海外観光
今まで訪れた外国
アジア:バリ、プーケット、シンガポール、タイ、香港、マカオ、中国、台湾、ベトナム、ラオス、カンボジア、韓国、インド、フィリピン、ミャンマー、マレーシア、ウズベキスタン、カラカルパクスタン
ヨーロッパ:フランス、スイス、イタリア、ヴァチカン市国、スペイン、スウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウエー、イギリス、オーストリア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ドイツ、オランダ、ベルギー、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビンナ、ギリシア、ロシア、ポルトガル、アゼルバイジャン、ジョージア、アルメニア、エストニア、リトアニア、ラトヴィア、アイスランド、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、モルドバ
中近東:ドバイ、トルコ、キプロス、マルタ島、ヨルダン、イスラエル、パレスチナ自治区、イラン、カタール
アフリカ:ケニア、エジプト、モロッコ、南アフリカ、ジンバブエ、ボツワナ、ザンビア、エチオピア、レソト、エスワティニ、モザンビーク、ベナン、トーゴ、ガーナ、タンザニア、ウガンダ、ルワンダ
アメリカ:ハワイ、カナダ、アメリカ東海岸、グアム、サイパン、ロタ、テニアン、ペルー、アルゼンチン、ブラジル、グアテマラ、ホンジュラス、ベリーズ、メキシコ、キューバ、ニカラグア、コスタリカ、パナマ、ボリビア、エクアドル(ガラパゴス諸島)
オセアニア:オーストラリア、ニュージーランド
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百九十八弾2023年12月28日-1月5日エクアドル(ガラパゴス諸島・キト)メキシコ(メキシコシテイ)観光
南米のエクアドルに足を運びエクアドルに位置するガラパゴス諸島、首都キトを訪れました。
エクアドルは、南アメリカ大陸北部の西岸、赤道直下に位置する国で、国名はスペイン語の「赤道」に由来します。 コロンビア、ペルーと国境を接します。
国の中央部を走るアンデス山脈に、ほぼ赤道直下の首都キトがあります。
標高が2800mで首都としては世界で2番目に高いため、年平均気温は14℃程度と温和でしのぎやすい気候です。
12月28日7:30関西空港ピーチで出発。
9:00成田空港到達。
12:00成田空港アエロメヒコ航空で出発。
9:40(時差-15時間)メキシコシティ空港到達。
メキシコシティ市内観光。
メキシコシティ:メキシコの首都メキシコシティは、2,000万人の人口を擁する世界最大級の都市。
ここはかつて“テノチティトラン”と呼ばれ、広大な湖に浮かぶ小島に杭を打ち築かれた、アステカ帝国の首都でした。
しかし16世紀、スペイン人のコルテスにより征服され滅亡。街は徹底的に破壊され、湖は埋め立てられ、コロニアル調の大都市が建設されました。
ソカロ(中央広場)は、アステカ時代も街の中心だったところ。1913年に大聖堂の裏で発見されたアステカの遺構はその後の発掘により、テンプロ・マヨール(中央神殿)の跡と判明。
生贄を捧げるための石像や祭壇、太陽の石(アステカ・カレンダー)などから、太陽神を最高神とする独自の宗教と、天文学と数学を駆使した正確な暦など、
高度な文明がうかがわれます。
コルテスがテノチティトランに至った1519年、最盛期にあったアステカ帝国が、わずか2年後に滅んだ背景には、闇の神に追われた白い肌を持つ神が、
国を治めるために戻ってくるという予言があったとか。
スペインに圧倒的な力の差をつけられ滅びたアステカ帝国。科学と占い(信仰)、その決着はついたにも関わらず、それすらも彼らの予言の通りでした。
そして、太陽の石は2012年の冬至付近で記録が途絶えており、世界の終末を憂える人も。しかし、我々はまだその結末を知ることはできないのです。
ソチミルコ:市の南にあるソチミルコの「浮き畑」はその名残で、テノチティトランという湖上都市がこの地にあったことを伝えています。
ソカロ広場:市の南にあるソチミルコの「浮き畑」はその名残で、テノチティトランという湖上都市がこの地にあったことを伝えています。
メトロポリタン・カテドラル:メキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、
16世紀アステカ帝国を滅亡に追い込んだスペインのエルナン・コルテスの命によって建てられた巨大建造物です。
コルテスは、アステカ帝国征服後、スペインの植民地ヌエバ・エスパーニャ(意味:新スペイン)の首都建設に着手しました。
かつてアステカ帝国の首都だったテノチティトランは、徹底的に破壊され、その跡地に中央広場、宮殿などが建設されます。
その建設された建物の一つが大聖堂でした。
1525年に建設が始まったメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、当初は木造に草葺き屋根の質素な造りでした。
しかし、新大陸の中心に相応しい大聖堂をという声が次第に高まり、1563年に古い建物を壊し、新たな大聖堂の建設が始まりました。
スペインから著名な建築家が何人も招聘され建設されたメキシコシティ・メトロポリタン大聖堂は、完成までに250年を要し、
ゴシック、ルネサンス、バロック、新古典主義などの様式が混在するカテドラルとなりました。
国立宮殿:メキシコシティ歴史地区中央広場東側にある国立宮殿は、アステカ帝国を征服したスペインのエルナン・コルテスが自身の宮殿として建設したものです。
国立宮殿は、もともとアステカ帝国の皇帝モクテスマ2世の宮殿があった場所に築いたものでした。
1523年に建設が始まり、その後1692年に焼失しますが、すぐに再建され現在の姿となっています。
建物の幅は、200mにも及び1920年には、ネオコロニアル様式の3階部分が増築されました。
独立記念碑:メキシコ独立記念碑は改革大道にあります。改革大道はメキシコシティの一番広い通りです。
基本的には交差点ごとに記念碑や彫刻がありますが、独立記念碑は間違いなく最も壮観です。
これはメキシコが独立戦争の勝利を記念して建てたもので、記念柱の頂上には金色の天使がいる。
29日00:20メキシコシティ空港アエロメヒコ航空で出発。
06:06キト空港到達。
12:50キト空港出発。
14:08バルトラ島空港到達、船でサンタクルス島に向かう。
南米エクアドルの西へ約1,000km、赤道直下の太平洋上に浮かぶ大小の島々からなる火山群島。
総面積は、ガラパゴス諸島がおよそ7,880km²、ガラパゴス海洋保護区は約138,000km² にもおよびます。
一度も大陸と地続きになったことがなく、風や潮流、あるいは鳥に運ばれてここに辿り着いた生物は、隔離された状況で環境に適応し、島ごとに独自の進化を遂げました。
1978年に世界自然遺産の第1号の一つとして登録され、2001年には周辺海域、ガラパゴス海洋保護区も含めて拡張登録されています。
ここでしか見られない固有の自然こそが、ガラパゴス最大の魅力。
海に潜って餌を捕るウミイグアナ、飛ぶことをやめたガラパゴスコバネウなど、5,500〜6,000種ともいわれる希少な動植物を間近で観察することができます。
ガラパゴスペンギンは熱帯域に分布する唯一のペンギン。
環境によってくちばしや習性が異なる鳥類、ダーウィンフィンチは、生物学者ダーウィンに進化論の着想を与えたことで有名。
人を恐れない無邪気な様子に魅了されますが、動物に触れることは固く禁じられています。
進化の不思議を物語るガラパゴスの動物たち。しかし、2007年には危機遺産リスト入りする事態になりました。
絶滅が危惧されている動物の中には、ガラパゴス諸島の名前の由来となったゾウガメも。
野生生物の調査・研究を行うダーウィン研究所では、島の子どもたちによるゾウガメ保護活動を支援するなど、個体数の回復に努めています。
この成果が実り、2010年7月に危機遺産リストから削除され、ガラパゴスは本来の姿を取り戻しつつあります。
15:00サンタクルス島到達、観光。
サンタクルス島:ガラパゴス諸島で最大の人口を抱え、2番目の大きさを誇るサンタクルス島。
ガラパゴス諸島で2つしかない空港のひとつが、この島の北にあるバルトラ島にあり、ガラパゴス諸島観光の玄関口となっています。
ロスヘメロス:観光の中心地サンタクルス島の高地にあるロスヘメロス(スペイン語で「双子」という意味。二つの陥没した火山地形があります)地区。
ここにはキク科の固有種スカレシアなどで構成される素晴らしい森があります。
ここに蔓延る外来種を駆除して、固有の生態系を守ろうというプロジェクトを、ダーウィン研究所とガラパゴス国立公園が行っています。
そして実は、このプロジェクトに日本の民間からも支援が行われることになりました。
行かれた方はご存じと思いますが、スカレシアの森にフィンチが飛び交い、緑が続く本当に素敵な場所です。
マンサニージョ牧場:こちらでは、ゾウガメの放牧をしています。
18:00サンタクルス島のホテル到達
19:00夕食。
22:00就寝。
30日8:00ホテル出発、バスで港に向かう。
9:00港出発、船でサウスプラザ島に向かう。
10:00サウスプラザ島上陸、散策観光。
サウスプラザ島:サンタクルス島からわずか400m東に位置する、南北に別れた島がプラザ島。
サウスプラザ島のみ上陸することができます(ノースプラザ島へは上陸禁止)。南北に500mほどの小さい島ですが、数多くのリクイグアナを生息しています。
サンタクルス島からデイクルーズで訪れることができる島のひとつです。
島にはセビュームという植物と無数のウチワサボテンが自生しています。ウチワサボテンを好物とするリクイグアナが囲み、葉や枝、実が落ちてくるのをじーっと待っています。
サボテンはその長い歴史の中でリクイグアナに食べられないように下の方が硬化していったのだとか。植物と動物の食物連鎖と、進化の歴史を端々から感じられます。
セビュームは7〜8月のウェットシーズンに緑から赤に色づきます。
まるで陸に生えたサンゴ礁のようにその色を変え、緑色のウチワサボテンとのコントラストが神秘的な光景になります。
上陸地点は島の北側となり、近くの岩場にはアシカのコロニーがあり、ゴロゴロとアシカたちがお昼寝をしています。トレイルコースは約800m。
ほかにアカメカモメやナスカカツオドリなども見られます。
アカメカモメ、ガラパゴスアシカ、ヨウガントカゲ、ガラパゴスアカアシネッタイチョウ、ガラパゴスリクイグアナ、ガラパゴスウミイグアナ、フィンチを観察する。
ゴムボートでサンタクルス島の岸沿いを走行し動物観察。
オオグンカンドリ、アマサキ、ガラパゴスアオウミガメ、ガラパゴスカッショクペリカン、ガラパゴスアオアシカツオドリを観察する。
船でサンタクルス島に向かう。
16:00ホテル到達。
17:00繁華街散策後食事を済ませてホテルに戻る。
21:00就寝。
31日6:00ホテル出発、バスで港に向かう。
7:00港出発、船でバルトロメ島に向かう。途中大ダフネ島を通り過ぎる。
9:00バルトロメ島到達、展望地に向かう。360°見渡す。
大ダフネ島:面積0.32㎢、標高110m
サンタクルス島の北に浮かぶ島。バルトラ空港へ降り立つとすぐ目に入る。
国立公園のビジターサイトとして開放されているが、満潮時のごくわずかな時間に上陸する必要があり、観光上陸は実際には行われていない。
プリンストン大学のピーター&ローズマリー・グラント夫妻がこの島に住むダーウィンフィンチ類の研究を行い、気象の変動でフィンチの嘴が刻々と変化し、現在も進化が進行していることを確かめた。
これにより、進化がダーウィンの考えていたよりずっと早く起こり、「目に見える」現象であることを明らかにした。
バルトロメ島:サンティアゴ島のすぐ東に位置する、総面積わずか1.2k㎡の小さなバルトロメ島。約30万年前のマグマの活動により形成された比較的新しい島です。
上陸ポイントから標高約115mの山頂まで木製の階段が設置され、溶断の流れた様子などを見学しながら約600mのトレイルを楽しむことができます。
山頂からは360度の大パノラマが広がります。
島の西端付近にあるもうひとつの上陸ポイントには、バルトロメ島を象徴する尖塔状の岩「ピナクル・ロック」がそびえています。
これは、水中の火山よりマグマが噴出した際に形成されたものです。
ピナクル・ロック付近はシュノーケルポイントとなっており、熱帯魚が観察できるほか、ガラパゴスペンギン、ウミガメ、アシカも見られます。
ガラパゴスオオアオサギを観察する。残念ながらガラパゴスペンギンを観察できませんでした。
10:00ゴムボートでペンギンのいる砂浜に移動、散策する。
12:00船に戻り昼食。
13:30港に向かう。
15:30港到達。
15:30バスでホテルに向かう。
16:15ホテル到達。
19:00近くのレストランで夕食。
21:00就寝。
1日7:00バスで出発、港に向かう。
7:30港を船でバルトラ島に向かう。
9:55バルトラ島の飛行場から出発。
12:36マンタ空港到達。
13:27マンタ空港から出発。
14:15キト空港到達、バスでキト市内のホテルに向かう。
15:00ホテル到着。
18:00近くのレストランで食事を済ます。
19:30ホテル到達。
22:00就寝。
2日9:00バスで出発、キト市内観光。
キト:アンデス山脈が南北に走る南米エクアドルの首都キト。その旧市街はガラパゴス諸島とともに1978年、世界で最初に登録された世界遺産12件のひとつ。
かつてはインカ帝国第二の都市として栄え、スペインによる征服後は南米大陸におけるキリスト教布教の拠点となり、聖堂や修道院が次々に建設されました。
今も当時の建築物が数多く残り、南米有数の保存状態の良い歴史地区といわれています。
アンデス山脈の高峰に囲まれ、赤道直下にもかかわらず過ごしやすい気候のキトは標高2,850m。
その建設は1534年に始まり、スペインの植民地支配が本格化すると、格子状の街路に聖堂や様々な建築物が建てられていきました。
1535年から完成までに70年以上の歳月を要したサン・フランシスコ聖堂・修道院は、南米最古の歴史を誇る聖堂・修道院。
バロック様式の黄金の祭壇や彫刻などには先住民の影響も見られ、彼らはのちに南米美術で独自のキト派を誕生させました。
エクアドル最高のバロック建築と称されるのが、1605年から160年以上をかけて完成したラ・コンパニーア聖堂。
主祭壇に7tもの金が使われ、その絢爛豪華さから黄金の聖堂と呼ばれています。
高さ41mの聖母像がランドマークのパネシージョの丘に立つと、征服者の手で築かれた旧市街が一望のもと。
そこにインカ時代の痕跡はほとんどありませんが、見事な眺望からはスペインの侵略を受け自らの手で破壊したという、インカの町の幻影が見えるかのようです。
赤道記念碑:エクアドルとはスペイン語で「赤道」を意味する国名です。ここエクアドルの首都キトは、そう、赤道直下に位置する街なのです。
赤道直下でありながら標高が高い為あまり暑くなることはないんですよ。
そしてこのエクアドルの首都キトに観光で訪れた人のほぼ全てが観光として訪れる場所が、キト市の北約22kmにあるサン・アントニオ村の赤道記念碑だといっても過言ではありません。
キトの人気観光スポットです。
チケット売り場でチケットを購入して敷地内に入場すると、この国で見ることのできるハチドリなどのモニュメントの付いたベンチがあります。それを見るだけでも楽しいものです。
更に進んでいくとこちらのメインとなる高さ約30m、頂上に地球をイメージした直径4.5mの球形がのった赤道記念碑があらわれます。
そこからは北半球と南半球を分ける赤道をイメージする線が引かれています。
赤道博物館:GPSが開発される以前は、キトの人気観光地赤道記念碑のある場所が赤道の通っている場所といわれていました。
ですが、GPSの開発によって、実は本当の赤道のある場所は赤道博物館の敷地内であるとわかりました。
場所はキトの人気観光地、赤道記念碑から300mほどのこじんまりした場所。せっかくこの場所まで来たのならば、本物の赤道まで足を伸ばさない手はないのでしょうか?
敷地内は赤道記念碑ほど広くはないのですが、こちらでは赤道にちなんだ様々な実験ができ、実に楽しい観光場所です。
南半球と北半球で水が流れていく際の渦の方向が逆であることを実際に体験できたり、釘の上に卵を立たすことができたり、赤道にそってまっすぐ歩くことができますよ。正確な赤道のある場所でしか経験することのできない、貴重な経験をいくつも行うことができます。
12:00昼食
パネーシージョの丘:キトの象徴ともいうことのできる有名な丘です。こちらの丘の上からは、キトの旧市街もノルテと言われる新市街も一望することができます。
丘の上には大きな聖母像が立っており、その内部には簡単な博物館もあって上部にもあがることができます。また聖母像の周辺にはお土産や屋台などがいくつもあるので観光客だけでなく地元の人々など多くの人々の憩いの場所ともなっています。
丘の頂上までは麓から徒歩でも30分ほどで行けますが、治安上、日中であっても必ずタクシーを使うように。また聖母像は夜間ライトアップされキト旧市街からの眺めは最高です。
独立広場:エクアドルの首都キトの旧市街観光の際に、拠点となる場所がここ独立広場です。
広場の中心には1830年8月の独立を記念した碑Monumento a los Heros de la Independenciaがあり、広場の西側には白く美しい大統領府が建っています。ここを中心に、キト旧市街の魅力的な教会などを観光することをおすすめします。
またその大統領府の周辺には多くのカフェやレストランがあり、旧市街の街並みを感じながら地元の人達と共にとるランチや休憩は素晴らしいものです。
中でも大統領府のすぐ近くにあるカフェGalletti coffee roastersはお洒落な店内で、美味しいコーヒーを飲みながらWifiも利用することができます。
キト旧市街の観光の間の休憩を取る場所としておすすめです。
カテドラス:キト旧市街の中心の独立広場にある大聖堂です。外観は緑色のドームが印象的で、中に入るとわりと普通の感じですが、祭壇は金ピカで南米っぽかったです。
キト独立運動の英雄もこちらの大聖堂に埋葬されています。入り口前には警官がいて、周囲も巡回していました。夜はライトアップされているので、昼間よりも目立っていました。
大統領府:キト大統領府は有名な独立広場の上にあります。彼は400年以上の歴史を持つスペインの建物です。
誰でも特定の地域に入ることができます。大統領府全体がとても大きくて、中には自分の小さな花園があります。とても綺麗です。
ラ・コンバニーア教会:多くの観光客がキト旧市街に訪れた際に行くサン・フランシスコ教会。その建設の後に着手されてといわれるのが、このラ・コンパニーア教会です。
1605年から160年もの歳月をかけて建てられました。
教会の建物自体の彫刻も繊細で素晴らしいのですが、キト旧市街に観光に来た観光客に必見なのは、合計7トンもの金を使ってメッキで装飾された祭壇です。
そのため別名「黄金の教会」とも呼ばれています。また祭壇中央に飾られた聖人マリアナの絵は「奇跡の絵」とも呼ばれ以前は目が閉じていたこともあったとのこと。
1987年の大地震によってダメージを受けたのですが、現在は修復をほどこされています。
サンフランシスコ教会:キトで最も威風のある教会で、アンデスのエル・エスコリアル宮殿とも呼ばれている教会です。
スペインによる征服のすぐあとの1535年に建てられた、南米で古い歴史を持つ教会の1つです。
こちらの全面に広がっているのが石畳のサン・フランシスコ広場で、小さな子供を始めいつも多くの地元の人々と共に多くの観光客が集まっています。
またこの広場周辺には多くのバックパッカー御用達のキトの中でも特に安いホテルや、安い値段でそこそこ美味しいエクアドル料理を食べることのできるレストランなどが集まっています。
キト現地の人々が生活するように寝泊り、食事を堪能することのできる観光客にはおすすめの場所です
16:00ホテル到達。
21:00就寝。
3日6:30バスで出発、空港に向かう。
9:04キト空港出発。
12:55メキシコシティ空港到達、観光。
国立人類学博物館:コロンブス以前の時代の重要な遺物のコレクションを発見し、オルメカ、マヤ、アステカなどの古代メキシコ文明の文化について学ぶことができます。
アステカの太陽の石、巨大な石の彫刻、テノチティトランのスケールモデルなどの展示を見て、メキシコの歴史についての洞察を得る機会があります。
その後バスの車窓から市内観光。
23:45メキシコシティ空港アエロメヒコ航空で出発。
5日6:05成田空港到達。
8:30成田空港ピーチで出発。
10:00関西国際空港到達。
今回の旅行、往路と復路のメキシコシティ空港のトランジェットが長時間のため往路と復路共メキシコシティの市街地の歴史的建造物を観光しました。
飛行機と、船での移動、遠い南米でもあり、ガラパゴス諸島にたどり着くに時間を要しました。
ガラパゴス諸島は3泊、エクアドルの首都キトには2日滞在しました。
ガラパゴス諸島の動物の観察はゾウガメ、アシュカ、イグアナ、その他固有種の鳥など、種類は多くないが多くの固有種を観察できました。
特にアシュカは犬のように繁華街で食べ物を求めて、人に近づき、又、公園のベンチで横になって寝そべっているのは、日本では考えられない可愛いアシュカの光景です。
残念ながら希少種のガラパゴスペンギンは観察することができず残念でした。
種類は少ないが多くの固有種を観察でき堪能し満喫しました。
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百七十九弾
2023年8月9-16日ウガンダ、ルワンダ観光
東アフリカに足を運び、東アフリカに位置するウガンダ、ルワンダを訪れサファリ観光しました。
ウガンダ:アフリカ大陸の東に位置し、南スーダン、ケニア、タンザニア、ルワンダ、コンゴ民主共和国に囲まれた内陸国です。南部は、ナイル川(白ナイル)の起点となるビクトリア湖に接しています。日本の本州とほぼ同じ広さで、赤道直下に位置しています。北部地域では反政府組織「神の抵抗軍」(LRA)の活動によって治安が不安定な時期が20年ほど続きました。北部地域の治安回復に伴い、一時は200万人近くに達した国内避難民の大半が帰還しました。2016年以降は南スーダンからの難民が急増し、100万人を超える難民が北部に滞在しています。ウガンダは世界で最も難民受け入れに寛容な国の一つだと言われています。
ルワンダ:国全体に山や丘や湖が多く坂や曲がりくねった道が続きます。国としての面積は小さく、雨量が適度にあるため、緑が多いので農作物は豊富です。
首都キガリの近郊では段々畑ととんがり帽子のような形をした家々を見かけます。ヨーロッパでいえばスイスのイメージがあるかもしれません。
基本的な物価は少々高めで人々はちょっとおとなしく、静か、上品な感じさえします。どちらかと言えばプライドの高い人々です。
1962年にベルギーより独立したので英語よりもフランス語の方が通用します。
1994年に農耕民族の多数のフツ人と遊牧民族の少数のツチ人との内戦により大虐殺がありました。800万人の人口のうち、1割の80万人が犠牲になったと言われています。その後は二度と悲劇を繰り返さないために部族という概念を捨て、平和を目指し現在に至ります。
日本からのNGOも活躍しています。鉱物はほとんどなく、主な産業は農業です。内陸国のため、輸入するのにケニアのモンバサ港から鉄道やトラックでウガンダを経由しなければならないので不便さがあります。旅行は通常ケニアのナイロビからキガリにフライトして入国します。
9日14:06新大阪駅新幹線のぞみで出発。
16:33東京駅到達、JR山手線で日暮里駅経由、京成特急スカイライナーで成田空港第一ターミナルに向かう。
17:44成田空港第一ターミナル駅到達。
21:15成田空港エチオピア航空で出発、ソウル、アディスアベバ経由してルワンダキガリに向かう。
10日14:00キガリ空港到達、専用車でヴァルカン国立公園観光の拠点となるルヘリンゲリに向かう:
17:00ルヘリンゲリ内のロッジ到着、食事を済ませて就寝。
ヴァルカン国立公園:ここヴォルカン国立公園はマウンテンゴリラの生息地として知られていますが、希少なゴールデンモンキーが観察できる場所としても有名です。
ルヘリンゲリ:ルワンダの北部州の州都でムサンツェ県(en)の中心都市[1]。県名と同じムサンツェと呼ばれることもある。かつての県名はルヘンゲリ県(2006年に北部州に再編)。ルワンダ北西部、ヴィルンガ山地の南に位置し、ふたごのルホンド湖(en)やブレラ湖(en)に近い。また火山国立公園、マウンテンゴリラの生息地のいわば玄関口でもあり、観光客相手のホテルやレストランが開業した。2012年時点の人口は5万9333人(2002年時点は7万1511人)。
市内に応用化学研究所(Institute of Applied Sciences)があり、またダイアン・フォッシー国際ゴリラ基金(en)は2021年の完成を目指して施設を建設。
11日6:00専用車で出発、ヴァルカン国立公園にてゴールデンモンキートレッキング。
ゴールデンモンキー:背中の毛が金色に見えることからその名が付きました。ゴールデンモンキーは、30~50頭前後の群れで、特に竹藪の付近を好んで暮らしており、寿命は50年ほどです。
午後国境を越えてウガンダのブウィンデイ原生国立公園近郊に向かう。
18:00ブウィンデイ原生国立公園近郊のコテージ到着、食事を済ませて就寝。
ブウィンデイ原生国立公園:コンゴ民主共和国との国境に接し、標高1,200m~2,600mの高地にある国立公園です。ブウィンディ原生林はアフリカの生態系の中でも最も豊かな場所の一つで、多種多様な動植物が生息しています。その中には絶滅危惧種やアフリカ大地溝帯の固有種も含まれ、チンパンジーの保護区にもなっています。1991年に設立し、1994年に世界自然遺産に登録されました。
ここブウィンディ原生国立公園で有名なのは340頭ほどのマウンテンゴリラです。この頭数は絶滅が危惧されている世界のマウンテンゴリラの頭数の約半分にあたります。
12日6:00専用車で出発、火山活動によって形成された湖を車窓に眺めながらブウィンデイ原生国立公園に向かう、ブウィンデイ原生国立公園のマウンテンゴリラトレッキング。
火山活動によって形成された湖(クレータ湖):
マウンテンゴリラ:ゴリラは約800万年前にヒトと進化の枝分かれをしたと言われています。人類に最も近い霊長類の一種で、DNAの約97%を人間と共有していると言われています。基本的に草食動物で、植物の果実や葉、茎、根などを食し、大人の雄になると1日34kgものエサを食べるのです。通常、8頭~30頭位までの、家族を基本とするグループで暮します。若い雄ゴリラは全身の毛が真っ黒でブラックバックと呼ばれ、大人になると背中の毛が白くなり、シルバーバックと呼ばれる様になります。群れの構成は通常大人の雄1頭と数頭のメス、その子供たちで形成されます。群れのリーダーがシルバーバックです。マウンテンゴリラはウガンダ、ルワンダ、コンゴの3カ国にまたがるヴィルンガ火山群に生息しています。マウンテンゴリラは標高2,000m~4,000m程の高山に暮し、湿度が多く、気温の低い森の中を好みます。マウンテンゴリラは特定の住処を持たず、毎日食べ物を探しながら移動しています。一日のほとんどを食べ物探しと食事に費やし、夕方に適当な場所を見つけて寝床とします。いったん寝床に入ると朝までは動きません。
昼からブウィンデイ原生国立公園近郊の村を車窓から望む。
18:00コテージ到達。食事を済ませて就寝。
13日6:30出発、専用車でクイーンエリザベス国立公園に向かう。
カジンガ水路のボートクルージングや夕方クイーンエリザベス国立公園のサファリドライブ。
クイーンエリザベス国立公園:ウガンダで最も有名な国立公園のひとつ。お隣コンゴとつながるエドワード湖とジョージ湖を結ぶカズィンガ水路でのボートサファリでは数え切れないくらいのカバが見られるほか、ゾウや美しい水鳥が見られます。鳥にいたっては、この国立公園だけで約540種が記録されています。車でのサファリでのサファリでは、ウガンダでしか見られないウガンダコーブのほか、ライオン、森イノシシ、運がよければヒョウを見られることも。公園内のマラマガンボ森林のコウモリ洞窟へのウォーキング・サファリもおすすめです。
カジンガ水路のボートクルージング:ボートサファリは、ウガンダ南西部のクイーンエリザベス国立公園内の、エドワード湖とジョージ湖という2つの湖をつなぐ水路(カジンガ水路)ですることができます。
サファリドライブ:ゾウ、イボイノシシ、鵜、バッファロー、クロコダイル、オオトカゲ、ペリカン観察
19:00
クイーンエリザベス国立公園近郊のロッジ到達、食事を済ませて就寝。
14日7:30専用車で出発、クイーンエリザベス国立公園でのサファリドライブ。
サファリドライブ:レオパード、ウガンダコープ、アフリカゾウ、カバ、バッファロー、イボイノシシ観察
専用車でエンテベヘに向かう、途中赤道記念碑に立ち寄る。
エンテベヘ:アフリカ東部、ウガンダ中南部の都市。ビクトリア湖北岸に面する。人口5万7518(2002推計)。首都カンパラに近く、国際空港をもち、スーダン、ブルンジ、ケニア、ヨーロッパなどと結んでいる。東方のジンジャと並ぶビクトリア湖上交通の重要な港の一つで、とくにウガンダ鉄道がケニアのキスム止まりの時期、キスム―エンテベ間の輸送で栄えた。ビクリトア湖上の漁業の重要な中心地でもある。1976年のエンテベ空港事件(イスラエル軍による人質奪還のための空港奇襲作戦)で一躍有名になった。
赤道記念碑:ウガンダの赤道記号 – 北半球と南半球の間の線を示す記念碑
19:00エンテベヘのレイクハイツ到着、食事を済ませて就寝。
15日7:30専用車で出発、マバンバ湿地の野生のハシビロコウを観察。
マバンバ湿地:マバンバ湿原は、ビクトリア湖北岸のエンテベ半島の北西マバンバ湾の湿地帯で、ウガンダ国内のIBAの1つであり、ラムサール条約登録湿地でもある。世界的にもハシビロコウの生息地として有名で、他にも260種の鳥が記録されている。パピルスの生える沼沢地が広がりラグーンの小水路をカヌーで移動しながら探す。
野生のハシビロコウ:待ち伏せ型の狩りをするため、ゆったりとした動きで、しばしば彫像のように動きを止めるため「動かない鳥」として知られる。 巨大な嘴(くちばし)を持ち、嘴を打ち合わせて音を出す”クラッタリング”を行う。 指の長さも鳥類最大で、湿地に住むため沈まないように大きくて長い足と指をしている。
エンテベ空港に向かう。
18:35エンテベ空港エチオピア航空で出発、アディスアベバ、ソウル経由して成田に向かう。
16日20:10成田空港到達、成田空港第一ターミナル駅京成特急スカイライナで出発、日暮里駅でJR山手線に乗り換え、新宿駅に向かう。
22:10新宿駅到達、
23:15パスタ新宿で高速バスドリームスリーパーで出発。
17日7:00大阪駅到達。
高速バスドリームスリーパー:目指したのは最高の眠りと上質なリラクゼーション
全11室、完全個室のプライベート空間と充実の車内設備
お客様に心地よい眠りと上質なリラクゼーションをお届けすることをメインコンセプトとした高速乗合バスです。
ひと晩かけて長距離を移動する車内でのストレスを少しでも和らげたい、
心安らぐひと時をお過ごしいただきたいという強い思いを乗せて、
お客様を安全に目的地までご案内いたします。
「安全・安心・快適」な視点で、移動しながら"心地よい眠り"を
手に入れるという新時代の移動空間が実現いたしました。
今回の旅行、東アフリカに足を運び、東アフリカに位置するウガンダ、ルワンダを訪れサファリ観光し楽しみました。
今回最大のサファリは野生のマウンテンゴリラの観察、ジャングルを現地人の誘導で行われ、木を切り倒し道を作り、進みました。下りは、足を滑りながら、上りは息を切らしながら進みました。運良く一時間後にマウンテンゴリラの親子に遭遇、12頭のゴリラを目の前の近接で観察することができました。大満足です。
尚大阪から成田まで行きは新幹線と在来線、帰りは在来線と高速バスを利用しました。
個室でリクライニングでき、十分なスペースがあり快適でした。又利用したいと思います。
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百六十五弾
2023年4月28日ー5月5日タンザニア観光
アフリカの東アフリカのタンザニアに足を運び、タンザニアに位置するサファリパーク国立公園、と観光名所を訪れました。
タンザニア:アフリカ東部に位置する「タンザニア」は、世界遺産でありアフリカ最高峰の「キリマンジャロ」を始め、自然保護区や数十年後には消えると言われている氷河などここでしか味わえない観光地がたくさんあります。海に囲まれているので、海鮮料理も美味しい。朝から1日かけて野生動物の様子を見ることのできるサファリドライブもおすすめ。大自然を満喫できる「タンザニア」が魅力。
28日14:06新大阪駅新幹線のぞみで出発、
16:33東京駅到達。
16:46東京駅山手線で出発。
16:58日暮里駅到達。
17:05日暮里駅京成特急スカイライナーで出発。
17:44成田空港第二ターミナル到達。
20:30成田空港出発エチオピア航空で出発。
21:45ソウル到達。
23:30ソウル出発。
29日7:40(時差ー6時間)アディスアベバ到達。
10:35アジスアベバ出発。
13:10キリマンジャロ空港到達。
14:00専用車でアルーシャのホテルに向かう。
16:00ホテ到達、周辺を散策しあ食事を済ませて就寝。
アルーシャ:タンザニアの都市。タンザニア連合共和国を構成する地域の1つ、タンガニーカの北東部に位置し、グレートリフトバレー内の高原にある。アルーシャ州の州都。約42万人の市内人口を抱えるほか、周辺地域を含めて74万人規模の都市圏を形成している[2]。東アフリカ共同体の本部が所在する。主要作物であるコーヒーやサイザル麻の栽培が盛んだが、輸送の中心地でもあり、インド洋に面した国内最大都市であるダルエスサラーム、同じくインド洋の都市タンガ、そしてケニアの港湾都市モンバサと鉄道でつながっている。
アルーシャ周辺にはセレンゲティ国立公園やオルドバイ峡谷、キリマンジャロ山、ンゴロンゴロ保全地域、アルーシャ国立公園、メルー山など、世界的に有名な観光スポットが数多く存在するため、それらへ向かう観光客の玄関口の役割も果たしている。これらの各観光地を訪れる観光客のほとんどは、アルーシャ近郊のキリマンジャロ国際空港を利用する。また、より小規模な国内線用空港としてアルーシャ空港がある。
キリマンジャロ:キリマンジャロはタンザニア東部にあり、標高は5,895m。山脈に属さない独立峰としては世界一の高さを誇ります。美しい山並みと多様な動植物が評価され、1987年にキリマンジャロ山を含むキリマンジャロ国立公園が世界自然遺産に登録されています。赤道近辺ではありますが、標高が高いため高山気候となり、山頂部には氷河も存在します。登山ルートも整備されていて、セブンサミッツの中では難易度は低め。登山家ではなくても、強靭な体力と万全の準備があれば、山頂までの登山を楽しむことができます。とはいえ、標高6,000mせまる世界有数の高峰であることには変わりなく、高山病の対策は必須になります。
30日セレンゲティ国立公園に向かう。サファリドライブ。
セレンゲティ国立公園:ユネスコの世界自然遺産にも指定されたタンザニアで最初の国立公園、マサイ語で“果てしない草原”を意味します。この大草原の所々にコピエとよばれる太古の岩場があり、まるで大海原にある島のようです。草原ゆえ野生動物の観察に適し、年2回繰り返される大自然の営み、ヌー(ウシカモシカ)の大移動の様子は圧倒的な迫力です。チーター等の中型やライオン等の大型肉食獣など、動物の種類・数も多く、最低3泊はしてみたいところ。その雄大さに圧倒される。
ホテル到達、周辺を散策し食事を済ませて就寝。
1日サファリドライブ:
ホテル到達、周辺を散策し食事を済ませて就寝。
2日セレンゲティ国立公園サファリドライブ。
ンゴロンゴロ自然保護区近郊の町カラトウに向かう。
ンゴロンゴロ自然保護区:タンザニアの世界遺産の1つ、クレーターで有名なンゴロンゴロ保全地域。 スワヒリ語で「巨大な穴」を意味するンゴロンゴロ。面積は8,288キロ平方メートル、東西19km、南北16km、におよぶ、崖に囲まれた火山のカルデラの中には、森林や湖、草原などの多様な自然があり、多くの種類の野生動物たちの棲家になっている。また、絶滅寸前の野生動物たちの貴重な保護区ともなっている。外輪が山に囲まれていることによってクレーター内は乾季の影響を受けず、年間を通して水と緑に恵まれ、周囲からは閉ざされたクレーター状になっているこのサバンナの中で、約25,000頭の動物たちは外へ出ることなく一生を過ごす。 獲物を狙うライオンやチータ、群れを成して逃げる動物たちなど、その生活はいつかテレビで観た野生の王国そのもの。水辺にはフラミンゴの群れも観察でき、湖一帯がピンク色に染まる光景は圧巻。この地域と隣り合うセレンゲティ国立公園(ここも世界遺産に指定)と境を接する草原地帯では、約400万年~150万年前の最古の人類といわれるアウストラロピテクスの化石人類が発見されている。
オルドバイ渓谷:オルドバイは、ンゴロンゴロ・クレーターの近くに位置し、リーキー一家の研究によって有名になった初期のヒト科動物の化石が発見された場所である(「くるみ割り人形」またはアウストラロピテクス・ボイセイは180万年前に生きていたと考古学者は考えている)。 ビジターセンターには、小さな情報満載の博物館があります。 渓谷は、化石や集落跡、石器などの遺跡の宝庫である。 レクチャーツアーを開催しています。
カラトウのホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
3日ンゴロンゴロ自然保護サファリドライブ。
マニヤラ湖にむかう。
マニヤラ湖を望む高台に建つロッジに宿泊。
4日マニヤラ湖国立公園サファリドライブ。
マニヤラ湖国立公園:リフトバレーの断崖の下に広がる名公園。森林が多くその緑の中にゾウ、バッファロー、サイ、インパラ等が点在します。木登りライオンの習性の発祥地として有名。湖にはカバの大群、また鳥類が豊富なのでバードウォッチャーには特に楽しみな公園です。4~5年前かって湖が増水し、2004年やっと平常に水位が戻るが、自然はまだまだ・・・。
専用車でキリマンジャロ空港に向かう。
アジスアベバ、ソウル経由して
5日20:15成田空港到達。
今回の旅行、アフリカの東アフリカのタンザニアに足を運び、タンザニアに位置するサファリパーク国立公園、と観光名所を訪れ楽しみました。
前回ケニアでのサファリドライブはゾウの大群とキリンの大群に出くわしましたが、今回はヌーの大移動の大群と、身近で多くのライオンの親子を観察できました。
