大阪

大阪府門真市寺院巡り第二弾
2015年4月8日
 

近場の大阪府門真市の寺院巡り第二弾、10箇所を巡りました。

12:30車で出発、門真に向かう。

得浄寺:

浄円寺:

常光寺:

明泉寺:

景雲寺:

安養寺:

明光寺:

長福寺:

善福寺:

福円寺:

門真の寺院巡り第二弾、10箇所を巡りました。ほとんどの寺院が住宅地の中にあり小じんまりしていました。






大阪府門真市寺院巡り第一弾観光  2015年3月11日 

大阪府の北河内地域に位置する市、地名の由来は「潟沼」や「門間」から転じたなど諸説あり、室町時代初期までは「普賢寺荘」、室町時代末期には現在の名が使われ、戦国時代には「門真荘」と呼ばれた門真市に点在する寺院22箇所をめぐりました。

13:00車で出発、門真に向かう。寺院巡り。

星願寺:

安通寺:

西稱寺:

桑才寺院:

願泉寺:

堤根神社:

本乗寺:

常称寺:

宗教法人称名寺:

宗教法人サイコウジブンイン:

浄徳寺:

成覚寺:

黄梅禅寺:天文十五年、足利義輝の創建で、開山は聨山隆芳
明応二年に室町幕府管領の畠山政長が細川政元に攻められ、河内国正覚寺で自刃した後、次男久俊は母とともに河内国茨田郡普賢寺郷門真荘に逃れ、小山梅巖が創建した黄梅寺に身を寄せたという。
永正六年 久俊の母が没した後、久俊は亡母のために黄梅寺に寿蔵を立てた。

即念寺:

西方寺:

専隆寺:

道徳寺:

教安寺:

願乗寺:

寿命院:

超願寺:

願得寺:大阪府門真市御堂町にある真宗大谷派の仏教寺院。山号は光明山。本尊は阿弥陀如来。

17:00終了。
今回は近場の大阪府門真市に足を運び、32箇所点在する比較的マイナーな寺院を22箇所巡り楽しみました。
残り10箇所は次回持越しです。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十八弾:大阪府お城&城下町巡り
2014年3月19日21日
 

奈良や京都に近く、交通の要所として栄え、南北朝の内乱では、各地で激しい戦闘が行われ、数々の城砦が築かれ、以後、細川氏、畠山氏が守護となるが動乱が絶えず、築城、廃城された城も多い大阪に足を運び、大阪府に位置する比較的マイナーなお城18か所(飯盛山城・交野城・津田城・守口城・茨木城・高槻城・芥川城・地黄陣屋・池田城・真田丸出城・若江城・恩智城・八尾城・高屋城・丹南陣屋・狭山陣屋・上赤坂城・根福寺城)を巡りました。

19日12:30車で出発、三か所の北河内のお城を巡る。

飯盛山城:飯盛山城は、建武年間に佐々目憲法によって築かれたと云われているが、南北朝時代の争乱期に臨戦的な陣城であったというのが実態である。戦国時代、畠山氏家臣木沢長政が飯盛山城を居城し、守護畠山義宣にとって替わり河内守護代となり将軍家直臣にまでなるほどの勢力を誇ったが、天文11年に細川晴元・三好長慶と河内太平寺で合戦して敗れ滅亡した。木沢氏滅亡後、交野城主安見直政が城主となり、守護畠山高政より河内守護代に任じられた。 永禄2年、三好長慶は畠山高政の居城高屋城を囲み、救援に向かった安見直政を敗走させ、永禄3年に長慶は高屋・飯盛山城を手に入れ、飯盛山城へと入った。三好長慶は、飯盛山城・高屋城・芥川城を拠点に河内を支配したが、永禄7年病没する。永禄11年、織田信長が入洛すると三好三人衆も信長に臣従し、飯盛山城は畠山昭高の持城となった。 天正4年、昭高の家臣遊佐信教が守備したが、信長に攻められ落城、その後廃城となった。

交野城:交野城は、私部城とも呼ばれ南北朝時代の文和元年頃に南朝方に与していた安見清儀によって築かれた。その後安見氏は北朝方に移り、正平年間に畠山義深が河内守護となった時から、代々畠山家の重臣となり、のち遊佐・木沢両氏とならんで河内守護代となったこともあった。戦国時代の安見直政は、守護畠山氏に替わって河内守護と称し勢力を誇ったが、三好長慶に攻められ一時大和へ逃れた。永禄12年、織田信長は河内統一後、安見直政は所領を回復し私部城に居城した。 安見直政が病没後、大和筒井氏に私部城は攻められ落城。 その後、天正3年に織田信長の命により廃城となった。

津田城:津田城は、今からおよそ500年前の延徳2年(1490)に、津田周防守正信が築いた城です。正信は楠木氏の一族につながると言われ、その子孫は根来寺の僧兵長だった津田算長(杉之坊算長)とも言われています。算長は種子島の領主から鉄砲を買い求め、畿内に持ち帰り広めた事で知られ、津田流砲術の祖としても有名です。畿内が三好長慶によって掌握された時、三好氏に従った津田氏でしたが、やがて織田信長が畿内に侵攻すると、津田氏も攻撃対象となり、津田城は落城しました。当時の城主津田正時は城を追われ浪人となりました。後に許された正時は、国見山の西麓に本丸山城を築きそこに入城しました。本能寺の変後、羽柴秀吉と明智光秀が争った山崎の戦いでは、明智方として戦いました。明智光秀が敗れ、正時は再び城を追われ、再度浪々の身となりました。しかし再び許され、秀吉からわずかな領地を与えられていたようです。昭和30年代に発掘調査が行われた際、地表から30cmのところに土が焼けているのが発見されました。これは信長に焼き討ちにあった時の跡と言われています。

17:00終了。

21日7:00車で出発、15か所のお城を巡りました。

守口城:守口城は、築城者は定かでないが室町時代に築かれ、大内義弘麾下の杉九郎が在城している。 応仁の乱や石山合戦においても度々戦場となっている。

茨木城:茨木城の築城年代は定かではない。 天正5年、中川清秀が7万石で入城している。 清秀は、賤ヶ岳の合戦で大岩山砦を柴田方の佐久間盛政に奇襲され戦死し、子の中川秀政は播磨三木に移る。 慶長6年、片桐且元が12,000石で城主となった。 且元は、元和元年の大坂の陣の後、茨木と大和龍田4万石を領して茨木城を居城としたが同年没する。 後を嗣いだ孝利は大和龍田へ、且元の弟貞隆は大和小泉に移り、茨木城は廃城となった。 

高槻城:永禄12年、織田信長が芥川山城を落とし、高槻城は和田惟政(近江和田城が本貫の地)に与えられた。 元亀2年、惟政は白井河原の合戦で戦死し、後を嗣いだ惟長もまた、家臣高山右近父子によって元亀4年に城を追われる。 高山飛弾・右近父子は切利支丹大名と知られている。大坂の陣の後、元和元年に近江長浜より内藤信正が4万石で入城する。 内藤氏以後、土岐・松平・岡部・松平氏と目まぐるしく城主が替わる。慶安2年、永井直清が山城勝竜寺より36,000石で入城して安定する。 永井氏は、13代に渡って居城し明治に至った。 

芥川城:芥川城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代後期に芥川宿を根拠とした芥川氏によって築かれた。 応仁の乱では、芥川氏は三宅・吹田・茨木氏らと共に東軍に属して戦ったが、応仁元年に大内政弘の軍門に降った。延徳3年、細川政元が芥川城を再建して重臣能勢頼則を城主とした。 永正12年頃には芥川山城が築かれれ、その後芥川城はどのようになったかは定かではない。

地黄陣屋:地黄陣屋は、慶長7年に能勢頼次によって築かれた。 能勢氏は、代々陣屋北西の丸山城を居城としていた。 能勢氏は山崎の合戦では明智光秀に組みし、秀吉の丸山城来襲によりこの地を離れた。能勢頼次は、浪々の末徳川家康に仕え、慶長5年、関ヶ原の戦功により旧領を回復した。 元和元年、家臣山田彦右衛門を普請奉行にして、陣屋を築城し、同時に城下町も形成された。 能勢氏は、江戸時代を通じてこの地を領して11代頼富の時に明治を迎えた。

池田城:鎌倉時代に築かれて、室町時代初に池田教依によって城としての形態が整った。嘉吉3年には、池田充正が三の丸を拡張するなど城の規模拡大を行っている。 この頃に城下町池田が形成 された。永正5年に、池田貞正は細川高国と戦い城は落城。 その後、貞正の子、池田久宗が池田城を奪回している。 永禄11年に織田信長が摂津に出陣したとき、池田勝正は信長に降伏し、摂津三守護に任じられている。 天正7年(1579年)に、伊丹有岡城主荒木村重が信長に謀反を起こした時、池田重成は荒木氏に従い、運命を共にした。 天正8年(1580年)に信長が、筒井順慶に摂津・河内・和泉の破城 を命じた時に廃城となった。

真田丸出城:慶長十九年、大阪城の南面の防御が弱いことを見ぬいた真田幸村は自ら大阪城を出て、笹山という小丘陵に出城を築いた。真田丸出城である。この出丸は東西二つの郭からなっており、東側の郭は東南部を水堀で囲まれ、南部には空堀がつくられている。また北門からは大阪城内へと通じている。一方、西側の郭は南面を半月状に頑丈な柵で固められており、真田丸出丸の別名である「偃月」の通り、三日月状の出城であった。  遺構は餌差町の円珠庵の北方の高台がその遺跡である。

若江城:若江城は、南北朝時代に高屋城主河内守護畠山基国によって築かれ、守護代遊佐氏が城主となった。 宝暦2年に畠山持国の相続をめぐって実子義就と養子政長が争い、これが応仁の乱へと発展した。若江城は、若江氏・堀江氏・山田氏と城主が変遷し、その後三好氏の持城となっていた。 永禄11年に畿内平定を果たした織田信長は、河内北半国を三好義継に安堵し若江城主とした。 天正元年、足利義昭を追放した信長は義昭に与した三好義継を若江城に攻め、義継を自刃させた。天正4年から始まる信長による石山本願寺攻めの拠点として若江城は使用されたが、本願寺開城・退去後の天正8年頃に廃城となった。 

恩智城:恩智城は、建武年間に恩智左近満一によって築かれた。 左近は、恩智神社社家の後裔で、南北朝期には楠木正成に従い楠公八臣の一人に数えられ、千早城の籠城戦や飯盛山城攻めにも参陣して活躍した。貞和4年、左近は楠木正行に従って四条畷で討ち死にした。 恩地城は、左近の討ち死に共に落城したと伝えられている。

八尾城:八尾城は、南北朝時代に八尾別当顕幸によって築かれた。 顕幸は、八尾一帯に勢力を誇った土豪で、正慶2年に南朝方として赤坂へ移った。戦国時代、池田紀正が八尾城に居城した。 紀正は、三好義継の老臣であったが、天正元年に織田信長が三好氏を攻めたとき、野間・多羅尾氏と共に信長に内応した。 その後、紀正は若江城を預かり、石山本願寺攻めが終わると若江城から八尾城へ移り、天正12年に長久手の合戦後美濃へ移った。

高屋城:応永年間に畠山基国が管領兼河内守護なり、古墳を利用して築城して、守護代遊佐氏が城代となった。 応仁の乱以後、守護畠山氏の居城として、畠山氏の相続争いの舞台となった。戦国期には、畠山高政・安見直政・三好長慶の三勢力により、高屋城争奪戦が繰り返され、目まぐるしく城主が入れ替わった。 天正3年、最後の城主となった三好康長が、織田信長に攻められ落城。 その後、高屋城は廃城となった。

丹南陣屋:元和9年、高木正次が大坂城定番となり、河内丹南1万石を与えられ、陣屋を築いた。 丹南藩は、河内にあった1万石クラスの4つの藩(大井・狭山・西代・丹南)の一つで、初代正次以後、代々居城して11代正担の時に明治を迎えた。

狭山陣屋:天正18年、秀吉の小田原征伐後に伊豆韮山城主北条氏規は河内の地に若干の領地を得た。北条氏直が高野山に蟄居して没した後、北条氏規の子氏盛は、氏直遺領4,000石余、父氏規遺領6,900石を併せて領し、狭山11,000石で大名に列する。陣屋は、狭山2代氏信が築いている。 制度上は陣屋であるが、城としての機能は十分備えた構えであった。 戦国関東の雄、北条氏は1万石ながら河内の地で明治まで存続している。 

上赤坂城:上赤阪城は、元弘年間に楠木正成によって築かれた。 この上赤阪城が本城、詰の城が千早城、出城が下赤阪城だ。この地は、楠木氏の本拠地(千早赤阪村)で下赤阪城も含めて広義の赤阪城とも云われている。元弘3年、鎌倉幕府に反旗を翻した楠木正成を討つため、鎌倉幕府は大軍を派遣してこの城を攻めた。 周囲に配置した砦群を落とされ、防戦10日で城は落城した。

根福寺城:根福寺城は、天文4年に松浦守(まもる)によって築かれ、当初、野田山城と呼ばれていた。 松浦守は、細川晴元・細川元常の将として名を挙げたが、晴元が三好長慶と対立するに及んで長慶方となり、根来寺勢力とも敵対することになった。天文12年より根来寺領となり根福寺城と改称した。 その後、天正13年の羽柴秀吉の紀州征伐により根来寺降伏後は、秀吉の支配下に入った。

18:05終了、帰路に向かう。

今回の旅行、大阪府の比較的マイナーなお城18か所を巡り歴史の勉強してきました。

石碑のみとか、案内看板のみとかで探し出すのが一苦労の大阪のマイナーなお城巡り結構楽しめました。

















 
大阪府門真市神社巡り
2011年9月7日

大阪府北河内地域に位置する市。地名の由来は「潟沼」や「門間(船だまりや寺や神社の門前の土地を表す言葉)」から転じた等諸説あり、室町時代初期までは「普賢寺荘」、室町時代末期には現在の名が使われ、戦国時代には「門真荘」と呼ばれた門真市に点在する神社を訪れました。

13:00車で出発
当神社は創建の年代は詳らかではないが、鎌倉時代以前と推測される。永井信濃守が、当社の宮寺長福寺を再興した時、当社の修理も行なった。明治5年村社列格、平成6年社殿建替で岸和田の宮さんと別称されています岸和田産土神社を訪れる。

当神社は創建の年代は詳らかではないが、菅公を祀ったのは、恐らく他の旧四宮村の神社と同様この地が京都北野の神領ととなったためであろう。末社の厳島神社の創建も不祥であるが、この辺りが十分陸地になりきっていなかった時代、即ち室町時代末期の八ヶ湖の名残りを、未だ相当残していた下馬伏村創建の頃に氏神として祀られたものと推測される。明治5年村社列格、昭和56年社殿立替。平成18年玉垣設置の菅原神社を訪れる。

当神社は創建の年代は詳らかではないが、当社の宮寺として隣地に存在する宝蔵寺の御本尊が平安末期のもので、その境内には鎌倉時代の建立と思われる。十三層の塔の一部が残っている事等から、八ヶ庄四ヶの内の馬伏庄の草建は相当古く、当社創立もその頃と推定される。明治5年村社列格。昭和33年本殿を再興。平成15年屋根吹替えと境内整備事業を行なった城垣産土神社を訪れる。

当神社は創建の年月日詳かならず。然し乍ら永井信濃守当地方を領せる寛永年間(1624年)には既に存在ありし記録あり。社殿は享保年間(1716年)に再建。
享和二年(1801年)の洪水で応急修理行なわれる。文政十年(1813年)御造営。代官小堀主悦と大阪城代太田備後守に氏地分割された。文政十一年(1827年)より天保二年(1831年)に亘り御造営。現在の社殿は安政五年(1857年)に再建されたものである。旧名は産須那神社であったが永年なじんだ地名を残したく昭和五十一年三月に島頭天満宮と改名。

