京都

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十弾:京都洛西三十三霊場巡り観光
2019年6月8日−9日
 

京都の洛西に足を運び、京都洛西に点在する乙訓郡や葛野郡といった、桂川西岸から西山にかけての地域に点在する札所から成る観音霊場、西の岡三十三所」という西国観音霊場の写し霊場が前身に当たる、霊場再興20周年に当たる1998年に、「京都洛西観音霊場」と名称を変更、ガイドブックや専用御朱印帳などもあり、受け入れ態勢の整っている霊場となっている京都洛西三十三か所を巡りました。 

8日12:30車で出発、第二京阪経由して洛西方面に向かう。

正覚寺:西山浄土宗。山号は摂取山せっしゅざん。
京都洛西観音霊場第11番札所。本尊は阿弥陀如来。
鏡空開導上人が寛永年間(1624〜1644年)に創建。
札所本尊は千手観音坐像で、淀川べりにあった帰海印寺の塔頭・千手院の宝物であったという。帰海印寺は、「乙訓郡誌」によれば、俊寛らとともに平清盛討伐を企てて鬼界ヶ島に流罪となった平康頼たいらのやすよりが建立した寺で、赦免されて帰洛した康頼が島で没した俊寛の冥福を祈るために建てたものという。
現在の本堂は2006年(平成18年)に再建されたもの。

勝龍寺:真言宗。山号は恵解えげ山。ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3番札所、京都洛西観音霊場第14番札所。
平安時代初期、弘法大師の開基、本尊は十一面観世音菩薩にして、毘須羯摩びすかつまの刻と伝えられる。
往時の寺号を恵解えげ山青龍寺と号す。青龍寺とは弘法大師が入唐した時、修業した寺の名である。大師帰国の後、在唐留学時代の恩師を偲ぶために一堂を建立され、更に嵯峨天皇の勅願により観音堂を始め、九十九坊を建て広く天下にその名をうたわれた名刹である。962年村上天皇の御代に近郷大干ばつ・大飢饉となり、天皇は青龍寺住職千観上人に七日間雨乞いの祈祷を命じた。結願の日、にわかに雨が降り出し万民は喜び、農作物はよみがえり、天皇は非常に喜び、「龍神を呼ぶ、即ち龍神に勝って雨を降らした事ゆえ以後勝龍寺と名乗れ」との勅命により現在の勝龍寺となる。

観音寺:浄土宗。山号は大悲山だいひざん。京都洛西観音霊場第13番札所。
室町時代1570年、雪山によって開創され、江戸時代宝暦年間に再建されたといわれている。
本尊の十一面観音坐像は、京都の重要文化財に指定されており、南北朝時代、第九十七代(南朝第二代)後村上天皇が第九十六代(南朝初代)後醍醐天皇の菩提を弔うため僧舜悟に命じ仏師秀弁に作らさせたといわれる。
もともとは、1355年に常光寺(滋賀県甲賀市)に奉安されていたものである。

卒台寺:長岡京市の住宅地に、卒台寺(そつだいじ)は建つ。山号は延命山(えんめいざん)という。 
 浄土宗、本尊は延命地蔵菩薩半跏像。
 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第12番札所。札所本尊は十一面千手千眼観音菩薩(癌封じ施薬観音)。

観音寺:真言宗豊山派。山号は普陀落山。
京都洛西観音霊場第15番札所。本尊は十一面観音2躰。

泉福寺:西山浄土宗。山号は星水山せいすいざん。
本尊は不空羂索観世音菩薩、額にもう一つの目を持ち三つ目観音と呼ばれる。
京都洛西観音霊場第16番札所。

万福寺:西山浄土宗。山号は慈眼山じげんざん。
京都洛西観音霊場第17番札所。
比叡山延暦寺の慈覚大師円仁がこの地を訪れた折り、親切な村人のために観音像を刻み、後に一宇が建立され本尊に祀られたのが始まりという。詳細は不明。
本尊の観音像はたびたびの火災にもかかわらず難を免れたことから「火除けの観音さま」と呼ばれる。
かっては大藪地区の集会所の役割を果たしていた。

西園寺:西山浄土宗。山号は朝日山。
本尊は阿弥陀如来。札所本尊は十一面観音。京都洛西観音霊場第18番札所。
1808年の火災で古い記録が失われ、詳細は不明。
周辺には用水路があるが、かっては南北に川が流れ、川の東側を「ひがしんじょ」、西側を「にしんじょ」と呼び、水争いが絶えなかった。当寺はにしんじょの寺で、西寺にしでらと呼ばれていた。江戸時代には寺子屋が開かれ地元の集まりの中心として親しまれてきた。

安禅寺:創建は後花園天皇の第一皇女である観心女王・安禅寺の宮によるものと伝わり、中興開山義空栖雲せいうん和尚により1689年、現在地に再建された。
観音堂には西国三十三所の33体の観音菩薩が祀られており、一種の写し霊場となっている。洛西には西国巡礼に旅立つための観音講が各地にあったが、この上久世でも一種の通過儀礼としての西国巡礼が行われており、出発前にはこの寺に家族で参拝し道中の安全を祈ったという。

蔵王堂光福寺:西山浄土宗。山号は医王山。本尊は蔵王権現。
京都洛西観音霊場第19番札所。
954年、村上天皇の勅願で、開基は浄蔵貴所じょうぞうきしょ。

称讃寺:牛ヶ瀬の称讃寺(しょうさんじ)は、東海道線南に隣接し、境内に保育園を併設している。山号を青柳山(せいりゅうざん)という。 
 浄土宗西山禅林寺派(総本山永観堂禅林寺)、本尊は阿弥陀如来、札所本尊は千手観音。
 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第20番札所。

長福寺:浄土宗西山禅林寺派。山号は念佛山。本尊は阿弥陀如来。
京都洛西観音霊場第21番札所。
札所本尊は慈覚大師円仁作とされる十一面千手観世音菩薩で「結びの観音」と呼ばれ、縁結び・子授けのご利益で知られる。はじめ比叡山に安置されていたが、高倉天皇の勅命により法華山寺峰ヶ堂に移され、室町時代1478年に、下津林村の五社神社境内に御堂を建立し、像を安置、永福寺とした。

常楽寺:宗派は不明。京都洛西観音霊場第22番札所。本尊は十一面千手観世音菩薩。
正しくは千手院せんじゅいん常楽寺じょうらくじという。松尾七社の一つである大宮社の境内にある。

地蔵寺:浄土宗。山号は久遠山。本尊は地蔵菩薩。桂地蔵ともいう。
京都洛西観音霊場第23番札所、京都六地蔵巡めぐり霊場、京都通称寺の会所属。

阿弥陀寺:浄土宗西山深草派。山号は吉祥山。本尊は阿弥陀如来。
京都洛西観音霊場第25番札所。
もとは誓願寺管長の隠居寺として建てられたのが始まり。後に尼寺となり、明治時代には衰退したが、1961年(昭和36年)に赤壁師が入山して復興した。
洛西観音霊場の観音様は恵心僧都作と伝わる千手観音立像で千代原観音と呼ばれる。
洛西観音霊場の第22番札所常楽寺の納経もこの寺で受け付けている。

浄住寺:寺伝によれば、810年(大同5年、弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)が天台宗寺院として開創したと伝えられています。当時は「常住寺」と号していましたが、1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興し「浄住寺」と改められ、葉室家の菩提寺として栄えました。
正慶2年(1323年)絵図によれば、本堂・鐘楼・舎利殿など多くの堂宇が立ち並んでいた様子が描かれています。
しかし、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)4月、六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に、浄住寺は全焼します。その後も、応仁の乱以降に度々兵火に遭って荒廃し、永禄10年(1567年)に全焼しましたが、1687年(貞享4年)葉室頼孝の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機を中興開山として再興され、黄檗宗の寺院になります。
寺宝には、叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記」が有名です。

長恩寺:山号は霊鷲山れいじゅざん。西山浄土宗。本尊は千手観音立像。
京都洛西観音霊場第26番札所。

観世寺:西山浄土宗。山号は大悲山だいひざん。
本尊は阿弥陀如来坐像。京都洛西観音霊場第27番札所。
鎌倉時代の僧・勝月坊(証月坊・松月坊・照月坊)慶政上人が松尾山の南に建立した法華山寺(峰ヶ堂、峰ノ堂)が前身という。正慶年間(1332〜1333年)に兵火で焼かれた際に、難を逃れた阿弥陀如来像、聖観音像などがこの地に移された。
本堂は1965年(昭和40年)に再建されている。

蔵泉庵:臨済宗相国寺派の尼寺。山号は宝珠山ほうしゅうざん。京都洛西観音霊場第28番札所。
室町時代の創建。たび重なる火災で焼失し、山崎の合戦で敗れた明智光秀が隠れ住んでいた庵であるともいわれる。

西光院:浄土宗西山禅林寺派。
京都洛西観音霊場第29番札所。

18:30堀川通りのホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

9日8:00車で出発、霊場巡り。

福成寺:臨済宗建仁寺派。山号は宝珠山ほうじゅさん。
本尊は十一面観音立像。
京都洛西観音霊場第31番札所。

来迎寺:来迎寺は法然上人が開宗なされた浄土の教えをもとに、その高弟である西山証空上人の流れを汲む浄土宗西山禅林寺派に属するお寺であります。


西迎寺: 西迎寺(さいこうじ)は丘陵地に建つ。境内に至る参道の坂道(少納言坂)には白い漆喰塀が続いている。山号は安岡山(あんこうざん)という。 西山浄土宗、本尊は阿弥陀と釈迦の二尊を安置している。京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第4番札所。

正法寺:真言宗東寺派別格本山。山号は法寿山。西国薬師四十九霊場第41番札所、京都洛西観音霊場番外札所、京都六大黒天霊場第3番札所。
鑑真和上の高弟で、754年にともに唐から来朝した智威ちい大徳がこの地で修練を行なったことに始まる。古くは春日禅坊かすがぜんぼうと呼ばれたが、延暦年間(782〜806年)に伝教大師(最澄)が智威ちいの威光を世に示すため、大原寺おおはらじという寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲えうん・徴円ちょうえんの両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。元禄年間(1688〜1703年)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院けいしょういんの帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。

宝菩提院願徳寺:宝菩提院願徳寺は、白鳳8年(679)に持統天皇の勅願で創建。徳のある願いによる寺であることから「願徳寺」と名付けられ、現在の向日市寺戸に東西1300m、南北800mもの大伽藍が建立されました。その後、平教盛の子・小川法印忠快が、東山三条にあった宝菩提院を願徳寺に移転。天台宗の大寺院として栄えたものの、応仁の乱で焼失し、かつての面影は失われました。

金蔵寺:8年(養老2)元正天皇の勅願で創建された天台宗の古刹。現在の建物は桂昌院の再建。山の斜面、石垣と石段の間に堂宇が建ち並ぶ。高さ約12メートルの産(さん)の滝、鳥帽子岩、などがあり、眺めもすばらしい。

十輪寺:天台宗。山号は小塩山。京都洛西観音霊場第3番札所。通称、業平寺なりひらでら。
850年文徳天皇が染殿そめどの皇后(藤原明子あきらけいこ)の安産祈願のため、伝教大師作の延命地蔵を安置したのが起こり。後の清和天皇が誕生し、文徳天皇勅願所となる。その後は藤原北家(花山院かさのいん家)が帰依し、一統の菩提寺となる。
御本尊の伝教大師作延命地蔵菩薩は等身大木像坐像で、その御腹に巻かれた腹帯で染殿そめどの皇后が安産されたことから腹帯地蔵尊と称されている。

三鈷寺:西山宗本山。平安時代1074年に源算上人が草庵を結んで北尾往生院と号したのが始まり。
京都洛西観音霊場第5番札所、西山国師遺跡霊場第12番札所。
源算上人の後は、二祖観性法橋、三祖慈鎮和尚(慈円)と続き、次いで1213年に法然上人門下の證空善恵国師すなわち西山上人が伝燈した。
上人は浄土宗西山派の派祖であり、ここを不断如法念仏道場とするとともに名も三鈷寺と改めた。これは背後の山容が仏器の三鈷杵に似ているからと言われている。

善峯寺:天台宗単立寺院。神経痛・腰痛の祈願所。
西国三十三所観音霊場第20番札所、京都洛西観音霊場第1番札所、神仏霊場京都5番。
平安時代中期の1029年、源算上人によって開かれた。1034年、後一条天皇の勅願で善峯寺と寺号を賜る。
1042年、後朱雀天皇の時に、仁弘法師作の十一面千手観世音菩薩像を本尊とし、先の源算作観音像を脇侍とされ、白河天皇によって諸堂が建立された。
鎌倉時代には京都青蓮院門跡の宮様が代々住職を勤めたため西山宮門跡と称された。
室町時代の応仁の乱で焦土と化したが、江戸時代に徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院が復旧した。

光明寺:西山浄土宗の総本山。山号は報国山。
法然上人二十五霊場第16番、京都洛西観音霊場第7番、西山国師遺跡霊場第13番札所。
隣接する京都西山短期大学は光明寺の学寮が発祥。
1198年、法然上人の弟子である蓮生れんせい法師(熊谷次郎直実)の開基とされる。法然上人が念仏の教えを最初に説いた「浄土門根元地」と伝えられる。
また京都市西京区大原野の「善峯寺」、長岡京市浄土谷の「楊谷寺」とともに京都・西山三山と言われている。

観音寺:創建は奈良時代と言われる。
文献で初めて見られるのは室町時代初の1340年で、江戸時代末の「都名所図会みやこめいしょずえ」にも同寺の絵が描かれている。
隣接する子守勝手神社とともに粟生あお地区の「十人衆」と呼ばれる長老の奉仕により維持管理されている。

長法寺:天台宗。山号は清巌山せいがんざん。京都洛西観音霊場第9番。
寺伝によると、延喜年間(901〜923年)園城寺おんじょうじ(三井寺)で修行した千観せんかん上人が開いたとされる。しかし旧長法寺村に残る江戸期の古文書によれば、962年創建で比叡山延暦寺正覚院の末寺となっている。千観せんかん上人は918年生まれというから、延喜年間の開創というのは無理があるよう。
ただ、かつて平安時代の仏画の二大傑作の一つと言われた「釈迦金棺出現図しゃかきんかんしゅつげんず」掛幅(国宝)を所蔵していたことから、平安時代にはかなり栄えていたことがうかがえる。
また本堂前には千観供養塔と伝えられる鎌倉時代の三重の石塔があり、境内の西北隅には巌窟から泉(溺泉おぼろのいずみ)が湧き出ている。

乙訓寺:784年に桓武天皇が長岡に遷都した際、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築した。この当時の境域は、南北百間以上もあり、建てられた講堂は九間に四間の大増築で難波京の大安殿と同じ規模のものであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々に暗殺されるや、天皇は早良さわら親王を当寺に幽閉した。
なぜなら早良さわら親王は桓武天皇の実弟で皇太子であったが、暗殺団と見られた一味と交流があったからである。親王は身の潔白を示すため断食して訴えたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路島に葬られた。その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、また悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良さわら親王を復権、崇道すどう天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。

柳谷奥の院:西山浄土宗光明寺の末寺。新西国霊場第17番札所。柳谷観音の名で親しまれている。
十一面千手千眼観音が本尊。
寺伝によると、806年京都清水寺の開祖延鎮が開き、空海もこの地で修業したと言われている。
境内にある奥之院は京都洛西観音霊場第10番札所で、十一面千手観音が祀られている。

乗願寺:西山浄土宗光明寺の末寺。山号は浄土山。京都洛西観音霊場番外札所。
天延年中(973〜976年)に恵心僧都がこの地で修行中に阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み草庵を結んだのが当寺の始まり。

今回の旅行、京都の洛西に足を運び、京都洛西に点在する京都洛西三十三霊場の番外編を含む35か所を訪れ楽しみました。

京都の寺院、規模が大きく派手な寺院が多いが今回の寺院、こじんまりして地味で、派手さがなく、参拝者も少なくひっそりしていましたが西国霊場に含まれる3か所、吉峯寺、光明寺、柳谷観音楊谷寺は規模が大きくて立派な寺院でした。
有名で規模の大きい京都の寺院、今回のマイナーな規模の小さい寺院巡り、再発見感覚で楽しめました。























 



京都府お城・城下町巡り第二弾観光  
2015年5月10日
  

古くから権力の中心にあり、建武中興のころから城郭が多く築かれ、足利尊氏が幕府を開き、応仁の乱では各地で11年間も戦闘が繰り広げられ、細川氏と山名氏の抗争は戦国時代までつながっていく京都に足を運び、京都府お城・城下町めぐり第二弾、7箇所(亀山城、八木城、周山城、園部城、建部山城、宮津城、弓木城)のお城をめぐりました。

9:00車で出発、亀岡に向かう。

亀山城:天正5年、明智光秀が丹波攻略の拠点として、それまで八木城の内藤氏の砦規模の支城を大修築した。 
天正10年、光秀は信長より中国出陣を命じられ亀山城を出陣したが、老の坂を下り桂川から京の本能寺に軍勢を転じて主君織田信長を討った。 山崎の合戦で光秀が敗死後、丹波少将豊臣秀勝、小早川秀秋が城主となっている。
慶長14年、岡部長盛が32,000石で城主となる。 翌15年に徳川幕府は、山陰の要としてこの城を重視し、天下普請による大修築を行った。
岡部氏の後、丹波亀山城主は目まぐるしく替わる。 寛延元年、形原松平信岑が丹波篠山より5万石で入封して安定する。 以後明治まで8代に渡って形原松平氏の居城となった。 

八木城:築城年代は定かではないが、室町時代に丹波守護代内藤備前入道によって築かれた。
戦国時代の天文22年、丹波八上城の波多野秀忠らに攻められ落城、守護代内藤国貞は討ち死にして、以後内藤氏は没落する。 この国定の遺児が内藤ジョアンだ。
替わって八木城には松永久秀の弟長頼が居城するが、黒井城主赤井直政の侵攻を受け敗死した。
内藤ジョアンが城主に復帰するが、天正元年織田信長に追放された足利義昭に味方し、明智光秀による丹波侵攻により落城。 そして、内藤氏とともに、この頃八木城も廃城となった。 

周山城:天正7年、明智光秀の丹波攻略により宇津城は開城、翌天正8年に宇津氏等の土豪の押さえとして、また京と若狭を結ぶ周山街道の押さえの城として築かれた。
明智光秀は、丹波支配のための居城として亀山城を築き、福知山城に明智秀満、黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守、そしてこの周山城に明智光忠を配した。
天正10年までは明智光忠が城主として居城、本能寺の変後明智氏滅亡と共に周山城は廃城となった。 

園部城:様々な勢力が園部の地に居城を構えたが、室町時代末期、丹波八上城を本城とする波多野氏の家臣である荒木山城守氏綱が七頭衆として園部城に君臨していた。
が、天正六年(1563)明智光秀の丹波攻略の前に潰え去った。
元和五年(1619)に但馬出石より小出伊勢守吉親が入封し、新しく城地を開き、築城した。二年を費やして完成、東・西・南の三方を天神山、振天山、小向山が囲み、その中心に本丸が置かれることになった。現存の城門は枡形でなく、御殿玄関に直結されている構造から、園部城を園部陣屋とも言われている。本丸には三つの二層櫓が構えられていたが、見張りの役には不十分だったのか背後の小向山に三層の小向山櫓を建て、城内外の見張りを果たしていた。また、その本丸の外側には内堀があり、さらにその外に二重櫓、その外側には外堀がめぐらされていた。
以後、小出氏十代二万六千石として明治を迎えることになった。維新の際に京都御所が攻められる危険があったことから、万一の避難場所に園部城が選ばれることになり、城の修復を行われたのであった。

舞鶴方面に向かう。

建部山城:築城年代は定かではない。建武3年・延元元年(1336年)一色修理大夫範光が建部山城を築いたのが始まりとも云われるが詳らかではない。
明徳3年(1392年)明徳の乱で功のあった一色満範が丹後国守護職に任ぜられ、加佐郡の八田館を守護所とし、その背後にある建部山に詰城を築いたのが建部山城の始まりと云われる。
天正6年(1578年)織田信長の部将細川藤孝が丹後へ侵攻し、翌天正7年には一色義道の籠もる建部山城も落城し、義道は中山城へと退いた。しかし、中山城主の沼田幸兵衛が細川氏に内通したことから、義道は中山城で自刃して果てたと云われる。義道の子の一色義定は弓木城に退いて防戦し、細川氏と和睦している。

宮津城:天正6年、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主一色義通を滅ぼして丹後を平定した。 その功により細川藤孝は丹後一国12万石の領主となった。
天正7年、藤孝は宮津城を本城として築き、天正10年に本能寺の変の際、藤孝は田辺城に隠居して、宮津城には嫡男忠興が居城とした。
その後、慶長5年の関ヶ原の際には、忠興は関東へ出陣中で、西軍の丹後攻めのおりに藤孝が宮津城を自焼して、田辺城に籠城している。
元和8年、京極高知が遺命により丹後は三分され、嫡男高広が78,200石を領し、宮津城を居城とした。高広は、荒廃した宮津城を新造するほどの大改修を行った。
京極氏は、2代高国の時改易となり、以後永井・阿部・奥平・青山氏と目まぐるしく城主は替わったが、宝暦8年に松平(本庄)資昌が遠江浜松より77,000石で入封し、以後7代続いて明治に至った。 