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十一弾:フィリピンセブ島観光 2020年2月22-24日 日本から直行便で5時間、ビーチリゾートや山岳の避暑地、歴史的町並みなど魅力的な場所が多いフィリピンに足を運び、歴史が色濃く残るフィリピン最古の都、セブシティを訪れました。 セブ島:フィリピンには離島が数多くありますが、その中でもリゾート地として人気があるのがセブ島。周囲をマクタン島、バンダヤン島などに囲まれているのが特徴で、それらを含めたセブリゾートでは、さまざまな遊び方ができます。セブ島ですが、ここには歴史資産が数多く残っています。その多くはスペイン統治下にあった時代のもので、往時の息吹を今に伝えています。 22日15:25関西空港フィリピン航空で出発 19:00マクタンセブ島空港到達、タクシーでセブシティに向かう。 20:00セブシティ内のホテル到着後就寝。 23日7:30セブシティを散策。 サン・カルロス大学博物館:1595年に創立した、フィリピンで最も古いサン・カルロス大学の付属博物館。スペイン植民地時代の遺品や、それ以前の発掘品、生物標本などを4つのテーマで展示している。多様なコレクションからは、フィリピンの豊かな歴史を想像することができる。 ムセオ・スグボ:セブシティにはセブの歴史を学ぶことができるスクボ博物館(MUSEO SUGBO)があります。 「MUSEO」とはスペイン語で博物館、「SUGBO」はセブ島の古い呼び名です。 スクボ博物館はアヤラモール、SMモールからタクシーで道が空いていれば10分くらいの場所にあり、セブ島では有名な博物館なのでタクシードライバーなら場所を知っているはずです。 博物館の白い建物はとても古く、1871年に建設されたものをリノベーションして2008年に博物館として生まれ変わりました。 博物館になる前は100年もの間、セブ州の刑務所として利用されていたといいます。 カサ・コロルド博物館:セブ最初のフィリピン人司教ファン・ゴロルドの邸宅を博物館として公開。石とタイルを使用した1860年代のスペイン風建築様式が再現されている。館内には18~19世紀の宗教的遺品や版画、家具、工芸品などが展示され、一家が実際に使用していたままの家具や備品から当時の生活を偲ぶことができる。 ヤップ・サンディエゴ・アンセストラル・ハウス:1600 年代のスペイン植民地時代にまでさかのぼるヤップ サンディエゴの旧邸は、セブ市に移り住んだ中国人に焦点を当てた博物館です。ここは中国国外で最初に建てられた中国人家屋だといわれています。何世紀も前にフィリピンに浸透していたスペイン文化と中国文化の融合が見られる貴重な名所です。 サン・ペドロ要塞:フィリピンがスペインから植民地統治されていた時代に建築されたサンペドロ要塞。最初は木造でしたが、敵対するムスリムや海賊に対抗するため、次第に堅固なサンゴの石造りの要塞と建て替えられました。その後、サンペドロ要塞はアメリカ統治時代には兵舎に、第二次世界大戦中は日本軍による捕虜収容所として使用されていた長い歴史を持ちます。現在は多くの観光客で賑わうセブシティの定番観光スポットとなりました。 セブ大聖堂:セブ島セブ市のダウンタウンにあるカソリック教会です。セブ大司教(セブ地域で最も権威のある聖職者)が在籍しており、セブ地域のカソリック教会を統括していいます。 <P><BR>1595年、セブはフィリピンで始めてキリスト教の教区として制定されました。その後、セブ各地に教会が建てられていきます。<STRONG>セブ大聖堂</STRONG>もその当時に建設が始まった教会のひとつです。しかし、資金難により建設には長い年月がかかりました。最終的に教会は完成しましたが、第二次世界大戦の空爆でベルタワーと一部の壁を残して崩れてしまいました。現在は修復され全貌を見ることができます。 サント・ニーニョ教会:1565年、スペイン統治時代に建てられたフィリピン最古の教会サントニーニョ教会。 毎週日曜日にはフィリピン全土から熱心な信者が訪れる、カトリックの聖地として有名なセブシティの観光地スポットです。 ここにはスペインの冒険家マゼランがセブのファナ女王に贈った、幼きイエス像(サントニーニョ)が納められています。 この像は16世紀にセブが戦火に包まれたときも無傷のまま焼け跡に横たわっていたという逸話をもち、セブの守護神として人々に愛され崇拝されているのです。 大聖堂の中の厳粛な雰囲気、豪華なシャンデリア、美しい壁画とステンドグラスはまるでヨーロッパにいるかのように思えます。 サント・ニーニョ博物館:フィリピン最古の教会サントニーニョの南側にある博物館である。実際には敷地内の地下にある。館内には司祭やサントニーニョが着ているガウンやアクセサリー、キャンドルや香炉、マリア像や書物等が展示されており、セブや教会の歴史を紹介している。また、記念品の販売も行っている。 マゼラン・クロス:サントニーニョ教会のすぐ隣にある「八角堂」の中に保管されいるマゼランクロス。 キリスト教布教のためにセブ島に訪れたマゼランが、キリスト教発祥の地として記念に建てた5メートルもある大きな木製の十字架です。 八角堂の天井には、当時のセブ領主であるフマボン王とファナ王女、臣下800人がキリスト教徒として初の洗礼を受けた様子が細部にわたって美しく描かれています。 マゼランクロスは破片を煎じて飲むと万病に効くと信じられており、十字架を削り取って持ち帰る人が絶えなかったのだとか。 そのため現在では十字架を保護するために堅い木で作ったカバーがつけられ、本物の十字架を見ることはできません。 カルボン・マーケット:セブ島の台所とも呼ばれる巨大市場カルボンマーケット。 コロンストリートと繋がっており、かつてはこの場所で木炭(カーボン)の行商が行われていたためにこの名前がつきました。 現在では野菜や果物、魚、肉などの食材のほか、衣類や雑貨など何でも手に入れられる巨大な市場になっています。 例えば日本では高値の南国フルーツのドリアンやマンゴーも、カルボンマーケットでは驚くほど安く買うことができます。 朝と夕方は食材を求める人たちで大賑わい。 地元の人々の生活を感じられるカルボンマーケットは、一度は見ておきたい観光スポットの一つです。 市場と言えば新鮮でおいしい食品が多く、金額も安くて活気があるというイメージがあります。 16:00ホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 24日6:30タクシーで出発、空港に向かう。 7:00マクタンセブ島空港到達 9:15マクタンセブ島空港フィリピン航空で出発 14:25関西空港到達。 今回の旅行、日本から直行便で5時間、ビーチリゾートや山岳の避暑地、歴史的町並みなど魅力的な場所が多いフィリピンに足を運び、歴史が色濃く残るフィリピン最古の都、セブシティを訪れ楽しみました。 セブ島と言えば優雅なリゾートビーチ、今回はビーチには訪れないでセブシティのスペイン支配下の歴史的建造物観光名所を歩いて訪れました。 町は地方の田舎町風でこれから発展を期待しています。 高温多湿のセブ島、コロナウイルスの影響は少なく、マスクを着けている人は見られません。飛行場で日本人を含めて外国人はマスクを着けている方は多かったです。 飛行機も満席で、中国など他のアジアの国の旅行をキャンセルして、安全なセブ島に変更した方が多かったようです。 私も中国に渡航予定でしたがセブ島に変更しました。 尚セブ島の入国審査で時間を要しパスポート番号をインターネットで詳細に調べられました。以前マニラに渡航した時の入国審査も時間を要し、別室に連れていかれ持ち物を入念に調べられました。今回は持ち物は調べられませんでしたがインターネットでパスポートを詳しく調べられました。おそらく短期間で多くの外国を訪れ、多くのスタンプがパスポートに押されていたため、不信感を抱き、調べられたのでしょう。フリピンは麻薬の密輸等犯罪が多い国ですので入国審査が厳しいです。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百六弾:中国東莞観光 2020年1月11-13日 アジアの大陸、中国に足を運び、唐代の757年に、番禺(広州)の東にある、「莞草」の産地として「東莞」と名付けられた。 改革開放前は現在の市域の多くは赤土が広がる貧しい農村だったが、1980年代末から広州と深?、香港の中間に位置することから、香港企業、台湾企業の委託加工先や工場建設の好適地として、衣料品、日用雑貨、玩具、電子製品、パーソナルコンピュータまで、重工業以外の各種工場が林立する工業地帯に変貌した。特に、パソコン部品は世界の供給拠点として重要な地位を占める。また、輸出に必要な包装用段ボールを製造するための製紙工業もさかんで、中国最大の工場群もある。 農業では稲作の他、野菜栽培が盛んで、香港、広州、深?などへの重要な供給基地のひとつとなっている東莞を訪れました。 11日17:05関西空港香港航空で出発 20:35香港空港到達、エアポートエクスプレス、メトロで佐敦駅下車、付近のホテル到着後就寝。 12日7:00タクシーで西久龍駅に向かう。 7:15西九龍駅到達。 8:25西九龍駅高速鉄道で出発 9:09虎門駅下車、観光 威遠砲台:中国珠江出口穿鼻洋北武山の麓に位置している。威遠砲台は全部で大砲40門を取り付ける。かつて広東水軍提督関天培は血を浴びて奮戦する地方、遺跡はまた保存している。威遠砲台はアヘン戦争の古い戦場の遺跡のひとつで、虎門海口国防事務の主な陣地である。砲台は雄大壮観で、平面日月形を呈している。アヘン戦争時期に虎門炮台の中で規模が最大、砲を配合するのは最も多い指揮台である。民族英雄関天培はこの砲台の中で広東水軍が英国侵略軍の侵攻を英勇に抵抗することを指揮する。 アヘン戦争博物館:林則徐は、清末期の1839年、密輸により国に蔓延していたアヘンの取り締まりを行う特命大臣として、イギリス商人からアヘン1400トンを没収し、廃棄した。1840年、このことが引き金となってイギリスとの間でアヘン戦争が勃発し、2年後に清国は敗退。南京条約により香港の割譲などを余儀なくさせられた。林則徐はこの責任を取らされて新疆に飛ばされたが、3年後に復帰。再び、特命大臣として任地に赴く途中、65歳で病死した。林則徐は屈辱の象徴として、中国全土で英雄になっており、至る所に「林則徐記念館」が建てられている。特にマカオではポルトガル役人との会談を行った場所として、蓮峰廟の敷地内に記念館があり、アヘン戦争勃発までの歴史をわかりやすく紹介している。 13:00メトロ虎門出発 13:30鴻福路駅下車、バスで可園に向かう。 可園:東莞市の莞城にある可園は、典型的な嶺南様式の庭園で、広東の四大庭園の1つとされています。小さな庭ですが、細部まで行き届いたデザインで、伝統的な嶺南庭園の要素が数多く見られます。アートギャラリー、迎賓館、ヴィラ、中庭、庭と書斎、多くのユニークな建物があります。可園を背景に、湖岸の右側に博物館があります。嶺南様式の建物と伝統的な嶺南の絵画を見ることができます。可園は清王朝の四大名園のひとつです。 虎門市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 13日9:00ホテル出発 メトロで虎門駅乗車、西九龍駅到達。 西九龍駅12:35高速鉄道で出発。 13:14西九龍駅到達。 九龍駅到達、エアポートエクスプレスで香港空港に向かう。 15:30香港空港到達。 18:15香港空港、香港航空で出発。 22:50関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸中國に足を運び、アヘン戦争の戦場の中心となった東莞を訪れ、アヘン戦争の歴史を学びました。 アヘン戦争:清との貿易で輸入超過に悩んだイギリスは、解決策としてインドで栽培製造したアヘンを密輸し、その結果、中国にアヘンが蔓延し、社会が退廃した。林則徐はアヘンの根絶を目指した。これを契機にアヘン戦争が勃発し、戦争に敗れた清朝はイギリスに屈服した。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百五弾:ベナン・トーゴ・ガーナ観光 2019年12月27日-2020年1月4日 アフリカ大陸の西アフリカに足を運び、かつて奴隷貿易で繁栄した国、近年は市場経済を導入、そして民主化の実現で国内は安定し貧困削減に力を入れているベナン、東日本大震災後に木材を提供した親日国、独裁体制が世襲されたが政情は安定した国トーゴ、チョコレートなどの原料となるカカオの原産としてまた、黄熱病の研究者として世界的に有名な野口英世最期の地であるガーナを訪れました。 27日15:30伊丹空港日本航空で出発 16;35羽田空港到達、バスで成田空港に向かう。 18:20成田空港到達。 20:40成田空港エチオピア航空で出発 23:20ソウル仁川国際空港到達。 28日00:20ソウル仁川国際空港エチオピア航空で出発 7:20アディスアベバ空港到達。 8;55アディスアベバ空港エチオピア航空で出発。 12:55ベナンコトヌー空港到達、バスでガンビエに向かう。 ベナン:フォン人の居住エリアに、ダホメ王国が成立(17世紀)。ダホメ王国はヨーロッパ商人との奴隷貿易を主な収入源にして銃火器を輸入、18世紀を通して周辺の国を軍事的に攻撃して繁栄した。ダホメ出身のフォン人奴隷は、アメリカ大陸のフランス領の黒人奴隷共同体の中で文化的中心となり、奴隷の子孫であるのトゥーサン・ルーヴェルチュールがハイチ革命を担うなどの出来事があった。 19世紀に入り、ヨーロッパ諸国のアフリカ分割と奴隷貿易の廃止のため、財政が破綻、最終的にはフランスによって1894年に征服、植民地となった。 1960年にダホメー共和国として独立。しかし42の民族集団が存在するためか、民族抗争が続き政情は動揺、クーデターも頻発した。1972年の5度目の政変でマチュー・ケレク政権が成立。ベナン人民共和国として社会主義路線を標榜し中国に近づく。後、ケレク政権は経済運営に失敗し、1990年代の社会主義陣営の崩壊を受け1990年にベナン共和国に改称、複数政党制、三権分立、大統領制を導入し2名の歴代大統領を選出、ヤイ・ボニ大統領が現職の3代目。 国民の大半が農業に従事する農業国で、綿花、パームオイル、トウモロコシなどが栽培されている。 ガンビエ:ベナン南部のアトランティック県の都市。 人口は約4.5万人。大西洋岸に近い潟湖であるノコウエ湖の上に広がる水上都市である。 アフリカ最大の水上都市であり、アフリカのヴェネツィアとも呼ばれ、経済首都コトヌーに近いこともあって多くの観光客が訪れる。 ガンビエは16世紀から17世紀にかけて、トフィヌ人によって建設された。 水上に都市を建設した理由は、当時は奴隷貿易の時代であり、この地方も内陸部にあるダホメ王国のフォン人の戦士によって常に奴隷狩りの危険に脅かされていたため、安全なラグーンの中に移住したためである。 家は浅い湖の中に立てられ、家々の間の行き来は船によっておこなわれる。 生業はもともとは近隣での農業であったが、現在では漁業及び養殖が主産業となっている。 ガンビエは1996年10月31日、世界遺産の暫定リストに登録された。 コトヌー市内観光 コトヌー:ベナンで最も人口が多く、外交や経済の中心となっているコトヌーは、事実上ベナン共和国の首都として機能しています。近隣諸国からの往来が交差する地点にあることから商業の中心地となり、内陸アフリカの貿易において重要な役割を果たしています。にぎわわいだサンミシェル大通りやダントプカマーケットなど見どころ。 ダントッパ市場:ベナン最大の市場。布、洋服、飲食物、闇両替まであり、とにかく人とモノに圧倒される。ナイジェリアからの買い物客もいる。 18:00コトヌー市内のホテル到達。 19;00ホテルで夕食 22:00就寝。 29日7:30バスで出発、アボメイに向かう。 アボメイ:アボメイはベナンの北中部のズー県の県都。 2012年の人口は9万195人だった。 かつてのダオメ王国時代には首都であった。 1625年頃、ダオメ王国が建国され、アボメイに首都が置かれた。 17世紀半ば~19世紀後半、フォン族が土製建造物群であるアボメイの王宮群を建てた。 1892年11月、独立国としてのダオメ最後の王ベアンザン(Behanzin)はフランス植民軍に敗れ、町に火を放った上で北に逃れた。 フランス植民軍は町を再建し、海岸と鉄道で結んだ。 1985年、「アボメイの王宮群」がUNESCOの世界遺産に登録された。 町は長さ約10kmと見積もられている円形の泥の壁と6つの門に囲まれ、西アフリカでの要塞防衛としては普通に見られたアカシアの密生した1.5mの深い溝に守られている。 壁の内側に集落があり、王宮や市場、バラックの並ぶ大きなスクウェアなどがある。 首都機能を失った現在も、観光客が訪れる。 王宮博物館:トーゴとナイジェリアに挟まれたアフリカ西岸の細長い国ベナン。2017年現在、この国で唯一の世界遺産が「アボメイの王宮群」です。 現在のベナンの南部地域には、17~19世紀にかけて地元アフリカ人によるダホメ王国が存在していました。その都だったのが、ベナン内陸の町アボメイ。かつては長さ10kmほどにわたり、土製の壁と門が町の周囲を巡り、その内側には12の王宮があったとされています。 1985年に登録され、竜巻被害により危機遺産にも入れられていましたが、ベナン唯一の世界遺産として同国が修復を進め、現在では観光名所として復活しています。 ウィダー:アボメイはベナンの北中部のズー県の県都。 2012年の人口は9万195人だった。 かつてのダオメ王国時代には首都であった。 1625年頃、ダオメ王国が建国され、アボメイに首都が置かれた。 17世紀半ば~19世紀後半、フォン族が土製建造物群であるアボメイの王宮群を建てた。 1892年11月、独立国としてのダオメ最後の王ベアンザン(Behanzin)はフランス植民軍に敗れ、町に火を放った上で北に逃れた。 フランス植民軍は町を再建し、海岸と鉄道で結んだ。 1985年、「アボメイの王宮群」がUNESCOの世界遺産に登録された。 町は長さ約10kmと見積もられている円形の泥の壁と6つの門に囲まれ、西アフリカでの要塞防衛としては普通に見られたアカシアの密生した1.5mの深い溝に守られている。 壁の内側に集落があり、王宮や市場、バラックの並ぶ大きなスクウェアなどがある。 首都機能を失った現在も、観光客が訪れる。 ブードゥー教の聖地であり、また奴隷貿易に関する史跡が数多く残る町。奴隷貿易が行われていた時代は、ベナンを始め、南サハラからの多くの奴隷が、このウィダから船に乗せられ、北アメリカやカリブ諸島、ブラジルなどに連れていかれた。ベナンの文化や歴史を知るにはぜひとも訪れたい場所の一つである。 奴隷街道:かつて奴隷達が大西洋岸の船着場まで歩かされた道で、現在は海岸や帰らずの門へのアクセスルートになっている。 忘却の木:現在は木が無くなっており、石碑があるのみ。木のまわりを男は9回、女と子供は7回ると、過去の全ての記憶を忘れることができると言われていた。 ゲート・オブ・ノー・リターン:奴隷街道の終点、「帰らずの門」。門は1995年に建設された。かつては、この海岸から小船に載せられ、沖合いに停泊している大型船に乗せられ、アメリカ大陸やカリブ諸島へと連れて行かれた。 ウィダー博物館:もともとはポルトガルの要塞だった建物を、現在は博物館として公開している。奴隷貿易に関する資料と、奴隷としてブラジルやカリブ諸島に渡った人たちに関する資料を展示している。 ブードゥの聖なる森:ブードゥー教の神々がまつられている森。摩訶不思議な姿をした「神様」が何十体も並べられている。中には、ジブリのアニメ「天空の城ラピュタ」に出てくるような金属ロボットの姿をした神様までいる。 トーゴの首都ロメに向かう。 ロメ到着 トーゴ:アフリカにトーゴ共和国という小国がある。在留邦人が数人しか居ないので、あまり馴染みのない国だ。しかし、2011年の東日本大震災時、いち早く日本に駆け付けた大統領はトーゴの大統領である。宮城県仙台市を訪れ、復興支援としてチーク材が贈呈されている。 トーゴ共和国は西アフリカ地域に位置し、ヨーロッパから6時間のフライトで到着する。西にはガーナ共和国、東にはベナン共和国、北にはブルキナファソがある。660kmに広がった通路のような形をしていて、南は50kmに渡って大西洋に面している。面積は54,390?で、日本の面積の7分の1程度。熱帯性気候であり、南東に吹くモンスーンと呼ばれる海洋風により雨がもたらされ、またハーマタンという乾燥した風によって夜は寒く日中は暑くなる。全土において平均気温は20度で、わたしが生まれた京都よりも遥かに過ごしやすい感じがある。 ロメ:トーゴの首都ロメは、南北に細長い国土の南端、ギニア湾に面して広がっています。同湾内では安定した水深が得られることから、コーヒー豆やカアオ、コプラ、パームヤシなどの輸出港として発展しています。ロメ空港は市街のど真ん中にあり、アフリカの西岸の都市としては、比較的アクセスのしやすいところ。とはいえ直行便はないので、アジスアベバやパリなどを経由する必要があります。 19:30ロメ市内のホテル到着 19:30夕食 22:00就寝 30日8:30バスで出発 ロメ市内観光 独立広場:ロメの議事堂前に堂々と建つ独立記念碑。トーゴが1960年4月27日にフランスから独立したことを記念してつくられたモニュメントです。 人間の形に穴の開いた碑板の向こうに、もう1つ別の銅像が見えるという独特のデザインをしていて、ロメの観光撮影スポットとして人気です。 周囲は広々とした公園になっているので、ロメ観光の休憩ポイントとしても利用できます。 ブードゥー市場:「ロメ」とは現地の言葉で「小さな市場」という意味ですが、それとは真逆に、ロメの観光名所の筆頭に挙がるのは、アフリカでも有数のグラン・マルシェ(大市場)です。 ロメ大聖堂から南に延びるブールヴァール沿いに、さまざまな日用品や雑貨などを売るお店が立ち並んでいます。購入はしなくても、雰囲気を楽しみながら歩いているだけで、ロメの良い観光の思い出になりますよ。 また、勇気のある人は、同じくロメ市街のアコデッセワ地区にあるフェティッシュ市場を訪ねてみてください。ここは、ギニア湾北岸地域の民間信仰ブードゥー教に関するグッズが何でもそろうところ。ヤギやコウモリ、ネズミ、イヌetcetc...たくさんの動物の頭蓋骨や干物など、魔術や儀式の材料が所せましと並べられています。 国立博物館:ロメの海浜沿いにあるギニア湾国際博物館。国立ではなく、スイスの実業家が建設した私立の博物館です。 こじんまりとしていますが、ギニア湾交易の歴史に関する資料が充実していますよ。ほかにも、アフリカの民族アートの作品などが展示されていて、ロメやトーゴの歴史と民俗について学べる観光スポットです。 ガーナ首都アクラに向かう。 ガーナ:ガーナ共和国(ガーナきょうわこく)、通称ガーナは、西アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。東にトーゴ、北にブルキナファソ、西にコートジボワールと国境を接し、南は大西洋に面する。首都はアクラ。 脱植民地化が活発であった最中の1957年に、サハラ以南のアフリカにおいて初めて現地人が中心となってヨーロッパの宗主国から独立を達成した国家である。イギリス領ゴールド・コーストと呼ばれていたが、独立に際して国名をガーナに変更した。初代大統領ンクルマは、アフリカ統一運動を推進したことで有名。ダイヤモンドや金を産出する。カカオ豆の産地としても有名。2010年12月から沖合油田で原油・ガス生産が始まり、国際的に大きな注目を集めている。 アクラ:アクラは、アフリカ西部ギニア湾に面したガーナの首都。海岸から20 kmほど内陸まで都市が広がる。 2012年の統計によると人口は2,291,352人。ガーナ最大の都市であり、政治、経済、通信、交通の中枢である。 20:10アクラ市内のホテル到着 20:30夕食 22:00就寝 31日7:30バスで出発 ケープコースト城塞:海に面した街のケープコーストは、当時の奴隷貿易拠点のひとつでした。ここから黒人奴隷がヨーロッパへ輸出されていたのです。ケープコースト城は「ヴォルタ州、グレーター・アクラ州、セントラル州、ウェスタン州の城塞群」として、ユネスコの世界文化遺産に登録されています。 ガーナの沿岸部には、イギリスやオランダをはじめとするヨーロッパ諸国が建造した西洋式の城塞群が現存しています。ケープコースト城はその城塞群のうちで、最も有名なものです。ケープコースト城は、1653年にヨーロッパの商人によって建設されました。当初は木造建築でしたが、1663年に石を用いて再建築されました。 もともとは金や木材の貿易のために建設されたものでしたが、18世紀頃になると、奴隷貿易の拠点として使われるようになりました。 エルミナ:ガーナ南部,ベナン湾岸の町。ポルトガルの交易所として建設され,1482年にはセント・ジョージ要塞が築かれた。この要塞を中心にポルトガルはエルミナ植民地を形成し,同地域の貿易を独占。その後 15世紀末から 18世紀にかけて,オランダ人,イギリス人,デンマーク人,スウェーデン人らによって同様の植民拠点がベナン湾一帯,約 500kmにわたり設けられ,世界でも類をみない一連の交易所群を形成した。ヨーロッパの物品を金,象牙,香辛料などと交換し,のちには奴隷貿易の中心となった。スウェーデン人はケープコーストに,デンマーク人はアクラに,オランダ人,イギリス人はセコンディタコラディにそれぞれ城塞を築いた。現在,博物館,刑務所,学校などとして利用されているこれらの城塞跡は,1979年世界遺産の文化遺産に登録。 セントジョージ城塞:エルミナの街は3.3万人居住。1471年ポルトガル人が上陸。1482年この要塞を作ります。初めは、奴隷貿易でなく金・象牙貿易で平和的でここはその倉庫であった。1492年、コロンブスもここに3日間滞在し、ここからアメリカに行きました。1672年オランダ人がポルトガル人を追い出し、奴隷貿易を始めた。1872年イギリス人の城壁となった。ポルトガル155年 オランダ235年 イギリス85年と支配されていました。 21:00ホテルで夕食 22:00就寝 1日9:30バスで出発 アクラ市内観光 ノグチ・メモリアル・ガーデン:西アフリカの中でもガーナの人々がとりわけ親日的なのは、野口英世のおかげで、その野口英世が黄熱病の研究をしていた場所が、ガーナ大学医学部付属病院の敷地内にあり、今でも細菌の研究が行われている。その一角には「野口メモリアルガーデン」があり、日本庭園には銅像も建っている。 ガーナ大学病院はかなり大規模な病院。その一角に日本庭園があり、ドクター野口の銅像が建っている。 ガーナ大学内の野口記念医学研究所:ガーナの首都・アクラのコレブ地区にある野口記念医学研究所を訪ねました。野口英世といえば、あの1000円札の偉人ですが、アクラでの黄熱病研究の最中、 自らも黄熱病に倒れ51歳で亡くなりました。彼が研究に力を注いだ研究所はコレブ病院として現代に受け継がれています。 棺工房:アフリカ西部にあるガーナ共和国のガー族は、巨大な魚やミシンなど、生前の生活を象徴するさまざまな形の棺で死者を弔う。最近は、ベンツや、ナイキのスニーカーの形をした棺まで登場している。シンプルな四角い棺など、もはや時代遅れだ。アフリカ西部にあるガーナ共和国のガー族は、過去約50年間にわたり、「空想力あふれる棺」をデザインして死者を弔ってきた。 この永眠の場所は、中に眠る人を象徴するように作られている。漁師なら木製の巨大な魚の中に横たわり、「お針子」ならミシンの中に入れられるといった具合だ。 西洋諸国からガーナへの輸入量が増加し続けるのにともない、この空想力あふれる棺に現代的な要素がより多く取り入れられ、さらにお金がかけられるようになってきた。 今日では、メルセデスベンツや、ここに挙げたナイキのスニーカー(写真はブルックリン美術館で撮影したもの)のような棺もある。 この風習は首都アクラの郊外にあるテシという町で1951年から始まり、最初は飛行機の棺が作られた。美しく着飾った故人を入れた棺を皆でかつぎ、賑やかに練り歩く葬儀が盛大に行なわれるという。 初代大統領エンクルマの霊廟、エンクルマ記念公園:ガーナの首都アクラにある霊廟。ガーナの独立運動の指導者で初代大統領に就いたクワメ=エンクルマの墓がある。ギニア湾を望むエンクルマ記念公園内に位置する。 夕食:中華料理 2日バスでアコラ市場 アコラ市場:マコラマーケット(Makola Market)は首都アクラで最大のマーケットです。市民生活のためのマーケットは、「ガーナ経済の心臓」とも言われています。いつも人々の熱気と、強烈なにおいと、騒音に溢れるとてもアフリカらしい場所です。エネルギッシュなガーナを全身で感じることができます。 お土産に人気のアフリカ布を買い求めるなら、ぜひ品揃えの豊富なマコラマーケット。 12:20アクラ空港エチオピア航空で出発 21:00アディスアベバ到着 22:35アディスアベバエチオピア航空で出発 3日15:45ソウル仁川国際空港到達 16:50ソウル仁川国際空港エチオピア航空で出発 19:40成田空港到達、成田」エアポート空港ホテル宿泊 4日7:00バスで羽田空港に向かう。 10:30羽田空港日本航空で出発 11:40伊丹空港到達 今回の旅行、アフリカ大陸の西アフリカに位置するベナン、トーゴ、ガーナに足を運び、7泊8日の旅、満喫しました。 観光名所は奴隷貿易に関連した数か所の施設と野口英世のゆかりの研究所などで多くなく、ゆっくり時間をかけて訪れることができました。 奴隷貿易は黒人の自由を奪い、短い人生を、過酷な労働に導き、アウスピッツ収容所よりも悲惨な出来事して受け止めました。また黄熱病を研究した野口英世はアフリカ諸国に多大な貢献を与えたことが勉強になりました。 これから発展途上の西アフリカの国々、多産系で人口も急速に増加傾向、中国が進出し、急速に発展しているアジアの国々の影響を得て今後の発展が期待できる国々が目白押しです。楽しみです。 まずはどの国も人口増多による、道路の渋滞、早く鉄道等、インフラの整備充実に力を入れて観光客が訪れやすく、観光しやすくしていただきたいです。期待しています。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百一弾:中國珠海観光 2019年11月23-24日 香港空港からフェリーで1時間に位置しマカオと隣接している広東省南部の都市・珠海(しゅかい)。珠江を挟んだ東岸には深圳や香港があり、晴れた日には香港のランタオ島を望むこともできます。人の行き来が盛んでいつも賑わっているのが特徴。一方で、活気ある街を少し離れると、そこは美しい海と山に囲まれ豊かな自然が広がっています中国の珠海を訪れました。 23日8:15関西空港香港航空で出発 11:50香港空港到達 14:10香港空港フェリーで珠海九州港に向かう 15:20九州港到達、バスで北東部に向かう。 海濱公園:「珠海海濱公園」は海と山の両方に恵まれた観光スポットです。海のすぐ傍なので海岸へ降りることもできますし、後ろには石景山公園があるので軽い山登りをすることもできます。公園内は芝生が広々と広がり子供たちが走り回るにはぴったり!ファミリーでの珠海観光にはおすすめです。 石景山公園:石景山公園は珠海市の山の上にある公園です。山頂まではリフトで上り下りします。山頂にある公園には大きな石がたくさん置いてあり、それぞれに赤い文字で「福」などと書かれているので御利益が感じられるスポットです。公園からは珠海の海が一望でき、天気の良い日はお散歩にも気持ちの良い公園です。 17:30バスで南部のホテルに向かう。 18:10ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 24日7:30歩いて出発、繁華街に向かい散策。 拱北口岸:中国珠海市とマカオ特別行政区の間にある入国審査場のことです。ここには大きなショッピングモールが併設されていて、中国人や観光客たちの買い物場所としても有名なところです。ショッピングセンター内には飲食店や雑貨屋の他、ネイルサロンやマッサージ店もあります。 8:30バスで北西部に向かう。 梅渓牌坊:梅渓牌坊は珠海市前山鎮の冲梅渓村にあり、面積は12万6千㎡です。 中国初代ハワイ領事であった陳芳の故居、陳家花園、梅渓石牌坊、陳芳家族墓園から構成され、これらを中心とした観光地です。 陳芳は1825年この地に生まれ、1849年伯父と共にハワイに渡りました。独立し精糖業により成功を収め中国人ミリオンダラー第一号となり「商業界のプリンス」と呼ばれました。ハワイ国王の義妹を妻とし、1881年清光緒帝により初代駐ハワイ(夏威夷)領事に任命されました。1890年故郷に戻り、1906年マカオにて死去、梅渓に埋葬されました。 ここには陳芳家史展、珠海名人蝋人形展などの展示があります。 円明親園:北京の「圆明园」をモデルに1997年に作られた圆明新园は、無料で楽しむことができる観光地です。中国一、世界一の観光地を目指して建設が進められたそうで、過去にはドラマや映画の撮影地としても利用され、今でのおおくの観光客が訪れる人気スポットとなっています。 11:00タクシーで九州港に向かう。 12:30九州港フェリーで出発。 13:50香港空港到達 18:15香港空港香港航空で出発 21:30関西空港到達。 今回の旅行、香港空港からフェリーで1時間に位置する中国珠海を訪れ楽しみました。観光地はあまり多くなく、1泊2日で朝からの出発で十分名勝を訪れることができました。街並みは整備され道路も広く、高層ビルも多く、新しくできた町のようです。 香港デモで香港市内はリスクが高い、航空機の乗客もいつもよりは少なめ、香港市内を経由しないでリスクの少ない香港空港からフェリーで1時間近場の中国珠海でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十八弾:台湾台東・花蓮観光 2019年11月2-4日 沖縄の南方、親日で有名な国、台湾に足を運び、台湾の東方面に位置する台東、花蓮を訪れました。 2日17:45関西空港EVA AIRで出発 20:05台湾空港到達、MRTで台北経由して西門下車、駅から10分のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 3日6:30出発、西門からMRTで台北に向かう。 11:10台東駅到達。 台東:台東市は古くは「宝桑庄」と呼ばれ、卑南族と阿美族が定住していましたが、清代に福建人と平埔族が入植しました。後に枋寮の閩南人が原住民と交易するため移住し、台東地区で初めての漢族集落が形成されました。「宝桑」には台東各地の芸術文化が集まり、好運なことに自然が豊かな台東には、各民族の文化が完全な形で残り、独自に発展し、平和に共存しています。ここは文化と芸術の息吹に満ちた土地なのです。 卑南文化公園:広大な芝生と林の中に小道があり、静かで神秘的な雰囲気を漂わせています。1980年に南迴鉄路台東新駅と操車場の工事で遺跡が発見され、多くの石板棺が発掘されてメディアの注目を集めました。これがきっかけとなり、遺跡保存が進んだのです。その後10年にわたり、約1,500個の石板棺と2万点余りの石器、陶器が出土し、大量のヒスイの副葬品も見つかりました。また非常に珍しい、住宅と構造が完全な墓葬も発掘され、台湾考古史上で最も完全な考古遺跡といえるでしょう。研究によれば、この遺跡は2,000~5,000年前の新石器時代の卑南文化人の村落で、東南アジアと環太平洋地区で最大の石板棺葬墓群ということです。埋葬の方角はやや南北寄りで、聖なる山-都蘭山に向かっています。かつて集落の中心だった月形石柱は一級古跡に指定され、永遠のランドマークとされています。二階建ての木造展望台に上れば、台東平原と太平洋を一望でき、展望台下には、当時この展望台を建てる時に出土した3つの石板棺が復原されています。今でも発掘作業は進行中で、考古現場区で発掘の様子をその目で確かめることができます。またはビジターサービスセンターでは、遺跡の発掘過程と成果の展示を見学することができます。 バスで旧市街地に向かう。 台東鉄道芸術村:80年の歷史を誇る台東旧台鉄駅は、日本式鉄道文化の素朴な風貌を完全に保存しています。ここが化粧直しの末、鉄道芸術村に生まれ変わりました。古びた記憶に新たな芸術の命を吹き込み、空間と人との関わりを活発にします。ここは文化的雰囲気を備えた観光スポットです。 鯉魚山公園:鯉魚山は台東平原上にある海抜75mの独立した丘です。見た目がコイに似ているため、この名が付けられています。高くはないですが、山頂からの眺めは最高で、台東市内を俯瞰でき、しかも木々が密生し、古風な雰囲気が漂う台東市最大の緑地公園です。後の山には数本の登山道が完備され、市民が毎早朝、健康づくりに励んでいます。山の麓には鯉魚山公園、龍鳳仏堂、龍鳳宝塔、忠烈祠があり、これらがつながり、敷地面積22haの鯉魚山風景区を形成しています。八層の龍鳳宝塔は八角形をし、突出した外観が鯉魚山のランドマークとなっています。ここには、宝塔の建設過程で発掘された新石器時代卑南文化の石板棺、生活文物等が収蔵されています。 台東サイクリングロード:旧鉄道芸術村から台東新駅までの間の旧鉄道に沿って敷設された枕木道は、台東市民にとって大切な散步空間で、心地よい風景が楽しめる自転車路線でもあります。沿路住宅の外壁は美しい壁画で飾られ、この自転車の旅のため物語を編み出してくれているかのようです。疲れたなら、おしゃれなイスで休息しましょう。爽やかな風に吹かれ、花や木が揺れています。運動するお年寄り、散步するイヌまでもが、田園風景画の一こまのように思えてくるでしょう。台東森林公園内には黒森林環湖サイクリングロードが設置されています。路線の大部分は舗装されており、広々と平坦なため、親子でのサイクリングにもいいでしょう。森林公園の入口から走れば、苗床を通り、うっそうと茂る林間を過ぎ、静かな琵琶湖に出ます。湖の畔にはバードウォッチング小屋があり、ここから水鳥を観察することができます。全長約21kmのこの路線は台東山海鉄馬道と呼ばれ、台東の山、海を網羅し、原住民文化を内包します。サイクリングロードと観光スポットをつなぎ、台東市を一周するサイクリングロードネットワークとなったのです。 台東糖廠:1913年に建てられ、日本統治時代には「台東製糖株式会社」に属し、1943年には明治製糖株式会社に合併されました。その後、1946年に國民政府により管理が受け継がれ、「台東会社台東糖廠」と名前を変更しました。1957年にはパイナップル工場も併設し、東部のパイナップル事業の基礎を築きましたが、環境の変化などから1996年に操業を停止しました。その後ここを「文化創意産業園区」とし、主に台東の芸術家などのアトリエとして使用され、商品も販売しています。 17:00台東駅到達。 17:50台東駅出発。 19:15花蓮駅到達、駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 4日6:30花蓮観光 花蓮:東海岸の大都市・花蓮は、大海原の太平洋に面し、背後には“台湾の背骨”ともいわれる3000m級の中央山脈が迫る自然豊かな絶景の街。阿美族を筆頭とする先住民が住む地で、19世紀半ばに訪れた漢人が渦巻く激しい波の海を見て「洄瀾」と名づけたといわれています。その発音に近い名に改められたのが、現在の名「花蓮」。 日本統治時代には、日本人が港を築き商業港として発展。日本人移民の玄関口となったため、今でも日本文化の痕跡がそこここに感じられる身近な都市でもあります。 観光としては、先住民の舞踊を観賞できる「花蓮阿美文化村」や日本統治時代の遺構「松園別館」など、花蓮の特徴となる先住民や統治時代の日本のカルチャーにふれられる場所。また世界遺産級の「太魯閣溪谷」への玄関口となっているほか、台湾リピーターが増えた現在では、絶景を求めて近郊のビーチ「七星潭」や金針花という花の名所「六十石山」、エメラルドグリーンの湖「鯉魚潭」など穴場のフォトジェニックスポットを訪れる旅行者も増えています。 将軍府:日本時代、花蓮港陸軍兵事部部長の宿舎だったところで、第一人者は川崎明徳大佐、次は南英輔大佐、3人目でかつ最後の主となったのは中村三雄大佐でした。大佐は台湾では陸軍上校にあたります。 建物は、1936年(大正11年)に建てられ、周辺は今、日本式家屋群と呼ばれ、当時の幹部クラスの人たちの宿舎でした。戦後は国民党軍の人たちの住居となり、ヒノキ作りの中村大佐の建物が、将軍府(将軍の家)と呼ばれたのもその頃です。 2005年に花蓮県の歴史的建造物に指定されたことから撤去は免れたものの、その後、定期的な補修やメンテナンスを行ってこなかったため、台風で壊れたところはそのまま放置されたり、侵入者にドアを持っていかれたり、各所が破壊されました。2010年になって今の状態を回復したそうです。 現在は民生社区のコミュニティの方たちが、「将軍府と日式家屋群」の庭や中に入れるところの掃除を行っています。そのため、植木もきれいに刈り込まれ、靴を脱いで上がる建物も2戸あります。 松園別館:旧日本軍の軍事施設として、1943年に建てられた洋館ふうの建物。小高い丘に建てられた2階建てのこじんまりとした施設ですが、庭の松林が気持ちよく、2階からは花蓮港や街並みを見下ろすことができます。2001年には台湾の歴史百景のひとつに指定されました。花蓮駅から車で10分程度です。 花蓮鉄道文化園区:台湾東部にある花蓮市の観光スポットです。花蓮空港からは7.7km、車で18分ほど、花蓮駅からは徒歩30分ほどのところにあります。 鉄道関連施設を公園にした場所で、周囲には東大門観光夜市などもあり、夜には食事も楽しめるのがポイント。古い駅舎や職員の事務所、噴水池、警務所などからなる観光スポットで、見どころ満載となっています。SL機関車は人気の写真スポットで、家族連れでも楽しめます。 レトロな雰囲気が味わえるため、当時の暮らしに触れられるのも魅力の1つ。台湾の歴史を発見できる絶好の観光スポットと言えます。 東大門夜市:台湾の東にある花蓮県花蓮市の市場です。花蓮空港からは8kmほど、車で20分くらいのところにあります。 タロコ渓谷の玄関口とも呼ばれている花蓮市にある観光スポットのため、多くの観光客が訪れるのがポイントです。B級グルメやローカルグルメを提供するお店が並んでいる通りとなっており、安くて美味しい料理が堪能できるのが特徴。 「原住民一條街」、「自強夜市」、「各省一條街」、「福町夜市」の4つのエリアに分かれており、グルメだけでなく、ゲームコーナーも充実しています。ショーを行うこともあり、盛り上がりを見せる観光スポットです。 花蓮文化創意産業園區:日本統治時代に創建された酒造工場をリノベーションした施設です。花蓮文創園區と略称され、a-zoneの愛称も付けられています。 1895(明治28)年、台湾が日本に割譲されると、日本軍は6月に早くも花蓮に進駐しました。1909(明治42)年には花蓮港庁を設け、花蓮地域の本格的な開発を始めました。台湾総督府は1907(明治40)年には酒造法を設けて酒に課税を開始していて、この制度に呼応するように1913(大正2)年、宜蘭振拓会社により、現在地に酒造工場「花蓮港工廠」が設立され紅酒、米酒の生産が始まります。1922(大正11)年には酒は専売制となり、工場は大きく発展します。 ところが、第二次世界大戦の1944(昭和19)年に工場は米軍による空襲を受け、工場の3分の2が被災する大きな損害を被りました。日本の統治終了後、工場は台湾省菸酒公売局のもとで再建され、1947年酒類の生産を再開しました。1951年にはM6規模の大地震に見舞われ多くの建物と製品に損害が発生しています。そして1988年、美崙に新工場に建設されると、70年余り続いた酒類の製造に幕を下ろし、工場はその役目を終了しました。 2002年に、工場跡地を「花蓮創意文化園區」として利用することが決定され、事務棟、倉庫、工場、宿舎などが順次修復整備され、2012年から公開が始まりました。 花蓮文創園區には3.3haとう広い敷地に26棟の工場建物、6棟の宿舎建物が立ち並んでいます。工場、倉庫、食堂、事務所、宿舎など、建物の使用目的や建築年代に違いがあって、建物のデザインだけを見て歩いてもおもしろいのですが、それぞれの建物がレストランやカフェ、ショップ、展示場、イベント会場など様々な目的で使われているので、内部まで見ているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。 12:00花蓮駅出発、台北に向かう。 14:15台北駅到達、MRTで台湾空港に向かう。 15:30台湾空港到達。 17:40台湾空港EVA AIRで出発 21:05関西空港到達。 今回の旅行、沖縄の南方に位置する台湾に足を運び、台湾の東部に位置する台東、花蓮を訪れ楽しみました。 台湾東部の観光地は台湾鉄道を利用して訪れますが台湾鉄道の特急券手に入れるのが難しい、以前何回か失敗して訪れることができませんでしたが今回は運よくチケットを手に入れることができ訪れることができました。 台東。花蓮とも市街地に点在する観光名所巡りでしたがビッグな観光名所はどちらも郊外に位置しており、数少ない市街地観光名所で数時間で観光が終了しました。 台東では時間を費やすため旧市街地は行はバスで帰りはサイクリングロード6.4kmを歩いて台東駅に戻りました。 花蓮は市街地観光後余った時間はチェックアウトまでホテルで過ごしました。 台東、花蓮とも田舎の寂れた町でもう少し時間を取り郊外にある観光名所を巡るべきですね。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十二弾:中國泰安観光 2019年9月21-23日 アジアの大陸中国に足を運び済南から高速鉄道で60分の位置にある泰安を訪れました。 泰安:中国、山東(さんとう)省西部の地級市。魯中(ろちゅう)山地の西方、大河(だいぶんが)の上流、泰山山地の南麓と徂徠山(そらいざん)との間の河谷盆地にある。人口562万3000(2014)。2市轄区、2県を管轄し、2県級市の管轄代行を行う(2016年時点)。清(しん)代に県がつくられ、1958年市制施行、その後県に戻ったが、1985年ふたたび市となった。京滬(けいこ)線、辛泰線(臨(りんし)―泰安)が交差する。ラッカセイ、小麦、トウモロコシのほか、アサ、ワタなどの商品作物の栽培が盛んである。 中国五岳の一つ泰山(東岳)の登山口にあたり、観光地としてにぎわう。泰山は1987年に世界遺産の複合遺産(文化、自然の両方の価値がある遺産)として登録された(世界複合遺産)。