佐賀

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十二弾:佐賀県九州四十九院薬師巡礼観光
2019年1月19−20日


西の九州の佐賀県にに足を運び、九州は古来、日本の大陸への玄関口として、東南アジアへの窓口として、先進的に数々の新しい文化を取り入れて参りました。 首都圏であった奈良や京都に先だって、新しい文物に接する機会にも恵まれていたと思います。 かっては、燃えるような熱情に溢れる数多くの求道者たちが、この地に留まり、やがて西の国をめざして旅立ちました。 そして帰途、都への道すがら、命がけで求めた新しい実りを随所に遺されました。九州各地には、それらの足跡が点在しております。 薬師信仰は、人々の病の苦しみからの解脱を願う、仏教伝来とともに根づいた、切実にして身近な信仰であります。 この薬師信仰と九州ならではの仏剃を一体化して、新しく「九州四十九院薬師霊場会」を制定し、全国に巡礼の呼び掛けをいたすこととなりました。佐賀県に点在する九州四十九院薬師13か所をおとうれとずれました。

19日13:42新大阪新幹線のぞみで出発
16:10博多駅到達、レンタカーで霊場巡り。

大興善寺:奈良時代養老元年(717年)行基菩薩がこの地に草庵を結び、一刀三礼にて十一面観世音菩薩を刻まれ、安置なされたことを以って開創としています。

青龍寺:

昌元寺:

15:30甘木市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
20日7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

永勝寺:

持光寺:

寶林寺:当寺の開山はきわめて古く詳らかではありませんが、寺伝には和銅四年(711)行基菩薩の建立とされ、行基菩薩開山の墓石があります。
その後、平安末期、龍造寺二代季喜氏の実兄・覚阿禅師によって再興されたといわれております。

常福禅寺:遠く平安朝のころに開創され、1千年来の法燈が輝く広厳山常福禅寺は臨済宗南禅寺派に属し、肥筑の平野を一望する山腹の風光明媚の地にある。かつては真言密教の霊場とされ、奥の院の宝殿や古い堂宇の敷地跡は、この古い寺の歴史を物語っている。

安福寺:寺伝によると、聖武天皇の代(724?49)一人の猟師が白鹿を射ったところ、白鹿はたちまち金色の光を放って消え、あとに石の観音菩薩像があり、矢はその腹に刺さっていた。これを見た猟師は多年の殺生を悔いて出家、庵を結び、法弓と号して修行三昧に暮らしていたという。

東光寺:求法を終えて唐から帰朝した弘法大師(空海)が巡錫の砌り、大同年間(806?10)黒髪山に西光密寺(現大智院)を創建されたとき、その末寺として東光坊を建立したと伝えられているが、阿忍僧都をもって中興開基としている。
鎌倉時代には、黒髪三所大権現と称して修験の道場となり、武雄領主後藤氏の祈願所として栄えた。

妙法院:妙法院の宗派は役の小角行者尊を開祖とする、金峯山修験本宗です。往時は天台宗に属していましたが、昭和23年に独立、同27年に宗名を金峯山修験本宗と改めました。
総本山は、千本桜で有名な奈良は吉野にあり、本堂蔵王堂は国宝になっております。山岳仏教とも云われるように、霊峯での修行を信仰の中心においております。

来雲寺:『唐津市誌』に、来雲寺はもとから天台宗ではなかった。『拾風土記』の寺院名寄によれば、曹洞宗の条に、龍源寺の末寺、元和8年(1622)4月、志摩守の創立と伝う。
龍源寺は、いまも東寺町にある。
その後、明治維新に衰微したのを山下亮永師が再興して天台宗にあらためた。境内に志摩守の子寺沢式部大夫の墓がある。

医王寺:芙蓉山、医王寺は永徳3年(1383)秋、 松浦党(中世時代に北西部九州を中心に活躍した武士の集団)上松浦の党主で岸岳城主波多安房守、源武が日本曹洞禅宗の開祖、道元禅師第七世の法孫、無着妙融大和尚(真空禅師)を開山として迎え建立された寺院で、波多家の全盛時には、寺領450石、一里四方を境内とし、安居の修行僧1000人を数え、曹洞宗九州三か寺(無着派の三本山)の一つといわれた、末寺三十九か寺を持つ巨莉である。現在の住職で41代目に当り600有余年(禅宗寺院として)歴史を持つ寺である。

見明寺:

17:00終了博多駅に向かう。
18:00博多駅到達。
18:33博多駅新幹線のぞみで出発
21:01新大阪駅到達。
今回の旅行、西の九州佐賀県に足を運び佐賀県に点在する九州四十九院薬師13か所を反時計回りで訪れ楽しみました。
それぞれの霊場は中規模で、比較的回りやすかった。

  








 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十二弾:佐賀県お城・城下町巡り観光
2017年2月18−19日
  

九州の小規模な国人に過ぎなかった龍造寺氏が、龍造寺家兼の時代に飛躍し、肥前で権力をふるう戦国大名となり、一時は島津氏、大友氏と並び九州の支配を分け合うが、龍造寺隆信の死後、配下の鍋島氏に実権が移る佐賀県に足を運び、比較的マイナーなお城8か所を訪れました。
18日17:30伊丹空港出発
18:50長崎空港到達、レンタカーで武雄方面に向かう。
20:00武雄駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
19日7:30レンタカーで出発、お城巡り。

千葉城:築城年代は定かではないが南北朝時代頃に千葉氏によって築かれたと云われる。
千葉氏は桓武平氏で下総国に住し、代々千葉介を称して千葉氏を名乗った一族で、千葉常胤が源頼朝の挙兵や奥州合戦で戦功を挙げ、肥前国晴気荘を与えられた。千葉頼胤のとき、元寇で九州へ下向したが討死し嫡男の宗胤も下向した。この宗胤の次男千葉胤泰が肥前千葉氏の祖となった。
肥前千葉氏は小城・佐賀・杵島三郡に及ぶ勢力を振るったが、文明年間(1469年〜1487年)頃には千葉氏は内訌により分裂、少弐氏に属した晴気城の千葉胤資と大内氏に属した千葉城の千葉興常が敵対した。明応6年(1497年)大内義興は少弐政資を攻めると筑前を破棄した政資は晴気城へ逃れたが、さらに追い立てられ政資と千葉胤資は滅亡した。これによって千葉興常は肥前守護代に任ぜられた。
大内義隆が討たれ、龍造寺隆信が台頭してくると千葉氏はその支配に組み込まれるようになる。龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と戦って敗死すると鍋島直茂が執政となり、近世佐賀藩の家臣として千葉氏は続いた。

高木城:久安年間(1145年〜1151年)に高木貞永によって築城された。 高木氏の祖は藤原氏で鎌足12代の後裔藤原隆家が大宰権師として赴任したことに始まる。 南北朝時代には足利氏に属して豪族として強大な勢力を持っていたが龍造寺氏との戦いに破れて衰退した。

姉川城:築城年代は定かではないが正平15年(1360年)に菊池武安によって築かれたと云われる。その後は菊池氏の庶流という姉川友安、姉川惟安、姉川信安などが城主であった。

蓮池城:応永34年(1429年)小田常陸介直光によって築かれた小曲城がその前身である。 小田氏は常陸国小田城主であった小田氏の庶流という。
永享6年(1434年)横武頼房が少弐の勢力を回復するために挙兵したときには、小田貞光もこれに参戦して渋川満直と戦った。永享3年(1530年)大内の軍勢を田手畷で敗った少弐氏であったが、家臣の龍造寺家兼が勢力を伸ばすと天文5年(1530年)少弐資元は大内義隆の家臣陶興房に攻められ自刃して果てた。資元の子冬尚が頼ったのが蓮池城主の小田資光である。
少弐冬尚が再興すると小田政光はこれに仕え、天文14年(1545年)には水ヶ江城、天文20年(1551年)には村中城を攻めている。しかし、天文22年(1553年)小田政光が城番を務めていた村中城が龍造寺隆信よって奪われると政光の居城である蓮池城も攻められ、政光は龍造寺氏に降った。
永禄元年(1558年)小田政光は龍造寺隆信の要請によって少弐冬尚の家臣江上武種を攻め長者林で戦った。苦戦した政光は隆信に増援を求めたが隆信は援軍を送らず、政光は討死してしまった。政光戦死の報を聞いた隆信は小田氏の居城である蓮池城を急襲して攻め落とした。
蓮池城を脱して落ちていた政光の子小田鎮光・朝光・増光はその後帰参が許され龍造寺氏に従ったが、永禄11年(1568年)小田鎮光は梶峰城へ移され、龍造寺長信が多久から蓮池城に移った。長信の後は龍造寺家晴、鍋島信生(後の直茂)、江上家種の居城となった。
江上家種は龍造寺隆信の次男で鍋島直茂の嫡男勝茂を養子に迎えていた。 家種は文禄2年(1593年)文禄の役で渡海し釜山で討死しており、その後は鍋島氏が城主となった。この時代の蓮池城には天守が存在し、一つ目は天正18年(1590年)に名護屋城に移している。その後天守が再建され、元和の一国一城令により廃城となったときに佐賀城へ移されたと云われる。
承応3年(1654年)鍋島直澄が蓮池城跡地に蓮池陣屋を構え蓮池藩となった。蓮池藩は 寛永16年(1639年)佐賀藩初代鍋島勝茂の三男鍋島直澄が三万五千石余りを分与され、その後に五万二千六百二十五石の所領を分与されたもので、蓮池陣屋を構えるまでは佐賀城三ノ丸に居住していた。

