三重

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十七弾:三重県お城・城下町巡り&小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2018年12月1−2日
 

観光資源が豊富で、F1が開催される鈴鹿サーキットをはじめ忍者発祥の地と言われる伊賀エリアなど魅力あるスポットが数多く存在する。お伊勢参りで有名な伊勢神宮には国内外から多くの参拝者が足を運び、横丁ではグルメも楽しむことができ、複合リゾート施設志摩スペイン村やナガシマスパーランドなどレジャースポットも豊富な三重県に足を運び、三重県に点在する比較的マイナーなお城9か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所を訪れました。

1日12:30車で伊賀方面に向かう。

伊賀上野:伊賀エリアのおすすめご当地情報をご紹介。伊賀エリアには薬師寺、上野公園、赤目四十八滝などの観光スポット、上野天神祭、伊賀焼陶器まつり、名張川納涼花火大会などの観光イベント、赤福、いちご大福、てこね寿司などのご当地グルメがあります。
伊賀上野は、三重北西部に位置し、忍者の里として知られ、奈良街道と伊賀街道の要所であり、宿場町として栄えました。上野城の城下町としても栄えました。東京にも似た名があるため、伊賀上野と呼ばれています


丸山城:丸山城は「天正伊賀の乱」の要因となった城です。北畠氏の養子となった織田信雄(北畠信意)は1578年(天正6年)、伊賀の領国化を図るために重臣の滝川雄利に命じて丸山城を築かせましたが、これに反発した伊賀の国人たちによって攻められ、一揆軍に占領されました。その後、第一次、第二次と二度にわたる伊賀侵攻の末、伊賀を完全に領国とし、雄利を再び城主としました。雄利が松ヶ島城に移った頃に廃城となったと思われます。城址は伊賀随一と評されるほどの規模で、削平した曲輪跡をはじめ、土塁や堀切などの遺構が良好に保存されています。また本丸跡にある天守台上には、大正時代に建立された丸山城址の石碑があります。

名張城:天正13年(1585年)松倉勝重によって築かれた名張城が始まりとされる。 上野に転封となった筒井定次は家臣松倉勝重に八千石を与え名張城を築かせた。 天正15年(1587年)松倉重政は家禄を捨て定次との主従関係を切り奈良興福寺成自院に入った。これは酒食に溺れる定次を勝重・重政が父子が諌言したが聞き入れられなかった為ともいわれるが定かではない。
重政は後に豊臣秀吉、徳川家康に仕え肥前国島原六万石を得た。
寛永12年(1635年)伊予国今治から藤堂高吉が領地替えで名張に入り陣屋を築いた。 名張藤堂家は独立した大名とはなれず、伊勢国津の藩内領主という位置付けであった。

霧山城:康永元年・興国3年(1342年)北畠顕能によって築かれたと云われる。
北畠氏は村上源氏で京の北畠に居住した公家であったが、建部3年・延元元年(1336年)後醍醐天皇が吉野山に遷幸の時に北畠親房が南伊勢に下向し、玉丸城を拠点として勢力をのばした。
足利氏はこれに対して幾度となく玉丸城を攻撃し康永元年に落城、顕能は多気郡に逃れた。その後、南北朝の合体や後小松天皇譲位による南北決裂などもあったが、南朝方は次第に勢力を削がれ北畠氏も一守護大名となっていった。
永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると、北畠具教は大河内城に籠城し抵抗したが、やがて信長の次男信雄を北畠の養子として家督を譲ることで和解した。具教は三瀬館に潜み信雄に対抗しようとしたが天正4年(1576年)信雄の命によって暗殺された。

18:00多気市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
2日7:30車で出発。

伊勢:古くから「日本人の心のふるさと」として親しまれてきた伊勢神宮。広大な森林の澄んだ空気に心が洗われます。昔町めぐりも魅力的。敷地の広い伊勢神宮は、時間をかけてゆっくりとめぐりましょう。古くからの習わしでは、外宮を参拝してから内宮を参拝します。両宮ともに「御正宮(ごしょうぐう)」→「別宮(べつぐう)」の順にお参りを。
参拝後は、お伊勢さんの門前町「おはらい町」散策へ。川沿いの石畳にレトロなお店が軒を連ね、昔懐かしい町並みを楽しめます。そして賑やかなのが「おかげ横丁」。老舗和菓子店や、名物・伊勢うどんを食べられる店、和風の可愛い雑貨屋さんなど、入ってみたいお店がいっぱい!


松坂:江戸時代に商業の町として栄え、豪商のまちとなった松阪。今も城跡や武家屋敷が残り、レトロな風情が町並みに漂います。
松阪もめんの粋な着物姿で散策してみるのもおすすめ。本場の松阪牛は逃せません。

松ヶ島城:永禄10年(1567年)頃、北畠具教が築いた細首城が始まりと云われる。 具教は織田信長の侵攻に備え家臣日置大膳亮に守らせた。 永禄12年(1569年)の織田軍の侵攻では日置大膳亮は細首城を焼いて大河内城に籠城した。 信長の次男信雄が北畠氏の養子になり家督を継ぐことで和議が成立すると信雄は田丸城を築きこれを本拠とした。 しかし田丸城が焼失すると細首城を改修し松ヶ島城と改名した。 本能寺の変の後は羽柴秀吉によって蒲生氏郷が入城したが氏郷は新たに松坂城を築いて本拠を移したため廃城となった。

木造城:貞治5年・正平21年(1366年)木造顕俊によって築かれた。 顕俊は北畠顕能の次男で木造城を築き木造氏を名乗った。 二代目の俊康は京都に住み足利将軍と親しかった為、本家北畠氏の南朝と対立した。
永禄12年(1569年)織田信長の南伊勢侵攻によってそれに従い信長の次男信雄が北畠氏の養子となり家督を嗣ぐことで和解した後は、それに従った。

上野城:織田信長の弟、信包が、津城の仮城として1570年に改修築城した伊勢上野城。お市にとっては兄である信長に攻められ、浅井長政(お市の夫、三姉妹の父)が自害した後、信長の計らいにより、お市と三姉妹が移り住んだお城です。江は0歳から7歳までを過ごしました。その後、廃城となり、後に津藩主、藤堂高虎により取り壊され、現在は城郭の跡のみ残っています。
標高38mの伊勢街道沿いの台地に造られたこの城からは、伊勢湾や鈴鹿連峰が一望でき、展望台となった今でも当時の景色が偲ばれます。

神戸城:築城年代は定かではないが天文19年(1550年)頃に神戸具盛によって築かれたと云われる。 神戸氏は伊勢平氏関氏の一族で、関盛政の長子関盛澄が鈴鹿郡と河曲郡内二十四郷を領し、沢城を築いて神戸氏の祖となったと云われる。
永禄10年(1567年)神戸友盛のとき、織田信長の家臣滝川一益の侵攻を受けたが、高岡城に籠もった山路弾正がこれを凌いだ。翌11年(1578年)にも織田氏が攻め込み、神戸友盛は信長の三男信孝を養子として迎えることで和睦となった。
元亀2年(1571年)信長は神戸友盛を沢城に隠居させ、信孝を神戸城主に据えた。その後、友盛は近江の蒲生氏に預けられたが、これに反発した山路弾正らは神戸城奪還のために高岡城で挙兵しようと画策したが、計画が発覚して弾正は切腹となり、高岡城には小島兵部が置かれた。

正8年(1580年)神戸信孝は神戸城を拡張して五重の天守を設けた。 天正10年(1582年)信孝は四国攻めの総大将として堺にて渡航の準備をしていたが、本能寺の変が勃発して中止となり、秀吉に合流して明智光秀を討った。その後、信孝は岐阜城に移り神戸城には小島兵部が入った。信孝はその後、賎ヶ岳合戦に際して柴田勝家と結んで岐阜城で挙兵したが、羽柴秀吉によって岐阜城が攻められ降伏して開城し、知多の野間大坊で自刃した。
天正15年(1587年)水野忠重が三河国刈谷より移ったが、文禄元年(1592年)再び三河国刈谷に移り、滝川雄利が城主となった。

関:関宿は、古代から交通の要衝で、日本三関の一つ「鈴鹿関」が置かれ、江戸時代には東海道五十三次47番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々で大変賑わいました。そして現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、江戸時代から明治時代に建てられた古い町家が200軒あまり残っており、往時の姿を色濃く残していることから昭和59年に東海道の宿場町としては唯一国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。

峯城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)に関盛忠の五男峯政実によって築かれたと云われる。
峯氏は政実以降六代続いたが、天正2年(1574年)峯八郎四郎盛祐が伊勢長島の合戦で討死すると弟与八郎が幼小であったため、岡本下野守が峯城主となった。
天正11年(1583年)滝川一益の家臣滝川儀太夫益重によって攻められ峯城は落城するが、羽柴秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に兵糧が尽きて儀大夫は開城した。この戦いの後、織田信雄の家臣佐久間正勝が入城した。
天正12年(1584年)秀吉と信雄が対立すると、小牧・長久手合戦の前哨戦として秀吉は蒲生氏郷、関長門守などに命じて峯城を攻めさせ、わずか数日で落城した。

長嶋城:寛元3年(1245年)藤原道家によって築かれたのが始まりとされる。 文明年間(1469年〜1487年)伊藤重晴が再び築城した。
元亀元年(1570年)一向宗願証寺の門徒が長島城を攻めて伊藤氏を滅ぼした。 更に一向宗は矢田城の滝川一益を追って、織田信長の弟興長を自刃される。
元亀2年(1571年)織田信長は大軍をもって長島城を攻めるが落とせず、退陣で殿を勤めた氏家卜全が討死した。 天正2年(1574年)三度目の長島城攻略によって落とすと、滝川一益を城主として北伊勢を領した。
天正11年(1583年)滝川一益は柴田勝家に味方して羽柴秀吉に敵対するが、勝家が秀吉によって滅ぼされると一益もまた攻められ、所領を没収された。その後は、天野景俊、原胤房、福島正頼が城主となる。
・慶長6年(1601年)福島正頼は大和国宇陀に転封。
・慶長6年(1601年)上野国阿保より菅沼定仍が二万石で入封、元和7年(1621年)定芳の時、近江国膳所に転封。
・慶安2年(1649年)下野国那須より(久松)松平康尚が一万石で入封、元禄15年(1702年)忠充の時、除封。
・元禄15年(1702年)常陸国下館より増山正弥が入封、以後明治に至る。

