呼ばれている。静寂の中、野鳥のさえずりがこだまする清流沿いを散策すれば森林浴が楽しめる三段峡を訪れる。

広島駅に向かう。

17:00広島駅到達。
18:44広島駅新幹線のぞみで出発
20:26新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の島根県に足を運び、今も城壁が残る城山と青野山の山並に包まれた盆地に開かれた城下町、武家屋敷や商家が立ち並ぶ通りには堀に鯉が群れ泳ぎ、山陰の小京都と呼ばれる風情のある町並みが残されている津和野、

古くから石見地方の中心として栄え、万葉歌人・柿本人麻呂と画僧・雪舟ゆかりの地の益田、

山陰有数の漁港として活気に溢れ、 天然記念物に指定されている石見畳ヶ浦、海洋館AQUASなど、観光レジャーにも最適の浜田、

日本五大名狭の一つであり、五大壮観と呼ばれる景勝地が続く三段峡を訪れ、多くの歴史的建造物、博物館、大自然に触れ堪能しました。

広島から島根県西部までの広い範囲のドライブ観光楽しめました。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十五弾:島根県松江・出雲・石見銀山観光
2009年10月3−4日


今回は中国地方の日本海に面し東西に広い位置にある島根県に足を運び、島根県の経済、文化の中心の松江、縁結びなどむすびの神として知られる大国主命を祭る出雲大社、世界遺産の石見銀山を訪れました。

3日14:05伊丹空港出発
15:05出雲空港到達、レンタカーで松江方面に向かう。

宍道湖の北、標高28mの亀田山にあり、千鳥城の別名をもつ。明治の廃城令で天守閣(重要文化財)と石垣以外はすべて失われた。広大な城跡は城山公園(史跡)とよばれ、緑濃く、春は桜の名所になっている松江城(千鳥城)を散策する。

1903年(明治36)、松江城の二ノ丸跡に迎賓館として建てられた擬洋風建築で、別名興雲閣。松江の歴史文化教育に関する資料や、大正天皇皇太子時代の山陰行啓の折の御宿泊所を公開する松江郷土館(興雲閣)を見学。

1611年(慶長16)、堀尾吉晴が築城した。5層6階で高さ30m。桃山初期の城郭の特徴を残し、黒塗り下見板張りの外壁に簡素な美しさが漂う。各層に設けられた銃眼、地階の井戸など、江戸期の城とはいえ、実戦的な側面を色濃く残しているのが興味深い。展示物は武具甲冑の類や松江市街の模型、1950年(昭和25)からの解体修理で得られた資料など。最上階は望楼になっており、市街と宍道湖を一望できる松江城天守閣を訪れる。

城山公園の深い緑の中、ひときわ鮮やかな朱塗りの鳥居が目印。小泉八雲も好んでよく散策したという神社で、お気に入りだった狐像もある。12年ごとに行われる松江の祭事でホーランエンヤの船神事があり。春は桜が見事の城山稲荷神社を訪れる。

松江城北側の堀沿いで、黒い塀と白壁の建物が軒を連ね、堀端には老松が連なる塩見縄手を散策する。

怪談』『知られぬ日本の面影』の著者、明治の文豪・小泉八雲ことラフカディオ・ハーンは1850年(嘉永3)に、アイルランド人の父とギリシア人の母の間に生まれた。繊細な筆致で日本に関する随筆や短編を発表し、世界に日本を紹介することに貢献した彼の遺品をここで展示している。ペン皿や人を呼ぶために使ったホラ貝、視力の弱かった八雲が特注で作らせた机、自身で集めたキセルのコレクションなど、ハーンの息づかいが感じられるものが並ぶ小泉八雲記念館を見学。

ハーンはアイルランド人の父とギリシア人の母の間に生まれたが、両親の離婚、左目の失明など不遇な少年時代を送った。20歳で渡米後、ハーパー社の特派員として来日し、松江中学の英語教師となった。小泉セツと結婚し、八雲と名のるようになる。1891年(明治24)5〜11月、松江藩士の屋敷だった閑静なこの家にセツと暮らした。著書『知られぬ日本の面影』に登場する庭のある家で、彼が愛したカワズのいる蓮池も残る小泉八雲旧居を訪れる。

田部家が23代にわたって収集伝来した茶道具を中心に、絵画や彫刻などの美術品を展示。展示品には、茶の湯を好んだ松平不昧の愛蔵品も含まれている田部美術館に寄る。

中級藩士が屋敷替えによって入れ替わり住んだ屋敷。275年前の姿がそのまま保存され、質実剛健な雰囲気とつつましい暮らしぶりを見ることができる。屋敷内にはお歯黒道具や家具などの民具も展示され、当時を偲ぶことができる武家屋敷を訪れる。

