滋賀

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十七弾:滋賀県びわ湖108霊場(近江湖北二十七名刹)観光
2019年10月26−27日
   

滋賀県湖北部に点在する琵琶湖に臨む近江湖北路は、古くから仏教文化が花開き、苦難の歴史のなか、人々の厚い信仰に支えられ今日に引きつがれている。国宝・重文をたずねて、二十七名刹と湖北路への誘い近江湖北二十七名刹を訪れました。

26日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神自動車道経由して彦根インター下車、霊場巡り

神照寺:宇多天皇のほうしで有った益信僧正(本覚大師)が、同天皇の勅命を受けて、寛平七年に建てたもので、創建当時は七堂伽藍が整い、300の坊舎を有する大寺であった。

安楽寺:弘安2年に、九條家が無為(平和)を祈願して寺を建て、安楽精舎と呼ばれたのがはじまり。

知善院:もとは東浅井郡小谷城下の大谷にあったが、羽柴秀吉が、今浜城(長浜城)築城の際、城の鬼門の守護寺院として、現在の場所に移した。

宝厳寺;聖武天皇の勅願により、開基。


良疇寺:鎌倉幕府執権・北条時頼の開創、佐々木道倫の開基によって、天山和尚が開いた。

総持寺:天平時代行基菩薩が国分寺の試寺として開かれたのが、はじまりと伝えられている。
その後、室町時代に足利義教から600石の朱印を賜り、実済法印によって諸堂伽藍が建立され、後花園天皇の勅願寺となった。寛永元年(1624)に再建

観音寺:当寺は、仁寿年間(851-853)に伊吹山護国四寺の一つとして三修沙門の手によって開基された。寺伝によると貞和3年(1347)に伊吹山中から現在の地に移ったとされるが、当寺に伝わる古文書などの資料によれば、それより80年余前の鎌倉中期の正元年間(1259-1260)に移転が行われ、寺観と汁物を整えていたとされる。
 鎌倉から室町にかけては、当寺の所在する大原庄の領主であった大原佐々木氏の手厚い庇護のもと、23坊の塔頭寺院を構えるほどに興隆し、その後、湖北を掌握していた浅井氏からも多くの寺領を安堵されていた。更に、天正4年(1576)には、長浜城主羽柴秀吉から茶屋を申しつけられるなどの保護を受けている。その頃小僧をしていた石田光成が鷹狩りの際に訪れた羽柴秀吉に、1杯目は大きい茶碗でぬるめのお茶を、2杯目は中くらいの茶碗でやや厚めのお茶を、3杯目は小さい茶碗で熱いお茶を差し出し、その才能を認められ、出世の糸口を作ったという話が、当寺には伝えられている。また、江戸時代には、諸役を免ぜられ、伊井家の所領として幕末に至る。
 境内には、本堂のほか、薬師堂、鐘楼、惣蔵、惣門などがあり、そのうち、本堂、鐘楼、惣門が、平成4年に国の重要文化財に指定されている。寺宝としては、木造伝教大師座像(国指定重要文化財)のほか、大原観音寺文書(滋賀県指定重要文化財)木造千手観世音菩薩立像(米原市指定重要文化財)などがある。

悉地院:もとは伊吹山の中腹にあったが、平安期に山麓に移った。役の行者が白雉白鳳時代に開かれたとされているが、詳しい年代は不明。

徳源院:鎌倉中期に近江を領していた宇多天皇の後胤佐々木氏(宇多源氏)が、六角、京極、高島、大原氏に分かれ、京極氏は江戸時代も大名家として続いた。
 徳源院は、この京極氏の菩提寺である。寺は、京極家初代氏信の草創(1283)で寺号も氏信の法号の清瀧寺殿から称したものである。第5代高氏(道誉)は婆娑羅大名としてその名をはせ、その活躍は太平記などに詳しい。境内の桜は道誉が植えたものと伝えられ道誉桜と呼ばれている。(2代目)
 一時勢いが衰えていた京極氏を立て直したのが代19代高次で、関ヶ原の合戦では大津籠城で有名である。京極氏では中興の祖と仰がれ、当寺で高次を中心に祀ってある。江戸時代には第21代高和の代に讃岐丸亀に転封になり、その子高豊が寛文12年(1672)に領地の一部とこの地を交換して寺の復興を図り、近隣に散在していた歴代の宝篋印塔をここに集め、順序を正して現在に伝えられる墓所を整備した。この時三重塔を建立、本堂の移築、庭園の整備しほぼ現在の寺観を作るとともに院号も高和の法号から徳源院と改称した。
 徳川幕府の大政奉還後は徳源院も次第に衰微し、明治の初頭には12坊も尽く廃坊となり礎石や地名などに名残を留めるのみであった。幾多の災害から逃れてきた三重塔も昭和53年の改修で創建当時のこけら葺きに直し、本堂・客殿は平成14年に再建した。京極氏墓所も長年の降雪等で荒廃していたが、平成19年に全面改修が完了した。

松尾寺:松尾山は天武天皇の9年(680・白鳳時代)に役行者が修行の地として開山し、当時、法相宗興福寺末金勝寺別院として、また、霊山山霊仙山の7カ寺の一つとして、伊吹山三修上人の3人の弟子のひとり松尾童子が役行者修行地の遺風を慕い伽藍を建立するに始まる。本堂は今より400年前に兵火により消失するが、江戸時代彦根藩主井伊家の庇護を受け寛文年間(1661-1673)再建される。昭和56年の豪雪の被害を受け、本堂崩壊のやむなきに至るが、松尾山山麓に参拝所として詣でる方々をお迎えしている。現在山内寺院として養運院、明静院が現存するも伽藍は荒廃し、本尊仏、境内地、山林のみを残すところである。
 現在は新本堂が、松尾寺山の山麓に建立されている。本尊は十一面観世音菩薩、聖観世音菩薩二体合わせて『空中飛行観世音菩薩』と称し『飛行観音』の愛称で呼ばれる。第二次世界大戦中は特攻隊のパイロットたち飛行関係者が詣で、当時住職がお守りを手渡しで授与したと伝えられる。無事戦地より帰られた隊員の方々有志より各務原飛行学校の零式艦上戦闘機復座式の機体のプロペラを寄進される(昭和10年)。
 今より1200年前に伝教大師最澄様、弘法大師空海様と共に遣唐使として中国大陸へと渡り、日本人で唯一人 三蔵法師の位を授けられた 霊仙三蔵法師は当山ゆかりの方である。時の中国皇帝 憲宋皇帝より「内供奉十禅師」に選任され、宮中の仏事一切を取り仕切り、「大乗本生心地観経 全八巻」の翻訳事業、「筆受並びに訳語」の二役を任され三蔵の位を頂戴された。廃仏棄釈の波を受け、中国四大霊山の一つである文殊菩薩霊場「五台山」へと逃れ、そこでお亡くなりになられるが、後に慈覚大師円仁様の「入唐求法巡礼行記」にも記される所になり、今日地元有縁有志の御協力を賜わり、2004年に『霊仙三蔵還国記念堂』が建立された。

蓮華寺:聖徳太子の叡願により推古天皇の23年(615)法相宗の憲崇律師によって造営され、もとは時宗で法隆寺と呼んでいた。
昭和17年に改称

西圓寺:文和元年(1352)この地の豪族今井遠俊が入道して雲西と名乗り、仁空実導(円応和尚)を開山に招請して建てられた。
大雄とは釈迦の尊称で、当初は天台宗であって、そこに二つの院坊があり、本坊が現在の西円寺で、東の坊は今の浄宗寺である。
浄宗寺は、蓮如上人がこの地を訪れた時、浄土真宗となった。

青岸寺:南北朝時代の中期、近江の守護職であった佐々木京極道誉によって開創され、不動山米泉寺といった。天文3年(1534)竜渓が再建

17:30彦根駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日6:00車で出発、霊場巡り。

菅山寺:天平宝字8年(764)、孝謙天皇の勅命で照檀上人が創建。当初は龍頭山大箕寺とした。
寛平元年(889)、菅原道真が宇多天皇の命を受け、この寺に国家の隆昌と皇位の安泰を祈願。その際勅許を得て、三院四十九坊を建立、寺号を大箕山菅山寺と改められた。
現在は、坂口区の人たちを中心とした信者の人たちの手で守られている。

全長寺:文明元年(1469)浄土宗の僧、全長が池原村字新堂に阿弥陀如来を本尊とする一宇を建て、全長坊としたのがこの寺の始まり。
全長が死期を覚って禅宗に帰依し、伊香郡椿坂村の曹洞宗桂照院の頤正(いしょう)全養に自分亡き後の全長坊を頼んだ。
慶長2年(1597)、頤正全養は全長の意思に従い、全長坊を曹洞宗に転じ、久澤山全長寺とした。

洞寿院:永平寺を開いた道元禅師の直系、能登総持寺第11世梅山聞本を師とした恕仲禅師が最初に建てたのが洞寿院とされている。
恕仲禅師は、全国に2500の寺を建てた人で、のちに大本山総持寺の第40世になっている。

鶏足寺:延暦18年(799)伝教が再興、天台宗となったが、江戸時代の初め真言宗となる。
己高山には、5ケ寺とその別院6ケ寺があった。
鶏足寺は、その内の代表的な寺院で、他に世代山戸岩寺や法華寺等があったが、現在はすべて朽ち果て、その仏像等が、己高閣及び世代閣に収納され、地区の村人達によって管理されている。

石道寺:己高山寺の一寺。天台宗となり、真言宗に変わる。

腹帯観音堂

阿弥陀寺:もとは天台宗の寺であったと推測されている。
暦応元年(北朝・1338)ころから開山の託何上人がこの地を訪れ時宗を広め、阿弥陀寺は文和2年(1353)に時宗の寺となった。

赤後寺:赤後寺は、高月町の北端湧出山(ゆるぎやま)の中腹に建ち、かっては足利尊氏から荘園を寄付され、隆盛を極めたという。

西野薬師堂:かつて小字寺山に天台宗の泉明寺と称する寺があり、大友皇子の末裔・西野丹波守家澄が菩提寺として庇護したという。
その後度重なる戦乱により荒廃し、村人によって守られてきた

渡岸寺観音堂:天平時代に都で疱瘡が流行った頃、聖武天皇が越前の僧泰澄上人に命じて、十一面観音像を刻み、観音堂を建て厄除けの祈願をさせたのが、この寺の始まり。

小谷寺:聖武天皇の神亀5年に加賀白山の開祖泰澄上人が、白山から伊吹山までの峰峰に修験道場を開き、小谷山に建てられた坊舎のなかの常勝寺が今の小谷寺。

孤篷庵:円恵霊通禅師(江雲和尚)を開山とし、二代目宗慶侯が、遠州侯の菩提と小堀家の家老や家臣の修禅ならびに菩提道場として建てたのがはじまり。


大吉寺:白雉6年(655)役の小角の入峰が伝えられているが、確かな創建としては、上記の年貞観七年(865)に延暦寺の安然上人と土豪草野治家の協力により開山された。

醍醐寺:奈良時代に役小角によって基盤が築かれ、後白河天皇の時代(1160年頃)に創建され、南北朝時代には、足利尊氏・直義兄弟が湖北で戦いを起こした際には、この寺が尊氏の本陣となった。

15:00帰路に向かう。

今回の旅行、滋賀県びわ湖北部に点在する近江湖北二十七名刹を訪れ楽しみました。

中小規模の寺院が多く、数か所は廃院してみすぼらしい建物もありましたが殆どが整備された小奇麗な寺院が多く癒されました。

















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十五弾:滋賀県びわ湖108霊場(近江湖南湖東二十七名刹)観光
2019年10月13−14日
  

近畿地方の滋賀県に足を運び滋賀県の南部東部に点在するびわ湖108霊場の近江湖南湖東二十七名刹54か所を訪れました。

びわ湖108霊場:霊場会は、滋賀県の108カ寺がびわ湖を囲むように数珠状につながった巡礼路として、構想より約二十年を経て平成二十一年に誕生しました。湖北二十七名刹、湖東二十七名刹、湖南二十七名刹、湖西二十七名刹の四つの霊場で構成されています。そのため、各札所にはびわ湖108霊場の番号のほか、各地方の札所番号も併記されています。札所には、西国三十三所の札所などの有名寺院をはじめ、地域の祈りを支えてきた規模の小さい寺院も含まれています。煩悩の数と同じ108の寺院を巡ることで悩みを打ち消し、心にやすらぎを持って人間性を豊かにしてほしいという願いが込められています

13日7:00車で第二阪奈京滋バイパス名神第二名神経由して信楽インター下車、霊場巡り

湖 南

第八十一番松尾山松林院 願隆寺

第八十二番龍護山 大池寺

第八十三番家松山清浄慶院 大徳寺

第八十四番補陀洛山 檜尾寺

第八十五番福正山自性院 櫟野寺

第八十六番向陽山 龍福寺

第八十七番寿亀山 正福寺

第八十八番秋葉山十輪院 玉桂寺

第八十九番華蔵山 園養寺

第九十番雲照山 妙感寺

第九十一番龍王山 観音寺

第九十二番美松山 南照寺

第九十三番岩根山医王院 善水寺

第九十四番大乗山 正福寺

第九十五番阿星山 常楽寺

第九十六番金勝山 阿弥陀寺

第九十七番金霊山 金胎寺

第九十八番阿星山 敬恩寺

第九十九番九品山 新善光寺

第百番治田山慈眼院 西方寺

第百一番本誓山来迎院 教善寺

第百二番碧雲山霊仙院 正楽寺

第百三番比叡山守山寺 東門院

第百四番日陽山 宗泉寺

第百五番歓喜山長福院 圓光寺

第百六番日照山 東光寺

第百七番大慈山 福林寺

16:00野洲駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日7:00車で出発、霊場巡り。

湖 東

第五十四番大洞山 長寿院

第五十五番弘徳山 龍漂寺

第五十六番祥壽山 清涼寺

第五十七番普門山常心院 長久寺

第五十八番金亀山 北野寺

第五十九番萬年山 天寧寺

第六十番天徳山 高源寺

第六十一番龍應山 西明寺

第六十二番豊国山 大覚寺

第六十三番松峯山 金剛輪寺

第六十四番釈迦山 百済寺

第六十五番宝祐山 長壽寺

第六十六番繖山 安楽寺

第六十七番日吉山 千樹寺

第六十八番繖山 善勝寺

第六十九番御都繖山 石馬寺

第七十番繖山 観音正寺

第七十一番繖山 桑實寺

第七十二番姨綺耶山 長命寺

第七十三番村雲御所 瑞龍寺門跡

第七十四番比牟礼山 願成就寺

第七十五番補陀洛山 長光寺

第七十六番報身山無量院 弘誓寺

第七十七番玉尾山 願成寺

第七十八番雪野山 龍王寺

第七十九番阿育王山 石塔寺

第八十番法輪山 正明寺

15:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、近畿地方の滋賀県に足を運び滋賀県の南部東部に点在する近江湖南湖東二十七名刹54か所を訪れ楽しみました。

中國曲阜旅行の予定でしたが台風の影響で飛行機欠航、近場の霊場巡りに変更しました。

全体に中から小規模の寺院が多いが、各々が整備され気持ちよく訪れることができ癒されました。


 


























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十五弾:滋賀県お城・城下町巡り&小京都大津観光
2018年11月22−23日
 

日本のほぼ真ん中に位置し、その中央に県土の約6分の1を占める日本最大の湖・琵琶湖を抱え、周囲には緑豊かな山々や田園風景が広がる、水と緑の豊かな自然にふれ合うことができるところです。悠々と水をたたえる琵琶湖と周囲が織りなす美しい風景は、季節の移ろいに応じた折々の景観として楽しむことができます。びわ湖の雄大さと変化に富んだ風景は、「琵琶湖八景」や「近江八景」として風光明媚な景色を紹介しています。また、交通の要衝の地でもあり、古くから文化・経済の先進地として栄えたこの地には、古刹・名刹の歴史ある寺社や戦国時代をはじめとする英傑たちの足跡、歴史情緒が残る町並みなど、奥深い歴史文化があり、国内有数を誇る歴史文化資産は、今もなお県内のそれぞれの地域で大切に守り伝えられています滋賀県に足を運び滋賀県に点在する比較的マイナーなお城10か所と小京都と承認されている大津を訪れました。

