大分

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十三弾:大分県九州四十九院薬師巡礼&重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年1月26−27日
 

九州の大分県に足を運び、大分県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所臼杵、佐伯、豊後竹田を訪れました。

26日18:00伊丹空港出発
19:00大分空港到達、レンタカーで別府方面のホテルに向かう。
20:00ホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
27日7:30レンタカーで出発。霊場、重要伝統的建造物群保存巡り。

観海寺:口碑に曰く、奈良時代・養老二年(元正天皇)約一二八〇年前仁聞菩薩始めて錫を此地に駐め温泉を拓き、諸々の病者して入浴せしめ後、丘に一宇を建立し観海寺と称す。當時一刀三?の薬師如来の尊像を彫刻し本尊仏となす。

とあり奈良朝、六郷満山を開いた僧、仁聞の開基とされております。

現在の観海寺は昭和13年に再興されたもので禅宗系・曹洞宗です。

新しい資料では豊後の国主大友宗麟の古文書が発見され、約440年前に当観海寺が有ったことが証明されました。

当寺には後白河法皇の第3皇女・式子内親王(百人一首和歌の名手)御墓や、幕末の有志二条義実公御墓・特攻撃隊憩翼の碑があります。

大山寺:

神護寺:

龍興寺:創建は延文3年(1358)大友七代泰氏が大野川をさかのぼった川添村に建立、高獄禅師を招いて開山した。

当初は大友氏の祈願所であったが、宗麟の重臣・吉岡宗歓が鶴崎に居城を構え、城下町を整備したとき龍興寺を近くの三軒町に移した。

元禄元年(1688)湛堂和尚が堂宇を再建、師の柏翁祖棟を請うて中興開山した。ついで大用素道和尚の代に弁財天をまつり、鎮守堂・地蔵堂など建立、壮大な伽藍美を誇ったが、その一方で河川の氾濫に悩まされていた。

降って、昭和7年にようやく大野川改修工事が行われ、龍興寺も現在地に移転することになったが、この間に歴史的事件が勃発した。
その一つが明治7年に起こった熊本藩士の仇討ち、また昭和の工場誘致にからむ割腹事件などもそうで、いずれも龍興寺が悲劇の舞台に利用されたという。

當陽寺:中世以降、大友氏が所領して戦国大名に成長、二十一代宗麟の代には、九州北部の六カ国を有す大大名となった。
当時の宗麟は、ポルトガルや明国と貿易、またキリスト教を信仰して、自ら洗礼名ドン・フランシスコと名乗った。

天正9年(1581)南国の覇者・島津義久の軍勢を迎えて宗麟は、自ら十字架の旗を座かせて日向国に出陣した。この道中、キリスト教を奉信する兵士のなかには、所在の社寺を破壊する者もあったという。

當陽寺もそうした輩に焼討ちされて、文書などを焼失した。創建は定かでないが、寛文年間(1661?73)河野九兵衛が再建して、丹生中村の庄屋・池見家の門を移した。

当時は、臼杵月桂寺の末に属す。

島津氏に敗退した宗麟は、天正元年(1573)家督を義統に譲り、臼杵城を築いて隠居した。同14年、島津軍の攻撃に遭って義統は、府内城を出て豊前竜王城に逃れた。當陽寺が焼討ちに遭ったのはこの戦か、世に「水丸合戦」ともいう。

河野九兵衛は、伊予河野氏の一族である。

臼杵:現在の臼杵の街並みは、美濃(岐阜県)から慶長5年(1600)に入封した稲葉氏によって築かれたもの。江戸時代は臼杵藩5万石の大名であった稲葉氏は、明治までの約270年間にわたって臼杵を統治した。

大きな特徴として挙げられるのは、臼杵城を中心に商家が立ち並んでおり、その外側を武家屋敷や寺院が取り囲んでいるところ。屋敷や記念館などを城の周囲を回るように散策してから、最後に臼杵城址へ行くのがおすすめだ。

臼杵(うすき)の城下町には、江戸時代の風情を残す細い道が残っています。そんな曲がりくねった道やカギ型通りなどを、ぶらぶらと歩くのが臼杵の楽しみ方です。歴史深き街の中でも、「二王座歴史の道」は特に雰囲気のある場所で、二王座は徳川3代目将軍・家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)が、一時住居にしたといわれます。石畳の路地に、白壁の武家屋敷や古い蔵、寺院などが軒を連ねています。

二王座にある「旧真光寺」は無料休憩所兼ギャラリーとして開放されており、2階から二王座歴史の道が一望できます。特に雨の日は、濡れた石畳が黒く光り、より風情を感じられる景色が広がります。

佐伯:バスターミナルのある大手前(大手門跡)から山際通りを通って養賢寺へと至る700メートルほどの道のりは、「歴史と文学の道」として整備されています。落ち着いた雰囲気のこの通りは、城下町としての街並みを残し、道沿いには豊後佐伯城で現存する唯一の遺構である「櫓門(やぐらもん)」などの歴史スポットに加えて、「国木田独歩館」や明治期のジャーナリスト・矢野龍渓の生家跡など、文学的な施設も並びます。

時間と体力に余裕がある人は、歴史と文学の道を少し外れて、豊後佐伯城の跡地である「城山」に足を運んで。ひっそりとした照葉樹林の中に残された石垣と、頂上から遠く四国の山々までを望む眺望は、散策の目的としてもおすすめできますよ。

豊後竹田:大分の玄関口であるJR『大分』駅から豊肥本線に乗って約1時間30分、大分県竹田市(たけたし)は人口約2万3000人の小さなまちだ。

小さいながらも観光資源は実に豊富で、かの作曲家・瀧廉太郎が『荒城の月』の構想を練ったとされる岡城の城壁が今も残されており、岡藩時代の繁栄ぶりを窺わせる城下町のまち並みには『武家屋敷通り』と呼ばれる石垣と土塀の路地が続く。また、近年では『竹田の隠れキリシタン』のミステリーが話題となり、全国からこの小さなまちに観光客が押し寄せている。

正平寺:崇竣天皇御即位元年(西暦587年)釈正覚上人が初め犬ヶ岳に長福寺を創立し、その後寺を当山に移し一寺を建立したのが当寺の開創である。

天平勝宝四年(752年)勅願所と定められ、以来山を「桧原山」、寺を「正平寺」と称するようになった。安和二年(969年)大講堂が建立され、以来、国府の所管するところとなり、鎮護国家の祈願道場として豊前山岳仏教の修験霊場として英彦山・求菩提山と共に隆盛をきわめた。

大字中畑、福土の二村が寺領であったが、黒田氏中津城主の時(1587年)米百石を附して没収された。細川、小笠原氏を経て、奥平氏に至り、山上における全ての堂宇の営繕を負担され、奥平富之進昌高氏は天明七年(1787年)上宮本堂を建立された。

明治初年正平寺を本寺として九ヶ坊の末寺を有したが、明治維新の変革により山林全部を国有林に編入され、明治11年3月庫裡消失、同21年山火事により上宮本堂を焼失したため、石龕三宇を建立して本尊を安置している。明治23年宗達により大分県下一円福岡県京都郡と併せて天台宗務支所となった。

明治29年、又不幸にして大講堂・鐘楼・みこし三体・当寺縁起、その他宝物一切を焼失し、現在の講堂は明治35年に復興したものである。平成13年、県下最大の梵鐘が復興された。

県指定無形民俗文化財である「お田植祭」は神仏習合の名残をいまに伝える貴重な行事である。


長安寺:

岩戸寺:

17:00大分空港に向かう。
18:00大分空港到達。
19:30大分空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の大分県に足を運び、大分県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所、重要伝統的建造物群保存地区3か所臼杵、佐伯、豊後竹田を訪れ楽しみました。
霊場は今回もそれほど大きくなく中規模で地味でした。
重要伝統的建造物群保存地区は何回か訪れたことがあり再確認できました。
今回で九州四十九院薬師を無事制覇しました。
 



















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九十弾:大分県小京都&重要伝統的建造物群保存地区&お城・城下町巡り観光
2017年2月4−5日
   

九州の源頼朝に守護を任じられた大友氏が長く治め、南北朝の内乱が終息したころ、大内氏が九州に進出し豊前守護となり、両者は対立するが、大内氏が胸氏の謀反などで衰退し、大友氏が掌握した大分県に足を運び、比較的マイナーなお城5か所、重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

4日15:00伊丹空港出発。
15:55大分空港到達、レンタカーで城めぐり。

国東半島巡る。

安岐城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に飯塚城主の田原親幸によって築かれたと云われる。
室町時代の田原親宏は一時豊後から追放されており、大友宗麟のときに帰参が許されると国東郡安岐郷を与えられた。このとき安岐城が拠点として整備された。
天正8年(1580年)田原親宏の跡を巡る家督争いで、大友宗麟が次男親家に田原家の家督を継がせようと画策した。親宏の養子であった田原親貫は毛利氏などに援軍を求めてこれに対抗し、安岐城でも田原氏と大友氏で激戦が繰り広げられたが城は大友氏によって落城した。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉によって大友義統は改易となり、一万五千石が熊谷直陳に与えられ安岐城主となった。この熊谷氏の時代に近世城郭に改修された。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では熊谷直陳に西軍に属して美濃国大垣城を守っていたが、内応によって落城し直陳は討たれた。

富来城:弘長元年(1261年)富来忠文あるいは正安元年(1299年)富来忠政によって築かれたと云われる。
富来氏は代々大友氏に仕えるが18代実直、実信父子は耳川合戦で戦死、19代鎮久は朝鮮の役で戦死するなど衰退した。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉は大友義統を改易とすると、垣見家純に二万石を与えて城主とした。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で垣見家純は西軍に属して美濃国大垣城を守っていた。このとき、豊後国では石垣原合戦で大友氏を下した黒田孝高がその勢いに乗じて富来城を包囲したが、留守を守る垣見理右衛門は城を固く守り落城しなかった。しかし、家純が守っていた大垣城は東軍に内応した諸将が出て落城、家純も討死した。この急報を聞いた理右衛門は開城降伏した。

田原城:

18:00豊後高田方面に向かう。
19:00豊後高田市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日7:30レンタカーで出発、城、重要伝統的建造物群保存地区巡る。

豊後高田:大分県豊後高田市は、古い時代が息づく町。
千年の時を越えて受け継がれてきた美しい自然、六郷満山(ろくごうまんざん)文化の歴史が織り成す豊かな風土、古い町並みや伝統行事など、古き良き時代を知り、触れることができる町です

高田城:建久7年(1196年)高田掃部介重定によって築かれたと云われる。 高田氏は大友氏の豊後下向に随従してきたという。
文禄2年(1593年)豊臣秀吉は大友義統を改易し、美濃国長松城主竹中重利(重隆)に一万三千石を与えて高田城主とした。重利は竹中半兵衛の従兄弟にあたり、この竹中氏の時代に城が拡張された。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で重利は西軍に属して近江の瀬田橋の警固を務め、その後丹後国田辺城攻めに加わったが、黒田官兵衛の誘いに応じて東軍に寝返り、戦後所領を安堵された。
翌慶長6年(1601年)重利は三万五千石で府内に転封となり、寛永16年(1639年)豊前国龍王から松平重直が入封する。
正保2年(1645年)重直は木付に転封となり寛文9年(1669年)丹波国福知山の松平忠房が肥前国島原に転封となると飛領地として豊州陣屋が設けられた。

真玉城:文和2年・正平8年(1353年)真玉重実によって築かれたと云われる。 それ以前に在地豪族の大神系真玉氏が居たが、文和2年に大友氏一族の木付頼重が兄頼直より真玉荘七十町を譲られ大友系真玉氏の祖となった。
天正18年(1590年)真玉氏9代統寛は豊臣秀吉による小田原城攻めに参陣するため竹田津港に向かう途中で家臣山田兼佐の謀反により落命。これによって真玉氏は滅亡した。

中津に向かう。

中津:大分県の中津は歴史を感じることができる町である。江戸時代の城下町を再現した町並み、幼少の福沢諭吉が過ごした家などが存在する。

日田に向かう。

日田:日田市は、北部九州のほぼ中央、大分県の西部に位置し、福岡県と熊本県に隣接した地域です。また、周囲を阿蘇・くじゅう山系や英彦山系の美しい山々に囲まれ、これらの山系から流れ出る豊富な水が日田盆地で合流し、筑後・佐賀平野を貫流しながら、流域住民と福岡都市圏住民の生活や産業を潤しています。さらには、古くから北部九州の各地を結ぶ交通の要衝として栄え、江戸時代には幕府直轄地・天領として西国筋郡代が置かれるなど、九州の政治・経済・文化の中心地として繁栄し、当時の歴史的な町並みや伝統文化が、今なお脈々と受け継がれています。

別府に向かう。

鉄輪温泉:日本1位の湧出量を誇る別府では、408本のゆけむりが出ており、その大半を鉄輪がある鉄輪地区が占めています。

杵築に向かう。

杵築:大分県の北東部に位置する杵築市は杵築城や武家屋敷跡など、歴史的な景観を今も残している城下町で、南北の高台には武士が、その谷あいには商人が住んだという日本唯一の「サンドイッチ型城下町」ともいわれています。「

15:00大分空港に向かう。
15:30大分空港到達。
16:25大分空港出発。
17:20伊丹空港到達。

今回の旅行、九州大分県に足を運び、比較的マイナーなお城5か所、重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れ楽しみました。
お城に関しては今回も地味で際立ったものはなかったが重要伝統的建造物群保存地区はそれぞれ個性があり散策して楽しむことができました。
豊後高田は小さなレトロな商店街、中津は中津城を中心に周囲にお寺、武家屋敷が点在する城下町、日田はエリアも広く現在も活気があり観光客も多いビッグなレトロの商店街、鉄輪温泉は日本一温泉量の多い温泉町、杵築は杵築城を中心として二つの高台に武家屋敷が点在し、谷は商人の町、それぞれ特色があり個性的な重要伝統的建造物群保存地区巡り堪能しました。












 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十八弾:大分県お城・城下町巡り観光
2016年2月20ー21日

九州に足を運び、豊後は源頼朝に守護を任じられた大友氏が長く治め、南北朝の内乱が終息した頃、大内氏が九州に進出し豊前守護となり、両者は対立するが、大内氏が陶氏の陰謀などで衰退し、大友氏が掌握した大分県を訪れ、比較的マイナーなお城12箇所を巡りました。

20日18:00伊丹空港出発
19:00大分空港到達、レンタカーで別府に向かう。
18:05別府駅前のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。

21日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

高崎城:築城年代は定かではない。建久2年(1191年)大友能直が豊後国守護職に任ぜられ、その先発隊が豊後へ入国しようとした所、在地豪族の阿南惟家が高崎山に陣取ってこれに抵抗したことが知られ、高崎山城の初見とされる。
正平14年・延元4年(1359年)には大友氏時によって本郭的な城が築かれており、南朝方勢力と戦った。これ以降、大友氏の詰城として利用された。
永正15年(1518年)朽網親満が反乱を起こして高崎山城に立て籠もったが、大友義長によって鎮圧された。
天正14年(1586年)大友義統が戸次川の戦いで島津軍に敗れると、一旦高崎山城に入城したが、ここからさらに豊前国龍王城へ退いている。