弓木城:京都府与謝郡岩滝町の一帯は、律令国家の時代には拝師郷と呼ばれる行政地域の西方にあたり、与謝郡衙の存在も推定されています。鎌倉時代になると岩滝町から宮津市須津にかけては稲富保と呼ばれ、摂関家近衙家の所領となりました。
 弓木城は、この稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、そのくわしい歴史はわかっていません。稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。ところで「丹後国御壇家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏ほか四名の名をあげ、これとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋ほかの名をあげています。
 天正十年(1582)織田信長の命令をうけた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りました。が、抗議の甲斐なく滅亡しました。四代直家は、当時希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが、運良く滅亡をまぬがれ一時細川氏に仕えた後、豊臣秀吉、徳川家康に珍重され、晩年は、尾張徳川家の祖義直(家康の第九子)に仕えました。
 今日の丹後弓木城は、一色氏最期の地としてあまりにも著名ですが、もともとは稲富氏の居城であり、丹後の中世山城を代表する弓木城の滅亡は、まさに丹後における中世の終焉を象徴する画期的な事件であったといえましょう。

今回の旅行、近場の京都府の比較的マイナーなお城めぐり第二弾、7箇所のお城を車でめぐりました。

今回も平城は比較的見つけるのが容易でしたが、山城は見つけるのに苦労を要しました。










京都府お城・城下町巡り観光  
2014年12月23日
 

古き都、大阪の北東に位置する京都に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所(鹿背山城、笠置城、槇島城、淀城、勝龍寺城、山崎城、山科本願寺、御土居、聚楽第、静原城)を訪れました。

10:00車で出発、京都に向かいお城をめぐる。

鹿背山城:南山城最大の山城であるだけでなく、戦国末期の特徴をよく残す点で城郭史上注目される城郭である。十五世紀に南都興福寺の北方防御の拠点として史料上に登場し、古市氏以下興福寺傘下の武将がしばしば入城した。十六世紀後半、大和北半部を支配した松永久秀は多聞山・信貴山・龍王山とともに本城を拠点として重視し、改修を加えた。城域の西北・東南の二か所に畝状空堀群を採用して防御上の弱点を補い、主郭北斜面の水の手をカバーする竪堀・竪土塁で北面防御を完結させたほか、主郭東南隅の櫓台の切岸直下の隘路に通路を導いて城虎口(出入り口)とするなど、織豊城郭登場前夜の築城技術の水準を示す貴重な遺構を残している。

笠置城:笠置城は、元徳3年に後醍醐天皇が山岳寺院笠置寺を利用して城としたもので、鎌倉幕府軍と戦った元弘の変の舞台となった。 1ヶ月の籠城戦が繰り広げられ、幕府軍の奇襲により落城、後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐の島に流された。戦国時代の天文年間、笠置城は河内飯森山城主代木沢長政の持城となっていた。長政は、主家であった河内高屋城主畠山氏から実権を奪い、河内・山城守護代に任じられ、河内・山城・大和周辺にて軍事行動をたびたび行っている。 天文11年、長政は、細川晴元・三好長慶と河内大平寺にて合戦し討ち死にした。

槇島城:槇島城は、1573年(天正元年)に足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた「槇島城の戦い」の舞台となった城として知られています。義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となりましたが、1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による伏見城築城後はその戦略的価値がなくなり廃城となりました。なお、伏見城築城にあたり宇治川の流路を付け替える工事の際に、石垣も「槇島堤」に利用されたため遺構は残っておらず、現在は槇島公園内に石碑を残すのみです。義昭退去によって実質上、足利幕府は滅んだとされており、室町幕府終焉の地ともいわれています。

淀城:徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1723)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二ヶ所に取り付けらていた。淀城とその城下町の盛観は延享五年(1748)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。

勝龍寺城:勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたといわれる。城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷に押さえうる交通の要所に築かれている。応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正十年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が十六歳のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。正面虎口 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。

山崎城:山崎城(鳥取尾山城とも)の起源は古く南北朝の初期頃とされている。男山に籠城する北畠顕信らに呼応して蠢動する摂津国の南朝勢を京都から防禦するために摂津守護赤松範資が築城したものと推定されている。その後、応仁の乱後には山城守護山名是豊が当時西岡を支配していた西軍の畠山義就や摂津の大内政弘らに対抗するために当城を修築したようである。その後、細川晴元や三好長慶らが利用するなど重要な役割を果たしていた。天正十年(1582)六月の本能寺の変のあと、備中高松城から戻った羽柴秀吉と神戸信孝らの軍に対し、明智光秀は男山と当城に陣取ったもののすぐに淀、勝竜寺城に引き下がってしまう。そこをすかさず秀吉が天王山を占拠し、一気に光秀勢を追い落とした。秀吉はそのまま翌十一年(1583)の大坂城に移るまで本拠としていた。

山科本願寺:浄土真宗中興の祖である蓮如上人は、本願寺再興の夢を山科盆地に求め、文明十年(1478)から六年近くの歳月を費やして建設されたのが山科本願寺である。山科本願寺は、御影堂や阿弥陀堂など豪壮な堂舎や屋敷が建ち並び、二重三重に巡らされた土塁や濠により囲まれていた。その寺域東西800メートル、南北1000メートル程度の規模があったものとみられ、そこでは寺内町と呼ばれる独立した空間を築きあげていた。山科本願寺は仏徒の支配する独自の世界を創出しようとしたものであったが、天文元年(1532)に六角氏と法華宗徒の連合軍の攻撃を受け、その造営から50年余で焼失し、大坂の石山本願寺に移った。現在では山科中央公園や民家所有地のなかに土塁や濠などがいくつか残っているにすぎないが、これまでの発掘調査では、石垣遺構・鍛冶場跡・石室跡などの遺構が検出されている。延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は法燈を実如に譲り、ここ音羽の地に隠居所を設け、自らの住まいとした。これが山科本願寺南殿である。この南殿も、城郭的な施設を備え、200メートル四方程度の規模があったものと推定されている。邸内には園池が築かれ、築山を構え、持仏堂・山水亭・台所などが設けられていた。
 「山科本願寺南殿跡」及びその西方に所在する「山科本願寺跡」は、強固な防御施設を備える中世城郭宗教都市としてわが国の歴史を知る上で重要な遺跡であることから、平成14年12月19日にその一部が国の史跡に指定された。

御土居:御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。
 また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。

聚楽第:天正十四年(1586)、豊臣秀吉は旧平安京大内裏跡地に、聚楽第の築城をはじめた。聚楽第には各地の諸大名の屋敷も集められ、豊臣政権の京都における官庁として進められることになり、翌天正十五年正月に完成した。さらに翌年には、後陽成天皇の行幸が盛大に執り行われ、豊臣秀吉の勢威はますます天下に知れ渡るようになった。その縄張りは「京都図屏風」や「寛永洛中絵図」などにより、本丸西北隅に天守閣を置き、その北に北の丸、南に南の丸、本丸西の南寄りに西の丸があったことがわかっている。また、「聚楽第図屏風」によれば天守閣は、外観四層、上三層分には破風と花頭窓を備えた高爛付望楼型天守の様相が描かれている。やがて、秀吉は政治の中心を伏見へ移すようになり、聚楽第も解体されて伏見城の資材とされてしまい、廃城となってしまった。しかし、各地に移築された建造物といわれるものがいくつか残っている。大徳寺の唐門や、西本願寺の飛雲閣などがそうである。

静原城:静原静(城谷山)は、弘治元年に三好長慶が山城54郷に夫役を課して築城した。 その後、永禄11年に織田信長が入京して三好氏を京から駆逐する。信長と足利将軍義昭との間が決定的な状況になると洛北の諸豪族は信長から離反した。 元亀4年、岩倉の小倉山城主山本対馬守も居城を離れてこの静原城へ立て籠もったが、明智光秀によって攻められ落城した。

16:30帰路に向かう。

今回の旅行、近場の古き都、大阪の北東に位置する京都に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所(鹿背山城、笠置城、槇島城、淀城、勝龍寺城、山崎城、山科本願寺、御土居、聚楽第、静原城)を訪れ楽しみました。

ガイドブックと携帯で場所を検索し調べ、なんとか京都のマイナーなお城10箇所を探し求めて訪れることが出来ました。今回も平城は見つけるのが容易ですが山城は難しく、辿り着くのが一苦労でした。













 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第百五十三弾:京都府丹後観光
2011年7月30−31日


京都府の北部、丹後に足を運び、日本三景の一つ天橋立や舟屋の風景が広がる伊根、日本海に大きく突き出した丹後半島、田辺城を中心に形成された城下町として栄えた西舞鶴、軍港の町とし発展してきた東舞鶴を訪れました。

30日12:30車で近畿中国舞鶴自動車道経由して舞鶴東インター下車
14:30東舞鶴到達。

第二次世界大戦終結後、13年間にわたって旧満州やシベリアなどから約66万人の引揚者を迎え入れた舞鶴港。その引揚港としての歴史を伝える資料館で、シベリアでの集団収容の様子を再現したジオラマ、当時収容所で使用していた生活用品などを展示。周辺は記念公園として整備されており、記念碑や「岸壁の母」の歌碑が立っている舞鶴引揚記念館を見学。

海に浮かぶ豪華客船をイメージした施設で、日本初の海上プラネタリウムが体験できる。そのほか、エネルギー・電気について学べるエネルギー体験館や、舞鶴を紹介する舞鶴体験館で構成されているエル・マールまいづるを訪れる。

レンガをテーマにした博物館。1903年(明治36)に旧海軍の魚雷庫として建てられたレンガ造りの建物を利用したもの。館内では、世界四大文明の遺跡や、万里の長城など世界の有名な建造物のレンガを、模型や実物、映像などで紹介している赤れんが博物館を見学。

北吸地区に12棟あるレンガ造りの倉庫群の総称。現存するレンガ建造物の中でも貴重な近代建築の建造物で、旧海軍の倉庫として明治期に9棟、大正期に3棟築かれた。そのうち3棟は「赤れんが博物館」「舞鶴市政記念館」「まいづる智恵蔵」として保存・活用されている赤れんが倉庫群を訪れる。

舞鶴湾が一望できるスポット。五老岳山頂に建てられた五老スカイタワーの展望台に上がれば、舞鶴湾の一望はもちろんのこと、360度の眺望が楽しめる五老ケ岳公園を訪れる。

五老岳山頂に立つ、高さ50mの展望タワー。標高325mの展望室からは、舞鶴湾や舞鶴の市街地が一望。タワー周辺は、五老ケ岳公園として整備されている五老スカイタワーを訪れる。

戦国時代、細川幽斎・忠興親子によって築かれた田辺城。その城跡は舞鶴公園として整備され、入口に復元された城門を資料館として公開。展示室では歴代城主や城下町の様子が紹介されている舞鶴市田辺城資料館を見学。

西舞鶴駅付近のホテル到着後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日6:30車で出発、宮津・天橋立方面に向かう。

1896年(明治29)、フランス人宣教師のルイ・ルラーブ神父によって建てられた。現役の木造聖堂としては日本最古のもの。フランス製の色鮮やかなステンドグラスやドーム式の天井に、床は畳敷という和洋折衷のロマネスク様式聖堂のカトリック宮津教会を訪れる。

酒造業、廻船業、糸問屋など幅広く商売をする一方で、宮津藩の財政や町政にも深く関わっていた豪商の屋敷。美しい白壁の風格ある建物で、茶室や座視観賞式庭園もある。主屋は外壁の柱や垂木を壁土や漆喰で塗り込めた大壁造りを用いて、徹底した防火構造になっている旧三上家住宅を訪れる。

陸奥の松島、安芸の宮島と並ぶ日本三景の一つ。宮津湾と内海の阿蘇海を南北に隔てる幅20〜170m、全長約3.6kmの細長い砂嘴のことで、白い砂浜には約8000本もの黒松が生えている。一帯は天橋立公園として整備され、「白砂青松百選」「日本の道百選」「名松百選」に選定。陸からの眺めは北側成相山中腹の傘松公園か、南側の文珠山頂上の天橋立ビューランドが最適。ケーブル・リフト・モノレールなどで上ることができる。砂嘴の途中には橋立明神や岩見重太郎仇討ちの場、与謝蕪村の句碑、与謝野寛・晶子の歌碑と見どころが点在する天橋立を散策する。

通称を天橋立の切戸の文殊堂といい、古代から知恵を授かる文殊菩薩の信仰の地として知られる古刹。本堂に秘仏の文殊菩薩像(重要文化財)を祭り、境内には室町時代造立の多宝塔(重要文化財)、鎌倉時代鋳造の鉄湯船(重要文化財)、すぐ横の連絡船乗り場の近くに智恵の輪灯籠がある智恩寺(文殊堂)を訪れる。

文殊堂のある陸地と天橋立を結ぶ廻旋橋。多い日には50回以上、船が通るたびに中央から橋が90度旋回する。以前は人力で動かしていたが、現在は電動式。5分ほどかけて、ゆっくり船をやりすごす様は情緒的な廻旋橋をわたる。

天橋立の砂嘴にある井戸。周囲を海に囲まれているにもかかわらず塩分をまったく含まない真水で、「日本名水百選」の一つにも選定。和泉式部の『橋立の 松の下なる 磯清水 都なりせば 君も汲ままし』をはじめ、多くの歌に詠まれている磯清水を訪れる。

股のぞき発祥の地といわれる一字観公園。ここからは宮津湾と阿蘇海を「横一文字」に区切る天橋立を眺望できる。園内にはキャンプ場やコテージ、テントサイト、遊歩道が整備されている。また与謝野晶子ら文人も訪れ、多くの歌碑や句碑が立つ大内峠一字観公園を訪れる。

常設展示では「丹後の歴史と文化」をテーマに、考古・歴史・民俗の各資料を縄文時代から時代順にわかりやすく展示するほか、季節ごとに、郷土に関するテーマで企画展を開催。「旧永島家住宅」は、京都府の有形文化財に指定されており、暮らしにかかわる道具などを展示している京都府立丹後郷土資料館を見学。

704年(慶雲元)、真応上人が開基した西国三十三カ所霊場第28番札所の古刹。「願い事が成りあう寺」として有名。境内には悲しい言い伝えの残る撞かずの鐘や、左甚五郎の作とされる彫刻「真向の龍」などがある成相寺を訪れる。

成相山中腹にある公園。ここから股のぞきすると天地が逆転し、まさに天橋立が天に架かる橋のように見える傘松公園を訪れる。

丹後一の宮として格式を誇る古社で、社殿は伊勢神宮と同じ唯一神明造。伊勢へ遷る前の天照大神と豊受大神[とようけおおかみ]が祭られていた。4月24日には、第四代懿徳天皇の時代から続いているという葵祭が行われる。神門前の石段わきにある狛犬(重要文化財)は、作者の魂が入って天橋立の松原に出没していたのを剣豪・岩見重太郎に斬られたという元伊勢籠神社を訪れる。

「自然に学び、自然を遊ぼう」をテーマとした公園。自然素材を使ったクラフトや地元産の材料で作るパンやピザなど、子どもから大人まで楽しめる様々な体験プログラムがある。大地の天文台からは宮津湾や天橋立を望むことができる京都府立丹後海と星の見える公園を訪れる。

丹後半島を反時計回りで巡る。

伊根湾を取り囲むようにして、海辺ぎりぎりに立ち並ぶ伝統的な建物。海に直接面した1階は船揚場や作業場、2階は住居や民宿などとして機能的に活用されている。現在約230軒もの舟屋が建ち並ぶ伊根浦地区は、漁村では全国初となる「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている。遊覧船や展望台からの一望もいいが、町並みをゆっくりと散策すると舟屋の生活を間近に感じることができる伊根の舟屋を訪れる。

825年(天長2)に創建され、浦島太郎を筒河大明神として祭っている。境内の資料室には玉手箱をはじめ、浦嶋明神絵巻など、浦嶋伝説ゆかりの宝物を展示している。浦嶋明神絵巻の絵説きが好評の浦嶋神社を訪れる。

丹後半島最北端の岬。若狭の海岸や能登半島を望める。僧が悪龍を退治するために経典を納めたという伝説から名付けられた。明治建築の高さ12.5mの白い灯台がある経ケ岬を訪れる。

琴引浜近くにある体験学習館。琴引浜や、世界各地の鳴き砂に関する資料を展示。鳴き砂体験コーナーでは、鳴き砂を使ってドレミの音階を鳴らしてみたり、容器に入った鳴き砂を自分で鳴らすことができる。琴引浜に漂着するさまざまな物を展示し、日本海の環境保全について考えるコーナーなどもある琴引浜鳴き砂文化館を見学。

久美浜から宮津に戻る。

約1500の古墳が点在する古代ロマンの町・与謝野。与謝野町古墳公園には、そのうち蛭子山古墳と作山古墳が復元されている与謝野町立古墳公園を訪れる。

旧加悦鉄道の駅舎を利用したSL博物館。旧加悦鉄道の所有のものを中心に27輌のSLなどが集められ、実物の車両に乗ったり触れたりすることができる加悦SL広場を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、京都府北部の丹後に足を運び、日本三景の一つ、神様が架けた橋との伝承が残り、8000本の松で覆われた砂嘴の天橋立、多くの史跡・古墳が点在する城下町宮津、伊根湾を取り囲むように並ぶ舟屋で知られる伊根、海水浴やキャンプ場などの遊びとスポットに事と欠かせない丹後半島、田辺城を中心に形成された城下町として栄えた西舞鶴、軍港の町とし発展してきた東舞鶴を訪れ一泊二日のドライブ観光堪能しました。

今まで海水浴等で何回も訪れたことのある丹後、今回はガイドブックを詳細に読みながら観光名所をくまなく巡りました。

自然有り、文化有り、点在する多くの観光名所が存在する京都府丹後のドライブ観光でした。













京都府洛北観光
2011年5月18日


文化遺産の宝庫、京都に足を運び、都人がひっそりと隠遁した閑雅なエリアから穏やかな山里の大原、神秘的な伝説が数多く伝わる山深い鞍馬や貴船などのエリアの洛北を訪れました。

12:30車で第二京阪阪神京都線経由して
13:30洛北エリア到達。

鞍馬・貴船から市街地に戻る途中の鞍馬街道沿いに、市原野と呼ばれる集落がある。このあたりは古くから小野氏の領地で、小野小町と深草少将の亡霊が僧侶に百夜通いの物語をする、謡曲『通小町』の舞台でもあった。この寺も正式には補陀洛寺というが、通称の小町寺で知られる。本堂内には、美女の姿からはかけ離れた小野小町老衰像を安置。境内には小野小町塔や深草少将塔、小野小町姿見の井戸なども残る補陀洛寺(小町寺)を訪れる。

大原方面に向かう。

三千院からさらに東、呂川沿いに山道を少し上った地にひっそり佇む。最澄の直弟子の慈覚大師円仁が中国の五台山を模して建立、その後衰微したが1109年(天仁2)に融通念仏宗の祖良忍上人が再興した。円仁は唐への留学で、独特の節回しで唱えるお経である声明を持ち帰ったため、ここが日本での声明の発祥地とされる。本堂には藤原時代の本尊薬師如来像(重要文化財)を中心に、釈迦如来像(重要文化財)、阿弥陀如来像(重要文化財)を安置する来迎院を訪れる。

来迎院から東北に300mほどの小野山山中に分け入った所、律川の上流に位置する。滝の音で声明を乱されるのを恐れた良忍上人が呪文を唱えると、ごうごうと流れる滝の水音がぴたりと止まったとの伝説が残る。風情ある滝は、かなわぬ恋に袖を濡らす涙にも例えられ、多くの歌にも詠まれている音無ノ滝を訪れる。

天台声明の根本道場として開山された寺。1188年(文治2)、浄土宗祖法然上人が諸学の学僧と宗論をした、「大原問答」の舞台として有名。この問答で、阿弥陀仏の名を唱うれば仏様の願力によって衆生が救われると法然が説いたところ、阿弥陀如来が手から光明を放ったといわれる。このことから、本尊を「証拠の阿弥陀」と呼ぶようになった。また、当時をしのばせる問答台が2つ本堂に残っている。子院に実光院と宝泉院がある勝林院を訪れる。

大原の里からさらに北に2kmほど行った古知谷山中にある寺。1609年(慶長14)に木食上人弾誓[もくじきしょうにんだんせい]が、如法念仏の道場として開いた寺。参道の坂を登り切った所に本堂が佇み、その背後に弾誓上人が即身成仏したミイラ仏を収めた開山窟がある。上人は1613年(慶長18)に生きながら石棺に入ったと伝えられ、今も端座合掌の姿勢のまま安置されているという。本堂には、弾誓自身の髪を植え込んだ上人像や、鎌倉時代の阿弥陀如来坐像(重要文化財)が祭られている阿弥陀寺(古知谷阿弥陀寺)を訪れる。

花背の山中にある古刹。仁王門(重要文化財)から15分登った崖上に、日本最古の舞台造りの本堂(重要文化財)が立つ。奈良・大峰山に対し北大峰と呼ばれる修験道場の峰定寺を訪れる。

1362年(貞治元)、権争の過中を出て禅の道に入った光厳天皇が庵を結んだのが始まり。仏殿、舎利殿、が立つ境内は桜で埋まり、なかでも細い枝を幾重にも垂らす樹齢600年余の九重桜(天然記念物)は、特に美しい枝垂桜。このほか、江戸時代に京都御所左近の桜を株分けしたとされる左近桜、その美しさに感動して後水尾天皇が御車を返したとされる御車返しの桜もある常照皇寺を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の文化遺産の宝庫、京都に足を運び、京都北部の洛北エリアの点在する歴史的建造物を訪れ、ほぼ京都を制覇しました。