22日12:30車で第二京阪,京滋バイパス経由して南郷インター下車、お城巡り

大石城:大石城は舌状尾根の先端部に築かれ、細い道を挟み両側一帯が城域で群郭式の構造であったと推測される。
主郭は、東西52m×南北35mの方形で周囲に土塁を、東背後に見張り台を兼ねた巨大な土塁と堀切を配し、西前面に一段低い副郭(東西22m×南北24m)を備えている。虎口は平虎口で西と南東隅に開いている。北側は断崖となっているが、南側が茶畑で高低差がほとんどなく土塁と空堀で画す程度で、防御が弱く思われる。

小川城:築城年代については諸説あり定かではないが、一般的には鎌倉時代末期に前関白近衛家基に従って設楽庄に入部した鶴見長実が嘉元3年(1305年)に築城したのが始まりと云われる。
鶴見長実の子、鶴見道宗が城主となり、弟行俊は小川氏を称して代々続いたが、長享元年(1487年)に多羅尾和泉守に敗れた小川成俊は山城国和束庄へ逃れ、以降は多羅尾氏の所領となった。
天正10年(1582年)本能寺の変によって織田信長が倒れた際、堺見物をしていた徳川家康が伊賀越えで所領に戻る際に設楽で一夜を明かしたのが、この小川城と伝えられる。 文禄4年(1595年)に多羅尾光太の娘が豊臣秀次に嫁いでいたことから、秀次に連座して改易されたが、その後に徳川家康に召し出されて旗本となり、江戸時代には多羅尾代官陣屋を構えている。これは多羅尾光俊・光太父子が守護した恩に報いたものといわれる。

新宮城:甲賀郡中惣遺跡群(寺前城,村雨城,新宮城,新宮支城,竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。
新宮城は磯尾川の西岸にあり、北東へ伸びた尾根に築かれている。谷を挟んで南には新宮支城がある。
新宮城は南西端の最高所に主郭を置き、北東へ伸びた尾根に曲輪を展開する。 主郭は方形で高土塁が巡り、南西側は深い空堀で遮断し土橋が架かる。虎口は北と東にあり、北虎口は北下の堀切に出る。東虎口は二郭へ通じ、二郭は鈎状に屈折した虎口が付き、さらに北東下の段へと続く。二郭の北下には両側から土塁状の伸びた空間があり、池なのか虎口なのかよくわからない地形がある。麓付近には大きな平段がいくつか展開している。

水口城:寛文11年(1634年)徳川家光の上洛の宿館として小堀遠州によって築かれた。 築城に際しては水口岡山城の石垣を転用してたという。
天和2年(1682年)加藤明友が石見国吉永より二万石で水口城主となり水口藩を立藩した。

日野城:築城年代は定かではないが大永年間に蒲生定秀によって築かれたと云われる。
永禄11年(1568年)織田信長による観音寺城攻めで、蒲生賢秀は中野城に籠城したが伊勢国神戸友盛の仲介により人質をだして信長に降った。この時人質として出されたのが後の蒲生氏郷である。
本能寺の変で信長が討たれた時、蒲生賢秀は安土城二の丸を預かっていたが、その悲報を聞いた賢秀と氏郷は信長の妻子を中野城へ移し光秀の誘いに応じなかった。
天正12年(1584年)蒲生氏郷は伊勢国松坂へ転封となり、その後は田中吉政、長束正家が城代となり、慶長8年(1603年)廃城となった。

長光寺城:築城年代は定かではないが鎌倉時代中期に佐々木政尭によって築かれたと云われる。 元亀元年(1570年)南近江に侵攻した織田信長は長光寺城を攻め落とし柴田勝家を配置した。 六角氏は城を奪還するために攻め寄せ勝家は籠城して耐える。 意を決した勝家は味方を鼓舞するため兵に水を飲ませた後に水瓶を割って討って出た。これが「瓶割り柴田」の異名となって後世に語られている。

17:00近江八幡方面に向かう。
17:30近江八幡駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

23日7:30車で出発、お城巡り

岡山城:南北朝期に佐々木氏の支城として築城され、永正五年(1508年)に足利十一代将軍義澄が六角氏の重臣伊庭氏と伊庭氏の家臣九里氏を頼って都より落ち延びて来て岡山城に入った頃より本格的な改修がされたものとの事です。この事態は六角氏と伊庭・九里両氏との間を悪くし、義澄が永正六年(1509年)に当城で病死して以後、永正十七年(1520年)、ついに六角定頼はこの城を攻め開城させました。後、大永五年(1525年)に伊庭氏・九里氏が再び籠りましたが、六角氏に破れ城も廃城になりました。

八幡山城:天正13年(1585年)豊臣秀次によって築かれた。 近江国四十三万石の領主となった豊臣秀次によって築かれ、城下町は安土より移されて発展、近江商人発祥の地としても知られる。
天正18年(1590年)秀次は尾張国清州へ転封となり、かわって大溝より京極高次が二万八千石で城主となった。しかし永禄4年(1595年)関白豊臣秀次が太閤によって自害させられると、京極高次は大津へ六万石で転封となり、聚楽第とともに八幡山城も廃城となった。

浅小井城:大古、沙々木神社豊浦冠者行実の息浅小井次郎盛実の後裔深尾氏第十代加賀守元泰が足利将軍義政の幕下にあって当地を領有後、十一代元範は佐々木(六角)高頼の命により文亀元年(1501年)に築城しました。十二代元秀、十三代元忠と続き、永禄年間にこの城を伊庭氏が領有を画策したが、六角承禎義賢はそれを避け、甲賀武士の山中大和守俊好に与えますが、永禄十一年(1568年)に織田信長の侵攻で落城しました。その後の安土城築城後、城はこの地の豪族の伊佐志摩守に預けられ、信長の鷹狩の際は伊佐氏別邸に立ち寄り休息したと伝えられます。天正十二年(1584年)秀吉は池田秀氏<池田氏は近江源氏佐々木氏の流れで甲賀池田を発祥と六角氏に属していたが観音寺騒動の際六角氏を離れ、信長の近江侵攻時は織田氏に属しました>にこの城を与えますが、池田氏が文禄四年(1595年)に伊予大洲に転封し当城は破却されました。

山崎山城:詳細不明。城主は山崎氏が伝えられる。

大津に向かう。

小京都大津巡る。

大津:今から約1350年前、天智天皇により遷都された歴史の街、大津。日本最大の湖である、びわ湖に寄り添うように南北に広がるこの土地には、世界文化遺産・比叡山延暦寺や日本遺産である石山寺、かるたの聖地としてアニメや映画の舞台にもなった近江神宮をはじめとする多くの観光スポットに溢れています。また、「美肌の湯」として知られるおごと温泉や、夏はウォータースポーツ、冬はスキーなどのアクティブリゾートなど、おすすめスポットや1年を通じてのイベントも盛り沢山!もちろん、日本三大和牛のひとつである近江牛や、様々な湖魚料理など、お楽しみグルメもいっぱい。

石山寺:良弁開山の東寺真言宗大本山で西国三十三霊場第13番の観音霊場。諸堂宇は景勝地の自然と調和している。境内は巨大な硅灰石(天然記念物)の上に建てられており、寺名の由来となっている。

瀬田の唐橋:近江八景「瀬田の夕照」(せたのせきしょう)の主題である「瀬田唐橋」は、別名「瀬田橋」や「長橋」とも呼ばれ「唐橋を制するものは天下を制する」と言われ、古来より京都ののど元を握る交通・軍事の要衝として重視され、瀬田橋が戦の歴史舞台になって千八百年になりますが、特に有名なものは、古くは、大津京が幻の都となった大友皇子と大海人皇子(おおあまのおうじ)の『壬申(じんしん)の乱』をはじめ、『寿永の乱』、『承久の乱』『建武の乱』など幾多の戦乱の舞台ともなりました。織田信長の瀬田橋の架け替えは、比叡山焼き討ちの4年後、天正三年(1575)に諸国の道路修理を命じ関税を免除するとともに、瀬田城主、山岡景隆と木村次郎左ヱ右衛門を奉行に任命し、近江の朽木などから木材を調達し、長さ百八十間(約350m)、幅四間(約7m)の一本橋をわずか3ヶ月という突貫工事で架け替えさせたといわれています。

三井寺:天台宗寺門派の総本山で、観音堂は西国三十三所観音霊場第十四番札所。大友皇子の皇子・大友与多王が父の霊を弔うために寺を創建し、天武天皇に「園城寺」という勅額を賜ったことが名前の由来。また、境内には天智・天武・持統の三帝の産湯に用いられたという霊泉があり、「御井の寺」と称されたことから「三井寺」と呼ばれるようになった。金堂をはじめ、国宝や重要文化財の数は圧巻で、近江八景「三井の晩鏡」でも知られている。春は1000本の桜とライトアップ、秋は紅葉とみどころが多い。

坂本:比叡山延暦寺、日吉大社の門前町として栄え、穴大衆と呼ばれる石工集団の手による「穴大衆積み」という石積が特色づけている町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。約50ヵ寺も残る延暦寺の高僧の隠居所「里坊」には、借景や自然石を利用した見事な庭園があり、普段は非公開の庭園などが拝観できる社寺・庭園めぐりも開催されています。春の桜と秋の紅葉の時季は特に見ごたえがあり、多くの観光客で賑わいます。

浮御堂:近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。

光徳寺:真宗大谷派の寺院で創建は1361年(康安元年)覚忍により開創されたと伝えられています。
浄土真宗中興の祖である蓮如のために、自らの首を差し出すよう父源右兵衛を説得し、切らせて差し出したという漁師親子の殉教物語があります。
本堂前には「堅田源兵衛父子殉教之像」があります。

延暦寺:伝教大師最澄が比叡山に草庵を結んだことに始まる天台宗総本山。標高848mの比叡山全域を境内とする寺院で、日本仏教の母山と言われている。広大な寺域は100余りの建造物があり、延暦寺の総本堂である根本中堂(国宝)や大講堂などがある「東塔」、最澄作の釈迦如来を本尊とする釈迦堂やにない堂などがある「西塔」、横川中堂や元三大師堂などがあり、静寂に包まれた「横川」の三つのエリアに分かれている。戦国時代に織田信長の焼き討ちにあいましたが、豊臣秀吉や徳川家康などにより復興され、平成6年に世界文化遺産に登録された。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、滋賀県に足を運び、滋賀県に点在する比較的マイナーなお城10か所、小京都に承認されている大津を訪れ楽しみました。
今回のお城、かなり地味で案内板もなく見つけるのが苦労したお城が多く、大変でした。
小京都の大津にある歴史的建造物、石山寺、瀬田の唐橋、三井寺、坂本、浮御堂、光徳寺、延暦寺何回も訪れたことがあり再確認しました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十弾:滋賀県お城・城下町巡り観光
2016年8月20−21日
   

肥沃な土地を持ち、幾内に向かう交通の面で重視され、古くから源平および僧兵勢力の争乱があり、源頼朝が鎌倉幕府を開いた際は、佐々木氏が近江の守護職となり、戦国時代は浅井氏が力をつけた滋賀県に足を運び、比較的マイナーなお城16か所を訪れました。

20日13:00車で出発、第二京阪、京滋バイパスを経由して石山インター下車、大津に向かう。

お城巡り。

膳所城:慶長6年(1601年)徳川家康によって築かれた。 築城においては藤堂高虎が縄張を行い天下普請で行われ完成後は戸田一西が三万石で入城した。
元和2年(1616年)戸田氏鉄は大坂夏の陣の功により摂津国尼崎に移封となり替わって三河国西尾から本多康俊が入封する。 元和7年(1621年)本多康俊になると旧領三河国西尾に移封され替わって伊勢長島から菅沼定好が入封する。
寛永11年(1634年)定好は丹波国亀山に移封となり替わって下総国佐倉から石川忠総が入封するが慶安4年(1651年)石川氏もまた伊勢国亀山に移封となる。
最後に以前三河国西尾に移封になって伊勢国亀山に移封されていた本多俊次が再入封し以後明治に至る。


大津城:天正14年(1586年)浅野長吉によって築かれた。築城に際しては坂本城の部材が転用され、坂本の住民も多くが大津へ移住したという。 その後立て続けに城主がかわったようで、天正17年には増田長盛、天正19年に新庄直頼、文禄4年に京極高次が城主となったようである。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の直前に京極高次の籠る大津城を毛利元康が攻め、激しい戦いが繰り広げられ、あとは本丸を残すまで攻め込んだ所で大津城は開城した。
関ヶ原合戦後、大津城は廃城となって新たに膳所城が築かれ、大津城の部材は膳所城と彦根城に転用された。現存してる彦根城の天守はこの大津城の天守を移築したといわれ、もともと五層四重であった天守を移築に際して三重三階に切り詰めたという。

宇佐山城:元亀元年(1570年)森可成によって築かれた。 織田信長が家臣の森可成に命じて築かせた城で、近江国から京へ入る道筋を押さえる為に築いたものと云われる。
元亀元年(1570年)九月朝倉義景・浅井長政の連合軍が坂本へ押し寄せると、森可成は城を出て坂本で迎え撃ち討死した。連合軍は宇佐山城へ攻め寄せ放火したが、攻め落とすことはできなかった。摂津から急ぎ京へ戻った信長は宇佐山城へ入り連合軍と対峙したが、膠着状態となり和議となった。
信長は明智光秀を宇佐山城主とすると、延暦寺の焼き打ちなどを命じた。元亀2年(1571年)明智光秀は坂本の地に坂本城を築いて移り、宇佐山城は廃城となった。

坂本城:元亀2年(1571年)明智光秀によって築かれた。 元亀2年(1571年)織田信長は明智光秀に比叡山焼き打ちを命じ、その功によって近江国志賀郡五万石を与え坂本城の築城を命じた。 坂本城は琵琶湖に面した低地にあり、天主と小天守を備えた城郭であったと云われる。
天正10年(1582年)光秀は本能寺にて主君織田信長、二条御所では信長の嫡男織田信忠を急襲して自刃に追い込んだ。安土城を占拠して明智秀満に託し、光秀は天王山に羽柴秀吉と戦ったが敗れ、わずかな手勢を引き連れて坂本城へ戻る途中、山城国小栗栖にて落ち武者狩りの百姓に致命傷を受け、自刃して没した。 光秀の死を知った明智秀満は安土城から坂本城に移り、城に火を放ち坂本城は灰となった。
その後、坂本の地は丹羽長秀に与えられ天正11年(1583年)から坂本城の再建が行われたが、天正14年(1586年)に大津城の築城に際して坂本城は廃城となり、部材は大津城に移されたと云われる。

湖北に向かう。

大溝城:天正6年(1578年)織田信澄によって築かれたと云われる。 織田信澄は織田信長の実弟織田信行の子で、津田信澄とも称した。
元亀年間(1570年〜1573年)に信長は浅井長政を滅ぼして高島七頭も降すと、高島郡には磯野丹波守員昌が入部し新庄城を居城とした。信澄はこの員昌の養子となっていたが、天正6年(1578年)員昌は信長の勘気を被って追放されると所領は信澄が継いだ。
天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変で倒れた際、信澄は四国征伐軍の副将として織田信孝に従って大坂にいたが、信澄の正妻が明智光秀の娘であったことから内通が疑われ、織田信孝・丹羽長秀の軍勢に急襲され摂津国野田城にて討たれた。
信澄の後は丹羽長秀の所領となって代官として植田重安が在城した。 天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦後に丹羽長秀が越前国府中城に移封となると、加藤光泰が入部した。天正13年(1585年)には加藤光泰は美濃国大垣城へ移り、代わって生駒親正が城主となるが、親正も翌天正14年(1586年)に伊勢国神戸城へ移封となった。
その後は再び秀吉の直轄領となっていたが、天正15年(1587年)京極高次が入部した。天正18年(1590年)には織田三四郎が城主となるが、再び秀吉の直轄領になって吉田修理が代官を務め、最後に文禄4年(1595年)岩崎掃部佐が城主となった。
慶長8年(1603年)に大溝城は破却され水口岡山城に部材が転用されていたと云われる。
江戸時代に入り元和5年(1619年)伊勢国上野より分部光信が二万石で入封し大溝藩となった。大溝藩は城主格ではなかったため、廃城となっていた大溝城の三の丸付近に大溝陣屋を構え、以後代々続いて明治に至る。

朽木城:築城年代は定かではないが江戸時代初期に朽木氏によって築かれた。 朽木氏は高島七頭の一人で宇多源氏佐々木信綱を祖とする。 信綱は近江守護で承久の乱の戦功により、高島郡朽木荘の地頭職を得て、信綱の曾孫である義綱の時、朽木氏を名乗った。
朽木氏は足利将軍が京での戦乱を避け、朽木谷へ逃れてきたのを度々もてなしている。
元亀元年(1570年)織田信長が越前朝倉氏を攻めたとき、浅井氏が朝倉氏と結んで信長の退路を断った際に、松永秀久の説得に応じて信長を応対し京へと案内した。 また、関ヶ原合戦においては当初西軍に付いていたが、途中で徳川方へ寝返り、その結果九千五百石を安堵され、一万石に満たないものの大名格の交代寄合として江戸に参勤した。
朽木氏は薩摩島津氏、肥後相良氏などと同じく中世から明治まで一貫して在地を治めた数少ない家である。

