長崎

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十六弾:小京都重要伝統的建造物群保存地区&九州四十九院薬師霊場観光
2018年3月10日−11日
 

九州の北西に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所を訪れました。

3月10日17:30伊丹空港出発。
18:50長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
11日7:00レンタカーで出発、霊場、歴史的建造物巡り。

大村:県内随一の花の名所として知られ、『日本の歴史公園百選』の地に選定されている大村公園は、大村藩主の居城であった玖島城跡にあります。城の石垣は当時のまま残っており、その他も多くの史跡を残しています。春は桜に始まり、ツツジ・花菖蒲と約3カ月間花の季節が続きます。大村公園の桜は『日本さくら名所百選』の地に選定を受けており、花弁が60〜200枚にもなる国指定天然記念物「オオムラザクラ」をはじめ約2,000本の桜が、期間中、公園一帯をピンク色に染めます。また桜・花菖蒲と城跡との共演は風情があり、絶景です。
東には広範囲に武家屋敷群跡が見られます。

平仙寺:当寺の現在地での開山は天正16年(西暦1588年)といわれています。開山は堯珍法師で、堯珍は、もと島原温泉山七百坊惣座主でありました。

天正年中に島原領多以良村其外近隣の耶蘇教徒(キリシタン教徒)が温泉山(雲仙)の堂社仏閣を残らず焼失してしまいました。堯珍は二矢を負って島原領湯江に逃れ、さらに賊徒の来襲を恐れて遂に諫早(当時は伊佐早という)に着き、船越村本坊に住しましたが数年を経て、鼻祖竜造寺家晴公、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、平山山平等院平仙寺に安住しました。

のち諫早家代々の安泰と領内安寧の祈祷寺として応分の寺領を与えられ、それより、代々法印住職となり、この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師寺建立や、この護持のための田畑の寄附などが多く寄せられ繁栄しました。一方、寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛しましたが、明治維新の神仏分離布告により諫早家の庇護も絶え、末寺の一寺四坊はみな廃絶となり、寺領はことごとく上地されました。さらに祝融の災に見舞われて、旧観に徴することが出来ず茅葺の仮堂でもありました。

さらに追い討ちをかけるように昭和20年の農地解放令によって、すべての田畑も失い、栄枯盛衰を余儀なくしました。時を経て昭和42年第26代亮締師により、旧諫早家の建物を買取り本堂とくりに改築されましたが、古家であったことから、現在職代の昭和59年庫裏等を新築、さらに土地区画整理事業を契機に、位牌堂を備えた会館および山門を新築し現在に至ります。

開山堯珍法師により当代までが27代であります。

長崎東山手:東山手の居留地は、大浦の商館と海を見下ろす高台に位置し、ポルトガル、 アメリカ各国領事館や礼拝堂が建ち、 当時は領事館の丘とも呼ばれていました。 主要なものとしては、国指定重要文化財の東山手十二番館、旧長崎英国領事館などがあります。 この他、オランダ坂の石畳の道と石垣や、石溝、石標類など 、居留地時代を偲ばせる土木工作物、大きな樹木などが数多く残っており、長崎市東山手の町並みは、居留地の地割を示す歴史的風致とともに、洋風住宅群をよく残しており、価値が高いといえます。

長崎南山手:長崎市南山手地区は、 東山手と同じ居留地であり、主として住宅地に使われていた区域です。長崎湾を見下ろす眺望の良い丘の上に位置しています。
幕末から明治にかけての洋風住宅として、 旧グラバー住宅をはじめ、旧リンガー(弟)住宅、旧オルト住宅が現存しており、 松が枝町では、旧香港上海銀行長崎支店や旧長崎税関下り松派出所などが港に面して建ち、いずれも国宝や重要文化財に指定されています。
地区の中心から南側は、現在でも静かな住宅地で、 明治時代初期から中期にかけての洋風住宅建築が比較的良好に残っており、長崎市南山手の町並みは、 居留地の地割を示す歴史的風致とともに、初期の洋風住宅群などをよく残しており、価値が高いといえます。

雲仙神代小路:神代小路の起源は、17世紀後期に神代鍋島家四代当主鍋島嵩(たかし)就(なり)が神代城の東側に武家地を造成し、その北西隅に陣屋を構えたことに始まる。神代小路は近世、近代を通して今日まで閑静な住宅地として維持されてきた。 
 保存地区は、東西約250m、南北約450m、面積約9.8haの範囲で、通りの脇には水路を通し、切石または玉石積の石垣や手入れの行き届いた生垣が並んでいる。
 各敷地は、奥行も間口も大小様々であり、形も不整形である。敷地内には旧武家屋敷の住宅の主屋や長屋門、門倉などが建ち、通り沿いの石垣や生垣のほぼ中央に出入口を開く。石垣や生垣で桝形を築き、主屋の玄関を隠すものが多い。
主屋は表側南部に式台玄関、次の間及び座敷を並べ、裏側や北部に土間及び台所、居間、納戸などを置き、近世武家住宅の形式を現在に伝えている。
このように、保存地区は、江戸時代中期の地割りを良く残す武家町で、敷地内に江戸時代の主屋や長屋門などによる武家屋敷の構成を保ち、小路沿いの生垣や石垣、水路などにより特徴のある景観を構成するなど、歴史的風致を良く今日に伝えている。

島原:島原城の西に接した上新丁、下新丁、古丁、中ノ丁、下ノ丁、江戸丁、新建に扶持取り70石以下の徒士屋敷約700戸が軒を連ねていました。

鉄砲隊の居住地であったことから、一帯は鉄砲町とも呼ばれていました。

各丁の道路の中央には水路を設け、清水を流して生活用水としていましたが、防災・防火の見地から片側に移設。

けれど下の丁の町並みだけは、住民のご協力を得て「武家屋敷町並み保存地区」として定め、昔どおりに保存されています。

現在、保存されている下の丁の武家屋敷は、延長406.8メートル、幅長5.6メートルの町並みで山本邸、篠塚邸、鳥田邸の3軒が一般に無料開放され、当時の武家生活の様子が偲ばれます。

また武家屋敷休憩所では白玉に独特の蜜をかけた郷土の味「寒ざらし」を味わうことができます。

龍泉寺:開創は不詳。

奈良時代、現在の地域に大きな集落があり祈願所が設けられていたことで、およそその頃の開創と推測される。

元亀3年(1572年)12月、三方原合戦に敗れた徳川家康公が境内の阿弥陀堂に身を隠し難を逃れたという記録から、それより以前から堂宇が存在していたと思われる。

現存の記録より
当寺創建の由来は、正親町天皇の御宇天正2戌年(1574年)、住僧把公(津叟把公和尚)なる者、村民と協力して堂宇を建立す。仍って開基と称す。
同暦、本寺龍秀院玉山和尚(玉山全瑳)を請して開山となす。
その後、寛政9年(1797年)龍秀院13代懐峯東州なる者、檀徒と協力して本堂を再建す。当暦に至って322年の星霜を経とあり、現在の本堂は215年経っている。

祇園寺:祇園寺は天台宗比叡山延暦寺を本山と仰ぐ寺院です。

針尾山感神院祇園寺は、松浦鎮信平戸藩候の発願で、針尾瀬戸を臨む現在地に承応元年(1652)開山、一圓岳老法印の開基と伝えられる。

祇園寺はもと曹洞宗の寺であった。その寺を鎮信公が平戸藩に、はじめて天台宗寺院の樹光寺を開創した折、末寺とし、天台宗としたという平戸藩の史料がある。

藩候建立の趣旨は藩内鎮護・安泰の祈願寺とあわせ、徳川秀忠公の霊を弔う香華所という記録もある。

本尊は開山時、薬師如来であり、その後阿弥陀如来で、現在は如意輪観世音菩薩という歴史的な変遷がある。

明治維新の神仏分離令までは祇園宮(戸御崎神社)の別当寺で、神仏習合の寺社であったことを窺い知る史料・伝統風習が今も息吹を伝える。

薬王寺:本尊は薬師如来。前身は養性庵と称す。天正14年(1586)4月5日、現薬王寺の背後の丘陵地にあった井手平城が落城。その後6年、文禄元年(1592)平戸藩主・松浦隆信の命により、洞谷山を城持山と改称した。

元禄年中(1688?1704)菖海素休和尚の代に、養性庵の寺地から城跡の現在地に移転、再建された。このとき平戸瑞雲寺九世。大虚舜道和尚を開山に迎え、併せて井手平城合戦の戦死者の追善供養が営まれたという。

井手平城は、天正14年(1586)大村・有馬の連合軍に敗れて落城、城主の岡甚左衛門を筆頭に城兵のほとんどが戦死した。

これを哀れみ藩主の松浦隆信が養性庵を移転、再建して、戦死者の霊を弔ったのが薬王寺の創まりである。

平戸:平戸市大島村神浦の町並みは、江戸時代初期(17世紀初頭)に形成された漁村集落を起源とするが、江戸前期(17世紀後半頃)に捕鯨の創業を契機として大きく発展した。江戸時代中期(18世紀)の鯨組廃業後も跡地の再開発によって、海側に新たな町並みが成立するなど、漁師のほか商人や職人が多く居住し、漁業と商工業を経済基盤とした港町として発展を続け、豊かな町並みが形成された。
 保存地区は、東西約700m、南北約650m、面積約21.2ヘクタールの範囲で、神浦集落と海、河川の水面、周辺の高台に建つ寺社、や墓地を含む範囲である。
 中心部は幅約3mの細街路の両側に町家が建ち並ぶ。街路の山側は敷地奥行が浅く、中世末期から近世初頭にかけて成立した敷地であるのに対し、海側は敷地奥行が深く、寛文の鯨組創業による埋め立てによって陸地となり享保の廃業により町家化した敷地である。
 地区内に建つ町家の主屋の多くは切妻造桟瓦葺、平入で、前面は一階と二階の柱筋を揃え、腕木庇を付ける。平面は、片方に通り土間、他方に室を並べる。街路の屈曲にあわせて台形の平面が多く、部屋境を食い違いにするなどした巧みな間取りが特徴である。
 街路の山側では敷地の奥行がないため主屋のみの住宅が多く、主屋は奥行方向に二室を並べる平面が多い。海側は敷地の奥行があるため、主屋は奥行方向に三室を並べる平面が多く、敷地奥に離れをもつものもある。
 特に山側敷地では狭小な敷地を反映して早くから二階を居室として利用し、主屋は比較的軒高が高い。表構えは大正時代まで出入口を含めて、摺上戸とし、その後は引違戸に変化している。
 地区内には斜面地を利用するためにつくられた石垣や石段などが遠見番所や天降神社周辺で見られる。地区内各所に残る共同井戸は昭和40年(1965)まで主要な水源として使用され石造の井戸や周囲の石畳がほぼそのまま残されている。
 平戸市大島村神浦伝統的建造物群保存地区は、近世から近代にかけての離島の歴史的風致を残すとともに、中世末期から近世初期にかけて成立した漁村集落が鯨組の創業と廃業という出来事を経て近世的な港町に変容していった姿を今日に良く伝えている。

16:00終了、長崎空港に向かう。
17:30長崎空港到達。
19:20長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の長崎県に足を運び、長崎県に点在する、九州四十九院薬師霊場4か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区5か所をおとずれ楽しみました。

