奈良

奈良県お城・城下町巡り
2014年4月6日
 

日本の歴史の源、世界遺産の宝庫、奈良県に足を運び、比較的マイナーなお城16か所をおとずれました。 

7:00車で出発。
多聞城:永禄三年(1560年)に松永久秀が築城したとされます。安土城以前に天守を持ち、長屋状の櫓を巡らし、これが後にいろんな城郭で多用され、これを多聞櫓と呼ばれるようになりました。天正元年(1573年)に久秀は織田信長に離反し、多聞城は天正四年(1576年)に信長の命で筒井順慶が破却し、用材は筒井城、大和郡山城に使用されたようです。久秀は翌天正五年(1577年)に再び信長から離反し信貴山城で自刀しました。

柳生城:築城時期は不明です。天文十三年(1544年)筒井順昭に攻められ落城しています。その後、筒井氏、松永氏に従いますが、元亀二年(1571年)、宗巌は松永久秀に味方し筒井順慶と戦いました。天正13年に宗巌は豊臣秀吉から隠田発覚により所領没収となりますが、宗厳は柳生新陰流の祖、石舟斎となり、文禄三年(1594年)に石舟斎宗厳は家康の召しだされました。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦功により宗巌の五男宗矩が柳生家再興を果たしました。

福住井之市城:元々は福住氏を攻めた越智氏・十市氏の砦として築城されたようですが、その後は福住氏の詰めの城として機能したようです。

椿尾上城:築城年代は定かではありませんが、天文年間(1532〜55年)の筒井順興・順昭が当主の時代に 平野の筒井城に対して、山ノ城として、筒井氏の拠点して築かれた城のようです。史料では天文十年(1541年)に山ノ城の記事があるようです。天文十九年(1550年)に順昭が死去し、幼い順慶が後を継ぎますが、永禄二年(1559年)に松永久秀に攻められ筒井城は落城し、椿尾(上)城を拠点に反抗したと伝わります。天正五年(1577年)に松永久秀が滅び、天正八年(1580年)に織田信長の大和一城令の命で、順慶は郡山城を居城としたため、椿尾(上)城も廃城になったと考えられます。

豊田城:築城時期は定かではありませんが、豊田氏の本拠として築城されました。豊田頼英が城主の頃が全盛期だったようで、豊田氏は応仁の乱までは越智方明応七年(1467年)に越智氏が没落時には筒井氏に攻められ落城、その後も豊田氏は筒井氏に対抗しますが、永正二年(1505年)の大和国人一揆以降筒井氏に従ったようです。永禄十一年(1568年)に松永久秀に攻められ落城し、以後、豊田城は松永氏によって現在の形に改修されたと考えられます。城の廃城はは松永氏の滅亡した天正五年(1577年)頃でしょうか?

龍王山城:南北朝期に小さな砦が構築されていたようです。戦国期に入り、十市遠忠が永正三年(1506年)の大和国人一揆以降に本格築城を開始したとされます。天文年間(1532〜55年)に完成したようです。十市氏は遠忠の時が全盛期でしたが、天文十一年(1545年)に遠忠が死去し、急速に衰えました。遠忠の嫡男の遠勝の代になり、永禄十一年(1568年)に松永氏方の秋山氏に攻められ落城、遠勝は十市城に退きました。その後は、松永派の十市氏一族が守備、天正五年(1577年)、松永久秀が信貴山城で滅亡した後、翌年にこの城も織田信長の命で廃城になったとされます。

宇陀松山城:宇陀三将と呼ばれた秋山氏の本城として南北朝期に築城されたとされます。天正十三年(1585年)に豊臣秀長が大和郡山城に入り、秋山氏は伊賀に追放されたとされます。秋山城には伊藤氏、加藤氏などの居城となりました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは、その時の城主の多賀秀種は西軍に付いたため改易され、変わって福島正則の弟の福島高晴(孝治)が入りました。この時に城は大改修され、名前も松山城と呼ばれるようになったようです。元和元年(1615年)に、大阪夏の陣で高晴が大阪方に内通したとして改易され、城は小堀遠州によって破城されました。同年に織田信長の次男の織田信雄が宇陀三万石と上州甘楽郡二万石を与えられ、麓に陣屋を築きました。元和三年(1617年)に信雄の四男の信良に甘楽郡が分与され小幡藩となりました。宇陀松山藩は信雄ー高長ー長頼ー信武と続きますが、元禄八年(1695年)、信武が家臣を殺害し自殺したため、信休は丹波柏原に減封され二万石で移封となり、宇陀松山はその後は天領となりました。

沢城:南北朝期に築城された沢氏の居城とされます。沢氏は南朝方としてこの地方に勢力を競いました。永禄三年(1560年)に松永氏に攻められ落城し、城には松永氏方の高山友照(飛騨守・図書)が入りました。永禄十一年(1568年)頃に高山氏は和田惟政に属し、さらに、元亀四年(1573年)に高山氏は高槻城の城主になっています。高山氏が沢城を離れてから沢氏が復帰していましたが、天正四年(1576年)頃には筒井氏に攻められ没落し、天正八年(1580年)の織田信長の破却令によって廃城になったようです。高山友照は高山右近(重友)の父であり、右近は天文二十一年(1552年)生まれであり、幼少期にこの城におり、洗礼を受けたと伝わります。

十市城:築城時期は定かでは無いようですが、筒井氏、越智氏に次ぐ国人の十市氏の本城でした。永正二年(1505年)からの大和国人一揆では国判衆として活躍しました。十市遠忠は筒井氏(順興・順昭・順慶)に従い、天文十年(1541年)頃に龍王山城を築城し、十市氏の全盛期であったとされます。天文十四年(1545年)に遠忠が九死し、十市遠勝の代になると松永氏と筒井氏の間で急速に衰えました。永禄十一年(1568年)には松永氏方の秋山氏に攻められ龍王山城が落城、十市城に拠るも、永禄十二年(1569年)に遠勝が急死し、嫡流は断絶しました。この後、家臣は跡継ぎ養子問題で松永派と筒井派で争い、さらに衰退し、遠忠の次男の十市常陸介遠長は筒井氏に従いますが、天正三年(1575年)には松永久通に攻められ落城し城を失いました。天正十三年(1585年)、筒井定次の伊賀転封後は豊臣秀長に仕えたとされますが、天正十九年(1591年)、秀長家断絶後は没落したようです。

高田城:永享四年(1432年)に高田当麻為貞が築城しました。當麻為長の代に天正八年(1580年)み織田信長の命で筒井順慶によって所領を没収されました。

二上山城:築城年代は定かではない。楠氏七城の一つとして楠木正成によって築かれたと伝えられるが定かではない。明応8年(1499年)赤沢朝経が二上山城を拠点として大和を制圧したが、永正4年(1507年)細川政元が永正の錯乱によって暗殺されると赤沢氏の勢力も削がれた。天文10年(1541年)木沢長政が二上山城や信貴山城を整備し拠点としたが、翌天文11年に木沢長政が敗死すると二上山城も攻め落とされた。

片岡城:明応7年4月5日(1498年5月5日)に畠山尚順配下の筒井氏が「片岡」を攻め落とした記録があるが、これが当城かは不明である。この時に片岡利持が自害した思われている。また『片岡系図』によると片岡城は16世紀初頭に片岡国春によって築かれたとされる。その後片岡春利の代になり、永禄12年(1569年)4月8日に松永久秀に攻められ、片岡城が乗っ取られ、数日駐留した後に越智氏征伐のため南進していった。その後『大和軍師』によれば、片岡春利は片岡城で抗戦しているところから、再奪取に成功したものと思われる。春利は翌元亀元年(1570年)3月5日、片岡城にて36歳で病死したようである。その後11月19日から20日に松永軍により片岡一帯が制圧し、片岡城も落城したのではないかと推察されている。天正5年(1577年)8月、松永久秀が織田信長に反旗を翻したため、信貴山城の戦いに先立つ同年10月1日(1577年11月20日)に、明智光秀・筒井順慶・長岡藤孝ら約5千兵で攻城、これに対して松永軍は海老名友清、森正友らが率いる約1千兵で防御したが激戦の末に落城した。ちなみに藤孝の息子である細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。廃城年代は不明。

信貴山城:築城年代は定かではない。河内国との国境に近い要衝にあることから南北朝時代頃から砦や陣が設けられたと云われている。本格的な城郭を築いたのは木沢長政で天文5年(1536年)の頃と云われる。木沢長政は河内国守護職畠山氏の家臣で飯盛山城主となるなど重用されたが、主君畠山義堯を裏切って細川晴元に接近した。天文11年(1542年)河内太平寺合戦で長政は討死し、二上山城とともに信貴山城も落城した。永禄2年(1559年)松永弾正久秀が大和へ入国すると、多聞山城とともに信貴山城も改修して拠点とした。永禄7年(1564年)三好長慶が飯盛山城で病没すると、松永久秀は三好三人衆と将軍足利義輝の暗殺するなど畿内での勢力を増したが、三好三人衆と仲違いしたことにより、大和より追い出した筒井順慶が三好三人衆と結んで筒井城の奪還を計る。三好家中で孤立した久秀は高屋城主の畠山高政と結んでこれに対抗しようとしたが、上芝での戦いに敗れた。 その後、三好三人衆の陣があった東大寺の奇襲に成功した久秀であったが、信貴山城は三好・筒井軍によって攻め落とされた。永禄11年(1568年)足利義昭を奉じて上洛した織田信長に久秀はいち早く降り、その加勢を得ると信貴山城を取り戻した。元亀元年(1570年)筒井順慶の勢力が盛り返すと、翌元亀2年には辰市城合戦で大敗を喫した。その後、筒井順慶も織田信長に帰順し、その斡旋もあって和睦となった。その後、将軍足利義昭が画策した信長包囲網に加わり反旗を翻したが、天正元年(1573年)甲斐の武田信玄が没すると包囲網も破綻し、久秀は多聞山城を明け渡すことで信長に降り、信貴山城へ退いた。天正5年(1577年)久秀は佐久間盛信に従って本願寺攻めに加勢していたが、再び毛利輝元や上杉謙信、本願寺など反信長勢力に荷担し信貴山城に籠城した。信長は筒井順慶などを主力とする大軍を送り込み、久秀が所有している名器・平蜘蛛茶釜を差し出せば助命すると勧告するが久秀はこれを拒否。久秀は天守に籠もって自爆して果てた。

小泉城:築城年代は定かではないが室町時代に小泉氏によって築かれた。 小泉氏は大乗院方衆徒で、康正元年(1455年)畠山政長方の筒井氏が没落した後、官符衆徒につき、その後越智方について筒井氏と対立した。 長禄3年(1459年)筒井順永の攻撃をうけ落城した。天正8年(1580年)以後、羽田長門守が陣屋を置いていたが、慶長6年(1601年)片桐且元の弟貞隆が一万五千石を領して小泉に入部し陣屋を構えた。

筒井城:永享元年(1429年)筒井順覚によって築かれた。 筒井氏は天児屋根命の子孫ともいわれるが定かではない。 興福寺一乗院の衆徒である。嘉吉元年(1441年)に家督を継いだ順永の代に勢力を広げるが、その後は越智氏などと抗争が繰り広げられた。 永禄2年(1559年)松永久秀が大和に入国すると松永氏と対立し筒井城を奪われた。松永氏の滅亡後多聞城の石を転用して城郭の拡張を行ったが、織田信長の大和一国破城命令によって破却となり、郡山城を居城とした。

稗田環濠:室町時代頃に形成された環濠集落と考えられている。 文安元年(1444年)古市胤仙が稗田を奪って城として使ったということから、この頃には城郭として一時機能していたと考えられている。

今回の旅行、近場の歴史ある奈良県に足を運び、16か所の比較的マイナーなお城を巡り楽しめました。
今回も見つけるのが一苦労で城山のみとか、石碑のみとか、案内板のみとか、地味な城跡がほとんどでした。

天候も生憎悪く、大雨が降ったり、雹が降ったり結構大変な城めぐりでした。

















奈良県桜井エリア史跡巡り
2011年4月13日


世界遺産、歴史的建造物の宝庫、奈良県に足を運び、古代大和政権の中心地として栄え、長谷寺や室生寺周辺には門前町として発展した桜井エリアを訪れました。

12:30車で阪奈自動車道経由して
13:40桜井到達

全長272m、3世紀後半ころの築造で、倭迹迹日百襲姫命の墓とされる前方後円墳。『日本書紀』には、昼は人が造り夜は神が造ったとの不思議な記事が残る箸墓古墳を訪れる。

全長約207mの前方後円墳。鳥見山北麓に延びた枝尾根を切断して造られている。前方部が長く柄鏡の形をしていることから、前期古墳でも古い時代のものであると考えられる。竪穴式石室は朱で染められた割石を積んだ豪壮なもので、出土品に玉杖や玉葉が含まれていたことなどから、大王級の人物が葬られたと推測されている茶臼山古墳を訪れる。

忍阪集落の東の奥にある舒明天皇陵の脇の山道をしばらく進むと、四方を山に囲まれた窪地が開ける。そこにある小さな円墳が墓とされる。鏡女王は、万葉の女性歌人として有名な額田王[ぬかたのおおきみ]の姉であり天智天皇の妃、のちに藤原鎌足の夫人となった。墓の北側には、欽明天皇の皇女大伴皇女の墓もある鏡女王墓を訪れる。

忍阪集落の高台にある小さな寺だが、現存日本最古の三尊石仏(重要文化財)を安置することで知られる。白鳳時代のもので、高さ115cm、幅150cm、厚さ約20cm。丸みのついた三角形の砂岩製の石板に、頭上に天蓋をいただいて倚座する薬師如来と伝える如来形像を中心に三尊仏を浮彫にする。保存状態もよく、優美な姿を保っている石位寺を訪れる。

忍阪から南へ、倉橋溜池に向かう途中にある。東南方から北西方に延びる尾根上に営まれた方墳で、古墳時代後期の築造とみられている。墳丘の1辺は約45m、高さは約9m。横穴式石室は羨道の長さ約8.5m、高さ約2m、玄室の長さ約6.3m、高さ約4.2mと長大。玄室中央には、棺身約2.4m、幅約1.2m、蓋を合わせた高さ約1.8mの巨大な刳抜式の家形石棺を安置する。石室内には自由に入ることができる。規模の大きさや造られた時代から、6世紀末に暗殺された崇峻天皇の墓ではとみられているが、宮内庁が陵墓に指定する崇峻天皇陵は、聖林寺より多武峰方面へ1kmほど上った所にある天王山古墳を訪れる。

艸墓古墳の南方に築かれた西向きで2段構成の前方後円墳。全長約224m。古墳時代前期(4世紀)のものとみられ、北東約2kmにある茶臼山古墳と並んで同時期のものでは最大級。後円部に比べ前方部が極めて低く、墳丘を巻いて何段も整然と並ぶ円筒埴輪や、後円部にある2つの竪穴式石室に特色がある。高さ2.4mに及ぶ日本一大きな埴輪も出土したメスリ山古墳を訪れる。

16:00終了、帰路に向かう。

今回の史跡巡り、近場の世界遺産、歴史的建造物の宝庫、奈良県に足を運び、古代大和政権の中心地として栄えた桜井エリアを訪れました。

今回の訪れで奈良県はほぼ制覇できました。





奈良県山の辺東部観光
2011年3月9日


歴史遺産と緑豊かな自然景観が継続している近場の奈良県に足を運び、東部エリアの自然景観と社寺を巡りました。

12:30車で西名阪自動車道経由して
14:00針インター下車

大和国水分四社(都祁、宇太、吉野、葛城)の一つであり、水の神様として信仰される。こんもりとした森の奥に鎮座する現在の本殿(重要文化財)は、室町時代に建てられたもので、一間社春日造、檜皮葺き。本殿前にある1対の狛犬は鎌倉時代末期作といわれ、一般のものと比べ頭が小さいのが特徴の都祁水分神社を訪れる。