当社は延喜式内小社で、現祭神は彦八井耳命(神武天皇の皇子)と菅原道真を祀る。その起源は、今から約1600年前、河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿弥が旧淀川に日本最古の堤防、茨田の堤を築き、この堤防を守るため、茨田氏の祖先である彦八井耳命を守護神として祀ったことに始まる。この「茨田の堤跡」の一部約100mが神社の北側の境内に残り、神社の北を流れる古川はかっての淀川の流路の1部と思われる。また、江戸時代初期の寛永年間(1624~44年)淀藩主永井信濃守尚正が菅原道真を合祀させ、当社の西側に景雲寺を創立し、宮寺としている。近世、当社の社地は野口村にあったが、景雲寺が常称寺村(現常称寺町)にあり、「河内名所図会」には当社も常称寺村にあると記しており、社地の境界が微妙であったと思われ、地元では「常称寺の宮さん」とも呼ばれているのはこの辺りの事情からと思われる宮野堤根神社を訪れる。

門真市御堂町に鎮座し京阪電車の古川橋駅と大和田駅の間の線路沿いの北側にあります大阪府門真市御堂町の八坂神社を訪れる。

文献によると古くは伊勢斎宮帰路沿い近くにあった為、相当古い時代に建造されたとされている。主祭神である少彦名命は医薬の神様(神農さん・温泉の神様・まじない、癌封じの神)で、北河内地方ではこの神社でしか祀られていない。また少彦名命は一寸法師や雛人形の原型・起源だという言い伝えがあり、その為「人形供養」も行われている。相殿には寛永の頃、領主であった淀藩主・永井尚政(永井信濃守尚政)が崇拝した菅原道真公が祀られている天神社を訪れる。

詳しい創建年月日は定かではない。旧くは南宮・中宮・北宮の三宮があり、当社は中宮だったという。 その後門真庄(室町時代後期以降の名)の発達により、一から四番の村がつくられ、四番村の独立とともに元村の牛頭天王を移し、当社創建となった。明治5年、神饌弊幣帛供進社に指定された門真神社を訪れる。

創建の年代は不詳であるが、文禄3年(1594年)の検地帳に稗島・桑才2村の氏神として「山王宮」と記されている。「山王」の社名は大己貴神を祀ることによるものとみられる。享保10年(1725年)の検地帳では「八剣大明神」となっており、これは素盞嗚神を祀ることによるものとみられる。元文3年(1738年)の文書ではこれに天照大神を加えた3座を祀ると記されている。明治12年の「北河内郡神社財産登録」では社名が「両村神社」となっており、祭神は天照大神1座となっている。社名は2村の氏神であることによるものである。明治41年、式内・堤根神社の後裔であるとして「堤根神社」に改称した。式内社であることを示す資料はなく、式内社を名乗ることで、当時盛んに行われていた神社合祀を免れようとしたものとみられるが、同年8月に郷社・三島神社(現 門真市大字三ツ島1374)に合祀された。昭和21年に三島神社から独立して旧地に復興された稗島堤根神社を訪れる。

大阪府門真市にある神社。古くは山王権現といい、明治3年4月に現在の社名「三島(三ッ島/三嶋)神社」に改められた。明治5年に郷社に列し、明治41年8月には稗島の堤根神社(祭神/天照皇大神)を合祀。(後、昭和28年には稗島・桑才の住民の希望により堤根神社は元の地に復帰)、明治42年8月に神饌幣帛料供進社に指定された三島神社を訪れる。

17:00終了。

今回の近場の名所巡り、大阪府門真市に点在する10箇所の神社を訪れました。















大阪府東大阪市寺院巡り4
2011年8月31日


大阪府東大阪市の寺院巡り第四弾、布施、八戸ノ里、永和、長瀬方面に点在する寺院を訪れました。

12:30車出発、八戸ノ里方面に向かう。

東大阪市にある本門佛立宗の寺院、清風寺第九連合が、東大阪教会(浄風寺の前身)に変わる。開基に第7世講有日淳上人、草創として、初代住職に第18世講有日地上人(当時は清風寺御高職)を戴いた浄風寺を訪れる。

永和方面に向かう。

大阪府東大阪市中小阪3丁目の徳因寺を訪れる。

大阪府東大阪市下小阪1丁目の貞松院を訪れる。

当山の縁起は1662年(寛文2年)京都獅子谷、法然院2世忍徴上人が、石清水八幡宮の境内に一堂を建て一丈六尺の地蔵菩薩を安置したのに始まる。明治初年の廃仏毀釈により、一時平安城南の昌玉院に還されたが、辺地のため、人々の供養は滞りがちとなり、このことを憂いた法然院25世名阿上人は、1892年(明治25年)、より多くの人の化益のため、大阪随一の繁華街難波新地(現在の難波高島屋の位置)に移し、新しい堂を建て延命地蔵尊迎え、寺の名前も「延命寺」と改めた。1924年(大正13年)、南海電鉄の難波進出のため現在地に移転した。本尊の「阿弥陀如来」は当初鎌倉時代のものと思われたいたが、調査の結果、更に時代がさかのぼり、藤原時代のものと判明。丈六の「地蔵尊」は鎌倉時代後期から室町時代の作と伝えられ、腹帯をした姿は「腹帯地蔵尊」、また「水子供養地蔵尊」として、大阪はもとより、遠来の参拝者が跡を絶たないという。この「阿弥陀如来」と「地蔵尊」は1975年(昭和50年)大阪府有形文化財(彫刻)の指定を受けている延命寺を訪れる。

大阪府東大阪市荒川3丁目の念通寺を訪れる。

布施方面に向かう。

観世音大菩薩のご精神を宣布、世の中の諸所の方々の為に真言密教の加持祈祷を修法御先祖を始め先亡有縁無縁一切の精霊、得に全国的に水子のご回向を致し、習性済度の精業に精進しております大阪府東大阪市足代1丁目の浅草寺を訪れる。

大阪府東大阪市足代1丁目の安楽寺を訪れる。

大阪府東大阪市足代3丁目の子安・延命・安全地蔵尊・開運 厄除 不動尊の三光寺を訪れる。

長瀬方面に向かう。

大阪府東大阪市寿町2丁目の本照寺を訪れる。

大阪府東大阪市菱屋西3丁目の光泉寺を訪れる。

大阪府東大阪市長瀬町1丁目の真行寺を訪れる。

大阪府東大阪市西上小阪の雲乗寺を訪れる。

大阪府東大阪市横沼町2丁目の究竟寺を訪れる。

大阪府東大阪市衣摺3丁目の光泉寺を訪れる。

大阪府東大阪市菱屋西1丁目の西方寺を訪れる。

大阪府東大阪市小若江1丁目の真願寺を訪れる。

大阪府東大阪市友井4丁目の法敬寺を訪れる。

現地の案内板によると当山開基の楠木正明は楠木正成の3男正儀から数えて5代目の嫡系で、古くより、「楠家ゆかりの寺」として知られていたという。久宝寺御坊(顕証寺)を拠点に精力的に布教していた、本願寺8世蓮如上人に深く帰依した、正明は1476年(文明8年)10月、家祖楠木正成の夢告を受け、にわかに発心して、薙髪し、上人から教専坊明道の法名を賜って、当山を創基したと伝える正善寺を訪れる。

大阪府東大阪市金岡4丁目の大親寺を訪れる。

17:00終了。

今回は近場の寺院巡り、大阪府東大阪市の南西部エリアに点在する20箇所の寺院を巡りました。

ほとんどの寺院が小規模で質素でしたが、河内西国霊場に含まれる寺院は立派なものが多かったですね。

4回目の東大阪寺院巡りでほぼ制覇できました。









大阪府東大阪市寺院巡り3
2011年8月24日


大阪府中河内地域に位置する市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、それらをアピールする形でまちづくりを行っている東大阪市南部の寺院を巡りました。

12:30車で吉田方面に向かう。

大阪府東大阪市水走2丁目の法性寺を訪れる。

大阪府東大阪市吉田下島の正福寺を訪れる。

大阪府東大阪市菱江1丁目の西庄寺を訪れる。

大阪府東大阪市荒本2丁目の乗教寺を訪れる。

大阪府東大阪市荒本2丁目の光教寺を訪れる。

花園方面に向かう。

寛延年間(1748~51年)に、この地の人で、慈雲尊者に深く帰依した高峰智興大尼の開基による。大尼はその弟子互鏡慧上尼と共に尊者の命により、四天王寺において聖徳太子の糞掃衣(ふんぞうえ:ボロで作られた、粗末な袈裟)を自ら試し、二衣を模製し尊者の干衣裁製*の実現に力を尽くした。尊者の師命により初めてこの寺に於いて、法憧(ほうどう:仏法の目印の旗)を立て、寺を結界して増坊とし、当寺を正法律根本道場として弟子の教化につとめたと伝えられてる。また当寺には、慈雲尊者が河内巡回の折には、よく立ち寄ったということであり、尊者ゆかりの寺院の1つである観音寺を訪れる。

大阪府東大阪市西岩田1丁目の専正寺を訪れる。

大阪府東大阪市岩田町5丁目の西光寺を訪れる。

大阪府東大阪市稲葉2丁目の光明寺を訪れる。

大阪府東大阪市足代1丁目の安楽寺を訪れる。

大阪府東大阪市吉田2丁目の光妙院を訪れる。

大阪府東大阪市吉田3丁目の普明寺を訪れる。

大阪府東大阪市瓜生堂1丁目の浄願寺を訪れる。

大阪府東大阪市池島町4丁目の泉證寺を訪れる。

大阪府東大阪市池島町2丁目の慈眼寺を訪れる。

大阪府東大阪市池島町1丁目の浄慶寺を訪れる。

大阪府東大阪市池島町1丁目の大善寺を訪れる。

大阪府東大阪市玉串元町1丁目の乗誓寺を訪れる。

大阪府東大阪市玉串元町2丁目の極楽寺を訪れる。

大阪府東大阪市若江南町2丁目の蓮城寺を訪れる。

大阪府東大阪市若江北町3丁目の蓮浄寺を訪れる。

大阪府東大阪市若江北町3丁目の薬師寺を訪れる。

大阪府東大阪市若江本町4丁目の長寿寺を訪れる。

生駒信貴スカイラインに沿って点在する寺院に向かう。

当山の縁起は、約1360年前、舒明天皇の頃(629~41年)役行者小角が、堂宇を建立したのを開基とする。その後、元明天皇の頃(707~15年)行基菩薩が栴檀の香木により一刀三礼の千手観音像を刻み本尊とした。815年(弘仁6年)には弘法大師が当山で修行し、歓喜天像を安置、後勧修寺宮の院となり、朝廷より金剛乗院の称を賜った。南北朝時代には南朝方の城塞となり、貞和~観応年間(1345~52年)高師直に寺領を没収され、一山焼失、その後河内国守護となった畠山基国が1393年(明徳4年)に再建するも、応仁の乱で再び焼失した。永禄年間(1558~70年)大西丹後守が修復。江戸時代の寛永年間(1624~44年)亮汰が中興、1916年(大正5年)諸堂宇の大修理が行われ、現在に至っている興法寺の近くを訪れる。

生駒の八大さん"と親しまれその御霊徳、御神徳を授かるために日本国中より多くの方々が御参拝をされています。宗派、教団の小さなものの考え方に捕らわれず人それぞれにおいて良き 指導者となり道を治め人間社会に役立つ者が育ってほしいと願う心より出来たのが釈王宗であります龍光寺の近くを訪れる。

役行者神変大菩薩が修行の場として開いたと伝えられる長尾の瀧。弘法大師もここで八大龍王を感得されたと伝えられています。江戸時代・宝暦八年(1758)には慈雲尊者が庵を結び、14年間も隠棲していました。滝の上には、慈雲尊者座禅石や庵の跡があります大阪別院 天龍院の近くを訪れる。

大阪府東大阪市上四条町の八代竜王神感寺の近くを訪れる。

17:00終了。

東大阪市寺院巡り第三弾、南部エリアに点在する寺院と東の端、生駒信貴スカイラインに沿って点在する寺院を巡りました。

残るは西エリアに寺院です。次回チャレンジします。








大阪府東大阪市寺院巡り2
2011年8月3日


大阪府中河内地域に位置する市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、それらをアピールする形でまちづくりを行っている東大阪市の北部の寺院を巡りました。

12:30車で出発、吉田方面に向かう。

大阪府東大阪市加納2丁目の妙政寺を訪れる。東大阪市加納にある日蓮宗の寺院です。

大阪府東大阪市加納2丁目の日正寺を訪れる。

東大阪市吉原の「浄土真宗本願寺派 西光寺」です。門前に「吉原石造地蔵菩薩立像」があります。特徴的なのは、鴻池新田に至る六郷井路や五箇井路の最上部に近く様々な水路が集結しています。この辺から船に乗って徳庵の舟着き場まで移動したという記録あります西光寺を訪れる。

大阪府東大阪市角田3丁目の明教寺を訪れる。

大阪府東大阪市古箕輪1丁目の西福寺を訪れる。

東大阪市箕輪1-7-25の『真宗大谷派・宝樹山 聞称寺』を訪れる。

大阪府東大阪市本庄1丁目6-13 の浄福寺を訪れる。

大阪府東大阪市新庄1丁目の浄円寺を訪れる。

大阪府東大阪市三島3丁目の願船寺を訪れる。

長田・高井田方面に向かう。

大阪府東大阪市稲田本町3丁目27-12の観音寺を訪れる。

大阪府東大阪市西堤楠町3丁目の大通寺を訪れる。

大阪府東大阪市御厨3丁目の法観寺を訪れる。

大阪府東大阪市御厨1丁目の西楽寺を訪れる。

大阪府東大阪市小阪1丁目の徳林寺を訪れる。

日蓮宗妙顕寺の末寺で、棟札により元禄12年(1699年)大阪上本町に本堂を建立したことが知られます。その後、昭和2年に道路拡幅により現在地に移転し、近年、本堂は建て替えられました。墓地の一角に、紀海音と菅奇渕の墓碑があります。紀海音は江戸時代中期に活躍した浄瑠璃台本作者です。また菅奇渕は俳諧所大黒庵の師匠として名をはせました宝樹寺を訪れる。

暗越奈良街道から少し南に離れていますが、西岸地蔵から直ぐのところに位置しています。大阪府東大阪市高井田元町の眞宗 高田山 本光寺を訪れる。

当山は寺伝によると、聖徳太子が自ら本尊の十一面観世音菩薩を刻み安置、百済系渡来僧の入法をもって開山・創建とし、山号は百済山と称する。その後、中世の幾度もの戦火で荒廃したが、江戸中期の1744年(延享元年)正法律(真言律)中興の高僧慈雲尊者が再興、当寺をその道場としたが、1825年(文政8年)正月、本堂が全焼し、同年に再建されている長栄寺を訪れる。

大阪府東大阪市長堂1丁目の浄光寺を訪れる。

大阪府東大阪市足代北2丁目6-23 の明専寺を訪れる。

大阪府東大阪市森河内西1丁目の稱光寺を訪れる。

大阪府東大阪市森河内西1丁目の宝林寺を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

大阪府東大阪の寺院巡り第二弾、東大阪の北部に点在する寺院を巡りました。
歴史を物語る大小いろんな寺院に接し時間を過ごしました。

尚6歳まで放出に住んでおり、近くの寺院を訪れたため、昔の住まいを何十年ぶりに訪れることになりました。
いやいや不思議、以前住んでた家は原型は保っており、両隣の家々は変わりなし、その他の周辺の家々はすっかり変わっていました。

以前住んでいた私の家と両隣の家、昔の記憶そのままでした。驚きです。























大阪府東大阪市寺院巡り
2011年7月9日


前回の東大阪神社巡りに続いて今回は東大阪市山麓エリアに点在する寺院を訪れました。

12:30車で石切方面に向かう。

当山は聖徳太子の祈願建立による善根寺の跡であり、古来より寺号を「善根寺」と称したが、創建年代は不詳である。明暦年間(1655~8年)に僧霊達上人が来住、寺号を「菩提寺」と改称し、万治年間(1658~61年)に現在の融通念仏宗に改宗した。江戸時代後期、八尾のお上人とか生き地蔵様とよばれて近在から崇敬された楽山上人は、当山を「住む里の 名にたがはじや 法の師は 善き種ひろふ 後世の菩提寺」と詠っている菩提寺を訪れる。