16:00帰路に向かう。

今回の旅行、三重県に足を運び三重県に点在する比較的マイナーなお城9か所、小京都重要伝統的建造物群保存地区4か所をおとずれ楽しみました。

比較的地味な城跡、何回か訪れたことのある小京都重要伝統的建造物群保存地区(伊賀上野、伊勢、松坂、関)訪れ今回で兵庫の城跡のみとなりました。


















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十四弾:三重県お城・城下町巡り観光
2017年11月18日−19日
 

東海地方で南北朝時代に大納言・北畠親房が伊勢国に向かい、南朝の勢力を強めるために奮闘し、南北朝の和議が成り立ったあとは、北畠氏をはじめ、長野氏、関氏のほか、北部の地侍北勢四十八家が戦いを繰り広げた三重県に足を運び、三重県に点在する比較的マイナーなお城7か所を訪れました。

18日16:00車で出発、第二京阪京滋バイパス新名神伊勢自動車道経由して松坂インター下車。
18:30松坂駅前のホテル到着後?華街を散策し就寝。
19日7:00車で出発、お城巡り

赤木城:赤木城は赤木川の北岸にある標高230mの丘陵に築かれている。現在は国指定史跡となり、以前よりも更に良く整備されており、自然と石垣が織りなす絶景を堪能することができる。

比高30m程の丘陵に築かれた城で総石垣造りで、最高所の主郭を中心に南の谷間にある南郭を挟んで東西両尾根に東郭と西郭、北に北郭を設けている。

主郭はやや歪んだ方形で高石垣が巡り南東隅に枡形虎口を開く。南西隅と北端に張り出しがある。東郭は中央に虎口があり、伝鍛冶屋敷からの入口となる。北尾根は堀切が一条ある。

五ヶ所城:築城年代は定かではないが康永年間(1342年〜1345年)頃に愛洲氏によって築かれたと云われる。 愛洲氏の出自については諸説あるが清和源氏武田氏の流れを汲むとされる。

南北朝時代愛洲氏は南朝方として北畠氏に属し、大永7年(1527年)愛洲弾正親忠は家督を国忠に譲って玉丸城へ移り、北朝方と戦った。

天正4年(1576年)田丸城主で北畠氏の養子となった織田信長の子信雄によって攻められ愛洲氏は滅亡したという。

波切城:貞治2年・正平18年(1363年)頃に九鬼隆良によって築かれたと云われる。 九鬼氏は隆良の時に波切の川面氏の養子となり紀伊国九鬼城より移ったという。

隆良には嫡子ができず、和具城主青山氏より養子を迎え隆基と名乗った。隆良より四代の九鬼泰隆の時に田城城へ移って居城としていた。隆良の孫にあたる九鬼嘉隆はこの波切城で生まれたと云いう。

九鬼氏は志摩十三地頭の一人であり、互いに盟約を結んでいたが不可侵条約の無視が次第に目立つようになり、伊勢国司北畠氏の助けを得た志摩七党が波切城に攻め寄せ、嘉隆は海路伊勢の安濃津へ逃れた。滝川一益を介して織田信長に接近した嘉隆は永禄12年(1569年)信長が北畠氏の居城伊勢国大河内城を攻めた時、志摩へ戻って志摩七党を敗って、田城城を取り戻して居城とした。

鳥羽城:中世に橘氏の居館があったとされ、永正年間(1504〜1521年)橘忠宗の時に伊勢国司北畠材親に降り志摩国二郡を与えられ取手山砦に居城を移したという。

鳥羽城は文禄3年(1594年)九鬼嘉隆によって築かれた。 嘉隆は波切城主であったが、伊勢国司北畠氏の助けを得た志摩七党に攻められ、海路伊勢の安濃津へ逃れた。ここで滝川一益を介して織田信長に接近し、永禄11年(1568年)織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出し、小浜城主小浜久太郎、浦城主浦豊後守を攻め落とすと、鳥羽城主橘宗忠も娘を人質として降伏した。嘉隆はこの娘を妻に迎えている。 その後も和具城・越賀城などを攻略して志摩を平定した。

九鬼嘉隆は織田信長に属して水軍を率いて各地を転戦し、本願寺攻めでは毛利水軍を敗るなど活躍して、信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、朝鮮の役にも出兵した。

慶長2年(1597年)嘉隆は家督を守隆に譲り隠居し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では、守隆は東軍に属して桑名城攻めで戦功を挙げたが、父嘉隆は西軍に属して鳥羽城を占拠し立て籠った。西軍が敗れた後は鳥羽城を脱して和具の洞仙庵に入った。守隆は徳川家康に父嘉隆の助命を嘆願して許されたが、この使者が到着する前に嘉隆は自害して果てた。関ヶ原合戦の功によって加増を受けた守隆は五万五千石を所領となった。

田丸城:建部3年・延元元年(1336年)北畠親房によって築かれたと云われる。 南北朝時代は玉丸城と呼ばれ南朝方の北畠氏の愛州忠行が城主で養子政勝の時に玉丸と名乗った。

天正3年(1575年)北畠信雄は大河内城を廃し田丸城に本拠を移し三層の天守を上げたが、天正8年(1580年)放火により焼失し再建することなく、松ヶ島城を築いて移った。

天正12年(1584年)蒲生氏郷が松ヶ島城に入封すると、氏郷の妹婿となっていた玉丸直昌が再び田丸城主となった。 氏郷が会津若松城に移封となると直昌も三春城主として移った。

その後は稲葉道通が城主となったが元和元年(1615年)摂津国中島に転封となり、田丸城は津城主藤堂高虎の預るところとなったが、御三家の一つ紀伊国和歌山藩が興されるとその所領となり家老久野氏が城主となった。

大河内城:応永22年(1415年)北畠顕雅によって築かれたと云われる。 伊勢国司北畠満雅は弟顕雅をこの地に配して北朝方の攻撃に備えた。

永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると伊勢国司北畠具教がここを本拠として信長軍と対峙した。 具教は籠城の末、信長の次男信雄を養子に向かえ家督を譲ることで和議を結び、三瀬館に隠居した。

信雄は家督を嗣ぐとここを本拠としていたが、天正3年(1575年)田丸城を改修し本拠を移して大河内城は廃城となった。

阿坂城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)に北畠満雅によって築かれたと云われる。

正長元年(1428年)小倉宮聖承(小倉宮)は皇位継承に不満を抱き、伊勢国司北畠満雅を頼って嵯峨より伊勢に落ちると、北畠満雅は鎌倉公方足利持氏とともに挙兵した。 満雅は阿坂城を築いて足利将軍の軍勢を迎え撃つと、幕府軍は城を包囲して水の手を切った。このとき籠城軍は白米を馬の背に流して水があるように見せかけ、幕府軍を欺いたことから白米城とも呼ばれる。

永禄12年(1569年)織田信長が大河内城の北畠具教を攻めたさいには、重臣大宮入道含忍斎が阿坂城に籠もっていたが、織田の家臣木下藤吉郎らに攻められて落城した。

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、東海地方の三重県に足を運び、比較的マイナーなお城7か所をおとずれ楽しみました。
今回の城跡、立派な城跡が多く、丘城ほとんどで、石垣がしっかり残っていました。
十分見る価値があります。










三重県伊勢志摩離島観光観光
2012年7月18日
 

風光明媚なリアス式海岸が有名な三重県伊勢志摩に足を運び、島の離島で賢島に次ぐ面積の大きな間崎島、周囲約7km、面積は約0.7平方キロメートルを持ちリアス式海岸の湾のひとつ的矢湾の奥に位置し、的矢湾深部の外海から隔てられた島の西側海域は波が穏やかな海面となっている。そのため古くより荒天時の避難場所・風待港として使われていた渡鹿野島を訪れました。

9:00車で第二京阪京滋新名神伊勢自動車道経由して
12:10賢島港到達
12:40賢島港出発、高速艇で間崎島に向かう。
12:50間崎島到達、散策する。

英虞湾の中央部に浮かぶ島で、賢島から定期船で15分である。周囲は7.4km、島民の多くが真珠養殖業を営んでいる。この島は普通の離島と違った雰囲気を持っている。近隣の離島は、概して貧しく、港の付近に小さな家が密集しているが、ここではどこもゆったりしていて、奥深くまで大きな家が建っている。これが真珠の恵みを受けた、豊かな島だったかららしい間崎島を訪れる。

13:15間崎島高速艇で出発
13:25賢島到達、渡鹿野島渡船乗り場に向かう。
14:05渡鹿野島渡船乗り場到達
14:30渡鹿野島渡船乗り場渡船で出発
14:37渡鹿野島到達、散策

古くは伊雑宮の神領であったとも言われ、江戸時代には、江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が増えたこともあり避難・風待をする港としての重要性が高まった。船乗りなどのための宿のほか、風待ちの船乗りを相手とした、把針兼と言われた水上遊女なども集まり、遊郭街としても大いに栄え女護ヶ島といった別名を持つこととなった渡鹿野島を散策する。

15:05渡鹿野島渡船で出発
15:12渡鹿野島渡船乗り場到達、車で岐路に向かう。

今回の名所めぐり、三重県伊勢志摩の離島、島民の多くが真珠養殖業を営んでいる間崎島、江戸時代には、江戸と大坂を連絡する菱垣廻船・樽廻船が避難・風待をする港としての重要性が高まり船乗りなどのための宿のほか、風待ちの船乗りを相手とした、把針兼と言われた水上遊女なども集まり、遊郭街としても大いに栄え女護ヶ島といった別名を持つこととなった渡鹿野島を訪れました。





飛行機で国内&海外の観光地巡り第百六十弾:三重県鳥羽離島巡り
2011年9月22−23日


三重県に足を運び、豊かな海の幸、人々の笑顔、ゆっくり流れる時間、都会では忘れられた昔ながらの生活が色濃く残っている鳥羽湾に浮かぶ大小さまざまな4つの離島(坂手島、答志島、菅島、神島)を訪れました。

22日20:00車で出発、第二京阪伊勢自動車道経由して
22:00鳥羽内のホテル到着、就寝。
23日6:15車で出発
6:30鳥羽佐田浜港到達
6:52定期船で佐田浜港出発
7:02坂手島坂手港到達