大和高原の中央部にそびえる円錐形の美しい山で、標高618.8m。山頂付近は比較的平坦で眺望もよく、春にはツツジが咲き乱れる。一帯はフォレストパーク神野山として自然公園化されており、中腹には森林科学館や茶の里映山紅、羊を放牧するめえめえ牧場、羊毛館などもある。南麓には銅像菩薩半跏像(重要文化財)を安置する神野寺が佇む神野山を訪れる。

フォレストパーク神野山の案内所を兼ねた中心的施設。森林の果たす役割や、そこに棲息する動植物など森の世界をパネルなどでわかりやすく紹介している森林科学館を訪れる。

神野山の東の中腹にある奇観。角閃斑レイ岩[かくせんはんれいがん]といわれる黒くて堅い大小の岩石が、幅10m、長さ650mにわたって帯状に続いている。地形、地質学的にも非常に珍しいもので、岩の下には絶えず伏流水が流れている鍋倉渓を訪れる。

室生方面に向かう。

3万3000平方mの敷地に、600種100万本もの花ショウブが、6〜7月に咲き乱れる。しだれ桜、芝桜、テッセン、つるバラ、アジサイなども栽培されている花の郷 滝谷花しょうぶ園を訪れる。

曽爾高原へ登る道沿いにある総合観光施設。地ビールや自然派料理を味わえる「すすきの館」、もっちり感で人気の米粉パン工房「お米の館」や日帰り温泉施設「お亀の湯」などが揃う曽爾高原ファームガーデンを訪れる。

長谷寺塔頭で、西国三十三カ所観音霊場番外札所。長谷寺本尊の十一面観音を造立し、西国霊場巡礼を始めたとされる徳道上人が隠棲した所と伝わる。徳道上人像を安置し、境内には上人御廟の十三重石塔や、触れると願いがかなうという上人沓脱ぎ石がある法起院を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、歴史遺産と緑豊かな自然景観が継続する奈良県に足を運び、山の辺の東部と宇陀・長谷方面の自然と文化遺産をめぐり、時を過ごしました。





奈良県山の辺観光
2011年2月16日


歴史遺産と緑豊かな自然景観、この二つが継続して残っている奈良県に足を運び、奈良盆地と東の山裾との境目あたりの古代の人々によって開かれた歴史に残る日本最古の道、山の辺の道に点在する史跡を訪れました。

12:30車で天理方面に向かう。

和爾下神社古墳の後円部に立ち、本殿(重要文化財)は桃山時代の建築様式を残す。付近は古代豪族、和爾氏の本拠地と伝わり、和爾氏の祖神を祭っている。神社前の小古墳は柿本人麻呂の墓といわれ、歌塚と刻まれた石碑が立つ和爾下神社を訪れる。

布留川の上流、桃尾山にある高さ23mの滝。明治に廃絶した桃尾山蓮華王院龍福寺の境内地にあり、中世には真言密教の大道場があった。修験道の行場として知られ、毎年7月第3日曜には夏の安全を祈願して「滝開き」の神事が行われる。「布留の滝」として古今和歌集にも詠まれる景勝地で、1688年(元禄元)には芭蕉もこの地を訪れている桃尾の滝を訪れる。

天理教教会本部神殿の南にある、天理大学附属の博物館。海外布教のための資料として長年にわたって集められた、中国・朝鮮半島・オリエントなどの考古美術品、世界各国の民族資料や交通資料、日本の信仰資料を数多く展示。布留遺跡から出土した遺物も収蔵・展示している天理大学附属天理参考館を訪れる。

蔵書数約200万冊を誇るわが国屈指の図書館。収集分野は日本のものだけでなく、世界の宗教、民俗学、文学など多方面にわたる。『日本書紀』神代巻2巻(国宝)、『播磨国風土記』『類聚名義抄』(国宝)、『新古今和歌集』(重要文化財)など、貴重な文化財を多く所蔵。天理大学の附属施設だが一般に公開されている天理大学附属天理図書館を訪れる。

墳丘が3段に分かれ、最下段は前方後方墳、上2段は前方後円墳という特異な形の古墳。下段の規模は約190m。前方後円墳の規模は約160mで、この種類では全国最大級の規模といわれる。築造は4世紀後半ごろとみられ、堤にあたる所から埴輪棺と石棺が出土した西山古墳を訪れる。

大和国の地主神である大和大国魂神と、八千戈神、御年神を祭る古社。『日本書紀』によると、大和大国魂神は天照大神と並ぶ神威があり、初め宮中に祭られていたが三輪山北麓に移され、のちに現在地に遷座した。境内は東西に細長く、古代の幹線道上ツ道に面して一の鳥居が立ち、樹林に包まれた長い参道を抜けると、明治初頭に改築された社殿3殿が立つ大和神社を訪れる。

唐古池を中心に、約42haにわたって広がる弥生時代の集落跡。唐古池の西南にそびえる高さ12.5mの2階建て楼閣は、出土した絵画土器をもとに復元したもの。発掘された鍬や鋤などの農具など、弥生時代の農耕技術を知る貴重な資料は唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている唐古・鍵遺跡を訪れる。

聖徳太子が通ったと伝わる斑鳩宮から、飛鳥・小墾田宮までの約20kmの道。川西町・三宅町・田原本町と、奈良盆地を斜めに貫いていることから筋違道とも呼ばれている。太子のために推古天皇が造った近道との説もあり、太子が道中ひと息ついたという腰掛け石が残る白山神社、太子接待の絵馬が伝わる杵築神社など、道沿いには数々の伝説に由来するスポットが点在する太子道(筋違道)を訪れる。

全長200mの巨大な前方後円墳。5世紀前半の築造と推定され、碧玉製の腕輪「車輪石」やペンダント付首飾りなどが多数出土している島の山古墳を訪れる。

全長130mの前方後円墳。1998年の発掘調査で、未盗掘の竪穴式石室から卑弥呼が魏より贈られた鏡ともいわれる三角縁神獣鏡33枚と、画文帯神獣鏡1枚が出土した。一つの古墳からの出土数としては全国最多で、邪馬台国の所在地論争がからみ、一躍脚光を浴びた。築造は3世紀後半から4世紀前半ごろ。大和政権の有力人物の墓とみられる黒塚古墳を訪れる。

大神神社、大和神社、石上神宮と並ぶ大社。創建は約2000年前(崇神天皇60年)といわれ、延喜の制で名神大社に列せられた。祈年・月次・相嘗・新嘗等の宮幣に預かる。もと弓月ケ岳の山頂にあった上社を麓までおろして下社としたのが、現在の神社といわれる。一の鳥居近くには相撲神社がある。『日本書紀』によると、垂仁天皇の前で当麻蹶速と出雲の野見宿禰が生死をかけた力比べをした場所といわれ、相撲発祥の地とされる穴師坐兵主神社を訪れる。

JR巻向駅周辺に広がる、弥生時代末期〜古墳時代前期の遺跡。範囲は東西2.5km、南北1.5kmに及び、この時代の遺跡としては全国でも飛び抜けた規模だ。全国各地の土器が出土し、全国から人や物が集まっていたことを物語る。ここが邪馬台国だったとみる研究者は多い。遺跡内には発生期の古墳が集中する纒向古墳群があり、ホケノ山古墳は3世紀中ごろに築造された最古の前方後円墳といわれる纒向遺跡を訪れる。

檜原神社から山の辺の道を南へ5分ほど行った地に、ひっそり立つ。奈良〜平安時代初期の僧玄賓が隠棲した所と伝え、もと三輪山の檜原谷にあったが、明治の神仏分離で現在地に移された。小堂に藤原時代作の木造不動明王像(重要文化財)や玄賓像を祭り、謡曲『三輪』の舞台でも知られる玄賓庵を訪れる。

古来、三諸の神名備と称され、聖なる神の山として崇められてきた。山全体が大神神社の御神体として、大物主大神をまつる。標高467mの三輪山を望む。

纏向遺跡をはじめ市内の主要遺跡で出土した土器や埴輪などの遺物を展示する。春秋に特別展、夏冬に企画展が開催される桜井市立埋蔵文化財センターを訪れる。

もとは大神神社の神宮寺で、本堂や護摩堂などが並ぶ大寺だった。明治の廃仏毀釈で全廃したものの、のちに本堂や鐘楼が再建された。境内には仏足石や、霊験あらたかとされる熱とり地蔵もある平等寺を訪れる。

山の辺の道沿い、金屋の石仏の向かいにある美術館。ルノアールやピカソ、ユトリロのほか、国内では梅原龍三郎、佐伯祐三、須田国太郎ら近代画家の作品約300点を収蔵、順次公開している喜多美術館を見学。

金屋集落の西南にあり、山の辺の道の南の起点。古代には飛鳥や難波に向かう道が合流する交通の要所で、わが国最古の市とされる海石榴市が開かれ賑わった。ここはまた若い男女が歌を詠み合いながら婚約を成立させる、古代の「歌垣」の舞台でもあった。現在は小堂が立つ海石榴市観音に名を残すだけの海石榴市跡を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の奈良県に足を運び、奈良盆地と東の山裾との境目あたりの古代の人々によって開かれた歴史に残る日本最古の道、山の辺の道に点在する史跡を訪れ歴史学習してきました。

京都と違い派手さはないが、趣のある史跡が数多く点在する奈良県、歴史の深さを感じました。









奈良県飛鳥観光
2010年12月8日


歴史遺産と、緑豊かな自然景観、この2つが継続して残っている奈良県に足を運び、7世紀の日本の中心、のどかな田園風景の中に、謎の石造物や古墳、古寺社などが点在する飛鳥を訪れました。

12:30車で阪神近畿名阪自動車道経由して柏原インター下車
13:15葛城到達

標高960m。山頂付近は高原状になっており、360度の大パノラマが楽しめる。東には大和三山が浮かぶ奈良盆地、南には吉野・大峯の雄大な山並みを望み、西には大阪湾や淡路島、明石海峡大橋も見渡せる。一帯には一目100万本といわれるツツジの大群落が広がり、5月半ばに山上は燃え立つように紅く染まる。秋は一面のススキの原、冬は霧氷と、四季折々に美しい表情を見せる葛城山を訪れる。

興福寺の座主として名僧の誉れ高かった一和僧都が、951年(天歴5)に開いたとされる。南北朝時代には楠木正成の祈願寺となり、南朝方の合言葉に「極楽寺」が用いられたという。1614年(慶長19)、筒井順慶によって焼かれたが、寺宝の天得如来像図と鐘楼門は焼け残り、再興のきっかけとなった極楽寺を訪れる。

2基の古墳が並んでいることから、「今木の双墓」と呼ばれ、蘇我蝦夷・入鹿親子の墓に当てる伝承がある。南側の横穴式石室には2基の刳抜式の家型石棺を安置。1基の石棺の縄掛突起には6弁の蓮華文が刻まれており、古墳時代にあって仏教文化の影響を示す資料となっている水泥古墳を訪れる。

全長238m。奈良盆地南西部で最大の前方後円墳で、「室の大墓」と呼ばれる。葛城氏の祖、葛城襲津彦の墓ともいわれ、三段築成の巨大な墳丘に葛城氏の勢力がうかがえる。2つの竪穴式石室が確認されており、後円部の石室からは巨大な長持形石棺が出土した宮山古墳(室の大墓)を訪れる。

古代豪族鴨氏の氏神社として、崇神天皇のころに祀られたとされる。高鴨神社の上鴨社に対して、下鴨社とも呼ばれている。毎年7月16日と体育の日の前々日に行われる献灯行列は、県南部の提灯奉納行事の中で最も規模が大きく、三段の「ススキ提灯」を奉納する。付近の鴨都波遺跡は、弥生時代の大規模な集落跡がある鴨都波神社を訪れる。

修験道の開祖役行者の生誕地で、寺も役行者の開創と伝えられる。行者堂には、役行者が自ら彫ったとされる32歳像や母親像が安置されている。本堂は1396年(応永3)の再建で、不動明王を中心とする五大力尊を本尊とする。毎年1月14日には名高い「茅原の大とんど」が行われ、高さ5mもある雌雄2本の松明に火をつけて、その年の豊凶を占う吉祥草寺を訪れる。

薬の町高取の歴史を伝える。薬の調合に使われた天秤や製薬機、行商人が担いだ柳行李や衣装などを展示。置き薬のおまけの紙風船も郷愁を誘うくすりの資料室を訪れる。残念ながら休館でした。

高松古墳の南いったいは古代、檜前と呼ばれ、朝鮮半島などから渡ってきた渡来人が多数住んでいた地。大和棟の民家が美しい景観をつくる現在の檜前集落の南のはずれに、渡来系氏族東漢氏の氏寺だった、この寺跡がある。於美阿志神社境内に金堂や講堂の基壇や礎石が残り、塔跡には平安時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ檜隈寺跡を訪れる。

高取山の中腹にある、西国三十三カ所観音霊場第6番札所。703年(大宝3)の創建といわれ、平安時代に大いに栄えた。本尊は、眼病平癒の霊験あらたかという十一面千手観音坐像で、人形浄瑠璃『壷阪霊験記』でも知られる仏さまだ。境内には重要文化財の三重塔や礼堂などに交じって、昭和以降に造立された、高さ20mもの大観音石像や涅槃石像、釈迦の生涯を描いた石造レリーフなどが並ぶ南法華寺(壷阪寺)を訪れる。

壷阪寺の東300m、山腹の岩肌にびっしりと刻まれた石仏群。「親に会いたくば、五百羅漢の堂にこもれ」といわれ、探せば親の顔に似た羅漢が見つかるという五百羅漢を訪れる。

標高583mの高取山頂にあった山城。南北朝時代に築かれ、豊臣秀長の家臣本多氏、譜代大名の植村氏により大改修された。城内は1万平方m、周囲3km。郭内は6万平方m、周囲30kmに及び、山城としては日本一の規模といわれる。白亜の城郭建築がそびえた様子は芙蓉城と称えられたが、廃藩置県で取り壊された。延々と残る苔むした石垣が、かつての栄華を物語る高取城跡を訪れる。

元高取藩の家老屋敷で、現在は藩主・植村氏の子孫の住宅。道に面する長屋門は、間口39mという長大さ。白漆喰を盛り上げた、格子模様のなまこ壁が重厚感を漂わせる植村家長屋門を訪れる。

石舞台古墳から飛鳥川を上流に向かうと両集落が続いている。飛鳥でもひときわのどかな里で、稲渕地区の丘陵東斜面には見事な棚田が広がる。日本の棚田百選にも選ばれた稲渕・栢森集落を訪れる。

760年(天平勝宝4)建立と伝わる古刹。名高い平安時代の子嶋曼荼羅図(国宝)は、中興の真興が一条天皇の病気平癒祈願の功で賜ったと伝わる。金銀泥絵で諸尊を描いた大作で、京都・神護寺の高雄曼荼羅と並ぶ両界曼荼羅図の代表作。奈良国立博物館に寄託されているが、精巧な複製を拝観できる。高取城二ノ門を移築した山門は、高取城唯一の遺構である子嶋寺を訪れる。

強大な権力を背景に律令政治を推し進めた天武天皇と、天皇として初めて火葬された皇后の持統天皇を合葬する。鎌倉時代に盗掘された時の記録が残っており、被葬者が確実な、数少ない古墳の一つの天武・持統天皇陵を訪れる。

斉明天皇の川原宮を寺に改めたものといわれ、1塔2金堂、講堂などが立つ大寺だった。現在は中金堂跡に川原寺という小寺が残るだけだが、伽藍の基壇や礎石が復元されている。川原寺には瑪瑙(大理石)の礎石も残り、貞観時代の木造持国天・多聞天立像(重要文化財)が安置される川原寺を訪れる。

全長約140mで、明日香村内最大の前方後円墳。墳丘の緑と、濠が美しい。570年に死去した欽明天皇と、妃で蘇我馬子の妹の堅塩媛を合葬した檜隈坂合陵とされている。しかし、出土遺物が築造年代とあわず、北方の丸山古墳を欽明陵とみる説が有力の欽明天皇陵を訪れる。

