埼玉

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十四弾:埼玉県お城・城下町巡り観光
2018年5月26日−27日
 

関東地方の武蔵野国、古くから武士団の力が強く、平安後期以降の館が多く残り、鎌倉幕府の成立に尽力した武士たちは、館からより強固な城に拠点を移したが、やがて関東に転封された徳川家康によって多くが廃城となった埼玉県に足を運び埼玉県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

26日16:20新幹線のぞみで出発
18:53東京駅到達、地下鉄丸ノ内線で池袋経由、東武東上線で川越下車。
20:20川越駅付近のホテル到着後、?華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

菅谷城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に畠山重忠によって築かれたと云われる。 畠山氏は秩父重弘の子畠山重能が武蔵国男衾郡畠山郷に住んで畠山氏を称した事に始まり、重能の二男が畠山重忠である。
畠山重綱は源頼朝が挙兵したときは平家方として三浦氏を攻めたが、やがて源頼朝に従い頼朝の鎌倉入りや富士川の戦い、奥州合戦などで先陣を務め重用された。しかし、頼朝没後の元久2年(1205年)「鎌倉に異変あり」との急報でわずかな手勢を率いて菅谷館を出発した重忠は、鎌倉幕府の実権を握った北条氏によって武蔵国二俣川で大軍に囲まれ討死した。
長享2年(1488年)には扇谷上杉氏と山内上杉氏によって、近くの須賀谷原で合戦が行われ、このときには菅谷城が築かれていたと考えられている。
その後の動向は定かではないが、太田氏が岩槻城へ移ったあとに、小泉掃部助が居城したと伝えられるのみである。

小倉城:詳細不明。
長享4年(1488年)には扇谷上杉氏と山内上杉氏によって近くの須賀谷原で合戦が行われており、近くの平沢寺に山内上杉方の陣が置かれていたが、このときに小倉城が築かれていたかどうかは定かではない。
城主は詳らかではないが、北条氏重の家臣遠山光景、松山城主の上田氏が城主として伝えられている。居館があったとされる東麓の大福寺には「遠山衛門大夫藤原光景室葦園位牌」があり、城主遠山氏室の位牌と伝えられている。

杉山城:築城年代は定かではない。一説に松山城主上田氏の家臣杉山(庄)主水が城主であったと伝えられる。
歴史については詳らかではないが、近年の発掘調査で出土遺物は十五世紀末から十六世紀前葉の年代で、長享年間(1487年〜1489年)の扇谷上杉氏と山内上杉氏の長享の大乱のあと、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗するために築いたものと考えられている 。

山田城:山田城跡は、城跡についての史料は全く無く、江戸時代終り頃に編纂された地誌『新記』の比企郡山川村の条にも見い出すことはできない。地元の伝承では、忍城(現行田市所在)主の成田氏の臣、贄田氏の居城であるとか松山城の出城であるとか伝えられているがはっきりしたことはわかっていない。

忍城:延徳2年(1490年)成田親泰によって築かれた。 天文22年(1555年)北条氏康によって攻められたが、これを退けた。
永禄2年(1559年)長尾景虎が関東に進出、景虎は容易に落城しないことを察知し城下を焼き払った。 これに対して成田長泰は末子を人質として景虎に差し出し、その配下に降った。 翌永禄3年(1560年)再び長尾景虎が関東に進出、鶴岡八幡宮にて上杉憲政から関東管領を譲り受け、上杉政虎と名乗った。 この席で成田長泰は、政虎に辱めを受け忍城に引き上げ、上杉氏に叛き北条氏に身を寄せた。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、石田三成等が押し寄せたが攻めあぐねた。 三成は羽柴秀吉の備中国高松城の水攻めに倣い、堤防を築いて水攻めを決行した。しかし、堤防は崩れ忍城は落城せず、開城したのは小田原城が降った後であった。
徳川家康が関東に入部すると、松平家忠が一万石、その後四男忠吉が十万石で入部した。
・慶長5年(1600年)松平忠吉は尾張国清州に五十二万石で転封
・寛永3年(1626年)深谷より酒井忠勝が五万石で入封、寛永4年(1627年)川越へ転封。
・寛永10年(1633年)相模より松平信綱が三万石で入封。
・寛永16年(1639年)下野国壬生より阿部忠秋が五万石で入封、元禄7年(1694年)正武の時、加増され十万石となるが、文政6年(1823年)陸奥国白河へ転封。
・文政6年(1823年)伊勢国桑名より(奥平)松平忠堯がから十万石で入封、以後4代続き明治に至る。

深谷城:康正2年(1456年)に上杉房憲によって築かれたと云われるが定かではない。 深谷上杉氏は庁鼻和城を居城としていたが、憲国の時に深谷城に居城を移した。
深谷上杉氏は関東に勢力をのばす小田原北条氏と敵対したが、天正元年(1573年)上杉憲盛の時、北条氏に降った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐では城主上杉氏憲は小田原城に詰めていたため不在で、重臣秋元長朝・杉田因幡が守備していたが落城寸前となり開城した。
徳川家康が関東に入部すると(長沢)松平康直が三河国長沢から一万石で入封する。康直が没すると家康の子松千代が長沢松平氏を継いだが夭折し、忠輝が継いだ。
・慶長7年(1602年)忠輝が下総国佐倉に転封
・慶長15年(1610年)(桜井)松平忠重が八千石で入封するが、元和8年(1622年)上総国佐貫へ転封
・元和8年(1622年)酒井忠勝が下総国から一万石に加増され入封、その後三万石、寛永3年(1626年)更に五万石に加増となり忍城へ移封となり廃城となった。

花園城:築城年代は定かではないが平安時代末期に藤田政行によって築かれたと云われる。藤田氏代々の居城で、藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。
室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力をのばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に向かえ用土城に隠棲し用土氏を名乗った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐軍によって攻められ落城した。

天神山城:築城年代は定かではないが藤田康邦によって築かれたと云われる。 藤田氏は武蔵七党の一つ猪俣党で武蔵国榛沢郡藤田郷を発祥とする。
室町時代は山内上杉氏に属していたが、小田原北条氏が勢力をのばすとそれに従い、北条氏康の三男氏邦を養子に向かえ隠棲した。氏邦は天神山城を居城としていたが、後に鉢形城に居城を移す。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐軍が鉢形城を落とすと開城した。

千馬山城:築城年代は定かではないが用土新左衛門によって築かれたと云われる。
用土氏は天文15年(1546年)藤田康邦は小田原北条氏に降って四男氏邦を養子に迎えて家督を譲った。この康邦が用土氏と名乗りを変えているが、千馬山城の用土新左衛門は藤田氏の分家筋の用土氏と推測されているようである。
上杉謙信に呼応して高松城に籠城していた秩父衆が北条氏に降ると、北条氏邦は千馬山城の用土業国と相談して人質を出すように指示している。

16:20終了。
17:00川越駅東武東上線で出発、池袋で地下鉄丸ノ内線で東京に向かう。
18:10東京駅到達。
18:20東京駅新幹線のぞみで出発
20:50新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の埼玉県に足を運び埼玉県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れ楽しみました。平城はほとんどが城址公園に変貌し整備されていましたが、山城は確認が難しく、時間がかかり、案内板のみの城跡も多かったです。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十弾:埼玉県武蔵野三十三観音巡礼観光
2018年1月20日−21日
 

関東地方の埼玉県に点在する、東京の西北、武蔵野の面影が色濃く残っている西武池袋線の沿線に点在する霊場、比較的都心に近い石神井から、深い緑におおわれた武蔵野丘陵の所沢周辺へ、さらには深山を思わせる飯能方面へと分布している武蔵野三十三観音霊場の19番ー33番までの霊場を訪れました。

20日13:30新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:10東京駅到達、タクシーでお台場日航ホテルに向かう。
16:30日航ホテル到着。
17:30講演会出席
20:00懇親会
22:00就寝。
21日7:30ホテルのタクシーで出発
8:00品が駅前でレンタカーで出発、埼玉方面に向かう。
霊場巡り

東光寺:法栄山遍照院東光寺と称するが通称「東光寺」と呼ばれている。入間市小谷田にあり、お茶畑を望む高台にある。
真言宗豊山派に所属し、本尊は不動明王で作者年代ともに不詳。当寺の創立年代は定かでないが中興開山は印融法印である。永正16年(1519)寂、墓碑当寺墓地に現存する。当山の伽藍は昔現在の南方300メートルの所にあり、広大な寺領を有していたが、数度の火災にあい、堂宇什器什物悉く灰塵に帰す。従って古書記録等全てを失い事実沿革を明瞭にする事ができない。
現存する本堂は寳暦元(1751)年霊妙和尚により現存の所に建立されたものである。
当山には武蔵野三十三観音霊場第19番東光寺奉納された梵鐘が2基ある。1基は延宝2年(1674)時の領主である五味家の菩提寺であったときのもの。他の1基は昭和63年新宿丸山園によるもので、鐘楼堂にはこの梵鐘が架かっている。また、当山は奥多摩新四国八十八ヶ所弘法大師霊場の第46番札所となっている。

龍圓寺 :参道を上ると、正面の本堂をはさんで右に庫裡(納経所)、左に観音堂等がある。観音堂には、千手観世音が安置されており、縁起によれば、10センチほどの金の佛像で小名田谷の井戸から出現したという。小名田谷は、地頭、市川氏が住んだ屋敷跡で、観世音出現の井戸の近くには稲荷の小祠があったとか。現在は、寺の東側に稲荷と井戸観音を祠り、復旧させた形をとっている。
寺は、建仁の頃この地に草庵を結んだ僧寂蓮が、この千手観世音菩薩像を安置したのに始まるという。その後数度の火災にあい、堂宇を鳥有に帰したが、この間、宝永6年(1709)に入寂した僧俊誉が中興となっている。
神仏共存の地区で、村社の祭典には境内にも仮屋が立ち、その起点となる。神田ばやし隠岐流(市無形文化財)や鉦はり(双盤)の保存活動も、寺中心に進められている。裏手には、武蔵野三十三観音霊場第20番龍円寺国分寺瓦をやいた登り窯跡の「かま跡公園」、境内には、狭山茶、唐桟織ゆかりの碑もある。弘法大師奥多摩新四国霊場第41番。

高正寺:武蔵野に細長く東西に延びる加治丘陵の北斜面に位置する当山は、今から約800年ほど昔鎌倉時代の初期、この地の豪族金子余市近範公によって開創された古刹である。
近範公は当時この加治丘陵で製鉄業を営む(今でもこの丘陵からは良質の砂鉄が出る)豪族で、その戒名を高正寺殿関叟常鉄大居士と称し、諏訪神を守護神としていたところから、当時は現在諏訪山萬齢院高正寺と称する。本堂には近範公の持念秘仏、虚空蔵菩薩を安置し、御前立聖観世音菩薩が札所霊場本尊である。
当山の聖観音像は、左の御手に蓮華蕾ではなく、開花した蓮華拈じておられる飛鳥形式の御影である。20番札所龍圓寺からは、徒歩約20分の峠道であるが、この坂道を金子坂といい近範公の砦跡と伝えられている。武蔵野三十三観音霊場第21番高正寺また仏子駅(古くはブッシと読んでいた模様で、この地に鉄仏師がいたのではないかの説あり)から徒歩約8分、境内には金比羅堂招福殿等の諸堂があり、また裏山の中腹には、奥多摩新四国八十八霊場第69番本尊を祀っており、現在曹洞宗に属する禅寺である。