清水山城:麓にある西屋敷跡を散策しながら登る。
主郭は南側の頂部で北側の2条の竪堀は良く見えるが、東側の竪堀は草に覆われている。南西方向の尾根に土塁などが残る曲輪群がある。
北曲輪群には畝状竪堀群があり、ここは非常に良く残っている。

木ノ本方面に向かう。

賤ヶ岳砦:築城年代は定かではない。天正元年(1573年)に浅井・朝倉軍が賎ヶ岳に布陣していた記録が残されている。
天正11年(1583年)賤ヶ岳合戦では羽柴秀吉方の砦として利用された。 城将は但馬国竹田城主桑山重晴、羽田長門守、浅野弥兵衛であった。
羽柴秀吉が美濃の岐阜城主織田信孝を攻めにいって留守のとき、柴田勝家の武将佐久間盛政が秀吉方の大岩山砦を急襲して砦は陥落、守将中川清秀は討死、盛政はさらに高山右近の岩崎山砦も攻め落とした。勝家は盛政に撤退を命じたが盛政はこれを無視して大岩山砦に兵を置いて維持した。その後、賎ヶ岳砦の桑山重晴も砦を破棄して撤退しようとしたが、琵琶湖を渡って援軍に駆けつけた丹羽長秀と合流して砦を維持した。さらに翌日には急を聞きつけ美濃の大垣よりとって返した秀吉の本隊も合流して佐久間盛政を撃破し、さらに柴田勝家の本隊も切り崩し秀吉方の勝利となった。

山本山城:築城年代は定かではない。 平安時代末期に山下兵衛尉義経が籠った山下城がこの城であったと云われる。 その後京極氏の被官阿閉氏の居城となったが、永正年間(1504年〜1521年)頃には浅見氏の居城となっていた。 浅見氏は一時期浅井亮政と対立したが後にその傘下に組み込まれ再び阿閉氏が城主となった。
織田信長による小谷城攻撃では、阿閉氏の籠る山本山城が天正元年羽柴秀吉謀略によって開城となり、小谷城は孤立し落城した。

18:30彦根方面に向かう。

19:30彦根市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

21日7:30車で出発、米原方面に向かう。

佐和山城:築城年代は定かではないが、佐々木定綱の六男佐保時綱が麓に屋敷を構え砦を築いたのが始まりと云われる。 六角氏と京極氏の争いでは境目に位置する佐和山城が標的となり、京極氏に替って勢力を伸ばした小谷城の浅井氏が奪うと、磯野員昌を城主とする。 織田信長が越前朝倉氏を攻ると、浅井氏は朝倉氏と結び、織田氏と敵対する。 危機を脱した織田信長は粘り強く佐和山城を攻め、天正10年(1582年)礒野員昌は降伏し城を明け渡した。
信長が本能寺の変で没すると、明智光秀を討った羽柴秀吉の所有となり、後に石田三成が城主となる。 石田三成が関ヶ原合戦で破れると井伊直政が入封するが、後に彦根城を築き廃城となった。

鎌刃城:築城年代は定かではない。 城主は土肥氏ともいわれるが、堀氏が有力視されいる。堀氏の出自は詳らかではないが藤原秀郷流と推測されている。
この城は観音寺城佐々木六角氏と上平寺城京極氏・小谷城浅井氏との間で幾度か争われ、堀氏はその狭間で度々主家を変えている。
織田信長が越前朝倉氏を攻めると、浅井氏は朝倉氏と通じ織田氏と対峙するようになる。 堀氏は織田方へついたため、浅井氏によって攻められるが織田氏の援軍によって辛うじて落城を免れている。天正2年(1574年)堀氏は織田氏によって粛正され滅亡した。

弥高寺跡:仁寿年間(851年〜854年)に僧三修によって設けられた山岳寺院と伝えられる。
伊吹山寺の中心をなした寺院と推測され、地元では弥高百坊と呼ばれている。隣接する京極氏の上平寺城との関連性があり、この弥高寺も支城の一つとして城郭化された。

上平寺城:築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)頃に京極高清によって築かれたと云われる。
京極氏は佐々木氏の分家で京の京極高辻に屋敷を構えたことから京極を称し、宗家である佐々木六角と区別して佐々木京極氏とも呼ばれている。 京極氏は京極導誉のとき足利尊氏に従って力を付け、室町時代には四職家の一つとなり、北近江の守護職や出雲守護職、飛騨、隠岐などの守護職にも任ぜられた。
その後、京極氏の内訌などが続いたが永正2年(1505年)京極高清は正経の子京極材宗と和睦が成った。この後に高清の居城として上平寺城が築かれたと云われる。
大永3年(1523年)再び家督を巡る争いが起こり、浅見貞則を旗頭とする国人衆らによって上平寺城は落城し、京極高清らは尾張へ逃れた。その後、近江へ戻った高清であったが、小谷城主の浅井氏が台頭し、京極高清・高広父子は小谷城へ移り住むなど京極氏の居城としての上平寺城の役目は終わっていった。
元亀元年(1570年)織田信長が越前の朝倉氏を攻めたとき、浅井長政は背後から挙兵して織田軍と戦ったが、信長は九死に一生を得て岐阜へ戻った。信長を逃した長政は織田氏に備えるため、刈安城(上平寺城)と丈比城を改修して備えたが、鎌刃城主の堀秀村らが織田方に寝返ったため、この防衛戦も役に立たなかった。

余呉方面に向かう。

横山城:築城年代は定かではないが京極氏によって築かれたと云われ、 永正14年(1517年)浅井亮政によって攻め取られ、浅井氏によって改修されたものといわれる。
織田氏が越前朝倉氏を攻めると、浅井氏は朝倉氏と結び織田氏と決別、元亀元年(1570年)世に云う姉川合戦となり、織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍は姉川を挟んで対峙する。 この時、織田信長は横山城の北の尾根端、竜ヶ鼻砦に陣取り、柴田勝家・羽柴秀吉等に横山城を攻略させた。
信長は羽柴秀吉を横山城主とし天正元年(1573年)浅井氏滅亡まで小谷城を抑える拠点として重要な役目を担った。

虎御前山城:天正元年(1572年)織田信長によって築かれた。 元亀元年(1570年)鎌刃城の堀氏を調略した信長は虎御前山を本陣として小谷城を攻めたが、この時は本格的な築城には至らず兵を引いた。
天正元年(1572年)再び小谷城に侵攻した信長は虎御前山に築城し、元亀4年(1573年)小谷城が落城するまでの間、最前線の砦として利用された。

東野山城:築城年代は定かではないが東野氏によって築かれたと云われる。 東野氏は西麓に東野館があり、その詰城として東野山城が築かれたと云われる。現在の遺構は天正11年(1583年)賎ヶ岳合戦で羽柴秀吉方の砦として築かれたもので、堀久太郎秀政が布陣した。

14:00帰路に向かう。

今回の旅行、北海道の旭川方面のお城めぐりの予定でしたが、台風の影響もあり、旭川は大雨、河川氾濫に危険性有とのことで急遽変更、近場の滋賀県に足を運び、比較的マイナーなお城14か所を訪れ楽しみました。

歴史深い滋賀県、特に戦国時代は幾多の戦場の場でもあり、多くの歴史的建造物遺跡が多く興味深い地でもあります。
お城も多く、戦のための山城が多く、確認するのに苦労を要しました。
結局1泊2日で16か所のお城をめぐり堪能しました。


















SL北びわこ号湖北を走る
2012年12月2日

滋賀県湖北に足を運び、湖北路、米原−長浜−木ノ本間を季節運行する蒸気機関車。昭和10年〜14年にかけて作られ、ポニーの愛称で有名な「C56形160号機」が牽引します。運転日は平成24年11月4日(日)、11月11日(日)、11月18日(日)、11月25日(日) 、12月2日(日) の5日間 で今回は最終の運行であるSL北びわこ号に乗車しました。

11:10大阪駅新快速で出発
11:30米原駅到達、昼食
13:16米原駅SL北びわこ号で出発
14:00木ノ本駅到達、散策

戦国時代に重要な役割を果たす。戦国時代の前半、この地域を支配したのは京極氏で、その本拠は上平寺城であり、脇往還は領国統治の基幹道であった。戦国時代の後半、この地域を支配した戦国大名浅井氏の本拠である小谷城も、往還沿いの伊部・郡上を城下町としている。浅井長政の正室・お市が、織田信長の居城である岐阜から嫁いだのもこの脇往還である。織田信長や徳川家康はこの街道を辿って近江に攻め込んだ。小谷落城後、城から脱出したお市と浅井三姉妹が美濃方面に向かった経路もこの街道と考えられる。さらに、賎ヶ岳合戦時、秀吉が大垣から52Kmを5時間で駆け抜けた「秀吉の大返し」の経路でもある北国脇往還を散策する。

古くから眼の仏として信仰を集める寺。寺には眼を患った人の身代わりに片目を閉じたカエルが棲むといわれ、境内のいたるところに「身代わり蛙」というカエルのお守りが奉納されている。境内の大地蔵は本尊の地蔵菩薩(秘仏)を写したものの木之本地蔵院を訪れる。
15:14木ノ本駅新快速で出発
17:12大阪駅到達。

今回は近場の滋賀県湖北に足を運び、昭和10年〜14年にかけて作られ、ポニーの愛称で有名な「C56形160号機」が牽引するSL北びわこ号に乗車しました。

到着駅の木ノ本駅周囲の北国脇往還をも散策し楽しめました。






滋賀県びわ湖多景島&沖ノ島観光
2011年7月27日


滋賀県の日本一の水瓶びわ湖に足を運び、彦根彦根市街地の沖合い約6.5kmに浮かぶ周囲約600mの小さな島で、島全体が日蓮宗見塔寺の境内となっています多景島、近江八幡市から琵琶湖の沖合約1.5qに浮かぶ沖島は、琵琶湖最大の島です。周囲約6.8q、面積約1.53kuで琵琶湖最大の島です。約400人の人が住んでいます。湖沼の島に人が住む例は世界的にも少なく、学術的にも注目されています沖島を訪れました。

13:00車で第二京阪名神自動車道経由して彦根インター下車
14:30彦根港到達
15:10彦根港観光船で多景島に向かう。
15:30多景島到達、散策する。

島を眺める方向により多様な島影をみせるところから島名が付けられたと言われています。彦根市街地の沖合い約6.5kmに浮かぶこの島は、周囲600mあり、古く弥生時代から島そのものが御神体として崇められてきました。 「南無妙法蓮華経」と彫られた高さ10mの「題目岩」や、高さ20mの五箇条の御誓文が刻まれた「誓いの御柱」、「日蓮上人像」等がそれぞれ意味深い歴史を物語っています多景島を散策する。

明暦元年(1655年)に、琵琶湖に沈んだ人々と魚介類の供養の為に慈雲院日靖上人が開山した日蓮宗のお寺です。日靖上人は、越前の国大野の出身で、長浜の妙法寺で修行中の明暦元年、夢のお告げでこの島に渡り、石の宝塔と庵室を建立されたそうです。第3代彦根藩主の井伊 直澄は、法華経の信仰が篤く、彦根藩裏鬼門の祈願所としました霊夢山見塔寺を訪れる。

この岩は、高さ約6間(10.8m)、幅約4間(7.2m)あり、「南無妙法蓮華経」の文字が彫られています。元禄5年(1692年)に、命綱にぶら下がりながら三年の歳月をかけて日靖上人によって刻まれました。 題字は京都妙顕寺・勝光院日曜上人の筆で、一文字に米一俵が入ると言われています。また、桜田門外の変での井伊大老横死の際に、鮮血をにじませたとも伝えられています題目岩を訪れる。

若き日の日蓮上人の姿で、高さは6尺(約180cm)の日蓮上人像を訪れる。

第3代彦根藩主の井伊 直澄が、父・直孝に恩義を感じ、供養の為に、高さ8mの塔を建てた石造七重層塔を訪れる。

日本に一体しかない出山釈迦牟尼佛の座像が祀られている釈迦断食行像を訪れる。

大正13年(1924年)に建立され、島の一番高いところににあります。五角形の柱の五面それぞれに明治天皇の五箇条の御誓文が刻まれています。当時、滋賀県の警察部長だった水上七郎氏の呼びかけで、約70余万人から寄付を受け、紛争などが絶えない時代を巨ウすべく日本の中心地であるこの島に建立されました。皇室からも下賜金を賜ったそうです誓いの御柱を訪れる。

16:00多景島観光船で出発
16:20彦根港到達、車で堀切港方面に向かう。
17:00堀切港到達
17:15堀切港フェリーで出発
17:25沖島港到達、散策する。

琵琶湖の中ほどにある沖島は周囲約6,8q、面積約1,5kuで人口は約500人の有人島。藤原鎌足の子供が作ったという奥津島神社があり、清和源氏の落ち武者などが定住したのがはじまりらしい。淡水湖に人が住んでるのは日本ではここだけで世界的にも珍しい沖島を散策する。

7人の落武者の一人:茶谷重右衛門の末裔が蓮如(本願寺第8代上人)に帰依し庵を建てたことに始まります。寺宝には蓮如上人直筆の虎斑の名号と正信偈が残されています西福寺(浄土真宗本願寺派)を訪れる。

藤原不比等の建立に始まります。鳥居の社標は憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄(愕堂)。宮世話は島で42歳になったものが1年間行い、その交代式は大晦日の深夜に行われます。春祭りは5月8日・秋祭りは9月20日の奥津島神社(祭神は奥津島比売命)を訪れる。

明治の学制発布により西福寺内に開設されたのが始まりで、明治42年に旧校舎地に移転、平成7年には現在の地に新築移転されました。小学校の給食はスクールボートに積み込み当番児童がリヤカーを使って学校まで運びます。中学生は昭和39年に分校が本校に統合されてからは、スクールボートで通学しています沖島小学校を訪れる。

長松寺(彦根市)の僧が記した沖島弁天記に弁天を祀ったとの記録が残されています。雨乞い弁天として信仰されており、明治9年にはこの地で雨乞いを行った記録も残されています弁財天(厳島神社)を訪れる。

沖島の住人西居某が蓮如上人に帰依し、法名を釈願證と授けられたことに始まります願證寺(浄土真宗本願寺派)を訪れる。

19:30沖島港フェリーで出発
19:40堀切港到達、車で帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、滋賀県のびわ湖に足を運び、歴史深い2つのびわ湖の島、多景島、沖島を訪れ点在する寺社、史跡巡りしてきました。

ヨットで何回か訪れたことのあるびわ湖の諸島、観光は初めてで時間をかけて2つの島をくまなく歩いて制覇しました。













滋賀県竹生島観光
2011年6月22日


日本最大の湖、びわ湖がある滋賀県に足を運び、琵琶湖の長浜市葛籠尾崎沖約2kmに位置し、周囲約2kmの針葉樹で覆われた島です。西国第三十番札所の竹生島宝厳寺や都久夫須麻神社(竹生島神社)があり、古くから「神を
く島」として信仰されてきました。また、琵琶湖八景(深緑)の一つとしても数えられています竹生島を訪れました。

12:30車で第二京阪名神北陸自動車道経由して長浜インター下車
13:55長浜港到達
14:00長浜港フェリーで出発
14:30竹生島到達、散策

竹生島には、南側にこの島唯一の港があります。港に着いて上陸すると、琵琶湖周航の歌の一部を記した石碑があり、それを横目に進むと土産物店の気さくな店員さん達に迎え入れられました。

今から450年前、豊臣秀吉が寄進しました伏見桃山城の束力使殿を移転したもので、国宝となっています。本殿内部は桃山時代を代表する、優雅できらびやかな装飾が施されています都久夫須麻神社(竹生島神社)を訪れる。

祭神は湖水を支配する浅井姫命。明治4年(1871)の神仏分離以前は、竹生島明神、または竹生島弁財天社と呼ばれ、宝厳寺を別当としました。現在の本殿は、総桧皮葺、入母屋造り。正面には向殿が設けられています。創建以来、度重なる火災で焼失しましたが、戦国時代に再建されました。その後、豊臣秀頼が伏見城の日暮御殿(一説には豊国廟とも伝えられています)を移築し、改修を施しました。そのため、前後の軒に唐破風、周囲に庇(ひさし)をめぐらした複雑な建築になっています。内部には狩野光信筆の襖絵や絵天井があり、特に60の格間を持つ格天井は、金地の濃淡に四季の花弁を繊細なタッチで描いた秀作です。また、柱、床、長押には、黒漆地に花鳥文様の蒔絵が施され、豪華絢爛な桃山文化を現在に残しています。

