京都
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百六十二弾
2023年4月8−9日京都府亀岡市文化資料館、日本の鬼の交流博物館、舞鶴引揚記念館、舞鶴市立赤れんが博物館、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)、京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)観光
近畿地方の京都府に足を運び、京都府に位置する2023年4月8−9日京都府亀岡市文化資料館、日本の鬼の交流博物館、舞鶴引揚記念館、舞鶴市立赤れんが博物館、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)、京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)を観光しました。
8日13:00車で出発、第二京阪、京滋バイパス、京都縦貫自動車道経由して篠インター下車
亀岡市文化資料館:亀岡市の歴史と文化、自然を紹介しています。
亀岡市文化資料館の京都府の亀岡市にあり、この地に繰り広げられてきた歴史や文化について、調査や研究、展示している資料館になります。この資料館は縄文時代から大正時代までの歴史や、亀岡市のあゆみを紹介・展示をしています。
京都縦貫で舞鶴大江インター下車。
日本の鬼の交流博物館:「鬼」について考えることができる博物館
1993年に開館した、日本さらには世界から、鬼に関するものを集めて展示した博物館。大江山の鬼伝説を始め、日本の鬼や世界の鬼の面と写真、全国各地の鬼にまつわる伝統芸能、時代とともに移り変わる鬼瓦などを紹介。また、館前の庭には、高さ5m、重さ10tもの巨大鬼瓦・大江山平成の大鬼が鎮座しており、訪れる人に絶大なインパクトを与えている。他、創作された鬼にまつわる特別展などを毎年3回ほど開催。
福知山駅に向かう。
16:30福知山駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
9日7:30車で出発、舞鶴若狭自動車道経由して東舞鶴に向かう。
舞鶴引揚記念館:史実と戦争の悲惨さを語り継ぐため建てられました
戦後13年にわたり66万人以上の引揚者と1万6千柱の遺骨を迎え入れてきた舞鶴港。その史実と戦争の悲惨さを語り継ぐため、「平和のシンボル」として建てられた施設が引揚記念館です。シベリアでの抑留や満州などから帰ってきた日本人の苦労や困難を分かりやすく解説しており、戦争を知らない世代でもじっくりと学ぶことができます。展示物を通して、平和の尊さを実感できるでしょう。
舞鶴市立赤れんが博物館:”れんが”をテーマにした博物館
舞鶴市には、かつて海軍が建設した多くのれんが建造物が残っており、「赤れんが博物館」の建物は1903年(明治36年)に旧舞鶴海軍の魚雷の倉庫として建設されたもの。れんが建造物のもつ魅力や歴史を紹介する、”赤れんがのまち”と呼ばれる舞鶴ならではの、”れんが”をテーマにした博物館です。
宮津方面に向かう。
京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後):愛称は「ふるさとミュージアム丹後」。丹波の歴史・民俗を知ろう!
史跡丹後国分寺跡に隣接して建てられ、丹後丹波所在の郷土資料を展示している。常設展は「丹後の歴史と文化」をテーマに開催している。
京都縦貫、京奈和自動車道経由して木津方面に向かう。
京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)観光:恭仁宮跡(山城国分寺跡、国史跡)、高麗寺跡(国史跡)、椿井大塚山古墳(国史跡)などの出土品をはじめ、数多く残る山城の文化財を中心に考古、歴史、民俗、美術の各分野で調査研究し、その成果を体系的に展示、公開した資料館。
15:00帰路に向かう。
今回の旅行、近畿地方の京都府に足を運び、京都府に位置する2023年4月8−9日京都府亀岡市文化資料館、日本の鬼の交流博物館、舞鶴引揚記念館、舞鶴市立赤れんが博物館、京都府立丹後郷土資料館(ふるさとミュージアム丹後)、京都府立山城郷土資料館(ふるさとミュージアム山城)を観光し楽しみました。
全て初めての訪れでした。
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百八弾: 2022年3月19-21日京都府清水五条駅、二条駅、嵯峨嵐山駅、西舞鶴駅、東舞鶴駅、宮津駅、天橋立駅、久美浜駅周辺を散策観光 近畿地方の京都府に足を運び、京都府に位置する清水五条駅、二条駅、嵯峨嵐山駅、西舞鶴駅、東舞鶴駅、宮津駅、天橋立駅、久美浜駅周辺を散策観光しました。 19日12:30学研都市線、京阪電車で京都府清水五条駅に向かう。 13:20清水五条駅到達、散策観光。 清水五条駅:世界遺産に登録されている、京都を代表する観光名所「清水寺(きよみずでら)」。音羽山中腹の三重塔、清水の舞台で知られる本堂、奥の院などが、壮大な伽藍を形作っています。崖の上に造られた舞台を支える柱には、釘が1本も使われていないというから驚きです。 その清水の舞台から望む京都市街の絶景は必見! それだけでなく、春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉と、1年を通して多くの観光客を魅了する美しい風景が広がります。 「高台寺」は豊臣秀吉の正室・北政所ねねによって建てられたお寺で、「ねねの寺」として親しまれています。桜や紅葉の名所としても有名で、それぞれ見頃の時期にはライトアップも行われます。 厄除け・疫病退散・商売繁昌のご利益があるとされる京の街の守り神「八坂(やさか)神社」。日本三大祭のひとつで、7月の1ヶ月をかけて行われる「祇園祭(ぎおんまつり)」は、八坂神社の祭礼です。祭りのハイライト、山鉾が京の街を巡る山鉾巡行は、「京都祇園祭の山鉾行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録されています。 「銀閣寺」は、銀色ではないものの、江戸時代に金閣寺に対して「銀閣寺」と称されたのが名の由来とされています。正式には「慈照寺(じしょうじ)」といい、足利義政が建てた山荘を義政の没後、臨済宗の寺院に改め、名付けられました。義政の美意識を反映した侘び寂びの世界観を感じられるスポットとして人気です。世界遺産に登録されています。 哲学の道は若王子神社から銀閣寺まで続く疏水沿いの道で、日本を代表する哲学者・西田幾多郎が思索にふけった散策路であることから、この名が付いたとされています。桜の名所としても人気があり、春には約400本のソメイヨシノが約2kmの道程を彩ります。新緑や紅葉など、いつ訪れても違う楽しみのある散策路です。 桓武天皇を祭神とし、平安遷都1100年の1895(明治28)年に創建された「平安神宮」。朱と緑の社殿が白砂に美しく映えます。 社殿を取り囲むように広がる約1万坪の広大な池泉回遊式庭園「神苑」も見どころのひとつ。円山公園や無鄰菴といった名園も手がけた造園家・7代目小川治兵衛らによるもので、春は紅しだれ桜、初夏は花菖蒲、秋は紅葉と、季節を感じる風景が楽しませてくれます。 また、10月22日には、京都三大祭のひとつ、「時代祭」が行われ、江戸・室町・鎌倉など8つの時代の装束をまとった人々の行列が、京都御所から平安神宮まで太鼓の音色とともに巡行。時代絵巻さながらの行列を目の前で見ることができます。 紅葉の名所として知られる臨済宗南禅寺派の大本山「南禅寺」。日本三大門のひとつに数えられ、重要文化財でもある大きな「三門」は上ることができ、上からは絶景が見られます。そのほか、狩野探幽(かのうたんゆう)筆と伝えられる障壁画、小堀遠州(こぼりえんしゅう)作と伝えられる枯山水庭園なども。 18:20京都市役所前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 20日6:30散策観光。 朱色の社殿が美しい「下鴨神社」は、上賀茂神社に祀られている賀茂別雷神(かもわけいかづちのかみ)の祖父・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)と母・玉依媛命(たまよりひめのみこと)を祀っています。こちらも世界遺産「古都京都の文化財」の構成遺産のひとつです。 学問の神様・菅原道真公を祀る全国天満宮の総本社「北野天満宮」。天神信仰発祥の地として崇敬され、学業成就・武芸上達・災難厄除の神様として多くの受験生らが参拝しています。梅の名所としても有名で、2〜3月頃は紅白の梅の花を堪能できます。 明治時代まで天皇が暮らしていた「京都御所」を囲む、外周約4kmの広大な公園「京都御苑」。苑内に生育する樹木はおよそ5万本といわれており、梅、桜、桃、紅葉など、いつ訪れても季節の植物を楽しめます。 御所内も無料で一般公開されていて、明治・大正・昭和天皇の即位礼が行われた「紫宸殿(ししんでん)」、天皇が日常生活を送った「清涼殿(せいりょうでん)」など、貴重な建築を見ることができます。 臨済宗相国寺派の寺院で、「金閣寺」の名で有名ですが、正式には「鹿苑寺(ろくおんじ)」といいます。3層それぞれ異なる建築様式をもち、金箔約20万枚を使ったその姿は、世界中から注目を集める美しさ。世界遺産に登録されています。京都を初めて訪れるならはずせない定番スポットです。 世界遺産のひとつ、真言宗御室派の総本山「仁和寺(にんなじ)」。国宝の金堂をはじめ、左右に金剛力士像を安置する二王門、御殿、五重塔など数多くの堂塔が立ち並びます。 春には、京都で一番遅咲きの桜として有名な「御室桜(おむろざくら)」が咲く、桜の名所でもあります。 石庭で有名な禅宗の名刹「龍安寺(りょうあんじ)」。こちらも世界遺産に登録されています。築地塀に囲まれた75坪の中に、15の石と白砂のみで造られた美しい枯山水庭園。15の石すべてを一度に見ることはできないようになっていたり、遠近法を利用して、塀は奥に向かって低くなっていたり、緻密な計算が隠されています。 14:30二条駅出発。 二条駅:1603(慶長8)年に徳川家康が京都御所の守護と将軍上洛時の宿所として造営し、3代将軍・家光が完成させた「二条城」。世界遺産に登録されています。徳川家の強大な勢力を感じる造りや、障壁画、彫刻が見事な唐門などが見どころ。15代将軍・慶喜が大政奉還を発表した二の丸御殿大広間も必見です。春になると城内各所に桜が咲き、華やかな雰囲気に包まれます。 14:50嵯峨嵐山駅到達、散策観光。 嵯峨嵐山駅:大堰川(おおいがわ)に架かる嵐山のシンボル的な橋「渡月橋(とげつきょう)」。嵐山を背景に、春は桜、秋は紅葉と、季節ごとの見事な景色を楽しめます。夏には伝統的な鵜飼を見ることも。屋形船に乗って、美景をゆったりと眺める遊覧もおすすめです。 竹林の小径は野宮神社から大河内山荘まで続く、両側に竹が生い茂る小道で、嵐山を代表する観光スポットです。風にそよぐ葉音が心地よく、すがすがしい青緑と木漏れ日が織り成す空間はまるで別世界のように幻想的。 かつては嵐山や渡月橋、天龍寺の西側に広がる亀山公園なども境内地であったという臨済宗の禅刹「天龍寺」。度重なる大火と上地令により、現在は当時の10分の1の広さに。原型を残す「曹源池(そうげんち)庭園」は、亀山や嵐山を借景にした池泉回遊式で、日本初の史跡・特別名勝に指定されました。また、世界遺産のひとつでもあります。 法堂(はっとう)の天井に加山又造画伯によって描かれた「雲龍図」は、土・日・祝日と、春・夏・秋の特別参拝期間中の毎日、見ることができます。 16:30嵯峨嵐山駅出発。 18:00西舞鶴駅到達。 西舞鶴駅:田辺城跡について細川藤孝は、天正7年(1579)一色氏を滅ぼし、翌8年織田信長から丹後十二万石を与えられて、新城を築いた。これが田辺城で、舞鶴城ともいう。慶長5年(1600)の関ケ原合戦の際、藤孝はこの城に拠って西軍と戦い、戦後、その貢賞として細川氏は豊前四十万石を与えられた。そのあと京極高知が六万石を与えられ丹後の国に入った。のち寛文8年(1668)牧野親成が京都役司代として入城、以後、明治まで十代続いた。昭和15年、舞鶴公園入口に彰古館と呼ぶ隅櫓が建てられ、平成4年には城門(田辺城資料館)が復元されている。◎細川幽斎(1534-1610)京都生れ。本名藤孝。信長に従い、丹後国を与えられる。和歌にすぐれ、古今伝授を受けた。 駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 21日6:30散策観光。 7:06西舞鶴駅出発。 7:15東舞鶴駅到達、散策観光。 東舞鶴駅:赤れんが博物館について”れんが”をテーマにした世界に類のない博物館。明治時代に建てられた赤れんがの倉庫を活用し国内外のれんがやれんが建造物を紹介。 舞鶴赤れんがパークについて旧海軍が建造した赤れんが倉庫群が立ち並ぶ公園。8棟の赤れんが倉庫が国の重要文化財に指定されています。赤れんが博物館や海上自衛隊桟橋にも隣接しており、公園横の桟橋からは「海軍ゆかりの港めぐり遊覧船」が運航しています。 9:14東舞鶴駅出発。西舞鶴駅で丹後鉄道に乗り換え。 1030宮津駅到達、散策観光。 