大阪府東大阪市にある黄檗宗の寺院。山号は瑞雲山。本尊は十一面観音であり、河内西国三十三観音霊場の28番札所である。聖徳太子により創建されたと伝えられ、当初は厳松寺と称された。江戸時代の1686年に大龍寺と改称された大龍寺を訪れる。

大阪府東大阪市日下町6丁目1-5の境智院を訪れる。

浄土真宗本願寺派 大阪府 東大阪市日下町2-7-20の称揚寺を訪れる

大阪府東大阪市中石切町2丁目8-18の教蓮寺を訪れる。

大阪府東大阪市中石切町2-5-11の光養寺を訪れる。

大阪府東大阪市上石切町2丁目27−14の清谷寺を訪れる。

大阪府東大阪市上石切町2丁目の大安寺を訪れる。

大阪府東大阪市東山町の善林寺を訪れる。

大阪府東大阪市東石切町2丁目の等覚寺を訪れる。

大阪府東大阪市東石切町2丁目6-55 の正興寺を訪れる。

当山の開創年代は不詳だが、住職のお話では1000年以上は遡るであろうとのことであり、聖徳太子の創建とも伝わる。この近郊の寺院では生駒山の中腹にある興法寺に次ぐ古い歴史を持っているとのことであった。鎌倉時代後半から南北朝時代にかて当地の豪族である水走氏が当寺別当職についていたようで、それを記した鎌倉時代の文書(『水走文書』)が残っている。1692年(元禄5年)の寺社御吟味帳(『中家文書』)には、融通念仏宗平野大念仏寺の末寺で、寺は往古よりあったが開基年歴や代々の住職については不明と記載されている。竣工したばかりの真新しい本堂に上がり、参らせて頂くことが出来た。本尊の阿弥陀三尊来光図は1639年(寛永16年)の製作で、延享年間(1744~1748年)元興上人の観音経一誦一刀彫による千手観音と33体の観世音菩薩とが併せ祀られている観音寺を訪れる。

大阪府東大阪市玉串元町2丁目4 - 30の極楽寺を訪れる。

当山の縁起は1597年(慶長2年)額田村の高内正貞が聖誉上人を招き開山したと言われる。山号の浄翁山玄清寺は高内正貞が浄翁玄清居士と称したところから名付けられた。正貞は織田信長に従い大坂石山本願寺との戦いに参加したが、その戦没者の霊を弔うために、この寺を建立し、高内氏の菩提寺とした。また、1583年(天正11年)に正貞は、前関白近衛前久の枚岡神社参詣に際し、案内役をつとめている。(このとき近衛前久が不動寺で詠んだ歌の碑が慈雲尊者の揮毫により建てられ、現在もその跡地に残っている)延宝年間(1673~80年)に教誉上人が中興し、1717年(享保2年)寂誉上人のとき、高内の人々が施主となり上棟されたことが記された棟札が残されている。このように、第22番札所額田寺や長尾・不動寺などと共にこの辺りの寺院の創建には、この地の名族高内一族が深くかかわっており、当寺の墓地には高内正貞を始め高内一族の墓碑が多くある玄清寺を訪れる。

大阪府東大阪市立花町の上行院を訪れる。

大阪府東大阪市額田町2-32の妙徳寺を訪れる。

當知院本誓山重願寺と号し、大阪都市計画の谷町線拡張により昭和37年に現在の額田に移転した浄土宗の寺。総本山は京都の知恩院。豊臣秀吉の本願で、文録3年(1594)5月18日に岸譽雲海上人の開基。現在19世忍譽行雄。御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108センチで木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原時代の特徴を残している重願寺を訪れる。

生駒山中腹の大阪府東大阪市から奈良県生駒市を通る国道308号線沿いにあり、この道の県境にある峠を「暗峠」、そしてこの道を「暗越奈良街道」といい、数ある奈良街道の一つで「日本の道百選」にも選定されています。またこの道は、松尾芭蕉が1694年(元禄7年)に大坂へ向かう途中に通り、「菊の香に くらがり登る 節句哉」という句を詠んでいます。当寺の境内には豊浦川が流れ、平行して旧奈良街道があります観音寺を訪れる。

大阪府東大阪市東豊浦町9-12の法照寺を訪れる。

大阪府東大阪市豊浦町の浄国寺を訪れる。

寺伝によると元は真言宗で鎌倉時代の創建。開基は正円。山号を天野山と号するのは、かっては天野山金剛寺(現河内長野市)の末であったためと伝わる。鎌倉時代の後期、住僧了願(楠木正頼)が本願寺3世覚如上人(1270~1351年)の直弟子となり、その後住僧了正も本願寺8世蓮如上人(1415~99年)に帰依し、1476年(文明8年)浄土真宗に転じ、1505年(永正2年)木仏を授与され、寺号が許可されている。 寺蔵文書によると、享保年間(1716~36年)には宗判寺(*)として、余間(*)の寺格を有し、本願寺の御番料(手当が支給された)寺院であった専宗寺を訪れる。

大阪府東大阪市客坊町9-14 の教覚寺を訪れる。

大阪府東大阪市四条町の安養寺を訪れる。

大阪府東大阪市六万寺町1丁目815の権現寺を訪れる。

河内四条史紙によると、古くから上四条町付近には楠木正行が高師直と戦った四条畷の合戦の古戦場と伝えられてきた。明治二十一年(1888年)、たまたまこの土地を所有した長野吉兵衛が発掘したところ、多数の人骨や武具などが出土した。長野氏はこれを四条綴の合戦の時の遺物であると考え、これを丁重に埋め戻し碑を建てたとある霊光院を訪れる。

大阪府東大阪市にある仏教寺院で、単立寺院。山号は岩瀧山。寺号は六萬寺(ろくまんじ)。本尊は阿弥陀如来。寺伝によると、聖武天皇の勅願により行基によって創建されたと伝えられる。もとは6世紀末頃に建てられ、その後荒廃した桜井寺の跡に建立された往生院六萬寺を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の東大阪市の山麓エリアに点在する寺院を巡りました。
数多い東大阪の寺院、今回は三分の一を訪れ、次回2-3回に分けて残りの寺院を訪れる予定です。



















大阪府東大阪市神社巡り第二弾
2011年7月6日


先週に続いて大阪府中河内地域に位置する市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、それらをアピールする形でまちづくりを行っている東大阪市の神社を巡りました。

12:30車で東大阪吉田方面に向かう。

宇都宮に鎮座する春日神社は、天児屋根命などの春日四神をまつっています。江戸時代の慶安2年(1649)に記録が焼失し、延享2年(1745)に再建されたといわれます。明治5~12年に一時石切劔箭神社に合祀されたことがりました。当時は船は交通手段でもあった大坂。恩智川の船着場として布市浜があり、交通の要所であったそうです。とはいいつつも、恩智川には今は舟が渡ることはまったくないんですが。孔舎衛(くさか)地域には善根寺春日神社、池之端春日神社、そして布市春日神社と3つ春日神社があるようです。布市春日神社を訪れる。

碑文にある「此の地」というのは、吉田駅のすぐ北にある、現在「中甚兵衛顕彰碑」のある今米公園が元々の今米の春日神社の社地であったそうです。この原文を書いている川中氏は川中新田を開発した、河内屋五郎平氏と中九兵衛氏の子孫なのでしょうか。今米公園の北側に隣接して、「川中邸と屋敷林」という家が登録文化財となっています。今の社地は、今米の集落の反対側の北の端に鎮座しています。この辺りは隣に「水走」という到底読めそうにない地名もありますし、東大阪市には難しい地名が多いのと、水や海に関連した地名も多いことは事実です。春日神社から今米公園までの道は、くねくねと川の堤防を思わせるような道です。農家が多かったので大きな敷地の家が並んでいます今米春日神社を訪れる。

始まりは村人がいつものように本殿にお参りしていると突然古大楠木の横から白い蛇が現れ、神の声が聞こえ、そこに祀れと申された。それが粟玉大神の誕生だと伝えられています。それ以来、氏子の守り神、土地の守り神として大切に村人たちに信仰厚く祀られています粟原神社を訪れる。

河内国若江郡の式内小社。近世は熊野権現社であった。また今天王とも云うようだが、牛頭天王であった証拠はない。 『河内志』、『河内名所図会』とも、当社を延喜式に出ており、加納村にあり、今熊野と称するとあるが、根拠は示されていない。地域の常識であるような伝承があったのだろう。祭神を埴安比売命とするのは度会氏『神名帳考証』であるが、この人は根拠まで記していないので、信憑性に疑問ありとされる場合が多い。霊感でもあったのかも知れない。埴安比売命は土の神で、イザナミの神が御陰を焼かれて苦しむ時に屎に生成される神である。また、 河内と埴安比売命との関連では、第八代孝元天皇が河内青玉之女名波邇夜須毘賣を娶って御子建波邇夜須毘古命を生むとある。御子は後の崇神天皇の時に反乱を起こし、失敗する。この時には逃亡する配下の軍は恐怖のあまり屎を褌に漏らす(樟葉の語源)のであるが、いずれも屎と埴土との連想がある宇波神社を訪れる。

当神社は、江戸時代には鴻池家邸内に鎮座し、明治元年まで宮座制により管理されてきました。この「産土神社」と明治四十年九月、新庄に鎮座した元村社「皇太神社」(御祭神「天照大神」)及び三島に鎮座した元村社「三島神社」(御祭神「大国主大神」)の三社を併合したる神社が現在の「産土神社」であります。そして「産土神社」は昭和十年四月に鴻池家邸内より、現在の後に新たな社殿を造営し、御神霊を奉遷申し上げております産土神社を訪れる。

創建された年代は不詳ですが、横枕村は江戸時代の中頃まで旧大和川支流(菱江川)に面し、再三の洪水に悩まされていた為、この神社を祀ったと言われています。本殿の横にだんじりの車庫があったのですが、夏にはだんじり祭とかあるようです横枕春日神社を訪れる。

大阪中央環状線と中央大通り(築港ー枚岡線)の交差する地点で、近畿自動車道と阪神高速の東大阪線が交差しとても便利なところです。トラックターミナルも市役所を挟んで北側にあります。拝殿の正面に神木を祀った祠が建っており、正面が塞がれた形になっています。「七大龍王 白龍大神」と書かれた学が飾ってあります。なんとも変わった配置です。その関係でしょうか。真新しい「白龍大神」石像が拝殿横に祀られています春日若宮神社を訪れる。

この地はかつては古大和川下流域の低温地であつた。神社の創始は欽明天皇の時代に、近くの田圃の中に岩船があり、そこへ誉田別命、足仲彦命、息長帯姫命の三神があらわれたので、社壇を築いて奉祀したと伝。中世の事情はよくわからないが、ある時代に八幡神の勧請があつたものと思われ。近世には岩田八幡宮として崇拝された。古代の祭神三座はこのときに失われたものと思われ不明である石田神社を訪れる。

受鬢尊・武内宿弥をお祀りしている神社のようですが、一旦、六郷神社(八幡神社)に合祀された後、先ほどの西岩田の三十八神社のように分祀していったのでしょう。そのために境内の主なものも合祀の際に移動してしまったのではないでしょうか。手水鉢も当たらしい物ですし、屋根も新しいところから考えると完全に建て替えられています。地名が稲葉なのですが、この横には菱屋東という長い地名が続いています。この場所に神社があるということは早くから土地であったということでしょう稲田神社を訪れる。

奈良の春日大社の御祭神を勧請した御分社。本殿は市の有形文化財に指定。花園ラグビー場に近く、大きなラグビーボールが奉納されている。別称ラグビー神社とも呼ばれている。正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、全国唯一のラグビー守袋を扱う吉田春日神社を訪れる

貞観九年二月に官社となっており、若江郡の二十二座の一つです。祭神は巳々都牟須比命(こことむすびみこと)としており、平安時代に編纂された「新撰姓氏録」には、中村連の先祖とされています。このことから、枚岡神社を中心とする中臣氏は、河内平野にも進出していたであろうと推定されます。

また、当社は疱瘡を病める者祈願すれば験ありと称し、参詣するもの多しとあり、正徳四年(1714)阿波淡路の領主蜂須賀候の家臣山与一左衛門長之・水谷平右衛門勝政より疱瘡全快の謝恩のため鳥居が寄進されています。伝承では、何か祈願をする時は、大和川(菱江川)に入り斎戒沐浴を行う川瀬の払いを行います。そして社殿の軒下の雨だれの砂を頂き、これを袋に入れて腰に下げお守りとしたそうです。大和川が付け替えられてからは、境内の菱沢池で祓いを受けたのですが、その風習も大正時代にはなくなったそうです仲村神社を訪れる。

延喜式神名帳に、『河内国河内郡 大津神社』とある式内社。近鉄けいはんな線・吉田駅の少し東南、住宅地内に鎮座する小さな社。国道308号線一本南の道端に南面して鳥居が立ち、境内には入母屋造の社殿一棟、その左に流造の末社殿が建つのみの大津神社を訪れる。

16:00終了。

今回は先週に続いて近場の東大阪市の点在する神社を訪れました。
なかなかマニアックで歴史は興味深いですが難しい。

先週と今週2回にわたって東大阪市の神社巡りでした。
次回は東大阪市の寺院巡りの予定です。









大阪府東大阪市神社巡り
2011年6月29日


大阪府中河内地域に位置する市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、それらをアピールする形でまちづくりを行っている東大阪市の神社を巡りました。

12:30車で出発、石切方面に向かう。

当社は善根寺の旧村社で、『大阪府全志』によると「768年(神護景雲2年)枚岡明神を分霊して大和の春日に遷座するのに供奉した一行のうちの、25人が河内に立ち帰り、この地に春日4神を勧請したのが当社の起源である」と伝える。この春日25人衆が春日神社の屋根葺替えなどに奉仕し、宮座へと発展したという。
1872年(明治5年)に枚岡神社に合祀されたが、1881年(同14年)復社し、現在に至っている善根寺春日神社を訪れる。

今から約六十年前、時は正徳三年(1713)池之端が戸数次第に増加し村が繁栄するにつれ、信仰厚き村民が村独自の天神を勧請し村の興隆を図るべく、時の大阪奉行に願い出て池ノ端に春日神社を建立、前記の四神が鎮座せるものなり。正徳の次の年号、享保の時代かの名君の名高き将軍吉宗公のとき、「享保」の銘の則の篭灯が奉納され数基現在も残る池之端春日神社を訪れる。

この神社は、江戸時代に大阪西町奉行で日下村の領主となり、この地で没した曽我丹波守古祐をまつっています。歴史上実在した人の霊位を神として奉斎したもので、丹波守の遺徳を偲ぶ村人たちが25回忌の時墓を立て、後年その墓碑の上に社殿が建てられ神社となりました丹波神社を訪れる。

今から約2660余年前(神武天皇2年)上之社として創建されたとのことで、現在の本社(下之社)よりも歴史的に古いことになる。江戸時代1765年(明和2年)の覚書には社内の除地として石切劔箭大明神と共に上之社石切劔箭大明神が見える。また『河内名所図会』〔1801年(享和元年)刊行〕には石切劔箭神社は『社説に云、上ノ社は哮峯にあり、下ノ社は当地也』とあり、近世には上下2社が存在していた。1907年(明治40年)上之社は下之社に合祀され、跡地に記念石が建てられ、「奥の院」と称していたが1972年(昭和47年)に上之宮として再興され、現在に至っている石切劔箭神社を訪れる。

大阪府東大阪市にある神社である。式内社(名神大)、河内国一宮で、旧社格は官幣大社(現、神社本庁の別表神社)。枚岡梅林でも有名であり、一帯はかおり風景100選(枚岡神社の社叢)に選定されている。社紋は春日大社と同じ「下がり藤」である。 鳥居から、坂道を上り、また46段ほどの階段をのぼり、やっと拝殿にたどり着く枚岡神社を訪れる。