近鉄飛鳥駅のすぐ北西にあり、石室内部に自由に出入りできる。石室は、表面をきれいに加工した切石を2段に積み上げ、大きな天井石を乗せたもので、南河内にある聖徳太子の墓と似ているといわれる。天皇陵独特の八角形墳の可能性も指摘されており、飛鳥時代の女帝・斉明(皇極)天皇を被葬者とする説もある岩屋山古墳を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の史跡巡り、784年の長岡遷都まで、日本の中心として栄えた場所、多くの史跡が点在し、日本の国宝の五分の一を占める歴史ある奈良県に足を運び、6世紀の終わり頃から8世紀の初頭にかけて、都が置かれ、今はその栄華の面影はないが、歴史の足がかりとなる史跡が村中に点在する飛鳥を訪れ、盛りだくさんの史跡に接し堪能しました。

京都と違い車での移動、訪れが容易で、時間のロスが少なく、要領よく回れ、短時間で数多くの史跡を巡ることが出来ました。









奈良県橿原&葛城観光
2010年11月10日


近場の世界遺産の宝庫、奈良県に足を運び、日本初の本格的な都・藤原京が造営された場所で宮跡や寺跡など多くの史跡が点在する橿原、雄大な金剛・葛城山系の懐に曲がりくねって南北に続く古道に点在する史跡を楽しめる葛城エリアを訪れました。

12:30車で阪神近畿西名阪自動車道経由して柏原インター下車
13:15葛城到達

二上山は約1600万年前に噴火した火山で、その噴火によってできた3種類の火成岩をテーマにした異色の博物館。旧石器文化を開いたというサヌカイト、石棺の素材になった凝灰岩、サンドペーパーの原料である金剛砂の3つの石を中心に、二上山の自然と人々との関わりを、ジオラマやビデオ映像などで紹介している香芝市二上山博物館を見学。

祭神は三十六歌仙の一人、柿本人麻呂。付近が生誕地と伝えられ、石見国で没した人麻呂を770年(宝亀元)に改葬して、かたわらに社殿を建てたのが始まりという。拝殿南側には「柿本大夫人麻呂之墓」と刻まれた石碑がある。境内続きの影現寺は柿本寺とも呼ばれ、人麻呂の木像を安置。はめ込み式の首は、夜中に月の出る方角を向くという柿本神社を訪れる。

正式には葛木坐火雷神社といい、火雷大神と天香山命が祭神。創建は定かでないが、葛城地域屈指の古社で、式内名神大社。火と笛・音楽の神様の葛木坐火雷神社(笛吹神社)を訪れる。

全長135mの前方後円墳。5世紀中ごろの築造で、葛城氏に関係する古墳といわれる。埋葬施設は壊されているが、長持形石棺の蓋石などが見つかっており、竪穴式石室だったとみられる。付近は屋敷山公園として整備されている屋敷山古墳を訪れる。

鎌倉時代の優美な三重塔(重要文化財)が境内にぽつんと立つ。現在はこの塔と本堂を残すのみ。寺伝によると、639年(舒明11)に創建された日本初の官寺・百済大寺[くだらだいじ]の後身というが、確証はない。最近では、桜井市の吉備池廃寺[きびいけはいじ]を百済大寺とする説が有力の百済寺を訪れる。

環濠集落とは中世に外敵からの防衛と用水池を兼ねて、周りを濠で囲んだ集落のこと。南郷氏の拠点であった南北700m、東西550mのこの集落では、環濠の一部を取り込んだ公園が整備されており、当時の面影を伝えている南郷環濠集落を訪れる。

馬見丘陵古墳群の中でも最大級の前方後円墳。全長220m、後円部径130mで、後円部に竪穴式石室が2つある巣山古墳を訪れる。

橿原に向かう。

829年(天長6)、神奈備山から現在地に移転。境内には陰陽石が多数置かれ、子授けの神として信仰される飛鳥坐神社を訪れる。

中大兄皇子(のちの天智天皇)が660年(斉明6)に造った日本初の水時計台跡。発掘調査で、礎石と礎石の間を石で連結させた堅固な建物跡や、導排水管などが発見された。遺構は整備されており、飛鳥資料館で水時計の模型が見られる水落遺跡を訪れる。

全長320m、6世紀後半築造の巨大前方後円墳。全国第6位の規模で、6世紀の後期古墳に限ると最大。後円部は陵墓参考地に指定されているため立ち入り厳禁だが、全長26m以上という全国最大規模の横穴式石室をもつ。内部には石棺が2つ置かれており、欽明天皇と皇后の堅塩媛の合葬陵との説もある丸山古墳を訪れる。

聖徳太子の弟の来目皇子が建立したといわれるが、飛行中に娘のすねを見て墜落した久米仙人の創建との説話も残る。本尊薬師如来は眼病に霊験あらたかといわれる。本堂には、久米仙人の歯と髪を植えた自作像とされる久米仙人坐像がある。多宝塔(重要文化財)は京都仁和寺から移築したもので、桃山様式を残す久米寺を訪れる。

天武9年(680)、天武が持統の病気平癒を祈願して発願。文武2年(698)にほぼ完成。平城遷都とともに現在の西ノ京に移転した。ここは当初の薬師寺があった場所で、本薬師寺跡と呼ばれる。金堂と東西両塔の基壇や礎石が、田んぼに囲まれて残るだけだが、伽藍配置は平城京薬師寺とまったく同じ。金堂跡の巨大な礎石群が、かつての大寺を想像させる本薬師寺跡を訪れる。

1541年(天文10)、今井兵部が開いた浄土真宗の道場がのちに寺に改められた。今井町はこの寺の境内地から寺内町として発達したもので、初代兵部以来、現在まで今井家が住職を務める。近世初頭の再建の本堂は傷みも目立つが、入母屋造の大屋根がかつての栄華を物語る称念寺を訪れる。

「大東の四条屋」の屋号で酒造業を行っていた。前面の格子は木割りが細く、幕末の上層民家の好例。中2階形式が多い今井町にあって、完全な2階建てで、2階の窓も虫籠窓でなく、出格子窓。土間上方の高窓が、ひもで上げ下げできるのも、新しい形式の高木家を訪れる。

奈良盆地に島のように浮かぶ、耳成山・香久山・畝傍山の三山の総称。国の名勝に指定。いずれも標高200mに満たない低山だが、秀麗な姿で親しまれ、山頂にも手軽に登れる。中大兄皇子が詠んだ、三山妻争いの万葉歌でも知られる。耳成山は平地にぽつんと突き出た山で、標高139m。円錐形の優雅な姿は三山でもとりわけ美しい。畝傍山は三山で一番高く、標高199m。尾根が波打った姿は眺める方向によってさまざまな姿を見せ、山頂からの見晴らしもいい。標高152mの香久山は丘に近い山だが、三山の中では最も神聖視された大和三山を眺望する。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の史跡巡り、昨年に続いて2回目の訪れである多くの史跡が点在する葛城と橿原エリアに足を運び、

奈良盆地の南西部を指す地域で古墳時代でも有数の豪族であった葛城氏の勢力圏であったと考えられ、飛鳥時代の前半あたりには葛城県が、その後は葛城国が置かれたようである葛城エリア

694年に日本最初の都城である藤原京が造営され、都が平城京に移転するまで16年存続した。中世には寺内町である今井町が自治都市として発展し、『海の堺・陸の今井』と称された橿原エリアを訪れ多くの点在する史跡に接し、楽しむことが出来ました。。








奈良県月ヶ瀬&柳生&奈良町観光
2010年9月25日


歴史遺産と緑豊かな自然景観、この2つが継続して残っている奈良県に足を運び、奈良公園の南から、柳生十兵衛を筆頭とする柳生新影流ゆかりの里、柳生、昔ながらの町並みが残り、古い民家の間には、町家を利用したショップやカフェ、古刹が点在する奈良町を訪れました。

12:30車で出発
13:30月ヶ瀬方面に到達。

関西でも屈指の梅林として知られている。月ケ瀬の真ん中を流れる名張川が刻んだ雄大なV字渓谷の両側に、約1万本といわれる梅が植樹され、季節には紅白の梅の花であたり一面を埋め尽くす。江戸末期〜明治時代には文人墨客も相次いで訪れ、芭蕉も感嘆して句を残している月ケ瀬梅渓を訪れる。

江戸中期に建てられた農家。入母屋造で軒が低く、覆い被さるような茅葺き屋根が印象的だ。内部は東半分が土間で、西半分の居室部は前方に座敷、後方に台所と納戸を配した三間取り。古い形式を留めた小型住宅の例として貴重な菊家家住宅を訪れる。

柳生方面に向かう。

1万平方mの園内に、約465品種80万本のショウブが咲き競う。珍しいアジサイもある柳生花しょうぶ園を訪れる。

巨石を御神体とする天之岩立神社近くにある幅7m、高さ4mの岩。真ん中ですっぱりと2つに割れており、柳生石舟斎が天狗を一刀両断に斬ったつもりでいたら、この石だったとの伝説が残る一刀石を訪れる。

奈良町方面に向かう。

興福寺の門跡寺院だった大乗院の庭園跡、庭園南側に立つ大乗院庭園文化館から望める旧大乗院庭園文化館を訪れる。

門前に『史蹟元興寺塔阯』の碑が立ち、民家に囲まれた小さな空間に仮堂と塔跡がある。塔跡には基壇と巨大な礎石が残り、興福寺の五重塔をしのぐ高い塔が立っていたことが想像できる。塔跡から出土した翡翠の勾玉や古銭などの元興寺塔跡土壇出土品(重要文化財)と、代表的な貞観時代の仏像の薬師如来立像(国宝)は、奈良国立博物館に寄託中の元興寺塔跡を訪れる。

奈良町で使用されていた江戸時代の看板や、古くから伝わる生活用品を展示。何が売られているのか一目でわかる、大根やそろばん型の絵看板がおもしろい。また、店内には日本最大という直径1.7mの大皿が並べられている。庚申信仰の身代わり猿も販売の奈良町資料館を訪れる。

暦や時計など「時」に関する資料を展示。庶民が最初に利用した暦の一つといわれる南都暦や江戸時代の携帯用日時計をはじめ、イスラムの天体観測器、中国の香時計など貴重品が並ぶ時の資料館を訪れる。

歌声による人づくり、街づくりを目指す「わらべうたの館」。わらべうた教室や、劇団「良弁杉」を運営し、奈良の民話の大紙芝居、東大寺良弁僧正の生い立ちを描いたミュージカル、スタッフ手作りのコンサートなどを開催。市民の作品を展示するギャラリーや、お手玉・羽根つきで遊ぶコーナーもある奈良市音声館を訪れる。

當麻曼荼羅で知られる中将姫ゆかりの寺で、藤原豊成・中将姫父子の墓がある。観音堂の子安観音像は乳児を抱き上げた珍しい姿をしており、我が国最古の子安観音といわれる徳融寺を訪れる。

當麻曼荼羅で知られる中将姫ゆかりの尼寺。中将姫の父、藤原豊成の邸跡に立ち、中将姫が生まれた所と伝わる。境内には産湯の井戸がある誕生寺を訪れる。

當麻曼荼羅で知られる中将姫の屋敷跡に立つ、ゆかりの尼寺。毎月13日に開扉される中将姫の木像、4月13日の中将姫会式で公開される父子対面の図、中将姫手織りの刺繍仏などゆかりの品を所蔵。父、藤原右大臣豊成卿の古墳も境内にある高林寺を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の歴史遺産の宝庫、奈良県に足を運び、柳生十兵衛を筆頭とする柳生新影流ゆかりの里、柳生、ながらの町並みが残り、古い民家の間には、町家を利用したショップやカフェ、古刹が点在する奈良町を訪れ時間を過ごしました。

歴史遺産がいっぱいで近場ですのでこれからも何回も訪れて、奈良の歴史を深く学びたいと思います。






奈良県大峰&大台ケ原観光
2010年8月25日


奈良県の南部に足を運び、聖地大峰山系の自然を楽しめる大峰、原生的大自然の大台ケ原を訪れました。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して橿原インター下車
13:30黒滝村到達

大峯参詣の拠点、洞川にある資料館。村民の生活道具や山岳信仰の様子を示す数々の資料を展示し、大峯信仰を中心に村の暮らしと歴史、自然と風土を紹介。なかでも、古くから伝わる民具や看板、行者名簿などが興味深い。併設のギャラリーほのぼのは無料開放され、シーズンごとに写真展などを開催している天川村立資料館を見学。

カルスト地形の洞川一帯には多くの鍾乳洞が点在するが、観光用に整備されているのがここ。洞内は無風で温度は年中8度に保たれている。つららのように垂れ下がる鍾乳石やタケノコのように下から伸びる石筍が、見事な自然美を造り出している面不動鍾乳洞を訪れる。

関西最大級の五代松鍾乳洞などのカルスト地形に湧く名水。地中を流れる水が鍾乳洞付近の洞穴にこだまし、「ごろごろ」と聞こえることから命名されたといわれる。ミネラル分を適度に含み、特にカルシウムの含有量が多い。洞川の温泉街には「名水コーヒー」「名水豆腐」などの看板を掲げる店も多く、毎年4月下旬には名水まつりも開かれる。洞川は大峯山系から清冽な水が湧出することで知られ、ごろごろ水を含む3カ所からなる洞川湧水群が環境省の「名水百選」に選定し、このごろごろ水を訪れる。

大峯山脈の主峰で標高1719m。正式には山上ケ岳という。役行者が7世紀に開き、修験道の聖山として古くから信仰を集めてきた。千三百年の間にわたり女人禁制を守り続けている。山頂には、世界遺産・わが国最高所に建つ大峰山寺(重要文化財)があり、山中には鐘掛岩・西の覗など多くの行場がある山上ケ岳(大峯山)を訪れる。

役行者が開いたとも、空海が大峯修行の拠点にしたともいわれる古社。芸能の神として知られ、篤く信仰する音楽関係者も多い。能楽とも縁が深く、室町時代には能楽座が結成された。拝殿には能舞台が併設されており、社宝に室町以降の能面や装束、謡本を多数所蔵。近年は「パワースポット」としても知られる天河大弁財天社を訪れる。

山上川と天の川の合流付近に、4kmにわたって続く渓谷。自然の要害として、南朝の皇族方が敵の来襲の際避難した場所で、南朝のロマンを秘めた伝説が残る。周辺の森林は人の手が入らず、特に新緑と紅葉は美しい。洞川温泉とは、約7kmの遊歩道で結ばれているみたらい渓谷を散策する。

台高山系の南端、標高1600mに広がる高原台地。近畿の屋根ともいわれる。年間降水量が4500mm以上に達する日本屈指の多雨地帯で、苔むした倒木が横たわる原生林やイトザサの草原、高層湿原などダイナミックで神秘的な大自然が魅力。ニホンシカなど野生動物に出合うことも多い大台ケ原を訪れる。

吉野林業の歴史や吉野杉の特徴、山里の文化をパネル展示などで紹介する資料館。吉野杉の植林や伐採風景などの3D映像も見ることができる。建物にも吉野杉がふんだんに使われている山幸彦もくもく館を訪れる。

18:00終了。

今回は近場の奈良県南部の秘境と呼ばれる大峰、大台ケ原の大自然に触れてきました。

一帯は古くから修験道の山として山伏の修行の場であり、道場としての大峯山は、単独の山を指す名前ではなく吉野山から熊野へ続く長い山脈全体を意味している大峰、頂上が平坦な複数の山からなる東西5kmほどの台地状の山塊が存在し、このような頂上が平坦で周囲を傾斜が急な崖で囲まれている地形を隆起準平原というが、日本では珍しい隆起準平原の例である大台ケ原、

大自然の真っ只中に入り込み自然を満喫できました。





奈良県十津川観光
2010年7月28日


奈良県の最南部にある、日本一大きな村で、電車が通っておらず、交通手段は車または、バスでの移動となり、村の北部にある吊り橋で有名な谷瀬のつり橋がある十津川村を訪れました。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
14:15十津川村到達