宮津駅:旧三上家住宅について江戸時代、廻船問屋として栄えた三上家住宅は豪商元結屋金兵衛の屋敷で、宮津藩受け取りの際、山陰道鎮撫使西園寺公望の本陣にもなった名家。白壁、虫籠窓、腰板の調和が美しく、城下町宮津の面影を残す貴重な文化財。平成15年(2003)12月に国重要文化財の答申がなされ、平成16年(2004)3月には重要文化財に指定された。また、敷地内にある庭園は京都府指定名勝に指定されており、庭座敷から座視鑑賞を主とする配置に築かれた、商家の庭園として価値の高いものである。 歩いて天橋立に向かう。 天橋立駅:天橋立について展望所から股のぞきで眺めると天へかかる橋のように見え、絶景。日本三景の一つ。イナザギの命がイナザミの命のもとに、天から通うためにかけたという伝説が残る自然がつくり出した橋。約3.6kmの砂に6699本もの松並木が続き、神秘的な美しさを持つ。天橋立の中には船が通るたびに90度回転する珍しい廻旋橋などがあり、絶景を眺めながらのんびり散策できる。 智恩寺(京都府宮津市)について「切戸の文殊堂」として親しまれており、重要文化財の文殊菩薩を本尊として古くから出羽亀岡、大和桜井の文殊とともに日本三文殊のひとつに数えられている。「3人寄れば文殊の智恵」の言い伝えにあるように、智恵の文殊様として有名で、境内には学業成就、入試祈願の絵馬がびっしりと並んでいる。足利時代の多宝塔、重文の金鼓、歌人和泉式部の歌塚など重要な文化財も多く所蔵している。 11:30天橋立駅出発。 12:35久美浜駅到達、散策観光。 久美浜駅:豪商 稲葉本家について織田信長の家臣、稲葉一族の末裔と言われる稲葉本家。13代目市郎右衛門は私財を投じ久美浜〜豊岡間の鉄道を開通させた。敷地内には、文化財登録されている母屋、陶芸や絵付け、お香作りの体験ができる匠処、名物のぼたもちと丹後の郷土料理ばら寿司が味わえる吟松舎など、色々楽しめる。名物のぼたもちはお土産に。 13:34久美浜駅出発。 13:45豊岡駅到達。 14:30豊岡駅出発。 17:05大阪駅到達。 今回の旅行、京都市内をを清水寺から反時計回りで散策観光、その以後嵯峨野に向かい散策観光、以降京都北部の舞鶴から天橋立、久美浜のエリアを散策観光しました。 歩行数135000歩、歩行距離85km堪能しました。 20日、1日の歩行数72000歩、歩行距離47.5km最高記録でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百五十弾:京都府宇治駅、醍醐駅、小野駅、東福寺駅、稲荷駅、伏見稲荷駅、伏見桃山駅、中書島駅、七条駅、京都駅、丹波口駅散策観光 2020年11月28−29日 関西の京都府に足を運び、JR宇治駅、地下鉄醍醐駅、地下鉄小野駅、JR東福寺駅、JR稲荷駅、京阪伏見稲荷駅、京阪伏見桃山駅、京阪中書島駅、京阪七条駅、JR京都駅、JR丹波口駅周辺を散策観光しました。 28日13:52宇治駅到達、散策 宇治:京都府宇治市。京都市の南側の位置にあたり、京都駅からは電車で約20分で行くことができます。山岳に囲まれた自然豊かな都市で、観光名所としても有名。世界遺産もいくつか点在しており、見どころは数え切れないほどあります。 世界遺産「平等院鳳凰堂」。おなじみの10円玉に描かれた場所です。水面に移る建物と実写の対比は、とても神秘的。宇治市に訪れるなら確実におさえておきたいスポットです。 宇治上神社、こちらも世界遺産。日本で現存する最古の神社建造物です。小さめの神社ですが、和の雰囲気が漂い、見る人の心も癒されます 15:00宇治駅出発 15:30醍醐駅到達 醍醐:醍醐寺は、貞観16年(874年)に、空海の孫弟子にあたる「理源大師聖宝」が、醍醐山(笠取山)頂上に「准胝観音・如意輪観音」を迎えて開山したことに始まります。 醍醐天皇の祈願寺として発展の後、応仁の乱などの戦乱により荒廃してしまい、五重塔のみが残されたのですが、豊臣秀吉による「醍醐の花見」がきっかけとなり、紀州から寺院が移築、三宝院が建設されるなどして現在の姿となりました。 ちなみに、醍醐寺は、徒歩で1時間以上もかかる険しい山で隔たれた、上醍醐と下醍醐からなっています。 16:45小野駅出発 小野駅:小野という地名は平安時代の女流歌人小野小町の一族小野氏に由来する。近くの随心院には、小野小町が化粧したという伝説の残る井戸などがある。 17:30九条駅到達、駅付近のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 29日7:00出発 9:00東福寺駅出発 東福寺:臨済宗東福寺派の本山。摂政九條道家が聖一国師を開山として菩提寺建立を発願、1236(嘉禎2)年4月2日(鎌倉時代)より19年の歳月をかけて1255年(建長7)に七堂伽藍を完成した。京都五山の一つ。「東福の伽藍面(がらんづら)」とまでいわれ壮観を極めたのが、度重なる兵火と1881年(明治14)の失火で仏殿、法堂、庫裏などを焼失、以後、逐次再建してきた。禅宗伽藍を代表する室町最古の三門(国宝)をはじめ、浴室、東司(便所)禅堂(いずれも重文)など室町時代の禅僧の生活を知る上で貴重な建築が残る。境内の通天橋は紅葉の名所。方丈の周囲に枯山水の庭園をめぐらせる。絹本着色無準師範像(国宝)など5000点を超える文化財を所蔵。 龍吟庵国宝方丈は現存最古の方丈建築。 9:15稲荷駅到達。 伏見稲荷大社:日本人にとって、もっとも身近な神社といえるのが「お稲荷さん」とも称される稲荷神社。全国に3万社あるともいわれ、日本全土で老若男女を問わず、親しまれています。その総本宮が京都の伏見稲荷大社です。 西暦711年の御鎮座以来、1300年にわたり人々の信仰を集め、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神様として崇められてきました。近年では日本人のみならず、外国人の参拝者・観光客が数多く訪れるようになり、京都、そして日本を代表する名所として世界にその名を知られるようになっています。 10:00伏見稲荷駅出発 10:15伏見桃山駅到達: 伏見:京都・伏見。風情残る町には酒蔵が立ち並び、お酒好きな方にもおすすめ。坂本龍馬ファン必見の地 寺田屋、伏見桃山城、などの定番観光地や、桜、あじさいなどの花の名所。 11:30中書島駅出発 11:50七条駅到達 13:30京都駅到達 京都駅:京都駅周辺に来たら、ここは行っておきたいおすすめ観光スポットをピックアップ!「五重塔」がシンボルの世界遺産「東寺」,現代京都のシンボル「京都タワー」,1000体以上の千手観音に圧倒される!「三十三間堂」,120年以上の歴史を持つ国立博物館「京都国立博物館」,お惣菜に和スイーツ…京グルメを食べ歩き「錦市場」,平成生まれの双龍図が京都最古の禅寺を守る「建仁寺」など。 14:30丹波口駅出発、帰路に向かう。 今回の旅行、関西の京都府に足を運び、JR宇治駅、地下鉄醍醐駅、地下鉄小野駅、JR東福寺駅、JR稲荷駅、京阪伏見稲荷駅、京阪伏見桃山駅、京阪中書島駅、京阪七条駅、JR京都駅、JR丹波口駅周辺を散策観光し楽しみました。 何回も訪れたことのある京都、観光名所はほとんどが寺院、過去に訪れた記憶を基にして散策観光してロケーションを把握してマップを確認できました。 1泊2日で6万歩、総歩行距離40km堪能しました。 観光客は白人は皆無、アジア系の外国人は数多く見られました。 紅葉のシーズンでもあり数多くの観光客が訪れ活気に満ち溢れていました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十四弾:京都府小京都重要伝統的建造物群保存地区観光第二弾 2020年3月14−15日 京都府中部北部に足を運こび、京都府中部北部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(亀岡、美山、東舞鶴、西舞鶴、伊根、加悦)を訪れました。 14日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、京都縦貫自動車道経由して亀岡インター下車 亀岡:京都に一番近い小京都として知られているのが、亀岡です。豊かな自然が育んだ歴史や文化が香る亀岡は、明智光秀によって築かれた亀岡城を中心とした城下町です。 美山:京都市の北部、南丹市に位置する美山は、その名の通り美しい山々に囲まれた、静かな里。かやぶき屋根の民家が建ち並ぶ「かやぶきの里」などフォトジェニックな観光スポットや、豊かな食材を利用したグルメ・おかいものスポットが点在し、四季折々の見どころがあります。なかでも冬は、かやぶき屋根に降り積もる雪景色がひときわ美しく、人気のシーズンとなっています。 東舞鶴:京都府の北、日本海に面している舞鶴の地。美しい海岸線と、明治・大正のレトロな雰囲気を感じさせる赤れんがの建築物のコントラストが美しい街です。旧日本海軍ゆかりのノスタルジックな雰囲気が味わえる舞鶴の魅力、舞鶴は日本海の若狭湾に面した町です。東西にわかれた舞鶴湾とリアス式海岸をもち、天然の良港として昔から多くの人が往来し、栄えていました。約1万年前から舞鶴の地に人が住み始めたといわれています。関が原の戦いの際、戦火はここにも及びました。徳川家康の東軍についた細川幽斎が田辺城(舞鶴城)に籠城し、西軍の攻めを迎え撃ちました。江戸時代に京極高三が田辺藩(舞鶴藩)3万5千石を立藩、これが一般的に舞鶴市の始まりと言われています。城下町や港湾の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きます。その後牧野氏が丹後田辺藩を引き継ぎ、牧野氏3万5千石の城下町として幕末まで栄え続けました。 西舞鶴:西舞鶴地区は城下町として栄えたエリアで、今も当時の寺町の景観などの面影を所々に残しております。とれとれセンターでは日本海で水揚げされた新鮮な海鮮を味わうことができます 18:30天橋立付近のホテル到着後周辺を散策し食事を済ませて就寝。 15日7:30車で出発 伊根:京都府にある日本海に面した伊根湾は、荒々しい日本海のイメージとはうってかわった、静かな入り江。そんな伊根湾沿いには、1階部分が船のガレージになっている舟屋が約230軒立ち並び、その独特の景観から国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。 加悦:京都府北部・丹後地方に江戸時代から昭和初期にかけて栄えた丹後ちりめん。隆盛をきわめた当時の町並みが残る由緒ある街道。織物工場をはじめ、当地方と京都市内を結ぶ交流の拠点として盛えたいろんな店の名残がありその面影をしのばせる。 平成17年(2005)12月27日に重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 15:00帰路に向かう。 今回の旅行、京都府の中部北部に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(亀岡、美山、東舞鶴、西舞鶴、伊根、加悦)を訪れ楽しみました。 コロナウイルスの影響で自粛傾向、比較的安全な車での移動、人込みを避けての観光名所めぐり、この時世どの名所も観光客が少なく大阪の町中より感染の影響は少ないと判断し巡りました。 当分の間人込みの少ない屋外の観光名所を訪れる予定です。 |
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京都府小京都重要伝統的建造物群保存地区観光 2020年2月11日 近場の京都に足を運び、京都に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本)を訪れました。 6:30車で出発、第二京阪経由して久御山インター下車 東一口:久御山町の北西部に位置し、木津川氾濫原の北部にある巨椋池(おぐらいけ)の池水の流出入口であったが、干拓後の現在もまお水郷の様相を残している。 文禄3年(1594)伏見築城を開始した秀吉は、それに関連するものとして宇治川を伏見城下に迂回させ、巨椋池畔の各所に堤防を築いて、そこに流入していた緒河川と巨椋池を分離した。 その後巨椋池は東・西一口地区のみを唯一の池水流出入口とした。それにより巨椋池は大内池や中内池などのいろんな池に分断された。 そして農民は巨椋池沿岸の随所に新田を拓いたが、低湿な土地であったため、数年に一度は洪水の被害を受け、不安定な農業であった。 半農半漁の集落東一口村は、江戸はじめには伏見弾正町・三栖村・小倉村と共に巨椋池の漁業権を与えられていたが、常にその中核をなし、度々起こる漁場を巡る争いでも、東一口が勝訴している。 漁業鑑札の配分では文化8年(1811)には弾正町2枚・小倉村3枚・三栖村5枚に対して東一口村は7枚所有し、漁業従事者は74人で、圧倒的な優位で巨椋池漁業を行っていた。 江戸時代の東一口村は巨椋池西岸の大堤防の片側に盛土して家が建ち並ぶ東西に細長い集落で、全長1,300m、最大幅100m、最小幅27m内外の集落であった。 そして、今でも他の山城地区の農村集落で見られない特異な町並を形成している。干拓されたとはいえ、集落の南北には水郷を思わせる排水路が通り、集落の拡張が見込めないので、江戸時代のままの集落形態が残っている。 東一口集落の中程に大きな長屋門を構えた山田家がある。