佐田浜港の600m沖に浮かぶ小島。初夏に咲き乱れるカキツバタの群生と対岸の鳥羽市街の夜景が美しい坂手島を散策する。

5月中旬〜6月下旬に約2000株もの紫色のカキツバタが咲き誇り、訪れる人々を楽しませてくれるあやめ池を訪れる。

鳥羽湾に浮かぶ坂手島にあり、九鬼家ゆかりの書簡や伊勢神宮ご用達の船の旗などが納められている林昌禅寺を訪れる。

7:42坂手港定期船で出発
8:23答志島答志港到達

東西6km、南北3kmの長細い島。湾内では面積・人口とも最大の島で、観光イベントも人気を集めている。答志・和具・桃取の3つの集落は約4kmの答志島スカイラインで連絡。海水浴・釣り・温泉など、さまざまな過ごし方ができる答志島を散策する。

美多羅志神は五男三女の子をもつ神様で、子授けのご利益があるとされている。夫婦で参拝してつがいのアワビを奉納すると、美しい瞳の子供が授かるといわれている美多羅志神社を訪れる。

戦国時代に水軍の将として活躍した九鬼嘉隆は、関ケ原の合戦に敗れて答志島に逃走し、自刃する。「鳥羽城の見える地に」との遺言に従い、首は岬の頂上に、胴は麓に葬られた。首塚の石碑、胴塚の五輪の塔は、県の文化財に指定されている首塚・胴塚を訪れる。

9:50答志港定期船で出発
10:28佐田浜港到達
11:50佐田浜港定期船で出発
12:08菅島菅島港到達

標高237mの島の山頂は紅ツゲに覆われ、寒風の吹く季節になると美しく紅葉。現存する日本最古のレンガ造りの洋式灯台・菅島灯台へは遊歩道が延びている菅島を散策する。

1873年(明治6)に、イギリス人技師ブライトンの指導で建てられた総レンガ造りの洋式灯台。当時この地方ではあまりなじみのなかったレンガを、阿児町の瓦職人が苦心して焼いたとか。灯台内の見学はできないが、現在も海上の安全を守り続けている菅島灯台を訪れる。

14:20菅島港定期船で出発
14:45神島到達

鳥羽と愛知県の伊良湖岬の間にあり、三島由紀夫の小説『潮騒』の舞台となった島として有名。1周約4kmなので、半日あれば小説に登場するスポットを巡ることができる。小説を片手に、素朴な町並みを歩きたい神島を散策する。

海で働く人々の守り神、綿津見命を祭る神社。三島由紀夫の小説『潮騒』の冒頭、主人公の新治が一気に駆け上がった214段の石段を上がりきれば、境内を囲む松林の向こうに海の景色が広がっている八代神社を訪れる。

1910年(明治43)に建てられた純白の灯台で、今も伊良湖水道の安全を守り続けている。内部の見学はできないが、渥美半島・篠島・佐久島・日間賀島に加え、はるか知多半島まで見渡すことができる神島灯台を訪れる。

旧日本陸軍が、砲弾の着弾地点を観測するために建てられた建物。コンクリートの無骨な造りだが、三島由紀夫の小説『潮騒』では新治が炎を飛び越えて初江を抱擁するクライマックスシーンの舞台となった。内部は自由に見学できる監的哨跡を訪れる。

ニワの浜を見下ろす岸壁にそびえる岩で、雪山のような隆起が美しい。石灰岩が海風や雨水に侵食されてできた一帯のカルスト地形は、市の天然記念物に指定されている。この一帯は海鳥の姿も見られるので、静かに見学したい神島不動石を訪れる。

椎名誠の随筆に描かれた、島の南西部に広がる美しい砂浜。海は一見穏やかそうだが、かなり潮の流れが速いので、浜辺で波とたわむれるか、釣りなどを楽しむ程度にしたい古里の浜を訪れる。

15:45神島港定期船で出発
16:40佐田浜港到達、車で帰路に向かう。

今回の旅行、近場の三重県鳥羽の4つの離島を訪れ、時間を過ごしました。

都会に近い離島でもあり人口、民家は比較的多いが観光名所は少ない。
唯一三島由紀夫の小説潮騒の舞台となった神島は、小説潮騒のゆかりの場が点在して見るべきものがありました。

1日で船便の時間の都合もあり、各島ゆっくり時間を取ることが出来ず、不十分な名所巡りとなりましたが、比較的時間の取れた菅島は島一周を巡る事ができました。
港から反時計回りで大山の山頂までは広い遊歩道でしたが、山頂から港までは道が狭く、又ジャングルのように木にはさまれ所々くもの巣が張り、くもの巣を掃いのけながら通過しました。

近場の4つののどかな離島巡り、都会の雑踏から離脱でき満喫しました。










三重県松坂&奥伊勢観光
2011年4月20日


伊勢湾と熊野灘に囲まれ東海と近畿の接点の地、三重県に足を運び、江戸時代には、勢州18万石を統括する紀州藩の城代が置かれ、松坂牛と本居宣長で有名な松坂、西側の自然豊かな森林浴ゾーンの奥伊勢を訪れました。

12:30車で第二京阪京滋名神新名神伊勢自動車道経由して
14:15勢和多気インター下車

宝亀5年(774)光仁天皇の勅願により空海(弘法大師)の師である勤操大徳によって開創された。弘仁年間(810〜824)に唐から帰国した空海は諸国を巡拝し神宮寺にも立ち寄り、その時本堂(観音堂)の梁に勤操大徳創立とあるのを見てこの地に仏閣を建立。弘仁6年(815)に七堂伽藍が完成された。大師堂の本尊である弘法大師像は、大師の自画像で自ら刻んで安置されたもの。丹生水銀と伽藍建立により大いに盛隆を極めたが、再々の兵火により焼損。現在の寺観は江戸時代中期に再建された神宮寺を訪れる。

地元では、「大石の不動さん」と呼ばれている古刹。境内にそそり立つ、高さ27mのホウロク岩にムカデランが群生。国の天然記念物に指定されている。本堂には、弘法大師作の青石不動明王立像を祀る不動院を訪れる。

飯高諸氏が885年(仁和元)に建立。6.6mある本尊の十一面観音立像は重要文化財の近長谷寺を訪れる。

熊野街道沿いの多気町にある。重要文化財の本尊普賢菩薩座像は平安初期の作の普賢寺を訪れる。

中部大運動公園内にある、参加体験型の大型児童館。直径22mの大型ドームでのプラネタリウムと大型ドーム映画、高さ7mのクライミングウォール(要上履き)が人気だ。毎週メニューが変わるアートクラフトや科学工作、幼児向けのふわふわ遊具のあるプレイランド、フランスの積み木カプラなど、さまざまな遊びや体験も可のMAPみえこどもの城を訪れる。

役行者が開創したと伝えられる霊場。裏手の伊勢山上は奇岩の連なる行場になっている。4月8日の山開き会式と10月7日の秋季大会式には、山伏姿の先達が昔ながらの行事を行う飯福田寺を訪れる。

聖武天皇の勅願で743年(天平15)に建てられたと伝わる。本尊の如意輪観音が厄除けに霊験あらたかと信仰され、地元では「岡寺さん」とよばれて親しまれている。3月の初午大祭は、厄除けの人や開運祈願の参拝客で賑わう。これらの日に売られる厄除け玩具の猿はじきが珍しい継松寺を訪れる。

伊勢神宮に仕える未婚の皇女(斎王)の宮殿が置かれた、「斎宮」の歴史を紹介する博物館。展示室Iでは、原寸大の斎王の居室に十二単姿の命婦人形や調度を展示。展示室IIには遺構の復元模型を中心に斎宮跡の発掘資料が展示される斎宮歴史博物館を訪れる。

斎宮駅の南側に、かつて人々が伊勢神宮に詣でた道、参宮街道があり、その街道沿いに面して立っている。周辺から大規模な塀列や掘立柱の建物の跡が発掘されたため、斎宮の御殿があった場所ではないかとも考えられている竹神社を訪れる。

いつきのみや歴史体験館の北側にある。斎宮跡の発掘調査に基づいた10分の1史跡全体模型を見ることができる斎宮跡歴史ロマン広場[いつきのみや歴史体験館]を訪れる。

発掘が続く広大な斎宮跡。斎王の御殿があったと伝えられる斎王の森周辺が整備され、公園となっている。博物館から斎王の森へ至る歴史の道には、古代の歌人が詠んだ斎宮についての和歌24首が刻まれた歌碑が立っている史跡公園斎王の森を訪れる。

18:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の三重県に足を運び、自然豊かな奥伊勢に点在する寺院、松坂に点在する寺院と博物館を訪れ歴史学習できました。

今回の訪れで三重県はほぼ制覇できました。







三重県津エリア観光
2011年3月16日


東海と近畿の接点の地、伊勢湾と熊野灘に囲まれた三重県に足を運び、三重県の県庁所在地であり、江戸時代には藤堂藩32万石の城下町として、お伊勢参りの街道として栄え、西側の奥伊勢エリアの豊かな自然、悠久の歴史に恵まれた津を訪れました。

12:30車で第二京阪京滋名神新名神自動車道経由して
13:50津インター下車

津11代藩主の藤堂高猷が、御山荘とよばれる別荘を建てたところ。丘陵や谷、池など、自然の地形が生かされており、桜や紫ツツジの名所としても有名。季節には大勢の花見客が訪れる津偕楽公園を散策する。

日本初の五十音順国語辞典『和訓栞』を著した谷川士清の生家。「つし2階建て」の質素な邸宅は、1775年(安永4)に建築または改装されたと推測されている。国の史跡指定を受けている谷川士清旧宅を訪れる。

1580年(天正8)に織田信長の弟・信包によって築かれた津城は藤堂高虎の入城によって大改修が行われ、明治維新まで藤堂氏の居城となった。現在は堀や櫓などが残り、庭園も造られている津城跡を訪れる。

母の病を治そうと禁漁区の阿漕浦で漁をし、処刑された親孝行息子の平治。その霊を慰めるために築かれた塚、阿漕塚を訪れる。

南北朝時代の武将、結城宗広を祭る神社。2月中旬〜3月中旬に、境内にしだれ梅が咲き誇り、市の内外から多くの見物客が訪れる結城神社を訪れる。

伊勢平氏ゆかりの地。平清盛の父、忠盛が生まれた時に、その胞衣が埋められた場所といわれる。長谷山へのハイキングコースの中間地点に位置し、塚を中心に公園が広がる忠盛塚を訪れる。

津市の西端にあるなだらかな山。頂上までのハイキングコースは地元客に人気。道中にある長谷寺には、朝鮮出兵の際に藤堂高虎が戦利品として持ち帰ったといわれる7体の石仏が安置されている長谷山を訪れる。