1779年(安永8)、茶人としても名高い松江藩7代当主・松平不昧こと松平治郷が、松江市殿町の家老有沢弌善邸に建てたもの。その後幾度かの変遷を経て、1966年(昭和41)、目の前に松江城を望む現在の位置に移築された。茅葺き、入母屋造の建物は簡素な美しさで、入母屋には不昧直筆の「明々庵」の額が架けられている明々庵を訪れる。

北田川べりに立つ天台宗の古刹だが、幾度も火災に遭い、建物に往時の面影はない。みどころは境内に立つ三斎流の茶室。月を見るために窓を大きくとったことから観月庵と呼ばれる。不昧の信任の厚かった荒井一掌の好みという。門前の橋は小泉八雲の『あずきとぎ橋の怪』ゆかりの橋がある普門院を訪れる。

松江しんじ湖温泉の北、小高い丘を背にたたずむ。松平直政が母月照院の菩提を弔うために1664年(寛文4)に建立し以後、松平家の菩提寺に。廟所には初代から9代までの墓碑が並ぶが、不昧のものや、大亀を配した6代宗衍のものが特に目をひく。藩主遺愛の品を納めた宝物殿もある月照寺を訪れる。

水との調和をテーマにした穴道湖畔の美術館。コレクションは日本画・洋画・西洋絵画・版画・工芸・写真・彫刻と幅広く、モネやクールベなど「水」を描いた絵画を多数収蔵。特色のあるテーマで展示を行っている。全面ガラス張りのロビー(無料開放)や屋外彫刻のある湖岸からは、季節・時間によって表情の変わる穴道湖を眺望出来る島根県立美術館を見学。

淡水と海水の入り交じる汽水湖。周囲45kmと日本で7番目の大きさ。シラウオやシジミなど宍道湖七珍に代表される魚介の宝庫で、早朝はシジミ漁の船が見られる。湖畔には名所が点在。夕日が美しく、島根県立美術館から袖師町までの湖岸が格好の夕日スポットとなっている宍道湖を眺望する。

18:00松江駅付近のホテル到着後、市街地を散策して食事を済ませて床に就く。

4日6:00天候快晴、絶好の観光日和、レンタカーで出発

特異な三重環壕を持つ弥生時代の集落遺跡 「史跡 田和山遺跡」とその周辺の自然環境を保全し、歴史学習の場、自然学習の場、憩いの場として整備した公園、田和山史跡公園を散策する。

全長94m、後方部の高さ9.5mという県内最大級の古墳(史跡)。1925年(大正14)初めて「前方後方墳」の名称が用いられたことで知られる。前方後方の形状が見てとれるほか、内部の見学も可能。古墳の裾近くにある「ガイダンス山代の郷」では、地域の古墳の種類や構造、築造過程の模型などを展示解説している山代二子塚古墳を散策する。

桜並木の道から苔むした自然石の御手洗の横の急な石段を上ったところにある。主祭神は伊弉冉命。中央に立つ高床式の本殿は、1583年(天正11)の大火直後の建築で、現存するものとしては最古の大社造(国宝)。本殿に隣接する二間社流造の末社貴布祢・稲荷両神社(重要文化財)も同じころの造営の神魂神社を訪れる。

石見銀山方面に向かう。

途中、農道整備の工事中に、全国最多39個の銅鐸(重要文化財)が出土。遺跡は発見当時の状況に復元整備されている。併設のガイダンス施設では出土資料を展示しており、遺跡を遠望しながら休憩もできる加茂岩倉遺跡を散策する。

鳴り砂で知られる琴ケ浜近くに立つ、ピラミッド型をした砂の博物館。鳴り砂の資料や1年かけて砂を落とす高さ5.2mの巨大砂時計は必見の仁摩サンドミュージアムを見学。

11:00石見銀山到達。

幕府の直轄地だった銀山を治めるための代官所の跡。白壁の長屋門は1815年(文化12)の建築。敷地内には『紙本石見銀山絵巻』など、銀山の歴史を伝える資料を展示した石見銀山資料館を見学。

江戸時代、幕府の直轄地だった石見銀山の中心の町。1923年(大正12)に鉱山は廃坑となったが、銀山川の細流沿いに赤瓦と土壁の家が軒を連ねる町並みが状態よく残り、伝統的建造物群保存地区に指定されている。白壁の旧旅籠や商家が並び、趣がある大森の町並みを散策する。

大森町年寄の遺宅。広大な屋敷地に主屋、納屋と共に五つの蔵が建ち並び、大森では代官所跡に次ぐ、部屋数が34ある総漆喰の建物。重要伝統的建造物群保存地区にある重要文化財の熊谷家住宅を見学。