本山田とよばれ、江戸時代からの大庄屋で、淀川・巨椋池の漁業者の代表として君臨した家で、巨椋池漁業関係の古文書や古地図を多く所有している。 明治39年に第一次淀川改修工事が竣工して、巨椋池と宇治川が切り離された。昭和8年から巨椋池の干拓工事が始まり昭和16年に完了したが、久御山町辺りは大都市近郊の農業地帯でありながら、近年まで都市化が進まなかった。久御山町に発展の兆しが見えたのは、昭和41年に国道1号線枚方バイパスが町の中央部を貫通して以来で、その後は目覚しい発展を遂げている。 伏見:伏見:酒どころとして有名な伏見も、宇治と同じく水と関わりの深いまち。以前「伏水」と書かれていたこともある、全国でも屈指の名水が湧き出る土地だ。良い水は、酒造りに欠かせないため、ここで酒造りが盛んに行われたのも当然の成り行きといえる。 そして伏見は、日本の歴史に深く関わっている土地でもある。有名なところでは、幕末の戊辰戦争で旧幕府軍と新政府軍が初めて激突した鳥羽伏見の戦場。坂本龍馬が大坂から船を使い、京都に入る際の定宿としていた寺田屋があったことも多くの人に知られているところだ。水と歴史にまつわる話が数多く残る伏見。 京都産寧坂:京都産寧坂:豊臣秀吉の正妻(ねね)が子供の誕生を念じて坂をあがり清水寺にお参りしていたことからその名がついたとされています。東山の観光地として有名で、重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。二年坂を介して北にある八坂神社、円山公園、高台寺、法観寺と南にある清水寺を結んでいるため、観光客が絶えず、土産物店や料亭が並んでいます。 京都祇園新橋:京都祇園新橋:寛文6年(1673)祇園社領の中の弁財天町等の外六町正徳2年(1712)元吉町、末吉町等の内六町が開かれ今日まで一貫して繁栄してきた。 その間、江戸時代の町民の大衆文化の浮世草子浄瑠璃、歌舞伎音曲の舞台となり絢爛豪華を極め今も伝統芸能として継承発展している。 現在では新橋通と白川南側、切通しぞいの町並み一帯は「重要伝統的建造物群保存地区」として指定され、建築学上からも重要な文化財とされているが、特に新橋通は、石畳に両側には黒の千本格子の出格子、二階からはすだれの下がった、祇園独特の町家茶屋様式の建物が建ち並び、祇園の中でも最も祇園情緒あふれる印象的な町並みとなっている。 京都島原:京都島原:豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永18年(1641)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。 島原の傾城(遊宴のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾域が女歌舞伎を催したとき、優れた傾域を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。 また、江戸時代の島原は単に遊宴にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた 京都上賀茂:京都上賀茂:京都市西部、北区の一地区。旧上賀茂村。北山山地に発する賀茂川が京都盆地に流出する谷口にあたる。平安遷都以前から賀茂氏が居住し、賀茂別雷神社(かもわけいかずちじんじゃ)(上賀茂社)は賀茂氏の氏神であった。神社は1994年(平成6)世界文化遺産に登録。また神社の神官の住まいが並ぶ社家(しゃけ)町は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。古くから野菜の産地であり、漬物用のスグキナの栽培が盛んであるが、近年は急速に都市化されている。京都産業大学がある。大田神社境内の野生のカキツバタ群落は国指定天然記念物。 京都嵯峨鳥居本:奥嵯峨鳥居本は愛宕神社の門前町としての性格と農村としての性格を合わせ持ち発展してきた町であり、わらぶき屋根の農家風民家や町家風民家が周囲の美しい自然景観を背景に並ぶ情緒有る町並みが残っています。昭和54年に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。 15:00終了、帰路に向かう。 今回の旅行、近場の京都に足を運び、京都に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区7か所(東一口、伏見、京都産寧坂、京都祇園新橋、京都島原、京都上賀茂、京都嵯峨鳥居本)を訪れ楽しみましたました。 何回か訪れたことのある観光名所、時間をかけ散策し京都の重要伝統的建造物群保存地区を巡りました。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百八十弾:京都洛西三十三霊場巡り観光 2019年6月8日−9日 京都の洛西に足を運び、京都洛西に点在する乙訓郡や葛野郡といった、桂川西岸から西山にかけての地域に点在する札所から成る観音霊場、西の岡三十三所」という西国観音霊場の写し霊場が前身に当たる、霊場再興20周年に当たる1998年に、「京都洛西観音霊場」と名称を変更、ガイドブックや専用御朱印帳などもあり、受け入れ態勢の整っている霊場となっている京都洛西三十三か所を巡りました。 8日12:30車で出発、第二京阪経由して洛西方面に向かう。 正覚寺:西山浄土宗。山号は摂取山せっしゅざん。 京都洛西観音霊場第11番札所。本尊は阿弥陀如来。 鏡空開導上人が寛永年間(1624〜1644年)に創建。 札所本尊は千手観音坐像で、淀川べりにあった帰海印寺の塔頭・千手院の宝物であったという。帰海印寺は、「乙訓郡誌」によれば、俊寛らとともに平清盛討伐を企てて鬼界ヶ島に流罪となった平康頼たいらのやすよりが建立した寺で、赦免されて帰洛した康頼が島で没した俊寛の冥福を祈るために建てたものという。 現在の本堂は2006年(平成18年)に再建されたもの。 勝龍寺:真言宗。山号は恵解えげ山。ぼけ封じ近畿十楽観音霊場第3番札所、京都洛西観音霊場第14番札所。 平安時代初期、弘法大師の開基、本尊は十一面観世音菩薩にして、毘須羯摩びすかつまの刻と伝えられる。 往時の寺号を恵解えげ山青龍寺と号す。青龍寺とは弘法大師が入唐した時、修業した寺の名である。大師帰国の後、在唐留学時代の恩師を偲ぶために一堂を建立され、更に嵯峨天皇の勅願により観音堂を始め、九十九坊を建て広く天下にその名をうたわれた名刹である。962年村上天皇の御代に近郷大干ばつ・大飢饉となり、天皇は青龍寺住職千観上人に七日間雨乞いの祈祷を命じた。結願の日、にわかに雨が降り出し万民は喜び、農作物はよみがえり、天皇は非常に喜び、「龍神を呼ぶ、即ち龍神に勝って雨を降らした事ゆえ以後勝龍寺と名乗れ」との勅命により現在の勝龍寺となる。 観音寺:浄土宗。山号は大悲山だいひざん。京都洛西観音霊場第13番札所。 室町時代1570年、雪山によって開創され、江戸時代宝暦年間に再建されたといわれている。 本尊の十一面観音坐像は、京都の重要文化財に指定されており、南北朝時代、第九十七代(南朝第二代)後村上天皇が第九十六代(南朝初代)後醍醐天皇の菩提を弔うため僧舜悟に命じ仏師秀弁に作らさせたといわれる。 もともとは、1355年に常光寺(滋賀県甲賀市)に奉安されていたものである。 卒台寺:長岡京市の住宅地に、卒台寺(そつだいじ)は建つ。山号は延命山(えんめいざん)という。 浄土宗、本尊は延命地蔵菩薩半跏像。 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第12番札所。札所本尊は十一面千手千眼観音菩薩(癌封じ施薬観音)。 観音寺:真言宗豊山派。山号は普陀落山。 京都洛西観音霊場第15番札所。本尊は十一面観音2躰。 泉福寺:西山浄土宗。山号は星水山せいすいざん。 本尊は不空羂索観世音菩薩、額にもう一つの目を持ち三つ目観音と呼ばれる。 京都洛西観音霊場第16番札所。 万福寺:西山浄土宗。山号は慈眼山じげんざん。 京都洛西観音霊場第17番札所。 比叡山延暦寺の慈覚大師円仁がこの地を訪れた折り、親切な村人のために観音像を刻み、後に一宇が建立され本尊に祀られたのが始まりという。詳細は不明。 本尊の観音像はたびたびの火災にもかかわらず難を免れたことから「火除けの観音さま」と呼ばれる。 かっては大藪地区の集会所の役割を果たしていた。 西園寺:西山浄土宗。山号は朝日山。 本尊は阿弥陀如来。札所本尊は十一面観音。京都洛西観音霊場第18番札所。 1808年の火災で古い記録が失われ、詳細は不明。 周辺には用水路があるが、かっては南北に川が流れ、川の東側を「ひがしんじょ」、西側を「にしんじょ」と呼び、水争いが絶えなかった。当寺はにしんじょの寺で、西寺にしでらと呼ばれていた。江戸時代には寺子屋が開かれ地元の集まりの中心として親しまれてきた。 安禅寺:創建は後花園天皇の第一皇女である観心女王・安禅寺の宮によるものと伝わり、中興開山義空栖雲せいうん和尚により1689年、現在地に再建された。 観音堂には西国三十三所の33体の観音菩薩が祀られており、一種の写し霊場となっている。洛西には西国巡礼に旅立つための観音講が各地にあったが、この上久世でも一種の通過儀礼としての西国巡礼が行われており、出発前にはこの寺に家族で参拝し道中の安全を祈ったという。 蔵王堂光福寺:西山浄土宗。山号は医王山。本尊は蔵王権現。 京都洛西観音霊場第19番札所。 954年、村上天皇の勅願で、開基は浄蔵貴所じょうぞうきしょ。 称讃寺:牛ヶ瀬の称讃寺(しょうさんじ)は、東海道線南に隣接し、境内に保育園を併設している。山号を青柳山(せいりゅうざん)という。 浄土宗西山禅林寺派(総本山永観堂禅林寺)、本尊は阿弥陀如来、札所本尊は千手観音。 京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第20番札所。 長福寺:浄土宗西山禅林寺派。山号は念佛山。本尊は阿弥陀如来。 京都洛西観音霊場第21番札所。 札所本尊は慈覚大師円仁作とされる十一面千手観世音菩薩で「結びの観音」と呼ばれ、縁結び・子授けのご利益で知られる。はじめ比叡山に安置されていたが、高倉天皇の勅命により法華山寺峰ヶ堂に移され、室町時代1478年に、下津林村の五社神社境内に御堂を建立し、像を安置、永福寺とした。 常楽寺:宗派は不明。京都洛西観音霊場第22番札所。本尊は十一面千手観世音菩薩。 正しくは千手院せんじゅいん常楽寺じょうらくじという。松尾七社の一つである大宮社の境内にある。 地蔵寺:浄土宗。山号は久遠山。本尊は地蔵菩薩。桂地蔵ともいう。 京都洛西観音霊場第23番札所、京都六地蔵巡めぐり霊場、京都通称寺の会所属。 阿弥陀寺:浄土宗西山深草派。山号は吉祥山。本尊は阿弥陀如来。 京都洛西観音霊場第25番札所。 もとは誓願寺管長の隠居寺として建てられたのが始まり。後に尼寺となり、明治時代には衰退したが、1961年(昭和36年)に赤壁師が入山して復興した。 洛西観音霊場の観音様は恵心僧都作と伝わる千手観音立像で千代原観音と呼ばれる。 洛西観音霊場の第22番札所常楽寺の納経もこの寺で受け付けている。 浄住寺:寺伝によれば、810年(大同5年、弘仁元年)に嵯峨天皇の勅願により、円仁(慈覚大師)が天台宗寺院として開創したと伝えられています。当時は「常住寺」と号していましたが、1261年(弘長元年)公卿葉室定嗣が中興し「浄住寺」と改められ、葉室家の菩提寺として栄えました。 正慶2年(1323年)絵図によれば、本堂・鐘楼・舎利殿など多くの堂宇が立ち並んでいた様子が描かれています。 しかし、鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)4月、六波羅探題軍と千種忠顕率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に、浄住寺は全焼します。その後も、応仁の乱以降に度々兵火に遭って荒廃し、永禄10年(1567年)に全焼しましたが、1687年(貞享4年)葉室頼孝の開基、黄檗宗の僧鉄牛道機を中興開山として再興され、黄檗宗の寺院になります。 寺宝には、叡尊自叙伝の古写本である「感身覚正記」が有名です。 長恩寺:山号は霊鷲山れいじゅざん。西山浄土宗。本尊は千手観音立像。 京都洛西観音霊場第26番札所。 観世寺:西山浄土宗。山号は大悲山だいひざん。 本尊は阿弥陀如来坐像。京都洛西観音霊場第27番札所。 鎌倉時代の僧・勝月坊(証月坊・松月坊・照月坊)慶政上人が松尾山の南に建立した法華山寺(峰ヶ堂、峰ノ堂)が前身という。正慶年間(1332〜1333年)に兵火で焼かれた際に、難を逃れた阿弥陀如来像、聖観音像などがこの地に移された。 本堂は1965年(昭和40年)に再建されている。 蔵泉庵:臨済宗相国寺派の尼寺。山号は宝珠山ほうしゅうざん。京都洛西観音霊場第28番札所。 室町時代の創建。たび重なる火災で焼失し、山崎の合戦で敗れた明智光秀が隠れ住んでいた庵であるともいわれる。 西光院:浄土宗西山禅林寺派。 京都洛西観音霊場第29番札所。 18:30堀川通りのホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。 9日8:00車で出発、霊場巡り。 福成寺:臨済宗建仁寺派。山号は宝珠山ほうじゅさん。 本尊は十一面観音立像。 京都洛西観音霊場第31番札所。 