パリのルーブル美術館に収蔵されている彫刻作品を現地で精密に復刻し、展示しているユニークな美術館。約2000平方mの館内には、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケなど有名作品3500点余りが並ぶ。わずかな傷まで復元されていて、まさに本物と見間違えるほど。大英博物館収蔵の作品もあり、複数の美術館を一度に回るような楽しさが味わえるルーブル彫刻美術館を訪れる。

松坂市の西、伊勢国司北畠氏の本拠地だった美杉地区にある、江戸時代前期に創建された神社。北畠氏の館があったところで、庭園にその名残をとどめている北畠神社を訪れる。

美杉地区西端、太郎生日神の日神仲善寺の西方にある墓地には、鎌倉時代に彫られた阿弥陀像や薬師如来像などの石造仏が混在。それらを総称する日神石仏群を訪れる。

17:30終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の三重県に足を運び、三重県の県庁所在地であり、江戸時代には、藤堂藩32万石の宿場町として栄え、城下町でもある津、自然豊かな森林浴ゾーン、西側の奥伊勢エリアを訪れ、自然と歴史的建造物、史跡に触れ楽しめました。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第百三十二弾:三重県伊勢&鳥羽&志摩観光
2011年2月19ー20日


三重県東南部に足を運び、伊勢神宮への全国からの参拝者が絶えない伊勢、温泉や観光施設が充実している鳥羽、リアス式海岸が美しい志摩の三大三重県最大の観光地を訪れました。

19日20:30車で名神新名神伊勢自動車道経由して
23:00伊勢到達、伊勢駅付近のホテルで宿泊。

20日6:30車で出発、伊勢を観光する。

かつて神宮参拝客の食料などが集められ「伊勢の台所」とよばれた河崎。勢田川の水運を利用して大いに賑わった問屋街であったが、現在は妻入りの商家や蔵が残り、落ち着いた町並みになっている。資料館やホール、蔵を利用した店鋪などが入った伊勢河崎商人館もある河崎の町並みを散策する。

堀に囲まれた広い境内に月夜見尊とその荒御魂を祭る、外宮の別宮。境内は生垣で囲まれ、内側には堀がめぐらされている。本殿の前には楠の老大樹がそびえ、厳かな雰囲気の月夜見宮を訪れる。

正式には豊受大神宮という。祭神である豊受大御神は天照大御神の食事を司る神で、食をはじめとするすべての産業の守り神。古来より神宮の参拝は、この外宮から先に行うのが一般的。伊勢市駅からほど近い市街地にありながら、神宮杉に囲まれた神域は静寂に包まれている伊勢神宮外宮を訪れる。

旧豊宮崎文庫の敷地内にある資料館。紙幣のはじまりといわれる「山田羽書」、参宮道中資料、御師資料を中心に、伊勢の考古・民俗・歴史資料や民具を展示している伊勢市立郷土資料館の前で記念撮影。

日本初の私立博物館として、1909年(明治42)に誕生。御装束神宝と称される、式年遷宮ごとに新調される神様の調度品や装束などの伝統工芸品のほか、神宮の歴史資料を展示。内宮の20分の1の模型もあり、内部の様子もわかる。ルネサンス風の現在の建物は1953年(昭和28)に再建されたもので、庭園も必見だ。自然の産物にスポットをあてた併設の神宮農業館では、神宮御料地関係資料や農産物の模型などを展示する神宮徴古館を訪れる。

倉田山の一角にある、内宮の別宮の一つ。天照大御神のご鎮座の地を伊勢と定めた、倭姫命をまつる。創建は1923年(大正12)と新しく、うっそうとした森の中に神明造の正殿がひっそりと立つ倭姫宮を訪れる。

古市はかつて参宮帰りの精進落としで賑わった遊里の置かれた町だ。最盛期の天明年間(1781〜89)には、70軒余りの遊廓が立ち並び、1000人以上の遊女がいたという。昭和14年の火事とそれに続く世界大戦の空襲でほとんどの建物が焼失してしまったが、江戸時代からの懸崖造の建物である旅館麻吉には、わずかに昔の風情が残る。伊勢古市参宮街道資料館ではゆかりの品を見ることができる古市の町並みを訪れる。

内宮と倉田山の間に立つ、内宮の別宮。杉の木立が続く参道を行くと、月読宮、月読荒御魂宮、伊佐奈岐宮、伊佐奈弥宮の4宮が横一列に並んでいる。主宮の月読宮はひとまわり大きく、天照大御神の弟神である月読尊をまつる月読宮を訪れる。

天孫降臨の際、道案内役を務めた猿田彦大神を祀る神社。万時善い方へ導く、「みちひらきの大神」として広く崇敬されている。方位除け、交通安全などの御神徳があるという。社殿は1997年に改修されたもの。5月5日には豊作を祈願する御田祭りが行われる猿田彦神社を訪れる。

猿田彦神社の宮司家に生まれた女流日本画家、伊藤小坡の作品を展示する美術館。明治から昭和にかけての美人画や歴史画が中心で、季節ごとに展示替えされる小坡美術館を訪れる。

江戸〜明治の伊勢路の町並みを移築・再現。約40軒のお店が並ぶ。「もめんや藍」は、松阪木綿の反物とそれらを使った小物の店。様々なキャンドルが揃う「灯りの店」、1000種類もの招き猫が並ぶ「吉兆招福亭」、伊勢特産のサメの干物・さめのたれを売る「志州ひらき屋」などユニークな店ばかりだ。「すし久」ではてこね寿しや伊勢芋の麦とろろなど伊勢路の田舎料理、牛肉にこだわり、豚を捨てたとの逸話が残る「豚捨」では牛丼1000円が味わえる。伊勢にゆかりの深い、山口誓子と徳力富吉郎の作品を展示する記念館もあり。金・土・日曜、祝日などには、横丁中心の太鼓櫓で太鼓演奏実施するおかげ横丁を訪れる。

石畳の通り沿いに妻入造りの店が軒を連ねる昔ながらの門前町。約800mある通りには、赤福本店をはじめ土産処や食事処が立ち並び、その一角には江戸から明治にかけての伊勢路を再現したおかげ横丁もあるおはらい町を訪れる。

内宮は正式には皇大神宮といい、皇祖神である天照大御神を祭る。約2000年前の垂仁天皇のころ、皇女であった倭姫命が各地を旅した末、天照大御神の御鎮座の地をこの地に定めたといわれている。五十鈴川の畔の宮域は、5500万平方mにも及ぶ伊勢神宮内宮を訪れる。

標高555mの朝熊山を縦走して、伊勢と鳥羽を結ぶ全長16.3kmの有料道路。伊勢平野や伊勢湾が一望でき眺望抜群。快晴時には、日本アルプスや富士山を遠望できることもある。金剛證寺や山上広苑など山頂付近にみどころが多く、山頂展望台には展望足湯も設けられている伊勢志摩スカイラインを走行する。

伊勢志摩スカイライン随一の展望スポット。伊勢湾に浮かぶ島々、セントレアから離着陸する飛行機、さらに晴れた日には富士山も見える。自然遊歩道も整備されており、ハンモックなどもある。展望台には、伊勢志摩のみやげものを販売する山頂売店、伊勢うどんなど軽食販売の朝熊茶屋、標高500mにつくられた展望足湯がある朝熊山頂展望台を訪れる。

鳥羽に向かう。

明治26年(1893)、御木本幸吉が世界で初めて真珠の養殖に成功した島。島内には真珠博物館をはじめ、真珠王と称された御木本幸吉の生涯と業績を紹介する御木本幸吉記念館、パールプラザ(ショップ・レストラン)などがあるほか、白い磯着に身を包んだ海女たちの潜水作業も間近に見ることができるミキモト真珠島を訪れる。

世界屈指の規模を誇る超巨大水族館。自然の環境を再現した各テーマゾーンには、約850種類2万点もの海や川の生物が飼育されている鳥羽水族館を訪れる。

二見に向かう。

2000点以上の作品を所蔵する、アフリカ美術専門のギャラリー。「マコンデ」とは、もともと東アフリカのタンザニアの高原に住んでいたマコンデ族のこと。彼らが生み出す黒檀彫刻は力強く魅力的だ。ティンガティンガ派の絵画のほか、アフリカに関する民俗資料も展示しているマコンデ美術館を訪れる。

木々に覆われた静寂な雰囲気の中に、須佐之男命を祭る茅葺きの社殿と樹齢2000年の大楠が立つ。かつてこの地を旅した須佐之男命が、親切な蘇民将来の一家に助けられ、お礼に悪疫退散の札を授けたとの故事が残る。これが伊勢志摩地方に今も伝わる門符の由来。背後のうっそうとした森の中に、蘇民の家があったと伝えられている蘇民の森・松下社を訪れる。

アッカンベーをする巨大なミナミゾウアザラシや投げキッスをするセイウチ、トド・ゴマフアザラシなどのユニークなショーが人気の水族館。ショーの後には動物たちとの記念撮影もできる。国内の飼育記録を更新中のノコギリエイなども見られる二見シーパラダイスを訪れる。

二見ケ浦の海中に鎮まる興玉神石を遙拝するため、約1300年前の天平年間(729〜748)に僧行基が興玉社を開創。1910年(明治43)には二見ケ浦の海中に鎮まる興玉神石を拝するため、現時の地に三宮神社と合祀。二見興玉神社と改称した。みちひらきの神、猿田彦大神を主祭神とし、遙拝所・天の岩屋のほか、境内には神のお使いとされる「蛙」の置物が点在。授与所では、縁起物の蛙のお守りなども授与している二見興玉神社を訪れる。

ニ見ケ浦にそびえる男岩、女岩とよばれる大小の2つの岩。沖合約700mに鎮まる二見興玉神社縁の興玉神石を拝する鳥居の役目を果たしている。仲むつまじく立ち並ぶその様子から夫婦円満や良縁の象徴としても知られ、夏至のころには男岩と女岩の間から昇る日の出を拝みに訪れる人が多い。気象条件が合えば霊峰冨士を拝すこともできる夫婦岩[二見興玉神社]を訪れる。

鳥羽南部に向かう。

海と人間の関わりをテーマに、漁業の用具や小型船など約5万7000点の民俗資料を所蔵。カツオ漁船の実物展示のほか、重要文化財の木造漁船を収蔵する船の棟も必見の海の博物館を訪れる。