綾部城:宮山城、鷹取城、などこの地に固まる複数の城の総称。

勝尾城:応永30年(1423年)九州探題渋川義俊によって築かれたと云われる。渋川氏は大宰少弐武藤氏と争いに敗れ、その大宰少弐武藤氏も明応6年(1497年)筑前国の回復を目論んだが周防国大内氏に敗れた。その後、筑紫氏が勝尾城主となり、満門、惟門、広門と三代に渡って居城となった。 天正14年(1586年)筑紫広門は北侵する島津軍と戦ったが敗れ落城した。この戦いでは弟晴門が島津の部将川上忠堅と一騎討ちを演じて相討ちとなり、広門は捕らえられて幽閉の身となった。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で広門は幽閉先から脱出して再帰を計り、旧領を奪還する。戦後秀吉から賞され、筑後国上妻郡に一万八千石余りを賜り転封となった。

基肄城:天智4年(665年)築かれた。 天智2年(663年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は海戦において大敗した。大陸からの侵攻に備えて大宰府を置き九州の各所に城を築いた。そのうちの一つが基肄城で百済から亡命した貴族の指導のもとに築かれた朝鮮式山城である。

三瀬城:築城年代は定かではないが、享禄年間(1528年〜1532年)に三瀬(野田)土佐守入道宗利によって築かれたと云われる。
もともとは在地領主の三瀬氏の居城であったが、天文元年(1532年)三瀬貞家のとき、神代勝利を招いて山内諸豪族の盟主とし、三瀬城を譲ったと云われる。
神代勝利は山内の盟主として勢力を拡げ、村中城主の龍造寺隆信と戦った。永禄7年(1564年)勝利は隠居して畑瀬城へ移り、家督は嫡男の長良が継いだ。神代長良は翌永禄8年に三瀬城を改修して家臣団を集め、龍造寺氏に備えた。また長良は千布城を拠点として平野部へも進出したが、同年嫡男と娘が疱瘡によって夭折すると、この混乱に乗じて龍造寺隆信に攻められ千布城から追われた。
元亀2年(1571年)神代長良は鍋島直茂の弟小川信俊の子を養子に迎えて家督を譲り、その神代家良は天正18年(1590年)に山内から芦刈・川久保へ領地替えとなり、三瀬城は廃城となった。

17:00長崎空港到達。
19:20長最空港出発
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れ楽しみました。
佐賀県も観光地が少ない都道府県、比較的マイナーなお城は案内板も確りあり、容易にたどり着けることができました。
九州のお城巡り、残りは熊本県のみとなりました。震災でインフラがまだまだ不十分、年末を計画しています。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十五弾:九州八十八箇所&佐賀県お城巡り観光
2016年12月10−11日
 

九州の小規模な国人に過ぎなかった龍造寺氏が、龍造寺家兼の時代に飛躍し、肥前で権力をふるう戦国大名となる、一時は島津氏、大友氏と並び九州の支配を分け合うが、龍造寺隆信の死後、配下の鍋島氏に実権が移る佐賀県に足を運び佐賀県に点在する九州八十八箇所霊場の12か所、比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

10日17:30伊丹空港出発
18:50長崎空港到達、レンタカーで大城方面に向かう。
19:50大城市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:30レンタカーで霊場・お城巡り。

獅子城:築城年代は定かではないが治承年間から文治年間(1177年〜1190年)頃に源披によって築かれたと云われる。 源披は松浦党の祖源久の孫にあたり、この一帯を領して築城したが、子の源持の時代に平戸へ移った為、廃城となったという。その後、戦国時代に日在城主鶴田兵部大輔直(ただす)の弟、鶴田兵庫介前(すすむ)によって再築城された。

金剛寺:寺伝によれば、当山ご本尊は、上松浦の要として当山より南に半里の地に在りし獅子ヶ城に代々守り本尊として 伝えられていた尊像で、別名を厄除け千躰大師と称します。
 城主鶴田氏衰退後、永年岩間に端座せしが、明治三十年三月。 縁あって当地に大師堂を建立し安置し奉るが当山の始めなり。
 なお、厄除け千躰大師の名の由来は、一切衆生の願いの数だけ、その尊いおすがたを千にも万にも千々に分かち、 人々の災厄をしりぞけ、衆生を救わんとのお誓いによるものです。

岸岳城:築城年代は定かではないが、波多氏によって築かれたと云われる。 波多氏の居城としては八幡神社の裏山に波多城がある。 波多氏は、源久の次男特を祖とする松浦党の一族で波多氏を名乗った。
16代波多盛が嫡子なく没すると、後室の妹の子を17代波多親として迎えたが、これに不満を抱いた重臣日高氏は岸岳城を乗っ取った。後室は龍造寺氏に岸岳城の奪還を依頼、日高氏は松浦氏に援軍を依頼したが、松浦氏の到着前に龍造寺氏が攻め寄せ、日高氏は岸岩城を破棄したという。
波多氏はその後豊臣秀吉による九州征伐に参陣せず、秀吉の怒りに触れたが減封のみで存続、しかし文禄の役からの帰国途中で改易となり常陸国筑波山麓へ配流となった。

鶴林寺:九州の西北端に位置し、唐津・玄海灘を臨む、古くから大陸と日本を結ぶ海洋の要港であった。近くには、虹の松原の景勝があり、唐津くんちも全国に知られている町である。
ご本尊は薬師如来・子安弘法大師を安置し、安産、子育ての加持祈祷の寺として信者様に知られ、境内は不動明王、十三仏を配置し、地元では子安さんとして知られている寺であり、松井寳堂師が開基、ひたすら弘法大師の教えを実践。
吉原山の山号は、○信者に結縁している。この土地は吉原氏の所有で先祖の地を寺院に提供その功徳を称して山号にした。

大聖寺:唐津城、唐津焼、虹の松原で有名な唐津市。その中心部、駅より徒歩5分ほどの場合に大聖院は位置します。周りは寺町の名にふさわしく寺院が立ち並びます。もともとこの寺は秀吉の時代、北波多村というところにあり、岸岳城主波多三河守の祈願寺として名を大法寺と称した。岸岳城落城の後火災に会い、その後慶安元年に大僧都興玄大和尚により唐津に移転され名を大聖院と改号した。
山門を入れれば正面に入母屋造りの本堂がある。本尊は不動明王様で参拝の方々の願いを一身に受け止めてくださいます。また一緒にお祀りされているお大師様は、もともと讃岐の金比羅様の境内にありその後、明治初年に四国善通寺にお移りされ明治7年大聖院に御遷座なされました。
開運厄除け・道中安全に特にご利益ありといわれております。また、本堂には開運福徳大黒天、唐津神社本地佛十一面観世音菩薩(8月17日のみご開帳)・銅造如来坐像も安置されています。山門より右手屋上に大きな修行大師像がお祀りされております。昭和7年の御遠忌に建造されましたが戦国中に没収、昭和26年に再建されました。

徳川家康陣:徳川家康は文禄の役の時、武蔵国江戸城主二百四十万石の大名である。家康は名護屋で在陣しているが渡海はしていない。
徳川家康の陣は名護屋浦を挟んで東西にあり、こちらが西が本陣、東が別陣である。 その規模は西側の方が小さい。

住吉城:築城年代は定かではないが後藤氏によって築かれた。 後藤氏は塚崎城を居城としていたが、天正14年(1586年)20代家信の時に住吉城を居城とした。 しかし、慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城へ居城を移し廃城となった。

宝光院:世界に名声高い有田焼の地に有って周りは県立公園の黒髪山と龍門峡を背にし、流れる水は百選の1つで、初夏にはホタルが舞うという背景に小さな寺が有ります。
御本尊は十一面観世音(秘仏)で、参拝者の願いや苦しみを取り除いて頂いています。
開山は修験者達がお参りされる人の願い事や、五穀豊穣を祈願したと言い伝えが有って、現在も引き継いで御本尊に祈念しております。境内には水子堂が建っていますが、各方面より多数の人達が供養に訪れています。各地でも、水子、子育て丈の(供養・祈願)お堂が有るのは大変珍しいと思います。
又、本堂の側には御大師様が安置されていて厄除大師としてお参りされています。寺全体が明るく、心が清らかになる寺です。どうぞお誘いあわせでお参りください。