来迎寺:来迎寺は法然上人が開宗なされた浄土の教えをもとに、その高弟である西山証空上人の流れを汲む浄土宗西山禅林寺派に属するお寺であります。 西迎寺: 西迎寺(さいこうじ)は丘陵地に建つ。境内に至る参道の坂道(少納言坂)には白い漆喰塀が続いている。山号は安岡山(あんこうざん)という。 西山浄土宗、本尊は阿弥陀と釈迦の二尊を安置している。京都洛西観音霊場(洛西三十三所観音霊場)第4番札所。 正法寺:真言宗東寺派別格本山。山号は法寿山。西国薬師四十九霊場第41番札所、京都洛西観音霊場番外札所、京都六大黒天霊場第3番札所。 鑑真和上の高弟で、754年にともに唐から来朝した智威ちい大徳がこの地で修練を行なったことに始まる。古くは春日禅坊かすがぜんぼうと呼ばれたが、延暦年間(782〜806年)に伝教大師(最澄)が智威ちいの威光を世に示すため、大原寺おおはらじという寺を創建した。応仁の戦火で焼失したが、江戸時代初期に、恵雲えうん・徴円ちょうえんの両律師により再興され、「西山のお大師さま」として古くから親しまれてきた。元禄年間(1688〜1703年)には徳川五代将軍綱吉の母・桂昌院けいしょういんの帰依を受け、代々徳川家の祈願所となった。 宝菩提院願徳寺:宝菩提院願徳寺は、白鳳8年(679)に持統天皇の勅願で創建。徳のある願いによる寺であることから「願徳寺」と名付けられ、現在の向日市寺戸に東西1300m、南北800mもの大伽藍が建立されました。その後、平教盛の子・小川法印忠快が、東山三条にあった宝菩提院を願徳寺に移転。天台宗の大寺院として栄えたものの、応仁の乱で焼失し、かつての面影は失われました。 金蔵寺:8年(養老2)元正天皇の勅願で創建された天台宗の古刹。現在の建物は桂昌院の再建。山の斜面、石垣と石段の間に堂宇が建ち並ぶ。高さ約12メートルの産(さん)の滝、鳥帽子岩、などがあり、眺めもすばらしい。 十輪寺:天台宗。山号は小塩山。京都洛西観音霊場第3番札所。通称、業平寺なりひらでら。 850年文徳天皇が染殿そめどの皇后(藤原明子あきらけいこ)の安産祈願のため、伝教大師作の延命地蔵を安置したのが起こり。後の清和天皇が誕生し、文徳天皇勅願所となる。その後は藤原北家(花山院かさのいん家)が帰依し、一統の菩提寺となる。 御本尊の伝教大師作延命地蔵菩薩は等身大木像坐像で、その御腹に巻かれた腹帯で染殿そめどの皇后が安産されたことから腹帯地蔵尊と称されている。 三鈷寺:西山宗本山。平安時代1074年に源算上人が草庵を結んで北尾往生院と号したのが始まり。 京都洛西観音霊場第5番札所、西山国師遺跡霊場第12番札所。 源算上人の後は、二祖観性法橋、三祖慈鎮和尚(慈円)と続き、次いで1213年に法然上人門下の證空善恵国師すなわち西山上人が伝燈した。 上人は浄土宗西山派の派祖であり、ここを不断如法念仏道場とするとともに名も三鈷寺と改めた。これは背後の山容が仏器の三鈷杵に似ているからと言われている。 善峯寺:天台宗単立寺院。神経痛・腰痛の祈願所。 西国三十三所観音霊場第20番札所、京都洛西観音霊場第1番札所、神仏霊場京都5番。 平安時代中期の1029年、源算上人によって開かれた。1034年、後一条天皇の勅願で善峯寺と寺号を賜る。 1042年、後朱雀天皇の時に、仁弘法師作の十一面千手観世音菩薩像を本尊とし、先の源算作観音像を脇侍とされ、白河天皇によって諸堂が建立された。 鎌倉時代には京都青蓮院門跡の宮様が代々住職を勤めたため西山宮門跡と称された。 室町時代の応仁の乱で焦土と化したが、江戸時代に徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院が復旧した。 光明寺:西山浄土宗の総本山。山号は報国山。 法然上人二十五霊場第16番、京都洛西観音霊場第7番、西山国師遺跡霊場第13番札所。 隣接する京都西山短期大学は光明寺の学寮が発祥。 1198年、法然上人の弟子である蓮生れんせい法師(熊谷次郎直実)の開基とされる。法然上人が念仏の教えを最初に説いた「浄土門根元地」と伝えられる。 また京都市西京区大原野の「善峯寺」、長岡京市浄土谷の「楊谷寺」とともに京都・西山三山と言われている。 観音寺:創建は奈良時代と言われる。 文献で初めて見られるのは室町時代初の1340年で、江戸時代末の「都名所図会みやこめいしょずえ」にも同寺の絵が描かれている。 隣接する子守勝手神社とともに粟生あお地区の「十人衆」と呼ばれる長老の奉仕により維持管理されている。 長法寺:天台宗。山号は清巌山せいがんざん。京都洛西観音霊場第9番。 寺伝によると、延喜年間(901〜923年)園城寺おんじょうじ(三井寺)で修行した千観せんかん上人が開いたとされる。しかし旧長法寺村に残る江戸期の古文書によれば、962年創建で比叡山延暦寺正覚院の末寺となっている。千観せんかん上人は918年生まれというから、延喜年間の開創というのは無理があるよう。 ただ、かつて平安時代の仏画の二大傑作の一つと言われた「釈迦金棺出現図しゃかきんかんしゅつげんず」掛幅(国宝)を所蔵していたことから、平安時代にはかなり栄えていたことがうかがえる。 また本堂前には千観供養塔と伝えられる鎌倉時代の三重の石塔があり、境内の西北隅には巌窟から泉(溺泉おぼろのいずみ)が湧き出ている。 乙訓寺:784年に桓武天皇が長岡に遷都した際、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築した。この当時の境域は、南北百間以上もあり、建てられた講堂は九間に四間の大増築で難波京の大安殿と同じ規模のものであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々に暗殺されるや、天皇は早良さわら親王を当寺に幽閉した。 なぜなら早良さわら親王は桓武天皇の実弟で皇太子であったが、暗殺団と見られた一味と交流があったからである。親王は身の潔白を示すため断食して訴えたが、10余日後、流罪処分となり淡路島に護送途中、淀川べりで絶命、遺骸はそのまま送られ、淡路島に葬られた。その後、天皇の母、皇后の死、皇太子の重病が続き、また悪疫の流行、天変地異が発生した。朝廷は事件15年後に早良さわら親王を復権、崇道すどう天皇と追号し、陵墓を奈良に移すなど措置を講じた。 柳谷奥の院:西山浄土宗光明寺の末寺。新西国霊場第17番札所。柳谷観音の名で親しまれている。 十一面千手千眼観音が本尊。 寺伝によると、806年京都清水寺の開祖延鎮が開き、空海もこの地で修業したと言われている。 境内にある奥之院は京都洛西観音霊場第10番札所で、十一面千手観音が祀られている。 乗願寺:西山浄土宗光明寺の末寺。山号は浄土山。京都洛西観音霊場番外札所。 天延年中(973〜976年)に恵心僧都がこの地で修行中に阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み草庵を結んだのが当寺の始まり。 今回の旅行、京都の洛西に足を運び、京都洛西に点在する京都洛西三十三霊場の番外編を含む35か所を訪れ楽しみました。 京都の寺院、規模が大きく派手な寺院が多いが今回の寺院、こじんまりして地味で、派手さがなく、参拝者も少なくひっそりしていましたが西国霊場に含まれる3か所、吉峯寺、光明寺、柳谷観音楊谷寺は規模が大きくて立派な寺院でした。 有名で規模の大きい京都の寺院、今回のマイナーな規模の小さい寺院巡り、再発見感覚で楽しめました。 |
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京都府お城・城下町巡り第二弾観光 2015年5月10日 古くから権力の中心にあり、建武中興のころから城郭が多く築かれ、足利尊氏が幕府を開き、応仁の乱では各地で11年間も戦闘が繰り広げられ、細川氏と山名氏の抗争は戦国時代までつながっていく京都に足を運び、京都府お城・城下町めぐり第二弾、7箇所(亀山城、八木城、周山城、園部城、建部山城、宮津城、弓木城)のお城をめぐりました。 9:00車で出発、亀岡に向かう。 亀山城:天正5年、明智光秀が丹波攻略の拠点として、それまで八木城の内藤氏の砦規模の支城を大修築した。 天正10年、光秀は信長より中国出陣を命じられ亀山城を出陣したが、老の坂を下り桂川から京の本能寺に軍勢を転じて主君織田信長を討った。 山崎の合戦で光秀が敗死後、丹波少将豊臣秀勝、小早川秀秋が城主となっている。 慶長14年、岡部長盛が32,000石で城主となる。 翌15年に徳川幕府は、山陰の要としてこの城を重視し、天下普請による大修築を行った。 岡部氏の後、丹波亀山城主は目まぐるしく替わる。 寛延元年、形原松平信岑が丹波篠山より5万石で入封して安定する。 以後明治まで8代に渡って形原松平氏の居城となった。 八木城:築城年代は定かではないが、室町時代に丹波守護代内藤備前入道によって築かれた。 戦国時代の天文22年、丹波八上城の波多野秀忠らに攻められ落城、守護代内藤国貞は討ち死にして、以後内藤氏は没落する。 この国定の遺児が内藤ジョアンだ。 替わって八木城には松永久秀の弟長頼が居城するが、黒井城主赤井直政の侵攻を受け敗死した。 内藤ジョアンが城主に復帰するが、天正元年織田信長に追放された足利義昭に味方し、明智光秀による丹波侵攻により落城。 そして、内藤氏とともに、この頃八木城も廃城となった。 周山城:天正7年、明智光秀の丹波攻略により宇津城は開城、翌天正8年に宇津氏等の土豪の押さえとして、また京と若狭を結ぶ周山街道の押さえの城として築かれた。 明智光秀は、丹波支配のための居城として亀山城を築き、福知山城に明智秀満、黒井城に斎藤利三、八上城に並河飛騨守、そしてこの周山城に明智光忠を配した。 天正10年までは明智光忠が城主として居城、本能寺の変後明智氏滅亡と共に周山城は廃城となった。 園部城:様々な勢力が園部の地に居城を構えたが、室町時代末期、丹波八上城を本城とする波多野氏の家臣である荒木山城守氏綱が七頭衆として園部城に君臨していた。 が、天正六年(1563)明智光秀の丹波攻略の前に潰え去った。 元和五年(1619)に但馬出石より小出伊勢守吉親が入封し、新しく城地を開き、築城した。二年を費やして完成、東・西・南の三方を天神山、振天山、小向山が囲み、その中心に本丸が置かれることになった。現存の城門は枡形でなく、御殿玄関に直結されている構造から、園部城を園部陣屋とも言われている。本丸には三つの二層櫓が構えられていたが、見張りの役には不十分だったのか背後の小向山に三層の小向山櫓を建て、城内外の見張りを果たしていた。また、その本丸の外側には内堀があり、さらにその外に二重櫓、その外側には外堀がめぐらされていた。 以後、小出氏十代二万六千石として明治を迎えることになった。維新の際に京都御所が攻められる危険があったことから、万一の避難場所に園部城が選ばれることになり、城の修復を行われたのであった。 舞鶴方面に向かう。 建部山城:築城年代は定かではない。建武3年・延元元年(1336年)一色修理大夫範光が建部山城を築いたのが始まりとも云われるが詳らかではない。 明徳3年(1392年)明徳の乱で功のあった一色満範が丹後国守護職に任ぜられ、加佐郡の八田館を守護所とし、その背後にある建部山に詰城を築いたのが建部山城の始まりと云われる。 天正6年(1578年)織田信長の部将細川藤孝が丹後へ侵攻し、翌天正7年には一色義道の籠もる建部山城も落城し、義道は中山城へと退いた。しかし、中山城主の沼田幸兵衛が細川氏に内通したことから、義道は中山城で自刃して果てたと云われる。義道の子の一色義定は弓木城に退いて防戦し、細川氏と和睦している。 宮津城:天正6年、織田信長の命により細川藤孝と明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主一色義通を滅ぼして丹後を平定した。 その功により細川藤孝は丹後一国12万石の領主となった。 天正7年、藤孝は宮津城を本城として築き、天正10年に本能寺の変の際、藤孝は田辺城に隠居して、宮津城には嫡男忠興が居城とした。 その後、慶長5年の関ヶ原の際には、忠興は関東へ出陣中で、西軍の丹後攻めのおりに藤孝が宮津城を自焼して、田辺城に籠城している。 元和8年、京極高知が遺命により丹後は三分され、嫡男高広が78,200石を領し、宮津城を居城とした。高広は、荒廃した宮津城を新造するほどの大改修を行った。 京極氏は、2代高国の時改易となり、以後永井・阿部・奥平・青山氏と目まぐるしく城主は替わったが、宝暦8年に松平(本庄)資昌が遠江浜松より77,000石で入封し、以後7代続いて明治に至った。 弓木城:京都府与謝郡岩滝町の一帯は、律令国家の時代には拝師郷と呼ばれる行政地域の西方にあたり、与謝郡衙の存在も推定されています。鎌倉時代になると岩滝町から宮津市須津にかけては稲富保と呼ばれ、摂関家近衙家の所領となりました。 弓木城は、この稲富保を名字の地にした稲富氏が室町時代後期以降根城とし、丹後国守護一色氏が最期の拠点とした丹後地方を代表する中世の山城ですが、そのくわしい歴史はわかっていません。稲富氏については、「寛政諸家系図伝」に「はじめは山田氏なり。丹後国忌木(=弓木)の城主たりし以来、あらためて、稲富氏となる。」とあり、初代稲富氏のもとの姓は山田氏で、丹後弓木城主となってから改姓して稲富氏を名乗ったことになります。そして、二代目直時のときに、丹後国守護一色氏の家臣となったようです。ところで「丹後国御壇家帳」には「いミの木」の大なる城主稲富氏ほか四名の名をあげ、これとは別に「いミの木の地下」にそうめん屋ほかの名をあげています。 天正十年(1582)織田信長の命令をうけた細川藤孝(幽斎)、忠興(三斎)父子の丹後攻略により、一時丹後一色氏は弓木城に立籠りました。が、抗議の甲斐なく滅亡しました。四代直家は、当時希代の鉄砲の名手として一色氏に仕えていましたが、運良く滅亡をまぬがれ一時細川氏に仕えた後、豊臣秀吉、徳川家康に珍重され、晩年は、尾張徳川家の祖義直(家康の第九子)に仕えました。 今日の丹後弓木城は、一色氏最期の地としてあまりにも著名ですが、もともとは稲富氏の居城であり、丹後の中世山城を代表する弓木城の滅亡は、まさに丹後における中世の終焉を象徴する画期的な事件であったといえましょう。 今回の旅行、近場の京都府の比較的マイナーなお城めぐり第二弾、7箇所のお城を車でめぐりました。 今回も平城は比較的見つけるのが容易でしたが、山城は見つけるのに苦労を要しました。 |