十津川に架かる上野地地区と対岸の谷瀬地区とを結ぶ大吊橋。1954年(昭和29)に完成し、全長297.7m、川面からの高さは54mある。水量のわりに極端に広い河原は明治の大水害の名残り。ここにかつて集落や耕地があった。被災した2600の村民は、新天地を北海道に求めて移住し、新十津川町をつくった。橋はGWとお盆には渡橋が一方通行になる。毎年8月4日には、橋上で和太鼓を叩く揺れ太鼓が催される谷瀬の吊り橋を訪れる。

十津川郷士の歴史的な活躍を物語る刀や鉄砲、旗、軸、天誅組の檄文などの古文書を展示。かつての山村の暮らしぶりも再現されている。北海道への移住のきっかけとなった、1889年(明治22)の大水害の記録のほか、玉置神社に奉納されていた梵鐘(重要文化財)も見学可。向かいの道の駅十津川郷地下1階には、民具や木材をテーマにしたむかし館がある十津川村歴史民俗資料館を見学。

玉置山山麓の約200万平方mが紀伊半島森林植物公園になっていて、紀伊半島に自生する樹木や草本類を集めた樹木見本園、遊歩道などが整備されている。21世紀の森には120種類約1万本のシャクナゲを集めた世界の森があり、4〜5月にいっせいに花が咲く様はまさに圧巻。このほか、自然に親しみながら森の様子が学べる森林館や、スポーツが楽しめる広いグランドもある21世紀の森・紀伊半島森林植物公園を散策する。

標高1076mの玉置山山頂近く鎮座し、熊野三山の奥の宮と称される古社。世界遺産に指定された大峰奥駈動の道上にあり修験道の行場としても栄えた。境内は樹齢3000年といわれる神代杉を始め、天然記念物に指定されている杉の巨樹群に包まれ、春にはシャクナゲが一円に開花する。社務所内では狩野派の筆による極彩色の杉戸・襖絵が拝観出来る。社務所は重要文化財に指定されている玉置神社を訪れる。

二津野ダムによってできた人工湖で、湖畔には旅館や商店が集まる十津川温泉がある。山々に囲まれた湖は水鳥の生息地で、11〜3月には全国有数のオシドリの越冬地になる二津野湖を訪れる。

17:00終了。

今回は奈良県の最南部、和歌山県と境にある日本一大きな村で、電車が通っておらず、交通手段は車または、バスでの移動となる十津川に足を運び、

日本有数の長さを誇る鉄線のつり橋、上野地と谷瀬を結ぶこの巨大なつり橋は長さ297メートル高さ54メートル。そびえ立つ深い山々に囲まれ、眼下には清澄な十津川(熊野川)が流れまさに絶景、最高のロケーションの谷瀬の吊橋、

世界のシャクナゲ1万本、村の花石楠花を世界中から集めた「世界の森」深い森のみどりの中にピンク、白、藤色、赤紫など色とりどりの花々が咲き誇ります21世紀の森・紀伊半島森林植物公園、

人里遠く離れた紀伊半島中央の、熊野のやまなみの雲海は、 はるか太平洋を遠望する霊峰玉置山。神々が降り立つ玉置山の標高1076mの境内には 神代杉をはじめ樹齢3000年といわれる老樹大樹が社となりその懐に抱かれるように荘厳な玉置神社の神殿、

を訪れ秘境と呼べる十津川の大自然と文化に接し満喫しました。




奈良県奈良市観光
2010年7月10日


歴史遺産と緑豊かな自然景観、4−8世紀に日本の中心であった大和路の奈良県に足を運び、大和路観光の中心で見所が集中している奈良市を訪れました。昨年訪れ、すべて周りきれず、前回訪れることが出来なかった名所を中心に今回巡りました。

12:30車で阪奈自動道経由して
13:00学園前到達。

女性初の文化勲章を受けた美人画の上村松園、花鳥画を描く息子の松篁、孫の淳之と上村家3代の日本画を収蔵する美術館。主な作品は松園の『花がたみ』『楊貴妃』、松篁の『真鶴』、淳之の『梟[ふくろう]』『月に』など。年6回ほど展示替えを行い、企画展や特別展、他館との交換展、花鳥画の公募展などを開催している松伯美術館を見学。

蛙股池を挟んで大和文華館の対岸に立つ。林業家、中野皖司氏が収集した美術品を公開する美術館。日本画の村上華岳、入江波光、洋画の須田国太郎を中心に、日本を代表する近代画家の作品約270点を収蔵、テーマを決めて展示している中野美術館を見学。

遠州七窯と呼ばれる茶器の窯の一つ、赤膚焼の窯元が五条山にある。赤膚焼とは、赤膚の名のとおり鉄分の多い陶土を使った陶器。焼き方により赤味、黄味、黒味と変化する。絵付けに奈良絵という単純素朴な絵柄をよく用いるのも特色だ。赤や緑の鮮やかな色彩で簡略な鳥居や鹿などを描いてある。五条山には、大塩昭山窯、古瀬尭三窯(登り窯は有形登録文化財に指定)、大塩正人窯、大塩玉泉陶苑と4軒ほどが窯を開き、それぞれ展示販売のスペースをもっている。都合が合えば製作現場を見ることができ、陶芸体験も可の五条山の窯元を訪れる。

赤膚焼・一刀彫・茶筌・漆塗り・表具・筆造りといった、奈良の伝統工芸を守る若手職人が集まる長屋。実際の仕事場になっているため、職人の技を見学可。完成品の展示・販売も行っている。併設の墨の資料館では奈良墨の歴史を紹介。赤膚焼の絵付け体験もできるがんこ一徹長屋を訪れる。

佐紀盾列古墳群、日葉酢媛命陵の西にあり、奈良時代の女帝孝謙(称徳)天皇の陵墓とされる。東西方向の不整形な前方後円墳で、西に拝所がある。孝謙(称徳)天皇は聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られている孝謙(称徳)天皇陵[佐紀盾列古墳群]を訪れる。

佐紀盾列古墳群の中にあり、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命の陵墓とされる。全長203mの前方後円墳で、巨大な蓋[きぬがさ]形埴輪などが出土した。『日本書紀』によると、垂仁天皇は皇后の死去にあたり、殉死の風習をやめさせるため、初めて埴輪を用いたという日葉酢媛命陵[佐紀盾列古墳群]を訪れる。

神功皇后は仲哀天皇の皇后とされ、三韓出兵の伝承が残る。全長275mの前方後円墳は佐紀盾列古墳群で最大の神功皇后陵[佐紀盾列古墳群]を訪れる。

黒髪山にある。文武天皇から聖武天皇へ皇位をつなぐために相次いで皇位に付いた母娘の女帝の陵墓。どちらも南に拝所がある元明天皇陵・元正天皇陵を訪れる。

光仁天皇の父志貴皇子を祭り、10月8日に営まれる伝統芸能「翁舞」で知られている。資料館では、室町初期の1413年(応永20)の銘が入った木彫の面のほか各種のお面を展示。貴重品の面は奈良国立博物館で展示されているため資料館では写真の展示の奈良豆比古神社を訪れる。

東大寺の末寺で、鎌倉時代の創建。本尊の五劫思惟阿弥陀如来坐像(重要文化財)は、頭の螺髪が長く伸びた珍しい姿で、鉢を被ったようにも見える。五劫とは途方もなく長い時間のことで、その間衆生の救済をひたすら考え続け、髪が伸びたのだという五劫院を訪れる。

仏教に帰依し、天平文化を開花させた聖武天皇の御陵。転害門から一条通りを西へたどり、石橋の法蓮橋を渡ると、参道前へ出る。玉砂利を敷き詰めた参道の先に拝所がある。右手奥には光明皇后陵がある聖武天皇陵を訪れる。

東大寺建立の際に、守護神として宇佐八幡を勧請して創建された。本殿は1691年(元禄4)の再建。校倉造の宝庫(重要文化財)は東大寺から移築された天平建築。社宝に唐鞍(国宝)、舞楽面(重要文化財)などがある手向山八幡宮を訪れる。

なだらかな丸い丘を3つ重ねたような形から、三笠山とも呼ばれる。全山芝生に覆われて気持ちよく、奈良盆地の眺望もいい。山頂に鶯塚古墳(史跡)がある若草山(三笠山)を訪れる。

第9代開化天皇の陵とされる前方後円墳。全長約100m、後円部径48m、前方部幅48m。三条通りから北に参道が延びており、付近は繁華街の近くとは思えないような静けさに包まれている開化天皇陵を訪れる。

鑑真和上の弟子、思託律師が宝亀年間に開いたと伝わり、1585年(天正13)に筒井順慶の母が順慶の菩提を弔うため再興。以後、筒井家の菩提寺となった。寄棟造の本堂(重要文化財)は再興時の建立。鎌倉時代の地蔵菩薩像(重要文化財)は裸形像に実際の着物を着せた裸形着装像として有名な伝香寺を訪れる。

瓦屋根に相輪をのせた、和洋折衷建築の旧駅舎。鉄筋コンクリート造り2階建てで、1934年(昭和9)に2代目駅舎として完成。古都の玄関口らしい佇まいで、旧駅舎をバックに記念撮影する観光客も多い奈良駅を訪れる。

新薬師寺南門の西に立つ小社。奈良時代に北九州で反乱を起こした藤原広嗣の霊を祭る。現本殿は、江戸時代に春日大社第三殿を移したものの鏡神社を訪れる。

17:30終了、大学の同窓会に出席するため大阪市内に向かう。







奈良県大和郡山&斑鳩観光
2010年6月12日


歴史遺産と、緑豊かな自然景観、この2つが継続して残っている美しい大和路、奈良県に足を運び、豊臣秀吉の弟・秀長が基礎を築いた城下町、大和郡山、聖徳太子が築いた斑鳩に点在する歴史的建造物を訪れました。

12:30車で第二阪奈自動車道経由して郡山方面に向かう。
13:00郡山エリアに到達。

都市近郊に残る自然を体験できる公園。峠池を中心とした子どもの森には芝生広場のほか、自然体験の基地として遊びの森子ども交流館と料理体験館を設置。多くの人たちが利用している。さらに約282haの遊びの森には矢田山周辺の観光地を結んだ遊歩道があり、展望台からの眺めはすばらしい。多くの野鳥や植物を見られ、自然を満喫できる矢田山 遊びの森を散策する。

自然林に囲まれた26万平方mの園内には、旧臼井家住宅(重要文化財)、旧岩本家住宅(重要文化財)など県内各地から農家や町家が移築されており、内部も見学できる。敷地の一角に立つ奈良県立民俗博物館では、山仕事や農耕などの用具を展示。体験学習も行われ、大和の風俗などを紹介するビデオも見られる大和民俗公園を散策する。

祭神は物部氏の祖神といわれる櫛玉饒速日神。天磐船で降臨の際に3本の矢を放ち、2の矢が落ちた所という。航空の神とされ、旅行の安全祈願に訪れる人も多い。春日造の本殿(重要文化財)は室町時代の建築で、楼門にはプロペラも奉納。物部氏との関係から、付近を邪馬台国とする説もある矢田坐久志玉比古神社を訪れる。

矢田丘陵の中腹にある高野山真言宗の古刹。開基は舎人親王と伝え、本尊に藤原時代作といわれる量感豊かな木造薬師如来坐像、木造吉祥天立像(ともに重要文化財)などを安置する。本堂のほか、鎌倉時代後期の作と伝えられる高さ4m15cmの七重石塔が立つ。寺宝で開山当時より伝わる“雷様のヘソ”がある東明寺を訪れる。

天武天皇の勅願による建立と伝え、僧坊48を数える大寺だったという。本堂は2003年秋に平成大修理完成した。本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)は貞観時代の作で、「矢田のお地蔵さん」と親しまれている。境内には石仏が多く、自家製の味噌を口元に塗ると味がよくなるという、「味噌なめ地蔵」は特に有名。シチダンカ・ツルアジサイなど、60種1万株のアジサイも名高い矢田寺を訪れる。

1663年(寛文3)、石州流茶道の祖でもある大和小泉藩主片桐貞昌が父の菩提を弔うために建立した。茅葺き屋根の書院(重要文化財)は簡素ながら風格があり、白砂とツツジの大刈込みが美しい庭園(史跡・名勝)をもつ。書院には高林庵(重要文化財)と閑茶室(重要文化財)という茶室がある慈光院を訪れる。

718年(養老2)、舎人親王が『日本書紀』の完成と自身の42歳の厄除けを祈願して開いたとされる。日本最古の厄除け寺といわれ、本尊木造千手観音立像が「厄除け観音」として信仰を集める。境内には1337年(建武4、延元2)に再興された本堂(重要文化財)、三重塔、行者堂、七福神堂、阿弥陀堂などが立ち並ぶ松尾寺を訪れる。

斑鳩方面に向かう。

近代陶芸の巨匠・富本憲吉の生家を利用した美術館。色絵磁器を中心に約500点の収蔵品から、時期別に150点ほどを展示する。大和風民家の母屋には囲炉裏を設けて、見学者がくつろげる空間を造り出している富本憲吉記念館を見学。

大和川・寺川・曽我川など9つもの川が合流する場所に立ち、農耕と治水の神として信仰を集める古社。境内には、春日造の朱塗りの社殿が鎮座している廣瀬神社を訪れる。

広陵町と河合町にまたがる、敷地面積約47万平方mという広大な公園。ナガレ山古墳や乙女山古墳なども公園内に含まれる。馬見丘陵公園館では、ジオラマなどを駆使して古墳の構造や古代史を紹介。春はツツジが美しく、ショウブ園や芝生広場などもある馬見丘陵公園を散策する。

十一面観音像を本尊とする古寺。縁起によると、敏達天皇の第7皇女である片岡姫が仏教に帰依し、自らの片岡宮を寺にしたと伝えられる。また用明天皇や聖徳太子らの支援を受け、大伽藍が建造されたともいわれるが、1046年(永承元)に落雷のため多くを焼失。残った堂宇も1572年(元亀3)に松永久秀の兵火で失った。境内には桜の老木があり、隠れた名所の放光寺を訪れる。

大和では珍しく達磨を祭る聖徳太子ゆかりの寺。太子がこの地で瀕死の旅人を見つけ、衣食を与えて介抱したが、翌日死亡してしまった。亡骸を葬ったところ数日で消えてしまい、太子が与えた着物のみが残されたため、これは達磨の化身であったかと堂を建てたという。鎌倉時代の初めには現在の境内の古墳上に寺が建てられ、達磨像を祭った。現在の本堂は2004年春に完成。木造達磨太子坐像(重要文化財)や絹本着色涅槃図(重要文化財)など寺宝も多い達磨寺を訪れる。

18:00終了。

今回の近場の史跡巡り、歴史遺産と自然の宝庫、奈良県に足を運び、豊臣秀吉の弟・秀長が基礎を築いた城下町、大和郡山、聖徳太子が築いた斑鳩を訪れ、点在する社寺、公園、博物館をめぐり楽しめました。






奈良県春日大社&奈良町史跡巡り
2010年3月10日


歴史遺産と緑豊かな自然景観が継続して残っている大和路の奈良公園周辺の春日山の麓に華麗なる宝物を伝える森の社、春日大社、昔ながらの町並みが残る奈良町を訪れました。

12:30車で阪奈自動車道経由して
13:00奈良公園到達

春日大社の表参道入口に立つ典型的な春日鳥居。創建は836年(承和3)と伝え、江戸時代に再建された。右手奥の「影向ノ松」は春日大明神が万歳楽を舞った所といわれ、おん祭の芸能も奉納される一の鳥居[春日大社]を通過する。

768年(神護景雲2年)、平城京の守護の為創建されたのが始まり。平安時代前期には現規模の社殿が整った。皇室の尊崇も篤かったが、庶民の信仰も集め、多くの灯籠が奉納された。本殿や古神宝類が国宝に、若宮神社、南門など多くの社殿と神宝が重要文化財に指定。社殿は式年造替といって、20年ごとに造り替えられてきた春日大社を訪れる。