西光密寺:古来より山岳信仰の霊山として名高く、 佐賀県立自然公園でもある黒髪山のほぼ頂上にあります。  弘法大師さまが入唐求法の途上で遣唐使船が平戸係留の間に、 無事の渡航を祈念して黒髪山にご登嶺され、 無事にご帰朝の後にはお礼参りに再びご登嶺あり、 不動明王を爪彫りされ安置されたのが寺の始まりと伝えられています。 (この不動明王は今は佐世保市の黒髪山大智院にお祭りされています) 
 現在の西光密寺のご本尊は、 黒髪三所権現の本地仏といわれる、薬師如来、 阿弥陀如来、千手観音の三体の掛け仏さま(秘仏)です。 多数ある山中の石造物等から、 往時の信仰の深さが偲ばれます。

無動院:室町時代創建の当山は、約600年もの間、黒髪山修験道とともに、繁栄してまいりました。境内には重要文化財指定の六地蔵尊石塔、近隣の人々に篤く信仰を受ける眼病平癒の黒髪眼不動尊、子供の安全発育を願う子育地蔵尊等心の安らぎが得られる静かな佇まいのお寺です。心を癒しにおいでください。
 また、九州三十六不動霊場第二十六番札所としての信仰も受けております。
土曜日は住職による寺子屋書道教室も開講され、小学生の賑やかな声が聞こえ京都嵯峨書院九州支部にもなっています。

東光寺:佐賀県西部に位置する三間坂は長崎県境を塞ぐ神六山の裾野に拓けた盆地で、信仰の中心は黒髪山に縁起している。
東光寺は国道35号線から南に入ったところに在り、参道を分けて左側に幼稚園が営まれている。寺史には弘法大師が巡錫の砌り黒髪山に西光密寺(大智院)を創建されたとき、その末寺として建立されたと伝えられているが、阿忍僧正をもって中興開基としている。阿忍僧正は天文十六年(1547)、東光寺を再建して本尊に薬師如来を安置した。脇持は阿弥陀如来と聖観音を合祀し、後の明暦二年(1656)城主茂和の命により黒髪大権現を勧請して鎮守神と崇め、神仏合体の信仰を宣揚した。
脇持の阿弥陀如来は安阿弥の作と伝え、厨子に願文が書されている。それによると『曰奉造厨子一字信心。大檀那後藤藤原純明公。権少僧都阿忍。天文十六年卯月八日 東光坊』とある。その後、領主(後藤家)の崇信は篤く、元亀三年(1573)貴明は仏殿を造営し、寛文七年(1667)茂紀は仏像の修復に寄与するなど、代々料米を下附して外護につとめられた。しかし、明治三年の神仏分離令によって鎮守社は近くに独立移転し、東光寺も寺運の衰退気味になるも、法灯は継承され先代隆堅和尚により現在のように伽藍が整備された。
寺宝として現存する兼好法師撰、小倉山京極定家筆「真髪山紀事」の古文書は、弘法大師と黒髪山との関係を知る上での貴重な史料である。
 身丈二十センチほどの観音像(制作年代不詳)に異国の信仰が偲ばれる。右手の結んだ印が親指と中指で十字の形をしており、隠れキリシタン観音と呼んでいる。美術品としてみる仏像の価値観より、祈りという信仰の心を覗くことができる。また、白く美しい正観音(ボーンチャイナ)も信仰を集めている。

塚崎城:築城年代は定かではないが元永年間(1180年〜1120年)に後藤氏によって築かれたと云われる。 後藤氏は藤原北家利仁流で塚崎荘の地頭となり下向したと云われる。
天正14年(1586年)20代家信の時に住吉城へ居城を移したが慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城を修復して居城を移した。

光明寺:武雄温泉は古くからの湯治場として多くの人々の癒しの場として親しまれて参りました。光明寺は「南無薬師諸病疾除の瑠璃の寺肥前湯の町尽きぬことなし」と詠歌に歌われている様に、温泉の守護として土地の人々に見守られながら今日に至っております。
 また明治26年より武雄新四国発願所としてお彼岸等には、市内を中心に420カ所以上のお堂や寺院などを住職が先頭に立ち檀信徒の方々と巡拝し、広く信仰を集めております。また、境内や参道には多くの石仏が手作りの赤い胸当てを掛けてお参りの方々を暖かく迎えておられます。

高野寺:大同元年(西暦八〇六年)弘法大師さまが中国、当時の唐の国の都長安にて密教を学ばれ、九州博多に帰朝され九州各地を行脚しておられた折、この土地が紀州の高野山に似ておることからこの地を肥前の高野山と定められ、草の庵を結ばれたのがこの寺の始まりと伝えられる。その折、現在の穀倉地帯の佐賀平野は原野でこれを開墾するには、人口を増やさねばと、一体の観音さまを刻み、この観音さまに祈ると子供が授かり安産で元気に育つと申され現在も子宝観音として、子授け、安産、子育ての祈願が絶えない。 
また、佐賀多久藩の祈祷寺として代々帰依を受け、残される古文書には、「いかなる咎人も高野寺の境内に走りそうらえばその罪を許される」と云う近世の駆け込み寺の役割もしていた罪障消滅の道場である。境内には平地に珍しい高山植物のシャクナゲが樹齢三百年以上を含めて千本以上あり、毎年四月初旬より開花し大勢の花見の客でにぎあう。平成十八年(西暦二千六年)、開創千二百年を記念として、焼失後百十八年ぶりに、新しく本堂、会館など建立し境内を整備し弘法大師の教えを今に伝えておる。

須古城:築城年代は定かではいが天文年間(1532年〜1555年)に平井氏によって築かれたと云われる。平井氏は少弐氏の一族で少弐資頼の二男盛氏の子経氏が平井氏を称したのが始まりとされる。その後、千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたという。
有馬氏に備えて杵島の地にいた平井氏は、大永5年(1525年)平井経則は有馬氏に寝返り、以後有馬氏に従って千葉氏と戦った。天文年間(1532年〜1555年)に須古城を築いて居城とし、支城として男島城と杵島城を築き弟に守られた。
平井経治は永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に、龍造寺隆信によって四度攻められ、天正2年(1574年)ついに落城し平井氏は滅亡した。
その後、須古城は龍造寺氏の属城となり、天正6年(1578年)(一説に天正9年)に龍造寺隆信が隠居すると須古城へ移り居城とした。しかし、天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死し、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。

潮見城:潮見城跡は橘氏が長嶋の庄の総地頭としてこの地に、潮見山の要害を利用して築城

鹿島城:文化4年(1807年)鍋島直彜(なおのり)によって築かれた。 鹿島藩ははじめ常広城にあったが、度重なる水害の為、幕府の許可を得て高津原に築城した。

誕生院:誕生院は、真言宗の中興の祖であり、新義真言宗の開祖である興教大師覚鑁聖人の誕生の地に建てられた祈願のお寺です。境内5200坪の中には、金堂、本堂、鐘楼堂などが建ち、桜、藤、つつじ、しゃくなげ、もくせいなど四季折々の花が咲き乱れる香煙縷々として絶えることなく今日に至ります。御本尊は、皆様の身代りになって下さる錐鑽身代不動明王さまです。
年間通じて、覚鑁聖人のご誕生になられた聖地として安産祈願や誕生祈願、又、涙を流す慈悲深き水子地蔵さまには多くの方々に参拝戴いております。皆様も、是非、ご気軽にご参拝戴き、私生活や仕事を忘れて、諸仏諸菩薩のご利益を受け、ひとときのやすらぎを求めてはいかがでしょうか。

蓮厳院: 祐徳稲荷神社の膝元。平安時代から続く古刹で、本堂と庫裡は藁葺き屋根。庫裡は県内では少なくなったクド造りとなっています。 一見寺とは思えないたたずまいです。 ご本尊阿弥陀如来2体と薬師如来1体は国の重要文化財で全国でも数少ない定朝様式の仏様として知られています。 平安時代から今日まで、人々は手を合わせ諸願成就と、ご先祖様の菩提を祈る寺でございます。
又、当山奥之院岩屋山興法寺は真儀真言宗の祖、覚鑁上人(興教大師)幼少の折の修行聖地であり、当山は上人13歳で仏門に入る時本山二利寺寛助大僧正の弟子になられた勝縁の寺としても知られています。 平安仏に手を合わせ、心身の平安をお祈り下さい。お参りをお

大定院:当山は慶長年間に、藩主 鍋島直澄公が開基となり、権大僧都 阿金和尚の開山と伝えられている。
 永代 米穀数十石を毎年修繕費として下附され、鍋島藩の祈願寺として法燈隆昌をなす藩の厚い庇護を受けていたが、 明治4年の廃藩の際に寺領没収され、その後の資助が絶え堂宇荒廃する。
 明治12年、嬉野町より当地に移転し、鍋島藩ゆかりの吉田焼陶業の繁栄と領民の福祉、また、鍋島直澄公の霊牌を安置し祈願所とされている。