当社は俗に瓢箪山古墳と呼ばれるひょうたんの形をした6世紀末のものとされる双円墳の西側に鎮座。その創起は社伝によると1584年(天正11年)豊臣秀吉が大坂城築城に当たり、片桐且元に命じて巽の方向に当たるこの地に金瓢を埋め、伏見桃山城からふくべ稲荷を勧請したのに始まると伝わる。1688年(貞享5年)の四条村古絵図には古墳は「旧跡字大塚」と記され、元は大塚と呼ばれていたらしいが、瓢箪形の山を描いたわきに「瓢箪山」「いなり」とも記され、古くから稲荷社が祀られ、瓢箪山と呼ばれていたことがわかる。また、当社は江戸時代より、門前の東高野街道沿いにおいて、往来者の話し言葉や持ち物などから吉凶を判断する「辻占い」の風習があり、明治時代初め頃に当時の宮司が「辻占」を創始し、全国にその名を知られるようになった。現在も「辻占総本社」としてその歴史と伝統を受け継いでいる瓢箪山稲荷神社を訪れる。

生駒山の南、鳴川峠から西へ下る途にある六萬寺山の西麓街中に鎮座している。社の西約200mを、東高野街道が南北に通じている。社伝によると、神武天皇孔舎衛坂の戦いに利なくこの地に回幸したが風強く波高くして梶折れ、舟は水上を漂流して小丘に着き、暫し舟をとめさせられてこの船山の地に祖神である瓊瓊杵尊を祀られたと伝えられている。到着の地は現在の六万寺町3-3-6.7の地(字梶無)とされている梶無神社を訪れる。

横小路町の氏神で宇台風の大賀世古墳の上に鎮座する風神である。延喜式 の神明帳に、大和国平群郡 龍田坐 天御柱国御柱神社 二座 並名 神大 月次 新當 と載る。今の奈良県生駒郡三郷村大字立野に鎮座する旧官幣大社龍田神社の祭神と同じで絵おそらくその分祀である。明治五年六月二十六日枚岡神社へ龍田社の名で合祀されたが、同十三年三月二十七日に復し今日に至る大賀世神社を訪れる。

花園方面に向かう。

江戸時代は山王権現、明治初期は日吉神社と称していました。明治五年、字南口にあった八坂神社、字中島にあった水神社とともに枚岡神社に合祀されましたが、明治十八年、以上の三社ともに旧日吉神社の地に合わせて復社して池島神社となりました。祭神は、大山咋命・素盞鳴命・磐長姫です池島神社を訪れる。

古代河内湖への旧大和川(玉串川)の船着き場付近に鎮座。市場が立ち、市場村であった。 平野の旭神社摂社若宮八幡宮に伝わる縁起によれば、当時水害激しく、八幡宮の神託があつて、「櫛司と橘とを川上から流し、その漂着した処に神を祀れば、水難を止め、農民を安穏にしよう」とのことで、早速、大和・河内両国の境から、その二品を流し、櫛司の止まつた処に玉櫛明神を、橘の止まつた処に若宮八幡宮を祀つたという。旧大和川の河畔に鎭座する社で、現在の社地の西約200mを南北に蛇行する道は、旧大和川の分流玉串川のなごりである。花園北小学校の南、街中の社。生駒の山を臨み。本殿背後に御神体とされている津原池がある津原神社を訪れる。

街中の平地に鎮座する。当社は若江氏の氏神を祀るとも思えるが、若江氏はこの地に存在したかは不詳(若江は単なる地名という)。「鏡」から若江鏡神社は天火明命を祀る神社であつて、鏡作に関係する氏族の氏神ではなかつたかと考えることができる。中世若江城城主畠山政長より三好左京大夫源義継までの代々の城主の崇敬するところであった。平安時代に石清水八幡宮領の若江莊がこの地域にあつたことから八幡神を祀るようになり、元禄ごろには若江鏡神社というとともに、塚本神社という社名でも呼ばれたようである若江鏡神社を訪れる。

長瀬方面に向かう。

神社は旧大和川支流の東岸近くに位置し、もとは牛頭天王と称されていました。創建年代は不明ですが、祭神は須佐之男命です。伝えによれば、天正の頃、石山合戦により村落とともに消失したと伝えられています。その後、慶長5年に片桐且元(かたぎりかつもと)より社地を拝領し社殿を再建したと宮の記録に記されています。明治5年に現在の社名に変わりました。境内には文化2年(1805)の手水鉢、旧社名の牛頭天皇宮と刻む享保十三年(1728)の燈籠、文政十一年(1828)の狛犬等があります。また、境内には旧大和川支流の堤防上に生えていた樹木が数本残り、いずれも堤防の土が取り去られたため、土中にあった根が浮き上がっています中小阪彌榮神社を訪れる。

同じ字を書く彌榮(弥栄)神社(いやさかじんじゃ)から南へ1km程の場所にあるのですが、読み方も違います。いずれにしろ由緒も何も解りませんが、ここにも神社があるということはこの地域の氏神を祀っているということなので何らかの由緒があると思います彌栄神社(やえじんじゃ)を訪れる。

八幡神を祀る神社は八幡神社(八幡社・八幡宮・若宮神社)と呼ばれ、その数は1万社とも2万社とも言われ、稲荷神社に次いで全国2位である。一方、岡田荘司らによれば、祭神で全国の神社を分類すれば、八幡信仰に分類される神社は、全国1位(7817社)であるという上小阪八幡神社を訪れる。

弥刀小学校北西街中に鎮座する。鎮座地は古大和川の自然堤防の微高地にある。水上の安全を所るために祀られた神であつたと思われる。天平宝字6年(762)6月、大和川の大洪水で長瀬堤が決潰した際、近江堂の字切所・切下・切の浦などからの激流のために、社殿ことごとく流失したとのことである。地名は「大水戸」→「おおみと」→「近江堂」と変化した弥刀神社を訪れる。

古来の事歴は判明しがたいが、約九百八十三年前(平安中期)には友井四丁目の現在「法敬寺」の東北方に牛頭天王を創祀せられていたことが確認される。江戸中期享保元年(293年前)九月二十日の日に菅原道真公を合祀して現在の友井三丁目十一番地に遷座させられた御剣神社を訪れる。

当神社の氏地である旧長瀨村は、明治22年の町村制施工に際して、現在の大蓮、衣摺、柏田、渋川町、寿町、長瀬町、俊徳町、横沼、吉松、金岡を併合し一村としたものです。従来の村々には、各鎮守神を奉斎し、長瀨村成立後も従来のままでありましたが、明治41年現在の社地に、各大字の8神社の御神霊を合祀して長瀨神社として創建されました長瀬神社を訪れる。

波牟は蛇であり許曽は社の義という。日本古来の「蛇神」を祀っていたのであろう。鎮座地の地名は河内国渋川郡北蛇草村字大ケであり、地名から社名が起こったとされている。明治27年4月、近隣七ケ村が合体して長瀬村となり、大正元年12月28日各村に鎭座していた八社が合併移転し、「長瀬神社」となった。式内社波牟許曽神社の旧地は、昭和の初年は、僅かに数株の松を存するのみと記録されていたが、北蛇草地区の氏子住民の努カにより、旧地に還座し、旧社以上の結構をもつ本殿・拝殿・社務所が建立された波牟許曽神社を訪れる。

1954年(昭和29年)、西宮神社から戎大神の御霊代を勧請申し上げ、布施戎神社の祭祀がはじまった。周辺地域が商業地として発展するに伴い、さらに1988年(昭和63年)には、大阪の今宮戎神社から事代主命を勧請申し上げ、以来厳粛な祭祀を執行し、広大な御神徳を仰いでいる布施戎神社を訪れる。

明治43年布施村足代に在った神社を現社地の鹿島時神社に合祀し都留彌神社の社名を継承した都留彌は都留美島の省略で旧大和川につるむ(交尾の意)一対の美しい島があり、これが神名となり豊漁を祈ったものとの説がある都留彌神社を訪れる。

元禄年間、下小坂の原野を開拓した移住者達が水利至難のため大和の国吉野の水分大神と袖振山の受◆神を祀ったのに始まるとされています。もと子守勝手明神といわれてましたが、明治5年に改称されました小坂神社を訪れる。

高井田方面に向かう。

当社は鴨(賀茂)氏の一族が673年(白鳳2年)に創建したと伝えられる延喜式内社で、祭神に速須佐之男命及び大鴨積命(素盞鳴命の十一世孫で、鴨氏の開祖)を祀ったのが当社の始まりで、中世に入り、岩清水八幡宮領となり、神功皇后、応神天皇を合祀し、「八幡宮」と称される様になった。1615年(元和元年)大坂夏の陣にはこの付近が戦場となり、当社も兵火にかかり、社殿はことごとく烏有に帰したが、後数年を経て、再建されている。隣接している長栄寺とは掛かり合いが深く、江戸時代の案内書「河内名所図会」には、『長栄寺の鎮守となり、今八幡と称される』とある。1868年(明治元年)の神仏分離後、1872年(明治5年)郷社に列せられた。現在の社殿及び拝殿は1907年(明治14年)の再建である鴨高田神社を訪れる。

字宮の町と呼ばれる所に鎮座し、仲哀天皇、神宮皇后、応神天皇の三神を祭神としています。稲田は、南町、中町、橋本町、北町、旭町の五町に分かれ、秋祭り(宵宮10月21日、本祭り22日)の宵宮には、各町内から伊勢音頭を歌いながら、長提灯の宮入が盛大に行われます稲田八幡神社を訪れる。

東大阪市森河内西に鎮座する森河内西の長瀬川を渡って真正面の突き当たりにあります森河内八幡神社を訪れる。

創建は不詳となっていますが、宮司さんのお話によると、古くはない。この辺りは、ごくごく最近まで沼だったそうで、そこに村ができた時に、「産土神」として、この神社ができたのだそうです。「この辺り一帯、蓮根畑だったんです」の徳庵神社を訪れる。
河内国若江郡の式内小社意支部神社の論社。他に南西数百メートルの天神社。どちらにも決定打はない。 長田神社の北に意伎宮屋敷、弓場などの地名があり、社前掲示『長田神社と子安地蔵』によれば、神社焼失により当地に遷座したと伝えられている。八幡宮とする永代常夜燈(延享三年 1746年)がある。江戸時代には八幡宮だった。流石の『河内志』にも意支部神社の比定はない長田神社を訪れる。

東大阪市新家に鎮座し、、暗越奈良街道の北側にあります新家菅原神社を訪れる。

旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であるとも伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるようになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、荒本の荒本神社の4社が合祀されました天神社を訪れる。

18:30終了。

今回の名所巡り、近場の大阪府では三番目の人口を誇る東大阪市に足を運び、点在する30の神社を訪れ結構マニアックな歴史学習でした。

















大阪府四条畷市寺社巡り
2011年6月25日


大阪府北河内地域に位置する市、緑の文化園や飯盛山などの緑溢れる豊かな自然や、楠木正行ゆかりの四條畷神社、平成14年に出土した田原レイマンの墓碑に代表される歴史的遺産など、多くの観光資源があります四條畷市の寺社を訪れました。

12:30車で出発、田原方面に向かう。

念法眞教生駒別院 、経王寺、隆昌寺、月泉寺、正伝寺、住吉神社、法元寺を訪れる。

清滝方面に向かう。

如在寺、四条畷大黒天を訪れる。

四条畷駅方面に向かう。

『延喜式』神名帳の讃良郡に載る同名神社(官幣小社)に比定される。江戸時代の地方文書には天神宮、天満宮、大蛇宮の名称で見え、「大蛇宮」は水の化身といわれる龍を祀る神社で、農業神として村内の信仰を集めていた思われるが、1882年(明治15年)の中野村地理誌は祭神、由緒不詳としている。現在の神社名は(明治4年)村社に列せられたのを機に、『延喜式』神名帳に載る「国中神社」の名を復活させ、1917年(大正6年)逢坂の大上宮を合祀した国中神社を訪れる。

当社は『延喜式』神名帳に載る官幣小社で、四條畷市にある式内3社のうちの1社である。元は現在地を更に山中を東に行った室池の近く、字宮谷に有った。創祀年代は不明だが、この地からは奈良時代の古瓦が拾集され、神社の起源として奈良時代には鎮座されていたものと推測される。文禄年間(1952~6年)に清滝字城の堂山に移し、更に1700年(元禄13年)に現在地に遷座した。1560年(永禄3年)三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かったといわれる。文禄年間の城の堂山への遷座は三好長慶の動向と何らかの関連があるのかもしれない。当社は平安期の神仏習合により「牛頭天王社」と称し、豊作を祈る水神信仰に基づく神として祀られ、この名称が江戸時代の終わりまで続いた。社名を『延喜式』神名帳にのる旧名に復興したのは1871年(明治4年)で、明治政府の神仏分離令の結果による。現在の社殿は(明治14年)に建てかえられたものだが、近年修復されている御机神社を訪れる。

当社の創建は『神社由緒記』には「平安初期の寛平・延喜年間(889~923年)の頃、飯盛の麓に鎮座したとあるが、往昔のことは不詳である」としている。1815年(文化12年)の『南野村改邑鑑』には「(住吉吉田神社は)現在まで三牧大和とその子伊織、孫大和と3代神職が続いているが、それまで社家がなかったので(三牧家が神官となった)元文年間(1736~41年)住吉大明神の神主吉田家に願い出て受領したので、これを機に住吉神社と平田神社とが合祀した」との記録が残る。「住吉神社」は往時より飯盛山麓にあり、その時期や、海の神である住吉社がこの地に祀られた理由などは不詳であるが、「平田神社」はもとは南野村字平田にあり、1853年(嘉永6年)の『南野村庄屋重右衛門扣帳』には「慶長年中(1596~1615年)の頃、この地で打死した平田という人の御霊を祀る祠があった」とある。慶長年間に打死(討死?)と言うことは大坂の陣の戦死者を祀ったものか住吉平田神社を訪れる。

当社は1348年(正平3年)四条畷の戦いで殉死した楠木正行を主神に、弟正時以下24柱が祀られている。社務所で買い求めた「略記」によれば、神社の歴史は比較的新しく、地元の「住吉平田神社」の神主、三牧文吾らの願い出により、1889年(明治22年)勅許が下り、「四条畷神社」という社号も賜り、別格官幣社に列格された。社殿が完成し御鎮座祭が執り行われたのは、1890年(明治23年)のことである。なお、「太平記」で語られている、「四條畷古戦場」と「楠木正行戦死地」は、大東市四條から四條畷市附近にわたるという説と、東大阪市四條の戦場説とがある四条畷神社を訪れる。

龍尾寺、正願寺、 当山の開基は明らかではないが、中興開山として雲上上人の名が知られている。雲上は1697年(元禄10年)に没しており、17世紀には寺容が整ったと考えられる。現在の宗旨は西山浄土宗であるが、1736年(元文元年)の南野村旧記帳には弥勒寺は「河州茨田郡佐太来迎寺末寺也」とあり、もとは大念仏宗来迎寺末であった。南野村に残る記録によると、この弥勒寺は1765年(文化12年)に再建、1786年(天明6年)に水害に遭い、石垣が壊されたことなどが記されている。当寺に祀られている高さ30cmの一木造聖観音像立は「舎利吹観音」と通称され、悪瘡治癒に効験が有るとして信仰を集めている弥勒寺を訪れる。
西明寺、法念寺、本泉寺、江戸初期の承応年間(1650年頃)設立の真宗道場に始まり、享保三(1718)年に寺号宣下をうけ、山号を地域名にとり、甲可山西敬寺を称す。現住職は24代目に当たる。寺院活動としては真宗教義に従って葬儀・法事・月忌参詣などは鄭重に行い、春の永代経法要・秋の報恩講は盛大に行う。仏教婦人会も盛んに活動しており、寺院活動を推進している。住職、門信徒共に歩んで、明るい寺院を目指している西敬寺を訪れる。

