長野

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十五弾:長野県お城城下町巡り観光
2018年9月8−9日


本州の中心部に位置し、今話題の真田家ゆかりの地であること、避暑地の定番としてあまりにも有名な軽井沢や、上高地などの大自然の絶景スポットがあることで知られています。近年では細田守監督のアニメ映画「サマーウォーズ」の舞台でもあります。日本一が多い県としても有名です。日本一長い川、日本一長い浮橋、温泉数、隣接する県の数などな。何よりスゴイのは長寿全国第1位の県。その秘訣は澄み切った空気や、綺麗な水、ヘルシーで美味しいグルメのおかげではないでしょうか?全国的に知られている「信州そば」や「信州みそ」、リンゴのサンふじ、シナノゴールドなどの名産品がもりだくさん、様々な温泉や、家族で楽しめるレジャー施設、松本城などの国宝もあり、見所も満載の地であるため、毎年訪れる人が絶えない長野県に足を運び長野県に足を運び長野県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

8日15:03新大阪新幹線のぞみで出発
15:53名古屋駅到達
16:00名古屋駅ワイドビューしなので出発
18:58長野駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
9日8:00レンタカーでお城巡り、松本方面に向かう。

葛山城:弘治元年(1555年)上杉謙信によって築かれた。 弘治元年7月善光寺平に出陣した上杉謙信は横山城に着陣した後、葛山城を築いて武田氏方の善光寺別当栗山氏の籠もる旭山城と対峙した。 上杉氏と武田氏の対峙は長期にわたり今川義元の仲裁によって和議となり、旭山城は破却された。
弘治3年(1557年)2月落合備中守ら葛山衆の籠もる葛山城を武田の家臣馬場信春が急襲して落城した。これに対して上杉謙信は旭山城を修復して拠点として葛山城を攻略するが、永禄4年(1561年)の川中島合戦の後、上杉氏らは善光寺平から退き、葛山城は武田氏の属城として長沼城の葛山衆が在番していた。

旭山城:築城年代は定かではない。史料による初見は天文24年(1555年)で、武田信玄が善光寺の別当栗田鶴寿を味方に引き入れると、上杉謙信が葛山城を拠点とし、信玄は旭山城に兵三千と弓八百張、鉄砲三百挺を送り込んで対応した。このときは長期戦となり、今川義元の仲介により和睦、その条件として旭山城の破却が盛り込まれていた。
弘治3年(1557年)武田信玄は葛山城を急襲して攻め落とすと、今度は上杉謙信が旭山城を修築して拠点とし武田氏と対峙した。 永禄4年(1561年)の川中島合戦の後、上杉方の守将小柴見宮内を討った武田氏が旭山城を占拠した。その後は海津城や長沼城が重要拠点となっていった。

牧之島城:築城年代は定かではないが香坂氏によって築かれたと云われる。
滋野系香坂氏代々の居城であったが、川中島合戦で上杉氏に通じたため、永禄4年(1561年)武田信玄によって香坂氏は誅され、その名跡は娘婿の春日弾正虎綱が継いだ。
その後、深志城主馬場信房によって牧之島城は改修され城代となる。天正3年(1575年)長篠合戦で馬場信房が討死すると、翌年にはその子馬場昌房が城将となり、上尾城主の平林正恒も在城した。天正10年(1582年)武田氏が滅亡すると、上杉景勝が牧之島城を奪い芋川親正を置いた守らせたが、慶長3年(1598年)上杉氏の会津転封により移っていった。
慶長8年(1603)松平忠輝が松代城主となると家老を置いて守られせたが、元和元年の一国一城令によって廃城となった。

木舟城:詳細不明。仁科氏の初期の居館である館之内館の背後のあることなどから、比較的早い時期の仁科氏の詰城とみられている。

青柳城:築城年代は定かではないが建暦年間(1211年〜1213年)頃に青柳氏によって築かれたと云われる。 青柳氏は伊勢神宮の麻績御厨預職としてこの地に根付いた一族と云われる。
青柳氏は信濃守護小笠原氏に従っていたが、天文22年(1553年)武田氏が苅谷原城を攻略し、川中島方面に侵攻したとき、青柳氏は武田氏に降ったが、その後、上杉氏によって攻められ放火された。
青柳氏は武田氏に属した後、麻績城主となって麻績氏を称していたが、天正10年(1582年)武田氏が滅亡し織田信長が本能寺の変で倒れると、一時越後の上杉景勝に従った。しかし、徳川家康の援助を受けた小笠原貞慶が松本に復帰すると、青柳氏は再び小笠原氏に従った。
天正11年(1583年)上杉景勝が青柳に侵攻すると、小笠原貞慶とともに上杉軍と戦ったが大敗し青柳城は落城した。しかし、景勝は急遽陣払いをして越後へ戻ったため、再び青柳氏が再び青柳城主となった。ところが、天正15年(1587年)青柳頼長は小笠原貞慶によって松本城で謀殺され、青柳氏は滅亡してしまう。青柳氏滅亡後は小笠原氏家臣の松林氏が在城した。

平瀬城:築城年代は定かではないが平瀬氏によって築かれたと云われる。 平瀬氏は犬甘氏の一族で犬甘氏とともに小笠原氏に従っていた。
天文20年(1551年)武田氏によって攻め落とされ城兵二百四人が討ち取られた。 その後、武田氏は栗原左衛門に命じて城割(破却)し、鍬立て(築城)が行われ原美濃守が在城した。

林城:長禄3年(1459年)小笠原清宗によって築かれたとも云われるが定かではない。 信濃国守護職を代々務めていた小笠原氏の本城である。小笠原氏は井川城を本城として長く続いたが、戦国時代に入って平城である井川城から山城である林城を築いて移ったものとみられている。
甲斐を統一した武田信玄は信濃へ侵攻をはじめ、天文17年(1548年)塩尻峠の合戦で小笠原長時は武田軍に敗れた。武田氏は松本平の拠点として村井城を築き林城攻めの拠点とした。
天文19年(1550年)武田氏がイヌイの城を落とすと、小笠原氏の大城・深志・岡田・桐原・山家の五か所の城は自落したという。このとき小笠原長時は北信濃の村上義清を頼って落ちのびた。

桐原城:寛正元年(1460年)桐原真智によって築かれたと云われる。
天文19年(1550年)武田氏がイヌイの城を落とすと、小笠原氏の大城・深志・岡田・桐原・山家の五か所の城は自落したという。

山家城:築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に山家氏によって築かれたと云われる。 最初に築城した山家氏は諏訪氏系の一族で、元弘元年(1331年)に徳雲寺を創建した神為頼の末裔が山家氏を称した。
諏訪系山家氏は、文明12年(1480年)小笠原長朝に叛いて攻められ、翌13年に諏訪氏の援護を受けたが敗れて滅亡した。その後、永正2年(1505年)頃に播磨国姫路より小笠原氏と同流の折野薩摩守昌治が来住し、小笠原貞朝に属して山家城を居城とし山辺氏を称した。
折野山辺(山家)氏は昌治の後、越前守昌寛、源十郎昌実、藤九郎昌矩と四代続く。 天文19年(1550年)に武田信玄が小笠原氏を攻めたとき、イヌイの城が落城すると、この山家城も自落し武田氏に降っている。

埴原城:築城年代は定かではないが村井氏(埴原氏)によって築かれたと云われる。村井館に住んで村井氏を称した埴原氏によって築かれたと云われる。小笠原氏が信濃守護職となって府中に入るとそれに属した。
天文19年(1550年)武田氏がイヌイの城を落とすと、小笠原氏の大城・深志・岡田・桐原・山家の五か所の城は自落したという。この「イヌイの城」が埴原城ではないかと考えられている。

18:30松本駅到達。
19:07松本駅ワイドビューしなので出発
21:21名古屋駅到達
21:30名古屋駅新幹線のぞみで出発
22:20新大阪到達。

今回の旅行、本州の中心に位置する長野県に足を運び、長野県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。今回も地味な城跡でしたが、比較的道路は山城に向かうには険しくなく容易にたどり通ことができました。
城跡、残すはあと100を切りました。今年中に達成予定です。








 
飛行機で国内&海外の観光地巡飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百四十二弾:長野県お城・城下町巡り観光
2018年8月4−5日


本州の中心部に位置し、日本アルプスの山岳に囲まれ「神が降りる地」と呼ばれるほど美しい上高地に代表される自然の宝庫。槍ヶ岳や霧ヶ峰など四季折々の表情を見せる名峰に加え、山々に抱かれた温泉地も多く、白骨温泉、湯田中温泉、渋温泉、野沢温泉といった名高い温泉地が点在しています。また、長野市には「一生に一度は善光寺詣り」とうたわれた善光寺があり、松本市には国宝松本城が鎮座しています。おやき、そばといった素朴な郷土料理が多いのも特徴的な長野県に足を運び長野県に点在する比較的マイナーなお城9か所を訪れました。

4日13:53新大阪駅新幹線のぞみで出発
14:50名古屋駅到達
15:00特急しなので出発
18:05長野駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
5日8:00レンタカーで出発。お城巡り。

井上城:築城年代は定かではないが井上氏によって築かれたと云われる。 井上氏は鎌倉時代に清和源氏頼信の子頼季がこの地に来住して井上氏を称したのが始まりとされる。

鎌倉時代から南北朝時代にかけての活動は詳らかではない。室町時代に入ると井上十六郷の井上政家、小柳・亘理の井上政満、長池郷の井上為信などが登場する。戦国時代には井上氏は衰退しており、綿内井上氏が須田信正に属していたといわれる。

飯山城:築城年代は定かではないが泉氏によって築かれたと云われる。 泉氏は鎌倉時代に泉小次郎親衡が鎌倉より飯山へ逃れて土着し、泉氏の祖となったと伝えられる。

永禄7年(1564年)頃、上杉謙信は飯山城を改修して武田氏の侵攻に備えた。 その後、武田信玄は長沼城を拠点として飯山城攻略を目指したが、飯山城が落城することはなかった。

その後、武田勝頼の時代に武田氏の属城となったが、天正10年(1582年)武田氏が滅亡した後は織田氏が占拠した。しかし、本能寺の変により織田勢が退くと上杉景勝の所領となり、家臣岩井信能が城主となった。慶長3年(1598年)上杉景勝の会津転封に従い岩井氏は会津に移った。


霞城:築城年代は定かではないが大室氏によって築かれたと云われる。

天正10年(1582年)武田氏滅亡後、織田信長の武将森長可に従ったのもつかの間、信長も本能寺の変に倒れ、越後の上杉景勝にに従った。

慶長3年(1598年)上杉景勝が会津へ転封となると大室氏もこれに従って移り千五十石を領した。

鷲尾城:鷲尾城は倉科の石杭地区の北背後に聳える標高520m程の山に築かれている。

主郭は板状の石を高く積み上げた石積がほぼ全周しており、南端に虎口を開く。主郭の西から南に犬走があり、それが虎口へと繋がっている。主郭から北東へ伸びた尾根は自然地形に近い曲輪があり、二箇所を二重堀切で遮断している。また、主郭から北西に降りる尾根にも堀切、さらに下方に小さな平段が連なっている。

主郭から少し登った所に前方後円墳である倉科将軍塚古墳があるが、この古墳を曲輪として東背後の尾根に二箇所大堀切を設けている。

葛尾城:築城年代は定かではないが南北朝時代末期頃に村上氏によって築かれたと云われる。 村上氏は清和源氏頼信流で嘉保元年(1094年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれる。

戦国時代の村上義清の頃には北信濃一帯に勢力を拡げ、天文17年(1548年)の上田原合戦、天文19年(1550年)の戸石城合戦と甲斐の武田信玄を二度敗っている。しかし、天文20年(1551年)戸石城が武田信玄に与していた真田幸隆によって落城し、天文22年(1553年)には一族の屋代氏などが武田氏方に寝返るなど圧迫され、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、葛尾城は自落した。その後、義清は越後の援軍を得て葛尾城を攻め落とし、塩田城に入って再帰を計ったが武田氏に敗れ再び越後へ落ちていった。

戸石城:本城、桝形城、米山城の総称。

真田館:築城年代は定かではない。伝承によれば真田信綱の居館とされる。 真田氏累代の居館と考えられており、天正11年(1583年)真田昌幸が上田城を築いて居城を移すまでの居館であった。

昌幸が上田城に移ったあとに屋敷跡に勧請したのが皇太神社と伝えられる。

平賀城:築城年代は定かではないが平賀義信によって築かれたと云われる。 平賀氏は新羅三郎義光の子義盛が平賀に館を構えて平賀冠者を名乗り、その子義信によって平賀城が築かれたと伝えられている。
義信の長男惟義は伊賀国守護を務めて大内冠者と呼ばれ、二男平賀朝雅は北条時政の娘を娶り京都守護職を務めるなど、源頼朝に従って要職を務めた。

応永7年(1400年)大塔合戦では佐久郡の他の国人領主とともに、守護小笠原長秀と戦っている。その後、小笠原氏系の大井氏と争うようになり文安3年(1446年)大井氏によって滅ぼされたと云う。

龍岡城:文久3年(1863年)(大給)松平乗謨によって築かれた。 乗謨は三河国奥殿藩八代藩主で三河国に四千石、信濃国佐久郡に一万二千石の合わせて一万六千石を領していた。飛領地である佐久郡の所領を管轄する陣屋ははじめ三塚村に置かれていたが、宝永6年(1709年)以降に田野口村に移されていた。

文久3年(1863年)領地が手狭で大半の所領が佐久郡にあることを理由に居城を移す事を許され築いたのが龍岡城で、日本ではここと北海道にしか存在しない稜堡式五稜郭として縄張された。慶応3年(1867年)完成し田野口藩となったが、明治維新直前に龍岡藩と改称され、財政困窮を理由に廃藩置県前に廃藩となった。

16:30終了。
17:00長野駅特急しなので出発。
20:50名古屋駅到達。
21:05名古屋駅新幹線のぞみで出発。
21:55新大阪駅到達。

今回の旅行、本州の中央に位置し、日本アルプスに囲ませ、自然の宝庫、長野県に足を運び長野県に点在する比較的マイナーなお城9か所をおとずれ楽しみました。
山城が多く、一部は公園に変貌していました。今回も比較的地味なお城巡りでした。
















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百一弾:長野県お城・城下町巡り観光
2017年6月17−18日
 

木曾義仲が拳兵した平安末期から、南北朝時代の混乱を経て、武田氏が勢力を拡大した戦国時代まで、幾度も戦いが繰り広げられた信濃、とくに戦国時代は築城技術が発展し、貴重な史跡を現在に伝えている長野県に足を運び、県内に点在する比較的マイナーなお城8か所を訪れました。

17日18:40新大阪新幹線のぞみで出発
19:31名古屋駅到達
19:40名古屋駅特急しなので出発
21:48松本駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

大島城:築城年代は定かではないが大島氏によって築かれたと云われる。 大島氏は船山城主片切為行の八男、八郎宗綱が大島郷を分知され大島氏を称したのが始まりとされる。
元亀2年(1571年)武田信玄は飯田城代であった秋山信友に命じて大島城を普請させ、高遠城とともに伊那の拠点とした。
天正10年(1582年)織田信忠率いる織田軍が飯田城を落とし大島城に迫ったが、城兵は戦わず城に火を放って逃亡し落城する。

飯田城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に坂西氏によって築かれたと云われる。 坂西氏の出自については詳らかではないが、飯田城を築いて愛宕城から居城を移したと云われる。
戦国時代には武田信玄によって攻略されたが、天正10年(1582年)織田軍の侵攻により落城した。
織田氏の領地となった後は毛利秀頼が入封したが、本能寺の変の後は徳川氏の領地となり、菅沼定利が城主となった。 天正18年(1590年)徳川家康が関東へ転封となると、菅沼氏は上野国吉井へ移り、毛利秀頼が再度入封する。文禄2年(1593年)文禄の役で秀頼が病没すると京極高知が入部した。