16:30終了。
17:30長崎空港到達。
19:20長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。
今回の旅行、九州佐賀県に足を運び、佐賀県に点在する九州八十八箇所霊場12か所、比較的マイナーなお城8か所を訪れ楽しみました。
観光名所の少ない佐賀県、マイナーなお城にもかかわらず、整備され案内板もあり今回はすんなりと見つけることができました。
霊場の立派な寺院が多く満足いたしました。
今回で九州八十八箇所霊場は制覇いたしました。 














飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十弾:佐賀県唐津沖離島(松島・向島)観光
2014年3月29−30日
  

九州の東は福岡県、西は長崎県に接し、玄界灘と有明海の2つの海に面する佐賀県に足を運び、玄界灘に突き出た東松浦半島沖に点在する離島(松島・向島)を訪れました。

29日13:59新大阪新幹線さくらで出発
16:34博多駅到達、レンタカーで唐津に向かう。
18:05唐津のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

30日9:00レンタカーで出発、呼子方面に向かう。
9:35呼子到達
10:00呼子港渡船で出発
10:15松島到達、散策。

松島は東松浦半島の先端、波戸岬の北約3.2kmの海上にあり、加唐島のすぐ西隣に浮かぶ島です。松島漁港と加唐島漁港は真近にあるので連絡がありそうですが、定期船は呼子港から直接松島漁港へと向かいます。地元では“ひょうたん島”との異名もあり、東西両側が盛り上がり真ん中がくびれた形をしています。東側の標高は138m、西側が108mで平地はほとんど無く、窪地を縫うように集落があります。江戸時代の半ば頃までは無人島で加唐島の属島でしたが、安政年間(1854〜1860年)に加唐島の貞八とその娘ウメが往来して開拓が行われました。その後、長崎の黒島(現長崎県佐世保市)からイカ釣りに度々訪れていた漁師・福蔵がウメの婿として松島に移り住み、郷里黒島から親戚や知合いを呼び寄せ集落ができていったようです。長崎の黒島は隠れキリシタンの島で、松島へ移住してきた者全てがカトリック信者だったため、そのまま松島もキリシタンの島になります。そして、明治6年(1873年)にキリスト教が解禁されるまで、隠れキリシタンとして息を潜めるような生活が続きましたが、信仰は絶えることなく現在に至るまで島民のほとんどがカトリック信者だといいます。今では港の近くに建つ「松島カトリック教会」の白い壁が誇らしげに輝いているように見えます。松島の産業は漁業が中心で、ウニやアワビ、サザエなどの海士漁やイカの一本釣りが盛んです。急斜面が多く耕地面積の少ない島では、どうしても農業は難しく、今まで自給的な甘藷栽培などが行われる程度でしたが、近年では島の活性化の試みとしてオリーブの栽培なども行われています。周囲の海は魚が豊富で、小松島や高瀬、大岩などの岩場は磯釣りファンにとってはたまらないポイントで、瀬渡船などで訪れる釣り人を度々見かけます。しかし、島内には宿も店も無いこともあって、観光で訪れる人はほとんどいません。その長閑な雰囲気を味わえるのが松島です。港や道路の整備も進められ散策もやり易くなってきているようなので、山道を登って玄界灘を一望してみるのも楽しそうです。

13:00松島渡船で出発
13:15呼子到達、レンタカーで星賀方面に向かう。
13:45星賀港到達。
14:00星賀港渡船で出発
14:15向島到達、散策。

唐津市肥前町は東松浦半島の付根から西へ突き出た入野半島一帯の地域で、向島は肥前町納所の北西約2.5kmの海上に浮かんでいます。南側の小高く盛り上がったクラマ岳(67m)が特徴的で、港がある南東側を除いて断崖が続いています。なかでも北海岸の「たて岩」と呼ばれている所では、みごとな玄武岩の柱状節理が見られます。向島行きの定期船は「鷹島肥前大橋」のふもとにある星賀(ほしか)港から1日2便、片道15分で運航しています。星賀港は天然の良港として長崎や北部九州へ向う貨物船の寄港地として栄えてきましたが、時代とともにその数を減らし、今では沿岸漁業の一本釣り漁船が並ぶ静かな漁港といった佇まいを見せています。「鷹島肥前大橋」は長崎県の鷹島と肥前町を結ぶ橋長1,251mの斜張橋で、平成21年4月18日に開通しています。星賀港は大橋の全景を眺めることができる絶好のビュースポットの一つで、夕陽に映える斜張橋の姿は長閑な海と山の景色に建造物の新たな輝きを加えています。向島の定住の始まりは、文禄年間(1592〜1596年)の頃だと言われています。松浦の有力豪族だった波多氏は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に命令に背いたとして、文禄2年(1593)に所領を没収され追放離散の憂き目にあっています。その時に一族の一派がこの向島へと移り住み、代々島の歴史を刻んできました。
産業は近海での漁や磯での採貝などが中心で、好漁場を生かした釣り船も人気を呼んでいます。特産品はサザエ、ウニ、アワビなどが挙げられますが、ウニに味噌を混ぜて作る「がぜみそ」は古くから島の味として親しまれています。向島に流れてきた静かな時間は、あちらこちらに奇妙な伝説と地名を残しています。「金山(きんざん)ぶつぶつ」、「海賊と宝と洞窟」、「悲恋!おたよさん」などなど・・・。「金山ぶつぶつ」とは、真夜中になると人の話声がブツブツと聞こえてくるという所で、昔はここで金の採掘が行われていたようですが、大きな金脈が見つからず、後に無縁仏を葬ったお墓になったという、神霊スポットのような所です。多分、小さな洞窟に波や風の音が共鳴して、そのように聞こえたのではないでしょうか? 実際にその音を聞いたという人はあまり居ないようですが・・・。「海賊と宝と洞窟」とは、北側のタテ岩の辺りにある洞窟の話で、その昔、秀吉に追われた武将が身を隠し、財宝を埋めた洞窟だとか、海賊に襲われた島民が逃げ込み、中で焚き火をしたために見つかって殺された洞窟だとか、いろいろな話が聞こえてきます。「悲恋!おたよさん」 は、禁断の恋を犯してしまった“おたよ”という娘さんが、この島に流され処刑されてしまったという悲恋話で、実際に八坂神社の近くにお墓があります。江戸時代の姦通罪はとても厳しくて、死罪が言い渡されたということですから、恋も迂闊にはできなかったのかもしれません。
毎年8月1には、八坂神社の祭り「向島祇園」が催されます。「にぎわい見るなら博多の祇園、酔いどれ見るなら向島祇園」と言われ、島外からも見物人が訪れます。

16:00向島渡船で出発
16:10星賀港到達、レンタカーで博多に向かう。
18:05博多駅到達
18:39博多駅新幹線さくらで出発 
21:21新大阪駅到達。

今回の旅行、九州佐賀県の沖玄界灘に点在する2つの離島(松島・向島)を訪れ癒されました。
松島は隠れキリシタンの島で、教会が目立っていました。
向島は灯台までの散策は見晴らしもよく、快適でした。神社あり、洞窟あり、奇岩あり、結構見るべきものが沢山ありました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百二十五弾:佐賀県玄界灘呼子沖観光
2013年4月13ー14日


玄界灘と有明海の2つの海に面する佐賀県に足を運び、イカで有名な呼子の沖、玄界灘の諸島(小川島、馬渡島、加唐島)を訪れました。

13日13:45新大阪のぞみで出発
16:14博多到達、レンタカーで唐津に向かう。
17:30唐津市内のホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。
14日7:00レンタカーで呼子方面に出発。
7:40呼子港到達。
8:00呼子港旅客船で出発
8:20小川島到達、散策

呼子港から船で20分の周囲約4kmの小島。かつては捕鯨基地として栄えていた。島内には、現在でも捕鯨に関する施設が残っている小川島を散策する。

港の近くにある、海の安全を見守る宗像三女神が祀られています。鳥居が3つあり、一番奥にあるものは明和5年(1768)に鯨組・大納屋が奉納したものだと思われています田島神社を訪れる。

港から5分ほど坂道を登ったところにあり大正初期に建てられたもので、陸から鯨を見張るという意味で“山見小屋”と呼ばれていました。江戸時代の頃にこのような小屋があったのかは分かりませんが、狼煙や2本の竿に旗のようなものを付けて沖の船に鯨の位置や種類を知らせていた鯨見張所を訪れる。

8:50小川島旅客船で出発
9:10呼子港到達、朝市通りとよばれる約200mの通りで毎朝開催。水揚げされたばかりの魚介類が中心で、トロ箱に入ったままの魚から、イカの一夜干し、季節の野菜や果物、切り花などの露店がずらりと並ぶ。「安くしとくけんどがんね」と声を掛けてくる店の人との値段交渉も楽しみの朝市を訪れる。