数か所は何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区、違った角度からの訪問、癒され、感動しました。
初めて訪れた小京都重要伝統的建造物群保存地区、武家屋敷の広大な敷地、新鮮味があり、歴史を感じながらの散策楽しめました。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百八十四弾:九州八十八箇所&長崎県お城巡り観光
2016年12月3−4日
 

九州北西部に位置し、対馬や五島列島など島々が多く、様々な勢力があり、強力な水軍を擁する松浦党が発展し、大村氏も長く存在感を示したが、戦国時代が到来すると勢力地図は一新、秀吉の直轄地となる長崎県に足を運び、長崎に点在する九州八十八箇所霊場2か所、比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

3日17:30伊丹空港出発
18:40長崎空港到達、レンタカーで佐世保方面に向かう。
20:10佐世保市内のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。
4日7:30レンタカーで出発、霊場、お城巡り。

最教寺奥の院:最教寺は、大同元年(806)弘法大師が唐から帰朝した時、初めて護摩を焚いたところといわれる。現在、奥の院には大師の護摩石と坐禅石があり、住時をしのぶことができる。慶長十二年(1607)平戸藩主松浦鎮信が高野山最教寺を復興、真言教学の学問所である談義所を合併し、大和国長谷寺の空盛上人を中興開山として招いた。
また、その二年後、奥の院を建立している。西の高野山と呼ばれるだけあって、広大な境内である。駐車場からは、脇より境内に入ることになるが、本来の参道は楠が並ぶすばらしい石段が続く。切妻造の山門を入った正面が入母屋造の本堂で、安永三年(1774)の建築である。本尊は虚空蔵菩薩を拝することができる。

開元寺:弘法大師空海は、密教の奥義を学ぶため、唐(中国)に渡ることを目指した。そして、延暦二十三年(804)三十一歳の時、留学生として第十六回遣唐使船で難波を出航。その時の大使は藤原葛野麻呂。伝教大師最澄や義心、橘逸勢なども、同じく入唐して いる。瀬戸内の各所に立ち寄りながら九州に至り、最後に日本を離れたのが、田ノ浦である。寺号の由来は、嵐など苦労の末、弘法大師が十二月の終わりに唐に上陸後、一ヵ月の間とどまった福州の寺院が開元寺で、近年にその寺号を称したものである。入唐山開元寺 というが、お寺であるわけではなく、顕彰碑と法要殿があり、顕彰碑には『弘法大師唐渡解纜之地』と刻まれている。石碑には、石造の厨子のなかに、弘法大師の石仏が安置されている。また、法要殿においては五月に『田ノ浦法要』が勤修される。弘法大師の時代と同じ風景を見、大師の心の内を垣間見ることのできる霊場である。

日の岳城:中世以来、平戸松浦氏の居城は御館をはじめとしていくつかの変遷をみるが、26代(初代藩主)鎮信(法印)が、それまでの白狐山城(勝尾岳城)を棄城して、現在平戸城のある亀岡に築城を着工するのは、慶応4年(1599)のことで松浦氏が戦国大名を脱して近世大名へと転換をはかる時期と符合する。ところが城は完成を待たずに鎮信みずからの手で焼き払われてしまう。オランダ商館設置に象徴される平戸城下の発展と領内のキリシタンの存在に向けられた幕府の猜疑と不信をとくことが理由であったと考えられるが、はっきりした理由は不明である。
 以後、藩主は約100年間城を持たず御館に居住していたが、元禄16年(1703)、5代藩主棟(たかし)の再築願いが許可され、翌(宝永元)年着工、亨栄3年(1718),6代藩主篤信(あつのぶ)の代に完成する。焼却以前の平戸城を日の岳城とよび再築後は亀岡城、玄武城、朝日岳城の名でよばれた。現在の天守閣は昭和37年(1962)の築造である。

梶谷城:築城年代は諸説あるが松浦氏の始祖源久(みなもと ひさし)によって築城された。

直谷城:築城年代は定かではない。 城主は志佐氏で、松浦清の次男貞を初代としており、松浦氏の勢力拡大とともに志佐一帯に勢力を伸ばしここを居城とした。
八代志佐義の時代には壱岐の湯岳を領有して朝鮮貿易も行っている。 明応年間(1492年〜1501年)志佐純勝のとき、大村氏と龍造寺氏の連合軍に攻められ落城、五島へ逃れたことにより直谷城は空城となった。
その後の平戸・田平合戦によって里城の峰氏は田平一帯を松浦氏に譲り直谷城に入り志佐の名跡を継いで志佐純元と名乗った。
寛永2年(1625年)志佐純昌のとき御厨に移封となり直谷城は廃城となった。

三城城:永録7年(1564年)大村純忠によって築かれたと云われる。
三城をめぐっては三城七騎籠(さんじょうななきごもり)が有名で、これは元亀3年(1572年)塚崎城主後藤貴明・平戸城主松浦隆信・高城城主西郷純尭の連合軍に囲まれたおり、城主大村純忠と主たる武将七騎(大村純盛,朝長純盛,朝長純基,今道純近,宮原純房,藤崎純久,渡辺純綱)で籠城し守り通した戦いである。
三城は慶長4年(1599年)に喜前が玖島城を築城し拠点を移すまでの本拠地であった。

玖島城:慶長4年(1599年)大村喜前によって築かれた。 大村氏は藤原純友の後裔を称し、純友の孫直澄が肥前国藤津郡・彼杵郡・高来郡の三郡を与えられ、彼杵郡大村郷に住んで大村氏を称したことに始まるとされる。 喜前の時、玖島城を築き三城より居城を移した。
大村純前は有馬晴純の次男純忠を養子に迎え家督を継がせた。これが初のキリシタン大名として知られる大村純忠である。純忠は永禄6年(1563年)洗礼を受けてバルトロメウの洗礼名を与えられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に従い所領を安堵され、純忠の後に家督を継いだ大村喜前は、関ヶ原合戦で東軍について小西行長の宇土城を攻め、二万八千石弱の所領を安堵された。
大村氏は家臣団を再編する機会がないまま大名となったため、藩主の経済力が極めて低く、これを解決するため「御一門払い」と呼ばれる家臣団の整理を断行し、庶家一門十五家の所領八千石余を没収し、領内の総検地を行った。

俵石城:築城年代は定かではないが室町時代に深堀氏によって築かれたと云われる。 深堀氏は相模国三浦荘発祥の三浦氏の一族で建長7年(1255年)八浦荘地頭職を得て能仲が下向して深堀氏を名乗った事に始まる。
鎌倉時代以降一貫してこの地を治め、江戸時代には佐賀藩鍋島氏の家老として深堀陣屋を築いている。

諫早城:築城年代は定かではないが文明6年(1474年)頃に西郷尚善によって築かれたと云われる。 西郷氏は尚善の時に伊佐早次郎入道を討って、宇木城から諫早へ進出して船越城に入り、高城を築いてこれに移ったという。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐に参陣しなかった西郷氏は所領を没収され、替わって龍造寺家晴が諫早に入部し一万石余を領した。家晴の子直孝の時、諫早氏を名乗り諫早家は独立した大名であったが、直孝が病身で江戸でのご奉公ができないとの理由で大名を破棄し佐賀藩の家老となった。諫早氏は高城城を居城として維持していたが、五代茂門の時、財政難によって城が維持できなくなり、東麓に諫早陣屋を構えて居城とした。

鶴亀城:築城年代は定かではない。神代氏代々の居城であったと考えられるが、神代氏の出自は詳らかではない。筑後や肥前にも神代(くましろ)氏がおり、龍造寺隆信と争った神代勝利などが著名であるが、この神代(こうじろ)氏は別系統である。
南北朝時代の神代式部貴益と戦国時代の神代兵部大輔貴茂が知られる。貴茂ははじめ日野江の有馬氏に属していたが、龍造寺隆信の勢力が及ぶとそれに従い、天正5年(1577年)には龍造寺軍が神代に着船すると神代貴茂は龍造寺隆信を饗応した。
天正12年(1584年)龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と沖田畷で戦い討死すると、龍造寺方となっていた島原の豪族は有馬方へと寝返る中、神代貴茂は龍造寺方として踏みとどまり、有馬氏によって攻められた。しかし神代城は難攻不落であったため攻め落とされることはなかった。貴茂は有馬氏と和議を結ぶべく多比良城に招かれたが、その帰路謀殺されてしまった。当主を失った神代城も落城し神代氏は滅亡した。

深江城:応永年間に鎌倉幕府の引付奉行安富奉嗣が深江の地頭職となって以来、この地を領した。 天正5年、佐賀村中城主龍造寺隆信が高来郡の征討を企て、日之江城主有馬鎮貴と対決した際には、安富純治・純泰父子は有馬勢の主力として戦っている。
 天正10年、有馬鎮貴が島津氏と手を組み、再度龍造寺隆信と戦った際には、龍造寺方となり深江城に籠城して戦っている。 その後、龍造寺隆信が沖田畷の合戦で敗死したため、安富純泰は佐賀に移り深江氏を称した。

原城:明応5年(1496年)有馬貴純によって築かれたと云われる。 日野江城を居城とした有馬氏八代有馬貴純によって支城として築かれたのが始まりと云われる。
慶長4年(1599年)有馬晴信は日野江城よりも住みやすくより堅固な城を築いているとイエズス会宣教使の報告書に記されており、これが原城と考えられている。慶長9年(1604年)にはほぼ完成し、三層の櫓や家臣の屋敷、教会も建設された。
慶長19年(1614年)有馬直純のとき日向国延岡に五万三千石で転封となり、元和2年(1616年)松倉重政が大和国五條より四万三千石で日野江に入封した。 松倉重政は新たに島原城を築いたため、原城の石垣や建物を島原城へ移し、原城は元和の一国一城令によって廃城となった。
寛永14年(1637年)島原の乱が勃発し、一揆側の総大将として天草四郎が農民二万数千とともに籠城する。天草四郎は小西行長の家臣益田甚兵衛好次の子と云われる。 これに対して幕府は板倉重昌を派遣し九州の諸大名を率いて原城を包囲した。幕府の討伐軍は幾度となく原城に攻め寄せたが、籠城していた一揆軍は城を固く守ってこれを寄せ付けなかった。一揆を鎮圧出来ない幕府は老中松平信綱を派遣して事態の収拾を図ろうとしたが、この知らせに焦った板倉重昌は原城に総攻撃を命じ、突撃して討死してしまった。老中松平信綱は十数万もの軍勢で原城を包囲すると兵糧攻めを行い、兵糧が尽きたころに総攻撃を仕掛け原城は落城、大将天草四郎時貞も討ち取られた。
この一揆の責任を問われ島原藩主松倉勝家は改易ののちに斬首刑となり、大名として唯一切腹ではなく斬首という厳しい処分が科せられた。