松尾城:築城年代は定かではないが室町時代頃に小笠原氏によって築かれたと云われる。
小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。隣接する鈴岡小笠原氏とは当初良好な関係であったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って対立することとなった。明応2年(1493年)正月小笠原貞基は、鈴岡城主小笠原政秀・長貞父子を松尾城にて謀殺し鈴岡小笠原氏を滅亡させた。
小笠原貞基は政秀の養子であった府中の小笠原長朝と幾度となく戦ったが敗れて甲斐へ逃れた。その後、松尾城に戻ってきたが、天文3年(1534年)に貞基の子貞忠は小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。
天文23年(1554年)武田氏が伊那へ侵攻した際には、定基の子小笠原信貴が先鋒として伊那に攻め入り小笠原長時の弟小笠原信定の籠もる鈴岡城を攻め落とし、松尾城主に復帰した。
天正10年(1582年)織田信長が信濃に侵攻すると、信貴の子小笠原信嶺は織田氏に降伏し、その後の高遠攻めなどで道案内をした。信長が本能寺の変で倒れると信濃に侵攻した徳川家康に降り旧領を安堵された。天正18年(1590年)徳川家康が関東に移封となると小笠原氏もそれに従い武蔵国本庄へ移り廃城となった。

鈴岡城:築城年代は定かではないが、室町時代初期に小笠原貞宗の子宗政によって築かれたとも云われる。
小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。文安3年(1446年)惣領の小笠原宗康は弟の光康とともに小笠原持長と漆田原で戦って討死した。その子政秀は鈴岡城を拠点として伊賀良荘を領して勢力を維持し、松尾小笠原氏とは良好な関係にあったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って松尾小笠原氏と対立することとなった。政秀は文明12年(1480年)諏訪氏と結んで松尾の小笠原家長を討ったが、明応2年(1493年)正月に家長の子貞基によって松尾城で子の長貞とともに暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅亡した。
政秀の養子であった府中の小笠原長朝は、松尾城の小笠原貞基と幾度となく戦って甲斐へ追いやった。その後、松尾城に戻ってきていた貞基であったが、天文3年(1534年)に小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。その後、長棟の子小笠原信定が鈴岡城主となった。
信定は武田信玄が信濃に侵攻し、府中の小笠原長時が敗れた後も抵抗したが、天文23年(1554年)武田氏が伊那に侵攻すると敗れて京へ逃れた。

妻籠城:築城時期、築城者は定かではありません。文永年間(1264〜75年)に沼田右馬介あるいは木曽讃岐守家村が築いたとも伝えられます。室町中期には美濃遠山氏の所領であったとされ、その後の戦国期(1500年頃)からは木曽氏が支配しました。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは木曽義昌が秀吉方に付き、妻籠城には山村甚平衛良勝を入れましが、徳川方の菅沼大善定利、保科越前守正直、諏訪安芸守頼忠らが攻め寄せたが、良勝はこの城を死守しました。関が原の戦いの時には修復されましたが、元和二年(1616年)に廃城となりました。

高島城:文録元年(1592年)日根野高吉によって築かれた。 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の功により日根野高吉が入封する。 高吉ははじめ諏訪古城に入ったが、文録元年(1592年)に諏訪湖に浮かぶ小島に築城を開始する。
慶長7年(1602年)吉明の時下野国壬生に転封となり、代わって諏訪頼水が上野国総社より二万七千石で入封、諏訪氏は10代続いて明治に至る。

桑原城:築城年代は定かではないが桑原氏によって築かれたと云われる。
天文11年(1542年)武田信玄が諏訪へ侵攻し、上原城の諏訪頼重を攻めると、頼重は上原城を焼き払って桑原城へと退いたが、これを退けることはできず降伏し甲斐へ連行された。

上原城:築城年代は定かではないが諏訪氏によって築かれた。

天文11年(1542年)武田信玄が侵攻すると、諏訪頼重は上原城を焼き払って桑原城へ退き降伏した。信玄は上原城に板垣信方を置いて代官としたが、天文17年(1548年)上田原合戦で討死した。

17:00終了松本駅に向かう。
18:15松本駅到達。
19:07松本駅特急しなので出発
21:21名古屋駅到達
21:30名古屋駅新幹線のぞみで出発
22:20新大阪駅到達。

今回の旅行、信州長野県に足を運び、県内に点在する比較的マイナーなお城8か所をおとずれ楽しみました。
今回もマイナーなお城であるが比較的、城址公園として整備さているところが多く満足できました。
次回松本から長野方面のお城を攻めたいと思います。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百十三弾:長野県中部四十九薬師巡礼観光
2015年5月23−24日


本州の中央長野県に足を運び、長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知両県にまたがり、アルプスの山裾にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然のなかの巡拝コースの中部四十九薬師霊場の21箇所を訪れました。

23日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神中央自動車道経由して中津川インター下車

光徳寺:縁起 当寺は天正十一年(1583)性天和尚薬師堂隠居を開山とされている。この年は織田信長が倒れて、豊臣秀吉が大阪城を築いた年である。本尊薬師如来は慶長四年(1599)京の仏師木山が刻んだ名作である。
 正面の「光徳寺」額は山岡鉄舟書で、本堂は江戸中期、徳川吉宗の代享保十年(1725)脇本陣の林平八郎の七十五両寄進により建立され、庫裡は本堂より四十五年早く天和二年(1682)に建立されたものである。八代将軍吉宗は極端な諸事ひきしめで名高く虚礼廃止をした。その吉宗は当時の住職英厳和尚にたいして深い帰依をし内陣の千本格子に檜財を使う事を許した。
 天保年間、遂応和尚が日本で初めて人力車を考案し、この人力車は当寺に保管されている。
 文化十二年(1815)嵯峨尾小四郎が施主となり川より地蔵菩薩を取りだし忠外和尚が蓮華台を刻み当寺の延命地蔵尊として祀られている。

池口寺:縁起 当山に伝わる「光明内院瑠璃山池口寺縁起」によると、承平七年(937)四月、当地小川の邑の光明池のほとりに、近江国の郷司源義寛公が祖先追福の為、医王尊仏を迎え、天台宗明雲僧正を開山として創立したもので、その後現在地に移し祀ったと伝えられている。第十三世覚元和尚の代、建武二年(1335)火災により薬師堂を残して一切を焼失、暦応三年(1340)当地の郷司池口入道祥悟が再建したと伝えられている。天正二年(1574)禅宗に改宗、須原定勝寺より貴山和尚を請じ開山とし今日に至っている。
 薬師三尊並びに、薬師堂の作者、建築年代は不詳なるも、徳治三年(1308)覚元代の刻銘の入った鰐口(県宝)がある。
 お堂・薬師三尊の古いこと、大きいことでは木曽随一で、戦前は病気平癒を願って参詣者が多く、特に母乳の少ない婦女子の参詣者が多く、乳さずかりの絵馬にその名残りを留めている。
 昭和六十二年に一千五十年祭を行い、薬師信仰を盛り返す気運にあり、大祭は四月第三日曜日に行う。
 なお、堂の裏には西国二十三番の石仏がある。

徳音寺:縁起 当寺は平安時代の終り、仁安三年(1169)に木曽義仲公の御母堂小枝御前が病没されたので、追善供養の為に義仲公が建立した。真言宗柏原寺がその前身であります。寿永三年(1184)義仲公が粟津ケ原で三十歳の短い生涯を終えた後、大夫坊覚明(西仏上人)が木曽に帰り、柏原寺の御母と墓を並べて、徳音寺殿義山宣公大居士と贈り名し、日照山徳音寺と寺名を変えて祀られた。
 日照とは朝日将軍の謂なりと伝え、これより義仲公の菩提所となる。木曽家散乱後、天正七年(1579)大安和尚が再興し、臨済宗妙心寺派となる。慶安三年、正徳四年と二度の水害に寺内埋没し現在地に寺籍を定める。享俣五年(1720)犬山城主成瀬隼人正藤原正親公の御子、興臨和尚住職し、寺格も整い、木曽八景徳音寺晩鐘と、中山道往来の旅人墨客に親しまれ、安永八年(1779)薬師堂を建立、薬師如来並びに十二神将尊像を祀り、里人旅人の帰依を集めた。天保年間木曽家二十四代義陳公の発願により、薬師堂に義仲公像を安置し、霊廟として面目を一新した。ために誰呼ぶとなく「身代わり薬師」の名でしたしまれることとなり、病重き人の身代りとなる薬師如来として、信仰を集めている。門側の「戻り地蔵」別の名を「夜這地蔵」「赤目地蔵」「夜泣地蔵」と共に多くの信者を集めている。

塩尻に向かう。

18:30塩尻駅前のホテル到着後周囲を散策し食事を済ませて就寝。

24日7:00車で出発、松本方面に向かう。

瓊林院:縁起 本尊聖観世音菩薩。 当山は、元応年中(鎌倉後期1319-20)白河郷地頭であつた藤原惟の孫の山川十郎有忠長福寺殿の氏寺として建立され、一族の香華寺とされた。もとは西南におよそ三の寺沢(中村の下)にあり、“長福寺″と号し鎌倉建長寺末に属していた。天文年中(1532-54)武田と小笠原の桔梗ケ原での兵戦に罹って諸堂全て焼失したがその後、再建された。しかし無住であり幾多の氾濫によって腐朽し御開山諸書付などを失った。
 寛永六年(1629)泰嶺玄未和尚法嗣月巌祖芳禅納が住まわれて、行基菩薩の作と伝えられる落馬の薬師如来の(同12年3月11日)御堂を中村に再建された。その後、諸堂宇を再建し開山とした。その折、温泉寺末となり、臨済宗妙心寺派に属した。
 なお百瀬に諏訪高島城主が、寛文九年(1669)観音堂を建立し当寺をその別当職に任じた。寛文十三年五月十日諏訪出雲守忠恒三男従五位下諏訪壱岐大守朝散太夫源頼久公拝領後、僧を慕った。
 元禄十四年頼久公は娘の瓊林院殿の喪にあい、位牌を安置し供養し一周忌の折、頼久公は自らが開基となつて和尚に寺を現在地に移させ、“松泉山瓊林院”と号を改めた。
 亨保元年(1716)薬師堂が大破し、同五年当寺境内に移築された。その後、昭和四十四年に改築された。

上田方面に向かう。

常楽寺:縁起 天長二年(825)に比叡山延暦寺座主慈覚大師が開創した霊場です。安和二年(969)平維茂は一山を修理し三楽寺・四院六十坊を増築したと伝えられる。三楽寺(常楽寺・安楽寺・長楽寺)の一寺として建立されました。
 本堂が北に向いているのは全国でも珍しく、これは天長二年(825)突然この地に大火坑が生じ煙を上げたため、慈覚大師は秘法を修してこれを鎮めた時、観世音が出現し温泉が湧きだした際「北斗星が世界の依怙(よりどころ)となるよう我も又一切衆生のために常に依怙となって済度をなさん」というお告げがあり、大師は千手観世音を刻み火坑出現の観世音を胎内に納め、堂宇を北麓に建立して尊像を奉安しました。今日では厄除の観世音として多くの人々の信仰あつめ参詣者で賑わっている。

満願寺:縁起 愛宕山満願寺は戦乱にあったのか風水害なのか、縁起は不明とされている。愛宕山の山号は火伏の神として深い信仰がある。本尊の薬師如来像は脇に十二神将を従えている。薬師如来像は金色に輝く見事な造りは往時の繁栄を偲ばせる。又、十二神将の寺としても近隣に広く知られている。十二神将は薬師如来の十二の大願に応じて現れるとされる。

中禅寺:縁起 当山の創建年次等は二度の災禍により不明であるが、空海上人がこの地をおとずれた際、この地が飢饉で農民達の苦しんでいる姿を見て小さな草庵を結んで雨乞いの護摩修行をされたのが始まりと去れる。現本堂は享保十九年、中興開山祐精法印により再建された。
 木造薬師如来座像(国指定重要文化財)は、薬師堂の本尊として堂中央の内陳に安置されている。台座、光背を含めて重文に指定されているが、台座の上敷茄子の天坂の表裏に画かれている武者絵があるところから、鎌倉時代初期の作と推定されている。この仏さまは医王薬師として、病める衆生の心の支えになっていた。奈良二月堂の薬師如来をしのばせている。また塩野神社の本地仏でもある。
 カツラ材、寄木造り、像高九十七・七センチ、実に自然で均整の取れた優雅な像で藤原時代の定朝様式をよく伝えている。
 なお、中禅寺薬師堂(国指定重要文化財)は、鎌倉初期の中部日本最古の建築として貴重な遺例である。

妙見寺:縁起 当山は真言宗智山派に属し、鳴竜山密厳院妙見寺と呼ぶ。今から八百年前、即ち文治元年(1185)に当地の豪族、嶽石三郎平胤盛が、この村の鳥屋地籍に一宇を創立して、大日如来と妙見尊の二仏を安置し、法相宗の僧完光和尚を初代住職とし、帰依せしめた。その後正応年間には鳥屋地籍から小沢根というところに移され、更に小沢根地籍から現在のところに三度移されたが、妙見尊の霊験顕たかな御加護によって、一度の火災や天災にあわず現在に至っている。当山が三度日に移された応仁年間に本堂移築の際に画家秀山信尹を招いて本堂外陣の大天井に上下竜二頭を画かせ、その下で拍手を打たせ龍鳴を聞かせた。これが鳴竜で当時日本四方鳴竜のうちの南鳴竜である。ちなみに日本四方鳴竜とは、日本の東西南北にあって、東は日光山、西は京都相国寺、南は当山、北は青森にあったが、明治初年に焼失して現在は無いので、講が出来るほど盛んだった鳴竜も、三ケ所になってしまった。寺伝によると、宝暦年間あたりより当地方では薬師信仰が盛んで、当山薬師は「なで薬師」といわれ、一位のなで木で痛いところを撫でると、たちどころに治ってしまうというところから、なで薬師として近郊の信仰を集めた。
 最近

宝蔵寺:縁起 当山は通称「岩谷堂」と呼ばれており、平安時代の初期(承和元年834)比叡山第三代座主慈覚大師円仁によって開かれ、御本尊は大師御謹刻の聖観世音菩薩で信濃三十三観音霊場第二十三番の札所になっております。
 朱塗りに映える現在の堂字は徳川時代中期の今から230年程前、安永六年の建立で以前は本堂裏の現在奥の院と呼ばれている洞窟中に安置されておりました。境内は急峻な岩山の中腹に位置し、展望・風光共に優れ、又樹齢800年の「義仲桜」を中心に春の花、夏の緑陰、秋の紅葉、冬の雪景色にと四季折々風情を楽しませてくれます。
 お薬師さま岩窟中に安置されており、昔から小石に願いごとや真言を書いて祈願したあとがあり、沢山の小石が積み重ねられておりますが参拝に不便なために平成17年に新しく御尊像を迎えてお堂を建立いたしました。

信濃国分寺:縁起 「国奉らかに人楽しみ、災を除き福至る」を祈念され た聖武天皇の天平十三年(741)勅願により、国ごとに国分寺が建立されたが、信濃国分寺は信濃の国の鎮国道場として、また庶民の心のよりとこ ろとして千二百余年の法灯を今日に伝えている。
 現在の国分寺は、薬師如来(行基作と伝えるが不明)・日光月光 両菩薩・十二神将を安置する県下でも善光寺に次ぐ規模の本堂薬師堂をはじめ、三重塔(国重文)・鐘楼・仁王門・宝蔵・大黒天堂・地蔵堂・観音堂等の堂塔伽藍がそろい、一月八日の縁日にちなんだ「八日堂のお薬師さん」の名で近在の信仰を集めている。安産・当病平癒・厄災除等の霊験があらたかであり、また縁日に授与される蘇民将来のお守りは、薬師如来と関係の深い蘇民信仰に基づいた護符で、家門の安泰と繁栄を願うものである。