レンタカーで名護屋城跡に向かう。

豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、加藤清正らに命じて1592年(天正20)に築城。総面積約17万平方mという当時大坂城に次ぐ規模ながら、わずか5カ月で主要部分を完成させた。名護屋城では茶会が盛んだったといわれ、周辺には草庵茶室跡や茶の湯に使った太閤井戸などが残る。現在、隣接して抹茶と庭園を楽しめる茶苑海月や、佐賀県立名護屋城博物館がある名護屋城跡を散策。

豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点となった名護屋城の跡に隣接する。特別史跡「名護屋城並びに陣跡」の保存整備と、日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、学術・文化の交流拠点となることを目的としている。常設展示では、文禄・慶長の役に関する展示のほか、古代からの交流や江戸時代の朝鮮通信使に関する史料、発掘調査で確認された遺物などを展示。また、日韓交流史、佐賀県・唐津地域の歴史、朝鮮半島の文化などをテーマとした無料の展示会も随時開催している佐賀県立名護屋城博物館[名護屋城跡]を見学。

10:30呼子港到達
10:55旅客船で出発
11:35馬渡島到達、散策

佐賀県鎮西町の波戸岬より北西8km、壱岐島と鷹島の中間に浮かぶ、馬が横たわったような島です。島は火山岩で覆われていて、島すべてが山になっていますが、南側に島民が主に住んでいます。ここは、江戸時代の唐津藩が設けた馬の放牧場として利用されていました。1789〜1800年代にわたってキリスト教徒が長崎県外海町黒崎村から田平、今福を経てこの島に居住を始め新村を形成しました。昭和4年に教会が建てられましたが、現在の建物は平戸の紐差教会を移築したものです。馬渡島を散策する。

13:00馬渡島旅客船で出発
13:40呼子港到達、呼子繁華街散策。

15:00呼子港旅客船で出発。
15:17加唐島到達、散策。

武寧王は、朝鮮半島の古代国家「百済」の第25代の王さまで、立派な政治を行ったことで知られています。最近の研究で、その百済の王さまは、なんとこのオビヤ浦で生まれたことが分かりました。いわゆる海をまたいだ佐賀県の最北端の島なのです。島の最北端椿公園北の高台から望む玄界灘には、晴れた日にはすぐそこに壱岐、遠くに対馬、朝鮮半島を望むことができます加唐島を散策する。

16:30加唐島旅客船で出発。
16:47呼子港到達、レンタカーで博多に向かう。
18:30博多到達
18:55博多新幹線のぞみで出発
21:17新大阪到達。

今回の旅行、九州の玄界灘に面する佐賀県に足を運び、呼子沖の玄界灘に位置する諸島(小川島、馬渡島、加唐島)を訪れました。

朝鮮半島に近い島でもあり、歴史的朝鮮半島と関連した史跡、歴史的建造物も多く又以前この海域は捕鯨が盛んであったことが物語っていた歴史的建造物も多く、一般的に素朴な離島めぐり、今回は内容濃く楽しめました。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百弾:佐賀県唐津沖離島観光
2012年7月28ー29日
 

東は福岡県、西は長崎県に接し、玄界灘と有明海の2つの海に面する佐賀県に足を運び、唐津城や唐津湾沿いに100万本の老松が見事なトンネルをつくる虹の松原で有名な唐津の沖の離島、唐津市から北に1キロに浮かぶ島、宝くじで有名な宝当神社のある高島、唐津市街地から国道204号線を呼子方面へ10kmほど北上した所に綺麗な砂浜が続く“相賀の浜があります。夏になると多くの人が訪れる人気の海水浴場で、その海岸から目の前に見える島で、上が平らで台形をしていることから、見る位置によっては軍艦のようにも見えるため軍艦島と呼ばれたりもします神集島を訪れました。

28日13:07新大阪新幹線のぞみで出発
15:45博多駅到達、レンタカーで博多港に向かう。
16:15博多港到達
16:45博多港高速艇で出発
17:20玄海島到達、散策。

玄界島は最高海抜が218mのお椀をふせたような島です。周囲約4キロで普通に歩いて約1時間で一周できます。この島は2005年3月20日午前10時53分におきた福岡県西方沖地震により大きな被害を受けました。

豊後の国守百合若は筑紫警備の帰路、この島で休憩しましたが、家来の別府兄弟の裏切りで島に置き去りにされたのです。兄弟は国守の地位につき百合若の妻にまで手をかけようとしました。2年を過ぎたある日、百合若の愛鷹みどり丸が飛来し百合若は手紙を託しました。1ヶ月後にみどり丸はすずりと手紙を運んでくるが精根尽きて死んでしまいました。その後百合若は漂着船に助けられ、姿を変えて別府兄弟に復讐する、という話です。「みどり丸」を奉ったものであると言われています小鷹神社を訪れる。

17:35玄海島高速艇で出発
18:10博多港到達、レンタカーで唐津方面に向かう。
17:30唐津駅付近のホテル到着後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。

29日7:20レンタカーで高島行きの渡船場に向かう。
7:50渡船場高速艇で出発
8:00高島到達、散策。

宝くじが当たるという評判の神社があり、宝くじのシーズンには多くのファンが訪れる宝当神社を訪れる。

宝当神社から左の細い路地を通り、後は順路の看板通りに進み、高島保育園から左に、宝当神社から徒歩10分程度である塩屋神社を訪れる。

9:00高島高速艇で出発
9:10渡船場到着、レンタカーで神集島方面に向かう。
9:40湊港到達
10:00湊港高速艇で出発
10:08神集島散策

島の北部には、鬼塚古墳群と呼ばれる古墳時代後期の横穴式古墳群を訪れる。

11:50神集島高速艇で出発
11:58湊港到達、レンタカーで唐津観光する。

九州のサーフィン発祥の地として有名。湊地区の海岸沿いに林立する巨石奇岩の中の一つで、高さは30m。2つの岩が寄り添うように立つ姿から夫婦岩の別名をもつ。オレンジ色に染まる夕暮れ時は美しい立神岩を訪れる。

海面から高さ26mの断崖に7つの巨大な洞窟が並んでいる海食空洞。長い歳月をかけて、玄界灘の荒波によって形成された。最も大きなもので間口3m、高さ3m、奥行110mほど。遊歩道を歩いていくと、玄武岩の柱状節理とともに、東松浦半島の雄大な絶景を一望できる七ツ釜を訪れる。

唐津城三の丸の西側出入口にあたるこの場所が西ノ門路とよばれていたことから名が付いた。館内では唐津市内から出土された江戸時代の唐津焼などの出土文化財の展示や、若手作家中心の唐津焼の展示販売を行う唐津市西ノ門館を訪れる。

唐津藩の初代藩主、寺沢志摩守広高[てらさわしまのかみひろたか]が7年の年月を費やして1608年(慶長13)に完成させた。現在の天守閣は1966年(昭和41)に完成したもの。内部は郷土博物館で、古い絵図や武具、刀剣類などを展示する唐津城(舞鶴城)を訪れる。

「唐津くんち」の主役である、曳山14台が収められている展示場。古いものでは文政2年(1819)に作られた赤獅子がある。数百枚もの和紙を重ねて漆を塗り、金銀を施した曳山は芸術品のよう。祭りを記録したビデオコーナーもある曳山展示場を訪れる。

旧藩主・小笠原家の菩提寺で、正面の山門は名護屋城中の門を移築したもの。江戸時代の浄瑠璃作家・近松門左衛門が幼少の頃にここで学んだといわれ、その分骨の墓石がある。境内には、小笠原家に関する資料を展示した小笠原記念館も立つ近松寺を訪れる。

防風と防潮のため、初代唐津藩主の寺沢志摩守広高が植林した松林。静岡・三保の松原、福井・気比の松原と並び日本三大松原の一つに数えられ、国の特別名勝に指定されている。約5kmにわたって100万本のクロマツが群生し、夏場は海水浴に訪れる人で賑わう虹の松原を訪れる。

虹の松原の後方にそびえる標高284mの山。ここから佐用姫が大伴狭手彦の船出を見送ったと伝えられる。またその時、力の限り領巾を振ったという伝説から「領巾振山」ともよばれている。登山口の鳥居をくぐり山頂までは約5km、頂上に唐津湾や遠く壱岐まで一望できる展望台がある。周辺には芝生公園も整備され、地元で人気のドライブコースになっている鏡山を訪れる。

姫島船着き場方面に向かう。

15:40船着き場到達
16:00高速艇で出発
16:16姫島到達

勤王の志士達をかくまった罪で島流しにな った野村望東尼の、かっての牢獄が今はお堂として残っています野村望東尼牢獄と野村望東尼の像を訪れる。

17:10姫島高速艇で出発
17:26姫島船着き場到達、レンタカーで博多に向かう。
18:20博多到達
18:55博多駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪到達。