その昔、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せ よ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりだそうです。そ の後、伝教大師、弘法大師なども来島し修業されたと伝えられています竹生島宝厳寺を訪れる。

唐門(国宝) 船廊下(重文) 観音堂(重文) 三重の塔 五重石塔(重文) 宝物殿 モチノ木 を見学する。

真言宗豊山派、厳金山の号を持つ、西国三十三観音霊場第30番札所。本尊の大弁財天は、江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁財天」の一つです。、都久夫須麻神社に続いている船廊下は、豊臣秀吉の御座船を利用して作られたもので、国の重要文化財になっています。その入り口に立つ唐門は国宝であり、こちらは京都東山の豊国廟から移築されたものです。奈良時代、聖武天皇の勅命を受けた高僧行基が、国内安穏、国家鎮護の祈りを込めて小堂に四天王像を安置したのが始まり、と伝えられています。

15:50竹生島フェリーで出発
16:20長浜港到達、帰路に向かう。

今回の名所巡り、滋賀県のびわ湖に浮かぶ竹生島に足を運び、歴史深い由緒ある神社と寺院を訪れました。

ボートで何回か訪れたことのある竹生島、上陸は初めてで、観光も今回初めての体験でした。

小さな島に密集した多くの歴史的建造物、驚きました。







滋賀県高月・木之本&奥びわ湖観光
2011年6月8日


滋賀県に足を運び、里人に守られてきた観音の里、戦国大名浅野氏のふるさと高月・木之本、美しいびわ湖風景が望める奥琵琶湖周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪名神北陸自動車道経由して
14:00木之本インター下車

江戸中期、朝鮮半島との外交や貿易に尽力した高月町出身の儒学者・雨森芳洲の業績を顕彰するため、芳洲の生家跡に建てられ、彼の著書の『交隣提醒』など、300点以上の貴重な資料を収蔵している雨森芳洲庵を訪れる。

固く結んだふくよかな唇に、わずかに朱が残っている愛らしい姿の十一面観音立像(重要文化財)を本尊として安置している。作家・井上靖が、小説『星と祭』の中で当時の観音像の姿を村の若い娘にたとえたことで有名な石道寺を訪れる。

滋賀県内で唯一、国宝に指定されている十一面観音立像(平安初期作)(国宝)を祭る。頭に配置された菩薩の配列や、鼓胴形の大きな耳飾りが特徴的。736年(天平8)に僧泰澄が、都に流行していた疫病除けの奇岩を込めて刻んだと伝えられる。織田信長の小谷攻めのときに堂宇は焼失したが、観音像は村人らが運び出して難を逃れたという向源寺を訪れる。

己高閣は、1963年(昭和38)に県が建てた文化財収蔵庫。かつて山岳信仰の霊場として栄えたが無住・廃寺となった、己高山諸寺の寺宝を安置。素朴な容姿の鶏足寺十一面観音立像(重要文化財)をはじめ、七仏薬師など約90躯の貴重な仏像と資料が収められている。世代閣には、戸岩寺本尊薬師如来立像や十二神将像など5体の重要文化財を収蔵。紅葉の名所として人気がある己高閣・世代閣を訪れる。

高時川を見下ろす静かな山間に立つ無住の観音堂内に、細い目と薄い唇の端正な顔立ちが印象的な十一面観音立像(重要文化財)がある。平安時代後期の作で、像高145.4cm、クスノキの一本造り。井上靖の小説『星と祭』に、「清純な乙女の姿をモデルにした観音さま」として紹介されている医王寺を訪れる。

古くから眼の仏として信仰を集める寺。寺には眼を患った人の身代わりに片目を閉じたカエルが棲むといわれ、境内のいたるところに「身代わり蛙」というカエルのお守りが奉納されている。境内の大地蔵は本尊の地蔵菩薩(秘仏)を写したものの木之本地蔵院を訪れる。

大箕山山中にある真言宗の寺。余呉湖に残る伝説の天女が産んだ子といわれる菅原道真が、京に上る11才まで勉学に励んだと伝えられている。山門の前には道真が植えたという樹齢1000余年、高さ約15mのケヤキの大木がそびえている。境内にある銅鐘(重要文化財)は鎌倉時代のもの菅山寺を訪れる。

江戸時代に湖上水運の主役を務めた丸子船。2つに割った丸太を船の胴の両側に付けた琵琶湖独特の木造船。館内では丸子船の実物を展示し、ジオラマや古文書などで当時の様子を紹介している北淡海・丸子船の館を訪れる。

琵琶湖に突き出た、葛籠尾半島北東の入り江に位置。三方を山に囲まれた、陸の孤島を思わせる環境にある集落で、かつては警察や軍事など自立的に秩序を保つ村落共同体「惣村」を組織していた。その歴史は平安時代以前までさかのぼり、鎌倉時代〜明治初期の村の様子を記す『菅浦文書』という古文書が残る。集落の東西には、出入りの検札を行っていた四足門と呼ばれる2つの門がある歴史の里菅浦を訪れる。

琵琶湖の最北に突き出した葛籠尾半島の山並みを縫うように走る、全長18.8kmのドライブウェイ。四季折々の美しいパノラマが楽しめるが、沿道の約4000本の桜が咲き誇る春は特に美しい奥琵琶湖パークウェイを走行する。

長浜市の湖岸から約6km沖合に浮かぶ、周囲約2kmの島。巨岩の上に繁った緑の樹木が青い湖面に映えた姿は、「深緑 竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つに挙げられている。湖北地方の荒波を鎮める神の島としても信仰され、桃山文化の粋を集めた入母屋造りの本殿(国宝)がある都久夫須麻神社と、唐門(国宝)や五重石塔(重要文化財)など多くの文化財を有する西国三十三カ所30番札所宝厳寺があり、多くの参拝客が訪れる竹生島を望む。

奥琵琶湖パークウェイの入口に位置し、古代から奥琵琶湖を望む景勝の地として愛でられてきた。古くは「鐘引坂」と呼ばれ、山と湖が織りなす美しい風景は、南北朝時代に編纂された『新拾遺和歌集』にも詠まれている月出峠を訪れる。

琵琶湖八景の一つとして有名な「暁霧・海津大崎の岩礁」。天狗の鼻に似た天狗岩や八畳敷の広さを誇る八畳岩など、紺碧の湖面から突き出る奇岩群と岩壁に生い茂る緑が織り成す風景は豪快。また湖岸沿い約4kmにわたって約600本の桜並木が続き、その見事な様は「日本のさくら名所100選」にも挙げられるほどで、奥琵琶湖に春の訪れを告げる代表的な風物詩となっている海津大崎を訪れる。

18:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の滋賀県に足を運び、美しいびわ湖が望める奥びわ湖周辺、湖北の古刹、観音の里、高月・木之本を訪れ、自然と文化遺産に接し、楽しめました。

最後に訪れた海津大崎は落石のため通行止め、西端のみしか確認できず、残念でした。

今回でほぼ滋賀県は制覇しましたが、びわ湖に浮かぶ島々が残っています。
次回訪れたいと思います。








滋賀県伊吹山周辺・長浜観光
2011年5月25日


近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、花々が咲く伊吹山周辺の自然に囲まれたエリア、城下町でレトロモダンな町並みの長浜を訪れました。

12:30車で第二京阪名神自動車道経由して米原インター下車
13:30伊吹山周辺に到達。

聖徳太子が創建し、後に一向上人が再興した。鎌倉幕府崩壊とともに自刃した北条仲時と家臣の墓(史跡)が境内にあり、彼らの名前を記した「陸波羅南北過去帳」(重要文化財)も残る。長谷川伸作の『瞼の母』で有名な、「番場の忠太郎」の地蔵も祀られている蓮華寺を訪れる。

明治維新まで大名として続いた京極氏の菩提寺で、京極家墓所(史跡)に歴代34基の宝篋印塔が並ぶ。また、小堀遠州作といわれる回遊式庭園が見事である清滝寺徳源院を訪れる。

鎌倉時代に農業池として造られた広さ約3万9000平方mの池。マガモの自然繁殖池としても知られる。マガモ、ヒドリガモ、オシドリなどさまざまな水鳥が飛来し、野鳥観察も楽しめる三島池を訪れる。

長浜方面に向かう。

正式には真宗大谷派本願寺別院大通寺といい、「ごぼうさん」の名で親しまれている。桃山建築の本堂(重要文化財)と大広間(重要文化財)、伊吹山を借景にした枯山水庭園の含山軒庭園(名勝)、円山応挙や狩野山楽・山雪が描いた障壁画などみどころが多い大通寺(ごぼうさん)を訪れる。

長浜市内にある秀吉ゆかりの6社寺(長濱八幡宮、豊国神社、知善院、総持寺、舎那院、神照寺)を巡って、無病息災と開運招福を祈り、祈祷された瓢箪各400円を集める。「6つの瓢箪=むびょうたん」ということから、無病に通じ縁起がよいものとして広く親しまれてきた六瓢箪巡りする。

六瓢箪巡りの一つ。運慶作と伝えられる十一面観音坐像(重要文化財)が、境内の観音堂に安置されている知善院[六瓢箪巡り]を訪れる。

19世紀末から20世紀初めに活躍した、フランスのガラス工芸作家ルネ・ラリックの作品を集めた私設美術館。館長が50年以上かけて世界各地で収集した約200点以上の作品のうち、花瓶や鉢など50〜70点を展示する成田美術館を訪れる。

将軍足利義晴の命で1544年(天文13)に初めて鉄砲を製造して以来、鉄砲鍛冶の村として発展してきた国友の里。展示室には鉄砲鍛冶の仕事ぶりを再現したジオラマや、実物の火縄銃に触れられる体験コーナーがある国友鉄砲の里資料館を見学。

正式には真宗大谷派本願寺別院と呼ばれ、1597年(慶長2)に地元出身の郷士大村刑部らが教如上人(東本願寺開創の上人)のために堂宇を建立したことに始まる。1674年(延宝2)建立の表門(重要文化財)、入母屋造の本堂(重要文化財)をはじめ、教如上人の分骨を納めた廟所、鐘楼などがある五村別院を訪れる。

1570年(元亀元)、約3万の兵力を誇った織田信長・徳川家康連合軍に対して、1万8000人の浅井長政・朝倉景健連合軍が挑んだ。姉川付近で激闘が繰り広げられ、結果は信長の勝利に終わった。現在の野村橋が架かる姉川一帯は血に染まったといわれ、今も供養塔が残る。多数の戦死者を出した浅井方はこの戦いの後、1573年(天正元)の小谷城落城とともに終焉を迎えることになる姉川古戦場を訪れる。

茶道や造園で有名な小堀遠州の菩提寺。息子・宗慶が1653年(承応2)に建立した。近江八景を模した池泉回遊式の庭園や、枯山水に石組を施した五老峰を配した趣深い庭園がある。秋の紅葉も見事の孤篷庵を訪れる。

能装束や能面など多彩な能楽資料を展示。この地は江戸時代、養蚕業が盛んだったことから、光沢のある良質の絹糸で将軍家の能装束や衣服が織られたという浅井能楽資料館を訪れる。

1524年(大永4)、小谷山の山頂付近に築かれた山城。浅井氏三代の居城である小谷城は、3代長政が姉川の戦いに敗れた後に落城。今では石垣や土塁、礎石などを残すのみの小谷城跡を近くで望む。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、滋賀県の湖北、伊吹山周辺と長浜エリアを訪れ、点在する寺社や史跡を訪れ楽しむことが出来ました。

湖北は道が広く、車も少なく、ドライブ観光に適しています。なかなか癒されますね。









滋賀県湖西北観光
2011年4月6日


日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、美しい湖水風景が展開し、比良山系の麓に自然風景が残る森と湖の静かな美観エリア湖西北を訪れました。
12:30車で第二京阪京滋名神湖西道路経由して
13:40和哉インター下車

飛鳥時代から平安時代にかけてこの地方で隆盛を誇った、小野一族ゆかりの地を訪ねる散歩道。JR湖西線小野駅と和邇駅を結ぶエリアに地図や道標が整備され、3kmの歴史散策が楽しめる。小野神社はわが国初の遣隋使・小野妹子が創建したといわれ、日本で初めて餅つきをしたと伝わる米餅搗大使主命を祭神とすることから、現在では菓子づくりの神様としてあがめられている。境内には摂社として、一族で漢詩文の名手として名高い小野篁を祭った小野篁神社や小野道風神社がある歴史の散歩道を訪れる。

琵琶湖西南部の湖畔には、昔ながらの里山風景が残されている。大津市八屋戸、栗原や大津市仰木など比良山系を背景とする高低差の大きいこの地域では、今も谷に沿って連なる棚田を見ることができる。どこか懐かしい、四季折々の季節感あふれる風景は、写真愛好家にも人気が高い。棚田が黄金に色づくころや、刈り入れの後にこの地域特産の干し柿作りが行われる秋は特に美しい琵琶湖西南部の棚田を訪れる。

奈良時代、相撲界で現在の横綱にあたる最手役として活躍し、日本初の行司として召し抱えられた志賀清林の功績を記念して造られた公園。清林は相撲四十八手の基礎を創案した人物と伝えられ、約3万平方mの公園には、記念碑や相撲場、子供用の遊具などが整備されている志賀清林パークを訪れる。

足利13代将軍の義輝が名付けたと伝わる、滋賀県下随一の落差76mの滝。雄滝、薬研の滝、雌滝[めだき]の3段に分かれ、遠くから眺めると白い布を垂らしたように見えることから、「布引きの滝」とも呼ばれる楊梅の滝を訪れる。

江戸時代の儒学者で、わが国陽明学の祖である中江藤樹の居宅・私塾跡(史跡)。1648年(正保5)に建てられたが、明治時代に焼失し、ほどなく再建された書院が残る藤樹書院跡を訪れる。

中江藤樹の遺品・遺墨を集めた記念館。藤樹に私淑していた大塩平八郎が寄贈した『王陽明全集』をはじめ、藤樹の影響を受けた学者の資料や、地元の歴史・文化も紹介。建物北側に隣接して、陽明学の祖・王陽明の生地、中国浙江省余姚市との友好を記念して造られた中国式庭園「陽明園」がある。近隣には藤樹の墓所もあるのであわせて近江聖人中江藤樹記念館を訪れる。

「われは湖[うみ]の子 さすらひの…」の歌詞で知られる琵琶湖周航の歌は、1917年(大正6)に今津町で誕生した。旧制第三高(現・京都大学)ボート部が琵琶湖を周航し、今津の旅籠で一夜を過ごしたときに部員の小口太郎氏がこの詩を披露。当時の流行歌「ひつじぐさ」のメロディにのせて歌ったのが始まりという。ここでは、レコードや各種資料を紹介している琵琶湖周航の歌資料館を見学。
湖西に春の訪れを告げる植物として知られる座禅草約3000株が、今津町弘川の湿原に群生している。お坊さんが座禅をしている姿に似ていることから名付けられたという「座禅草」は、高さ10〜20cmのサトイモ科の植物で、2〜3月に褐紫色の包に包まれた花が咲く。あたりは県の緑地環境保全地域に指定されており、遊歩道が整備されている座禅草群生地を訪れる。

740年(天平12)、聖武天皇の勅願寺として行其菩薩が開創。近江三十三観音霊場の第8番札所で、境内に樹齢500年以上のエドヒガンザクラがある。梵鐘は戦争に供出しなかった残置鐘。平安初期の大般若写経600巻、天正15年の焼失前の古絵図など、多品種、約1000鉢の盆栽も観賞できる酒波寺を訪れる。

鯖街道に向かう。

その昔、若狭湾の幸を京の都にもたらした街道。「鯖街道」とも呼ばれ、大勢の行商人たちが往来。浜塩をした鯖は運ばれるうちに塩がまわって旨さを増し、鯖ずしという食文化を生み出した。旧若狭街道の国道367号沿いには、今も鯖ずしの店が点在する若狭街道を走行する。

近江源氏佐々木氏の祖神を祭る邇々杵神社の奥の院と呼ばれ、鎌倉初期の釈迦如来像をはじめ20余体の仏像が安置されている。平安時代に創建されたあと荒廃し、1842年(天保13)に再建された邇々杵神社多宝塔を訪れる。