長野に向かう。

善光寺:善光寺本坊大本山大勧進は、開山本田善光公以来代々善光寺如来に奉仕して永く別当と大勧進の両職権を持ち昔より如来開帳の法務に任じてきました。千幾百年の伝統を誇る寺であると共に全国の信徒から尊崇を集められる善光寺貫主大僧正猊下のお住まいでもあります。弘仁の頃、伝教大師が信濃路巡化のみぎり、善光寺如来の宝前に参籠せられてより爾来天台の宗風により今に至る。善光寺本堂における正月のゆかしい行事を初め、戒壇めぐり等もそれにちなむと伝えられております。大勧進には、寛政五年(1789)に建立された立川流初代和四郎富棟、富昌親子 による10万石の格式の「表大門」はじめ「萬善堂」「無量寿殿」「護摩堂」「霊碑堂」「紫雲閣」など諸堂 があり、明治、大正、昭和天皇が御巡幸のおり御駐輩所に当てられた「行在所」、茶亭「沈香亭」があります。また、貴重な仏教関係の古書、経典 、絵図面など展示している「宝物館」があります。現在大勧進の塔中には二十五ヶ院堂々甍を並べ、本坊と共に善光寺の法灯護持にあたっています。

諏訪方面に向かう。

照光寺:縁起 開創不詳.延喜式にみえる岡谷牧の所在地として古くより中央と関係のある古寺院があったことと思われる。後世、当山は京都嵯峨大覚寺の門跡寺院直末となったこともある。応永二年(1395)五月、下神宮寺憲明法印が再興し、薬師如来が安置された。
 文明年間に、今井兵部兼貫(文明十年五月十四日寂)が再建し、享徳元年(1452)に紀州高野山金剛峯寺の末寺に加わり、諏訪下社神宮寺の門末となる。室町時代には薬師十二神将にちなむ塔頭蓮華坊(元和二年退転)以下十二坊を擁する大寺で、現在の成田公園東方一帯を占めていたが、宗順法印のとき戦国の兵乱で罹災し、天正元年(1573)四月に俊豊法印が中興した。俊豊は永録十二年十二月(1569)当寺裏鬼門除として橋原薬師堂を建立した。

平福寺:縁起 大同年間(806〜10)弘法大師が諏訪神社別当神宮寺とともに創建した古刹である。その後、応永年間(1394〜1428)憲明阿闍梨が中興した。天正年中(1573〜92)織田勢が諏訪に侵攻し灰燼に帰したが当時の安養坊を本営にあてたため兵火を免れた。慶長末期、二度の横河川の氾濫により全てが埋没した。当時の住職は「遂に竜宮に到れり」と口碑に記す。以後現在地に移転する。
 平成八年、中興第一世憲明大和尚の六百年御遠忌を期して、第四十一世聖仁和尚が記念事業の一環として寺院の一新を成し遂げる。

温泉寺:縁起 当山は初代高島藩主諏訪頼水が、領下の中心地・諏訪に菩提寺の創建を欲したが、その完成を観る事無く病没し、亡父の遺志を継いだ二代藩主忠恒によって、供養を兼ねて八年後の慶安二年(1649)に創建された。創建の年代には二説あって寛永十七年頼水開基の説もあるが、忠恒の孝心が頼水に開基の名誉を譲ったものと解釈する向きが多い。開山和尚には頼水と忠恒が深く帰依した泰嶺玄未が迎えられ、温泉寺は高島藩の菩提寺として代々藩主の手厚い保護を受けた。寺は元文二年(1737)と明治三年(1870)の二度火災にあっている。現本堂は高島城本丸内に文政十年(1827)新築された能舞台を移築したもので、本舞台・後座(現仏壇)地謡座などの遺構を残し、能舞台そのものの建物である。
 温泉寺創建前から、この地には豊富な温泉が湧出し薬師如来を祀る『薬師の名湯』として眼病治療の霊場でがあった。当山二世通方和尚代に藩主忠恒から賜った、この地に隠寮として吸江院(現・指月庵)を建てた。
  近くには上湯・平湯・中村の湯などがあり、これらは温泉寺の湯と総称され、「薬師の名湯」といわれ豊富な温泉と信仰の関連を伺わせている。

長圓寺:縁起 本尊・金剛界大日如来、開山・慶尊阿闍梨、開創・慶安二年(1649)
 現在穴山にあるが、もとは玉川山田の外屋敷にあった小堂が長円寺の前身である。入山した慶尊阿闍梨は寛文九年高野山金剛峯寺金剛頂院の本尊を相続して創建し、さらにいまの穴山に移築、要穴山長円寺胎蔵院と号した。寺格は各院。慶尊は俗姓大和氏で、筑摩郡高出村の大和小兵衛の子であった。大和氏はもと金刺氏に出で、諏訪郡大和城の城主で大和監物はよく知られている。天文年間、武田氏が諏訪を侵すや大和氏の一族は筑摩郡に逃れた。小兵衛は監物三代の孫と伝えられ、武田備前守の甥である。武田備前守は信玄の弟で、兄の意に背き、筑摩郡に流されたと言われている。
 観音堂には、明治の俳仏毀釈のとき、諏訪上社神宮寺から移された薬師堂の本尊薬師如来をお祀りしてある。この薬師如来は像高九十一・五センチ、ヒノキの一本造りの立像、素地のままで彩色はない。三河国鳳来寺の薬師と同木同作と言われている。
 百体観音は、十五代法印祐慶のとき造立したもので、石工は菊地道悦、慶応二年に落慶している。道悦は後に医者となった人で、石仏はいずれも儀軌を踏孝えた端正なもので、見事な深い彫りを示している。塀ぎわに並ぶ石仏碑と共に、白眉のものと言って差し支えない。

清光寺:縁起 当寺は、平安時代、仁平元年(1151年)に信立寺と称し、逸見玄源太清光の創建になる天台宗寺院で、清光の没後、清光寺に改められた。その後、文明七年(1475年)、興因寺(甲府市)二世悦堂宗穆和尚が改山となり、曹洞宗に改め、現在に至る。
 清光は 甲斐源氏の祖、新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の孫にあたり、最初、常陸国武田郷(茨城県ひたち市)にいたが、父義清と共に甲斐国市河庄(西八代郡市川大門町)に配流となる。
 その後、谷戸城を築き逸見郷を中心に勢力を広げ、国中を手中に治めて甲斐の国一円を統一し、甲斐源氏としての基礎を固める。次男信義が名門武田家の祖となる。
 現在の堂宇は、江戸中期に建てられた総門、山門、本堂を中心に総ひのき造りの庫裡、開山堂・位牌堂を併設した檀信徒会館などがあり、特に本堂は十三間・九間という本山なみの大伽藍を誇る。
 本尊は薬師如来、寺宝に勝頼公制札等。本堂裏山に開基清光公の墓地。境内には芥川龍之介の句碑、樹齢200年程のしだれ桜、大島桜、八重桜、こぶし、紫陽花などがあり、花の時期は大変美しい。

江音寺:縁起 当山の江音薬師如来は、大安寺の深山薬師を移されたものと伝えられている。
 大安寺は延喜式主税式により建立された官立一大古刹であったと寺伝されている。たまたま、永録八年五月集中豪雨による山津波によって、大安寺の堂宇は押し流されてしまったが、薬師堂と阿弥陀堂のみは災害から免れ残されたと言う。
 慶長七年、諏訪藩家老千野家によって江音寺が造建されるに当り大安寺にあった阿弥陀如来を迎えて本尊とし、先の深山薬師如来を瑠璃殿にお祀りしたと言う。日光菩薩・月光菩薩・十二神将等は、逐次加えられたものと推察される。
 眼病に霊験ありとされ、信仰を集めている。

高徳寺:縁起 千年以上の寺として伝えられ現存まで三度所在地が変わる。開山は伝教大師(最澄)が東国巡化の際、信濃の国に十四ケ寺創建された一ケ寺、雲龍山清水寺と称し天台宗七堂伽藍壮大な寺、七十三代憲俊法師が高野山より来寺、寺門繁栄の為町中に移転、妙雲山高徳密寺と改称、弘法大師大衆信仰寺院にて繁栄、天正十年織田信長信濃進攻兵火に焼失、貞享年間に現在地に移し元文元年八棟壮大伽藍建立するもその後二度の類焼に会い現在の建物は昭和九年の建立である。境内には三百年前の高徳な信仰を偲ばされる大宝篋印塔と大石仏は他に類がない。
 寺宝秘仏の薬師如来、香玉観世音菩薩、不動明王は高徳威神力を持って一切衆生に縁結び、除病延寿、福徳円満の現世利益を授ける霊験あらたかな仏様として本尊様と共に崇拝される。
 又近くには延命薬水の弘法様の泉、良縁、安産、福徳円満諸願成就の祈願尊基の天龍界有り。

無量寺:縁起 本尊は薬師如来である。無量寺は、後堀川天皇元仁元年(1224)亨賢和尚の開基創建によるもので、現在に至るまで五十世七百五十年を経ている高野山真言宗の寺である。元仁元年と言えば鎌倉幕府の実権が執権である北条氏の手に移り北条泰時が大軍を率いて京都に上った承久三年の三年後である。以来悠久幾星霜移り変り戦乱を経て檀信徒の厚い敬護のもと今日に至っている。この無量寺には造立以来千余年と言われる重要文化財、阿弥陀如来像が安置されているところから、元仁元年以前からあつたのではないかとされ、阿弥陀如来を守護するために建てられた別当寺であつたことが伺える。
 脇仏として 観世音菩薩立像と地蔵菩薩立像が安置されており、同時代(鎌倉時代後期)の作とみられている。脚下に天竜川、遠くに南アルアス連山、伊那谷を望む風光明媚な誠に閑静な浄域である。
 又、当寺には本四国八十八ケ所の本尊掛軸あり御砂踏巡拝が出来近隣の信者の信仰を集めて居ります。本堂前庭には樹齢三百五十年を越えるイチイの銘木、宝船がある。

香福寺:縁起 当山は第四十五代聖武天皇の御代天平十七乙酉年(745)行基菩薩衆生済度のため当地方に来錫し給い、当山に不思議なる巨岩ありて妙水自然に湧出するを見給いて、これを薬師如来の薬壼石と名付け、この岩の下に一宇を造りて堂前の樫樹を以て薬師如来像を謹刻し、医王山幸福寺と号し給い、法相・三輪の二宗を演説し、国家安穏の道場となし給えり。
 その後、第五十一代平城天皇の御宇、大同二丁亥年弘法大師、当山に来たり給い大日如来を本尊とし、真言宗を以て正宗とし、法相・三論の二宗を兼学とし給いしにより三学院なる号あり。

仲仙寺:縁起 弘仁七年(816)慈覚大師は霊夢に導かれ信濃国の山中にて霊木に十一面観世音を刻み、経ケ岳の山頂、岩屋堂へ奉安する。
刻みくずに経文を書写して埋めたことから経ケ岳とよばれ、貞観元年(859)に藤原法印が山麓に堂宇を建立し、御本尊を移還して御躰山神社の別当寺(藤宝寺)とした。時代の変遷により仲禅寺と変り、慶長五年(1600)に羽弘山仲禅寺と改称し、時の住職尊盛和尚をもって中興開基とし、慶長十八年(1613)本堂を現在地に再建された。寛永十一年(1634)には寛永寺末となり、仲仙寺と改称している。現在の本堂は安永七年(1770)に再建された豪壮な建物である。
 本堂回廊の、小さな祠に安置されている石仏薬師如来像は、弘法大師御作と伝えられ、その御影は御身を削られたのか痛ましいお姿であるが、往古から諸病平癒、特に眼耳鼻の病に霊験あらたかなり。
 且ては、お薬師様の御身をいただき、お守りとして身につけたこともあったのではとも言い、又、自分の使っていたお椀に穴を開けて奉納し、眼耳鼻等の治癒を願ったところ、その霊験利益は誠にあらたかであったと伝えられでいる。

17:00帰路に向かう。

今回の旅行、信州長野県に足を運び、大自然の中に位置する中部四十九薬師霊場の21箇所を訪れ楽しみました。

山の裾野に位置する霊場がほとんどで人気も少なくひっそりしていましたが、善光寺だけは多くの方が参拝に訪れ活気に満ち溢れていました。さすがだな!と感じました。

次回は岐阜に点在する中部四十九薬師霊場を訪れたいと思います。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百十一弾:長野県松代&上田&小諸観光
2012年10月20ー21日


本州の中央に位置し、歴史ある明湯や大自然、そばの名産地などが点在する長野県に足を運び、江戸時代には真田氏が治める松代藩十万石の城下町として栄えた松代、豪族・真田氏発祥の地、江戸時代には城下町として栄え、柳町をはじめ、ノスタルジックな町並みが旅情を誘う上田、浅間山と千曲川に挟まれる自然豊かな土地、城下町として栄え、島崎藤村ゆかりの地として知られる小諸を訪れました。

20日14:00新大阪新幹線のぞみで出発
14:51名古屋駅到達
15:00名古屋駅ワイドビューしなので出発
17:53長野駅到達、駅付近のホテル到着後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
21日6:00レンタカーで出発、松代方面に向かう。

川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信の北信濃覇権をめぐる合戦。5回にわたる合戦の中で、両軍の将だった2人が一騎討ちしたと伝えられるのが、1561年(永禄4)の4回目の戦い。乱戦で武田本陣が手薄になった時、謙信ただ一騎、信玄目がけて隼のごとく駆け寄り太刀を振り下ろしたのを、信玄が軍配で受けたという劇的なシーンの像が立つ川中島古戦場(八幡原史跡公園)を訪れる。

長野市の出身で、版画家、画家、彫刻家、陶芸家として国際的に活躍したほか、芥川賞作家、映画監督として、多方面に才能を発揮した池田満寿夫。最後の彫刻連作『美貌の青空』『土の迷宮』シリーズをはじめ、西陣織の打ち掛けによる巨大コラージュ『天女乱舞』など、1997年に63歳で急逝するまでの多彩な作品をじっくり鑑賞できる池田満寿夫美術館を訪れる。

戦国時代、武田信玄によって築城されたといわれる城。1622(元和8)年に真田信之が上田から移封されて以来、10代約250年にわたって真田氏が城主をつとめた。明治の廃城後、建物は取り壊されたが、櫓門や橋などが復元され一般公開されている松代城跡を訪れる。

文武を奨励した8代藩主・幸貫は、佐久間象山等の意見を取り入れ、藩士の子弟のために文武両道の学校の建設を計画し、1855(安政2)年、9代藩主・幸教の時に開校。ここでは文学や武術のほかに西洋の軍学などの授業も行なわれた。文学所、御役所、教室2棟(東序・西序)、剣術所、柔術所、弓術所、槍術所、文庫蔵など、藩校を完全な形で残す全国でも貴重な建物の文武学校を訪れる。

象山神社の境内にある木造2階建て、寄棟の屋根を持つ建物で、長野市の指定文化財。佐久間象山が借り、書斎や客間として使用していたため、長州の高杉晋作、久坂玄瑞、土佐藩の中岡慎太郎など幕末の志士が多く訪れた高義亭[象山神社]を訪れる。

第2次大戦末期の1944年(昭和19)、本土決戦最後の拠点として大本営、政府各省を松代に移すという極秘の計画のもと、象山、舞鶴山、皆神山の三カ所で碁盤の目状に、全長約10kmの地下濠が掘られた。当時で約2億円の資金と、延べ300万人の労働者を動員したが、全行程の75%まで進んだところで終戦を迎え、工事は中止された。現在は長野市が管理し、その一部500mの区間が見学コースとして整備され、戦争の歴史を語っている松代象山地下壕を訪れる。

江戸時代、真田家家臣として150石の禄を受け、郡奉行などを勤めていた横田家の武家屋敷。製糸工場の女工の姿を記録した、『富岡日記』の著者・和田英の生家でもある。約3340平方mの敷地に主屋・表門・隠居屋・土蔵、泉水を配した庭園などがあり、式台付玄関や石製流しを備えた勝手などからは、江戸時代の中級武士の住宅の様子がよくわかる旧横田家住宅を訪れる。

1862(文久2)年、参勤交代制が緩和されたのに伴い、9代藩主・幸教[ゆきのり]が、江戸から松代へ帰ることになった母・貞松院のために建てた城外御殿。敷地約8000平方m。長土塀・冠木門・長屋・土蔵など、大名屋敷の様子を今に伝える貴重な建物だ。部屋数は53室にも及び、藩主より「水心秋月亭」と名づけられた庭には心字池がある真田邸を訪れる。