春日大社にあり、『万葉集』に詠まれた植物300種を栽培、季節に応じてゆかしい花が咲く。1万平方mの園内には回遊式庭園や20種200本が咲く藤の園もある。浮舞台では5月5日と11月3日に萬葉雅楽会開催する春日大社神苑 萬葉植物園をおとずれる。

主に平安時代から鎌倉時代にかけて春日大社へ奉納された神宝を展示する。鎧や大刀などの武具、祭具、能楽面、調度品などを優れた美術工芸品が多く、国宝や重要文化財も多数含む宝物殿[春日大社]を見学。

春日大社の檜皮葺きの中門と御廊に囲まれて、一間社春日造の4棟が東西に立ち並ぶ。それぞれに祭神の武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神を祭る。現在の本殿は1863年(文久3)の造替で建てられたもので、その後の造替は国宝指定のため大修理にとどめられている本殿[春日大社]を訪れる。

春日大社南門前の100mほど南、石灯籠が密集する御間道の奥に社殿が佇む。師走に春日若宮おん祭が営まれることで知られる、春日大社の摂社。本社の祭神天児屋根命の御子神、天押雲根命を祭ることから若宮と呼ばれる。本殿は本社と同じ大きさの一間社春日造で、江戸時代の建築。神楽殿(重要文化財)は桃山時代の再建だが、平安朝寝殿造の形式を伝えている若宮神社を訪れる。

747年(天平19)、聖武天皇の病気平癒を祈願して光明皇后が建立したと伝わる。すっきりした美しさを見せる天平建築の本堂(国宝)は、床が瓦敷。内陣には白漆喰で円形の須弥壇を設け、本尊木造薬師如来坐像(国宝)を安置する。本尊を守護する塑造十二神将立像(国宝)は天平時代の作(1体は昭和の補作)。憤怒の形相がすさまじく、躍動感にあふれる新薬師寺を訪れる。

大和路を撮り続けた写真家、入江泰吉の8万点に及ぶ作品を収蔵。その写真を中心に展示し、企画展も催している。ハイビジョンギャラリーもあり、大和路の美を再発見できる。入江泰吉愛用の機材も展示する入江泰吉記念奈良市写真美術館を見学。

奈良公園内の鷺池に浮かぶ檜皮葺きの六角堂。1916年(大正5)に建てられ、1994年に建て替えられた。夜間はライトアップされ、周辺の桜やサルスベリも美しい浮見堂を訪れる。

志賀直哉は1929年(昭和4)から9年間ここで暮らし、大作『暗夜行路』を完結させた。白壁に囲まれた屋敷は、数寄屋造を基調としながら洋風を取り入れたサンルームや食堂が特徴的。当時、高畑に住んでいた白樺派の文人や画家がここに集い、高畑サロンと呼ばれた。登録有形文化財の志賀直哉旧居を訪れる。

土と石を積み上げた特異な塔。奈良時代に東大寺の実忠が造ったと伝わり、近年、高さ10m、7段のピラミッド状に復元された頭塔を訪れる。

元興福寺坊官・福智院家の居宅。1924年(大正13)から春鹿醸造元、今西家の所有となった。室町時代書院造の貴重な遺構。重要文化財に指定されている今西家書院を訪れる。

吉備真備の子、朝野魚養が元正天皇の旧殿を拝領して開いたと伝えられ、中世以降は地蔵信仰の場として知られた。鎌倉時代に礼堂として建てられた雅な本堂(国宝)の奥にある石仏龕[(重要文化財)は、わが国の石造美術の中でも珍しいもの。本尊地蔵菩薩の左右に釈迦如来と弥勒菩薩、扉石などにも多くの仏像が彫刻されている十輪院を訪れる。

奈良町の伝統的な町家を再現した建物。家の敷地の幅で税金が決まったことから、間口が狭く奥行きが深い構造になったという。収納スペースと階段が一緒になった箱階段や明かり採りなど、生活の知恵がいたる所にみられるならまち格子の家を訪れる。

奈良町に息づく庚申信仰の中心である小さなお堂。内陣には青面金剛立像(庚申)を祀る。庚申信仰は中国の道教に由来し、庚申の日には、寝ている間に体内から三尸[さんし]の虫が抜け出して天帝にその人の悪行を報告するという。家の軒にぶら下がっている身代わり申は、天帝に悪行を知られたとき自分の代わりに天帝の怒りを受けてくれるお守りの庚申堂を訪れる。

奈良町で使用されていた江戸時代の看板や、古くから伝わる生活用品を展示。何が売られているのか一目でわかる、大根やそろばん型の絵看板がおもしろい。また、店内には日本最大という直径1.7mの大皿が並べられている。庚申信仰の身代わり猿も販売する奈良町資料館を見学。

日本最古の寺・飛鳥寺が、平城遷都に伴い奈良に移されたのが元興寺。南都七大寺の一つとして隆盛したが、都が京都に移ると徐々に衰退。室町時代には火災で伽藍の大半を焼失した。現在残る寺は僧坊の遺構(史跡)。極楽堂・禅室(ともに国宝)は、天平時代の僧房の平面を伝える貴重な遺構だ。屋根瓦の一部は古代の丸瓦を使用(行基葺き)。飛鳥から運ばれた瓦など、建物には古材も含まれる。収蔵庫では天平時代の五重小塔(国宝)や聖徳太子坐像、智光曼荼羅、阿弥陀如来坐像(以上重要文化財)など、中世庶民信仰資料(重要有形民俗文化財)を展示。この寺の歴史と信仰がうかがえる元興寺を訪れる。

興福寺に伝わった寺宝の数々を収蔵。白鳳時代の仏頭(国宝)は、平安末に東金堂本尊として飛鳥山田寺から移してきたものといわれる。天平時代のものでは、凛々しい少年のような阿修羅像をはじめとする乾漆造八部衆立像(国宝)や十大弟子立像(国宝)が有名。鎌倉復興期の木彫仏は写実的で力強く、ユーモラスな天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝)などがある国宝館を見学。

聖武天皇が堂塔を建立したと伝わる。鎌倉時代の優美な楼門(国宝)を旧街道に面して構え、境内の中心に鎌倉時代の十三重石塔(重要文化財)が立つ。コスモスでも名高い般若寺を訪れる。

なだらかな丸い丘を3つ重ねたような形から、三笠山とも呼ばれる。全山芝生に覆われて気持ちよく、奈良盆地の眺望もいい。山頂に鶯塚古墳(史跡)がある若草山(三笠山)を訪れる。

志貴皇子の山荘跡を寺にしたと伝えられ、鎌倉時代に叡尊が再興した。宝蔵には閻魔王坐像(重要文化財)がどっしりと鎮座。眼光鋭く、口をカッと開いて迫力満点。眷属の司命・司録像(重要文化財)とともに鎌倉時代の康円一派の作。境内からの眺望もよく、参道の石段は秋、萩に覆われる白毫寺を訪れる。

17:00終了。

今回は奈良公園周辺の史跡巡り第二弾、奈良公園南エリア、春日山の麓に華麗なる宝物を伝える森の社春日大社、昔ながらの町並みが残る奈良町を訪れました。

奈良は多くの世界遺産の社寺の宝庫、今に伝わる華麗な仏像や古建築は、まさに名残、国宝の5分の一は奈良県に有るといえば、その価値がわかる大和路の歴史建造物巡りでした。












奈良県奈良公園周辺観光
2010年2月13日


今回は近場の4−8世紀に日本の中心であり、歴史遺産と緑豊かな自然景観が残る奈良県に足を運び、鹿や大仏さんで有名な大和観光の中心地である奈良公園周辺を訪れました。

12:30車で奈良方面に向かう。
13:15奈良公園到達。散策する。

奈良ゆかりの芸術家の作品を中心にした館蔵品展と春・秋の大規模な企画展を開催する奈良県立美術館を見学。

総面積1万3500平方m、前園と後園の2つの池泉回遊式庭園を組み合わせた、奈良を代表する名庭。明治期に奈良の豪商が造った後園は、東大寺南大門や若草山、御蓋山を借景とし、ひときわ見事。園内には古代中国の青銅器などを展示する寧楽美術館もある依水園を訪れる。

吉城川を挟んで隣接する依水園の前園と同じく、興福寺塔頭摩尼珠院の跡地に造られた庭園。春日山、若草山を借景に採り入れ、杉苔と紅葉が美しい。茶室もある吉城園を訪れる。

天然記念物に指定され、都市近郊で生態を観察することのできる野生動物の群落。768年藤原氏によって春日大社が創建されたとき、鹿島から勧進した神が白鹿に乗って降臨。その子孫である故事に基づき、神鹿として保護されてきた。明治時代の廃仏毀釈で神格をとかれ、乱獲や駆除により絶滅の危機に陥る。戦後にも密漁などにより二度目の受難期を迎えたが、1957年(昭和32年)に国の天然記念物に指定され、文化財として保護されるようになった。現在約1200頭の鹿が生息。奈良公園はシカたちの生息地。

仏教を中心とする国づくりを進めた、聖武天皇の発願で創建。大仏造立は国を挙げた一大プロジェクトで、752年(天平勝宝4)、大仏開眼法要が盛大に営まれた。1180年(治承4)、平重衡の南都焼き討ちで大半の堂塔を焼失したが、重源の勧進で復興。しかし1567年(永禄10)に松永久秀の兵火にかかり、再焼失。江戸中期になって現在の寺観が整った。広大な境内に、南大門・大仏殿・鐘楼・法華堂・二月堂・転害門(以上すべて国宝)などが散在する東大寺を訪れる。

東大寺大仏殿の西方に立つ。754年(天平勝宝6)に来日した鑑真和上は大仏殿前に特設された戒壇で、聖武上皇らに戒(僧が守るべき規律)を授け、翌年現在地に戒壇院が建立された。3度の火災にかかり、現在の戒壇堂は1733年(享保18)の再建。堂内の四隅に安置された天平時代の塑造四天王像(国宝)は傑作の誉れ高い。動きを抑えた姿、憂愁を帯びた表情のなかに強い気迫を秘め、ひっそりとした堂内に凛とした空気が漂う戒壇堂[東大寺]を訪れる。

大寺大仏殿東方の丘上にある。治承の兵火は免れたが、鎌倉時代に再建された豪放な建築。高さ3.9m、重さ26トンの大鐘で、奈良太郎の呼び名で親しまれている鐘楼を訪れる。

国宝の本尊盧舎那仏(大仏)を安置する、東大寺の金堂。廻廊と中門に囲まれた壮大な建築で、間口57m・奥行き50m・高さ48m。江戸時代の再建で創建時より間口が3分の2に縮小されているが、それでも木造古建築としては世界最大だ。銅造の盧舎那仏は高さ15m。華厳経の教主とされ、世界の真理そのものを体現する仏さまという。頭部は江戸時代のもので、補鋳を重ねてはいるが、両足や蓮弁の一部に天平創建時の部分を残す。大仏殿前の金銅八角燈籠(国宝)は高さ4.6m。楽器を奏でる音声菩薩が浮き彫りされている大仏殿[東大寺]を訪れる。

東大寺建立の際に、守護神として宇佐八幡を勧請して創建された。本殿は1691年(元禄4)の再建。校倉造の宝庫(重要文化財)は東大寺から移築された天平建築。社宝に唐鞍(国宝)、舞楽面(重要文化財)などがある手向山八幡宮を訪れる。

伝説では東大寺の前身とされる金鐘寺の遺構といわれる。天平時代建築の東大寺最古の建物だが、正面の礼堂は鎌倉時代に修造されたもの。本尊の脱活乾漆造不空羂索[ふくうけんじゃく]観音立像(国宝)は高さ3.6m。沢山の宝石で荘厳された見事な宝冠を戴き、3目8臂の威厳に満ちた表情が印象的だ。その左右に塑造日光・月光菩薩立像(国宝)が、穏やかな表情で合掌して立つ。須弥壇左右に立つ脱活乾漆造梵天・帝釈天立像(国宝)は、高さ4mの堂内最大の巨像。内陣の四隅で本尊を護る脱活乾漆造四天王立像(国宝)もそれぞれ高さが約3mある。塑造金剛神立像(国宝)は12月16日のみ開扉される秘仏。憤怒の表情が迫力あふれる法華堂(三月堂)[東大寺]を訪れる。

東大寺法華堂のすぐ北に位置し、毎年3月に修二会(お水取り)が営まれることで知られる。修二会が旧暦2月に行われたことから、二月堂の名が付いた。1667年(寛文7)に火災で全焼。現在の堂はその2年後、焼失前の形そのままに再建された。懸造で、大仏殿の屋根を眼下に奈良市内が一望できる。本尊は絶対秘仏の十一面観音の二月堂[東大寺]を訪れる。

聖武天皇の遺愛の品をはじめ、東大寺に伝わった宝物を納める宝庫。現在は宮内庁が管理する。校倉造、高床式の正倉は国宝。光明皇后が寄進した聖武帝の遺品のほか、大仏開眼会で使われた法具などの宝物は戦後、構内に建築された新倉庫に移されている。見学は外観のみ可能で、収蔵品は毎秋、奈良国立博物館で開かれる正倉院展に出陳される正倉院を訪れる。

平城京の東七坊大路、現在の国道369号に面し、一条大路(佐保路)に向かって立つ。三間一戸の雄大な八脚門で、天平建築の貴重な遺構。鎌倉時代に大修理されているが、当初の姿をよく残しているといわれる。源平の戦いに敗れた平景清がこの門に隠れ、大仏供養に参詣する源頼朝を狙ったとの伝説も残す転害門[東大寺]を訪れる。

奈良時代、吉城川沿いの春日野に造られた氷池や氷室(氷の貯蔵庫)に、氷の神を祭ったのが始まりといわれ、のちに現在地に移された。製氷業者の信仰が篤く、毎年5月1日には献氷祭を開催。神前にタイやコイを封じ込めた高さ1mの氷柱が奉納される。現社殿は江戸時代の造営といわれ、境内の枝垂桜も美しい氷室神社を訪れる。

大寺の正門。重層入母屋造の豪壮な門で、高さ25m。鎌倉復興期に再建された、大仏様の代表的な遺構。阿・吽形の2体の木造金剛力士(仁王)像(国宝)は、運慶・快慶など、慶派仏師一門がわずか69日で制作したと伝わる南大門[東大寺]を訪れる。

春日大社の表参道入口に立つ典型的な春日鳥居。創建は836年(承和3)と伝え、江戸時代に再建された。右手奥の「影向ノ松」は春日大明神が万歳楽を舞った所といわれ、おん祭の芸能も奉納される一の鳥居を訪れる。

仏教美術では国内随一の質と量を誇り、各時代の代表的仏像を多数展示する。1895年(明治28)建築の本館(重要文化財)はレンガ造りの風格ある洋館。東西の新館は校倉造を模している奈良国立博物館を見学。

京都山科の藤原鎌足の私邸に建立された山階寺が始まり。飛鳥を経て平城遷都に伴い現在地に移り興福寺と号した。藤原氏の氏寺として隆盛し、平安時代には大和国を支配。僧兵を擁し、比叡山延暦寺とともに南都北嶺と呼ばれ、畏れられた。平家の南都焼討ちで大半の堂塔を焼失したが、鎌倉時代に復興。その後も堂塔は焼失と再建を繰り返したが、寺勢は徐々に衰え、明治の廃仏毀釈では崩壊寸前に追い込まれた。それでも東金堂(国宝)、五重塔(国宝)、北円堂(国宝)、三重塔(国宝)、南円堂(重要文化財)などが残り、優れた仏像を多数所蔵する興福寺を訪れる。

興福寺に伝わった寺宝の数々を収蔵。白鳳時代の仏頭(国宝)は、平安末に東金堂本尊として飛鳥山田寺から移してきたものといわれる。天平時代のものでは、凛々しい少年のような阿修羅像をはじめとする乾漆造八部衆立像(国宝)や十大弟子立像(国宝)が有名。鎌倉復興期の木彫仏は写実的で力強く、ユーモラスな天燈鬼・龍燈鬼立像(国宝)などがある国宝館を訪れる。残念ながら休館でした。