日野江城:建保年間(1213年〜1218年)有馬経澄によって築かれたと云われる。 有馬氏の祖は藤原純友あるいは平直澄とも云われるが詳らかではなく、有間庄の開発領主で始め有間氏を称し、後に有馬と改めたと考えられている。
有馬氏が最盛期を迎えたのは天文年間(1532年〜1555年)頃で有馬晴純の時である。 晴純は始め賢純と名乗っていたが、将軍足利義晴より晴の字を賜り晴純と名乗った。 島原半島から肥前東部を制しており、天正年間(1573年〜1592年)に龍造寺隆信が台頭してくるまでは、肥前で最大の勢力であった。
晴純のあと家督を継いだ義貞は、永禄6年(1563年)百合野の戦いで龍造寺隆信に大敗を喫し、以後衰退していく。義貞の家督を継いだ義純は家督相続わずか一年で急逝したため、義純の弟鎮純が家督を継いだ。この鎮純が後にキリシタン大名となった有馬晴信である。
天正5年(1577年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が島原半島を侵攻すると、有馬氏もこれに対抗できず降った。しかし、天正10年(1582年)晴信は龍造寺を離反して深堀城を攻め、天正12年(1584年)には島津氏の支援を受けて沖田畷の合戦で龍造寺軍を敗り、龍造寺隆信は討ち死にした。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で有馬氏は秀吉に従い所領を安堵された。
江戸時代に入り日野江藩四万石の大名となった有馬晴信は、慶長17年(1612年)岡本大八事によって所領没収の上甲斐国都留軍に配流となった。晴信の嫡男有馬直純は幼少の頃から家康の近習となって家康の養女国姫を娶っていたことなどから、父晴信の連座を免れ、家督相続のうえ日野江藩四万石を継承した。その後、幕府に転封を願い出て慶長19年(1614年)日向国縣五万三千石で加増転封となった。
有馬氏転封後、しばらく天領であったが、元和2年(1616年)大和国五條より松倉重政が四万石で入封した。重政は当初日野江城を居城としたが、島原城を築いて居城としたため廃城となった。

18:00長崎空港到達。
19:20長崎空港出発
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州北西部に位置する長崎県に足を運び、長崎県に点在する九州八十八箇所霊場2か所と比較的マイナーなお城11か所を訪れ楽しみました。

平戸から島原まで広範囲の霊場お城巡りでしたが、道も広く、車も少なく、スムーズに訪れることができました。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十七弾:長崎県九州八十八ヶ所巡り観光
2016年2月13ー14日

九州に足を運び、江戸時代の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化の交流が盛んに行われていた長崎タウン、オランダの森の家を意味するハウステンボス、雲仙普賢岳を擁する高原リゾート雲仙と島原南蛮貿易の拠点として17世紀初めに日本初の商館が開かれた場所平戸・生月、西・東シナ海・玄界灘に浮かぶ離島(五島列島、壱岐、対馬)など多くの観光名所が点在する長崎県に訪れ、11箇所の長崎県に位置する九州八十八ヶ所を巡りました。

13日17:35伊丹空港出発。
18:55長崎空港到達、レンタカーで大村市内のホテルに向かう。
19:30大村市内のホテル到着後レストランで食事を済ませて就寝。

14日7:30レンタカーで霊場巡り。
島原方面に向かう。

龍照寺:島原外港から雲仙道路(国道57号線)を登ると約10分、 雲仙温泉からは島原方向に国道を下ると約15分、 寺に着くと巨大なお不動様(高さ13.8m)が出迎えてくれます。 境内からは雄大な普賢岳、有明海を挟んで対岸に玉名・熊本・天草の島々を望むこともできる 、すばらしいロケーションのなかにお寺があります。境内は明るく広々としており、山門・手水舎・本堂・護摩堂・大師堂(建立予定)・七福神堂・愛宕地蔵堂・庫裡などの寺構を整えています。
平成27年10月には、念願でありました新本堂落慶大法要を行いました。

長崎市方面に向かう。

延命寺:当山は1616年(元和2年)岡山より丁度、訪れていた龍宣和尚が当時流行していた新種の疫病平癒の為、祈願を行った処 御利益があったという事で長崎奉行の依頼で常駐し、当地で寺院を構えたのが始まりである。大正年間に入ると、「命を延ばす」、「いのちをつなぐ」という観点から老人福祉事業にも着手し、当時としてはめずらしかった、身寄りがない高齢者の為の生活施設「長崎養老院」を開設し、現在も養護老人ホーム「延命園」として続いている。

佐世保方面に向かう。

東前寺:東漸寺の門前には、天を突くような大きな楠があり、長崎県の天然記念物に指定されている。幹回りは約八メートル、高さは約二十メートル、樹齢約六百年。四方に枝を伸ばし、生命力をみなぎらさて、今なお青々と葉を茂らせている。幹にしめ縄を巻いており、 ご詠歌にも歌われる霊木である。和銅年間(708〜15)、現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられている。寛和二年(986)僧観海が、現在地に伽藍を建立。その後、衰微していたのを、寛永三年(1626)に教意法印が再建した。 本尊は、行基菩薩作の薬師如来でいつでも拝することができる。古色、歴史を感じさせる姿をしている。思わず手を合わせたくなるような尊像である。また、本尊の前に、一枚の鏡が置かれている。魔境といわれている。なぜ魔境というと、太陽などの光にかざすと、裏に刻まれた絵が映し出されるためである。何とも不思議な鏡であり、佐世保市の文化財に指定されている。

浄漸寺:奈良時代の養老二年(718)行基菩薩は、東大寺勧進のため全国を巡錫し、速木(現在の早岐)を訪れた折、楠木の霊木で薬師如来を刻み、堂宇を建立したのが浄漸寺の起源とされる。現在、早岐小学校の百段石と呼ばれている付近に、当時の境内があったという。以来、霊験あらたかな薬師如来として隆盛をきわめていたが、享保年間(1716〜36)に焼失、ただちに平戸松浦家によって再建されている。 藩の祈願所として、又早岐神社・住吉神社をも寺でお祭りしていた。この事は、当時の神仏混合の名残である。

大智院:弘法大師空海上人が若かりし日、留学僧として渡唐の途中、留学の目的達成を(現在の武雄市山内町の)黒髪山の大権現に立願され、 松浦郡田ノ浦の港から出航、唐の国長安(現在の西安)において青龍寺恵果和尚より真言密教を伝えられ、(大同元年)帰国の後、 博多に留まられていた際に、満願成就を奉告に再度黒髪山にご登嶺され、自ら爪で不動像を刻まれたのが発祥です。 この由縁によって爪刻不動明王(つまぼりふどうみょうおう)と呼ばれます。肥前国では弘法大師ご開基の最古真言道場です。

西光寺:西光寺は1687年に松浦藩の祈祷寺として現在の地に建立されたお寺です。本尊虚空蔵菩薩は、元は武雄市杉の岳にある行基菩薩が建立されたお寺にいらっしゃいましたが、約500年前に現西光寺の場所に虚空蔵菩薩が霊現されたことから、この地に移座されました。智慧や福徳を授けるという利益があり、弘法大師も若いころに虚空蔵菩薩のご修行に励まれ学業を成就なさいました。
 山内には長崎県天然記念樹「西光寺のオオムラザクラ」、佐世保市の指定文化財「野田フジ」、参道には「八十八ヶ所石仏群」があります。また、えびね、かのこゆりなど記念物などが現存します。
 西光寺では子育て地蔵をおまつりしており、多くのお子様方の成長を見守っております。
 また、「大難を小難に、小難を無難に。」西光寺大不動尊の霊前おいて交通安全お車祈願を随時いたしております。

光輪寺:市民の憩いの場所、中央公園の近く、医師会館や裁判所などがある高台に、光輪院の諸堂が建っている。入母屋造で妻入の毘沙門堂は、花頭窓を有する木造のお堂である。奈良信貴山から勧請された毘沙門天を安置する。赤い木造燈籠が、ワンポイントとして、おもむきを添えている。また、堀に沿って十三仏などの石仏が並ぶ。
本堂は、白い鉄筋コンクリートの建物。ギリシャの神殿のように丸い柱が四本立ち、宝形造の屋根には相輪が建っている。
本尊は、上品下生の阿弥陀如来。鎌倉時代の作と推定される古仏で、近年に修理されて、金色に輝いている。また、光輪院の諸尊で珍しいのは、本堂の裏側に祀られている魚籃(ぎょらん)観音立像である。魚籃観音は、観音の三十三応化身の一つで、魚が入ったかごを手に持つ。彫刻は少なく、滋賀県岩戸寺、東京魚籃寺など、あまり見られるものではない。九州では、平戸と生月島を結ぶ生月大橋の近く、生月大魚籃観音がある。

東漸寺:東漸寺の門前には、天を突くような大きな楠があり、長崎県の天然記念物に指定されている。幹回りは約八メートル、高さは約二十メートル、樹齢約六百年。四方に枝を伸ばし、生命力をみなぎらさて、今なお青々と葉を茂らせている。幹にしめ縄を巻いており、 ご詠歌にも歌われる霊木である。和銅年間(708〜15)、現在の奥の院にあたる岩問山に行基菩薩が草庵を結び、薬師如来を安置したのが始まりと伝えられている。寛和二年(986)僧観海が、現在地に伽藍を建立。その後、衰微していたのを、寛永三年(1626)に教意法印が再建した。 本尊は、行基菩薩作の薬師如来でいつでも拝することができる。古色、歴史を感じさせる姿をしている。思わず手を合わせたくなるような尊像である。また、本尊の前に、一枚の鏡が置かれている。魔境といわれている。なぜ魔境というと、太陽などの光にかざすと、裏に刻まれた絵が映し出されるためである。何とも不思議な鏡であり、佐世保市の文化財に指定されている。

西福寺:当山は、千有余年の昔より仙人山伏の修行道場として、この景勝寂奇岩怪石懸崖に清水の滝がある大洞穴の奥の院に庵を結んで修行していました。大正九年八月南有馬勢が直谷城に押し寄せて来た時、平戸城主と直谷城主の兵と合流して、弦掛の山に 陣を敷き有馬勢に向かって戦端に開き弓に弦を掛け戦った所で弦掛の地名があります。以後、この戦いで亡くなった霊を供養せんと庵を結んで法灯をかかげました。
明治以降、観世音菩薩の霊験あらたかなること、世に知れ渡り代々の先師はこのみ山に堂塔を建立し観世音菩薩を本尊とし、人々に信仰を集めています。

御橋観音寺:1240年前に名僧行基が海底で光を放つ大木から三体の観音像を敬刻し、開眼供養して東の海に流されたその内の1体が御橋観音寺となり現在まで信仰の霊地として栄えています。
また二条の大石橋をはじめ春は桜、秋は紅葉と平戸八景の景勝地としても有名です。当山のご本尊様は十一面観世音菩薩様で人々の様々な声を聞き救いの手を差し伸べてくださる非常に慈悲深い仏様です。どうぞ各種御祈願・供養等お気軽にご参拝下さい。