また、市西部の東平(とうへい)県にある戴村(たいそんは)は「中国古代第一の堤防」といわれ、2014年に「中国大運河」の構成資産として世界遺産の文化遺産に登録されている(世界文化遺産)。 21日16:50関西空港山東航空で出発 19:20済南空港到達、タクシーで済南市内のホテルに向かう 20:50ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 22日6:00ホテルタクシーで出発、済南東駅に向かう。 6:30済南東駅到達 7:41高速鉄道済南東駅出発 8:29泰安駅到達、バスで泰山に向かう。 泰山:世界文化遺産は800件以上ある中で、世界文化遺産の登録基準6項目を全て満たしたものは、イタリアの「ヴェネツィアとその潟」、中国では「莫高窟」、そして今回ご紹介する「泰山」の3か所のみとなっています。そして泰山はさらに世界自然遺産の登録基準「類まれな自然の美や美的要素を有した自然現象、または地域を含むもの」も満たした世界複合遺産なのです!まさに泰山はトップ・オブ・世界遺産といえるのではないでしょうか. 山東省の中央部に位置し、華北平原にそびえ立つ世界遺産「泰山」は、祟山(河南省)、華山(陝西省)、恒山(山西省)、衡山(湖南省)とともに中国の伝統宗教、道教の最高の聖地として中国五岳の筆頭に君臨しています。 泰山は、中国歴代王朝の皇帝自ら「封禅の儀」を執り行う神聖な山として知られています。山頂の祭壇で天に感謝の気持ちを表すのが「封」、泰山のふもとで大地に感謝を捧げるのが「禅」といわれ、この2つを合わせて「封禅の儀」といい、皇帝の地位を盤石なものにする大切な儀式でした。史実に残るものでは、秦の始皇帝が封禅の儀を行った最初の皇帝で、以降清の時代まで10人以上の皇帝が行ったとされています。 世界遺産「泰山」の最高峰、玉皇頂は標高1,545メートル。山麓の岱廟から約10km続く参道には7,000段もの長大な階段が設けられています。これを一歩一歩踏みしめながら自力で上りきるのは相当大変そうですが、参道に沿って約2,200もの石刻などの文献、旧跡が残されているので、世界遺産観光の思い出にチャレンジしてみるのもいいですね! 普照寺:六朝時代に創建された古刹、金の大定年間1161-1189年に重建されている。泰山では数少ない仏教院のひとつで、参道を奥に進んだところにひっそりとたたずんでいる。 岱廟:岱廟は山東省の泰安市の南側に位置し、通称「東岳廟」と呼ばれている。漢時代に建てられ、皇帝の封禅大典や祭りを行うところだった。建物自体は宮殿建築を簡略化したように見える。北京の故宮、山東曲阜三孔、承徳避暑山荘とともに、中国の四大古建築群と言われている。 16:00タクシーで泰安市内のホテルに向かう。 16:30ホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 23日8:00出発、タクシーで泰安駅に向かう。 8:30泰安駅到達 10:57高速鉄道泰安駅出発 11:21済南駅到達、タクシーで済南空港に向かう。 12:50済南空港到達。 16:50済南空港山東航空で出発 20:45関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、ビックな観光地、世界遺産のある泰安をおとずれ山の頂に石の階段が9km続き石段に沿って多くの寺院が点在する泰山を散策しました。 広い中国、今回の泰山は中國の観光地ではビックな名所、バス、ロープウエイで訪れた山の長い頂に見る光景圧巻でした。 ぜひ訪れてみたいお勧めの観光地でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九十一弾:韓国ソウル近郊観光 2019年9月14-16日 日本に最も近い外国、5回目の韓国に足を運び、韓国ソウル近郊の世界遺産等の観光名所6か所訪れました。 14日18:20関西空港大韓航空で出発 20:10仁川空港到達、空港鉄道、地下鉄4号線で東大門歴史文化公園下車、駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 15日7:00出発、地下鉄4号線1号線を経由して水原駅下車、歩いて水原華城に向かう。 9:00水原華城到達、散策。 水原華城:水原華城は18世紀の末に李氏朝鮮第22代国王が、父の墓を楊州から水原の顕隆園へ移したのが始まりです。その後、墓の周囲に城壁や塔、美しい楼閣や強固な城門を築いて防護を築いたことから城の形へとなりました。その水原華城は、 1997年にユネスコの世界文化遺産に登録 され、以後観光客が絶えず訪れています。その壮大な石塀は長い歴史の流れを感じさせてくれるのです。 12:00地下鉄水仁線水原駅から出発、上葛駅到達、バスで韓国民俗村に向かう。 13:00韓国民俗村到達、観光。 韓国民俗村:韓国民俗村は、30万坪の広い敷地に、伝統家屋260棟余りが復元され、3万点の民俗資料を展示しており、農家、民家、役所、書院、漢方薬房、書堂、鍛冶屋、市場通り、両班(ヤンバン)の家屋などを通じて、朝鮮時代の人々の姿を知ることができ、韓国の歴史を肌で感じることができます。 また、MBCの代表的な時代劇の撮影地「大長今パーク(旧MBCドラミア)はチュモン(朱蒙)、善徳女王、イ・サン、トンイ、チャクペ 相棒 、太陽を抱く月、ドクタージン、キファンフなど、数多くの作品を作り出した所で、足を踏み入れるとまるで自分が主人公になったかのような気分になれます。 14:50バスで上葛駅に向かう。 上葛駅から地下鉄水仁線、8号線で山城駅到達、バスで南韓山城道立公園に向かう。 16:30南韓山城道立公園到達、散策。 南韓山城道立公園:南漢山城はソウルから東南方向へ24km、京畿道は広州(クァンジュ)市にある山城。城は清涼山や連珠峰、望月峰など海抜約500mのいくつかの山の陵線をつなぎ、ぐるっと囲んでいます。城の長さは全長11.7km(本城9km、外城2.7km)、城の面積は約60万平方m(山手線の内側の約60%)。王宮のように4つの門のほか、5つの甕城(出城)と16の暗門(トンネルのような門)があり、城の内部には約200の文化財が散在しています。1963年に史跡57号に指定され、1971年には京畿道の道立公園に。歴史的な観光スポットというだけでなく、ソウル市民や京畿道の住民から山歩きのコースやハイキングコースとしても親しまれています。 18:00バスで山城駅に向かう。地下鉄8号線2号線で東大門歴史文化公園下車ホテル到達。 16日7:00ホテル出発、地下鉄4号線でソウルに向かう。 7:50京義中央線ソウル駅出発、9:05金村駅到達、バスでオドゥサン統一展望台に向かう。 9:00オドゥサン統一展望台 オドゥサン統一展望台:事前チェックやパスポートのチェック、誓約書なども一切必要なく、写真撮影の制限もなく、韓国人でも外国人でも誰でも入ることができるオドゥサン統一展望台。展望台はソウルの真ん中を流れる漢江(ハンガン)と、北朝鮮と韓国の間を流れる川、臨津江(イムジンガン)の合流地点にある高台にあります。ここは古代の城跡とも言われ、近くでは百済の土器などが発掘され、文化財にも指定されています。この展望台から北朝鮮までは直線距離でたった約2.1km!展望台の前方には北朝鮮の宣伝村と呼ばれる街並みが広がっています。 バスで金村駅に向かう。 11:00京義中央線金村駅出発、地下鉄4号線で大公園下車。 国立現代美術館果川館:韓国と世界の近・現代美術を楽しめる「国立現代美術館 果川(クァチョン)館」。1969年に景福宮(キョンボックン)で開館した美術館は、1973年には徳寿宮(トクスグン)に移転。その後、1986年に現在の地に再誕生しました。果川館は、京畿道(キョンギド)「ソウル大公園」の敷地内に位置。周囲には自然が多く、散歩がてら訪ねるのにもぴったり。西側2階・東側3階と建物の左右で階数の異なる構造をしており、ともに1階は企画展示、2・3階は常設展示のフロアとなっています。展示室はテーマに沿って全部で9つ設けられています 地下鉄4号線1号線義王下車 鉄道博物館:ソウル市の南にある義王(ウィワン)市といえば、鉄道車両を生産している現代ロテム社や貨物基地、鉄道に関連する大学・研究院があるなど、鉄道の街として知られており、「鉄道博物館(チョルドパンムルグァン)」も地下鉄1号線の義王駅近くにあります。館内は屋外展示場と屋内展示館の二つに分かれており、屋外では蒸気機関車やかつて運行していた車両が展示されており、一部の車両は中に入れるようになっています。また、室内展示館では数々の資料が展示され、鉄道と共に歩んできた歴史が感じられます 地下鉄1号線4号線でソウルに向かう。 ソウルで空港鉄道で仁川空港に向かう。 16:00仁川空港到達 19:15仁川空港大韓航空で出発 21:00関西空港到達 今回の旅行、日本に最も近い外国、韓国に5回目に足を運び、ソウルの近郊の観光地6か所を訪れ楽しみました。 水原華城は城壁を3時間かけて散策し多数の歴史的建造物を訪れ学びました。 韓国民俗村では朝鮮時代の人々の姿を知ることができ、韓国の歴史を肌で感じることができました。 南韓山城道立公園は山城で世界遺産、広大な敷地を時間のある限り散策し楽しみました。 2日目の極め付きはオドゥサン統一展望台、許可なく自由に訪れることのできる北朝鮮を一望できる展望台、 ソウルから鉄道、バスで2時間半かかりますが有名な観光スポツト、閉鎖的な北朝鮮朝鮮の街並みを望める名所、一度は訪れてみたい観光スポットです。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十八弾:ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ観光 2019年8月10-18日 ユーラシア大陸のロシアの南西に位置する旧ソビエトの国々ベラルーシ・ウクライナ・モルドバを訪れました。 ベラルーシ:ヨーロッパ東部、西はポーランド、南はウクライナに国境を接する内陸国。1991年12月ソビエト連邦の解体により独立。共和制。小麦・ジャガイモ・亜麻などの農業生産が盛ん。機械・自動車工業も発達。住民の大部分はベラルーシ人。首都ミンスク。面積20万8千平方キロメートル。人口980万( 2005)。旧称、白はくロシア。ベロルシア。正称、ベラルーシ共和国。 ウクライナ:ヨーロッパ東部の国。北はベラルーシ,北東と東はロシア,西はポーランド,南西はスロバキア,ハンガリー,ルーマニア,モルドバと接し,南は黒海,アゾフ海に面する。国土はおもに平地からなるが,ところどころにドネツ丘陵,ポドリスク丘陵などがあり,西部にカルパート山脈を含む。一般に穏やかな大陸性気候で,平均気温は南西部で 1月-3℃,7月 23℃,北東部で 1月-8℃,7月 19℃。年降水量は 400~600mm。北部は森林,中部は森林ステップ(→ステップ),南部はステップ地帯に入る。住民の 80%近くはウクライナ人,約 20%はロシア人。公用語はウクライナ語。都市人口は約 3分の2。9世紀から現れたキエフ公国はキエフを首都とし,11~12世紀に栄えたが,13世紀タタール人の侵入により滅亡し,16世紀ウクライナはポーランド領となった。17世紀に入り勢力を増したウクライナ・コサック(→コサック)は分離運動を起こし,やがてロシアの援助を得,1654年にはロシアと合併した。1917年独立し共和国成立,1922年ウクライナ=ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に加盟したが,1991年独立を宣言。今日の国名に改め,独立国家共同体 CISに加盟。資源が豊かで,石炭,石油,鉄鉱石,マンガン鉱,カリウム塩などの埋蔵量が多く,19世紀からドネツ炭田(ドンバス)を中心に工業が発展していた。ソ連で最も工業発展の進んだ共和国の一つで,ドンバス川,ドネプル川流域に大工業地帯があり,各種冶金,機械,化学,食品などの工業が発達している。また大農産国で,国土の 50%を占める肥沃な黒土地帯(→黒土地帯文化)を利用して,コムギ,トウモロコシ,テンサイ,ヒマワリ,ブドウなどの栽培や畜産が盛んである。土地改良も進められ,灌漑設備が各地でつくられている。ドネプル川,ドネストル川,ドナウ川などの河川が流れていることと,黒海に面していることから水運が発達し,陸上交通網も密度が高い。1986年4月キエフ北方のチェルノブイリで史上最悪の原子力発電所事故が発生した(→チェルノブイリ原子力発電所事故)。2014年,ロシアが南部のクリミア半島の編入を宣言したが,国際的には承認されていない。 モルドバ:南東ヨーロッパにある共和国。西はプルート川の大部分を国境としてルーマニアに、他の三方はウクライナに接する。1991年12月のソ連崩壊まではモルダビア共和国と称し、ソビエト連邦を構成する15共和国の一つであった。面積3万3700平方キロメートル、人口364万(2000国連推計)。人口密度1平方キロメートル当り108人。都市人口比率は46.9%と低い。首都はキシナウChiinu(ソ連崩壊まではロシア語でキシニョフКишинёв/Kishinyovとよばれていた)。 なお、歴史的な地名としてのモルドバ(モルダビア)は、プルート川西岸の現ルーマニア領内のモルドバを含んでいるので、モルドバ共和国は歴史的地名としてのモルドバの東側半分にあたるプルート川東岸から東方のドニエストル川までのベッサラビアBessarabiaとよばれる地域と、ドニエストル川とウクライナ国境に挟まれたプリドニエストロビエ(沿ドニエストル川流域)とよばれる狭く細長い地域からなっている。 10日7:30伊丹空港全日空で出発 8:45羽田空港到達、バスで成田空港に向かう。 11:00成田空港到達。 12:15成田空港アエロフロート・ロシア航空で出発。 16:05(時差6時間)モスクワ・シェレメチェヴォ空港到達。乗り継ぎ失敗によりロシア空港近くのホテル到達、就寝。 11日6:20ホテルシャトルバスで出発、モスクワ・シェレメチェヴォ空港に向かう。 8:30モスクワ・シェレメチェヴォ空港アエロフロート・ロシア航空で出発 10:00ベラルーシミンクスj空港到達、バスで観光。 ミンクス市内観光。 ミンクス:ベラルーシ共和国の首都ミンスク。かつては華やかな文化を持つ地域でしたが、ロシアとヨーロッパの交通の要所に位置しているため、度重なる戦争の舞台となりました。現存する建物は旧ソ連時代に建てられたものが多く、旧ソ連諸国の面影が色濃く残る街です。 国立図書館:巨大なダイアモンド型のユニークな建物が、国立図書館です。教育に力を入れているベラルーシらしく、図書館として立派なことはもちろん、裏手にあるエレベーターでのぼる展望台も、観光客には魅力的です。 展望台からは街並みを一望することができ、かなり遠くまで見渡すことができます。また、夜の9時からはこの建物が輝きはじめ、様々な色や文字が浮かびあがるライトアップがされています。 その様子は圧巻で、ずっと見ていても飽きのこない美しさといえるでしょう。 聖霊大聖堂:シヴィスワチ川を見下ろす位置にあるバロック式の大聖堂で、外観は簡素な印象ですが内部に展示されているイコン群は圧巻!ミンスクでは必見の観光名所ですよ。ミンスクの聖霊大聖堂は、1633年から1642年にカトリック教会の修道院として建てられたものですが、1852年にロシア正教の教会となりました。美しい2つの塔を持つサファードには、モザイクの聖母が描かれています。ここで特に有名なのが「ミンスクの聖母」と言われる聖母とキリストのイコン。奇跡を起こすと信じられていて、ミンスクの人々の信仰を集めています。 勝利広場:勝利広場はミンスク中央駅の駅前通りにある観光スポット。第二次世界大戦のドイツに対する勝利を称える像が建てられています。半円形の膨大な広場で、記念塔、永遠の火、英雄都市記念碑があります。この広場へは、記念ホールを兼ねている地下通路を通って行くことができますよ。英雄都市とは、ソ連が12都市へ贈った称号。 高さ38mの記念塔はベラルーシの衛兵が守っていて、衛兵の交代式は定番の観光名所となっているんです。広場の中央には、戦争で亡くなった兵士や市民を悼む永遠の炎が燃え続けています。 トラエツカヤ旧市街地:スヴィスラチ川に面したトラエツカヤ旧市街区です。学生たちがボランティアで第2次世界大戦前のミンスクの街並みに復元活動を行って生まれた町並みです。 12:00バスでブレストに向かう。 途中2つの居城訪れる。 14:00昼食 ミール城:ミールはミンスクの南西90kmに位置する小さな町。その町外れにまるでおとぎ話の中からでてきたかのような美しいお城、中世の花とも呼ばれるミール城があります。 15世紀から16世紀にかけてゴシック様式で建築されたものが起源で、その後リトアニア大公国貴族の手に渡りユネッサンス様式を取り入れ改築。 しかしその後は放置され荒廃。さらに19世紀に入るとナポレオン戦争に巻き込まれ大きく損傷をうけたものの、19世紀末に当時の技術を結集させて元の姿に修復。 その後第二次世界大戦時にはナチスドイツに接収されたのち終戦後に再度修復され現在の姿となっています。 ラジヴィウ城:「ネスヴィジ城(宮殿)」は、ミール城から30キロの位置にあり、ラジヴィウ家の居城として16世紀に建てられた。ネスヴィジ一帯はラジヴィウ家の世襲領地として認められていた地域で、リトアニア大公国屈指の財力でドイツやイタリアから建築家を招き、バロック様式の装飾で彩られた美しい宮殿を作った。18世紀にはカール12世率いる軍やロシア軍による略奪、1939年にはソ連軍の侵攻によってラジヴィウ家は城をたびたび追われるのだが、その間もラジヴィウ家の手に戻ると、内装の復元を行い、19世紀後半には、面積1平方キロもある欧州最大級のイギリス式庭園を造った。 17:00バスでブレストに向かう。 20:30ブレスト到達。 21:00ホテル夕食:マチャンカ(豚肉のサワークリーム煮パンケーキ添え) 22:00就寝。 12日8:00バスで出発、ブレスト観光。 ブレスト:ブレスト州はベラルーシの最も西にあり、ポーランドとの国境に接しています。中心都市「ブレスト」は、その位置から歴史的にも重要な都市であり、第二次世界大戦開戦後にドイツ軍がはじめに侵攻を開始した「ブレスト要塞」は世界的に有名です。またブレスト州は広大な国立公園や自然保護区があり、ポーランドとの国境をまたぐ「ベラヴェジの森」は欧州最大で最後の古代森として世界遺産に登録されています。 ブレスト中央駅:ポーランド国境に近い駅であり、ドイツやポーランドからベラルーシやロシアを結ぶ列車が同駅に停車する。ポーランド以西の線路が標準軌(1,435mm)、ベラルーシ以東の線路が広軌(1,520mm)であるため、同駅に長時間停車して車輪幅を調整する。ポーランドのワルシャワや、国内の首都ミンスクまで約4時間半程度。モスクワまで夜行列車が通じている。南下してウクライナに入る列車も走行する。このブレスト中央駅からウラジオストク駅・ハサン駅まで1万キロ以上もエレクトリーチカとロシア客車が活動している。またポーランド以西の標準軌の鉄道路線は駅ホームの有効長が短いため、当駅で列車の増解結も行われている。 ブレスト要塞:第二次大戦でドイツ軍が対ソ攻勢を開始したのがここブレストでした。ヒトラーの「バルバロッサ作戦」です。当時ドイツ軍はブレスト要塞をすぐに陥落させることができると考えていましたが、実際には1ヶ月という長い抵抗に進軍を阻まれ、ソビエト軍がドイツ軍と戦う体制を整えるための時間を与えてしまったとされています。 ソビエトは、数万のドイツ軍に包囲されてもなお戦い続ける戦士たちと勇敢な抵抗を続けたブレスト要塞に「英雄要塞」の称号を授けました。これは都市ブレストに与えられた「英雄都市」と同格の称号だそうです。 国境を越えてウクライナのリビネに向かう。 途中 愛のトンネル:愛のトンネルはウクライナ西部のリウネ州、クレーヴェン(クレヴァン)にあるトンネルで、カップルがこのトンネルをくぐると願いが叶うという言い伝えから「愛のトンネル(The Tunnel of Love)」 と呼ばれています。 このトンネルはクレーヴェンとオルツィヴを結ぶ鉄道の線路上にあり、木々に囲まれたトンネルの美しい景観からウクライナでも人気の観光スポットとなっています。 12:00昼食:ウクライナ風水餃子ヴァレ二キ: リビネ到達。 リビネ:ウクライナで日本人に人気のものと言えばクレヴァン村にある愛のトンネル。その近郊の町・リヴネが玄関口となる。 リビネ市内のホテル到達夕食済ませて就寝。 13日8:00バスで出発。キエフに向かう。 キエフ:キエフは、ウクライナの首都。ドニプロ川の中流に位置する。同国最大の都市で、政治・経済・社会・学術・交通の中心地である。特別自治都市。5世紀後半に建設されたポリャーネ族の集落から発展した。中世にはキエフ・ルーシの都であったが、近世にはコサックのキエフ連隊の中心となった。20世紀中にウクライナ人民共和国、ウクライナ国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首都であり続けた。キエフ市内の人口はおよそ279万人であるが、キエフ首都圏の人口はおよそ400万人となっている。東ヨーロッパにおける最古の都市で、キリスト教の聖地の一つである。都内にある聖ソフィア大聖堂とキエフ洞窟大修道院は世界遺産に登録されている。 12:00昼食 キエフ市内観光 チェルノブイリ博物館:国立チェルノブイリ博物館は、20世紀最悪の原子力災害であるチェルノブイリ原発事故の歴史を保管、記録し、人々に伝えることを目的とした、科学的・文化的啓発活動を行う多機能型の歴史文化施設です。チェルノブイリ原発事故は、それまでに発生した自然災害や人為的災害とは全く異なった影響を及ぼしました。博物館は事故現場から100km離れたウクライナのキエフに、1992年4月26日に設立されました。 博物館は、事故処理作業員や事故の証人たち、犠牲者といった何千もの人々の運命を通して、この事故がどれほど大きなものだったかを理解してもらうため、人々の役に立つことが使命だと考えています。そして、文明と地球を危機にさらした科学技術と人間との共存はかけがえのないものであるということへの理解を促し、世界がチェルノブイリの教訓を忘れないよう、生活のあらゆる場面で事故の教訓を活かせるよう次世代に警告していきます。 「悲しみには限界があるが、心配には限界がない」 これが当博物館のモットーです。この言葉を展示の始まりに掲げ、来館者を出迎えています。 博物館では、専門家や教師、科学者、学者、そして、ウクライナと世界の公的機関の協力の元、環境や生活の安全文化を教育するセンターとなれるように努めています。 こうした目的に合わせ、博物館では様々な訪問者に合った教育プログラムを用意しています。また、博物館の豊富なコレクション、科学的、芸術的にもハイレベルな常設展と企画展、専門性の高い博物館員により、あらゆる年代の様々な関心をもった来館者にご満足いただけると思います。 黄金の門:地下鉄ゾロチー・ヴォロータ駅を降り、地上に上がると大きな建造物が目に飛び込んできます。これが長年キエフを見続けてきた「黄金の門」です。 黄金の門は11世紀、キエフの市街地への入口として作られました。つまり、ここがキエフ市の境だったわけです。それから約1,000年に渡って街は膨張。今では黄金の門はビルに囲まれています。「門」とありますが、櫓のような建物です。見方によっていろいろ変化するのがおもしろいですね。 ちなみに、ロシアの大作曲家ムソルグスキーの作品に「キエフの大門」という曲があります。今でも、ロシアのラジオの冒頭部分で流される曲で有名。 キエフの歴史を知ると同時に、ロシアとウクライナのつながりも感じられるスポットです。 聖ソフィア大聖堂:キエフで絶対に外せないスポットが「ソフィア聖堂」。なぜなら、スラブの最古の国家「キエフ・ルーシ」の文化的中心となった教会だからです。もちろん、世界文化遺産に登録されています。ソフィア大聖堂ができたのは1037年のこと。現在の建物は17世紀後半に再建されたものですが、中は11世紀後半のものが残っています。 中に入ると美しいイコン画(宗教画)が目に飛び込んできます。ウクライナを始めとする東欧諸国のキリスト教は「正教」。「正教」は西ヨーロッパのローマ・カトリックとは異なり、ビザンツ帝国の文化を引き継いでいます。 そのため正教の教会では、キリストなどを描いた「イコン」と呼ばれる宗教画がたくさんあるのです。教会内はどこかギリシャ・アジアの文化が感じられ、西ヨーロッパの教会とは雰囲気が異なります。本当に歴史の重みを感じさせる教会です。 聖ミハイルの黄金ドーム修道院:12世紀に創建されました。1936年に旧ソ連の宗教弾圧で破壊されましたが、ウクライナ独立とともに再建された、世界文化遺産の大聖堂です。キエフの守護天使であるミハイルをまつっています。外観は、白色と水色で、とても優しい印象。内部も穏やかな色合いで、金色の壁画は、息をのむほどの美しさを放っています。最上階からは周辺の川や緑、スタジアムなどの景色を楽しめます。週末には観光客だけでなく、キリスト教徒たちも集う地元に愛される建物のひとつです。 独立広場:記憶に新しい2013年のヤヌコビッチ大統領(当時)へのデモ。マイダンには多くの人々が集まり、政府に対して抗議活動が行われました。やがて、デモは騒乱に発展。マイダンで多くの人々が亡くなったのです。 現在では、マイダンは平和そのものですが、亡くなった人々の写真や花が飾られています。もちろん、政治スローガンも。「戦争」や「平和」に対して思わず考えてしまうスポットです。 マイダンのおすすめ時間帯は夜。ライトアップが美しく、幻想的な光景が広がります。 キエフ市内のホテル到達、夕食就寝。 14日9:00バスで出発、キエフ市内観光 ペチェルスカヤ大修道院:ロシア正教ウクライナ支部の総本山の修道院です。1990年にユネスコ世界文化遺産に登録されました。敷地内にはいくつかの建物がありますが、特にウスペンスキー大聖堂の壁一面のイコン画が大きな存在感を放っています。小さな彫刻などを展示しているマイクロ博物館など風変わりな施設もあります。 ウクライナ歴史博物館:「ウクライナ歴史博物館」は1899年にアンドリーイの丘に創設され、豊富な資料によりウクライナの歴史を学ぶことができます。 内部ではウクライナの長い歴史を、原始時代から現代ウクライナまで8つのホールで分けて展示おり、紀元前8世紀頃ウクライナを中心に活動していた遊牧騎馬民族スキタイ族や、9世紀後半頃キエフを首都として栄えていたキエフ・ルーシのことなど、普段知る機会があまりないウクライナの歴史について触れることができます。 東スラブ世界最古と言われている教会跡を博物館の前庭で見ることができ、その柱の一部が保存されています。 アンドレイ教会:イタリアの建築家ラストレッリによって設計された「聖アンドリーイ教会」は1744年に建てられた教会です。名前になっている「アンドリーイ」とは、ウクライナに初めてキリスト教を伝えたとされる聖人の名前です。 外部と内部が違う美術様式で建てられていて、外部は華麗なバロック様式で、内部は優美なロココ様式になっています。1つの建物で2つの美術様式が楽しめます。 教会はアンドリーイ坂と呼ばれる坂の頂上に位置し、この坂の途中にはお土産や骨董品、画廊などを販売しているお店が軒を連ねています。夜になるとライトアップされ、昼間とはまた違った雰囲気を楽しむことができます。 アンドレイ坂:地元の人が、「キエフで最もキエフらしい」と称賛する雰囲気が残るアンドレイ坂や、アーティストたちが自身の作品を販売している露店など、多彩なキエフの魅力を感じられるおすすめエリアのひとつです。 19:35キエフ・ボリスポル空港ウクライナ航空で出発 20:35オデッサ空港到達 21:15オデッサ市内のホテルで夕食済ませて就寝。 15日9:00バスで出発、オデッサ市内観光 オデッサ:ウクライナの南、黒海の近くに位置し、しばしば「黒海の真珠」とか「南パルミーラ」と呼ばれ、驚くほどきれいでユニークな街です。オデッサは他のウクライナの都市とは異なります。歴史、文化、建築に富み、その上、意外なことがたくさんあります。1794年に創立されたオデッサは比較的若い街であり、昨年9月に219年の建都市記念日が祝われました。毎年、市民は有名な出演者のコンサートと共に様々な行事が行われ、最後に壮大な花火とともに終わりを告げます。 オデッサの歴史は、多種多様な出来事に溢れていることが分かります。18世紀にロシア帝国領となり、エカテリーナ2世が布告によりオデッサ市を設立し、ウクライナの独立宣言がされるまでソビエト連邦内の都市でありました。 オデッサ市は日本とたくさん共通している点があります。というのは、横浜市とは姉妹都市の関係にあり、1965年に協定を締結しました。2010年に45周年を記念したイベントも開催されました。日本の代表者はオデッサ市を何回も訪問し、オデッサの人は日本に対し、特にその文化と習慣に深い興味を持ち続けています。日本人とウクライナ人、そして、両国が近くなったように感じることが出来ます。日本の文化に関する、芸術作品の展示会や日本の映画祭等のイベントが開催されています。 愛の橋:プリモルスキー通りの西の橋にあります。たくさんの南京錠が欄干にかけられていて、それは恋人たちが愛を誓って鍵をかけていくのだそうです。そういえばこういう場所ほかにもあったな~という感じ。 橋自体もけっこうきれいです。 プリモールスキー並木通り:オデッサの有名スポット・ポチョムキンの階段の東側にある、公園のような広めの通りがあります。プリ=with 、モーリェ=海という意味から分かるように、黒海すぐそばの通りです。 階段から南東方面に抜けるとプーシキン像があり、プーシキン通りに通じています。木陰をのんびり散歩したり、涼を取りながら過ごす人たちで賑わっていました。 ポチョムキンの階段:オデッサといえば階段です。オデッサの階段は有名な映画「戦艦ポチョムキン」の舞台となったところ。なお、映画「戦艦ポチョムキン」は1905年に起きたロシア兵の反乱をベースにしています。 「戦艦ポチョムキン」は映画史に残る大作中の大作。特に、赤ちゃんを乗せた乳母車が階段からゆっくりと落ちるシーンは今でも絶賛されています。 このオデッサの階段は、実に不思議な階段なのです。上から見ると、それほど段差がないように思えます。一方、下から見上げるとものすごく高く感じるのです。これは人の遠近法を利用した設計のおかげ。普通の階段では味わえない感覚なので、興味深いです。 オペラ・バレイ劇場:ウクライナのみならず、ロシアでもオペラや観劇はものすごく盛ん。その影響で、破格の価格で本格的なオペラや劇が楽しめます。 オデッサにあるオペラ・バレエ劇場は内装も豪華。入った瞬間に赤と金の内装に目がクラクラすることでしょう。ちなみに、オペラ・バレエ劇場は19世紀にウィーンの建築家によって建てられたもの。もしかすると、ウィーンの影響もあるかもしれませんね。 ゴールサト公園:オデッサのメインストリート、デリバシィスフカ通りの西端にあるゴールサト公園。ここは街の憩いの場として賑わっていて、噴水を中心にパフォーマンサーなどがいました。また園内には面白い銅像がいくつもあり、銅像好きにもいい感じのスポットになっています。 ベンチもカフェもあるので、疲れたときに一休みするにはうってつけの場所です。 昼食:ウクライナの民族楽器バンドゥーラの調べとともにボルシチと黒海の魚料理 国境を越えてモルドバの首都、キシナウに向かう。 夕刻 ミレス・ミーチワイナリーと世界最大のワイン貯蔵庫:「Milestii Mici」は、モルドバ共和国の首都キシナウから南に20km離れた「ミレシュティイ・ミチ」という同じ名前の村にあるワイン工場です。地下には石灰岩でできたワインセラーがあり、その長さ何と250km。そのほとんどが、ワインの貯蔵に使用されています。これは、ワインセラーとしては世界最大規模であることに加え、そこに寝かされているワインの本数も世界最多の200万本と桁違い!2007年、ギネスブックにも認定されています。そして、土地の広さや貯蔵本数の規模に負けず劣らず、Milestii Mici村周辺のぶどう園から集められたブドウは特に品質が高く、これらのブドウから作られたワインは若くても絶品です。そして、何年もこの地下ワインセラーに完璧な環境で保管され、豊かで高貴な味へと熟成されていく「Milestii Mici」のワインは、世界であまり知られていないものの最高品質のワインと言われています。 19:00モルドバの伝統料理とモルドバワイン 21:00キシナウ市内のホテル到達、就寝 16日11:00バスで出発 キシナウ観光 キシナウ:キシナウ(ルーマニア語: Chi?in?u [ki?i?n?w]、ロシア語: Кишинёв)はモルドバ共和国の首都。キシニョフ、キシニョーフ、キシネウといった表記が用いられることもある。人口は647,513人(2004年)。 地名は、ルーマニア語の "chi?la" (泉)と "nou?" (新しい)に由来する。この泉は今もプーシキン通りにあり、ここから町が形成された。 国土の中央に位置し、市街はドニエストル川の支流ビク川(ルーマニア語版)の右岸に広がる。約565平方キロメートルの市内は5つの地区に分けられている。地勢は大部分が平地で、中世より葡萄栽培が盛んである。電気工業、機械工業、繊維産業、ゴムやプラスチック製造などが盛んな工業都市。 モルドバ国立大学(ルーマニア語版、英語版)(1946年10月1日開設)をはじめ、36の大学と科学アカデミー(ルーマニア語版)(1949年10月6日開設)、キシナウ国際空港などがある。 旧オルヘイの洞窟修道院:世の中には沢山の洞窟修道院があるが(ギリシアのメテオル、ラオスのパク・オー、ウクライナのキエフ等)、そんなに綺麗な景色に囲まれている修道院は少ない。旧オルヘイは辺鄙な守りやすい場所にあるのは正教教会の坊主が13世紀以来高く評価した。その為、M?n?stire in Pe?ter?(洞窟修道院)が創設された。モルドヴァの大英雄 ?tefan cel Mare(シュテファン大公)は15世紀に同じところで要塞を造ったが、その要塞は崩壊され今では土台だけが残っている。修道士は修道院を18世紀に手放したが、1997年以降再活動した。 シュテファン・チェル・マレ公園:広くて、開放的なステファン チェル マーレ公園。いくつもの像があり、ロシアの詩人、プーキシンの銅像もあります。また噴水もいくつかあり、すがすがしい公園の雰囲気を演出しています。 キシナウの地元の人もリラックスしてベンチで恋人と肩を寄せ合ったり、子供は噴水の周りで遊んだり、みんなの憩いの場として人々の生活にも浸透している様子。公園はきれいに手入れしてあり、季節によっては花壇のきれいに咲いた花をみることができ、観光客も散策や休憩を楽しんでいます。 シュテファン大公記念碑:公園の正面入り口にはこの公園の名前の由来にもなっているモルドバの独立のヒーローであるステファン大公の銅像があり、キシナウの歴史を感じることができます。ちなみにモルドバの紙幣に描かれている人物もステファンさん。モルドバの一番の英雄として有名な人物です。 勝利の門:キシナウバージョンの凱旋門。凱旋門といっても小さく、パリの凱旋門には及びませんが、後ろのキシナウ教会と共に見える風景はなんだか歴史を感じます。 1846にロシアのトルコからの勝利をたたえるために建てられた門で、クラッシクな四角い形をした姿は、シンプルながらも格調のある時計が飾らない美しさを醸し出しています。正面にはソ連時代の建築の庁舎があり、キシナウらしい風景が見えます。 街の中心にあり街の観光の目印にもなるので、何かと便利な建物です。キシナウについたらまずここを目指すと今後の観光がしやすくなるかもしれません。門には赤・黄色・青の三色が美しい、モルドバの旗が飾られていますよ。旧ソ連の足跡が残る、東ヨーロッパらしい風景の定番観光スポットです。 キシナウ大聖堂:勝利に門の後ろにあります。キシナウ教会とも呼ばれているこの大聖堂は、ミサのある日曜は熱心な正教会の信者のキシナウの地元の人たちで溢れかえります。 1830年に建てられた建物ですが、第二次世界大戦の空爆で一度崩壊し、さらに1962年には共和党人たちによって壊されるという、様々な時代の波の影響をま受けてきた教会。今はキシナウの人々の日常の一部となり、さらにその美しさから観光スポットとしてたくさんの観光客を魅了しています。 勝利の門とともに映る外観も美しいですが、やはり醍醐味は教会の内部。観光客も中に入ることができるのですが、その黄金のきらきらと輝く荘厳な室内の壁や天井には、フラスコ画でロシアの聖人が描かれており、息をのむような美しさです。 教会の入り口には店があり、十字架など、正教会関連のものが販売されています。勝利の門と合わせて訪れたい、定番の観光スポットです。 クリコバワイナリーでワイン試飲:CRICOVAのギネスに登録されている世界一の大きさを誇るワインセラーの歴史は15世紀にさかのぼり、120キロもの全長を誇り1966年この場所を訪れた宇宙飛行士のユリ・ガガリンが迷いに迷った末2日後にやっと地上に出ることができたという逸話が残されているほどの巨大さです。更にこのワイナリーはソ連にナチスが侵攻してきた際にワインバレルの陰に周辺地域に住むユダヤの人々を匿ったと言われています。 そんなクリコバのワインセラーの半数はモルドバのワインコレクションを含むワイン貯蔵用に使われており、ソ連が第二次世界大戦後に戦争賠償として各国から摘発した希少ワインコレクションの一部が保管されています。常時12度に保たれたワイン保存に最適な環境の中ブルゴーニュ、ボルドー、トカジ等の古くて珍しい125万本以上のワインが貯蔵されており、その中でも最も古いボトルは1902年のものだと言われています。 CRICOVAはワイン貯蔵のみではなく様々な品質と価格帯でワインコレクションを製作しており、ピノ・ノワールとシャルドネから作られた伝統的なものから、ルカツィテリ、トラミナーなどの珍しいドイツ品種ブドウやマスカットなどの赤、白、ロゼ、セミスイートスパークリングまであらゆる種類のワインを生産しています。 そんな数あるクリコバワインの中でもスパークリングワインは特に評価が高く、何世紀も前に僧侶ドム・ピエール・ペリニヨンによって発明された古典的なフランスの製法によってスパークリングワインを生産しています。(所謂シャンパーニュメソッドですね。) そんなクリコバのワインは国内外問わず様々な賞を受賞しており70以上の入賞経験を持っています。 CRICOVAの最大輸入国はカザフスタンで、それまではロシアが主要輸入国でしたが、2014年にモルドバがEUへの加盟の動きを見せた際ロシアがモルドバワインに禁輸措置を課したことで最大輸入国が入れ替わりました。 昼食:村のペンションでモルドバの家庭料理 深夜バスにてキシナウ空港に向かう。 17日02:55キシナウ空港アエロフロートロシア航空で出発 05:55モスクワ・シェレメチェヴ空港到達 モスクワ市内のホテルで休憩 19:00モスクワ・シェレメチェヴ空港アエロフロートロシア航空で出発 18日10:30成田空港到達、バスで羽田空港に向かう。 12:30羽田空港到達 14:00羽田空港全日空で出発 15:05伊丹空港 今回の旅行、ユーラシア大陸の西、モスクワの西に位置する、旧ソビエトの国々ベラルーシ、ウクライナ、モルドバを訪れました。 世界一美人の国、ベラルーシの首都、ミンクスの聖霊大聖堂等の歴史的建造物、ミンクスの近郊に位置する世界遺産のお城、ミール城、ネスヴィジ城。ポーランドとの国境となる街、ブレストのブレスト要塞、ウクライナの首都、キエフの聖ソフィア大聖堂、聖ミハイルの黄金ドーム修道院、ペチェルスカヤ大修道院、20世紀最悪の原子力災害であるチェルノブイリ原発事故の歴史を保管、記録する国立チェルノブイリ博物館、クレーヴェン(クレヴァン)の木々に囲まれたトンネルの美しい景観愛のトンネル、黒海の真珠オデッサの愛の橋、プリモールスキー並木通り、ポチョムキンの階段、オペラ・バレエ劇場、モルドバのミレス・ミーチワイナリー、首都キシナウのシュテファン・チェル・マレ公園、旧オルヘイの洞窟修道院、クリコバワイナリーを訪れ6泊9日の旅堪能しました。 今回トラブル発生、1日目のモスクワ空港からベラルーシに向かう便の乗り継ぎ、2時間十分な時間にも関わらず乗り継ぎがスムーズに行かなくて乗り遅れ、その夜はモスクワのホテルに泊まり翌日ベラルーシに向かっての出発となりました。 今年の正月ウユニ塩湖のツアーで乗り継ぎ失敗による高額な航空チケット自己負担(現在集団訴訟中)のトラブルと異なり、今回は別の旅行会社で対応もよく、自己負担なくスムーズに変更の航空チケット、ホテル手配をしていただいて、旅行会社の対応の違いがあからさまに体験できたことが勉強になり、旅行会社の慎重な選択を要することを痛感しました。 今年の正月の旅行、自己負担を強要したクラブツーリズムは膨大な広告量で旅行客を集め、いくらでも旅行客が集まると自惚れているのか、対応の悪さが際立っています。その点今回の旅行会社ユーラシア旅行社は宣伝をせず、対応がよく、信用を上げ、リピーターを大事にし地道に旅行客を増やしています。大きな違いですね。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十五弾:中国済南観光 2019年7月14-16日5日 アジアの大陸中国に足を運び自然風光が美しく、古くから「泉城」という美称があり、「家々に泉水があり、家ごとに枝垂柳がある」という誉れを受けています。泉水が多く、流量が多く、景色が美しく、そのため、全国に名を知られています。これらの泉は縦横に分布し、「ホウ突泉」、「黒虎」、「真珠」、「五竜淵」など四大の泉群があります。「ホウ突泉」は72つの名泉のリーダーで、泉水が3本に分かれて流れています。全部の泉から合流した大明湖、周辺の千佛山、五峰山、霊岩寺、雲山などは「一城の山色で、半城の湖」と、独特ある風光を構成しています済南を訪れました。 13日16:50関西空港山東航空で出発 19:20済南空港到達、タクシーで済南市内のホテルに向かう。 20:30済南市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 14日8:00歩いて観光 大明湖:大明湖は6世紀ごろから、すでに美しい風景が見られる地として知られていた観光スポット。済南の中心部のやや北東に位置し、済南の町に潤いを与えています。 都市部にある天然の湖で、複数の泉が合体して、でき上がったとされています。また、大明湖は?突泉と千佛山とともに済南三大名勝といわれ、多くの観光客が訪れています。 深い緑色をした湖面に「歴下亭」をはじめ、多くのビュースポットがあります。柳が垂れ下がる水辺の風景は、なんとも中国らしい優雅さを感じます。さらに、湖の周辺には、有名な詩人の名詩句を彫った石碑が。