麻生の浦大橋から鵜方までを結ぶ全長23.8kmのドライブウェイ。昔は「陸の孤島」といわれた南鳥羽だが、この道の開通でマリンリゾートの人気エリアとなった。道路は海沿いに連なる山並みを縫うように走っている。車窓には入り組んだ海岸線と海、山々の重なり合う風景が広がり、雄大な志摩半島の自然を満喫できる。鳥羽から志摩への爽快なドライブコースだ。その途中、鳥羽展望台から壮大な景色を眺めるのもいいパールロードを走行する。

パールロードの途中、標高162mの箱田山山頂にある展望台。ここからの海の風景は雄大で、知多半島からぐるりと大王崎まで見える。山口誓子の石碑、地元出身の兄弟歌手、鳥羽一郎と山川豊の歌碑も立っている。創作和食レストラン・軽食コーナー、ショップが入る「食国蔵王」もある鳥羽展望台を訪れる。

志摩に向かう。

天照大神が須佐之男命の悪戯に腹を立てて、閉じこもったという伝説の洞窟の一つ。水が涸れることもなく流れており、恵利原の水穴ともよばれている。「日本の名水百選」に選ばれる天の岩戸を訪れる。

伊勢神宮内宮の別宮で、志摩一ノ宮ともよばれる。創建は垂仁天皇の代で、倭姫命が伊佐波登美命に造らせたとされている。祭神は天照大御神。正殿の建築様式は伊勢神宮と同じ神明造。境内には樹齢2000年の大杉がそびえる。通称といわれ、日本三大御田植祭の一つとされている御田植祭は、国の重要無形民俗文化財にも指定の伊雑宮を訪れる。

安乗埼の先端に立つ全国でも珍しい四角の白い灯台で、映画『喜びも悲しみも幾歳月』の舞台になった。日本の灯台の草分け的な存在で、江戸時代からすでに灯明台があり、1873年(明治6)には八角形の木造灯台が設置されている。現在、海を照らしている灯台は1948年(昭和23)に改築されたもの。周辺は芝生が敷き詰められた公園になっており、荒波の太平洋、波穏やかな的矢湾を眺めながら休憩できる。園内には安乗埼灯台資料館があり、旧灯台の模型や灯台の歴史を紹介している安乗埼灯台を訪れる。

熊野灘と遠州灘の荒波を二分する大王崎は、昔から航路の難所だった。そのため1927年(昭和2)、当時としては斬新な造りの円形白塗りの大王埼灯台が建てられた。灯台は今も現役で、赤白交互30秒ごとに閃光を放つ。入口から螺旋階段を登った展望台からの眺望は、風は強いがすばらしい大王埼灯台を訪れる。

標高48mの登茂山周辺を整備した公園。野外活動センター、キャンプ村などがあり、展望台からは英虞湾のリアス式海岸や真珠の養殖筏が見渡せるともやま公園を訪れる。

標高203mの横山の山頂にかけて、横山・パノラマ・英虞湾展望台があり、それぞれを遊歩道が結んでいる。最も見晴らしがよいのが横山展望台で、緑の朝熊山、熊野連山、正面には約60の小島、点在する養殖真珠の筏などが浮かぶ英虞湾が見渡せる横山展望台を訪れる。

マンボウをはじめ、志摩の海や南の海の生物を展示。見ごたえがあるのは、古代からの魚介を集めたエリアと、50種類2000匹が泳ぐ大回遊水槽での海女の餌付けショーの志摩マリンランドを訪れる。

17:30終了、帰路に向かう。

今回の旅行三重県東南部に足を運び、三大三重県最大の観光地、伊勢・鳥羽・志摩を訪れ、自然と歴史的建造物に触れ有意義な日々を送ることが出来ました。

伊勢神宮の奥深い歴史と規模の大きさと志摩エリアのリアス式海岸の美しい景観、何回も訪れたことがありますがスケールの大きさ、圧巻ですね。

これからも何回も訪れてみたい、三重県伊勢・鳥羽・志摩観光でした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百三十一弾:三重県尾鷲&熊野観光
2011年2月12ー13日


三重県の県南部の熊野灘沿いに台高山脈が急激に熊野灘に落ち込んでいる独特の地形の東紀州エリアには、巨岩や絶壁がそそり立ち、山中には伊勢と熊野三山を結ぶ巡礼の道、熊野古道が残る尾鷲・熊野を訪れました。

12日12:30車で第二京阪名神新名神伊勢自動車道経由して大宮大台インター下車

境内に並んで鎮座する瀧原宮、瀧原竝宮は、ともに皇大神宮(内宮)の別宮。天照大御神の御魂を祭っている。本殿までの参道脇には樹齢数百年の杉が生い茂り、荘厳な雰囲気が漂う瀧原宮を訪れる。

笠木川上流の渓谷。落差40mの雄滝と35mの雌滝は水量も多く、見ごたえがある。周辺には遊歩道もあり、途中に喫茶、陶芸小屋などが設けられている原始の不動滝・紀勢笠木渓谷を訪れる。

名前の通り、頭に関することに霊験あらたかだといわれる。合格祈願の受験生はもちろん、会社経営者なども訪れる。境内には飲むことで体の中から災いを洗い流すといわれる「頭之水」が湧き、いくつもの顔があるように見える「頭之石」は、なでることでその部分を癒してくれるという頭之宮四方神社を訪れる。

尾鷲方面に向かう。
18:00尾鷲駅付近のホテル到達後、市街地を散策、食事を済ませて就寝。

13日6:30車で出発

須佐之男命を祭神とする、尾鷲随一の由緒ある神社。境内には拝殿や本殿、参集殿などが立つ。2本の楠の大木(別名・夫婦楠)は高さ30m、周囲10m。樹齢は1000年以上といわれ、県の天然記念物に指定されている尾鷲神社を訪れる。

山林で財を成した尾鷲の富豪土井八郎兵衛が、約250年前に鹿児島から孟宗竹を移植。保護育成した竹林。高さ15mもの美しい竹が4000平方mに及ぶ敷地に群生して、なかには太さが直径30cmに達するものもある土井竹林を訪れる。

土井竹林の入口に立つ人形の展示館。もともとは土井家の別荘として明治初年に建てられた「寒雨亭」で、館長の土井由紀子氏が子供の頃から集めている世界の民族衣装の人形など2000点が陳列されているお人形の家を訪れる。

熊野方面に向かう。

熊野市と尾鷲に挟まれた海岸線にそそり立つ、高さ100m、周囲600mもの花崗班岩の岸壁。柱状節理の岩壁が楯を並べたような形からその名が付き、神武天皇上陸の伝説も残っている楯ケ崎を訪れる。

熊野市の東のはずれ、濃紺の海に突き出た断崖で、名前のように鬼が住んでいそうな雰囲気を漂わせる鬼ケ城(名勝・天然記念物)。これは石英粗面岩の岩盤が地震によって隆起し、その後波や風に侵食され、大小無数の洞窟や穴が造られたもの。数十mの絶壁の猿戻り、犬戻り、無数のくぼみがある蜂ノ巣、鬼の見張り場など、約1kmの遊歩道には天然の岩の彫刻芸術がいくつもある。遊歩道入口にある海蝕洞窟の千畳敷は見ごたえがある鬼ケ城を訪れましたが残念ながら工事中のため確認できませんでした。

その名の通り、獅子の形をした奇岩。地盤の隆起と黒潮の侵食によってできたもので、高さ25m、周囲210m。その勇壮な姿は、海に向かって吠えるライオンのようだ。世界遺産、国天然記念物に指定の獅子岩を訪れる。

七里御浜にある、高さ45m、幅80mの巨石を御神体とする神社。『日本書紀』に登場する国生み神話の伊弉冉尊を葬った有馬村は、この花の窟であるといわれている。毎年2月2日と10月2日の例大祭には岩の頂から縄をかける、お綱かけの神事が行われる花の窟神社を訪れる。

上瀞の上流から、和歌山県の飛地である北山村の七色までの約28kmの渓谷を指す。かつては、滝や瀬が多い渓谷であったが、小森ダム、七色ダムの完成により、3分の2が湖底に沈んでしまった。一帯の森と湖、渓流とが調和した美しい景観は、新たな観光地として脚光を浴びつつある。周辺にはカモシカなども生息し、動物の宝庫としても知られる奥瀞を訪れる。

市内熊野川町の玉置口から奈良県十津川村田戸までの約1.2kmの渓谷を指す。春にはヤマザクラ、初夏にはツツジやシャクナゲが新緑に映え、晩秋には紅葉が美しい。渓谷の両岸が迫り、高さ40〜50mの岩壁がそそり立ち始めるのは玉置口近くの洞天門から。夫婦岩などの奇岩や、高さ20m、幅87mの屏風岩、高さ45mの天柱岩など巨岩が、次々に現れる。奥行き42mの寒泉窟、岩の割れ目にできた竜泉窟などの洞窟もあって、変化に富んだ渓谷美は、実に見事。渓谷探勝には、玉置口や下流の志古などから、ウォータージェット船を利用。船は、田戸船着場に寄り、上瀞入口の獅子岩などを見て引き返す瀞八丁を訪れる。

古くは奈良時代から、近世では国内屈指の鉱山町に至る歴史をもつ紀和町。熊野市紀和鉱山資料館では各時代の様子をジオラマ再現し、本物のトロッコや採掘器具なども展示。疑似体験エレベーターの他、映像上映もある。近辺の観光地に関する展示や、日本有数の蛍石を初めとする鉱石の展示、土産販売も行っている熊野市紀和鉱山資料館を見学。

紀和町の山間に広がる棚田。「一目千枚」と言われ、1340枚が連綿と連なる光景は壮観だ。1601年(慶長6)には、2200枚以上の水田があったという記録も残る丸山千枚田を訪れる。

1988年(昭和63)、紀宝町で「ウミガメ保護条例」が施行。ここは、ウミガメの保護活動の拠点となっている。園内には資料館とウミガメプール、道の駅の3棟が立ち、ウミガメプールでは泳ぐカメの姿を観察できる。子供たちに人気のタッチングプールもあり。アカウミガメは、毎年5月末〜8月、産卵のため七里御浜の新宮寄りにある井田海岸へ上陸してくる紀宝町ウミガメ公園を訪れる。

熊野川に沿って北に走行し和歌山県に入り本宮に向かう。

熊野川と音無川、岩田川の合流点にある中洲で、明治時代の大洪水で流失するまで、ここに熊野本宮大社の社殿があった。現在は広い境内に、石祠が2基あるだけだが、清浄な雰囲気がかつての社地の名残りを留めている。入口には日本最大級の大鳥居が立ち、春は花見の名所としても知られる大斎原[熊野本宮大社]を訪れる。