興福寺にはかつて3つの金堂があり、これは東に位置するから東金堂。726年(神亀3)に聖武天皇の発願で建立されたが、現在の堂は1415年(応永22)に天平様式で再建されたもの。堂内には本尊薬師如来像(重要文化財)と脇侍の日光・月光両菩薩像(重要文化財)、十二神将像(国宝)、四天王像(国宝)、文殊菩薩像(国宝)などを安置する東金堂[興福寺]を訪れる。

興福寺にある、高さ約51mの塔。古塔としては京都・東寺の五重塔に次ぐ高さで、奈良のシンボルとして親しまれている。730年(天平2)、光明皇后によって創建されたが、たびたび焼失。現在の塔は6度目の再建だ。室町時代の建築ながら、東金堂と同様、天平様式を忠実に再現している五重塔[興福寺]を訪れる。

周囲に柳が植えられた風情のある池。もとは興福寺の放生池として造られたといわれ、甲羅干しする亀も名物。奈良時代、帝の寵愛が衰えたことを嘆いた釆女が身を投げたとの伝説も残る猿沢池を訪れる。

興福寺北円堂と対になる八角円堂。813年(弘仁4)、藤原冬嗣が父内麻呂のために建立した。現在の堂は江戸時代の再建。西国三十三カ所観音霊場第9番札所でもあるため、堂前には線香の煙りが絶えず、庶民的な雰囲気が漂う。本尊は高さ3.4mの不空羂索観音坐像(国宝)で、運慶の父康慶一門の作だ。堂内は、毎年10月17日に特別開扉される南円堂[興福寺]を訪れる。

721年(養老5)、藤原不比等の1周忌に際し建立された。堂々とした八角円堂だが、現在の建物は鎌倉時代の再建。堂内には運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊弥勒如来像(国宝)の、無著・世親菩薩像(国宝)などを安置、毎年春と秋に特別公開される北円堂[興福寺]を訪れる。

興福寺南円堂から猿沢池への石段を下りる途中の右手に、ひっそりと佇んでいる。目立たない場所にあるためか、訪れる人も少ないが、繊細な美しさがある塔だ。1143年(康治2)、崇徳天皇の中宮皇嘉門院が創建、現在の塔は鎌倉初期に藤原様式で再建されたもので、高さ約19m。毎年7月7日に特別開扉される三重塔を訪れる。

平城遷都以前からある古社。現在は大神神社の摂社で、本殿は一間社春日造の社が3棟並んで立っている。中殿には神武天皇の皇后媛蹈鞴五十鈴姫命、その右には母の玉櫛姫命、その左には父の狭井大神を祭っている。両親が子を守るようにして鎮座していることから、通称・子守明神といわれ、縁結び・安産・育児の神様として女性の信仰を集めている率川神社を訪れる。

593年(推古元)創建といわれ、藤原氏に崇敬された。檜皮葺きの本殿は三間社流造。社宝に徳川家康奉納といわれる鎧があるが、奈良国立博物館に寄託中。境内の林神社は、室町時代に中国から渡来し饅頭の製法を伝えた林浄因を祭神とする漢国神社を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の歴史遺産の宝庫、奈良県の奈良公園周辺の歴史的建造物巡りしてきました。

何回も訪れたことのある東大寺を中心とした奈良公園周辺、今回は詳細ガイドブックを読みながら見学、あらためて大和路の歴史の深さを感じました。

奈良公園周囲の名所は数多く、すべてを巡ることができず、東大寺、興福寺周辺でしたが次回は春日大社、奈良町を攻めてみたいと思います。















奈良県五条&吉野観光
2010年1月20日


今回は近場の奈良県、奈良吉野川沿いに点在する史跡を巡りました。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
13:30吉野方面に到達

1963年(昭和38)、津風呂川をせき止めて造られた周囲32kmのダム湖、津風呂湖を訪れる。

四郷川、高見川、日裏川の合流点に鎮座する水の神。676年(天武4)、降雨、止雨を祈願する社として創建された。本殿は三間社流造、檜皮葺き。鎌倉時代作の石灯籠(重要文化財)もみどころの丹生川上神社中社を訪れる。

上市から吉野川を5kmほどさかのぼった所にある景勝地。両岸は巨岩奇石で覆われ、川幅も急激に狭まり奔流となって流れる。万葉人も多くの歌を残している。付近の宮滝遺跡からは飛鳥〜奈良時代の遺構が見つかっており、斉明天皇や持統天皇がたびたび行幸した吉野離宮跡ではといわれる。南岸は万葉歌で知られる象山。近くに吉野歴史資料館もある宮滝を訪れる。

五条方面に向かう。

五條の歴史と文化が、3D映像などのハイテク設備で楽しく学ベる施設。建築家・安藤忠雄氏の設計した本館は、上から見ると木の切り株に似ているため、ごじょうばうむの愛称で呼ばれる。栄山寺八角堂内陣装飾画の復元や、五條の遺跡の出土品なども展示する五條市立五條文化博物館を訪れる。残念ながら冬季は休館でした。

719年(養老3)に藤原不比等の長子武智麻呂が創建したと伝わる。室町再建の本堂には薬師如来坐像(重要文化財)を祭り、その右側に立つ八角円堂(国宝)は、天平時代の円堂としては、法隆寺夢殿と並ぶ貴重な遺構。武智麻呂の菩提を弔うために子の仲麻呂が建立したという。平安初期の梵鐘(国宝)には小野道風筆といわれる銘文が残る榮山寺を訪れる。

門前に「史跡天誅組本陣址」の石標が立つ。大和に挙兵した天誅組は1863年(文久3)8月に五條代官所を襲撃、この寺を本陣とし五條仮政府を設けたことから、明治維新発祥の地ともいわれる。本堂前には、代官鈴木源内ら5人の首を洗ったという石手水鉢が置かれている櫻井寺を訪れる。

大和と紀州を結ぶ交通の要衝として栄えてきた五條。旧街道は役割を国道に譲ったが、新町筋は旧紀州街道の雰囲気をよく残している。約1kmの細い道筋には江戸・明治期に建った白壁の町家が並び、1607年(慶長12)に建てられ、日本最古の民家といわれる栗山家住宅(重要文化財)もある新町筋を散策する。

平重盛によって平安末期に創建されたと伝わる古刹。本堂に藤原時代作の本尊薬師三尊像を安置する。ボタンの名所としても知られる金剛寺を訪れる。

西吉野村北曽木の丘陵を覆う梅林は、月ケ瀬村と並ぶ奈良の梅どころ。2月下旬から3月下旬にかけて、約2万本の純白や薄紅色の花で埋め尽くされ、ほのかな香りを山里に漂わす。南北朝時代に都を追われた公家も歌に詠んでおり、当時からすでに梅の名所として知られていたことをうかがわせる。梅林入口付近には、南朝の行在所だったといわれる賀名生皇居跡(堀家住宅)(重要文化財)がある賀名生梅林を訪れる。

17:00終了。

今回は和歌山県の境、奈良県の南部に位置する奈良吉野川に点在する吉野から五条の範囲に位置する史跡、自然を巡りました。

吉野は前回、南北朝時代の古都、吉野山の史跡巡りしましたが今回は吉野の自然と大和と紀州を結ぶ交通の要衡として栄えた五条の史跡を巡り、歴史学習できました。









奈良県生駒史跡巡り
2009年11月18日


今回は近場の奈良県の生駒信貴山脈の麓に足を運び、寺社など歴史的建造物を巡ってきました。

12:30車で生駒方面に向かう。

茶を点てるときに使う茶筌は、国内生産のおよそ9割を生駒市高山で作っている。その茶筌つくりにかかわる資料を展示し、また、さまざまな竹の見本園もある高山竹林園を訪れる。

聖武天皇が狩りをした際、我が子の流れ矢にあたって死んだ鳥見郷の名族真弓長弓[まゆみながゆみ]を哀れんで、行基に命じて建立させたと伝わる。入母屋造檜皮葺きの本堂(国宝)は、和様に天竺様、唐様を加えた優美な建築。堂内には厨子(重要文化財)に納められた一木造の十一面観音立像(重要文化財)を安置する長弓寺を訪れる。

商売繁盛の現世利益と、禁酒など断ちものを祈願する庶民信仰の寺。生駒山中腹にあり、生駒の聖天さんと親しまれている。役行者や空海が修行した地と伝えられ、1678年(延宝6)に宝山湛海が歓喜天を祭ったのが寺の起こり。般若窟と呼ばれる大岩壁を背に、本堂・聖天堂・多宝塔・絵馬堂などが立ち並ぶ宝山寺(聖天さん)を訪れる。

正式には往馬坐伊古麻都比古神社といい、石垣の壇上に7棟の春日造檜皮葺きの社殿が立ち並ぶ。社殿は明治の再建だが、古くは生駒山を御神体とした神社で火の神として崇敬を集め、歴代の天皇即位の際に、火を起こす道具である火燧木を献上してきた往馬大社を訪れる。

天平勝宝年間(749〜757)に創建された古刹。本尊の阿弥陀三尊像を祭る本堂(重要文化財)は入母屋造本瓦葺きで、鎌倉時代に再建されたもの。本堂前に同じく鎌倉時代の美しい宝篋印塔(重要文化財)が2基あり、南側の塔身には四仏が浮彫され、北側の塔身には四仏を表す梵字と永仁元年(1293)の銘が刻まれている円福寺を訪れる。

役行者が大峯山を開く前に修行したといわれる修験道の霊場で、元山上とも呼ばれる。境内には本堂や観音堂、宝塔、十三重塔などの堂塔が立ち並び、五尊磨崖仏やハラミ地蔵、貝ふき地蔵という名の地蔵が崖に彫られた行場めぐりもできる千光寺(元山上)を訪れる。

天武天皇の皇子、高市皇子の第一皇子である長屋王の墓と伝えられる場所。聖武天皇即位の際に左大臣に就いたものの、藤原氏の陰謀で、自殺に追い込まれた。削平された前方後円墳の後円部を利用した直径15mの塚が樹木におおわれている長屋王墓を訪れる。

龍田風神とも呼ばれる風の神を祭る式内社。崇神天皇の時代に凶作が長く続いた際、神のお告げをもとに社殿を創建。気を司る天御柱命と国御柱命を祭ったところ、五穀豊穣になったと伝える。近年は、航海や航空の安全を祈る参拝客も多い龍田大社を訪れる。

標高437mの信貴山中腹にある聖徳太子ゆかりの寺。寅の年・寅の日・寅の刻に現れた毘沙門天を、太子が祭ったのが始まりとされる。松永久秀が築いた信貴山城が1577年(天正5)に織田信長に攻められて炎上すると、寺も焼亡、のち豊臣秀頼が復興した。本尊の毘沙門天は福徳と財宝を授けるといわれることから、庶民信仰が篤い。石灯籠が並ぶ参道には巨大なトラの像も設置されている。山腹に護摩堂や三重塔などが立ち並び、一番奥の舞台造の朱塗りの本堂からは、奈良盆地の眺望がすばらしい。寺宝に名高い信貴山縁起絵巻(国宝)を伝え、本堂脇の霊宝館で毎年10月末日から2週間公開される朝護孫子寺を訪れる。

生駒山脈の稜線をたどり、大阪平野と大阪湾、奈良盆地の眺望を楽しみながら走れる全長20.9kmの快適なドライブウェイ。阪奈道路登山口から生駒山上遊園地・生駒山上を経て、暗[くらがり]峠・鳴川峠・十三峠とクロスして信貴山へ至る。春は桜、夏は新緑、秋は紅葉と四季折々の景色が楽しめ、夜景スポットとしても有名な信貴生駒スカイラインを走行する。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の奈良県、生駒山脈の麓の歴史的建造物を訪れ、歴史学習できました。

尚信貴スカイラインを走行して、東の奈良盆地、西の大阪平野の奥行きのある町並みの眺望、今までにも何回も訪れ眺望してきましたが、やはりすばらしいものがあり、奥行きのある眺望はぴか一と言っても過言では無いでしょうか。






奈良県吉野山史跡巡り
2009年10月24日


今日は近場の奈良県に足を運び、一目千本といわれる桜の名所で、修験道の根本霊場、世界遺産にも登録されている金峯寺や如意輪寺をはじめとする史跡で有名な吉野山を訪れました。

12:30車で阪神近畿南阪奈自動車道経由して
13:30吉野到達。

1889年(明治22)の創建で、祭神は後醍醐天皇。後村上天皇自らが彫ったと伝えられる後醍醐天皇の尊像を、吉水神社から奉遷して創祀された。現在の総檜造の社殿は1932年(昭和7)の造営。境内の摂社3社には、日野資朝など建武中興の功臣7人を祀る吉野神宮を訪れる。

銅製の鳥居で高さ約8m。吉野山から山上ケ岳まで4つある門のうちの最初で、「発心門」[ほっしんもん」と書かれた扁額を掲げている。修験者は鳥居に手を触れ、「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山する。もとは東大寺大仏鋳造の余った銅で建立したともいわれる銅鳥居を通過する。

吉野山の尾根上にひときわ高くそびえる。修験道の開祖、役行者によって奈良時代に開かれた金峯山寺の本堂(国宝)で、高さ約34m。木造古建築では東大寺大仏殿に次ぐ大きさだ。堂内には杉、檜、ナシ、ツツジなど自然木をそのまま使った68本の柱が林立、山岳宗教の荒々しい雰囲気を漂わせている。3体ある本尊の蔵王権現は高さ7mの巨像。国内最大といわれる厨子に納められた秘仏の金峯山寺蔵王堂を訪れる。

元は吉水院と称し修験宗の僧坊だったが、明治の神仏分離令で後醍醐天皇、楠木正成・宗信法印を祭る神社となった。源頼朝に追われた義経は静御前、弁慶らとともにここに身を隠し、後醍醐天皇の行宮にもなった。豊臣秀吉が花見の本陣を置いたことでも知られる。書院(重要文化財)には、後醍醐天皇玉座の間や義経潜居の間がある。平成16年7月に世界遺産に指定された吉水神社を訪れる。

後醍醐天皇の勅願寺で、創建は延喜年間(901〜923)とされる。1347年(正平2)、楠木正行が出陣に際し、辞世の歌を鏃で刻んだという扉を、桜材の蔵王権現立像(重要文化財)などとともに宝物殿に陳列。境内には正行の髻を埋めた髻塚、正行の妻となるはずだった弁内侍の黒髪を埋めた至情塚がある。本堂後方には後醍醐天皇陵もある如意輪寺を訪れる。

818年(弘仁9)、空海が入峯した時に建てた椿山寺に始まるといわれ、金峯山寺四律院に数えられたが、現在は単立寺院。境内の小高い位置に広がる池泉回遊式庭園の群芳園は大和三庭園の一つ。秀吉の花見の際に千利休が作庭、細川幽斎が改修したと伝えられ、吉野の山を借景とする。寺は格調高い宿坊としても知られる竹林院を訪れる。

水の配分を司る、天之水分大神を祭る。みくまりが訛って「みこもり」となり、子授けの神として信仰を集めるようになった。社殿は1604年(慶長9)、豊臣秀頼の再建。3殿を1棟とした本殿(重要文化財)、拝殿(重要文化財)、幣殿(重要文化財)、楼門(重要文化財)、回廊(重要文化財)からなる、桃山時代の特色をもった美しい建物の吉野水分神社を訪れる。

吉野山の最奥、奥千本にひっそりと立つ古社で、吉野山の地主神、金山毘古命を祭る式内社。中世以降修験道の行場として知られ、関白藤原道長も祈願したことが『栄華物語』に記載。道長が埋めたとされる金銅製の経筒(国宝)が山上ケ岳で江戸時代に発掘された。社殿を少し下った所に、頼朝に追われた義経が身を隠したという義経隠れ塔が残る。追っ手に囲まれた際、屋根を蹴破って逃げたことから、蹴抜けの塔ともいわれる金峯神社を訪れる。