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京都府お城・城下町巡り観光 2014年12月23日 古き都、大阪の北東に位置する京都に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所(鹿背山城、笠置城、槇島城、淀城、勝龍寺城、山崎城、山科本願寺、御土居、聚楽第、静原城)を訪れました。 10:00車で出発、京都に向かいお城をめぐる。 鹿背山城:南山城最大の山城であるだけでなく、戦国末期の特徴をよく残す点で城郭史上注目される城郭である。十五世紀に南都興福寺の北方防御の拠点として史料上に登場し、古市氏以下興福寺傘下の武将がしばしば入城した。十六世紀後半、大和北半部を支配した松永久秀は多聞山・信貴山・龍王山とともに本城を拠点として重視し、改修を加えた。城域の西北・東南の二か所に畝状空堀群を採用して防御上の弱点を補い、主郭北斜面の水の手をカバーする竪堀・竪土塁で北面防御を完結させたほか、主郭東南隅の櫓台の切岸直下の隘路に通路を導いて城虎口(出入り口)とするなど、織豊城郭登場前夜の築城技術の水準を示す貴重な遺構を残している。 笠置城:笠置城は、元徳3年に後醍醐天皇が山岳寺院笠置寺を利用して城としたもので、鎌倉幕府軍と戦った元弘の変の舞台となった。 1ヶ月の籠城戦が繰り広げられ、幕府軍の奇襲により落城、後醍醐天皇は捕らえられ、隠岐の島に流された。戦国時代の天文年間、笠置城は河内飯森山城主代木沢長政の持城となっていた。長政は、主家であった河内高屋城主畠山氏から実権を奪い、河内・山城守護代に任じられ、河内・山城・大和周辺にて軍事行動をたびたび行っている。 天文11年、長政は、細川晴元・三好長慶と河内大平寺にて合戦し討ち死にした。 槇島城:槇島城は、1573年(天正元年)に足利義昭が織田信長に対して兵を挙げた「槇島城の戦い」の舞台となった城として知られています。義昭退去後、塙直政、井戸良弘らが城将となりましたが、1592年(文禄元年)の豊臣秀吉による伏見城築城後はその戦略的価値がなくなり廃城となりました。なお、伏見城築城にあたり宇治川の流路を付け替える工事の際に、石垣も「槇島堤」に利用されたため遺構は残っておらず、現在は槇島公園内に石碑を残すのみです。義昭退去によって実質上、足利幕府は滅んだとされており、室町幕府終焉の地ともいわれています。 淀城:徳川二代将軍秀忠は、元和五年(1619)の伏見城の廃城に伴い、新たに桂川・宇治川・木津川の三川が合流する水陸の要所であるこの淀の地に松平越中守定綱に築城を命じて、元和九年(1623)に着工、寛永二年(1625)に竣工した。翌寛永三年、秀忠・家光父子が上洛の途次にはこの城を宿所としている。寛永十年(1633)国替えにより永井尚政が城主となり、その後、諸大名が次々と入城したが享保八年(1723)五月、春日局の子孫である稲葉丹後守正知が下総佐倉から淀へ移り、明治維新までの百数十年間、この淀城は稲葉氏十万二千石の居城であった。江戸時代の淀城は周囲に二重三重の濠をめぐらし「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」のうたで名高い水車は直径八メートルもあり城の西南と北の二ヶ所に取り付けらていた。淀城とその城下町の盛観は延享五年(1748)五月二日に来着した朝鮮通信使(将軍への祝賀使節)の様相を写した「朝鮮聘礼使淀城着来図」に詳しく描かれている。昭和六十二年夏に天守台の石垣解体修理に伴い、発掘調査が伏見城研究会によって行われ大小の礎石を含む石蔵が発見された。これは四隅に櫓を持つ白亜五層の天守閣の地下室と基礎であり、宝暦六年(1756)の雷火で炎上する以前の雄姿を偲ばせるものである。なお淀君ゆかりの淀城は現在の淀城跡ではなく、この位置から北方約五百メートルの納所にあったと推定されている。 勝龍寺城:勝龍寺城は、南北朝時代に京都へ進出する南朝方に備えて、細川頼春が暦応二年(1339)に築いたといわれる。城は京都西南部に位置し、西国街道と久我畷に押さえうる交通の要所に築かれている。応仁・文明の乱(1467〜1477)では、守護畠山義就(西軍)の乙訓地域の拠点となった。戦国時代になると、織田信長からこの城を与えられた細川藤孝(幽斎)が元亀二年(1571)に二重の堀と土塁をもつ立派な城に改修した。天正十年(1582)の山崎合戦では、明智光秀が城に入り、羽柴秀吉(豊臣秀吉)との戦いに敗れ、落城した。ところで、この城は明智光秀の娘玉(細川ガラシャ夫人)が十六歳のもとに嫁いだところで、歴史とロマンを秘めた城としても全国に知られている。正面虎口 城の中心部には本丸と沼田丸があり、その周囲に堀をめぐらしていた。北東の神足神社付近には、城の北方を守るためにつくられた土塁跡や空堀跡が残されている。この城跡は勝竜寺城公園として整備され、平成四年春に市民の憩いの場としてよみがえった。これに先立つ発掘調査で、藤孝が改修した時代の石垣や多聞櫓が発見されるなど数多くの成果が得られた。その結果、勝龍寺城が鉄砲の時代に対応した先駆的な築城技術を用いた城で、石垣で築く近世の城に移る間際のものとして、わが国の城郭史上でも貴重なものであることが明らかにされた。 山崎城:山崎城(鳥取尾山城とも)の起源は古く南北朝の初期頃とされている。男山に籠城する北畠顕信らに呼応して蠢動する摂津国の南朝勢を京都から防禦するために摂津守護赤松範資が築城したものと推定されている。その後、応仁の乱後には山城守護山名是豊が当時西岡を支配していた西軍の畠山義就や摂津の大内政弘らに対抗するために当城を修築したようである。その後、細川晴元や三好長慶らが利用するなど重要な役割を果たしていた。天正十年(1582)六月の本能寺の変のあと、備中高松城から戻った羽柴秀吉と神戸信孝らの軍に対し、明智光秀は男山と当城に陣取ったもののすぐに淀、勝竜寺城に引き下がってしまう。そこをすかさず秀吉が天王山を占拠し、一気に光秀勢を追い落とした。秀吉はそのまま翌十一年(1583)の大坂城に移るまで本拠としていた。 山科本願寺:浄土真宗中興の祖である蓮如上人は、本願寺再興の夢を山科盆地に求め、文明十年(1478)から六年近くの歳月を費やして建設されたのが山科本願寺である。山科本願寺は、御影堂や阿弥陀堂など豪壮な堂舎や屋敷が建ち並び、二重三重に巡らされた土塁や濠により囲まれていた。その寺域東西800メートル、南北1000メートル程度の規模があったものとみられ、そこでは寺内町と呼ばれる独立した空間を築きあげていた。山科本願寺は仏徒の支配する独自の世界を創出しようとしたものであったが、天文元年(1532)に六角氏と法華宗徒の連合軍の攻撃を受け、その造営から50年余で焼失し、大坂の石山本願寺に移った。現在では山科中央公園や民家所有地のなかに土塁や濠などがいくつか残っているにすぎないが、これまでの発掘調査では、石垣遺構・鍛冶場跡・石室跡などの遺構が検出されている。延徳元年(1489)、75歳になった蓮如は法燈を実如に譲り、ここ音羽の地に隠居所を設け、自らの住まいとした。これが山科本願寺南殿である。この南殿も、城郭的な施設を備え、200メートル四方程度の規模があったものと推定されている。邸内には園池が築かれ、築山を構え、持仏堂・山水亭・台所などが設けられていた。 「山科本願寺南殿跡」及びその西方に所在する「山科本願寺跡」は、強固な防御施設を備える中世城郭宗教都市としてわが国の歴史を知る上で重要な遺跡であることから、平成14年12月19日にその一部が国の史跡に指定された。 御土居:御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,天正19年(1591)に多くの経費と労力を費やして築いた土塁です。台形の土塁と堀(堀の一部は川,池,沼を利用)からなり,その延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれました。土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残です。江戸時代になると天下太平の世が続き,外敵の脅威もなく御土居は次第に無用の存在となり,また市街地が洛外に広がるにつれ堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊され,北辺を中心に僅かに名残をとどめるのみとなりました。昭和5年(1930),市内に残る御土居のうち8箇所が,京都の沿革を知るうえに,また,広く我が国における都市の発達をたどる重要な遺構として「史跡」に指定,昭和40年(1965)にさらに1箇所(北野天満宮境内)が追加され,現在9箇所が指定地となっています。 また,これら指定地以外では,北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内でも,部分的に御土居が残っています。 聚楽第:天正十四年(1586)、豊臣秀吉は旧平安京大内裏跡地に、聚楽第の築城をはじめた。聚楽第には各地の諸大名の屋敷も集められ、豊臣政権の京都における官庁として進められることになり、翌天正十五年正月に完成した。さらに翌年には、後陽成天皇の行幸が盛大に執り行われ、豊臣秀吉の勢威はますます天下に知れ渡るようになった。その縄張りは「京都図屏風」や「寛永洛中絵図」などにより、本丸西北隅に天守閣を置き、その北に北の丸、南に南の丸、本丸西の南寄りに西の丸があったことがわかっている。また、「聚楽第図屏風」によれば天守閣は、外観四層、上三層分には破風と花頭窓を備えた高爛付望楼型天守の様相が描かれている。やがて、秀吉は政治の中心を伏見へ移すようになり、聚楽第も解体されて伏見城の資材とされてしまい、廃城となってしまった。しかし、各地に移築された建造物といわれるものがいくつか残っている。大徳寺の唐門や、西本願寺の飛雲閣などがそうである。 静原城:静原静(城谷山)は、弘治元年に三好長慶が山城54郷に夫役を課して築城した。 その後、永禄11年に織田信長が入京して三好氏を京から駆逐する。信長と足利将軍義昭との間が決定的な状況になると洛北の諸豪族は信長から離反した。 元亀4年、岩倉の小倉山城主山本対馬守も居城を離れてこの静原城へ立て籠もったが、明智光秀によって攻められ落城した。 16:30帰路に向かう。 今回の旅行、近場の古き都、大阪の北東に位置する京都に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所(鹿背山城、笠置城、槇島城、淀城、勝龍寺城、山崎城、山科本願寺、御土居、聚楽第、静原城)を訪れ楽しみました。 ガイドブックと携帯で場所を検索し調べ、なんとか京都のマイナーなお城10箇所を探し求めて訪れることが出来ました。今回も平城は見つけるのが容易ですが山城は難しく、辿り着くのが一苦労でした。 |
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飛行機で国内&海外の観光地巡り第百五十三弾:京都府丹後観光 2011年7月30−31日 京都府の北部、丹後に足を運び、日本三景の一つ天橋立や舟屋の風景が広がる伊根、日本海に大きく突き出した丹後半島、田辺城を中心に形成された城下町として栄えた西舞鶴、軍港の町とし発展してきた東舞鶴を訪れました。 30日12:30車で近畿中国舞鶴自動車道経由して舞鶴東インター下車 14:30東舞鶴到達。 第二次世界大戦終結後、13年間にわたって旧満州やシベリアなどから約66万人の引揚者を迎え入れた舞鶴港。その引揚港としての歴史を伝える資料館で、シベリアでの集団収容の様子を再現したジオラマ、当時収容所で使用していた生活用品などを展示。周辺は記念公園として整備されており、記念碑や「岸壁の母」の歌碑が立っている舞鶴引揚記念館を見学。 704年(慶雲元)、真応上人が開基した西国三十三カ所霊場第28番札所の古刹。「願い事が成りあう寺」として有名。境内には悲しい言い伝えの残る撞かずの鐘や、左甚五郎の作とされる彫刻「真向の龍」などがある成相寺を訪れる。 |