大友館:築城年代は定かではないが大友氏によって築かれたと云われる。 大友氏は相模国大友荘を本貫地とする一族で初代は大友能直である。大友氏が豊後に下向したのは三代大友頼康の頃と云われ、その後豊後に勢力を拡げていく。第二十代大友義鑑は嫡男義鎮を廃嫡して側室の子塩市丸を寵愛したため、天文19年(1550年)大友館にて家臣に殺された。大友館の二階で就寝中に襲撃されたことから「二階崩れの変」と呼ばれている。家督を継いだのがキリシタン大名として著名な大友宗麟となる義鎮で、豊後を中心に豊前・筑後・肥後など九州に勢力を拡げた。 天正6年(1578年)島津の侵攻に耐えきれず、豊後の大友氏を頼ってきた日向の伊東義祐の嘆願を受け、大友軍は日向へ侵攻する。日向の高城攻め、そして耳川合戦で島津氏に大敗を喫した大友氏はこの戦いで多くの家臣を失い、その後は勢力を失う。天正14年(1586年)には島津氏に豊後へ攻め込まれて焼き打ちにあい、宗麟は豊臣秀吉に支援を要請することとなる。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐により島津氏は降伏し、大友義統は豊後一国を安堵された。しかし義統は文禄の役で鳳山城を破棄して敵前逃亡した罪により改易された。

佐伯方面に向かう。

栂牟礼城:築城年代は定かではないが大永年間(1521年〜1528年)に佐伯惟治によって築かれたと云われる。 豊後の佐伯氏は豊後大神氏の一族で平安時代から続く名族である。
佐伯氏十代当主が佐伯惟治で、大永7年(1527年)大友義鑑から謀叛の嫌疑を掛けられ討伐軍を送られた。大友氏の討伐軍は臼杵近江守長景を大将とした二万余りの軍勢で、惟治は栂牟礼城に籠もってこれに応戦した。堅城であった栂牟礼城を攻め落とせなかった長景は一計を案じ、惟治に一時日向へ立ち退いた後、大友義鑑に申し開きをして許しを得るのが得策と説得、惟治はこの案に乗ってわずかな手勢を率いて日向へ落ちる途中、長景に通じていた土民によって討ち取られてしまった。
天正6年(1578年)耳川の合戦で大友氏は島津軍に大敗を喫し、佐伯惟教、惟真、鎮忠などが討死し、家督は惟真の子の佐伯惟定が継いだ。惟定は、天正14年(1586年)豊後に侵攻してきた島津軍を堅田合戦で退けると、朝日嶽城の守将で島津方に寝返っていた柴田紹安の居城である星河城を攻め落としてその妻子を捕縛し、翌天正15年(1587年)には島津方の土持親信が守る朝日嶽城の奪還に成功している。
文禄の役の後、主家である大友義統が除封となると、佐伯惟定もまた所領を失いこの地を去った。惟定は後に藤堂高虎に仕え、子孫は伊勢国津藩藤堂家に仕えて代々続いた。

日田方面に向かう。

森陣屋:慶長6年(1601年)来島長親(康親)によって築かれた。 関ヶ原合戦の後、長親は伊予国来島城から豊後国森に転封となり、2代通春の時、久留島と改めた。
森藩は一万四千石で城主格ではなかったため、角牟礼城を廃し南麓に陣屋を築いた。
天保8年(1837年)通嘉の時、三島神社の改築として陣屋を城郭風に改修し天守の代用とも云われる茶亭の栖鳳楼を建て現在の状態になった。

角牟礼城:築城年代は定かではない。史料に最初に登場するのは『志賀家文書』の文明7年(1475年)であることから、これ以前に築かれていた。
角牟礼城は玖珠郡衆の一人森氏の詰城として築かれたものであるが、後に玖珠郡衆の番城となった。天正15年(1587年)島津軍の北上に対して玖珠郡衆は角牟礼城に籠城して戦い島津の攻撃を防いで落城しなかった。
文禄2年(1593年)大友義統が改易となると毛利高政が入封した。この毛利時代に石垣造りの近世城郭へと改修されていった。
関ヶ原合戦後、毛利高政は佐伯に転封となり、黒田氏を経て慶長6年(1601年)来島長親が伊予国来島から入封すると、久留島陣屋を築き廃城となった。

日隈城:文禄3年(1594年)宮城豊盛(宮木長次郎)によって築かれたと云われる。 豊後の大友義統が改易となった後、豊臣秀吉の蔵入地となった豊後の日田郡と玖珠郡の管理を宮城豊盛が支配し、五千石を賜った。このとき、築いたのが日隈城である。
慶長元年(1596年)毛利高政が二万石の所領を賜って日隈城に入り、五重の天守を備えるなど城を改修した。関ヶ原合戦後、毛利高政は二万石で佐伯に移ったが、引き続き蔵入地の管理を任され毛利隼人佐が代官として在地した。寛永16年(1639年)天領となった日田地区の代官所は月隈城へと移り廃城となった。

月隈城:慶長6年(1601年)小川光氏によって築かれた。 関ヶ原合戦後、光氏が入封し古城を改修して丸山城と改め居城とした。
元和2年(1616年)美濃国大垣より石川忠総が六万石で入封すると永山城と改称したが、寛永10年(1633年)下総国佐倉に転封となり、豊前国中津藩小笠原長次と豊後国杵築藩小笠原忠俊に分割して預けられ、寛永16年(1639年)再び天領となった。
天和2年(1682年)播磨国姫路から(越前家)松平直矩が七万石で入封、このとき山上は破棄され麓に館を築いたが、完成を待たず出羽国山形に移封となった。 その後は再び天領となり小川氏が代官となった。

耶馬溪方面に向かう。

長岩城:建久9年(1198年)野仲重房によって築かれたと云われる。 重房は豊前国守護宇都宮信房の弟で、下毛郡野仲郷を分与され野仲氏を名乗った。
南北朝時代に野仲道棟・道春父子は北朝方として高勝寺城を攻め、永正5年(1508年)野仲興道は周防国大内氏とともに上洛し、船岡山合戦に参陣した。
戦国時代には大内氏に属すが、大内義隆が陶晴賢に討たれ大友宗鱗の弟晴英が大内義長と改名して大内氏を継ぐと、大友宗鱗が豊前に勢力を伸ばす。 この時野仲重兼は籠城して大友氏と対したが降伏、大友宗鱗はその武勇を賞して"鎮"の字を与え、野仲鎮兼と称した。
黒田氏が中津城に入封すると、野仲氏はこれに従わず、後藤又兵衛を先陣とした黒田長政に攻められ落城、野中氏は滅亡した。

中津方面に向かう。

光岡城:貞和6年・正平5年(1350年)赤尾次郎左衛門種綱によって築かれたと云われる。 赤尾氏は筑前の原田氏の一族で、足利尊氏から吉田村の地頭職に補任された。
代々大内氏に属しており、文明年間(1469年〜1487年)に吉田村を赤尾村に改めたという。
弘治2年(1556年)大友氏に降り、永禄9年(1566年)高尾城を落とし麻生氏を滅ぼした。 しかし、大内に属する土井城の佐野親重と時枝城の時枝平大夫によって攻撃され、赤尾統秀の次男行種は豊後へ逃れたが、それ以外の一族は討ち取られた。

立石方面に向かう。

立石陣屋:寛永19年(1642年)日出藩初代木下延俊が没し二代俊治が家督を相続すると、父延俊の遺言により弟延次(延由)に五千石が分与され旗本となった。
日出藩初代木下延俊の父家定は豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の兄である。 本来の遺言は一万石を分与であったものの、家老長沢市之亟が五千石にしたと伝えられる。 日出藩はわずか三万石で、このうち一万石を分与するのは過分であることなどから、延次が豊臣秀頼の遺児豊臣国松ではないかという説もある。
日出藩分家立石木下家は寛文4年(1664年)正式に旗本交代寄合と認められ、十一代続いて明治に至る。