金峯神社からさらに山中に分け入った所にある小さな庵。『新古今和歌集』の代表的歌人の一人である西行が、俗塵を避け3年間幽居した場所と伝わり、庵の中には西行像が安置されている。西行が「とくとくと落つる岩間の苔清水汲みほすまでもなきすみかかな」と詠んだ苔清水も近くに残り、西行の歌碑や、西行を慕ってここを訪れた芭蕉の句碑が立つ。付近は桜、紅葉が美しい西行庵を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、奈良県吉野山に足を運び、吉野大峯の山々は有史以前から神々の鎮まる聖地であり、やがて山中で心身を耐えるものが現れ、修験道の根本霊場へと発展、天険の地に大伽藍が築かれ、また有名な桜、源義経の逃避行、後醍醐天皇の南朝など修験の本山であることと深く関わっている吉野の歴史建造物巡り満足できました。







奈良県大宇陀観光
2009年9月30日


今回は近場の織田家ゆかりの城下町、旧街道沿いには現在も古い家並やかつての松山城の遺構などが散在する奈良県大宇陀に足を運びました。

12:30車で近畿南阪奈自動車道経由して
13:30大宇陀到達

旧内藤家住宅。明治時代前期に建てられたと推定される。煙出しが残る伝統的な町家で、改造前の痕跡も建物の各所に残る。平成12年に建物が寄贈され、町並み保存事業の基準に則して整備されたまちづくりの拠点施設。現在は町づくりのための会議や、まち歩きの休憩所として利用することができる。また展示スペースでは旧内藤家住宅に関する展示や、歴史的町並みの保存と整備に関する展示を行っているまちづくりセンター千軒舎を訪れ、ここを拠点として大宇陀を散策する。

旧街道に面した吉野葛の老舗、吉野葛本舗の裏山に広がる薬草園。1729年(享保14)森野通貞により開かれ、今なお当時の面影を残す。園内には約250種類もの薬草が栽培され、珍しい草花を目にすることができる森野旧薬園を散策する。

旧街道沿いにある地域コミュニティの場です。入ってすぐにゆったりとした休憩所があり、二階には展示コーナーや集会室があります。また、裏の中庭には施設名の由来になった南北朝時代の石垣がある石景庵を訪れる。

製薬の町、大宇陀の歴史がわかるミニ資料館。旧街道筋に面して立ち、年代ものの銅板葺きの看板が掛かる。建物は、1806年(文化3)から薬問屋を営んでいた細川家住宅を改修したもの。館内には昔の薬の看板や薬のパッケージ、細川家ゆかりの藤沢薬品に関する資料などが展示されている宇陀市大宇陀歴史文化館薬の館を訪れる。

大宇陀の中心部の松山地区には江戸時代、福島氏、織田氏の居城だった松山城があった。この門はその名残を留める唯一の遺構。福島正則の弟福島掃部頭孝治が、松山城を居城とした江戸初期に建築された。本瓦葺き切妻屋根の簡素な門で、壁以外は黒く塗られているから、黒門という松山西口関門を訪れる。

創建は推古時代と伝えられる古刹で真言宗御室派、本尊は十一面観音菩薩像。十薬やウイキョウなど、周囲の山に自生する薬草を使った精進料理が食べられる大願寺を訪れる。

宇陀川沿いの小高い丘にあり、柿本人麻呂が当地で詠んだ秀歌「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへりみすれば月かたぶきぬ」を刻んだ歌碑が立つ。かぎろひとは厳冬のよく晴れた日の出前、東の空を彩る陽光。人麻呂がかぎろひを見た陰暦11月17日、この場所でかぎろひを観る会が開かれる。園内には万葉植物も植栽されている。丘の下からは阿騎野が古代の狩場だったことを示す遺跡が発掘され、阿騎野・人麻呂公園として保存されているかぎろひの丘万葉公園を散策する。

寛永9年(1632)織田常真公信雄のぶかつ(織田信長の次男)の菩提を弔うため四男の織田出雲守高長が京都北野の古寝殿を移築したものを本堂として創建する徳源寺を訪れる。

宇陀郡の屈指の大社で水の配分を司る神を祭る。創建は崇神天皇の時代にまでさかのぼるといわれ、延喜式にも記載された古社。大和の式内社の水分神社はここと葛城、吉野、都祁の4社だけ。緑に包まれた鎌倉時代の本殿(国宝)は、一間社隅木入春日造の3棟が並び立ち、速秋津彦神邸、天水分神、国水分神の水分三座を祭る。本殿に向かって右側に、室町中期の摂社春日神社本殿(重要文化財)と室町末期の摂社宗像神社本殿(重要文化財)が並んでいる宇太水分神社を訪れる。

山桜や白い彼岸花が美しい山寺。850年(嘉祥3)、空海の高弟堅恵が創建したと伝える。本堂背後、平安前期の宝形造の石室(重要文化財)には堅恵の墓という石室があり、中に五輪塔が立っている仏隆寺を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の奈良県宇陀市に足を運び、織田信長の次男、信雄を祖とする織田松山藩の城下町として栄え、旧街道沿いには現在も古い家並やかつての松山城の遺構などが散在、名物葛を味わえる店、さらに街道西側には、織田家ゆかりの古刹や、柿本人麻呂が秀歌を詠んだ万葉集ゆかりの故地などが位置する大宇陀を訪れ、散策し多くの歴史的建造物に触れました。








奈良桜井&初瀬&室生観光
2009年4月4日


今回は近場の奈良県、古代大和政権の中心地として栄えた桜井、門前町として発展した初瀬の長谷寺や室生寺に足を運びました。

車で近畿自動車道、阪和自動車道を経由して
13:30室生到達、天候雨、肌寒い。

奈良時代末、興福寺の僧賢憬が東宮(のちの桓武帝)の病気平癒の祈祷の行場としたのが始まり、高野山金剛峰寺が女人禁制だったのに対し、室生寺は女人の参詣を許可、女人高野と呼ばれ、16mの五重塔(国宝)は屋外に立つ古塔としては最小の室生寺を散策する。

室生寺から東に室生川を1kmほどさかのぼった所にある式内社、龍神を祭り、雨乞いの神として知られる。平安時代には朝廷から雨乞いの使者が遣わされたという。社殿は近世以降のもので、1kmほど山中に分け入った所に龍神が住むという穴が口を開ける室生龍穴神社を訪れる。

宇陀川沿いに立つ小寺、役行者が開き、弘法大師が824年(天長元)に堂を建立したと伝わる。対岸の岩壁に線刻された弥勒大磨崖仏は高さ11.5mで国内最大の磨崖仏、鎌倉時代に笠置寺の磨崖仏を模して刻まれたといわれる大野寺を訪れる。

初瀬方面に向かう。
西国霊場第8番札所。686年(朱鳥元)、天武天皇のため、道明上人が銅板法華説相図を西の岡に安置、727年(神亀4)に徳道上人が聖武天皇の命を受け、東の岡に十一面観音像を安置したことに始まり、仁王門をくぐると、399段の石段の登廊が本堂に続き、室町時代作の本尊十一面観音立像(重要文化財)は高さ10mの巨像のある長谷寺を散策する。

桜井方面に向かう。
藤原鎌足の遺骨を摂津国阿威山からこの地に改葬し、長男定慧が木造十三重塔(重要文化財)を建てたのに始まり、弟の不比等が神殿を建て父の像を安置したと伝わる。室町再建の塔は高さ17mで、木造十三重の古塔としては現存唯一の遺構、宝物館を兼ねた拝殿(重要文化財)には僧兵の太刀や薙刀などが展示され、重要文化財も多い談山神社を訪れる。

多武峰山麓の高台にあり、境内からは三輪山や箸墓古墳をはじめ大和盆地を一望でき、712年(和銅5)、藤原鎌足の長男定慧の創建と伝えられ、和辻哲郎が『古寺巡礼』で気高いその姿を絶賛した十一面観音立像(国宝)は、天平彫刻の傑作としてあまりにも有名な聖林寺を訪れる。

645(大化元)年創建の日本三文殊第一霊場として名高い寺、本尊の文殊菩薩は鎌倉時代の大仏師・快慶作の重要文化財で日本最大(7m)、境内文殊池中央に浮かぶ金閣浮御堂は、魔除け・災難除けの願掛け道場となっている安倍文殊院を散策する。

17:00終了。
今回の歴史的建造物巡り、天候は雨でしたが季節柄多くの人が訪れ賑わっていた、奈良県の門前町として栄えた室生の室生寺他、初瀬の長谷寺、古代大和政権の中心地として栄えた桜井の談山寺その他を巡り、このエリアにおいても奈良県の歴史遺産の偉大さを感心させられる歴史学習めぐりでした。

尚桜のシーズンです。今回訪れた奈良県はまだ3分咲きでこれから楽しみです。




奈良時代遷都史跡巡り
2009年3月14日


7世紀半ばから8世紀にかける150年間に13回の遷都が行われ、今回は奈良時代の遷都、平城京跡、山背恭仁京跡、紫香楽京跡、難波京跡に足を運びました。

13:00車で近代的な13階建ての建物に、時代別に分類された展示フロアでは、古代から現代までの大阪の歴史をジオラマ、映像などを交えて詳しく紹介している大阪歴史博物館を見学。

近くには、古代日本において難波の地に設営された都城であり、飛鳥時代に宮が設置された(前期難波宮)が、京の存在は確認できていないが奈良時代に設置された宮(後期難波宮)と合わせて京として実質を伴ったとする見解が有力である難波京跡を散策する。

阪神、第二阪奈経由して、前回訪れた平城京跡はパスして京都府木津方面に向かい、740年(天平12)の藤原広嗣の乱平定後、聖武天皇は人心一新を図るために遷都したが未完成のまま、4年後には難波京に移った恭仁宮跡を散策する。

紫香楽方面に向かい742〜745年(天平14〜17)に聖武天皇によって離宮が置かれ、東大寺に先がけ大仏建立を発願した甲賀寺があった跡とされ、現在は松林に囲まれた丘陵に300余個の礎石が残り、往時の様子を伝えている紫香楽宮跡を散策する。

17:00終了。

7世紀半ばから8世紀にかける150年の間に、実に13回の遷都が行われ、単純平均すると、10年少々で遷都を繰り返したことになる。これは、大王のくにから律令国家へと大きく変わる過程で国家の規模が大きくなる転換期であるともいえるもので今回は特に奈良時代の遷都跡を散策しました。

飛鳥時代の692年に奈良の藤原京に遷都してから奈良時代710年平城京に遷都、740年山背恭仁京に遷都、742年紫香楽京造営、744年難波京に遷都、745年紫香楽京を都として定め、同年に再び平城京に遷都されました。

奈良時代の天皇は、元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳(孝謙の重祚)・光仁の7代だが、そのうち4代が女帝で、7代の中でいちばん馴染みがあるのは、大仏を建立した聖武天皇であり、聖武天皇は3つの都を造り、これが何度もの土木工事で国を傾けてしまい、名君にはほど遠かったらしく、藤原広嗣が九州で反乱を起こすと、平城京を逃れて、山城に恭仁恭を造営(740年)、それが完成しないうちに近江の紫香楽宮を作り始め(742年)、さらに難波に遷都(744年)、また平城京に戻った(745年)とのこと。
奈良時代の短期間の間に訳あり、5回も都を移した歴史物語、勉強になりました。





奈良京都当尾&柳生街道史跡巡り
2009年2月28日


今回は奈良県との県境の京都にある当尾の里、里山の石仏を訪ねての散策コースと奈良公園の南から柳生十兵衛を筆頭とする柳生新陰流ゆかりの里を目指す道、柳生街道を散策しました。

車で当尾の里に向かい、13:00本堂に9体の阿弥陀如来仏が並んでいる別名九体寺ともいわれる浄瑠璃時を訪れ、ここから当尾の里山を散策する。

苔むした岩には、1262年との年号が刻まれており、阿弥陀如来と十一面観音、地蔵菩薩が竹薮の中で750年もの間、佇んでいる藪の中三尊。
自然石に四角い穴を開けた燈籠で火伏せの神として信仰される愛宕神社への献燈籠、あたご燈籠。
平らな石の上に開いた穴はまるでカラスの水飲み場、烏の壺、すぐそばに阿弥陀如来像と地蔵菩薩像が刻まれているからすの壺二尊。
ほぼ等身大、高さ約1,2mの不動明王が岸壁に刻まれている不動明王磨崖仏。
平和で微笑む阿弥陀三尊像でシンボル的存在の笑い仏。
729年聖武天皇の勅願で行基が阿弥陀如来堂を建てたことから始まり山裾の斜面に建つ三重塔もみられる岩船寺。
三界の萬霊を供養するために造られた三体の地蔵菩薩。
三体地蔵、笠置への古道に面した大岩に、弥勒像が線刻され、笠置寺の本尊である高さ約15mの
弥勒磨崖仏を模写したミクロの辻弥勒磨崖仏を訪れる。

柳生街道方面に車で向かう。
柳生家の菩提寺、資料館では柳生新陰流の兵法書などを展示、本堂裏には一族の墓所がある芳徳禅寺を訪れる。

幕末の家老、小山田主鈴の屋敷を資料館として開放し、古文書や武具などを展示する旧柳生藩家老屋敷を訪れる。

756年創建の古刹、運慶作の大日如来坐像や平安末期作の浄土庭園が見所の円成寺を訪れる。

能登川の清流沿いに石畳の坂道が続き、道沿いには石仏が佇む滝坂道を散策し奈良時代の後期作と言われる石窟に描かれた6体の仏像、地獄石窟仏を訪れる。
近くには剣豪荒木又衛門が首と胴体部分を試し切りしたといわれる首切り地蔵がある。

17:00終了。

今回の史跡巡り、奈良と京都の県境に位置し名刹、岩船寺と浄瑠璃寺があり二つの寺を結ぶ道には石仏が点在する当尾の里、里山、奈良公園の南から、柳生十兵衛を筆頭とする柳生新陰流ゆかりの里を目指す道、かつては剣豪たちが行き交った石畳の古道、柳生街道を訪れ散策し自然に抱かれる石仏や古等の史跡巡り満足できました。

尚史跡巡り後、大阪梅田で18:30から関西の海外旅行好きオフ会が有り、初参加しました。

総勢約65人、大勢の旅行好き達が集まり、興味のあるエリア、ヨーロッパ、アジア、アフリカ、北米、南米、オセアニアエリアに分かれて情報交換しました。
さすが出会い系の飲み会と違い、皆さん旅行好きで旅行の話で盛り上がり、二次会も半数以上の方が参加、すばらしいオフ会でした。
参加された方は平均20カ国前後の海外を回られ、多い方では50カ国以上回られた方がおられ驚きでした。
これからもこのオフ会に参加して海外の情報交換をして知識を増やして行きたいと思います。





奈良山の辺史跡巡り
2009年2月14日


奈良盆地と東の山裾との境目あたりで飛鳥と平城を結ぶ古代の人々によって開かれた歴史に残る日本最古の道、山の辺の道に足を運びました。

13:15車で天理に到達。

古代朝廷の武器庫のあった所に立つ古社、神武東征の時に霊威を発揮した神剣布都御魂大神が祭神の石上神宮から南に向かって散策する。

鳥羽上皇の勅願で1114年に建立された大寺院、関西の日光といわれるほどの美しさだったと伝えられるが、明治の廃仏毀釈によって破壊され御所跡と本堂池が残る内山永久寺跡を訪れる。