美しい樹林が広がる森林公園。温泉施設やレストラン、テニスコート、グラウンド・ゴルフ場のほか、山荘やバンガローなどの宿泊施設も備えているグリーンパーク想い出の森を訪れる。

延暦寺の僧、相応和尚が開いたといわれる天台修験の聖地。室町時代には九代将軍足利義尚やその母日野富子などが参籠に訪れた葛川息障川明王院を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、滋賀県湖西北部に足を運び、志賀・近江舞子から今津までの湖岸に点在する歴史的建造物と若狭湾の幸を京の都にもたらした鯖街道に点在する歴史的建造物に触れ時間を過ごしました。







滋賀県大津周辺観光
2011年1月12日


近畿の水瓶日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、県庁所在地の大津、世界遺産比叡山延暦寺、源氏物語紫式部ゆかりの石山寺が位置する大津周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪京滋バイパス経由し
13:15石山インター下車

立木山の中腹に位置し、境内まで約750段の石段が続く立木観音。平安初期の創建で、弘法大師が42歳の厄年に開基し、厄除けの観音様として信仰を集める立木観音を訪れる。

1690年(元禄3)、芭蕉が約4カ月間を過ごした庵。俳文の傑作『幻住庵の記』は、芭蕉が湖南を見下ろす国分山山中に位置するこの庵で書いたもの。現在、近津尾神社境内の庵跡地には1991年に再建された庵と句碑が残る幻住庵を訪れる。

総面積674平方kmを誇る日本最大の湖で、滋賀県の面積の約6分の1を占める。三重県上野盆地にできた大山田湖が琵琶湖の原形といわれ、約400万年をかけて現在の位置まで移動してきたと考えられている。一年中琵琶湖で見られるカイツブリは滋賀県の県鳥に指定されている。冬になるとカモやコハクチョウなどの多くの水鳥が飛来し、バードウォッチャーの目を楽しませる。またビワマスやニゴロブナ、イサザなど数多くの固有種が生息する珍しい湖であるが、近年は外来種の繁殖や自然環境の変化などの影響で固有種が徐々に減少する傾向にある琵琶湖を訪れる。

膳所焼は江戸初期に小堀遠州の指導で始まった、膳所藩の藩窯が起源。黒味を帯びた鉄釉が美しく、遠州七窯のひとつでもある。館内では、古膳所焼の水指や茶入など茶陶器類を中心に展示する膳所焼美術館を訪れる。

「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という百人一首の作者で、琵琶の名手として知られる平安時代の歌人・蝉丸を祀る。蝉丸が逢坂山に隠棲していたという伝説にちなんで建てられ、この下社のほか上社が近くにある。境内入口には関の清水跡、本殿横に鎌倉時代の時雨灯籠と呼ばれる石灯籠(重要文化財)がたたずむ。上社の南西、国道1号北側には逢坂山関跡がある関蝉丸神社下社を訪れる。

俳句をテーマとした全国でも珍しいギャラリー。マガジンハウスの創立者で、『平凡』の編集長として活躍した清水達夫氏の俳句などを展示する。館内には、彼と親交があったペーター佐藤、大橋歩など著名な芸術家の作品とともに約30点が並ぶ淡淡美術館を訪れる。

大津港の約180m沖合の防波堤上で、形を変化させながら吹き出す噴水の横幅は440mあり、世界最大級。豪快な水しぶきが日没後はカラフルにライトアップされ、幻想的なムードを醸し出すびわこ花噴水を訪れる。

琵琶湖から京都へ続く人工水路。着工から約4年8カ月かけて、1890年(明治23)に完成した。流通経路として活躍しただけでなく、水力発電や上下水道も整備したことで京都の都市機能は著しく発展した。詳細は京都南禅寺近くに立つ琵琶湖疏水記念館。春になると、大津港近くの取水口からトンネルまでの疏水沿いに桜が咲き乱れ、多くの花見客で賑わう琵琶湖疏水を訪れる。

園城寺山門の北側、白壁に囲まれて立つ皇室ゆかりの門跡寺院。987年(寛和3)に、村上天皇の皇子・悟円法親王が開いたと伝えられる。境内には書院造の宸殿(重要文化財)や、「三井の名園」と呼ばれる池泉観賞式の庭園(史跡・名勝)、円山応挙の作品などを展示した大津絵美術館がある圓満院を訪れる。

近江神宮にあり、和時計を中心とした約2300点の収蔵品のうち、約800点を常設展示。江戸時代末期の作品で、完全な形で現存するものとしては唯一の垂揺球儀は必見。櫓時計や尺時計など珍しいものも多い。中国の古代火時計と漏刻の復元模型の屋外展示もある時計博物館[近江神宮]を訪れる。

静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝)(近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している崇福寺跡を訪れる。

滋賀院門跡の上にある。信長による焼き打ちのあと、延暦寺の復興に尽力し、家康をはじめとした江戸幕府に仕えた慈眼大師天海を祀る廟所。境内には家康や紫式部の供養塔、江戸以降の天台座主の墓のほか高島市の鵜川四十八体石仏のうちの13体などが並ぶ慈眼堂[滋賀院門跡]を訪れる。

延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている穴太衆積みの石垣を訪れる。

聖徳太子の創建と伝えられる天台真盛宗の総本山。信長の比叡山焼き打ち後、坂本城の城主となった明智光秀の尽力により復興した。入母屋造の本堂(重要文化財)、桃山様式を伝える客殿(重要文化財)、小堀遠州作庭の客殿の庭などみどころも多い西教寺を訪れる。

応永年間(1394〜1427)、華叟禅師が創建したと伝えられる臨済宗大徳寺派の禅寺。トンチで有名な一休和尚が若きころ華叟禅師の弟子として修行に励んだ寺院としても知られる。開山堂には2僧の木像が安置されている。俳人・松尾芭蕉が訪れたこともあり、1690年(元禄3)の秋に詠んだ句「朝茶飲む僧静かなり菊の花」が句碑として残されている祥瑞寺を訪れる。

1964年(昭和39)、大津市と守山市との間に開通。長さ1350m、最大高さ26.3mのアーチ型の橋で、琵琶湖の東西岸を結んでいる。両側には自転車、歩行者道が併設する琵琶湖大橋を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、何回も訪れたことのある近場の滋賀県大津周辺を巡り、多くの寺社を回り、歴史学習できました。










滋賀県湖南観光
2010年12月1日


湖と山々の自然豊かな地で日本一の近畿の水瓶びわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、江戸時代には東海道五十三次の52番目の宿場町として栄えた草津、日本六古窯のひとつに数えられる信楽焼きで有名な信楽、甲賀忍者の発祥地として知られる甲賀を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して草津インター下車
13:20草津到達

江戸城を築城した太田道灌を先祖にもつ、太田酒造伝来の資料を展示。酒造りの道具や工程をビデオで紹介するほか、自慢の地酒の試飲や販売も行っている道灌蔵を訪れる。

旧草津川トンネルの南側脇にある石造りの道標。旧東海道と旧中山道との分岐・合流点にあたり、街道を往来する諸国の飛脚仲間らの寄進によって1816年(文化13)に設置された追分道標を訪れる。

江戸時代、東海道を往来した旅人のために和中散という薬を販売していた、「ぜさい」の店鋪と屋敷を公開。大名や公家の休憩所も兼ねていたという建物で、格調高い玄関や欄間、小堀遠州作と伝わる池泉式庭園(名勝)などが残る大角家住宅旧和中散本舗を訪れる。

開館以来の各分野にわたる収集資料数は3万点以上。ホール正面の狛坂磨崖仏(複製品)は訪れる人を圧倒する。通史展示は、考古・美術工芸・歴史・民俗など各分野から時代を追って紹介。「いつ行っても同じではない、すこしづつ生まれ変わってゆく展示」を目指し開催。敷地内の移築民家旧中島家住宅は、週末にカマドに火が入り、竹を使って吹き起こす体験が可能。カマドの暖かさやにおいが感じられ、竹馬や昔の遊びも体験できる栗東歴史民俗博物館を見学。

約150万平方メートルの広大な敷地には、競馬場で活躍する競走馬の厩舎や、6つのトラックコースをはじめとして坂路コースや競走馬診療所など、さまざまな施設があるJRA栗東 トレーニング・センターを訪れる。

733年(天平5)、良弁が創建。弘仁年間(810〜824)、願安によって伽藍が整備され、金勝山仏教圏の中心として繁栄した。現在は堂塔がわずかに残るのみだが、虚空蔵堂内の木造虚空蔵菩薩半跏像は十三詣りの仏として信仰を集める金勝寺を訪れる。

和銅年間(708〜715)、良弁によって阿星山の麓に創建された天台宗の古刹。檜皮葺き入母屋造の本堂(国宝)、本瓦葺きの三重塔(国宝)、石灯籠(重要文化財)など南北朝〜室町時代の建築物が境内にたたずむ。紫香楽宮遷都の際、西寺として東寺の長寿寺とともに鬼門を守った常楽寺を訪れる。

天平年間(729〜749)、聖武天皇の勅願によって良弁僧正が創建。西寺の常楽寺に対して長寿寺は東寺と呼ばれる。檜皮葺き寄棟造の本堂(国宝)は鎌倉初期の、弁天堂(重要文化財)は室町期の建築物。その昔は常楽寺と同様に三重塔があったが、信長によって安土城に移され、今も山中のそう見寺跡に残る塔と伝えられる長寿寺を訪れる。

和銅年間に創建され、最澄によって再興された緑深い岩根山中腹に立つ名刹。境内には1366年(貞治5)に再建された檜皮葺き入母屋造の本堂(国宝)があり、堂内には平安期のものをはじめ約30体の仏像が安置されている。そのうち15体は国の重要文化財に指定されている。桓武[かんむ]天皇の病気を治癒したことにより、寺名の由来ともなった清水が今も湧き出す善水寺を訪れる。

自然豊かな敷地で忍者のイロハがわかる。実際に黒装束に身を包み、石垣を登ったり塀際を歩いたりする忍者体験、手裏剣投げ、忍者の道具や衣装を展示する博物館、からくりのある忍者屋敷もある甲賀の里忍術村を訪れる。

江戸時代に築かれた日本最大規模の登り窯で、昔と変わらぬ方法で信楽焼を作り続ける窯元。年に6回ほど薪で登り窯に火を入れる宗陶苑を訪れる。

今回の近場の名所巡り、湖と山々の自然豊かな地で日本一の近畿の水瓶びわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、江戸時代には東海道五十三次の52番目の宿場町として栄えた草津、日本六古窯のひとつに数えられる信楽焼きで有名な信楽、甲賀忍者の発祥地として知られる甲賀を訪れ半日楽しめました。

紅葉の時期は終わりに近ずいてきましたが、まだまだ満足できる滋賀県湖南の紅葉寺院巡りでした。






滋賀県湖東観光
2010年10月20日


近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県の湖北に足を運び、彦根藩井伊家の居城であり、風情ある史跡がいっぱいの城下町彦根、近江商人の発祥の地、八幡堀周辺は白壁土蔵が建ち並ぶ古き佳き風情を残す近江八幡、五個荘を訪れました。

12:30車で第二京阪名神自動車道経由して
13:45彦根インター下車

彦根藩・井伊家30万石の居城。1622年(元和8)、井伊直継・直孝によって、約20年の歳月をかけ完成。琵琶湖から直接引き込んだ堀をめぐらし、小高い山に立つ。3重3層の天守(国宝)を中心に、長浜城から移築された天秤櫓(重要文化財)、城内の合図のための太鼓が置かれていた太鼓門櫓(重要文化財)、近江八景を模した庭園の玄宮園など見どころが数多く残る。天守の内部は見学可。最上層からは琵琶湖が一望の下に見渡せる彦根城を訪れる。

彦根城の北東にある池泉回遊式庭園。1677年(延宝5)、彦根藩4代藩主の井伊直興が造営した。池を中心に中の島や入江に架かる6つの橋など、変化に富んだ趣が楽しめる玄宮園[彦根城]を訪れる。

幕末の大老井伊直弼が17歳から32歳までを過ごした屋敷。彦根藩第11代藩主直中の14男として生まれた直弼は、わずか300俵の捨扶持で部屋住の一生を終えるはずだった。直弼が花の咲かない埋もれ木と同じ身の上だけれども自分にはなすべき技があるといって名付けた舎号の埋木舎を訪れる。

京橋のそばにある和ろうそくのテーマ館。1階はショップやキャンドル作りの体験工房。2階には、高橋狗佛の玩具を展示する彦根まちなか博物館とギャラリーカフェがある夢京橋あかり館を訪れる。

赤門と呼ばれる、朱塗りの山門で有名な寺。石田三成の居城・佐和山城の大手門を移築したものと伝わる。本尊阿弥陀如来は淀殿の念持仏で、大坂城より持ち出されたといわれる。書院の地蔵尊と千体仏は石田三成の念持仏とされ、紅白の砂利を火と水にみなした「彼岸白道の庭」の奥には権現位牌堂があり、徳川家康の位牌を安置する。江戸時代は朝鮮通信使の宿館でもあった宗安寺を訪れる。

近江方面に向かう。

別名「馬の寺」とも呼ばれる古刹。聖徳太子が松に馬をつないで山へ登り、戻ってみると馬が池に沈み石になっていたという伝説に由来する。境内には本堂や大佛宝殿などが立ち、大佛宝殿には役行者腰掛像、十一面観音菩薩立像や威徳明王牛上像など(重要文化財)が11躰安置されている石馬寺(馬の寺)を訪れる。

天智天皇の勅願により創建された寺。藤原鎌足の長男、定恵が中国から桑を持ち帰り、日本で最初に養蚕を始めたのが寺名の由来という。500段ほどの石段を登ると、目の前に本堂が現れる。室町初期に建立された檜皮葺きの本堂(重要文化財)には本尊薬師寺如来や毘沙門天、不動明王などが安置されている桑実寺を訪れましたが時間と体力が今回なく500段の階段は登れず、次回持越しとなりました。

巨岩・奇岩が多く露出した赤神山の中腹にある古社で、正式名は阿賀神社。太郎坊とは京都鞍馬の次郎坊天狗の兄天狗のことで、この社を守護しているという。本殿前には神力によって左右に分かれたといわれる高さ10数mの夫婦岩があり、幅80cmほどの隙間を通って参拝すると諸願が成就するが、もし悪心があれば岩に挟まれてしまうという太郎坊宮を訪れる。

300年の歴史をもつ八日市大凧を中心に、世界各国の凧を常時約500点展示。吹き抜けのホールには縦13m、横12m、重さ700kgという100畳大の大凧が飾られているが、八日市大凧としては普通サイズとか。毎年5月の最終日曜には、愛知川八千代橋付近の河川敷で八日市大凧まつりが開催される世界凧博物館八日市大凧会館を訪れましたが休館でした。

古代朝廷の遊猟の地として知られる蒲生野にある船岡山を整備した公園。額田王と大海人皇子が恋歌を交わした舞台とされ、蒲生野万葉歌碑や万葉植物園もある万葉の森船岡山を訪れる。

蒲生野には古代ロマンを伝える寺社が点在。この寺には、インドのアショカ王が世界に撒いた8万4000の石塔のひとつといわれる阿育王塔(重要文化財)のほか、多数の石塔や石仏が立つ石塔寺を訪れる。

家族で楽しめる自然公園。416万平方mの広大な敷地に、屋内外テニスコートやオリエンテーリングコース、フィールドアスレチック、サイクリングロードなど多彩なアウトドア施設が揃う。キャンプ場や宿泊施設も完備の滋賀県希望が丘文化公園を訪れる。

17:30終了。

今回の近場の名所巡り、近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県の湖北に足を運び、江戸時代は旧彦根藩主井伊家35万石の城下町、近世は湖東地域の経済や文化の中心的存在として発展した彦根、

16世紀に豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町として開かれ、その後、商業都市へち発展した近江八幡、

白壁沿いの水路に錦鯉が泳ぐ趣きある近江商人発祥地、五個荘、

織田信長ゆかりの安土を訪れ、点在する多くの歴史的建造物、史跡に触れ有意義な時間を過ごすことができました。







滋賀県湖北観光
2010年7月24日


びわ湖を中央に抱く滋賀県の湖北に足を運び、里人に守られてきた観音の里、戦国大名浅井氏の郷土、高月・木之本、天女伝説の余呉湖、桜並木の奥びわ湖パークウエイの奥琵琶湖周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪名神北陸自動車道経由して長浜インター下車
13:45高月方面到達

能装束や能面など多彩な能楽資料を展示。この地は江戸時代、養蚕業が盛んだったことから、光沢のある良質の絹糸で将軍家の能装束や衣服が織られたという浅井能楽資料館を見学。