今回の旅行、福岡と佐賀の玄界灘に点在する離島をめぐりました。

このあたりの島はアジア大陸の文化の伝来の中継場となった島が多く歴史深いものがあり、新しい発見を感じさせられた玄界灘沖の離島めぐりでした。



































飛行機で国内&海外の観光地巡り第百六十四弾:佐賀県武雄・嬉野&伊万里・有田観光
2011年10月15−16日


東は福岡県、西は長崎県に接し、玄界灘と有明海の2つの海に面し、内陸部には肥沃な佐賀平野が広がり、九州屈指の米どころ、酒どころとして知られ、九州を代表する有田、伊万里、唐津の3つの焼き物の里が有名な佐賀県に足を運び、佐賀を代表する温泉郷、武雄温泉と嬉野温泉、日本屈指の磁器の生産地、伊万里、有田を訪れました。

15日15:50伊丹空港出発
17:05長崎空港到達、レンタカーで武雄方面に向かう。
18:00武雄駅付近のホテル到着後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。

16日6:30レンタカーで出発。

慧洲園は、旧鍋島藩別邸地跡に造られた池泉回遊式日本庭園。3000坪の広大な敷地には、大小の滝や茶畑が配され、周囲の自然と調和した庭園美を誇る。また、陽光美術館には、中国の官窯陶磁器や玉、ヒスイなどが収蔵され、中国清朝時代のヒスイ彫刻・翠玉彫虫活連胡芦瓶は必見の陽光美術館・慧洲園の前で記念撮影。

1852年(嘉永5)、第28代目藩主・鍋島茂義の別荘を設けるため、御船山の麓に3年がかりで造った日本庭園。御船山の岩壁を背景にした約15万坪の園内には、春は5000本の桜やしゃくなげ、初夏にはしょうぶ、アジサイ、秋の紅葉、冬にはサザンカと季節ごとに彩りを添える花々が咲く。特に5万株のツツジが麓を染め上げるさまは見事の御船山楽園を訪れる。

九州最大規模の科学館。最先端のシミュレーション装置で、月面歩行や無重力の疑似体験など宇宙飛行士の訓練を実際に体験できる。リニアモーターカー試乗・バーチャルゲーム・地震体験マシーンなど、体験型展示を中心に科学全般を学ぶことができる。最新式の投影機を備えたプラネタリウムは、本物の星空のような佐賀県立宇宙科学館の前で記念撮影。

多久方面に向かう。

中国の聖人、儒学の祖である孔子を祭った建物。創建は1708年(宝永5)と日本に現存する孔子廟としては古く、国の重要文化財に指定されている。孔子に供物を捧げる釈菜の日には廟内を拝観可(春は4月18日、秋は10月第4日曜)。釈菜の催しは、佐賀県の重要無形民俗文化財に指定されている多久聖廟を訪れる。

江戸時代の多久邑家老女山多久家の屋敷跡を、大正9〜13年にかけて多久出身の石炭王・高取伊好が整備した山水公園。春は桜、夏はツツジ、秋は紅葉、冬は梅と四季折々の花々が観賞できる。園内には入母屋造りの公会堂寒鶯亭(国登録文化財)や郷土資料館、先覚者資料館があり多久市の歴史や文化にふれる西渓公園を訪れる。

伊万里方面に向かう。

武雄の陶磁器発祥の地、黒牟田地区にある公園。園内の登り窯「飛龍窯」は奥行23m、幅9m、高さ3.4mと世界的な容積を誇り、一度に12万個もの湯のみを焼くことができる竹古場キルンの森公園・飛龍窯を訪れる。

園内には樹齢3000年を誇る国の天然記念物、大楠がある。全国5位の巨木で、空洞化した本幹の中に稲荷を祭る。隣の為朝館では、大蛇退治伝説を題材にしたからくり人形が1日3回上演される川古の大楠公園を訪れる。

樹齢3000年を超える大楠で、幹周21m、根廻33m、樹高25m。国の天然記念物でもある。本幹は空洞化しており、西方で開口している。中には稲荷の石碑が祀られている川古の大楠を訪れる。

良質の青磁原石を産出することから1675年(延宝3)に鍋島藩御用窯となり、色鍋島や鍋島青磁などが焼かれてきた。その技法は門外不出の機密とされ、切り立つ山々に囲まれた一帯は今でもひっそりとした秘窯の雰囲気が漂い、トンバイ塀が続く細い道に、約30軒の窯元が点在する大川内山を訪れる。

300年もの歴史をもつ大川内山の窯元群と、伊万里川をはさんだ対岸にある丘陵地を中心に整備された公園。やきもの広場があるやきものゾーン、ろくろや絵付け体験などができる歴史文化ゾーン、窯元の町並みを一望する展望台を設けた展望ゾーンの3つで構成されている。入口は昔の関所を再現、センサーが反応して14個の焼き物の風鈴が音楽を奏でる陶工橋も渡ってみたい鍋島藩窯公園を訪れる。

伊万里・有田焼に関する資料を展示している伊万里・有田焼伝統産業会館を見学。

大川内山にある、1698年(元禄12)ごろ開窯の由緒ある窯元で美術工芸品が得意。TVドラマや観光ポスターにもたびたび登場する白壁にレンガ造りの高い煙突が目印の川副青山窯[大川内山]を訪れる。

1825年(文政8)に建てられた陶器商人・犬塚家の土蔵造りの旧宅を修理復元した資料館。館内では古伊万里などを鑑賞できる。間取りは江戸時代の商家らしく間口約5.5m、奥行約14.8mと細長い構造で、贅沢な調度品や大きく取った収納棚から当時の繁栄ぶりがうかがえる伊万里市陶器商家資料館を訪れる。

有田方面に向かう。

平成8年に開催された、「世界・ほのおの博覧会」のメイン会場を整備した公園。総面積27万平方mの敷地中央には、中世ヨーロッパ調のほのお博記念堂が立つ。岡本太郎デザインのモニュメントもある歴史と文化の森公園を訪れる。

九州陶磁の文化遺産保存と、陶芸文化の発展を目的に建てられた博物館。国の重要文化財2点を含む約1万4000点の陶磁器を収蔵。ヨーロッパに輸出され、当時の王侯貴族たちを魅了した古伊万里(江戸期の有田磁器)101点余りの蒲原コレクション、江戸期の有田焼を集めた柴田夫妻コレクションなどが展示されている佐賀県立九州陶磁文化館を訪れる。

明治時代に焼物の倉庫だった石蔵を改造した美術館。有田焼を中心に肥前の焼物が展示されており、有田磁器創業時の資料や古伊万里、柿右衛門、色鍋島などを鑑賞できる。直径約60cmの大皿に江戸時代の陶工たちを描いた「染付有田皿山職人尽し絵図大皿」は一見の価値がある有田陶磁美術館を訪れる。

磁器の原料を採掘する泉山磁石場の近く。日本で初めて磁器が焼かれた有田の歴史を解説、町民などから寄贈・寄託された民具や古文書も展示している。有田焼製作の中心だった、皿山地区の人々の暮らしが分かる有田町歴史民俗資料館東館・有田焼参考館を訪れる。

1658年(万治元)に有田焼の守護神として創建、地元の窯元と商人たちの崇敬を集める。この地の陶工たちが競って寄進した大鳥居、狛犬、欄干、手水鉢などはすべて白磁器で造られている。なかでも大鳥居の染め付けの唐草模様は必見。社務所で扱っている絵馬やお守りも磁器製の陶山神社を訪れる。

嬉野方面に向かう。

海神の娘で、竜宮城の乙姫・豊玉姫を祭る神社。境内には、豊玉姫の遣いとされる白なまずを祭ったなまず社もあり、美肌を願う女性が参拝するという豊玉姫神社を訪れる。

慶長19年(1614)、鍋島茂教によって創建された曹洞宗の禅寺。不動堂には、藤原時代後期のものと推定される木彫の不動明王と2体の童子像が安置されている。いずれも国指定の重要文化財の永寿寺を訪れる。

鹿島方面に向かう。

佐賀支藩の鹿島藩2万石の9代藩主・鍋島直彜が文化4年(1807)に築城。明治7年(1874)の佐賀の乱で焼失するが、赤門と大手門が残り、ともに県指定の重要文化財。現在、城址は旭ケ岡公園として整備され、赤門は県立鹿島高校の校門となっている鹿島城址を訪れる。

京都の伏見稲荷、茨城の笠間稲荷神社と並ぶ日本三大稲荷の一つ。地元では「祐徳さん」の名で親しまれ、年間280万人以上の参拝者が訪れる。石壁山中腹に舞台造の漆塗りの本殿、境内に楼門、神楽殿が立つ祐徳稲荷神社を訪れる。