杵築方面に向かう。

日出城:慶長6年(1601年)木下延俊によって築かれた。縄張は義理兄である豊前国小倉藩細川忠興によるものである。
木下延俊の父は備中国足守藩主となった木下家定で豊臣秀吉の正室高台院の兄にあたる。家定の三男が延俊で関ヶ原合戦の時の所領はわずか五百石であった。関ヶ原合戦で正室加賀の兄細川忠興に従って東軍として丹波国福知山城攻めに加わり、速見郡内にて三万石余が与えられ日出藩となった。
寛永19年(1642年)二代俊治が家督を相続すると、父延俊の遺言により弟延次(延由)に立石領五千石が分与され、日出藩は二万五千石となり、以後十六代続いて明治に至る。

17:30大分空港に向かう。
18:00大分空港到達。
19:30大分空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州に足を運び、温泉、観光名所、盛りたくさんの大分県を訪れ、車で12箇所の比較的マイナーなお城を巡り楽しみました。
自然有り、歴史的建造物あり、多くの観光名所を身近に車で走行してのお城巡り堪能しました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四弾:九州八十八箇所巡り第二弾観光  2015年3月7−8日

南の九州に足を運び九州の新四国、弘法大師空海が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地、九州八十八箇所の第二弾、大分に位置する17箇所をめぐりました。

7日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:58小倉駅到達、レンタカーで中津方面に向かう、途中霊場を巡る。

阿弥陀院:阿弥陀院は、今より百年前の明治二十八年十二月十日、京都市伏見区の総本山醍醐寺から、北九州の小倉へ移転してきました。  もとは承久元年(1239)醍醐寺山内に建立された塔頭寺院で、後白河天皇の長女覲子内親王、宣陽門院の御願により、成賢座主が開山されたお寺です。後の文正二年(1467)に起こった応仁の乱の折には、醍醐寺も戦火に巻き込まれて、衰退の一途をたどりました。しかしながら慶長年間には、座主義演僧正に帰依していた豊臣秀吉の力によって、醍醐寺は再建されます。阿弥陀院もこの時に再び法灯を回復し、本山護持の務めを果たしています

徳泉寺:大正8年、「佐伯心海」師が、その師「慈航和尚」の命により「延命地蔵菩薩」を本尊として、北九州に「大光坊」を開いたのに始まります。  その後、「高野山真言宗 大師協会戸畑市部・大光坊」となり、昭和12年に現在地(北九州市戸畑区千防1丁目)に移転して「延命山・徳泉寺」と寺号公称し、現在にいたります。

不動院:寛元2年(1244)下総前司藤原親房が鎌倉幕府の命により平家の残党鎮圧のため豊前代官職を帯びて西下。 建長7年(1255)姓を『門司』と改め現在の古城山を本拠とした。 このとき長野郷より吉志・伊川・大積 蒲生郷より片野・柳・楠原の3郷を拝領し『門司』6ヶ郷の称がおこった。 門司氏は南北朝時代には、一族二派に分かれ骨肉相食む事となる。 その後門司半島は大内・毛利・大友の交戦場となったが、門司氏は勢力劣弱のためしばしば苦境に立った。 天正15年(1587)より毛利(勝信)・慶長5年(1600)より細川(忠興)・寛永9年(1637)より小笠原(忠直)の各小倉に交代治政された。

真光寺: 延応元年(1239年)、阿聖(あしょう)上人が全国を巡錫砌、貫山に紫雲棚引くのを見て、貫山が霊山であると感じて 庵を結んだのが「貫山真光寺」の始まりである。その后、中国地方の「大内」氏の豊前進行に当たり、真光寺に本陣を置いた。
 しかし、その戦いで伽藍を全焼、戦勝の「大内」氏は中忠左衛門(なか・ちゅうざえもん)を復興奉行とし、伽藍を再興し、 「大内」氏の豊前の祈願寺となった。以後、下寺35坊と言われるほどに隆盛を極めた。
 江戸時代に入り「小笠原」氏が豊前の領主となり、真光寺は「小笠原」氏の祈願寺となった。 それにより「修善院」を送られ、「貫山修善院真光寺」となり、寺紋は「大内菱」から「三階菱」となった。
 慶応二年(1866年)の小倉戦争で長州の奇兵隊等の攻撃に会い、またも伽藍を焼失した。 その後、残った小堂を仮本堂として、本尊阿弥陀如来を始め焼け残った仏像をお祭りし今日に至っている。

18:30中津駅前のホテル到着後駅前の居酒屋で食事を済ませて就寝。
8日7:00レンタカーで出発、大分に位置する霊場を巡る。

普門院:町の中の寺院には珍しく緑の中に鎮まった寺院で、樹木に囲まれた中に本堂がございます。この本堂は江戸時代の建築で、とても趣のある本堂です。ご本尊は如意輪観世音菩薩と申しまして、私たちの願いを「意の如く」かなえて頂ける御本尊様で、秘仏でございます。
毎年8月9日の千日観音は一日で千日参拝したのと同じ功徳があるといわれており大変賑わいます

三明院:弘法大師ご入定1150年を契機として仏門に帰依した現住職が今道心を志し、開山英明和尚は宮嶋弥山に50日間五穀断ちの「求聞持秘法」という真言密教の究極を極める行に挑み、艱難辛苦に耐えてこれを成満した際、生家である現在の地に大観音の光明がさし、八十八体の弘法大師の並ぶ夢告を得て以来、秘鍵大師を勧請し、自然林の中に八十八体の大師像を配置し、お砂踏み霊場を建立した。本堂には十一面千手観世音菩薩と、護摩堂の不動明王は英明和尚の実父実夫氏が脳溢血で倒れたとき既に心臓も停止していた体を和尚の修法中明王自身が二つに割れて実父の生命を復活させたことから身代わり不動として信仰を集めている。現在、境内は四千坪の敷地があり、そこには師の祈りを彷彿とさす堂宇が幾つか建立されている。ひたすら弘法大師の教えを実践する寺風が感じられるお寺です。

神護寺:境内には山岳寺院の雰囲気があり、二滝の心地よい音が響いております。また数多くの石仏が点在しておりますが、そのなかでも特に大きな石造は釈迦涅槃像です。長さが9メートルあり境内の石に直接彫られております。8月16日の夜には八面山祭りがおこなわれ、約二千本の燈明が境内と近くの平和公園にともされます

大楽寺:宮中と呼ばれる宇佐の小盆地南宇佐に位置する大楽寺は、医王山を背にした段丘にあり眼前には神領の社を臨むことができる。
宇佐市内では宇佐八幡宮に次いで貴重な史跡であり、数多くの文化財が護持されている。
また近年では、厄除け開運祈願のお寺として信仰を集めている。

光明院:光明院は江戸時代、杵築城主、松平英親公が杵築藩の裏鬼門除けにと正保2年(1645年)に不動明王を安置し、専ら祈祷三昧であったが、享保年中に至って、三代城主松平重休公の庇護を蒙 り堂舎が建立されて祈祷道場となった。 当時は本堂・護摩堂・諸堂・金比羅権現・門等があり寺跡一町近くありましたが、明治初期の廃仏毀釈にあい廃寺同然になりましたが、後に浅野順理住職により復興している。  当院護摩堂は、普通の木造ではなく、巨大な岩山の下に開いた洞窟の中に、諸尊が安置されている。 本尊の不動明王は本堂に祀られている。境内の洞窟にある護摩道場には不動明王をはじめとする五大明王が祀られている。大師堂には弘法大師、聖寶理源大師が祀られている