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京都府洛北観光 2011年5月18日 文化遺産の宝庫、京都に足を運び、都人がひっそりと隠遁した閑雅なエリアから穏やかな山里の大原、神秘的な伝説が数多く伝わる山深い鞍馬や貴船などのエリアの洛北を訪れました。 12:30車で第二京阪阪神京都線経由して 13:30洛北エリア到達。 鞍馬・貴船から市街地に戻る途中の鞍馬街道沿いに、市原野と呼ばれる集落がある。このあたりは古くから小野氏の領地で、小野小町と深草少将の亡霊が僧侶に百夜通いの物語をする、謡曲『通小町』の舞台でもあった。この寺も正式には補陀洛寺というが、通称の小町寺で知られる。本堂内には、美女の姿からはかけ離れた小野小町老衰像を安置。境内には小野小町塔や深草少将塔、小野小町姿見の井戸なども残る補陀洛寺(小町寺)を訪れる。 大原方面に向かう。 三千院からさらに東、呂川沿いに山道を少し上った地にひっそり佇む。最澄の直弟子の慈覚大師円仁が中国の五台山を模して建立、その後衰微したが1109年(天仁2)に融通念仏宗の祖良忍上人が再興した。円仁は唐への留学で、独特の節回しで唱えるお経である声明を持ち帰ったため、ここが日本での声明の発祥地とされる。本堂には藤原時代の本尊薬師如来像(重要文化財)を中心に、釈迦如来像(重要文化財)、阿弥陀如来像(重要文化財)を安置する来迎院を訪れる。 |
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京都府洛西観光 2011年3月30日 世界遺産、歴史的建造物の宝庫、京都に足を運び、山間に名刹が点在し、桜や紅葉などが見事な洛西に足を運びました。 12:30車で第二京阪阪神京都線自動車道経由して上鳥羽インター下車 13:30洛西到達 京都御室仁和寺前から京北町周山へ続く道。昔、「畑の姥」と呼ばれた梅ケ畑の女性は、梯子や鞍掛けなどを頭上に載せ、この街道から市中に入り、品物を売り歩いた。街道沿いには紅葉がすばらしい高雄、槇尾、栂尾の三尾があり、さらに進むと道は北山杉の美林の間を抜け、山里の風景を満喫できる。また、北山杉の里と呼ばれる中川集落では、北山磨丸太を立て干しした光景も見ることができる。さらに北へ、笠峠を越えると木と清流の里京北町。中心部の周山にはウッディー京北などのスポットがあり、桜で名高い常照皇寺などの歴史遺産も点在する周山街道を訪れる。 清滝川に面して立つ、水墨画家・田中應吉のギャラリー、ギャラリー墨を訪れる。 北山杉は京都市北区中川を中心に植林されており、磨き丸太は茶室などの床柱に用いられている。その北山杉独特の絞りと、美しい木肌が作られる過程のパネル、各種丸太材や加工品の実物などが展示されている。実際に手で触れて、香をかいでみることができる。敷地内に川端康成の『古都』の文学碑も立っている北山杉資料館を訪れる。 17:00終了、帰路に向かう。 |
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京都府洛東観光 2011年2月9日 文化遺産の宝庫、近場の京都に足を運び、銀閣寺、南禅寺、平安神宮、知恩院、清水寺など有名社寺が点在し、京都随一の観光スポットを抱えるエリア。春は桜並木の哲学の道をそぞろ歩くのもよし、秋は錦秋に包まれる清水寺界隈を散策するもよし。四季それぞれの京都の風情を楽しみたい。夜は花街情緒が漂う祇園界隈で、京料理やおばんざいを味ってみたい京都洛東を訪れました。 12:30車で第二京阪阪神京都線経由して 13:30洛東到達 高台寺の門前、「京・洛市ねね」の2階にある美術館。桃山時代の華麗な漆工芸として知られる高台寺蒔絵で装飾された高台寺の収蔵品などが、季節ごとに展示公開される。調度品などねねと秀吉ゆかりの品々を間近に見られ、戦国の世の武将や女性たちの優雅な美意識にふれることができる高台寺
掌美術館を訪れる。 |
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京都府洛中観光 2011年2月2日 文化遺産の宝庫、京都に足を運び、歴代天皇が住まれた御所、徳川家の二条城、京都市役所や京都駅を含む、名のどおり京都のど真中エリア、街路も平安京の面影をとどめ、基盤の目のように整然としている洛中を訪れました。 12:30車で第二京阪自動車道阪神京都線経由して 13:30京都駅到達。 京都駅ビルの東端にあるアクセス抜群の劇場施設。2階のKYOTO手塚治虫ワールドには、オリジナルアニメを上映するアニメシアターやグッズショップがある京都劇場[京都駅ビル]を訪れる。 |
京都洛西観光 2011年1月19日 多くの世界遺産が位置する文化遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆく、きぬかけの道沿いに、世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺が続き、さらに進めば嵐山、また、山間に名刹が点在する大原野や三尾を含むエリアは桜や紅葉などが見事な洛西を訪れました。 12:30車で第二京阪自動車道経由して巨椋インター下車 13:30大原野到達 『伊勢物語』で知られる在原業平が晩年隠棲したと伝えられ、境内にはその墓宝篋印塔が立つ。恋焦がれた二条后・藤原高子が大原野神社に参拝した時、業平は塩を焼いて紫の煙を上げて、思いを伝えたという。その竈跡も残っており、毎年5月28日業平忌三弦法要、6月第3日曜聲明と三弦を聞く会、11月23日の塩がまきよめ祭では塩竈で火を焚き、参拝者を祈願する。本堂の屋根は、鳳輦型というおみこしに似た珍しい造りの十輪寺(なりひら寺)を訪れる。 のどかな田園風景が広がる北嵯峨にある観月の名所。周囲約1kmのこの池は、一説に嵯峨野を開拓した秦氏の手によって造られたといわれる。平安時代には池の畔に月見堂や釣殿などがあり、西行や藤原定家らの和歌にも詠まれた広沢池を訪れる。 |
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京都洛東観光 2010年12月15日 世界遺産の宝庫、文化遺産が数多く点在する京都に足を運び、世界遺産であり定番の観光地、清水寺周辺の文化遺産を訪れました。 12:30車で第二京阪自動車道経由して 13:30清水寺付近到達 802年(延暦21)創建で、『平家物語』によると小督の局が宮中を追われ出家した寺。山中には小督の局を愛した高倉天皇の陵がある。西郷隆盛と清水寺住職月照上人が謀議をした茶室郭公亭がある。清水寺から清閑寺へ向かう杉並木の山道は古くから知られた紅葉の名所。途中にある清水寺塔頭泰産寺の子安塔(重要文化財)は、安産祈願で有名。江戸時代初期の再建で、もとは坂上田村麻呂の娘が皇子の誕生を祝って建てたものという。この場所からは清水寺を一望できる清閑寺を訪れる。 |
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京都市洛中観光 2010年12月5日 世界遺産の京都に足を運び、文化遺産が数多く点在する京都市の中心エリア洛中を訪れました。 8:00生駒の山荘を車で出発、第二京阪自動車道経由して 8:40東寺到達、車をおいて散策する。 東寺の塔頭の中でも最も格式の高い寺院。桃山時代書院造の客殿(国宝)は1605年(慶長10)の再建で、上段の間には宮本武蔵筆と伝えられる水墨画『鷲の図』がある観智院[教王護国寺]を訪れましたが残念ながら休館でした。 平安京を貫く朱雀大路の正門として、794年(延暦13)の平安遷都の際に建造された丹塗りの楼門があった場所。980年(天元3)の暴風雨で倒壊し、その後平安京の衰退とともに荒廃した。その様子は『今昔物語集』や、芥川龍之介の小説『羅生門』にも描かれている。現在は児童公園の中に石碑が立つのみの羅城門跡を訪れる。
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京都市山科観光 2010年11月25日 世界遺産の宝庫、近場の京都に足を運び、京都市の東端に位置し、京の東の玄関口としての役割を持ち、西は東山連峰,北は大文字山、如意ヶ獄,東は音羽山、牛尾山と三方を山に囲まれ、南で伏見区の醍醐地域に接しています。 また,多くの川に恵まれ,平野部は農耕作物に適した土壌となっています。明治初期に京都の近代化を目指して建設された琵琶湖疏水は有名な山科を訪れました。 12:30車で第二京阪経由して 13:30山科到達。 赤穂藩家老・大石内蔵助は、吉良家の目を欺くためこの寺の境内に隠棲した。四十七士の木像や浅野長矩の位牌を祭り、討ち入りで使われた手槍なども保存している。内蔵助の念持仏だったという本尊不動明王像は毎年討ち入りをした12月14日から1月28日まで公開している岩屋寺を訪れる。 |
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京都洛南観光 2010年10月13日 大小多くの寺社が点在し世界遺産の宝庫、京都に足を運び、豊臣秀吉の城下町で酒処の伏見周辺を訪れました。 12:30車で第二京阪京滋バイパス自動車道経由して久我山淀インター下車 京、大坂の境にあって、徳川幕府の要衝的な性格をもつ城だったが、1723年(享保8)稲葉氏十万二千石の居城となった。明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、往時を偲ばせている。また、秀吉の愛妾淀君の館が、淀城跡北東500mの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている淀城跡を訪れる。 862年(貞観4)、境内に湧き出た水がたぐいまれに香り高く、また病に霊験があったことから「御香宮」と呼ばれたという。樹木に覆われた境内の一角に、「日本名水百選」に選ばれた御香水が湧き、これを求める人の列が絶えない。伏見城の大手門を移した表門(重要文化財)や華麗な本殿(重要文化財)、拝殿には桃山建築の特色が見られ、社務所裏には小堀遠州ゆかりの石庭がある御香宮神社を訪れる。 1051年(永承6)に日野資業が建てた薬師堂が始まり。新鸞聖人、日野富子らが生誕した日野家の菩提寺で、通称の日野薬師でも知られる。阿弥陀堂(国宝)は、宇治の平等院鳳凰堂、三千院の往生極楽院と並び平安貴族が夢見た極楽浄土を形にしたものとして貴重。檜皮葺き宝形造の堂内には、平安時代の定朝様式の阿弥陀如来坐像(国宝)が安置され、飛天の壁画(重要文化財)などで装飾されている。本堂薬師堂(重要文化財)の本尊・薬師如来立像(重要文化財)は乳薬師と呼ばれ、安産、授乳の霊像として信仰される法界寺(日野薬師)を訪れる。 真言宗醍醐派の別格本山。少納言藤原入道信成の女、阿波内侍の建立と伝わる。本堂は1810年(文化7)の再建。一言寺[いちごんじ]観音といわれる本尊千手観音菩薩像は秘仏だが、一心に祈ればたちまち願いが叶うといわれている金剛王院を訪れる。 850年(嘉祥3)に文徳天皇によって創建されたが応仁の乱後荒廃した。しかし、1662年(寛文2)に再興。1本の釘も使っていない総欅造りの本堂に秘仏の歓喜天(聖天)と毘沙門天、弁財天という3体の福神を祭るため、地元の信仰を集めている嘉祥寺を訪れる。 元政上人が1655年(明暦元)に庵を結んだのが始まり。本堂は質素な茅葺き。元政は、もとは彦根藩の侍だったが、病弱のため26歳で出家、清貧の中で暮らし、1667年(寛文7)に母が87歳で他界した2カ月後、急逝した瑞光寺(元政庵)を訪れる。 古くは極楽寺といって『源氏物語』にも登場する大寺だったが、応仁の乱で荒廃した。室町時代の四脚門の総門(重要文化財)、本堂(重要文化財)、多宝塔(重要文化財)と並ぶ建築物は一見の価値ある宝塔寺を訪れる。 平安遷都以前から祀られている古社。勝運のご利益があるといわれる。5月5日の藤森祭に行われる駈馬神事は、勇壮で多くの参拝者が訪れる。近年は馬の社として有名で、騎手をはじめ、競馬関係者や競馬ファンの参拝も多い藤森神社を訪れる。 1137年(保延3)、鳥羽上皇が鳥羽離宮の本殿を寺に改めたもので、盛時には仏殿や寝殿造の諸堂が苑池の畔に立ち並び壮観だった。現在は近年再建された本堂、書院、鐘楼などが立つ。本堂には、鳥羽上皇の念持仏と伝えられる阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置されている安楽寿院を訪れる。 方除の大社と仰がれる。独特の優美な姿を見せる本殿をとりまくように神苑楽水苑が広っている。様々な趣をそなえた庭には、源氏物語ゆかりの百余種の草木が四季を彩り、「源氏物語花の庭」と呼ばれる。春と秋に行われる「曲水の宴」は、平安の雅を今に伝える行事として有名である城南宮を訪れる。 17:00終了、帰路に向かう。 今回の近場の名所巡り、大小多くの寺社が点在し世界遺産の宝庫、京都に足を運び、豊臣秀吉の城下町、伏見を中心としたエリアの寺社巡りし、歴史的建造物に接し、歴史学習してきました。 何回訪れても京都の歴史的建造物の質、量とも立派なのが驚きです、歴史の長さ、深さを物語っていますね。 |