京都府洛西観光
2011年3月30日


世界遺産、歴史的建造物の宝庫、京都に足を運び、山間に名刹が点在し、桜や紅葉などが見事な洛西に足を運びました。

12:30車で第二京阪阪神京都線自動車道経由して上鳥羽インター下車
13:30洛西到達

京都御室仁和寺前から京北町周山へ続く道。昔、「畑の姥」と呼ばれた梅ケ畑の女性は、梯子や鞍掛けなどを頭上に載せ、この街道から市中に入り、品物を売り歩いた。街道沿いには紅葉がすばらしい高雄、槇尾、栂尾の三尾があり、さらに進むと道は北山杉の美林の間を抜け、山里の風景を満喫できる。また、北山杉の里と呼ばれる中川集落では、北山磨丸太を立て干しした光景も見ることができる。さらに北へ、笠峠を越えると木と清流の里京北町。中心部の周山にはウッディー京北などのスポットがあり、桜で名高い常照皇寺などの歴史遺産も点在する周山街道を訪れる。

清滝川に面して立つ、水墨画家・田中應吉のギャラリー、ギャラリー墨を訪れる。

北山杉は京都市北区中川を中心に植林されており、磨き丸太は茶室などの床柱に用いられている。その北山杉独特の絞りと、美しい木肌が作られる過程のパネル、各種丸太材や加工品の実物などが展示されている。実際に手で触れて、香をかいでみることができる。敷地内に川端康成の『古都』の文学碑も立っている北山杉資料館を訪れる。

賀茂川の水源の山中にひっそりと立つ修験の道場。不動明王を祭ることから岩屋不動とも呼ばれるが、正式には「岩屋山金光峯寺志明院」という。修験道の開祖・役行者が開山、勅願所として空海が創建したと伝わる。巨木が天を覆う山内には、飛竜ノ滝や護摩洞窟など多くの行場があり、歌舞伎十八番「鳴神」の地として、また天然記念物のしゃくなげ林など有名な志明院を訪れる。

京都人に「あたごさん」の名で親しまれている。老杉に囲まれた愛宕山の山頂にあり、僧泰澄と役小角によって大宝年間(701〜704年)に神廟が開かれたのが始まりと伝わる。祭神の伊邪那美命の子、迦倶槌命[かぐつちのみこと]が火の神なので、防火鎮火の神として尊ばれている愛宕神社のある愛宕山を望む。

本尊は千手観音。平安時代から厄除けの観音様として厚く信仰されている。春はシャガ、秋は紅葉の羅漢寺として親しまれているこの寺には、境内に1200鉢もの表情豊かな石造の羅漢さんが並び、訪れる人々の心を和ませてくれる。嵯峨野めぐりにはここを出発点とする「嵯峨野散策モドルコース」がおすすめ。「清滝行き」の京都バスに乗れば、嵐山周辺からの上り坂も楽々。後の見所は全て下り坂コースになるので帰り道も安心。ここが嵯峨野めぐりの始発点の愛宕念仏寺を訪れる。

清滝川渓谷は紅葉の名所として知られ、清滝を起点に高雄までは錦雲渓、下流の落合までは金鈴峡と呼ばれている。整備された川沿いの道は東海自然歩道に指定され、ハイキングコースとして親しまれている。約1.5km、紅葉のほかに桜や藤、新緑などが楽しめる金鈴峡を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

何回も訪れたことのある京都府洛西エリア、今回は比較的マイナーな名所をめぐりました。
派手さのある寺社が数多く京都に点在していますが、いままでにない地味な寺社を選んでめぐり歴史学習できました。





京都府洛東観光
2011年2月9日


文化遺産の宝庫、近場の京都に足を運び、銀閣寺、南禅寺、平安神宮、知恩院、清水寺など有名社寺が点在し、京都随一の観光スポットを抱えるエリア。春は桜並木の哲学の道をそぞろ歩くのもよし、秋は錦秋に包まれる清水寺界隈を散策するもよし。四季それぞれの京都の風情を楽しみたい。夜は花街情緒が漂う祇園界隈で、京料理やおばんざいを味ってみたい京都洛東を訪れました。

12:30車で第二京阪阪神京都線経由して
13:30洛東到達

高台寺の門前、「京・洛市ねね」の2階にある美術館。桃山時代の華麗な漆工芸として知られる高台寺蒔絵で装飾された高台寺の収蔵品などが、季節ごとに展示公開される。調度品などねねと秀吉ゆかりの品々を間近に見られ、戦国の世の武将や女性たちの優雅な美意識にふれることができる高台寺 掌美術館を訪れる。

風情ある石畳と石塀が続く小路が高台寺通と下河原通の間に通い、京情緒漂う散策を楽しめる。京都らしい風情の旅館や料亭、庭園が美しい喫茶店などがあり、そぞろ歩きを楽しむのによい。もともと下河原界隈は北政所(ねね)をなぐさめるために歌舞音曲に優れた美しい女性を集めた場所で、のちに花街として発展。お茶屋や料亭が並び、要人や大物俳優がお忍びで訪れた場所でもある石塀小路を訪れる。

茶道・琴・華道・雅楽・狂言・京舞・文楽といった、日本の伝統芸能が約1時間で気軽に観覧できる。外国人観光客向けに始められたが、コンパクトに古典芸能が集められているため日本人にも好評。祇園の舞妓に確実に会えるのも、ここならでは。舞妓の絵や花かんざしなどの展示、五花街を紹介する舞妓ギャラリーもあるギオンコーナーを訪れる。

八坂神社の西楼門の階段を降りて四条通を西へ100mのところに老舗のお茶屋・万亭(一力)がある。その西を南北に走り、華やかな紅殻塗の壁や竹で編まれた犬矢来(駒寄せ)の一力近辺には、簾を垂らしたお茶屋が立ち並び、しっとりと洗練された佇まいを見せる。この一力は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で大星由良之介(大石内蔵助)が高師直(吉良上野介)の目をくらますためにお茶屋遊びをする「祇園一力の場」としても有名な花見小路を訪れる。

四条通の鴨川に架かる橋。1142年(永治2)の架橋と伝わり、八坂神社(祇園社)の参詣路にあたっていたため祇園橋とも呼ばれていた。東詰南側には京の師走の風物詩「顔見世」で名高い南座が立ち、傍らには歌舞伎発祥の地の碑がある四条大橋を訪れる。

近現代の作品を中心に展示する美術館。天井の高い1階の展示室を抜け、エレベーターで階上へ進むと2階は村上華岳作品室、3階では山口薫の作品を展示している。特に山口薫コレクション数は圧巻で、全国からファンが訪れるほど。5階の最上階は「光庭」といわれる坪庭と茶室になっている。また、地階には北大路魯山人作品室がある何必館・京都現代美術館を訪れる。

南座前から鴨川遊歩道を北上すると、白川南通。白川の流れに沿って桜と柳の並木が続く、200mほどの石畳の遊歩道である。祇園を愛した歌人・吉井勇の「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」の歌碑が立つ。白川は賑わいを見せる夜も美しいが、人気のない早朝の静寂な時に訪れるのもよい白川南通を通過する。

鴨川に架かる三条通の橋。擬宝珠を冠した木造風の風情ある橋は、京都のシンボル的な景観として、広く親しまれている。近世の東海道五十三次の終点であり、西詰にはそのことを示す里程元標も立つ。現在の橋は1950年(昭和25)に改修されたものだが、1590年(天正18)に豊臣秀吉が建設した木橋の面影を残し、勾欄の擬宝珠14個は当時のものが使われている。橋上からは東山、北山、比叡山の諸峰を望める三条大橋を訪れる。

鎌倉末期、日尊上人が創建した日蓮本宗本山。1万3500平方mの広大な境内には、清涼池をはじめ、本堂、開山堂、鐘楼、庫裏、書院などの堂宇を数え、堂々たる風格がある本山要法寺を訪れる。

京の町屋の構造をイメージして造られた建物で、3階から地下2階までの吹き抜けが開放的。細見家3代のコレクションを中心に企画・展示しており、重要文化財30点以上を含む、古代から近代に至る日本美術を所蔵している細見美術館を訪れる。

「みやこめっせ」の愛称で親しまれる京都の産業振興施設。企業の利用が中心だが、一般に開放される展示会やイベントも多彩。館内の京都伝統産業ふれあい館では、京都の伝統工芸品を紹介・販売している京都市勧業館(みやこめっせ)を訪れる。

ここは平安時代には、貴族の邸宅や天皇の御願寺が立ち並んでいた所。応仁の乱で荒廃し、以後田園地帯となったが、その土地で1895年(明治28)、第4回内国勧業博覧会が開催され、同時に平安神宮が創建された。さらに美術館や図書館などが次々に誕生。今では京の文化スポットとして親しまれている岡崎公園を訪れる。

1963年(昭和38)、京都市勧業館別館を改装して発足。1986年(昭和61)、グレーの花崗岩で外装を統一したモダンな美術館へと生まれ変わった。近代美術を中心に京都・関西・西日本の美術に力を入れ、収蔵作品約9300点の中からコレクション展と、特定テーマに基づく企画展の展示替えを随時行っている京都国立近代美術館を見学。

876年(貞観18)の創建と伝えられる古社。三条神宮道通の南側、石段を上がった高台にあるため、8月16日の大文字の送り火の際は、五山の送り火のうち船形・左大文字・鳥居・右大文字の送り火を見ることができる。毎年体育の日の神幸祭には、祇園祭の山鉾の原形といわれる、高さ7〜8mの剣鉾数基が町内を練り歩く。神社の前は旧東海道が走り、京の七口の一つ粟田口に位置。今もその当時の名残で、旅行安全のお守りを授けている粟田神社を訪れる。

インクライン下の疏水べりに立つ記念館。疏水工事の設計図や模型などを展示し、琵琶湖疏水の歴史を今に伝えている琵琶湖疏水記念館を訪れる。

野村財閥2代目・野村徳七が明治から昭和にかけて蒐集したコレクションを展示。徳七は号を得庵と名乗る数寄者で、風雅の道に親しんだこともあって、収蔵品は茶道具をはじめ能装束、能面、絵画、書跡など約1500点に及ぶ。その中には雪村筆『風涛図』や大燈国師墨跡など重要文化財7点、重要美術品9点を含む野村美術館を訪れる。

哲学の道から少し入ったところにある寺で、毎年7月25日に行われるかぼちゃ供養で有名。後鳥羽上皇の女官だった松虫と鈴虫が、法然上人の弟子、住蓮と安楽の説法に感化され尼僧になったため、怒った上皇により僧2人は死罪、法然も土佐に流された。これを知った女2人は広島県生口島光明坊に転居したといい、今も境内には、住蓮、安楽の五輪石塔と松虫、鈴虫の小さな墓がある安楽寺を訪れる。

大正から昭和にかけて活躍した日本画の巨匠・橋本関雪の邸宅跡。1万平方mもの敷地内には、50畳の画室や茶室がある。さらに画伯自身が設計した池泉回遊式庭園には、日本や中国の石仏、石塔などの石造美術品が多数配置されており圧巻だ。併設のギャラリーでは、関雪の作品や遺品、収集品も鑑賞できる白沙村荘橋本関雪記念館を訪れる。

吉田山の麓にある古社。859年(貞観元)、藤原山蔭が平安京の鎮守社としたのが始まり。その後、文明年間(1469〜87)に吉田兼倶が吉田神道を創設し、全神道の頂点に位置づけた。斎場所大元宮(重要文化財)は兼倶が建てたもので、全国の式内神3132座を合祀。ここにお参りすれば、全国の神祇に参詣したのと同じ御利益があるとされている。2月2〜4日の節分行事は盛大で、多くの参詣者で賑わう吉田神社を訪れる。

京都大学が開学以来100年以上にわたって収集してきた学術標本資料約260万点を収蔵、研究・教育活動に活用することと、その研究成果の公開を目的に設立された。展示品を「見る」だけでなく、熱帯雨林の鳥の音・スコールの雷鳴を聞いたり、アンモナイトに直接触れたりと、博物館を「感じて」もらえるようになっている。京大の学生や元教員たちが毎週土曜に開催する週末子ども博物館では、テーマを沿って学ぶことの楽しさを伝えている京都大学総合博物館を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

文化遺産の宝庫京都の有名社寺が点在し、京都随一の観光スポットを抱えるエリア洛東に足を運び、今回は比較的マイナーな社寺を訪れ歴史学習できました。










京都府洛中観光
2011年2月2日


文化遺産の宝庫、京都に足を運び、歴代天皇が住まれた御所、徳川家の二条城、京都市役所や京都駅を含む、名のどおり京都のど真中エリア、街路も平安京の面影をとどめ、基盤の目のように整然としている洛中を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道阪神京都線経由して
13:30京都駅到達。

京都駅ビルの東端にあるアクセス抜群の劇場施設。2階のKYOTO手塚治虫ワールドには、オリジナルアニメを上映するアニメシアターやグッズショップがある京都劇場[京都駅ビル]を訪れる。

約400年にわたり、京都・三条釜座の地で茶の湯釜を作り続けている千家十職の釜師・大西家は、中世「釜座」の歴史を唯一今に継承し、茶の湯釜の伝統と様式を伝えている。その大西家に伝わる茶の湯釜と茶道具類は春と秋の企画展で公開。会期中は釜の名品をじかに手に触れる京釜鑑賞会や、収蔵品を用いた茶会、講演会などを開催している大西清右衛門美術館を訪れる。

寺町通から烏丸通にかけての三条通は、赤レンガの洋館をはじめ、明治・大正期の近代建築が数多く見られ、伝統的な町家とともに独特の町並みを形成している三条通を訪れる。

上洛の際、滞在する屋敷を持たない大名のために、江戸初期に建てられた陣屋(宿舎)。大名の安全を確保するため、大広間の天井に武者溜[むしゃだまり]を設けたり、隠し階段などが随所に隠されていたりする数寄屋造りが特徴的。防火設備も見事で、1788年(天明8)の大火でも無事だった。主屋と土蔵が重文指定の二条陣屋を訪れる。

樂焼400年の伝統を伝える樂家・初代長次郎から15代吉左衞門までの作品を中心に、樂焼陶芸作品や茶道工芸品などを展示している。樂焼は、初代が千利休の創意によって侘び茶のための茶碗を作るようになったのが始まりとされる。ろくろを使わず、手びねりで形成し、吹子の付いた窯で一碗ずつ焼く技法が特徴の樂美術館を訪れる。

堀川通沿いを流れる堀川に架かる小さな橋。平安時代に文章博士三善清行が死去したという知らせを受けた子浄蔵が、この橋で葬列にあい、柩にすがって神仏に祈ったところ、父が蘇生したので、戻橋と呼ばれるようになったという。秀吉の命で大徳寺にあった千利休の木像がここで処刑され、その後切腹した利休の首が晒された地でもある一条戻橋を訪れる。

四季の移ろいを色や形に託す京菓子。京の菓子処は、上菓子を作る菓子司と饅頭や餅菓子を作るおまん屋、それに餅屋の3つが和菓子の世界を構成している。京都人は、それぞれ食べるシーンや用途によって区別しているが、月の行事の決まりごとになっている菓子もあるほどだ。そんな京菓子をもっと知りたい人のための資料館。糖芸菓子をはじめ、菓子型、御所御用達しの資料などを展示する京菓子資料館を訪れる。

年4〜5回、茶道具や茶の湯に関する美術工芸品の企画展を開催。展示室(1・2階)は広くすっきりとしており、特に2階には裏千家の代表的な茶室「又隠」(重要文化財)のうつしが設けられ、茶室内を見ることができる。また、茶道に関する図書を収蔵する今日庵文庫を併設する茶道資料館を訪れる。

百々御所とも呼ばれた門跡寺院。代々の内親王が住持となっている。光格天皇から賜った多数の人形や双六、投扇、貝覆などの遊戯具を所蔵。人形の寺ともいわれる。春と秋には、皇室から贈られた人形などの寺宝を公開する人形展を開催。境内には人形塚があり、10月14日は人形供養祭が行われる宝鏡寺(人形の寺)を訪れる。

室町中期、「なべかむり日親」といわれた日親上人が開いた日蓮宗の古刹。上人が将軍足利義教に正法によって政治をせよと迫ったため、義教の逆鱗にふれ、灼熱した鍋を頭にかぶせられるという拷問にあった。さらに投獄にも耐えた上人に帰依する者は多く、本阿弥家の菩提寺ともなった。本堂、仁王門、開山堂、多宝塔などの堂宇は天明の大火後、1797年(寛政9)に再建。書院前の巴形の島を配した三巴[みつどもえ]の庭(名勝)は、本阿弥光悦作の桃山時代風の豪放な庭園だ。長谷川等伯作の仏涅槃図(重要文化財)も所蔵の本法寺を訪れる。

1294年(永仁2)に創建された本門法華宗の大本山。天明の大火で焼け残った鐘楼は数少ない本格的袴腰型鐘楼で、江戸時代を代表する建造物だ。松尾一切経や長谷川等伯一派の襖絵(重要文化財)、本阿弥光悦の書など多くの文化財を所蔵。「十六羅漢の庭」と呼ばれる石庭もある。毎月12日にはフリーマーケット「楽市楽座」が開かれ、人々で賑わう妙蓮寺を訪れる。

1914年(大正3)に建てられたモダンなレンガ造りで、元は西陣織物館だった建物。玄関に向かって右側に、「西陣」と書かれた大きな石碑が立っている。現在は市内から発掘された原始から近世にいたる出土品1000点余を、時代別コーナーに分けてわかりやすく展示している京都市考古資料館を訪れる。

鞍馬山で修行した牛若丸(源義経)が、奥州平泉へ旅立つにあたり道中の安全を祈願したという伝説が残る。金売吉次の屋敷の神社ともいい、もとは内野八幡宮という名であったが、このとき以来首途八幡宮と呼ばれるようになったという。首途とは出発という意味。出発を祝う神社として旅行安全のお守りを授与している首途八幡宮を訪れる。

室町時代に日真上人が開いた法華宗真門流の本山。広い境内に本堂、祖師堂、方丈、鐘楼などの伽藍と、8つの塔頭がある。西陣が一夜にして灰燼に帰した西陣焼けや天明の大火にも本堂が焼け残ったので、不焼寺という異名もある。本堂には鬼子母神が祭られていて、安産祈願に訪れる人が多い。葉を枕の下に敷くと子供の夜泣きが止むという「夜泣止めの松」も有名。寺のある紋屋町には、西陣らしい雰囲気が残っている本隆寺を訪れる。

本堂に本尊の大聖歓喜天を安置しているところから西陣聖天とも呼ばれる。境内には本堂、観音堂、大師堂、不動堂、稲荷堂、庚申堂が並び、その間をさまざまな茶花や樹木が彩る。観音堂に安置されているのは、藤原期の作と伝わる千手観音立像(重要文化財)。東門隅には染物がよく染まるという染殿ノ井がある。4月中旬に咲く御衣光という桜は、花びらが緑の珍しいもの雨宝院を訪れる。

参道に高さ1mの釘抜がある。心身の苦しみを抜いてくれる苦抜地蔵がなまって、釘抜地蔵と呼ばれるようになったという。苦しみがなくなると2本の釘と釘抜きを絵馬に張り付け奉納する。地蔵堂の四方は絵馬でいっぱい。安置されている釘抜地蔵菩薩は、弘法大師が自ら石に刻んだと伝えられる釘抜地蔵を訪れる。

本尊は閻魔法王。3m近くある巨像で、左右に検事役の司命と、記録係の司録を従える。5月1〜4日のえんま堂狂言は、壬生寺・嵯峨釈迦堂とともに京都の三大念仏狂言。この寺の狂言は他のもののように無言ではなく、台詞が入る。境内にはゑんま堂普賢象桜といわれる桜の名木、石造十重の紫式部供養塔(重要文化財)などがある。京のお盆の行事、「お精霊迎え」の寺としても知られる引接寺(千本ゑんま堂)を訪れる。

北野天満宮の東が京都最古の花街上七軒。上七軒歌舞練場の日本庭園では夏にビアガーデンが開かれ、西陣の旦那衆の遊興地として発展してきた花街の風情を手軽に味わえる上七軒を訪れる。

足利将軍家の継承問題を巡り、1467年(応仁元)に起こった応仁の乱。堀川より東に本陣を構えた細川勝元の東軍に対し、西軍は山名宗全の屋敷付近に本陣を置いた。これが西陣という地名の始まりとなった。機業の発展とともに範囲が広がり、現在の西陣は、およそ東は堀川通、西は西大路通、南は丸太町通、北は北大路通のほぼ3km四方の広い地域。個性的な建物も増えてきたが、糸屋町と呼ばれた大宮通や今出川通から北の紋屋町、南の笹屋町通は往時の面影を残している西陣を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、文化遺産の宝庫、京都に足を運び、京都の中心にある洛中の寺社巡りして来ました。比較的マイナーな寺社をえらび訪れましたが、さすが京都、マイナーでもりっぱな寺社がほとんどでした。










京都洛西観光
2011年1月19日


多くの世界遺産が位置する文化遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆく、きぬかけの道沿いに、世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺が続き、さらに進めば嵐山、また、山間に名刹が点在する大原野や三尾を含むエリアは桜や紅葉などが見事な洛西を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して巨椋インター下車
13:30大原野到達