松浦方面に向かう。

善福寺:西海の玄界灘を臨む今福には、永長元年(1096)松浦党の始祖松浦久の築城した梶谷城があった。松浦久はここを拠点として一字名衆五十八家と称せられるほどに播廷し、鎌倉から室町時代にかけて水軍を組織して活躍した。 また文禄の役には秀吉の先陣として出陣し、異国にその名を馳せたが、現在は城跡を僅かに残している。 今福の港から入った山裾に善福寺は営まれている。 鐘楼門を構えた境内は静まり、本堂と前庭の趣が調和している。奥の院に至るとば口には、聖徳太子、修行大師、不動明王の石像があり、裏山、愛宕山周辺を囲うように 四国八十八ケ所霊場の石仏が祀られて、藜樹の道は精気が辺りに満ち幽幻に沈む。途中の岩窟には石像子安観音が安置してあり、秘かに村人の信仰が息づいている。 寺史によると、創建は建武二年(1335)寺上村に建立された。正平十年(1355)松浦直十三世が鰐口を寄進した。 現在、寺宝として護持し、県の文化財に指定されている。 その後、天正二年(1574)松浦親が薬師堂を建立し、阿尊和尚が本尊を勧請して開眼法要を営んだ。この頃、既に松浦党の庇護をうけて海上安全の祈願を厳修していた。善福寺は、寄進の宝物から寺史を新たにする。天和元年(1681)寺上村から仏坂免に寺領を移し、元禄八年(1695)堂宇を再建して目芳法印が開山したという。
 中興開基とみるべきであろう。寺史転変ありて、諸仏の修復を安政六年に行われた。明治四十二年に(1909)妙康法印によって現在地に移し法灯を継承している。本尊阿弥陀如来のほか、数体の諸尊を合祀した地方寺院の名刹である。

15:30長崎空港に向かう。

17:30長崎空港到達。
19:25長崎空港出発。
20:35伊丹空港到達。

今回の旅行、九州長崎県に足を運び、長崎県に点在する11箇所の九州八十八ヶ所霊場を巡り楽しみました。
長崎県の南から北にかけての広範囲に点在する霊場をレンタカーで巡り、移動に時間がかかりましたがなんとか11箇所の霊場を巡り堪能しました。立派な霊場盛りたくさんでした。次回は佐賀県の霊場巡りを予定しております。














飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百七十三弾:長崎県離島(池島・飛島)観光
2014年4月26−27日
   

九州の最西端長崎に足を運び、長崎の西、東シナ海に浮かぶ以前炭鉱で有名であった池島、北側玄界灘に位置する飛島を訪れました。

26日17:20伊丹空港出発
18:35長崎空港到達、レンタカーで長崎市内に向かう。
19:20長崎市内の思案橋付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませてから就寝。
27日6:00レンタカーで出発瀬戸港に向かう。
7:05瀬戸港到達。
7:17瀬戸港フェリーで出発
7:47池島到達、散策。

池島は長崎市神浦の西約7kmの角力灘に浮かぶ有人島です。標高115mの四方山を最高点とした高さ80mほどの台地と港周辺の低平地からなる島です。そして、周囲4kmの小さな島には不釣合いな団地群と廃墟と化した工場が立ち並んでいます。
寛永6年(1629)…キリシタン弾圧による殉教者を出す。定住の始まりは不明ですが、江戸時代には弾圧から逃れたキリシタンの集落があったもとの思われます。
正保元年(1644)…幕府による鎖国強化で、池島に番所が置かれる。外海十六番所の一つに数えられるもので、郷地区の一角に「池島小番所跡」があります。
明治20年(1887)3月…米軍軍艦による砲撃で死傷者がでる。
明治44年(1911)…池島にロシアの軍艦が接近して騒ぎとなる。
小規模の農業と漁業、そして出稼ぎの船員などで生活が営まれていた池島に大きな変化が起きたのは戦後の昭和30年代になってからです。以前から周辺海域には良質の石炭が眠っていることが分かっていましたが、戦争などの影響で開発が遅れていました。
昭和22年(1947)…松島炭鉱(株)による池島開発計画が国に提出される。
昭和27年(1952)…用地買収完了。開発が着手される。
昭和33年(1958)…池島港が完成。池島港は「鏡ケ池」という池の土手を削って造られた人工港です。「鏡ケ池」は神功皇后の伝説がある池で、池島という名前の由来になっています。池の周りに自生している七島藺(しちとうい)を原料とする畳表が島の特産でした。
昭和34年(1959)5月…池島炭鉱操業開始。島には工場、病院、学校、団地が次々と造られ、昭和45年のピーク時には人口が7,700人余に達っするほどでした。
平成13年(2001)11月…池島炭鉱閉山。安価な外国産石炭に押されたことに加え坑内火災事故が起きたことから42年の炭鉱の歴史に幕が下ろされています。閉山により人口流出が起きる。
平成14年(2002)…長崎炭鉱技術研修センターが設置され、「炭鉱技術海外移転事業(5カ年計画)」が実施される。
平成19年(2007)…池島アーバンマイン株式会社が設立される。ASR(廃自動車シュレッダーダスト)再資源化リサイクル事業及び合金鉄製造事業を中心とした事業展開。
平成21年(2009)…『採炭技術』で国土交通省が選定する「島の宝100景」に選ばれる。
平成24年(2012)7月…池島アーバンマイン(株)が合金鉄製造事業の休止を発表。これにより更なる人口減少が起こり、平成25年初頭の人口は200人台になっています。

10:48池島フェリーで出発
11:18瀬戸港到達、レンタカーで今福港に向かう。
12:50今福港到達。
13:20今福港フェリーで出発
13:42飛島到達、散策。

松浦市の鷹島と福島の間にある飛島と小飛島。元寇の歴史と炭鉱の時代を経て、今は静かに漁業の島として存在を示している。
飛島の東側には炭鉱が盛んだった頃の名残としてボタ山が小高くそびえている。炭鉱の最盛期だった昭和30年代半ば頃には人口が2,000人を超えたこともあるという。賑やかだったんでしょうね。
今では人口も80人くらになり、今福小学校飛島分校も休校中。
若宮神社というのもよく耳にする名称だけど、ネットで検索してみると仁徳天皇の分霊が祀られているというのを見かけたけれど、この島の神社はどうかわかりません。1716年に建立されたとか・・・

16:05飛島フェリーで出発。
16:25今福港到達、レンタカーで長崎空港に向かう。
17:50長崎空港到達。
19:05長崎空港出発。
20:15伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の最西端長崎県に足を東シナ海と玄界灘に位置する離島(池島・飛島)訪れ散策し癒されました。
両島とも以前は炭鉱が盛んでしたが今では閉炭し当時の遺残のみでひっそりした島でした。
今回で長崎の近場の離島は制覇しました。残るは五島列島周囲の離島のみとなりました。訪れるには時間がかかりそうです。
 








飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十一弾:長崎県離島渡良三島(原島・長島・大島)巡り
2014年1月25−26日
 

長崎県の玄界灘に浮かぶ邪馬台国時代の王都跡とされる原の辻遺跡や元寇の史跡などの歴史遺産も多い壱岐に足を運び、壱岐島の南西、郷ノ浦町に浮かぶ渡良三島(原島・長島・大島)を訪れました。

25日16:45新大阪新幹線のぞみで出発
19:14博多到達、バスで博多港に向かう。
19:34博多港到達
20:35博多港フェリーで出発
22:55郷ノ浦港到達、歩いて郷ノ浦町のホテル到達、就寝。
26日8:00ホテル出発
8:20郷ノ浦港フェリーで出発、長島に向かう。
9:00長島港到達、散策

島の周りは好漁場で漁業が中心の島ですが、和牛の飼育も行なわれいるようです。江戸時代には平戸藩の流刑地になっていました。

9:43長島港フェリーで出発
9:56原島港到達、散策

漁業が中心の島で、南側の一里崎辺りは釣のポイントですね。江戸時代は長島とともに平戸藩の流刑地でした。 自生するスイセンは原島スイセンと呼ばれ人気だそうです。昔は「春島」という表記もあったようで、春が近づくとスイセンの花が咲いたのでしょうか?

11:27原島港フェリーで出発
11:50大島港到達、散策

壱岐島の南西、郷ノ浦町に浮かぶ大島、長島、原島は“渡良三島”と呼ばれています。その中で一番大きいのが大島。北側の児島の辺りではミドリイシサンゴの群落が見られるようでダイビングスポットになっています。大島海水浴場砂浜がきれいです。夏には子供たちが泳いでることでしょう。大島神社の石造りの塔には享保年間(1716〜1736年)の碑文が残されているそうです。何と書いてあるのか分かりませんが、享保の時代と言えば将軍徳川吉宗が改革を行なっていた時代。当時から漁業が盛んに行なわれていたのでしょう。長島との間にある珊瑚大橋(294m)は平成11年3月に完成しました。

13:20大島港フェリーで出発
14:10郷ノ浦港到達、郷ノ浦散策

壱岐島は佐賀県の東松浦半島から北北西へ約22kmの玄界灘に浮かぶ大きな島です。対馬島とともに古くから九州本土と朝鮮半島を結ぶ海上交通の中継地としての役割を担ってきました。対馬暖流の影響で気候にも魚場にも恵まれ、平坦な地形は農業にも恵みを与えています。発掘される多くの遺跡は古代から豊かな生活が営まれていたことを示しています。魏志倭人伝や中国の史書に記される「一大國」、あるいは「一支國」とはこの壱岐島だとされ、東南部の「原ノ辻遺跡」から出土される数々の遺品は、その中心集落だったことを物語っています。また壱岐島は幾度となく大陸からの侵略の舞台になっています。大和政権が日本を束ねようとしていた時代には朝鮮半島からやってくる海賊に悩まされ、平安時代の刀伊の入寇(1019)、鎌倉時代の元寇襲来(1247、1281)と大陸からの脅威に晒され、多くの犠牲を強いられる事件にも遭遇してきました。

17:05郷ノ浦港ジェットフォイルで出発
18:15博多港到達、タクシーで博多駅に向かう。
18:40博多駅到達
19:19博多駅新幹線のぞみで出発
21:44新大阪駅到達

今回の旅行、長崎県の壱岐に足を運び、壱岐島の南西、郷ノ浦町に浮かぶ渡良三島(原島・長島・大島)を訪れました。
2回目の訪れである壱岐、前回は壱岐島の名所めぐりでしたが、今回は壱岐沖の離島三島を訪れ散策し癒されました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百五十五弾:長崎県玄界灘沖離島青島&黒島観光
2013年11月30−12月1日
  

九州の最西端長崎県に足を運び、玄界灘に浮かぶ離島、鎌倉時代中期に起きた元寇襲来での激戦地となったところで、今では当時の喧騒を思い起こすことが困難なほど静かで長閑な風景が広がっています青島ともともとは石の採掘加工などが営まれていて、墓石では黒島石として名が知られている黒島を訪れました。

30日14:20伊丹空港出発
15:40長崎空港到達、レンタカーで松浦方面に向かう。
18:00松浦市内のホテル到着後、周囲を散策して食事を済ませて就寝。
1日7:00レンタカーで出発
7:15御厨港到達
7:50御厨港フェリーで出発
8:10青島港到達散策

長崎県の青島は松浦市の御厨港から定期船で約20分、北松浦半島の先端から北東へ1.3kmの位置に浮かぶ有人島です。3kmほど東にある鷹島やその南にある飛島、そしてこの青島は鎌倉時代中期に起きた元寇襲来での激戦地となったところです。今では当時の喧騒を思い起こすことが困難なほど静かで長閑な風景が広がっています。昔は満潮になると低い部分は海に沈み、3つの島に分かれていたといいます。北から「崎の島」、「中の島」、「南島」と呼ばれ、島民と河童の河太郎一族が力を合わせて一つの島にしたという民話(長者と河太郎)が残されていたり、江戸時代の干拓事業で人柱の代わりに犬柱を立てたことで犬を尊び飼わなくなったという話があり、実際に河童の手助けはなかったとは思いますが、その後の島の発展に繋がる島民総出の干拓事業があったようです。東側の入り江に小型漁船が並ぶ港とそれを囲む集落があります。階段を登ったところに古さを感じる七郎神社、南側の高台に大きな子安観音像があります。青島子安観音は子供の成長と安全を願って建てられたもので、高さが15mある大きな観音様として知られ、島のシンボルになっています。集落の反対側には緩やかに弧をなす宝の浜海岸があります。300m続く白い砂浜とコバルトブルーの海、夕陽に染まる美しい浜辺は青島の自慢です。東海岸沖約2kmにある小島は魚固島という珍しい名前の無人島で南端には灯台があります。青島の南に砂州で繋がる松島とともに冒険心をくすぐる風景です。