聖武天皇の勅願により、行基菩薩が建立したの49院の1つという。元は清滝地区字正法寺にあったが、元和年間(1615~24年)に当地に移転、再興したと伝える。清滝の正法寺跡は1969~70年(昭和44~5年)に発掘調査が行われ、東塔跡などが検出されると共に、出土した瓦から奈良時代前期に創建されたことが明らかになった。当山の縁起を記した鐘銘には「創建時より仏殿、塔婆、僧房、門廊、鐘楼、浴室などを備え、弘仁年中(810~24年)広智上人のもと大寺院となる。その後衰微したが天正年間(1573~92年)に観海上人が再興し、元和年間(1615~24年)円明上人が浄土宗に改宗した」と伝える。しかし、境内に『南無阿弥陀仏』と刻まれた「六字名号」には「天文5年(1536年)」の銘があり、改宗の時期は元和より早い時期だったと思われる正法寺を訪れる。

忍ヶ丘方面に向かう。

大阪府四條畷市砂360番地にあり、四條畷では戦前から存在した唯一の日蓮系寺院であり、現在は京都の妙蓮寺を本山とする末寺です。創建当時は、七堂の伽藍を誇っていたようですが、およそ今から290年前の正徳年間(1710年代)に近隣の大火に罹り、惜しくもすべて烏有に帰しました。その後、235年前の明和6年(1769年)5月、当寺12世日孝上人の時に本堂を再建、以来198年を経過し、昭和42年(1967年)夏、先代住職27世日孝上人が本堂を改築されました。また、元和3年創建以前はキリシタンの寺院ということで当時のヤソ会(キリスト教)伝道師が本国に報告され、それが現存しているようで、10年に1度ぐらいの割合でキリスト教徒の方が来寺される事があります妙法寺を訪れる。

光円寺、 当山は松風山岡山院と号し、一名讃良寺。もとは大聖寺と記したといい、隣寺の見性寺(現在は廃寺)との間で、讃良寺継承問題をめぐって紛争が起こり、当寺の主張が大いに正しいとされたことから大正寺になったという。1619年(元和5年)に書かれた『大正寺縁起』によれば、1174年(承安4年)頃、津桙(つほこ)神社(現忍陵神社)付近に1人の尼長者がおり、氏神の津桙神を奉っていたが、法然の弟子の西仙房が当地に行脚し、尼長者に易行念仏の法を説いた。西仙房は近くの森に草庵を寄進され修行、この庵を讃良寺と呼んだ。 時代を経て1605年(慶長10年)、京都清浄華院の良光が堺への途次、西仙房の古跡を尋ね衰退した寺を再興、仏堂を建立し安阿弥作の阿弥陀如来を安置した。これが現在の大正寺という。1615年(慶長20年)大坂夏の陣の戦火を避け、一時大和生駒に移ったが、翌年再びこの地に戻って来たという大正寺を訪れる。

前身は、『延喜式』神名帳に見える讃良郡の「津桙神社」という。もとは現在地より東方約900mの岡山村坪井の通称赤山と呼ばれるところに鎮座していたが、江戸時代中期に現在地に移建された。1882年(明治15年)の『岡山村誌』に「津桙神社 式内村社、八幡宮・新宮太神・藤原鎌足を祭る」とあり、津桙神社に砂の馬守社・大将軍社の2社を合祀した1911年(明治44年)現在の社名に改称している。社名変更の際、おかの字に陵を充てているように、ここは古くからこの丘は古墳であると認識されていたらしく、当初は「しのびのみささぎ神社」とよんだとも伝わる。1935年(昭和10年)前年に台風の被害を受けた社殿の修復工事中、前方後円墳の竪穴式石室が発見され、社殿の横に覆屋を建て、「忍岡古墳」として保存されている。また、この丘陵を利用して、戦国時代に三好長慶が飯盛山城を居城とした頃に、支城として岡山城が築かれたと伝えられており、フロイスの『日本史』には、城主一族の結城山城守忠正(アンリケ)やその息子の左衛門尉忠正(アンタン)などがキリシタンとして登場する。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では、徳川秀忠の本陣として同地が使われ、徳川方が勝利した事から縁起の良い所として御勝山とも称されるようになったという。この話は大阪市生野区にある岡山(御勝山)との話と共通しており、偶然が重なったものか。ついでながら、このとき家康は交野の星田に陣を設けたという。なお、この岡山城の遺構は殆ど破壊されており、その名残を見る事は出来ない忍陵神社を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の大阪府四条畷市の点在する比較的マイナーな6つの神社、20寺院を訪れ歴史学習できました。











大阪府大東市寺院巡り
2011年4月23日


大阪府北河内地域に位置する市。平安時代より、東高野街道など大阪と奈良を結ぶ交通の要衝として栄え、また戦乱の舞台ともなってきたが、江戸時代の治水・新田開発などにより、商都大阪の重要な後背地となった大東市に足を運び34点在する寺院を訪れました。

12:30車で出発
大東市野崎の蓮光寺を訪れる。

大東市北条の教照寺、瑞玄寺、貞和年中(1345~50年)四條畷の合戦で多数の戦死者が出たが、永禄年中(1558~70年)に至るも、なお霊魂休まらず、里人がこれを厭い、融通念仏の功徳により、霊を慰めた。この折、木の宮坊という人は私田をなげうって寺院を建立し、楠木正行を始め一族郎党の菩提を弔ったのが当山の始まりと伝わる。元は融通念仏宗の寺院であったが、現在は西山浄土宗の寺院である。元来、生駒山地の山沿いには融通念仏関係の遺跡が多く、十念寺もその1つに数えられている十念寺を訪れる。

大阪府大東市野崎にある寺院。野崎観音(のざきかんのん)として知られる。本尊は十一面観世音菩薩。宗派は曹洞宗。愛知県知立市に、宗派も山号も全く同じ寺院が存在する慈眼寺を訪れる。

大東市野崎の清涼寺、専応寺を訪れる。

大東市寺川の十林寺、法妙寺を訪れる。

大東市大字龍間の弥迎寺、弥迎寺会館を訪れる。

大東市中垣内の覚順寺、鳳字寺(禅宗)を訪れる。

大東市御供田の安楽寺を訪れる。

大東市栄和町の善念寺を訪れる。

大東市灰塚の常宗寺を訪れる。

大東市諸福の乗得寺、勝福寺 (禅宗)、欣浄寺、祐照寺を訪れる。

大東市新田の本教寺を訪れる。

大東市太子田の明福寺を訪れる。

大東市赤井の泉勝寺を訪れる。

大東市三住町の本伝寺を訪れる。

大東市 幸町の住道念法寺を訪れる。

大東市氷野の本念寺を訪れる。

大東市三箇の正覚寺、善遠寺、大長寺、勝福寺を訪れる。

大東市御領の西福寺を訪れる。

大東市津の辺町の本妙寺を訪れる。

18:20終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の大阪府大東市に足を運び、点在する34箇所の寺院を訪れました。

前回訪れた大東市の神社はネットで解説を確認し歴史学習できましたが、寺院に当たってはほとんどが全く情報が無く、訪れ写真を撮るのみに終わりました。残念ながら歴史的背景はよくわかりませんでした。







大阪府大東市神社巡り
2011年4月16日


大阪府北河内地域に位置する市。平安時代より、東高野街道など大阪と奈良を結ぶ交通の要衝として栄え、また戦乱の舞台ともなってきたが、江戸時代の治水・新田開発などにより、商都大阪の重要な後背地となった大東市に足を運び25点在する神社を訪れました。

12:30車で出発、大東市野崎に鎮座し、小さな神社で、この神社は南京錠がかかっているのでお詣りもできません。その上、他の設備も完備されていません。祠と鳥居のセットなのですが、本来の神社の起源はこの様なものであったのかなと考えてしまいます宝頭神社を訪れる。

祭神 誉田別命(品陀別命)・菅原道真公、例祭 十月二十日・二十一日、祭神は京都北野神社の御神木で像を刻んだものであると、当社の古記録にある。即ち時の天皇の御詔勅に「北野の神木で神像を作り、漂流地に祀るべし」とあったので数多くの神像を刻み加茂川に流された。その一体が当村の西の津之辺の浜辺に流れ着いた。その所は森であったので以来その所を明神の森と呼び聖地であるとして、代々お祭りを欠かさなかった。しかし、この社は平地であるため度々洪水の災いにあった。そこで時代は不明であるが現在地に御遷座された北條神社を訪れる。

大東市野崎に鎮座し、野崎観音(滋眼寺)の境内にあります。当社は、宝塔神社に対して北の宮さん牛頭さんの呼称で親しまれ、野崎地区の氏神として厚く信仰される。明治五年から野崎宝塔神社に一時合祀されたが、同十三年には、野崎村村社として復活し現在に至る南條神社を訪れる。

日本最初の御建立創神鎮祭唯一ツの国が認む宗教法人別格氏神本宮真に敬厳豊かな由緒の御祭神宮の大東市野崎にある臍の王神社を訪れる。

大東市野崎に鎮座し、グーグルマップには「宝塔神社」とも記されています。現地の立看板には「宝頭神社」と記されていました寳頭神社を訪れる。

大東市寺川に鎮座し、神社の由緒書きには「須濱大明神」と小さくかいてあります。本社の祭神は大巳貴命で出雲大社の祭神と同じで寺川の氏神様として鎮座されています。由緒は明らかではないが燈籠や古文書の記録から相当古くから祭られていた大谷神社を訪れる。

大東市中垣内に鎮座し、神社の由緒書きには、「須波麻神社」となっています。祭神は大国主命、いい伝えでは当社の祭祀は出雲大社と同体で、古くは十月七日に大祭をしていたという。現在の社殿は明治三十六年(1903)に建立されたもので、拝殿の後ろの本殿は春日造りの様式である須波摩神社を訪れる。

大東市龍間に鎮坐する龍間神社を訪れる。

大東市平野屋に鎮座し、由緒略記では「産摩太神宮」となっています。産摩太神宮は、享保十三年(1729)に摂州西成郡の総社であった。産摩太神宮(現在、大阪市東区渡辺町)より深野南字たた割に勧請された坐摩神社を訪れる。

大東市御供田に鎮座し、当神社は約三百三十年前(昭和五十年起算)元禄の初めに洛南男山の石清水八幡より、当地の氏神として分霊を勧請、斎祀し、村の安全と五穀豊穣を祈り続けてきたお社である八幡神社を訪れる。

大東市灰塚に鎮座し、1m少し高くなったところに覆屋が建っておりその中に本殿が鎮座していました比枝神社を訪れる。

大東市灰塚に鎮座し、素盞嗚神社とも呼ばれているようです。寝屋川の南側にある唯一の神社ですが、この灰塚の中央部はかなり道が狭く昔から人々が住んでいたという歴史を感じる街並みとなっています産土神社を訪れる。

大東市諸福に鎮座し、寺社の創建年代は、何れも年代不詳往古より、と記されるのを通例とする。こうした中で当社は、創建年代が明白な市唯一の神社である。記録には「寛永廿歴奉勧請當社天神安全地下繁昌 九月吉詳日」とある諸福天満宮を訪れる。

大東市新田東本町に鎮座し、新田山王宮と呼ばれているようです。祭神 大山咋命、祭礼 十月二十日、新田という呼称は、当時の既存の集落に対し、新しく開拓された土地であるところから付けられたものである。しかし、豊臣秀吉の太閤検地を受けており、その時点での新田村であり、その開拓の起源は戦国期に遡るといえよう。伝承によれば、当地の開拓を手がけたのは、近江(滋賀県)から移って来た人達であった。そこで氏神も故郷の神である山王宮(日吉神社)をこの地に勧請した、という大神社を訪れる。

大東市太子田に鎮座し、天照大神を祀り、毎年十月二十日を祭礼日としている。境内より一壇高い拝殿の中に彩色された本殿が安置されている。本殿は神明造りで、大きさは横約130cm、縦約115cmで、屋根は桧皮葺である大神社を訪れる。

大東市赤井に鎮座し、真宗大谷派の宝寿山 泉勝寺の南側に地蔵堂とこの北野神社が建っています。お寺の角に建っているようなのですが、寺院の守護神として祀られていたのでしょうか北野神社を訪れる。

大東市深野に鎮座し、公園の中に玉垣で囲まれた境内域があり、なんとお詣りで気なように門扉が閉まっています。天照皇大神・豊受大神・菅原道真が祀られている両皇大神社を訪れる。

大東市氷野に鎮座し、南北に長く大変広大な境内地となっていますので、恐らく両方の町にまたがっているのでしょう。本当に広大な境内の北野神社を訪れる。

大東市御領に鎮座し、現在では標高2mであるが往時はもっと高く河内湖と呼ばれる草香江に浮かぶ島でありその後池水が狭まった後には、深野池の堤防を形づくったと考えられる。深野池の干拓後は堤防の土は掘り出されて現在は坂はないが、北側を通り枚方・八尾線道路にあたる道を里人は三年坂と呼ぶおかみ神社を訪れる。

大東市御領に鎮座し、環濠の中にある神社です。橋を渡ったところに建っている鳥居のバランスが少し悪いような気がしますが、埋まっているようです。それとも地盤沈下でもあったのでしょうか。神社の境内を環濠が取り巻いています。なんとも懐かしいような環境です。河内はもともとこの様な環境であったのでしょう菅原神社を訪れる。

大東市三箇に鎮座し、祭神は、天満大自在天神の称号を授与された菅原道真公である。大祭は十月十九日、二十日。社地内には稲荷社が鎮座する。天神さんもお稲荷さんも、稲作を中心とする五穀豊穣の神である菅原神社を訪れる。

大東市深野北に鎮座し、旧地名では「南方字宮前ハの割」にあり文学の神菅道真公を御祭神としている、祭日は十月二十一日である。創建は江戸時代に中期宝永年間であるが年代は定かでない菅原神社を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

大阪府大東市に点在している神社すべてを訪れました。これから市別に大阪の寺社を訪れ制覇したいと思います。










大阪府東大阪観光
2011年2月19日


大阪府に足を運び、大阪府中河内地域に位置する市。大阪市、堺市の両政令指定都市に次ぐ、大阪府内で第3位の人口規模の市であり、中核市に指定されている。近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られ、それらをアピールする形でまちづくりを行っている東大阪の名所を訪れました。

12:30車で東大阪に向かう。

生駒山系の暗峠と鳴川峠の間にある自然公園。展望高原のぼくらの広場からは、360度のパノラマが楽しめる。いろいろなハイキング道がある大阪府民の森なるかわ園地を訪れる。

古代から近代まで、八尾の歴史と文化に関する資料を展示。常設展の「大和川流域と高安山-その歴史と文化」では、八尾の景観をつくってきた様々な出来事や大和川と河内木綿の歴史などを紹介している八尾市立歴史民俗資料館を見学。

745年(天平7)、聖武天皇の勅願により行基が創建したと伝えられる。のちの南北朝時代に荒廃を増したが、1386年(至徳3)に藤原盛継が再建。地元の人からの信仰も厚い本尊は、八尾地蔵として有名な地蔵菩薩。安産の霊験があるといわれている。境内には河内最古之音頭発祥地の石碑が立ち、毎年夏の地蔵会式では盆踊りで大いに盛り上がる常光寺を訪れる。

『竜馬がゆく』『街道をゆく』など、数多くの歴史小説や随筆で知られる司馬遼太郎の記念館。氏の自宅に隣接して造られた記念館は世界的建築家、安藤忠雄の設計による斬新なデザインだ。建物内部の11mの吹き抜けの壁面一面に木製の書棚が設けられ、氏所蔵の約2万冊の書物が収納されている様は圧倒的迫力。年2回の企画展を開催し、ホールでは映像上映、講演会や音楽会なども開かれている司馬遼太郎記念館を見学。

大阪平野の東、奈良盆地との境に連なる生駒山麓の樹々に囲まれてたたずむ。奈良の春日大社はこの社の二神を勧請したということで「元春日」とも呼ばれ、藤原氏の隆盛とともに栄えた。参道途中には梅の名所として知られる枚岡梅林、神社の北には桜やツツジが咲く公園がある枚岡神社を訪れる。

近世まで奈良と河内を結ぶ主要道であった旧奈良街道。暗峠はその県境にある峠。芭蕉も最後の旅でこの峠を越え、秀句「菊の香にくらがり登る節句かな」を残した。現在も石畳や、道標、古い家並みが残り、往時の名残りを留めている暗峠を訪れる。