『伊勢物語』で知られる在原業平が晩年隠棲したと伝えられ、境内にはその墓宝篋印塔が立つ。恋焦がれた二条后・藤原高子が大原野神社に参拝した時、業平は塩を焼いて紫の煙を上げて、思いを伝えたという。その竈跡も残っており、毎年5月28日業平忌三弦法要、6月第3日曜聲明と三弦を聞く会、11月23日の塩がまきよめ祭では塩竈で火を焚き、参拝者を祈願する。本堂の屋根は、鳳輦型というおみこしに似た珍しい造りの十輪寺(なりひら寺)を訪れる。

善峯寺境内の北続きの山腹にある。1074年(承保元)、源算上人が往生院として開山。のちに西山上人(証空)が浄土宗西山派の念仏道場とし、背後に連なる山並みが仏器の三鈷杵に似ていることから、三鈷寺と改称。天台・真言・律・浄土の四宗を兼学する勅願所として栄えたが、応仁の乱後衰微した。華台廟には西山上人と百人一首の成立に関わった宇都宮頼綱(蓮生)を祀る。本堂前から北東方に見下ろす市街の眺望は雄大で見事。古くから二大仏七城俯瞰の地と言われている三鈷寺に向かうが残念ながら積雪のため通行止め。

718年(養老2)、元正天皇の勅願で創建されたと伝える。平安遷都の際、王城鎮護のため都の四方に経典を埋めたが、その一寺として西岩倉山の号を賜った。平安後期には名刹として知られ、『今昔物語集』にも描かれている。応仁の乱で兵火にあったが、貞享年間(1684〜88)桂昌院の寄進によって現在の本堂・開山堂などが再建された金蔵寺に向かうがこちらも積雪のため通行止め。

洛西ニュータウンにある世界でも珍しい竹専門の公園。5000平方mの敷地には、竹・笹類についての資料館、生態園、子どもの広場などがある。資料館ではエジソンが約125年前に京都・八幡のマダケをフィラメントに使った電球の復元、竹製品の実物やパネル、京都の銘竹、東南アジアの珍しい竹などを展示している。元々うっそうと竹林が続く地であり、生態園では全国各地の竹や笹、約110種が植えられている京都市洛西竹林公園を訪れるが休園でした。

松尾・桂方面に向かう。

江戸中期の文人画家・池大雅の若年より晩年までの作品を所蔵、50数点を常時展示する。大雅は、柳沢淇園、祇園南海らに師事し、与謝蕪村と並び日本南画を大成させたといわれる。絵画『山関石崖図』などのほか、『和様尺牘文』などの書も鑑賞できる池大雅美術館を訪れるが休館でした。

太秦の南方、桂川のそばにあり、生八ツ橋作りの体験や刺繍講座など12種の体験講座を受けることができる。2階のししゅう美術館では名匠による京刺繍の逸品など75点ほどが常時展示されているほか、刺繍小物やアクセサリーの販売コーナーもある八つ橋庵とししゅうやかたを訪れる。

嵐山方面に向かう。

渡月橋を見下ろす高台に立ち、「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれてきた。『枕草子』の「寺は」では「壺坂、笠置、法輪」と並び称せられ、院政期には多くの人々の信仰を集めて隆盛を誇った寺。現在は十三まいりで親しまれ、毎年4月13日、13歳になった子供が法輪寺の虚空蔵菩薩に智恵と福徳を授かりに行く。思い思いの1字を墨で書いて奉納した後、渡月橋を渡って帰る時に、後ろを振り返るとせっかく授かった智恵を返してしまうとの言い伝えがある法輪寺を訪れる。

築70年の日本家屋を芸術家榎本兄弟が改築し、美術館として開館。常時20点ほどある絵は、反戦や核兵器廃絶を題材に自然環境や命の尊さを伝えたり、黒人文化を軸に人間の内面世界を表現している。きものレンタル着付の店・遊月もあり、きものに着替えて京都散策もできる嵐山ハイブリッド美術館を訪れる。

『平家物語』の遺跡として、昭和になって再建された寺。平重盛に仕え、宮中の滝口の侍になった斎藤時頼は、建礼門院に仕える横笛との結婚を望むが父に反対され、落胆のあまり出家。滝口入道と呼ばれた。それを知って訪れた横笛に会おうとはせず、高野山に入ったという。本堂に悲恋の2人の木像があり、参道には横笛の歌碑が立つ滝口寺を訪れる。

足利義満が1379年(康暦元)、普明国師を開山に宝幢寺を建立。鹿王院はその塔頭だったが、応仁の乱で宝幢寺は廃絶、鹿王院のみが残った。江戸前期作庭の平庭式枯山水庭園は、苔が美しい。女性専用の宿坊としても開かれており、宿泊者は座禅体験もできる鹿王院を訪れる。

秦氏の墓と考えられている京都市屈指の古墳。7世紀初頭の前方後円墳で、巨石を積んだ横穴式石室が露出している。玄室の長さは約7mの蛇塚古墳を訪れる。

のどかな田園風景が広がる北嵯峨にある観月の名所。周囲約1kmのこの池は、一説に嵯峨野を開拓した秦氏の手によって造られたといわれる。平安時代には池の畔に月見堂や釣殿などがあり、西行や藤原定家らの和歌にも詠まれた広沢池を訪れる。

1341年(暦応2)、足利尊氏建立による足利氏の菩提寺。初代尊氏から15代義昭まで歴代将軍の木像(5、10代を除く)を安置する霊光殿がある。夢窓疎石の作と伝えられる庭園は、東の心字池と西の芙蓉池の2つによって構成されている。特に書院から眺める西庭は、衣笠山を借景とし、刈込みや枯滝組を配し、石橋を架けるなど凝った造りの等持院を訪れる。

戦争の被害と加害の両面の歴史に学びながら平和について考えられる、世界初の大学立平和博物館。過去の戦争の実態を伝えるとともに、暴力や貧困などの平和をはばむ問題と、平和な世界をつくるための活動について展示している。実物資料や写真・解説パネル、映像展示のほか、戦時中の民家も復元。併設の国際平和メディア資料室では、平和に関する資料を閲覧できる。年数回、特別展を開催する立命館大学国際平和ミュージアムを訪れる。

726年(神亀3)に行基が創建。北野大茶会のとき宿となったこの寺に、豊臣秀吉が寄進したという五色八重散椿で知られる。花びらがひとひらずつ散る姿から、散り椿の名があり、現在は樹齢約120年の第二世が本堂前庭で赤、白、ピンクなど五色の花をつける。洛陽三十三観音霊場、第三十番札所の地蔵院(椿寺)を訪れる。

平安初期の右大臣清原夏野の山荘を、1130年(大治5)、鳥羽上皇の中宮待賢門院が復興。その後、応仁の乱などで荒廃したが、1617年(元和3)泉涌寺の照珍によって再建された。仏像・絵画・工芸に見るべきものが多い。特に藤原時代の本尊阿弥陀如来坐像(重要文化財)は、光背や台座の蓮弁に華麗で繊細な彫刻が施されており見事。夏には約80種類のハスが咲き競う、ハスの寺としても有名だ。迫力ある「青女の滝」の石組みも必見。庭園は特別名勝に指定の法金剛院を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、何回も訪れたことのある文化遺産の宝庫、観光客に最も人気のある京都洛西に足を運び、比較的マイナーな文化遺産を訪れ歴史学習してきました。

水曜日は休館が多く、又先日の寒波のため積雪で通行止めも多く、訪れることが出来なかった名所もありましたが、さすが京都、いくらでもある京都の観光名所堪能しました。









京都洛東観光
2010年12月15日


世界遺産の宝庫、文化遺産が数多く点在する京都に足を運び、世界遺産であり定番の観光地、清水寺周辺の文化遺産を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して
13:30清水寺付近到達

802年(延暦21)創建で、『平家物語』によると小督の局が宮中を追われ出家した寺。山中には小督の局を愛した高倉天皇の陵がある。西郷隆盛と清水寺住職月照上人が謀議をした茶室郭公亭がある。清水寺から清閑寺へ向かう杉並木の山道は古くから知られた紅葉の名所。途中にある清水寺塔頭泰産寺の子安塔(重要文化財)は、安産祈願で有名。江戸時代初期の再建で、もとは坂上田村麻呂の娘が皇子の誕生を祝って建てたものという。この場所からは清水寺を一望できる清閑寺を訪れる。

豊臣秀吉の墓所で、高さ約9mの五輪石塔が立つ。旧豊国神社跡から約500段の石段を登った所、阿弥陀ケ峯の山上にある豊国廟を訪れる。

三十三間堂の東側にあり、淀殿が1594年(文禄3)に父浅井長政の菩提寺として建立。その後火災に遭い、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人である崇源院が1621年(元和7)に伏見城の旧材を使って再建。本堂の天井は「血天井」と呼ばれ、伏見城が落城した時、徳川家康の部下だった鳥居元忠らが自刃した際の血痕が付いた床板を使用したものという。俵屋宗達の描いた杉戸絵(重要文化財)・襖絵(重要文化財)や狩野山楽筆の襖絵も見逃せない養源院[蓮華王院]を訪れる。

牛若丸と弁慶が出会ったという伝説で有名な橋。もとは平安京の五条坊門通(現在の松原通)に架かっていたのを、豊臣秀吉が天正年間(1573〜92)、方広寺大仏殿造営の際に南へ2町下がった現在地に移した。車の波に囲まれながら、牛若丸と弁慶の像が西詰の緑地に立っている五条大橋を通過する。

1645年(正保2)創業で、京小間物などを扱った大店・柏原孫左衛門の旧宅を使った博物館。伝来の家具や婚礼衣装、茶道具、書画、刀剣など、江戸時代の豪商の暮らしぶりがうかがえる品々を展示。特に婚礼衣装は絢爛豪華の洛東遺芳館を訪れる。

川端五条からゆるやかに上る五条坂は清水焼の窯元や陶器卸店が並び、8月に開かれる陶器市は全国的にも有名。大谷本廟の入口がある東山五条から本格的な坂道が始まり、清水焼の窯元の作品が並ぶ京都陶磁器会館が右手に見える五条坂を通過する。

五条坂から分岐して清水寺へ向かう坂。陶芸ギャラリーや藍染工房などの趣味の店も徐々に増え、アート散策を楽しめる穴場。かつては清水焼の窯元が立ち並んだ場所であるため茶わん坂と名付けられ、坂の入口に石碑が立つ。古くは奈良時代の僧、行基がこの地で土器を作り、江戸初期に野々村仁清が華やかな色絵陶器を完成させた。坂の南には近藤悠三記念館が立つ清水新道(ちゃわん坂)を通過する。

大胆な染付け技法で人間国宝に認定された氏の作品の数々を展示。直径126cm、重さ約100kgの梅染付け大皿は世界最大級の作品の近藤悠三記念館[清水新道]を訪れる。

かつて平安京の南大通であった松原通が東大路通を越えた場所から始まる約1kmほどの清水寺への参詣道。人通りもあまりない静かな坂だが、五条坂・三年坂と合流するあたりからみやげ物店が軒を連ね、さらに上がると漬け物や八ツ橋などの京みやげの店がずらりと揃い、呼び込みも盛ん。門前には清水人形の店もある。坂の頂上に清水寺の仁王門や三重塔がそびえ立つ清水坂を通過する。

八坂塔と呼ばれる五重塔(重要文化財)で知られる。飛鳥時代、聖徳太子の創建と伝え、この地の高句麗系渡来人、八坂氏に関係した寺とみられる。当初は四天王寺式の伽藍配置をとる大寺だったが、現在は民家に囲まれた境内に塔と薬師堂、太子堂が残るのみ。応仁の乱にも焼け残った五重塔は1440年(永享12)足利義教の再建によるもので、高さ46m。初層内部を拝観でき、大日、釈迦、阿しゅく、宝生、阿弥陀の五如来坐像が祭られる須弥壇や、中央に心柱を通した塔の構造を見ることもできる法観寺(八坂の搭)を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、文化遺産が数多く点在する世界遺産の町、京都に足を運び、世界遺産の清水寺周辺に点在する洛東エリアの文化遺産をひたすら歩いて訪れました。

メジャーな観光名所は過去に何回か訪れたことがありますので、今回は比較的マイナーな歴史的建造物をおとずれましたが、さすが京都、マイナーな遺産も立派、京都の歴史の深さ、凄さを再確認できた京都名所観光巡りでした。






京都市洛中観光
2010年12月5日


世界遺産の京都に足を運び、文化遺産が数多く点在する京都市の中心エリア洛中を訪れました。

8:00生駒の山荘を車で出発、第二京阪自動車道経由して
8:40東寺到達、車をおいて散策する。

東寺の塔頭の中でも最も格式の高い寺院。桃山時代書院造の客殿(国宝)は1605年(慶長10)の再建で、上段の間には宮本武蔵筆と伝えられる水墨画『鷲の図』がある観智院[教王護国寺]を訪れましたが残念ながら休館でした。

平安京を貫く朱雀大路の正門として、794年(延暦13)の平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門があった場所。980年(天元3)の暴風雨で倒壊し、その後平安京の衰退とともに荒廃した。その様子は『今昔物語集』や、芥川龍之介の小説『羅生門』にも描かれている。現在は児童公園の中に石碑が立つのみの羅城門跡を訪れる。

蒸気機関車(SL)を保存展示する博物館。梅小路公園に隣接しており、入口には旧二条駅舎(京都市指定有形文化財)を移築。「C62」や「D51」など、大正から昭和にかけて活躍した蒸気機関車が扇形車庫に収められている梅小路蒸気機関車館を見学。

戸時代に公家や豪商のサロンとして華やかな饗宴が催された、島原の揚屋の建物を保存公開する。1641年(寛永18)に建てられ、内部に数寄屋造を採り入れた木造2階建の町家で、台所と座敷がある1階では与謝蕪村筆『紅白梅図屏風』(重要文化財)など所蔵品を展示する角屋もてなしの文化美術館の前で記念撮影。

西本願寺南にある真宗興正派の本山。鎌倉時代の創建で室町時代には西本願寺に属したが1876年(明治9)に独立した。御影堂、阿弥陀堂などがあり、明治時代の再建である興正寺を訪れる。

先斗町の西、高瀬川に沿った七条から二条までの通り。高瀬川の水運とともに発展してきた通りで、木材などの商売が盛んだったため木屋町の名が付いた。料亭や各国料理レストランなど、ありとあらゆる種類の店が軒を連ね、勤皇志士の坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡、事跡の碑が繁華街のあちこちに立つ木屋町通を訪れる。

夜に賑わう木屋町通と並行して流れている川で、森鴎外の『高瀬舟』で有名。慶長年間(1596〜1615)、豪商・角倉了以が大坂との物資輸送のために開いた全長10kmの運河で、二条から伏見を経て宇治川に合流する。高瀬舟を使った物資流通は江戸時代に繁栄を極めたが、1920年(大正9)には交通機関の発達により舟運が途絶えた。往時の面影を知るには木屋町二条にある一之船入跡(史跡)へ。掘割には、復元された全長11.3m、幅2.3mの十五石積の高瀬舟が係留されている高瀬川を訪れる。

高野川、賀茂川が合し、京都市街を南北に貫く川。近世になると芝居など興行の中心となり、出雲の阿国も出て、寛文年間(1661〜73)には歌舞伎の劇場が立った。夏になると見世物見物のため流れに床几を並べ、ヨシズを張って涼を取ったのが現在の納涼床の起こりの鴨川を訪れる。

新京極にあり、染殿皇后が本尊の地蔵菩薩に祈ったところ、のちの清和天皇が誕生したという寺伝から、安産守護の信仰を集める。染色関係者の参拝も多い染殿地蔵院を訪れる。

京都随一の繁華街・河原町通の1筋西、四条通から三条通の南北550mのアーケード街。みやげ物店や映画館、飲食店などが軒を連ね、人通りが絶えない。1872年(明治5)、東京遷都で活気をなくしていた京都を盛り上げようと、歓楽街を造ったのが始まり。それ以前は秀吉の区画整理による門前町だった。その名残である寺が近くにある新京極を訪れる。

新京極にあり、藤原道長が和泉式部のために建てた小御堂が始まり。境内北側の墓地に高さ4mの和泉式部供養塔がある誠心院を訪れる。

新京極にある飛鳥時代の創建という古刹。もとは奈良にあったが平安遷都で京都へ移り、その後秀吉の区画整理で現在地へ移転した。謡曲『誓願寺』の中で、和泉式部が「歌舞の菩薩」となって現れることから芸道上達祈願のお寺として信仰を集める。また、五十五世住職・安楽庵策伝上人は『醒睡笑[せいすいしょう]』八巻を著したことにより「落語の祖」と称される。門前に「迷子のみちしるべ」と呼ばれる石柱が立つ誓願寺を訪れる。

四条通から三条通の1筋南まで、鴨川に沿って続く細い通り。祇園と並ぶ花街として知られ、お茶屋や料理屋が通りの両側に立ち並ぶ。最近は気軽に利用できる飲食店も増え、若者の姿も多い先斗町をおとずれる。

三条通を上った所にあり、奈良・矢田寺の元別院。本尊の地蔵菩薩は諸願成就にご利益があるとされる。8月16日の五山の送り火に合わせ、精霊を冥土へ送る「送り鐘」を撞く寺として有名な矢田寺(矢田地蔵尊)を訪れる。

織田信長が明智光秀に討たれた寺として知られているが、当時は四条西洞院にあった。1587年(天文15)、現在地に移転。境内には信長の供養塔も立つ本能寺を訪れる。

1903年(明治36)に建てられたギリシャ正教会の教会堂。ロシア・ビザンチン様式の会堂は最大幅15m、奥行27m、総高22mの堂々たる建物。お茶の水にあるニコライ堂に比する格式を誇り、明治の教会建築を代表する。会堂前方にはトンガリ帽子の鐘楼が立ち、堂内には、帝政ロシア時代にモスクワで描かれ日本に運ばれた『最後の晩餐』などのイコン(聖像)がある京都ハリストス正教会を訪れる。

新京極の1筋西を五条通から鞍馬口通まで南北に延びる通り。新京極の発展に伴って商店街が形成されてきたが、本来は各宗派の寺院が通りの東側に立ち並んでいた。桃山時代、豊臣秀吉が進めた京の都市改造の一環として、洛中の寺院、なかでも民衆の心をとらえていた浄土宗、日蓮宗、時宗の寺が強制移転させられたからである。近年再移転が進んで数は少なくなったものの、現在も主に三条通から丸太町通にかけて多くの寺が残る。仏具や筆墨、和菓子などの老舗も多く、歴史に思いを馳せながら歩いてみたい寺町通を訪れる。

早良親王など、非業の死を遂げた御霊八所の神を祭る。本殿は1790年(寛政2)に宮中の内侍所仮殿を移し、寺町通に面した表門は仮皇居の建礼門を移したものと伝えられている下御霊神社を訪れる。

京都の歴史資料を収集保存する資料館。重要文化財の福井家京枡座関係資料をはじめ、7万5千点以上の古文書と生活、生産用品などの民俗資料を所蔵する京都市歴史資料館を見学。

仙洞とは上皇の御座所のこと。後水尾、霊元、中御門、桜町、後桜町、光格6上皇が居住したが、1854年(嘉永7)に類焼。建物は再建されることなく、現在は小堀遠州が築いた庭園だけを残す。南池、北池を抱え、巨石、滝組、橋を配した庭園美をみせている仙洞御所を訪れる。残念ながら予約しないと入れません。

江戸後期の儒学者・頼山陽が晩年に住んだ書斎。鴨川に面して窓から東山を望めたので、「山紫水明処」と名付けたという。藁葺き、平屋の簡素な佇まいの頼山陽書斎山紫水明処を訪れる。

代々奈良吉野の林業を生業としていた家に生まれ、茶道美術に造詣の深い北村謹次郎氏が、茶を楽しむために収集した茶道美術品を所蔵、公開している個人美術館。陶磁器、彫刻、絵画、墨蹟、金工、石工、漆工、染色など幅広いコレクションで、『墨画淡彩鳶鴉図』などの国の重要文化財も多数。「四君子苑」と呼ばれる数寄屋造の茶苑も、日を定めて公開している北村美術館を訪れる。

1875年(明治8)、日本人として初めて欧米の高等教育機関から学位を取得した新島襄によって、「同志社英学校」として創立。当初、教師は創立者の新島と宣教師J・D・ディヴィスの2人、生徒は8人だった。現在はキリスト教主義による教育を行う総合大学として、京田辺市にもキャンパスをもつ。構内の赤レンガ造りの彰栄館、有終館、アメリカンゴシック建築の礼拝堂、クラーク記念館、ハリス理化学館の5棟が国の重要文化財。アーモスト館と啓明館は登録文化財に指定されている同志社大学を訪れる。

バスで東寺に向かう。
16:30東寺到達。
17:00帰路に向かう。

今回の名所巡り、近場の世界遺産で有名な京都に足を運び、歴代天皇が住まれた御所、徳川家の二条城、京都市役所や京都駅を含む、京都のど真中エリアの洛中を訪れ、街路も平安京の面影をとどめ、碁盤のように整然としていてその中に多く点在する歴史的建造物に接し、スケールの大きい京都の文化遺産を学びました。