10:22青島港フェリーで出発
11:02黒島港到達散策

松浦市御厨港→青島港(30分)→鷹島・船唐津(ふなとうず)港(15分)→黒島(30分)鷹島の船唐津から30分。一番高いところで73mと平坦な感じだが、海岸線は50m程の断崖が続いている。黒島には病院も学校も無い。小学校の分校はあるようだが、休校中のようです。もともとは石の採掘加工などが営まれていて、墓石では黒島石として名が知られているようです。現在では細々とういう状態のようです。他は農業と漁業、出稼ぎに出てる人も多い。空き家がそこそこあるようで、希望があれば安く貸してくれそうです。

12:25黒島港フェリーで出発
13:25御厨港到達、レンタカーで長崎空港に向かう。途中西彼杵半島をドライブする。
17:20長崎空港到達。
18:55長崎空港出発
20:05伊丹空港到達。

今回の旅行、九州最西端長崎県に足を運び、日本海沿いの玄界灘に浮かぶ離島、青山&黒島を訪れ散策し癒されました。
やはり他のほとんどの離島に共通する、素朴で住民も少なく長閑な島々でした。




 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百四十七弾:長崎県平戸沖離島的山大島&度島観光
2013年10月5−6日
 

長崎県平戸に足を運び、平戸沖の離島、平戸諸島の北の外れ、海の要衝、九州北部から出港した遣唐使船が、大陸とを往来する際に寄港した島、的山大島、室町時代の1554年に3人のキリスト教宣教師が来島して布教活動を行った度島を訪れました。

5日14:30伊丹空港出発
15:40長崎空港到達、レンタカーで平戸に向かう。
17:30平戸手前の江迎鹿町駅付近のホテル到着後市街地を散策し食事を済ませて就寝。
6日7:30レンタカーで平戸港に向かう。
8:10平戸港到達
8:20平戸港フェリー度島で出発
9:05度島本村港到達

度島は東側の丸島の所に標高103mの飯盛山があり、この島ではここが一番高い。全体的に平坦な所は少なく、北西側も40〜60mの断崖になっている。キリスト教が伝えられたころはキリシタンの島だったが、秀吉のバテレン追放令(1587年)により改宗が進み、それ以降は信者は居なくなった。お盆に行われる"盆ごうれい”と呼ばれる行事は無形文化財に指定されています。先土器時代の遺跡や古墳もあります。

9:10度島本村港フェリー度島で出発
9:45平戸港到達
10:20平戸港フェリー大島で出発
11:05大島的山港到達、シャトルバスで神浦に向かう。

大島は島の周囲は岩場が多く磯釣りのメッカ。マダイ、メジナ、イサキなどが釣れる。大賀断崖は50〜70mの切り立った断崖が続き、この上にキャンプ場がある。いさりびの里「漁火館」は温泉や宿泊、バーベキュー広場などが利用できる。遣唐使船も寄港したことがあると伝えられている。また1281年の弘安の役(元寇)で戦場になった。2009年『大根坂の棚田』で「島の宝100景」に選ばれました。

11:30神浦到達、散策

神浦港を見下ろす神浦の神社に肥前型の石鳥居がある。柱に享保2年に藩主松浦公が奉納した旨が刻まれている。鳥居の正面の建物(現在は倉庫)は江戸時代の拝殿であり、本殿は現在鏡内社となっている金比羅宮で江戸中期のものと判明している天降神社を訪れる。

井元氏の墓地内に建立されており、年記(1692年)のある最も古いもの。縦122cm、横45cmの鯨供養碑を訪れる。

13:20神浦シャトルバスで出発
13:40的山港到達
14:00的山港フェリー大島で出発
14:45平戸港到達、レンタカーで西彼杵半島に向かう。
16:30西彼杵半島鵜瀬島到達

もとの住所は西彼杵郡琴海町。平成の大合併で2006年1月4日に長崎市に編入。小口のところに橋が架かっているので陸続きになっているが、対岸とは10mくらいしかなく干潮の時は徒歩でも行き来できたみたいです。島にはほとんど民家しかないようで、小学生は4kmほど離れた
尾戸小学校へ徒歩通学してるようです。島の周囲の入り江では真珠の養殖や牡蠣、ナマコ、みかんとか採れるようです。

16:45鵜瀬島出発、長崎空港に向かう。
18:10長崎空港到達
18:45長崎空港出発
19:50伊丹空港到達。

今回の旅行、長崎県平戸沖の離島、平戸諸島の的山大島と度島を訪れました。大陸に近いせいもあり、九州北部から出港した船の寄港島でもあり、又キリス教宣教師が来島し布教活動を行った島でもある。
古くからの歴史を語ることのできる歴史深い島でもありました。








 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百三十三弾:長崎県五島灘離島観光
2013年6月15ー16日
 

江戸時代 の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化交流が盛んに行われていた町、長崎タウンが位置する九州の西端の長崎県に足を運び、西彼杵半島の沖、五島灘に点在する離島(松島、寺島、大島、栃浦島、崎戸島、高島、黒島)を訪れました。

15日14:25伊丹空港出発
15:40長崎空港到達、レンタカーで有明海周囲の橋で渡れる島を巡る。

ハウステンボスがあるのは針尾島という島の中だったんですね。その針尾島に包まれるようにあるのが大島。大正から昭和にかけてはレンガ工場があったということですが、現在は老人ホームと病院があります大島を訪れる。

昭和63年に「寺島大橋」、平成11年に「大島大橋」が完成。大島、蛎浦島、崎戸島への玄関口となっている。養殖が盛んで漁業の島。島の周辺はアワビの宝庫の寺島を訪れる。

平成11年11月11日午前11時11分11秒に開通した大島大橋(橋長1095m)。寺島、そして寺島大橋を渡れば大島。江戸時代は大村藩の放牧場、昭和10年〜45年は炭鉱の島。そして現在は大島造船所。島の一番高いところは百合岳(194m)。その百合岳公園には野外音楽堂もあり、360°の展望が望める大島を訪れる。

江戸時代は捕鯨基地、明治・昭和は炭鉱の島で最盛期には人口が2万5,000人を超えたこともあったようです。炭鉱記念公園にある歴史民俗資料館には当時の資料などが展示。現在は九州唯一の製塩工場や観光等が島を支えています。とんぼ公園には絶滅が心配されているベッコウトンボ、珍しいノアサガオの群生も見られます。「イル・デ・フルール」 にはハーブの花が咲き乱れる。この島の廃墟はどこかで見たような気がすると思ったら、「バトルロワイヤル2」(深作欣二監督の遺作)のロケ地でした栃浦島を訪れる。

蛎浦島とは橋で結ばれている 磯釣りや観光に訪れた人たちを癒すホテルや民宿などがある。平成15年にオープンした「ホテル咲き都」ラジウム温泉「狸の湯」ある崎戸島を訪れる。

16:30佐世保に向かう。
17:30佐世保駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
16日5:40レンタカーで瀬戸港に向かう。
6:30瀬戸港到達
7:15瀬戸港市営交通船で出発
7:25松島港到達、島を散策する。

西海市の松島は西彼杵半島の西側、角力灘)に浮かぶ島で、瀬戸港から1km程の距離にあります。江戸期以前は地元の漁師などの出入りはあったものの、人家もあまり見られず松林が茂っていたので松島という名が付いたようです。江戸期に入ると大村藩によって島の頂上(217m)に遠見番所が置かれたり、釜浦辺りに定住する者も居たようですが、元禄期に松島水道で鯨漁が行われるようになると西泊の港は一気に活況を呈するようになります。元禄8年(1695年)に平島よりこの地に移り住んで捕鯨を始めた深沢与五郎はたちまち巨万の富を築き、同時に松島鯨組は広く世間に知れわたることになります。その後100年程クジラの時代は続きますが、今では西泊の正定院に残る与五郎の大きな墓が当時の繁栄を偲ばせるばかりです。松島を訪れる。

8:00松島港市営交通船で出発。
8:10瀬戸港到達、レンタカーで佐世保相浦港に向かう。
9:30相浦港到達
10:00相浦港フェリーで出発
10:20高島到達、散策

九十九島は北松浦郡鹿町町周辺の島々を北九十九島、佐世保市周辺の島々を南九十九島と地域分けされています。いろいろ数え方はあるようですが、全体で208の島々があるそうです。この高島と南西にある黒島は有人島ですが、ほとんどの島は面積も小さく無人島ばかりです。高島は観光というよりは漁業の島で、チクワやカマボコが生産され生活を支えているようです。高島を訪れる。

13:25高島港フェリーで出発
13:50黒島到達、散策。

佐世保湾を出て北西に進路をとり、約10km程行くと黒島がある。赤レンガ造りの黒島教会が存在感を示し、島民の7割がカトリックだという黒島はキリスト教の色合いが強い島。黒島教会は国指定重要文化財になっている。禁教令の中救いを求めてこの島に移り住んできた人達は出口大吉の家で密かにキリスト教を信仰していた。屋敷跡には信仰復活の記念碑が建立されている。 島の特産、海水のニガリで固めた黒島豆腐は結構硬め。お祝いの時に食べるフクレ饅頭はサンキライ(カカラ)の葉を使って作るようです。黒島を訪れる。

15:30黒島港フェリーで出発
16:20相浦港到達、レンタカーで長崎空港に向かう。
17:50長崎空港到達
18:45長崎空港出発
19:55伊丹空港到達。

今回の旅行、九州の西端の長崎県に足を運び、西彼杵半島の沖、五島灘に点在する離島(松島、寺島、大島、栃浦島、崎戸島、高島、黒島)を訪れ楽しめました。

長崎には多くの島が点在し、今回訪れた島は比較的人口も多く、フェリーの便も多く訪れやすい島でした。際立った観光名所はありませんが隠れキリシタンの島でもあり大きな教会が印象的でした。

 










飛行機で国内&海外の観光地巡り第百八十六弾:長崎県長崎タウン離島軍艦島&伊王島&高島観光
2012年4月7日ー8日


江戸時代の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化交流が盛んに行われていた長崎県の長崎タウン離島、幕末から始まり、昭和49年の閉山まで日本の経済を支えた炭鉱の島端島、今や廃墟ビルが林立し、軍艦のような独特の風貌を残す軍艦島、長崎市の南西海上に浮かぶ島、マリンブルーに輝く海や天然温泉を備えたホテルで手軽にリゾート気分が味わえるほか、歴史ある教会や透明度を誇る海水浴場がある伊王島を訪れました。

7日15:50伊丹空港出発
16:55長崎空港到達、レンタカーで長崎タウンに向かう。
17:45長崎タウンのホテル到達、市街地を散策し食事を済ませて就寝。
8日5:20レンタカーで出発
5:40長崎港到達
5:50高速艇で高島に向かう。
6:23高島到達、散策する。