旧大森区裁判所を復元して利用。館内では明治時代の法廷の再現や、銀山の歴史と暮らしをビデオコーナーでくわしく紹介している大森町並み交流センターを見学。

代官所地役人だった河島家の住宅。1991年(平成3)に復元修理が行われて以降、一般に公開。建物や庭の配置など、武家屋敷の特徴を良く伝えている旧河島家住宅を見学。

町並みが途切れたところに立つ真言宗の寺院。みどころは境内の向い側に続く岩窟内に並ぶ五百羅漢像。左右窟にそれぞれ250体を安置し、中央には釈迦三尊を祭る。亡くなった掘子を弔って、1766年(明和3)まで25年ほどかけて作ったとされる羅漢寺を訪れる。

江戸幕府直轄の御直山とよばれた間歩(坑道)の一つ。現在、唯一内部を見学できるのがこの龍源寺間歩で、273mが公開されている。当時の技術では、掘子(鉱山労働者)が1日に掘り進める距離は30cmほどであった。ノミ跡があらわに残る壁に、掘子たちの過酷な労働が偲ばれる石見銀山龍源寺間歩を訪れる。

石見銀山の歴史と技術を紹介する展示や、石見銀山の調査・研究センターとして、最新の調査成果を公開していく施設、石見銀山世界遺産センターを見学。

三瓶山方面に向かう。

縄文時代に地中に埋もれた巨木が出土した三瓶小豆原埋没林(天然記念物)は、地下に数多くの巨木が立つ不思議な林。展示棟では、縄文時代のままで林立している巨木を間近に見ることができる。南側には埋もれ木展示場に加え、古代ハス池などが設けられた縄文の森公園がある三瓶小豆原埋没林公園を散策する。

三瓶山北麓にある自然博物館。三瓶山をはじめ、島根の自然を中心に生物・地形・地質・天文まで、自然・環境についての幅広い展示が魅力。直径20mのドームスクリーンでは、プラネタリウムや島根の自然を紹介する大型ドーム映像が迫力だ。三瓶山麓で立った状態で発見された、縄文時代の巨大埋没スギの展示は圧巻の島根県立三瓶自然館サヒメルを見学。

石見銀山の奉行大久保石見守が、一里塚として植えたと伝えられる定の松を中心とした雄大な草原の三瓶山西の原を訪れる。

出雲方面に戻る。

古代の出雲大社や、当時の生活、そして発掘された銅鐸や勾玉など古代の魅力を味わえる、古代出雲歴史博物館を見学。

古代より縁結びの神として崇められてきた古社。松並木の参道の奥には本殿をはじめ、拝殿や彰古館などが立ち並び、荘厳な雰囲気をたたえている出雲大社を散策する。

雲大社域入口に立つ木の鳥居から境内へ一直線に続く参道。両側からおおいかぶさるように続く松並木は、寛永年間(1624〜44)に奉納された松の馬場を通過する。

出雲大社の西十九社と庁舎の間の門を出ると、巨大な神楽殿が立つ広場がある。ここは神楽や古式の儀式が行われる場所となる。なんといっても目をひくのが注連縄。長さ13m、太さ8m、重さ6トンと日本一のスケールを誇る神楽殿を訪れる。

出雲大社拝殿に向かって右手脇にあるコンクリート製の建物で、1階は一般参拝者の休憩室・祈祷受付所、2階が宝物殿になっている。収蔵されている社宝の中には、蝶貝を施した美しい秋野鹿蒔絵手箱(国宝)、足利義政寄進の赤糸威肩白鎧兜大袖付(重要文化財)、硬玉・勾玉(重要文化財)など、数々の文化財が含まれる神こ殿を訪れる。

出雲大社内の総檜造りの拝殿は1959年(昭和34)の再建。巨大な注連縄[しめなわ]は周囲4m、長さ8m、重さ1.5トン。「二拝、四拍、一拝」が参拝の流儀なのは、「しあわせ」を願う心からともいわれている拝殿を訪れる。

出雲大社本殿を囲む瑞垣の外側左右に一列に並ぶ細長い建物。旧暦10月に日本中から出雲に集まってくる神々のための宿舎のひとつといわれる。そのため神無月を出雲では神在月と呼ぶ。創建は寛文年間(1661〜73)で、現在あるのは1748年(延享5)の造営の東西十九社を訪れる。

出雲大社内にある、玉垣内に鎮座する大社造の大建築(国宝)。現在の本殿は1744年(延亨元)、造替されたもので、垂直に切られた千木が印象的だ。御祭神は大国主大神を主祭神に、ほか5神。現在の高さ24mは他の追随を許さない規模だが、2000年4月、巨木3本を束ねた直径3mにもなる柱が境内から出土。伝承どおり、かつては現在の2倍近い48m前後の壮大な高層神殿だった可能性が高まった本殿を訪れたが現在平成の大遷宮が行われており修造工事のため立ち入り禁止。