「石切さん」の名で親しまれ、できもの(関西ではデンボ)を治してくれるという。通称ダラダラ坂と呼ばれる参道の坂道には、薬の店が並ぶほか、骨董の店や飲食店も軒を連ね、散歩も楽しめる石切劔箭神社を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、地元の大阪府に足を運び、近鉄花園ラグビー場を擁する「ラグビーのまち」として、また、技術力の高い中小企業が多数立地するものづくりのまちとして全国に知られる東大阪を訪れ、寺社と博物館巡りして時間を過ごしました。

今回で大阪の名所はほぼ制覇しました。





大阪府北河内観光
2011年1月29日


大阪府の令制国の河内国北部に由来する地域名称で現在の大阪府北東部(淀川左岸)にあたり、京街道や古堤街道が通り、古くから京都府山城地域や奈良県北和地域との交流が深く、現在も関西文化学術研究都市の一翼を担っている北河内を訪れました。

12:30車で出発

「野崎の観音さん」として、広く親しまれる寺。「野崎まいりは屋形船でまいろ」と野崎小唄に登場し、浄瑠璃『お染久松』でも知られる。長い石段の上に本堂があり、本尊の十一面観音は縁結び・子授け・安産に霊験あらたかという。境内上にある公園からの眺めもすばらしく、「大阪みどりの百選」に名を連ねている野崎観音(慈眼寺)を訪れる。

南北朝時代の四條畷の合戦で敗れた小楠公・楠木正行を祭る。境内には小楠公の御母堂を祭る御妣神社がある。約500本のソメイヨシノが咲く神社としても知られている四條畷神社を訪れる。

1348年(正平3)、四條畷の戦いで戦死した、楠木正行の墓。墓所にある楠は樹齢570年を超え、府の天然記念物になっている小楠公御墓所を訪れる。

室池の周りに広がる水辺自然園、アスレチックのある森の宝島など、趣向を凝らした各エリアがあり、森の工作館ではいろいろな自然素材を使った工作ができる。自然観察遊歩道も2コースある大阪府民の森緑の文化園むろいけ園地を訪れる。

高さ12mの舟型をした、巨大な岩が御神体というユニークな神社。この御神体には大坂城築城のときに、加藤清正が運ぼうとして断念したという逸話が残る。岩窟が多数あり、古来から修験道の行場として知られてきたが、今では一般の人でも岩窟めぐりができる磐船神社を訪れる。

最大地上高50m、全長280mもの大吊橋「星のブランコ」や、本格的なロッククライミング用の人工岩がある。バードウォッチング、自然を満喫する遊歩道も設置されている府民の森ほしだ園地を訪れる。

甲子園球場の約6倍の広さをもち、樹木を中心に観察できる。日本の代表的な13型樹林のうち、11型樹林を造成している。このような森の再現は世界でも珍しい。約30mの高さに育ったメタセコイアの並木は、四季を通じて見事な景観をつくっている大阪市立大学理学部附属植物園を訪れる。

寺名の由来は、獅子が吠えて口を開けた時の形に似た、本堂裏にある巨大な石からといわれる。国宝指定の本尊薬師如来像は平安初期の作。展望台もあり、眺望がすばらしい獅子窟寺を訪れる。

四季折々の美しい自然とふれ合える、府立の森林公園。芝生広場やバーベキュー広場のほか、園内ハイキングコースが8コースもあり、休日には家族連れで賑わう。アスレチックの遊具もあり、子どもたちに人気の大阪府民の森くろんど園地を訪れる。

花ショウブ園やアジサイ園など緑が広がる。スイレンが咲く水生花園もあり、シーズンごとに咲き乱れる花々は見ごたえ充分。水辺広場、展望広場はゆったりくつろげるスペースの山田池公園を訪れる。

全国で初めて史跡公園として整備された古代寺院跡。750年(天平勝宝2)百済国王の子孫、敬福が河内守となり、一族の氏寺が建立されたと考えられている。ほかに類を見ない建物の配置で、国の特別史跡に指定。美しい松林に囲まれており、桜の名所としても知られている百済寺跡を訪れる。

1934年(昭和9)、全国的に知られる成田山新勝寺の別院として開創。日本で初めての交通安全祈願専用のお堂・祈祷殿があり、一度に100台の車の祈祷ができる根本道場として威容を誇っている。そのほか境内には、笑いの道の発展に力を尽くした関西芸能物故者の冥福と芸道の発展を祈る、笑魂塚という石碑がある。成田山明王院のある香里園は大阪の鬼門の方角にあたり、大阪守護の願いも込められている成田山明王院(成田山不動尊)を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、最も近場の地元大阪府北河内に足を運び、何回も訪れたことのある社寺、名所を巡り、再確認できました。









大阪市南エリア観光
2010年4月28日


大阪の南エリア、難波、心斎橋、堀江、日本橋、鶴橋方面の皆さんご存知の名所巡りして再確認してきました。
 
28日13:00天王寺集合、歩いて大阪市南エリアの名所見物しました。
 
地元で「愛染さん」と親しまれる勝鬘院は、聖徳太子が四天王寺を創建した際に置いた施薬院の跡。1594年(文禄3)に豊臣秀吉が再建した重要文化財の多宝塔は、大阪市最古の建造物。縁結びの霊木・樹齢数百年の愛染かつらも必見の愛染堂勝鬘院を訪れる。
 
国際交流のための情報、留学生をはじめ来阪・在住外国人向けに幅広く情報を提供する多言語対応のインフォメーションセンターを設置。海外の新聞・雑誌、国際交流・多文化共生に関する資料は自由に閲覧できる。コンサートや国際会議などに使える大ホール、最新の映像機器を備えた小ホールのほか、会議室、ギャラリー、レストラン、ホテルなども併設の大阪国際交流センターを訪れる。
 
神武天皇が、生島大神・足島大神を祭ったとされる大阪最古の神社。親しみを込めて、「いくたまさん」と呼ばれる。1585年(天正13)、豊臣秀吉の大坂城築城で現在地へ遷座。以来、本殿は幣殿とひとつの屋根で葺きおろし、その上に三つの破風を据えた、他に類例のない「生國魂造」という建築様式を継承。桃山時代の威風を現代に伝える。7月は大阪三大夏祭りのトップをきって、「いくたま夏祭」が行われる生國魂神社を訪れる。
 
1984年(昭和59)開場の、伝統芸能・文楽を中心とした公演を行う劇場。5階建てで、近代設備の整った753席の文楽劇場と、159席の小ホールがある。文楽の魅力は義太夫語りの鍛えあげられた声と三味線の奥深い音色、そして優美に表現する人形が織りなす世界だ。ほかに上方歌舞伎の復興を目指した歌舞伎公演や舞踊、邦楽、大衆芸能、民俗芸能などの公演を行っている。併設の展示室では企画展も行う国立文楽劇場を訪れる。
 
地下鉄四つ橋線なんば駅から堺筋線日本橋駅まで東西に約800m延びる大地下街。1970年(昭和45)「虹のまち」として開業し、1994年には名称を「なんばウォーク」としてリニューアル。北と南側の2本平行に並ぶ通りには約250店が軒を列ね、クジラ像が置かれたクジラパークや噴水広場など、憩い空間も各所に設置されているなんばウォークを通過する。

「ナニワの台所」と呼ばれる市場。鮮魚店をはじめ、八百屋・飲食店など約170軒が並ぶ通りの総延長は580m。早朝から、多くの料理人たちが食材の仕入れにやって来る黒門市場を通過する。

履物の卸売り専門店が全長400mの通りに約60店舗並ぶ。サンダル、草履などの履物類のほかに、バッグや傘といった小物類も扱い、一般客も購入できる店もある日本橋御蔵跡履物問屋街を通過する。

電製品はもちろん、パソコン・オーディオ・携帯電話・照明器具などの専門店が200店ほど並ぶ。各店とも激安値を誇り、「勉強します」を合い言葉に、客と店側の値引き交渉などが繰り広げられる。近年ロボット関連の店も増加している日本橋でんでんタウンを通過する。

1889年(明治12)に大阪初の5階建て高層建築として誕生した五階百貨店がその名の由来。その後建物はなくなり、その名称と周りの店だけが残った。現在は中古家電や骨董品・着物などを扱う商店などが集中して並ぶマーケットエリアとしてその名が知られる五階百貨店を訪れる。

日本各地から新旧の伝統的工芸品(民芸)を集めて展示している。1950年(昭和25)に堂島に開館し、その10年後に現在地に移転した。陶磁器から漆器、染織など約8000点を収蔵。年4回展示内容が替わる日本工芸館を見学。

上方の演芸について、音声や映像を含めたさまざまな資料が揃えられている資料館。レッスンルームや小演芸場のほか305席のワッハホールを備え、各種イベントが催されている大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)を見学。

なんばグランド花月の南手に掲げられた、大きく「道」と書かれた真っ赤な看板が目印。この看板から南のなんさん通りまで約160m続くアーケード街。ここにはプロの料理人が使う調理器具、厨房設備、業務用の椅子とテーブル、看板などを扱う専門店が約50店舗並ぶ。もちろん一般客も気軽に利用できる。大阪の食文化には欠かせない、たこ焼やお好み焼用の道具類が大小さまざまに並べられていて、見て歩いているだけでも楽しい。ロウで作った食品サンプルを扱う店で、にぎりずしや野菜といったサンプルキーホルダーをおみやげに買って行く人も多い千日前道具屋筋商店街を通過する。

吉本興業のメイン劇場。若手からベテランまで、所属のタレントによる漫才・落語・吉本新喜劇などを公演するなんばグランド花月を訪れる。

道頓堀川の水辺に整備された遊歩道。戎橋~相合橋の約250mを散策できる。個性的な店が集まるにぎわいと、活気のあふれる繁華街「ミナミ」を横断。夜はネオンが川面を彩り、美しい夜景をつくりだしているとんぼりリバーウォークを訪れる。

道頓堀川の北側、心斎橋筋の東側に当たる、ネオンも艶やかなミナミの大歓楽街。道頓堀の開削に功績を残した山口屋宗右衛門にちなんで命名された。戦前まで花街として栄え、今ではクラブやバー、割烹などの飲食店が多く並ぶ宗右衛門町を通過する。

ミナミの新しいランドマークとして注目される、八角形の建物が印象的な複合文化施設。1500人収容のスタンディングホール「なんばHatch」、イベント広場「プラザ」、レストラン・カフェなども揃う。道頓堀川の遊覧船の船着き場に隣接。道頓堀川の遊歩道に続く広場、地下鉄各線・近鉄・南海・JRの駅に連絡する地下通路もある湊町リバープレイス(みなとまちりばーぷれいす)を訪れる。

アメリカ村の西側に位置し、古くから家具の街として知られる立花通りは「オレンジストリート」と呼ばれ、若者たちに人気だ。ショップやカフェ、雑貨屋などがところ狭しと立ち並び、今や堀江のメインストリート。第2日曜に定期的に行われるフリーマーケットも楽しみのひとつ。新店舗が続々とオープンし、ますます目が離せないスポットの立花通りを通過する。

現在、大阪の若者の情報発信基地として、必ずその名があがる。御堂筋の西側、ビッグ・ステップを中心とする一帯をいい、路面点だけでなく、雑居ビルの中にも数え切れないほどさまざまなテナントが入っている。アメリカ村のそもそもの始まりは、1970年代初め、倉庫や駐車場が広がるこの地を活性化させようと古着などを売り出してからだ。ショップオーナーのこだわりのセレクトが若者の間で評判となり、一躍有名になった。巨大な壁画やビル上に立つ自由の女神像などに、個性を売り物にするこのエリアの気風が表現されているアメリカ村を訪れる。

アメリカ村の中心部に位置する御津公園は、その形状から別名三角公園と呼ばれ、昼夜を問わず多くの若者たちが集まる。待合せにも便利な場所な御津公園(三角公園)を通過する。

全身を赤でまとった通称「赤い人」で有名な、現代美術家・浜崎健氏のギャラリー。壁や床をはじめ、すべて赤で統一された館内では、オブジェなどの常設展のほか、定期的に特別展も開催。またギャラリーの2階に設置されたミュージアムショップには、浜崎氏のオリジナルTシャツをはじめ、生活の一部として役立つ作品の数々が、展示・販売されている浜崎健立現代美術館を見学。

1997年、地下鉄長堀鶴見緑地線の開通に伴い誕生した、全長730mの大地下街。西は四つ橋筋から東は堺筋までをつなぎ、ブティックや飲食店などが並ぶ。地下駐車場、地下鉄とも直結しているクリスタ長堀を通過する。

大阪人から「まっちゃまち」と親しみを込めて呼ばれる、天神橋南詰めから天王寺公園まで続く約4kmの通り。特に人形、玩具、駄菓子などの問屋が軒を並べる内久宝寺町~末吉橋周辺の商店街が有名。正月の飾りつけの品々…と、シーズンを先どった商品を見て歩くだけでもおもしろい。本来は卸売問屋街だが、一般客への販売も行っているため、「信頼ある商品をお得な価格で購入できる」と多くの人で賑わいを見せる松屋町筋を通過する。

JR・地下鉄・近鉄鶴橋駅下に広がる鶴橋高麗市場。細く入り組んだ市場内には焼き肉用の肉やホルモン、キムチ、チヂミ、韓国餅、色鮮やかなチョゴリなど本場韓国の食材、衣装、小物雑貨などがひしめくように並んでいる鶴橋高麗市場を訪れる。
 
18:00終了。
 
今回は大阪市南エリアに点在する名所を歩いて巡り、再確認してきました。
社寺あり、歴史的建造物あり、現代ビルあり、有名通りあり、美術館あり、商売の町、大阪の歴史ある数々の問屋街等、盛りたくさん楽しめました。
 
19:00鶴橋で食事を済ませてから予定しているトルコ旅行のため関西国際空港に向かいます。
楽しみです。
 
 










大阪府堺&大阪市南部郊外史跡巡り
2010年3月24日


今回は近場の近畿地方の中部、大阪府の中南部に位置し、2006年4月に日本で15番目、近畿地方では4番目に政令指定都市に移行し、大阪府で人口・面積が第二の都市、平安時代、この地が摂津・河内・和泉の3国の境に位置しているところから「さかい」と呼ばれるようになりました堺の駅周辺と大阪市南部郊外の帝塚山、長居周辺の史跡巡りしました。

12:30車で阪神自動車道経由して堺インター下車
13:00堺駅付近到達。

通称・蘇鉄寺として有名。境内には樹齢1000年といわれる高さ8mのソテツがあり、天然記念物に指定されている。織田信長が安土城に移したが、「堺へ返りたい」と蘇鉄が泣き、元へ戻されたという伝説が残る。堺事件で土佐藩士11人が切腹した場所でもある妙國寺(蘇鉄之寺)を訪れる。

近代を代表する女流歌人・与謝野晶子は1878年(明治11)、堺の老舗菓子屋の駿河屋に三女として誕生。23年間過ごした家は今はなく、「海恋し潮の遠鳴り数えつつ少女となりし父母の家」と刻まれた歌碑が建てられている与謝野晶子生家跡を訪れる。

1877年(明治10)に造られた六角形の木造洋式灯台。現地に残る同種のものでは国内最古といわれる。船が安全に航海できるようにと市民の寄付により、堺の大工・大眉佐太郎が建築。1972年(昭和47)には国の史跡に指定された旧堺燈台を訪れる。

長居方面に向かう。

長居公園の約3分の1を締める自然の楽園には、四季を通じていろいろな花が咲き、約1000種もの植物が茂る。また生きた化石といわれるメタセコイヤやセコイヤなどの代表種によって、古代の樹林を再現している長居公園を散策する。

長居公園内にある博物館。植物・動物・昆虫の標本や化石類を中心に、約1万点を展示している。恐竜やナウマンゾウの実物大のレプリカもあり、ジオラマなどで分かりやすく説明。楽しく学べる施設になっている大阪市立自然史博物館を見学。

長居公園の約3分の1を占める自然の楽園には、四季を通じていろいろな花が咲き、約1000種もの樹木が茂る。生きた化石といわれるメタセコイヤやセコイヤなどの代表種によって、古代の樹林を再現している大阪市立長居植物園を散策する。