圓照寺:当山は真言宗智山派光明院正覚院圓照寺と称し、平安の初期宗祖弘法大師龍燈桜の奇瑞を感じ、霊泉を加持して堂宇を創立したと云う。鎌倉時代の初期には、武蔵丹党の加治氏の菩提寺として円照上人が、弁財天を勧請し諸堂を整備して開山となった。その後寺は加治家と盛衰を共にし、やがて三浦氏の助力で僧朝弘が中興開山となり、寺域は拡大され、徳川幕府より朱印15石を賜り、明治初年寺領を奉還して現在に至った。本尊は加治氏の守り本尊とされた阿弥陀三尊が安置され、本堂は元禄年間の再建にかかるものだが、わずかの円柱と天井裏床下などをそのまま生かし、昭和38年に改築した。
境内には、安永年間に再建した北向不動尊を始め、心字池の中央に厳島より加治氏勧請の弁財天が安置され、毎年1月14日には大祭でにぎわう。本堂の一角に札所本尊如意輪観音(小野賢一郎氏寄進)が安置されている。武蔵野三十三観音霊場第22番円照寺史蹟として、元弘3年5月22日在銘の板碑他5基が国の重文指定をうけ収蔵されている。又本堂内には各界名士染筆寄進の絵馬数百点が奉納されている。

浄心寺:当山は明応〜文亀年間(1500頃)の草創といわれ、本尊に阿弥陀三尊を安置している。当初は瑞林院と号したともいわれる。開山の聚栄常福和尚は永正8年(1511)に示寂。武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺のち慶長12年(1607)市内飯能の本寺能仁寺5世吉州伊豚和尚を中興開山として再興され、現住まで17世に至る。開基は当地の土豪岩沢氏、瑞林院殿月叟浄心居士(没年不詳)で現寺号はこれによっている。現在も檀中に子孫が続いている。
六世梁観禅棟和尚は若年江戸駒込吉祥寺に遊学し、学業成就を寺中の毘沙門天に祈願、見事首席となった。帰郷後報恩の為に附近の堤家より伝来の毘沙門天像を譲り受け安置した。以来学業成就、商売繁昌の信仰が高まり明治初年より1月7日の大祭は信徒数万人が群集し、だるま市が開かれるようになった。霊場本尊の十一面観世音は附近の本明院の本尊であったが廃寺となった為当山へ武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺移されたもの。身代わり観音といわれ災難除けの信仰がある。当寺は武蔵野七福神、高麗坂東9番、奥多摩新四国10番霊場でもある。

観音寺 :当寺は、飯能の商店街の西端に位置し、市民の心のよりどころ「天覧山(てんらんざん)」を北に、南に飯能河原が望める、緑と清流につつまれた自然豊かな場所にあります。
真言宗智山派に属し、ご本尊は如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)。体内に弘法大師作の秘仏が納められていると伝えられています。また西国33番・坂東33番・秩父34番の観音霊場の各ご本尊の写しを合わせた百観音も勧請されています。
境内には、文殊菩薩、不動明王、毘沙門天、大歓喜天(だいかんきてん)、荼枳尼天(だきにてん)、弁財天、大黒天、布袋尊などもまつられており、中でも天狗地蔵は、子供の健やかな成長を祈る人たちからの信仰が厚く、また不動堂の寿老人は、武蔵野七福神のひとつとして正月には多くの参拝者でにぎわいます。
その他、江戸天明期に檀家で当地方の俳人加湧轍之武蔵野三十三観音霊場第24番観音寺(かわくてつし)の肝いりで建立された俳聖芭蕉の句碑や戦中戦後を通じて俳界で活躍した水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の句碑もあり、訪れる人の心をなごませています。

圓泉寺:縁起によれば、天長年間(824〜834)に弘法大師遊化の折り、草堂を建立し、金銅唐仏(現在は木像)の十一面観音菩薩をまつり、傍らに小院を建立し、圓泉寺と名付けたと伝えられている。その後衰微し、享保年間(1716〜1735)中興開山慶秀が再建したといい、また、本堂は、火災に困り焼失し、天保15年(1844)4月に再建された。
不動明王をご本尊とし、他に薬師如来などをまつるが、特に武蔵野七福神の『福禄寿』は、「福」「禄」「寿」の功徳を授けてくれるといわれ、正月には、多くの参拝者で賑わっている。このご朱印帳の書き方は、ここだけのもので、福・禄・寿の3文字を使い、お顔の形になるようにかかれている。
小高い所にある妙見堂は、平将門の信仰した妙見菩薩をまつり、『平松の妙見さま』としてしたわれているが、この御神体は、将門の影武者の綿貫(平)豊八が拝受し、落ちのびた後、武蔵野三十三観音霊場第25番円泉寺綿貫家で守護してきたものを、江戸時代境内にお堂を建立し、まつられた。12月3日の大祭には、近在よりたくさんの人が参拝にみえる。

靈巖寺:関東平野の西端、関東山地との境を高麗川が蛇行して東に向かって流れている。北西の山々が、冬の季節風を防ぎ、緑と清流に恵まれたこの地は、1300年前(霊亀2年)大陸からの渡来人によって、高い文化がもたらされた。靈巌寺は、この歴史ある高麗の里にある。
当寺のすぐ裏、高麗川の対岸には、高麗神社があり、その宮司は、当時の高麗郡長、若光王の男子直系の子孫といわれる。
当靈巖寺は、千有余年前、満行上人によって開山され、蛇行する川が造った地形が箕の形をしていたことから箕輪山、満行院と命名、又境内や高麗川の岩壁に巨岩が湧出しているところから靈巖寺と寺号が出来た。寺の前には広大な水田が開けて有名な「田植え地蔵」の伝説も残るが、水田は明治43年の大水害によって悉く流失し今は牧場、養鶏場、桑畑、工場と化してしまっている。

聖天院:当山は、遠く1250年の昔、高句麗からの渡来人高麗王若光の菩提寺として建立された。若光は、続日本記703年の条に「従五位下高麗若光に王姓を賜う」とあるように朝廷からもその能力を認められ、武蔵国高麗郡の長として祖国の技術をもってこの地の開拓・発展に大いに治績を収めた人物である。
古い歴史と自然に恵まれた高麗郷であるが、とりわけ当山は後方に深い緑に包まれた山をひかえ、高台に位置する広大な境内からの眺望はすばらしく高麗郷随一である。本尊不動尊・高麗王若光守護仏聖天尊(出世開運)の霊験はまことにあらたかで、武蔵野三十三観音霊場としても名を馳せ、老若男女の御参詣日々に多く、山水を存分にとり入れた庭園は四季折々の風情に移ろい、霊域としてまことにふさわしいものがある。
かねてより宮様方をはじめ、各界地名・文化人、児童学生などあらゆる方々の武蔵野三十三観音霊場第26番聖天院ご参詣見学をうけ、当山を訪れた方々は深い感銘と貴重な人生の糧を得られております。

勝音寺:鎌倉建長寺72世勅諡佛印大光禅師、久菴僧可大和尚(上杉兵庫頭憲将公の子息にして応永24年正月26日寂・78歳)阿弥陀如来を本尊として、応永3年8月創立。江戸初期罹災し4世隣藝和尚(平沢の金剛寺駒高の安州寺を創立)により再興するも、亦々天保8年本堂を焼失し現在に至る。
観音堂(現在仮本堂)本尊千手観音菩薩(坐像1尺7寸)脇佛不動明王、毘沙門天(共に立像1尺2寸)を安置する。詳細不明なれど、相模国鎌倉の佛師定朝作と伝える、延文5年佛師周防法橋朝尊により修補、その後享保年間、昭和60年にも再修復現在に至る。(市指定文化財)
尚、慶安2年幕府徳川家より、観音堂領としての五石の御朱印を賜る。又寺宝として大般若経600巻、南北朝時代康安2年、下野国佐野庄の住人比丘昌旭が書写したもので「一巻百札観音懺法武蔵野三十三観音霊場第27番勝音寺一坐楞厳咒一反及金剛経一巻心経七巻読誦諸願供養書比丘昌旭大檀那浄心禅尼一人」と記されてある。(市指定文化財)
高麗坂東観音霊場30番、武蔵野三十三観音霊場27番札所。

瀧泉寺 :平安時代に開山された当山は、はじめ、京都仁和寺、御室御所の直末であったが、時が移り現在は、真言宗智山派に属している。寺のすぐ前を県下一の清流、高麗川が流れ、市の鳥で清流の宝石ともいわれる「かわせみ」もよくみかけられる。
近年は写佛の会が盛んになり、平成4年の秋には、10年、延2000人がかりの64畳分の胎蔵曼陀羅天井(本堂外陣)が完成した。現在は胎蔵曼陀羅と対をなす、金剛界曼陀羅の写佛天井画をはじめている。この他、本尊千手観音の功徳を余すところなく体験するために、千手観音千体写佛(持物手写佛)も同時に行われている。写佛に興味のある方も、そして無い方も是非お出かけ下さい(写佛とは…仏様の図を下絵にし、上に紙を重ねて仏様の姿を写し描きすることです)。
また、日本の貴重な花ハスも数多く栽培されている。これは完成した胎蔵曼陀羅と本尊千手観音が別名蓮華王と称されることに因んで奉納されているものであるが、武蔵野三十三観音霊場第28番瀧泉寺花の美しさを愛でることもさることながら、枯れゆく姿も観照していくところに当山のハス栽培の意義がある。8月には観蓮会なども開かれる。

長念寺:慶長3年飯能の能仁寺4世格外玄逸によって再中興開山された曹洞宗の古刹である。蔵する所の古文書やかつてこの境内にそびえ立っていた唐様式の観音堂(延享元年高倉寺に再建、現在国宝)など考えると開山は相当古く由緒深い寺院と考えられる。天文3年大石定久の肝煎で再興され、小田原北条との縁の深かった事も想像される。天正19年家康により10石の寺領を得て復活し慶長3年に再中興された。聖観音を本尊とし(県指定文化財)、高麗坂東27番の霊場でもある。
享保19年、領主黒田直邦の熱意で400年経過した古い堂を改築されたが、この堂は現在正法寺境内、岩殿観音に移され再建されている。
寺の境内には当時盛んであった武蔵野三十三観音霊場第29番長念寺名残と思われる南北朝頃の青石塔婆が多く保存され、また滝山城主大石定久や八王子城主北条氏照の寺領に関する文書や徳川家康の朱印状、黒田直邦関係の寺宝もあり歴史的価値の高い寺院である。奥武蔵の紫陽花寺と云われ、参道、境内に咲き競う赤白の紫陽花の花見客でにぎわっている。

福徳寺:建暦2年(1212)の創立で、開山は、宝山禅師と伝えられている。永く無住であるが檀家一同の深い信仰心に護られて今日に至っている。
御本尊聖観世音菩薩様は、参道正面の本堂に奉安されているものの拝観はできない。本堂より下の位置にある国指定の阿弥陀堂内には、県指定の善光寺様式の一光三尊の阿弥陀三尊像が居られ、重要文化財を護持している寺として有名である。
所在は、秩父街道(国道299号線)を吾野へむかう途中に東吾野駅がある。この先を200米程で右へ折れて虎秀谷を400メートルの所に美しい緑の中に御堂が見えて来る。
福徳寺の御納経所は、国道299号線を吾野方面に1200メートルほど行くと、同じ臨済宗建長派の禅寺興徳寺がある。
尚、福徳寺の阿弥陀堂は、例年4月15日と11月14日の午前10時頃から12時頃まで御開帳している。
武蔵野三十三観音霊場第30番福徳寺
また、7月16日には、大施餓鬼会の法要が厳修され、その時を含めて、年3回は、聖観世音菩薩様と、阿弥陀三尊如来様を拝むことができる。