時代を超えて、多く人々に愛された場所だと実感できますよ。 古くから「泉城」と呼ばれ、水のある風景が親しまれていた済南。大明湖は済南の観光では外せません。 ?突泉:済南の中心部にある?突泉(しゃくとつせん)。ここは泉のある文化公園として整備されている観光スポットです。緑色の藻や魚が泳ぐ泉の光景、そしてそばにある回廊や東屋が中国風の優雅さをもたらします。 千佛山:千佛山は古くは「歴山」といい、その名前からも歴史がある観光スポット。伝説では舜という人物が皇帝になる以前、歴山で畑仕事をしていたため、「舜山」や「舜耕山」とも呼ばれる観光地です。隋の時代に済南で仏教が隆盛し、大勢が壁に仏を彫りました。その彫刻の数が非常に多かったことから、千佛山と呼ばれるようになりました。西側の登山口から登ると、「唐槐亭」と一本の木があります。この木は、唐の時代の名将軍が馬を繋いだ木。多くの見どころがあるのが、千佛山の観光の魅力ですよ。 山の中腹にある「斉煙九点坊」からの景色も評判。眼下の大明湖は鏡のようにきらめき、黄河は「帯」のように流れます。そのため、多くの観光客が感嘆の声を上げています。また、麓にある黄金の弥勒菩薩は、日本の和歌山県会が寄贈したもの。日本とのつながりを感じあられる観光スポットですね。 さらに、千仏山の東にある仏慧山にも見どころがあります。開元寺遺跡には高さ約8m、幅約5.5mの「大仏頭」が訪れる観光客の目を楽しませています。 山東博物館:石器時代から、古典の時代、現代まで幅広くたくさんの文化財を見ることができます。中国史好きにはおすすめ。 とても広いので、一日で見終わるのは大変かも。 パスポートで無料です。 泉城路:済南の?華街 共青団路:済南の?華街 ホテルに戻る。 15:30ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 15日8:00出発 泉城路、共青団路散策。 泉城広場:済南を代表する?突泉と道を挟んだすぐ向かいにあり、この街を代表する22万平方メートルという広大な面積を誇る広場です。周囲を近代的なビルに囲まれたこの広場のそこかしこで、凧揚げに興じる家族連れを見ていると、なんとも言えない暖かい気持ちになります。また、多くの路線バスがこの広場を経由しますので、街歩きの目印として丁度良いと思います。 14:00シャトルバスで済南空港に向かう。 15:00済南空港到達。 16:50済南空港山東航空で出発。 20:35関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸中国に足を運び、泉水が多く、流量が多く、景色が美しい済南を訪れました。 中国の都市は数か所訪れましたが、共通することが城跡が湖のある公園に変貌し中に歴史的建造物が点在していることです。今まで訪れた中国の多くの都市に見られる光景です。 千佛山は四国の金毘羅さん風で数多くの階段を登ってたどり着くことができ、町を一望できます。さすが帰りはゴンドラに乗り戻りました。 山東博物館は規模が大きく、膨大な展示物、故宮博物館に匹敵する大きさですが入館料は無料、そのおかげで長蛇の列で入館に30分要しました。入館料取れば混まなくてすんなりは入れるのに何故でしょうね。 日本は何をしてもお金がかかる、その点中国は交通機関はかなりやすい、公共の催しは無料が多い、発展続ける中国の象徴のようです。 中国も日本と同じ自転車、バイクが多いが歩道を高速で走行していない、日本の方が自転車のモラルが悪いと感じ取りました。 中国旅行は今まで何回か訪れましたが、関西空港から中國の各都市に飛行機便が数多く行きやすい、短時間で到達できる、各都市の観光名所は案内板もしっかりして訪れやすい、交通手段が豊富で交通費が安価、常に進化して訪れるたびに変化している、楽しめる、教えてもらえる事が多い、これからも訪れたい中國観光旅行でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十五弾:南アフリカ&レソト&エスワティニ&モザンビーク観光 2019年4月28日-5月6日 南部アフリカに位置する 南アフリカ:アフリカ大陸の最南端、インド洋と大西洋を結ぶ要衝の地に位置する。太陽の国と言われるほど年間を通じて晴天の日が多く、全体的に気候は温暖。また、2000m級の山脈、砂漠と森林、高原と平野など多様な地形と気候を反映して、動植物の宝庫でもある。自然や文化遺跡も豊かであり、「スタークフォンテン・スワークランズ・クロムドライ及び周辺地域の人類化石遺跡群(アウストラロピテクスなどの人類化石が発見された遺跡群)」、及びロベン島(ケープタウン沖にあるアパルトヘイト時代の刑務所島)などの文化遺産、「グレーター・セントルシア湿地公園」、「ケープ植物区系の保護地域群」などの自然遺産等、計7カ所が世界遺産に指定されている。 群を抜いたアフリカの経済大国であり、サハラ以南アフリカ地域諸国のGDPの約4割を占める。わが国と南アとの貿易額はわが国と同地域の貿易額の約5割、直接投資額は同地域(リベリアを除く)の約7割を占める。豊富な天然資源を有し、特に金、クロム鉱、白金(プラチナ)、バナジウム等の生産量、埋蔵量は世界上位。 レソト:レソトは周囲をすっぽり南アフリカ共和国に囲まれ、標高が1,500メートル以上、高い山脈が多いので、「アフリカのスイス」「山の王国」「天空の王国」と呼ばれています。 国土は日本の九州より小さく、人口は188万人です。日本と同じように四季があり、四季を通してさまざまなスポーツと冒険が楽しめるのもレソトの「ユニーク」なところです。手付かずの自然がそのまま残っており、天然資源も豊富でダイヤモンド、宝石、鉱物、ミネラルウォーターなどこれからの産業発展が期待されます。2006年レソトの鉱山から603カラットのダイヤモンド「レソトプロミス」が採取されました。これは世界で15番目に大きなダイヤモンドだそうです。 レソトの産業で世界に知られているのがテキスタイルです。皆さんが着ているGAP, Levisなどの商品はほとんどが「メイド・イン・レソト」なんです、ご存知でしたか。レソト人はとても勤勉で手先が器用です。今後は日本の精密機械など中東、欧州への輸出Hubステーションの役割を担う可能性も大いにあります。 エスワティニ:周囲を南アフリカとモザンビークに囲まれた小さな内陸国で、19世紀の建国当時から続く、国王を戴く立憲君主制国家です。もう一つの南部アフリカで国王を戴く国レソトと同様に、イギリスとボーア人の国々、そしてズールーの王国との緩衝地帯的な立ち位置で、保護領化されつつも古くから続いてきたスワジ人独特の政治組織を守り、1968年に再度独立を果たしています。 国民の90%以上がスワジの人々で、アフリカ諸国中最も同種族の率が高く、世襲君主である国王によって治められています。立憲君主制とは言っても国王の権力は非常に強く、議会はあるものの閣僚のほとんどを王族が占め、ほぼ絶対王政といってもよい政治体制が敷かれています。国王の権力独占への反対や、激しい民主化要求はあるものの、人々は伝統文化を尊重しており、今日まで武力抗争もなく続いてきたため、最後の古王国とも言われています。 時が自然のままゆったりと流れる国で、訪れる観光客もまだ少なく、いわゆる"リゾート"に疲れた人々にとっては、南部アフリカの中のオアシス的な存在と言えるのではないでしょうか。アフリカらしい自然、文化、人々に触れたい方には、エスワティニはお勧めです。 モザンビーク:モザンビークはインド洋に面して南北に延びる国土を持つ、美しい海岸線が魅力の国です。南部アフリカでは珍しく、公用語はポルトガル語。モザンビークという国名は、ユネスコの世界遺産にも登録されている島の名前からきており、歴史に彩られたその島、世界遺産でもあるモザンビーク島の名前は、ヴァスコ・ダ・ガマ時代のスルタン‘ムーザ・アル・ビック’の名に由来しています。 8世紀頃からアラブ人が金・銀の交易のために訪れ、11世紀からは現在のジンバブエにあったとされる内陸のモノモタパ王国と貿易関係を築き、当時の最大の交易拠点だったソファラは、スワヒリ文明最南端の都市として栄えました。1498年のヴァスコ・ダ・ガマに始まるポルトガル人の来航以降、17世紀にはモザンビーク島、後にはロウレンソ・マルケス(現在の首都マプト)をポルトガル領東アフリカの首都として、ポルトガルの植民地支配が確立されました。第二次世界大戦が終結し、脱植民地化時代に入って近隣諸国が独立していく中も、ポルトガルは植民地政策を継続。圧政に対して、1964年にモザンビーク解放戦線が結成され、武装闘争を開始。長い独立闘争の末、1975年6月25日にモザンビーク人民共和国として独立を果たしました。独立後も隣国や冷戦下の東西陣営の様々な思惑が絡み、1977年には内戦が勃発。1992年に終結するまで15年の長きにわたり内戦に苦しみました。1990年代後半以降からは経済を急速に発展させ、1996年から2006年までに年平均8%の経済成長を達成、内戦での遅れを取り戻す勢いで発展し続けています。 実は日本とは歴史的に古くから関係があり、記録に残されている中で日本を訪れた最初のアフリカ人はモザンビーク人(織田信長の時代に、イエズス会宣教師ヴァリニャーノとともに来日した「弥助」)だったといわれています。逆に日本からは、1586年に「天正遣欧少年使節」の一行が日本への帰途天候待ちのためモザンビーク島に滞在しています。 見所は何と言っても、アフリカ屈指の美しさを誇る海と海岸線、そして歴史ある島々でしょう。モザンビーク島をはじめ、アラブとの交易拠点だった島々の街並には、アフリカ、ポルトガル、アラブの融合を感じられます。また、近隣諸国に比べ物価が安いためヨハネスブルクの人々が、長期休暇の際に訪れることが多いようです。したがってインフラはある程度整っています。日本への高級エビの輸出で知られるように、シーフードが美味で(しかも安い!)日本人の口によく合います。また‘カリル’と呼ばれるモザンビーク風カレーも日本人好みで、食事の面でも色々な国の影響を感じられます。 の4カ国を訪れました。 4月28日14:40伊丹空港日本航空で出発 16:00成田空港到達 22:20成田空港カタール航空で出発 29日4:10ドーハ到達 7:05ドーハカタール航空で出発 17:25ダーバン到達、バスでダーバン市内のホテルに向かう。 ダーバン:ヨハネスブルグに次ぐ人口[1] の都市であり、重要な外港である。2010年の都市的地域の人口では322万人であり、同国ではヨハネスブルグに次ぐ第2位である[2]。ズールー族が多く、英語よりもズールー語が話されている。またインド系移民の人口が極めて多く、約80万人ほどいるといわれている。 古くから高級リゾート地としても知られており、海沿いには大型のリゾートホテルが立ち並ぶ。このためスポーツ施設やインフラが整っており、毎年のようにラグビーや水泳などスポーツの世界選手権や、国連の各機関が開催する国際会議の開催地として選ばれている。2010年にはFIFAワールドカップの会場の一つになった。 18:30ホテル到着 19:30ホテルで夕食 21:00就寝 30日8:00バスで出発ドラケンスバーグ山脈の麓に佇むアンダーバーグに向かう。 ドラケンスバーグ:アフリカーンス語で“ドラゴンの山”を意味する「ドラケンスバーグ山脈」は、リンポポ州南東部から東ケープ州北西部を結ぶ長大な山の連なりで、その距離は1000km以上にも及びます。なかでもレソト国境と接するクワズールー・ナタール州の西端は、最も高い3000m級の山々が林立。この山岳地帯を取り巻く一帯が「ドラケンスバーグ」です。 ドラケンスバーグは登山やハイキング、釣りや乗馬、ゴルフ、ヘリコプター遊覧観光などの様々なアクティビティが体験できる、南アフリカの雄大な自然を体感するには絶好の場所!クワズールー・ナタール州最大の都市「ダーバン」からは、車で2時間程で訪れることができます。 途中ピーターマリッツバーグを訪れる。 ピーターマリッツバーク:ピーターマリッツバーグは、マハトマ・ガンディーの若い頃に遭遇した事件の地として有名である。1等席の切符を買い、列車で移動していたガンディーは、席のない白人男性へ席を譲った上で有色人種用の3等席へ行くよう車掌に命じられたのを断ったため、ピーターマリッツバーグで列車から追い出されたのである。この事件をきっかけに、ガンディーは、南アフリカ在住のインド人に対する差別を援護する法に抗議するようになったのである。現在、市中心部のチャーチ通りに、ガンディーのブロンズ像が立っている。 マハトマ・ガンジーの像:マハトマ・ガンディーの若い頃に遭遇した事件の地として有名である。1等席の切符を買い、列車で移動していたガンディーは、席のない白人男性へ席を譲った上で有色人種用の3等席へ行くよう車掌に命じられたのを断ったため、ピーターマリッツバーグで列車から追い出されたのである。この事件をきっかけに、ガンディーは、南アフリカ在住のインド人に対する差別を援護する法に抗議するようになったのである。現在、市中心部のチャーチ通りに、ガンディーのブロンズ像が立っている。 シティ・ホール:ガンディー像の向かい側には赤レンガ造りの市庁舎が建つ。高さ47mの時計塔が街のシンボルになっている。 午後アンダーバーグ到着 アンダーバーグ:ドラケンスバーグの峰々に抱かれたアンダーバーグ 博物館:コイ・サン族の描いた岩壁画を鑑賞 アンダーバーグ市内のホテル到達、食事、就寝。 5月1日 8:30バスで出発、レソトに向かう。 ドラケンスバーグのサニ・パス峠:国土全域が標高1,500m以上の山々に囲まれたレソト。南アフリカから陸路で国境を成すサニ・パス(峠)を越え、急峻な山々が連なる美しい風景を楽しみながら首都マセルへ向かいます。 バソト族の村:南アフリカに囲まれた標高1500mの小さな国、レソト。アフリカの大地が作り上げる美しい自然が広がるその景観は「アフリカのスイス」と呼ばれ、アフリカでありながら冬には雪が舞い降ります。ここに暮らすバソト族は別名、毛布の民。100年以上の歴史あるブランケットを身に纏い生活しています モコトロング村:10ある レソトの県のうちのひとつ。面積は4,075 km2で、人口は約130,000人である(2004)。 県都はモコトロングである。県内にはマロティ山脈といった高地や、センク川の源流がある。レソトでもっとも貧しくて、辺鄙な場所であり田舎である。 レソトの美しい山岳風景:国土全域が標高1,500m以上の山々に囲まれたレソト。南アフリカから陸路で国境を成すサニ・パス(峠)を越え、急峻な山々が連なる美しい風景を楽しみながら首都マセルへ向かいます。 アンダーバーグ市内のホテル到達、食事、就寝。 2日6:00バスで出発 エスワティニの首都ムババーネに向かう。 ムババーネ:エスワニティの首都(行政府)。同国西部,南アフリカ共和国との国境に近く,ヨハネスバーグの東方約300kmにある。付近にスズ鉱山がある。モザンビークのマプト港,南アへの交通の要地。郊外のロジスレジに王宮があり,立法府はロバンバにある。6万281人 途中ホーウィックによる。 ホーウィック:ダーバンの北西100キロメートルのホーウィックでは1962年にマンデラが逮捕された道路脇に碑が建ち、向かいの「ネルソン・マンデラ・キャプチャーサイト」では展示館と記念の彫刻が設けられている。 ネルソン・マンデラの巨像:この国にはマンデラ氏にちなんだ博物館や記念碑が数多く作られていますが、ホーウィックの郊外に作られたこの像もその1つです… ホーウィックの滝:南アフリカ共和国東部、クワズールナタール州の都市ピーターマリッツバーグの北西約25キロメートルにある滝。ウムゲニ川にかかる落差約95メートルの滝であり、景勝地として知られる。 ムババネーム市内のホテル到着後食事就寝。 3日8:30バスでクルーガー国立公園の基点となるネルスプリットに向かう。 ネルスプリット:南アフリカ共和国北東部、ムプマランガ州の都市。同州の州都。モザンビーク国境から約60キロメートルに位置する。ヨハネスブルクおよびモザンビークの港湾都市マプートと鉄道で結ばれる。バナナ、レモンなどの果樹栽培が盛ん。クルーガー国立公園への観光拠点。 エズルウィ二渓谷:エズルウィニ渓谷とロバンバ周辺は山に囲まれた避暑地のリゾート。ムババネとマンジニの中間にあるこのエズルウィニは、スワジランドの王族が住んでいたような場所で、今も国立博物館やスワジ文化村などがある、観光の中心となっている町だ。 ロバンバ:ロバンバ(Lobamba)は、エスワティニの王都。人口は約11000人(2006年)規模であり、エスワティニ王国第3の都市である。 行政首都はムババネであるが、ロバンバには王宮と議会が置かれており、立法の首都となっている。また、王母の宮殿もロバンバにある。ロバンバには王宮や議会のほかに、スワジランド国立博物館やソブーザ2世記念公園などがある。ソムホロロ国立競技場は、スポーツイベントのほかに王家の戴冠式などの国家的イベントにも使用される。 国立博物館:渓谷沿いの国立博物館ではスワジ文化の展示物を見物することができる。 キング・ソブーサ像:スワジランドの国王 (在位 1921~82) 。 1921年イギリスの保護領スワジランドのスワジ族の王になり,68年9月独立に伴い国王 (元首) 。 73年4月憲法を停止し,立法,司法,行政の三権をみずからの手に集中し,その後新憲法を制定してその合法化をはかった。 スワジ文化村:スワジランドの昔の住居などを再現し、伝統的な暮らしなどを紹介している設備。スワジダンスは「足を蹴りあげる」のが特徴で、男性だけでなく女性も同じように踊る。 バーバートン山脈:南アフリカ北東部。バーバートン・グリーンストーン・ベルトと呼ばれる地球最古の火山岩や堆積岩が状態良く保たれ、35億年前の始生代からの生命体の存在が確認されている。 また、32億年前に地球のプレート移動のきっかけになったのではという説もある小惑星が衝突した痕跡が発見されている。 2018年バーレーンの首都マナーマで開催された第42回世界遺産委員会において、南アフリカの「バーバートン・マコンジュワ山脈」が世界自然遺産として登録されました。 ネルスプリット市内のホテルで夕食、就寝。 4日5:00バスで出発。 クルーガー国立公園のドライブサファリに向かう。 クルーガー国立公園のドライブサファリ:南アフリカでサファリと言えば、クルーガー国立公園。有名なビッグファイブを見れるだけでなく、数百種類もの鳥、古代の木々、曲がりくねった川などがあり、古代から続く大自然に圧倒されることでしょう。 モザンビークの首都マプトに向かう。 マプト:アフリカ大陸の南東の海岸線に位置するモザンビーク。そのモザンビークの南端に位置するのがマプートです。モザンビークの首都であるマプートには、およそ100万人の人々が暮らしています。マプートはインド洋に面した港町で、かつてはロウレンソマルケスと呼ばれていました。モザンビークは16世紀にポルトガルの植民地でした。その歴史が垣間見える歴史的建造物や、ポルトガル文化が未だにマプートには残っています。そして、マプートのそのロケーションから美しい島も点在します。 マプト市内のホテル夕食、宿泊。 5日8:00バスで出発、市内観光。 ノサ・セニョーラ要塞:ポルトガル植民地時代に築城されたノサ・セニョーラ要塞 自然史博物館:1911年に完成したコロニアル様式の建物が印象的なこちらの博物館は、マプートの観光名所の一つとなっています。 マプート自然史歴史博物館では、アフリカ、モザンビークに存在した固有の動物の剥製や古代の陶器などが主に展示されています。多くの展示は古代のアフリカの光景を再現されており、まさにタイムスリップしたかのような気分にさせてくれます。 特にこちらの博物館の目玉は、象の胎児の成長過程の標本の展示、シーラカンス、サメの標本、ネオングリーンの水の繊細なジオラマ。想像力を掻き立たせる観光客必見のディスプレイです。 中央駅:モザンビークのマプート観光で必ず訪れたいのがこちらのマプート中央駅です。マプートに観光に来た人が必ず訪れると言っても過言ではないでしょう。その理由は、この駅が、フランス・パリにあるエッフェル塔や、アメリカ・ニューヨークにある自由の女神をデザインしたことで有名なギュスターヴ・エッフェル氏によるデザインであること。マプートで一番人気の観光スポットといえるでしょう。 とても駅とは思えないお城のような建物。大理石で作られた内部のディティールや柱は息を飲む美しさで観光客を驚かせます。一つ一つの作りが美術館のようです。マプート中央駅は、その美しさから、死ぬまでに一度は訪れたい世界の美しい駅ランキングにも選ばれている駅です。電車に乗る予定がない方でも、駅を見に行くだけの価値はありますよ。マプートに訪れたらこちらのマプート中央駅は絶対外せない観光スポットです。 市場:海外に観光に訪れたら、絶対に訪れて損しないのがマーケットです。どの国もどの観光地もそれぞれ異なる個性があるので、何も買わなくてもマーケットを歩いているだけで何か新しい発見がある観光スポットといえるでしょう。 こちらのマプート・セントラル・マーケットもオススメの観光スポットです。モザンビークらしいフルーツや野菜は初めて見るものも多いはずです。 12:00マプト空港 13:45マプト空港カタール航空で出発。 23:15ドーハ空港到達。 6日2:10ドーハ空港カタール航空で出発。 18:40成田空港到達。 20:40成田空港ジェットスターで出発。 22:00関西国際空港到達。 今回の旅行、南部アフリカの4つの国、南アフリカ、レソト、エスワティニ、モザンビークを訪れ、大自然、サファリ、歴史的建造物を巡り満喫しました。 各国の首都にある歴史的建造物、イギリス、ポルトガルの植民地で景観が異なるが歴史的意義を感じる建造物でした。 南アフリカからレソトの国境に向かう道路、4WDでないといけない悪路、苦労して走行しながらドラケンスバーグの景観、天候もよく最高の景勝地でした。 南北に350kmもあるクルーガー国立公園のサファリ、南のほんの一部のドライブサファリでしたが、ウオーターバック、象、インパラ、カバ、シマウマ、バッファロー、キリンに出会い感動しました。 南部アフリカ4カ国のドライブ観光、9日間の旅、堪能しました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十五弾:中国福州観光 2019年2月9-11日 アジアの大陸中国に足を運び、福建省の省都であり、歴史の古い町で国家歴史文化名城に指定され、国から保護すべき都市とされています福州をおとずれずれました。 9日19:20関西空港厦門航空で出発 22:00厦門空港到達、タクシーで厦門駅付近のホテル到着後就寝。 10日6:30タクシーで厦門駅に向かう。 8:00厦門駅高速鉄道で出発 10:25福州駅到達、散策。 西湖公園:福州の中心地から少し北西に移動した場所の人口湖にある観光スポット、西湖公園。約1700年前に福州の農業潅漑用として造られたと言われている人工湖には、左海公園や福建省博物館などもありますので、西湖公園と併せて訪れていただきたい観光ポイントです。 西湖公園の見どころは、なんといっても庭園です。保存状態がとてもいい中国の古典的な園林で、いくつかの小島は橋で繋がっています。木を剪定して造られたパンダや、有名な鉄観音茶を始めとする中国茶の葉が栽培されていたりと、見所盛り沢山ですよ。 三坊七港:福建省福州の旧市街地が保存・修復された観光スポット三坊七巷。名前の通り、3つの通りと7つの路地で構成されています。景観を大切に保存されているため、スターバックスコーヒーなども風景に溶け込むように造られています。まるで日本の京都のように、見知った店もいつもと違う雰囲気になっていますよ。 三坊七巷には明時代や清時代に建てられた福州の建物が保存・修復されているため、旧市街地そのものが建物博物館のような観光スポットになっています。一部の建物は内部も公開されているので、当時の生活の様子や家具、書画などを見ることが出来る福州ならではの観光名所です。 もちろん建物を見るだけではなく、買い物をすることもできます。福州名産のお茶を購入したり、食事をしたり、お土産を購入したりできます。南后街には休憩所もありますので、屋台で買ったものを食べながら、昔ながらの風景を楽しむことも出来るおすすめスポットです! 林則徐紀念館:福州市出身の政治家である林則徐について様々なものが展示されている観光スポットです。林則徐はイギリスから密輸されていたアヘンを林則徐が廃棄したことにより、アヘン戦争が始まったと言われています。 館内の写真も可能なので、ぜひ歴史に興味のある方は、福州観光の際に訪れていただきたい記念館です。この林則徐紀念館では、観光客向けに林則徐の生涯を展示していて、肖像画や遺品、生い立ちから特命大使に昇格するまでの道のりなど、様々な展示物を見ることが出来ます。 最終的にイギリスとのアヘン戦争には負けてしまいましたが、それでも林則徐の清廉潔白な生きざまから、福州市民だけでなく中国人にとても人気が高い愛される政治家です。 于山風景区:福州市の中心付近にある于山風景区は、海抜約60mとさほど高くはありませんが、福州市内を一望することができる観光スポットです。于山風景区の中には、福州市博物館や白塔寺など様々な展示や寺院があります。特に、白塔寺にある八角形の白塔は福州市でも有名な観光スポットです。 他にも、碑石がガジュマルの木に覆われてたてがみのように見えるため獅子岩と呼ばれる岩があったり、福建事変についての展示がされていたりと、自然の中を散歩しながら様々な展示を見ることもできますし、外を歩いて寺院を見て回るだけでも楽しめる景勝地です。 烏石山風景区:福州市のほぼ中央に位置している観光スポット、烏石山風景区。烏石山とは言いますが、海抜約90m程度なので散歩気分で訪れても大丈夫ですよ!福州市の中央にあるだけあって、観光客だけでなく地元市民もよく利用している自然豊かな名所です。 様々な観光ポイントがありますが、中には中国語で書かれた石など、中国語が読めないとよく分からない場所もありますので、眺めるだけでも楽しめるポイントを2か所案内します。まず烏石山風景区観光の際に、ぜひ見ておいて頂きたいのが鳥塔です。于山風景区にある白塔と対をなす福州市の観光スポットとして人気で、八角形7階建ての塔は8世紀頃に建造されました。 西禅寺:西禅寺は福州市中央市街地から西に少し進んだ場所にあります。867年に建造された西禅寺は、広大な敷地の中に福州市最大の高さ67mある報恩塔や五百羅漢堂、玉仏堂を見ることができる観光スポットです。報恩塔は登ることもできますので、西禅寺観光に訪れた際はぜひ登って周囲の景観を楽しんでくださいね! また、五百羅漢堂にも外を眺めることが出来る回廊がついているので、五百羅漢堂に登れば報恩塔越しの福州市を眺めることもできます。西禅寺は景色だけではなく内観も素晴らしく、天井にも装飾が施されていたりと様々な観光ポイントがありますので、ぜひじっくりと眺めてみて下さいね。 17:00タクシーでホテルに向かう。 17:30ホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 11日7:00タクシーで福州駅に向かう。 8:51福州駅高速鉄道で出発 11:07厦門駅到達。タクシーで厦門空港に向かう。 12:00厦門空港到達。 14:25厦門空港厦門航空で出発 18:20関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸中国に足を運び、歴史の古い町で国家歴史文化名城に指定された福州に足を運び歴史的建造物に触れて楽しみました。 観光名所の規模は小規模で他の町にもよくある湖の公園、小山に聳える寺院、古い歴史的建造物が並ぶ商店街等の構成した。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十一弾:マカオ観光 2019年1月12-14日 中国広東省南部、珠江デルタの西岸に位置し、中国本土の珠海に隣接、香港からは西に約60kmの距離にあります。マカオ半島とタイパ、コタイ、コロアンから成る島で構成されています。マカオ半島は地域の中心で、タイパとは3つの橋で結ばれています。タイパとコロアン間の埋め立て地に新しく開発されたコタイ地区には、多くの大型国際リゾートホテルがあり、新しいインフラも整備されつつあります。16世紀半ば、ポルトガル人が上陸し定住しました。それ以来マ建築、アート、宗教、伝統、料理、地域社会は、東洋と西洋、中国とポルトガルの各文化を融合した色彩を持っています。1999年12月20日、中華人民共和国の特別行政区となり、「一国二制度」の原則の下、高度な自治権を行使しています。埋め立て地に多くの複合施設が建てられるとともに面積も拡大し、新しい観光スポットも増えています。2005年に「マカオ歴史市街地区」は、その独自の歴史的・文化的景観により、ユネスコの世界文化遺産に登録されました。国際的観光地としての質を高めつつあり、「世界観光の中心地」と位置づけようとしていますマカオのタイパ、コタイ、コロアンを訪れました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十弾:ボリビア観光 2018年12月28日-2019年1月5日 世界最高所の首都ラ・パスをはじめとして、標高3000~4000mに数多くの町が存在し、アンデス山脈の奥地に広がる天空の国。あまりに高い場所であるため、隔絶された場所と思われがちだが、豊富な鉱物資源によって、世界史上に大きな役割を果たしており、銀山で知られるポトシは、16~17世紀には南北アメリカ大陸最大の町でもあった。人口は約1067万人。面積は約110万km2、日本の約3倍で、ペルーとほぼ同じ広さをもつ。国土の3分の1近くをアンデス山脈が占め、6000m級の高峰が14座もある。人口比率は、純粋なインディヘナ20%、インディヘナとヨーロッパの混血メスティソが68%といわれ、南米のなかでも特に先住民の人口が多い国。したがって、民族衣装に身を包んだ人々の姿を多く見かけ、南米らしさを象徴する国となっている。民族衣装は、丸みを帯びた山高帽、毛織物のショール、多くのヒダをもつスカートなどが特徴的。一見すると、スペイン人入植以前の伝統的な衣装かと思ってしまうが、山高帽はシルクハットが起源になっているなど、実はヨーロッパのファッションを取り入れて生まれたもの。豊かな先住民文化にヨーロッパ的要素を加えて生まれた独自の文化こそ、旅人を魅了する要素でもある。ラ・パスのカルナバルやオルーロのディアブラーダ(悪魔の踊り)など地方や町ごとに受け継がれてきた伝統行事そのものがこの国の見どころであり、長く滞在すればするほど、魅力にあふれた国だと感じる。植民地時代の面影を色濃く残しユネスコの世界遺産に登録されているポトシやスクレ、世界最大の塩の湖であるウユニ塩湖など有名なボリビアを訪れました。 12月28日7:10伊丹空港日本航空で出発 8:15羽田空港到達、バスで成田空港に向かう。 10:00成田空港到達。 15:25成田空港アエロメヒコ航空で出発 13:00(?15時間)メキシコシティ到達 17:15メキシコシティアエロメヒコ航空で出発。 29日00:10リマ空港到着、空港前のホテルで就寝。 5;:55リマ空港ラタム航空で出発。 7:22クスコ空港到達 10:25クスコ空港エアエンタープライズ航空で出発 12:20ラパス空港到達バスで移動、市内観光。 ラパス:標高3600メートルに位置し、独特の文化を持つ多民族が住み、スペイン語で「平和」という意味を持つラパス、ボリビアの最大の街ラパスですが、憲法上の首都はスクレです。しかしながら行政や立法府があるラパスが事実上の首都であり、最大都市となっています。そんなラパスの街は、常々「すり鉢状」と形容されます。山の上から眺めるこの「すり鉢」の様子は非常に美しいのですが、なぜこのような形になっていったのでしょうか? ラパスは標高3600メートルと、世界でも最も標高の高いところにある街です。富士山よりも高いところにあるのです。周囲には6000メートル級の山々がそびえたち、標高差の激しいこの地では、少しの高度の差によって、酸素の濃度が大きく変わってきます。元々は山のふもとにある高度の低いところに移り住んできた人に加えて、どんどんと増加していく人の数に土地の広さが追い付かず、標高の低いところを中心として、周囲の標高が高いところにまでも人々が居住するようになりました。 酸素濃度は人々の体調に顕著な影響を及ぼすため、現在では経済的な余裕のある富裕層は「すり鉢」の底辺部に住み、逆に余裕のない人たちは上層部に住むという形態になっています。その標高の差は、なんと400メートル!このすり鉢状の美しい景色は、世界で一番高度の高いところにあると言われているラパスの空港から街に向かう時にも見られます。 ミラドールキリキリ:ラパス市内を一望できる公園として観光客に人気を誇っているミラドールキリキリ。昼間に訪れれば、すりばちの外側にある雪山を眺めたり、すりばち状の町並みをはっきりと視界に収めることもできますし、お気に入りの1枚を写真に撮ることもできます。 また、夕方だんだんと日が暮れていき、赤茶色の家々に電気が灯り始めていく様子をのんびりと時間をかけて鑑賞する時間も、ラパス観光の思い出として深く刻まれていくはずです。 ムリリョ広場:この広場にはラ パス有数の優れた建築物が集まっています。すばらしいネオクラシック調のファサードとステンドグラスの窓が印象的な、ラパス大聖堂です。その隣の 19 世紀の軍服に身を包んだ衛兵が門を守る優雅な建物は、大統領官邸です。 東側には歴史あるパラシオ レジスラティボ (国会議事堂) が建っています。元々この場所には女子修道会がありましたが、のちに大学となり、さらにそののちの 20 世紀初頭に現在の国会議事堂が設立されました。コリント式の柱と大きなドームが目を引く、すばらしい建築物です。 ラパス大聖堂:ラパス中心地ムリリョ広場をぐるっと囲うように歴史的建造物が建っていますが、その中でも目立つ植民地時代の建物がラパス大聖堂です。 ネオクラシック様式とバロック様式が合わさった外見にまず注目して見てみてください。内部はシンプルな内装でまとまっていて、祭壇の後ろに位置する美しいステンドグラスや高い天井に吊るされたシャンデリアが目に飛び込んできます。細かいデザインで丁寧に作られていて、差し込む光により厳かな雰囲気が増していますよ。 また、19世紀にボリビアの大統領であったカラウマナ氏のお墓がこの大聖堂内に納められていることにも注目です。 サンフランシスコ寺院:ラパスの旧市街から少し離れたところに位置するサンフランシスコ教会は、ラパス市民も観光客も多く集まるラパスの人気観光スポットです。威厳溢れる外観は見事で、標高3,800mの地点にこの建物を建てた苦労を考えるとより凄みが増しますね。 内部は写真撮影が禁止なのが残念ではありますが、祭壇や中庭、回廊も見ごたえがありつい長居してしまいたくなります。現在でももちろん教会としての機能を果たしていてミサに訪れるラパス市民も大勢いるので市民の信仰を多く集めている教会と言えるでしょう。 サガルナがガ通り: ラパス旧市街に位置する観光スポットで、別名「魔女通り」と呼ばれているサガルナガ通り。ラパスでは古くから伝わる民間信仰が現在もある程度根付いていることもあり、それらに使用する素材がこのサガルナガ通りで売られていて、ヨーロッパの価値観でこれを「魔術」だと表現したことからこの名が付きました。 この通りでよく見かけるのはリャマの子どものはく製。交通安全や商売繁盛を願う際の供物として使われるようです。ほかにはカエルや昆虫といったものも売られていて、予備知識がないまま訪れた観光客は驚いてしまいそうですね。もちろんアクセサリーや雑貨なども多く売られているので、安くてカラフルでかわいらしいと観光客にも人気のお土産を見つけるために通りをぶらぶら歩いてみましょう! ロープウエイ乗車体験:ロープウェイであるミテレフェリコは、2014年に開業した公共交通機関。今までは自動車で30分以上の所要時間だった区間が10分で到着できるようになり、今やラパス市民の欠かせない交通機関となっています。市民の足として役立っているミテレフェリコですが、ロープウェイが上がっていくと同時に小さくなって行くすりばち状のラパスの町並みを一望できる場所として観光客も多く利用しています。 同じ色でそろえられた屋根の色が町並みに統一感をもたらしていてとってもきれいです。また、切り立った崖や民家のすぐそばを通るので多少のスリルを味わえるというところも密かなオススメポイントです。 17:30ラパス市内のホテル到着。 19:00ホテルで夕食。 22:00就寝。 30日5:00ホテルバスで出発ラパス空港に向かう。 5:30ラパス空港到達。 7:30ラパス空港エアエンタープライズ航空で出発 8:10ウユニ湖到達。 ウユニ:ウユニは本当に小さな町。ウユニ塩湖以外では目立った観光資源もなく、旅行者にとっては、本当に塩湖観光への中継地点といった場所だと思います。とても広い道路にはほとんど車も走っていません。建物も低く、中心地を少しはずれると、こんな風に人もほとんど歩いていないことと思います。そんな小さな町なのですが、ほぼ唯一人がたくさんいる場所が、やはりメルカド。市場ですね。 ウユニ塩湖:南米のボリビア西部にある都市ウユニから車で1時間ほど、アンデス山脈に囲まれた広大な塩の大地「ウユニ塩湖」。 標高約3,700mと富士山と同じくらいの高さに位置し、南北約100km×東西約250km、面積約11,000km2に広がっています。 ちなみにその広さは…岐阜県=10,620km2とほぼ同じ! 見渡す限り真っ白の神秘的な大地が出来た背景として、はるか昔、アンデス山脈が海底から隆起した際に大量の海水が山上に残ったため、この広大な塩湖が形成されたといわれています。 塩湖全体の高低差がわずか50cm以内という「世界で最も平らな場所」であるウユニ塩湖では、降った雨が流れることなく大地に薄く膜を張ることで、空を湖面に映し出す「天空の鏡」と呼ばれる神秘的な絶景が現れます。 8:20ホテル到着後朝食。 9:304WDでウユニ塩湖周辺観光 列車のお墓:ウユニの街は昔、鉱山資源が運ばれる列車の重要ルートでした。イギリスのエンジニアたちによって1888~1892に渡り線路が作られウユニの街を通りぬけて太平洋側へ資源が運ばれていましたが1940年代に資源の枯渇により鉱業が衰えてしまい多くの列車が廃棄され今の列車の墓場を成しています。 コルチャ二村:コルチャ二村はウユニ塩湖の入り口から最も近い集落になります。村では塩湖で取れる塩を食塩に加工したり、圧縮して置物やコップなどを製造・販売しています。食塩精製の過程を見学することができます。メインストリートには土産物屋が軒を連ね、ボリビア原産の土産物を買うことができます。 12:00ホテルで昼食。 17:304WDで夕日鑑賞 20:00ホテルで夕食 31日4:45ホテル前で星空観測後4WDで移動朝日鑑賞 7:00ホテルに戻り朝食。 10:004WDで出発、ウユニ湖の幻想的な光景鑑賞 12:00ピクニックランチで昼食 13:00出発 14:00パリダカールの終着点モニュメント到達、記念撮影。 14:30出発。 16:00ホテル到着。 19:30夕食。 21:00星空観測。 22:00就寝。 1日4:00朝日鑑賞、 5:00空港に向かう。 8:35ウユニ湖空港エアエンタープライズ航空で出発。 9:20ラパス空港到達 10:00ラパス空港エアエンタープライズ航空で出発。 9:55クスコ空港到達、出国、入国手続きに時間がかかりチェックインできず、仕方なく後続便に乗り換え 11:31クスコ空港ラタム航空で出発予定、出国、入国手続きに時間がかかりチェックインできず、仕方なく後続便に乗り換え 18:10クスコ空港ラタム航空で出発 19:45リマ空港到達、メキシコシティ行きの航空機に乗り遅れる。空きのある航空機を手配する。 3日8:35リマ空港アエロメヒコ航空で出発 18:55メキシコシティ到達 4日03:05メキシコシティアエロメヒコ航空で出発。 5日8:20成田空港到達。バスで羽田空港に向かう。 11:30羽田空港日本航空で出発 12:40伊丹空港到達。 今回過去にないハードスケジュール旅行、ウユニ塩湖まで6回の飛行機に乗り換え、又ウユニ塩湖では朝日、夕日、星空の観測で睡眠時間を減らしてのウユニ塩湖観光でした。 日本の裏側にある遠方のボリビア、訪れるのに相当の時間がかかり、ウユニ塩湖での観光は、かなりタイトであるがそれに見合う光景で満足しました。 ウユニ塩湖で目の当たりにした光景、はっきりした大きな星の観測、朝日、夕日の幻想的な光景、極め付きは広大なウユニ塩湖を4WDで広い範囲走行してウユニ塩湖の素晴らしさ、塩湖に溜まった水による鏡面光景、感動しました。遠方ですが一度は訪れたいウユニ塩湖でした。 一方首都ラパスのすり鉢状の町、そのため急な坂道が多く、鉄道を敷くことが難しく、世界的類のない公共の交通手段はロープウエイであることに感動しました。 尚今回の旅行の全工程を1週間前に知らされましたが伊丹空港からの航空機の出発時間が早いにもかかわらず、成田空港での搭乗時間遅く、かなり待たされました。 又南米での航空機の乗り継ぎがタイト、企画した人に出発前に電話で聞きましたら、年末年始で混み合い、これらの航空時間しか取れない、今からは変更できないとのことで、問題ないことを祈って出発しましたがやはり航空機の乗り継ぎに問題があり、かなりの時間を要して日本に遅れて到達しました。 以前寒波で3日間日本に遅れて到着したことがありますが、今回は航空機の乗り継ぎがタイトで乗り遅れ、日本に到着するのが遅れました。これからの海外旅行、現地、乗り換えの飛行場は寒波のない時期、暖かいところ、乗り継ぎがタイトでないことを確認して決めたいと思います。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十九弾:中国厦門観光 2018年12月22-24日 アジアの大陸中国に足を運び、福建省南部、九龍江の河口に開けた海浜都市。厦門港には「海上の楽園」と呼ばれる島が浮かび、温暖なリゾート地としても知られる。古くから東南アジアとの交易があり、経済特区として発展を続けている厦門を訪れました。 22日19:20関西空港厦門航空で出発 22:00厦門空港到達、タクシーで厦門市内のホテルに向かう。 23:00ホテル到着就寝。 23日7:30タクシーで南西部に向かう。徒歩で観光。 胡里山炮台:市の南西の胡里山海岸にある清代の砲台跡。清の光緒22年(1896年)に造営されたもので、大砲は口径28cm、砲身約14mのドイツ製クラップ砲。天気によっては望帰台から金門島を望むことができる。 厦門大学:南普陀寺に近いアモイ島西部のオーシャンフロントに位置する国立の名門大学。作家・魯迅が教鞭をとったことでも知られている。瑠璃瓦の建物がクラシックな雰囲気で、キャンパスには熱帯の植物が生い茂っている。 