琵琶湖の北端・滋賀県伊香郡は、国宝や重要文化財など仏教文化財が数多く残されている。なかでも観音像が多く、高月町・木之本町は「観音の里」と呼ばれている。向源寺に隣接するこの資料館では、指定文化財11件を含む展示をはじめ、観音像の変遷や信仰の歴史、湖北地方のあゆみ、民俗・宗教的文化的特質などを様々な資料で解説している高月観音の里歴史民俗資料館を見学。

滋賀県内で唯一、国宝に指定されている十一面観音立像(平安初期作)(国宝)を祭る。頭に配置された菩薩の配列や、鼓胴形の大きな耳飾りが特徴的だ。736年(天平8)に僧泰澄が、都に流行していた疫病除けの奇岩を込めて刻んだと伝えられる。織田信長の小谷攻めのときに堂宇は焼失したが、観音像は村人らが運び出して難を逃れたという向源寺を訪れる。

肩幅が広くお腹の肉付きも豊かで、表情もふっくらとしているため、見ている人を穏やかな感情にさせる十一面観音立像(重要文化財)を安置する西野薬師堂を訪れる。

固く結んだふくよかな唇に、わずかに朱が残っている愛らしい姿の十一面観音立像(重要文化財)を本尊として安置している。作家・井上靖が、小説『星と祭』の中で当時の観音像の姿を村の若い娘にたとえたことで有名な石道寺を訪れる。

己高閣は、1963年(昭和38)に県が建てた文化財収蔵庫。かつて山岳信仰の霊場として栄えたが無住・廃寺となった、己高山諸寺の寺宝を安置。素朴な容姿の鶏足寺十一面観音立像(重要文化財)をはじめ、七仏薬師など約90躯の貴重な仏像と資料が収められている。世代閣には、戸岩寺本尊薬師如来立像や十二神将像など5体の重要文化財を収蔵。紅葉の名所として人気がある己高閣・世代閣を訪れる。

古くから眼の仏として信仰を集める寺。寺には眼を患った人の身代わりに片目を閉じたカエルが棲むといわれ、境内のいたるところに「身代わり蛙」というカエルのお守りが奉納されている。境内の大地蔵は本尊の地蔵菩薩(秘仏)を写したものの木之本地蔵院を訪れる。

奥琵琶方面に向かう。

大箕山山中にある真言宗の寺。余呉湖に残る伝説の天女が産んだ子といわれる菅原道真が、京に上る11才まで勉学に励んだと伝えられている。山門の前には道真が植えたという樹齢1000余年、高さ約15mのケヤキの大木がそびえている。境内にある銅鐘(重要文化財)は鎌倉時代のものの菅山寺の近くに寄る。

賤ケ岳の北に位置する周囲約6.4kmの湖。羽衣伝説が残る地として知られ、水面が穏やかで周辺の山々を映すことから「鏡湖」とも呼ばれている。湖を囲むように遊歩道があり、サイクリングやバードウォッチングが楽しめる。コイやフナ釣りのほか、冬はワカサギ釣りもできる余呉湖を訪れる。

1582年(天正10)、本能寺の変で死去した織田信長の跡目を巡って、羽柴秀吉が柴田勝家と争った戦場跡。そのとき奮戦した福島正則や加藤清正ら7人の武将は、「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれている。七本槍の武士像が立つ賤ケ岳山頂からは、余呉湖、竹生島など奥琵琶湖周辺が一望できる賤ケ岳古戦場を訪れる。

琵琶湖の最北に突き出した葛籠尾半島の山並みを縫うように走る、全長18.8kmのドライブウェイ。四季折々の美しいパノラマが楽しめるが、沿道の約4000本の桜が咲き誇る春は特に美しい奥琵琶湖パークウェイを走行する。

16:30終了。

今回の近場の名所巡り、びわ湖の湖北に足を運び、戦国大名浅井氏の郷土、平安時代作の像をはじめ、戦国時代より里人によって守り伝えられてきた観音像が、現在も数多く安置されている高月・木之本、天女の羽衣伝説や龍神・菊石姫伝説など、数々の神秘的な伝説が残っている余呉湖、桜並木の奥びわ湖パークウエイの奥びわ湖周辺を訪れ自然と歴史文化に触れ有意義な日々を送ることが出来ました。





滋賀県米原・伊吹・長浜観光
2010年6月30日


近場のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、滋賀県最高峰伊吹山、中山道と北国街道の宿場町米原、情緒あふれる城下町で黒壁スクエアで有名な長浜を訪れました。

12:30車で第二京阪名神自動車道経由して彦根インター下車
13:45米原到達

太尾山西麓にある曹洞宗の禅刹。もとは不動山米泉寺といい、南北朝の初期、京極道誉による関基と伝えられています。本尊の聖観音像は、南北朝時代に佐々木六角氏頼が、諸堂の再建とともに造立したものです。秘仏とされており、その胎内には、氏頼の持念仏であった高さ約20cmの観音像が納められています。この観音像は「お腹籠の観音」あるいは「旗竿の観音」と呼ばれ、氏頼はこの観音像を必ず旗竿に祀って、出陣したといいます青岸寺を訪れる。

 戦国時代に、観音像一駆を残して寺は焼失しましたが、江戸時代前期、彦根藩主井伊直澄の命を受けて入山した、彦根大雲寺の要津(ようしん)禅師よって再興しました。それを機に、現在の寺名に改めました。その19年後に造られた枯山水の庭園は、国の名勝に指定されています。

JR東海道本線柏原駅のあたりを中心に、かつて柏原宿が広がっていました。東西13町(約1.5km)にもおよぶ中山道の中でも大規模な宿場町で、344軒の家があったと伝えられていますが、現在では、常夜灯や街道沿いの宿場町特有の2階建の軒の低い数軒の家が面影を伝えています中山道・柏原宿を訪れる。

米原市柏原は、江戸時代中山道60番目の宿として、たいそう賑わった宿場町です。長さが1.5kmと近江国最大級の宿場であり、昔ながらのまちなみを残しています。中でも柏原宿の特産である伊吹山の薬草を原料とした伊吹艾を商う「伊吹堂亀屋佐京商店」は、今も昔と変わらぬたたずまいで日本一大きい福助とともに旅人を迎えてくれます。昔の民家を改造した施設で、柏原宿をはじめ周辺の歴史文化を紹介する柏原宿探検コーナーや伝統文化の実演が行われています。ビデオシアターでは、国の特別天然記念物に指定され市民の宝物である源氏ボタルの姿を紹介しています柏原宿歴史館を見学。

伊吹山方面に向かう。

滋賀県の最高峰(標高約1377m)。日本百名山のひとつで、がっしりと構えた山容は男性的である。岐阜県との境界をなし、山頂からは眼下に琵琶湖、比良、比叡の山々や日本アルプス、伊勢湾まで一望の大パノラマが広がる。古くは『古事記』や『日本書記』にその名が記され、日本武尊の伝説にも登場する歴史的な山で、古来より著名な薬草や亜高山植物、野鳥、昆虫の宝庫としても有名である。山頂のお花畑は、国の天然記念物に指定されています伊吹山を眺望する。

長浜方面に向かう。

1574年(天正2)、豊臣秀吉が初めて一国一城の主となった城。大坂の陣の後に廃城となったが、1983年(昭和58)に天守閣を再興。現在は長浜市長浜城歴史博物館として公開されている。館内では琵琶湖の湖底遺跡などから発見された縄文土器や、「賤ケ岳合戦図屏風」などの資料を交えて湖北地方の歴史を紹介。周辺は桜が名所の豊公園として整備されている長浜市長浜城歴史博物館を見学。

鉄道に関する3つの施設がある複合施設。旧長浜駅舎は、1882年(明治15)に建てられた現存する日本最古の駅舎。当時の新橋駅をモデルに造られたモダンな英国式建築で、待合室や駅長室などを再現展示している。鉄道文化館では66mの鉄道模型レール上を鉄道模型車両が走り、北陸線電化記念館にはSLや交流電気機関車の実物を展示している長浜鉄道スクエアを見学。

江戸時代に栄えた北国街道周辺に、今なお残る歴史的建造物を利用して構成される複合観光スペース。江戸〜明治時代に造られた蔵や商家を生かしたショップ、レストラン、カフェ、ガラス工房など約30軒が点在している黒壁スクエアを散策する。

黒壁スクエアにある美術館。ヨーロッパを中心としたガラス作品を展示している黒壁美術館を見学。

17:00終了。

今回の近場の名所巡り、びわ湖を抱く滋賀県に足を運び、江戸時代に栄えた中山道と北国街道の宿場町の姿が今も残る米原、四季折々の草花を楽しめる標高1377mの滋賀県最高峰の伊吹山、古い町並みを利用して、ガラス文化を集めた黒壁スクエアが有名な情緒溢れる城下町長浜を訪れ湖北の歴史を触れることが出来ました。






滋賀県湖西観光
2010年6月9日 


近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、湖畔ドライブに最適な道路が続き、大鳥居で知られる白鬚神社、美しい湖水風景が展開し、畑の棚田など、比良山系の麓に自然風景が残るエリアでもある湖西を訪れました。

12:30車で出発、第二京阪自動車道経由して
13:40湖西到達。

琵琶湖の湖上に立つ朱塗りの大鳥居が目印。猿田彦命を祭り、長寿や縁結びの神様として信仰を集め、その歴史は2000年を過ぎていると伝える。国道161号を挟んで鳥居と向かいあう本殿(重要文化財)は、豊臣秀頼と淀君の寄進を受け、1603年(慶長8)に再建されたもの。境内には絵馬殿、若宮社、外宮、内宮が立ち並んでいる白鬚神社を訪れる。

1553年(天文22)、近江半国守護職にあった佐々木六角義賢が、母の菩提を弔うため建立したと伝えられる48体の石仏群。室町時代の作風を示す花崗岩質の阿弥陀如来坐像で、高さは約1.6m。現在は48体のうち33体が残る鵜川四十八体石仏群を訪れる。

築150年の江戸時代の商家や蔵を改装した観光施設。1〜7号館まであり、お食事処も充実のたかしまびれっじを訪れる。

琵琶湖西南部の湖畔には、昔ながらの里山風景が残されている。大津市八屋戸、栗原や大津市仰木など比良山系を背景とする高低差の大きいこの地域では、今も谷に沿って連なる棚田を見ることができる。どこか懐かしい、四季折々の季節感あふれる風景は、写真愛好家にも人気が高い。棚田が黄金に色づくころや、刈り入れの後にこの地域特産の干し柿作りが行われる秋は特に美しい琵琶湖西南部の棚田を訪れる。

宇治川の合戦に参加した佐々木信綱の子、高信ゆかりの神社。高信が出陣のときに神前に祈り、勝利後再び訪れて12本の的と12頭の馬を奉納したことにちなんで、毎年5月4日に七川祭が催される。神輿渡御や傘鉾行列、流鏑馬のほか、奴の姿をした若者が的や酒樽などをかついで練り歩く奴振りなどが行われる大荒比古神社を訪れる。

夏は子育てするカイツブリ、冬には数千羽のカモやオオバンなどの渡り鳥と、高島の豊かな自然を楽しめる施設。館内には「旅のカフェ」があり、コーヒーを飲みながら望遠鏡でじっくり鳥たちの仕草や暮らしをみることができる。ミニシアター、木造船工房併設。ツリーイング技術により樹上で過ごす、「ツリーカフェ」の拠点でもある高島市新旭水鳥観察センターを訪れる。

大崎観音の名で親しまれる寺。702年(大宝2)に泰澄大師が開山。近江四国第9番札所に指定される県内有数の観音札所で、琵琶湖八景の一つに数えられる景勝地として多くの参詣者が訪れる。境内の展望台から眺める琵琶湖の景観は見事な大崎寺を訪れる。

琵琶湖八景の一つとして有名な「暁霧・海津大崎の岩礁」。天狗の鼻に似た天狗岩や八畳敷の広さを誇る八畳岩など、紺碧の湖面から突き出る奇岩群と岩壁に生い茂る緑が織り成す風景は豪快だ。また湖岸沿い約4kmにわたって約600本の桜並木が続き、その見事な様は「日本のさくら名所100選」にも挙げられるほどで、奥琵琶湖に春の訪れを告げる代表的な風物詩となっている海津大崎を訪れる。

18:00終了。

今回の近場の名所巡り、近畿の水瓶、びわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、びわ湖の北東に広がるエリア。福井県若狭と京都を結んだ歴史的名称の鯖街道をはじめ、日本さくら名所100選にも選定されているマキノ町の海津大崎。また、日本100景にも選ばれたメタセコイア並木、畑の棚田など、多くの自然と歴史文化が楽しめるエリアでドライブコースとしても気持ちがよい湖西を訪れ、自然と文化を学び楽しめました。





滋賀県比叡山観光
2010年5月19日


近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、滋賀県唯一の世界遺産の延暦寺、門前町として栄えた坂本など比叡山周辺に点在する歴史的建造物を訪れました。

12:30車で第二京阪名神自動車道経由して京都東インター下車

13:30比叡山方面に到達。

大津京を開いた天智天皇を祭神とする。約20万平方mの境内には、朱塗りの楼門のほか、昭和造や近江造と称される拝殿、本殿が立ち並ぶ。また楼門を入った左手には、漏刻(水時計)を設けて初めて時刻制度を確立した天智天皇にちなんで造られた、時計博物館もある近江神宮を訪れる。

比叡山南麓の田ノ谷峠から、延暦寺東塔や比叡山頂を結ぶ約8.1kmの有料道路。仏教の霊地として厳かな雰囲気を見せる比叡山の山ひだを走る。琵琶湖を望む絶好のポイントは、約140台の駐車スペースがある夢見が丘。大津市街をはじめ、琵琶湖の南湖周辺が一望できる。終点の根本中堂からは、仰木方面へ抜ける奥比叡ドライブウェイが走る比叡山ドライブウエイ走行。

天台宗の総本山。東塔・西塔・横川に、約200余りの堂塔が点在する。785年(延暦4年)に伝教大師最澄が小堂を建て、一乗止観院と称したのが始まり。国宝・重文も多数所蔵し、1994年(平成6)、世界文化遺産に登録された延暦寺を訪れる。

最澄が開基した、延暦寺の中心地区。根本中堂(国宝)をはじめ、戒壇院(重要文化財)、大講堂(重要文化財)、國寶殿、延暦寺会館などがある東塔[延暦寺]を訪れる。

延暦寺東塔地域にあり、延暦寺に伝わる仏像や書跡などの寺宝を展示している國寶殿を訪れる。

延暦寺東塔にあり、1963年(昭和38)に坂本の讃仏堂を移築したもので、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら比叡山で修行し、各宗の開祖となった僧の等身大の木像を安置する大講堂を訪れる。

東塔の中心であるだけでなく延暦寺の総本堂で、最澄が創建した一乗止観院の後身。現在の建物は織田信長の比叡山焼き討ち後、1642年(寛永19)に徳川家光により再建された。単層入母屋造、正面37m、側面24mの堂々とした建築。本尊薬師如来像の前には「不滅の法灯」が、開山以来1200年にわたり灯され続ける根本中堂を訪れる。

延暦寺東塔地域の根本中堂から、東海自然歩道を30分ほど歩いた所にある。杉木立のなかに転法輪堂(釈迦堂)、常行堂(重要文化財)と法華堂(重要文化財)、瑠璃堂(重要文化財)、浄土院、高さ約10mの相輪塔などが立つ西塔[延暦寺]を訪れる。

延暦寺西塔の見どころの一つ。宝形造の2つの建物は渡り廊下でつながって並び立っており、「弁慶のにない堂」と呼ばれる。力持ちの弁慶が、この渡り廊下を天秤棒にして2つの堂を担いだとの伝説による。このお堂では90日間におよぶ修行が行われる常行堂・法華堂(弁慶のにない堂)を訪れる。

延暦寺西塔の中心となる堂。最澄自作と伝わる本尊釈迦如来を安置することから、一般に釈迦堂の名で呼ばれる。信長の焼き討ち後の1595年(文禄4)、豊臣秀吉により近江の園城寺(三井寺)の金堂が移築されたもの。鎌倉時代の建築で、山内では最古の建物の転法輪堂(釈迦堂)を訪れる。

延暦寺西塔から北東4km、最澄の弟子である慈覚大師円仁によって開かれ、恵心僧都源信をはじめ、親鸞、日蓮、道元ら後世に名を残す僧が修行した地。横川中堂を中心に、三塔のなかで最も宗教的な雰囲気が残っているエリアの横川[延暦寺]を訪れる。