16:00長崎空港に向かう。
17:10長崎空港到達
17:40長崎空港出発
18:50伊丹空港到達

今回の旅行、関西からはあまり訪れない佐賀県に3回目のチャレンジで佐賀を代表する温泉郷、武雄温泉と嬉野温泉、日本屈指の磁器の生産地、伊万里、有田を訪れました。

温泉と磁器以外は比較的マイナーな観光名所でしたが、今回のドライブ観光でほぼ佐賀県を制覇しました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第九十三弾:佐賀県唐津&呼子観光
2010年4月10ー11日


東は福岡県、西は長崎県に接し、玄界灘と有明海の2つの海に面し、内陸は肥沃な平野が広がり、九州屈指の米どころ、酒どころとして知られている佐賀県に足を運び、玄界灘に面し、シンボルの唐津城や唐津湾沿いに100万本の老松がみごとなトンネルをつくる虹の松原がある唐津、呼子大橋や波戸岬から風光明媚な眺めを満喫することができ、名物イカもおいしい呼子を訪れました。

10日15:50伊丹空港出発
17:05長崎空港到達、レンタカーで大村方面に向かう。

波穏やかな大村湾に面し、空港を有する長崎の玄関口。玖島城の城下町として栄え、大村公園内の城跡には立派な石垣が保存されている。桜やハナショウブの名所でもあるほか、市内には武家屋敷や御成門など、名所旧跡が点在する。市街地や大村湾、雲仙まで一望できる琴平スカイパークからは、見事な夕陽も眺められる大村を散策する。

近くのホテル到達、市街地を散策後食事を済ませて床に就く。

11日5:00レンタカーで出発、長崎自動車道経由して唐津方面に向かう。

九州の尾瀬とも呼ばれる標高約600mにある湿地帯。県の自然環境保全地域で、春には氷河期残存湿地植物のミツガシワ、夏には食虫植物のミミカキグサなどが見られる湿原植物の宝庫だ。このほか、手つかずの自然には、約170種もの貴重な生物が生息。6〜8月には、体長約2cmの日本で最も小さいとされるハッチョウトンボや、オレンジ色の尾が美しいモートンイトトンボも見られる樫原湿原を散策する。

虹の松原の後方にそびえる標高284mの山。ここから佐用姫が大伴狭手彦の船出を見送ったと伝えられる。またその時、力の限り領巾を振ったという伝説から「領巾振山」ともよばれている。登山口の鳥居をくぐり山頂までは約5km、頂上に唐津湾や遠く壱岐まで一望できる展望台がある。周辺には芝生公園も整備され、地元で人気のドライブコースになっている鏡山を訪れる。

防風と防潮のため、初代唐津藩主の寺沢志摩守広高が植林した松林。静岡・三保の松原、福井・気比の松原と並び日本三大松原の一つに数えられ、国の特別名勝に指定されている。約5kmにわたって100万本のクロマツが群生し、夏場は海水浴に訪れる人で賑わう虹の松原を散策する。

唐津藩の初代藩主、寺沢志摩守広高が7年の年月を費やして1608年(慶長13)に完成させた。現在の天守閣は1966年(昭和41)に完成したもの。内部は郷土博物館で、古い絵図や武具、刀剣類などを展示する唐津城(舞鶴城)を訪れる。

唐津城三の丸の西側出入口にあたるこの場所が西ノ門路とよばれていたことから名が付いた。館内では唐津市内から出土された江戸時代の唐津焼などの出土文化財の展示や、若手作家中心の唐津焼の展示販売を行う唐津市西ノ門館を訪れる。

「唐津くんち」の主役である、曳山14台が収められている展示場。古いものでは文政2年(1819)に作られた赤獅子がある。数百枚もの和紙を重ねて漆を塗り、金銀を施した曳山は芸術品のよう。祭りを記録したビデオコーナーもある曳山展示場を訪れる。

旧藩主・小笠原家の菩提寺で、正面の山門は名護屋城中の門を移築したもの。江戸時代の浄瑠璃作家・近松門左衛門が幼少の頃にここで学んだといわれ、その分骨の墓石がある近松寺を訪れる。

九州のサーフィン発祥の地として有名。湊地区の海岸沿いに林立する巨石奇岩の中の一つで、高さは30m。2つの岩が寄り添うように立つ姿から夫婦岩の別名をもつ。オレンジ色に染まる夕暮れ時は美しい立神岩を訪れる。

海面から高さ26mの断崖に7つの巨大な洞窟が並んでいる海食空洞。長い歳月をかけて、玄界灘の荒波によって形成された。最も大きなもので間口3m、高さ3m、奥行110mほど。遊歩道を歩いていくと、玄武岩の柱状節理とともに、東松浦半島の雄大な絶景を一望できる七ツ釜を散策する。

呼子方面に向かう。

全長727.8mの呼子大橋で本島とつながる。海をぐるりと見渡せる風の見える丘公園、佐賀県最古の神社・田島神社、悲恋伝説のある佐用姫神社や天童岳など、自然と景色、伝説に恵まれた加部島を訪れる。

呼子と加部島を結ぶ、呼子大橋を渡ってすぐの場所にある公園。加部島の高台にあるため、玄界灘からはるか壱岐まで一望できるビュースポットだ。スペイン風の白い風車がシンボルになっている。レストハウスも併設。夜にはライトアップされる風の見える丘公園を訪れる。

加部島漁港に向かって鎮座する古社。海上安全や商売繁盛の神として親しまれている。創建時代は明らかではないが、平安時代の「延喜式神名帳」にすでにその名が登場。境内には県下最古の頼光鳥居や、恋愛成就の神として人気がある佐用姫神社もある田島神社を訪れる。

呼子町の特産物のほか、捕鯨基地として栄えた町の歴史を紹介する資料館。江戸時代の捕鯨船の模型や巨大な白長須鯨の解体作業中の写真、長さ2m30cmもある本物の一角鯨の角は見ごたえがある呼子観光物産館を見学。

豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、加藤清正らに命じて1592年(天正20)に築城。総面積約17万平方mという当時大坂城に次ぐ規模ながら、わずか5カ月で主要部分を完成させた。名護屋城では茶会が盛んだったといわれ、周辺には草庵茶室跡や茶の湯に使った太閤井戸などが残る名護屋城跡を散策する。

豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の拠点となった名護屋城の跡に隣接する。特別史跡「名護屋城並びに陣跡」の保存整備と、日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を調査・研究・展示紹介し、学術・文化の交流拠点となることを目的としている。常設展示では、文禄・慶長の役に関する展示のほか、古代からの交流や江戸時代の朝鮮通信使に関する史料、発掘調査で確認された遺物などを展示。また、日韓交流史、佐賀県・唐津地域の歴史、朝鮮半島の文化などをテーマとした無料の展示会も随時開催している佐賀県立名護屋城博物館を見学。

松浦半島の最西北端に位置する、玄界灘に突き出た岬。広い芝生の上で寝転んだり、海水浴や釣りを楽しむこともできる波戸岬を訪れる。

1970年(昭和45)、日本初の海中公園地区に指定された玄海海中公園内にあり、陸地から86mの桟橋で結ばれたシルバーグレーの海中展望塔。海上デッキからは玄界灘の島々を見渡せ、水深7mにある海中展望室の24個のガラス窓から、海中を泳ぐ魚や熱帯海藻などを観察できる玄海海中展望塔を訪れる。

伊万里方面に向かう。

伊万里市との境にある棚田。限られた土地を有効に利用するため、傾斜した山に作られた水田で、春先は水が張られた景観が美しい。純天然水で有機米を栽培し、町内の販売所「ファームステーション四季ありた」で購入できる。「日本の棚田百選」に指定の岳の棚田を訪れる。

1825年(文政8)に建てられた陶器商人・犬塚家の土蔵造りの旧宅を修理復元した資料館。館内では古伊万里などを鑑賞できる。間取りは江戸時代の商家らしく間口約5.5m、奥行約14.8mと細長い構造で、贅沢な調度品や大きく取った収納棚から当時の繁栄ぶりがうかがえる伊万里市陶器商家資料館を見学。

17:00長崎空港に向かう。
18:30長崎空港到達。
19:10長崎空港出発。
20:20伊丹空港到達。

今回は2回目の訪れである九州の佐賀県に足を運びました。

前回は佐賀市を主としたエリアの観光でしたが今回は佐賀北部の唐津・呼子エリアを巡りました。

古く、唐(から:韓・唐)などの大陸との窓口(津・港)で、多くの生命を育む豊かな海、玄界灘を臨み、深く清らかな自然の山々に守られた地。優雅かつ雄厳な自然の神韻と、万葉の風・桃山文化の薫りを感じる、歴史浪漫に満ちたところの唐津。