南普陀寺:唐の時代に建設されたという南普陀寺は、多くの華僑の人々から信仰されている寺で、福建省ではとても有名なお寺として知られています。千年余りの古い歴史を持つ寺院ですが、再建を繰り返して現在の姿になっており、廈門でも有名な観光スポットの1つです。 中国を感じることができる立派な寺や、庭園、大きな岩といった見所も多くあります。また、裏山はハイキングも可能です。山頂目指して歩く観光客もよく見かけます。頂上からは廈門の街や海の風景が見られるので、ハイキングがオススメ。ただし、かなりの高低差があるので体力がない人には少々きつめです。 園林植物園:市街の南東部、万石山の山裾に493万平方mもの敷地を有する広大な植物園で、別名「万石植物園」ともよばれる。庭園風の園内は20のゾーンに分けられ、熱帯・亜熱帯の植物を中心に約3000種もの植物が栽培されている。 中山路歩行街:中洋折衷建築が数多く残るアモイのメインストリートで、歩行者天国として整備。ファッションやアクセサリー、みやげの店が立ち並ぶほか、小腹を満たすのにぴったりなB級グルメの店、いっぱい。 14:10厦門港フェリーでコロンス島に向かう。 14:35コロンス島到達。散策。 コロンス島:多くの観光客が訪れるコロンス島。廈門きっての人気観光スポットで、中国にありながら、まるで南国リゾートにいるような雰囲気を味わえるので、中国国内だけでなく世界中から観光客が訪れる人気の観光スポットです。租界時代の建物のが残っているので、「万国建築の博物館」とも呼ばれます。また、ピアノが多くあり、ピアノの博物館があるので「ピアノの島」という別名まであります。 ヨーロッパとアジアが混ざったような街並みは、中国にいるとは思えないほど。レンガ作りの店や家が並んでいるので、散策がとても楽しい島ですよ。コロンス島は高低差があるので、履きなれた歩きやすい靴でいくのをオススメしますよ。 日光岩:廈門を訪れる際に外せない観光スポットのコロンス島ですが、そんなコロンス島のシンボルとも言えるのが日光岩です。別名で晃岩、岩仔山とも呼ばれおり、1647年に鄭成功がここを訪れた際、日本の日光山より美しいと感じ、その名前を付けたという言い伝えがあります。高さ約93mの日光岩はコロンス島で一番高い山といわれ、なんと直径40mを越える巨石なんですよ。 日光岩の展望台からはコロンス島と廈門市内が一望でき、その眺望と開放感は抜群!有名な観光スポットなので、多くの観光客で賑わっています。 菽庄花園:コロンス島の南部、海が見渡せる崖に菽庄花園は位置しています。1913年に建設され、もともとは地方の名士の個人的な別荘だったそうですが、その後1955年に公園として寄贈された菽庄花園は、廈門を訪れる観光客にも人気のスポットです。 自然にできた崖の窪みを上手く利用して作られた庭園は、蔵海園と補山園の二つに分けられ、きれいに整備されています。景色がとてもよく写真撮影も楽しめるので、観光の際にはカメラをお忘れずに。 また、庭園の上の方には中国で唯一といわれる有名なコロンス島ピアノ博物館があります。世界各国から集められた年代物のピアノがずらりと並び、変わった形をしたものが展示されていたりと、とても見応え十分。ピアノに詳しくない方でも楽しめる廈門の観光スポットとして有名ですのでお見逃しなく。 風琴博物館:珍しいオルガンを多数展示する博物館。建物は“八卦楼”と呼ばれるコロンス島で最も有名な洋館の一つ。コロンス島出身の個人収集家のコレクションを中心に、大小さまざまなオルガンを展示している。 17:40コロンス島フェリーで出発。 1810厦門港到達。タクシーでホテルに向かう。 18:50ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 24日9:00タクシーで北に向かう。散策。 嘉庚公園:厦門出身の華僑・陳嘉庚が1950年に厦門の解放を記念して造営をはじめた庭園。3万平方mの敷地内は中国式の庭園を基本にしており、陳嘉庚故居や記念館などが点在。隣接する鰲園には陳嘉庚の墓がある。 12:00タクシーで厦門空港に向かう。 12:40厦門空港到達。 14:25厦門空港厦門航空で出発。 18:20関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸中国に足を運び、租界時代の異国情緒あふれる建物が残る厦門を訪れ、歴史的建造物、寺院、植物園、博物園、世界遺産のコロンス島を巡り楽しみました。 今回も中国旅行トラブルあり、世界遺産コロンス島に向かうフェリー乗り場、ガイドブックで確認してたどり着きましたが、この港からは観光客はフェリーに乗れない、住民のみといわれる。中国語ですのでよくわからない、時間がかかりましたがバスで厦門港に移動して厦門港からフェリーに乗れとのことでした。2014年にコロンス島は世界遺産に登録されてから観光客急上昇、本来の港から観光客収容できず、大きな厦門港に変更になったとのこと。持参のガイドブックは2013年度版内容が古く、港の変更がなかったため理解するのに苦労しました。 尚厦門空港飛行機は豪華ではないが、安全性、運航性問題なく、安心して乗れる飛行機でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十二弾:中国無錫観光 2018年11月3-4日 アジアの大国、中国に足を運び、上海から高速鉄道で45分の位置にあり、中国南部に位置し、上海から130km離れた街、かつて錫鉱石の採掘量が多い土地でしたが、漢代初期のころまでに採掘し尽くしてしまい、そこから「錫の無い街」と呼ばれるようになりました。三国志に登場する呉の発祥の地であり、3,000年の歴史を持つ「江南の名城」と中国では呼ばれていますが改革開放以降、日本企業の進出も目覚ましい、太湖を中心とした風光明媚な観光地から霊山大仏や水滸城、三国城など中国ならではのスケールを持つテーマパークまで、あらゆる観光客が楽しめる無錫を訪れました。 3日10:10関西空港日本航空で出発 12:05上海浦東空港到達。リモーターカー、メトロで上海駅下車。 15:00上海駅高速鉄道で出発。 15:42無錫駅到達。メトロで南禅寺下車、清名橋古運河景区散策。 南禅寺:無錫でお土産探しをするならここ。古刹「南禅寺」を中心に広がる繁華街で、伝統工芸品店から無錫の中高生に人気のアニメショップ、ファッション雑貨店などがずらり。地下にもお土産屋さんが並んでいます。 清名橋古運河景区:昔ながらの街(老街)がある。別名は清名橋古運河景区。運河の周囲には昔ながらの建物が広がっている観光スポットだ。この運河から一歩、道を入ると、飲食店を中心に商業街が展開されている。清名橋古運河景区は、2014年6月に世界文化遺産に認定された京杭大運河(黄河、長江など、全長1,797km)の一部。 この清名橋古運河景区は全長5.5km。2010年6月、中国歴史文化名街に認定され、観光スポットして多くの人が訪れている。清名橋古運河景区の歴史は古く、10世紀ごろにできたようだ。派手な商業街のようなところではなく、独特の雰囲気ただよう観光地だ。 18:20市内のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 4日7:30タクシーで蠡園に向かう。 8:00蠡園観光、その後歩いて黿頭渚公園に向かう。 太湖:江蘇省と浙江省にまたがる湖・太湖は、琵琶湖の3倍の面積を有する巨大湖。蘇州側の湖畔よりも観光地が集中しているのが無錫側太湖の特徴で、テーマパークや史跡も湖沿いにあります。もっともよく知られている観光地点は「鼋頭渚」。遊覧船や山の上から広大な風景を眺めることができます。無錫きっての桜の名所でもある。 黿頭渚公園:無錫のシンボルでもある二つの山、錫山と恵山に挟まれた公園です。緑豊かで、地元のお年寄りたちとのんびりなごめる(現地の60代以上は入場無料だそう)だけでなく、史跡めぐり、登山、古鎮散策、お寺めぐり、庭園めぐりも楽しめるんです。明代に建てられたお寺や古民家、庭園、宋代に架けられた橋など、数100年から1000年の歴史を持つ見どころがいっぱい。 9:30タクシーで恵山古鎮に向かう。 恵山古鎮:まるで昔の中国にタイムスリップしたような、古い建物が建ち並ぶ観光スポットです。格安でグルメを楽しめる屋台がずらりと並んでいたり、お土産屋さん、旧家が連なっています。食べ歩きを楽しんだり、お買い物をしたり、ぶらりと散策するのに適している場所です。 徒歩とメトロで無錫駅に向かう。 12:00無錫駅到達。 12:57無錫駅高速鉄道で出発。 13:40上海駅到達。メトロ、リニアモーターカーで上海浦東空港に向かう。 15:30上海浦東空港到達。 17:45上海浦東空港日本航空で出発。 21:00関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、上海から高速鉄道で45分に位置する無錫を訪れ、水郷の町を散策して観光いたしました。 毎回中国旅行、アクシデントが付き物でしたが今回は問題なく観光できました。 強いてあげると黿頭渚公園を散策中、市民マラソンに出くわし、さすが中国2万人のランナーでした。大勢のランナーのため橋を通過するのに30分待たされました。 一方ラッキーなことがありました。帰りの飛行機、特典航空券を利用していましたがビジネス席に空きがあったため無料でアップグレードしていただきました。ビジネス席、快適で立派なフランス料理も出てきました。 ビジネス席を利用しますとエコノミー席利用できなくなりますね。 海外旅行の飛行機の旅はアウトドアスポーツと考えています。 体力のある限りエコノミー席で頑張ります。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十八弾:中国紹興観光 2018年10月6-8日 アジアの大陸、中国に足を運び、上海から高速鉄道で1時間30分に位置し、浙江省の北東部にある古都。中国十大名酒の一つである紹興酒でも有名。また多くの偉人を輩出しており、作家魯迅、清末の女性革命家秋瑾や教育家蔡元培の生家がある紹興を訪れました。 6日16:10関西空港全日空で出発 17:25上海浦東空港到達、リニアモーターカー、メトロで伊梨路駅下車 19:20駅前付近のホテル到着後就寝。 7日6:00出発、メトロ伊梨路駅乗車上海虹橋駅に向かう。 6:40上海虹橋駅到達。 7:37上海虹橋駅高速鉄道で出発 9:05紹興北駅到達、タクシーで紹興駅に向かう。 9:30紹興駅到達、観光名所歩いて回る。 紹興:中国・浙江省に位置する紹興は、「紹興酒」で有名な水郷の街です。また、日本でも有名な小説家・魯迅の故郷でもあります。日本人にはあまりなじみのない観光地かもしれませんが、実は上海から新幹線に乗って1時間半で行くことができ、気軽に街歩きや食べ歩きを楽しめる穴場スポットなんです。 中国黄酒博物館:紹興といえば、やっぱり紹興酒ですよね。黄酒博物館は、2007年にできたまだ新しい博物館です。 紹興博物館:紹興の歴史を学びたいならこの紹興博物館がおすすめ。1993年にオープンした紹興博物館にはたくさんの紹興文化や風土に関する展示物があります。近くにバス停もあるのでアクセスも便利です。 秋瑾故居:清末の女性革命家秋瑾の実家跡。役人であった祖父の任地、福建アモイに生まれた秋瑾は16歳のとき、 家族とともに紹興に帰郷、ここで少女時代をすごした。その後、21歳で結婚、夫にしたがって北京へ出たものの、 1900年に起こった義和団事件を目の当たりにし、革命家となることを決意。夫と子供を置いて日本へ留学した。帰国後は、 再び紹興に舞い戻り、体育学校の校長という身分を隠れ蓑に同志の徐錫麟らとともにひそかに革命運動を推し進めた。だが、 1907年夏、徐錫麟の安慶蜂起が失敗すると、共同謀議のかどで逮捕、処刑された。なお伝えられるところによれば、 処刑の際、「秋雨秋風人を愁殺す」という絶命詞を残したとされる。実家跡は現在、秋瑾故居および秋瑾記念館として 一般公開されている。館内には彼女の書簡や詩文、生前愛用していたショールや日本刀、さらに外出の際、 常に身につけていたという拳銃などが展示されている。市内解放南路を南にくだり、応天塔を右側にはいった 和暢堂22号にある。 魯迅故里:もう江南水郷の雰囲気が溢れている街に建設された。魯迅の作品の中で描写された小さい頃の楽園百草園、三味書屋、小説中の咸亨酒店、魯迅が住んでいた家など全部見られる、街を歩きながら、当時の環境を実感することができる。魯迅記念館の陳列館には魯迅小説の原稿、写真、手紙など600点余りが展示されている。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十七弾:台湾台北近郊観光 2018年9月22-24日 中国大陸の東に位置し、かつて日本の植民地でありながら、限りなく日本に愛着と憧憬を持ち続けている人が多く、訪れたならば彼らのあたたかい気持ちにふれることができるだろう。グルメ王国ともいわれる美味しい食べ物と寛ぎのお茶文化、トロピカルな自然とハイテク産業が同居し、漢民族文明と先住民族の文化に触れる島。心からの癒し、エネルギッシュな活力を与えてくれる台湾に足を運び、台北の近郊の新北投温泉、烏来、鶯歌、三峡、新竹を訪れました。 22日16:00関西空港ピーチで出発 17:50台北桃園空港到達、MRTで台北市内に向かう。 19:30台北駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就職。 23日8:00出発、地下鉄で烏来に向かう。 烏来:温泉・トロッコ・ロープウェイ・白糸の滝・タイヤル族など、様々な観光スポットがある「烏来(ウーライ)」。温泉街から滝までを繋ぐトロッコは、自然の景色を楽しみながら移動できる乗り物として人気を集めています。急な斜面を大きな音を出して駆け抜けるトロッコはスリル満点!他にも美人湯温泉やタイヤル族の料理など、観光スポット盛りだくさんの烏来に足をのばしてみてください。 地下鉄で台北駅に戻る。 鉄道で鶯歌に向かう。 鶯歌:湾最大の陶器の街「鶯歌」には、伝統的なものからモダンなデザイン、人気作家の作品まで、さまざま陶磁器のお店が集まっています。とっておきの逸品から、お土産まで是非お気に入りの品を探してみて下さい。 タクシーで山峡ぬ向かう。 山峡:赤煉瓦の美しい趣を持つ人気の観光地「三峽老街」は、台湾の文化とヨーロッパの雰囲気が入り混じり風情溢れる街です。名物の台湾クロワッサン「金牛角」も是非お試しください。 タクシーで頂捕に向かう。 頂捕から地下鉄で新北投に向かう。 新北投到着 新北投温泉:温泉スポットが多くあり、その中でも有名なのが「北投温泉」。台湾屈指の温泉リゾート地となっており、緑に囲まれた山々の間に広がる温泉街は日本人に馴染み深い光景です。台北から電車で30分というアクセスの良さも嬉しいところ。観光に疲れたら温泉に浸かって、ゆっくり過ごすのもおすすめです。 地下鉄で中山に向かう。 中山下車徒歩で数分のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 6:00出発、地下鉄で台北駅下車、バスターミナルで新竹に向かう。 新竹:1875年淡水庁の廃止とともに、竹塹は新竹城と改められました。1982年に新竹市は台湾省の直轄市となり、周辺を合併して面積も49平方キロから104平方キロと拡大されました。近年では台湾のシリコンバレーと呼ばれる"新竹科学園区"の設置により、エレクトロニクス、化学工業、軽工業が発展し、新竹市の発展の原動力となっています。 新竹市は新竹県西北の新竹平原の中心に位置し、海抜120メートル、東南は十八尖山、牛埔山などの山に囲まれ、西は海に面しています。このため、ここの地形は西の海に面した塵取りに喩えられ、平地は全体の3/4を占めています。 台北桃園空港、鉄道、地下鉄で向かう。 13:40台北桃園空港到達。 24日18:30台北桃園空港出発 22:15関西空港到達。 今回の旅行、中国大陸の東に位置する台湾に足を運び、台北近郊の都市、新北投温泉、烏来、鶯歌、三峡、新竹を訪れ楽しみました。 派手さもなく、比較的マイナーな観光名所、鉄道、地下鉄、バス、タクシー、あらゆる交通手段を使って訪れ堪能しました。 新竹から鉄道で東北方面の基隆に行く予定でしたが、台風24号の影響で大雨雨とのこと、早々と台北桃園空港に向かいました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十六弾:中国鎮江観光 2018年9月15-17日 アジアの大国、中国に足を運び、長江下流の南岸に位置する古都で、水陸交通の要衝となっている。美しい自然に恵まれ、「森の都」と呼ばれる。「白蛇伝」で知られる金山、「三国志」の甘露寺など歴史的見どころも多い鎮江を訪れました。 15日15:55関西空港全日空で出発 17:10上海浦東空港到達、リニアモーターカー、地下鉄で上海駅に向かう。 19:10上海駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 16日8:10上海駅高速鉄道で出発 9:51鎮江駅到達、散策 金山公园 :金山寺の観光のために公園に入場するといった感じです。広大な湖があって、一周するにはかなりの広さです。対岸に渡りたかったのですがショートカットはなく、ボートしかなさそうでした。 公園内はよく整備されていていろんな花が咲います。 镇江金山寺 :黄色の禅寺が目に入ります。かなり立派なお寺で、中の仏像なども圧倒されますが金山という小山に建っていますので、上に上ると絶景を眺めることができます。 天下第一泉 :金山のすぐわきに有る「天下第一泉」 唐の時代にお茶を沸かすのに最も最適な 船室として認められた場所、今でも湧いてます。 古西津渡街:鎮江の港に近い場所にある古い風情を感じられるエリアです。帝国列強の脅威にさらされたいた19世紀に栄えた町のようで、昔を想像しながら散策すると楽しいです。 镇江博物馆 :観光地・西津渡古街の隣、元は英国領事館だった建物です。 街の規模に合わせた、地方の資料館という感じでした。 北固山 :中国の江蘇(こうそ)省鎮江(ちんこう)(チェンチアン)の長江河畔に立つ山。絶壁が険しく堅固なため、この名がついた。頂上には甘露寺が、三国時代の256年に建てられたと伝えられていて、『三国志』を知る上では重要な場所といわれる。梁の武帝がこの山に「天下第一江山」の名を与えたといわれ、山の中腹には石刻がある。正殿や老君殿、観音殿、江声殿などもあるが、規模はそれほど大きくない。 北固山公園:山を丸ごと使ったような広大な公園で、園内には三国志にゆかりのあるお寺もありました。三国志ファン以外の方でも、長江や鎮江風景を楽しむこともできるので訪れても良いでしょう。 ここには呉の軍師の魯粛の墓と将軍の太史慈の墓が有ります。 最近作った感は否めませんが、三国志好きな人は来て見てはいかがでしょうか。 甘露寺:劉備と孫権が同盟を結んだ寺 近くに劉備と孫権の妹が見合いをした建物もあります のんびりと散歩さながら観光できます 鉄塔:甘露寺の入口近くにある鉄塔です。北宋時代に伝統的な石塔を鉄製で作ったものだそうで、もともとは9層の鉄塔だったのが、今は破損して4層になってしまってます。確かに、9層あれば、石塔らしく見えますね。 それでも、鉄の貫禄があって、なかなか風格があります。 梦溪园 :北宋時代の科学者で、随筆「夢渓筆談」を書いた沈括の邸宅。 マンションの並ぶ住宅街の中にあるので、ちょっとわかりにくいかもしれません。 庭園が見事なので、街歩きの途中に寄ってみるとよいでしょう。 16:00鎮江駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 17日9:34鎮江駅高速鉄道で出発 11:24上海駅到達、地下鉄、リニアモーターカーで上海浦東空港に向かう。 14:00上海浦東空港到達。 18:20上海浦東空港全日空で出発 21:35関西国際空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、上海から高速鉄道で1時間半の西に位置し、長江下流の南岸に位置する古都で、水陸交通の要衝となっている鎮江を訪れ歴史的建造物に触れ楽しみました。ひたすら歩いて巡りました。 今回も中国旅行、トラブルあり、2日目の鎮江での宿泊、駅前のホテルで立派な大きなホテル、チェックインのためドアを開けて入ろうとしたら鍵がかかっていては入れない、室内は電気が点いてなくて暗い、近くの方に聞くと、クローズしているとのこと、つぶれているみたいですね。仕方なく、近くのホテル探し、運よく、空き室があり宿泊する。 17日朝、起きると大雨、香港に向かっている台風の影響か、高速鉄道が遅れると困るので早めに上海に向かいました。 今までもそうですが、中国旅行すんなりいきません。トラブル多発の国ですね。 懲りずに今年もあと2回中国旅行予定しています。幸運を祈ります。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十三弾:ポーランド観光 2018年8月8-15日 ヨーローッパのEUに属し10世紀に建国。15~17世紀には東欧の大国。18世紀末には3度にわたり,ロシア,プロシア,オーストリアの隣接三国に分割され,第一次大戦終了までの123年間世界地図から姿を消す。 第二次大戦ではソ連とドイツに分割占領された。大戦での犠牲者は,総人口の5分の1を数え,世界最高の比率。大戦後は,ソ連圏にくみ込まれたが,「連帯」運動(1980年代)など自由化運動が活発で,東欧諸国の民主化運動をリードした。1989年9月,旧ソ連圏で最初の非社会主義政権が発足した。「欧州への回帰」を目標に,1999年3月にNATO加盟,2004年5月にはEU加盟を果たしたポーランドを訪れました。 8月8日10:05関西国際空港ルフトハンザ・ドイツ航空で出発。 15:00フランクフルト到達。 16:40フランクフルトルフトハンザ・ドイツ航空で出発。 18:10クラクフジョンポールパリツェ空港到達、バスで市内のホテルに向かう。 19:00ホテル到達、就寝。 9日9:30徒歩でクラクフ市内観光 クラクフ:ポーランドの第三の都市クラクフは、首都のワルシャワ、ウッチに続く第三の都市。 11世紀中ごろから16世紀末までポーランド王国の首都として栄えた古都で、日本では「ポーランドの京都」なんて例えられることも。 第二次世界大戦中にドイツ軍の司令部が置かれており、戦火を逃れた世界遺産の街並が世界遺産に登録されています。 クラクフから日帰り観光でアウシュビッツ強制収容所やヴィエリチカ岩塩抗を訪れることができます! ヴァヴェル城:ヴィスワ川沿いにそびえ立つ、ゴシックルネッサンス様式のお城です。ワルシャワに首都が移る16世紀まで、このヴァヴェル城に歴代のポーランドの王様が住んでいました。敷地内には大聖堂や旧王宮、王の墓など、歴史的な建造物が数多くあります。 特に旧王宮には調度品や美術品、宝飾品、武器などが展示されていて、当時の王族の生活を垣間見ることができるので、おすすめです。 ヴァヴェル大聖堂:ヴァヴェル城の敷地内にある大聖堂です。1364 年に設立されたローマ カトリック教会の大聖堂で、ポーランド国内で最も大切にされている宗教施設といっても過言ではありません。歴代のポーランド王の戴冠式は、1764年までヴァヴェル大聖堂で行われていましたし、現代でも全45代の王様のうち、41名まではこの聖堂の地下に葬られています。 堂内には、美しい彫刻が施された棺が数多く安置されています。一つ一つ趣が異なるので、芸術品として鑑賞するのもいいですね。またヴァヴェル大聖堂で忘れず見ていただきたいのが、鐘楼につられたジグムントの鐘。1520年製の巨大な鐘で、国家の重要な慶事でのみ鳴らされるものですが、なんと手で触れられます。 聖マリア教会:織物会館の向かい側にあるのが、聖マリア教会です。13世紀初めに建造されたゴシック様式の建物で、その歴史的価値から1978年には「クラクフ歴史地区」として世界遺産にも登録されています。 教会内部にある聖壇は、ヨーロッパで第2位の高さをもつ木造彫刻で国宝に指定されています。また彫刻家ファイト=シュトゥースが手がけた高さ13メートルというヨーロッパ最大級の祭壇画もあって、まさに見所満載! 中央広場:クラクフ旧市街の中心にある中央市場広場は、中世から残る広場としてはヨーロッパ最大の規模を誇っています。 織物会館:中央広場にあるのが、織物会館です。中世時代、東西の物品が集まる貿易の拠点であったクラクフで、その中心的な役割を担ったのがこちらの織物会館。当時は、中国から来た絹やイギリスのウールなどが取引されていたそうです。 ルネサンス様式の建物は、外から見ているだけでも美しく、訪れる価値があります。さらに館内には、民芸品やアクセサリー、革製品などの小さな店がぎっしり並んでいて、クラクフ土産を買うのにもおすすめ。クラクフ観光では絶対にハズせないスポットです。 旧市庁舎:ポーランドのクラクフの中央広場にあり、なおかつクラクフのランドマークになっているのが高さ70mの旧市庁舎の塔。 建てられたのは13世紀の終わりの頃に建てられた市長舎の一部です。地下は刑務所として使用されていました。 建物はレンガや石を用いてゴシック様式で作られました。しかし1680年の落雷により崩壊し、バロック様式で再建されました。 現在は、クラクフの歴史博物館、広場の展示場として常設展示なども行われています。塔の上に登ることもできるので、是非解放された展望台に行ってみてください。塔の頂上からは、世界遺産であるクラクフの街を一望できますよ。 昼食:ゴウォンプキ:ポーランド料理のひとつで、簡単に言えばロールキャベツです。 お肉をキャベツの葉で巻いて煮込むのは日本式のロールキャベツと同じですが、大きな違いは、お肉にお米がたっぷり混ぜ込んであることです。あらかじめかために茹でておいたお米を(ポーランドではお米は“炊く”ものではなく、“茹でる”ものです)、豚挽き肉・卵と混ぜ合わせてタネを作ります。玉ねぎを入れる場合は、いためたものではなく生のままをみじん切り、もしくは摩り下ろして加えます。家庭によってはマジョラムやにんにく、パセリの葉を加えることも。先に火を通しておいたキャベツの葉に適量のタネを置き、空気が入らないように巻いていきます。ちなみにポーランドではキャベツに火を通す時は葉を一枚一枚はがしてから茹でるのではなく、大きいお鍋にお湯を沸騰させ、そこにキャベツを丸々ひとつ入れて、火が通ったものを順番にはがしていきます。 午後散策 クラクフ国立博物館:レオナルド・ダ・ヴィンチの数少ない女性画「白貂を抱く貴婦人」は、現在ここで鑑賞できる。 19:00ホテルで夕食 21:00就寝。 10日8:00バスで出発アウシュビッツに向かう。 アウシュビッツ博物館:。収容所内には28棟の囚人棟があり、最大で28,000人もの囚人が収容されていたといいます。 第二次世界大戦が始まり、ポーランドがドイツの支配下に置かれていた1940年、ポーランド人の政治犯を収容するためにこの場所が作られました。しかし次第にユダヤ人や軍の捕虜をも収容するようになり、施設は拡大され、あの恐ろしい虐殺の場所となっていきました。戦後は当時のままの状態が保存され、博物館として公開されるようになりました。 2キロほど離れた場所にはビルケナウというもう一つの収容所があります。ここはアンネフランクが収容された場所としても知られています。見渡す限り草の茂った広大な敷地に、点々と木造のトラックが立っています。奥には大きな国際追悼碑が建ち、いかに多くの国の人々が犠牲になったかを物語っています。 昼食:ブラツキ・ジェムニャチヤーネ:ポーランド語でPlacki Kartoflane(プラツキ カルトフラーネ) 又はPlacki Ziemniaczane(プラツキ ジェムニャチャーネ)といいます=じゃがいものパンケーキです。 バスでクラクフに向かう。 クラクフ着後市内散策。 カジミエシュ地区:クラクフ旧市街やヴァヴェル城の南に位置するカジミエシュ地区は、かつて多くのユダヤ人が暮らしていた地区。 14世紀にユダヤ教徒の保護に熱心なカジミエシュ大王の手により作られた町で、かつてはユダヤ人地区として繁栄しましたが、第二次世界大戦時のユダヤ人迫害により住民が消え、長らく廃墟となっていた歴史を持ちます。 カジミエシュ地区を歩きながら、ヘブライ文字の看板やユダヤ教のシンボルが残されているのに注目してみてください。 現在は古い建物がお洒落なカフェやレストランにリノベーションされ、若者に人気のスポットとして生まれ変わりました。 マンガ日本美術・技術博物館:ポーランドの大地主の家に生まれたフェリクス・ヤシェンスキはヨーロッパ各国を旅する間にジャポニスムに触れ、大の日本美術マニアとなり、浮世絵、掛け軸、屏風、鎧、兜、刀剣、漆器、着物、印籠等の日本美術品を15000点も収集したというのです。 彼は批評家、作家として活躍しましたが、ペンネームを北斎漫画から採ったマンガ(Manngha)とし、1920年、彼の収集品をクラクフの国立博物館に寄贈します。しかし国立博物館には既に作品を展示するスペースがなく、死蔵。 ここで登場するのが、坂東玉三郎主演の「ナターシャ」の舞台演出や映画監督で日本でも名の知られたアンジェイ・ワイダ監督。 1987年、人類の精神的深化・高揚に著しく貢献したとして、京都賞を受賞した彼はその賞金4500万円を基金として、「若かった私が初めて日本の美術に触れた時に得たあの幸福感を、他の人々にも味わってもらいたい」と、死蔵されているマンガの寄贈品を常設展示する美術館を建設する事を決意。 ワイダ監督の呼びかけに答え、JR東日本労働組合が100万ドル、日本政府も300万ドルを寄付。クラクフ市も建設地を無償提供。磯崎新が無償で設計を手掛け、1994年、ヴィスワ川を挟んだヴァヴェル城の対岸にマンガ館が完成したのです。 開館式にはワレサ大統領と高円宮も出席。入口入って直ぐの所には2002年に訪館された天皇皇后両陛下の署名額が 掲げられていました。 この美術館ではポーランドで唯一、日本語、ポーランド語、英語併記で種々の案内表示がされています。 11日8:15バスで出発ヴェリチカに向かう。 9:00ヴェリチカ岩塩:ポーランドの古都クラクフ(Krakow)の近くには、世界遺産のヴィエリチカ岩塩坑があります。この岩塩坑は地中約330mの深さまで掘られており、世界最古でありながら現役の採掘場です。ここでは、採掘で使われていたトロッコや坑道のほかにも、地下深くに築かれた美しい礼拝堂や地底湖が見られ、地底探検をしているようなドキドキ感が味わえます! 昼食バルシチとカツレツ:バルシチ(barszcz)はバルシチ・チェルヴォヌィ(barszcz czerwony)とも呼ばれるポーランドの伝統的なスープで、鮮やかな赤色が特徴です。この色は材料であるビーツ(burak)の色素によるものです。ロシア料理のボルシチと名前はそっくりですが、あちらは肉や野菜がたっぷり入っているのに比べ、こちらのバルシチは基本的にスープだけを頂きます。 午後市内観光 ヤギェウォ大学のコレギウム マイウス : クラクフ旧市街西端に校舎群を持つヤギェウォ大学(Uniwersytet Jagiello?ski)の最古の校舎 ヤギェウォ大学は中欧で二番目に古い名門大学で、設立は14世紀。地動説で有名なコペルニクス、作家のスタニスワフ・レム、先代ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世もここの出身 バルバカンとフロりアンスカ門:19世紀までクラクフは城塞に囲まれていましたが、現在は大部分が取り壊されています。旧市街地に建つバルバカンは城塞の一部で、建設当時はフロリアンスカ門とは橋と通路で繋がっていました。 各国の国王や要人たちが市内へ入る際にくぐったと伝えられているフロリアンスカ門とフロリアンスカ門を守るために建てられたバルバカンを目の当たりにすると、歴史の流れを肌で感じることができますよ。 スォヴァツキ劇場:クラクフの旧市街地内の北東部分に位置する立派な劇場です。パリのオペラ座を模してデザインされたと言われており、完成したのは1893年との事。ちなみにスウォヴァツキという名前は、ポーランドの偉大なロマン派詩人らしくその名にちなんで命名されたようです。 16:55列車でワルシャワに向かう。 19:30ワルシャワ到達、バスで市内のホテルに向かう。 20:10ホテルで夕食就寝。 ワルシャワ:ポーランドの首都であるワルシャワは、南北に縦断するヴィスワ川を有する町。観光の名所は川の西側に集中しており、見どころやカフェ、みやげ物店が集まるクラクフスキェ・プシェドミェシチェ通り~ノヴィ・シフャト通りまでの約2kmのエリアは歩いて回ることもできる。ワルシャワの街の始まりは13世紀。1596年以降はポーランド王国の首都として急速に発展したが、1795年の第3次ポーランド分割により、国全体が完全に滅亡してしまう。1918年に分割時代を終え首都として復活を遂げるが、第二次世界大戦時には再びナチス・ドイツ軍の圧政支配を受ける。戦後はワルシャワ条約機構に加盟するなど、社会主義国家の中心として復興し、1989年には民主化、ワルシャワはかつて「北のパリ」と呼ばれるほど洗練された美しい街でした。しかしドイツ戦略群に対して市民が一斉蜂起を起こしたことによって殆どの建物が跡形もなく破壊されてしまいました。現在の旧市街に広がる一見古い街並みは、戦後にワルシャワ市民が過去の絵や写真、記憶を元に忠実に再現して復元されたものと言われています。 12日9:00バスで出発、ジェラゾヴァ・ヴォラ観光 ジェラゾヴァ・ヴォラ:ワルシャワから西に約54kmのところに、ジェラゾヴァ・ヴォラという村があります。車だと1時間半ほどの距離ですが、ワルシャワの喧騒とは全く違うのどかな田園風景が広がっています。ここはポーランドが誇るピアノの詩人、フレデリック・ショパンが生まれたところです。 ショパンの生家:ショパンは、ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家です。当時のヨーロッパではピアニストとしても有名であり、作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占めているため、「ピアノの詩人」ともいわれています。 彼の生家は、広大な緑溢れる庭園の中にひっそりと建っています。残念ながら、19世紀初頭の当時の建物は消失してしまっていますが、家具や内装は、彼が生まれ育った当時のまま忠実に復元され、一般公開されています。生家の周りは、ポプラ並木の続く長閑で美しい公園として整備されていて、訪れた人々を癒してくれる空間になっています。 ワルシャワに向かう。 ワルシャワで昼食:和食 午後市内観光 王宮:「ワルシャワ王宮」は、ワルシャワ旧市街にあるバロック様式の宮殿です。ポーランド王ジグムント3世の居城として16世紀末に建造されました。他の建造物と同様に、ワルシャワ王宮も戦後市民の手によって復元されたものです。 しかし調度品類などの貴重な物は国外で保管されていたため戦禍を免れ、現在でも当時のものを見物することができます。ヨーロッパの名匠達によって生み出された数々の美術品や装飾品は、豪華絢爛そのものです。 聖アンナ教会:ポーランド、ワルシャワの旧城広場に隣接し歴史的中心部にある教会で、新古典主義のファサードを持つポーランドの最も著名な教会の一つです。この教会は、1454年マゾフシェ公爵夫人アンナ・フョードロヴナが、ベルナルド会のための修道院として設立しました。ワルシャワで一番重要な教会で、カトリックの祝日に行う行事はすべてここで行われています。教会のタワーの上からはワルシャワの美しい景色が一望できる人気スポットです プライベートコンサート:『ショパンサロン』は、1910年に建てられた歴史あるコンサートサロンで、かつてポーランド大統領や政治家も住んでいた歴史ある建物にあります。 演奏するのはコンクール入賞者などポーランドで活躍する音楽家達。彼らが奏でるショパンの曲を中心とした素晴らしい演奏を破格でお楽しみいただけます。 かのショパンは大きなコンサートホールでの演奏会よりもサロンコンサートで演奏することを好んでいました。サロンコンサートの文化はショパンの気持ちを継承しているとも言えます。 ホテル到達後就寝。 13日9:00歩いてワルシャワ市内観光 ワジェンキ公園:「ワジェンキ公園」は、ワルシャワ市中心部よりもやや東側にある公園で、池のほとりに建設されたワジェンキ宮殿が公園の名前の由来となっています。 この公園は、ヨーロッパの公園の中でも美しさが有名で、バラの庭園やショパン像などがあります。中でもショパン像はワルシャワを代表するシンボルの1つとしても有名で、夏の間は毎週日曜日には1日2回、このショパン像の下にてショパンコンサートが行われます。 ワジェンキ宮殿:ワジェンキ公園内の池のほとりにたたずむ宮殿です。まるで、池の水に浮かんでいるような美しい景観から、別名を「水上宮殿」とも呼ばれています。 現在、宮殿は国立博物館の分館として使用され、一般公開されています。もともとこちらの宮殿は、ポーランド王家が夏に過ごすための宮殿として建設されましたが、第二次世界大戦により破滅的な被害を受け、現在の美しい宮殿の姿はワルシャワ市民が精密に復元したものです。 キューリ夫人博物館:「キュリー夫人博物館」は、ノーベル賞を受賞した、キュリー夫人にまつわるものを展示している博物館です。 キュリー夫人は、放射線に関する研究で、ノーベル物理学賞とノーベル化学賞を受賞しています。この博物館はそのキュリー夫人の生家であった建物で、キュリー夫人が実際に使用していたとされる、実験に用いた機材や、机など様々なものが展示されています。 ワルシャワ歴史博物館:14世紀初頭から今日までの、ワルシャワの歴史に関する貴重な資料が展示されている。館内の映画室では第二次大戦当時の記録映画も上映されている。 バルバカン:ワルシャワの建設は13世紀頃より始まり、その発展はめざましく、北のパリと呼ばれていました。しかし、第二次世界大戦によりワルシャワの約8割は消失してしまいます。 その後、ワルシャワ市民が復興に立ち上がり、煉瓦のヒビに至るまで精密に再生し、見事に当時のワルシャワを復元したのです。その功績が認められ、ワルシャワは現在世界遺産に登録されています。 また、そのワルシャワには16世紀に作られたバルバカンと呼ばれる外敵との戦いのために造られた要塞を見ることができます。 旧市街市場公園:旧市街市場広場は王宮に面していて、王宮広場とも呼ばれるようです。ワルシャワ中央駅から北東方向に30~40分程歩いた位置にあります。 洗礼者ヨハネス大聖堂:14世紀に建てられた洗礼者ヨハネ大聖堂は、ワルシャワで最も古い教会で、レンガ造りのファザードが印象的な建物です。 洗礼者ヨハネ大聖堂は、歴代の王の戴冠式やヨーロッパ初の成分国民憲法5月3日憲法(1791年5月3日に採択されたため)の発布式が行われた場所でもあり、その他ポーランドにおける国家的行事が数多く執り行われてきました。また、ポーランド王国最後の王スタニスワフ2世アウグストやポーランドの著名な歴史人も埋葬されているポーランド国内において重要な場所の一つとされています。 洗礼者ヨハネ大聖堂もワルシャワ歴史地区の他の建造物同様、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍によって破壊されてしまいます。現在の建物は、大戦後再建されたもので、ネオ・ゴシック様式で再建されています。 現在、聖堂内ではオルガンのコンサートが開かれており、観光客だけでなくワルシャワ市民も足を運ぶ、観光スポットとなっています。 クラクフ郊外通りから新世界通り:「クラクフ郊外通り」は、ワルシャワのメインストリートです。王宮広場から南に伸びる道になっています。聖十字架教会やワルシャワ大学などの歴史的な建造物がのきを連ねていて、おしゃれなショップやカフェも立ち並ぶ観光を楽しめるストリートになっています。ピアノの詩人と呼ばれるショパンも、かつてはクラクフ郊外通り付近に居住していたと言われていて、聖十字架教会にはショパンの心臓がまつられています。 「クラクフ郊外通り」をさらに南下すると、現地の方にワルシャワの銀座として親しまれている「新世界通り」があり、ワルシャワ観光の際は必見でしょう。 大統領官邸:ポーランドの主都ワルシャワにある大統領官邸には英雄ユーゼフ・ポニャトフスキ像が立っています。ユーゼフ・ポニャトフスキは、ナポレオン1世の下で将軍として活躍した人物。 プロイセン王国によりポーランドは分割されてしまいましたが、ナポレオンがプロイセンに戦争で勝つのを見て、彼なら祖国を再興してくれると思い、ポーランド軍を率いてナポレオンの指揮下に入りました。 その後、ナポレオンがワルシャワ公国を建国した際に、ユーゼフ・ポニャトフスキは軍司令官となります。 現在は大統領官邸として使われているこの建物は、もともとは貴族ラジヴィウ家の館でした。1765年に館の一部が劇場として開放されるようになり、ポーランドで初めてのオペラが上演されることとなります。 ちなみに、ポーランド出身の天才ピアニストであるあのショパンも、ここで演奏会開いたそうです。 ポーランドの大統領官邸として使用されるようになったのは1994年と最近の事になります。 ヴィジトキ教会:ワルシャワ大学の隣、18世紀、バロック様式の教会。大戦の被害にあわず、学生時代のショパンが、日曜のミサでオルガン演奏をしていたことで有名です。 ワルシャワ大学:ワルシャワ大学は市内の最高学府です。この近代的な学術拠点には数万人の学生が籍を置き、敷地内には多くの歴史的な建物が並びます。キャンパスのネオクラシカルな建物を見学して、長い並木道を散策し、優美な中庭や手入れの行き届いた庭園を鑑賞しましょう。 1816 年に設立されたワルシャワ大学の卒業生には、フレデリック ショパン、ジョセフ ロートブラット、ダビド ベングリオンなど著名人が並びます。第二次世界大戦中は大学の敷地がドイツ軍の兵舎として利用され、多くの建物が破壊されました。 現在の平和なキャンパスは、ポーランドの頭脳明晰で元気いっぱいの若者たちと触れ合える場所です。講義や授業に出席し、晴れた日には屋外で勉強する学生たちの姿が見られます。 中央キャンパスの敷地を歩いて、バロック様式のウルスキ家の宮殿など豪華な建物を見学しましょう。ほかにも一見の価値のある建物に、旧図書館やその正面のエレガントな庭園と壮大なカジミエシュ宮殿があります。17 世紀に王室の別荘として建設されたカジミエシュ宮殿は、大学内最古の建物であり、現在は学長室として使われています。館内には、大学の歴史に関する博物館があります。 ワルシャワは有名な英雄の記念碑があちこちにありますが、大学の敷地内にも、ある謙虚な学生を讃える銅像があります。ベンチに腰掛けるこの銅像の隣に座って日光浴をしましょう。 ワルシャワ大学図書館のインパクトの強い建築には目を奪われます。