延暦寺横川の中心となる堂で、848年(嘉祥元)に根本観音堂として創建された。信長の焼き討ちと雷火で2度焼失、現在の堂は1971年(昭和46)の再建。懸崖に突き出した舞台造で、鮮やかな朱塗りが美しい横川中堂[延暦寺]を訪れる。

びわ湖の湖岸方面に向かう。

堅田豪族のひとり、居初氏が居住している書院に広がる名園。琵琶湖を借景とした見事な枯山水庭園(名勝)で、江戸前期に活躍した茶人藤村庸軒と地元郷士の北村幽安とが協力して作庭したもの。掛軸などを収蔵した資料室も見学できる天然図画亭を訪れる。

近江八景の一つ、「堅田の落雁」として知られる景勝地。琵琶湖につき出すように建てられた堂宇が、湖に浮いているかのように見えることから名付けられた。正式には海門山満月寺と呼ばれ、京都の大徳寺に属する臨済宗の禅寺。995年(長徳年間)頃、源信僧都が阿弥陀仏を刻んで、琵琶湖の交通の安全を願ったのが始まりと伝わる。現在の浮御堂は、1937年(昭和12)に再建されたもの。本尊で秘仏の聖観音坐像(重要文化財)は、薬師如来像や十一面観音像とともに観音堂に安置されている。この地を好んでこの地を好んで訪れた芭蕉の句碑も立つ浮御堂を訪れる。

坂本方面に向かう。

延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている穴太衆積みの石垣を散策する。

全国約3800の日吉神社の総本宮。比叡山の麓に位置する約13万坪の広大な境内には、東西両本宮を中心に多くの社殿が点在。西本宮の本殿(国宝)、拝殿(重要文化財)、楼門(重要文化財)をはじめ、東本宮の本殿(国宝)、拝殿(重要文化財)、大宮橋・二宮橋・走井橋の日吉三橋(重要文化財)など、文化財の宝庫ともなっている。なかでも、比叡山焼討後1586年(天正14)に再建された西本宮本殿は日吉造という独特の建築様式の日吉大社を訪れる。

比叡山で厳しい修行を積んだ僧侶たちが隠居坊として暮らした延暦寺里坊の一つ。邸内には、八王子山を借景に滝や築山を配した約3300平方mの回遊式庭園が広がる。その中に2棟の茶室とあずまやが佇み、たっぷり植えられた木々、手入れの行き届いた苔が四季折々しっとりした風情をかもしだしている旧竹林院を訪れる。

滋賀院門跡の上にある。信長による焼き打ちのあと、延暦寺の復興に尽力し、家康をはじめとした江戸幕府に仕えた慈眼大師天海を祀る廟所。境内には家康や紫式部の供養塔、江戸以降の天台座主の墓のほか高島市の鵜川四十八体石仏のうちの13体などが並ぶ慈眼堂[滋賀院門跡]を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の滋賀県に足を運び、延暦4年伝教大師最澄が開山した天台宗の総本山、法然、親鸞、日蓮など名だたる名僧を輩出した日本仏教の母山で世界遺産の延暦寺、延暦寺と日吉大社の門前町として栄えた坂本地区を訪れ点在する歴史的建造物に触れ学び、有意義な日々を過ごすことができました。













滋賀県瀬田&大津観光
2010年4月14日


近畿の水瓶、日本一のびわ湖を中央に抱く滋賀県に足を運び、県庁所在地の大津周辺の観光名所、源氏物語の紫式部ゆかりの石山寺エリアの観光名所を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して石山インター下車

749年(天平勝宝元)に良弁僧正が開いた名刹。珪灰石(天然記念物)が露出した境内には、本尊の如意輪観音像(秘仏)(重要文化財)を安置する本堂(国宝)、1190年(建久5)に源頼朝が寄進した多宝塔(国宝)、桃山時代に再建された入母屋造の東大門(重要文化財)などの堂宇が並ぶ。本堂には紫式部が『源氏物語』を執筆したという源氏の間がある石山寺を訪れる。

歌川広重の浮世絵版画の中に描かれた近江八景「瀬田の夕照[せきしょう]」で知られる橋。古くから、東方から京都へ入る関所の役割を担う地で、軍事や交通の要衝であったことから戦場となり幾度も焼き落とされた歴史をもつ。現在の橋は1979年(昭和54)に完成したもので、旧橋の擬宝珠[ぎぼし]が欄干に取り付けられ、昔の面影を残している瀬田の唐橋を訪れる。

源義経の軍勢に敗れ、この地で討死にした木曽義仲を弔うために、義仲の側室だった巴御前が建てた草庵が始まりという。松尾芭蕉がたびたび滞在したことでも知られ、芭蕉と義仲の墓が並んで立つ。境内(史跡)には芭蕉の句碑もある義仲寺を訪れる。

長等山の麓にアトリエを構え、35歳の若さで亡くなった日本画家・三橋節子。館内では遺族や所蔵家から寄贈された収蔵品約70点のうち、近江の豊かな自然や歴史をテーマにした30数点を展示している。ガンで利き腕の右手を失った後、筆を左手に持ちかえて描いた『三井の晩鐘』は晩年の力作。定期的に展示替えを行う大津市立三橋節子美術館を見学。

686年(朱鳥元年)創建、1300年以上の歴史をもつ湖国を代表する名刹。正式には長等山園城寺と呼ばれ、当寺を建立したと伝えられる大友与多王は、壬申の乱で近江朝を率いて敗れた大友皇子(弘文天皇)の皇子にあたる。度重なる戦火に見舞われ焼失したが、徳川家康や豊臣秀吉の正室である北政所などにより復興された。本尊弥勒菩薩像を安置する金堂(国宝)をはじめ、家康が移築した入母屋造の仁王門(重要文化財)や三重塔(重要文化財)、天正年間(1573〜92)に建立された釈迦堂(重要文化財)など見所は多い園城寺(三井寺)を訪れる。

日本の東西交通の要衝として、古くから発展してきた大津市の歴史と文化をテーマにした博物館。城下町の膳所、延暦寺や日吉大社の門前町として発展した坂本など、大津市を地域ごとに6つのコーナーに分けて復元模型やイラストなどで紹介している。ほかに大津絵や浮世絵師・歌川広重の近江八景も展示。高台にあり、琵琶湖の眺望も楽しめる大津市歴史博物館を見学。

湖国三大祭のひとつ、大津祭を紹介する展示館。曳山、西王母山の実物大模型は迫力満点。また宵宮に始まり本祭の絢爛豪華な曳山の巡行で最高潮を迎える様子を、マルチスライドなどで鑑賞できる。全13基の曳山に仕掛けられたからくり人形の紹介も映像で楽しめる大津祭曳山展示館を見学。

17:00終了。

今回は近場の滋賀県の湖南に足を運び、667年、近江大津に都が遷されて以来、さまざまな歴史の舞台となってきた地、三井寺など全国に知られる古刹が点在し、江戸時代には東海道53番目の宿場町として繁栄した大津。

源氏物語の紫式部ゆかりの石山寺エリアの瀬田、芭蕉ゆかりの義仲寺のある膳所。

半日で滋賀県湖南の点在する寺社、美術館、博物館を訪れました。





滋賀県守山&草津史跡巡り
2010年3月3日


近畿の水瓶日本一のびわ湖を中心に抱く滋賀県に足を運び、湖沿いのリゾート施設、巨匠作品の豊富な佐川美術館が位置する守山、旧東海道の宿場町、花と緑の鳥丸半島のある草津を訪れました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して栗東インター下車
13:50守山到達

日本画家の平山郁夫、彫刻家の佐藤忠良、陶芸家の樂吉左衛門の作品を中心に収蔵・展示。館内には情報コーナーをはじめ、平山氏のシルクロード取材時の資料を公開するコーナー、水庭を眺めながら休憩ができるカフェもある佐川美術館を見学。

三方を豊かな琵琶湖の自然に囲まれた植物園。四季を彩る珍しい草花やハンギングバスケットが美しく、他では見られない様々な水生植物もある。中でもスイレンの種類は日本最多。温室では、冬でも熱帯スイレンや熱帯花木が鑑賞できる草津市立水生植物公園みずの森を散策する。

「人と湖」をテーマに、琵琶湖の生い立ち・人と生き物との関わりについて楽しみながら学べる体験型の博物館。古代の湖周辺の様子を再現した原寸大ジオラマ、かつて湖上交通の主役だった丸小船、昭和30年代の移築した民家のほか、ビワコオオナマズをはじめ琵琶湖にすむ様々な生き物、世界の代表的な淡水魚が見られる日本最大級の淡水水族展示などがある滋賀県立琵琶湖博物館を見学。

聖徳太子の開基と伝えられる天台宗の古刹。石垣と堀で囲まれた城郭のような外観は、中世から近世にかけて湖上交通の管理(船奉行)に携わった寺勢を物語る。境内には檜皮葺きで禅宗様式の阿弥陀堂(重要文化財)や、江戸初期に移築された書院(重要文化財)がある芦浦観音寺を訪れる。

旧草津川トンネルの南側脇にある石造りの道標。旧東海道と旧中山道との分岐・合流点にあたり、街道を往来する諸国の飛脚仲間らの寄進によって1816年(文化13)に設置された追分道標を訪れる。

草津宿にあった本陣のひとつ、田中七左衛門本陣(史跡)を公開。公家や大名などの宿泊所として1635年(寛永12)に開設された。268.5畳の広さに部屋が30室余あり、大名が休んだ座敷や湯殿などを修復展示している草津宿本陣を見学。

草津の歴史が、コンピューターゲームや草津宿を再現した模型でわかる。道中合羽や脚はんなどの旅装束を着て駕籠に乗ることができる体験コーナーもある草津宿街道交流館を見学。

17:00終了。

今回の近場の観光巡り、滋賀県の江戸時代には東海道五十三次の52番目の宿場町として栄え、現在でも草津宿本陣や追分道標、石灯籠などが残り、往時の雰囲気を今に伝え、植物公園や博物館がある鳥丸半島も見所の草津。

湖沿いのリゾート施設、巨匠作品の豊富な佐川美術館が位置する守山。

自然有り、美術館博物館有り、江戸時代の宿場町有り、十分楽しめました。




滋賀県日野&水口&土山観光
2010年1月13日


今回は近場の滋賀県の南東部、近江商人で有名な日野、東海道の宿場町水口、土山に足を運びました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して八日市インター下車
13:45日野到達。

日野椀の行商で財を成した日野商人・山中兵右衛門の邸宅を利用した資料館。館内には行商品や道中具、代々伝わる家訓10カ条などを展示する近江日野商人館を見学。

滋賀県・日野町の丘陵を生かしたドイツ風の農業公園です。 門・遊・花・街・村・牧の6つのエリアには、自然と遊ぶ・自然を学ぶ、 さまざまな施設がいっぱいの滋賀農業公園ブルーメの丘を訪れる。

水口方面に向かう。

天平年間、勅命を受けた行基が4つの貯め池の中央に本堂を建てたのが始まり。美しく刈り込みまれたサツキが印象的な蓬莱庭園は禅味豊かな観賞式枯山水庭園で、小堀遠州が築いたといわれる。サツキと白砂で大海をゆく宝船を表現しており、紅白の花で彩られる5月下旬〜6月中旬が見ごろ。また前庭にある樹齢350余年の開山臥龍の松も見逃せない大池寺を訪れる。

水口城は徳川3代将軍家光の京都上洛にあわせ、1634年(寛永11)に東海道水口宿の西に築城。その美しい水堀から碧水城と呼ばれた。現在は出丸部分に角櫓が修景され、水口城資料館として公開している水口城跡を訪れる。

水口町の歩みをうかがい知ることのできる資料館。ぜひ見ておきたいのが水口曳山祭の曳山で、実際に巡行する「二層露天式人形飾屋台」の構造をもった豪華なものが展示されています。歴史コーナーでは古墳時代の出土品や水口藩の関係資料、古文書などを展示。また、民俗コーナーでは農家の伝統的ななりわいを紹介し、当時の生活様式を伝える民具や、水口町の代表的な工芸品である籐細工、八田焼などを展示しています水口歴史民俗資料館を見学。

土山方面に向かう。

古くより交通の要衝であり東海道49番目の宿場町でもあった土山は、人と物資の交流により経済や文化の発展を遂げてきました。伝馬館は、街道や宿場、宿駅伝馬制を再考し、今後の発展に寄与していくために平成13年にオープンしました。建物は江戸後期に造られた土山の民家を改装。建物自体が貴重な展示品となっており
土山まつりのメイン会場として、また地域のイベントやボランティア活動の会場として活用されている東海道を見学。

17:00終了。

今回は近場の観光巡り、滋賀県南東部に足を運び、近江商人で有名な近江日野、東海道の宿場町で水口藩の城下町の水口と東海道宿場町の土山を訪れ、江戸時代の歴史的建造物に触れることが出来ました。





滋賀県信楽・甲賀観光
2009年11月11日


今回は近場の滋賀県に足を運び、たぬきの置物で有名な信楽焼、世界的建築家によるMIHO MUSEUM、甲賀流忍者の忍者屋敷を訪れました。

12:30車で近畿名神第二名神自動車道経由して信楽方面に向かう。

14:00信楽の穏やかな山並みに抱かれた美術館。ルーブルのガラスのピラミッドで知られるI.Mペイ設計による、自然と同化した建物が印象的。美術館棟へは枝垂れ桜の並木道、一条の光を映す銀色のトンネル、深い谷を渡る吊り橋を渡って行く。所蔵品はシルクロードの沿って、エジプト、ギリシア・ローマ、ペルシア、西アジア、中国などの古代美術と、仏教・茶道などの日本美術からなり、常時約250点を公開しているMIHO MUSEUMを見学。

陶芸に関する文化施設が小高い丘陵地に集まる。陶芸専門の美術館である陶芸館では、古信楽をはじめとし、滋賀県ゆかりの陶芸作家の作品や、世界の現代陶芸を中心に収蔵。年に数回、国内外の陶芸文化を紹介するテーマ展や収蔵品展で公開している。信楽産業展示館では信楽の陶器産業について知ることができる。信楽焼の始まりは鎌倉中期ごろといわれ、「日本六古窯」のひとつにも挙げられている。現在は、大型陶板やタイルといった建築資材を生産するなど、伝統を生かしながら時代のニーズに即応した製品作りが進められている滋賀県立陶芸の森を訪れる。

信楽駅の近くにあり、信楽焼の歴史や作品を紹介する施設。左手に徳利、右手に大福帳、あみだに笠をかぶり、白くてぽっちゃり突き出ているおなかが愛らしいタヌキの焼き物でおなじみの信楽焼。館内は信楽焼に関する資料室やギャラリーなどで構成される甲賀市信楽伝統産業会館を訪れる。

甲賀方面に向かう。

甲賀武士53家の筆頭、望月出雲守の住宅として元禄年間(1688〜1703)に建築されました。外見は一般的な日本建築の住宅そのものですが、建物内部には忍者の住まいにふさわしく、侵入者から身を守る為のさまざまな工夫が凝らされている甲賀流忍術屋敷を訪れる。

792年(延暦11)、この地を訪ねた最澄が霊夢を感じたことから、イチイの木に刻んだ十一面観音菩薩(重要文化財)を本尊として祭る。高さ3.3mの日本最大級の木造坐像がある櫟野寺を訪れる。

草創は古く、聖徳太子が社壇を建立し油日大明神を祭ったと伝承されている。朝野の崇敬篤く甲賀の総社と敬い祭られ、油の神として全国油業者の信仰を集めています。県下でも数少ない現存する本格神社建築で、本殿・拝殿・楼門・回廊はいずれも重要文化財。また、境内にある高野槇(コウヤマキ)は樹齢700年以上と推定され、県の自然記念物に指定されている油日神社を訪れる。

17:00終了。

今回の近場の観光地巡り、滋賀県に足を運び、狸で有名な信楽焼、桃源郷のような誘惑の空間で癒しのひとときを過ごせる雄大な大自然に抱かれた美術館、MIHO MUSEUM、甲賀忍者の発祥の地と日本有数の木造坐仏がある甲賀、いくつかの歴史的建造物の訪れと歴史的芸術に触れ有意義な日々を送ることが出来ました。




滋賀県五個荘史跡巡り
2009年9月9日


今回は近場の滋賀県の近江商人の発祥の地、白壁、舟板張りの豪商の屋敷が建ち並ぶ五個荘に足を運びました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して八日市インター下車
14:00五個荘到達、散策する。