法光寺:第31番札所曹洞宗法光寺は西武線吾野駅下車徒歩2分の所にある。ご本尊は延命地蔵菩薩であるが、本堂前の観音殿に木彫十一面観世音菩薩が祀られている。奥の院が裏山約1キロメートル、西武建材株式会社の採掘所内の鍾乳洞の中にある。この観音窟は鎌倉・甲州・武州の関東三大岩殿山と言われていた。当初のご本尊は残ってないが、貞和2年10月(1347)の刻名のある石龕(せきがん)が残されていた。考古学者柴田常恵先生の発願で再興、香取秀真先生の鋳造による十一面観音が石龕の厨子の中に安置してある。また正面には鷲尾順敬先生の額『妙好華殿』が飾ってある。新編武蔵風土記によると、その昔行基菩薩作のご本尊が祭られていたとある。
又、別本岩殿山縁起書によると、聖武天皇の御宇天平年中行基菩薩の開基で、東北行脚の折りこの洞窟で眠っていた折り白馬童子が現れ『汝山頂の霊木を以て十一面観世音の尊像を彫刻しここに安置せよ』とのお告げを受けた。翌朝彼のご神木を見つけ、歓喜して尊像を彫刻し安置したとある。また同所には約4メートルの滝や不動明王の魔崖佛の彫刻・弘法の硯水・馬の歪跡等の見所もある。

天龍寺(子ノ権現) :当寺は奥武蔵自然公園内、正丸峠・伊豆ヶ岳と続く山々の東端、標高640メートルの山の頂上にある。当山の開創は、延喜11年(911)に子ノ聖が十一面観音をお祀りし、この地に天龍寺を建てられたことにはじまる。その後、子ノ聖を大権現と崇め、本尊としてお祀りし、現在に至っている。
子ノ聖が当山へ初めて登山したおり、山麓にて鬼類に襲われ腰から下に火傷を負い苦労したことがあり、「足腰の病に悩める者、誠の心で我を念ずれば、必ず霊験を授けん」という遺言を子ノ聖が残したことから、足腰守護の神仏として世に広く知られ信仰されている。明治の頃には、人力車組合や荷車組合の方々の信仰が厚く、現代では、農家や職方、スポーツ選手等足腰強健を願う方、足腰守護を願う中高年の方々の参拝が絶えない。 武蔵野三十三観音霊場第32番子ノ権現天龍寺
さらに、当寺では往古より、本尊様へ履物を奉納し、各自の願をかける慣しがあり、境内にある日本一の鉄のわらじは、その信仰的シンボルとされている。
また、当寺を起点に正丸峠方面や竹寺方面への登山道は、『関東ふれあいの道(下記参照)』に指定され、多くの山の愛好家にも親しまれている。

八王寺:医王山薬寿院八王寺と称し、本尊「牛頭(ごず)天王」を拝し、本地仏「薬師如来」を祀る神仏習合の姿を今に見る、東日本唯一の遺構である。1000年の歴史を有する山岳仏教の道場として、多くの参拝者が登山される。
海抜500メートルに位置し、茅葺きの本殿は牛頭天王を祀り、丑年に開帳の特別行事が修される。春夏秋冬境内の移りゆく景色は素晴らしく、特に春(3月〜6月)と秋(9月〜12月)に接待される精進料理は、季節の味わいが好評で、住職の話が楽しい。
ハイキングコースにも組まれており、日帰りのハイキングとして手軽に歩ける。新春は、初詣の登山も車で済み、境内より、新宿、池袋の高層ビル街が望め、静かな山上での祈願が受けられる。
武蔵野三十三観音霊場第33番竹寺(八王寺)武蔵野三十三観音霊場三十三番の結願寺であり、三十三ヶ寺の願をここで終える。奥武蔵俳句寺としても親しまれており、文人墨客も多く参拝され、客殿等に絵馬や色紙短冊など多くが掲げてあり、これを見るのも楽しみである。

14:00終了、品川に向かう。
16:20品川駅到達。
16:50品川駅新幹線のぞみで出発
19:40新大阪駅到達

今回の旅行、関東地方の埼玉県に点在する武蔵野三十三観音の19番ー33番まで訪れ癒されました。今回は武蔵野三十三観音の第二弾目で前回は東京から埼玉の比較的にぎやかな場所に点在していた霊場でしたが今回は埼玉県の西北西の田園風景を望みながらの霊場巡り、渋滞もなく、車の少なく、すんなり訪れることができました。霊場の規模は中規模で派手さはありませんでした。
尚最終の32番33番は険しい山の中で道が狭く勾配が強くたどり着くのに時間がかかりスリルを味わいながらの走行でした。今回で武蔵野三十三観音巡り無事終了しました。

















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十七弾:埼玉県お城・城下町巡り観光
2016年5月14日ー15日


武蔵国は古くから武士団の力が強く、平安後期以降の館が多く残る。鎌倉幕府の成立に尽力した武士たちは、館からより強固な城に拠点を移したが、やがて関東に転封された徳川家康によって多くが廃城となった埼玉県のお城10か所を訪れました。

5月14日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:25東京駅到達、タクシーでパークタワープリンスホテルに向かう。
16:45パークタワープリンスホテル到達
17:30講演会出席
20:00講演会終了後懇親会
22:00就寝。
15日8:00レンタカーで埼玉県に向かう。
お城・城下町めぐり。

赤山城:1600年 初代伊奈忠次は家康の関東入国とともに伊奈町に関東郡代として関八州.江戸幕府の直轄地
として治めたが、1629年寛永5年三代忠治tadaharu の時に八千石で赤山領に移り、
赤山城を創建10代163年間居城とした。
広さは2万4千坪の陣屋を構え外堀は水が、内堀は空堀で内側には土塁が築かれていた。
本丸、二の丸だけで11万平方メートルからなる小さな城下町であった。
伊奈家は家康入国以来関東全域の治水を負い、「坂東太郎の利根川」と「暴れ荒川」の洪水を農民らと抑え、用水を引き農地を開き、すぐれた土木技術により治水灌漑.新田開発を民と共に行い、民の中から指導者を育て苦楽を共にし信頼を勝ち得た。江戸時代の治水、新田開発に大きく貢献、初代忠次.三代忠治 は利根川.荒川から関東平野に新しい水路を作り諸国からの水運を計り、江戸の繁栄をもたらし、初代忠次から三代忠治に至る60年間で徳川家の禄高を60万石から120万石にした。
そして、関東入国以来50年江戸の町は爆発的な人口増加により緊急に江戸80万の民の水を確保するため、1653年 保科正之らにより三代忠治が奉行を命じられ多摩川の水を引いてくる上水道.玉川上水事業が行われた。
しかし偏見を持った知恵伊豆松平信綱に国策である玉川上水事業を川越藩の野火止用水事業に利用され、追求した忠治は疎んじられ閑職に追われた。

岩槻城:長禄元年(1457年)太田道真・道灌父子によって築かれた。 関東管領扇谷上杉持朝は古河公方足利成氏に対抗するため、太田父子に命じて築かせた。大永4年(1524年)小田原の北条氏綱は扇谷上杉朝興の居城である江戸城を攻め落とし、翌5年には岩槻城に侵攻、家臣渋江三郎が北条氏綱に内応したため落城、北条氏は渋江三郎を守将とした。 石戸城へ逃れた太田資頼は、享禄3年(1530年)岩槻城を奪い返した。資頼の子資正が継いだ後、扇谷上杉氏が滅び、山内上杉氏も越後国長尾氏を頼って落ち延びると、資正は上杉政虎(謙信)と結び、北条氏に対抗する。 しかし、永禄7年(1564年)里見氏等とともに北条氏と戦ったが破れ、北条氏の謀略により長子氏資が寝返り、資正は佐竹氏を頼って落ちた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、浅野長政等が攻め寄せ落城した。 徳川家康が関東に入部すると、高力清長が二万石で入封するが、江戸時代を通じて激しく城主が替わっている。

伊奈氏陣屋:天正18年(1590年)伊奈忠次によって築かれた。 天正18年(1590年)徳川家康の関東入部に従い三河国小島から移り、一万三千石(一説に一万石)を知行した。伊奈忠次は家康の関東入部により関東代官頭(関東郡代)に任ぜられ、検地や治水、新田開発などに手腕を発揮した。慶長15年(1610年)忠次が没すると嫡男伊奈忠政が家督を継ぎ、関東代官頭も引き継がれたが、元和4年(1618年)に没した。忠政の家督は嫡男伊奈忠勝が継いだが、幼小であったことから関東代官頭は忠政の弟で旗本として赤山陣屋を構えていた伊奈忠治が継いだ。小室藩の家督を継いだ伊奈忠勝であったが、翌元和5年(1619年)わずか九歳で没し、小室藩は嗣子なく改易となった。しかし、伊奈家の過去の功績から忠勝の弟忠隆が旧領のうち小室郷など千百八十六石が与えられ旗本として存続、以後明治まで続いた。

足利政氏館:永正15年(1518年)足利政氏によって築かれたと云われる。 足利政氏は足利成氏の嫡男で二代目古河公方である。
永正3年(1506年)頃から政氏と嫡男高基は対立しはじめ、いったんは和解となったが永正10年(1513年)に上杉顕定の後継者問題で再び対立し、政氏は下総国古河城を出て下野国小山城主小山成長を頼った。しかし、永正13年(1516年)頃になると高基を支持する小山政長の影響で小山氏も高基に味方するようになり、政氏も隠居を余儀なくされ、この久喜の館へ移ったという。
永正16年(1519年)に永安山甘棠院を建立し、開山は政氏の子貞巌和尚である。 永正17年(1520年)政氏は古河城の足利高基を訪ねて和解し、享禄4年(1531年)にこの地で没した。

源経基館:築城年代は定かではない。伝承に依れば、承平8年(938年)武蔵介に任ぜられ下向した源経基が館を構えた所という。

松山城:築城年代は定かではないが、応永6年(1399年)上田友直により築かれたと云われる。 それ以前にも正慶2年・元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉の北条高時を攻めたおり、要害を構えたという。
天文6年(1537年)川越城を落とし勢いに乗る北条氏綱は上田正広の籠る松山城に侵攻したが落とすことはできず撤退した。 扇谷上杉氏は川越城奪回を目指して攻めるが、逆に北条氏康の夜襲により撃退され、さらに松山城をも奪われた。
しかし、上田朝直はすぐさま岩槻城主太田資正の協力を得て松山城を奪還。この時、本丸は太田資正の家臣広沢尾張守が守り朝直は二の丸に入った。 再度北条氏は松山城を攻め、この時朝直が北条方へと寝返り城は落城した。
永禄4年(1561年)上杉政虎が大軍を率いて攻め攻略し太田資正に預けた。政虎が関東から退くと再び北条氏が来襲するが、太田氏はこれを退ける。 しかし翌永禄5年(1562年)北条氏が侵攻、甲斐武田氏にも援軍を求め大軍で押し寄せた。 北条・武田連合軍は大軍をもって攻撃したが容易に落城せず、武田氏は金山衆を用いて地下に穴を掘る作戦にでるも失敗。連合軍は完全包囲で兵糧攻めし、なんとかこれを落とし再び上田朝直の居城となった。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では前田利家、上杉景勝等の大軍に囲まれ落城した。
徳川家康が関東に入部すると、三河国桜井城より(桜井)松平家広が一万石で入封するが、慶長6年(1601年)松平忠頼の時、遠江国浜松に転封となり、以後廃城となった。

大築城:築城年代は定かではない。応永年間(1394年〜1428年)に吾野左衛門尉憲光が築いたとも伝えられる。『新編武蔵国風土記稿』では天正年間(1573年〜1592年)に松山城主の上田能登守朝直が慈光寺を攻めるために築いたとする。

河越氏館:築城年代は定かではないが平安時代末期に河越氏によって築かれたと云われる。 河越氏は桓武平氏秩父氏の一族で、秩父重隆が河越へ移り河越氏の祖となった。治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で挙兵すると、はじめは平家方として頼朝と敵対するが、のちに畠山氏などとともに頼朝に従い平家討伐軍に参加した。 河越重頼の娘は頼朝の弟源義経の正室となるなど重用されたが、義経と頼朝の仲違いから重頼・重房父子は誅殺され、武蔵国留守所総検校職の地位も畠山重忠に奪われ河越氏は衰退する。元久2年(1205年)畠山重忠の乱で、北条義時率いる重忠討伐軍に河越重時・重員兄弟が従軍する。嘉禄2年(1226年)には畠山重忠に奪われていた武蔵国留守所総検校職の地位が鎌倉幕府より河越重時に与えられた。応安元年(1368年)河越氏は「平一揆」を組織して鎌倉幕府と対立し、河越館に立て籠もったが敗れ、伊勢に落ちて没落した。明応6年(1497年)山内上杉顕定は河越城の扇谷上杉氏を攻める為に河越氏館跡に上戸の陣を構えている。その後、小田原北条氏が河越城一帯を勢力下におさめると、重臣大道寺政繁がこの辺りを整備したという。