京都市山科観光
2010年11月25日


世界遺産の宝庫、近場の京都に足を運び、京都市の東端に位置し、京の東の玄関口としての役割を持ち、西は東山連峰,北は大文字山、如意ヶ獄,東は音羽山、牛尾山と三方を山に囲まれ、南で伏見区の醍醐地域に接しています。 また,多くの川に恵まれ,平野部は農耕作物に適した土壌となっています。明治初期に京都の近代化を目指して建設された琵琶湖疏水は有名な山科を訪れました。

12:30車で第二京阪経由して
13:30山科到達。

赤穂藩家老・大石内蔵助は、吉良家の目を欺くためこの寺の境内に隠棲した。四十七士の木像や浅野長矩の位牌を祭り、討ち入りで使われた手槍なども保存している。内蔵助の念持仏だったという本尊不動明王像は毎年討ち入りをした12月14日から1月28日まで公開している岩屋寺を訪れる。

泉涌寺大門を入って右手奥(南)にある泉涌寺の別院。北朝の歴代天皇の位牌を安置する霊明殿と、本堂(重要文化財)がある。庫裏に置いてある真っ黒な色をした鎌倉時代の大黒天像は、左足を一歩踏み出した姿勢がユーモラスで、「走り大黒」と呼ばれている雲龍院[泉涌寺]を訪れる。

東山連峰の山頂付近を走り抜ける観光道路。清閑寺〜将軍塚〜九条山の全長3.7kmのコースで、途中の将軍塚展望台では京都市街を見渡すことができる東山ドライブウェイを走行する。

5世紀後半、筑紫日向の高千穂の峰の神跡を移して創建されたと伝わる。伊勢神宮と同様に外宮・内宮があり、京のお伊勢さんとして信仰されている。裏山の「天の岩戸」は厄をくぐりぬけ、運が開けるという言い伝えがある。春の桜、ツツジなど四季を通じて楽しめ、特に秋の紅葉は隠れた名所として知られている日向大神宮を訪れる。

琵琶湖の水を京都に引くため明治時代に掘削された琵琶湖疏水。このうち山科を通る疏水沿い2kmは遊歩道として整備されており、桜、紅葉が美しい。道沿いには樹木に覆われた天智天皇陵、安祥寺などもあってのんびり散策を楽しめる山科疏水の道を訪れる。

天智天皇が奈良・飛鳥に日本初の水時計台を造ったことにちなみ、参道入口には石の日時計が立つ。参道を進むと拝所へ至る。天智天皇は大化の改新を断行、近江大津宮で668年(天智7)に即位。3年後に死去し、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。松並木の途中に琵琶湖疏水の表示があり、石段を上がると疏水の流れが見える天智天皇陵を訪れる。

天台宗の門跡寺院であり、本尊の毘沙門天は京の七福神の一つに数えられる。創建は703年(大宝3)。かつては上京区出雲路にあったが、応仁の乱で廃絶。公海僧正が1665年(寛文5)にこの地に復興し、後西天皇の皇子が入寺して門跡寺院となった。円山応挙作の鯉の絵や、狩野益信作の宸殿の障壁画など見るべきものが多い。また枝垂桜、紅葉も美しい毘沙門堂を訪れる。

旧東海道に面して立つ六角堂に安置された山科地蔵尊は、東海道の守護仏。平安時代、小野篁が作った身の丈約3mの霊像は、子宝の霊験で知られている。お堂の後ろには、百人一首でもおなじみの蝉丸(人康親王)の供養塔がある山科地蔵徳林庵を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

近場の史跡巡り、紅葉のシーズン、比較的穴場の山科の寺社を巡りましたが、さすが京都、観光客が多く、賑わっていました。特に毘沙門堂の紅葉はすばらしく、感無量でした。皆さんも訪れてみてください。満足できますよ。





京都洛南観光
2010年10月13日


大小多くの寺社が点在し世界遺産の宝庫、京都に足を運び、豊臣秀吉の城下町で酒処の伏見周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪京滋バイパス自動車道経由して久我山淀インター下車

京、大坂の境にあって、徳川幕府の要衝的な性格をもつ城だったが、1723年(享保8)稲葉氏十万二千石の居城となった。明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、往時を偲ばせている。また、秀吉の愛妾淀君の館が、淀城跡北東500mの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている淀城跡を訪れる。

862年(貞観4)、境内に湧き出た水がたぐいまれに香り高く、また病に霊験があったことから「御香宮」と呼ばれたという。樹木に覆われた境内の一角に、「日本名水百選」に選ばれた御香水が湧き、これを求める人の列が絶えない。伏見城の大手門を移した表門(重要文化財)や華麗な本殿(重要文化財)、拝殿には桃山建築の特色が見られ、社務所裏には小堀遠州ゆかりの石庭がある御香宮神社を訪れる。

1051年(永承6)に日野資業が建てた薬師堂が始まり。新鸞聖人、日野富子らが生誕した日野家の菩提寺で、通称の日野薬師でも知られる。阿弥陀堂(国宝)は、宇治の平等院鳳凰堂、三千院の往生極楽院と並び平安貴族が夢見た極楽浄土を形にしたものとして貴重。檜皮葺き宝形造の堂内には、平安時代の定朝様式の阿弥陀如来坐像(国宝)が安置され、飛天の壁画(重要文化財)などで装飾されている。本堂薬師堂(重要文化財)の本尊・薬師如来立像(重要文化財)は乳薬師と呼ばれ、安産、授乳の霊像として信仰される法界寺(日野薬師)を訪れる。

真言宗醍醐派の別格本山。少納言藤原入道信成の女、阿波内侍の建立と伝わる。本堂は1810年(文化7)の再建。一言寺[いちごんじ]観音といわれる本尊千手観音菩薩像は秘仏だが、一心に祈ればたちまち願いが叶うといわれている金剛王院を訪れる。

850年(嘉祥3)に文徳天皇によって創建されたが応仁の乱後荒廃した。しかし、1662年(寛文2)に再興。1本の釘も使っていない総欅造りの本堂に秘仏の歓喜天(聖天)と毘沙門天、弁財天という3体の福神を祭るため、地元の信仰を集めている嘉祥寺を訪れる。

元政上人が1655年(明暦元)に庵を結んだのが始まり。本堂は質素な茅葺き。元政は、もとは彦根藩の侍だったが、病弱のため26歳で出家、清貧の中で暮らし、1667年(寛文7)に母が87歳で他界した2カ月後、急逝した瑞光寺(元政庵)を訪れる。

古くは極楽寺といって『源氏物語』にも登場する大寺だったが、応仁の乱で荒廃した。室町時代の四脚門の総門(重要文化財)、本堂(重要文化財)、多宝塔(重要文化財)と並ぶ建築物は一見の価値ある宝塔寺を訪れる。

平安遷都以前から祀られている古社。勝運のご利益があるといわれる。5月5日の藤森祭に行われる駈馬神事は、勇壮で多くの参拝者が訪れる。近年は馬の社として有名で、騎手をはじめ、競馬関係者や競馬ファンの参拝も多い藤森神社を訪れる。

1137年(保延3)、鳥羽上皇が鳥羽離宮の本殿を寺に改めたもので、盛時には仏殿や寝殿造の諸堂が苑池の畔に立ち並び壮観だった。現在は近年再建された本堂、書院、鐘楼などが立つ。本堂には、鳥羽上皇の念持仏と伝えられる阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置されている安楽寿院を訪れる。

方除の大社と仰がれる。独特の優美な姿を見せる本殿をとりまくように神苑楽水苑が広っている。様々な趣をそなえた庭には、源氏物語ゆかりの百余種の草木が四季を彩り、「源氏物語花の庭」と呼ばれる。春と秋に行われる「曲水の宴」は、平安の雅を今に伝える行事として有名である城南宮を訪れる。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の近場の名所巡り、大小多くの寺社が点在し世界遺産の宝庫、京都に足を運び、豊臣秀吉の城下町、伏見を中心としたエリアの寺社巡りし、歴史的建造物に接し、歴史学習してきました。

何回訪れても京都の歴史的建造物の質、量とも立派なのが驚きです、歴史の長さ、深さを物語っていますね。




京都市洛西観光
2010年9月8日


近場の世界遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆくきぬかけの道沿いに、世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺を訪れました。

12:30車で第二阪奈自動車道経由して
13:30洛西方面到達。

花園法皇の離宮に関山慧玄を迎え、禅刹として改めた。臨済宗妙心寺派の本山で、1337年(建武4)創建。山門(重要文化財)や仏殿(重要文化財)、法堂(重要文化財)など七堂伽藍をはじめ、46もの塔頭が立ち並ぶ。みどころは法堂の天井画「八方にらみの龍」で、狩野探幽の作。日本最古の銘をもつ黄鐘調[おうじきちょう]の梵鐘(国宝)も必見の妙心寺を訪れる。

室町時代の創建。妙心寺にあり、如拙[じょせつ]の描いた国宝の『瓢鮎図』を所蔵していることで有名だ。方丈の西庭(史跡・名勝)は狩野元信作と伝え、絵画的な構成の枯山水の名庭。昭和作庭の池泉廻遊式「余香苑」では、滝のせせらぎ・水琴窟・筧の水と3つの水の姿が楽しめる退蔵院[妙心寺]を訪れる。

妙心寺境内の東側に位置。1531年(享禄4)、細川氏綱が父の菩提を弔うために建立。本堂前庭には、樹齢300年という沙羅双樹の枯木と十数本の沙羅の木があり、その花が美しい寺として知られる東林院(沙羅双樹の寺)[妙心寺]を訪れる。

土用丑の日の「きゅうり封じ」で知られる寺。境内には五智如来石仏(薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦)をはじめ、背後に観音坐像以下11体の石仏群が並び、圧巻な蓮華寺を訪れる。

888年(仁和4)、宇多天皇創建による門跡寺院で御室御所とも呼ばれた。現在は真言宗御室派の総本山。9万平方mもの広大な境内には、優美な金堂(国宝)をはじめ、二王門(重要文化財)や五重塔(重要文化財)などが点在。御所の名残りを留める仁和寺御殿、江戸時代の池泉式庭園もあって見どころ豊富だ。背丈の低い御室桜(名勝)は、京都随一の遅咲きとして有名の仁和寺を訪れる。

1450年(宝徳2)、徳大寺家の別荘を細川勝元が禅寺に改めたのが始まり。二度の火災で焼失し、現在の建物は1606年(慶長11)に建てられた西源院の建物を移築したもの。方丈前庭の枯山水庭園(史跡・特別名勝)は白砂に15の石組を配し、虎の子渡しの庭ともいわれ、石庭といえば龍安寺を指すほど有名だ。境内には秀吉が絶賛した侘助椿の古木や、水戸光圀寄進の「吾唯足知」と刻んだ蹲などもある。6〜8月は鏡容池の水蓮が見事の龍安寺を訪れる。

日本画家・堂本印象の絵画を中心に、彫刻、陶芸などの作品2100点を収蔵。日本画の枠を越えた多彩な作品は一見の価値あり。建物も印象によるデザインの京都府立堂本印象美術館を見学。

足利3代将軍義満が建てた別荘だが、義満の死後に禅寺へと改められた。正式名は義満の法号にちなみ鹿苑寺という。金閣寺の通称は、三層宝形造の舎利殿による。1955年(昭和30)復元の楼閣は初層が寝殿造、2層は武家造、3層は禅宗仏堂造。周囲には池泉回遊式庭園(特別史跡・特別名勝)が広がり、鏡湖池に金閣が映る光景は美しい鹿苑寺(金閣寺)を訪れる。

平安遷都に伴い奈良から移転。今木皇大神[いまきのすめおおかみ]をはじめ、四柱の神を総合し平野皇大神として祀る。「皇大神」とは、神の中でも最高位を表す語。国内8万以上ある神社の中でも伊勢神宮など数社しかなく、その格式の高さが知られる。本殿(重要文化財)は、比翼春日造という特殊な形式。古くから桜の名所で、他にも四季を通じて様々な花が咲く平野神社を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の世界遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆくきぬかけの道沿いの世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺を訪れました。

何回も訪れたことのある、金閣寺、きぬかけの路周辺、あらためて歴史的建造物のスケールの大きさを感じ、又歴史学習できました。





京都市洛西・三尾・洛中観光
2010年9月1日


今回は近場の京都洛西洛中に足を運び、高雄、槇尾、栂尾を総称する清滝川が流れる山間に3つの山寺が佇んでいる三尾、京都の伝統と文化を体験でき、学問の神様で知られる北野天満宮を中心に、伝統を今に伝え続ける上七軒や西陣の町並みがある北野天満宮周辺を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して
13:30三尾到達。

神護寺から清滝川沿いに約15分歩き、朱塗りの指月橋を渡った所に立つ。天長年間(824〜833)に空海の弟子智泉が、神護寺の別院として創建。現在の堂宇は徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の寄進で再建されたといわれている。本堂に安置された本尊木造釈迦如来立像(重要文化財)は、生前の釈迦の姿を伝えるとされる「清凉寺式」で、像高約52cm。高山寺を再興した明恵上人が自刻したという。脇に祭られている千手観音立像(重要文化財)は藤原時代の作の西明寺を訪れる。

開基は和気清麻呂。のちに唐から帰朝した空海も住持を務めた。その後荒廃したが、平安末期に文覚上人が後白河法皇、源頼朝の寄進を受け復興させた。仏教美術の宝庫として知られ、金堂の本尊薬師如来立像(国宝)は、唇と眼だけに彩色を施した、厳しい表情の檜の一木造で、貞観時代の密教彫刻の傑作。多宝塔の本尊五大虚空蔵菩薩坐像(国宝)は、胡粉で全身彩色され女性的な優しさを漂わせる。地蔵院前庭からは眼下の錦雲渓に向け、かわらけ投げを楽しめる神護寺を訪れる。

清滝川渓谷は紅葉の名所として知られ、清滝を起点に高雄までは錦雲渓、下流の落合までは金鈴峡と呼ばれている。整備された川沿いの道は東海自然歩道に指定され、ハイキングコースとして親しまれている錦雲渓を散策する。

嵯峨野方面に向かう。

平安末期の儒者、清原頼業を祭る。同社にある祈念神石を持ち帰って願い事を祈願し、成就したら祈念神石に御札の石を添えて奉納する習慣がある。商売繁盛、売掛金の回収、受験合格に御利益がある。境内の芸能神社には、芸の上達を祈る現代の芸能人の玉垣が数多く並んでいる車折神社を訪れる。

秦氏の氏寺。秦河勝が聖徳太子から賜った仏像を奉じて、一宇を創建したのが起こりと伝わる。微笑をたたえた宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)の美しさと気品は、息をのむほど。赤松の一本造で、朝鮮半島からの献上仏という説もある。宝髻弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)は、泣いたような表情から泣き弥勒と呼ばれる。ほかにも国宝・重要文化財の仏像を多数所蔵。赤堂と愛称される講堂(重要文化財)は、藤原末期の建築の広隆寺を訪れる。

北野天満宮方面に向かう。

北野天満宮の東が京都最古の花街上七軒。上七軒歌舞練場の日本庭園では夏にビアガーデンが開かれ、西陣の旦那衆の遊興地として発展してきた花街の風情を手軽に味わえる上七軒を訪れる。

1227年(安貞元)、藤原秀衡の孫である義空上人によって開創され、本尊釈迦如来坐像を安置したことに始まる。正式には大報恩寺というが、創建当初から千本釈迦堂の名で親しまれてきた。本堂(国宝)は、応仁の乱で諸堂が焼失したなかでも残った洛中最古の木造建造物。建造時に夫である棟梁のミスを助けたあと、秘密を守るため自刃した「おかめ伝説」が残り、境内にはおかめ塚やおかめ像がある。霊宝館には快慶作の十大弟子立像(重要文化財)、定慶作の六観音像(重要文化財)、千手観音像(重要文化財)などを安置する大報恩寺(千本釈迦堂)を訪れる。

古い町家を利用した織物の展示館。西陣織に限らず、全国から集めた珍しい手織物や復原能装束を展示。隣接する工房では、熟練の職人が機を織る姿を見学できる織成舘を訪れる。

平安時代には朝廷行事から貴族の私事に至るまで、物事の吉凶が陰陽道によって占われていた。晴明神社はその時代に大活躍した陰陽師、安倍晴明を祭る神社だ。提灯や絵馬などに描かれている星形の紋所は、晴明桔梗紋ともいわれる五芒星。現代でも、何かを始めようというときの吉凶や姓名判断を占いに訪れる人が絶えない晴明神社を訪れる。

華麗な着物ショーや伝統の技光る職人の実演、歴史的史料の展示など西陣織の魅力に触れることができる西陣織会館を訪れる。

18:00終了。

今回の名所巡り、近場の京都洛西洛中に足を運び、清滝川が流れる山間に静かに佇む山寺が位置する高雄、槇尾、栂尾を総称する三尾、伝統を今に伝え続ける上七軒や西陣の町並みがあり学問の神様で知られる北野天満宮を中心のエリア北野天満宮周辺を訪れ昼からの半日有意義な時間を過ごすことができました。






京都市洛北観光
2010年6月23日


世界遺産の宝庫、多くの点在する歴史的建造物を接することの出来る京都市に足を運び、東に比叡山がそびえる、北大路通以北のエリア。上賀茂神社、下鴨神社、大徳寺、修学院など数え上げればきりがないほどの名刹が点在するほか、府立植物園、宝ヶ池など緑のシャワーを浴びられるスポットにも事欠かない。歴史散策のあとは、京都の最前線といわれる北山通や白川通でショッピングやグルメを楽しめる洛北を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道を経由して
13:40洛北エリア到達。

松尾芭蕉や与謝蕪村に縁が深く、洛西の落柿舎と並ぶ俳諧史跡。平安初期の創建だが、江戸初期に鉄舟和尚が再興した。本堂の背後に佇む茶室・芭蕉庵は、芭蕉が訪れた縁で鉄舟が建て、のちに芭蕉を慕う蕪村が再興した。蕪村の墓も庵のほとりにある。井伊直弼に仕えた村山たかが尼として余生を過ごした寺でもある金福寺を訪れる。

川家康の元家臣で、江戸初期の文人・石川丈山が1641年(寛永18)に建てた山荘。現在は禅宗の寺院だ。小楼・嘯月楼[しょうげつろう]を見上げながら建物の中に入ると、堂の名前の由来となった詩仙の間がある。四方の壁には狩野探幽が描いた中国の詩家36人の肖像画「中国三十六詩仙像」が掲げられている。丈山はまた作庭の名手だったともいわれ、白砂が敷かれた見事な回遊式庭園から彼の風雅が偲ばれる。庭には丈山が考案者であるという鹿脅し添水も配され、サツキ、アジサイ、紅葉と四季折々に美しい詩仙堂を訪れる。

徳川家康が教学の発展を図るために設立した学校を始まりとする。家康から送られた当時の木製活字を数多く保存しており、これらは重要文化財に指定されている。明治以降最近まではわが国唯一の臨済宗尼僧の修学道場であった。境内には澄んだ音を響かせる水琴窟や金福寺に晩年を送った村山たかの墓もある。栖龍池がある庭園は、新緑、紅葉の美しいことで知られている圓光寺を訪れる。

もとは比叡山西塔にあり東尾坊と呼ばれたが、その後各地を巡り、1656年(明暦2)桂離宮を造営した八条宮智仁親王の子である良尚法親王(天台座主)によりこの地に建てられた。数寄屋造の大書院(重要文化財)には主座敷が2間あり、間仕切りの卍くずしの欄間の意匠などに桂離宮の影響がうかがえる。続く小書院(重要文化財)の襖絵は狩野探幽作と伝えられ、黄昏の間には10種類の寄せ木で造られた「曼殊院棚」と呼ばれる違い棚がある。書院前の枯山水庭園(名勝)は、5月のツツジ、11月の紅葉のころが特に美しい。八窓茶室(重要文化財)は小堀遠州好みと伝えられている曼殊院(竹の内門跡)を訪れる。

後水尾上皇を慰めるため、1656年(明暦2)に徳川家光の援助で造営された離宮。比叡山の裾野に広がる広大な敷地に、松並木で結ばれた下御茶屋、中御茶屋、上御茶屋という3つの庭園が配されている。表総門を入った所が下御茶屋で、数寄屋造の寿月観と池泉回遊式庭園がある。続く中御茶屋は、華麗な装飾が施された客殿が見事で、天下の三棚の一つの霞棚も忘れずに見たい。上御茶屋は、浴龍池を中心に茶屋を配した大庭園。山腹に立つ茶室隣雲亭からの眺望はすばらしい修学院離宮を訪れるが予約しないと内部拝観できないため外観のみ見学。

京都で最も古い神社の一つで、正式には賀茂御祖神社という。古代豪族賀茂氏の氏神社で、上賀茂神社と合わせて賀茂社と総称されていた。本殿(国宝)は1863年(文久3)に再建されたもの。建角身命を祭る西殿と玉依媛命を祭る東殿の2棟からなる。そのほかの社殿は53棟が国の重要文化財、境内は史跡に指定されている。5月15日に行われる京都三大祭の葵祭は、下鴨、上賀茂両神社の祭礼で、1月4日の蹴鞠はじめなど京らしい雅な行事でも知られる下鴨神社を訪れる。

臨済宗大徳寺派の大本山。広大な境内に22の塔頭を擁する洛北随一の大寺院で、多数の文化財を所蔵。創建は鎌倉末期で応仁の乱後、一休禅師が再興した。三門(重要文化財)は千利休が寄進したもの。その上層に利休自らの木像を安置したため秀吉の怒りを買い、切腹の一因となったといわれる。大仙院、龍源院、瑞峯院、高桐院の4つの塔頭が常時公開されている大徳寺を訪れる。