帝塚山方面に向かう。

明治時代から大正期の公文書や行政刊行物、江戸時代の古文書など約14万点を所蔵。貸出しはできないが、2階の閲覧室で自由に資料を見ることができる。毎年秋に行われるアーカイブス・フェアでは、展示や講座を開催。大阪の歴史を学べる大阪府公文書館を見学。

周囲約700mの池。聖徳太子が曼陀羅経を唱えて池に住む龍を退治したという古事が、その名の由来という。池の中には3つの小島が浮かび、趣のある橋が架かっている。池をとり囲むように公園として整備されており、春には桜が咲き誇る万代池を訪れる。

すぐ隣まで民家が迫っている、町中の高台にある4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳。付近に大伴氏の館があった記録から、大伴金村の墓といわれている。市内で唯一原形を保つ前方後円墳で、国の史跡に指定されている帝塚山古墳を訪れる。

17:00終了。

今回は近場の大阪市南部郊外に位置する帝塚山周辺、長居周辺と堺市の駅周辺の史跡巡りし再確認できました。

天候が悪く、雨で肌寒い中、9つの名所巡りし、何回かに分けての大阪の観光名所巡り、かなり細部にわたって訪れることが出来ました。
次回は大阪の東方面を攻めてみたいと思います。




大阪府堺&泉南観光
2010年2月3日


今回は近場の地元の方も比較的訪れていない堺、泉南の名所巡りしてきました。

12:30車で阪神自動車道経由して堺インター下車

13:00堺到達
堺に生まれた、歌人・与謝野晶子の出版物や資料を常設展示。併設のアルフォンス・ミュシャ館では、与謝野鉄幹が創立した文芸雑誌『明星』と関わりのあるミュシャの作品約100点を常設展示している与謝野晶子文芸館を見学。

「名松百選」に選ばれた松林、日本の山野の原風景にバラの演出をしたバラ庭園が見事の浜寺公園を散策する。

正面の拝殿と本殿、摂社春日神社、住吉神社が境内に立つ泉穴師神社には、平安期以降の神像彫刻83体が残る泉穴師神社を訪れる。

収蔵品は、国宝3点と重要文化財12点を含む約1200点。多彩な分野にわたり、なかでも日本の中世禅宗社会の文化遺産を多数収蔵。開館以来、中世禅林文化の宝庫として親しまれてきた正木美術館を訪れる。残念ながら休館でした。

明治以来、市内で綿織物業を営んできた久保惣株式会社の寄贈により、1982年(昭和57)に開館。東洋古美術を中心に、国宝2点・重要文化財28点を含む、約6000点を収蔵。中国工芸品、モネ・ルノワールなどの西洋近代絵画、ロダンなどの彫刻も展示する和泉市久保惣記念美術館を訪れる。残念ながら休館でした。

槙尾山山頂にたたずむ施福寺は西国三十三所第4番札所。寺域には4つの堂と桜門が立つ施福寺を訪れる。

広さが甲子園球場の約8倍ある自然派公園。「新鮮・安全・美しい農産物のあふれる収穫祭の村」をテーマに、大人も子供も楽しめる体験施設が揃う堺・緑のミュージアムハーベストの丘を訪れる。

16世紀後半、堺の発展とともに栄えた臨済宗大徳寺派の寺。禅や茶道を通じて中世の堺の文化人たちのサロン的役割を果たし、千利休もこの寺で禅を学んだ。境内の古田織部好みという枯山水庭園は、名勝に指定されている南宗寺を訪れる。

わび茶を大成させた千利休は堺の豪商・魚屋に生まれた。早くから茶の湯に親しみ、武野紹鴎に師事。豊臣秀吉に茶頭として仕え茶道を広めたが、晩年に秀吉の怒りにふれ自刃。屋敷跡は柵に囲まれて入れないが、井戸が残り石碑が立つ千利休屋敷跡を訪れる。

17:00終了。

今回は近場の大阪府の堺、泉南に足を運び、地元の方もあまり訪れない名所巡りしてきました。

残念ながら美術館、博物館は休館中が多かったですが、近場の新たな発見、歴史学習出来ました。

尚施福寺は本堂に至るには約1kmもの急峻な階段を登らなければならない。西国三十三箇所のなかでも厳しい参道として知られ、かなりたどり着くには体力を要しました。







大阪ベイエリア観光
2009年12月9日


今回は近場の大阪市の大阪湾付近のベイエリアにある名所を訪れました。

12:30天保山方面に向かう。

13:30天保山到達。

企画展示を行うギャラリーと、巨大立体映像が楽しめるアイマックスシアターを併せもつミュージアム。建築家安藤忠雄設計の建物のデザインも必見のサントリーミュージアムを訪れ、クルムト・シーレの特別展示を見学。

南港方面に向かう。

大阪の海の交流史をメインテーマにした、船と歴史の体験ミュージアム。海面から直径約70m/高さ約40mのガラス張り半円球ドームが顔を出すという建物のデザインが一際目をひく。地下にあるエントランスを経て、天窓のついた長さ約60mの海底トンネルを通り抜け、ドーム内のエレベーターで4~1階までと進む。「大航海時代」の海上貿易・交流から、海の玄関口という役目をもった近世大坂の様子、江戸時代に大坂~江戸間を往来していた菱垣廻船をはじめとする和船の発達史などまでが、展示・紹介されている。江戸時代の町人に扮したパフォーマーの説明や案内もある(土日祝のみ)。とくに、2階に実物大で展示中の「浪華丸」(長さ約30m)への乗船や、3Dスーパーバーチャルシアター、星を利用して時間を測る夜間時計などの体験は人気が高く、航海の素晴らしさを伝えているなにわの海の時空館を見学。

四季を通じて、毎年さまざまな渡り鳥が飛来する。自然豊かな園内には干潟や林など野鳥たちの姿を間近で見られるポイントが点在し、自然に生きる鳥たちの生態を観察することができる大阪南港野鳥園を散策する。

ミズノ大阪本社内のスポーツミュージアム。明治時代からの野球グラブや昭和初期からのテニスラケット、スキー板、ゴルフクラブなどを展示。特に、現代のプロ野球選手が実際に使っているグラブ、バットなどを展示するプロモデルコーナーは要注目。最新のスポーツ用品の展示、2020年のスポーツシーンを想定した未来感覚のコーナーもあるスポートロジーギャラリーを見学。

住之江方面に向かう。

花と緑に満ちた都会のなかのオアシスとして親しまれている公園。コンセプトは花と緑とふれあう、広々とした施設で遊ぶ、スポーツを楽しむ。四季折々に彩りを変える花や木々、野球場やテニスコート、プールなどの充実したスポーツ施設、子供たちがのびのび遊べる児童遊戯場などがある住之江公園を散策する。

昭和15年5月、仁徳天皇と明治時代以降の大阪府出身の戦没者を祭神として創建された。明治33年以来続けていた遺族らの悲願が、日中戦争に際し実ったもので、神社の築造には、のべ36万人が勤労奉仕にかけつけた。有志が桜樹献木会を組織して桜・桐約千本を植えるなど約2万平方メートルの神域はうっそうと樹木が茂り、閑静なたたずまいを見せている大阪護国神社を訪れる。

近畿でも有数の古い神社。摂津国一ノ宮として信仰され、禊祓[みそぎはらい]の神、海上安全の神として崇敬されてきた。住吉造と呼ばれる本殿の4棟が国宝、大海神社や石舞台、南門、楽所[がくしょ]が重要文化財に指定されている。本殿の南側には毎年6月14日に御田植神事が行われる御田がある。池に架かる反橋は通称太鼓橋といわれ、現在の橋脚は淀君の寄進だという住吉大社を訪れる。

明治6年に開設された大阪でもっとも古い公園です。春は満開のサクラのもとで行われる桜祭り、夏は隣接する住吉大社の住吉祭り(夏越大祓神事)、お正月には初詣と、1年中にぎわいをみせています。公園中央部を通る潮掛道はかつて住吉大社の参道であったところの住吉公園散策する。

17:00終了。

今回の名所巡り、大阪市のベイエリアに足を運び、昨今、人気のあるクリムト・シーレの特別展示を開催しているサントリーミュージアムを見学、又プロ野球選手のグローブが展示しているスポートロジーギャラリー、イチロー、松井、その他有名選手の使用していたグローブの展示、なかなか感激いたしました。





大阪府堺市百舌鳥古墳群史跡巡り
2009年10月31日


今回は近場の大阪府堺市に足を運び、大仙公園を中心とし四方に点在する大小43の古墳群、百舌鳥古墳群を訪れました。

12:30車で出発、阪神高速経由して
13:00百舌鳥古墳群の中央に位置する公園、園内にも古墳が点在し、博物館・日本庭園・中央図書館・平和記念塔・都市緑化センターなどの施設がある大仙公園を散策する。
 
大仙公園内にある茶室、茶屋三宗匠のひとり、今井宗久ゆかりの黄梅庵と数奇屋造の伸庵を訪れる。
 
大仙公園内に立ち、堺の歴史・文化を紹介する。館内には百舌鳥古墳群からの出土品、飛鳥時代の日本最大の白檀の観音菩薩立像や堺特産の刃物、火縄銃などを展示。特に図版をもとに復元された巨大な仁徳天皇陵の石棺は必見の堺市博物館を見学する。
 
大仙公園内にあり、貿易の町、堺の歴史や文化をイメージして作られた庭、敷地2.6haに広がる築山林泉回遊式の庭園の大仙公園日本庭園を訪れる。
 
墳丘長486mの前方後円墳、日本最大の古墳であり、5世紀中期のものとされておりエジプトのピラミッド、中国の秦始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられるほか、北側の反正陵古墳、南側の履中陵古墳と合わせて百舌鳥三陵と呼ばれる仁徳陵古墳を訪れる。
 
墳丘長360mの前方後円墳、日本第3位の墳丘を誇り、5世紀前半のものとされている履中陵古墳を訪れる。
 
墳丘長146mの前方後円墳、5世紀中期頃、堺市指定有形文化財の衝角付胃型埴輪が出土しているいたすけ古墳を訪れる。
 
墳丘長186mの前方後円墳、5世紀後半頃の御廟山古墳を訪れる。
 
墳丘長290mの前方後円墳、日本第8位の墳丘を誇る。5世紀後半のニサンザイ古墳を訪れる。
 
墳丘長148mの前方後円墳、百舌鳥古墳群の北端に位置し5世紀後半の反正陵古墳を訪れる。
 
17:00終了。
 
今回の史跡めぐり、近場の大阪府堺市の百舌鳥古墳群の43の古墳の中で比較的大きな前方後円墳6つを訪れました。
 
大仙公園内にある堺市博物館で百舌鳥古墳群の学習を終えてから散策。
最大の前方後円墳仁徳陵古墳を散策してから、履中陵古墳、いたすけ古墳、御廟山古墳、ニサンザイ古墳、反正陵古墳を巡り、百舌鳥古墳群再確認学習できました。
 
 





大阪府泉南史跡巡り
2009年10月21日


今回は近場の大阪府泉南の点在する社寺、歴史的建造物の史跡巡りしてきました。

12:30車で阪神近畿阪和自動車道経由して
13:30泉南に到達。

行基が開山したと伝えられる真言宗の寺。織田信長によって全焼したが、江戸時代になって再建された。ヒラドツツジの名所として有名な庭園がある。近くの岡中鎮守社にある府の天然記念物の楠もみどころの林昌寺を訪れる。

関西国際空港対岸に位置する広大な臨海公園。白い玉石が敷き詰められたマーブルビーチ、緑と磯が広がるシンボル緑地などがある。特にマーブルビーチは関空が目の前のりんくう公園を散策する。

江戸初期に建てられた庄屋の家で、近畿地方でも最大規模という、寺院の庫裡や武家の台所のような広い土間が特徴。重要文化財に指定されている中家住宅を訪れる。

釘を1本も使わずに建てられた観音堂は「釘無堂」とも呼ばれ、鎌倉密教様式の貴重な例として国宝指定。豊臣秀吉の紀州攻めでほかの堂は焼かれたが、この観音堂だけが残ったという。宝物館には、重要文化財19点が所蔵される孝恩寺を訪れる。

江戸時代に多くの望遠鏡を制作・研究した、岩橋善兵衛の記念館。天体観測ドームに口径60cm反射望遠鏡を備え、晴天であれば昼夜の天体観望ができる。展示室では、善兵衛の遺品や天文関係の資料を常設展示している貝塚市立善兵衛ランドに寄る。

市民の森公園にある自然史系博物館。貝塚で発掘されたアンモナイトの化石をデザインしたユニークな外観。館内では、大阪府下でも豊かな自然の残る貝塚市の海・山・川に生息する生物の標本展示や生態飼育をしている貝塚市立自然遊学館を見学。

「日本の白砂青松100選」に選定された長さ1kmのビーチに、3カ所の児童遊戯場やマリンスポーツ施設を設置。風光明媚で開放的な海浜公園として賑わっている。白砂と青松の2色に彩られていることから、この名が付けられた二色の浜公園を散策する。

「岸城さん」の通称で親しまれる神社。だんじり祭では15台がこの神社に宮入りする。岸和田城の鎮守社で、岸和田城が千亀利城と呼ばれていたことから、縁結びの神様としても名高い岸城神社を訪れる。

岸和田城主・岡部氏の茶屋跡に、財閥の寺田家が10年かけて造った別荘。スイレンが咲く池を中心に回遊式庭園が広がる五風荘を訪れる。

1334年(建武元)、当時の代表的武将であった楠木正成が、一族の和田高家に、岸と呼ばれていたこの地に築城させたのが始まり。和泉地方の岸の和田氏が転じて「岸和田」の地名となったという。その後、1585年(天正13)に小出秀政が入城し天守閣を築造。徳川政権下では1640年(寛永17)に岡部家が入封、13代にわたり支配したが、1827年(文政10)に五層の天守閣が落雷で焼失。1954年(昭和29)、鉄筋コンクリート造りの三層の天守閣が、1969年(昭和44)に城壁と櫓が再建された岸和田城を散策する。

だんじり祭のテーマ館。祭りの迫力を再現するマルチビジョンや、町家の間を駆け抜ける3D映像が楽しめるほか、現存する岸和田最古のだんじりを展示する。だんじりの大屋根に乗る体験もできる岸和田だんじり会館を見学。

大和薬師寺に入山し、法相宗を学んだ行基が畿内に建造した49院のひとつ。聖武天皇の勅願寺で学問の寺として信仰を集める。平安絵画として名高い星曼荼羅図[ほしまんだらず]をはじめ、国の重要文化財指定の宝物も数多く所蔵している。寺の裏手にある、古墳時代中期に築かれたという久米田古墳もみどころの久米田寺を訪れる。

岸和田の中央部にある自然いっぱいの公園。白鳥が泳ぐ大池、四季折々の花が咲く花木園、広大な芝生広場、展望台、巨大なアスレチック遊具など、ファミリーのレジャーで賑わう。硬式、軟式が楽しめる人工芝のテニスコートも16面揃っている蜻蛉池公園を散策する。

17:30終了。

今回の史跡巡り、大阪府の南部エリアの泉南に足を運び、社寺、歴史的建造物、公園等を訪れ大阪の歴史の深さを感じさせられました。





大阪府北摂史跡・博物館巡り
2009年8月26日


今回は近場の大阪府北部の北摂エリアに足を運び史跡・博物館巡りしてきました。

12:30車で阪神高速経由して豊中北インター下車

735年(天平7)草創。日本最初の民衆火葬の聖地で、新西国第十二番観音霊場。行基自作と伝える薬師如来を本尊とする。全山を覆う萩は死者の霊を慰めるため、行基自ら植栽したものという。唯一大阪(川崎)東照宮の遺構を残す寺院でもあり、移築した本地堂には徳川家康の念持仏薬師如来座像を安置。鎮守として小田原征伐の際豊臣秀吉が勧請した道了大権現をまつる萩の寺東光院を訪れる。