難波田城:難波田城は中世に富士見市内を本拠として活躍した難波田氏の居城跡で、昭和36年に埼玉県旧跡に指定されました。城は荒川低地の一角に築かれた平城で、規模は5万平方m以上と推定されています。  園内には難波田城資料館や城跡を復元した「城跡ゾーン」、市内の古民家を移築した「古民家ゾーン」があり、富士見市の歴史や文化を感じることができます。

山口城:築城年代は定かではないが平安時代末期に山口家継によって築かれたと云われる。 山口氏は武蔵七党の一つ村山党の出自で、村山頼家の子家継が武蔵国入間郡山口に住んで山口氏を名乗ったことに始まる。家継は平安時代末期に山口に館を構え、後に城郭として整備されたと考えられ、戦国時代には根古屋城を築いて居城を移したといわれる。

今回の旅行、関東地方の埼玉県に足を運び、埼玉県に点在する比較的マイナーなお城10か所をめぐり楽しみました。

  










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十七弾:埼玉県秩父三十四か所巡り
2014年6月14日−15日
 

埼玉県の秩父に足を運び、埼玉県秩父市・秩父郡横瀬町・秩父郡皆野町・秩父郡小鹿野町に点在し、西国三十三ヶ所、坂東三十三ヶ所とともに日本百番観音に数えられています秩父札所三十四ヶ所観音霊場を巡りました。

14日新大阪13:37新幹線のぞみで出発
16:13東京駅到達、京浜東北線経由して
17:05大宮駅到達、レンタカーで秩父方面に向かう。
19:00秩父宮野市内のホテル到着後食事を済ませて就寝。
15日7:00レンタカーで出発、秩父札所三十四ヶ所観音霊場を巡る。

札所1番誦経山四萬部寺:秩父札所1番は、秩父観音霊場、札所1番としてよく知られています。山門をくぐり中へ入ると、正面奥に朱塗り銅葺きの観音堂が端然と建っています。元禄の頃の建築といわれ、精緻な造り、荘重で気品のある堂宇は県指定文化財になっており、緑の木立とよく調和してすごく美しいです。秩父札所1番は昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化しなさい。」と命じました。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てました。四萬部寺の名前はこれによるものです。

札所2番大棚山真福寺:秩父札所1番から山道を登って行くと、木立に囲まれた真福寺が見えてきます。ここは大棚という集落であります。秩父札所2番は昔、大棚禅師が岩屋に籠って参禅していると、一人の老婆が禅師の前にひざまずき、過去の罪業を懺悔し、朝夕香華を供え仏道に帰依しました。ある日、老婆は一本の竹の杖を残して忽然と姿を消しました。禅師はこれをあわれみ、供養のために堂を建てたのが始まりだといいます。秩父札所2番の観音堂は、入母屋造り銅葺き屋根、三間四面の素朴なもので、本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の秀作であります。江戸時代に、札所の番号変更が行われた際本来の33番に1番加えて34番になったのだが、その時プラス1がこの真福寺だといいます。ここは、堂守が居らず、納経などは麓の光明寺で行います。

札所3番岩本山常泉寺:秩父横瀬川にかかる山田橋を渡って左折し、少し歩くと右手にこの寺が見えてきます。秩父札所3番の観音堂は丘の中腹、林の中にあって、静かな村落を見下ろすように東面して建っております。もとの堂宇は、五間四面の大きなものだったが、弘化年間に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築したもので、宝形屋根、三間四面のものが今の観音堂であります。秩父札所3番の本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像です。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫りと、正面梁の鳳凰があるが、カゴ彫りのみごとさに目を見張るばかりで、江戸時代の彫刻の抜群の技術におどろかされます。秩父札所3番は、むかし、ここの住職が重い病気で寝ていたとき夢に現れた観音様からお告げがありました。「境内の水を服用せよ」そのとおりにすると病気がすぐに治ったといいます。

札所4番高谷山金昌寺:秩父札所4番寺に着くと目の前に二階造りの仁王門が現れます。山門の両側には、木造りでは札所一番の大きさを誇る身の丈7尺の仁王が力強い形相で人々を射竦めています。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士。左右の柱に2mほどの大草鞋がかけられています。秩父札所4番の仁王は健脚の神として尊信されてきたところから草鞋の奉納となったと言われております。金昌寺は石仏の寺として有名であります。1300余体で、その形態は羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏などさまざまであります。秩父札所4番の寺に石仏が多いのは、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願し江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就したものだといいます。

札所5番小川山語歌堂:秩父札所5番では美しい屋根の仁王門をくぐると、正面に三間四面の語歌寺の扁額のかかる観音堂が見えてきます。秩父札所5番は、昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者で、孫八は和歌の道に親しむ風流人でありました。ある日、ひとり堂にこもって歌想を練っていると一人の僧が訪ねてきて、話が好きな歌道のことに及ぶと大いにはずみ、二人は夜を徹して和歌の奥義について論じ合いました。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧こそ聖徳太子の化身であったことがわかり、孫八はこの堂の名を語歌堂としたといいます。

札所6番向陽山卜雲寺:秩父札所6番寺の本尊の聖観音は1尺2寸3分(43.3cm)の立像で行基菩薩の作と伝えられている。秩父札所6番の寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、1781年(天明元年)作といわれる紙本着色の荻野堂縁起1巻並びに山姥歯等がある。縁起によれば、行基菩薩が秩父札所6番寺地を巡回したとき、武甲山に3mを超す気性の荒い山姥が棲み、里人に害を与え、はてはこれを食らうという鬼神ぶりで、困り果てているのを聞き、さてはこれを除こうと武甲山頂の蔵王権現にこもり、27日間の清誠をこらした悪魔降伏の祈願をした。この神力呪力によって山姥も悶絶し、平伏した。よって遠国へ立ち去るよう論したところ、山姥は前非を悔いて再び里人を食らわない起請の証として前歯1枚、奥歯2枚を折り取って献じて去ったという。その後、里人が行基に請うて彫ってもらったのが今の本尊で、山姥の歯3枚も当時のまま保存されているという。

札所7番青苔山法長寺:秩父札所7番寺右側に「法長禅寺」左側に「不許葷酒入山門」と刻まれている。これは結戒の一つで、葷酒はその強い匂いで他人を苦しめると同時に己の修行の妨げになり、また酒は心を乱すので、清浄な寺内に入ることは許さないとの意味を言う。本尊は、江戸時代の作の十一面観音で、高雅な面立ちである。内陣欄間に、四国八十八ヶ所の第86番志度寺縁起の彫刻がある。竜神に明朱を奪われた藤原不比等が、それを取り戻そうとして讃岐の志度の浦へきたとき、そこに住む海女と契ってしまう。やがて海女は不比等の子房前を生む。不比等への恩愛故に海女は竜神に赴き、明朱を無事取り返したのだが、竜神に追われてしまう。きわまった海女は己の乳房を切り、その下に明朱を隠し、命とひきかえにそれを不比等に伝えたという哀しい縁起話であります。

札所8番清泰山西善寺:秩父札所8番寺へ入ると、本堂前のコミネモミジの古木に圧倒されます。1950年に天然記念物として県の指定を受けたこの大樹は、天正年間に植えられたもので、樹齢500年という老木ですが樹勢は今も良く、幹の周囲3m、高さ10m、枝張り南北18m、東西20mという豪勢さです。本堂は、間口7間、奥行6間、軒唐破風の向拝を配した寄棟造りで、向拝から入ると方形の土間が切り込まれ、観音様が身近に感じられます。本中央に十一面観音を祀り、阿弥陀三尊仏が右側に安置されています。秩父札所8番の阿弥陀様は無限の幸せを、観音、勢至菩薩は人々をお助け下さります。当山でご祈祷した肌着を着用すると、下の世話にならず長寿が保たれ安楽往生できるといいます。

札所9番明星山明智寺:秩父札所9番寺の元の観音堂は、1881年(明治14年)に落雷のため焼失し、その後建造されたものは、間口4間、奥行3間のこじんまりしたものでした。しかし、平成2年3月に、新しく建立された新観音堂は、二間六面の六角堂形式の美麗なもので、ここに御本尊をまつるとともに、従来の建物も新しく造りかえられました。秩父札所9番の縁起によれば、昔この村に親孝行な少年がいました。盲目の母の眼を開かせようと、日夜老母の手を引いて観音様にお詣りしていました。ある日のこと、老僧が現れて、この母子の健気な姿を大いに哀れみ、母に眼を救いたければ観音経の「無垢清浄光・慧日破諸闇」の二句を唱えるよう論すとそのまま姿を消してしまった。母子は、堂にこもって、一心に観音経の二句を唱えつづけていると明け方、内陣から明るい星が光りまたたき二人を照らした。そのとたん母の眼が一瞬のうちに開いて、暗黒の世界から解放されたといいます。

札所10番万松山大慈寺:秩父札所10番寺は赤い頭巾と白い腹掛けを着せられた延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると三間二面の楼門形仁王門があります。両袖の火灯窓をのぞくと、4尺(1m21cm)位の形のいい仁王が構えておられます。秩父札所10番の本堂は、中央部に2間半の向拝がつき、その中が土間になっていて参詣者は履物のまま入って拝むことが出来ます。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音で、賽銭箱の横に40cmほどの赤渋色のお賓頭盧さまが、笑顔で座っています。信者が自分の病む個所を手でさすり、それでお賓頭盧さまの同じところをなでると、病気がそこへ移るという俗信があり、願掛けをする人があとを絶たない。そのため手沢で全身がぴかぴかに光っています。

札所11番南石山常楽寺:秩父札所11番寺は山の中腹にあって秩父の市街地が一望できます。秩父札所11番の記録によると、昔は観音堂、仁王門、庫裏など堂々とした伽藍のある寺であったと言うが、1878年(明治11年)の秩父の大火で不幸にも類焼して、一切が烏有に帰したのだといいます。その後、1897年(明治30年)に建てられたのが現在の観音堂で、三間四面、流れ向拝付き方形建築。本尊は3尺(90.9cm)ほどの立像の十一面観音で、他に行基作といわれる釈迦如来像もかざる。1920年(大正9年)4月、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし家並に」と詠んだのは、秩父札所11番寺の常楽寺前の坂道でのことです。この寺を開いた門海上人は、仁王門を造りたいと念願し、いよいよ工事が始まりました。すると重い病気になってしまいました。或夜金剛神が現れて、上人の手をとって床から引き起こしてくれました。これからめきめきよくなって、無事に仁王門が完成したといいます。

札所12番仏道山野坂寺:秩父札所12番寺の桜並木の参道の正面100mほど前方に城門を思わせる黒塗りの楼門が見えます。明治末期の火災で寺は焼失してしまったが、幸いに山門だけは残りました。入母屋二重垂木の八脚門で、左右に火灯窓(花頭窓)を配し、自然木の丸太を柱として上層・橡・勾欄をまわした簡潔で重厚なところは禅寺に似つかわしい風格を保つ。楼上には阿弥陀・釈迦像・十三仏像が安置され、階下両脇には十王をまつっております。秩父札所12番の本堂は六間四面で、内陣にまつられている本尊は、一木造りの藤原時代の作と言われている聖観世音で、優しい顔立ちをした豊麗な美人を思わせるような立像であります。昔、甲斐の国の絹商人がここを通りかかったとき、山賊に襲われもはや叶わぬ命と一心に南無観世音を唱え続けた。すると肌のお守りが光明雷のごとく輝き、賊どもは眼を射られて逃げ去った。観音の功徳に感泣、後にこの地に堂宇を建て、観世音を勧請してまつったのが秩父札所12番寺の草創だと言われております。