五個荘の観光拠点となる場所、生き活き館に車を留めて散策する。

五個荘町の古い町並みが続く静かな金堂地区に、堂々とひときわ高くそびえ立つ浄土真宗大谷派の古刹。この寺を開基した愚咄坊は那須与一の嫡子で、本願寺三代の覚如上人が関東へ下る際に弟子となり、犬上郡石畑に一宇を建立しました。正応5年(1292)には現在の寺号を受け、その後神崎郡躰光寺村に移り、天正9年(1581)には現在地の金堂に永住することになりました。敷地は移転してきましたが、本尊と祖師親鸞上人真影(御裏書に安食庄石畑(あんじきのしょういしはた)云々とある)は、代々受け継がれてきています。現在の建物は宝暦5年(1755)、高木作右衛門によって建てられたもので、国の重要文化財に指定されている弘誓寺を訪れる。

近江商人とは、近江(現在の滋賀県)に本拠を置いて全国で商業活動をしていた人々のこと。五個荘商人は江戸後期ごろの登場で、江戸初期から活躍している同じ近江商人の八幡商人より遅かった。ただ、商人の数が多いこともあり、明治時代には呉服や麻布などの繊維製品を中心に商いを進めて商業範囲を広げていった。そんな五個荘商人の屋敷が、五個荘金堂地区にあり、今でも舟板塀の蔵屋敷3軒が一般公開されている近江商人屋敷を訪れる。

近江商人をテーマにした小説を発表し、野間文学賞を受賞した外村繁氏の生家。父・吉太郎は根っからの近江商人で、東京の日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開いて活躍した。家族や番頭が生活した母屋や蔵が残る。外村繁の直筆原稿や書簡を展示した外村繁文学館も併設している外村繁邸を訪れる。

東京や横浜、京都などで呉服などの販売を手がけ、明治時代に全国の長者番付にも名を連ねた豪商・外村宇兵衛の本宅。往時には母屋や納屋、米蔵など10数棟の建物があった。屋敷の一部は取り壊されたが、市によって復元された外村宇兵衛邸を訪れる。

昭和初期、朝鮮半島や中国大陸などで20数店舗の百貨店を経営し、「百貨店王」と称された三中井一族の本宅。約1000平方mの敷地に木造2階建の本宅や蔵、庭園がある。蔵では小幡人形や全国の土人形を展示している中江準五郎邸を訪れる。

北は北海道から南は九州まで、天秤棒を肩にかけて全国各地を行商した近江商人たち。江戸時代、湖東地域から多くの近江商人を輩出した。ここでは映像やジオラマを通して地域の歴史、近江商人の暮らしや文化、商法や家訓、教育などさまざまな角度から近江商人を紹介している近江市近江商人博物館を見学。

藤井彦四郎は、明治9年に三代目藤井善助の次男として北五個荘村大字宮荘に生まれ明治32年23歳で分家して明治42年に藤井糸店を創業しました。「鳳凰印の『絹小町糸』」の販売や「スキー毛糸」の製造販売を行い、また、日本で最初に化学繊維を輸入し、「人造絹糸」として販売するなど時代を敏感にとらえて、一代で成功しました。当家は、敷地面積8,155m2、建物面積710m2にもおよぶ。屋敷内には、彦四郎自身の構想による琵琶湖を模した池泉回遊式の庭園をはじめ、主屋、客殿、洋館、土蔵が立ち並んでいる藤井彦四郎邸を訪れる。

東近江方面に向かう。

町の中央部にある大きな鎮守の森にあり、近郷一帯33カ村にわたって氏子を有し、33年に一度行われる大祭は有名であ、社殿の多くが国宝や国の重要文化財に指定されている苗村神社を訪れる。
野洲方面に向かう。

市内で出土した銅鐸を中心に展示。野洲の歴史と文化を紹介している。日本最大という、高さ134.7cmの銅鐸の輝く復元品は必見。隣接する弥生の森歴史公園には竪穴住居や高床倉庫があり、古代の村を復元する野洲市歴史民俗博物館を見学。

近江富士とも呼ばれる三上山をご神体とする神社で、頂上に奥宮がある。檜皮葺き入母屋造の鎌倉後期の本殿(国宝)や拝殿(重要文化財)のほか、楼門(重要文化財)や摂社である若宮神社(重要文化財)などが立ち並ぶ境内は厳粛な雰囲気の御上神社を訪れる。

足利尊氏や源頼朝など、武人から厚く崇拝された古社。平安期の池泉回遊式庭園(名勝)、白絹包腹巻(重要文化財)など数々の社宝を展示する収蔵庫がある兵主大社を訪れる。

17:30終了、帰路に向かう。

今回の史跡巡り、滋賀県は東海道など多くの街道が通り、昔からたくさんの物質が行き来した近江、多くの豪商を排出した湖東の中でも、近江商人の発祥の地として知られ、白壁、舟板張りの豪商が建ち並ぶ金堂地区、水路に錦鯉が泳ぐ風情の町並みは、国の重要伝統的建築物群保存地区に選定されている五個荘をおとずれ江戸時代以降の近江商人の歴史学習できました。

又野洲地区にある銅鐸博物館に展示している市内で出土した銅鐸24個、中には高さ134.7cmという国内最大の銅鐸が出土した地で実物の展示があり、見る価値がありました。

今回の地域を含めて、滋賀県はなかなか歴史的興味ある建造物、史跡が多いのに感心させられた歴史学習史跡巡りでした。。







滋賀県近江八幡史跡巡り
2009年7月25日


今回は近場の滋賀県、16世紀に豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町として開かれ、その後、商業都市へと発展した近江八幡、織田信長の歴史ロマンを語る安土に足を運びました。

12:30車で名神自動車道経由して滋賀県近江八幡方面に向かう。
14:00近江八幡到達。

城の防御のため、八幡山を囲むように築かれた堀。琵琶湖水運にも利用されていた。両岸には今でも白壁土蔵や旧家が立ち並び、当時の面影を色濃く残している。重要伝統的建造物群保存地区、重要文化的景観地区に選定する八幡堀を散策する。

991年(正暦2)に宇佐八幡宮を勧請して以来、近江商人の信仰を集めてきた古社。エノキやムク、杉などの古木が生い茂る境内には、どっしりとした拝殿や本殿が静かに佇んでいる。社宝の安南渡海船額(重要文化財)は、安南(ベトナム)貿易で活躍した豪商・西村太郎右衛門が1647年(正保4)に奉納したもの。1636年(寛永13)に出された鎖国令で帰国できなくなり、望郷と鎖国解禁の思いを込めて自らの姿を描かせた。絵馬殿で複製を拝観できる日牟禮八幡宮を訪れる。

八幡山城趾にある日蓮宗唯一の門跡寺院。豊臣秀次の菩提を弔うために生母・日秀尼が創建したもので、当初は京都にあった。境内からは近江八幡市街や琵琶湖を一望することができる。石で妙法と書かれた庭や、八幡山城時代の石垣などが山門の左右にある。山頂までは八幡山ロープウェイを利用して到達できる瑞龍寺を訪れ八幡山城趾を散策する。

江戸時代からの地場産業である八幡瓦。かつて、八幡堀には数十軒の瓦工場が軒を連ねたという。八幡瓦を中心に、日本各地や世界の瓦を展示。風土に適した瓦の美しさなどを紹介しているかわらミュージアムを見学。

近江八幡の町は、1585年(天正13)に豊臣秀次が開いた八幡山城の城下町として築かれたのが始まり。八幡掘をはさんだ北側が武士の居住地域、南側は町人の町。町人が住む地域はさらに西が商業地域、東北が職人地域に分けられた。現在の新町通りはかつての商業地域。畳表などを扱う豪商の邸宅だった、旧西川家住宅などが公開。邸宅には卯建があがり、家並みの塀越しに松がのぞくなど、情緒ある風景が続く。重要伝統的建造物群保存地区に選定する新町通りを散策する。

メンソレータム(現メンターム)で知られる、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の記念館。1905年(明治38)、キリスト教伝道のため来日。英語教師として近江八幡に赴任し、その後全国で教会や学校、ホテルなど1600件にものぼる建物を設計。医療や教育、社会事業などの幅広い分野で活躍した。記念館はヴォーリズ氏の木造2階建ての自邸を公開したもので、内部には愛用したピアノや資料を展示。広い居間や応接室のほか、畳の和室もあり、氏の住宅建築観もうかがえるヴォーリズ記念館を訪れる。

健康長寿のご利益があるといわれる、西国三十三カ所第31番札所。長命寺山の中腹に立つ。聖徳太子の創建とされ、山を登ると本堂(重要文化財)や護摩堂(重要文化財)、三重塔(重要文化財)などの諸堂が並び、本堂には本尊の千手観音立像が祀られている。境内からは琵琶湖が一望できる長命寺を訪れる。

中世ヨーロッパの教会建築を思わせる外観。吹き抜け部分は安土城の天主をモデルに設計された。弥生時代から戦国時代にかけての出土品、安土城の復元模型、信長に関する歴史資料などを展示している滋賀県立安土城考古博物館を見学。

織田信長の居城。安土山に1576年(天正4)に築城を開始し、1579年(天正7)に信長が入城した。外観5層内部7階(地上6階地下1階)の華麗な天主をもっていたとされる城は、本能寺の変の数日後、完成からわずか3年で焼失。今は石垣が残るのみの安土城跡を訪れる。

聖徳太子が建立したと伝わる古刹。平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集めた。参道の石段が険しいことで知られ、西国三十三カ所の中でも最大の難所といわれてきたが、現在は車で山頂近くまで行ける。1993年(平成5)に本堂・本尊が焼失し、2004年(平成16)落慶。インド政府の特別許可で輸入した白檀香木で造立した、丈六千手観音座像が現在の本尊だ。寺の奥には、戦国武将佐々木六角氏の居城・観音寺城跡がある観音正寺を訪れる。

18:00近江八幡駅到達、駅付近の居酒屋で食事を取る。
19:30出発
21:00解散。

今回は近場滋賀県の織田信長居城の安土城跡、16世紀豊臣秀次が築いた八幡山城の城下町として開かれ、商業都市として発展し江戸時代以前の風情が残る碁盤目状の町並みが国の重要伝統的建物保存地区に選ばれた近江八幡を訪れ歴史文化学習できました。

滋賀県は有名な琵琶湖、延暦寺だけでなく、湖東、湖西、琵琶湖周囲にはたくさんの歴史的建造物、史跡が目白押しです。これから徐々に攻めて行きたいと思います。





滋賀県湖東三山&多賀観光
2009年5月23日


今回は比較的近場の滋賀県湖東の鈴鹿山脈西麓の深い山々に抱かれた天台宗の古刹、湖東三山と永源寺、多賀大社で有名な多賀エリアに足を運びました。

12:30車で名神自動車道に経由して八日市インター下車
14:00 1361年(康安元)創建の禅寺。本堂は全国でも珍しいヨシ葺き屋根の建物。紅葉の名所として知られる永源寺を訪れる。

聖徳太子が百済人のために創建したと伝わる、近江の最古級寺院。近江西国三十三所の第16番札所でもある。1000余の僧坊を構える壮大な寺院だったが、織田信長の焼き打ちに遭い焼失。江戸時代初期に本堂と仁王門、山門などが再建された。境内には往時をしのぶ伽藍や塔の跡などが数多く残り、「天下遠望の名庭」といわれる庭の紅葉は特に見事な百済寺を訪れる。

741年(天平13)に行基が開いた寺。本堂(国宝)をはじめ二天門(重要文化財)や三重塔(重要文化財)などの文化財が並ぶ金剛輪寺を訪れる。

834年(承和元)、仁明天皇の勅願によって開創された天台宗の古刹。本尊の薬師如来(重要文化財)、十二神将を安置する本堂(国宝)と総檜造りの三重塔(国宝)が境内に並ぶ。室町時代初期建立の二天門(重要文化財)や、池泉観賞式庭園の蓬莱庭(名勝)、秋・冬・春と咲き続ける樹齢250年の不断桜(天然記念物)などみどころも多い西明寺を訪れる。

多賀方面に向かう。
長寿と縁結び、厄除けの神様として古くから信仰を集める社。伊勢神宮の祭神、天照大神の親にあたる伊邪那岐命と伊邪那美命を祭る。境内には延命のご利益があるとされる寿命石や、安土桃山時代に作庭された池泉観賞式の奥書院庭園(名勝)がある多賀大社を訪れる。

青龍山の巨石信仰が起源とされる神社、寿福、延命にご利益があると伝わり、眺めのよい丘に立ち、社務所庭園は国の名勝である湖宮神社を訪れる。

滋賀県多賀町とその周辺の自然や人々の文化をテーマにし、180万年前のアケボノゾウや約3万年前のナウマンゾウの化石,2億8000万年前の海の生き物の化石や現在の動植物,石灰岩の洞くつの生き物,本物と同じ作り方で再現された仏像など,多賀町の豊かな自然から生まれた実物標本を中心とした展示が特徴な多賀町立博物館を見学する。

17:00八日市方面に向かう。
17:30八日市駅、市街地に到達、町を散策してから駅の近くの居酒屋で食事を取る。
18:30帰路に向かう。

今回の史跡巡り、近場の滋賀県湖東の紅葉の名所で国宝や重要文化財に指定されている建造物や名勝庭園など、みどころの多い4つの名刹、竜応山の西明寺、松峰山の金剛輪寺、釈迦山の百済寺、総称して湖東三山、臨済宗永源寺派の大本山・永源寺と、お多賀さんの呼び名で親しまれている多賀神社が位置する多賀エリアを訪れ、鈴鹿山脈の西麓に点在する関西屈指の紅葉スポットとして人気を集めている天台宗の古刹の新緑の春の姿も又違った観点でのしっとりした美しさを味わうことが出来ました。

次回は近江八幡、五個荘を攻めてみたいと思います。




滋賀彦根観光
2009年5月9日


今回は滋賀県の湖東にある江戸時代は旧彦根藩主井伊家35万石の城下町、近世は湖東地域の経済や文化の中心的存として発展した彦根に足を運びました。

12:30車で出発、近畿名神自動車道経由して彦根インター下車
14:00 1811年(文化8)、彦根藩第11代藩主・井伊直中が建立した寺、羅漢堂に並ぶ五百羅漢は京都の名工駒井朝運作で、会いたい人の面影が必ず見つかるといわれる天寧寺(五百羅漢)を訪れる。

遠州井伊谷から移された井伊家歴代藩主の菩提寺。白砂の上に48の石を配置した枯山水の「ふだらくの庭」をはじめとした名庭で名高く、樹齢の400年の沙羅の古木もある龍潭寺を訪れる。

俳句をテーマにした資料館、大正時代の建物を改築した館内では、俳句に関する展示のほか、彦根の歴史や観光も紹介する俳遊館を見学する。

彦根藩の政庁であった表御殿を、発掘調査をもとに復元した博物館。能舞台や茶室、藩主の居間のほか、庭園の樹木までも遺構や古絵図から再現した。井伊家伝来の大名道具約6万5000点を順次展示している彦根城博物館を見学。

彦根藩・井伊家三十五万石の居城。1622年(元和8)、井伊直継・直孝によって、約20年の歳月をかけ完成。琵琶湖から直接引き込んだ堀をめぐらし、小高い山に立つ。3重3層の天守(国宝)を中心に、長浜城から移築された天秤櫓(重要文化財)、城内の合図のための太鼓が置かれていた太鼓門櫓(重要文化財)、近江八景を模した庭園の玄宮園など見どころが数多く残るり、天守の内部は見学可で最上層からは琵琶湖が一望の下に見渡せる彦根城を訪れる。

彦根城の北東にある池泉回遊式庭園。1677年(延宝5)、彦根藩4代藩主の井伊直興が造営した。池を中心に中の島や入江に架かる6つの橋など、変化に富んだ趣が楽しめる玄宮園を散策する。

江戸時代の城下の町並みを再現し、建物を白壁・いぶし瓦・格子戸などモノトーンの世界に統一し、江戸期の風情ただよう新名所となっている夢京橋キャッスルロードを散策する。

17:00観光終了、彦根駅前の居酒屋で食事を済ませてから帰路に向かう。

今回は近場の滋賀湖東にある世界遺産に推奨されている彦根城のある城下町、彦根の歴史的建造物を訪れました。
天候、快晴、絶好の観光日和とゴールデンウイークの最週末、又井伊直弼が日米修好通商条約を結んで150年の節目に当たるため新たな観光事業が企画されて、江戸時代の城下町を再現した夢京橋キャッスルロード、大正モダンをコンセプトにした四番町スクエアなどエリアが充実しかなり賑わっていました。

近場の名所巡り、京都、奈良だけでなく、これから滋賀、三重、和歌山をも攻めてみたいと思います。