科野の里歴史公園にある。4世紀代に造られた全長100mの前方後円墳、森将軍塚古墳[科野の里歴史公園]を訪れる。

戸倉上山田温泉方面に向かう。

戦国時代の山城・荒砥城を再現したもの。受付のある四の郭から頂上の本郭まで、連郭式でつくられている。二の郭には櫓・兵舎があり、兵舎内の映像室では荒砥城の歴史をビデオ上映しているほか、展示室では戦国時代の出土品などを展示している。櫓や本郭からは雄大に流れる千曲川と戸倉上山田温泉街、善光寺平までのすばらしい眺めが楽しめる。また、NHK大河ドラマ「風林火山」での舞台となり、施設内で撮影もおこなわれた城山史跡公園 荒砥城跡を訪れる。

上田方面に向かう。

直木賞作家・池波正太郎と、その著作『真田太平記』の世界を紹介するテーマミュージアム。氏の愛蔵品や自筆画などを展示。映像シアターやギャラリー、喫茶コーナーもある。池波ワールドにどっぷり浸ることのできる施設の池波正太郎真田太平記館を訪れる。

天正11年(1583)に真田昌幸が築城した実戦用の堅固な平城で知られる。関ケ原の合戦後、徳川方に接収され、本丸の櫓などが破壊されたが、その後、上田に移封になった仙石忠政によって再建。近世後期には松平氏の居城となった。現在は上田城跡公園として整備され、隅櫓と石垣などが往時の面影を伝える上田城跡を訪れる。

万物を生成させる生島神と、万物に満足を与える足島神を祀る信濃の古社。池に囲まれた神島に鎮座する本殿の内殿には床板がなく、土間の大地そのものが御神体とされている。武田信玄公の願文をはじめとする戦国武将の起請文(重要文化財)など、貴重な文化財も多数。回り舞台の装置を備えた歌舞伎舞台、摂社の諏訪神社社殿は長野県宝に指定されている。諏訪神社脇の夫婦欅は、良縁子宝・安産子育・夫婦円満の御神徳がある生島足島神社を訪れる。

第二次世界大戦で戦没した、東京美術学校(現東京芸大)などで学んだ学生や、独学の画学生42人の遺作85点ほどを展示している。彼らが愛用したイーゼルや画材、書簡なども収集しており、志半ばにして散った画学生の思いを今に伝え、心を打たれる。第2展示館ある没画学生慰霊美術館「無言館」を訪れる。

弘法大師が修行霊場として開いた古刹。三重の塔は重要文化財に指定。縁や匂欄(手すり)などが付いていない。未完成となるがゆえに、その姿がすっきり美しいことから、「未完成の完成塔」と呼ばれ親しまれている前山寺を訪れる。

塩田北条氏の菩提寺で、1282年(弘安5)塩田城主だった北条国時が開基した。参道の横、塩田平を一望する場所にある無銘の墓「お開基様」は北条義政のものとも、国時のものともいわれている龍光院を訪れる。

延喜元年(901)に成立した歴史書『日本三代実録』にも名前が出てくる由緒ある神社。武田信玄がこの塩野神社に朱印状(上田市指定文化財)を奉って武運長久を祈ったという。杉林の中に立つ拝殿は江戸時代に建立されたもので、2階建ての楼門造。拝殿の前にかかっている橋は、太鼓の一部のような曲線を帯びているため「太鼓橋」の名が付いている塩野神社を訪れる。

独鈷山の麓、標高600m。空海によって開山されたと伝わるこの地方で最も古い寺。独鈷山への信仰から創建されたと伝えられる中禅寺を訪れる。

別所温泉方面に向かう。

本尊は千手観音菩薩。かつては別所三楽寺の一つ、長楽寺が護っていたが、現在の本坊は常楽寺。長野の善光寺と一対の厄除観音として広く信者を集めている。一般に寺社は東か南(極楽浄土の方向)に向かって立つものだが、ここは観音堂も観音像も、文字通り北の方角を向き、南を向く善光寺と向かい合うように立てられていることから「北向」の名が付いた。来世の利益を願う善光寺と現世利益を求める北向観音の両方に参ることで、現世と来世の幸福が約束されるという信仰があり、片方だけにお参りすることを「片参り」という。多くの著名人が訪れ、北原白秋の歌碑、新派の俳優花柳章太郎の供養碑などが残る北向観音を訪れる。

常楽寺、長楽寺(現存しない)と共に、別所三楽寺と称されていた古刹。天長年間(824〜834)に開かれ、鎌倉時代に再興されたという歴史ある禅寺。鎌倉時代には鎌倉の建長寺と並ぶ格式が与えられ、北条氏の保護もあって、信州の仏教の中心地となっているという意味の記事が書物に残っている。本堂近くの伝芳堂(開山堂)に安置されている開山・樵谷惟仙和尚坐像(重要文化財)と、二世・幼牛恵仁和尚坐像(重要文化財)は、玉眼でまるで生きているかのように威厳がある。ともに1329年(嘉暦4)造の安楽寺を訪れる。

北向観音の本坊となっている天台宗の古刹。別所三楽寺の一つで、天長年間(824〜834)円仁慈覚大師によって開かれた。本堂裏には石造多宝塔(重要文化財)がある。葺吹きの屋根の本堂、樹齢300年の「御舟の松」に心打たれる。併設の美術館に展示されている葛飾北斎の絵馬や聖観音像、古瓦のコレクションなども必見の常楽寺を訪れる。

鹿教湯温泉方面に向かう。

内村川にかかる屋根つきの木造橋。新緑や紅葉の時期は特に美しい五台橋を訪れる。

温泉街から五台橋を渡った対岸にある、江戸中期の雰囲気を伝えるお堂。元禄年間(1688〜1704)に建立。谷文晁作と伝わる天井画の竜が、夜な夜な川へ水を飲みに出かけたという伝説が残る。長野県宝指定の文殊堂を訪れる。

東御方面に向かう。

中世東信濃一の豪族・海野氏の城下町であったこともあり、頻繁に市が立つなど活気のある町で、北国街道の交通・商業の中心として賑わった。養蚕に適していたことから、明治以降には宿場時代に使われていた広い部屋を利用し、養蚕・蚕種業の町となった。また、鉄道や国道の幹線からはずれたため、現在でも江戸時代さながらの風景が見られる。重要伝統的建造物群保存地区に選定されている海野宿を訪れる。


寛政年間(1789〜1801)に旅籠として建てられ、明治になって宿場の機能が失われた後には養蚕農家として使われた建物。馬屋、帳場、座敷、味噌部屋、土蔵、桑屋、井戸などが見学できる。海野の住民から寄贈された民俗資料も多数展示されていて、宿場の庶民の暮らしや養蚕農家の生活を知ることができる海野宿歴史民俗資料館[海野宿]を訪れる。

小諸に向かう。

白鶴城や酔月城ともよばれた小諸城は、城下町より低い位置に築かれた全国的にも珍しい穴城で、西側には天然の要塞になる千曲川が流れている。1880年(明治13)、その跡地に造られた懐古園は、藤村記念館をはじめ、小山敬三美術館、動物園、遊園地などが集まった、小諸の代表的な観光スポット。藤村の『千曲川のスケッチ』にも登場する。入口には、「懐古園」の大額が掲げられた寄棟造の城門、三の門(重要文化財)が立つ懐古園を訪れる。


手門は1612年(慶長17)、藩主・仙石越前守秀久が小諸城を築いた時代の建築で、当時としては瓦葦の門は珍しかったため、瓦門と呼ばれていたと伝えられる。実戦的な城門で、華美な装飾をはぶいた質実剛健な建設は、東日本を代表する大手門建築のひとつで、日本の城門発展の過程を知る重要な建物として青森県の弘前城とともに大手門の双壁といわれている小諸城大手門を訪れる。

懐古園内にある。明治32年(1899)に恩師・木村熊二に小諸義塾の教師として招かれ、以来小諸で7年間を過ごした島崎藤村。小諸滞在中に『水彩画家』『雲』『落梅集』『藁草履』など数々の作品を発表した。館内では藤村の小諸時代を中心とした著作や原稿、書簡などが展示され、英訳の『千曲川旅情のうた』など珍しい資料も見られる。建物は、建築家・谷口吉郎の設計の小諸市立藤村記念館[懐古園]を訪れる。

17:30長野駅到達。
18:11長野駅ワイドビューしなので出発
21:20名古屋駅到達
21:33名古屋駅新幹線のぞみで出発
22:23新大阪到達。

今回の旅行、本州の中央に位置する長野県に足を運び、南部から東部のエリアである松代・上田・小諸を訪れ真田家が支配していた多くの歴史的建造物に触れ癒されました。

数多くの城下町(松代・上田・小諸)、信州の鎌倉として親しまれている塩田平、江戸と北陸を結ぶ北国街道の宿場町海野宿、信州最古の湯、別所温泉や鹿教湯温泉、信州最大級の温泉街戸倉上山田温泉を訪れドライブ観光満喫しました。





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百四弾:長野県大町&白馬観光
2012年9月1ー2日


長野県の北西部に足を運び、北アルプスを横断する立山アルペンルートの玄関口として知られる大町、雄大な山々に囲まれた自然豊かなトレッキングやアウトドアスポーツが人気の白馬を訪れました。

1日14:00新大阪新幹線のぞみで出発
14:51名古屋駅到達
15:00名古屋駅特急ワイドビューしなので出発
17:03松本駅到達、松本市内のホテル到着後市街地を散策し食事を済ませて就寝。
2日6:00レンタカーで出発、大町方面に向かう。

北アルプスの山々から安曇野平野、戸隠連山、美ケ原高原まで一望できる展望台。特に夕日の美しさで知られる鷹狩山展望台を訪れる。

北アルプス山岳文化、歴史、自然を紹介する山岳専門の博物館。大町市の東、鷹狩山の中腹に位置し、3階の展望室からは、大町市と北アルプスの展望が楽しめる。1階には登山の歴史、海外遠征登山で実際に使われた用具、井上靖の小説『氷壁』にも描かれた切れたナイロンザイルの実物などを展示。2階にはライチョウやニホンカモシカなど高山の動植物の生態を解説している。屋外には付属動植物園を併設する大町山岳博物館を訪れる。

江戸時代の塩問屋で塩交易に尽力した、平林甚左衛門の明治時代の商家母屋と江戸時代の塩蔵に塩の道や塩に関する資料、民具などを展示。武田信玄への上杉謙信の「義塩」の故事も紹介している。松本から大町、千国、糸魚川へと続く、約120kmの塩の道・千国街道を往来した歩荷や牛方、物資の様子がうかがえる。併設の流鏑馬会館では、若一王子神社の流鏑馬神事に関する資料を一堂に展示している塩の道博物館・流鏑馬会館を訪れる。

『キャッツ』『オペラ座の怪人』『ライオンキング』『李香蘭』『夢から醒めた夢』などのミュージカルや、『鹿鳴館』『オンディーヌ』『エクウス』等のストレートプレイで知られる劇団四季の資料館。1953年(昭和28)創立から半世紀にわたる劇団四季の歩みを新劇の歴史にも触れながら紹介している。実際に舞台で使われた衣装や小道具なども展示。現代演劇専門の資料館は珍しく、全国から多くのファンが訪れる四季演劇資料館を訪れる。

白壁・瓦屋根の落ち着いた建物内には、長野県内87の酒造所の全銘柄をはじめ、全国の清酒1500本を陳列。酒造りの歴史・文化や工程を、パネルやビデオで分かりやすく解説している。酒樽や酒槽など、酒造りの道具500点の展示も興味深い酒の博物館を訪れる。

仁科三湖方面に向かう。

北アルプスの麓、国道148号沿いに南から木崎湖、中綱湖、青木湖と農具川で繋がっている3つの湖の総称。いずれも、東日本と西日本を地質構造上で分けている、フォッサマグナの断層に沿ってできた断層湖だ。800m前後の標高にあり、周囲は自然がよく保たれ、特に青木湖は透明度が高いことで知られている。サイクリング、キャンプ、水上スポーツ、釣りなどが楽しめる仁科三湖を訪れる。

「レジャーの木崎湖」といわれ、三湖のなかでは一番賑やか。水上スキーやカヌーといった水上スポーツはもちろん、湖畔ではキャンプやサイクリングが楽しめる。湖面標高が764mで、湖面を渡る風は夏でもさわやか。南岸には中世に約400年続いた仁科氏の城跡のほか、木崎湖温泉の宿が並ぶ木崎湖を訪れる。

周囲約2kmと、仁科三湖の中で一番小さい。「釣りの中綱湖」といわれ、フナやウグイなどの釣り場として知られている。冬期は仁科三湖のなかで唯一氷結し、ワカサギの穴釣りが楽しめる。西岸には塩の道(千国街道)が通り、石仏群も点在する。春は濃いピンクのオオヤマザクラが湖面に映り、人気のビューポイントとなる中綱湖[仁科三湖]を訪れる。

ハート型の湖岸線が美しい湖。周囲6.7km、湖面標高822m。仁科三湖のなかで最も大きく、水深58mで透明度も高い。湖面には白馬三山を映し、その神秘的な佇まいから「思索の湖」とも。夏はボードセイリングやカヌー、キャンプを楽しむ観光客が訪れ、冬はスキーの基地となる。また、西岸の堂崎観音や北西岸の西国三十三番観音などの塩の道の史跡をたどるハイキングも楽しい青木湖を訪れる。

白馬方面に向かう。

出発駅・とおみ駅からテレキャビンで約8分の空中散歩。標高1515mの場所に5haの200種類100万株の山野草公園があり、コマクサを見ることができる。又、標高1676mの地蔵の頭(地蔵のケルン)では360度の大パノラマが広がり五竜岳、白馬三山が見れます。そこから先のアルプス平自然遊歩道もあり、標高2007mの小遠見山まで往復約3時間のトレッキングコースも楽しめる白馬五竜高山植物園を訪れる。

標高2696mの唐松岳の山頂から東方へ向けて延びる尾根。山麓から第1ケルンまでは、ゴンドラ・リフトを乗り継ぐ八方アルペンラインで気軽に登ることができる。第1ケルンから八方池のある第3ケルンまでは、八方尾根自然研究路と呼ばれるハイキングコース。徒歩で片道1時間ほどだ。第3ケルンからは白馬三山や五竜岳、鹿島槍ケ岳などの山並みが目前に迫る。八方池の湖畔には高山植物が咲き乱れ、7〜8月が最盛期。八方池から先は登山装備が必要だが、2時間30分ほどで北アルプス稜線の唐松山荘まで登ることができる八方尾根を訪れる。

白馬の新しいシンボルになっている、長野オリンピックの会場として使用されたジャンプ台。リフトとエレベーターを使い、スタート地点に通じるタワー内部を見学できる白馬ジャンプ競技場を訪れる。

八方尾根と栂池高原のほぼ中間にある独立峰、岩蕈山。山麓の西山から信濃路自然歩道岩岳ルート)を歩いて標高1289mの山頂へ登ることができる。自然歩道はよく整備されているが、軽い登山装備が必要。山頂は夏の期間はゆり園もオープンし、ゴンドラリフトが運行される。白馬三山や唐松岳などの眺望は抜群。山麓には岩岳ゆり園や、白馬岩岳サマーゲレンデもある岩岳を訪れる。

千国街道沿いの親の原には木々に包まれて百体(現在は88体)の観音像がある。江戸時代、伊那高遠の石工の作といわれ、西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所の礼所を合わせ百として観音礼所巡りができるように彫られたものという前山百体観音を訪れる。

白馬乗鞍岳の中腹、栂池高原スキー場の上の標高1880m地点に広がる高層湿原。園内は高山植物の宝庫で水芭蕉に始まり、ミヤマキンポウゲ、ワタスゲ、ニッコウキスゲなどがつぎつぎと咲き乱れ、秋のナナカマドの紅葉まで、さまざまな表情を見せてくれる。遊歩道があり、約3時間半のハイキングが楽しめる。また、入園のために利用するゴンドラリフトやロープウェイからの眺望も魅力。北アルプスから八ケ岳までの大スケールのパノラマが得られる栂池自然園を散策する。