春には唐津城の周辺に咲く桜に城下町を感じることができ、夏には数々の海水浴場で海遊びを満喫できる。「見帰りの滝」、「猪堀の滝」、「観音の滝」など自然豊かなスポットも存在。

また「イカ」をはじめとした新鮮な海産物の宝庫でもある。朝7:30から毎日続いている日本三大の朝市「呼子の朝市」も有名。玄海・相知・肥前町には美しい自然がそのまま残っている唐津・呼子観光でした。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第五十五弾:佐賀県佐賀&吉野ヶ里観光
2009年3月21−22日


今回は関西の方があまり訪れない佐賀県に足を運び、鍋島36万石の城下町佐賀城跡や旧古賀銀行をはじめ由緒ある5つの建造物からなる佐賀市歴史民俗館、日本最大規模の弥生時代の集落遺跡の吉野ヶ里遺跡を訪れました。

21日15:30伊丹空港出発
16:50佐賀空港到達、レンタカーで観光巡り
諸富・川副町の農家に多い漏斗造りの住宅。四方の屋根の中央部をジョウゴ状にし、雨水を中央に集め、瓦樋で屋外に排水している国の重要文化財の山口家住宅を見学。

川副町派早津江に生まれた日本赤十字社の生みの親である佐野常民の業績に関わる資料、遺品などを展示すると共に、次世代教育・ボランティア活動・生涯学習・地域交流活動を通して、常民の偉業や人道、博愛の精神を学んでいく人材育成の拠点施設を目指します佐野常民記念館を見学。

1640(寛永17)年に小城藩主、鍋島元茂が島原の乱の必勝祈願成就のため建立した銅造明神鳥居が立ち佐賀県内に現存する唯一の銅製鳥居で、県の重要文化財である大堂神社を訪れる。

佐賀駅付近のホテルに向かい到達後、佐賀タウンを散策して食事を済ませてから宿に就く。

22日6:30レンタカーで出発、天候曇り時々雨、風弱く気温は暖かい。
山里の自然があふれれる佐賀市北部の三瀬地区に向かう。

山間の静かな温泉地熊の川温泉と古湯温泉の中間に位置する、嘉瀬川河畔の自然公園、音を立てて流れる清流と巨岩や大小の奇岩が見もの、また園内には、遊歩道や橋が整備されているので、トレッキング気分で渓谷の美しさと迫力を楽しめる雄淵・雌淵公園を散策する。

九州の嵐山と称される、県下屈指の景勝地、春は桜、夏は新緑、秋は色鮮やかな紅葉など、四季折々の表情が美しく毎年4月〜5月上旬には、300にもおよぶ鯉のぼりの吹き流しが登場する川上峡を散策する。

縄文時代晩期〜弥生時代前期(紀元前3〜5世紀)の墓と5〜6世紀の古墳群からなるこの遺跡は、支石墓、甕棺墓、石棺墓なども多数出土している複合遺跡、丸山遺跡を散策する。

大和町は、奈良・平安時代の肥前国の都として栄えたところで、現在の県庁議事堂にあたる建物で、大型の礎石建物が発見され、国史跡に指定されている肥前国庁跡を散策する。

西の小城市に向かい、滝から流れ落ちる名水百選で別名珠簾の滝とも呼ばれている落差75m・幅13mの名滝である清水の滝を訪れる。

佐賀タウンに向かい佐賀城跡と、それを取り囲む11haの広大な大濠や遊歩道からなる緑豊かな公佐賀城公園を散策する。
鍋島三十六万石の拠点だった佐賀城、周囲に幅80mもの濠を巡らし、5層の天守閣を誇る名城とされたが、明治初頭の佐賀の役でほとんどを焼失。今も残る鯱の門と続櫓は国指定の重要文化財、また本丸跡には、木造復元建物としては日本最大規模となる2500平方mを誇る、幕末期の佐賀城本丸御殿の一部を忠実に再現した県立佐賀城本丸歴史館が立つ佐賀城跡を訪れる。
佐賀の自然、考古・歴史、美術工芸、民俗などの幅広い資料を収集、常設展では、大陸や朝鮮半島との交流を示す歴史資料や、吉野ケ里など県内各地の遺跡からの出土品、幕末期の大砲のひな形などを展示する佐賀県立博物館。
佐賀県立博物館に隣接し、近代・現代作家を中心に収集・展示している佐賀県立美術館を見学。

政治家で早稲田大学創設者・大隈重信の旧宅(史跡)。コの字型の鍵屋造、平屋藁葺きに一部瓦葺きの2階建て。武家屋敷の遺構としても貴重。彼の遺品などを展示した大隈記念館を併設する大隈重信旧宅・記念館を見学。

旧長崎街道沿いに、江戸・明治・大正期の歴史的建造物が点在。洋風建築の旧古賀銀行や旧古賀家、旧三省銀行、福田家、江戸時代の商家を移築した旧牛島家などからなる佐賀市歴史民俗館を散策する。

旧佐賀藩主 鍋島家に伝来した美術工芸品・歴史資料を主に収蔵・展示する博物館、徴古館、名君とうたわれた十代藩主・鍋島直正を祭る神社、佐嘉神社、1722年(安永元)に創建、藩祖・鍋島直茂とその祖先を祭る松原神社を訪れる。

鍋島直正の別邸地跡を利用した公園。園内には別邸を復元した隔林亭が存する神野公園を散策する。

曹洞宗の禅寺。藩祖鍋島直茂の父・清房が1552年(天文21)に創建。旧鍋島家の菩提寺で、墓所には西側に鍋島家、東側に龍造寺家の墓碑、石灯籠が整然と並び、樹齢約400年の霊徳寿梅も有名な高伝寺。教育者であり、次郎物語の作者でもあり、明治17年(1884)に生まれてから15才まで過ごした生家、館内には次郎物語の原稿をはじめ、写真や書簡など湖人ゆかりの品々が展示されている下村湖人生家。約1900年前の景行天皇創祀の古社、江戸後期に造られた太鼓橋や日清戦争の戦利品であるオランダ東インド会社の大砲が見られる櫛田宮を訪れる。

吉野ヶ里公園方面に向かい、弥生時代最大規模の環壕集落跡を復元整備した公園、神埼市・吉野ケ里町にまたがり、多数の竪穴住居跡や高床倉庫跡、甕棺墓などが出土、集落の様子が、魏志倭人伝に記述された邪馬台国に似ているので話題になり、見学できるのは、北内郭・倉と市、北墳丘墓、出土品の展示室など、高さ10m以上の物見櫓、直径40〜50cmの柱を使った巨大な主祭殿など、その規模に驚かされる吉野ケ里歴史公園を散策する。

水車の里にある3基の水車は、仁比山地区の水車を復元したもので道路をはさんで南側に立つ遊学館では、地元の水車をはじめ九州近郊の水車の資料を展示している水車の里遊学館。近代医学の父・伊東玄朴の旧宅、幕末に長崎でシーボルトに師事し、蘭方医として初めて将軍の奥医師となった玄朴は、日本で最初に種痘を導入した功績の持ち主、県指定の史跡である葦葺き屋根の邸宅は玄朴が20歳のときに建てられた伊東玄朴旧宅を訪れる。

1205(元久2)年創建のおよそ800年の歴史を誇る神社、風神3柱を祀り、また神社がある場所が風の通り道になっていることから、風との関わりが深い綾部八幡神社。鍋島藩主鍋島直弘を祭神とする神社で、1823(文政6)年の創建、その後、筑後川氾濫防止に功績を残した成富茂安を合祀した白石神社。応神天皇、仲哀天皇、神功皇后を祭る八幡宮、初代鍋島藩主・鍋島勝茂が奉納した石造りの肥前鳥居がある千栗八幡宮を訪れる。

現代のくすりに関する情報と、田代売薬を中心とした日本のくすりの歴史資料や多数の珍重な生薬などの展示する中冨記念くすり博物館。1979(昭和54)年に発掘された弥生時代中期の遺跡。現地は案内の看板のみが立つ。ここから出土した銅鐸鋳型片は国の重要文化財に指定されている安永田遺跡を訪れる。
17:00鳥栖駅到達
17:29特急で博多に向かう。
17:50博多駅到達。夕食。
18:55新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達


今回の旅行、佐賀県の主な観光地、鍋島36万石の城下町佐賀、かつての繁栄をしのばせる佐賀城跡や旧古賀銀行をはじめ由緒ある5つの建造物からなる佐賀市歴史民俗館、日本最大規模の弥生時代の環濠集落遺跡の吉野ヶ里遺跡の有名どころを中心として周囲には由緒あるお寺、神社、公園、歴史的建造が小規模ながら数多く点在し、北部の山里には自然があふれ、佐賀は全国的にはあまり知られていませんが意外と見るべきものが豊富にあり、すべてを周るのは時間がかかる佐賀観光旅行でした。

次回は唐津、呼子、有田、伊万里を攻めたいと思います。