17:00終了、出雲空港方面に向かう。
17:45出雲空港到達。
19:00出雲空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、中国地方の日本海に面した東西に広い島根県に足を運び、島根県の経済・文化の中心地で宍道湖を囲み、松江城や塩見縄手の江戸情緒豊かな城下町など日本古来の美しさに触れる松江。

間歩とよばれる坑道見学や当時の人々の暮らしぶりを今に伝える大森地区など、見どころが目白押しの世界遺産・石見銀山の6km3時間の散策。

ダム湖や山々の絶景はもちろん、太古の眠りから目覚めた巨大埋没林は必見の三瓶山ドライブ観光。

大国主命を祭神とする古社、縁結びを含むむすびの神として知られ、大社造と呼ばれる日本最古の神社建築様式による御本殿(現在修造中)や、日本最大級のサイズを誇る神楽殿の注連縄など、迫力に満ちたみどころがつまった出雲大社。

一泊二日で自然と数多くの歴史的建造物と史跡に触れ堪能しました。

島根県は意外と観光名所が多く、たくさんの観光客が訪れていました。宍道湖周囲の松江城、出雲大社を含めての歴史的建造物観光、西に足を延ばすと、大自然の火山地帯、三瓶山、現在注目の世界遺産の石見銀山、盛りだくさんの島根県観光でした。

但し残念なのは出雲大社の御本殿の修復工事による立ち入り禁止、2013年に完成とのこと、又訪れたいと思います。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第七弾:隠岐の島(島前&島後)観光
2007年9月22−24日


今回は伊丹空港から直行便で1時間足らずで到達できる比較的関西から行きやすい島根県隠岐の島に行ってきました。

22日13:50伊丹空港出発、14:45隠岐空港到達、天候は雨、シャトルバスで隠岐西郷港フェリー乗り場に向かう。到達後西郷町の隠岐の島の海と自然をテーマにした隠岐自然館を見学してから16:58西郷港から高速艇レインボー2で島前西ノ島別府港に向かう。17:45別府港到達、近くで宿を取る。

23日天候は天気予報と違って運良く晴れ、今日は1日で島前の3つの島(西ノ島、中ノ島、知夫里島)をフェリーで渡って車で観光、かなりハードスケジュール。
先ずは7:44いそかぜ2で知夫里島来居港に向かう、到達後直ぐ予約していた観光タクシーで島巡り、西部に位置している牛馬を放牧している広大な赤ハゲ山を訪れ、赤ハゲ山展望台で360°知夫里島を見渡すことができ又西海岸に1キロに渡って高さ50−200mにおよぶ赤、黄、茶色などのあざやかな断崖の赤壁を訪れる。
1時間20分でこの島の観光を終えて9:20いそかぜ2で別府港に戻り、レンタカーで西ノ島を観光、漁業、海上の守護神としての由良比女神社を訪れてから有名な国賀海岸に到達、岩石の中央が海蝕作用でえぐられた巨大な岩の架け橋、通天橋見学、又摩天崖展望台に登り、広大な国賀の放牧地帯を眺望できました。赤尾、鬼舞スカイラインを通って赤尾、鬼舞展望台からの西の島、特に国賀の眺望はすばらしかった。
船引運河によってから後醍醐天皇が隠岐に配流され脱出されるまでの1年間過ごされた黒木御所、碧風館を訪れ、別府港の近くの西ノ島ふるさと館で西ノ島の自然と人の暮らしを学びました。
13:55いそかぜ2で3つ目の島、中ノ島に向かう、中ノ島菱浦港到達、レンタカーで観光、隠岐に配流された後鳥羽上皇由来の隠岐神社、歴史民俗資料館を見学してから島一周、天川の水、三郎岩、木路ヶ崎灯台を訪れました。
16:43菱浦港出発、別府港でフェリーしらしまに乗り換えて島後、西郷港に向かう。18:30西郷港到達、近くで宿を取る。

24日8:00レンタカーで最後の島、島後を巡る。玉若酢命神社の樹齢2000年の八百杉と宝殿の駅鈴、唐櫃、隠岐国倉印の三宝物見学。隠岐国分寺、牛突き場、隠岐モーモードーム水若酢神社、隠岐郷土館、五箇創生館を訪れてから白島海岸展望台で島後の最北端、白島海岸を眺望、浄土ヶ浦海岸、ローソク島、福浦トンネル経由してほぼ島を一周しまし14:30隠岐空港到達。
15:10飛行機で出発、16:05大阪伊丹空港到達しました。

今回の旅行、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、その他数多くの身分の高い方が配流された隠岐の島、二泊三日で4つの島を強行スケージュールで観光巡りしました。
島前の3つの島は文化だけでなく広大な牛馬の放牧地帯とすばらしく綺麗な海岸線、島後の数多くの文化遺産と自然の観光名所巡りし隠岐の島4島ほぼ制覇して堪能しました。