疫病除けの神様として知られる。平安遷都後に疫病が流行したため、朝廷は神輿を船岡山に安置して疫神鎮静を図り、1001年(長保3)にはこの地に神殿を造営した。現社殿は明治時代の再建。毎年4月第2日曜には、疫神社の疫神を鎮める「やすらい祭」が営まれる。鬼を従えた行列が「やすらい花や」と囃しながら踊る。行列には花で飾った風流傘も参加、この傘の下に入れば1年間病気をしないといわれる今宮神社を訪れる。

京都三大祭の葵祭で知られる、京都の最古社。平安遷都以前にこの地を支配していた、賀茂氏の氏神を祭ったのが始まり。社殿造営は678年(天武6)と伝わる。遷都後は皇城の守護神となり、伊勢神宮に次ぐ社格が与えられた。67万平方mの広大な神域には木立に包まれて檜皮葺きの社殿が立ち並び、本殿と権殿は国宝、ほか41棟が重要文化財に指定。世界文化遺産にも登録されている。細殿前には円錐系に砂を持った立砂が2つ並び、神々しい雰囲気。朱塗りの楼門をくぐると、中門の内側に幕末造替の本殿、権殿が立つ賀茂別雷神社(上賀茂神社)を訪れる。

17:00終了。

今回の近場の名所巡り、東に比叡山がそびえる、北大路通以北のエリアの洛北を訪れ、多くの点在する社寺をめぐり楽しめました。さすが京都の社寺、どれをとっても立派な歴史的建造物、圧倒されますね。








京都市洛東観光
2010年6月2日


歴史的建造物の宝庫、近場の京都に足を運び、禅文化が大成された時代の中心社寺があり、一方で、美術館や博物館などが集まり銀閣寺・平安神宮・南禅寺のあるエリアである洛東を訪れました。

12:30車で第二京阪自動車道経由して
13:10洛東方面到達、散策する。

1933年(昭和8)、日本で2番目に建てられた公立の大規模美術館。京都を中心とする日本の近・現代美術の各分野から、約2300点の作品を収蔵している。展示は海外展、特別展といった企画展。テーマを決めて収蔵品を紹介する年数回のコレクション展、京都市主催の公募展、美術団体等による催しがある京都市美術館を見学。

明治・大正の元老・山県有朋が、1896年(明治29)に完成させた別荘。広大な園内には木造の母屋と茶室、レンガ造りの洋館がある。特に庭園(名勝)は有朋自身が設計・監督し、造園家の小川治兵衛に作庭させたもの。東山を借景に、疏水の水を引き入れたのびやかな池泉廻遊式庭園の無鄰菴を訪れる。

南禅寺の塔頭。家康に重用された僧崇伝が北山にあった寺を移したものという。豪華な東照宮(重要文化財)や遠州好みの八窓席(重要文化財)、白砂に鶴島、亀島を配した枯山水の庭園(特別名勝)などがある金地院を訪れる。

南禅寺境内を横切る、レンガ造りのアーチ橋。全長93m。1890年(明治23)完成の琵琶湖疎水の一部で、古代ローマの水道橋を手本としている。橋を抜けて石段を登ると、南禅院がある水路閣[南禅寺]を訪れる。

永観堂の名で親しまれ、紅葉の名所としても知られる。平安時代初期、弘法大師の弟子真紹僧都により創建されたが、後に永観律師が念仏修行の場として、民衆を救った功績から永観堂と呼ばれるようになった。本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)は左後方を振り返る姿で、「みかえり阿弥陀」とも呼ばれる禅林寺(永観堂)を訪れる。

五山の送り火で名高い大文字山。その麓を疏水に沿って、若王子橋から銀閣寺橋へと続く約2kmの散策路。哲学者・西田幾多郎や田辺元が、思索にふけりながら歩いたことからこの名が付けられたという。季節には桜が花のトンネルを造り、6月にはホタルが飛び交うなど、豊かな自然を満喫できる。しかも、道沿いには若王子神社、大豊神社、霊鑑寺、安楽寺など由緒ある寺社も点在している哲学の道を散策する。

法然上人が念仏修行の法灯を掲げた名刹。閑静な境内には、本堂・方丈・経蔵・書院・鐘楼が立つ。茅葺きの山門をくぐると、参道両脇に砂盛(白砂壇)がある。砂の上に描かれた文様は水の流れを表し、間を通ることで身を清めることになるという。その奥には美しい池泉式庭園がある。椿の名所としても有名な法然院を訪れる。

室町幕府8代将軍足利義政が、祖父義満の建てた金閣寺にならって建てた別荘。義政の死後、臨済宗相国寺派の禅寺へと改められ、名称も義政の法号にちなみ慈照寺と名付けられた。1482年(文明14)の造営当時は錦鏡池を中心に池泉回遊式庭園が広がり、その周囲に大小12棟の建造物が点在していたという。現在では、通称・銀閣と呼ばれる観音殿(国宝)と東求堂(国宝)だけが当時の遺構。観音殿は1層を心空殿、2層を潮音閣と呼ぶ。東求堂内の同仁斎は、現存する最古の書院造り。東山文化を代表する庭園(特別史跡・特別名勝)も見事な慈照寺(銀閣寺)を訪れる。

紅葉の名所として知られる天台宗の寺。真如堂の名で親しまれている。984年(永観2)、戒算上人が比叡山常行堂にあった阿弥陀如来像(重要文化財)を本尊にして開いた。この像は慈覚大師円仁の作と伝え、別名を「うなずきの弥陀」と呼ばれ、女人救済に御利益があるとされる。現在の堂宇は江戸時代中期の再建で、広大な境内には本堂(重要文化財)、三重塔、大師堂、薬師堂、塔頭寺院が立ち並び、大寺院の風格が漂う真正極楽寺(真如堂)を訪れる。

京都の人から「黒谷さん」と親しまれる浄土宗の大本山。1175年(承安5)、法然上人が比叡山の黒谷を下りて、ここに草庵を結んだのが始まりといわれる。建物は何回かの火災に遭ったが、そのたびに建て直されている。現在は、山門、経蔵、阿弥陀堂、御影堂、方丈、三重塔(重要文化財)などのほか、18の塔頭寺院が立ち並ぶ。なかでも、蓮池院(熊谷堂)は、一の谷の合戦で平敦盛[たいらのあつもり]の首をとった熊谷直実の住房跡として知られる。また、2代将軍・徳川秀忠の菩提を弔うために建てられた三重塔の本尊文殊菩薩と脇侍像は運慶の作といわれている金戒光明寺(黒谷さん)を訪れる。

白河上皇ゆかりの門跡寺院。1090年(寛治4)、白河上皇が熊野三山に参詣した際、先達を務めた増誉僧正に与えた寺で、全国の修験者を統括したのが起こり。その後、白河上皇の皇子が4世として入って以来、門跡寺院となった。宸殿、本堂、書院(重要文化財)など現在の建物は延宝年間(1673〜81)の建築。天明・安政の京都御所の火災の際、光格・孝明天皇が仮皇居としたことから史跡に指定。狩野派絵師による170面以上の障壁画や当時の上段の間、御学問所、茶室も残る聖護院を訪れる。

1895年(明治28)、平安遷都1100年を記念して創建された神社。白砂に朱塗りの社殿が映えて、雅やかな雰囲気が漂う。特に応天門と大極殿は、平安京大内裏朝堂院にあった原型を8分の5に縮小して復元したもの。また本殿の奥の神苑は約3万平方mに及ぶ日本庭園で、季節には桜や花ショウブが美しい花を咲かせる平安神宮を訪れる。

17:00終了。

今回の名所巡り、近場の京都に足を運び、東山文化を代表とする建築物、銀閣寺のある哲学の道エリア、美術館・博物館などアートが点在し、平安遷都1100年を記念として明治28年に創建された平安神宮のエリア、臨済宗南禅寺派の大本山の南禅寺エリアを訪れ、点在する多くの歴史的建造物に接し癒され、一方歴史学習も出来満足できた名所巡りでした。








京都市洛中観光
2010年5月12日


今回は京都の歴代天皇が住まれた御所、徳川家の二条城、新撰組のゆかりの地、壬生など、京都のど真中のエリア、豊臣秀吉が京都の中心部を土塁で囲み、その内側の洛中に足を運びました。

12:30車で第二京阪、阪神高速京都線を経由して
13:00洛中エリアに到達。

平安時代、園城寺(三井寺)の僧が、母の供養のために地蔵菩薩像を安置したのが始まりとされる。本堂は1970年(昭和45)の再建。境内には保育園や老人ホームが立つ庶民的な寺だ。坊城通に面した表門を入って右側の壬生塚には、新選組隊士の墓や近藤勇の胸像がある壬生寺を訪れる。

平安京造営の際に禁苑として造営された。当時は南北400m、東西200mに及ぶ広大な庭園で、皇族が舟遊びや狩猟を楽しんだが、鎌倉時代以降に荒廃。さらに家康の二条城築城で大部分を削られたが、明治になって真言宗の道場として再興された。苑内中央の放生池は禁苑にあった大池の一部といわれ、池中の島には、かつてこの場所で行われたという雨乞い伝説を伝える善女龍王を祀る神泉苑を訪れる。

関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛の際の宿泊所として1603年(慶長8)に築城。後に3代将軍家光が大改修し、現在のような規模となった。堀を巡らし石垣に囲まれた広大な城内は、二の丸御殿(国宝)、本丸御殿(重要文化財)、二の丸庭園(特別名勝)などからなり、豪壮な外観に反して内部はきらびやかさに満ちている。二の丸御殿の障壁画(重要文化財)は狩野派の作で、松鷹図などがよく知られる。本丸御殿は京都御苑内にあった旧桂宮家の御殿を移築の元離宮二条城を散策する。

本堂が六角宝形造であり、正式名は紫雲山頂法寺。いけばな発祥の地としても有名。本堂前には縁結びで有名な地摺り柳が植わり、その右手には六角形の丸く窪んだ石(直径約42cm)がある。京都のほぼ中心に位置していることから「へそ石」と呼ばれている紫雲山頂法寺(六角堂)を訪れる。

京都の伝統文化を幅広いジャンルで展示、紹介している。フィルムライブラリーでの映像や、展示室の精巧な模型などを通して、歴史や美術工芸・映画に関する資料を気軽に見ることができる。1906年(明治39)建築の別館は、旧日本銀行京都支店の建物で重要文化財。重厚なレンガ造りの建物内は無料で入場できる。京都文化の情報発信のほか、様々なイベントも開催している。江戸時代末期の京の町家の表構えを復元した「ろうじ店舗」では、食事やショッピングが楽しめる京都府京都文化博物館を見学。

京都御所、仙洞御所、大宮御所を包む広大な国民公園。東西約700m、南北1.3kmに及ぶ敷地は、東京遷都まで宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた。現在は樹齢100年を越える樹林の中、玉砂利の道と芝生と桜、梅など多くの花木も植えられ、四季折々の変化を楽しめる。蛤御門や近衛邸跡庭園、閑院宮邸跡、九條家ゆかりの茶室拾翠亭など、歴史をしのぶ建物や庭園も遺る京都御苑を散策する。

京都御苑の中央北部に位置。明治維新までの皇居で、現在の御所は1331年(元弘元)に光厳天皇が東洞院土御門殿を皇居と定めたもの。以来、織田・豊臣・徳川の手で整備されたが火災で類焼。今の建物は1855年(安政2)の再建だ。紫宸殿は御所の正殿で、中央に高御座をおく。典型的な寝殿造。前庭には向かって右手に「左近の桜」、左手に「右近の橘」が植えられている。紫宸殿の奥には清涼殿など優美な建物が立ち並び、王朝時代の宮廷生活を偲ばせている京都御所による。

1885年(明治18)創建。明治維新に功績のあった、三條実万・実美親子が祭神。御苑の東にある清和院門前から、参道が北に延びる。萩の名所としても名高く、長い参道や境内に萩が咲き乱れる9月中〜下旬には萩まつりが催される。境内には上田秋成と湯川秀樹の歌碑、有名な京都三名水の一つ「染井」もある梨木神社を訪れる。

938年(天慶元)に元三大師によって船岡山に創建されたが、1571年(元亀2)に織田信長の焼き討ちを免れて現在地に移った。代々皇室の帰依が厚く、本堂は光格天皇の勅命により仙洞御所の一部を移築されたもの。紫式部の邸宅跡としても知られ、「源氏の庭」には紫色のキキョウが咲く。節分の日に、3匹の鬼が剣や斧、槌をもって踊り、追儺使が紅白の豆を投げて鬼を追い払う、「鬼の法楽」が有名な廬山天台講寺(廬山寺)を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の世界遺産の宝庫、京都に足を運び、新撰組のゆかりの地、壬生に点在する寺院、桓武天皇の時代から東京遷都まで貴族文化の中心だった京都御所、初代将軍家康が築き、激動の幕末を見守り、二の丸御殿は十五代慶喜が大政奉還をした舞台であった二条城など、歴史を感じる史跡が多数あるエリア、洛中を訪れ歴史学習できました。







京都市洛東観光
2010年4月7日


世界遺産であり定番の観光地、清水寺を中心とした京都市の洛東エリアの寺社巡りしてきました。

12:30車で京阪自動車道経由して
13:30京都の洛東に到達。

西国三十三ヵ所第17番札所。空也上人が951年(天暦5)に開いた西光寺を、上人の没後、弟子の中信が六波羅蜜寺と改名した。悪疫退散を念じて空也が刻んだという本尊の十一面観音立像(国宝)は本堂(重要文化財)に安置、12年毎の辰年に開帳される。宝物館には念仏を唱える姿の空也上人像(重要文化財)や平清盛像(重要文化財)など鎌倉時代の彫刻が収められている六波羅蜜寺を訪れる。

建仁寺の塔頭寺院。境内には平安初期の官僚で学者、歌人としても名高い小野篁が冥界へ通ったという伝説の井戸があり、閻魔大王像を祭る閻魔堂もある六道珍皇寺を訪れる。

江戸時代に蓮華光院が讃岐金比羅宮から勧請した鎮守社で、縁切りと縁結び、両方の御利益がある。新旧の絵馬700点が展示されている「金比羅絵馬館」には、手塚治虫氏が奉納したものもある。先代宮司の鳥居博愛氏の趣味が高じて作られた「ガラスの部屋」には、エミール・ガレ、ルネ・ラリック、アマリック・ワルターらの作品が展示されている安井金比羅宮を訪れる。

栄西が1202年(建仁2)、宋の百丈山にならって創建した臨済宗の寺院。栄西は中国から初めて茶の実を持ち帰った人物で、誕生日の4月20日には四ツ頭茶会が催される。単層入母屋造の方丈(重要文化財)は、1599年(慶長4)、広島の安国寺から移築されたもの。栄西が鴨川から引き上げたという鐘、勅使門(重要文化財)、俵屋宗達作の風神雷神図(国宝)(展示は複製)など、みどころが多い建仁寺を訪れる。

かつて平安京の南大通であった松原通が東大路通を越えた場所から始まる約1kmほどの清水寺への参詣道。人通りもあまりない静かな坂だが、五条坂・三年坂と合流するあたりからみやげ物店が軒を連ね、さらに上がると漬け物や八ツ橋などの京みやげの店がずらりと揃い、呼び込みも盛ん。門前には清水人形の店もある。坂の頂上に清水寺の仁王門や三重塔がそびえ立つ清水坂を通過する。

五条坂から分岐して清水寺へ向かう坂。陶芸ギャラリーや藍染工房などの趣味の店も徐々に増え、アート散策を楽しめる穴場だ。かつては清水焼の窯元が立ち並んだ場所であるため茶わん坂と名付けられ、坂の入口に石碑が立つ。古くは奈良時代の僧、行基がこの地で土器を作り、江戸初期に野々村仁清が華やかな色絵陶器を完成させた。坂の南には近藤悠三記念館が立つ清水新道を通過する。

清水の舞台で知られる。778年(宝亀9)、延鎮上人が音羽の滝の上に庵を結び、千手観音を祭ったのが始まり。798年(延暦17)、坂上田村麻呂が長岡京の旧紫宸殿を移築して堂宇を建造したと伝わる。断崖に立つ舞台造の本堂(国宝)は徳川家光が1633年(寛永10)に再建したもので、優美な寝殿造が踏襲されている。139本の柱が支える舞台からは京都市街を一望。三重塔(重要文化財)も同時期の再建。石段下には3筋の水が流れる音羽の滝があり、飲めば長寿、健康、学問に御利益があるといわれる。西国三十三カ所第16番札所でもある清水寺を訪れる。

清水寺本堂の北にある縁結びの神社。朱塗りの社殿(重要文化財)は1633年(寛永10)徳川家光が再建。境内にははらい戸大神、撫で大国など願かけの神様が揃い、本殿前の恋占いの石は目を閉じてもう一方の石に無事たどり着けば恋が成就するのだという地主神社を訪れる。

京都らしい風情を楽しめる散歩道の代表格。石段と緩やかなカーブを描く石畳の道沿いに、みやげ物店や食事処、料亭などが軒を並べている。清水坂から七味家本舗の脇を北に下る石段が三年坂で、名の由来は大同3年(808)にできたからとも、子安塔に安産祈願に向かう参道に当たるため産寧坂と呼ばれたからともいわれる三年坂(産寧坂)を通過する。

坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作、木戸孝允など幕末維新に活躍した志士たちの遺品や遺墨を展示する資料館、霊山歴史館を見学。

維新の志士や大東亜戦争の戦没者の霊を祭る神社。坂本龍馬と中岡慎太郎の墓や、二人が並んだ銅像もあり、修学旅行生や維新の志士ファンがお参りに訪れる。参道の坂道は維新の道と呼ばれ、春は桜、秋はモミジが美しい京都霊山護国神社を訪れる。

豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)が1606年(慶長11)に秀吉の菩提を弔うために開いた寺。創建当初は徳川家康の援助もあり、広大な寺域をもつ壮麗な寺であったが、度重なる火災に遭っている。桃山様式の創建当時の面影を残すのは、開山堂(重要文化財)と、須弥檀や厨子の高台寺蒔絵で名高い霊屋[おたまや](重要文化財)、伏見城から移した茶室傘亭(重要文化財)と時雨亭(重要文化財)、表門(重要文化財)、観月台(重要文化財)など。東山を借景にした小堀遠州作の庭園(名勝・史跡)も見応えがある高台寺を訪れる。

805年(延暦24)、桓武天皇の勅命で最澄によって開かれた。裏山を借景とした緑の深い庭園は、相阿弥作と伝える。1185年(文治元)に建礼門院が出家したことで知られ、わが子安徳天皇の御衣で作った仏幡や建礼門院像など、『平家物語』の世界が広がる長楽寺を訪れる。

京都・東山三十六峰の一つ、華頂山の麓に広がる浄土宗の総本山。法然上人が1175年(承安5)ここに居を構え、「南無阿弥陀仏」と唱えるとすべての人が救われるという念仏の教えを初めて説き、生涯を閉じた念仏の聖地だ。7万3000坪の広大な境内には、法然上人の御廟や2000人が一度に参拝できる御影堂、日本最大の三門など国宝や重要文化財の多くの伽藍が建ち並ぶ知恩院を訪れる。

知恩院の北側にある天台宗の門跡寺院で、粟田御所とも呼ばれる。応仁の乱を逃れたという門前の楠の大木が目印。平安末期に比叡山の東塔から移した青蓮坊がそもそもの始まり。代々親王が住職を務めてきた格式の高い寺である。1788年(天明8)の皇居炎上の際には後桜町上皇の仮御所となった。雅な建物は明治以降の再建。みどころは2つの庭園。華頂山を借景とした室町時代の相阿弥作池泉廻遊式庭園と、小堀遠州作の霧島の庭。春秋の特別公開時には、庭園の一角の茶室・好文亭で抹茶付きで鑑賞ができる青蓮院を訪れる。

八坂神社の境内に続く円山公園は、中央に池を配した和風庭園。園内には料亭や茶店、野外音楽堂の施設などが点在している。花見の名所で、なかでも祇園枝垂桜の名で知られる大樹は、毎年この花のために京都を訪れる人もあるという。現在の樹は二代目で、桜守としてしられる佐野藤右衛門氏と同じ1928年(昭和3)生まれ。春の宵、ライトアップされた夜桜とぼんぼりの灯で、園内は幻想的な桜色に浮かび上がる円山公園を。散策する。

四条通に面して立つ、日本最古の劇場。建物西側に歌舞伎発祥の地の碑が立つが、これは1603年(慶長8)出雲の阿国が四条河原でかぶき踊りを始めたことによる。1929年(昭和4)に改装。1991年(平成3)、外観はそのままに新装した建物は国の登録文化財に指定。毎年12月ごろに行われる吉例顔見世興行は京の年中行事の一つで、東西の歌舞伎役者が豪華な顔合せを見せる南座を訪れる。

八坂神社の西楼門の階段を降りて四条通を西へ100mのところに老舗のお茶屋・万亭(一力)がある。その西を南北に走る路。華やかな紅殻塗の壁や竹で編まれた犬矢来(駒寄せ)の一力近辺には、簾を垂らしたお茶屋が立ち並び、しっとりと洗練された佇まいを見せる。この一力は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で大星由良之介(大石内蔵助)が高師直(吉良上野介)の目をくらますためにお茶屋遊びをする「祇園一力の場」としても有名な花見小路を通過する。