外壁を伝って伸びる草花や、ぜいたくな屋上庭園を堪能しましょう。ここではエキゾチックな植物に囲まれて一休みをしたり、ワルシャワ市内を一望できる眺めを楽しめます。 チヤプスキー宮殿:チャプスキ宮殿はワルシャワ大学の正面、聖十字架教会の隣に位置しています。現在は美術大学となっていますが左側3階にはショパンが1827年からポーランドを離れる直前まで住んでいた場所として知られています。 17世紀のバロック様式の建物は、クラシンスキ宮殿とも呼ばれていますがこの宮殿も第2次世界大戦中に破壊されてしまい、戦後に再建されたものです。 聖十字架教会:「聖十字教会」は、ピアノの詩人として名高いショパンの一家が通っていた教会として、世界的に有名です。 この教会は、ユゼフ・ベロッティによって17世紀後半に建てられました。その後第二次世界大戦によって被害を受けましたが、戦後に再現され、現在に至っています。 教会の前には、地動説で有名なポーランドの偉人、コペルニクスの像が設立されています。 そしてこの教会には、本堂左の石柱の下にショパンの心臓も安置されていて、音楽ファンにも大人気の教会となっています。 コペルニクス像:ポーランドの歴史的な有名人として、どんな人物が思いつくでしょうか?世界史の教科書に出てきそうな人物としては、コペルニクス、ショパン、キュリー夫人、といったところでしょうか?やはり、コペルニクス像もありました。地動説で有名なコペルニクス(1473~1543)です。 天球儀を持ったこのコペルニクス像は、1830年に建てられています。ナチス・ドイツ時代にはこの像も取り払われていますが、戦後元の場所に戻されました。ポーランド、特に、ワルシャワは、なにかにつけ、ナチス・ドイツの痕跡が刻まれています。 背後の建物は昔の貴族の館でしたが、現在はポーランド科学アカデミーとなっています。 ショパン博物館:「ショパン博物館」は、ポーランドを代表する作曲家であるショパンにまつわるの楽譜や生活用品などの展示がしてある博物館です。 ショパンは、本名をフレデレック ショパン(F ショパン)という19世紀の音楽家で、ピアノの詩人と呼ばれています。ショパン博物館は、ワルシャワの歴史地区(旧市街地)よりもやや南側に位置し、地下鉄二号線(東西線)のUniwersytet駅、バスを使用する場合、Ordynackaというバス停が最寄り駅になります。 国立博物館:ワルシャワ国立美術館は、戦争の合間を縫って建設された巨大な建物。80 万点以上の膨大なコレションを収蔵しています。古代の遺物、彫刻、版画、写真、装飾デザイン品などあらゆるものがコレクションに含まれています。中世美術の代表作、ヨーロッパの巨匠の作品、ポーランドおよび周辺国の肖像画、さらにはヌビア族の絵画まで幅広い作品を見ることができます。 館内へ入って多くの展示室を見て回りましょう。館内はしゃれた現代的なデザインで、LED 照明が絵画に光を当てています。さまざまな作品を解説する英語の情報パネルを読んだり、インタラクティブな展示を楽しんだりできます。 ヨーロッパをテーマにした展示室では、何世紀にもおよぶポーランド美術の発展の歴史をたどりましょう。展示品の中でも特に有名で人気がある作品は、ヤン マテイコの 1878 年の作品グルンヴァルトの戦いで、高さ 426 cm、長さ 987 cm という大作です。ポーランドの国民的名作ですが、第二次世界大戦中はナチスの格好の標的となり、ポーランド地下組織の一員はこの絵の隠し場所をドイツ人に明かさなかったために殺されたといわれています。この作品をはじめ、いくつもの略奪された名画が戦後この博物館によって回収されました。 一休みするなら中庭へ。この快適な空間は戦時中の館長スタニスワフ ロレンツ博士にちなんで名付けられています。ロレンツ博士は戦時中に秘密工作を組織して、コレクションの中の多くの名作を安全に守り通したと言われています。静かな池の隣にあるカフェでコーヒーとケーキを楽しんだり、建物の裏にあるかつて王室の庭園だった公園でのんびりしたり。 軍事博物館:ポーランド軍事博物館は、ワルシャワの中心地にあるポーランド博物館に隣接した、第二次世界大戦以降に採用された戦車や軍用機が敷地の庭一面に敷き詰められた世界的にも珍しい軍事専門の博物館。施設内には中世から現代までの軍事的資料が展示され、列強に挟まれ常に戦火に見舞われてきたポーランドの軍事的な一面を学ぶことができる。 文化科学宮殿:「文化科学宮殿」は、ワルシャワのちょうど中心部に位置する時計台で、42階建てと超高層になっています。入場にはチケットが必要で、30階には展望テラスがあり、天気の良い日にはワルシャワの街並みを一望できます。 また、夏季の特別期間には入場料が少し値上がりしますが、20時以降にも入場することができ、夜のワルシャワを見渡すことが可能です。 ワルシャワ中央駅から歩いて行くことができ、交通の便も良いため、ワルシャワ観光の際はぜひ訪れてみて下さい。 サスキ公園:手入れの行き届いた芝生、花の咲き乱れる花壇、優美な彫刻のあるサスキ公園は、エレガントで丹念に管理されている市内最高の緑地帯のひとつ。かつての王室の保養地は、現在では市の中心部にある公園として閑静な憩いの場になっており、犬を散歩する人や家族連れ、散策をする人に人気です。 園内を歩き回って、その歴史に思いを馳せましょう。そもそもはアウグスト 2 世モツヌィ国王が王室の庭園として選んだ場所で、18 世紀に公園として開園しました。旧市街の郊外に位置するこの辺りはかつて “Saxon Axis” と呼ばれ、いくつもの公園がありました。 地元の人々に混じって、公園の心地よく格式ある雰囲気を満喫しましょう。整然とした栗の木の並木道を散策して、精緻なバロック時代の彫刻を鑑賞しましょう。それぞれ美徳、科学、元素をあらわす寓話的人物を表しています。この公園の中心的存在は巨大なマルコーニ噴水。19 世紀に増設された優美な噴水です。子供たちには噴水の近くにある大きな日時計を見せて、ありあまるエネルギーは園内の遊具で発散させてあげましょう。ピクニックの用意をして園内で食べたり、芝生にただ寝転んでも。 第二次世界大戦によって破壊される前のサスキ公園周辺、さらにはワルシャワ市全体の景観は、今とはまったく違ったものでした。無名戦士の墓は、戦争で失われたすべてのポーランド人の命を追悼する記念碑。公園の隅にあるこの記念碑は、かつては壮大な建物だったサスキ宮殿の唯一現存するアーチに守られています。この宮殿自体も第二次世界大戦の戦禍で失われました。宮殿に代わって、今はピウスツキ元帥広場という広場になっており、抗議運動、デモ行進、イベントのために人々が集まる場所です。 夕食は歴史的建造物でのレストラン 就寝 14日7:10ワルシャワ空港ルフトハンザ航空で出発 8:55フランクフルト空港到達 13:45フランクフルト空港ルフトハンザ航空で出発 15日7:45関西国際空港到達。 今回の旅行、中欧に位置するポーランドに足を運び、11世紀中ごろから16世紀末までポーランド王国の首都として栄えた古都で、日本では「ポーランドの京都」と呼ばれ、第二次世界大戦中にドイツ軍の司令部が置かれており、戦火を逃れた街並が世界遺産に登録されているクラクフ、ホロコーストでの最大の強制収容所アウシュビッツ、当時のヨーロッパではピアニストとしても有名なショパンの生家、クラクフ(Krakow)の近くの、世界遺産のヴィエリチカ岩塩坑、 ポーランドの首都であるり、南北に縦断するヴィスワ川を有する町、街の始まりは13世紀。1596年以降はポーランド王国の首都として急速に発展したが、1795年の第3次ポーランド分割により、国全体が完全に滅亡し、1918年に分割時代を終え首都として復活を遂げるが、第二次世界大戦時には再びナチス・ドイツ軍の圧政支配を受け、戦後はワルシャワ条約機構に加盟するなど、社会主義国家の中心として復興し、1989年には民主化、かつて「北のパリ」と呼ばれるほど洗練された美しい街でしたがドイツ戦略群に対して市民が一斉蜂起を起こしたことによって殆どの建物が跡形もなく破壊されてしまいました。現在の旧市街に広がる一見古い街並みは、戦後に市民が過去の絵や写真、記憶を元に忠実に再現して復元されたものと言われていますワルシャワを訪れ楽しみました。 ポーランドで最も世界的に有名なアウシュビッツ、大量虐殺の収容所、当時の悲惨な光景を目の当たりにし、このような恐怖の出来事は二度と起こしてほしくないですね。 ショパンの生家、広大な敷地の公園にある生家、ポーランドでショパンの」偉大さを物語るものでした。 ヴェリチカ岩塩、地下深く広範囲に掘られた採石場、かなり観光化され、テーマパークのような楽しめる観光名所でした。 ポーランドの歴史を物語る2大都市ワルシャワとクラクフ、郊外の観光名所アウスピッツ、ショパンの生家、ヴェリチカ岩塩の観光、8日間の旅満喫しました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十弾:中国天津観光 2018年7月14日-16日 アジアの大国中国に足を運び、北京、上海、重慶と共に中央直轄市の一つ。港湾都市で、行政・産業・交通上の重要な位置を占める。英・独・日・仏・露の租界があった街並は異国の雰囲気が漂う天津を訪れました。 14日14:30伊丹空港日本航空で出発 15:40羽田空港到達。 16:50羽田空港日本航空で出発 19:45北京空港到達。タクシーで北京市内のホテルに向かう。 20:35ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 15日6:30タクシーで北京南駅に向かう。 7:15北京南駅到達。 8:00北京南駅高速鉄道で出発 8:35天津駅到達、観光 天津:天津は、中国の華北地区北部、北京の南東約120kmに位置する港湾都市で、渤海湾に面する華北地方最大の貿易港を持っています。北京、上海、重慶とともに中央政府の直轄市で、面積約11,700km2、人口約1,115万人の大都市。市区6つ、沿海区3つ、郊外4つ、県5つによって構成されています。 天津は、古くからの港町で、交通の要衝として発展。19世紀以降は外国のさまざまな侵略を受け、イギリス、フランス、ロシアなどの圧力で結ばれた1860年の北京条約で開港させられ、1899年の義和団事件により、8ヵ国の外国の租界地が設けられました。海河と並行して解放南路から天津駅近くの解放橋まで北西に伸びる解放北路の両側には、租界時代の面影を残すヨーロッパ風の建物が並んでいます。 租界建築群<市区>:中国には「北京の四合院(中国北方の伝統家屋)、天津の小洋楼(洋館)」という言葉があるように、租界時代の洋館は天津のシンボル的存在になっています。当時の列強諸国が建築したものだけでなく、国内の富豪が外国人デザイナーを招いて作らせたものもあり、建築様式はルネッサンス、ゴシック、ロマネスクなどなど多種多様。数千あるといわれている洋館から、必見スポットをピックアップです! 解放橋:かつての名称は万国橋、フランス租界にあったことからフランス橋とも呼ばれていました。この橋は真ん中が開閉する跳開橋なのですが、現在はめったに開くことはありません。夜は夜景の美しいデートスポットです! 解放北路:租界建築群を代表するメインスポット。各国の金融機関が集まっていた場所で様々な様式の建物が並んでいます。 五大道:天津旧城の東南に位置する旧イギリス租界。かつて多くの西洋人や中国の著名人が暮らしたエリアで、今でも当時をしのばせる洋館が数多く残されています。五大道観光馬車は天津観光の目玉の一つ。民園体育場から洋風馬車に乗って周辺の町並みを優雅に見学できるのです。 近代天津博物館:この博物館は、天津の近代歴史に関する写真資料を展示している。近代天津の貴重な写真が、教育・軍事・金融・郵便・建築・鉄道・司法・海洋化学工業・港湾・農場・科学技術・医学・思想文化・社会団体・宗教・商業・娯楽業・ニュースメディア・スポーツ・芸術などの分野に分かれてたくさん展示されている。 天津広播電視塔:高さ415.2メートルのテレビ塔で、天津市のランドマーク的存在です。ここの展望室に上れば天津の街を360度見渡すことができます! 中には回転式のレストランもあり。天津ビューを堪能したい方、おすすめのスポットです。 周恩来穎超紀念館:中華人民共和国初代首相の周恩来と、その夫人・穎超の記念館。周恩来生誕百周年の1998年2月28日オープンしました。周恩来夫妻が出会い恋に落ちた思い出の地として天津が選ばれたのです。館内には幼少期から日本、西洋へ留学した青年時代、マルクス主義と出会い、共産党に入党し、建国後の総理としての業績などが年代順に展示されています。 静園:1921年、北洋政府駐日公使・陸宗輿の私邸として建設。当初は乾園という名前だったのですが、1927年に張園から引っ越してきた溥儀の希望で静園と改名されました。最後の皇帝一家は1931年に天津を去るまでここで暮らしていました。現在、公開されているのは2007年に修復工事を終えたばかりのもの。外観は西洋風なのですが、内部のところどころに日本風のインテリアを見ることができます。 張園:赤レンガの高い塔がシンボルの旧日本租界にあった洋館。清朝陸軍第八鎮統制で豪商の張彪の私邸として建てられたもので、後に紫禁城を追われたラストエンペラー・溥儀が天津に移ってから最初に暮らしたところとしても知られています。現在は中国企業が利用しており内部は非公開、外観だけの見学となります。 天津旧城:現在の北馬路、東馬路、南馬路、西馬路に囲まれたエリアで、かつては城壁に囲まれていました。ここの見所はかつて時を知らせる役目をしていた鼓楼。現在ここは南北に伸びる清時代の 街並みを再現した商店街となっています。 古文化街:清代の民間建築の様式を再現した町並み。長さ約600メートルのストリートにはアンティークや民芸品が売られています。天津土産を物色するのにぴったりのスポット! 天后宮:古文化街に位置する天后娘娘を祀る廟。天后娘娘とは台湾や東南アジアの華人に信仰されている女神。ここ天后宮は1326年に建設され、その後修復・改築を繰り返してきたもの。内部には天津民族博物館も併設されています。 望海楼教堂:1869年、フランス人宣教師たちの手によって創建されたカトリック教会。当初は聖母得勝堂と名づけられたのですが、協会の敷地にはかつて清朝皇帝の望海楼があったことから、望海楼教会と呼ばれるようになったのです。幾度も内乱が起こり、破壊と修復を繰り返してきた協会で、現存するものは1904年に再建されたものです。 16:00終了ホテルに向かう。 17:00ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 16日7:30地下鉄で天津駅に向かう。 8:15天津駅到達。 9:04天津駅高速鉄道で出発。 9:39北京南駅到達、地下鉄で北京空港に向かう。 11:00北京空港到達。 16:20北京空港全日空で出発。 20:20関西空港到達。 今回の旅行、アジアの大国中国に足を運び、英・独・日・仏・露の租界があった街並は異国の雰囲気が漂う天津を訪れました。 数か国の租界があった街並みはヨーロピアン風の景観、中国とは思えない街並み散策癒されました。 歴史ある中国、城跡、歴史的建造物の多さ圧倒され又感動いたしました。 過去に何回も訪れたことのある、中国、今回は10回目、またまたトラブルの連続、北京空港からタクシーでホテルまで移動しましたが、チェーンホテルが安心と思い、ホリディインのホテルを予約していましたが、北京に沢山のホリディインがあり、タクシの運転手、ホテルを間違えて到達、何とかホテルのカウンターで別のタクシーを呼んでもらい予約していたホテルに何とか到達。 二つ目のトラブル、北京南駅であらかじめ日本でインターネットで予約したeチケットを本チケットに交換できる場所を駅の係人に尋ねると親切に誘導していただいて無事に本チケットに交換できましたが、100元催促されました。日本では考えられません。きちんと制服を着た係員でした。 三つ目のトラブル、帰国に飛行機に乗車、これから飛行すると思っていましたがパイロットがフライトの許可が出ません。しばらくすると上空悪天候のため、穏やかになるまで機内待機を告げられました。 結局2時間待たされたフライトでした。 尚物価は日本よりまだまだ安い、食事も交通費も断然安い。タクシーで移動しても日本の3分の1以下、現地ではあまりお金がかからないのはアジア旅行の特権でしょうね。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十一弾:ニカラグア&コスタリカ&パナマ観光 2018年4月28日-5月6日 中米の南に東西に細長く繋がる3カ国、ニカラグア、コスタリカ、パナマを訪れました。 ニカラグア:公用語はスペイン語。国民の70%以上がメスティソと呼ばれる混血で、グアテマラなどと比べると先住民の比率は低いです。日本との時差は-15時間、通貨はコルドバですが、どこでも米ドルが通用します。首都はマナグア。雨季(5月~10月)と乾季(11月~4月)がある熱帯性気候で、首都の平均気温は27度ですが、北部および中部山岳地帯はより低く、東部カリブ海沿岸は高温多湿です。治安は周辺諸国と比べれば格段によく、首都マナグアでは注意が必要ですが安全です。 湖と火山の国と言われるニカラグアには、西部太平洋岸に沿って火山帯があり、活火山も多いです。活火山でもっとも有名なのはマサヤ火山で、火口まで行ってマグマを覗くこともできます。中米で一番大きいニカラグア湖に浮かぶオメテペ島も2つの火山でできています。 コスタリカ:中央アメリカ南部に位置する共和制国家。北にニカラグア、南東にパナマと国境を接しており、南は太平洋、北はカリブ海に面している。首都はサンホセである。 1949年に常備軍を廃止する憲法を成立させ常備軍を持たない国となったが、同じく憲法によって非常時徴兵を規定している[2]。 チリやウルグアイと共にラテンアメリカで最も長い民主主義の伝統を持つ国であり、中央アメリカでは例外的に政治的に安定が続き、かつ経済状態も良好な「中米の楽園」と呼ばれるほどの国家であったが、1990年代以降は麻薬の横行により治安の悪化と社会の不安定化が進行している[3]。 パナマ:北アメリカ大陸と南アメリカ大陸の境に位置する共和制国家である。北西にコスタリカと、南東にコロンビアに接し、北はカリブ海に、南は太平洋に面する。首都はパナマ市。 南北アメリカと太平洋、大西洋の結節点に当たる地理的重要性から、スペイン人の到達以来貿易や人の移動や国際政治において大きな役割を果たす場所となっており、その役割の重要性のため、中米地峡を貫くパナマ運河が通っている。また、いわゆるパナマ文書が注目を浴びている。 4月28日8:00伊丹空港日本航空で出発 9:18成田空港到達。 14:25成田空港アエロメヒコ航空で出発。 12:55メキシコシティ空港到達。 15:40メキシコ空港アエロメヒコ航空で出発。 17:25:マナグア到達、バスで近くのホテル到達、就寝。 29日8:00バスで出発、マナグア市内観光。 マナグア:6000 年前、人間の足跡がマナグア湖ほとりの火山泥に残されました。何世紀ものあいだ保存され、現在この足跡はニカラグアの首都マナグアにある、アカウアリンカ足跡博物館で観ることができます。足跡以外にも、街の博物館には立派なプレコロンビアの工芸品があり、マナグアは多くの魅力があります。ティスカパ ラグーン自然保護区は街にある水辺の避暑地です カテドラス廃墟:2本の鐘楼が特徴的な大聖堂ですが、現在は使われていません。というのも、1972年の大地震で一部が崩落してしまったからです。とはいえ、外観は大聖堂の名にふさわしく、堂々としたたたずまい。中南米の各地にある大聖堂と比べても、まったく引けを取らない美しさです! 国立宮殿:マナグアの共和国広場に建てられています。マナグアの人たちにとっては、重要な場所で、革命の舞台となった建物です。元は、政府の機関として使われていたようですが、現在は、国立博物館や公文書館などいくつかの複合の文化施設として公開されているようです。共和国広場は、カテドラルもライトアップされていて、陽が落ちても、家族連れなどで賑わっていました。 共和国広場:旧マナグア大聖堂の西にある共和国広場には、大統領邸や国立博物館があり、いくつか市バスの路線が通っています。 ルベン・ダリオ国立劇場:収容人数はニカラグアで最大規模。およそ1100席です。場内の展示スペースでは、ニカラグアを代表する現代アーティストの作品が展示されています。絵画なら、スペイン語が分からなくても問題なし。積極的に中をのぞいてみましょう。ヨーロッパでもアメリカでも見られない、オリジナル色あふれる作品に出会うことができるはずです。 マナグア湖:マナグアは湖畔に位置する都市。周辺にはマナグア湖をはじめ、ニカラグア湖もあります。琵琶湖より大きいマナグア湖からは、噴煙を上げるモモトンボ山(Momotombo)の雄姿が! マナグア周辺には、スペイン人が到来する以前から先住民が暮らしていたとか。マナグア湖の別名は、先住民の言語に由来する「ショロトラン湖」(Lago Xolotlan)。この名前を聞くだけで、マナグアの歴史の深さをうかがい知ることができるでしょう。 バスでニカラグア第二の都市レオンに向かう。 レオン:ニカラグア第2の都市レオン。1851年まで200年以上、ニカラグアの首都として栄え、保守的なグラナダに対して、革新的なレオンと呼ばれた街。 レオン・ピエホ:ニカラグアにあるレオン・ビエホ(レオン旧市街)は、アメリカ大陸で最も古いスペイン植民都市の一つで、征服者エルナンデス・デ・コルドバによって1524年に建設されましたが、1609年にレオン・ビエホから約3kmしか離れていないモモトンボ火山の相次ぐ噴火と地震に見舞われたことで放棄されました。更なる噴火によって人命や財産に再び甚大な被害が出るのを避けるため、現在の場所に町を移転させることを決めたのでした。 新しい町はスブティアバと名付けられ、アメリカ先住民の町になった一方で、放棄されたレオン旧市街は1960年に発掘されました。火山灰の下から先のスペイン植民地時代の博物館、大聖堂、古い砦などの基礎が発見され、2000年にはエルナンデス・デ・コルドバの遺骸が発見されました。また、同じ2000年にはレオン・ビエホ遺跡群という名でユネスコの世界遺産に登録されました。 レオン大聖堂:レオン大聖堂は2011年に登録された、ニカラグアにある世界遺産です。1747年から19世紀初頭にかけて、グアテマラの建築家ディエゴ・ホセ・デ・ポレス・エスキベルの設計によって建設されました。 レオン大聖堂はバロック建築から新古典主義建築へと様式が変容していく時期に、両様式の折衷ともいえる建築様式でデザインされました。スペイン建築とラテンアメリカの地域的特性のが上手く融合されています。ニカラグアは地震が多発するため、低く太い塔などで建てられました。 中央公園:世界遺産レオン大聖堂は、1946年から実に100年もの年月をかけてつくられた建物です。グアテマラの建築士、ディエゴ・ホセ・デ・ポレス・エスキベルが設計したもの。正面には中央公園があり、レオン出身の詩人ルベン・ダリオの博物館があります。レオン旧市街の真に中心に位置する Parque Central は、早朝から夜遅くまで多くの人々で賑わっている市民の憩いの場です。 レコレクシオン教会:1786年に建てられたメキシコ風バロック様式のこの教会は、そのデザインと外壁の黄色い塗装の具合から、市内で最も美しいと言われています。 カルバリオ教会:レオン大聖堂の東200mほどのところに建つ18世紀前半に建てられた Iglesia El Calvario です。 ホテルで夕食、就寝。 30日バスでグラナダに向かう。 グラダナ市内観光 グラダナ:グラナダは中米最大の湖であるニカラグア湖に面した湖畔の町であり、1524年にスペイン人によって現在のニカラグア領内で最初に建設された。ニカラグアの古都として知られており、訪れる観光客も多い。現在でも伝統を重視した生活を営む人が多く、町全体にもどことなく落ち着いた雰囲気が漂っている。 コロン公園:ニカラグア湖に面した観光都市グラナダ。町の中央にあるコロン公園から湖までの道路は整備されている。グラナダの中心部にある広場が セントラル公園 Parque Central。コロン公園 Parque Colon と呼ばれることも。 見所はここを中心に半径800m以内に集まっているので、公園を起点に街歩きすれば迷うことは無さそうです。ホテル、ゲストハウス、レストラン、カフェ、土産物屋が並び、夜には大道芸なども見られる。 カテドラル:広場の北に建つ立派な建物は カテドラル 、ここに小さな教会が建てられたのは1583年のことで、その後何度か再建されています。グラナダは北米出身のウィリアム・ウォーカー率いる傭兵団の攻撃を受けており、カテドラルも1856年に完全に破壊されます。その後資金難で修復が中断されていたそうですが、1915年に現在の姿に再建されます。 サンフランシスコ修道院:サンフランシスコ修道院は元々1529年に建設されたが、1685年に火災の被害を受けた。その後再建されたが、ウォーカーが1857年に町へ火を放ったため、修道院は再び甚大な被害を受けた。現在の姿に修復されたのは1939年の事で、修道院博物館として歴史的な遺物を展示している。 コスタリカに向かう モンテベルデ自然保護区に向かう。 モンテベルデ:世界一美しい鳥と呼ばれるケツァールが棲息しエコツーリズムとしても紹介されるコスタリカで最も有名な観光地の一つです。モンテベルデ生物保護区や隣接する保護区には熱帯雲霧林と呼ばれる独特の生態系の森が広がり雲や霧に覆われることが多く、木にはコケ、シダ、着生植物がビッシリと覆い鬱蒼とした神秘的なジャングルを造り出しました。密林でありながら蚊などの害虫も少なく、マイナスイオンをふんだんに浴び快適な森林浴を五感で満喫できます。 カエル博物館:コスタリカに棲む約25種類のカエルをガラスケース内に見学。人気のアカメアマガエルや矢毒カエルにも出会えます。夜行性の種が多く午後6時以降が活発になるのでお勧めです。 モンテベルでホテルで夕食、就寝。 5月1日朝食赤飯風ピラフ、カージョ・ピント: モンテベルデ自然保護区:世界一美しい鳥と呼ばれるケツァールが生息する、熱帯雲霧林と呼ばれる独特の生態系を持った森です。熱帯雲霧林とは、雲や霧に覆われた湿度が高い密林のことで、多種多様な動植物を目にすることができます。なかでも鳥類は多く、ケツァールをはじめ、オオハシやハチドリなど400種類以上が生息し、野鳥の楽園としても有名です。保護区内には複数のトレッキングコースのほか、地上50メートルの高さにかけられた7本の吊り橋を渡るスカイウォークや、ケーブルを滑車で渡るキャノピーなどのアトラクションがあり、いろんなシチュエーションで森林浴や植物観察を楽しめるようになっています。バタフライ・ガーデン、カエル園、ヘビ園などの見どころも満載。自然保護区はコスタリカの民間NGO「熱帯科学センター」によって管理されています。 ハミングバードギャラリー:モンテベルデ自然保護区入口近くにあるハミングバードギャラリー、大きな温室のような所で飼っているのかと想像していましたが違いました。小さな建物の軒先にエサ台というか、ランタンのような容器で砂糖水が吊られています。この砂糖水につられて周辺に暮らすハチドリがやってくるようです。屋根があるのは有難いです。 ハチドリの好きな砂糖水が吊られている。いろんなハチドリが入れ代わり立ち代わりやって来ます。ハチドリと言えば目にも見えない程の羽ばたきでホバリングするのが有名ですね。あまりに早すぎて、コンデジのオートでは羽の様子なんて写せません。 次々とやってくるハチドリたち、それどころか、じっとしてないのでカメラによってはピントすら合わせられない人も多いようです。シャッター押してもピンボケばかりという人や、背景にしかピントが合わないという人も。写真撮影の腕はもちろんの事、カメラの性能も試されます。私のカメラは比較的優秀かも知れません。 砂糖水を飲みに来たハチドリ、ハチドリは体調が5~10㎝くらいしかないとても小さな鳥です。小さいので肉眼で見ているととてもかわいらしく見えます。色も結構きれいで、いろんな種類がいるようです。 バタフライ・ガーデン:世界一美しい蝶とされるモルフォ蝶を始め、珍しいと蝶がわんさかといる。コスタリカでまだモルフォ蝶を見ていなかったら是非訪れたい場所。 スカイウオーク:ジャングルの木々は高いものでは40mを超えます。その上部に、計8個の吊り橋が掛かっていて、一周約3kmのトレイルコースが作られています。吊り橋から見渡す森はまさに鳥の目線。霧の立ち込める森だけでも非常に神秘的ですし、木々の上部にいる鳥やサルたちも観察しやすいです。 サルチー村:サルチー村はそのカレータの製造で有名な観光スポット。町中には多くのカレータの工房やお土産屋がたくさんあります。 サンホセに向かう。 サンホセ:中米のスイスと呼ばれる非武装中立国コスタリカの首都。標高1150メートル。この町の歴史は1737年の入植に始まります。最初は小さな集落でしたが、コーヒーやタバコの産業で急速に発展しました。1823年には当時首都だったカルタゴと対立。戦いに勝利し、新たな首都となりました。コロニアル調の落ち着いた町並みは、ヨーロッパの雰囲気を漂わせています。 中米一安全とも言われる国ですが、人口の2割が集中するサン・ホセではやや注意が必要です。いろいろな国立公園や自然保護区へのサン・ホセ発エコツアーがほとんど毎日催行されています。スペイン語学校もたくさんあり、中南米で最も発音が美しいと言われるスペイン語を学習することができます。 夕食、オジャ・デ・カルネ: 就寝 2日サン・ヘラルド・デ・ドタに向かう。 サン・ヘラルド・デ・ドタ:サン・ヘラルド・デ・ドータの目的と言いきって良いのがケツァール。モンテベルデなど、他の場所では写真撮影は勿論の事、肉眼で確認するのも難しい場合が多い。 しかしサン・ヘラルド・デ・ドータには当てはまらない。時期によって普通のデジタルカメラでの撮影すら可能。 ケツァル探し ケツァル: ケツァールは世界で最も美しい鳥だ。この鮮やかな鳥は中米の熱帯林に生息し、果実や昆虫、トカゲをはじめとする小さな生き物をエサとしている。繁殖期になるとオスのケツァールには、尾のように長い2本の羽が伸びてくる。この飾羽を含めるとケツァールの全長は1メートルにもなる。メスには長い飾羽はないが、オスと同じく鮮やかな青と緑と赤の羽を持っている。一般的にはオスのほうが色合いが鮮やかだ。 派手な外見を持つケツァールのつがいは、丈夫なクチバシで腐った木や切り株をくり抜いて営巣する。巣の中ではつがいが交代で2~3個の卵を温める。オスの抱卵中には、長過ぎて入りきらない飾羽が巣の外に飛び出ていることもある。ケツァールのヒナは、孵化してから約3週間で飛べるようになる。しかし、オスの長い飾羽が生えてくるのは3年経ってからである。 今も昔も人々は、ケツァールを崇拝の対象としてきた。古代のマヤ人やアステカ人もこの鳥を神聖な鳥として崇拝し、王族や聖職者は儀式の際にケツァールの羽毛を身に付けていた。また、グアテマラの国鳥に指定されており、その名前「ケツァル」はグアテマラの貨幣単位になっている。 彼らは全分布域で絶滅の危機にさらされている。原因は捕らえられたり殺されたりするためでもあるが、一番はこの鳥の生息地である熱帯林の減少が挙げられる。そのため一部の地域では、ケツァールの生息地を確保するために保護区をもうけ、エコツーリストや熱心な野鳥観察者が世界各地から訪れられるようにしている。特にコスタリカの雲霧林の取り組みはよく知られている。 カルタゴに向かう。 カルタゴ:カルタゴ (Cartago) は、サンホセ近郊にあるコスタリカ第3の都市である。16世紀に建設された、コスタリカ最古の都市であり、地震での壊滅的な被害の結果、19世紀に首都がサンホセに遷都されるまで、約250年間コスタリカの首都だった町としても知られている。 中央公園:中央公園の一角に1823年のイラス火山の噴火で破壊された教会の1部が残っている。 サンチアゴ教会跡:同じ地震国の国民として、凄く神妙な気持ちで観ざるを得ないスポットがカルタゴ市内には残されていて、それがこちらの教会跡です。カルタゴという町はコスタリカ最古の町として16世紀半ば(1563年)に建設され、当初は首都でもあった町でもあるのですが、首都がサンホセに移動後、1841年と1910年に大地震に見舞われ、町全体が壊滅的な被害を受けたとされています。こちらの教会跡は今となっては基部が残されているだけなのですが、それにしても規模が相当に大きくて、この教会が現存していればさぞ素晴らしい建築だったろうにと思わせてくれる、そんな歴史的価値の高い”遺跡”だと思います。 ロス・アンへレス大聖堂:カルタゴ市街地で最大の観光スポットといっても過言ではない、とても美しいビザンチン様式の教会で、外観を見るだけで圧倒されますが、内部も自由に見学できますので是非ご覧下さい。ここは「黒いマリア像」が安置されていることで有名な教会ですが、内部の立体感ある構造や美しいステンドグラスなど、どれをとっても素晴らしいです。サンホセにあるどの教会よりも見応えがあり、ここを観るためだけにもカルタゴを訪れる価値が十分にあるといえる、そんな素敵な教会です。 サンホセに向かう サンホセ:アコスタリカの首都サンホセは標高1,150mに位置する高原の町で、18世紀半ばに遷都されたため他のラテンアメリカの首都と異なり、スペインの植民都市の雰囲気が全くないのが特徴です。 このためか、おだやかな気候とも相まって中南米の他の都市とくらべてもとても過ごしやすいのが特徴です。 コスタリカはとても小さい国なので、首都サンホセより主要観光地へは容易にアクセスできます。 昼食は中華 国立博物館:建物は陸軍の拠点として使われていたところで、現在でも弾痕が生々しく残っています。内部は考古学展示室やコスタリカ歴史展示室などがあり、原住民の生活から現代までの移り変わりを詳しく知ることができます。注目は、1930年代の初めに先住民の墓の近くで発見された石の球体。現代の技術を持っても造るのが難しいとされる正確な球体で、現在までに200個以上が発見されていますが、作成年代や作成目的はいまだ不明です。 文化広場:サンホセの市民も観光客も多くの人が集まる文化広場にあります。サンホセの中でも最も重要な建物の一つでもあり、市民の誇りの建物のようです。1965年に国の歴史的建造物に指定されています。公演も行われていますので、内部を見学するのであれば、午前中に行った方が、良いかも知れません。外部とロビーを見学するだけでも、充分素晴らしさを感じられます。 国立劇場:コスタリカ国民が戦争をしないのはこの劇場が壊されることを嫌っているからというほど、美しく歴史のある劇場です。 随時コンサートやバレエなど色々な催しをしています。 サンホセ中心街、Htel Gran CostaRicaの前に位置するこの劇場はサンホセのシンボルでもあります。 アベニーダ・セントラル:アベニーダ・セントラルのこの辺りは歩行者天国になっています。 国会議事堂:国立博物館の向かいにあるブルーの建物は国会議事堂です。地震の多いコスタリカ、国会議事堂もトタン屋根です。元は大統領官邸だったそうで、ちょっとしたきれいなお屋敷という印象です。 パナマシティに向かう。 パナマシティ:パナマ共和国の首都。国名と同一名称のため、各言語で「市」に該当する単語を付けて区別するのが通例となっており、パナマ共和国の公用語であるスペイン語でもそうされている。また、パナマシティとも呼ばれる。以下の解説では「パナマ市」とする。 太平洋に面しパナマ運河の入り口である。国の政治、経済、文化の中心だけではなく、中米有数の世界都市でもある。また、中米有数の金融センターとしても評価されており、世界各国の銀行が進出している。 また旧市街地はパナマ・ビエホとパナマ歴史地区として世界文化遺産に登録されており、多くの観光客を集めている。 パナマシティのホテル宿泊 3日4WDでパナマ地峡を横断、カリブ海へ パナマ地峡:南北アメリカ大陸を結ぶ地峡部の南東端をなす最も幅の狭い部分。コスタリカ東境付近から東へ,南アメリカ大陸本土まで,S字形に約 650kmにわたって延び,北のカリブ海と南の太平洋を分ける。全体がパナマ共和国をなし,ほぼ中央にパナマ運河が通じ,両大洋を結ぶ。チリキ地峡 (西部) ,最狭部 (幅約 50km) をなすサンブラス地峡 (中部) ,ダリエン地峡 (東部) を含む。狭義にはパナマ運河地域をさすこともある。 ボートでサンブラス諸島に向かう。 サンブラス諸島:カリブ海一のリゾート地「サン・ブラス諸島」。サン・ブラス諸島は、パナマの北東部のカリブ海に浮かぶ約350以上の島からできています。 1周百メートルくらいの小さな島から、ヤシの木が1本しかない島、ホテルが1件しかない島まで多種多様な島がサン・ブラス諸島を形成しています。 サン・ブラス諸島の特徴は、何と言ってもコバルトブルーのカリブの海。 一度この海を見てしまったら、もう並大抵の海では満足できないほど。まさに楽園。 島には、先住民族のクナ族の人々が生活しており、土着の文化や生活習慣が今も尚残っており、原始的な島の暮らしを体験することができます。 クナ族の女性が身に着けているのは”モナ”と呼ばれている刺繍を施したブラウス。 魚や鳥、植物などの自然をモチーフにしたデザインが特徴的。ちなみに、島の人々は、島と島の間を小舟で移動します。 イスラ・ペロ:白いビーチ、透明な海、ヤシの木が広がるこの島は、「犬の島」という愛称で呼ばれ、観光客に大変人気があります。ビーチバレーやシュノーケリングをお楽しみいただけ、夜にはテントを張って泊まることも可能です。 クナ族の集落:サンブラス諸島の先住民はモンゴロイド系統の民族なのです。 先住民クナ族は丸木船で小島を行き交っており、 集落がある人口250人ほどの島にも上陸しました。 クナ族の男は漁に出て、女性達はモラという独特の刺繍を売って生活をしています。 刺繍デザインはじっくりと眺めると実にユニーク。 魚や鳥、植物などの自然をモチーフにしているのですが、 そのエキゾチックなデザインはマヤ遺跡のレリーフを思わせ、 その鮮やかな色彩はアンデスの織物を思い出させます。 顔立ちもカリブ海で良く見られるアフリカ系の混血ではなく、 明らかに南米アンデス山中の先住民や中米マヤ系統の、モンゴロイド人種である事がわかります。 モラ工芸:クナ族の女性達が着ている民族衣装(ブラウス)に部分的に縫い込まれている、刺繍が入った飾り布をモラと言います。クナ族の女性が一枚一枚手作りし、作る人の感覚の表現、種族の信仰、野生の植物や動物を表し、優れた伝統美術として世界的に評価されています。このモラの販売はクナ族の人々の大きな収入源となっており、サンブラスの多くの島で販売され、お土産としても人気です。 昼食:シーフード 夕食ホテル 就寝 4日2016年完成パナマ運河新アグアクララ閘門ビジターセンター訪問 パナマ運河:中央アメリカのパナマ地狭にパナマ運河はあります。パナマ運河は、太平洋と大西洋をつなぐ、全長80キロメートルの国際運河です。年間の通航数は、1万4000隻前後と多く、行き来する船は、アジアやアメリカへ移動する船が多いです。 パナマ運河ができるまでは、南アメリカ大陸の大西洋に沿って南下してから北上したため、ニューヨークからサンフランシスコに行くための移動距離は2万キロメートル以上もありました。パナマ運河ができたことで、短縮できた距離は、8000キロメートル以上にもなりました。パナマ運河のおかげで、距離と時間が大幅に短縮されたのです。 ビジターセンター:ミラフローレンス閘門の前には、ビジターセンターが建てられていて、こちらは見学が可能です。ビジターセンター内には、パナマ運河に関する展示物や資料があります。その他に、パナマ運河に関する映画を観ることができたり、運河を眺めるための展望台もあります。パナマ運河のおすすめ観光名所として頭に入れて頂けたらと思います。 2007年から始まった拡張工事は、2016年に終了しました。拡張工事が終わり、新しくなったパナマ運河は、横幅49メートルの貨物船が通過できるようになり、液化天然ガス(LNG)も輸送できるようになったのです。アメリカ産の物を輸送する際、南米からぐるりと回るよりも、パナマ運河を通る方が、輸送にかかる日数とコストがカットされることが予想できます。 パナマシティ旧市街(カスコ・ビエホ)観光 パナマシティ:旧市街(カスコ・ビエホ):旧市街の世界遺産に登録されている歴史的地区を、「カスコ・ビエホ(Casco viejo)」という。ちなみにカスコとは「住宅地」という意味で、ビエホとは「古い」という意味である。 カスコ・ビエホはサン・フェリペ地区ともいわれ、スペインの植民地時代に機能していた町並みが残っている歴史的・文化的に重要な地区である。 エレーラ広場:パナマシティの旧市街、カスコビエホにはパナマの英雄、トーマスエレーナの像が建つ、エレーナ広場がある。周辺の建物は高級住宅街が立ち並ぶ。 広場にはカスコヴィエホ(旧市街)を海賊たちから守ったかつての城壁が残っているので一見の価値あり。 サン・ホせ教会:「はサン・ホセ教会」は「パナマシティ」の「カスコ・ビエホ(旧市街)」に位置する「カトリック教会」です。 「カスコ・ビエホ」は「1997年」に「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」として「世界遺産」に登録されています。 フランス広場:カスコ・ビエホ地区の南東にあるフランス広場。パナマ運河を手掛けたフランス人レセップの胸像や、運河の建設に携わった労働者たちをマラリアなどの疫病から救ったキューバ人医師など、パナマの歴史に重要な人物の胸像が並びます。 15:00パナマシティアエロメヒコ航空で出発メキシコシティ乗り継ぎ帰国 19:15メキシコシティ到達 5日0:15メキシコシティアアエロメヒコ航空で出発 6日6:20成田空港到達。 今回の旅行、中米の3カ国ニカラグア&コスタリカ&パナマを訪れ9日間満喫しました。 ニカラグアの首都マナグアのカテドラス等の歴史的建造物、マナグア湖、第二の都市レオンの歴史的建造物、古都グラダナの歴史的建造物、コスタリカのモンテベルデ自然保護地区の散策、首都サンホセ観光、中米の大都市パナマシティ観光、パナマ運河の訪れ、盛り沢山の観光堪能しました。 3カ国みなさんそれぞれ個性があり飽きが来ない記憶に残る旅行でした。お勧めです。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十三弾:香港観光 2018年2月10日-12日 5回目の訪れである香港に足を運び、香港島の郊外に点在する観光名所、ビクトリアピーク、浅水湾、赤柱、香港仔、海洋公園を訪れました。 香港は、正式名称を『中華人民共和国香港特別行政区』と言います。 第2次世界大戦後150年以上イギリス統治国家だった香港は、1997年に中国に返還され、現在は特別行政区として独自の文化や通貨を持っています。 