かつては石炭発見の地として栄え、これに尽力したグラバーの別邸跡も残る。現在は1年を通じた釣りスポットとして人気の高島を散策する。

炭鉱と共に歩んだ高島の歴史の写真と、炭鉱で使われていた機材を豊富に展示している資料館。当時の坑道の模型やトロッコ等の重機、坑夫の服装なども展示してある石炭資料館を訪れる。

高島の周囲に広がる美しい海の水を使った海水温浴施設。アイランド・テラピーとは島のきれいな海水など、環境を活かした健康づくり(運動・休養)を目的とした活動のことで、この施設では、温めた海水に水着を着用して入り各種運動を行うことができる高島海水温浴施設 いやしの湯を訪れる。

美しいコバルトブルーの人工海水浴場が目の前にある キャンプ場、高島ふれあいキャンプ場を訪れる。

慶応4年(1868)、イギリスの貿易商人トーマス・ブレーク・グラバーは高島炭坑の開発にあたり、明治初期にかつて高島本島とは離れた小島だったこの地に橋を架け、洋式の別邸を建てて炭鉱経営の拠点とした。ここから長崎の南山手の自宅との間に電話線を引いたのがわが国最初の私設電話だといわれている。現在の三角屋根は後に展望所として整備された際に設置されたものだが、周囲には建物の基礎石や井戸跡、排泄物を処理したと思われる便器跡などが残されている。また、当時船をつけた下の船着場までの通路は今も散策路として通ることができるグラバー別邸跡を訪れる。

8:00高島出発
8:30長崎港到達。
9:00長崎港軍艦クルーズ出発
9:40軍艦島到達、上陸。

軍艦島(長崎)は正式名は端島で、長崎港南西約17.5km、端島より先に石炭鉱で繁栄した高島の南南西約2.5kmに位置します。元々は現存の3分の1程度の面積の小さな島でしたが、昭和6年(1931)の最後の埋立て迄に南北約480m、東西約160m、周囲約1,200m、面積約6.3haという、防波岸壁が島全体を囲む現在の形になりました。高層(当時として)鉄筋コンクリート造りのアパート等が密集するその外観が、洋上西方から眺めて、大正10年(1921)年当時三菱長崎造船所で建造中であった戦艦「土佐」(後に未成廃艦となった)に似ていると報じられたことから「軍艦島」と呼ばれるようになりました。良質な海底炭鉱の島で、一時は高島を抜く出炭量となり、昭和16年(1941)には同島最多の41万トンを出炭しました。人口は最盛期の昭和35年(1960)に5,267人で、人口密度は当時の東京都区部の9倍以上で世界一でしたが、その後、主要エネルギーの石油への移行により衰退し、昭和45年(1970)以降のエネルギー政策の影響を受けて昭和49年(1974)年1月15日に閉山しました。閉山当時残っていた約2,000人も4月20日迄に全て島を離れ、その年の末まで続いていた残作業後、無人化しました。島はその後も三菱の所有でしたが、平成13年(2001)、当時の高島町に譲渡され、現在は長崎市の所有となっています。島への上陸は長らく禁止されていましたが、平成21年(2009)4月22日から整備された見学通路内からに限って上陸しての見学ができるようになりました。重要な国のエネルギー政策のため、厳しい炭鉱作業を進めるため、時の最先端な環境を整備し、殆ど人工島のように見える島内にほぼ都市機能が完結していたことに、そして明治時代から高度成長期の日本を支え、石炭エネルギーの衰退により閉山、無人化し、廃墟となった「軍艦島」にはその存在を知った時から惹かれていました。

11:00軍艦島クルーズ艇で出発
11:40
長崎港到達、レンタカーで長崎半島を巡る。

伊王島と沖之島、2つの島を橋で結んだ島・伊王島は、大浦天主堂にも似た白亜の沖之島天主堂、日本初の洋式灯台などのほか、天然温泉が自慢の施設「やすらぎ伊王島」を擁するリゾート気分いっぱいの島だ。平成23年3月27日には対岸の香焼とを結ぶ伊王島大橋で結ばれ車でも行けるようになりました伊王島を訪れる。

日本初の鉄製洋式灯台で、1870年(明治3)に設置。原爆で破損、天井のドーム部分のみ建造時のものだ。当時の灯台で使用されていた道具などを展示する、灯台記念館)もある伊王島灯台を訪れる。

沖之島の高台に立つゴシック様式の白亜の天主堂。島民の願いで1890年(明治23)に本聖堂が建立された。その後、台風と落雷の被害にあい、1933年(昭和6)に再建された沖之島天主堂を訪れる。

長崎半島を南下する。

国道499号沿い、黒浜から連なる海蝕景観のなかでもひときわ目を引くのが、寄り添って立つ二つの岩。海に向かって左が高さ11m・周囲24mの男岩、右が高さ11m・周囲26mの女岩。地質学的には野母変はんれい岩複合岩体といわれる。4億8千年前のものといわれ、九州では最も古い。夕日を背に浮かび上がる光景は幻想的な夫婦岩を訪れる。

標高198mの山頂は、1638年(寛永15)江戸幕府の遠見番所が設けられたほど眺望がよく、東に天草灘、西に五島灘、南に東シナ海を一望可。山頂に広がる椿公園には、250種約300本の椿と自生のやぶ椿1万数千本が茂る。なかでも白椿「陽の岬」[ひのみさき]は野母崎町でしか見られない品種。広島平和公園にある悲願の鐘の夫婦鐘「まごころの鐘」もある権現山展望公園を訪れる。

樺島の南端、100mの断崖に立つ白亜の灯台。1932年(昭和7)に初点灯。周囲は公園として整備され、展望台からは東シナ海が一望できる。灯台内に入ることはできないが、すぐそばには樺島灯台の歴史やその働きを解説するパネル、灯台の部品などが見られる展示室がある樺島灯台を訪れる。

東海岸線を北上し諫早方面に向かう。

高城城跡を整備した公園。石橋としては最初に国の重要文化財に指定された眼鏡橋が架かる。4月から5月は3万本のツツジが満開になり、園内一帯に色を添える諫早公園を散策する。

長崎空港に向かう。

17:20長崎空港到達
18:10長崎空港出発
19:30伊丹空港到達。

何回も訪れたことのある長崎県、今回は長崎タウン沖に浮かぶ離島、伊王島、高島、軍艦島を訪れ1泊2日の旅、楽しめました。
特に世界遺産暫定の軍艦島、運よく天候がよく、波も穏やかで上陸でき、廃墟の炭鉱の町、乱立した鉄筋高層ビルが建て並び、閉山とともに自然が軍艦のような風貌と化した光景は驚きの一言でした。

長崎タウン沖の離島(軍艦島・伊王島・高島)巡りとと長崎半島の観光名所のドライブ観光でした。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十五弾:長崎県長崎タウン観光
2011年5月28日ー29日


九州の長崎県に足を運び、江戸時代の鎖国の間、日本唯一の貿易港として中国やオランダとの文化交流が盛んに行われていた町、石畳の坂道を歩けば、洋館群やグルメなど、街中でその名残を感じることができる長崎タウンを訪れました。
28日16:10伊丹空港出発
17:25長崎空港到達、レンタカーで長崎タウンに向かう。
18:20長崎市内のホテル到着後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。
29日6:30長崎タウンを散策する。

横浜・神戸と並ぶ三大中華街の一つ。江戸中期に唐船荷役の倉庫を建てるために埋め立てられた地域で、現在は多くの中国料理店や商店が並ぶ。中華街の東西南北には、それぞれ龍や白虎をあしらった朱塗りの中華門が立っていて、異国情緒をさらにかき立てている長崎新地中華街を訪れる。

長崎新地中華街の四方の入口に立つ朱塗りの門が「牌楼」、すなわち中華門。1985年(昭和61)、長崎新地中華街商店街組合により建てられた。それら4つの青竜門、白虎門、朱雀門、玄武門は正確に東西南北を示す位置にあり、それぞれ裏側に龍や朱雀など四方の守護神である中国伝説上の動物が彫られている中華門を訪れる。

1689年(元禄2)、江戸幕府が密貿易を防ぐことなどを目的として、唐人を集め、住まわせた屋敷の跡地。唐館ともよばれた建物群には約2000人が住み、周囲は塀や堀で囲われ外界から隔離されていた。現在、土神堂、天后堂、観音堂、福建会館が市の文化財に指定されている唐人屋敷跡を訪れる。

かつては外国人居留地にある坂道はすべて「オランダ坂」とよんでいた。現在では、活水女子大右横の坂道が特に有名。レンガ塀が残る石畳の坂道は、雨に濡れるとなお一層情緒を増すオランダ坂を訪れる。

1868年(明治元)に建設された三角屋根が目印のこの洋館は、ロシア領事館として使用されていたもの。当時の領事館で現存する最古の建物であり、その後はアメリカの領事館やアメリカ宣教師の住宅に使用された。幅の広い廊下やゆったりとしたベランダなどに、領事館時代の面影を見ることができる。現在は私学歴史資料館となっていて、居留地時代の私学の歴史を今に伝えている東山手十二番館を訪れる。

オランダ坂に面して並ぶ、7棟の洋館。明治20年代後半に外国人用の賃貸住宅として建てられたもので、7棟のうち5棟が資料館として見学できる。東山手地区町並み保存センターでは、外国人居留地時代の様子を写真やビデオで紹介。古写真資料館は、写真の開祖・上野彦馬の資料や明治・大正期の長崎に関する写真を多数展示している。埋蔵資料館では、江戸時代の遺跡の出土品などが見学可の東山手洋風住宅群を訪れる。

東山手洋風住宅群にある資料館。写真の開祖上野彦馬の資料や明治・大正期の長崎に関する写真を多数展示する古写真資料館[東山手洋風住宅群]を訪れる。

東山手洋風住宅群にあり、江戸時代の遺跡の出土品などが見学できる埋蔵資料館[東山手洋風住宅群]を訪れる。

1893年(明治26)、中国政府の多大な協力を得て華僑らによってつくられた、孔子を祭る聖廟。中国人が海外に建立した唯一の孔子廟としても知られる。廟全体が中国特有の雰囲気を醸し出す華やかな極彩色で飾られており、朱は魔除けと慶びを、黄色は皇帝を表す色として随所に用いられている。門をくぐり敷地内に入ると正面奥に大成殿がそびえ、その前庭には72体の賢人石像が左右にずらりと並んでいて壮観な孔子廟を訪れる。

孔子廟に隣接する施設。兵馬俑・陶磁器など、北京故宮博物館所蔵の宮廷文化財や中国国家博物館所蔵の出土文化財を多数展示。そのどれもが国宝級という貴重なものばかりだ。中国5000年の歴史の重みを感じさせる文化遺産が年代・王朝別にわかりやすく解説されていて、一見の価値がある博物館。1階には中国のみやげ品が買える売店も併設されている中国歴代博物館[孔子廟]を訪れる。

1864年(元治元)、フランス人プチジャン神父の尽力によって完成した現存する教会では日本最古の天主堂(国宝)。正式名称は日本二十六聖人殉教聖堂。建立の翌年、キリシタン弾圧の250年間(7世代)を耐え抜いた隠れキリシタンが「マリア像は何処」と訪れた話は世界のキリスト教史上名高く、そのマリア像も現存する。フランス製ステンドグラスは145年前のものの日本二十六聖殉教者天主堂(大浦天主堂)を訪れる。