札所13番旗下山慈眼寺:秩父札所13番寺の入口には薬医門と呼ぶ切妻造りの黒門があり、高い地輻をまたぐと左手に鐘楼、右手に経蔵と薬師堂が並んで建ち、正面が観音堂です。1878年(明治11年)3月の秩父大火で焼ける前の堂は広壮なものだったが、1901年(明治34年)頃再建されたのが今の堂です。三間四面の小柄ながらも華麗な装飾を施した堂であります。秩父札所13番の本尊は行基作といわれる聖観音で脇仏は阿弥陀三尊。その一体が前述の火災の際に火をかぶり今も痛々しいお姿ながら残ります。この寺には、一切経輪蔵があります。堂の中心に輪蔵形式の経庫があり、心柱の上に六角灯篭型の経蔵を置いて回転するようにしたもので、正面に釈迦像を安置し、他の五辺には黄檗版一切経1630巻が収めてあります。これを回転すれば必要な経文が取り出せるし、回しながら礼拝すれば読誦したのと同じ功徳があると言われます。なお、秩父札所を開創した十三権者の像がまつられているのは、秩父札所13番寺であります。経蔵の隣にある薬師堂は、薬師瑠璃光如来即ち目の神様として「め」の文字を入れた絵馬がたくさん奉納されております。

札所14番長岳山今宮坊:秩父札所14番寺の近くには今宮神社があります。この神社と今宮坊は同じところにありました。長岳山正覚院金剛寺といい聖護院直末の寺で修験道の大宗でありました。秩父札所14番の屋根に宝珠をのせた観音堂は、間口奥行とも三間の方形造りの飾り気のない端正な建物で、本尊は1尺9寸(約57.6cm)の木彫漆箔置き・半跏趺坐像の聖観世音です。701年役行者が、この社の境内の池に、仏法を守り水を司る神として八大龍王をまつったところから、今宮神社は八大宮とも呼ばれております。秩父札所14番観音堂は、元来今宮坊の境内にある一堂宇で、巡礼者は八大宮をお参りしたのち参道を通って隣接の観音堂にお詣りするのを通例としていました。むかし、秩父へ武田軍が攻めこんで来た時、石原某は信玄の勘気にふれて切腹を命ぜられました。石原はこのお堂にこもって終夜観音様を祈りつづけていました。すると切腹直前に早馬が来て許されたという話が伝わっております。

札所15番母巣山少林寺:秩父線の踏切を渡ると石段の上に白塗り土蔵造りの本堂があります。札所15番寺は1878年の秩父大火の際、この寺も例外なく焼失したので、本堂再建の際、内部は和式ながら火災予防の見地から木造の外側をすべて白色の漆食塗りで仕上げたもので、札所中唯一の土蔵造りの堂であります。札所15番の参道の入口に「五葉山少林禅寺」とあるので、訪れる人は間違ったと迷う人も多いと思います。もともとこの寺は母巣山蔵福寺といい秩父神社境内にありましたが、明治維新の神仏判然令でいったん廃寺になりました。そのため、札所15番がなくなってしまうのを憂えた信者たちが役所に願い出て市内柳島にあった五葉山少林禅寺を現在のところへ移し両寺合わせて秩父札所15番を継承することにしたのだといいます。こんな話もあります。江州の商人が東国へ行く途中「定朝が観音像を造ったのでだめだ!秩父で暴れよう」という疫病神の声を聞きました。そこで定朝から疫病退散の観音像を授かってきてお堂を造って安置しました。

札所16番無量山西光寺:札所16番寺の無量山の額を掲げる山門をくぐると正面に本堂があります。秩父札所16番の堂の東側には前庭を囲むコの字形の回廊堂があります。中には四国八十八ヶ所霊場の本尊を模した木像が並んでおります。1783年浅間山大噴火により命を失った人や家畜の精霊菩提のため造営されたというが、これを拝めば四国遍路を果たしたと同じ功徳を得るといいます。この回廊堂に囲まれた中庭には二つの小さな堂があります。一つは四国八十八ヶ所に縁のある金比羅堂、もう一つが中に観音をまつる納札堂であります。。今では札所中唯一となってしまったこの納札堂だが、その柱には無数の釘跡が残っていて、当時の殷賑ぶりが想像できます。札所を巡拝することを「札所を打つ」といいましたが、こうした行為から生まれた言葉であります。こんな話もあります。あるとき住職が月を眺めていると、老婆が現れて、「生前欲深だったので、死んでも苦しんでいる。ここへ観音様を導くからぜひ冥福を祈ってもらいたい。」といった。やがて千手観音像が到来したので、老婆の冥福を祈ったといいます。

札所17番実正山定林寺:壬生良門という殿様が狩りに来て近くの寺で雨宿りした。利口そうな坊主がいたので名を尋ねると以前忠言に立腹して追放した林定元の遺子なので驚いた。殿様は怒りっぽい性格だった。そこで前非を悔い林定元をともらうため建設したのがこの秩父札所17番寺と言われています。秩父札所17番は1963年に再建されたもので、ここに掛けられた銅鐘は、高さ138cm、直径77cmで、鐘の周囲全体に西国・坂東・秩父百観音の本尊を浮き彫りにし、各寺の御詠歌を刻みつけた見事な物です。この鐘の由来は、昔ある人が妊娠の身でありながら秩父巡礼に出ました。途中17番付近までくると急に産気づき、赤子を産み落としてしまいました。困り果てた女は赤子を油紙に包み、寺のほとりの沼に棄てて巡礼をつづけ、やっとのことで結願を果たしました。家へ帰ってみると、捨てた筈の赤子が土間に立っている!驚いてそこを掘ってみると土の中に定林寺のご本尊の姿が浮かびでました。女はわが身の行為を恥じ、懺悔し、その罪ほろぼしに梵鐘をつくり寄進したのがこの鐘だといいます。

札所18番白道山神門寺:秩父札所18番寺は、もと14番今宮坊に属する修験寺で、当時は大いに栄えたというが、寛政(1789〜1800)のころ焼失、今の観音堂は天保時代(1830〜1843)に再建されたと言われています。秩父札所18番の堂は宝形銅葺き、三間四面で周囲に縁勾欄をめぐらし、正面に三段の階をつけ、大唐破風の向拝を配した小さいながら風格のある堂です。秩父札所18番の寺伝によると、ここは昔神社だったが、いつの間にか荒廃し、再興を願った村人達は神楽を奉奏しました。すると巫女に霊験があり、観音の霊地すなわち寺を建てよとのお告げがありました。村人達は聖観音を安置し、霊場を開いたのがその創始だといいます。本尊は聖観音立像で高さ3尺1寸(93.9cm)、両手に蓮華をもつ室町時代の作です。ここには、札所三十四ヶ寺の本尊を彫った版木があり昔はこれを刷って信者に配ったといいます。

札所19番飛淵山龍石山:秩父札所19番寺は起伏のある大きな砂岩の磐上に観音堂が建っている。三間四面の堂だが、柱間が他の札所の堂と違い、中の間15尺(4m54cm)、左右9尺(2m72cm)の変形なので堂々として見る目に大きい。秩父札所19番の本尊の千手観音は高さ1尺5分(45.5cm)の寄木造りの坐像で、室町時代の作と言われる。縁起によれば、弘法大師の作で、遠く京都から飛んで来てここに定着した霊験あらたかな尊像だとあり、山号の飛淵山はこれによるものだという。秩父札所19番は昔、ある年の事、ひどい日照りがつづき人々は飢えと渇きで苦しんでいた。この地を巡錫した弘法大師が雨乞いの業法を修したところ、突然大岩が二つに割れ大きな竜が天に昇った。間もなく大雨が降り、人畜草木ことごとく生気を取り戻し、五穀も豊穣となったという。

札所20番法王山岩之上堂:秩父札所20番寺は秩父札所中最古の建物で境内は荒川に臨む断崖の上にあり、三間四面の堂は向拝から土間に入れるようになっており、須弥壇が間近に仰げるので観音さんと共にあるような感じです。宮殿形の春日式厨子は、扉の見返りに三十三観音・日・月・風・雷神像をとりつけ、内部は金箔押し。秩父札所20番の本尊は2尺3寸5分の聖観音立像で、共に藤原時代の逸品です。堂内に猿子の瓔珞が飾られています。堂内に猿子の瓔珞などを連ねて編み、仏像の頭、首、胸などにかける飾り物が飾られています。千疋猿とも言われ、小切れと綿を使って小猿の形に縫い上げたものを天蓋一張りに千個、観音堂の天井から吊るし飾ったものであります。秩父札所20番は昔、この地の人が実家の母の看病で荒川を渡ろうとしたが大水で舟がなくて困っていると小舟が現れて渡してくれた。それは観音様が子供に姿をかえて助けてくれたのだという話があります。

札所21番要光山観音寺:秩父札所21番寺は平将門が戦勝祈願のため矢を納めたので矢納堂、もっと古くは日本武尊が東征の折、ここに立ち寄り武運長久・東国平定を祈り、鏑矢を納めたから矢之堂。また八幡大菩薩が邪神悪魔退治の際、その放った矢が魔族を射抜いたまま、ここに落ちたからこの名がついたのだ、とも言われております。秩父札所21番は1923年近くの小学校が火災のとき飛び火して、観音堂、庫裏など全て焼けてしまった。だが、本尊の聖観音は幸い火難を逃れたので、近在の人々は火除けの観音様と呼んでいます。ある奇特な人が、折角の巡礼だから1番を1円で振出し、2番は2円と倍々で賽銭をあげようと心に決めて出発しました。3番、4番、・・・10番の512円位まではよかったが、15番になると1万6384円となります。あわてて計算してみたら21番では104万8576円、結願寺の34番になると驚くなかれ85億8993万4592円となります。早速誓いを改め観音さんにお詫びしたという話だが、よく考えてから決めたほうがいいですね。

札所22番華台山童子堂:秩父札所22番寺童子堂の由来は、大昔、子供の間に天然痘が大流行したとき、山奥の華臺山から観世音を勧請し祈祷したところ、疫病はぴたりと治まったといいます。以来子供の病気一切に霊験あらたかだというのでこう呼ぶようになったと言われています。秩父札所22番の仁王門は単層茅葺で、門の両袖に仁王像が安置されています。観音堂は三間四面、方形瓦葺きでめぐりの勾蘭つきの浜縁も、前面を下げて上がりやすいよう工夫されています。正面唐戸の風神、雷神、迦陵頻伽(極楽浄土にいる霊鳥)の図柄彫刻が人目を引く。秩父札所22番は昔、讃岐国の欲深い人が旅僧が一食の布施を願ったら与えずののしった。するとこの人の息子が犬の姿に変わった。びっくりしたが許してもらえずこの子を連れて西国、坂東、秩父巡礼をしてここまで来たら元の姿になったという話があります。

札所23番松風山音楽寺:秩父札所23番寺は、秩父市街地や武甲山をはじめ秩父連山が一望できる山の中腹にあります。秩父札所23番の観音堂は、三間四面、銅板葺きの方形造りで、まわりに勾欄つきの浜縁をめぐらしている。この回廊の幅が広く、柱間が広いので、三間四面とはいえ他の観音堂より一回り大きく見える。堂前の鐘楼には、市の文化財に指定されている梵鐘がある。1768年(明治5年)に鋳造されたもので、高さ120cm直径69.7cmで、鐘身の上方に108個の乳頭、下部には聖観音、不空羂索観音、十一面観音、如意輪観音、千手観音、馬頭観音の六観音が浮き彫りされている。また、秩父札所23番の観音堂の裏手5〜6分の所に十三地蔵尊がある。昔、慈覚大師がこの地へ来て、ここへ寺を造って悩める人々を救ってやりたいと考えた。この山へ登りはじめたが道に迷って困っているとき一頭の小鹿が現れて大師を案内したという話があります。