そのため、言語は中国語と英語が通じます! 日本人にとっては漢字で意味が分かり、英語でもコミュニケーションが取れるのは旅先としては安心ですね。 香港とはビクトリアハーバーを挟んで、北側の九龍半島と南側の香港島、230以上の島々のことを言います。 観光客が一般的に訪れるエリアは、九龍半島南端と香港島の北側になります。 10日16:50関西国際空港香港航空で出発 20:10香港空港到達、メトロで紅磡方面に向かう。 21:15紅磡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 11日8:00出発、メトロで中環駅下車、徒歩、ピークトラムでビクトリアピークに向かう。 ビクトリアピーク:香港と言えば、「百万ドルの夜景」というフレーズを思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。 香港の定番夜景スポット「ビクトリアハーバー」です。 毎晩20時から行われる光と音のファンタジーショー「シンフォニー・オブ・ライツ」を見るために、この時間前になるとビクトリアハーバーに訪れる観光客で溢れかえっています。 香港島サイドや九龍サイドのハーバー沿いの高層ビルから、夜空にサーチライトが放たれ、七色の光が乱舞するこのショーは絶対に外せませんよ。 この13分間の壮大なスケールのショーはなんとギネス記録にも認定されているとか。 ショーもさることながら、ここから見る夜景は「香港」を感じることが出来るスポット。 11:00中環に戻りバスで淡水湾に向かう。 淡水湾:香港で最も美しいビーチといわれる、淺水灣(レパルスベイ)。香港島の南に位置するレパルスベイは、11月頃まで海水浴を楽しむことができ、多くの人で賑わうビーチです。ここは、ハリウッドの名作映画『慕情』(1955年 ジェニファー・ジョーンズ、ウイリアム・ホールデン)の舞台としても大変有名です。白い砂浜と美しい海は、まるでヨーロッパのリゾート地に来たよう。香港の喧騒から少し離れて、澄んだ空気の美しいビーチで、リッチなリゾート気分を味わってみませんか。 バスで赤柱に向かう。 赤柱:香港島最南端に位置する「スタンレー(赤柱)」は、美しい海や自然に囲まれ、オシャレなレストランやパブが軒を連ねる、まさにヨーロピアンリゾート。中国雑貨や衣料品など、思わぬ掘り出し物に出会える「スタンレーマーケット」やコロニアル調の洋館「マレーハウス」など、香港に来たからにはぜひ立ち寄ってみたい観光スポットもいっぱいです 16:00バスで中環に戻る。 メトロで紅磡駅に向かう。 18:00紅磡駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 12日7:30出発、メトロで中環に向かう。 8:30中環駅前のバスターミナルでバスで香港仔に向かう。 9:00香港仔到達、散策。 香港仔:香港島南側にある漁師町 香港仔(アバディーン)をご紹介します。中環(セントラル)からバスで20分ほどのところにある香港仔は、山と海に挟まれた本当に小さな小さな町ですが、香港島南側にある町の中で一番にぎわっている場所と言っても決して言いすぎではないぐらい、いつも多くの人でにぎわっています。 「香港」という地名の由来になったといわれている「香港村」というのが、香港仔対岸にある鴨脷洲(アプレイチャウ)という島にあったため、その後この町を含めこのあたり一帯が香港仔(ヒョンコーンチャイ、アバディーン)と呼ばれるようになりました。 10:00歩いて海洋公園に向かう。 10:30海洋公園到達。 海洋公園:1977年にオープンして以来、香港の人びとの週末のおでかけスポットとして、また観光スポットとして大勢の人が集まるテーマパーク。動物園、水族館、遊園地が集結した、大人にも子どもにとっても夢のようなテーマパークはただ遊ぶだけでなく、「人と自然をつなごう」をモットーに自然保護や動物保護に対する理解を深めることに力を入れています。2012年には世界ベストテーマパーク賞を受賞しました。 16:00メトロで中環に向かう。香港駅から機場快速で空港に向かう。 17:00香港空港到達。 18:15香港空港香港航空で出発。 22:35関西空港到達。 今回の旅行、5回目の訪れである香港に足を運び、香港島の郊外にに点在する観光名所、ビクトリアピーク、浅水湾、赤柱、香港仔、海洋公園を訪れ楽しみました。 初めて訪れた香港は大学生で両親と訪れましたが、ビクトリアピークの記憶が残っており、高層ビル群の眺望の思い出があり、今回も昔と同様感動いたしました。かなり進化していました。 又以前は治安も悪く、至る所でスリを見かけましたが、現在は全くありません。 町の発展と治安の良さは伴うものなんでしょうか。 中国は現在も発展続けてしています、5年前のガイドブックを持参しましたがメトロが進化し、以前はバスでしか行けないところがメトロでスムーズにいけるようになっています。便利になっています。ただし物価が高いですね。特に土地の高騰によりホテル代がべらぼうに高い。 観光王国香港旅行満喫しました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十八弾:キューバ観光 2017年12月28日-2018年1月4日 全長1250kmあるカリブ海最大の島、内陸には山脈が走り、東部のシエラ・マエストラ山脈のトゥルキノ山は標高2005mあるキューバの最高峰、カリブ海沿岸には美しいビーチリゾートが点在、1959年の革命以来社会主義国であり、カリブのほかの島にはない独特の魅力に溢れているキューバを訪れました。 28日14:00伊丹空港全日空で出発 15:10羽田空港到達。 18:40羽田空港エアカナダで出発。 16:40(時差ー14時間)トロント到達。 18:55トロントエアカナダで出発。 22:30ハバナ到達、バスでハバナ市内のホテルに向かう。就寝。 29日9:00バスで出発、ハバナ市内観光。 オールド・ハバナ(ハバナ旧市街):カリブ最強の砦と言われた要塞に守られた旧市街には、立派なコロニアルな建築がたち並びます。“オールド・ハバナと要塞群”は1982年に世界文化遺産登録されました。 ハバナ新市街:カラフルなクラシックカーや黄色の可愛い個々タクシーが名物の「ハバナ新市街」は観光スポットとして訪れておいて間違いなしです。レストランやカフェが多く、ショッピングも楽しめる新市街では陽気な雰囲気が漂っておりリゾート気分を味わうことができるでしょう。 革命広場:新市街の中心地にある、チェ・ゲバラのモニュメントが有名な内務省がある革命広場。キューバを代表する風景のひとつで、撮影スポットとしても人気です。キューバを訪れた人が一度は立ち寄る場所と言ってもいいでしょう。 ホセ・マルティ記念博物館:革命広場に面した高さ109mのかつての共産党本部。館内ではキューバ建国の父として国民的英雄のホセ・マルティのスペインとの独立戦争から革命戦争にいたるまでの歴史を展示。 モロ要塞:対岸のプンタ要塞と向かい合うように立っているモロ要塞は、かつて、外敵が間近に迫る と両者は太い鉄の鎖を渡して敵の侵入を防いでいました。 高さ20mの城壁を有するモロ 要塞は、大船団を率いるイギリス人の海賊ヘンリー・モーガンの襲撃も退け、17世紀 前半には3度にわたる海賊の襲撃からもハバナの街を守りました。モロ要塞は、カリブ海 最強の砦といわれ、その名に相応しい活躍を見せます。 現在、要塞内部は、コロンブス の旅の軌跡や歴史などを展示する博物館となっており、レストランも併設されています。 カバーニャ要塞:革命政権発足後、チェ・ゲバラは国立銀行総裁および工業大臣に就任。ここカバーニャ要塞にある執務室で仕事をした。 第一ゲバラ邸宅:ハバナの旧市街とは運河を挟んだカバーニャ要塞の南側の白いキリスト像の近くにあります。黄色味を帯びた白っぽい外装の二階建ての家で、キューバ革命前は前大統領の兄弟が住んでいたそうです。部屋のあちらこちらにチェ・ゲバラの絵が飾られており、会議室のような部屋や、意外に小さなベットの置かれた寝室、あとは写真などを展示する数部屋。 支倉常長の像:ヨーロッパとの貿易を求めていた伊達政宗藩主の命を受け、遣欧使節として送り出された支倉常長は、キューバの地を踏んだ最初の日本人であり、彼の礼儀正しく誠実な人柄は「至誠の人」「熱誠の使節」として異国の人々から信頼され、尊敬された人物として広く知られています。 カテドラス:18世紀に完成した大きな教会で、左右に異なる形の塔があるのが特徴的です。ハバナの中でも大きな教会として有名で沢山の旅行者の観光ポイントになっています。キューババロック様式の大聖堂の右の塔には重さ7tの大きな鐘が吊り下げられているのが印象的です。 カテドラス広場:16世紀に作られたサンティアゴ・デ・クーバからハバナに首都が移された時から最大の信仰を集めるカテドラル(大講堂)のある広場。17世紀の石畳が敷き詰められた荘厳な雰囲気のある広場で、周囲の家々も18世紀に建てられた、歴史を感じることのできる広場です。 フェルサの要塞:ハバナには世界遺産に登録されている要塞が4つあり、そのうち最古のものがこの観光スポットです。当時は木造でしたが、後に珊瑚石を使った現在の姿に生まれ変わりました。堀がグラされた堅牢な要塞からの眺めはおすすめで、キューバの首都ハバナが一望できます。 コロニアルアート博物館:カテドラル広場に隣接するミュージアム。中には植民地時代の家具や調度品、食器や壺などが展示されており、スタッフが説明しながら案内してくれます。欧州で作られたお皿や家具は美しく、スタッフの説明もあって理解が深まりました。また、カテドラル広場を上から一望できるのも素晴らしいポイントです。 市立博物館(旧総督官邸):1776年に立てられ、1791から1898年まではスペイン総督官邸として使われた後、1920年までは大統領官邸だった歴史ある建物。今は市立博物館になっています アルマス広場:キューバの世界遺産にも登録されているハバナ旧市街の中心となるのがこの観光スポットです。中央には独立戦争の父カルロス・マヌエル・デ・セスペデスの銅像が立ちます。 ホテル・アンボス・ムンドス:世界的にも有名な小説家であるヘミングウェイが”誰がために鐘は鳴る”など、こちらのホテルの一室で執筆していた事で有名なホテル。赤レンガの壁が優雅なホテルです。ホテル名のスペイン語名の"Ambos Mundos"は直訳すると「両方の世界」という意味なんだそう。 ビエバ広場:16世紀頃に作られた「ビエハ広場」にはコロニアル様式の建物に囲まれており、レストランやカフェ、バーなどがあり沢山の旅行者で盛り上がっています。カフェなどでは生演奏のライブが行われていることも多く、キューバの音楽に触れることができます。 ラム酒ハバナ・クラブ博物館:お酒好きなあなたにオススメ!「ラム酒ハバナ・クラブ博物館」では、ラム酒の最初の製造過程の1つである圧搾を見学することができます。またその他、工場を再現したセットや、ラム酒の原料となるサトウキビを運ぶ蒸気機関車などを鑑賞でき、しかも試飲もできるそう! 革命博物館:革命博物館は、オールド・ハバナに位置する博物館。マリオ・ガルシア・メノカルからフルヘンシオ・バティスタまで大統領官邸として使用され、キューバ革命後に革命博物館になる ガルシア・ロルカ劇場:1837年にバロック様式で建てられたキューバ国立バレエ団の本拠地で、ライトアップされる夜が美しいです。昼間は劇場前にカラフルなクラシックカーが並んでお洒落な雰囲気があります。 旧国会議事堂(カピトリオ):アメリカのホワイトハウスをモデルにしたと言われるカビトリオ。キューバ道路の基点ゼロ地点でもあるといいます。入り口にあるキューバの国旗をまとった女性の像は共和国の象徴であり、世界で3番目の大きさという。多く人々が賑わう、人気の観光地のひとつです。 サン・ホセ民芸品市場:ラム酒博物館からも歩いて10分かからないくらいの距離、フェリーターミナルと鉄道駅の間あたりの海沿いに、倉庫をリノベーションして作った民芸品市場がある。外国人旅行者向けのおみやげ屋さんということ。 昼食 ココタクシー乗車体験:ココタクシーはせいぜい排気量50cc位のエンジンを搭載した、ココナットの形をした黄色い色の小さな三輪車です。 コッペリアにてアイスクリーム試食:コッペリア公園の中にあります。公園に入ってすぐ左に観光客用のコッペリアがあります。 クラシックカー乗車体験:キューバでは、アメリカと国交が断絶される以前の1940~1950年代に輸入されていたアメ車が、この現代でも黒い排気ガスをブンブン吐きながら走っています。 そのため、ハバナの空港から市内へ出るとレトロなアメ車に興奮する反面、息苦しいほどの排気ガスに驚く人も多いと思います。 17:30ホテル到達。 19:00キューバ音楽を聴きながら夕食 21:00就寝 30日8:00バスで出発、シエンフエゴスに向かう。 シエンフエゴス観光:キューバの中心部南岸にある植民都市の先駆けとなった美しい街。フランス人が多く移住したことで、他のスペイン風の街並みとはことなる雰囲気です。 ホセマルティ広場:「ホセ・マルティ広場」は「シェンフェゴス都市歴史地区」にある「19世紀」の「スペイン植民地時代」に築かれた街並みの中心に位置する「キューバ建国の父」である「著名な革命家ホセ・マルティ」から名付けられた「公園」です。 「ホセ・マルティ広場」は「2005年」に「シエンフエーゴスの都市歴史地区」として「世界遺産」に登録されています。 昼食 昼食後トリ二ダ―へ向かう。 トリ二ダ―市内観光:世界遺産にも登録された、キューバの古都トリニダ-ド。歴史あるこの街では植民地時代の雰囲気を色濃く残すコロニアル様式の建造物群を目にします。旧市街には丸石の敷き詰められた街路や、パステルカラーの家、宮殿や広場で知られ、歩くだけでも楽しめる街です。 カンテーロ博物館(市立歴史博物館):トリニダの街にはサトウキビ農園で巨万の富を得て、豪華なバロック風の邸宅が何軒も残っています。ここの住人は革命後国外に逃亡しましたので、残った家は博物館として何軒か紹介されています。 この邸宅はイスナガ氏の邸宅でしたが、夫に先立たれたイスナガ夫人はその後、同じくサトウキビ農園を営むドイツ人のカンテーロ氏と再婚。当時の生活していたままが博物館となってカンテーロ博物館と呼ばれていますが、日本のガイドブックには市立博物館となっています。 サンティシマ広場:小さな街の小さな広場です。中心には可愛らしい教会があります。周囲にはロマンティコ博物館、建築博物館考古学博物館などがあります。 サトウキビで成功した農園主のお屋敷跡がそれぞれ博物館になっています。オレンジの瓦屋根や半円アーチの柱など、街並みがきれいです。 サンティシマ教会:旧市街の中心、マヨール広場のランドマーク的存在。19世紀に完成するまでに比較的長い年月を経て建てられたネオクラシック様式の美しい教会です。 ロマンティコ博物館:キューバを訪問し、トリニダーを訪れてトリニダー旧市街散策の途中に、マヨール広場に面しているサンティシマ教会横のロマンティコ博物館を見学しました。 かってのサトウキビ農園主のニコラス・ブルネット・ミニョスの屋敷をそのまま博物館にしたもので、砂糖産業で大成功した農園主らの所蔵していた家具調度品などが展示されており、当時の生活ぶりをうかがい知ることが出来ます。 建築博物館:マヨール広場に面してある水色の建物がコロニアル建築博物館。1750年築の大農園主の邸宅を利用しており、トリニダーに残るスパニッシュ・コロニアルの特徴を理解するのに役立つ。実際に模型も用意し、梁の組み方、漆喰壁の構造、ファサード(門)のデザイン、ドアの装飾、蝶番の種類など、実に具体的でわかりやすく展示している。 グアムアヤ考古学博物館:生命、自然科学的な内容で、先住民の土器、食器などが展示されていました。出土した、先住民のお墓も再現されてました。 革命博物館:1984年に建てられたサン・フランシスコ修道院だったもの。CUC25¢コインに描かれているのはこの風景。 カンチヤンチャラにてラム酒入りのレモネードいただく。 ロスインヘニオス渓谷:18世紀末から19世紀末まで砂糖生産の中心地であり、最盛期には渓谷において50以上の製糖工場が稼働していたと言われています。 マナカ・イスナガの塔:高さは45.5m、7階建てで塔の上までは136段の階段を上ります。「マナカ・イスナガの塔」には、かつて各階に違った音のする鐘が取り付けられていたそうで、その音で労働者たちに終業の合図などを送っていたのだとか。 18:30ホテル到達。 19:00夕食ホテルで。 22:00就寝。 31日7:45バスで出発。サンタ・クララへ向かう。 サンタクララ市内観光:キューバの首都ハバナから東に約300㎞に位置する都市『サンタクララ』。キューバ革命の後、チェ・ゲバラによって解放された都市として知られ、キューバの歴史、革命史を知る上で外せないところです。 チェ・ゲバラ記念霊廟:チェ・ゲバラ霊廟、チェ・ゲバラ廟とは、マルクス主義革命家、チェ・ゲバラの霊廟である。キューバのサンタクララにある。 遺骨は1997年10月17日に収められた 革命広場:毎年5月1日メーデーなどに、国家評議会議長の演説が行われる。数十万人もの人が集まることもある。 列車襲撃跡:1958年12月29日、ゲバラの指揮する革命軍はバティスタ政権の列車を襲撃し、多くの武器を奪うことに成功しました。バティスタはこの3日後の1959年1月1日、キューバからドミニカ共和国に逃亡し、キューバ革命は成功しました。従って、この列車襲撃の成功はバティスタ政権に最後のとどめを刺した事件と言えるでしょう。 共産党本部前:屋上に、comite provincial(地方委員会)とあります。この地域の共産党の地区委員会本部です。何の変哲もない建物ですが、壁に Che とあります。チェ・ゲバラです。そして、この手前には 子どもを抱くゲバラ像 カピーロの丘:サンタ・クララは、ビジャ・クララ州の州都なので存外大きな街でした。 街の外れのカピーロの丘の頂上にはモニュメントがありましたが、革命戦争当時には砦があったようそうです。カピーロの丘の頂上にはキューバ国旗と7月26日運動の旗が掲げられていました。 7月26日運動は、1959年にバティスタ政権転覆を行った、フィデル・カストロにより率いられた革命運動組織だそうです。 昼食レストランで 昼食後バラデロに向かう。 バラデロ:もとは欧米のVIPの別荘地として愛されたリゾートでしたが、近年は開発が進み、デラックスクラスホテルやアクティビティーが充実したキューバ最大のビーチリゾートとして知られる様になりました 16:00バラデロのホテル到達。 20:30ホテルレストランで夕食 22:00就寝。 1日10:00ビーチ散策。 パラデロビーチ:大西洋に面したキューバ随一のリゾート地バラデロにある白砂が約30km続くビーチです。コロンブスが残した「人間の目が見た最も美しい島」という言葉に納得です。 12:00バスと徒歩で名所めぐり。 パラデロ市民博物館:キューバ最大のビーチリゾートの町らしく、華やかさと楽しさが感じられる町で、その町の一角に、パラデロ市民博物館になっている青と白のカリビアンスタイルの建物がありました。博物館の1階は、パラデロの歴史についての展示があり、2階はパラデロのスポーツの歴史に関するコーナーがあるそうです。 マンシオン・ザナドゥ―:アメリカの財閥デュポンの大邸宅跡。キューバ人建築家により設計され建てられたスパニッシュ・コロニアル・スタイル。 アンブロシオ洞窟:1961年に発見された洞窟で、全長約200m。洞窟内には赤と黒の絵の具で描かれた線や渦巻きのような47個の岩絵が残されている。 バクナヤグア橋:ハバナとマタンサス州の境に位置する全長8kmのユムリ渓谷にかかる橋。キューバ最長で地上からはなんと112m。 17:00ホテル到達。 18:00夕食はホテルでビュッフェ 20:30バーでキューバキューバ音楽 21:00バーでミニコンサート 21:30シアターでショウ鑑賞 23:0就寝。 2日9:00バスで出発、ハバナに向かう。 コヒマル観光:海とレトロな街並みが美しい「コヒマル地区」は観光スポットとして非常におすすめです。昼間は海岸沿いを散歩するのが気持ちよくリラックスできます。夜はパーティーなどが開かれて周辺はライトアップされカラフルで賑やかになります。昼と夜のギャップが面白くキューバらしい体験をすることができるスポットになっています。ヘミングウエイゆかりの漁村 ヘミングウェイの胸像:コヒマル漁港の海の近くには、ヘミングウェイが自殺した後に地元の漁師たちが自分たちの船のスクリュー等の金属を使って作ったと言うヘミングウェイの胸像が、彼の好きだった海を眺めているかのように建っています。 ヘミングウエイ博物館:ノーベル文学賞を受賞した「老人と海」を書いたのが、このFヒンカ・ビヒア邸。広大な敷地をもつ邸宅内には、ヘミングウェイを知ることのできる数々の品が残されている。 昼食レストランでキューバ風パエリア 昼食後キューバ人の家庭訪問 ラ・フロリディータ:キューバのお酒といえばラム酒ですね。キューバを愛したノーベル賞作家 アーネスト・ヘミングウエイが通ったというバーでカクテルを一杯いかがでしょうか。 旧市街にあるヘミングウェイ御用達のバー&シーフードレストラン。ダイキリ発祥の地とも言われています。ヘミングウェイの指定席だったカウンターの一番奥には彼の実物大の像が置かれています。お酒が強かったヘミングウェイは通常のダイキリでは飽き足らず、ラム酒ダブルで砂糖抜きのスペシャルダイキリを好んで飲んでいたそうです。 夕食レストランで 革命広場のライトアップ鑑賞 ホテル到着後就寝。 3日5:00バスで出発、空港に向かう。 7:0ハバナエアカナダで出発。 10:30トロント到着 13:35トロントエアカナダで出発 16:55(時差+14)羽田空港到達。 19:20羽田空港全日空で出発。 20:35伊丹空港到達。 今回の旅行、中米の島国キューバに足を運び、キューバの首都ハバナの新都市と旧都市の歴史的建造物、キューバに残る古い街に一つ、トリニーダのスペイン植民地時代の歴史的建造物、フランス人に移民により造られた都市的歴史地区シエンフエゴス、ゲバラ指揮する革命軍のゲバラ霊廟、ヘミングウェイゆかりの漁村コヒマル、バラデロリーゾート6泊8日の旅、満喫しました。それぞれの歴史的建造物はこじんまりして圧巻できる場所は少なかったですが、リゾート地バラデロの広大な敷地に位置するホテル感動しました。広大な敷地にいくつものバンガロータイプの部屋、室内はスイートルームのような広さで豪華、ホテルに敷地に面してキューバ最大のビーチ、敷地内には劇場、ゲームセンター、プール、エステ、数多くのレストラン、バーがありすべて飲み放題、食べ放題でした。今までの旅行は、できるだけ多くの観光名所を巡るのが目的でしたが、今回のような広大な敷地にあるリゾートホテルでのんびり過ごすのもいいいいかもしれませんね。年とともに今回のような楽しみ方に変わっていくかもしれませんね。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百九弾:中国青島観光 2017年9月23-24日 アジアの大陸、中国に足を運び、中国山東省にあり、発達した港湾都市。近頃では観光都市としても、人気、人気のある理由として、ドイツの風情を感じさせる街並みがその一つにあげられ、ドイツの占領時代という歴史がある青島を訪れました。 23日10:45関西国際空港全日空で出発 12:35青島空港到達、リムジンバスで青島市内に向かう。 14:30青島駅前到達、散策。 青島:1894~1914年はドイツの租借地。その前は小さな漁村。1914~1921年、1938~1945年は日本の支配を受けた。中国4番目に大きな不凍港。市内にはヨーロッパ風の建物が多く、中国で有名な避暑地や別荘が点在。 青島桟橋:1891年に清政府が軍需物資の供給のために埠頭を建設したのが始まりで、それから増改築を繰り返して現在に至ります。 1931年に国民党政府が桟橋南端に半円形の防波堤を作って、「回瀾閣」という八角亭を建設したものが残っています。 天主教:ドイツ軍がこの場所に来るようになった頃に青島に伝えられました。 1925年には青島教区が設立され、1932年から1934年にかけてこの協会が建設されました。ヨーロッパ風の協会で、塔高は60米、塔上には4.5米の巨大な十字架があり、正面は青島花崗岩から作られた重厚な建築物です。 基督教堂:鐘楼とホール両部分を含んで、最初はヨーロッパ貴族が青島で礼拝に行く場所である。クリスマスの時無料で参観でき、大勢の人が集まった。 ドイツ総督官邸 迎賓館:青島は従来“万国建物博覧会”と呼ばれ 、その中に一番魅力ある建物は迎賓館。 もともとドイツ総督屋敷で、皇居の古典風格を受け継いでいます。高さ30m、建築面積4,080平米の建物は、100万ドイツマルクを費やした。内装は絢爛豪華で、ダンスホール、食堂 が完備。1934年 “迎賓館”と名づけられた後 国内外の首脳の接待場所に。1997年一般開放へ 。 天后宮:1467年に建造された建物で、青島市に最も歴史の古い建築物です。山東省重点文物保護場所にも指定されており、現在は青島市民俗博物館として利用されています。 魯迅公園:文豪魯迅を記念するため開設された公園。中には魯迅の像がある。園内の紅の暗礁とても有名で、静かな名所である 小魚山公園:1985年2月に建設された比較的新しい公園です。頂上には「覧潮閣」と呼ばれる建物が立っています。ここから青島の浜など遠くを眺める事ができます。 市の東部にある、欧米や日本などの様々な建物が建ち並ぶ一帯で、名称に関がつく道路が八つあったので「八大関」と名づけられた。別名"万国建築博覧区"と言われる別荘地である。 八大関:別荘区には、ロシア、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカ、ギリシャ、スペイン、スイス、日本など20以上の国の建築スタイルを持つ立派な洋館が立っている。今は、撮影現場としてもよく使われている。また、"道に植えられた花木を見ると道の名が分かる"という特徴もあり、"花街"とも呼ばれる。ここには砂浜の美しい第二海水浴場がある。岩場に立つ美しい石組みの花石楼は、帝政ロシアの領事館だったが、のちに蒋介石の別荘となった。現在は一般公開され、屋上からの第二海水浴場の全景が素晴らしい。 花石楼:ビーチ,芝生,洋館が錯綜し,青島散策する絶好場所。[万国建築博覧会]と呼ばれる。 30年代24カ国の領事館や外国貴族住宅団地。区内8本の道路は万里の長城の八つの関所の名前で名付けられたので、 八大関と呼ばれる。風格の違い200軒の建築があり、近年結婚アルバムのロケ地として有名、新人がいっぱい。木造遊歩道(海浜木桟道)完成し、新旧市街を結ぶ40キロの遊歩道が出来た。 18:30ホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 24日7:30散策。 五四広場:新市街地のシンボル。毎日市民や観光客でにぎわう。土日は様々なイベントが行われる。市役所前広場の五四広場から徒歩10分でオリンピックセンターへ入 る。新市街地のビル群や海辺への眺めがいい。 10:00地下鉄で青島北駅に向かう。 11:00青島北駅到達、タクシーで青島空港に向かう。 11:40青島空港到達。 14:00青島空港全日空で出発 17:30関西国際空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、多くの日本企業が進出し、発展著しい、港町、ドイツ風情を感じさせられる街並みの青島を訪れ散策し楽しめました。 地下鉄が急速に進化し、青島駅から東方面はホテルやマンションの高層ビルが立ち並び近代都市として進化続けています。海岸線は公園が多く、遊歩道が整備され、絶好の散策コース癒されました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八弾:中国杭州観光 2017年9月16-18日 アジアの大陸、中国に足を運び美しい水をたたえる西湖を中心とした観光都市、名画の中から抜け出たかのような景色が人々を魅了し続けている杭州を訪れました。 16日16:10関西国際空港全日空で出発 17:25上海空港到達、リニアモーターカー、メトロで上海虹橋駅に向かう。 19:50上海虹橋駅到達。 20:37上海虹橋駅新幹線で出発 21:40杭州東駅到達、メトロで杭州駅に向かう。 22:05杭州駅到達、駅前のホテルで宿泊。 17日7:30出発、メトロで杭州駅出発 7:50鳳起路駅下車、西湖の周辺を反時計回りで散策。 杭州:蘇州と並ぶ中国の景勝地。周囲15km、広さ5.6平方km、水深2.7mの西湖が有名。13世紀にはマルコ ポーロも訪れ、「世界で最も華やかな都市」と讃えた。絹織物、治金、機械、化学工業が盛ん。 西湖(せいこ)は、中国浙江省杭州市の西部にあり、風景の美しい湖と山、豊富な名所旧跡と文化芸術が一体になった国家級の風景名勝区として国内外に名を馳せています。「天下第一湖」と呼ばれ、「この世の天国」とも称されます。2011年6月24日の第35回世界遺産委員会で世界文化遺産として登録されました。中国の世界遺産登録リストの中で唯一の湖沼文化遺産で、これは現在の世界文化遺産の中でも数少ない数か所の内の1つです。 西湖は昔、武林水、銭唐湖、西子湖などと呼ばれました。宋代になって始めて西湖と呼ばれるようになりました。西湖は三方が山に囲まれ、湖の面積が約6.5平方キロです。南北長さはおよそ3.2㎞あり、西東は約2.8㎞幅があります。山紫水明が西湖の基調であり、山水と文化の融合こそ西湖の名勝を格調高くしています。 西湖十景:杭州市の西に位置する西湖は中国十大美景の一つです。西湖の最も著名な景観は南宋時代に作られた「西湖十景」です。「十景」とは断橋残雪、平湖秋月、柳浪聞鶯、三潭印月、曲院風荷、蘇堤春暁、南屏晩鐘、双峰挿雲、雷峰夕照、花港観魚のことです。南宋時代の西湖十景は西湖の周りに分布しており、湖上にあるものもあります。 断橋残雪:断橋は冬、雪景色を観賞する最高のところです。断橋は伝説の「白蛇伝」にも登場し、とてもロマンチックで有名です。唐の時代には木の橋で「段家橋」と呼ばれましたが、南宋時代、「断橋残雪」と名づけられました。 平湖秋月:平湖秋月は白堤の西端の外西湖側にあります。湖に向かって佇めば平野が広がり、一年中、天候にかかわらず湖の景色を満喫できる最適の場所です。唐代には望湖亭が建てられ、南宋時代には「平湖秋月」と名付けられました。 浙江省博物館:1929年に開館した浙江省最大の博物館。当初は浙江省立西湖博物館といった。孤山館区、文瀾閣、西湖美術館、武林館区、黄賓虹紀念室、沙孟海旧居など7つの景区で構成されている。 その中心となるのが1993年の改修・拡張工事で完成した孤山館区。陶瓷陳列、黄賓虹書陳列、常書鴻油画陳列、漆器陳列などの常設室で収蔵物を展示している。近くには清代に編纂された四庫全書を収蔵する文瀾閣や1997年に開館した西湖美術館がある。 武林館区は2009年に竣工した展示館。隣接する浙江革命歴史紀念館と合わせ、歴史を中心にした展示を行う。 西冷印社:は、中国で金石、篆刻を研究する著名な学術団体として、浙江省の重点文物保護単位です。篆刻家の丁仁、呉隠らが1904年に創設し、篆刻の大家である呉昌碩が主任、社長となりました。現在、後漢『三老諱字忌日碑』と名家たちの石刻、摩崖題記などがあります。印社内の園林、建築はいずれも自然の地形を利用して作られ、独創性に富む。柏堂、竹閣、仰賢亭、四照閣、観楽楼、華厳経塔などの古跡風景は、山林の景色と金石の雰囲気が一体となっていて、西湖園林の精華が示されています。 岳王廟:は、西湖の棲霞嶺の南側の麓に位置し、金の侵略と戦った宋の名将、岳飛を祭る廟です。岳廟は、南宋嘉定十四年(紀元1221年)から作られ始め、最初の名は「褒忠衍福禅寺」と呼ばれ、明天順間の時に「忠烈廟」と改称されました。その後、岳飛は鄂王の称号を与えられたので、「岳王廟」と呼ばれました。歴代の興廃を経た現存の建物は、清代に再建され、墓園、忠烈祠と啓忠祠の三つの部分から構成されたものです。 曲院風荷:曲院風荷は「蓮」をテーマにした大型公園です。曲院は宋の時代にはお酒を作る工場でした。洪春橋近くの湖面には蓮が植えられ、清の康熙皇帝は岳湖の畔に石碑を保護するための東屋を建てました。ここには小さな建物と湖面に浮かぶ蓮の花だけが残っています。 蘇堤春暁:蘇堤は蘇東坡が杭州を治めた時の功績の一つで西湖を疏浚した泥で作った長い堤です。蘇東坡は北宋時代の杭州知事の任期中に、杭州の軍民を動員し西湖の泥を掘り出しました。後に蘇東坡を記念して蘇公堤と名付けられました。 三潭印月:島の陸地は「田」の字のように分割されています。湖の中に島があり、島の中にさらに湖があります。西湖最大の風景区として評価も高く、島内外の湖には鏡のようにきれいに月が投影され、満月の夜に船から見る情景は最高です。 花港観魚: 南宋の時代、ここは内侍官盧允昇の個人の庭園で、彼は池を作って鯉を育て、ここを「盧園」と名付けました。南宋の画家は「花港観魚」と呼んでいました。5つの部分で構成された公園で、花と鯉を鑑賞するには最高の場所です。 雷峰夕照:北宋の975年に建立、後に呉越王は王妃黄氏が男の子を産んだことで黄妃塔とも呼ばれました。しばしば「雷峰塔」と呼ばれています。 南屏晩鐘:西湖の南、「雷峰塔」の向かいにある「浄慈禅寺」の鐘の音と西湖の夕日とが作り出すすばらしい情景をこう言います。 柳浪聞鶯:公園の見どころは柳です。春の庭園は新緑の柳の葉で覆われ、鶯がさえずり安息の地のようです。公園の「百鳥の天国」には酔柳、浣紗柳、獅柳などのしだれ柳が約500本植えられています。ここでは大型提灯祭も開催されます。 西湖天地:2003年の誕生以来、流行に敏感な杭州っ子に話題のスポット。自然との共生をテーマに開発されたエリアで、西湖の東湖畔に面した庭園のような環境のなかに、レストランやショップなど10店舗が点在している。どの店も緑に包まれた瀟洒な邸宅風で、光が降り注ぐ心地よい空間。モダンチャイニーズを堪能したり、またカフェでまどろんだりと、おしゃれな一日を過ごすのにぴったり。 清河坊(河坊街):は、宋の時代の杭州の街並みをイメージして作られたショッピング街で、観光客にとっては杭州ならびにその周辺の特産品を一箇所で買える便利なエリアです。もともと清河坊という街を再開発して宋の時代を再現しようとしたもので、最近は「清河坊」よりも「河坊街」という呼び方をされることが多いようです。 17:00ホテル到達 18日9:00杭州散策 14:00杭州東駅新幹線で出発 15:05上海虹橋駅到達 15:15メトロ、リニアモーターカーで上海空港に向かう。 16:30上海空港到達。 18:20上海空港全日空で出発 21:35関西国際空港到達。 今回の旅行、アジアの大陸、中国に足を運び、西湖を主として周辺に点在する歴史的建造物、公園を散策し癒されました。 ほぼ10数キロ歩き、西湖の周辺の名所をほぼ制覇しました。 中国は何かとトラブルが多い、飛行機は遅れませんでしたか、ホテルの位置が、案内図と異なっておりました。地図では杭州駅西500m程に位置に存在していましたが、見当たらず、現地の人に尋ねたら、杭州駅の上にあるとのこと、振り返ってみますと、杭州駅の上に大きな建物が聳えたっていました。杭州駅に戻ると、今度はエントランスがわからず、駅員に聞いて教えていただきました。 駅の上に位置してたにもかかわらず、地図での位置が違っていたためホテルに到着するのに30分かかりました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六弾:アイスランド観光 2017年8月10-17日 ヨーロッパの外れにある、小さな人口密度が非常に低く、手つかずの自然が多く残っている北大西洋に浮かぶ小さな島、ヨーロッパとアメリカ大陸の間にあり、近くにはグリーンランドがあり、北海道と四国をあわせた程の面積、大きく4つのエリアに分けられ、レイキャビクを中心とした首都エリアは、最も人口が多く、経済・産業・政治の中心。人口約33万人、人口のほとんどは沿岸部、特に首都エリアに集中しているため、内陸部には無人のエリアが広がっている。首都レイキャビク「煙が立ち上る湾」という意味があり、ひとつの町の大きさほどしかない国には、溶岩の大地や氷河といったほかの国々では見られない自然が広がっているアイスランドを訪れました。 8月10日10:45関西国際空港フィンエアー航空で出発。 14:55(時差ー6時間)ヘルシンキ空港到達、バスでヘルシンキ中央駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 11日5:15ホテルをバスで出発。 6:00ヘルシンキ空港到達。 7:45ヘルシンキ空港フィンエアー航空で出発。 8:45レイキャビックケフラヴィーク空港到達、レイキャビック市内に向かう。 ケフラヴィーク:アイスランドの首都レイキャヴィークから西に約50kmに位置する都市である。南西アイスランド地方に属する。人口は10,944人。 レイキャヴィーク市内観光 北緯64度08分に位置するレイキャヴィークは世界最北の首都です。北極圏まで250km、オーロラベルトの直下にあるため、街中でオーロラが見られる稀有な街です。人口12万人を有するアイスランド最大の都市で、全人口の約3分の1がこの地域に集中しています。 ペルトラン:レイキャビクの小高い丘の上にある、ドーム状の建物。ペルトランとはアイスランド語で『真珠』の意味。ここからレイキャヴィークの街並みを望む。 近隣の地熱発電所から送られて来た熱水を一旦ここに貯め、ここからレイキャビク市全体にお湯を供給している。アイスランドでは、各家庭で水を暖めてお湯を沸かすのではなく、温水が供給されている。まさに温泉大国、アイスランド。ペルトランは1991年に改築し、目立つ建物になった。貯湯タンクだけでなく、レストランやショップ、展望デッキやサガ博物館があり、レイキャビクの観光地となっている。最上階は回転式の展望レストランとなっていて、2時間ほどで1周し、レイキャビクの街を一望できる。 ハトルグリムスキルキャ教会:ハットルグリムス教会(hallgrimskirkja/ハットルグリムスキルキャ)は、レイキャビクのシンボル的な教会。高い建物があまりないレイキャビク市内では、よく目立つ大きな建物。 ハットルグリムス教会の前に立つ銅像は、レイフ・エイリクソン。アメリカ大陸を発見したのは、実はこのレイブル・エイリークソン。アルシングの発祥1,000年を記念して、アメリカより彼の銅像が贈られた。 高くそびえ立つ白い外観は、正面から見ると、まるでスペースシャトルのよう。 ハットルグリムス教会内は、シンプルな内装だが、目を引くのは、ステンレスの巨大なパイプオルガン。有料だが、夏季にはコンサートがあるので、タイミングが合えばぜひ聞いてみたい。 エレベータでハットルグリムス教会の展望台に上ることもできる。地上から70mの高さ(外から見た時計があるあたり)まで上る。階段を少し上ると展望台。四方に窓があり、美しいレイキャビク市街が360度見渡せる。 ホプジーハウス:海岸近くにある小さな白い2階建ての建物。1986年6月にレーガン大統領とゴルバチョフ書記長の話し合いがもたれたところ。内部は見学できないが玄関ドアのところまでは行ける。 チョルト二ン:アイスランドのレイキャヴィークにある浅い湖沼である。 数多くの野鳥が生息しており、冬には水面が凍って市民のスケートの場となる。 市庁舎:チョルトニン湖と一階が同じ高さに設計されています。中に入るとガチョウが窓際に。楽しい市庁舎です。中のスペースもゆっくりしていて、またアイスランドの巨大地図が設置されていて、アイスランド全体のイメージを掴むのに最適てす。 国会議事堂:930年にシングヴェトリルで始まったアルシングという国会は1844年にここに移されました。 アイスランドの玄武岩で建てられた建物です。2008年、米国のサブプライムローン問題に端を発した世界金融危機により経済危機に陥ったアイスランド。市民の多くがこの国会議事堂に押しよせ、内閣崩壊になった舞台でもあります。 ロイガーヴェーグル通り:観光のスタートは市内の中心部近くにあるチョルトニン湖でした。少し歩くとバンカ通りという通りがあるので昇っていきます。途中で大きな分かれ道がありますが、真っ直ぐ昇っていくと街の一番ホットスポットであるロイガーヴェーグル通りです。そこを右に進みます。まぁ教会がどすんと建っています。 ハルバ:ベイエリアの近くにハルバ・レイキャビーク・コンサートホールがあります。総ガラス張りで、使用したガラスが1万枚といいます。アイスランドの各地で見ることが出来る「柱状節理」をイメージしているそうです。 設計したのはデンマークの建築家、ヘニング・ラーセン。「光の巨匠」と呼ばれ、たいへん有名だということです。夜のイルミネーションは万華鏡のようで美しいとか。 ホテル到着後自由行動 就寝 12日8:00バスで出発、南アイスランドに向かう。 南アイスランド観光 南アイスランドは、アイスランド南部に位置する地方である。人口は23,311人、面積は24,256km2。人口密度が1人/km2にも満たない、自然の多く残る地域である。広大な平地に草原が広がり、牧畜が行われる セリャランスフォス:アイスランド一美しい滝と言っても過言ではない、セリャラントスフォスの滝を訪れます。滝壺の裏側がくり抜かれたようにへこんだ地形なので、空をバックに迫力大で流れ落ちる滝を撮影することができます。ベストショットを狙うならこのスポットが一押しです! スコゥガフォス:スコゥガフォスの滝は、氷河に挟まれた山稜フィムヴォルズハゥルスに源を発するスコゥガアゥ川の最下流にあります。滝の落差は60mを超え、その水量と迫力に圧倒されること間違いなし、滝の右側の丘からは、滝の姿を見下ろすこともできます。上からは海岸線まで見渡すことができるので、途中まで登ってみるのもオススメです。晴天時には大迫力の滝と虹のコラボレーションに期待が高まります。 スコゥガフォス民族博物館:1949年オープンのこの博物館では、アイスランド人の生活の歴史を展示しており、古く漁業で使われた独特の船を初めとして、この地でどのような生活が営まれていたかを実際に使われていた道具を見ながら感じることが出来ます。また、屋外には当時の建築法で建てられた家屋が並び、当時の生活を体感することが出来ます。 レイニスドランガル:ヴィーク村の手前の海岸線には奇岩・奇景が多く、色々な景色を一度に楽しむことができます。この地帯はブラックサンド・ビーチと名付けられ、真っ黒な砂と石が特徴的な不思議スポットです。見事な柱状節理や、レイニスドラゥンガルと呼ばれる岩柱などの奇形に目を奪われます。 パフィン:北極周辺に生息する鳥で、ペンギンのような姿がとても愛らしい鳥です。北欧では、5つぬいぐるみがあれば、そのうちのひとつはこの鳥であると言われるほどポピュラーな鳥のようです。