約3万平方mの敷地内に、居留地時代から現存する国指定重要文化財の旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅のほか、市内に点在していた6棟の洋館を移築・復元。なかでも1863年(文久3)に建てられた旧グラバー住宅は現存する日本最古の木造洋館で、上から見ると四つ葉のクローバー型の屋根が特徴的。スコットランド出身の貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの旧邸で、現在は遺品を展示している。坂本龍馬と密談したといわれている隠し部屋も見どころ。園内の展望台からは長崎港を一望でき、夜のライトアップも美しいグラバー園を訪れる。

南山手乙9番館を利用した美術館。須加五々道画伯の作品を鑑賞できる。須加五々道画伯は、新日本画と呼ばれる水墨画の技術を基調に西洋の遠近法をとり入れた独特の画法で知られる。作品『農婦』は、1999年(平成11)にフランセーズ大賞を受賞。20数点の作品のほか、画伯が使用している筆も展示する長崎市須加五々道美術館を訪れる。
1904年(明治37)に建てられた洋館(重要文化財)。レンガと石造りの3階建てで市内の洋館の中でも最大級だ。4年の改修工事を終え、1996年から一般公開されている。1階は銀行業務に関する資料、2階に明治期の居留地での生活について、3階は諸外国との貿易の歴史に関する展示がある旧香港上海銀行長崎支店記念館を訪れる。

運河を挟んで、スペイン美術や長崎ゆかりの美術を展示する美術館棟と、ミュージアムショップや情報コーナーなどがあるギャラリー棟の2棟が立つ。2つの建物を結ぶ空中回廊にはカフェも併設。運河を眺めながらゆっくりとお茶を楽しめる。長崎水辺の森公園につながる屋上庭園からは長崎港が一望の長崎県美術館を訪れる。

鎖国の際に平戸より移され、約200年間唯一の西洋との貿易の窓口だった商館の跡地。近代の港湾埋立によって市中に埋もれてしまったが、現在19世紀初頭の出島を復元する事業が進行中。10棟の復元建物を見学できる。約15分の1のサイズのミニ出島、出島の歴史やオランダ商館員の暮らしを映像で紹介する出島シアターなどもある出島(出島和蘭商館跡)を訪れる。

川原慶賀が描いた『長崎出島之図』を参考に、1820年(文政3)ごろの出島を15分の1の大きさで再現したもの。出島和蘭商館跡地にある。幕府のキリスト教禁止政策により、新教国で布教活動を行わないと誓ったオランダが貿易権を獲得。1641年(寛永18)、平戸からオランダ商館が移されて1859年(安政6)の開国まで218年間、西洋への唯一の窓口となった。1904年(明治37)に埋め立てられるまでの出島の姿を今に伝えるミニ出島[出島]を訪れる。

1629年(寛永6)、明の僧・超然が創建した黄檗宗の寺院。竜宮城を思わせる朱塗りの山門が印象的。黄檗天井と称されるアーチ型天井をもつ入母屋造の大雄宝殿(国宝)や第一峰門(国宝)、鐘鼓楼(重要文化財)などの唐様の堂宇が立ち並ぶほか、境内には飢饉の際、住民を救うため作られた大釜などもある。毎年旧暦の7月26〜28日には中国盆会が行われ、賑わいを見せる崇福寺を訪れる。

1634年(寛永11)、唐僧・黙子如定によって架設。中島川石橋群の中では唯一の双円アーチ型で、水に映った姿が眼鏡のように見えるためこの名が付いている。眼鏡橋のビューポイントは2つ隣の東新橋。アーチが高いので、眼鏡橋を正面から見下ろす角度で見ることができる。橋の向こうに夕日が沈む景色は一見の価値あり。河畔は中島川公園として整備され、枝垂れ柳が風情を感じさせる眼鏡橋を訪れる。

1620年(元和6)創建。日本の唐寺では最も古く、長崎三福寺の一つ。2代目住職は眼鏡橋を造った如定で、黄檗宗開祖・隠元禅師が最初に入山した寺でもある。威風堂々とした寺が立ち並ぶ寺町通りのなかでも、総朱丹塗りの大きな山門が際立つ。鮮やかな色彩の彫刻が施された大雄宝殿(重要文化財)や唐人屋敷門(重要文化財)、孔子を祭った中島聖堂などみどころは多い興福寺をおとずれる。

長崎の街を見渡せる風頭山山頂にあるこの公園は、坂本龍馬の銅像や司馬遼太郎の記念碑が立つことでよく知られており、毎年それぞれのファンが多く訪れている。また、この公園は長崎では「ハタ」とよばれる凧をあげて「けんか凧」を楽しむ場所としても有名。カラフルで大胆なデザインの凧を、空中でお互いにからませて相手の糸を切る戦いは、勇壮で美しい風頭公園を訪れる。

長崎奉行所立山役所の建物を同じ場所に復元・整備。長崎奉行所の役割と近世長崎の海外交流史を、歴史・美術・工芸資料や映像などを通して紹介している。解体新書や踏み絵、シーボルトが実際に使用した医療器具などを常設展示している長崎歴史文化博物館を訪れる。

豊臣秀吉のキリシタン禁止令によって捕えられた26聖人が1597年(慶長元)に処刑された場所。キリストが十字架に架けられたゴルゴダの丘と似ているため、彼らはこの西坂の丘を自らの希望で処刑地に選んだという。なかには12歳の少年もいた。ここにはその26名のレリーフ像が長崎港に向かって立っている。キリシタンに関する資料が豊富な日本二十六聖人記念館も併設されている日本二十六聖人殉教地を訪れる。

標高333m。市内屈指の夜景スポット。山頂には稲佐山展望台があり、港や市街地を一望できる稲佐山を訪れる。

標高333mの稲佐山に整備された展望公園。山頂の展望台からは港や市街地が一望で、360度のパノラマが楽しめる。1000万ドルの夜景は必見。中腹にはサル舎や鹿舎、野外音楽堂などもある稲佐山公園を訪れる。

山王神社の鳥居。原爆の爆心地から南東約800mに位置したため、強烈な熱線で上部が黒く焼け、爆風によって片方の柱と鳥居上部が破壊された。残った笠石の半分を一本柱で60年以上も支えている山王神社二の鳥居(一本柱鳥居)を訪れる。

被爆10周年の1955年(昭和30)に長崎国際文化会館として開館、被爆50周年の記念事業として改築された。展示室では被爆資料や再現模型で原爆投下直後の惨状を再現するほか、記録映画が見られるビデオルームもある長崎原爆資料館を訪れる。

近代日本の代表的洋画家・野口彌太郎の作品を約30点展示。『長崎の情緒』『長崎の風』など、長崎を描いた作品もある長崎市野口彌太郎記念美術館を訪れる。

キリシタン弾圧に耐え、明治維新後の禁教令廃止によって信仰の自由を与えられた信者らが、明治28年から30年をかけて建てた東洋一の大聖堂だったが被爆。堂の前にある被災した天使像が原爆の脅威を物語る。奇跡的に残ったアンジェラスの鐘は今でも現役の浦上天主堂を訪れる。

『長崎の鐘』『この子を残して』などを著した医学博士・永井隆が、晩年「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から「如己堂」と命名した住居。自らも被爆しながら、被爆者の救護に尽力した。隣接の長崎市永井隆記念館では原稿など遺品を展示する如己堂・長崎市永井隆記念館を訪れる。

北村西望作の平和祈念像が中央に位置する公園。像の高く掲げた手は原爆の脅威を、水平に伸ばした手は平和を象徴、閉じた目は戦没者の冥福を祈っている。園内には平和の泉があり、周りには世界各国から寄贈された平和を象徴するモニュメントがある。原爆投下時、この地にあった浦上刑務所の壁も残っている平和公園を訪れる。

原爆落下中心地に立つ黒御影石の石柱の碑。この碑の約500m上空で原爆が炸裂、半径2.5kmに及ぶ地域を壊滅させた。そばには爆心地から北東約500mの場所にあって壊滅した浦上天主堂の遺壁の一部が移築されている原子爆弾落下中心地碑を訪れる。

外海方面に向かう。

『白い人』『沈黙』『深い河』などで知られる、遠藤文学をしのぶ記念館。館内には生原稿やペンなど、遠藤氏の遺品約3万点と蔵書約7000点を収蔵している長崎市遠藤周作文学館を訪れる。

16:00長崎空港に向かう。
17:00長崎空港到達。
17:55長崎空港出発
19:20伊丹空港到達

今回の旅行、長崎県の島々、軍艦島、伊王島を訪れる予定でしたが、台風に悪影響でフェリー欠航、急遽長崎タウンと長崎郊外の名所観光に変更しました。

何回も訪れたことのある長崎タウンの教会群や寺社等の点在する歴史的建造物は立派、近い将来世界遺産に登録されるでしょうね。

豊富な観光名所が点在する長崎タウンドライブ観光でした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四十三弾:長崎五島列島観光
2008年10月11−13日


今回は長崎の離島、教会群と城下町の二つの歴史が共存する五島列島に足を運びました。

11日15:40関西国際空港出発
16:50福岡空港到達
17:40福岡空港出発
18:20五島福江空港到達、レンタカーで市内のホテル到着後市街地を散策して新鮮な海の幸をいただいてから宿を取る。

12日6:30レンタカーで出発、天候快晴、絶好の観光日和。
南東に向かい、五島列島主島の福江島のシンボル的な標高317mの火山、中腹より上は芝に覆われた美しい山、鬼岳を登り散策し、稜線上に到達、五島灘や五島市街を一望する。

鬼岳の大昔の噴火で流出した溶岩が、青い海に流れ込んで冷やされ、景観を形づくっている鐙瀬溶岩海岸を散策する。

南端の海岸線に沿って走行、島の南西端に位置する景勝地、東シナ海の荒波に削られた高さ100m以上の断崖がそそり立ち、緑濃い照葉樹林と群青の海とのコントラストが鮮やかで崖の先端には大瀬崎灯台が立つ大瀬崎断崖を訪れる。

北に向かい水ノ浦を望む斜面に入り江を見下ろす純白の天主堂が建つ、禁教令の解除寸前にキリシタン弾圧の嵐が吹き荒れた地に、1880年創設、木造教会堂としては最大規模の水ノ浦教会を見学。

北東に向かい1879年禁教令解除後の五島における最初の教会として設立、堂内にキリシタン資料を展示する、五島カトリックのシンボル、堂崎教会を見学。

南に向かい五島市内を巡る。
石田城跡に立つ天守閣風の館内に、歴史資料などを展示、観光ビデオも上映する五島観光歴史資料館を見学。
幕末に石田場内に築かれた五島家の30代盛成の隠殿の庭園、石田城五島氏庭園を見学。
武家屋敷跡の石垣塀が連なる街を散策して一角にある観光施設、福江武家屋敷通りふるさと館を見学。

13:40カーフェリひさかで福良港出発
14:15久賀島田の浦港到達、車で島巡り。

1868年浦上のキリシタン処分決定に始まった弾圧は五島にも広がり、久賀島の信徒も厳しい拷問を受け、その場所がカトリック信徒因獄の跡で、僅か6坪の仮牢に200名近くの人が収監され、朝夕一切の芋を与えられるだけで、座ることもできず、人の体でせり上げられ宙に浮いたまま眠り、疲労と飢えで死者が続出し、入牢8ヶ月で殉教者42名となった牢屋の窄を訪れる。