17:00終了。

今回の名所巡り、世界遺産で定番の観光地である清水寺を中心とした京都市の洛東エリアの寺社巡り、最近各地の歴史的建造物を訪れていますがさすが京都の歴史的建造物、あらためてスケールの違いを痛感、観光客も飛びぬけて多い京都寺社巡りでした。










京都市嵐山&嵯峨野史跡巡り
2010年2月27日


京都の洛西に位置する嵐山に小倉山、保津川などの自然にあふれ、歴史的有名な社寺も多い嵐山・嵯峨野に足を運びました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して京都南インター下車
13:40嵐山到達、散策観光する。

大堰川に架かる全長155mの橋。亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」として、渡月橋と命名したという風情ある橋で、嵐山の景観にとけ込んでいる。鵜飼などの川遊びも渡月橋を中心に行われる。当初、橋は現在より100mほど上流にあったと考えられるが、1606年(慶長11)に角倉了以が大堰川上流の保津川開削工事を行った際、今の場所に移された渡月橋をわたる。

1339年(延元4)に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立した、京都五山第1位の寺で、世界文化遺産。創建時は150余の塔頭を数えたが、8回の大火に遭い現在の諸堂は明治時代に再建されたもの。曹源池を中心に嵐山や亀山を借景とする池泉回遊式の庭園(史跡・特別名勝)は、開山の夢窓疎石の作。3段の石滝組などを配し、南北朝時代の禅院を代表する庭園の天龍寺を訪れる。

伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が、潔斎のためにこもった所。クヌギの丸太を組んだ黒木の鳥居や小柴垣の簡素な佇まいの小さな社で、『源氏物語』の「賢木」の巻、謡曲『野宮』などに描かれた当時の様子を彷彿とさせる。今では縁結び、進学の神社として知られるようになった野宮神社を訪れる。

丹下左膳役で有名な昭和初期の俳優、大河内伝次郎の別荘。小倉山の山裾の起伏を利用して、桜や楓、松などを植え込んだ広大な庭は趣が深い。展望台からの眺望もよく、園内の静雲亭でミニ懐石などの食事も楽しめる大河内山荘を訪れる。

小倉山の中腹にある名刹で、秋の紅葉の美しさでも知られている。静寂な寺の佇まいが天台四土の一つ常寂光土を思わせるところから、寺名となった。茅葺きの仁王門には運慶作と伝えられる仁王像が立っている。檜皮葺きの多宝塔(重要文化財)は、江戸時代の建築ながら華麗な桃山様式を伝えている常寂光寺を訪れる。

ひなびた茅葺き屋根の庵は、松尾芭蕉の高弟である向井去来の別宅。ある秋、去来が商人に庭の柿の木になっている実を売る約束をしたが、その夜のうちに嵐ですべて落ちてしまった。その後、去来は自らを落柿舎去来と称するようになったという落柿舎を訪れる。

釈迦如来立像(重要文化財)と阿弥陀如来立像(重要文化財)の2像を本尊とすることから、二尊院と呼ばれる。平安時代初期に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖に建立、いったん荒廃したものの法然が庵を結び、弟子の湛空が再興した。常寂光寺と同じく、ここも藤原定家の山荘「時雨亭」があったとされる二尊院を訪れる。

奥嵯峨の竹林の中にひっそりと佇む『平家物語』ゆかりの寺。仏御前の出現で平清盛の愛を失った白拍子の祇王が、母、妹と尼になってここに移り住んだ。後に仏御前も尼になり、ともに晩年をすごしたという。本堂には、大日如来、清盛と4人の像を安置。影が虹色に映る吉野窓も見ものの祗王寺を訪れる。

化野と呼ばれるこの一帯は、かつて亡骸を葬る風葬の地だった。寺の起こりは、弘法大師がこの地に葬られた死者の菩提を弔うために寺を建てたことによる。のちに法然上人が念仏道場に改め、念仏寺と称した。境内には、釈迦の説法に耳を傾ける人々の姿になぞらえて、無縁仏となった約8000体もの石仏や石塔が並ぶ化野念仏寺を訪れる。

大覚寺から北へ少し足を延ばした所にある小さな庵。江戸時代初期に結ばれた草庵が荒廃していたのを、幕末に近衛家の老女村岡局が再興した。境内は四季折々の花が楽しめ、静けさのなかで人々の心が癒される寺として知られる。仏前に置かれたノート『想い出草』には、訪れる人々の恋や仕事などの悩み・迷いがびっしりと綴られ、境内にはこのノートにちなんで想い出観音像も祀られている直指庵を訪れる。

真言宗大覚寺派本山。876年(貞観18)に嵯峨天皇の離宮を寺院に改めたもので、代々天皇や法親王が住持し格式を保ってきた。鎌倉時代には後嵯峨、亀山、後宇多上皇がここで院政をしき、嵯峨御所とも呼ばれた。回廊で結ばれた宸殿や御影堂などの御所風の建物に、武家風の明智門、明智陣屋が彩りを添える。宸殿(重要文化財)と正寝殿(重要文化財)をはじめ、襖絵116面(重要文化財)など多くの文化財を所有。なかでも、御所の紫宸殿を移築した宸殿の牡丹の間、紅梅の間の襖絵は狩野山楽が描いたもので、ひときわ豪華な大覚寺を訪れる。

大覚寺が嵯峨天皇の離宮だった時代に、その林泉として造られたもの。周囲約1kmの池の堤には、桜や楓、松が植えられ、池の中には天神島と菊ケ島が浮かぶ。北には、百人一首の藤原公任の歌で知られる名古曾の滝跡とする滝組跡も残る。古来、観月の名所としても知られる大沢池[大覚寺]を訪れる。

『源氏物語』の主人公光源氏のモデルとされる源融の山荘跡に阿弥陀堂を建てたのが始まり。嵯峨釈迦堂とも呼ばれる古刹。清凉寺式といわれる本尊の釈迦如来像(国宝)は、東大寺の僧、ちょう然が宋から招来したと伝える。目には黒水晶、耳に水晶をはめ込み、縄状の髪で、胎内には絹製の五臓六腑や経巻が納められた特異な様式の清凉寺を訪れる。

17:00終了。

今回は過去に何回も訪れたことのある京都嵐山嵯峨野の社寺巡り、視覚的に鮮明に記憶が残るが歴史的意義知識が定かでないため、詳細ガイドブックを持参し読みながら巡り、多少なりとも嵐山嵯峨野の歴史的建造物の歴史学習できました。

京都の史跡巡り、かなり制覇してきました、後は京都市の中心部を残すのみとなりました。
徐々に制覇していきたいと思います。









京都市京都駅周辺史跡巡り
2010年2月24日


登録された世界文化遺産の社寺が17もある歴史的建造物の宝庫、京都の京都駅周辺の社寺を巡ってきました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して京都南インター下車
13:20京都駅南に到達

高さ55mの五重塔(国宝)で知られる東寺の正式名は教王護国寺。平安遷都の際に創建された官寺を、823年(弘仁14)に空海が嵯峨天皇より賜り、真言宗の根本道場とした。土一揆で伽藍のほとんどを焼失したが、室町末期〜江戸初期にかけて再建された。南大門(重要文化財)、金堂(国宝)、講堂(重要文化財)、食堂が一直線に並ぶ伽藍配置は創建当時の特徴を残す。講堂には空海の密教思想を表現し、曼荼羅を立体化した21体の仏像が並ぶ教王護国寺(東寺)を訪れる。

蒸気機関車(SL)を保存展示する博物館。梅小路公園に隣接しており、入口には旧二条駅舎(京都市指定有形文化財)を移築。「C62」や「D51」など、大正から昭和にかけて活躍した蒸気機関車が扇形車庫に収められている梅小路蒸気機関車館を訪ずれる。

浄土真宗本願寺派の本山。親鸞聖人の廟を東山大谷に建てたのが始まりで、1591年(天正19)豊臣秀吉の寄進で現在地に移転。1617年(元和3)の火災で諸堂を焼失し、伏見城や聚楽第から移築されたという、秀吉ゆかりの建造物が華麗な桃山文化を偲ばせる。御影堂(重要文化財)には、親鸞の荼毘の灰を漆にまぜて塗ったと伝わる坐像を安置。天井や障壁画の絢爛な装飾で知られる書院(国宝)には203畳の対面所、虎渓の庭(史跡・特別名勝)、1581年(天正9)建立の日本最古の能舞台(国宝)がある西本願寺を訪れる。

1598年(慶長3)に62年の生涯を閉じた豊臣秀吉を祀る。のちに徳川家康によって取り壊されたが、1880年(明治13)に再建された。桃山建築を代表する唐門(国宝)や、名工辻与二郎作の鉄灯籠は有名。宝物館には狩野内膳筆の豊国祭礼図屏風(重要文化財)などが展示されている豊国神社を訪れる。

豊臣氏滅亡のきっかけとなった「国家安康の鐘」(重要文化財)で知られる。1586年(天正14)、秀吉が奈良・東大寺を模して建立したが1596年(慶長元)の地震で大破。豊臣秀吉の没後、徳川家康が淀君と秀頼にすすめ再興させたが、大鐘の銘に「国家安康・君臣豊楽」とあったのを口実の一つとし、大坂冬の陣、夏の陣を起こし、豊臣氏を滅亡へと追い込んだ。現在は鐘のみが現存する方広寺を訪れる。

大正から昭和にかけて活躍、文化勲章を断るなど無冠の陶工として知られる河井寛次郎の住居をそのまま記念館としたもの。寛次郎自身の設計で、1階は囲炉裏や吹き抜けのある板の間、2階には書斎や居間がある。中庭の奥には素焼き窯や登り窯、陶房などがそのまま残されており、作品も数多く展示されている河井寛次郎記念館を見学。

七条通を挟んで三十三間堂と向かい合う。1895年(明治28)に建てられたバロック様式の特別展示館(重要文化財)は、現在は特別展覧会の時に利用されている。平常展示館では、京都や奈良の寺社などからの寄託品を含め約1万2000件を収蔵。絵画、書跡・染織などは定期的に入れ替えて展示される。庭園にはロダンの彫刻『考える人』、馬町十三重石塔もある京都国立博物館を見学。

紀州根来寺と関わりの深い、真言宗智山派の総本山。豊臣秀吉が、3歳で没した長子鶴松の菩提を弔うため建立した祥雲禅寺を前身とする。度重なる火災の後、1600年(慶長5)に再興され智積院となり、数々の障壁画や庭園が華麗な桃山文化を今に伝える。名高い長谷川等伯・久蔵一門の描いた楓図・桜図(国宝)は、収蔵庫で見られる。庭園(名勝)は利休好みの庭として知られる、中国廬山をかたどった池泉回遊式庭園の智積院[蓮華王院]を訪れる。

本堂内陣の柱間が33あることから三十三間堂と呼ばれる。1164年(長寛2)、後白河法皇が平清盛に命じて創建したが、大火に遭い焼失。現存の本堂(国宝)は1266年(文永3)に再建されたもの。堂内には二十八部衆立像(国宝)、風神雷神像(国宝)などに守られて、顔立ちの異なる1001体もの千手観音像(重要文化財)がズラリと並ぶ。中心の本尊・千手観音坐像(国宝)は、運慶の長男湛慶[たんけい]作のある蓮華王院(三十三間堂)を訪れる。

JR京都駅の北正面にそびえ立つ展望塔。地上100mの展望室からは碁盤の目のように整然とした京の町並みや、京都盆地を囲む山々を望むことができる京都タワーを訪れる。

17:00終了。

世界遺産の社寺の宝庫、京都の京都駅の周辺の社寺を巡りました。

このエリアにも東寺、西本願寺等の世界遺産の社寺を含めて有名な歴史的建造物が盛りたくさん位置していました。

さすが平安・室町時代の都、京都、歴史の深さを感じた、今回の史跡巡りでした。







京都南東山区観光
2009年12月26日


今回は近場の京都に足を運び、京都駅から南のエリア東山区の寺社巡りしてきました。

12:30京阪電車で京都方面に向かう。
13:45深草駅到達、散策する。

宝永年間(1704〜1711)創建。石仏の寺として知られ、本堂背後の竹林にぽつんぽつんと石仏が立っている。これらは釈迦誕生から涅槃にいたるまでを表す五百羅漢。錦市場の青物問屋に生まれた江戸中期の画家・伊藤若冲(斗米翁)が、この地に隠棲し、下絵を描いたものを石仏にしたといわれる石峰寺を訪れる。

全国で約3万社を超えるお稲荷さんの総本宮。商売繁昌、五穀豊饒の神として有名。大鳥居をくぐると、1589年(天正17)に豊臣秀吉が寄進したと伝える朱塗りの楼門がある。本殿(重要文化財)は、1499年(明応8)再建の檜皮葺き。本殿背後にある鳥居のトンネルをくぐれば奥社奉拝所。稲荷山への登り口である。高さ233mの山には、至る所にお塚がある伏見稲荷大社を訪れる。

1236年(嘉禎2)に建立された禅刹で、京都五山の一つ。境内は広く、日本最古の三門(国宝)、禅宗寺院様式の東司(トイレ)(重要文化財)、堂本印象が竜を天井に描いた本堂などが立つ。方丈の庭園は東西南北それぞれ趣が異なり、苔と角石とが市松模様になっている北庭が特に名高い。洗玉澗に架かる、通天橋付近の紅葉も見ごとの東福寺を訪れる。

東福寺塔頭のひとつで、1390年(明徳元)創建。重森三玲が復元した九山八海の庭の中央には、熊本藩細川家から贈られた遺愛石がある。この石は寺領五百石を辞退した代わりに拝領したものという。もう一つの臥雲の庭も美しい。また、日露戦争中、ロシア人捕虜を収容し、彼らが木や竹で作った楽器なども陳列している霊雲院を訪れる。

東福寺に境内に立つ。じゅうまん不動と呼ばれ、火除け信仰がある。五大堂に安置されている本尊の平安時代の不動明王像(重要文化財)がある同聚院を訪れる。

皇室とゆかりが深く、御寺とも呼ばれる古刹で、弘法大師が草庵を結んだのが始まり。境内には狩野探幽作の天井絵などが見られる仏殿(重要文化財)がある。大門近くの観音堂には、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り造らせたという楊貴妃観音坐像(重要文化財)が祭られ、良縁や安産、美容に御利益があるという泉涌寺を訪れる。

天長年間(823〜834)に空海が十一面観音を安置して開創した。西国三十三カ所第15番札所。高さ16mの多宝塔は、1983年(昭和58)の建立する今熊野観音寺を訪れる。

東大路通に面してクスノキの巨木が目を引く。後白河法皇が1160年(永暦元)に、仙洞御所の法住寺殿のなかに熊野神社を勧請、創祀したのが起こり。1374年(応安7)、足利義満がここで能の勧進興行を行い、演能したのが観阿弥・世阿弥の親子。絵馬は、車馬安全祈願の「八咫烏」の新熊野神社を訪れる。

17:00終了。

今回も近場の京都の南エリア、東山区の寺社を3時間掛けて歩きで巡りました。

紅葉で有名な東福寺周辺は紅葉時に訪れれたことがありますがシーズンオフの訪れも人も疎ら、のんびりと巡ることができ、違った意味で楽しめました。

さて明日からはペルーに出発です。
謎の遺跡群を目の前での観光、期待しています。又結果報告します。







京都桂・松尾観光
2009年11月7日


回は近場の京都の松尾の山すそ、桂川が流れる自然豊かなエリアに足を運び、美しい建築様式の桂離宮、西芳寺などを訪れました。

12:30車で近畿自動車道経由して京都桂方面に向かう。

13:30桂到達。

もとは八条宮家の別荘として江戸初期に造営された。完成に35年余りを費やし、竹やぶに囲まれた5万6000平方mの敷地には、苑池を設け、松琴亭、賞花亭などの茶亭や書院を配している。庭園と建築の総合美は、世界的に知られる桂離宮を訪れましたが、参観は許可制のため外部から眺めるのみに終わりました。次回許可書をもらい訪れたたいと思います。

足利義満の補佐役だった細川頼之が夢窓国師の高弟宗鏡禅師に帰依して創建した禅寺。4000坪の境内の半分が竹林に覆われていて、竹の寺と呼ばれている。本堂北の方丈からは、杉苔の中に16個の自然石を配し、それを十六羅漢に見立てた平庭式枯山水庭園が観賞できる地蔵院を訪れる。

奈良時代の行基が開祖と伝えられてる古刹で暦応2年(1339)夢窓国師が再興し、天下一の名庭と言われ銀閣寺など作庭の手本とされた、苔が素晴らしい庭園、通称「苔寺」と呼れる西芳寺を訪れる。残念ながらこちらも許可書が必要、外部から眺めて終わりました。

1723年(享保8)鳳潭上人が華厳宗再興を願って創建。飼育された鈴虫が一年中鳴くことから、別名鈴虫寺と呼ばれる。山門横に立つ草鞋を履いた幸福地蔵は、一つだけ願いを叶えてくれるという華巌寺を訪れる。

701年(大宝元)、秦氏が創建したと伝える古社。酒の神として信仰を集めていて、境内には全国の酒造元から奉納された、こもかぶりの酒樽が並ぶ。祭神は酒の神・大山咋神[おおやまぐいのかみ]で、社務所裏には湧き水(亀の井)を加えると酒が腐らないといわれる。室町前期建造で、1542年(天文11)に大改修した本殿(重要文化財)は、松尾造といわれる三間社両流造。重森三玲氏作庭の松風苑は、磐座をイメージした上古の庭、鎌倉風の蓬莱の庭、平安風の曲水の庭と、趣を変えた3つの庭が見られる松尾大社を訪れる。

延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。顕宗三年(四八七)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御船社、聖徳太子社などから構成されている月読神社を訪れる。

その名の通り梅の美しい神社である。子授けの神として有名で、子宝を望む夫婦が季節を問わず参拝に訪れる梅宮大社を散策する。

鷹峯方面に向かう。

陶芸や書道、茶道などに多才を発揮した江戸時代の芸術家・本阿弥光悦が1615年(元和元)に徳川家康からこの地を拝領、多くの工芸職人らと芸術村を営んだのが始まりで、光悦没後、その住まいが寺に改められた。境内には7つの茶室が点在、太虚庵茶室を囲む竹垣は、太い竹を斜めに組んだ独特のもので「光悦垣」と呼ばれる。紅葉の名所でもある光悦寺を訪れる。

1364年、大徳寺の徹翁が隠居所として創建したが、1694年に臨済宗から曹洞宗に改宗された。有名なのが、堂内の「悟り窓」と「迷い窓」。円で大宇宙、悟りとし、禅と円通の心を、四角で人間の生涯、迷いとし、生老病死・四苦八苦を表している源光庵を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、近場の京都の桂・松尾・鷹峯エリアを訪れ、松尾の山すそ、桂川が流れる自然豊かなエリアでの桂離宮、西芳寺、華厳寺、地蔵院、梅宮大社、月読神社、松尾大社の散策、緑多く空気の澄んだ爽やかなエリアの仏教の教えを表したという原光寺の2つの窓、独特の編み方が美しい光悦寺の竹垣などの散策、癒されました。










京都大原&鞍馬&貴船観光
2009年10月28日


今回は近場の京都郊外、京都有数の美庭を鑑賞できる三千院、実光院、宝泉院などが位置する大原、大自然の魅力を歩いて満喫できる京の奥座敷と呼ばれる鞍馬・貴船に足を運びました。

12:30車で近畿名神自動車道経由して
13:30大原到達。

天台五門跡の一つ。最澄が比叡山に建てた小堂に源を発し、明治4年、現在地を本坊とする。境内は自然の傾斜を活かして建物を配置。京都市の名勝に指定されている聚碧園などを眺めながら客殿、宸殿を通り、池泉回遊式庭園の有清園に出る。一面を苔の緑が覆い、秋には見事な紅葉に彩られるこの庭の一角に往生極楽院(重要文化財)が立つ。1148年(久安4)の建立で、狭い堂内に仏像を納めるため船を逆さにしたような船底天井となっている。本尊は金色に輝く阿弥陀三尊像(国宝)。観音・勢至両菩薩の腰をやや浮かせた姿勢が印象的。かつては、堂内は極彩色の壁画で荘厳され、平等院鳳凰堂などとともに極楽浄土の世界を表した三千院門跡(三千院)を訪れる。

天台声明の根本道場として開山された寺。1188年(文治2)、浄土宗祖法然上人が諸学の学僧と宗論をした、「大原問答」の舞台として有名だ。この問答で、阿弥陀仏の名を唱うれば仏様の願力によって衆生が救われると法然が説いたところ、阿弥陀如来が手から光明を放ったといわれる。このことから、本尊を「証拠の阿弥陀」と呼ぶようになった。また、当時をしのばせる問答台が2つ本堂に残っている。子院に実光院と宝泉院がある勝林院を訪れる。

勝林院で声明を修行する学僧の僧坊として建てられた。詩仙堂の三十六詩仙画像の模写が掲げられた客殿の、西側と南側には庭園が広がる。西の庭にある不断桜は、秋から春にかけて花を咲かせ続ける珍しい実光院を訪れる。

声明の道場として開かれた勝林院の塔頭で、書院から見事な庭園を観賞できる。大原の山を背景に楓や桜、竹などが眺められ、まるで絵画を見るよう。廊下の天井は、鳥居元忠一党が自害した伏見城の板間を移したものといわれ、「血天井」と呼ばれる。2005年3月には、新庭園・宝楽園が完成した宝泉院を訪れる。