豊中市と吹田市にまたがって広がる、126haの広大な公園。植物園・民家集落博物館・野外音楽堂などの施設があり、陸上競技場・テニスコート・乗馬センターなどスポーツ施設も充実する服部緑地を散策する。

江戸時代の民家12棟を移築・復元。飛騨白川郷の合掌造や南部の曲家などがあり、その内部では各地の生活民具を展示している日本民家集落博物館を見学。

日本初のノーベル文学賞を受賞した川端康成の自筆原稿や初版本などを展示。茨木は氏の父祖の地で、3歳から旧制茨木中学校を卒業するまで暮らしており、この時期に文学への志をかためている茨木市立川端康成文学館を見学。

890年(寛平2)に建立されたが、信長の茨木合戦で焼失。1603年(慶長8)に豊臣秀頼が再建した。毎年4月には寺に伝わる山蔭流包丁式があり、全国から料理人が集まる。西国三十三カ所第22番札所の総持寺を訪れる。

南北に延びる、低い台地上に築造された前方後円墳。墳丘全長226m、前方部幅147m、後円部径138mで、幅約28~33mの濠がめぐっている。第26代継体天皇の御陵とされている太田茶臼山古墳を訪れる。

芥川の上流に続く渓谷。断崖・奇岩・滝が連なり、景観がすばらしい。渓谷沿いの道はハイキングコースになっていて、渓流釣り(入漁券が必要)やキャンプも楽しめる。摂津峡公園は桜の名所。春には花見客で賑わう摂津峡を散策する。

徳川家康の禁教令により追放された、高槻領主のキリシタン大名、高山右近を記念して建てられた教会。追放先のマニラの大聖堂を模して造られている。聖堂の前には祈りを捧げる右近の像がある高山右近記念聖堂を訪れる。

17:30終了。

今回の史跡・博物館巡り、近場の大阪府北摂の馴染み深い歴史的建造物に接し歴史学習し、又公園・渓谷を散策しリフレッシュ、体力作り、健康維持出来ました。




大阪府南河内史跡巡り
2009年7月22日


今回は大阪府南河内の寺院、大阪府で最も高い1125mの山、金剛山、多数の滝が点在する滝畑周辺に足を運びました。

12:30車で南河内方面に向かう。

寺伝によると弘仁12年(821)に弘法大師の開基と伝わる。本尊の不動明王と二童子立像は重要文化財に指定されている。眼病、厄除にご利益があるといわれる瀧谷不動(明王寺)を訪れる。

役行者が開き、弘法大師が再興したといわれる寺。金堂は室町初期の建立で、国宝指定。本尊の如意輪観音も国宝だ。梅・桜をはじめ、ツツジ・モミジ・椿など四季各々の花木が美しい花の寺としても有名な観心寺を訪れる。

1125mの大阪府の山で最も高く、また、山頂手前までロープウェイが通じているので、気軽に登山やハイキング、キャンプを楽しめる金剛山をロープウエイで登り散策する。

世界各地の花が楽しめる大温室、日本有数のボタン園、160品種2300株のバラ園など、広大なスペースに花と緑があふれる。花に関する企画展示や体験講座も多数開催している大阪府立花の文化園に寄る。

聖武天皇の勅願により行基が開基。後白河法皇の妹、八条女院が弘法大師像を安置し、女性が仏縁を結ぶ霊場として女人高野と呼ばれる。宝物館には仏教美術品を奉納。周辺は天野山森林公園でハイキング途中の参拝客も多い金剛寺を訪れる。

光滝・大滝・御光滝・権現滝など、多数の滝が点在する滝畑周辺は、昔から滝畑四十八滝として知られるキャンプ場を散策する。

戦国時代の1559年(永禄2)ごろ、京都の興正寺が別院を建立したことから、近隣の有力者が中心となって町づくりがはじまった。江戸時代には幕府直轄地となり、商業の町として発展。特に酒造業が盛んで、1668年(寛文8)の記録では、51職種149店もの店が並んだという。重要伝統的建造物群保存地区に指定された富田林寺内町を訪れる。

古市の駅の近くで食事を済ませて
18:00終了。

今回の近場の史跡巡り、南河内の由緒ある寺院と大阪で最も高い山、金剛山、滝畑エリアの数箇所の滝を訪れ終了いたしました。

近場の史跡巡り、まだまだ訪れてない史跡、たくさんあります。
徐々に攻めていきたいと思います。




大阪府能勢&箕面&池田史跡巡り
2009年7月15日


今回は近場の大阪北部の能勢の妙見山、箕面の箕面公園と滝、勝尾寺、池田の五月山公園に足を運びました。

12:30車で阪神自動車道経由して能勢妙見山に向かいました。
13:30標高660mの山頂には能勢の妙見さんと呼ばれ、親しまれる開運北辰妙見大菩薩がまつられている。かつては勝海舟や坂田三吉も参拝したという能勢妙見山を散策する。

箕面方面に向かう。
高野山真言宗に属する、西国三十三カ所第23番札所。本堂、多宝塔、荒神堂などが立ち並ぶ。名高い勝ちダルマは勝ち運をもたらすといい、試験・スポーツ・商売などで成功を願う人たちが多く訪れる勝尾寺を散策する。

日本の滝100選のひとつ。高さ33mの滝の周辺一帯は、明治の森箕面国定公園に指定されている。春の桜、秋の紅葉ともに美しい。野生猿を見かけることもある箕面の滝を散策する。

池田方面に向かう。
池田市の北西部、標高315mの五月山にある広大な自然公園。7つのハイキングコースやドライブウェイ、山頂付近の市民の森、日の丸展望台からは大阪平野が見渡せる五月山公園を散策する。

五月山公園にあり、ワラビーやアライグマなど80頭の小動物を飼育。なかでも有袋目のウォンバッドは、日本で初めて出産に成功した五月山動物園を見学。

五月山公園にあり、ツツジ・サツキ園、アジサイ園、芳香樹園、実のなる樹園で構成される。温室や花壇もある五月山緑地都市緑化植物園を散策する。

5世紀ごろ呉の国から渡来し、この地を訪れた呉服媛を祀る神社。昼夜をとおして布を織り続け、機織・裁縫の技術を日本に伝えた遺徳をたたえ、仁徳天皇の勅令で建てられたという。呉服という言葉は、呉服媛にちなんで絹布類を指す語として日本に定着したもの。形見の御神鏡を納めた姫室が残されている呉服神社を訪れる。

宝塚歌劇や歌舞伎など演劇・文芸を中心に、書籍雑誌約20万冊を収蔵。宝塚歌劇は公演ポスターをはじめ、雑誌『歌劇』やプログラムなどが創刊号から揃う。歌舞伎では、世界一を誇る江戸後期の上方役者絵、明治期の絵看板コレクションなどがある阪急学園池田文庫を見学。

室町時代から戦国時代にかけて、池田市域一帯を支配していた地方豪族・池田氏の居城、池田城跡を散策する。

17:00池田駅付近の居酒屋で食事を済ませて解散。

今回の車で関西の史跡巡り、大阪の北部の自然と文化史跡を巡りました。
以前に訪れたところもありましたが、特に箕面の滝は3回目です。
歴史的意味は浅くですが理解してからの、なかなか再度の訪れも違った観点からためになりました。



大阪羽曳野&藤井寺史跡・古墳巡り
2009年4月25日


今回は近場の大阪羽曳野・藤井寺の古市古墳群とその近辺の史跡に足を運びました。
13:00羽曳野古市に到達、天候小雨。

559年の創建と伝わり、応神天皇を祭り、日本最古の八幡宮といわれる、朝廷・幕府からの庇護も厚く、武神として崇められ、現在の社殿は豊臣秀頼による再建の誉田八幡宮を訪れる。

全長420m。長さは仁徳天皇陵についで2位の前方後円墳で、その体積は仁徳天皇陵を凌いで国内最大を誇る応神天皇恵我藻伏崗陵を訪れる。

藤井寺方面に向かい947年(天暦元)の創建で、学問の神・菅原道真公を祭っている道明寺天満宮を訪れる。

本尊の十一面先手観音像は菅原道真の作と伝えられ、国宝に指定されている道明寺を訪れる。

古室山古墳、応神天皇恵我藻伏崗陵より古く、4世紀後半造営という説の仲ツ山古墳を訪れる。

西に向かい、津堂城山古墳、雄略天皇陵を訪れ、源頼朝の近くにあって功を重ねた武将・佐々木高綱の子孫で、江戸中期には18カ村の大庄屋を務めている。1615年(元和元)の大坂夏の陣の直後に創建された住宅(重要文化財)は、桃山時代の書院造りの建築様式を一部に留める代表的な豪農の建物である。5280平方m(約1600坪)の敷地には、主屋、長屋門、土蔵などがある吉村家住宅を訪れる。

市立綾南の森総合センター古墳の資料展示を見学する。

東に向かい仲哀天皇陵、藤井寺の地名の起源になった古刹、西国三十三カ所第5番札所、百済の辰孫王の子孫である、葛井連の氏寺として創建。我が国最多の1043本の手をもつ、本尊の千手千眼観音菩薩坐像は国宝に指定されている葛井寺を訪れる。

市立生涯学習センターの古代資料館や歴史展示室を見学する。

聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられる飛鳥時代の寺。俗に「中の太子」と呼ばれ、河内三太子のひとつに数えられる。建物は法隆寺式伽藍配置だが兵火に襲われ、現在の本堂は江戸初期に再建された野中寺を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、竹内、東高野街道をしばらく行くと、誉田山古墳(応神陵)や古室山古墳など大小の古墳群が点々と存在し、藤井寺市に入り道明寺天満宮、大水川に沿って先を進み、津堂城山古墳や吉村家住宅(重文)、岡ミサンザイ古墳(仲哀陵)を巡る。

モダンな外観の市立生涯学習センター、西国三十三ヶ所霊場の葛井寺、聖徳太子と蘇我馬子の建立と伝えられる野中寺を訪れ、世紀中頃から7世紀末にかけて,奈良・大阪や岡山・群馬など日本各地(北海道・東北一部・南西諸島を除く)で多くの古墳が築造され、現在,ほとんどの古墳には木や草が茂り,山のように見える。しかし,築造当時は石室に土が盛られ,その周りに石が葺かれ,埴輪が並べて置かれた人工の山であり、さが100mを超える巨大古墳が多く存在する、それらのほとんどは前方後円墳で,今回の羽曳野・藤井寺の古墳群、堺の中百舌鳥古墳群、昔の権力者の偉大さを感じさせられる史跡巡りでした。





大阪南河内太子町史跡巡り
2008年10月18日


今回は近つ飛鳥と呼ばれ、大阪府内でも有数の歴史の宝庫として知られている太子町に足を運びました。

13:00大阪駅出発、車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して太子インター下車。

古墳の森に囲まれた博物館、建物は安藤忠雄氏設計の平成の古墳、日本古代国家の形成と国際交流をさぐるをメインテーマに、4世紀の古墳時代から7世紀の飛鳥時代についてのさまざまな資料を展示している大阪府立近つ飛鳥歴史博物館を見学。

周囲は一須賀古墳群を保存し、親しむ場として、大阪府が設置した29万㎡公園、102基の古墳がある近つ飛鳥風土の丘を散策する。

道の駅ならではの観光情報や交通情報がいっぱいの道の駅、近つ飛鳥の里・太子に寄ってから日本最古の宮道、竹内街道の歩みや近つ飛鳥、王陵の谷と呼ばれる太子町の歴史がわかる竹内街道歴史資料館を見学。

西暦619年、難波から飛鳥の都まで大きな道を作ったと日本書紀に記されていて、飛鳥時代、シルクロードの東端であるこの道を通じて、中国大陸や朝鮮半島の文化がもたらされた竹内街道を散策する。

大化改新後に即位した第36代孝徳天皇は、改新に功績のあった蘇我倉山田石川麻呂らを政権に登用し、改新政治を推し進めましたが中大兄皇子らと不仲となり、難波宮で白雉5年(654)、孤独のうちに亡くなられ、大坂磯長陵に葬られ、竹内街道沿いに位置する陵は、別名うぐいすの陵と呼ばれる直径約30メートルの小さな円墳、考徳天皇陵を訪れる。

第31代用明天皇は、日本書紀によれば、磐余の池上の陵に葬られますが、その後、推古元年(593)に河内の磯長の陵に改めて葬ったと記録されています。東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルの方墳で、周囲には幅7mの空濠を巡らせており、この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100メートルに達する巨大な規模を有している用明天皇陵を訪れる。

推古天皇の摂政として、十七条憲法や冠位十二階の制定、遣隋使の派遣などの進んだ政治制度や文化を取り入れ、政治改革を図った聖徳太子は、日本書紀によると推古29年(621)に亡くなり、磯長の地に葬られ、径50メートル、高さ10メートルほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室の聖徳太子の墓を訪れる。

聖徳太子墓を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代に聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられ、聖徳太子信仰の霊場として発展しました。織田信長の兵火によって、一時は全山が焼失しましたが、豊臣秀頼の聖霊殿再建に始まり、順次伽藍が再興された叡福寺を訪れる。

聖徳太子の死後に、その乳母であった月益姫、日益姫、玉照姫(それぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘とされる)の3人が、剃髪して仏門に入り、墓前にお堂を建立して、太子の冥福を祈ったの寺、西方院を訪れる。

第30代敏達天皇は、572年に即位され、死後、母君の石姫皇后の墓である磯長の陵に葬られたと日本書紀に記していて、全長約93メートルの磯長谷では唯一の前方後円墳で、周囲には空濠を巡らせている敏達天皇陵を訪れる。

日本で初めての女帝である第33代推古天皇は、聖徳太子を摂政にし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせた東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室がある推古天皇陵を訪れる。

推古天皇陵の南東200メートルに位置し、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有している二子塚古墳を訪れる。

平安時代の延喜式という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ばれる由緒のある神社で、級長津彦命、級長津姫命など8柱を祀るために、八社大明神とも呼ばれている科長神社を訪れる。

科長神社南側の小高い丘の上に、小さな塚があり、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された小野妹子の墓を訪れる。

17:00終了。
太子温泉に浸かってから食事を済ませて
19:00帰路に向かう。
20:00大阪駅到達。

今回の史跡巡り、近場の河内の太子町、王陵の谷と呼ばれるように多くの古墳が所在し、石器のサヌカイトを産出する二上山や日本最古の官道竹内街道など、歴史の息吹きが各所に感じられる場を訪れ、短時間で満足できる歴史学習でした。






大阪泉南池上曽根遺跡巡り
2008年5月24日
参加者9人


今回は大阪の弥生時代の集落遺跡、池上曽根遺跡を訪れました。

13:00大阪駅集合出発、車で阪神高速、湾岸線で和泉市の大阪府立弥生文化博物館13:40到達。
大阪府立弥生文化博物館見学、目で見る弥生文化、池上ワールド、池上曽根遺跡を学ぶ。

15:30、隣の池上曽根史跡公園を散策、東西19,2m、南北6,9m、面積133㎡の弥生時代最大級の規模を持つ建物で、地面に掘った穴に直接柱を立てた堀立柱建物であるいずみの高殿とこの建物の南側にある、直径2,3mのクスノキの大木を刳り貫いて井筒にして、刳り貫き井戸としてはわが国最大のものであるやよいの大井戸を見学。

又弥生時代のものつくりをいつでもだれでも体験できる施設、展示ホールでは、池上曽根遺跡の発掘調査で出土した弥生時代中ごろの大型堀立柱建築の柱と、大型の刳り貫き井戸の実物を用いて発掘調査風景を再現している池上曽根弥生学習館を見学。

17:00近くの温泉に浸かり食事を済ませて19:00帰路。
20:00大阪駅到達、解散。

今回初めての試み、車で関西の史跡めぐり、第一弾、日本で5番目に大きな弥生時代の集落、池上曽根遺跡を訪れ、当時1000人の弥生時代の人々が集まった集落で、弥生文化博物館で当時の文化知識を得て、池上曽根史跡公園で復元した当時の建築物に触れ、又池上曽根弥生学習館で弥生時代のものつくりを体験でき有意義な日をすごすことが出来ました。