この場所で鑑賞する。 岬ディルホゥラエイ:ディルホゥラエイは、アイスランド南端のヴィークの村近くにある野鳥保護区。全体が岩で出来た台地状になって大西洋に面しています。ここでは夏場にはパフィンなどの野鳥の群れが見られるほか、ブローホールと呼ばれる二つの穴が開いた岬が見所。 オライビのホテルで夕食 オーロラ観賞に最適な立地のホテル、フォスホテル・グレイシャーラグーンに宿泊。 13日8:30バスで出発 ヴァトナヨークトル国立公園ハイキング観光:ヴァトナヨークトルは、ヨーロッパ最大の氷河で、その総面積は約8,100平方メートル、アイスランドの国土の約8%を占めている。 アイスランド語では、ヴァトン=湖、ヨークトル=氷河、を表し「湖の氷河」という意味。 氷河の下には多くの火山があり、1996年の噴火では、大量の氷を溶かし、大洪水を引き起こした。大きな橋や鉄塔も流され、国道1号線も寸断される事態になったが、住民の避難は済んでいて、死傷者は出なかったそうだ。 今ではヴァトナヨークトルで、4輪駆動車やスノーモービル、スーパージープで氷河の上を走るツアーや、氷河の上を歩くトレッキングやハイキングのツアーなど、多くのツアーが行われており、氷河観光を楽しむことができる。 スヴァルティフォス:柱状節理の地層の大地に滝が出来るとどうなるか。無数の六角柱の崖の、一番下、滝壺から削られて、無数の六角柱が崖上から垂れ下がる形状になっています。アイスランドの「スカフタフェットル国立公園」内にある「スヴァルティフォスの滝」です。 スカフタフェットル国立公園:レイキャビクからは、東へおよそ330kmほど車を走らせた場所にあります。アイスランドの南海岸です。南海岸は点々と観光名所が続くアイスランド旅行のメインですね。この辺りも、延々草原というか、荒れ地というか、原野が広がっています。夏場は地面をそこそこに覆う緑がかなり美しい感じ。その奥に、アイスランド特有の、ぎざぎざとした山肌が地面からズバッと立ち上がっている感じの荘厳な風景。 ヨークルスアゥルロゥン氷河クルーズ:このボートツアーでは、ヨークルスアゥルロゥン氷河湖(Jokulsarlon)の美しい景色を眺めるだけでなく、実際にラグーン内を漂う千年もの年月をかけて生まれた氷河の塊を間近でご覧いただくことができます。また、その氷河のかけらのテイスティングもできます。運が良ければ氷河湖で遊ぶアザラシの姿も見ることができる。 セルフォスに向かう。 セルフォス:アイスランド南西部のオルフス川のほとりにある町。首都レイキャビーク南東 53km,大西洋岸から 11kmに位置する。町の東部は広大な平野で同国第1の温暖肥沃な農地をなし,牧畜,農業 (ジャガイモ,オオムギ) が盛ん。町の近代的な酪農工場では同国南部一帯の牛乳を処理する。バターとチーズの大部分が輸出される。人口 3951 (1991推計) 。 セルフォスのホテル到達夕食就寝。 14日9:00バスで出発ゴールデンサークルに向かう。 途中スカルホルト教会:かつてアイスランドの宗教・政治の中心地であったスカルホルト(Skalholt)のスカルホルト教会 ゴールデンサークル観光:アイスランド観光の定番ともいうべき、ゴールデンサークル。実はこれ、ひとつの観光スポットではなく、3か所の名所、シンクヴェトリル国立公園、グトルフォスの滝、ゲイシールの間欠泉を巡るルートの名称なのです。 ストロック間欠泉:ゲイシールの間欠泉とそのエリアは様々な名前で呼ばれています。ホイカダールル渓谷(Haukadalur Valley)という場所にあり、ゲイシールという巨大な間欠泉が噴出していた場所です。この巨大な間欠泉のため、単にゲイシールと呼ばれれることが多いですが、ゲイシール間欠泉は現在は活動を休止し、その隣にあるストロックル間欠泉のみ噴出しています。また、このエリアでは多くの地熱活動が見られるため、ゲイシール地熱地帯とも呼ばれます。 間欠泉の周囲には高温のお湯の湧き出る沼や、蒸気の噴出する穴などがあり、地熱活動の様子を様々な形で観察することができます。地中のミネラルやガスによって変色した地面の色も、不思議な光景です。 瀑布グトルフォス:ゲイシールの間欠泉エリアを過ぎ、さらに進むと轟々と音を立てて流れ落ちる滝が現れます。グトルフォスの滝は高さ32mで、2段になっています。夏の水量の多い時には毎秒140立方メートルもの水量となります。 この力強く流れ落ちる滝も晴れの日には美しい虹が現れ、強さと美しさを兼ね備えた滝でもあります。上流の川の両側には草や苔の生えた大地が広がり、遠くには白く輝くラングヨークトル氷河を望みます。 シンクヴェトリル国立公園:シンクヴェトリル国立公園(Tingvellir、または英Thingvellir)はアイスランドに3か所ある国立公園のひとつであり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。 一つ目の特徴は、地表に現れた大西洋中央海嶺の割れ目です。この割れ目の大部分は大西洋の海の下にあり、目にすることはできません。しかしアイスランドではその割れ目が地表に現れており、特にシンクヴェトリル国立公園では、その大陸プレートの境目の様子をはっきりと見ることができます。 ギャオ(Gja)又はアルマンナギャオ(Almannagja)と呼ばれるこの割れ目は、この中央海嶺・割れ目の部分は地下変動により、毎年2.5㎝づつ、広がっています。盛んな地熱活動、火山活動もこのためです。シンクヴェトリル国立公園の西側が北米大陸プレート、東側にユーラシア大陸プレートとなります。 シンクヴェトリル国立公園周辺ではギャオの他にも、溶岩の跡などが見られますが、このエリアでは2000年以上も火山の噴火がなく、木立や苔で覆われた緑豊かな場所となりました。 また、プレートの境目には氷河の溶け水が流れ、シルフラの泉(Silfra)を作り出しています。ラングヨークトル氷河から溶け出した水は、溶岩の地下層を流れると同時に濾過され、やがてシルフラの泉に湧き出します。水中の視界は100mにもなり、吸い込まれてしまいそうな美しい青色の世界はシュノーケリングやダイビングの人気スポットとなっています。 途中地熱を利用した温室見学、トマト試食:豊富な火山の熱を利用し、発電量の約4分の1が地熱という「地熱先進国」なのだ。河川にも恵まれ、水力と地熱で発電量のほぼ100%をまかなう。 温泉の直接利用もさかんだ。南西部の町レイコルトにあるフリードヘーマル社の温室農園は、床や壁面に縦横に張り巡らされた温水パイプにより室内を26度に保っている。外は気温0度前後の雪景色だが、室内には授粉用のミツバチが飛び交い、真っ赤なトマトが実っていた。 セルフォスに向かう。 ホテル到着後夕食済ませて就寝。 15日8:30バスで出発レイキャネス半島に向かう。 レイキャネス半島観光:アイスランド随一の温泉地、レイキャネス(Reykjanes)半島。「町の数よりも灯台の数の方が多い地域」として有名です。ケフラヴィーク(Keflavik)国際空港のすぐ近くにある、アイスランドで最も有名な観光スポットとして知られている、世界最大の露天風呂Blue Lagoon(水着着用)は、自然が作り出す水色の温泉。 レイキャネス半島には高温の温泉地帯が多く存在し、温泉の高温を利用し発電する地熱発電所が3カ所あります。ヘットリスヘイジ(Hellisheidi)地熱発電所ではアイスランドの地熱発電の歴史、取り組みを学ぶ事ができます。 クリスヴィーク:最も有名な地熱地帯の一つ。 一歩足を踏み入れると、そこは煮えたぎり泡立っている池塘のように小さな温泉が連続し、水面から高温の蒸気が白くたなびいている。 板張りの遊歩道になると周辺からの高温蒸気に囲まれる。硫黄泉独特の腐った卵のようないやな臭いが鼻をつく。水面のブルー、白い蒸気、地面のこげ茶、黒い岩、僅かに生える青草の緑、硫黄の黄と様々な彩りが楽しめる。 アゥルファギャウ:「大陸の割れ目」を意味するアゥルファギャウは、その名の通り、アメリカ大陸とユーラシア大陸の境目。 アイスランドには、レイキャネス半島から北部ミーヴァトンの近くまで境界が通っており、世界でも珍しい、「大陸が生まれる場所」を地上で見る事の出来る場所である。 現在でも移動を続けており、東西に毎年数センチずつ広がっている。 また、ここに掛けられた橋を渡ったことを申告すれば、レイキャネスインフォメーションセンターにて、2大陸横断証明書(有料)の発行をする事が出来る。 午後ブルーラグーン体験 ブルーラグーン:レイキャネス半島で、いやアイスランドでも最も有名な観光施設、ブルーラグーンは世界最大級の露天風呂で、年間40万人を超える観光客を集める。 神秘的な青色の湯は地下から湧き上がり、地熱発電に使われた水蒸気と海水が織り成すコントラスト。 約5000㎡という広大なラグーンの中で入浴が可能なのは約半分の広さだが、それでもその広さには目を奪われるでしょう。 アトピーをはじめとした皮膚病にも効果があり、2005年には湯治を目的とする病院も併設されています。 また、温泉に身を浮かべて楽しむスパはブルーラグーンならではで、体験の価値あり。 ブルーラグーンのホテルで夕食就寝。 16日早朝バスでケフラビークに向かう。 7:30レイキャビークケフラヴィーク空港アイスランド航空で出発 13:50ヘルシンキ空港到達 17:25ヘルシンキ空港フィンエアーで出発 17日8:55関西国際空港到達。 今回の旅行、ヨーロッパの外れにある、小さな島国人口密度が非常に低く、手つかずの自然が多く残っているアイスランドに足を運び、首都レイキャビークから南部の自然豊かなエリアを訪れ癒されました。 火山の多い国、至る所に溶岩が流れ大地を築いた風景、氷河、滝、温泉が多く、日本ほど多くない山波、土壌、高緯度により低木がほとんど、高山植物の茂りで障害物が少なく、溶岩大地、地平線を見ながらの移動、感動しました。 隠されたネイチャーランド、極め付きは大氷河による氷河湖の流氷のボートクルージング、地球上とは思えない風景、圧巻でした。 次回訪れたときはレンタカーで北部南部全域をドライブ観光で満喫したいですね。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十七弾:ウズベキスタン観光 2017年4月28日-5月5日 古都サマルカンドとシルクロードの国々の中央アジアに足を運び、青の都、イスラーム世界の宝石、東方の真珠など、多くの異名を持ち、常にシルクロードの中心都市としての道を歩んできた古都サマルカンドで有名なウズべキタンスを訪れました。 28日7:30関西空港ジェットスターで出発 8:55成田空港到達。 11:05成田空港ウズベキタンス航空で出発 16:35タシケント到達 18:40タシケント国内線で出発 21:00ウルゲンチ到達、バスでホテルに向かう。 21:50ヒヴァのホテル到達、就寝。 29日9:00バスで出発、カラカルパクスタンに向かう。 11:00カラカルパクスタン到達観光 カラカルパクスタン:カラカルパクスタン共和国の面積は約16.5万km2。ウズベキスタン国土の37%を占めている。 独自の憲法を持ち、国旗、国章、国歌を制定しているほか、国歌語として、カラカルパク語とウズベク語を規定している。人口の約3割がチュルク系カラカルパク人で、最多はウズベク人、他にカザフ人やトゥルクメン人、ロシア人が住んでいる。 共和国の北部には縮小する湖と呼ばれるアラル海が位置し、20世紀最大と言われる環境問題を抱えている。経済は綿花、米、メロンなどの農産物の生産に支えられ、かつては盛んだったアラル海での漁業は行われていない。 首都のヌクスは、カラカルパク語でノキス(Nokis)。町の作りは広くて平面的でソ連的である。ウズベキスタンを旅行する終点又は始発点と言える。サラトフやアルマトゥからの電車が開通し、モスクワへ定期便も運航している。 ヌクスは砂漠の中の環境危機地域であるが、花や緑があるオアシスでもある。町には色々なホテルも数多い。カラカルパク料理には、ジュゲリ・グルトゥック(肉の小団子が入ったスープもの)、ジズ(羊肉の料理)、雌馬の乳から作られた酸乳の入ったスープなどがある。 ヌクスの町は、他の都市に比べると歴史はまだ75年と浅いが、賑やかである。ヌクス地下に文化層があり、紀元前4世紀~紀元4世紀に相当する物だと考古学者が明らかにした。ホラズムのオアシス研究に大きな貢献した民俗学者のI.サヴィツキーが知られている。 また共和国内には、アヤズ・カラをはじめとする遺跡が1,000ヶ所以上あると言われている。古代ホラズム文化を生み出したアムダリヤ川が、流れを変える度に人々は城を造り替えなければならかったのだ。現在、ヒヴァのイチャン・カラを含め、古代ホラズム地方の遺跡を囲む“ゴールデン・リング”の道は始まる。考古学研究、観光開発も期待される地域である。 トプラク・カラ:1940年代にアムダリヤ川の下流に東側に、数百mに渡って点在する多数の都城跡がる発見された。カラとは城塞の意味。トプラク・カラ(1~4世紀)直角形に近い形をした8~9mの土の防壁がある。注目するのは、都市の存在時に絶え間なく増築されていた寺院。宮殿の大部分は華麗な施設や文字模様の壁の聖堂から成り立っている。 12:00昼食、伝統的な移動式住居、ユルタで食事。 13:00アヤズ・カラ:アヤズ・カラ(6~7世紀)四角い形をし、平たい丘に日が当たるように三方に高い断崖がある。土を固めて日干ししただけの焼いていない煉瓦で建てられている。 14:00バスでヒヴァに向かう。 16:00ヒヴァ到達。 18:00ヒヴァの夕景鑑賞 19:00夕食 21:00ホテル到達就寝。 30日ヒヴァ観光 ウズベキスタンの都市ヒヴァ(ヒワ、ヒバ)は、首都タシケントの西約750km、ウルゲンチ市から南西に35kmのアムダリヤ川の下流のオアシスの町です。古代ペルシャ時代からカラクム砂漠への出入口として繁栄しました。 町は外敵を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁に守られており、内側の城壁に囲まれた内城イチャン・カラには20のモスク、20のマドラサ、6基のミナレットなど多くの遺跡が残されています。 1969年には全体が『博物館都市』に指定されて、1990年にはユネスコ文化遺産に登録されました。 『中央アジアの真珠』とも謳われるヒヴァは、いかにも古いイスラムの町という印象を受けますが、ペルシャなどの周辺諸国の攻撃によって何度か破壊されているので、現在見ることができるのは17世紀から18世紀に整えられた建造物です。 オタ・ダルヴァザ門(西門):ヒヴァのイチャン・カラの正門かつ観光バスの入り口、アタ・ダルヴァザ門(西門)です。 アタとは『お父さん』の意味で、直訳すると『父の門』です。 1920年にヒヴァが赤軍によって解放されたのちに壊されましたが、1975年に修復されました。 門は2本のミナレットのような塔で造られていて、門をくぐる城壁に土産屋やガイドの詰め所がある。 ムハンマド・アミン・ハーン・メドレせ:ヒヴァのイチャン・カラの西門を入ってすぐ右手の、カルタ・ミナルのすぐ近くにあるムハンマド・アミン・ハーン・マドラサ(ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ)です。 ムハンマド・アミン・ハーンの命で1852年に完成した、中央アジアで最も大きな規模のマドラサです。 広さは71.7m×60m、中庭の広さは38m×38mあります。 カルタ・ミナル:カルタ・ミナルのカルタとは『短い』という意味で、直訳すると『短い塔』になります。 アタ・ダルヴァザ門(西門)を入ると、すぐ右手に見えます。 青の彩紬タイル模様で覆われた、ヒヴァで一番カラフルな美しい塔ですが、残念ながら未完成品です。 当時のムハンマド・アミン・ハーンが中央アジアで最も高い109mのミナレットを建てようと、1852年に着工されました。 タシュ・ハウリ宮殿:ヒヴァのイチャン・カラの東門近くにあるタシュ・ハウリ宮殿です。 タシュ・ハウリとは『石の庭』の意味で、アラクリ・ハーンによって1830年から1838年にクフナ・アルクに匹敵するものとして建てられた宮殿です。 ヒヴァの中でも最も豪華なタイルや柱で飾られているそうです。 宮殿は公務を行なう謁見や儀式の場、宴会やお客を接待する場、アルズ・ハウリと呼ばれる裁判所とハーレムに分かれています。 また、中庭にはユルタという丸テントを建てて、遊牧民族のお客さんたちをもてなしていたそうです。 クフナ・アルク:ヒヴァのイチャン・カラの西門近くにあるクフナ・アルク(キョフナ・アルク)です。 17世紀に建てられた、ハーンの居城です。 クフナ・アルクとは『古い宮殿』という意味で、新しくタシュハウリ宮殿が完成した後に区別する意味でこう呼ばれるようになりました。 クフナ・アルクは要塞で囲まれており、この中にハーンたちによって建てられた執務のための公邸、くつろぎの間、夏と冬のモスク、ハーレム、兵器庫、火薬工場、さらに造幣所まであったそうです。 入ってすぐの場所には、罪人に行われた刑罰を再現した絵や、拷問に使われた道具が展示されています。 昼食 ヒヴァ観光 パフラヴァン・マフムド廟:ヒヴァのイチャン・カラにある、一番大きな青いドームが鮮やかなパフラヴァン・マフムド廟です。 パフラヴァンとはペルシャ語で『英雄』『力士(レスリング選手)』という意味です。 ジュマ・モスク:ヒヴァのイチャン・カラのほぼ中心に位置するジュマモスクです。 ジュマとは『金曜日』のことで、イスラム教では金曜日が休日に当たるため、多くの人が礼拝に集まります。 10世紀に建てられたモスクですが、何回もの修復工事を繰り返し、18世紀末頃に現在の形になったそうです。 広さは55×46m、高さは5mで、3.15mの間隔で212本の柱が立っていて、明かり窓付きの天井とシンプルな漆喰の壁に囲まれています。 この間隔と本数は、説法者から全員の顔が見えるように、計算されて決められたそうです。 イスラーム・ホジャ・ミナレット:北側の正面入り口は高さ33mのミナレットに面しています。 ミナレットの中には81段の階段があり、上まで登ることもできます。 夕食:ヒヴァ王朝の夏用宮殿「トザボーグ・パレス」 バスでウルゲンチに向かう。 21:00ウルゲンチ空港出発。 22:00ブハラ到達、ホテルに向かう。 22:30ホテル到着就寝。 1日8:30バスで出発、ブハラ観光 ブハラ:ウズベキスタンの都市の一つブハラは、サンスクリット語で『修道院』を意味しています。 イスラム王朝の庇護の元、優秀な宗教家や科学者が集まって、一大都市を形成しました。 しかし、1220年のチンギス・ハーンの来襲でほぼ壊滅してしまいました。 その後、16世紀のシャイバニ朝の時代にブハラは復興し、再び多くのモスクやマドラサが建築されました。 そして20世紀の初頭までブハラ・アミール国(ブハラ・ハン国)の首都が置かれていて、中央アジアのみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇っていました。 ブハラは、ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置し、その中心の都市になっています。 ブハラの町は新市街と旧市街とに分かれ、旧市街は2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されました。 よって、観光の見所は旧市街に集中していると言えます。 イスマイール・サマニ廟:ウズベキスタンはブハラにある、イスマイール・サーマーニ廟(イスマーイール・サマニ廟)です。 中央アジア最古のイスラム建築で、どれくらいの古さなのかというと、建造されたのが892年から943年にかけてだそうです。 9世紀の終わりにブハラを占領して都としたサーマーン朝のイスマイール・サーマーニが、父親のために建てた霊廟でしたが、後で彼や彼の息子も葬られたので、結局サーマーン朝の王族の霊廟となりました。 サイズは9m四方の可愛い大きさで、壁の厚さが1.8m、日干しレンガを積み上げた構造です。 モンゴル軍が来襲した時はほとんどの部分が土に埋まっていて、周囲がお墓だったこともあって、モンゴル軍に気付かれることはありませんでした。 おかげで他の建築物の大部分が破壊されたブハラにあっても、壊されること無く残る事ができました。 発掘されたのはソ連時代の1925年です。 アルク城:ウズベキスタンはブハラの旧市街に位置しているアルク城です。 このアルク城辺りが古代ブハラの発祥の地だと言われ、少なくとも紀元前4世紀頃から存在していたようです。 アルクというのは『城塞』を意味し、歴代ブハラ・ハーンの居城でした。 7世紀にはフタ・ハウタンという女王が、このアルク城砦でアラブと戦ったそうです。 モンゴル軍が襲来してきた時は、多くの住民がアルク城に立てこもって抵抗しましたが、結局チンギス・ハーンによって大虐殺され、城も破壊されてしまいました。 カラーン・ミナレット:ウズベキスタンはブハラのシンボル、カラーン・ミナレット(カリャン・ミナレット)です。 1127年にカラハーン朝のアルスラン・ハーンに建てられたミナレットです。 カラーンとはタジク語で『大きい』という意味で、その名のとおり高さは46mもあり、土台部分は10mも地下に埋められています。 色はほぼ茶色一色です(灯火用窓の下の一層だけ青いタイル)が、日干しレンガの積み方を変えて14層の帯状に模様が付けられていて、とても手の込んだ凝った作りの建物です。 ブハラの町を徹底的に破壊したチンギス・ハーンも、このカラーン・ミナレットだけは壊さずに残しました。 カラーン・モスク:カラーン・ミナレットとつながっているカラーン・モスクは、1514年のシャイバニ朝時代に建造された、ブハラで最大のモスクです。 ミル・アラブ・メドレせ:ウズベキスタンはブハラにあるミル・アラブ・マドラサ(ミル・アラブ・メドレセ)です。 カラーン・モスクの真正面に位置していて、1536年にウバイドゥラ・ハーンによって建てられたマドラサです。 青と白のモザイクタイルからなる植物文様と文字文様を組み合わせた、典型的な末期ティムール様式の装飾のマドラサです。 丸屋根で覆った交差点のバザール「タキ」自由散策 ウルグベク・メドレせ:ウズベキスタンのブハラにあるウルグ・ベク・マドラサ(ウルグ・ベク・メドレセ)です。 ティムールの孫のウルグ・ベクが1418年に建設したマドラサで、中央アジアでは現存する最古のマドラサです。 ブハラでは唯一のウルグ・ベクゆかりの建築物です。 アブドゥールアジス・ハ―ン・メドレセ:ウズベキスタンのブハラにあるアブドゥールアジス・ハーン・マドラサ(アブドゥールアジス・ハーン・メドレセ)です。 ウルグ・ベク・マドラサの向かいに位置していて、ウルグ・ベク・マドラサが建てられてから200年以上も経って建設された神学校です。 昼食 ホテルに戻って休憩 17:00バスで出発 ラビハウズ:ウズベキスタンのブハラのオアシス、ラビハウズです。 ハウズとは石垣でキレイに四角く取り囲んだ『池』のことです。 ブハラは200近くのハウズがあった水の都でしたが、改革の後にソ連時代にほとんどが埋められてしまって、現存するハウズは6つだけだそうです。 なお、水の都というワリには水がキレイでなく不衛生で、よく疫病が流行っていたそうです。 このラビハウズは1620年に作られた46m×36mの大きさの池で、『力ずくのハウズ』と呼ばれていました。 ナディール・ディヴァンべギ・メドレせ:ウズベキスタンのブハラにあるナディール・ディヴァンベギ・マドラサ(ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ)です。 1622年にブハラ・ハーン国の大臣ナディール・ディヴァンベギによって建てられたマドラサで、ラビハウズの前にあります。 マゴキ・アッタリ・モスク:ウズベキスタンのブハラにあるマゴキ・アッタリ・モスクです。 地中に埋もれていたのを1936年に発見され、今でも周囲の地面よりも5mほど低い位置にあります。 マゴキとは『穴の中』という意味です。 モスクの中ではブハラで最古だそうです(全部の建物の中ではイスマイール・サーマーニ廟が最古)。 夕食。ブハラ民族舞踊ショーを鑑賞しながら食事 20:00ホテル到達、就寝 2日7:00バスで出発 シャフリサーブスに向かう シャフリサーブス:『緑の街』と言う意味を持つシャフリサーブス(シャフリサブス)は、遠くにザラフシャン山脈が見える谷間の小さな町で、かつては緑豊かなオアシス都市でした。 古くから『ケシュ』という名で知られており、7世紀には三蔵法師も訪れたことがあるそうです。 シャフリサーブスはゾグディアナの古都で、ティムールの生まれた場所として有名です。 ティムールはサマルカンドにも劣らない雄大な建築物をシャフリサーブスに建てましたが、16世紀後半にブハラのアブドゥール・ハーンによってほとんどの建物が破壊されてしまったそうです。 そのせいか、あまり派手さはないですが、静かで落ち着いた観光地だという印象を受けました。 なお、シャフリサーブス歴史地区は、2000年にユネスコ世界文化遺産に認定されています。 昼食 シャフリサーブス歴史地区観光 アクサライ宮殿跡:ウズベキスタンのシャフリサーブス観光で、まず目にすることになるであろうアク・サライ宮殿跡です。 ティムールが夏の離宮として建てさせた物です。 『アク・サライ』とは『白い宮殿』と言う意味ですが、実際は青と金色のタイルで装飾されていて、白かったわけでは無いです。 白という色に高貴なイメージがあったため、『アク・サライ』と呼んでいたそうです。 ドルッサオダット建築群:シャフリサーブスにあるドルッサオダット建築群の一つに、ジャハンギール廟があります。 ドルッサオダットとは『大いなる力の座』という意味です。 ドルティロヴァット建築群:シャフリサーブスにはドルッティロヴァット建築群と呼ばれる、ティムールゆかりの建築物が3つあります。 コク・グンバス・モスク、グンバズィ・サイーダン廟、シャムスッディン・クラル廟です。 ドルッティロヴァットとは『瞑想の家』と言う意味です。 サマルカンドに向かう サマルカンド:古来、シルクロードの要衝として栄えながら、13世紀にモンゴル軍の侵攻によって廃墟と化したウズベキスタンの古都サマルカンド。この地を甦えらせたのが、一代で大帝国を築き上げた英雄ティムールでした。ティムールは世界のどこにもない美しい都市を目指し建設しようと、各地の遠征先から優れた技術者や芸術家たちを連れ帰りました。建物を飾る「サマルカンド・ブルー」と呼ばれる鮮やかな青色タイルは、中国の陶磁器とペルシアの顔料が出合って誕生したもの。まさに「文化交差路」のサマルカンドは2001年、世界遺産に登録されました。 グリ・エミール廟:グリ・アミール廟(アミール・ティムール廟、グル・エミール廟、グーリ・アミール廟)はウズベキスタンのサマルカンド旧市街にあります。 グリ・アミールとは、タジク語で『支配者の墓』の意味で、ティムールをはじめとして息子のシャー・ルフ、孫のウルグ・ベクら、ティムールの一族が眠っている霊廟です。 1996年に修復されたばかりで、サマルカンドブルーの丸屋根がひときわ輝く建物です。 夕食 サマルカンドリ・エミール廟夜景観賞 就寝 3日8:30バスで出発 レギスタン広場:サマルカンドの象徴、さらにシルクロードの象徴とも言えるレギスタン広場です。 レギスタンとは『砂地』という意味です。 向かって左からウルグ・ベク・マドラサ、ティラカリ・マドラサ、シェルドル・マドラサの3つのマドラサがコの字形に並んでいます。 チンギス・ハーンが今のアフラシャブの丘にあったサマルカンドの町を滅ぼした後、このレギスタン広場を中心にして復興が進められました。 そして14世紀のティムールの時代には大きな屋根つきのバザールが造られ、ウルグ・ベクの時代に最初のウルグ・ベク・マドラサが建てられました。 現在のように3つのマドラサが並んだ姿になったのは、17世紀にヤラングトシュ・バハドールによって建築された後になります。 レギスタン広場は、他の土地から来た隊商が始めに到着する場所であったり、謁見式・閲兵・催し物が行われる場所でもありました。 昼食 シャーヒ・ジンダ廟:サマルカンドのアフラシャブの丘の南にあるシャーヒズィンダ廟群です。 サマルカンド隋一の聖地で、ティムールの関係者のお墓がズラッと並んでいる、まさしく『死者の通り』です。 11世紀から20世紀にかけて、多くの霊廟が建てられました。 ビビハ二ム・モスク:サマルカンドにある、サッカー場がすっぽり入ってしまうほど大きい、中央アジア最大のモスク、ビビハニム・モスク(ビビハヌム・モスク)です。 敷地面積は167m×109mもあります。 始めはサマルカンド金曜モスクと呼ばれていましたが、市民によってビビハニム・モスクと名づけられたそうです。 なおビビハニムとは『第一婦人』という意味です。 シヤブ・バザール:ビビハニム・モスクのすぐ近くにある、サマルカンド最大のバザール、シヤブ・バザール(シヨブ・バザール)です。 古くから開かれているバザールで、大きなアーケードの下では野菜・果物をはじめとして、香辛料や穀物、生活用品などが所狭しと並べられています。 夕刻 サマルカンド発高速鉄道「アフラシャブ号」で出発 タシケント到達 夕食 ホテル到達就寝 4日タシケント市内観光:ウズベキスタンの首都タシケント(タシュケント)は、ウズベキスタンの北東部に位置する人口約210万人の中央アジア最大の都市です。 タシケントとはテュルク語で『石の町』を意味します。 1964年に起こった直下型大地震によって、一度はタシケントの街は壊滅状態になりました。 しかし 懸命な復興努力の結果、見事に近代的な街に生まれ変わることができました。 道路の道幅も広く、たくさんの自動車や路面電車が走り、また中央アジアで唯一地下鉄が走っている都市でもあります。 町を行く人たちの格好も、イスラム風の人はほとんど見かけず、洗練された都会的なファッションが多いです。 またシルダリヤ川から大量の生活用水を引き込んでいるので、非常に水が豊富な場所でもあり、街の各地に噴水が見られます。 バラクハーン・メドレせ:ウズベキスタンの首都タシケントの郊外にあるバラク・ハーン・マドラサ(バラク・ハーン・メドレセ)です。 1531年にシャイバニ朝のバラク・ハーンによって建てられた、めずらしい一階建ての神学校です。 このマドラサには、ソ連時代に中央アジアのイスラムの本庁が置かれていて、イスラム教全般を管轄していました。 ソ連からの独立後は、中央アジアの国々はそれぞれにイスラムの本庁を持っています。 チョルスー・バザール:タシケントの地下鉄チョルスー駅を出てすぐの場所にチョルスー・バザールがあります。 タシケント地下鉄乗車体験 昼食 日本人墓地:タシケント市南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角が日本人抑留者墓地として整備されている。太平洋戦争終結直後(ポツダム宣言受諾後)、8月8日に参戦したソヴィエト連邦により、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約57.5万人(平和祈念展示資料館)がスターリンの指示により強制的にソヴィエト連邦内のシベリアや中央アジアへ移送され、厳しい環境の下、強制的に労働力として徴用され、その間に約6万人の命が失われた。 ソヴィエト連邦を構成するウズベキスタンでは、日本人抑留者のうち2万3千人が移送され、強制的に労働力として使役され、817名(在ウズベキスタン日本大使館)が帰らぬ人となっている。 タシケント市営ヤッカサライ墓地には、タシケント市より79名、タシケント地区墓地より8名、計87名の日本人が 眠る。ソヴィエト時代は土を盛っただけであったがウズベキスタン独立後、遺族関係機関の支援やウズベキスタン政府の協力により、現在のような戦没者名と出身県を刻印した墓石が設けられ、敷地内にはウズベキスタン各地に点在する日本人抑留者墓地の共同慰霊碑が設営されている。隣接してドイツ人抑留者墓地がある。 ムスタキ―リク広場(独立広場):ウズベキスタンは1991年8月31日にソビエト連邦から独立し、それを記念して作られた広場が、首都タシケントにある独立広場です。 ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場:1947年に完成した1500人も収容できる劇場で、6つの休憩ロビーは、タシケント、サマルカンド、ブハラ、ホレズム、フェルガナ、テルメズの6地方のスタイルで装飾されているそうです。 淡い茶色の落ち着いた感じの外観をしていて、玄関正面の大きな噴水が特徴的です。 ウズベキスタンス歴史博物館:ウズベキスタン歴史博物館は、ウズベキスタンの首都タシケントの新市街にあります。 中央アジアでは最も大きい博物館で、ウズベキスタンの歴史を大まかに知ることができます。 古くは石器時代から、最近ではロシア帝国の征服以後の歴史までです。 夕食 22:00タシケントウズベキスタン航空で出発 5日9:55成田空港到達。 11:50成田空港出発 13:35関西国際空港到達 今回の旅行、中央アジアに位置するウズベキタンスに足を運び、シルクロードに関連した種々の都市古都を訪れ、モスク、城跡、廟等を見学しました。イスラム系の国ですが旧ソ連の影響も強く、ロシアとイスラムが混在した国でした。 青系のモスクなどの歴史的建造物、世界遺産も数多く登録され、見るべきものが多く、堪能したしました。 ここ数年、旧ソ連の国々を訪れましたが、それぞれ共通するものが多く、中世の街並み感動でした。 ウズベキスタンはまだまだ発展途上国ですが、親日で、世界遺産など観光名所も多く、これから楽しみな国でもあります。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十五弾:中国南京観光 2017年3月18-20日 アジアの大国中国に足を運び、雄大な長江と明代の城壁が自慢で北京、西安、洛陽と並ぶ中国四大古都の一つで人口密度が高い大都市、長江の河口から360kmさかのぼった盆地に位置する南京を訪れました。 18日16:15関西国際空港全日空で出発 17:50上海浦東空港到達、リニアモーターカー、メトロ経由して上海駅下車 17:00上海駅駅前のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 19日9:00上海駅高速鉄道で出発 11:00南京駅到達、散策。 南京の歴史は三国志の時代から始まります。北京、西安、洛陽に並ぶ中国4大古都の一つとして栄え、紫金山には明代の皇帝の陵墓が築かれています。三国志ファンは必見の場所なんですよ。近代には、孫文のお墓(中山陵)が築かれました。また、戦時中は旧日本軍による南京大虐殺があった場所として世界的に知られています。 南京総統府 (天王府跡): 辛亥革命から国民党の民族主義政誕生にいたるまで、近代中国の激動の政治史において重要な役割を果たしてきた宮殿です。600 年以上に渡って南京総統府 (天王府跡) は、中国国家における政界の要人たちの執務室として使用されてきました。今日では 20 世紀中国の歴史をテーマにした博物館になっています。皇帝時代の建物群をめぐりながら骨董品や写真、資料などの展示品を見学し、広大な庭園を散策してください。 梅園新村記念館:1946年5月から翌年の3月まで、周恩来らの共産党代表団が国民党との交渉を行うために滞在した場所です。構内には、当時の建物に周恩来の執務室等が再現されているほか、史料陳列館があります。 南京博物館:多くの中国王朝の都が置かれた南京の歴史を知ることが出来る充実した展示内容です。上海の博物館も見学したことがありますが、やはりいくつもの中国王朝の都が置かれた南京だけあって、出土文物など国宝クラスの展示品が多く、見所満載の博物館です。 中山陵:日本人に馴染み深い中国の近代政治家といえば孫文。日本にも留学経験のある革命家です。彼のお墓があるのも南京なんですよ。明孝陵と同じ紫金山内にあり、392段の石段を登って見学します。夏場はかなり厳しい見学コースかも。中国では修学旅行で行く定番スポットらしく、いつ行っても学生の団体さんであふれています。 霊谷寺:中国人には寺として知られ、中山陵の東にあります。6世紀には、今の明の初代皇帝の墓に本来ありました。14世紀後半に現在の場所に移されたのです。梁を使わずに建設された無梁殿がここの名所です。ブロックを組み合わせて陶製の瓦屋根を支えています。全部で5つのアーチがあり、中央にある最 明孝陵:明朝を造り上げた朱元璋と皇后が眠る陵墓。世界文化遺産の一つです。棺や周辺エリアはまだ発掘されていないそうで、発掘の申請を出してはいるものの許可が下りていない状態なんだそう(2012年3月現在)。どんな歴史ミステリーが解明されるのか、ナビも気長に注目していきたい場所です。ユニークな動物の石像はもちろん当時作られたもの。周囲は梅の名所としても有名です。 美齢宮:中国の江蘇省南京の、東部にあり、蒋介石が建てた主席官邸。紫金山の南麓に位置し、孫文の陵墓である中山陵と世界文化遺産である明孝陵の南隣に位置する。◇1931年に建造され、当時の名称は国民政府主席官邸だったが、蒋介石と夫人の宋美齢がしばしば宿泊していたので美齢宮と呼ばれるようになった。現在は資料館として再現され、入り口には宋美齢が使用していたクラシックカーが展示されている。1992年3月、南京市文物保護単位に指定された。 18:00南京南駅付近のホテル到着後繫華街を散策し食事を済ませて就寝。 20日8:00歩いて北に向かう。 雨花台風景名勝区:中華門から南へ、南京市郊外の高台に、広大な雨花台風景名勝区があります。この日は日曜日で、大勢の市民や観光客で賑わっています。ここは、国民党が統治した中華民国時代に、敵対していた共産党員等が処刑された場所で、国共内戦に勝利した解放後の1950年代になって、革命戦士の冥福を祈るため建設されたのだそうです。 中華門:明代に築かれた城壁の一部。数々の戦乱をくぐり抜けてきた門が当時のまま残されています。城壁としての強度を保証するため、不良品対策として積まれているレンガ一つひとつに制作者の名前が刻まれているんですよ。しかも、中国全土、異なる年代のレンガが使われているため、刻まれている文字の書体がバラバラなのも興味深い点。生々しい歴史を間近で見ることができます。 太平天国歴史博物館:太平天国に関する資料を集めた歴史博物館。天王洪秀全の胸像をはじめ、洪秀全の玉衣や玉璽、また太平天国軍が使用した大砲など当時の遺品や資料を数多く展示している。なお、当所は清朝なか ばまで「瞻園」と呼ばれていた庭園で、太平天国時代、東王楊秀清の宮殿(東王府)として使われていた。 夫子廟:上海でいえば豫園にあたる下町観光スポット。孔子を祀る「夫子廟」と、その周辺一帯の繁華街のことで、廟は合格祈願に訪れる若者でにぎわっています。周辺には食べ歩きやお土産探しができるお店もいっぱい。オープン100年以上を超える老舗も見かけます。地元の人いわく、来るなら夜がベスト。ライトアップされて、夕食やお酒を楽しむ人たちでにぎわうんです。 」と、その周辺一帯の繁華街のことで、廟は合格祈願に訪れる若者でにぎわっています。周辺には食べ歩きやお土産探しができるお店もいっぱい。オープン100年以上を超える老舗も見かけます。地元の人いわく、来るなら夜がベスト。ライトアップされて、夕食やお酒を楽しむ人たちでにぎわうんです。 メトロで西に向かう。 侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館:南京大虐殺の記念館です。遺骨や元日本兵から寄贈された資料、パネルなどで旧日本軍が起こした惨劇を展示。ここを訪れたことがある日本人は、考え方の違いを問わずほぼみんな「一度見ておいたほうがいいかもね」という感想を持つようです。ニュースやネットで見聞きしたことに頼らず、一度自分の目で見て、自分がどう思うのかについてじっくり考えてみましょう。平和について改めて考えさせられるはずです。 12:00南京南高速鉄道駅到達。 13:10南京南駅高速鉄道で出発 14:20上海虹橋駅到達、メトロで上海浦東空港に向かう。 16:30上海浦東空港到達。 19:05上海浦東空港全日空で出発 22:00関西国際空港到達。 今回の旅行、アジアの大国、中国に足を運び、中国四大古都の一つ、南京を訪れ、散策し楽しみました。 南京大虐殺で有名な南京、反日感情が強いと思われがちだが、町の人々は結構親切、親日の様に感じました。 侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館は新しくなり立派、日本の多大な寄付でも成り立っています。日本は南京市に多大な援助を行っているみたいです。現在の南京の人々は理解し過去の事件を忘れ日本人と温かく接しているようです。 今回の2つのホテル、両方とも日本から持参した地図の位置が異なっており、タクシー運転手、町の人々に聞いて何とかたどり着くことができました。 過去何回も中国を訪れたことがありますがホテルの位置、日本で十分調べておくことが賢明です。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十一弾:中国上海水郷古鎮(朱家角・楓涇・七宝)巡り観光 2017年2月11-12日 日本に一番近場の上海に足を運び湖水地方に点在する古民居が保存され、伝統的な生活様式が残る古鎮と呼ばれる町や村があり、特に江南地方は昔から水利に恵まれたため、運河の走る小さな水郷古鎮の朱家角・楓涇・七宝を訪れました。 11日9:30関西空港全日空で出発 11:15上海浦東空港到着、リニアモーターカー、地下鉄経由して 14:00地下鉄徐涇東下車、タクシーで朱家角に向かう。 14:30朱家角到達、散策 朱家角:朱家角は三国時代には既に存在していたという広さ4.7km2の古い小さな町で、『小橋と流水の天然風景、正真正銘の明清時代の町』と言われているそうです。伝承によると、宋、元代から朱家角には市が形成され、町全体を貫く運河によって近隣の産物が集められ、川岸に定期市が形成されたそうです。こうして商業が栄え、明・清代には江南でも比較的規模の大きな町に成長したためか、朱家角には明・清代以降の建物が多いようです。確かに町中を縦横無尽に河が流れ、36個もあるという石橋が架かっている『これぞ水郷』といった町です。 朱家角の家の多くは川を背にして道に間口を開いています。両岸の民家は川側に勝手口を設けており、商店まで行かずに荷を運ぶ舟から直接物を購入するそうです。 古鎮には南北を貫く明清時代の古い街があり、肩を並べて三人しか通れないほど狭い通りです。両側には赤い色の門の老舗が立ち並んでいます。街は南大街と北大街からなり、南大街は特色のある小吃店を中心として、北大街は観光工芸品、骨董、書画作品の販売店を中心として分かれています。今の古い街はもうすでに「休養、旅行、買い物」三つのファクションを一体化した繁華街になりました。 |