山一面を覆う椿の原生林、その規模は日本一の久賀島椿原生林を散策する。

世界遺産暫定リストに含まれる1881年創設で大きな改変がされていないことから、創建時の形をよく残している貴重な建物と言える旧五輪教会を訪れる予定でしたがあまりにも道が険しく、又途中から道がかなり細くなりこれ以上車では無理と判断し断念しました。

17:22久賀島田の浦港出発
17:40福江島奥浦港到達。
市街地を散策後有名な五島うどんをいただいてから宿を取る。

13日今日も快晴、絶好の観光日和。
7:40カーフェリ長崎で福江港出発
8:50中通島奈良尾港到達
車で島巡り。

北に向かい1925年建立でトンガリ帽子のような鐘塔の木造教会、天井がパステルピンクに塗られた堂内はメルヘンチックな中ノ浦教会を見学。
新上五島町から東に向かい有田港ターミナルビル鯨賓館にある博物館、明治時代末期まで有川湾で行われていた捕鯨に関する資料などが展示する鯨賓館を見学。

北東に向かい頭ヶ島に入り、海辺の小さな集落に、1919年に完成、国重要文化財に指定されている全国的にも珍しい石造の天主堂、頭ヶ島天主堂を見学。教会の浜辺にはカトリック墓地が広がる。

戻って西に向かい海辺の集落の高台に立つ赤レンガの天主堂で銀色に輝く十字架を戴いた鐘塔が正面に高くそびえる大曽教会を見学。

北に向かい1910年建立、奈摩湾を見下ろす高台に立つステンドグラスが美しい国重要文化財に指定された青砂ヶ浦天主堂を見学。

南に戻り若松大橋を通過して若松島到達。
若松島に続く漁生浦島、有福島、日島をドライブ観光する。

15:05カーフェリ長崎で中通島奈良尾港出発。
16:15福江港到達。
18:55五島福江空港出発
19:30福岡空港到達
20:04博多駅新幹線ひかりで出発
22:49新大阪駅到達。

今回の旅行、長崎の西方沖、東シナ海に浮かぶ大小140ほどの島で構成され、主な島は南から北へ、福江・久賀・奈留・若松・中通の5つで奈留島より南を下五島、若松より北を上五島と呼ぶ五島列島を2泊3日で観光しました。時間の都合で奈留島には訪れることは出来ませんでした。

キリスト教禁制下の江戸時代、多くのカクレキリシタンが暮らしており、過酷な弾圧を受けながらも信仰を守り抜き、明治時代に禁教令が廃止されると自らの教会を自らの手で建立した世界遺産暫定リストに記載されていて国指定文化財の聖堂が多い、素朴な50ものカトリック教会群と五島最大の島である福江島の中心、福江は江戸時代に五島列島の大半を収めていた五島藩の旧城下町、幕末に異国船を警戒するために築かれた石田城跡や藩主の邸宅だった石田城五島氏庭園、立派な石垣の塀が連なる武家屋敷通りなど歴史を物語る史跡、文化遺産が残る。

一方福江島のシンボル的な火山、鬼岳、東シナ海の荒波に削られた高さ100m以上の断崖がそそり立つ雄大な景観などの自然遺産、多くの歴史的遺産の教会、島全域にわたって澄み切った海、又海岸線が美しい自然と文化の豊富な五島列島観光楽しめました。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第十弾:長崎雲仙島原半島&平戸島観光
2007年11月2−4日


今回は歴史的興味があり自然いっぱいの長崎県の雲仙島原半島と平戸島に行ってきました。

2日20:47大阪駅を夜行寝台車あかつきで出発、
3日8:55長崎駅到達。天候快晴、レンタカーで島原半島に向かう。
10:30松倉重政が築城した島原城到達、島原の乱にまつわる数多くの資料が展示している天守閣を見学。
城から北側歩いて5分のところに70石以下の下級武士が住んでいた清水の流れのある武家屋敷を散策してから火山体験ミュージアムに到達。
直径14mのドーム型スクリーンに襲ってくる火砕流、土石流を大迫力の映像・音響で再現。
1990年の普賢岳災害で被災した家屋11棟をそのままの姿で展示・保存している土石流被災家屋保存公園を訪れる。
雲仙普賢岳の方向に向かう。
妙見岳と野岳の鞍部にあたる標高1080mの仁田峠の雲仙ロープウエイ上の展望台から普賢岳、眉山、平成2年の噴火でできた平成新山を望む。
雲仙温泉の30ほどの地獄が点在する雲仙地獄を散策、近くの原生沼に寄り、雲仙を中心とする島原半島全域に関する情報を解説する雲仙お山の情報館を見学。
下山して島原半島の西側を北上、雲仙岳、長崎半島、橘湾を愛野展望台で望む。
19:00佐世保に到達、近くで宿を取る。

4日天候快晴、6:00出発、北上して平戸島に入る。
平戸公園から真紅の平戸大橋の全景を一望してから平戸千里ヶ浜に寄ってから日本一の広さを誇るロマネスク様式の建物の紐差教会を訪れる。
生月大橋を通過して生月島に入り、島の最北端の無人の灯台、大碆鼻灯台を訪れる。
戻って平戸市内を散策、日本唯一の山鹿流兵法で築城した、古くから亀岡城とも呼ばれている平戸城を見学、オランダ商館建築に関係した石工の技術のオランダ橋、フランシスコザビエルの来島を記念して建てられたカトリック平戸・ザビエル記念教会、松浦家代々の秘蔵品を公開する旧平戸藩主の私邸を利用した博物館、松浦資料館、隠れキリシタンの納戸神、マリア観音像や祭具、江戸幕府の鎖国政策によりジャガタラ(ジャカルタ)に追放された混血児のジャガタラ文を展示している平戸観光資料館、平戸港と市街地を一望する高台にある緑豊かな崎方公園を訪れる。

南下して九十九島の島々を一望できる長串山公園、冷水岳公園、日本本土最西端に位置する神崎鼻公園のシンボル搭を訪れる。

佐世保駅の近くの佐世保のシンボル的存在のカトリック三浦町教会を見学してから西海橋を通過、西海橋公園で西海橋と新西海橋を望む。
西彼杵半島を南下、古くからあるイノシシから農作物を守るためにつくられた石積みの基点をモチーフにした建物からの展望、虚空蔵山展望台で360°パノラマの望む。
大島大橋を通過して大島に寄ってから約三千数百万年前の地層に無数の竪穴と横穴が複雑絡み合ってできた七つ釜鍾乳洞を訪れ、長崎市方面に向かってから長崎空港に17:00到達、19:15のジェット機で出発、20:20大阪伊丹空港到達。

今回の旅行、2日とも快晴で絶好の観光日和。
天草四郎が総大将となって江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆による反乱、島原の乱の歴史的興味のある島原市と2回の噴火を起こした普賢岳、平成2年2回目の噴火でできた平成新山は長崎では一番高い山となり、日本で一番新しい山で普賢岳、平成新山、眉山の広大な眺望はすばらしかった。
又長崎に出島ができるまでオランダなどとの貿易で栄えた港町、平戸はこの土地が刻んでできた歴史を感じることができました。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第八弾:壱岐&対馬観光
2007年10月6−8日


今回は長崎県の北方の離島、壱岐と対馬に行ってきました。

6日13:29新幹線のぞみで新大阪出発、15:57博多到達、地下鉄で飛行場に向かう。
17:50飛行機で出発、18:25対馬空港到達、レンタカーで1時間で対馬南部の宿に到達、宿泊。

7日6:00レンタカーで出発、天候曇り、島の最南端豆酘崎から二つの海峡の分岐点に点々と続く岩礁と小島の先の白い灯台を眺望、多久頭魂神社、美女塚を寄ってから珍しい大きな一枚岩で花崗岩で覆われた瀬川の清流を中心にした鮎もどし自然公園を訪れる。
万松院、対馬の文化財、考古歴史資料や民族資料、宗家文庫を保存している対馬歴史民族資料館を見学してから北方の浅芽湾内が一望できる上見坂展望台に向かう。万関橋、浅芽パールブリッジを通過して和多都美神社、神話の里自然公園を訪れてから烏帽子岳展望台から南方の日本有数のリアス式海岸、浅芽湾の変化に富んだ海岸美を360°展望する。対馬北端に向かい異国の見える展望台、韓国展望台から釜山の町並みを望む。厳原港に向かい15:25フェリーで出発、17:30壱岐郷ノ浦港に到達、宿泊。

8日天候曇り、8:00レンタカーで出発、岳の辻展望台で壱岐の南端の海岸線を眺望してから壱岐の文化や風土を知るうえで貴重な資料を数多く展示している資料館、壱岐文化村、又明治、大正、昭和と日本の産業経済発展の礎を築いた松永安左ェ門の功績をたたえて建設した日本の電力王と称された氏の偉業の数々を知る松永記念館を見学。魏志倭人伝に記された一支国の王朝として注目を集める原の辻遺跡と、原の辻展示館を見学してから東端のはらぼけ地蔵、左京鼻を訪れて北に向かい、男岳神社、野生のイルカのショウを見れるイルカパークを訪れてから壱岐の中心地に点在する古墳(掛木古墳、百合畑古墳、双六古墳)と江戸時代の古民家を移築した資料館の壱岐風土記の丘を見学、鬼の岩屋、国分寺跡、へそ岩に寄ってから西端の猿岩、砲台跡を訪れる。南下して鬼の足跡、春一番の搭に寄り壱岐の歴史、考古、民俗、美術を映像で紹介される壱岐郷土館
を見学してから16:55ジェットホイルで郷ノ浦港出発、18:05博多港到達、バスで博多駅に向かい、19:22新幹線のぞみで出発、21:56新大阪駅到達。

今回の旅行、長崎県北方の大きな2つの離島、壱岐、対馬、2日間かけてレンタカーで2つの海流で洗われた海岸線に山が迫った急な斜面や大陸系の珍しい動植物が生息している自然と大陸との中継地として重要な役割を果たした対馬と壱岐の原の辻遺跡が魏志倭人伝「一支國」の国府であると確定しての国の重要遺跡や多くの史跡が点在する壱岐を観光して堪能しました。

壱岐&対馬の概要

壱岐は 朝鮮半島と佐賀県呼子の間の玄界灘に浮かぶ人口33,000人の島で、日本書紀、魏志倭人伝や元寇、朝鮮出兵など中世の日本の歴史舞台の島です。壱岐の原の辻遺跡が魏志倭人伝「一支國」の国府であると確定して国の重要遺跡に指定されてから、観光客総数も増加傾向にあります。壱岐の美しい海と豊かな自然、海の幸は新鮮な観光要素をも歓迎されています。

対馬は九州最北端、本土から132キロ、韓国までわずかに49,5キロという国境の島で2つの海流に洗われた海岸線に山が迫り急な斜面になった磯の浜、島の約89%を占める山間部には、緑深い照葉樹林や清らかな渓流が残され、大陸系の珍しい動植物が生息しています。又古来より大陸との中継地として重要な役割を果たした対馬は日本文化のルーツを知る歴史遺産も豊富。伝来の文化は暮らしの風習に祭りや信仰の中に、今もお息ずいています。