熊野三山のひとつ。鳥居をくぐって158段の石段を上ると、神門の向こうに四社殿が立つ。左から夫須美大神を祭る西御前(第一殿)、速玉大神を祭る中御前(第二殿)を合わせた相殿、その右隣に熊野造の証誠殿が立ち、主祭神の家津御子大神を祭る本殿となっている。さらに右隣の若宮(第四殿)には天照大神が祭られている。伝承によると、社殿創建は今から2020年ほど前の崇神天皇の時代。500m下流の大斎原に鎮座していたが、1889年(明治22)の大洪水で一部社殿が流失し、現在の地に移築された熊野本宮大社を訪れる。

16:00中辺路を経由して田辺から高速で帰路に向かう。

今回の旅行、伊勢神宮と熊野三山を結ぶ世界遺産の熊野古道の伊勢路に点在する史跡巡りと三重県県南部の熊野灘に面したリアス式海岸と七里御浜に縁取られた海岸線はダイナミックな自然の造形美の連続を訪れ自然と文化に接し堪能しました。










三重県鈴鹿&亀山観光
2010年10月27日


東海と近畿の接点地、三重県に足を運び、伊勢湾北部に位置するエリアで大型のテーマパークが目白押しの鈴鹿、江戸時代の風情を残す町並みがある亀山を訪れました。

12:30車で第二京阪京滋名神新名神自動車道経由して鈴鹿インター下車
13:45鈴鹿方面到達

御幣川の上流4kmにわたる渓谷。屏風岩や鍾乳洞などみどころが続く小岐須渓谷を訪れる。

仁侠史最大の大出入りといわれる「荒神山の喧嘩」の舞台として有名な真言宗御室派の寺院。十一面観音菩薩を祭る本堂のほか、勝負師の信奉が厚い奥ノ院、春日局が寄進した釣鐘などがある荒神山観音寺を訪れる。

日本武尊を祭っている。社殿の北西にある円形の墳墓は、日本武尊の墓と伝えられる白鳥塚古墳。4月上旬、境内はムラサキツツジに彩られる加佐登神社を訪れる。

聖武天皇の命を受け、行基が741年(天平13)に開いた国分寺、国分尼寺があった場所。国の史跡に指定されている。かつて南大門などが立っていたが、戦国の騒乱でほとんど焼失。現在は講堂の礎石の一部が残るのみである伊勢国分寺跡を訪れる。

歌川広重の東海道五十三次にも描かれた真言宗の名刹。厄除け祈願の寺として知られる。本尊の石薬師は神亀年間(724〜29)に、泰澄が地底から巨石を発見し、のちに弘法大師が薬師如来を彫ったもの。毎年12月20日、煤払いのために開扉される石薬師寺を訪れる。

江戸末期の商家建築として市の史跡に指定される伊勢型紙の問屋・寺尾家。その建物を利用した伊勢型紙資料館が公開されている。型紙はもちろん、それらで染めた着物や、型紙を作る道具類も展示する伊勢型紙資料館を訪れる。

子授けと安産に霊験あらたかな白衣観世音を本尊とする真言宗の古刹。境内にある不断桜は、四季を通して葉がつき、開花期も12〜4月と長い珍しい桜で、国の天然記念物に指定されている子安観音寺を訪れる。

行基が開いた真言宗の寺。明治初期までは伊奈富神社の別当寺だった。本堂前の収蔵庫には、木造の薬師如来立像、持国天立像、多聞天立像、淳和天皇の像(いずれも重要文化財)を安置している神宮寺を訪れる。

記紀では、日本武尊が東征の帰途、亀山で終焉を迎え、魂は白鳥と化して大和へ向かったとされている。市内北東部にあるこの墓は、ミコトの墳墓の地と伝えられ、神社や公園がある能褒野御墓を訪れる。

亀山城の外堀にあたる池の近くには1932年(昭和7)に亀山保勝会が建立した石碑が立つ。これは1701年(元禄14)5月9日に石井源蔵・半蔵兄弟が父の仇、赤堀水之助を討ち取ったことを記念する碑。当時、元禄曽我とよばれ、翌年の赤穂浪士の討ち入りと並び称された石井兄弟敵討ちの碑を訪れる。

728年(神亀5)、聖武天皇の勅願で、行基が創建したとされる古刹。往時には七堂伽藍を有したが、たび重なる兵火で焼失。災禍を逃れた本尊は、当初薬師如来であったものを阿弥陀如来立像に改作したといわれる。高さ162cmの一木造。全身に木屎漆が塗られた立派な仏像は、国の重要文化財に指定されている慈恩寺を訪れる。

昔、街道の一里ずつに木を植え、道程の目印にしたのが一里塚。県下12カ所の一里塚のなかで唯一現存し、樹齢400年のムクの巨木が植えられている。国指定の史跡の野村一里塚を訪れる。

東西約1.8kmにわたる旧街道の東西の入口が追分だ。東追分は東海道と伊勢別街道の分岐点で、今も残る大鳥居は伊勢神宮を遥拝するもの。20年に一度の遷宮の際、宇治橋南詰の鳥居を譲り受けて移設される東の追分を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、三重県の伊勢湾北部に位置する鈴鹿、亀山を訪れ点在する寺社、歴史的建造物、史跡に触れ有意義な日を送ることができました。






三重県伊賀上野観光
2010年9月15日


伊勢湾と熊野灘に囲まれた1000kmに及ぶ海岸線を持ち、東海と近畿の接点の地、三重県に足を運び、芭蕉と忍者の町で郊外には伊賀焼の里がある伊賀上野を訪れました。

12:30車で阪奈163自動車道経由して
13:40伊賀到達。

752年(天平勝宝4)、聖武天皇の勅願により奈良東大寺の別院として創建された。織田信長による天正伊賀の乱で大半が焼失。現在は本堂と楼門、本尊十一面観音が残り、いずれも重要文化財に指定されている観菩堤寺(正月堂)を訪れる。

1821年(文政4)、津の藩校、有造館の支校として第10代藩主藤堂高兌が建築。講堂、御成門、表門、有恒寮、小玄関、台所棟などが残されている。なかでも72畳の広さを誇る講堂は圧巻の旧崇廣堂を訪れる。

中世、茶の湯の流行とともに、わび、さびを醸す伊賀、信楽の陶芸品は茶道具として高い評価を獲得。館内2階には郷土の愛陶家・奥知氏収集の古陶34点を展示。1階では伊賀焼を展示販売している伊賀信楽古陶館を訪れる。

芭蕉翁の遺髪を納めた塚。芭蕉翁生家近くの愛染院の境内にある。松尾家の菩提寺の芭蕉翁故郷塚を訪れる。

学問と文芸の神様を祀る神社。別名を上野天神宮ともいう。1611年(慶長16)、伊賀上野城とともに藤堂高虎が再建。29歳の芭蕉が江戸に発つにあたって、処女句集『貝おほひ』を奉納しており、鳥居横には芭蕉の句碑もある上野天神宮(菅原神社)を訪れる。

7つの寺が並ぶ、寺町の南端に位置する。本堂の木造阿弥陀如来坐像は重要文化財。百躯観音を安置する六角堂や鐘楼など、みどころは多い。伊賀越仇討ちで荒木又右衛門の従者だった、河合武右衛門の墓所でもある念佛寺を訪れる。

伊賀の伝統工芸、伊賀組紐を展示即売している。組紐の歴史や工程が学べるよう、ビデオシアターも設置。希望者には専門家の指導で組紐作りの体験もできる伊賀くみひもセンター組匠の里を訪れる。

834年(承和元)の創建。観音堂の十一面観音立像は平安時代の作で、国の重要文化財に指定されている。境内から本堂裏の山上にかけて伊賀四国八十八カ所の巡礼路があり、多くの石仏が並ぶ宝厳寺を訪れる。

1853年(嘉永6)創業の若戎酒造が開設した酒の資料館。昔の酒造道具の展示のほか、ビデオで酒造りを解説する若戎吟醸館を訪れる。

名張市の北東部、近鉄美旗駅の周辺に点在する。これは4〜6世紀、この地を支配していた豪族の墓で、伊賀地方で最大規模の古墳群といわれている。現存している古墳は前方後円墳5基、横穴式石室をもつ円墳1基、方墳1基の計7基。さまざまな形の古墳が見られるとあって、古墳に興味をもつ人の穴場となっている美旗古墳群を訪れる。

17:00終了。

今回は昨年以来2回目で、近場の伊勢湾と熊野灘に囲まれた1000kmに及ぶ海岸線を持ち、東海と近畿の接点の地、三重県に足を運び、松尾芭蕉、藤堂高虎ゆかりの地の伊賀上野を訪れ歴史学習できました。





三重県桑名・長島観光
2010年7月7日


東海と近畿の接点の地、波穏やかな伊勢湾と黒潮洗う熊野灘に囲まれた1000kmに及ぶ海岸線を持つ三重県に足を運び、伊勢湾北部に位置するエリアで三重県の経済の中心地、温泉、アミューズメント設備がある桑名・長島を訪れました。

12:30車で第二京阪名神新名神経由して
14:00長島エリア到達

長島藩主・松平定政公の祈願所として建立された寺で、本尊は不動明王を祭る。芭蕉にゆかりのある寺としても知られ、1689年、(元禄2)芭蕉が旅の途中に立ち寄り、その折にあいさつとして詠んだ「うき我を さびしからせよ 秋の寺」という句が刻まれた碑が残る大智院を訪れる。

輪中とは、江戸時代に水害から村を守るために、村落を堤防で囲んで水防協同体を形成したもの。輪中に関する資料や、長島町の歴史や文化、産業を紹介している。伊勢湾台風の立体映像や、輪中の民家の復元コーナーも興味深い輪中の郷を見学。

桑名方面に向かう。

天照大神の第3皇子である、天津彦根命を祭る古社。毎年5月4・5日には多度まつりが開催され、その年の豊作・凶作を占う上げ馬神事が行われる多度大社を訪れる。

山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代目諸戸清六の新居として、大正2年に建てられた邸宅を公開。鹿鳴館を設計したイギリス人、ジョサイア・コンドル設計の洋館と、それに連なる和館は国の重要文化財で、その前に広がる池泉回遊式庭園も国の名勝指定となっている六華苑(旧諸戸清六邸)を訪れる。