札所24番光智山法泉寺:秩父札所24番寺に入るとすぐ目の前に116段一直線の階が迫っています。数えてみると117段あるが、一番上は観音の霊地で階段ではないから116段の階と言うのが正しい。銅板葺き四注屋根、三間四面のこの堂は、三間の表一間を吹放しにし、左右の袖に小さな仁王尊を納めてあります。がんを設けて仁王尊をまつり込む、つまり仁王門と観音堂を一宇とした造りは、堂の柱が全部八角柱であると共に、他に例を見ない特徴と言えます。秩父札所24番の本尊は、坐高7寸6分(23cm)一木造りで胡粉彩色を施しており、袈裟には切箔をおいた宗朝風の美しい姿であります。昔、信仰深い女性が、口中の腫物で困っていた。秩父から来た僧が「この柳の枝で口を洗え」と教えたのでそうするとすぐ治ったといいます。秩父札所24番の縁日の4月18日には、集落の男女が各戸一人ずつ出て廻り念仏を行います。境内いちめんに咲いた桜の下で、人々は輪になって子供のにぎりこぶしほどの木の玉を連ねた長い数珠を南無阿弥陀仏の称名を繰り返しながら順次わきに座る人に廻します。

札所25番岩谷山久昌寺:秩父札所25番寺入口に「御手判寺」の大石柱。御手判というのは、札所開創の時、性空上人らが冥土からもたらした石札の一種で閻魔大王の手形石だと言われています。石柱のすぐ向こうに小さな仁王門。千社札の一枚も貼られていない茅葺の門は小さいながら品格高い仁王像を両袖に納めています。秩父札所25番の観音堂は、三間四面、宝形屋根流れ向拝の建物。1尺7寸1分の一木造りの観音を拝し、背後の土手に上ると弁天池がひろがります。古くは、この水上に弁天堂がまつられ参詣したというが、今は池の対岸にある久昌寺の境内に移されている。境内には、たくさんの猫がいるが、皆、すてていくのだと言う。なんともおろかなことです。猫を捨てるためにこの寺にくる人がいるなんて・・・。観音様のバチがあたるでしょう。昔よこしま女がいて村を追われ洞窟の中に住んでいた。娘は気立てのよい子で母の死後もその菩提のため寺を建てたいと念願していた。里人もその考心に打たれて助刀して出来たのがこの寺だといいます。

札所26番万松山円融寺:秩父札所26番の本堂の戒壇には、高さ1.2mの衣の下に鎧をつけた軍身姿の勝軍地蔵菩薩立像、十一面観音像、毘沙門天像などがあります。岩井堂は更に30分ほどの山の上にあります。昭和電工の間を抜け、つきあたりの琴平神社の石段を上れば、神社の奥の院をめぐって岩井堂に着きます。鳥居をくぐらず、右横の山路を登るのが本来の参道で、尾根に向かって一直線300段余りもある苔むした石の段。勾配が急なので少々きついです。登りつめると懸け造りの岩井堂が見上げるような岩山に抱かれるように建っています。間口・奥行各三間、方形屋根二重垂木、三方勾欄をめぐらした朱塗り舞台の堂であります。前面は急傾斜数丈の高さで、浜縁からの景観は左手に武甲山の山肌がせまり、前方に奥秩父の連峰が望見できるという素晴らしさです。秩父札所26番は昔、このお堂に参拝した江戸の巡礼者が、一人で手すりにもたれているとき、湧き上がる霧の中に有難いお姿を見て「極楽浄土だ!」と感激したといいます。

札所27番龍河山大淵寺:秩父札所27番寺の山道をたどり登りつめた所で白衣観音に着く。高さ16.5mの鉄筋コンクリートで、1935年11月に建立されたものです。高崎・大船とともに関東三大観音像と呼ばれるが、戦争の足音がひしひしと迫ってきた時代のこと、本来左手に蓮華を持つ筈なのに代わりに剣を持つ像に仕立てられ、護国観音と呼ばれています。秩父札所27番の旧観音堂は、山上の護国観音の付近にあったという。のちそれを麓の寺の境内に移したが、1919年4月12日、開通したばかりの秩父鉄道の蒸気機関車から吐き出された煤煙で寺もろとも焼失しました。3年後、再建されたが、観音堂の方は平成8年5月18日に落慶しました。秩父札所27番は昔、宝明という坊さんが、ここへ来た時、足の病気になり動けなくなりました。たまたま巡錫中の弘法大師が、観音像を刻んで与えました。熱心にこれを拝んだら病気が治ったといいます。この像を祀ったのがこの寺の創始だといいます。

札所28番石龍山橋立堂:秩父札所28番寺の観音像は、迫り出した70m程の石灰岩の岩壁の下に建つ。三間四面、流れ向拝を付した方形銅板葺きの堂であります。秩父札所28番の本尊は、札所中唯一の馬頭観世音で、高さ26.5cm、漆箔三眼、三面三臂の坐像で鎌倉時代の逸品だが、現在三臂並びに馬頭を欠いているのが惜しまれています。秩父札所28番の馬頭観音は、六観音・八大明王の一つで、冠に馬頭をいただき、身色は赤で、いかりの相を表し、一切の魔や煩悩を打ち伏せるといいます。ところで、ここには県指定天然記念物の橋立鍾乳洞があります。洞穴の長さは130〜140m、入口の高さ2.2m、幅3mで、内部には鍾乳石・石筍・石柱・岩皺など奇怪な形容で入った人を驚かせています。弘法大師の後姿、上り竜、下り竜、仁王の足などと名付けられた奇石の洞内くぐりは、子供たちはスリル満点の探検であり、大人たちにとっては魅力ある夏のひと時となります。また、札所境内から鍾乳洞にかけての一帯は、地質・鉱物・古生物・考古学の宝庫であります。

札所29番笹戸山長泉院:秩父札所29番寺の入口のしだれ桜の下に「篠戸山長泉禪院」と深彫りされた苔むした立派な石碑、その右側には、石の延命地蔵が「二十九番」と彫られた台座の上に座っています。秩父札所29番の昔の観音堂は、寺の前方にある小山の頂上近くの岩山に懸崖造りで建っていたが、焼失してしまったので、江戸中期に寺内に移された。間口7間、奥行5間半の寄棟瓦葺きの堂であります。一木一草に至るまで手入れの行き届いた境内は、いかにも観音の霊地らしさを感じられます。秩父札所29番の本堂正面の欄間に、寺宝の一つである板絵額があります。葛飾北斎52歳と署名入りの楼花の絵であります。またこの寺が石札堂と呼ばれるのは、1234年円教寺開山性空上人が、秩父巡礼の折納めたという古い石札があるからであります。昔、山峡の渕の中に光るものが見えるので里人は何だろうと怪しんでいました。その時、十数人の僧が現れて小笹の茂る岩屋の中の観音像を見出し、お堂を建ててお祀りしたのが寺の創始であるといいます。

札所30番瑞竜山法雲寺:秩父札所30番寺の参道につけられた10数段の石段を上ると、右側に納経所を付設した庫裏がある。前面には谷水を引き入れた池があり、その周りは手入れの行き届いたサツキで埋め尽くされています。宝形屋根、三間四面の朱塗りの堂であります。楊貴妃観音とも呼ばれる本尊の如意輪観音についての寺伝は、1319年(元応元年)鎌倉建長寺の道隠禅師が、唐朝の玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃の冥福の為、自ら彫刻し、不空三蔵が開眼したものをこの地に招来安置したものだと説く。高さ39cmの如意輪観音は、片ひざを立てた金色燦欄たるもので、ふくよかな手や頬の流れ、華やかな冠や瓔珞など、まさに中国渡来だという寺伝も納得できる。この寺に保存されている納札は、全国的にも珍しい木の板に陰刻されたものであります。6枚現存されているが、秩父札所の貴重な一級資料ではなかろうか。

札所31番鷲窟山観音院:秩父札所31番寺の水子地蔵の紫雲山地蔵寺は、山を切り開き、ひな壇式に地蔵が並べられている。この世に生まれ出ることのできなかった水子が安らかに成仏できるよう、その菩提を弔うため石彫の地蔵を納めた霊場で、一体一体に赤い前掛けや風車が供えられています。そこを突切り、トンネルをくぐり沢沿いの道を行くと、右手の山麓に仁王門が見えてくる。仁王は身の丈1丈3尺、台座まで入れると4mを超す札所第一の高さを誇る荒削りの石像で、1868年長野の石工藤森吉弥一寿の作と言われます。秩父札所31番の門をくぐると、不規則に踏石を置いた急な石段道で、上りつめると三方を岩壁に囲まれた平坦地で、正面奥に近年再建されたコンクリート造り、三間四面の観音堂が建っています。堂の左側岩壁から一条の滝が落ちていて、その落差は約60m、滝下の池のそばには不動明王が立っています。秩父札所31番は昔は、水量も豊富で修験者たちが滝に打たれて荒行をしたといわれ、それを証するように池の近くの断崖には体長18cmほどの爪彫り千体仏が浮き彫りされております。

札所32番般若山法性寺:秩父札所32番寺の般若山の額をかかげた山門は、白木の精巧な造りで、札所では唯一の鐘楼門で楼上は鐘を吊る為、化粧屋根になっています。舞台造りの観音堂は、方形屋根、三間四面で内陣の外側は吹抜けになっています。秩父札所32番の本堂の前立に、冠の上に笠をかぶり、櫂を持って船を漕いでいる珍しい観音像が安置されています。観世音が船に乗って出現されたという縁起にもとづく立像で、この寺のことをお船観音と呼ぶのはこれによる。また、奥の院である山上の岩場が大きな船の舳先の様な形をしているのも名の由来の一つであります。そこには、等身大の青銅製の大日如来がまつってあります。札所32番の観音堂の寺宝の一つに長享番付がある。札所が34ヶ寺に編成替えになる前、つまり33番寺番付を記したもので、1488年(長享2年)の記録であります。昔、巨岩からあやまって落ちてしまった江戸の町人の手代の話があります。観音様のご利益でけがをしなかったばかりか、盲目の主人の眼が開いたといいます。

札所33番延命山菊水寺:秩父札所33番寺の参道の正面に「正大悲殿」の額を掲げる間口8間、入母屋造りの観音堂があります。向拝の内部は広い土間で、本尊を間近く拝むようになっています。秩父札所33番の本尊は聖観音一木造りの県指定文化財、藤原時代の秀作。右手の壁面高く、名高い「子がえしの絵図」が掛かっています。秩父聖人と言われる井上如常が奉納したものであります。如常はこの絵の中で、嬰児殺しの悲惨な風習を戒めて、わが子を圧殺するなど極悪非道の所業だと母親をはげしく責めています。そして左側には孝行和讃と、唐の楊夫人がわが子を差し置いても姑の老婆に乳を与えている彩色絵の奉額があります。秩父札所33番の境内には数基の古碑があるが、中でも芭蕉の句碑は有名で寛保年間1741〜1743)に翁の50回忌に建てられたもので、「寒菊やこぬかのかかる臼のはた」と刻まれ、秩父で最も古い句碑といわれています。

札所34番日沢山水潜寺:秩父札所34番寺の前に、結願の御砂ふみがある。平らな黒御影石に二つの足形が揃えて彫ってあり、「足形の上で拝めば、百観音巡礼の功徳がある」と刻まれています。この上に乗って手を合わせると、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の合わせて日本百観音巡礼を果たしたという爽快な気分になるから不思議です。秩父札所34番の観音堂は、寛政の頃(1789〜1800)、江戸在住の人々の寄進によって再建されたと伝えられる方形屋根、四間四面の建物で、周囲の環境と調和して結願の寺にふさわしい森厳な寺域であります。観音堂に向かって右奥の岩下に、自然の岩窟があり、清水が湧き、かたわらに石仏がまつってあります。秩父34ヶ所の巡礼を終えた人達が、ここで結願の水垢離をとって、笈を解いたところである。秩父札所34番の寺名はこの行事に由来します。苔むした大きな水鉢にあふれる清水を口に含むと、山の霊気がこもったようなすずやかな味で、身も心も清冽な気分に満たされます。