蓮華寺:有名な“別府温泉”の隣町にあり、お城の下の海で採れる魚「城下カレイ」が有名な町で、歴史と文教の城下町である。
寺の門前からは、お猿の高崎山、別府湾が望まれる。
寺の由緒、歴史は古く、旧日出藩主の祈祷寺として栄えたお寺である。
本尊「千手観音」及び「涅槃図」は県の文化財に指定されている。
庫裡には、樹齢400年のサツキの庭園があり5月初旬が見頃である。
平成19年4月に、庫裡、檀信徒会館が新築され、「生涯学習の寺」として一般開放されている。

金剛頂寺:当院は、大同元年(西暦806)唐よりご帰朝された弘法大師が、博多の地に留まられたおり、当若杉山に登られ鎮護国家・救世利民の祈願を施された時に庵を結ばれた地に建つお寺です。 かつては、百八僧坊を構え金堂・宝塔・宝蔵・鐘楼などの諸堂が甍を並べるほどに隆盛を極めていました。この地には伝教大師を始め慈覚大師・智証大師・理現大師・常暁上人などの多くの高僧が訪れています。 当時、金剛頂院のある若杉山は右谷・左谷に分かれて三百の僧坊が建ち並んでいたといわれますが、貞和3年(西暦1347)山内に戦乱が起こり、聖地は焦土となってしまいました。現在の金剛頂院は昭和17年に再建されたものです。

福寿院:『福寿院と豊後府内藩』豊後府内藩が成立したのは文禄3年(1594年)将軍徳川家綱の命を受け松平忠昭が万治元年(1658年)6代目府内城主として転封したため、松平家の祈願所であった福寿院もじょうない三の丸に移したという。

賢龍寺:今を去る約500年前、京の僧が「愛宕将軍地蔵尊・不動明 王」の両尊を奉して寺を建立し、両尊を安置して「妙光寺」 と号した。その後、兵火のため伽藍は焼失したが、幸いにも 本尊二尊は時の僧円浄法印により搬出され、この難を免れた。 以後は少庵を建て安置したが、時移り世が変わるに従い衰微 し、今から約、350年前 御西天皇の明暦元年(江戸時代 前期1655年)七月、円峯法印が寺の復興を計り堂宇を建 立して、賢龍院法船寺と寺名を改称し、中興開山した。時の 経るにしたがい荒廃した。今を去る200年前、光格天皇の 天明元年(江戸時代後期1781年)に宥玄法印が深く嘆き、 現在の地に移転、中興開山となり現在に至っている。

蓮城寺:三重町から宮崎県北川町に通じる国道326号(日向街道)沿いの三国峠に入る山すその静かな内山地区に蓮城寺(れんじょうじ)はあります。この蓮城寺にはたくさんの薬師像が安置されているため、本尊千手観音にちなみ通称「内山観音」と言われています。蓮城寺は高野山真言宗の寺で、この寺の歴史は古く寺伝によれば、欽明天皇の15年(546)に中国の天台山から渡来した僧蓮城が開山、真名野長者(炭焼小五郎)が寺を建立したといわれている豊後国最古の寺です。
 観音堂には本尊の千手観音、薬師堂には京都三十三間堂と並ぶ998体の薬師像が安置されています。また、山の山腹には高さ22mの巨大な般若姫像が建っており、町のシンボルとなっています。
 この近辺は桜の名所としても知られており、秋の紅葉もきれいな場所です

大日寺:大日寺は檜枝淳心尼が久留米の長門石の地で、昭和六十年に開山された寺であります。 本尊を大日如来とし、不動明王、文殊菩薩、弘法大師、地蔵菩薩が本堂にお祀りされております。
設立当時ののどかな田園地帯が、年々宅地化され、現在は、住宅街にたたずむお寺となっておりますが、 「大日寺の東方には高良大社、西方には千栗八幡宮があり、本尊の大日如来様は、東の高良退社・耳納連山からの 素晴らしい朝日を毎朝全身に頂かれ、その後方は素晴らしい沈む夕日の千栗八幡宮に守られていて、親子大社の ありがたい位置に座せられており、この位置から動かれることはなく、どのような困難を強いられても、又、宅地化が 進み、寺の周りがどんなに住宅が密集しようとも、本堂をこの位置から動かすことはできない。」という 淳心尼の信念に基づき現在まで引き継がれております。

海岸寺:高速道路を下ると3q(約5分)で着きます。静かなお寺です大師堂には、九州で有数の大きなお大師様が迎えてくれます。醍醐の教え実修実証を守り、厄除や交通安全、水子供養等の各種の祈願を修す山伏の寺です。寛政元年に臼杵藩の祈願寺となり、藩主やその一族、特に奥様方がお参り下さいました。

興山寺:興山寺の歴史は真言宗総本山高野山から始まっている。天正13年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めにより、兵火が高野山に及ぼうとしたとき、秀吉と直談判して山を守った人物が、木喰応其上人である。その後応其上人は青巌寺と興山寺を創建して山内の中心伽藍とし、さらに諸堂を再建した。 明治になって興山寺は青巌寺と併合され、金剛峯寺と呼ばれるようになった。由緒ある興山寺の名前が消えることを惜しんだ山縣玄浄僧正が、稲葉氏の協力を得て臼杵に寺号を移し、興山寺がこの地で再興された。 境内の奥まったところに本堂と庫裡が並んでいる。宝造形の本堂に安置された本尊、無量寿如来は秘仏のため直接拝することはできない。境内には多くの石仏が点在している。

16:30博多駅到達。
16:48博多駅新幹線のぞみで出発
19:25新大阪駅到達。

今回の旅行、九州八十八箇所巡り、第二弾、大分に位置する霊場17箇所を巡り楽しみました。
前回に続いて、小ぶりの寺院が多いが、案内板がしっかりしており、迷わず辿り着けることが出来ました。
次回は宮崎に位置する霊場を訪れる予定です。


  















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十弾:大分県沖離島深島&佐伯&臼杵観光
2013年10月26−27日
 

九州の東に位置する大分県に足を運び、大分県最南端で、島の周囲は入り江や岩礁がたくさんあり磯釣りのポイントがたくさんある蒲江沖離島深島と城下町の風情を残す街並みがある佐伯・臼杵のお城を巡りました。 

26日14:00伊丹空港出発
15:00大分空港到達、レンタカーで津久見に向かう。
17:00津久見到達、市内のホテル到着後食事を済ませて就寝。
27日6:00レンタカーで出発、蒲江に向かう。
7:05蒲江港到達。
7:30蒲江港定期便で出発
7:30深島到達、散策。

蒲江港から約9km南に位置する島。大分県では最南端にある島。面積1.10km2、周囲4.0km。人口36人(2000年国勢調査)。全域が日豊海岸国定公園に指定されている。南部と北部の2つの島が中央の砂州で結ばれ、全体としてひょうたん形をしている。集落は島の中央のくびれた部分にある。北方約7kmのところにある屋形島との間にはサンゴ礁が発達しており、島の沿岸部2箇所が海中公園に指定されるなど、ダイビングのメッカとして有名。また、国の天然記念物であるカラスバトの生息地でもある。クロダイ、ハマチ、ブリなどの磯釣りのポイントとしても知られる。深島かまど白みそという白みそが名産である。

12:32深島定期便で出発
13:00蒲江港到達、レンタカーで佐伯に向かう。
佐伯城散策する。

日田から転封された毛利高政が、1606(慶長9)年に築城し、以後、毛利氏十二代の居城となった。現在は、本丸、二の丸、北の丸などの石垣や、三の丸の立派な楼門が残る。本丸跡に国木田独歩の碑が立つ。