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京都市洛西観光 2010年9月8日 近場の世界遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆくきぬかけの道沿いに、世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺を訪れました。 12:30車で第二阪奈自動車道経由して 13:30洛西方面到達。 花園法皇の離宮に関山慧玄を迎え、禅刹として改めた。臨済宗妙心寺派の本山で、1337年(建武4)創建。山門(重要文化財)や仏殿(重要文化財)、法堂(重要文化財)など七堂伽藍をはじめ、46もの塔頭が立ち並ぶ。みどころは法堂の天井画「八方にらみの龍」で、狩野探幽の作。日本最古の銘をもつ黄鐘調[おうじきちょう]の梵鐘(国宝)も必見の妙心寺を訪れる。 室町時代の創建。妙心寺にあり、如拙[じょせつ]の描いた国宝の『瓢鮎図』を所蔵していることで有名だ。方丈の西庭(史跡・名勝)は狩野元信作と伝え、絵画的な構成の枯山水の名庭。昭和作庭の池泉廻遊式「余香苑」では、滝のせせらぎ・水琴窟・筧の水と3つの水の姿が楽しめる退蔵院[妙心寺]を訪れる。 妙心寺境内の東側に位置。1531年(享禄4)、細川氏綱が父の菩提を弔うために建立。本堂前庭には、樹齢300年という沙羅双樹の枯木と十数本の沙羅の木があり、その花が美しい寺として知られる東林院(沙羅双樹の寺)[妙心寺]を訪れる。 土用丑の日の「きゅうり封じ」で知られる寺。境内には五智如来石仏(薬師・宝生・大日・阿弥陀・釈迦)をはじめ、背後に観音坐像以下11体の石仏群が並び、圧巻な蓮華寺を訪れる。 888年(仁和4)、宇多天皇創建による門跡寺院で御室御所とも呼ばれた。現在は真言宗御室派の総本山。9万平方mもの広大な境内には、優美な金堂(国宝)をはじめ、二王門(重要文化財)や五重塔(重要文化財)などが点在。御所の名残りを留める仁和寺御殿、江戸時代の池泉式庭園もあって見どころ豊富だ。背丈の低い御室桜(名勝)は、京都随一の遅咲きとして有名の仁和寺を訪れる。 1450年(宝徳2)、徳大寺家の別荘を細川勝元が禅寺に改めたのが始まり。二度の火災で焼失し、現在の建物は1606年(慶長11)に建てられた西源院の建物を移築したもの。方丈前庭の枯山水庭園(史跡・特別名勝)は白砂に15の石組を配し、虎の子渡しの庭ともいわれ、石庭といえば龍安寺を指すほど有名だ。境内には秀吉が絶賛した侘助椿の古木や、水戸光圀寄進の「吾唯足知」と刻んだ蹲などもある。6〜8月は鏡容池の水蓮が見事の龍安寺を訪れる。 日本画家・堂本印象の絵画を中心に、彫刻、陶芸などの作品2100点を収蔵。日本画の枠を越えた多彩な作品は一見の価値あり。建物も印象によるデザインの京都府立堂本印象美術館を見学。 足利3代将軍義満が建てた別荘だが、義満の死後に禅寺へと改められた。正式名は義満の法号にちなみ鹿苑寺という。金閣寺の通称は、三層宝形造の舎利殿による。1955年(昭和30)復元の楼閣は初層が寝殿造、2層は武家造、3層は禅宗仏堂造。周囲には池泉回遊式庭園(特別史跡・特別名勝)が広がり、鏡湖池に金閣が映る光景は美しい鹿苑寺(金閣寺)を訪れる。 平安遷都に伴い奈良から移転。今木皇大神[いまきのすめおおかみ]をはじめ、四柱の神を総合し平野皇大神として祀る。「皇大神」とは、神の中でも最高位を表す語。国内8万以上ある神社の中でも伊勢神宮など数社しかなく、その格式の高さが知られる。本殿(重要文化財)は、比翼春日造という特殊な形式。古くから桜の名所で、他にも四季を通じて様々な花が咲く平野神社を訪れる。 17:00終了。 今回の名所巡り、近場の世界遺産の宝庫、京都に足を運び、衣笠山の山裾をゆくきぬかけの道沿いの世界遺産の金閣寺、龍安寺、仁和寺を訪れました。 何回も訪れたことのある、金閣寺、きぬかけの路周辺、あらためて歴史的建造物のスケールの大きさを感じ、又歴史学習できました。 |
京都市洛西・三尾・洛中観光 2010年9月1日 今回は近場の京都洛西洛中に足を運び、高雄、槇尾、栂尾を総称する清滝川が流れる山間に3つの山寺が佇んでいる三尾、京都の伝統と文化を体験でき、学問の神様で知られる北野天満宮を中心に、伝統を今に伝え続ける上七軒や西陣の町並みがある北野天満宮周辺を訪れました。 12:30車で第二京阪自動車道経由して 13:30三尾到達。 神護寺から清滝川沿いに約15分歩き、朱塗りの指月橋を渡った所に立つ。天長年間(824〜833)に空海の弟子智泉が、神護寺の別院として創建。現在の堂宇は徳川5代将軍綱吉の生母桂昌院の寄進で再建されたといわれている。本堂に安置された本尊木造釈迦如来立像(重要文化財)は、生前の釈迦の姿を伝えるとされる「清凉寺式」で、像高約52cm。高山寺を再興した明恵上人が自刻したという。脇に祭られている千手観音立像(重要文化財)は藤原時代の作の西明寺を訪れる。 平安末期の儒者、清原頼業を祭る。同社にある祈念神石を持ち帰って願い事を祈願し、成就したら祈念神石に御札の石を添えて奉納する習慣がある。商売繁盛、売掛金の回収、受験合格に御利益がある。境内の芸能神社には、芸の上達を祈る現代の芸能人の玉垣が数多く並んでいる車折神社を訪れる。 |
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京都市洛北観光 2010年6月23日 世界遺産の宝庫、多くの点在する歴史的建造物を接することの出来る京都市に足を運び、東に比叡山がそびえる、北大路通以北のエリア。上賀茂神社、下鴨神社、大徳寺、修学院など数え上げればきりがないほどの名刹が点在するほか、府立植物園、宝ヶ池など緑のシャワーを浴びられるスポットにも事欠かない。歴史散策のあとは、京都の最前線といわれる北山通や白川通でショッピングやグルメを楽しめる洛北を訪れました。 12:30車で第二京阪自動車道を経由して 13:40洛北エリア到達。 松尾芭蕉や与謝蕪村に縁が深く、洛西の落柿舎と並ぶ俳諧史跡。平安初期の創建だが、江戸初期に鉄舟和尚が再興した。本堂の背後に佇む茶室・芭蕉庵は、芭蕉が訪れた縁で鉄舟が建て、のちに芭蕉を慕う蕪村が再興した。蕪村の墓も庵のほとりにある。井伊直弼に仕えた村山たかが尼として余生を過ごした寺でもある金福寺を訪れる。 川家康の元家臣で、江戸初期の文人・石川丈山が1641年(寛永18)に建てた山荘。現在は禅宗の寺院だ。小楼・嘯月楼[しょうげつろう]を見上げながら建物の中に入ると、堂の名前の由来となった詩仙の間がある。四方の壁には狩野探幽が描いた中国の詩家36人の肖像画「中国三十六詩仙像」が掲げられている。丈山はまた作庭の名手だったともいわれ、白砂が敷かれた見事な回遊式庭園から彼の風雅が偲ばれる。庭には丈山が考案者であるという鹿脅し添水も配され、サツキ、アジサイ、紅葉と四季折々に美しい詩仙堂を訪れる。 徳川家康が教学の発展を図るために設立した学校を始まりとする。家康から送られた当時の木製活字を数多く保存しており、これらは重要文化財に指定されている。明治以降最近まではわが国唯一の臨済宗尼僧の修学道場であった。境内には澄んだ音を響かせる水琴窟や金福寺に晩年を送った村山たかの墓もある。栖龍池がある庭園は、新緑、紅葉の美しいことで知られている圓光寺を訪れる。 もとは比叡山西塔にあり東尾坊と呼ばれたが、その後各地を巡り、1656年(明暦2)桂離宮を造営した八条宮智仁親王の子である良尚法親王(天台座主)によりこの地に建てられた。数寄屋造の大書院(重要文化財)には主座敷が2間あり、間仕切りの卍くずしの欄間の意匠などに桂離宮の影響がうかがえる。続く小書院(重要文化財)の襖絵は狩野探幽作と伝えられ、黄昏の間には10種類の寄せ木で造られた「曼殊院棚」と呼ばれる違い棚がある。書院前の枯山水庭園(名勝)は、5月のツツジ、11月の紅葉のころが特に美しい。八窓茶室(重要文化財)は小堀遠州好みと伝えられている曼殊院(竹の内門跡)を訪れる。 後水尾上皇を慰めるため、1656年(明暦2)に徳川家光の援助で造営された離宮。比叡山の裾野に広がる広大な敷地に、松並木で結ばれた下御茶屋、中御茶屋、上御茶屋という3つの庭園が配されている。表総門を入った所が下御茶屋で、数寄屋造の寿月観と池泉回遊式庭園がある。続く中御茶屋は、華麗な装飾が施された客殿が見事で、天下の三棚の一つの霞棚も忘れずに見たい。上御茶屋は、浴龍池を中心に茶屋を配した大庭園。山腹に立つ茶室隣雲亭からの眺望はすばらしい修学院離宮を訪れるが予約しないと内部拝観できないため外観のみ見学。 京都で最も古い神社の一つで、正式には賀茂御祖神社という。古代豪族賀茂氏の氏神社で、上賀茂神社と合わせて賀茂社と総称されていた。本殿(国宝)は1863年(文久3)に再建されたもの。建角身命を祭る西殿と玉依媛命を祭る東殿の2棟からなる。そのほかの社殿は53棟が国の重要文化財、境内は史跡に指定されている。5月15日に行われる京都三大祭の葵祭は、下鴨、上賀茂両神社の祭礼で、1月4日の蹴鞠はじめなど京らしい雅な行事でも知られる下鴨神社を訪れる。 臨済宗大徳寺派の大本山。広大な境内に22の塔頭を擁する洛北随一の大寺院で、多数の文化財を所蔵。創建は鎌倉末期で応仁の乱後、一休禅師が再興した。三門(重要文化財)は千利休が寄進したもの。その上層に利休自らの木像を安置したため秀吉の怒りを買い、切腹の一因となったといわれる。大仙院、龍源院、瑞峯院、高桐院の4つの塔頭が常時公開されている大徳寺を訪れる。 疫病除けの神様として知られる。平安遷都後に疫病が流行したため、朝廷は神輿を船岡山に安置して疫神鎮静を図り、1001年(長保3)にはこの地に神殿を造営した。現社殿は明治時代の再建。毎年4月第2日曜には、疫神社の疫神を鎮める「やすらい祭」が営まれる。鬼を従えた行列が「やすらい花や」と囃しながら踊る。行列には花で飾った風流傘も参加、この傘の下に入れば1年間病気をしないといわれる今宮神社を訪れる。 京都三大祭の葵祭で知られる、京都の最古社。平安遷都以前にこの地を支配していた、賀茂氏の氏神を祭ったのが始まり。社殿造営は678年(天武6)と伝わる。遷都後は皇城の守護神となり、伊勢神宮に次ぐ社格が与えられた。67万平方mの広大な神域には木立に包まれて檜皮葺きの社殿が立ち並び、本殿と権殿は国宝、ほか41棟が重要文化財に指定。世界文化遺産にも登録されている。細殿前には円錐系に砂を持った立砂が2つ並び、神々しい雰囲気。朱塗りの楼門をくぐると、中門の内側に幕末造替の本殿、権殿が立つ賀茂別雷神社(上賀茂神社)を訪れる。 17:00終了。 今回の近場の名所巡り、東に比叡山がそびえる、北大路通以北のエリアの洛北を訪れ、多くの点在する社寺をめぐり楽しめました。さすが京都の社寺、どれをとっても立派な歴史的建造物、圧倒されますね。 |
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京都市洛東観光 2010年6月2日 歴史的建造物の宝庫、近場の京都に足を運び、禅文化が大成された時代の中心社寺があり、一方で、美術館や博物館などが集まり銀閣寺・平安神宮・南禅寺のあるエリアである洛東を訪れました。 12:30車で第二京阪自動車道経由して 13:10洛東方面到達、散策する。 1933年(昭和8)、日本で2番目に建てられた公立の大規模美術館。京都を中心とする日本の近・現代美術の各分野から、約2300点の作品を収蔵している。展示は海外展、特別展といった企画展。テーマを決めて収蔵品を紹介する年数回のコレクション展、京都市主催の公募展、美術団体等による催しがある京都市美術館を見学。 明治・大正の元老・山県有朋が、1896年(明治29)に完成させた別荘。広大な園内には木造の母屋と茶室、レンガ造りの洋館がある。特に庭園(名勝)は有朋自身が設計・監督し、造園家の小川治兵衛に作庭させたもの。東山を借景に、疏水の水を引き入れたのびやかな池泉廻遊式庭園の無鄰菴を訪れる。 南禅寺の塔頭。家康に重用された僧崇伝が北山にあった寺を移したものという。豪華な東照宮(重要文化財)や遠州好みの八窓席(重要文化財)、白砂に鶴島、亀島を配した枯山水の庭園(特別名勝)などがある金地院を訪れる。 南禅寺境内を横切る、レンガ造りのアーチ橋。全長93m。1890年(明治23)完成の琵琶湖疎水の一部で、古代ローマの水道橋を手本としている。橋を抜けて石段を登ると、南禅院がある水路閣[南禅寺]を訪れる。 永観堂の名で親しまれ、紅葉の名所としても知られる。平安時代初期、弘法大師の弟子真紹僧都により創建されたが、後に永観律師が念仏修行の場として、民衆を救った功績から永観堂と呼ばれるようになった。本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)は左後方を振り返る姿で、「みかえり阿弥陀」とも呼ばれる禅林寺(永観堂)を訪れる。 1895年(明治28)、平安遷都1100年を記念して創建された神社。白砂に朱塗りの社殿が映えて、雅やかな雰囲気が漂う。特に応天門と大極殿は、平安京大内裏朝堂院にあった原型を8分の5に縮小して復元したもの。また本殿の奥の神苑は約3万平方mに及ぶ日本庭園で、季節には桜や花ショウブが美しい花を咲かせる平安神宮を訪れる。 17:00終了。 今回の名所巡り、近場の京都に足を運び、東山文化を代表とする建築物、銀閣寺のある哲学の道エリア、美術館・博物館などアートが点在し、平安遷都1100年を記念として明治28年に創建された平安神宮のエリア、臨済宗南禅寺派の大本山の南禅寺エリアを訪れ、点在する多くの歴史的建造物に接し癒され、一方歴史学習も出来満足できた名所巡りでした。 |