牛方が牛と一緒に寝泊まりした宿。19世紀初期の建物で、塩の道に現存する唯一の牛方宿を訪れる。

新潟県の糸魚川から信州松本に至る、全長約30里(120km)が「塩の道」と呼ばれる旧千国街道。かつては、日本海側からの塩や海産物、信州側からの麻や木地物といった生活物資が、牛や歩荷の背によって運ばれた。上杉謙信が宿敵・武田信玄に塩を贈ったというエピソードが残るのも、この街道あればこその話の千国街道(塩の道)を訪れる。

1869年(明治2)まで松本藩の番所のあったところに立つ、塩の道の史料館。番所を復元。隣接して昔の民家があり、小谷村の紹介ビデオも放映している千国の庄史料館を訪れる。

明治初期建築の入母屋造の民家を利用した郷土館。土器などの考古資料、古い着物を裂いて織るボロ織り(さき織り)などの民俗資料を紹介している。ボロ織りは実演も見られる。また村内で発見された恐竜足跡化石は長野県天然記念物の小谷村郷土館を訪れる。

松本方面に戻る。

16:50松本駅到達
17:12松本駅特急ワイドビューしなので出発
19:23名古屋駅到達
19:43名古屋駅新幹線のぞみで出発
20:32新大阪駅到達。

今回の旅行、冬のスキーシーズンには何回も訪れた事のある大町・仁科三湖・白馬の夏の自然に触れて楽しみ癒されました。

夏場の八方・栂池・五竜の山頂での散策、冬季では得れない、発見が目白押しでなかなかのものでした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百六十六弾:長野県長野タウン&戸隠&野沢&志賀高原観光
2011年10月29−30日


本州の中央に位置しする長野県に足を運び、善光寺の門前町として、北信の観光地のアクセス拠点として賑わう長野タウン、平安の昔から聖地として知られた場所で、今もスピリチュアルスポットとして有名な戸隠、戦国武将にも愛された湯、趣のある共同浴場めぐりも楽しみな野沢、標高1000m以上に位置し、壮観な眺めと多彩な動植物が魅力な志賀高原を訪れました。

29日13:47新大阪新幹線のぞみで出発
14:51名古屋駅到達
15:00名古屋駅ワイドビューしなので出発
17:53長野駅到達、名古屋駅付近のホテル到着後繁華街を散策し、食事を済ませて就寝。

30日6:00レンタカーで出発、長野タウンを巡る。

5万9000平方mの境内に、大勧進・大本願と39の塔頭からなる大寺院。「牛にひかれて善光寺参り」で全国的に知られ、年間約600万人もの参拝者が訪れる。創建以来約1400年、源頼朝や武田信玄、徳川家康など時の権力者からの信仰が厚く、江戸時代になると庶民の参詣も増えた。善光寺詣でにかかせないお戒壇めぐりは、本堂床下の真っ暗な回廊を手さぐりでめぐり、ご本尊の下にある極楽の錠前にふれてご本尊とご縁を結ぶというものの善光寺を訪れる。

パティオとはスペイン語で中庭のこと。その名のとおり、大門交差点に面した一角に、古い町屋や蔵を改装したレストランやカフェ、ショップなど15棟・15店舗が並ぶぱてぃお大門蔵楽庭を訪れる。

善光寺の仁王門手前の左側にある尼寺で、浄土宗の大本山。642年(皇極元)蘇我馬子の姫が天皇御杖代としてここへ遣わされたのが起こりといわれる。宝物館には、宮家ゆかりの品々が展示され、渡り廊下にある日本画家・岡信孝の格天井絵四季草花図などが必見の大本山善光寺大本願[善光寺]を訪れる。

1752年(宝暦2)建立のものが1864年(元治元)に再建されたが、1891年(明治24)火災で焼失したため、現在の仁王門は1918年(大正7)に再建されたもの。左右に立つ阿吽の仁王像は高さ5mの檜造りで、高村光雲と弟子の米原雲海による傑作。鉤鎖を握り開口するのが阿形、金剛杵を手にして閉口するのが吽形で、迫力ある憤怒の形相が印象的の仁王門[善光寺]を訪れる。

善光寺の仁王門から三門までの、約200mにわたる石畳の通り。みやげ店や仏具店、旅館などが軒を連ね、多くの参拝客で賑わう仲見世通り[善光寺]を通過する。

石畳の参道左手にある天台宗の本坊。大本願と共に善光寺の法灯守護の重責を担い、7年に1回御開帳される前立本尊(重要文化財)が安置されている。広い境内に25ケ院の塔頭が甍を並べている様は圧観だ。また、室町風池泉廻遊式の庭園では、奥庭園にある沈香亭が明治天皇ゆかりの茶亭で趣深い善光寺本坊大勧進[善光寺]を訪れる。

善光寺の楼門。1750年(寛延3)の建築で、5間3戸、二重の入母屋造。高さは20mもある。善光寺の額は、輪王寺宮公澄法親王の筆によるもの。2007年(平成19)末に平成大修理が終了し、建立当時と同じ姿に復原された山門[善光寺]を訪れる。

棟の形が鐘をつく撞木の形(T字型)になっている撞木造、檜皮葺屋根の江戸中期寺院建築の傑作。大伽藍は間口約24m、高さ約30m、奥行約54mで、国宝建造物の中で東大寺大仏殿、三十三間堂、知恩院御影堂に次ぐ規模。正面は向拝3間で軒唐破風付き、内部は外陣が広いという近世寺院建築の特長を示す。7年に1度、本尊と同じ姿の前立本尊が開扉される。毎回、御開帳に際して松代町から奉納される回向柱が本堂前に立てられるが、これと前立本尊の右手が「善の綱」で結ばれるため、回向柱にふれると御本尊にふれたのと同じ御利益があるといわれる本堂[善光寺]を訪れる。

善光寺境内の東隣りに広がる公園。大きな噴水と花時計がシンボルで、市民の憩いの場となっている。桜の名所としても知られ、春には約470本の桜が開花。ほかにも四季折々の花々が楽しめる。敷地内には長野県信濃美術館・東山魁夷館のほか、城山動物園や少年科学センター、城山テニスコート、城山市民プールなどの施設もある城山公園を訪れる。

魁夷にとって信州は、学生時代から写生旅行を重ね、「私の作品を育ててくれた故郷」と呼ぶ地。長野県が寄贈を受けた約950点の作品と関係図書をもとに、長野県信濃美術館に併設して建設された。「風景は心の鏡である」という東山芸術を、スケッチ・習作・下図など制作の過程もあわせて紹介。年数回の展示替えを行う。館内の「Cafe Kaii」では、画伯の愛したモーツァルトを聞きながらコーヒーが楽しめる東山魁夷館[城山公園]を訪れる。

善光寺に隣接する城山公園内に建つ、信州唯一の県立美術館。菱田春草・池田満寿夫・松井康成をはじめとする郷土作家の作品、美しい自然に恵まれた信州の風景画を中心とした収蔵品の公開と、「地域文化の顕彰と振興」「幅広い芸術の紹介」「生活の中の美術」「楽しむ心を育む美術」の4つの柱に基づいた企画展を開催。美術団体などに作品発表の場も提供している長野県信濃美術館[城山公園]の前で記念撮影。

戸隠方面に向かう。

戸隠山の麓にある宝光社・中社・奥社の総称。天照大神の天の岩戸開きの神話伝説にゆかりの神々を祀る。樹齢数百年の杉並木の中に各社殿が立つ戸隠神社を訪れる。

戸隠神社にあり、祭神は中社の祭神の御子、天表春命。技芸、安産、厄除けなどに御利益があるという。200段余りの石段を登ると、荘厳な社殿が姿を現す。建立は1058年(康平元)とされ、拝殿の柱や棟木に施された龍などの彫刻は必見の宝光社[戸隠神社]を訪れる。

戸隠神社の宝光社の北2kmにある。祭神は智恵の神である天八意思兼命。学業成就・商売繁盛・開運などの御利益を願い、いつも多くの参拝客で賑わう。1087年(寛治元)建立といわれる社殿は1956年(昭和31)の再建だが、境内には樹齢約800年の三本杉(天然記念物)がある。中社の門前にそば処やみやげ物店が並び、観光の中心にもなっている中社[戸隠神社]を訪れる。

祭神は、日本神話で名高い天照大神が天の岩窟に隠れた時、天の岩戸を怪力で開けられたといわれる天手力雄命。戸隠神社の本社として、開運・五穀豊穣・心願成就などを願う人々が全国から集ってくる。赤い随神門はもとの仁王門。茅葺き屋根が荘厳な雰囲気を醸し出す。樹齢400年の杉並木が続き、並木の間には江戸時代まであった大講堂や院坊跡の石積みも見られ、修験道が盛んだった往時を伝える。奥社の左手には、戸隠の地主神で、水の神、農業・商業の神として信仰を集める九頭龍社もある戸隠神社 奥社[戸隠神社]を訪れる。

野尻湖方面に向かう。

小丸山公園内にある施設。庶民的な俳句2万句を残した小林一茶(本名弥太郎)は、1763年(宝暦13)信濃国柏原村の生まれ。宗匠として北信濃各地の門人をめぐって俳諧指導にあたり、湯田中温泉などにその足跡を刻む。しかし私生活は不遇で、1827年(文政10)の柏原大火で家を失い、焼け残った土蔵の中で艱難辛苦の生涯を終えた。ここではその生涯と文学、一茶顕彰活動を紹介。『七番日記』『おらが春』や、愛用のすずり・携帯地図など貴重な資料は必見だ。民俗資料棟では昔使われた街道の乗り物、民具を展示した江戸時代の民家などで、一茶のふるさとを体感できる一茶記念館[小丸山公園]を訪れる。

一茶が中風のために65歳で亡くなるまでの半年近くを過ごした土蔵。柏原の大火で焼け出された一茶は、間口3間半、奥行2間2尺の質素な土蔵で生涯を閉じた。国の史跡に指定されている。近くにある明専寺は一茶の菩提寺で、毎年11月19日の一茶忌には法要が行われる小林一茶旧宅を訪れる。

秀麗なその姿から信濃富士と称され、標高2053mの二重式コニーデ型火山。北信五岳のほぼ中央にあたり、旧火口付近には大池や七ツ池など小さい湖沼が点在。山頂からは野尻湖をはじめ、戸隠、妙高、浅間、八ケ岳などの大パノラマが眺望できる。登山道は表・西・小泉の3ルートがあり、西登山道がおすすめ。戦国時代、志賀高原の池に住んでいた大蛇が城主の一人娘・黒姫に恋をし、若侍の姿となって現れたというロマンあふれる伝説も残る黒姫山を眺望する。

斑尾山、黒姫山、戸隠山、飯縄山、妙高山の北信五岳に囲まれた雄大な高原。裾野に野尻湖を見下ろす、まさに自然の宝庫。冬は雄大な斜面が絶好のスノーパークとなり、春にはタケノコ、山菜狩り、晩夏から秋にかけては色とりどりのコスモスの花畑へ、秋は紅葉にキノコ狩りと一年中楽しめる。またマウンテンバイクなどのスポーツも盛んの黒姫高原を訪れる。

メルヘンあふれる童話の森内にある施設。『はてしない物語』で知られるミヒャエル・エンデの展示室には自筆原稿や原画、スケッチなどが並び、裏手にはいわさきちひろが多くの時間を過ごし、多数の作品を産み出した山荘を移築・公開。国内外の童話や民話、児童文学を紹介している。松谷みよ子常設展示室のほか、隣の童話の森ギャラリーでは地元ゆかりの画家の作品展示や童話館の企画展を開催する黒姫童話館・童話の森ギャラリーを訪れる。

総面積3万8000平方m。黒姫高原スノーパークの下を利用した園内は、夏から秋にかけて世界中のさまざまな品種が50品種100万本咲き乱れる。毎年8〜10月にはコスモス祭りを開催。世界のダリア50品種も見ることができる黒姫高原コスモス園を訪れる。

野尻湖で発掘された約4万年前のナウマンゾウやオオツノシカの化石、氷河時代の野尻湖人が使っていた石器や骨器が展示されている。入口近くに高さ約2.8mのナウマンゾウとオオツノシカの実物大の復元像があり、その大きさは迫力満点。本物のナウマンゾウの臼歯の化石にふれられる体験コーナーもある野尻湖ナウマンゾウ博物館を見学。

溶岩流でせき止められてできた湖は、湖周約16kmと県内では諏訪湖に次ぐ大きさ。湖岸線が複雑で芙蓉の葉に似ているため、別名・芙蓉湖とも呼ばれている。大正時代に外国人に見出された避暑地とあって、南西岸には国際村や別荘が広がり国際色豊かな野尻湖を訪れる。

志賀高原に向かう。

大沼池に次いで志賀高原では2番目に大きな池。およそ20万年前の火山活動の際にできた窪地に水がたまって池となった琵琶池を訪れる。

志賀高原の中心に位置しており、湖畔のバスターミナルは熊の湯・草津方面と、発哺・奥志賀方面の分岐点となっている。発哺へのロープウェイもここから出ている蓮池を訪れる。

旧志賀湖の湖底だった美しい湖。笠ケ岳や志賀山を望み、シーズンには、ボート遊びや、フナ、ニジマスなどの釣り、キャンプ、ハイキングを楽しむ人々で賑わう木戸池を訪れる。

志賀高原で最も高い横手山。標高2305mの山頂まで、動く歩道のスカイレーターとリフトを利用して歩かずに登れる。山頂からの展望がすばらしいことで知られており、白根火山や志賀山、北アルプス連峰はもちろん、天気がよければ富士山や佐渡、日光連山まで見渡すことができる横手山展望台を訪れる。

小布施方面に向かう。

21畳敷本堂の天井いっぱいに描かれた極彩色の『八方睨み鳳凰図』は、葛飾北斎晩年の大作。孔雀石、鶏冠石など高価な鉱石をふんだんに使った絵の具で描かれた鳳凰図は、160余年の年月がたったとは思えないほど鮮やか。本堂裏庭には蛙合戦の池があり、桜の咲くころヒキガエルが産卵に集まる。1816年(文化13)、この寺を訪れた小林一茶もこの蛙合戦を見て、「やせ蛙まけるな一茶これにあり」の句を詠んだといわれている。また裏山には福島正則の霊廟も奉られている岩松院を訪れる。

北信濃の豪商であり、葛飾北斎を小布施に招いた人としても知られる文化人・高井鴻山の偉業をたたえる記念館。鴻山の書斎であったゆう然楼を修築した館内には、北斎に触発されて自ら描いた数多くの書画や、時代を風刺した妖怪画、遺品、関連資料などが展示されている。また、北斎が1842年(天保13)に初めて小布施を訪れて以来、たびたび訪れては力作を描き上げたアトリエの碧い軒も敷地内にある高井鴻山記念館を見学。

国の重要有形民俗文化財に指定された「金箱正美コレクション」963点のほか、信州を中心とした地域から収集した和製灯火具を展示するユニークな博物館。焚き木の明りからガスまでの灯火具の変遷を知ることができるほか、和ろうそく作りの仕事場を再現した展示や、油、ろうそく、石油、白熱電球の明るさ比較体験などもおもしろい日本のあかり博物館を見学。

晩年に4度小布施を来訪し、多くの作品を残した浮世絵師・葛飾北斎の肉筆画を中心に展示。掛軸、額装、画帖、絵巻などに描かれたさまざまな肉筆画や版本などの展示は見応えがある。北斎の筆による天井絵『龍』『鳳凰』図がはめこまれた東町祭屋台と、怒涛図『男浪』『女浪』がはめこまれた上町祭屋台の2台の祭屋台は数少ない立体作品の中でも傑出した作品。映像展示室で上映されるマルチスライドを見れば、終生美を探求し、描くことを極めようとした北斎の情熱を感じることができる北斎館を見学。