15:30終了、大宮に向かう。
17:20大宮駅到達、高崎線、山手線経由して
18:10東京駅到達。
18:20東京駅新幹線のぞみで出発
20:55新大阪駅到達。

今回の旅行、埼玉県の秩父に足を運び、日本三大霊場の一つ秩父札所三十四ヶ所観音霊場を車で巡り楽しみました。

庶民の霊場として有名な秩父札所三十四ヶ所観音霊場、西国とは違い規模は小さく、派手さはないが、無料の駐車場が整備してあり、各霊場は集中して間隔も短い、短時間で巡れる霊場でした。
早朝から夕方までの短時間で34か所すべてを巡ることができました。

短時間短日で巡れる霊場としてお勧めですね。険しい道のりもなく快適に訪れることができます。

































飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百二十六弾:埼玉県秩父パレオエクスプレス
2013年4月20ー21日


埼玉県秩父エリアに足を運び、3月中旬から12月上旬までの期間に、都心から一番近い蒸気機関車として熊谷から三峰口間をSLが走る。雄大な秩父路を走る蒸気機関車は鉄道ファンの間でも評判、荒川や秩父の山々など、雄大な自然を楽しめる約2時間40分の旅、秩父パレオエクスプレスを乗車しました。

20日13:37新大阪新幹線のぞみで出発
16:13東京駅到達、京浜東北線、高崎線経由して
18:30熊谷駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し、食事を済ませて就寝。

21日9:00出発
10:10熊谷駅パレオエクスプレス乗車し出発

埼玉県北部を東西に走る秩父鉄道では、都心から一番近い蒸気機関車として秩父路のSL「パレオエクスプレス」が走ります。 パレオエクスプレスとして走るC58363は 昭和63年の「さいたま博覧会」開催にともない復活し、21世紀を走る唯一のC58形として活躍しています。

12:50三峰口到達
14:03三峰口パレオエクスプレスで出発
16:18熊谷駅到達
16:35熊谷駅出発、高崎線、京浜東北線経由して

17:30東京駅到達
17:50東京駅新幹線のぞみで出発
20:20新大阪駅到達。

今回の旅行、埼玉県秩父エリアを走る、都心から一番近い蒸気機関車として秩父路のSL「パレオエクスプレス」を乗車してきました。

荒川や秩父の山々など、雄大な自然を約2時間40分の旅、楽しめました。

20日昼から21日夜まで在来線、新幹線、在来線、SL、SL、在来線、新幹線、在来線を乗り継ぎ総時間14時間20分の列車三昧の旅でした。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第百七十六弾:埼玉県所沢&狭山観光
2012年1月14日ー15日
 

3回目の訪れである埼玉県に足を運び、埼玉県南部に位置する中心都市で、明治時代に日本初の飛行場が誕生した航空発祥の地、うどんやだんごの店が多い街としても知られている所沢、県南西部の入間川流域に広がる町、畑が多く、農産物生産面積では県下一とされ、高品質の狭山茶は、その味わいから日本三大銘茶に数えられる狭山・入間、面積のおよそ7割が山林で、キャンプやハイキングなどで親しまれている飯能、江戸時代には、八王子から日光へ至る街道の宿場町として栄えた坂戸を訪れました。

14日13:35新大阪新幹線のぞみで出発
15:50品川到達、山手線で大崎経由して池袋到達
16:36池袋、西部池袋線で出発
17:20所沢到達、ホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。
15日7:30レンタカーで出発、所沢周辺を巡る。

日本初の飛行場跡地につくられた、広さ約50万平方mの公園。園内にはアメリカ製輸送機C-46や国産初の中型旅客機YS-11など実物の飛行機のほか、所沢航空発祥記念館、茶室のある日本庭園、小川や小さな滝、遊具広場、日本の航空技術の発展に貢献したフォール大佐の像などがある。茶室「彩翔亭」では呈茶も楽しめる所沢航空記念公園を散策する。

所沢航空記念公園内にある航空科学と歴史の展示施設。日本初の国産軍用機・会式一号機、戦後初の国産ジェット練習機・T-1B、戦後初の国産旅客機・YS-11など、第一線で活躍した実物(レプリカ含む)を展示。実験装置や映像などを交え、飛行原理や航空技術・歴史など分かりやすく紹介している。人気のフライトシュミレーターのほか、併設の大型映像館では縦15m・横20mの大画面で迫力の映像も楽しめる所沢航空発祥記念館[所沢航空記念公園]を訪れる。

狭山・入間方面に向かう。

キャンプや美しい自然を観察できるほか、動物と触れ合える「こども動物園」も楽しみのひとつの智光山公園を訪れる。

大正時代から平成10年まで、埼玉県繊維工業試験場として使われていた建物が、現在は音楽・演劇・アートなどさまざまな文化芸術の発信の地となっている。エントランスにはさまざまなアート作品が飾られているほか、定期的に開催されている演奏会や物作りのイベントは、芸術に触れるチャンス。また、歴史が色濃く残る建物も現在では“芸術作品”と呼べる佇まいを醸し出している。特に、かつて工場として使用されていた三角ののこぎり屋根のホール棟は、採光を極力入れないように北向きに、音の拡散を抑えるために急勾配の屋根に設計された貴重な建物の入間市文化創造アトリエAMIGO!を訪れる。

狭山湖近辺の大谷戸・西久保湿地周辺の自然が展示物。湿地や林を巡りながら植物などを観察できるさいたま緑の森博物館を訪れる。

飯能方面に向かう。

飯能の緑の中に、北欧の童話の世界を取り入れた自然公園。7.6haの敷地には、子ども劇場など地元産の西川材をふんだんに使用した建物が立ち、周囲の森とうまく調和している。森の家には北欧の童話に関する資料の展示があるあけぼの子どもの森公園を訪れる。

メディカルハーブを中心に、各種ハーブが植えられたハーブガーデン。ハーブ・アロマグッズを販売するショップ、ハーブ料理と手作りパンが食べられるレストランもある。ハウスでは苗を販売。アーユルヴェーダのトリートメント体験のほか、カルチャー講座も行っている。ハーブをさまざまな角度から楽しめる施設のメディカルハーブガーデン生活の木薬香草園を訪れる。

14:30所沢駅到達
15:05所沢駅西部池袋線で出発
15:30池袋到達
15:35池袋山手線で出発
15:55東京駅到達
16:10東京駅新幹線のぞみで出発
18:40新大阪駅到達

今回の旅行、3回目の訪れである埼玉県に足を運び、埼玉県の西南部エリアのマイナーでありましが点在する名所を訪れました。

今回で埼玉県はほぼ制覇できました。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第百十九弾:埼玉県戸田&越谷&東松山観光
2010年11月13ー14日


関東地方の中央西側内陸部、東京都の北に位置する県、県庁所在地はさいたま市、日本で8つある内陸県の一つであり、県の西側(秩父地域)には山が多い一方、それ以外の地域は関東平野の一部をなしており平地が多い埼玉県に足を運び、鋳物の街として繁栄し、韓国料理の根付く町として有名な川口、綾瀬川や元荒川などの多くの河川が流れ、水の郷として知られる越谷、埼玉のほぼ中央に位置し、宿場町、市場町として古くから栄えた土地の東松山を訪れました。

13日13:17新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:56東京駅到達、京浜東北線経由して
16:40西川口駅到達、西川口駅付近のホテル到達後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。
14日6:00レンタカーで出発、戸田・さいたまエリアを巡る。

歴史・民俗・美術を扱う、人文系総合博物館。国宝の太刀・短刀や太平記絵巻をはじめとする、国指定・県指定文化財を収蔵。期間限定で展示・公開している。常設展の一部には、展示物を自由にさわれるハンズオン・コーナーを設置。体験学習ゾーン「ゆめ・体験ひろば」では、藍染めなどのものづくり体ができる。子どもも大人も楽しめる多彩なイベント、特別展・企画展も随時開催する埼玉県立歴史と民俗の博物館[大宮公園]の前で記念撮影。

県内三名城の一つといわれた岩槻城の城跡を整備して作られた約18万平方mの広大な公園。自然林に囲まれ起伏が多く、4月上旬には桜が、6月上旬〜8月上旬にはスイレンが咲く花の名所でもある。岩槻城の城門(黒門)や、裏門などが移築保存された一角もあり、史跡が多く残されていることでも知られている岩槻城址公園を散策する。

越谷・春日部・久喜に向かう。

根元の周囲が4m以上で、藤棚が600平方mもある、推定樹齢1200年の巨大なフジ。日本最古の古木で、フジの木としては唯一、国の特別天然記念物に指定されている。4月中旬から花を付け始め、5月上旬には満開となるが、花房は1m前後から、長いものでは2mにもなる牛島の藤(藤花園)を訪れる。

東武動物公園内にある動物園。動物たちを身近に見られるつくりが特長で、アフリカサバンナではキリン、シマウマ、ダチョウ、サイなどを自然に近い状態で見ることができる。ゾウさんのランチタイムなど動物におやつをあげられるコーナーや、オットセイのコミカルなショーも毎日開催。希少なホワイトタイガーなどの動物にも出合える。一年中ホタルを鑑賞できる「ほたリウム」のほかにも、間近でライオンが見れ、ライオンのテリトリーに潜入ができるライオン舎もある動物園[東武動物公園]の前で記念撮影。

東松山に向かう。

明治百年事業の一つとして整備された、国営公園。約304万平方mの広大な敷地には武蔵野の雑木林の風景が広がり、四季の花々が咲くハーブガーデンや運動広場などさまざまな施設が点在する国営武蔵丘陵森林公園を訪れる。

比企丘陵の緑に囲まれた県立の動物園。小型のクイーンズランドコアラやカンガルーなど、オーストラリアの動物やキリンなどを飼育している。動物人形のミュージカルショーが行われるこどもの城や、恐竜コーナーは人気。園内にはピーターラビットで知られるイギリスの絵本作家、ビアトリクス・ポターの資料館もある。動物とふれあえる、なかよしコーナーや乗馬コーナーもある埼玉県こども動物自然公園を訪れる。

平安末期、源頼信が平忠常討伐に際して昼夜の戦勝祈願をしたところ、白狐に乗った神から箭と弓を授かる夢を見て戦いに勝った。そのことから頼信が社殿を寄進したとされる神社。彫刻が施された社殿は県の重要文化財、8枚の絵馬は市の文化財に指定。境内に植えられた約1500株のボタンは、4月下旬〜5月上旬に見事な花を付ける。商売繁盛、開運の神としても知られている箭弓稲荷神社を訪れる。

さいたまクラフトセンターともよばれ、「道の駅おがわまち」の施設。小川和紙をはじめ、岩槻の人形、春日部の羽子板、加須のこいのぼりなど県内の伝統工芸品を広く紹介、展示する。実演室では、週ごとに県内各地の伝統工芸の実演が行われ、実際の技術を間近に見られる埼玉伝統工芸会館を訪れる。

川口方面に戻る。
16:30西川口駅到達
16:35西川口駅出発
17:10東京駅到達
17:20新幹線のぞみで出発
19:56新大阪駅到達

今回2回目の訪れである関東地方の中央西側内陸部、東京都の北に位置する埼玉県に足を運び、メジャーな名所は前回訪れたため、比較的マイナーな名所に立ちより、鋳物の街として繁栄し、韓国料理の根付く町として有名な川口、荒川河川まで、緑の多い川べりは絶好の散策エリアとなっている戸田
、市役所や県庁など主要官公庁が集中し繁華街が広がるさいたまエリア