国木田独歩館を訪れる。
臼杵に向かう。
臼杵城を訪れる。

弘治2年(1556)ごろ、東九州一円に絶大な権勢を誇ったキリシタン大名・大友宗麟によって築城された城。四方を海に囲まれた海城だったが、その姿から巨亀城ともよばれた。現在は埋め立てにより陸続きとなっており、江戸時代より残る畳櫓と卯寅口門脇櫓に加え、大門櫓が復元されている。城跡内には宗麟の晩年の姿を描いたブロンズ像やレリーフがある。ポルトガルから贈られた日本初の大砲・国崩しのレプリカは必見。春は桜の名所としても知られている。

16:00大分空港に向かう。
17:30大分空港到達。
18:50大分空港出発。
19:45伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の東に位置する大分県に足を運び、蒲江沖の離島深島と城下町である佐伯と臼杵のお城を巡り癒されました。

台風が過ぎ去ってからの大分旅行、天候もよく、絶好の観光日和、のどかな離島深島を気持ちよく散策ができました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百三弾:大分県津久見&佐伯&臼杵&離島観光
2012年8月25ー26日
   

九州大分県に足を運び、リアス式海岸の恵の豊かな海辺の町、マグロ遠洋漁業やミカンの栽培が盛んな津久見、佐伯城址の城山を中心とし、武家屋敷や白壁の土塀が続く城下町佐伯、大友宗麟が築いた臼杵城を中心とした南蛮文化の名残りが残る石畳の城下町臼杵、豊後水道に点在する離島、保戸島、大入島、屋形島を訪れました。

25日18:00伊丹空港出発
19:00大分空港到達、レンタカーで津久見に向かう。
20:30津久見市内のホテル到達、就寝。

26日6:00レンタカーで出発、蒲江方面に向かう。
7:12蒲江港到達
7:30蒲江港定期船で出発
7:40屋形島到達散策。

ホタテと同様に主として貝柱を食用にする緋扇貝の養殖が盛んで、赤、橙、黄、紫等の鮮やかな色の貝殻を作った工芸品や装飾品も作られている屋形島を散策する。

8:20屋形島定期船で出発
8:30蒲江港到達、レンタカーで佐伯に向かう。

9:15佐伯港カーフェリーで出発
9:22大入島石間港到達、レンタカーで島をめぐる。

神武天皇が東征の折、日向泊の海岸に立ち寄った際、折弓を突き立て「水よ、い出よ」というと、清らかな水が湧き出したという伝説が残っている。今でも真水が湧いています神の井を訪れる。

10:00大入島石間港カーフェリーで出発
10:07佐伯港、佐伯市内をレンタカーで観光する。

「武蔵野」、「忘れえぬ人々」などで知られる明治を代表する作家・国木田独歩。かつて暮らした母屋や土蔵、城山へ続く武家屋敷らしい風情を残した庭が開放されており、映像や写真で、生い立ちや明治時代の佐伯の情景を知ることができる国木田独歩館を訪れる。

津久見方面に向かう。

11:10津久見港到達
11:20津久見港マリンスターで出発
11:45保戸島到達、散策する。

津久見港から約14kmの豊後水道に浮かぶ島で、周囲4km、面積0.86ku。人口約1,000人の島。明治中頃に始まったマグロ漁業で、現在も一大マグロ船基地として日本各地でマグロを水揚げしています。島は平地が少なく、海岸から山への傾斜面に3,4階建ての住居が林立しており、外国の漁港を思わせる景観の保戸島を訪れる。

島の守護神として京都上賀茂神社から別雷神が勧請された。天文4年(1535)の創始と伝えられる上賀茂神社を訪れる。

12:50保戸島マリンスターで出発
13:15津久見港到達、臼杵方面に向かう。

14:00臼杵到達、散策する。

小説『海神丸』『迷路』『秀吉と利休』など数々の作品を発表し、99歳で亡くなるまで現役作家として活躍した野上弥生子。生家の一部が文学記念館として一般公開され、その足跡を辿ることができる。遺品や著作、約200点を展示。幼少時代の勉強部屋も復元されている野上弥生子文学記念館を訪れる。

1562年(永禄5)、東九州一円に絶大な権勢を誇ったキリシタン大名・大友宗麟によって築城された城。四方を海に囲まれた海城だったが、その姿から巨亀城ともよばれた。現在は埋め立てにより陸続きとなっており、江戸時代より残る畳櫓と卯寅口門脇櫓に加え、大門櫓が復元されている。城跡内には宗麟の晩年の姿を描いたブロンズ像やレリーフがある。ポルトガルから贈られた日本初の大砲・国崩しのレプリカは必見。春は桜の名所としても知られている臼杵城跡(臼杵公園)を散策する。

江戸時代、稲葉氏五万石の城下町として栄えた場所。格式の高い武家屋敷が多く残り、凝灰石の石畳や長屋門などが立ち並ぶ。祇園社の仁王門があったことから名付けられたという「二王座歴史の道」付近には、徳川家光の乳母・春日局が親類筋の稲葉氏を頼り3年ほど住んでいたと伝えられている。周辺には善法寺や法音寺など30近い寺院が集まる二王座界隈(二王座歴史の道)を散策する。

15:00大分空港に向かう。
17:30大分空港到達。
19:30大分空港出発。
20:25伊丹空港到達。

今回の旅行、九州大分県に足を運び、城下町で栄えた佐伯、臼杵、マグロ遠洋漁業やミカンの栽培が盛んな津久見、豊後水道に点在する離島、保戸島、大入島、屋形島を訪れ癒されました。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十弾:大分県別府&湯布院&宇佐・豊後高田観光
2011年4月16ー17日


九州大分県に足を運び、全国屈指の温泉地、地球上に存在する全11種類の泉質のうち、10種類があり、市内には8つの温泉地、地獄巡りも有名な別府、由布岳の麓に広がるのんびりとした風情を残しつつ、人気の温泉地である湯布院、全国に4万社余りある八幡社の総本宮の宇佐神社が位置する宇佐、昭和の町として有名なレトロな雰囲気が漂う豊後高田を訪れました。

16日19:55大阪南港コスモフェリーターミナルをさんふらわで出発
17日7:45別府港到達
8:00レンタカーで別府巡り

国道10号沿いの別府のシンボル。17階の展望台からは東に別府湾、南西に別府の繁華街を見渡せ、夜景スポットでも有名。登録有形文化財の別府タワーを訪れる。

地獄とは、地下200m以上から100度前後の噴気、熱泥、熱湯を噴出する源泉のこと。別府地獄組合に所属する、海・鬼石坊主・山・かまど・鬼山・白池・血の池・龍巻の計8地獄を一巡するのが一般的。代表的な海地獄は、涼しげなコバルトブルーだが湯温は98度。龍巻地獄は、一定の間隔で熱湯が勢いよく噴き出す間欠泉だ。血の池地獄の真っ赤な池の色の正体は酸化鉄で、噴気までが赤みを帯びて見えるべっぷ地獄めぐりする。

由布院に向かう。

湯布院で最も賑やかなエリアにある金鱗湖は、湖底の一部から温泉と水が涌くといわれる不思議な湖。かつては由布岳の麓にあったことから「岳本の池」と呼ばれていたが、1884年(明治17)に儒学者の毛利空桑[もうりくうそう]が、湖の魚の鱗が夕日に輝くのを見て「金鱗湖」と名付けたと伝えられる。澄んだ湖面からは、小魚が泳ぐ姿が見られる金鱗湖を訪れる。