須崎に向かう。

江戸時代半ばに創業し、須坂藩御用達で北信濃屈指の豪商だった田中本家。伝来の書画、陶器、漆器、衣裳、玩具などが、往時の面影を伝える土蔵に展示され、その質量の豊富さから近世の正倉院と呼ばれる。鑑賞後は池泉廻遊式庭園で散策を楽しむのもいい。休み処では、藩主が食べたと伝わる山鳥の雑煮1200円が味わえる豪商の館・田中本家博物館を訪れる。

長野駅に向かう。
17:20長野駅到達
18:11長野駅ワイドビューしなので出発
21:20名古屋駅到達
21:35名古屋駅新幹線のぞみで出発
22:36新大阪駅到達。

今回の旅行、長野県北東部に足を運び、山有り、川有り、湖有りの自然に恵まれた観光スポットと歴史深い由緒あるスポットをドライブ観光してきました。

生憎の小雨でしたが志賀高原でのドライブは中腹に雲がかかっていただけで全景をクリアに望むことが出来圧巻でした。

歴史的建造物も長野タウンの光善寺、戸隠の点在する神社、温泉は野沢、湯田中の外湯巡り、盛りたくさんで楽しめました。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百六十一弾:長野県松本&安曇野観光
2011年9月24−25日


長野県の北西に位置する北アルプス山麓のエリア、城下町として栄え、今も歴史が色濃く残り、明治・大正の面影のあるなわて中町通り、平城の名水百選の街でもある松本、北アルプスからの雪解け水に恵まれ、田園風景やわさび畑が広がり、又美術館、博物館も多く、アートなエリアでもある安曇野を訪れました。

24日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
14:51名古屋駅到達
15:00名古屋駅ワイドビューしなので出発
17:03松本駅到達、駅付近のホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。

25日6:00レンタカーで出発、松本周辺を巡る。

世界的に活躍する松本出身の前衛芸術家・草間彌生、信州の山々を生涯描き続けた洋画家・田村一男、力強く躍動的な表現が特徴の書家・上條信山など、松本や信州ゆかりの作家の作品をはじめ、自然や山、音楽にちなんだ作品を常設展示している松本市美術館の前で記念撮影。

松本は豊富で良質な湧水の町。「清泉湧き出して当国第一の名水とす」と賞されたこの井戸水は、江戸時代から飲用や酒造用に使われてきた源智の井戸を訪れる。

北アルプスや美ケ原高原の山並みを背景に立つ松本市のシンボル。現存する天守としては、犬山城、彦根城、姫路城とともに国宝に指定されている名城。石川数正、康長父子が1593年(文禄2)ころ建てたと推定され、戦闘に有利な山城が多く築かれた戦国時代の中で、松本城は異色の平城。敵の侵入を防ぐ石落や鉄砲狭間などが見どころ。中町通りの北を流れる女鳥羽川は、侍町と町人町を分けた川で、堀の役割も果たした。4月中旬は桜に包まれ、5月上旬には月見櫓前にボタンが咲く松本城を訪れる。

5重6階の天守(国宝)を中心に渡櫓[わたりやぐら](国宝)で乾小天守(国宝)をつなぎ、辰巳附櫓(国宝)と月見櫓(国宝)を複合した独特の美しい構造。創建当時のまま現存する貴重な天守閣。外壁は上部が白漆喰、下部が黒漆塗りの下見板張りで、窓が極端に少ない。内部に入ると、各階をつなぐ階段は急勾配なうえ、蹴上げが高く、居住性よりもむしろ戦闘への備えがうかがえる。最上階からは、美ケ原高原や安曇平、北アルプスなどが展望できる天守閣[松本城]を訪れる。

1873年(明治6)に開校した小学校。松本藩の藩校を源流に、教育に力を注いだ筑摩県権令(現在の知事職)の永山盛輝が計画。1876年(明治9)、棟梁の立石清重によって建築された。瓦葺きの木造2階建ての建物は、白い漆喰の外壁と唐破風造の玄関の上に八角形の望楼を載せた擬洋風建築。窓には舶来ガラスをふんだんに使用し、「ギヤマン学校」とよばれた。1963年(昭和38)、現在地に本館を移築。新築当時の姿に復元され、館内では当時の写真や授業用の掛図、教科書などが見られる旧開智学校を訪れる。

松本市の民芸研究家・丸山太郎が、柳宗悦[やなぎむねよし]らによって提唱された民芸運動に共鳴して蒐集したコレクションを展示。1962年(昭和37)に創設され、1983年(昭和58)に松本市の施設となった。館内には松本箪笥をはじめ、陶磁器・染織物・ガラス製品と国内外から集めた民芸品が並ぶ。展示品は民芸運動の趣旨のとおり、無名の職人の技術で生みだした工芸品の機能的な美しさ、「用[よう]の美」にスポットをあてている。年4回企画展を開催。白い土蔵風で梁の太い頑丈な家屋と庭園も合わせて鑑賞したい松本民芸館を訪れる。

女鳥羽山麓を背景に、浅間温泉街と美ケ原温泉の中間にある浄土宗の寺。1669年(寛文9)に、松本城主、水野家三代の忠直が廟所を造営して以来、水野家の菩提寺として栄えた。境内の庭園は5月上旬には1200株ものボタンが咲く。1828年(文政11)に槍ケ岳を開山した播隆上人は、玄向寺を準備基地とし、その遺品などが残されている。また、庭園に1929年(昭和4)に立てられた播隆上人像がある玄向寺を訪れる。

1872年(明治5)、松本に初めて設置された公園。凶作が続き、全国各地で一揆が起こった天保年間の1843年(天保14)、松本藩主・戸田氏が鎌倉時代の山城跡に楓や桜を植え、民衆に開放した遊楽地が前身。桜の名所として親しまれ、松本平の展望がよい。窪田空穂や浅原六朗らの歌碑が立つ城山公園を訪れる。

江戸後期から昭和にかけて建てられた5棟の歴史的建造物を移築・保存。県宝の旧長野地方裁判所松本支部庁舎は内外部ともに完全な形で残る貴重な和風裁判所で、法廷や復元会議室などを見学できる。旧昭和興業製糸場では糸ひきの実演も行われている。このほか『あゝ野麦峠』で知られる野麦街道沿いの工女宿宝来屋(松本市重要文化財)、民主主義の先駆者木下尚江の生家(下級武士の住宅)、旧松本少年刑務所独居舎房など、特色ある建物が見学できるたてもの野外博物館松本市歴史の里を訪れる。

松本出身の酒井家五代200年間にわたる浮世絵のコレクション。酒井家は紙問屋で、歌川廣重のパトロン的存在だった。初期浮世絵から現代の創作版画まで10万点におよぶ収蔵品は国際的にも評価が高く、世界各国で浮世絵展覧会の実績がある。作品1枚1枚に詳しい解説があり、浮世絵の見どころを堪能できる日本浮世絵博物館を訪れる。

四賀地区発掘の化石を展示。1300〜2000万年前はこの地が海だったことが推定される海棲哺乳類や魚類の化石が見られる。シガマッコウクジラの全身骨格のレプリカが目玉の松本市四賀化石館を訪れる。

安曇野方面に向かう。

日本近代彫刻の巨匠、高田博厚のほぼ全作品約190点を収蔵。そのうち約130点を常設展示していて、彫刻家の生涯を作品を通して興味深く鑑賞できる。高村光太郎やロマン・ロランなど、交流のあった著名人の肖像も数多い。また、東京美術学校に学び、諏訪で教鞭を執り、生徒から長く慕われた宮芳平の生涯の絵画作品を収蔵し、アトリエと書斎を再現。宮は、森鴎外の短編小説『天寵』に登場する「M君」でもある。隣接する庭園には500種800本のバラが咲く安曇野市豊科近代美術館を訪れる。

北アルプスの山裾に広がる広大な公園。信州・安曇野の豊かな自然を楽しみながらふれあえる施設が整備されている。四季折々に多彩なイベントも開催されており、安曇野の自然や文化を体感できる国営アルプスあづみの公園を訪れる。

北アルプスや安曇平を一望できるビューポイント。標高934mの長峰山山頂に、らせん状階段の展望台が設けられている。4月中旬〜5月上旬には山桜が咲き、残雪の山並みが輝く。美しい夕日が望めるサンセットポイントでもある長峰山展望台を訪れる。

曹洞宗の寺院。山門前に朱塗りの安曇野仁王様の大下駄があり「仁王様の下駄を履けば願い事が叶う」と伝えられている。本堂下で御戒壇めぐりができる。本陣等々力家の向かいにある吉祥山東光寺を訪れる。

平安時代初期から国史に登場する古社。本殿・拝殿が立つ境内は深閑とした杉木立に囲まれ、荘厳な雰囲気が漂う。祭神は古代北九州で栄え、7世紀ころ安曇野に移り住んだといわれる安曇族の祖神の穂高見命。9月26・27日の御船祭には、安曇族ゆかりの穂高人形を飾った船形の山車(御船)で賑わう穂高神社を訪れる。

ロダンの彫刻に強い影響を受け、躍動感あふれる作風により日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)の、『女』『文覚』など代表的な彫刻や絵画を収蔵する美術館。交友のあった高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎の作品も展示。キリスト教精神に生き、30歳で夭折した碌山を忍び、1958年(昭和33)に建設された本館は教会風のレンガ造り。庭の木立とあわせ、安曇野の象徴的風景として知られる碌山美術館を訪れる。

1920年(大正9)にアルメニアに生まれ、フランスで活躍する画家ジャン・ジャンセンの油絵やデッサン約700点を収蔵する美術館。ベニスやバレリーナ、マスカラード(仮面舞踏会)などを主題に、人間の本質を彼独自の生命観、美意識で鋭く描き出す。ほかにカシニョールの作品も展示されている安曇野ジャンセン美術館を訪れる。

濃い自然林の中にあり、海外の絵本作家の原画展を中心に年4回の企画展を実施し、海外の絵本の販売も行う大人のための絵本館。絵本にふれることで、子供時代を再認識できるような心安らぐ空間を大切にしている。喫茶コーナーで絵本を読みながらくつろぐこともできる安曇野絵本館を訪れる。

宮沢賢治の世界を指針に「生きとし生けるものの命の大切さ、平等さ」をモットーに、大人と子どもが共有できる児童文学の世界を紹介。絵本作家の原画展を年4〜5回開催する。また小学校でのお話会に力を注ぐなど、地域に根ざした活動を展開する絵本美術館&コテージ 森のおうちを訪れる。

デンマーク王室御用達のロイヤルコペンハーゲン窯によるイヤープレート、19世紀に世界初誕生したビング&グレンダール窯によるクリスマスプレート、18世紀に刊行された銅版植物図鑑『フローラ・ダニカ』を元絵にしたアンティーク皿など、約500点を越えて展示。東山魁夷のリトグラフ『北欧紀行』も見もの。併設のティールーム、安曇野文庫ではロイヤルコペンハーゲンの器で紅茶やケーキが味わえる大熊美術館を訪れる。

信濃富士とも呼ばれる、有明山と北アルプスの裾野に広がる安曇野の田園風景を一望できる高台、あづみ野池田クラフトパーク内にある美術館。館内には、安曇野を描いた山下大五郎や奥田郁太郎などの油絵と長野県出身の篠田義一の陶芸作品が常設展示されている。田園を描いた作品などを通して、安曇野の暮らしと自然が見えてくる。ハーブティーが味わえる喫茶コーナーもある池田町立美術館を訪れる。

レジャー&地場産みやげ店ゾーン、ハロー安曇野の一角にある博物館。とんぼ玉とは複雑な模様が造りこまれたガラス玉。地中海沿岸などで発見された紀元前の古代とんぼ玉、江戸時代のとんぼ玉など約6000点と、日本のガラス器やびいどろなどを常設展示するとんぼ玉美術博物館を訪れる。

東京都練馬区にある、ちひろ美術館の姉妹館。1997年(平成9)、いわさきちひろの両親が戦後に住んだ松川村に開館。子どもを生涯のテーマとして描き続けたちひろの作品や資料とあわせて、世界の絵本画家の作品や絵本の歴史が5つの展示室で紹介されている。春〜秋、季節に合わせて4回の展示替えを実施。木のぬくもりが感じられ、ゆったりとした館内には、絵本が読める図書室や田園風景を見ながら飲み物や軽食が楽しめるカフェもある。周囲は3万5000平方mにおよぶ安曇野ちひろ公園で、多数のオブジェが点在する安曇野ちひろ美術館を訪れる。

豪族仁科氏が、伊勢内宮を勧請して祭った御厨神宮で、創建は1100年ごろ。神明造りの本殿は20年ごとに遷宮(新築)されてきたが、江戸時代に松本藩の祈願所になり、1636年(寛永13)の遷宮以降は部分補修となったため、神明造りでは日本最古の建築物で国宝に指定されている。また、1376年(永和2)からの棟札27枚、銅製御正体掛仏16面は国の重要文化財の仁科神明宮を訪れる。

15:30松本に向かう。
16:30松本駅到達
16:56松本駅ワイドビューしなので出発
18:55名古屋駅到達
19:05名古屋駅新幹線のぞみで出発
20:05新大阪駅到達。

今回の旅行、長野県北西部の北アルプス山麓に足を運び、城下町で武家屋敷風の店が並ぶなわて通り、蔵蔵の美しい建物が並ぶ中通りの歴史散策、北アルプスの雪渓、のどかな田園やわさび畑、美しい日本の原風景が今も残り、また美術館、博物館が点在するアートなエリアでもある安曇野を訪れドライブ観光楽しめました。

白馬エリアと違って平坦なエリアに多くの点在する美術館・博物館、マイナーな感であり、興味ある展示物が少なく、外観の写真撮影で終わりました。

次回は冬のスキーシーズンには何回も訪れたことのある北アルプス山脈、上高地・白馬をチャレンジしたいと思います。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百五弾:長野県諏訪・蓼科・清里観光
2010年7月31日−8月1日


日本の中心に位置し海に面しない日本有数の山岳地帯の長野県に足を運び、7年に一度の諏訪大社御柱祭に沸く諏訪、高原リゾートとして名高い蓼科と清里を訪れました。

31日14:00新大阪のぞみで出発
14:51名古屋到達
15:00ワイドビューしなので名古屋出発
16:53塩尻到達
16:58塩尻中央線で出発
17:18上諏訪到達、レンタカーで諏訪エリア観光

約400年前、豊臣秀吉の武将、日根野織部正高吉によって築城。当時諏訪湖の水が城際まで迫り湖上に浮いて見えたことから、別名・諏訪の浮城と呼ばれた諏訪氏の居城。現在の天守閣は、1970年(昭和45)に復興されたもの。1・2階は資料室、3階は展望室になっている諏訪高島城を訪れる。

諏訪市・下諏訪町・岡谷市にまたがる県内最大の湖。周囲15.9km、面積13.3平方km。東岸一帯は公園として整備され、足湯やジョギングロードなどを利用可。約30分ごとに出航する遊覧船、足こぎボートも楽しめる。冬になると湖が全面結氷して亀裂が入る、「御神渡」とよばれる現象は、近年暖冬で見られることも少なくなった諏訪湖を訪れる。

諏訪市街から霧ケ峰高原へ向かう県道40号沿いに広がる展望スペース。園内には展望台があり、諏訪湖や諏訪の町並みが一望できる。サンセットポイントとしても有名な立石公園を訪れる。

3階の展望ラウンジから豪快に噴き上げる間欠泉を間近で見ることができる。吹き上げる時刻は10時、11時30分、13時30分、15時、16時30分。隣接して無料の足湯があるので、気軽に温泉を楽しめる諏訪湖間欠泉センターを訪れる。

17:00下諏訪駅付近のホテル到達後、市街地を散策して食事を済ませて床に就く。

8月1日4:30レンタカーで出発

日本電算サンキョーのコレクションを収蔵する博物館。ヨーロッパやアメリカのアンティークオルゴールを中心に約120点を展示。なかには150年以上前のものもあって変遷が分かる。2階では145年前スイス製のアンティークオルゴールの生演奏を聴くことができ、製作体験も可。人形作家・若月まり子氏の妖精人形展「夏の夜の夢」常設。オリジナルグッズ販売コーナー、オルゴールの音色を聴きながら休憩できる喫茶室る諏訪湖オルゴール博物館奏鳴館の前で写真撮影。