綾瀬川や元荒川などの多くの河川が流れ、水の郷として知られる越谷、室町時代より城下町として栄え、全国有数の人形の産地として知られる岩槻

江戸時代に五街道のひとつである日光街道の宿場町として栄えた春日部、明治時代日本鉄道の東北線久喜駅として誕生した古い歴史を持つ久喜、埼玉のほぼ中央に位置し、宿場町、市場町として古くから栄えた土地の東松山、山、川が織りなす景観や、伝統産業のある土地柄から、武蔵の小京都と呼ばれる小川町、反時計回りで訪れ無事終了いたしました。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十一弾:埼玉県大宮&秩父&川越観光
2009年5月30ー31日


今回は47都道府県最後の訪れになった埼玉県、県内有数の繁華街、大宮、さいたま新都心。埼玉を代表する自然観光名所、秩父、長瀞。小江戸と呼ばれ、江戸時代に城下町として栄え、明治の面影を今に留める蔵の町の川越に足を運びました。

30日13:07新大阪新幹線のぞみで出発
15:43東京駅到達、山の手線で上野、高崎線で
16:00さいたま新都心駅到達

さいたまスーパーアリーナ内にあり、20世紀を代表する偉大なミュージシャン、ジョン・レノンの音楽活動を中心に彼の生涯にスポットを当てたミュージアム。少年時代からビートルズ時代、オノ・ヨーコ夫人との平和活動など、ジョンの残した足跡をたどる展示構成となっている。写真や映像をはじめ、愛用のギターや直筆の原稿、ステージ衣装なども展示されていて、ファンならずとも興味深い品々が並ぶジョン・レノン・ミュージアムを見学。

高崎線で大宮に向かう。

JR東日本誕生20周年を記念してつくられた博物館。館内は重要文化財に指定されている1号機関車など、国内の鉄道史を語る上で欠かせない貴重な資料が並ぶヒストリーゾーンと、台車を組み立ててみようなど、さまざまなシュミレーション体験ができるラーニングゾーンなどのエリアで構成されている。日本最大の模型鉄道ジオラマも見逃せない鉄道博物館を見学。

レンタカーで大宮駅北東に向かう。

盆栽のメッカとして、国内外に有名な観光名所。関東大震災で被災した、東京の植木職人や盆栽師が集団で移住。1925年(大正14)に誕生した。現在は6軒の盆栽園があり、盆栽四季のみち(かえで通り)を中心に閑静で美しい町並みを保っている大宮盆栽村を訪れる。

1884年(明治17)に造られた、埼玉県初の県営公園。約35万平方mの広大な園内には、小動物園や児童遊園地のほか、サッカー場、野球場、体育館などスポーツ施設もある。県内屈指の桜の名所でもあり、日本さくら名所100選に選定された大宮公園を散策する。

歴史・民俗・美術を扱う、人文系総合博物館。国宝の太刀・短刀や太平記絵巻をはじめとする、国指定・県指定文化財を収蔵。期間限定で展示・公開している埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄る。

首都圏に点在する約280の氷川神社の本社で、2400年の歴史をもつ全国でも屈指の古社。武蔵一宮として関東一円から信仰を集め、初詣には毎年180万人以上の参拝客で賑わう氷川神社を訪れる。

さいたま新都心駅付近のホテルに到着後、市街地を散策して居酒屋で食事を済ませて床に就く。

31日6:00レンタカーで出発、天候曇りのち雨、北の行田方面に向かう。

国の史跡、埼玉古墳群を中心にした公園。日本最大の円墳といわれる丸墓山古墳、関東有数の前方後円墳・二子山古墳、稲荷山古墳などを含め、園内には9基の古墳が点在。敷地内の県立さきたま史跡の博物館では、国宝の金錯銘鉄剣などが見られるさきたま風土記の丘を散策する。

行田蓮と世界の花蓮10万株が咲く、14万平方mの公園。行田蓮は地中から出土した1400〜3000年前の種が自然発芽したもので、市の天然記念物に指定されている古代蓮の里を散策する。

西の熊谷方面に向かう。

熊谷の発展に力を尽くした竹井澹如翁の別邸として、慶応年間から明治初年にかけて造られた回遊式庭園。1950年(昭和25)より熊谷市の所有となり、1954年(昭和29)には市の名勝に指定された星溪園を訪れる。

源頼朝に日本一の剛の者といわしめた武士、熊谷次郎直実開山の古刹。後に徳川家康が七堂伽藍を整え、関東最初の念仏道場とした。高さ24m、間口約25.4m、奥行29mの総ケヤキ造りの伽藍は、1907年(明治40)に再建されたもの。境内には熊谷次郎直実の墓がある熊谷寺を訪れる。

西に向かい近くを流れる荒川をテーマにした博物館。4万平方mの広大な敷地で、直径23mの巨大な水車が目を引く。荒川の源流から河口までを解説した展示などを学ぶ施設がある埼玉県立川の博物館を見学。

国指定史跡鉢形城跡の歴史を中心に地域の文化や歴史を学習・体感することができる施設です。常設展示室では、鉢形城の歴史や構造を映像などを交えわかりやすく紹介する鉢形城歴史館を見学する。

長瀞方面に向かう。
地学、生物学を主に埼玉県の3億年にわたる自然を紹介。歯の化石から復元した巨大ザメの模型や絶滅した謎の生物、パレオパラドキシアのレプリカのほか、野生動物のはく製、県内から収集した化石・岩石、植物などの資料を展示する埼玉県立自然の博物館を見学。

標高497mの小山。宝登山神社の上から、奥宮の立つ山頂下までロープウェイが架かり、山頂駅からは荒川や奥秩父の山々が見える。山頂までは徒歩5分、動物園も回ると1時間。山頂駅近くには梅・桜・ツツジ・シャクナゲなどの花園がある宝登山を散策する。

下山して県立長瀞玉淀自然公園の中心地。荒川の清流や数々の奇岩怪石、梅・桜・ツツジなどの花々と、一年を通して見どころの多い渓谷。変化に富んだ流れに身を任す川下りも魅力だ。親鼻橋から高砂橋に至る全長6kmを巨岩を縫うようにして荒川が流れ、岩畳(名勝・天然記念物)の対岸を見上げれば高さ数十mの秩父赤壁と呼ばれる岩壁がそそり立つ長瀞をライン下りする。

秩父方面に向かう。
標高587mの蓑山一帯に整備された自然公園。4月中旬〜5月上旬はソメイヨシノ、山桜など8000本以上の桜が咲き、一帯はピンクに染まる美の山公園を散策。

708年(和銅元)に、和銅とよばれる精錬する必要がないほど純度の高い銅鉱石が発見され、これにより銅銭が作られ、この時作られた貨幣を和銅開珎と言う。秩父のこの地域に銅採掘跡が点在している。かつて日本最古の通貨、和同開珎は、1999年(平成11)に奈良県明日香村の遺跡から7世紀後半の通貨とみられる富本銭が発見されるまでは、日本最古の通貨とされていた和銅遺跡を散策する。

2000余年の歴史をもつ、秩父地方の総社。現在の社殿は徳川家康の寄進によるもの。本殿・幣殿・拝殿をつないだ、荘厳な権現造。左甚五郎作の彫刻「つなぎの龍」「子育ての虎」が有名で、背面にある北辰の梟は学問に霊験あらたかとされている秩父神社を訪れる。

西武秩父駅東側の高台にある緑地公園。秩父の市街地や武甲山が見渡せ、春には約800本の桜が咲いて花見客で賑わう。約1万6500平方mの広さに咲く、9種類40万株以上の芝桜(4月中旬〜5月上旬に開花)も圧巻。芝桜の丘西側には、羊が飼育されているふれあい牧場がある羊山公園を散策する。

東に戻り川越方面に向かう。
川越城本丸の北側、二の丸跡に建てられた蔵造り風外観の博物館。原始古代から現代まで、川越の歴史や文化を紹介。特に城下町を形成した近世に重点が置かれている。明治時代の町並みを再現した模型をはじめ、蔵造りの建築工程や川越まつりの影像も必見だ。川越の文化財を映像化した、ビデオルームもある川越市立博物館を見学。

江戸時代は川越城下の総鎮守として信仰され、10月中旬に行われる川越まつりはこの神社の例大祭。現在の社殿は1842年(天保13)の建築で、江戸彫りといわれる精巧な彫刻が施されている。また、2組の夫婦神と大巳貴命を祀っていることから、古くから縁結びの神として信仰を集めている川越氷川神社を訪れる。

一番街の蔵造りの町並みが形成されたのは、江戸時代ではなく明治時代のこと。1893年(明治26)の川越大火で、町の3分の1以上が焼失。建て直す際に耐火建築である蔵造りが採用されたため。盗難や火災から守る蔵造りは堅牢で、今も30数棟が残る一番街の蔵の町並みを散策する。

一番街に並ぶ蔵造り建築の中で最も古く、1792年(寛政4)に建てられた。川越で唯一、国の重要文化財に指定。切妻造、瓦屋根の2階建て、間口6間、奥行4間半の簡素な外観だが、壁の厚さは30cmあり、堂々としている。2階の土格子も印象的だ。1階は店舗で民芸品販売、2階は川越の蔵造民家など7画を展示している大沢家住宅を見学。

一番街に黒い蔵造りの重厚な外観をみせる、市営の資料館。たばこの卸商を営んでいた小山家の蔵を利用したもので、川越の民俗資料などを展示している。店蔵の奥にも、2階建ての煙草蔵、文庫蔵などが立ち並ぶ川越市蔵造り資料館を見学。

一番街通りから鐘つき通りに入ったところに立つ、木造の鐘楼。川越城主・酒井忠勝が、1624〜1644年(寛永年間)に建てたと伝えられている。1653年(承応2)、松平信綱の命で改築。高さ16・2m、檜造りの現在の櫓は、1893年(明治26)の大火後に再建されたものだ。電動式で、毎日6時・12時・15時・18時の4回、時を告げている時の鐘を訪れる。

天文十八年(1549)、川越城主、大道寺駿河守政繁の母君、蓮馨大姉は、民衆の心の安らぎの場して創建した蓮馨寺を訪れる。

慈覚大師が830年(天長7)に創建した天台宗の名刹。川越大師として親しまれる。徳川家康の信任を得ていた天海僧正が第27世住職になると、幕府の厚い庇護を受け、江戸城から家光誕生の間や春日局化粧の間などが庫裏(重要文化財)、書院(重要文化財)、客殿(重要文化財)として移築された喜多院を訪れる。

成田山新勝寺の別院で真言密教の寺院です。喜多院の北側に位置し、地元ではお不動様として親しまれています。目の病を不動明王に祈願して全治した千葉の石川照温が嘉永3年(1850)に創建した成田山川越別院を訪れる。

閑静な佇まいをみせる天台宗の寺。830年(天長7)、慈覚大師円仁により創建。元は星野山無量寿寺の北院(喜多院)、中院、南院のひとつ。島崎藤村の義母加藤みきの墓があり、境内に不染亭という藤村ゆかりの茶室が立つ中院を訪れる。

明治初期、大蓮寺門前で駄菓子を製造したのが始まり。狭い路地に20数軒の店が並ぶ菓子屋横丁を散策する。

17:30大宮に向かう。
18:00大宮到達、宇都宮線、山の手線で
19:00東京駅到達
19:20新幹線のぞみで出発
21:45新大阪駅到達。

今回の旅行、47都道府県最後に訪れた埼玉県の観光名所に足を運び、県内でも有数の繁華街大宮と大型複合施設、さいたまスーパーアリーナの位置するさいたま新都心。
荒川の上流に自然あふれる観光地、長瀞と秩父。
江戸時代に城下町として発展した小江戸の名称で親しまれ、明治の面影を今に留める蔵の町、大正モダンな建築物、そして昔懐かしい駄菓子横丁などの川越、自然と文化に豊富な埼玉観光堪能しました。

今回で47都道府県のメジャーな観光地はほぼ制覇しました。
まだまだマイナーな観光名所はたくさんあります。
細部にわたって徐々に制覇していきたいと思います。