1960年(昭和35)、湯布院で42年の生涯を閉じた放浪の詩人画家・佐藤渓の作品と万華鏡を常設展示する由布院美術館を訪れる。

音楽にまつわるアートを集めたユニークなミュージアム。常時音楽が流れる館内には、アンディ・ウォーホルなどの作品が並び、読書室や喫茶ルームもある。オリジナル商品を扱うショップとダイニング併設の由布院空想の森アルテジオを訪れる。

安心院方面に向かう。

湯布院中心街とは由布岳を隔てて北に位置する。自然が多く残された高原地帯の塚原高原を訪れる。

安心院草原の広大な自然の中で、70種1400頭羽の動物が生き生きと暮らすサファリパークアフリカンサファリを訪れる。

豊後高田方面に向かう。

駄菓子を専門とする珍しい資料館。戦前から昭和60年代までの紙人形やぬり絵など、昔懐かしいおもちゃ約5万点近くを展示。実際に購入できる駄菓子コーナーもある駄菓子屋の夢博物館を訪れる。

宇佐方面に向かう。

全国に4万余社ある八幡社の総本宮。725年(神亀2)応神天皇の御神霊、八幡大神を祭る本殿の一之御殿が創建されたことが始まりと伝わる。太古からの原生林に囲まれた境内には八幡造の3棟の本殿(国宝)をはじめ、御殿、神橋、呉橋、能楽殿、宝物殿など貴重な建築物が立ち並ぶ宇佐神宮を訪れる。

1939年(昭和14)、前人未到の69連勝を達成し、全勝優勝8回・通算優勝12回という成績を残した宇佐市出身の名横綱・双葉山定次。彼の生家が復元され、幼い頃よく遊んだという浜辺には記念碑や相撲場がある。館内には、化粧まわしなどが展示されているほか、休憩所では連勝当時の対戦映像が放映されている双葉の里を訪れる。

18:00中津到達
18:32中津駅特急ソニックで出発
19:03小倉駅到達
19:11小倉駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達

今回の旅行、九州大分県に足を運び、全国屈指の温泉地、地球上に存在する全11種類の泉質のうち、10種類があり、市内には8つの温泉地、地獄巡りも有名な別府、由布岳の麓に広がるのんびりとした風情を残しつつ、人気の温泉地である湯布院、昭和の町として有名なレトロな雰囲気が漂う豊後高田、全国に4万社余りある八幡社の総本宮の宇佐神社が位置する宇佐をドライブ観光して堪能しました。

北から国東・宇佐・豊後高田・中津・耶馬溪・日田から、南のくじゅう・竹田・長湯・別府・湯布院・大分・臼杵・佐伯、観光名所盛りたくさんの大分県、4回の訪れでほぼ制覇しました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第百三十五弾:大分県耶馬日田&くじゅう観光
2011年3月12ー13日


別府と湯布院で有名な大分県に足を運び、福沢諭吉が少年時代を過ごしたことでも有名な城下町中津、渓谷美が楽しめるスポット、耶馬溪、江戸時代に幕府の直轄地として栄えた町の日田、大吊橋や日本とは思えない雄大な山々の景色が楽しめる九州随一のドライブウエイやまなみハイウエイがいちするくじゅうを訪れました。

12日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:56小倉到達
16:09小倉ソニックで出発
16:42中津到達、レンタカーで観光

1587年(天正15)、黒田孝高によって建立。深紅に塗られた壁は城下町・中津の中でもひときわ強烈な印象を与え、別名・赤壁寺とよばれる。豊臣秀吉の時代、豊前の実力者だった宇都宮鎮房が騙し討ちに遇い、この寺を宿舎にしていた家臣たちも全員討ち死。その時の血潮を浴びた門前の白壁は何度塗り替えても血痕が浮き出るため、ついに赤壁に塗り替えたという。柱には当時の刀傷も残り、家臣たちの無念と悲しみが壁の血痕を何度も浮き出させたと伝えられている合元寺(赤壁寺)を訪れる。

1588年(天正16)に黒田孝高が築城、12年後細川忠興が完成させた。現在の城は、1964年(昭和39)に奥平家が再建したもの。五層の天守閣と二層の櫓からなり、中津のシンボルとして親しまれている。城内には歴代藩主甲冑衣装、刀剣、古文書など興味深い資料が展示されている中津城(扇城)を訪れる。

明治の偉人、福澤諭吉が1歳から19歳まで過ごした木造茅葺きの旧家(史跡)と、諭吉が勉学に励んだ庭の土蔵を公開。記念館内では、『学問ノスゝメ』の初版本や数多くの遺品を展示している福澤旧邸・福澤記念館を訪れる。

18:00中津駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

13日6:00レンタカーで出発、耶馬溪方面に向かう。

1764年(明和元年)僧禅海が30年余りをかけてノミと槌だけで掘ったといわれる隧道。その逸話は菊池寛の小説『恩讐の彼方に』のモデルとなった。全長は約342m、現在の洞門は当時からはかなり変化しているものの一部に明り窓や、ノミの跡が残っている。洞門の上の競秀峰からは、違った角度から見渡せる青の洞門を訪れる。

景勝地の多い本耶馬渓のなかでも、屈指の美しさを誇る岩峰。青の洞門上に堂々とそびえる様は見る者を圧倒する。大黒岩、恵比須岩、妙見岩など8つの岩峰が集まり、いかに秀でているか競いあっているように見えることからこの名が付いた。凝灰石の層が帯状に浮かび上がっていることから帯岩とも呼ばれている。山国川のほとりから見学するほか、山腹を巡る競秀峰探勝道からもその美しさを満喫できる競秀峰を訪れる。

大化元年(645年)に印度の僧、法道仙人が開山。羅漢山の中腹にある岩壁には無数の洞窟があり、山門も本堂もその中に埋め込まれたように立っている。洞窟には3700体以上の石仏や有名な五百羅漢も安置され、その光景は圧巻。絵馬の代わりにしゃもじに願い事を書いて奉納すると叶うといわれている羅漢寺を訪れる。

1987年(昭和62)、耶馬渓ダムの完成記念に造られた広さ約2万平方mの日本庭園。100種3万1000本以上の樹木に池、男滝・女滝、巨石などが見事な調和を見せる溪石園を訪れる。

山国川の支流・山移川を10kmほどさかのぼった位置にあり、若山、岩戸などの温泉地を擁する渓谷。本耶馬渓に比べ谷幅が狭く、両側に絶壁、石柱が連なっている。一目八景をはじめ紅葉谷、錦雲峡など見どころ満載の深耶馬溪を訪れる。

切り立った凝灰岩と広葉樹林から成る渓谷。一カ所から観音岩・夫婦山などの8つの岩峰を眺められることから、この名が付いた。秋は色鮮やかな紅葉が見事の一目八景[深耶馬溪]を訪れる。

守実温泉からさらに山国川上流の英彦山までの16kmに及ぶ渓谷。うっそうとした緑の中をくぐる魔林峡や猿飛千壺峡などの名勝が続く奥耶馬渓を訪れる。

英彦山源流にある、奇岩群と緑と清流が織り成す奥耶馬渓の名勝地。かつてこの上を野猿が飛び交ったことから、この名が付けられた。岩の隙間に入った石が水流で回転し、長い歳月をかけて岩に穴を開けた歐穴群があり、直径15cm、深さ10cmほどの小さな穴から直径約1m、深さ2mにもなる大きな穴が約2kmにわたって見られる猿飛千壺峡[奥耶馬渓]を訪れる。

日田に向かう。

神仏混清の形式をそのまま残している珍しい地蔵尊で、全国から訪れる多くの人から「高塚さん」の愛称でよばれ、所願成就にご利益があると親しまれている高塚愛宕地蔵尊を訪れる。