日本で唯一の時計組立体験や世界で初めて完全復元した「幻の天文時計・水運儀象台」などの展示物を通じ、時や時計の歴史、技術を知ることができる博物館。時計組立体験はウォッチとクロックがあり、ビギナーコースから機械式時計専門コースまで幅広い組立体験ができる。ミュージアムショップでは、オリジナル時計やオーダーメイド製品を購入できる。また、旅の疲れを癒してくれる足湯もあり、気軽に利用できる諏訪湖時の科学館 儀象堂の前で写真撮影。

諏訪大社下社春宮の旧参道脇にある不思議な石仏。胴石に1660年(万治3)の銘がある。春宮の鳥居を造る際、この石にノミを入れたところ血が流れ出し、驚いた石工が霊の宿る石として阿弥陀如来を祭ったという。高さ2mの自然石の上に小さな頭がのった石仏で、画家の岡本太郎が「こんなにおもしろいものは見たことがない」と話したことから観光客が訪れるようになった万治の石仏を訪れる。

アンリ・ルソーやグランマ・モーゼスなど、世界的に貴重な素朴派の絵画を常設展示している。晴れた日には富士山が眺望できる絶好の地にあり、諏訪湖の自然と共に作品を鑑賞することができる。併設のティーセントホールでは音楽会や講演会などもでき、ジャンルを問わない芸術文化の発信基地になっているハーモ美術館の前で写真撮影。

美ヶ原方面に向かう。

美ケ原高原の南端にあり標高は2006m、多くの高山植物や蝶が見られるところ。山の南側はツガの原生林になっている。南アルプスや八ケ岳の眺めがよい。7月上旬に見ごろを迎えるレンゲツツジの時期はすばらしい茶臼山を訪れる。

美ケ原の北東に位置する標高1989mの展望のよい山。頂上付近に広がる草原では高山の草花が見られ、東は浅間の山並み、西には王ケ頭までの美ケ原高原のハイキングコースが一望できる牛伏山を訪れる。

美ケ原高原の一角、標高1990mの牛伏山東斜面一帯に広がる野外彫刻美術館。リーバーマンやセザールをはじめとする外国作家、建畠覚造や池田満寿夫などの国内作家による彫刻作品約350点を常設展示。13万3000平方mの緑豊かな敷地内には散策路が整備され、自然に調和した作品を鑑賞できる。春から秋にかけ、ヤナギラン・ノアザミ・マツムシソウなど200種類もの高山植物が場内を鮮やかに彩る美ケ原高原美術館を訪れる。

霧が峰・車山方面に向かう。

霧ケ峰の北西に広がるハート型の湿原。厚さ8mに及ぶ泥炭層は、ミズゴケなどの植物が腐葉土にならずに堆積・泥炭化したもの。約1万年をかけて形成された。湿原内には八島ケ池、鎌ケ池など水をたたえる池があり、周辺にはレンゲツツジ・ニッコウキスゲなど、約400種類の湿原植物や亜高山植物が自生する八島湿原を散策する。

車山を主峰に蝶々深山、鷺ケ峰までの東西約10km、南北約15kmにわたって広がる高原。約800種類もの植物が自生し、6月にはレンゲツツジ、7月にはニッコウキスゲが一面に咲く霧ケ峰高原を訪れる。

霧ケ峰の主峰、標高1925mの車山を中心に、なだらかに広がる緑豊かな高原。山頂からは八ケ岳連峰や南・北・中央アルプス、富士山など360度の大パノラマが広がっている。散策路も整備されており、霧ケ峰や八島湿原まで気軽にハイキングが楽しめる。緑の季節には、ニッコウキスゲをはじめとした約600種類の高山植物が次々と咲き誇り高原を彩る車山高原を訪れる。

白樺湖方面に向かう。

囲3.8km、最大水深9mの人造湖。湖畔は四季折々に美しい景観が広がり、春から夏にかけては格好のハイキングコースとなる白樺湖を訪れる。

標高1520mの高原にある山野草花園。ユリとキスゲの丘、黄金アカシア、ナナカマドの紅葉を中心に、リフトから四季の草花の見事な眺望が楽しめる白樺リゾート黄金アカシアの森を訪れる。

かつて赤沼平とよばれ、河童が住んでいたという伝説が残る湿原を堰き止めてできた人造湖。周囲約2kmと小さく、1周30分ほどで歩ける女神湖を訪れる。

ゴンドラリフトで行ける標高1830mの自然園。原生林におおわれた園内では多種多彩な高山植物が見られ、約50種類の野鳥が生息。1周約40分の遊歩道が整備されている御泉水自然園を訪れる。

蓼科方面に向かう。

周囲をカラマツや白樺の林に囲まれ、湖面に蓼科山を映す蓼科湖を訪れる。

フランスの女性画家、マリー・ローランサンの作品を収蔵・展示している美術館。代表作の『三人の若い女』をはじめ、デッサン帳から油彩の大作まで500点を超える作品を収蔵し、常時約100点を展示している。淡い色調と簡潔なフォルムで独自の画風を築き上げた彼女の世界が広がるマリー・ローランサン美術館を見学。

野辺山・清里方面に向かう。

日本が世界に誇る観測施設。電波望遠鏡と呼ばれる直径45mの巨大パラボラアンテナをはじめ、直径10mのアンテナ6基、直径80cmアンテナが84基が立ち並ぶ。人間の目には見えない天体からの電波を調べることで、星の誕生・銀河の構造・ブラックホールなど宇宙の謎を次々と解明。構内の見学コースには、解説パネル・展示室・受信体験ができる模型のほか、復元された天文台最古の電波望遠鏡もある国立天文台野辺山宇宙・太陽電波観測所を見学。

野辺山高原の代表的な記念撮影スポット。山間を縫うように走るJR小海線は、JRの路線のなかでも標高の一番高い1375mの地点を通過する。このポイントは、清里駅と野辺山駅の中間地点の旧国道と交差する踏切にあたり、そばには最高地点を示す木製の標柱が立ち、線路をはさんで反対側にも日本鉄道最高地点の石碑があるJR鉄道最高地点の碑を訪れる。

高1542mの小高い丘。駐車場のある美し森観光案内所から美し森山山頂までは、徒歩で10分ほど。山頂の展望台からは、清里高原や南アルプスなどが一望できる美し森を訪れる。

川俣渓谷に架かるアーチ型の橋。川俣東沢渓谷自然観察園遊歩道から見上げると、周囲の緑に鮮やかな朱色が映える。八ケ岳高原ライン沿いに立つレストハウスからのこの橋の眺めも見事の東沢大橋[川俣川渓谷]を訪れる。

1938年(昭和13)、ポール・ラッシュ博士が創設した、清里のシンボル的な建物。宿泊施設やレストラン、ソフトクリームやジャージー牛乳の乳製品を販売する売店がある。周辺は南アルプスから富士山まで展望できる牧草地で、牛が草を食むのどかな雰囲気。清里を開拓した博士の業績を紹介するポール・ラッシュ記念センター、隣接して八ケ岳の自然情報や動植物を展示する山梨県立八ケ岳自然ふれあいセンターも立つ清泉寮を訪れる。

ポール・ラッシュ博士の基本理念である「祈りと奉仕」の精神に従い、1948年(昭和23)にキープ協会のチャペルとして、また地域の福音伝道の拠点として建設された聖公会の教会。内部は全国でも数少ない畳敷きで、正面の聖所は、近くの川俣川渓谷から運び上げた石を積み上げて建てられたもの。日曜以外にも朝と夕方に聖鐘が鳴り礼拝が行われる清里聖アンデレ教会を訪れる。

19世紀末フランスのアール・ヌーヴォー様式のガラス工芸品を収蔵・展示している。必見はジョルジュ・デプレ作の『ラ・ヴァーグ(波)』。色ガラスの粉を混ぜ合わせ、型に詰めて焼き上げる、パート・ド・ヴェールという技法で、女性の淡い肌色と曲線を美しく表現している。ほかに、ドーム兄弟の『ななかまど』など、常時約200点を展示する清里北澤美術館を見学。

作品にあわせて設計された10の展示スペースで、ヨーゼフ・ボイスをはじめ、デュシャン、ジョン・ケージ、ライナーなど世界的な作家の作品を紹介。1960年代アメリカで起こった前衛芸術家運動、フルクサスの常設展示室は国内ではここのみ。展示内容に関連する音楽を流す、音の常設展示活動も特徴の一つ。見たり、聴いたり、現代美術をさまざまな視点で楽しめる清里現代美術館を見学。

草原に立つ絵本専門の美術館。展示室では国内外の絵本作家の原画を、約3カ月ごとに替えるえほんミュージアム清里を見学。

萌木の村内にあるオルゴール館。館内には自動演奏オルガンの「リモネール1900」をはじめ、貴重なオルゴール約250台を収蔵。そのうち常時70台を展示している萌木の村オルゴール館ホール・オブ・ホールズ[萌木の村]を訪れる。

八ケ岳南麓湧水群の一つで、「日本名水百選」にも選定されている。戦国時代、下流にある3つの村では水争いが絶えなかったという。そこで湧水口に三角の石柱を置き、平等に水を配分したことからこの名が付けられた。現在でも1日に8500トンもの清水が湧出し、農業用水として使われている。水温は年間を通じて約10度。夏はひんやりとして心地よい三分一湧水を訪れる。

0歳〜100歳のこどものこころへ。木の造形作家・松村太三郎と絵本作家・松村雅子が創り上げたネバーランドに通じる村。絵本の図書館と絵本原画や絵本の世界から生まれた木のインテリアアートを楽しめる美術館がある。マリオネットを使った人形劇や絵本ライブも上演するえほん村を見学。

ほのぼのとした作風で多くのファンを持つ童話作家、東君平の絵本や原画を展示。館内には氏が執筆活動をしていた部屋が再現され、毎日新聞で連載された『おはようどうわ』など、著作を自由に閲覧することができるくんぺい童話館を見学。

イギリスの19世紀の絵本画家、ケイト・グリーナウェイの作品をはじめ、欧米の絵本や絵本原画を約100点収蔵の小淵沢絵本美術館を見学。

「平和」をテーマに開館。M.コシチェルニアクの『聖家族』(アウシュヴィッツ収容所で描いたエッチング)や、ケーテ・コルヴィッツ『ピエタ』(ブロンズ彫刻)などを常設で展示。ウィルコンやスタシスなどの絵本原画も収蔵している小淵の森フィリア美術館を見学。

中央自動車道経由して諏訪方面に戻る。

7年に一度の諏訪大社御柱祭(次回は2010年)、冬の諏訪湖に生じる神秘的な氷の山脈・御神渡りや伝説など、諏訪の魅力を知ることができる。長野県宝・諏訪市指定文化財多数を含む、旧石器時代から昭和までの貴重な資料の展示のほか、映像や音響で分かりやすく紹介する諏訪市博物館を見学。

全国に1万以上の御分社をもつ諏訪神社の総本社。諏訪湖の南に上社本宮・前宮、北に下社秋宮・春宮があり、この4宮を諏訪大社と称する。このうち中央自動車道諏訪ICの近くにあり、貴重な建造物が最も多くの残るのがここ。祭神は建御名方神で、農耕や勝負、家内安全、弥栄の神として崇められている諏訪大社上社本宮を訪れる。

上社本宮から東南に約1.5km、八ケ岳や諏訪平を一望する茅野市宮川の高台にある。本宮の祭神・建御名方神が諏訪に入り、最初に居を定めた場所で、本宮の前身といわれている。こちらの祭神は、建御名方神の妃・八坂刀売神。毎年4月15日には、本宮から前宮へ御神輿の渡御が行われる上社第一の祭儀、御頭祭がし執行される諏訪大社上社前宮を訪れる。

本宮と前宮の間に立つ史料館。諏訪大社の神長官として、祭祀を司っていた守矢家に代々受け継がれている史料を展示している。なかでも諏訪大社に古代から伝わる御頭祭の神饌の復元展示は必見。そのほか、さなぎの鈴とよばれる鉄鐸などもある茅野市神長官守矢史料館を見学。

日本最大級のガラスミュージアムショップと、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、ガラス工芸コレクションの北澤美術館・新館が併設されている。館内には体験工房もあり、オリジナルのガラス作品を製作できるSUWA ガラスの里 北澤美術館新館を見学。

17:30上諏訪駅到達
18:49上諏訪駅出発
19:10塩尻駅到達
19:18塩尻駅ワイドビューしなので出発
21:20名古屋駅到達
21:35新幹線のぞみで名古屋駅出発
22:26新大阪到達

今回の旅行、大阪は猛暑、涼みに日本の中心に位置し海に面しない日本有数の山岳地帯の長野県に足を運び、7年に一度の大祭・諏訪大社御柱祭で盛り上がり、湖畔に大型宿が立ち並ぶ湯量の豊富な上諏訪と中山道の宿場町の風情が残る下諏訪のある諏訪エリア

蓼科高原から美ヶ原高原まで延びるビーナスライン、その周辺ではニッコウキスゲの花畑などダイナミックな自然を眺めながらドライブを楽しめる蓼科・霧が峰・車山・白樺湖・女神湖・美ヶ原エリア

清里寮周辺を中心に、高原らしい牧歌的な風景が広がり、高原リゾートとして名高い清里エリア

1泊2日で大自然の真っ只中の有名な高原リゾートのドライブ観光楽しめました。

夏場の避暑、信州はもってこいですね。
大自然の風景を見渡しながらのドライブ観光、心身共にリラクゼーション・体力造り・健康維持すばらしいです。

広い信州、他にも大自然が盛りだくさんです。北海道とは又違った地形、比較的近場で訪れやすい長野県、これからも頻繁に足を運びたいと思います。


















飛行機で国内&海外の観光地巡り第七十三弾:木曽路&伊那路観光
2009年9月12−13日


今回はかつての中山道で賑わった宿場町が点在する木曽エリア、桜で有名な高遠や駒ケ岳の千畳敷カールなど自然豊かな観光スポットがある伊那エリア等の南、中央、北アルプスの山脈にある木曽路と伊那路に足を運びました。

12日13:07新大阪新幹線のぞみで出発、名古屋到達後中央線快速で出発
15:03恵那駅到達。

恵那駅付近に平成13年9月にオープンした恵那市内在住の収集家田中春雄氏から寄贈された歌川広重の浮世絵版画などを所蔵しています。 恵那市には旧中山道が通り、かつてこの地域の代表的な宿場町として栄えた大井宿があります。その歴史的財産を活用しながら、芸術・文化の振興に役立てようとした中山道広重美術館を見学する。

レンタカーで中津川方面に向かう。

中津川には、中津川宿と落合宿があり、商業、文化面から木曽路との接点あるいは江戸と京都との接点としての重要な役割を果たしてきました。中津川市の歴史資料として重要な古文書、公文書等の記録類を継続的に収集・保存し、市民共有の記録遺産として永く後世に伝えるとともに、その収蔵資料を広く公開している中津川中山道歴史資料館を見学。

戦国時代から明治時代にかけて、この地方を12代に渡って治めた苗木遠山家の居城が苗木城。その城跡が残る丘の麓にあるのが、この史料館だ。苗木遠山氏は織田氏や武田氏と縁戚関係を結び、その後、徳川氏とも安定した関係を築いて、国替えもなくこの地方を治めた。城跡は、南に流れる木曽川を天然の堀とした小高い丘の上にあり、国の史跡に指定されている。館内では苗木領内における人々の生活ぶりなどがわかりやすく展示されている苗木遠山史料館を見学。

中山道を江戸から数えて45番目の宿場町として栄え、旅籠だけでも大小29軒を数える大きな宿場だった。現在、本町にある本陣跡地には、石碑が残されている。周辺には古い家屋も立ち並び、卯建のある家なども見ることができる中津川宿を散策する。

恵那方面に戻る。

日本初の発電用ダムとして、木曽川に建設された大井ダム。このダム湖が造り出した、人工の景勝地。四季折々の自然が楽しめ、風化によって造られた奇岩もみられる。今にも倒れそうな傘岩は、キノコ形をした、傘の周囲が約10mもある珍しい岩がある恵那峡を散策する。