大和の集落は中世、自衛のために集落の周りに濠を築き、竹之内、萱生あたりには濠の一部が今も残り、白壁の土蔵などがみられる竹之内環濠集落を訪れる。

継体天皇の皇后、手白香皇女の陵で周囲は奈良盆地でも有数の古墳密集地で萱生千塚と呼ばれ、中でも最大規模を誇る衾田陵を訪れる。

824年淳和天皇の勅願によって弘法大師が大和神社の神宮寺として建立する長岳寺を訪れる。

日本書紀に山辺道勾岡上陵と記される全長240mという巨大な前方後円墳の崇神天皇陵を訪れる。

日本武尊の父の墓、全長300mを越す前方後円墳、景行天皇陵を訪れる。

小さな鳥居があり、境内には小さな祠と土俵があるだけの神社で相撲発祥の地、相撲神社を訪れる。

松林の中にある美しい神社だが、三鳥居があるだけで本殿も拝殿も無い、社の前から向こうには大和三山から二上山が見渡せる檜原神社を訪れる。

三輪神社の三光の滝から流れ出る狭井川のほとりにある大神神社の摂社、狭井神社を訪れる。

三輪神社のご神体とする延喜式内社の最も古い神社の一つ、山自体が神様で神殿はなく、正面には拝殿がある大神神社を訪れる。

山の辺の道や、上街道から分岐した伊勢街道が合流する古くからの交通の要衝、金屋に2体の石仏が小堂に納められている金屋の石仏を訪れる。

17:00終了。

今回は近場の歴史に残る日本最古の道、山の辺の道に点在する古墳、神社等の数多くの歴史的建造物を散策しながら訪れました。

近場の歴史的建造物の宝庫、奈良県、何回かに分けて徐々に制覇していきたいと思います。

次回は奈良の北部に位置する当尾エリアと柳生街道を考えています。






奈良明日香&橿原&今井町史跡巡り
2008年12月7日


近場の歴史的建造物の宝庫、奈良の6世紀の終わりごろから8世紀初頭にかけて、都がおかれていた飛鳥、日本で初の本格的な都・藤原京が造営された場所、橿原、現在約700軒の民家のうち約500軒が江戸時代からの伝統様式を残す町家の今井町に足を運びました。

7:00車で出発、天候快晴、西高東低の冬型の気圧配置でかなり寒い
8:00飛鳥到達
吉備姫王墓の墓城にある4体の石像、表情がサルに似ていることからの猿石、鬼が旅人を俎で料理し雪隠で用を足したと伝わり、石室の一部というのが定説の鬼の俎、鬼の雪隠を訪れる。

極彩色の壁画が発見された高松塚古墳を散策し、極彩色の壁画の模写などを展示する資料館、高松塚壁画館を見学。

亀そっくりの巨石、亀石を訪れる。
聖徳太子が自らの生誕地に建立したとされる古刹、本堂には聖徳太子坐像が安置されている橘寺を訪れる。

石室の天井石が露出したもので月夜の晩に狐が踊ったと伝わることから石舞台とされ、蘇我馬子の墓という説が有力な石舞台古墳を訪れる。
全国の万葉故地を歩き、万葉集の魅力を世に広めた犬養孝氏の業績を紹介するミュージアム、犬養万葉記念館を見学。

皇極天皇の宮跡と伝わる場所、645年に中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺した、いわゆる大化の改新の舞台とされている伝飛鳥板蓋宮跡を訪れる。

真上から見た亀の形をした石造物、天皇が身を清めるためにこの石に水をためたとの説がある亀形石造物、古代の庭園施設の一部とされる石でこの上で酒を搾ったと伝わる酒船石を訪れる。
万葉集を中心に日本の古代文化を研究、紹介し、庭園には万葉植物が植えられている奈良県立万葉文化館を見学。

596年に蘇我馬子が建立した、日本初の本格寺院、堂内には日本最古の仏像、飛鳥大仏が安置されている飛鳥寺を訪れる、。
すぐ側には蘇我入鹿の首塚がある。

蘇我入鹿・蝦夷の邸宅があったとされている標高約150mの丘、頂上から明日香村や大和三山を一望できる甘樫丘を散策する。

奈良文化財研究所の博物館、高松塚古墳や飛鳥寺などの出土品、キトラ古墳の壁画の写真、山田寺の復元回廊などを展示、庭には酒船石や亀石など、飛鳥路に点在する石造物のレプリカを配置している飛鳥資料館を見学。

橿原方面に向かう。
亜熱帯植物が生い茂る大温室で、羽を広げると13cm以上にもなる日本最大の蝶をはじめ、約10種400羽以上の蝶を飼育展示する橿原市昆虫館を見学。

持統天皇8年694年に遷都された藤原宮跡を散策し、隣接する日本最古の都城、藤原京を1000分のTのサイズで再現した模型をはじめ、日本古文化研究所発掘の出土品を展示する橿原藤原京資料室を見学。

古墳時代から飛鳥時代の出土品を一堂に展示する奈良県立橿原考古学研究所附属博物館を見学。
初代神武天皇とその皇后が皇居を営んだという緑に覆われた広大な橿原神社を訪れる。

今井町方面に向かう。
町役場として活躍した今井町観光の拠点、今井まちなみ交流センター華甍を見学してから今井町を散策する。
18世紀から続く、現役の造り酒屋、河合家住宅、今井町を象徴する由緒ある古刹、称念寺、材木商の有力豪商が所有していた江戸時代の高級住宅、豊田家住宅、
今井町最古の建物、今西家住宅、18世紀初頭に建てられた金物商の大型町家、今井まちや館、米忠の屋号で金具商を営んでいた豪商の家、旧米谷家住宅、当時の生活が垣間見られる私設の博物館、今井まち衆博物館・新堂屋を訪れる。

17:00終了。

今回の旅行、近場の奈良県の歴史的建造物の宝庫、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて、都が置かれ、歴史の足がかりとなる史跡が村中に点在する明日香、日本初の本格的な都・藤原京が造営された場所で、宮跡や寺跡などのほか、発掘資料などを展示する博物館なども散在し、大和三山を望みながら散策が楽しめる橿原、一向宗の道場を中心に栄えた寺内町、東西600m、南北310mの小さな町ながら、現在ある約700軒の民家のうち約500軒が江戸時代からの伝統様式を残す町家として当時の面影を色濃くしている今井町、日帰り旅行で車移動と徒歩で時間を有効に使い多くの歴史的スポットを訪れ、多くの歴史事を学び有意義な日々を送ることが出来ました。

尚今回西高東低の冬型の気圧配置、早朝は1℃、昼間でも7°とかなり気温が低かったですが多くの歴史的建造物を散策したため、あまり寒さを感じなくて快適に足を運ぶことが出来ました。
散策して結構身体を動かすため暖まり、少々気温が低いほうが適度な体感温度を感じ、冬の寒さの厳しい観光旅行、問題なくこれからも行動できそうです。














奈良佐保・佐紀路&斑鳩・西ノ京・大和郡山&當麻・葛城古道紅葉史跡巡り
2008年11月16日


今回は15−16日を使って佐賀観光の予定でしたが親族に不幸があり泊まりの旅行は中止、16日のみ日帰りで近場の奈良県の佐保・佐紀路&斑鳩・西ノ京・大和郡山&當麻・葛城古道紅葉史跡巡り行ってきました。

6:30車で出発、天候小雨のち曇り
東大寺転害門から西の西大寺まで延びる一条通りは華やかな天平文化を今に伝える古寺や古墳群などが点在する佐保・佐紀路エリアにある光仁天皇の勅願により776年に創建された秋篠寺、称徳天皇の発願により765年に創設、多くの国宝、重文を有する西の大寺、西大寺、731年光明天皇が建立し遣唐使や空海が唐に渡る際、海上の安全を祈願した海龍王寺、平城天皇が退位後に過ごした萱の御所を孫の在原業平が寺に改めた、不退寺、庭園が美しい佐保山麓の尼寺、興福院を訪れる。

西ノ京に向かう。
東大寺大仏殿建立にあたり10分の1の大きさで造り試みの大仏殿とも呼ばれている喜光寺、全長227mの巨大な前方後円墳で美しい周濠と忠臣の培塚を持つ垂仁天皇陵、天平建築の宝庫として名高い、鑑真和上ゆかりの古刹、天平の甍として名高い金堂などが存する唐招提寺、天武天皇が皇后の病気平癒を祈願して飛鳥に発願、710年の平城遷都に伴って現在地に移築された薬師寺を訪れる。

大和郡山方面に向かう。
1580年筒井順慶が築き、その後、豊臣秀長が大改修し、1724年からは明治維新まで柳沢氏の居城として使われ、今でも当時の石垣や堀が残る郡山城跡を散策する。
代々文人として知られた柳沢家には、歴史的高い書画などが多数伝わり、これらの作品を閲覧でき、又郡山城に関する歴史資料なども揃う柳沢文庫を見学。

豊臣秀長の位牌や木像を安置する秀長の菩提寺、春岳院、藍染や金魚、箱本十三町に関する資料を展示するほか、工房では藍染を体験できる箱本館紺屋、桃山時代の装飾が随所に残る社殿、薬園八幡神社、1585年秀長が現在地に移した浄土宗知恩院派の寺、洞泉寺を訪れる。

斑鳩方面に向かう。
現存する三重塔としては日本最古として知られる古塔を持つ法起寺、貴重な飛鳥仏を横から、背後から拝観できる法輪寺、山吹の美しい聖徳太子ゆかりの尼寺、中宮寺、長く病むことなく極楽往生できる、ぽっくり往生の寺として知られる吉田寺、華麗な出土品で知られる大型円墳、藤ノ木古墳を訪れる。

国宝・重文に指定された寺宝だけでも2300点以上にのぼる仏教美術の宝庫で、金堂、五重塔などは世界最古の木造建築として名高い。飛鳥時代に推古天皇と聖徳太子が創建した法隆寺を散策する。

當麻方面に向かう。
中将姫伝説と寒ボタンで知られる古刹、石光寺、大和からは夕日の沈む方角にあることから、古来神聖視されてきた二上山の東麓に立ち、聖徳太子の弟、麻呂子親王が河内に建立した万宝蔵院が前身で、その孫の當麻国見が現在地に移した當麻寺を散策する。

葛城方面に向かう。
人の背丈ほどの石に6体の地蔵が刻まれている六地蔵石仏、祭神の一言主神はひとことの願いなら何でも叶えてくれると信仰され、又拝殿前には、気根をいくつも垂らした姿から乳たれイチョウと呼ばれるイチョウの古木が立つ葛城一言主神社、高天原の伝承地に立つ古刹、橋本院、古代豪族の鴨氏の氏神を祭り、京都の上賀茂・下賀茂神社をはじめとする全国の賀茂社の総本社を称する高鴨神社、夢のお告げを受けた行基が、薬師如来を祭る堂を建てたのが始まりと伝わるお寺、船宿寺を訪れる。

5:00終了。
帰路に向かう。

今回は奈良の史跡巡り、単独行動のため、日の出から日の入りまでの時間を有効に使い、出来るだけ多くの歴史的建造物を訪れることができました。

東大寺転害門から西に延びる道が佐保路と呼ばれる一条通りに華やかな天平文化を今に伝える古寺や古墳群などが点在するこの通りから平城宮跡を経て西大寺までを結ぶエリア、佐保・佐紀路周辺の史跡巡り。
平城宮跡の西部に広がるエリアの西ノ京、世界遺産の薬師寺と唐招提寺、北には田園風景の中にある垂仁天皇陵や行基ゆかりの喜光寺等の史跡巡り。
豊臣秀吉の弟、秀長が基礎を築いた城下町、時代を経てなお、材木町や豆腐町、紺屋町など、秀長の創設した自治システム箱本十三町の片鱗が残り、又幕末に始まった金魚の養殖も今でも盛んな大和郡山の史跡巡り。
飛鳥時代に聖徳太子が斑鳩宮を築いた場所で今も残る太子ゆかりの古刹、当時からの寺宝も数多く伝わっているのどかな田園風景の中に存する斑鳩の史跡巡り。
古代から神聖視されてきた二上山の麓に広がるエリア、當麻曼茶羅で有名な當麻寺や石光寺などの名刹などの歴史的建造物巡り。
雄大な金剛・葛城山系の懐に曲がりくねって南北に続く道が葛城古道、随所で奈良盆地を見渡せ、記紀神話の神々のふるさとである高天原の伝承地を残し、又大王家の外戚として5世紀に隆盛した大豪族・葛城氏の本拠地でもある葛城エリアの史跡巡り、広範囲で多くの史跡巡り堪能しました。

尚紅葉のシーズンでもあり、多くの歴史的建造物を訪れ、紅葉の名所では無いが、それぞれに特徴ある紅葉を景観することが出来ました。
中でも唐招提寺と當麻寺の奥の院の紅葉はたいへんすばらしかった。

急に決まった奈良の紅葉・史跡巡り、単独行動のためマイペースで出来るだけ多くの歴史的建造物、史跡をスムーズに巡ることができました。

奈良の歴史的文化遺産、数も多く奥も深い、京都と違って車移動が容易な奈良県、奈良の他の歴史的スポット、何回かに分けて車で時間を有効に使い、又訪れたいと思います。







奈良平城宮跡史跡巡り
2008年11月8日


710年から784年までの奈良時代の都、平城宮跡と周囲の古墳群を巡りました。

13:00大阪駅集合出発、天候小雨、阪神、第二阪奈自動車道を経由して
13:30当時の平城京の模型図、和同開珎などの貨幣、木簡、当時の衣装等の奈良時代の遺物だけでなく縄文時代、弥生時代の石器、土器や発掘時の地層をそのまま復元したものなど奈良時代以外の資料も多数展示されている平城宮跡資料館を見学。

平城宮跡を散策する。
天皇の即位、元旦の朝賀などの国家的儀式の時に天皇が出御する建物、第一大極殿、儀式や宴会が行われた第一次朝堂院を訪れる。

平城京の入り口である羅生門の4km先にある平城京の正門、朱雀門を訪れる。

奈良時代の防衛庁、兵部省、奈良時代の人事院、式部省を訪れる。

平城宮跡のほぼ中央にある、建物跡が石段になって少し小高くなっている第二次朝堂院、第二次大極殿を訪れる。

天皇の住まい内裏を訪れる。つげの木が植えられている場所は建物の柱があった場所。

遺跡がそのまま見られる遺構展示館を見学。

1967年に発見、平城宮東張り出し部の南東隅に大きな庭園の遺跡、東院庭園を訪れる。

平城宮跡の東に位置する総国分尼寺として当時はとても大きな寺であった法華寺を訪れる。四季折々の花が植えられている東庭園と別に主庭園があります。

奈良市街の北西部、平城宮跡の北に広がる4−5世紀に作られたと見られる大型の前方後円墳から陪塚まで約50基もの古墳が点在し、その大半がなぞに包まれている佐紀盾列古墳群を散策する。
平城宮造営のために前方部がけずられていることから平城天皇のものでなく古墳の主がわからない平城天皇陵と呼ばれる陵を訪れる。

奈良市内で一番大きく、古い池と言われている平城宮の水源で、田園の灌漑用水としての役割を果たしてきた水上池を訪れる。

かつて田植えの時期になると牛を連れてこの木の周りを3回まわり、牛にちまきを食べさせ豊作を祈ったハジカミ池を訪れる。

全長204mの古墳時代中期の前方後円墳で被葬者は不明の小奈辺古墳、小奈辺古墳の北西にあり、仁徳天皇の皇后、全長219mの前方後円墳の磐之嬢命陵を訪れる。

規模も大きく埴輪の数や陪塚から出土した膨大な量のあらがねからみても、いかなる人物が祀られているのかわかる、宇和奈辺陵を訪れる。

17:00見学終了。
18:00近くの温泉に浸かり食事を済ませて
20:00帰路に向かう。
21:00大阪駅到達、解散

今回の史跡巡り、近場の奈良、近鉄奈良線の大和西大寺駅と新大宮駅の間に広がる広大な緑の空間が奈良時代に天皇の住まいや官公庁が集まっていた平城宮跡、
平城宮跡の北に位置する4−5世紀に作られた、なぞにつつまれた大型の約50基前方後円墳と陪塚を散策し、奈良時代の都が平城京、恭仁京、難波京、紫香宮と移り変わる中、比較的長期にわたって都として政治都市を行った平城京、歴史学習でした。