揖斐川河口、東海道の渡場跡。かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいた。現在も一の鳥居が残る七里の渡跡を訪れる。

1601年(慶長6)、本多忠勝が城主になり、城下町割とともに城郭の拡張整備を行った。城郭は現存しないが、城跡は九華公園として整備され、桜やツツジ、菖蒲などが美しく、市民の憩いの場として親しまれている桑名城跡・九華公園を散策する。

17:00終了。

今回の近場の名所巡りは往復4時間かけてドライブがてらに三重県の伊勢湾北部に位置する、桑名・長島エリアに点在する歴史的建造物を小雨の中、のんびり訪れました。

新名神が開通してから愛知方面は近く感じるようになりましたね。
今回の桑名・長島エリアは愛知県と三重県との境に位置します。
車で1時間半でたどり着けます。速いですね。




三重県鈴鹿&四日市観光
2010年4月21日


波穏やかな伊勢湾と黒潮洗う熊野灘に囲まれた1000kmに及ぶ海岸線を持つ三重県に足を運び、伊勢湾北部に位置するエリアで三重県の経済の中心地、四日市、アミューズメン施設が点在する鈴鹿を訪れました。

12:30車で第二京阪新名神自動車道経由して鈴鹿インター下車

鈴鹿山系の入道ケ岳の麓にあり、猿田彦大神を祭る大本宮。杉の古木に囲まれた境内には松下幸之助氏寄進の茶室もある椿大神社を訪れる。

湯の山温泉から標高1212mの御在所岳を結ぶロープウェイ。窓からは湯の山温泉街や四日市市街、伊勢湾を一望。春はツツジ、夏は納涼とアカトンボ、秋の紅葉(10月中旬〜11月下旬)、冬の美しい樹氷・氷ばくと、四季折々に姿を変える御在所岳の美しい自然が楽しめる御在所ロープウエイを訪れたが強風のため運休でした。

国際レーシングコースを中心にした、敷地面積205万平方mの総合レジャーランド。子ども(3歳くらいから)でも運転できる乗り物が充実した遊園地モートピア、プール、温泉施設のクアガーデン、ホテルなどがある。レーシングコースもサーキットカートで実際に走ることができる鈴鹿サーキットは以前何回か訪れたことがあるので今回は前を通り過ぎる。

鈴鹿の伝統工芸、伊勢形紙と鈴鹿墨の製造工程や作品を展示。伊勢形紙(重要無形文化財)は、着物の小紋などの柄を染めるときに用いる形紙。江戸時代に紀州藩の保護を受け、白子を中心に発展。現在、全国シェアの99%を占める。伊勢形紙と同様1000年以上の歴史がある鈴鹿墨は、鈴鹿おろしときれいな水に恵まれて受け継がれてきた。完成までに、半年以上かかるものもあるという。それぞれの完成までの流れをビデオで見学可の鈴鹿市伝統産業会館を見学。

四日市方面に向かう。

萬古焼の宣伝、技術開発、技能者養成などを目的に作られた施設。萬古焼は、江戸時代に沼浪弄山が窯を開き、萬古不易の印を押したのがはじまり。館内には茶器や花器など数千点が陳列され、陶芸教室や陶芸工房も併設しているばんこの里会館を見学。

四日市港開港100周年を記念して、霞ケ浦の埋め立て地に1999年(平成11)にオープンしたビル。地上90mの展望展示室からは、伊勢湾や知多半島までも見渡せる。夜景も美しい四日市港ポートビルを訪れる。

17:30終了。

今回は近場の三重県に足を運び、伊勢湾北部に位置するエリアで、鈴鹿サーキットといった名だたるマミューズメント施設や鈴鹿山脈の秀峰、四季折々の花が楽しめる自然の宝庫、御在所岳が位置する鈴鹿、三重県の経済の中心地、四日市を訪れ、自然、社寺、博物館等に接し楽しむことが出来ました。




三重県松坂・津・関観光
2009年12月6日


今回は近場の波穏やかな伊勢湾と黒潮洗う熊野灘に囲まれた1000kmに及ぶ海岸線を持ち、東海と近畿の接点地、三重県に足を運び、江戸時代の風情を残す関の町並み、松坂牛で知られ戦国時代の武将蒲生氏郷が築いた城下町、松坂、三重県の県庁所在地で藤堂藩32万石の宿場町として栄えた津を訪れました。

6:45電車で東西線、環状線、東海道線、草津線、関西本線を経由して
9:15関駅到達、関の町並みを散策する。

江戸時代の町家を公開し、宿場の暮らしを再現した資料館。内部にはバッタリや蔀戸など町家特有の工夫が見られるほか、当時の生活道具が展示されている関まちなみ資料館を見学。

関宿でも1、2を争うほどの規模であった旅籠玉屋を修復した資料館。店の間、帳場、客室、坪庭、離れなどを自由に見学できる。宿場町であった時代に使われていた食器や食膳、旅の持ち物などが展示され、興味深い関宿旅籠玉屋歴史資料館を見学。

741年(天平13)、僧行基が開いたとされる日本最古の地蔵院。一休禅師がここで改めて開眼供養したと伝えられる。徳川綱吉の寄進による本堂には174枚もの天井絵がある。本堂、愛染堂、鐘楼堂は重要文化財の関の地蔵院を訪れる。

東西約1.8kmにわたる旧街道の東西の入口が追分だ。東追分は東海道と伊勢別街道の分岐点で、今も残る大鳥居は伊勢神宮を遥拝するもの。20年に一度の遷宮の際、宇治橋南詰の鳥居を譲り受けて移設される。西追分は東海道と大和・伊賀街道の分岐点で、元禄時代の石碑が残る東西の追分を訪れる。

関宿が江戸から百六里の距離にあったことから、その名が付いた小公園。古い町並みの中にあり、東屋風の休憩所や井戸を模した水飲み場などがある。展望台眺関亭も併設されていて、関の町並みを一望できる百六里庭を訪れる。

亀山方面に向かう。

石川氏六万石の家老職にあった加藤家の屋敷跡。建物は江戸時代中期以降の建築とされるが、1990年の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている加藤家長屋門・土蔵を訪れる。

1590年(天正18)に岡本良勝が築いた城。かつては5つの曲輪があり、櫓や門が立ち並んでいた。現在は石垣の上に多門櫓を残すのみだが、美しい石垣に往時の姿が偲ばれる。多門櫓は県の史跡に指定されている。近年、城内門の1つであった石坂門の石垣が発掘され、亀山市歴史博物館の玄関前に一部を移築・復元されている亀山城跡を散策する。

一身田方面に向かう。

600以上もの寺院を数える、真宗高田派の総本山。国宝『西方指南抄』や『三帖和讃』ほか、本堂如来堂、御影堂など多くの重要文化財をもつ専修寺を訪れる。

津方面に向かう。

1982年(昭和57)9月開館。現在、5000点を数える所蔵品は、三重県ゆかりの美術、日本近現代美術、西洋近現代美術、スペイン美術などにわたる。これらを年4期にわけて常設展示するほか、国内外の様々な美術を紹介する企画展を開催する三重県立美術館を見学。

松坂方面に向かう。

戸で紙や木綿を手広く商っていた豪商、小津清左衛門の屋敷を公開したもの。17世紀末ごろに建設された木造2階建ての母屋には、見世の間、勘定場、座敷など20以上の部屋がある。屋敷奥の内蔵には、松阪商人に関する資料を展示している松阪商人の館を見学。

1911年(明治44)建築の旧市立図書館を改装した資料館。1階には薬種商・桜井家の店が再現され、池大雅の書とされる金看板が見もの。2階には松阪木綿や伊勢白粉の資料、道具類が展示されている。年4回企画展を開催。建物は国の登録有形文化財に指定の松阪市立歴史民俗資料館を見学。

江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅で、国の特別史跡に指定されている。宣長が2階の物置を改造して4畳半の簡素な書斎を造ったのは53歳の時。鈴屋の命名は宣長自身で、研究に疲れると柱掛の鈴を振って音色を楽しんだという鈴屋[本居宣長記念館]を訪れる。

鈴屋に隣接する記念館には、宣長の著書、蔵書、書簡、愛用の文具や鈴のコレクションが収蔵、展示されている。1730年(享保15)、松坂本町の小津家に生まれ、23歳で上京し、5年半の勉学ののちに帰郷、町医を開業した。その後、国学者の賀茂真淵と出会い、『古事記』研究の志を固め、35年の歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させた。記念館にある自筆の自画像や『古事記伝』など約2000点が重要文化財の本居宣長記念館を見学。

松阪城は戦国武将、蒲生氏郷によって1588年(天正16)に築かれた。かつては本丸とニノ丸に石垣を築き、3層の天守閣に敵見、金の間、月見などの櫓が配されていた堅城だった。今はそそり立つ石垣を残し、公園として整備されている松阪城跡を散策する。

かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの1棟が内部を一般公開している御城番屋敷を訪れる。

17:00終了。

東海道五十三次の宿駅で、伊勢街道との分岐点は東の追分から大和街道との分岐点西の追分までの約1,8kmがかつての宿場町、当時の面影を色濃く残し、東海道五十三次の宿場町としては唯一重要伝統的建造物群保存地区に選定されている関の町並み。

1590年(天正18)に岡本良勝が築いた亀山城の城下町、東海道と伊勢別街道の分岐点となる亀山。

真宗高田派本山専修寺を中心とした寺内町、ほぼ完全な姿で残る環濠が町を囲む貴重なエリアでかつては伊勢木綿を中心とした産業が栄え、信仰と商業の地として賑わった一身田。

松坂牛で有名で、戦国時代の武将蒲生氏郷が築いた城下町、伊勢木綿と伊勢白粉で大成功した松坂商人の町であり、江戸時代の高名な国学者本居宣長も輩出した松坂。

早朝から夕刻までひたすら歩いて三重県に点在する城下町、宿場町、寺内町の名所観光巡り、堪能しました。










三重県奥伊勢観光
2009年11月25日


今回は三重県の奈良県と境の奥伊勢方面に足を運びました。

12:00車で出発
14:30奥伊勢方面に到達。

奈良との県境にそびえる台高山脈の北端の主峰。標高1248mの山頂まで登山道が整備され、山頂からは伊勢湾、河内平野、香落渓、台高山脈などが一望できる高見山の麓を通過。