恵那駅付近のホテル到達後、繁華街散策、食事を済ませてから床に就く。

13日5:30レンタカーで出発、天候は前日と一転して快晴、絶好の観光日和、馬籠方面に向かう。

中山道の難路、木曽路の最南端に位置し、宿場町として栄え、全長600mの石畳の坂道に沿って、軒の低い格子造りの家並みが宿場時代の面影を残す。明治28年の大火事により江戸時代からの建物は焼けてしまったが、町の人達の努力で、当時を彷佛させる町並みを復元された。文豪・島崎藤村の生まれ故郷としても知られ、名作「夜明け前」の舞台にもなった宿場町馬籠宿を散策する。

島崎藤村の生家で、馬籠本陣の島崎家跡。黒塗りの冠木門内の藤村記念堂は奈良朝の様式を取り入れた回廊式の建物で、藤村の肖像画や年譜を展示している。藤村の祖父母が使用した隠居所は、旧本陣の建物では唯一焼失をまぬがれた。階下のふるさとの部屋ではビデオを放映。敷地奥にある第二文庫では企画展を、第三文庫では常設展示を行う。藤村の著書や蔵書、夏目漱石からの書簡、『夜明け前』の原稿、愛用品などの資料を公開し、彼の一生を紹介している藤村記念館に寄る。
代々、馬籠の宿役人を務めた清水屋(原家)は、本陣島崎家と親交があり、藤村の小説執筆にあたっての覚書や、書簡、「是より北木曽路」の掛軸などを展示している。このほか、陶器や鏡、ランプなどの生活道具、陣羽織りなどの衣類と共に、清水屋に伝わる古文書、尾形光琳や富岡鉄斎作の掛け軸、絵画などもある清水屋資料館に寄る。

小説『夜明け前』に登場する桝田屋のモデルともなった、旧馬籠脇本陣蜂谷家跡に立つ。初代から4代までの覚書は、藤村が『夜明け前』を執筆する際に資料としたもの。館内では、蜂谷家伝来の家具や古美術品を展示している。大名が宿泊した上段の間も、忠実に復元されている馬籠脇本陣史料館に寄る。

藤村記念館の裏手、向かい側の丘にある島崎家の菩提寺は、1665年(寛文5)に創建された臨済宗の古刹だ。小説『夜明け前』には万福寺の名で登場している。境内には島崎家の墓地があり、墓石は藤村がデザインしたといわれている。藤村の父・正樹らの墓の一段上には、島崎春樹と記された藤村と、妻冬子、長男楠雄らの墓標が並んで立つ。遺骨は彼が晩年を過ごした神奈川県大磯の地福寺に埋葬されており、ここには遺髪と爪が納められている。また、藤村の『母を葬るのうた』の詩碑も立ち、円空作の聖観音像も本堂脇のお堂に安置されている永昌寺を訪れる。

馬籠宿の坂道を上りきった、中山道への入り口付近に立っている。江戸時代にはこの場所で木曽代官から庶民にふれ回す高札が掲げられていた。現在は、正徳年間(1711〜16)に発布された御朱印、切支丹、薬品などに関する定書と、1770〜94年(明和7〜寛政6)に発布された徒党禁止の定書が復元され、掲示されている馬籠宿高札場を見学。

妻籠方面に向かう。

中山道と車道が交わる標高801mの地点にある。馬籠宿からこの峠までは、木曽路の難路とされ、馬を宿に置いていったことが地名の由来だと伝えられる。峠の頂上には1891年(明治24)にこの地を訪れた正岡子規の句が刻まれた石碑が立っている馬籠峠を訪れる。

中山道の東側にある滝で、清々しい水の音が辺りの山林に響いている。水量の多い方が男滝、奥にある水量の少ない方が女滝だ。また、吉川英治著の『宮本武蔵』に登場し、武蔵とお通の恋物語の舞台にもなっている。滝壺に金の鶏が舞い込んだという倉科様伝説も興味深い男滝・女滝を訪れる。

中山道と飯田街道の分岐点に位置し、古くから交通の要所として栄え、昭和43年に町並みの保存が始められ、昭和51年に国の重要伝統建造物保存地区に選定される。全長約500mの町並みは、江戸時代にタイムスリップした感じで、どれも当時の面影を残し、懐かしさと郷愁を感じる情緒いっぱいの宿場町妻籠宿を散策する。

幕府が庶民に対し、禁制や法度、罪人の罪科などを示した掲示板。現在の官報掲示板に当たる。脇本陣奥谷から北に100m、江戸方面から宿場へ入る入り口付近にあり、江戸幕府の威信を示すためか人々を見下ろすような形で高札が掲げられている。現在見られる屋根付きの高札は、江戸時代の姿をそのままに復元した妻籠宿高札場を見学。

籠宿見学の中心となる施設で、南木曽町の歴史や生活、自然を紹介。現存する脇本陣奥谷と復原された妻籠宿本陣、歴史資料館の3館で構成される南木曽町博物館に寄る。

南木曽町博物館のひとつ。妻籠宿の脇本陣・造り酒屋であった林家の屋敷で、「奥谷」とは林家の屋号。現在の建物は木曽五木の禁制が解かれた明治10年(1877)に建築され、総檜造り。当時の粋を集めて建てられた。島崎藤村の初恋の人「おゆふさん」の嫁ぎ先でもあり、敷地内の土蔵には肖像画や愛用品、藤村から送られた書などゆかりの品が展示されている脇本陣奥谷に寄る。

南木曽町博物館のひとつ歴史資料館は、南木曽町で出土した縄文時代の土器、山仕事に使用されていた民具など約200点の資料を展示。原始から近現代までに渡る自然や生活の変遷を紹介。全国にさきがけて実施した町並み保存に関する資料も必見の歴史資料館に寄る。

木曽町博物館のひとつで、宿駅が制定されてから代々妻籠宿の本陣・庄屋を務めた島崎家の邸宅。藤村の母ぬいの生家でもある。明治20年代に一度取り壊されたが、江戸時代後期の間取り図を元に再建された。島崎家の居住と、大名が泊まった御上段の間や家来が使った部屋まで、往時の姿のまま忠実に復原されている妻籠宿本陣に寄る。

籠の町に溶け込む木造建築の風情ある妻籠郵便局。その内部に小さな史料館が併設されている。1871年(明治4)から現在までのポストの模型が並べられ、その変遷が一目で分かる。昔の郵便物、配達夫の服装や持ち歩いた逓信ラッパなども展示されている郵便史料館に寄る。

桝形とは、宿場の出入り口に必ず設けられた直角に折れる道。かつて幕府により防塞施設としての役割も担わされていた宿場は、街道を2度、直角に折り曲げて外敵の侵入を防いだという。妻籠の桝形は、観光案内所から下嵯峨屋までの70mの間にあり、当時の形がくっきりと分かる姿で保存されている桝形跡を訪れる。

央の土間を挟んで両側に部屋が並ぶ、珍しい中土間形式の造りで、民家の歴史上貴重な建物。建築当初の形式をよくとどめている。旅人が集ったであろう囲炉裏のある板敷きの部屋もあり、庶民の旅籠だった当時の雰囲気がうかがえる上嵯峨屋を訪れる。

長屋だった建物の一軒分だけを1968年(昭和43)に解体、建造当初の姿に復元された。片土間に並列二間取の形式をそのまま留めた、妻籠における庶民の典型的な家屋だ。内部には蓑や籠などの生活用具が置かれ、江戸時代の庶民の暮らしをうかがい知ることができる下嵯峨屋を訪れる。

上松方面に向かう。

葛飾北斎や安藤広重の浮世絵にも描かれた滝。木曽八景の一つにも数えられる。高さ30m、幅10m、滝壺の脇には不動尊の御堂と石碑、常夜灯が立っており、御嶽信仰の行者にとっては水行の場でもあった。滝の背後に控える風越山も、木曽八景風越の青嵐として知られる名山の小野の滝を訪れる。

国道19号のすぐ近く、寝覚の床を見下ろすように立つ臨済宗妙心寺派の寺。浦島太郎が変わり果てた自分の姿をなげいて旅立ってしまったが、後に残されていた弁財天の像を祭ったのが開基の由来という。境内には松尾芭蕉、正岡子規、種田山頭火の句碑、姿見の池などがあり、奥の降り口から寝覚の床への近道が通じている臨川寺を訪れる。

約1.5kmにわたり、奇岩が続く景勝地(名勝)。木曽川の急流が花崗岩の岩盤を浸食したもので、古くから木曽路を行く旅人たちが必ず足を止め、眺めたといわれる。それぞれの岩は、形になぞらえ屏風岩・烏帽子岩・象岩・獅子岩などの名が。表面にできた縦横の割れ目(方状節理)や甌穴(ポットホール)は、地質学的にも貴重なものとされている。龍宮城から戻った浦島太郎がここで玉手箱を開け、300歳の老翁になり、夢から覚めたという伝説からその名が付いた寝覚の床を散策する。

信州木曽路の西部に位置し、樹齢300年を超える木曽ひのきの天然林で構成されています。開園から30年を迎え、また昭和57年には第1回の森林浴大会を開催。平成13年には、環境省かおり風景100選の選定を受けました。さらに、園内には木曽の山林で活躍した森林鉄道が保存されています。森林鉄道記念館には、当時運行されていた機関車や客車を展示、開園期間中は土曜・日曜・祝日を中心に森林鉄道を運行しています。かつて森林の中を走った情景を、天然林の中で気軽に体験できます赤沢自然休養林を散策する。

開田高原方面に向かう。

村の水田開墾の歴史や産業、生活、動物について紹介している。絶滅しかけた木曽馬の最後の純血種雄馬として多くの子孫を残した、第三春山号のはく製を展示する木曽町開田高原郷土館を見学。
天然記念物に指定された木曽馬1頭がいる乗馬スポット、ここでは19頭の木曽馬で乗馬が出来、馬場からは御嶽山を見渡せる木曽馬トレッキングセンターを訪れる。

木曽福島方面に向かう。

木曽氏と山村氏の菩提寺で、木曽三大寺の一つ。1434年(永享6)に、木曽家12代信道が、先祖である木曽義仲のために建てた寺。平安末期の古代様式を見せる勅使門、奥正面には観音堂と木曽檜造りの本堂がある。観音堂脇には義仲が植えた2代目の時雨桜があり、また、境内左手には4つの庭園と、江戸時代の漆器などが展示された宝物殿がある興禅寺を訪れる。

興禅寺境内の北東に位置する。木曽義仲は1184年(寿永3)、源義経らの軍勢に敗れ31歳でこの世を去った。この墓には死の直前、義仲が巴御前に託した遺髪が納められている木曽義仲の墓を訪れる。

福島関所の関守を務め、木曽代官も兼務していた山村氏の屋敷の一部を所蔵品と併せて公開。当時の屋敷は隣接する福島小学校の敷地一帯に広がっていたが、現存するのは下屋敷の一部だった城陽邸と付属の庭園、本邸の石垣の一部のみ。城陽邸は1723年(享保8)に再建された建物で、書院造の座敷を中心とした数室からなる。その一室には山村家の守り神、木やりを唄うキツネ・お末社様とよばれ崇拝されたキツネのミイラが祭られている。山村家家臣の漢学者・石作駒石の書斎翠山楼も敷地内にある山村代官屋敷を訪れる。

奈良井方面に向かう。

1991年に奈良井川に架けられた太鼓型の橋は、樹齢300年以上の天然木を使った贅沢な総檜造り。橋脚を持たない木製の橋としては日本有数の大きさを誇り、長さ33m、幅6.5m、水面からの高さは7mもある奈良井木曽の大橋をわたり奈良井宿に向かう。

木曽路の難所、鳥居峠を越える旅人が足を休めた宿場町。奈良井千軒と呼ばれ、木曽路十一宿の宿場の中でも一番の賑わいをみせた。度重なる火災に見舞われたが、江戸時代(天保年間以降)の建造物が多く残り、町並み全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。奈良井駅から南へ、千本格子の町並みが1kmほど続く奈良井宿を散策する。

1602年(慶長7)から約270年間、幕府の定めた伝馬と人足を管理運用する問屋を勤め、時には庄屋も兼務した手塚家の住宅。1840年(天保11)建築の館内は、間取りに問屋の造りをとどめ、当時の様子を今に伝える。明治天皇が使用した茶器など約300点余りの諸道具、100点余りの古文書などを展示する上問屋史料館を見学。

間口が狭く奥行きがある出梁造が特徴の、奈良井の代表的民家。塗櫛の創始者中村利兵衛の屋敷として、天保年間(1830〜44)の大火直後に建てられた。雨戸の役目を果たす蔀戸をはじめ、防火壁として設けられた袖壁、猿頭をあしらった鎧庇、情緒ある千本格子や潜り戸など、独特な造りがそのまま残る。屋内は、通り土間が裏まで続き、店、吹き抜けの勝手、中の間、座敷、箱階段などが見られる中村邸を見学。

東の伊那エリア、高遠方面に向かう。

武田信玄の命により高遠城が改築されたのは、天文16年(1547)のこと。武田流の戦略を考え合わせ、進歩した築城技術で築かれた名城だったが、明治5年(1872)になると民間に払い下げられ、城は撤去されてしまう。明治8年(1875)頃から桜が植え始められ、その後次第に拡張して現在の公園となった。5万4000平方mの敷地内に1500本以上のコヒガンザクラが植えられ、4月中旬の満開の時期を迎えると「天下第一の桜」と賞された桜を一目見ようと遠方からも多くの観光客が訪れる高遠城址公園を散策する。

駒ヶ根方面に向かう。

中央アルプスの主峰・宝剣岳の南東斜面を氷河がえぐった、すり鉢状の圏谷(カール)。麓のしらび平から千畳敷までは、ロープウェイで高低差950mを7分30秒のスピードで駆け上がる。終点から遊歩道が整備されていて、1周50分ほどのハイキングが楽しめる。7月中旬〜8月上旬にはチングルマやイワカガミなど200種類もの高山植物が咲き乱れ、9月下旬になればナナカマドなどの鮮やかな紅葉が目を楽しませてくれる千畳敷カールを散策する。

氷河によって削られたカール地形に山の湧き水が流れ込んでできた小さな池。夏のわずかな期間のみ水が溜まって池になる。透明な水面に映し出される宝剣山は見事なまでに美しく、千畳敷カールの隠れた名所として写真スポットにもなっている剣ケ池を訪れる。

駒ヶ根インターから中央高速経由して中津川インター下車

18:00恵那駅到達
18:24快速で出発
19:35名古屋駅到達
19:45名古屋駅新幹線のぞみで出発
21:35新大阪到達。

今回の旅行、岐阜県と長野県にわたっての観光名所の多い木曽路と伊那路の広い範囲でのドライブ観光。

木曽川を堰きとめたダム湖に広がる景勝地恵那峡の散策。
中央アルプスと北アルプスに狭まれたV字谷の木曽谷の山中に江戸時代の面影を残している3つの宿場町、馬籠・妻籠・奈良井の散策。
全国に先駆けて森林セラピー基地に認定された天然ヒノキの森、赤沢自然休養林の散策と森林鉄道での森林との触れ合い。
開田高原での日本在来種で天然記念物の木曽馬の出会いと、ここからの険しい山頂が特徴的な木曽谷の霊峰、御嶽山の眺望。
季節はずれの訪れですが、中央・南アルプスに囲まれた伊那谷の桜の名所、桜は城址公園一帯に集中して植えられ遠くから見ると山全体がまるでピンクの雲海のように見えるといわれる高遠城跡公園の散策。
木曽路と伊那路の間にそびえ立つ山脈の中央アルプスの最高峰・木曽駒ケ岳と並ぶ宝剣岳直下の谷間にある千畳敷カールの散策。
一泊二日の旅、堪能しました。

観光名所の多い、有名な木曽路と伊那路の旅、今回のコースもかなりお勧めです。
大自然と江戸時代のタイムスリップに接し、強行スケジュールですがなかなか満足できたドライブ観光旅行でした。