三千院と並んで大原を代表する寺。平清盛の娘・建礼門院徳子が、わが子、安徳天皇や平家一門の菩提を弔いながら、長い余生を過ごした。後白河法皇が建礼門院を訪れた『平家物語』の大原御幸でも知られる。本尊は木造地蔵菩薩立像(重要文化財)。夏は沙羅の花、秋の紅葉が美しく境内には『平家物語』ゆかりの汀の池、汀の桜などもある寂光院を訪れる。

鞍馬方面に向かう。

奈良末期に鑑真和上の高弟・鑑禎上人が毘沙門天を祭ったのが始まり。牛若丸や天狗伝説でも知られる。山門から本殿までは、清少納言が『枕草子』で「近くて遠きもの」と記した九十九折の道が約1km続く。参道途中には由岐神社や義経供養塔がある。本殿前庭からの眺望がすばらしく、桜や紅葉のシーズンは特に美しい。近くに金星から降臨したという護法魔王尊を祭る光明心殿、毘沙門天(国宝)や経塚遺物(国宝)などの寺宝のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻の遺品などを展示する霊宝殿がある鞍馬寺を訪れる。

940年(天慶3)創建の古社。鞍馬寺本堂へ至る参道途中にあり、鞍馬の火祭の舞台としてよく知られる。境内には樹齢800年と伝わる杉の巨木が立ち、霊気に満ちた気配が漂う。1610年(慶長15)に豊臣秀頼が再建した檜皮葺きの割拝殿(重要文化財)は、中央を石段がくぐっていて、その先に本殿がある由岐神社を訪れる。

貴船方面に向かう。

京都を流れる鴨川の水源地にあたり、水の供給を司る神様を祀る。創建年代は不詳だが、平安京遷都以来、水源を守る神として皇室からも格別の崇敬を受けてきた古社。日照りや長雨が続いた時には雨乞い・雨止め神事が行われ、現在も農業や菓子・酒造業など水に関わりのあるあらゆる業種の人々の信仰を集めている。平安時代の女流歌人・和泉式部が参拝し、復縁祈願が成就したことから、縁結びの神様としても信仰を集める。本宮境内には、重森三玲作の石庭がある貴船神社を訪れる。

天台宗寺門派の単立寺院。寛喜元年(1229)静基によって開山され、応仁の乱を避け北区紫野より岩倉の地へ移る。床紅葉で有名な実相院を訪れる。

比叡山を借景にした見事な枯山水の庭園(名勝)が有名だ。後水尾上皇の幡枝御殿(はたえだごてん)が1678年(延宝6)に寺に改められたもので、本堂と庭はかつての「下御茶屋」に当たる。苔が敷き詰められた庭には40数個の石が巧みに配置され、低い生け垣の向こうに霊峰比叡山を望む円通寺を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り、京都郊外の紫陽花で有名、ビロードのように広がる苔の美しさの本堂を囲むように造られた池泉式庭園も有名で多くの観光客が訪れる三千院。勝林院の塔頭寺院の一つで、池泉鑑賞式庭園と池泉回遊式庭園がある実光院。柱を額に見立てた額縁庭園の美しさは見事の一言の宝泉院。などの京都有数の美庭を鑑賞できる大原。

京の奥座敷と呼ばれる大自然の魅力を歩いて満喫できる、薄暗くひんやしとしていて静寂に包まれ、澄んだ空気が気持ちがいい鞍馬・貴船エリア。

昼から半日でリラクゼーションできる寺社巡り、満喫できました。












京都府丹波亀岡史跡巡り
2009年9月2日


今回は近場の京都府の明智光秀が築いた丹波・亀山城の城下町、亀岡、足利尊氏ゆかりの綾部、鬼退治伝説で有名な千丈ヶ嶽(833m)を最高峰として鳩ヶ峰(746m)、鍋塚(763m)とハイキングコースがあり、大江山連峰の大自然を満喫できる大江山に足を運びました。

12:30車で阪神高速経由して京都西部亀岡方面に向かう。

13:30南丹市の南西部にある約4kmの渓谷。通天湖から流れ落ちる水が清流となり、奇岩や樹木の間を縫う。両岸は、色鮮やかな紅葉の名所。一体は京都府立自然公園指定で遊歩道が整備されているため、ハイキングコースとしても知られている。国名勝るり渓を散策する。

西国三十三カ所霊場第21番札所で、縁起によれば705年(慶雲2)の建立という古刹。本尊聖観音像は33年に一度開扉される秘仏のある穴太寺を訪れる。

明智光秀が丹波平定時に築城し、亀岡は城下町として次第に発展。その後、江戸初期に5層の天守に改築。その美しさから亀宝城とも呼ばれていたが、現在は苔むした石垣と内堀が往時を物語るのみで城跡を含む一帯は現在大本教の敷地内となっている亀山城趾を散策する。

創建は709年(和銅2)という延喜式内名神大社で、丹波国一の宮。足利尊氏が修造したと伝わる本殿(重要文化財)は、三間社流造で檜皮葺きの建物。境内から湧出する御神水は、飲めば幸福を招き長寿になるとされ、真名井水と呼ばれている出雲大神宮を訪れる。

綾部方面に向かう。

足利尊氏の生誕地と言われる古寺。993年(正暦4)頃、恵心僧都作の子安地蔵菩薩を安置して光福寺としたのがはじまりと言われる。尊氏の母は、この地を所領していた上杉氏の娘にあたり、里帰りして尊氏を産んだ。境内には産屋の跡やその傍らに産湯の井戸が残るほか、尊氏と母、妻の墓もある安国寺を訪れる。

大江山方面に向かう。

標高833mの千丈ケ嶽を主峰とする連峰。鬼退治伝説の地として知られ、麓の大江町には鬼をテーマとしたさまざまな施設がある。その一つが、日本の鬼の交流博物館。日本全国はもとより、世界の鬼に関する資料を収蔵・展示している。一帯はレジャーゾーンとして整備され、各種アウトドア体験が楽しめる。大江山八合目、鬼嶽稲荷神社から見る雲海は絶景である大江山を訪れる。

18:00終了、帰路に向かう。

今回の史跡巡り、近場の京都府の
戦国武将・明智光秀公が、丹波平定の拠点として亀山城を築き、城下町の整備をはじめた亀岡。
室町幕府を開いた足利尊氏が、上杉荘(安国寺町)で誕生したと伝えられ、尊氏公の生母清子の実家上杉氏の発祥の地である綾部。
酒呑童子の鬼退治伝説で有名、春は新緑、夏は清流遊び、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の楽しみ方があり、特に鬼嶽稲荷神社から見る雲海は絶景です。 山から流れ出る二瀬川渓流では、奇岩と清流がおりなす風景を散策できるよう遊歩道が完備されている大江山。
3つのエリアの史跡巡り、意外と知らない歴史学習できました。









京都府八幡寺社史跡巡り
2009年8月12日


今回は近場の大阪の境、京都南部に位置する同志社と古代が混在する街、京田辺、歴史を訪ねながら史跡を巡ったり、木津川・宇治川・桂川の三川合流部に広がる自然の大パノラマや緑豊かな男山で森林浴を楽しんだり、四季を通して、魅力がいっぱい八幡方面に足を運びました。

12:30車で京田辺方面に向かう。

13:30のどかな里山の景観に溶け込んで佇む。天武天皇の勅願で義淵僧正が開基、聖武天皇の願いで良弁僧正が伽藍を増築したという。本尊の十一面観音立像(国宝)は744年(天平16)に安置。天平時代後期に盛んに作られた木心乾漆像で、華やかな天平の息吹を今に伝える。奈良・興福寺の別院でもあったため藤原氏の庇護を受けて隆盛したが、中世に焼失。現在は本堂(大御堂)だけがひっそりと立つ観音寺を訪れる。

一休禅師が晩年を過ごした寺。鎌倉時代、妙勝寺として創建。その後兵火に遭ったが、康正年間(1455〜56)に一休が再興。酬恩庵と号した。苔に覆われ、しっとりと風情のある境内には本堂・方丈・庫裏(すべて重要文化財)が立ち、方丈庭園と虎丘庵庭園は名勝に指定。一休は81歳で大徳寺住職となった時もここから通い、88歳で没した。方丈中央に安置する木造一休禅師像(重要文化財)は逝去の年に高弟に作らせた等身大の像で、髪や髭は一休が自分のものを植え付けたという一休寺(酬恩庵)を散策する。

八幡方面に向かう。

木津川に架かる日本最長級の木造橋。全長356.5m、幅3.3m。川の水が橋桁に達する増水時には、水の抵抗を少なくするため、橋脚にワイヤーロープでつながれた橋板が流されるようになっている。水が引けばワイヤーを手繰り寄せ復元する仕組み。昭和28年の架橋以来10数回にわたり流出した。江戸時代を思わせる素朴な橋は広い河原の白砂によく調和し、時代劇のロケに使われることもしばしば。映画やテレビで見ている人も多いはず。橋のたもとには、近隣の観光の拠点・やわた流れ橋交流プラザ四季彩館があり、地域の食や文化を楽しめる流れ橋を訪れる。

石清水八幡宮の別当だった善法寺宮清が建立。本堂は、八幡宮の旧社殿の一部を移したものと伝わる。宮清の孫・通清の娘で足利義満の母である良子が寺に数多くの楓を寄進したと伝えられ、今でも秋には境内全体が燃えるような紅葉に包まれる。現在は律宗寺院で奈良・唐招提寺の末寺、善法律寺を訪れる。

松花堂は石清水八幡宮の社僧だった松花堂昭乗が1637年(寛永14)、隠棲用に建てた草庵の茶室。もとは八幡宮近くにあったが、明治の神仏分離令で書院、庭園とともに現在地に移された。6600坪の広大な庭にはほかに3棟の茶室があり、昭乗作の書画などを展示する美術館や食の交流棟もある松花堂庭園・美術館を訪れる。

別名らくがき寺といい、境内の大黒堂の壁に自由に願い事を書ける。大黒堂建立にあたって受けた援助に感謝して、大黒様に願い事がよく見えるようにと始められた。白壁はさまざまな願いで埋まるが毎年末に塗り替えられる単伝庵(らくがき寺)を訪れる。

わが国航空界の先駆者である二宮忠八が、1915年(大正4)に全世界の航空殉難者の霊を慰めるために建立。忠八はライト兄弟より早く飛行機の実用化を試みたが、軍の上司に却下されたという。境内には航空関係の資料館もある飛行神社を訪れる。

緑豊かな男山の山上に立つ古社で、創建は859年(貞観元)。王城鎮護のために、平安京の裏鬼門(西南)に当たるこの地に九州から宇佐八幡を勧請したのが始まり。平安期には朝廷の崇敬を受け、のちに源氏の氏神となり頼朝らも訪れたという。現在は厄除けの神様として信仰を集める。朱塗りの社殿は徳川家光の寄進で江戸時代に再建され、本殿、外殿、楼門などすべて重要文化財に指定。動物彫刻などで装飾された豪華絢爛な造りで、桃山文化の特色を伝えている石清水八幡宮を散策する。

男山ケーブルで下山し八幡駅周囲を散策する。

17:00解散。

今回の史跡巡り、近場の京都南部の京田辺と八幡の歴史深い社寺を数箇所巡り、歴史学習出来ました。
全国各地の史跡巡りしていますがさすが関西、古都が築いた歴史建造物の多さ、さすがですね。
関西の方は近場に多くの由緒ある歴史的建造物に触れやすいので恵まれていますね。
皆さんどしどし訪れて歴史学習しましょう。






京都丹波篠山&福知山&美山観光
2009年3月20日


今回は京都の丹波エリアを訪れ、篠山城を中心に栄えた城下町篠山、織田信長の弟、信包が開いた城下町柏原、明智光秀が築城した福知山城を中心とする城下町福知山、足利尊氏ゆかりの寺や私市円山古墳など歴史的みどころがある綾部、茅葺き民家が立ち並ぶ美山に足を運びました。

6:30天候曇り時々小雨、肌寒い、車で出発、近畿中国舞鶴自動車道経由して
7:30丹波篠山市到達、散策する。

1923年に建てられ約70年間にわたって旧篠山町役場として使用されてきた篠山観光の拠点、大正ロマン館を訪れる。

1609年に徳川家康の命により大阪城攻略の拠点として築城された篠山城跡散策、同時期に建てられ1944年に焼失し平成12年に再建され京都の二条城の二の丸御殿に匹敵する大きさの建物、大書院を訪れる。

江戸末期から明治初期の町並みが残された伝統的建造物群保存地区、江戸時代に篠山の商業の中心として栄えた河原町妻入商家群を散策する。

1891年築の木造建築の裁判所としては国内最古である篠山地方裁判所の建物を利用した美術館、篠山市立歴史美術館、1830年ー1844年に建てられた武家屋敷を改修して一般公開している篠山市立武家屋敷、安間家資料館、丹波焼の創成期の平安時代から江戸時代まで、約700年間に作られた丹波焼きの代表的な作品を展示する丹波古陶館、1797年創業の老舗酒蔵、ほろ酔い城下蔵鳳鳴酒蔵、酒造りの名手、杜氏の里として知られる丹波、熟練の技と経験をもつ丹波杜氏の酒造りの様子を紹介する丹波杜氏酒造記念館を訪れる。

柏原方面に向かい、織田信長直系の織田信休が造営した藩邸で国指定の史跡、柏原藩陣屋敷、柏原歴史民俗資料館に併設する1633年に柏原で生まれた女流俳人を紹介する田ステ女記念館を見学する。

旧柏原町役場近くを流れる幅6mの奥村川をまたいで橋のようになったケヤキの根、樹齢1000年以上という大ケヤキで高さ約21m、幹の直径約6mもある県指定天然記念物ケヤキの木の根、1024年京都の石清水八幡宮の別宮として創建され、柏原八幡とも呼ばれる八幡神社を訪れる。

中央分水界とは雨水が日本海と瀬戸内海のどちらに流れるかを分ける境界線のことで標高95mの日本で最も低い中央分水界に位置する水分れ公園を散策する。

徳川3代将軍家光の乳母で春日局となるお福が3歳までの幼少期に過ごしたことでも知られる興禅寺、明智光秀の丹波の攻めの時すべての堂宇が失われたが1645年に再建された石像寺を訪れる。

福知山方面に向かい、福地山は、JR山陰本線や北近畿タンゴ鉄道などの鉄道路線が交差する交通の要衝として発展、SLの巨大な動輪をはじめ、1971年(昭和46)に廃線となった北丹鉄道(福知山〜大江)の資料などを展示し、特に、2号館に展示されている蒸気機関車は必見。鉄道ファンならずとも楽しめる福知山鉄道館ポッポランドを見学。

明智光秀が織田信長の命を受けて、1579年(天正7)に築城し、現在の天守閣は1985年(昭和61)に再建されたもので、内部は明智光秀や福知山城、城下町に関する資料を展示する郷土資料館になっている福知山城を散策する。

綾部方面に向かい、直径70mの大型円墳を整備した歴史公園、1500年前の王の墓といわれる私市円山古墳公園を散策する。

1896年に綾部で創業した総合アパレルメーカー、グンゼの資料館、グンゼ博物苑を見学する。

口径95cmの反射望遠鏡を備え、気象条件に応じて随時観測を実施する綾部天文館、パオを見学する。

美山方面に向かい、夏でも冷たいミネラル分を多く含んでいる名水として知られている美山神田の水を訪れる。

1993年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された50戸の家屋のうち約半数以上が北山型の入母屋造の茅葺き民家が位置するかやぶきの里を散策し、江戸末期の建築で、約30棟の萱葺き民家が残る北地区のほぼ中央にある資料館、美山民俗資料館を見学する。

16:00帰路に向かう。
18:00大阪到達。

今回の車での近場日帰り観光は丹波エリアにある1609年に築城された篠山城を中心に栄え、妻入商家群が軒を連ね、風情あふれる町並みが今も残っている篠山、織田家ゆかりの城下町で古刹や文化財が残り歴史ある見所が多い柏原、古くから交通の要衡として栄え、明智光秀が築城した福知山城や大江山の鬼退治伝説で知られる福知山、足利尊氏ゆかりの寺や私市円山古墳など歴史的みどころがある綾部、今尚、約250棟もの茅葺き民家が残り茅葺きの町として知られ、重要伝統建造物群保存地区に設定されている美山の里を訪れ、緑豊かな自然が広がり、城下町や昔懐かしい民家など訪れてみたい魅力あふれるスポットがある丹波エリア、充実した歴史学習でした。










京都長岡京跡&大原野史跡巡り
2008年12月27日


今回は784年から10年間しか続かなかった幻の都といわれている長岡京の跡地、長岡京跡、山中や山すそに見所が多い寺社が点在し四季折々の色鮮やかな花々を楽しめることが出来る京都大原野に足を運びました。

12:30車で出発
13:00学問の神様として信仰される菅原道真を祀る神社、霧島ツツジの名所としても名高く、道真が大宰府に左遷される際、名残を惜しんだといわれ、1941年に平安神宮の旧本殿を移築された長岡天満宮を訪れる。

開創は推古天皇のころといわれ、乙訓地方きっての大寺で、藤原種継暗殺事件に連座した早良親王を兄の桓武天皇が幽閉した所と知られ、幽愁の毘沙門天との異名がある像高1mの立像は国の重要文化財である己訓寺を訪れる。

幻の都といわれていた長岡京、784年から10年間しか続かなかった都の大内裏跡、桓武天皇が奈良からこの地へ都を移したが、不祥事の続出や天災のため、794年平安京に再び遷都し、大極殿跡は全国初の史跡公園に指定された長岡宮跡を散策する。

創建は奈良時代の初期、718年で桜と楓が枝を伸ばして、境内に彩りを添え、三間社流造の本殿は重要文化財で室町時代の代表的な神社建築の様式を残し、東京の明治神宮の原形とされ、市名でもある向日は東山から日が昇り西山に沈むまで陽光を浴びる土地から来ており、古くから農耕が営まれてきた肥沃なこの土地の産土神として、現在でも農家の信仰が厚い向日神社を訪れる。

大原野の西、山中に向かい、源算上人が1029年に開基し、横に枝を延ばした遊龍の松は樹齢600年を越え国の天然記念物に指定され、秋には境内の紅葉は真っ赤に染まり見事な善峯寺を訪れる。

西行法師が植えたと伝えられる西行桜で有名な古刹、天武天皇の命によって役行者が開いたのが始まりで春になると咲き乱れる数多くの桜から花の寺として親しまれている勝持寺を訪れる。

784年長岡京遷都の際、奈良の春日大社の分霊を移して創建した大原野神社を訪れる。

17:00終了。

今回の史跡巡り784年から10年間しか続かなかった幻の都といわれている長岡京の跡地、長岡京跡、山中や山すそに見所が多い寺社が点在し四季折々の色鮮やかな花々を楽しめることが出来る大原野エリアを訪れ、数多くの歴史建造物に触れ、歴史学習でき、楽しめました。
特に広々とした善峯寺の奥の院からの展望は、京都の町を一望できすばらしかった。

京都の史跡巡り、南エリアから北エリアに向かって徐々に攻めて行きます。
次回は桂から嵐山付近を攻めてみたいと思います。




京都宇治&伏見&醍醐史跡巡り
2008年12月13日


今回は近場の源氏物語の舞台として名高い宇治、昔から地下水が豊富で伏水とも呼ばれる水の町、伏見、花に囲まれた華やかな寺が存する醍醐に足を運びました。

13:00車で出発、13:30宇治到達し散策する。
実物大の人形や模型、イメージ映像により光源氏や宇治十帖の世界を分かりやすく紹介し、源氏物語に関する文献、資料が揃う宇治市源氏物語ミュージアムを見学。
平等院の鎮守社、以前は隣の宇治神社と二社一体で、本殿は日本最古の神社建築であり、境内には宇治七名水の一つ、桐原水が湧き出る宇治上神社、10円硬貨に描かれ、光源氏のモデル、源融の別荘地であったとされている平等院、約1200年前に光仁天皇によって創建の三室戸寺を訪れる。

伏見に向かう。
酒造りや清酒の歴史紹介のほか、酒造用具の展示などもある月桂冠大倉記念館、河童の資料や酒造りを見学できるキザクラカッパカントリー、倒幕の武士たちが集結して、決起を企てたという寺田屋事件の舞台となった寺田屋を訪れる。

明治天皇の御陵で、東西127m、南北155mにもわたり、上円下方の形で、それぞれ3段に築成した明治天皇伏見桃山陵を散策する。

醍醐に向かう。
境内は醍醐山全域という広大な敷地を持ち、醍醐天皇の菩提を弔うために建立された五重塔などがみられる醍醐寺、小野小町の住居跡として知られている隋心院、醍醐天皇の生母、藤原胤子の菩提を弔うため900年に創建された歓修寺を訪れる。

17:00終了。

今回の旅行、源氏物語の舞台として名高く、源氏物語ゆかりの碑や古跡が数多く残り、文学好きにはたまらない宇治、昔から地下水が豊富で伏水とも呼ばれる水の町、風情あふれる酒にまつわる町を散策して楽しめる伏見、豊臣秀吉が贅を尽くして700本もの桜を移植させたといわれる醍醐寺をはじめとして、花に囲まれた華やかな寺が存する醍醐、歴史深い建造物をゆっくり散策して訪れ楽しめるエリア、満喫しました。

これから京都の歴史的スポット、大阪に近い南エリアから順に徐々に攻めて行きたいと思います。