土蔵や格子窓など、江戸時代に天領だった頃の雰囲気が色濃く残る地。草野本家は、1688年(元禄元)から明治末まで製蝋業を営み、桝屋の屋号をもつ大分県最古の商家。年4回の祭り時期に公開され、毎年ひな祭りには当主が集めた178体もの人形を見ることができる。隣の天領日田資料館では、天領当時の日田の繁栄ぶりを偲ばせる品々を展示。横道を抜けると、広瀬淡窓の生家・廣瀬資料館があり、豪商広瀬家で使われていた生活用品や書画などを見ることができる豆田町界隈を散策する。

幕末の儒学者・広瀬淡窓が開いた私塾。彼の元から約4000人の門下生が全国に巣立ち、近代日本を動かした。晩年の淡窓が居住した茅葺き屋根の秋風庵などが見学できる咸宜園跡を訪れる。

戸時代、製蝋と掛屋で財をなした商家。なまこ壁が目を引く歴史ある建物で、178体のひな人形をはじめとした家宝を、雛祭りをはじめ年4回に分けて一般公開する草野本家を訪れる。

掛屋を営んでいた日田の豪商・廣瀬家は廣瀬淡窓の生家。掛屋とは幕府の公金を取り扱い、現在の日本銀行九州支店に相当するものという。天秤計りや各藩に貸し付けた証文、茶道具などを展示している廣瀬資料館を訪れる。

毎年7月20日過ぎの土・日に行われる日田祇園祭では、華やかに9基の山鉾が日田の街を巡行する。日田祇園山鉾会館では6基の山鉾を展示。10mの高さの平成山鉾は圧巻。背面を飾る見送りとよばれる垂れ幕は京都の画師が丹念に製作したものの日田祇園山鉾会館を訪れる。

くじゅうに向かう。

大分県別府市と熊本県の一の宮町宮地を結ぶ、全長約83kmの観光ドライブルート。正式名は県道11号別府・一の宮線。広大な草原が左右に広がる好景観のコースで、特に飯田高原から長者原までの直線風景は特筆すべきもの。随所に観光ポイントやドライブイン、ホテルなども点在する。行程中、一番高所にあるのが標高1330mの牧の戸峠のやまなみハイウェイを走行する。

九重連山の北側、標高1000m地帯に広がる高原。長者原は九重連山の登山口で、飯田高原の中心地。ミヤマキリシマ、新緑、紅葉、霧氷などの四季折々の景観が楽しめる飯田高原を訪れる。

15:30中津に向かう。
16:50中津到達
17:07中津駅ソニックで出発
17:12小倉到達
18:00小倉新幹線のぞみで出発
20:25新大阪駅到達。

今回の旅行、千葉県内房を訪れる予定でしたが、大地震のため急遽変更、安全な西の九州、別府、湯布院で有名な大分県に足を運び、福沢諭吉が少年時代を過ごしたことでも有名な城下町中津、奇岩が織り成す造形美に出会える景勝地、一目八景で有名な深耶馬溪、競秀峰がある本耶馬渓、そして奥耶馬渓までの絶境耶馬渓、天領時代の魅力に触れる土蔵やなまこ壁など蔵造の町並みが残り、多数の点在する文化財の日田、大吊橋や日本とは思えない雄大な山々の景色が楽しめる九州随一のドライブウエイやまなみハイウエイがいちするくじゅうを訪れました。

観光名所の多い大分県、有名な別府、湯布院だけでなく郊外に大自然と歴史的建造物も多く点在し、ドライブ観光楽しめました。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第二十四弾:大分臼杵&竹田観光
2008年4月5−6日


今回は大分県の南部、臼杵、竹田を中心に観光してきました。

5日神戸六甲アイランドから20:00ダイヤモンドフェリーで出発、
6日7:00大分港到達、シャトルバスで大分駅に向かう。
大分駅到着後朝食を済ませてから8:00レンタカーで観光巡り。

東に向かい別府湾に面した国道沿いの道の駅佐賀関に寄ってから佐賀関半島突端の高台にある天体施設、関崎海星館を訪れ、関崎灯台のある関崎展望台から四国方面を眺望する。

東海岸に沿って南下して臼杵市深田の山肌に彫られた磨崖仏群、堂ヶ迫、ホキ、山王山、古園の4群からなり平安時代から鎌倉時代にかけての作と推定され、国宝に指定されている国宝臼杵石仏を訪れる。

東から南に向かい、桜の名所として有名な瀬会公園、展望台からの眺望はすばらしい。

西に向かい全長が500mの鍾乳洞で、天然記念物。金世界、銀世界、竜宮城で21箇所の見所が続く風連鍾乳洞を訪れる。

東の竹田方面に向かう。幅120m、高さ20m、日本の滝百選に選定されている雄大な滝、東洋のナイアガラと呼ばれる原尻の滝を訪れる。

標高325mにあり、谷底との高低差は約100m、島津軍を退けた堅城として有名、文治元年、緒方三郎惟栄が築城、滝廉太郎が作曲した荒城の月のモチーフとなった岡城阯を訪れる。

竹田市街を散策、父の赴任で竹田に来た廉太郎が12歳から14歳まですごした居宅を記念館になり、画や記録などを展示している滝廉太郎記念館を見学。

大分駅方面に戻る。

16:30レンタカーを返却してから大分駅市街地を散策、県庁や市役所が立ち並ぶ市中心地にある、市民の憩いの場所、石田三成の妹婿、福原直高が府中十二万石の領主となり、慶長4年に築城した府内城の跡で、天守閣の石垣や堀が当時のまま残っていて春には桜の名所である大分城址公園を訪れる。

17:38バスで大分ホーバークラフト乗り場に向かう。
全国で唯一のホーバーフェリーで18:05出発、18:35大分空港到達。
19:20大分空港出発、20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の中でも観光地の多い大分県の東から南部を中心とした観光巡り。
四国を一望できる佐賀関半島、臼杵の石仏で有名な臼杵石仏、竹田の東洋のナイアガラと呼ばれる雄大な原尻の滝、滝廉太郎に関した岡城址、滝廉太郎記念館を巡り充実した自然と文化遺産の観光巡りでした。



飛行機で国内&海外の観光地巡り第三弾:大分国東半島&姫島観光
2007年8月4−5日


今回は飛行機を利用せずフェリーと新幹線の旅を行いました。

4日17:20南港からフェリーで出発、翌朝5:20新門司港到達、宿泊を兼ねた夜行長距離フェリー、経済的にもリーズナブルでよほどシケが無い限り快適な船旅です。

日ごろ乗ってるクルーザーでは少々波が高いと艇が波にたかれ過酷なクルージングになりますが今回南西の風強く波も少々高かったですがさすが大型フェリー揺れも少なく快適に休むことができました。

送迎バスで門司駅到達、小倉で特急にちりんに乗り換え7:30宇佐駅到達、早々レンタカーを借りて宇佐神社を訪れてから伊美港でフェリーで姫島に向かう。

10:20姫島到達、七不思議(千人堂、浮州、かねつけ石、拍子水、逆柳、浮田、阿弥陀牡蠣)を観光、13:00フェリーで出港。

13:20から西の京都と呼ばれている史跡の多い国東半島をレンタカーで回る。両市寺、富貴寺、真木大堂、熊野磨崖仏、杵築城を訪れました。17:00別府駅到達。

17:23特急ソニックで出発、18:41小倉で新幹線のぞみに乗り換え20:55新大阪に到達解散しました。

今回も大型フェリー、島渡船フェリー、新幹線、特急、レンタカー等のいろんな種類の乗り物を使って移動、現地国東半島では奈良時代から平安時代にかけての栄えた時の史跡巡り又七不思議の島、車えびの養殖で有名な姫島を観光して堪能しました。