国道166号は旧和歌山街道。歴史を感じさせる家並みが続き、なかでも波瀬地区は本陣田中家が残る旧宿場町の波瀬の町並みを訪れる。

櫛田川の支流の蓮川によって形成され、室生赤目青山国定公園一部でもある。1000m級の山々が迫り、自然を満喫できるポイントは数多いが、なかでも蓮川上流に位置し、奇岩や原生林がある宮ノ谷渓谷は代表する渓谷の一つ。遊歩道も整備され、川沿いにゆるやかな傾斜の道が続いている奥香肌峡を散策する。

春日大社の流れを汲み、天児屋根命を祀る。境内にそびえる神木は樹齢1000年以上の大楠で、県の天然記念物に指定されている。2005年、フランスのブルゴーニュ地方に分社を創建した水屋神社を訪れる。

山々に囲まれた、周囲16km、面積220万平方mの湖。4月下旬〜11月末は遊覧船が運航。水上から大台山系の雄大な景観が楽しめる。春に咲く約3000本の桜、秋の紅葉も見逃せない宮川ダム湖を訪れる。

大杉谷の登山口手前にある滝。美濃ケ谷に流れ落ちるこの滝は、1541年(天文10)の発見で、六十尋(約90m)の落差があることからこの名がついたという。実際にはそれほどの高さはないが、間近で見るとその迫力に圧倒される六十尋滝を訪れる。

17:00終了。

今回は近場の奈良県よりの三重県奥伊勢エリア、二つの川、櫛田川と宮川の上流に点在する名所巡りしてきました。

櫛田川と宮川はカヌーでの川下りで何回かは訪れたことがありましたが観光は初めて、二つの川の上流の自然に接して楽しめました。

昼からの半日の名所巡り、三重県は今回で最後の訪れです。
三重県の他の観光エリアは一日以上必要ですね。
又時間を作って訪れたいと思います。




三重県名張観光
2009年9月16日


今回は近場の三重県、伊賀上野と同様に藤堂高虎氏の城下町として栄え、郊外には赤目四十八滝、東側には青山高原が広がる名張に足を運びました。

12:30車で近畿名阪自動車道経由して
13:30名張到達。

1636年(寛永13)、藤堂高吉が建てた武家屋敷。往時には1083畳の広さを誇ったが、廃藩置県で5分の1に縮小された。現在、書院式枯山水の庭園をはじめ、全国でも珍しい中奥とよばれる当主の私室が残されている名張藤堂家邸跡を見学する。

7世紀後半から8世紀前半にかけて、大来皇女が父・天武天皇のために建立した昌福寺の跡と推定されている。跡地に立つ夏見廃寺展示館には、仏画の彫られたせん仏や軒瓦など、数多くの出土品が展示されている夏見廃寺跡を訪れる。

青蓮寺川をせき止めるダムによって生まれた人造湖。高さ82m、長さ275mの巨大なアーチ式のダムの上は、車や徒歩で渡ることができる。四方を深い山々で囲まれた湖は青く美しく、春は桜、夏は新緑、秋は紅葉が周辺を彩る青蓮寺湖を訪れる。

室生火山群が造り出した青蓮寺川上流の渓谷。香落橋からバス停:落合まで約8kmにわたって、斧で断ち切ったような柱状節理の岩肌が続く。最も高い岩壁は100mを超え、途中には鬼面岩、天狗柱岩、小太郎岩などの奇岩が連続する。秋は岩肌を燃え立つような紅葉が彩る香落渓を訪れる。

奈良・三重県境にある、標高849mの亀山麓に広がるなだらかな高原。山全体が草原の亀山は新緑が美しく、秋は一面ススキに覆われる。陽光を受けて金銀に輝く景色は見事。谷を隔てた正面には、屏風岩・兜岳や鎧岳などの奇峰が見える曽爾高原を散策する。

名張の奥座敷として知られる滝で、伊賀と大和の境を流れる滝川の上流約4kmにわたる群瀑。大小50もの滝があり、特に美しい不動滝、千手滝、布曳滝、荷担滝、琵琶滝の赤目五瀑はみどころの赤目四十八滝を散策する。

延喜式にも記されている古社。国の重要文化財に指定されている宝殿は一間社で、入母屋造の檜皮葺き。安土桃山時代の特徴を表し、朱塗りの建物にゾウの彫刻などが鮮やかで豪華だ。境内には、日本三大奇鐘の一つといわれる虫喰鐘、地震の神様が鎮座する要石社もある大村神社を訪れる。

笠取山の南斜面に広がる高原で、ツツジとススキのころが美しい。標高756mの三角点付近は伊勢湾や大和の山々を見渡す展望台なども整備されている。初日の出スポットとしても有名な青山高原をドライブ走行する。

18:00終了、帰路に向かう。

今回は近場の名張に足を運び歴史的建造物史跡の名張藤堂家邸跡、夏見廃寺跡を訪れ、又郊外の室生火山群の活動が作り出した渓谷、香落渓、滝川の上流4kmにわたって続く渓谷で多くの滝に接することが出来る赤目四十八滝、笠取山から青山峠までの約12kmの青山高原をドライブして楽しみました。

尚笠取山の山頂付近には数多くの風車が設置されており、運よく適度の風で気持ちよく、効率よく回っているのを確認することが出来ました。
これだけ多くの風車の回転は他では見れない規模でなかなかの迫力を感じました。





三重県伊賀上野史跡巡り
2009年8月5日


今回は近場の三重県、藤堂高虎の城下町であり、俳句松尾芭蕉の生誕地として知られ、忍者と芭蕉の町で、郊外には伊賀焼の里がある伊賀上野に足を運びました。

12:30車で出発、木津を経由して伊賀上野方面に向かう。

14:00昭和57年11月に通産大臣から伝統工芸品に指定された伊賀焼を幅広く展示する資料館。伊賀焼きの振興と後継者の育成を図るため、伊賀焼の製造過程や古今の伊賀焼の名品の展示を行うほか、伊賀焼の体験教室や技術指導を行う実技研修室を備えている
伊賀焼伝統産業会館を見学。

俳聖芭蕉翁を顕彰する事業の一つとして設立された記念館。内部には芭蕉の遺墨、文献、弟子たちの俳画、さらに近世から現代までの連歌、俳諧にまつわる資料を展示する芭蕉翁記念館を見学。

1585年(天正13)、筒井定次が築城。関ケ原の合戦以降、築城の名手である藤堂高虎が大改修を行ったが、天守閣は竣工直前の1612年(慶長17)に暴風雨で倒壊した。現在の城は1935年(昭和10)の再建で、城跡は国の史跡の指定を受けている。日本一の高さを誇る石垣は高虎時代のものの伊賀上野城を散策する。

芭蕉生誕300年を記念し、1942年(昭和17)に上野公園内に建てられた。ユニークな形は芭蕉翁の旅姿を表す。丸い屋根は笠、八角形のひさしは袈裟、柱は行脚する翁の杖、建物の額は顔をイメージしているという俳聖殿を訪れる。

伊賀流忍術は飛鳥時代、伊賀地方に生まれた修験道が、のちに山伏兵法となって伝承され、発展したものだといわれる。忍者を分かりやすく紹介。ハイテク設備で、楽しく忍術の極意が学べる伊賀流忍者博物館を見学。

伊賀流忍者博物館にあり、実際に忍者が住んでいた屋敷を移築したもの。外観は農家のようだが、実は巧妙にカラクリが仕掛けられていて、くノ一(女忍者)さんが実演を交えて案内する。普段は押し入れの棚だが、緊急時には階段に変わる隠し階段や、引き戸の端を押すと回転し、戸の裏に姿を隠せるどんでん返しなど、忍者の知恵に驚く忍者屋敷を見学。

伊賀流忍者博物館の施設。忍者は苛酷な仕事だけに、日ごろは心と体を鍛える生活を実践していた。館内には忍者のメンタルヘルスをパソコンなどを使って学べるコーナーがある。また、忍者体験ルームの無限庵では、体内の気を高めストレス解消に役立つ九字法をビデオで紹介。ほかにも忍者文字や五色米といった独自の伝達方法や天文学など、忍者の知恵がパネル展示されている忍者伝承館を見学。

伊賀流忍者博物館にあり、伊賀上野城侵入を想定し、忍者の潜入から脱出までを音響や照明、ビデオなどハイテク技術を駆使して楽しく体験できるゾーン。導入部の暗闇の階段を降りていくと、突然、目の前のスクリーンにトリック映像で忍者頭が出現し、城内侵入の心得を説いて消える。館内のミニシアターでは、忍者の隠密行動をドラマにして映像で分かりやすく紹介。侵入時に使われた水グモなどの道具、さらに手裏剣や含み針など、数多くの武器も展示されている忍術体験館を見学。

毎年10月23〜25日に、豪華な楼車と鬼行列が町を練り歩く上野天神祭(重要無形民俗文化財)。館内には楼車3基と、鬼行列が練り歩く様子を再現している。300インチ3面マルチスクリーンでは、伊賀上野の風土や四季折々の自然、上野天神祭りの様子が迫力ある映像で楽しめるだんじり会館を見学。

松尾芭蕉の生家。書斎「釣月軒」が奥にあり、29歳まで生家で過ごし、ここで処女句集「貝おほひ」を執筆した。近くには、松尾家の菩提寺愛染院、遺髪を収めた故郷塚がある芭蕉翁生家を訪れる。

芭蕉五庵の一つで、唯一現存する庵。門弟服部土芳の草庵で、庵開きの祝いに芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞きにこよ草の庵」にちなんで名付けられた蓑虫庵を訪れる。

時代劇で有名な伊賀越仇討の舞台となった所。ことの発端は1630年(寛永7)、備前岡山藩の渡辺源太夫が河合又五郎に惨殺されたことにある。実弟を殺された渡辺数馬は、義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、4年後の11月7日の早朝、死闘ののち、ここで又五郎一行を討ち果たし、見事本懐を遂げる鍵屋ノ辻を訪れる。

鍵屋ノ辻に立つ資料館。館内には、伊賀越仇討にまつわる貴重な資料が展示されている。荒木又右衛門自筆の起請文や助太刀の事情を書いた記録のほか、伊賀越仇討の錦絵や、仇討当時の遺品などが見学できる伊賀越資料館を訪れる。

17:00終了。帰路に向かう。

今回の史跡巡り、近場の三重県、伊賀上野に訪れ、のどかな田園風景が広がる伊賀市郊外の丸柱の伊賀焼の里、藤堂高虎の城下町であり、俳句松尾芭蕉の生誕地として知られ、忍者と芭蕉の町の歴史散歩学習でした。