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京都市洛中観光 2010年5月12日 今回は京都の歴代天皇が住まれた御所、徳川家の二条城、新撰組のゆかりの地、壬生など、京都のど真中のエリア、豊臣秀吉が京都の中心部を土塁で囲み、その内側の洛中に足を運びました。 12:30車で第二京阪、阪神高速京都線を経由して 13:00洛中エリアに到達。 平安時代、園城寺(三井寺)の僧が、母の供養のために地蔵菩薩像を安置したのが始まりとされる。本堂は1970年(昭和45)の再建。境内には保育園や老人ホームが立つ庶民的な寺だ。坊城通に面した表門を入って右側の壬生塚には、新選組隊士の墓や近藤勇の胸像がある壬生寺を訪れる。 平安京造営の際に禁苑として造営された。当時は南北400m、東西200mに及ぶ広大な庭園で、皇族が舟遊びや狩猟を楽しんだが、鎌倉時代以降に荒廃。さらに家康の二条城築城で大部分を削られたが、明治になって真言宗の道場として再興された。苑内中央の放生池は禁苑にあった大池の一部といわれ、池中の島には、かつてこの場所で行われたという雨乞い伝説を伝える善女龍王を祀る神泉苑を訪れる。 関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が、上洛の際の宿泊所として1603年(慶長8)に築城。後に3代将軍家光が大改修し、現在のような規模となった。堀を巡らし石垣に囲まれた広大な城内は、二の丸御殿(国宝)、本丸御殿(重要文化財)、二の丸庭園(特別名勝)などからなり、豪壮な外観に反して内部はきらびやかさに満ちている。二の丸御殿の障壁画(重要文化財)は狩野派の作で、松鷹図などがよく知られる。本丸御殿は京都御苑内にあった旧桂宮家の御殿を移築の元離宮二条城を散策する。 本堂が六角宝形造であり、正式名は紫雲山頂法寺。いけばな発祥の地としても有名。本堂前には縁結びで有名な地摺り柳が植わり、その右手には六角形の丸く窪んだ石(直径約42cm)がある。京都のほぼ中心に位置していることから「へそ石」と呼ばれている紫雲山頂法寺(六角堂)を訪れる。 京都の伝統文化を幅広いジャンルで展示、紹介している。フィルムライブラリーでの映像や、展示室の精巧な模型などを通して、歴史や美術工芸・映画に関する資料を気軽に見ることができる。1906年(明治39)建築の別館は、旧日本銀行京都支店の建物で重要文化財。重厚なレンガ造りの建物内は無料で入場できる。京都文化の情報発信のほか、様々なイベントも開催している。江戸時代末期の京の町家の表構えを復元した「ろうじ店舗」では、食事やショッピングが楽しめる京都府京都文化博物館を見学。 京都御所、仙洞御所、大宮御所を包む広大な国民公園。東西約700m、南北1.3kmに及ぶ敷地は、東京遷都まで宮家や公家の邸宅が立ち並んでいた。現在は樹齢100年を越える樹林の中、玉砂利の道と芝生と桜、梅など多くの花木も植えられ、四季折々の変化を楽しめる。蛤御門や近衛邸跡庭園、閑院宮邸跡、九條家ゆかりの茶室拾翠亭など、歴史をしのぶ建物や庭園も遺る京都御苑を散策する。 京都御苑の中央北部に位置。明治維新までの皇居で、現在の御所は1331年(元弘元)に光厳天皇が東洞院土御門殿を皇居と定めたもの。以来、織田・豊臣・徳川の手で整備されたが火災で類焼。今の建物は1855年(安政2)の再建だ。紫宸殿は御所の正殿で、中央に高御座をおく。典型的な寝殿造。前庭には向かって右手に「左近の桜」、左手に「右近の橘」が植えられている。紫宸殿の奥には清涼殿など優美な建物が立ち並び、王朝時代の宮廷生活を偲ばせている京都御所による。 1885年(明治18)創建。明治維新に功績のあった、三條実万・実美親子が祭神。御苑の東にある清和院門前から、参道が北に延びる。萩の名所としても名高く、長い参道や境内に萩が咲き乱れる9月中〜下旬には萩まつりが催される。境内には上田秋成と湯川秀樹の歌碑、有名な京都三名水の一つ「染井」もある梨木神社を訪れる。 938年(天慶元)に元三大師によって船岡山に創建されたが、1571年(元亀2)に織田信長の焼き討ちを免れて現在地に移った。代々皇室の帰依が厚く、本堂は光格天皇の勅命により仙洞御所の一部を移築されたもの。紫式部の邸宅跡としても知られ、「源氏の庭」には紫色のキキョウが咲く。節分の日に、3匹の鬼が剣や斧、槌をもって踊り、追儺使が紅白の豆を投げて鬼を追い払う、「鬼の法楽」が有名な廬山天台講寺(廬山寺)を訪れる。 17:00終了。 今回の史跡巡り、近場の世界遺産の宝庫、京都に足を運び、新撰組のゆかりの地、壬生に点在する寺院、桓武天皇の時代から東京遷都まで貴族文化の中心だった京都御所、初代将軍家康が築き、激動の幕末を見守り、二の丸御殿は十五代慶喜が大政奉還をした舞台であった二条城など、歴史を感じる史跡が多数あるエリア、洛中を訪れ歴史学習できました。 |
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京都市洛東観光 2010年4月7日 世界遺産であり定番の観光地、清水寺を中心とした京都市の洛東エリアの寺社巡りしてきました。 12:30車で京阪自動車道経由して 13:30京都の洛東に到達。 西国三十三ヵ所第17番札所。空也上人が951年(天暦5)に開いた西光寺を、上人の没後、弟子の中信が六波羅蜜寺と改名した。悪疫退散を念じて空也が刻んだという本尊の十一面観音立像(国宝)は本堂(重要文化財)に安置、12年毎の辰年に開帳される。宝物館には念仏を唱える姿の空也上人像(重要文化財)や平清盛像(重要文化財)など鎌倉時代の彫刻が収められている六波羅蜜寺を訪れる。 建仁寺の塔頭寺院。境内には平安初期の官僚で学者、歌人としても名高い小野篁が冥界へ通ったという伝説の井戸があり、閻魔大王像を祭る閻魔堂もある六道珍皇寺を訪れる。 江戸時代に蓮華光院が讃岐金比羅宮から勧請した鎮守社で、縁切りと縁結び、両方の御利益がある。新旧の絵馬700点が展示されている「金比羅絵馬館」には、手塚治虫氏が奉納したものもある。先代宮司の鳥居博愛氏の趣味が高じて作られた「ガラスの部屋」には、エミール・ガレ、ルネ・ラリック、アマリック・ワルターらの作品が展示されている安井金比羅宮を訪れる。 栄西が1202年(建仁2)、宋の百丈山にならって創建した臨済宗の寺院。栄西は中国から初めて茶の実を持ち帰った人物で、誕生日の4月20日には四ツ頭茶会が催される。単層入母屋造の方丈(重要文化財)は、1599年(慶長4)、広島の安国寺から移築されたもの。栄西が鴨川から引き上げたという鐘、勅使門(重要文化財)、俵屋宗達作の風神雷神図(国宝)(展示は複製)など、みどころが多い建仁寺を訪れる。 かつて平安京の南大通であった松原通が東大路通を越えた場所から始まる約1kmほどの清水寺への参詣道。人通りもあまりない静かな坂だが、五条坂・三年坂と合流するあたりからみやげ物店が軒を連ね、さらに上がると漬け物や八ツ橋などの京みやげの店がずらりと揃い、呼び込みも盛ん。門前には清水人形の店もある。坂の頂上に清水寺の仁王門や三重塔がそびえ立つ清水坂を通過する。 五条坂から分岐して清水寺へ向かう坂。陶芸ギャラリーや藍染工房などの趣味の店も徐々に増え、アート散策を楽しめる穴場だ。かつては清水焼の窯元が立ち並んだ場所であるため茶わん坂と名付けられ、坂の入口に石碑が立つ。古くは奈良時代の僧、行基がこの地で土器を作り、江戸初期に野々村仁清が華やかな色絵陶器を完成させた。坂の南には近藤悠三記念館が立つ清水新道を通過する。 清水の舞台で知られる。778年(宝亀9)、延鎮上人が音羽の滝の上に庵を結び、千手観音を祭ったのが始まり。798年(延暦17)、坂上田村麻呂が長岡京の旧紫宸殿を移築して堂宇を建造したと伝わる。断崖に立つ舞台造の本堂(国宝)は徳川家光が1633年(寛永10)に再建したもので、優美な寝殿造が踏襲されている。139本の柱が支える舞台からは京都市街を一望。三重塔(重要文化財)も同時期の再建。石段下には3筋の水が流れる音羽の滝があり、飲めば長寿、健康、学問に御利益があるといわれる。西国三十三カ所第16番札所でもある清水寺を訪れる。 清水寺本堂の北にある縁結びの神社。朱塗りの社殿(重要文化財)は1633年(寛永10)徳川家光が再建。境内にははらい戸大神、撫で大国など願かけの神様が揃い、本殿前の恋占いの石は目を閉じてもう一方の石に無事たどり着けば恋が成就するのだという地主神社を訪れる。 京都らしい風情を楽しめる散歩道の代表格。石段と緩やかなカーブを描く石畳の道沿いに、みやげ物店や食事処、料亭などが軒を並べている。清水坂から七味家本舗の脇を北に下る石段が三年坂で、名の由来は大同3年(808)にできたからとも、子安塔に安産祈願に向かう参道に当たるため産寧坂と呼ばれたからともいわれる三年坂(産寧坂)を通過する。 坂本龍馬や西郷隆盛、高杉晋作、木戸孝允など幕末維新に活躍した志士たちの遺品や遺墨を展示する資料館、霊山歴史館を見学。 維新の志士や大東亜戦争の戦没者の霊を祭る神社。坂本龍馬と中岡慎太郎の墓や、二人が並んだ銅像もあり、修学旅行生や維新の志士ファンがお参りに訪れる。参道の坂道は維新の道と呼ばれ、春は桜、秋はモミジが美しい京都霊山護国神社を訪れる。 豊臣秀吉の正室、北政所(ねね)が1606年(慶長11)に秀吉の菩提を弔うために開いた寺。創建当初は徳川家康の援助もあり、広大な寺域をもつ壮麗な寺であったが、度重なる火災に遭っている。桃山様式の創建当時の面影を残すのは、開山堂(重要文化財)と、須弥檀や厨子の高台寺蒔絵で名高い霊屋[おたまや](重要文化財)、伏見城から移した茶室傘亭(重要文化財)と時雨亭(重要文化財)、表門(重要文化財)、観月台(重要文化財)など。東山を借景にした小堀遠州作の庭園(名勝・史跡)も見応えがある高台寺を訪れる。 805年(延暦24)、桓武天皇の勅命で最澄によって開かれた。裏山を借景とした緑の深い庭園は、相阿弥作と伝える。1185年(文治元)に建礼門院が出家したことで知られ、わが子安徳天皇の御衣で作った仏幡や建礼門院像など、『平家物語』の世界が広がる長楽寺を訪れる。 京都・東山三十六峰の一つ、華頂山の麓に広がる浄土宗の総本山。法然上人が1175年(承安5)ここに居を構え、「南無阿弥陀仏」と唱えるとすべての人が救われるという念仏の教えを初めて説き、生涯を閉じた念仏の聖地だ。7万3000坪の広大な境内には、法然上人の御廟や2000人が一度に参拝できる御影堂、日本最大の三門など国宝や重要文化財の多くの伽藍が建ち並ぶ知恩院を訪れる。 知恩院の北側にある天台宗の門跡寺院で、粟田御所とも呼ばれる。応仁の乱を逃れたという門前の楠の大木が目印。平安末期に比叡山の東塔から移した青蓮坊がそもそもの始まり。代々親王が住職を務めてきた格式の高い寺である。1788年(天明8)の皇居炎上の際には後桜町上皇の仮御所となった。雅な建物は明治以降の再建。みどころは2つの庭園。華頂山を借景とした室町時代の相阿弥作池泉廻遊式庭園と、小堀遠州作の霧島の庭。春秋の特別公開時には、庭園の一角の茶室・好文亭で抹茶付きで鑑賞ができる青蓮院を訪れる。 八坂神社の境内に続く円山公園は、中央に池を配した和風庭園。園内には料亭や茶店、野外音楽堂の施設などが点在している。花見の名所で、なかでも祇園枝垂桜の名で知られる大樹は、毎年この花のために京都を訪れる人もあるという。現在の樹は二代目で、桜守としてしられる佐野藤右衛門氏と同じ1928年(昭和3)生まれ。春の宵、ライトアップされた夜桜とぼんぼりの灯で、園内は幻想的な桜色に浮かび上がる円山公園を。散策する。 四条通に面して立つ、日本最古の劇場。建物西側に歌舞伎発祥の地の碑が立つが、これは1603年(慶長8)出雲の阿国が四条河原でかぶき踊りを始めたことによる。1929年(昭和4)に改装。1991年(平成3)、外観はそのままに新装した建物は国の登録文化財に指定。毎年12月ごろに行われる吉例顔見世興行は京の年中行事の一つで、東西の歌舞伎役者が豪華な顔合せを見せる南座を訪れる。 八坂神社の西楼門の階段を降りて四条通を西へ100mのところに老舗のお茶屋・万亭(一力)がある。その西を南北に走る路。華やかな紅殻塗の壁や竹で編まれた犬矢来(駒寄せ)の一力近辺には、簾を垂らしたお茶屋が立ち並び、しっとりと洗練された佇まいを見せる。この一力は、歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』で大星由良之介(大石内蔵助)が高師直(吉良上野介)の目をくらますためにお茶屋遊びをする「祇園一力の場」としても有名な花見小路を通過する。 17:00終了。 今回の名所巡り、世界遺産で定番の観光地である清水寺を中心とした京都市の洛東エリアの寺社巡り、最近各地の歴史的建造物を訪れていますがさすが京都の歴史的建造物、あらためてスケールの違いを痛感、観光客も飛びぬけて多い京都寺社巡りでした。 |
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京都市嵐山&嵯峨野史跡巡り 2010年2月27日 京都の洛西に位置する嵐山に小倉山、保津川などの自然にあふれ、歴史的有名な社寺も多い嵐山・嵯峨野に足を運びました。 12:30車で近畿名神自動車道経由して京都南インター下車 13:40嵐山到達、散策観光する。 大堰川に架かる全長155mの橋。亀山上皇が「くまなき月の渡るに似る」として、渡月橋と命名したという風情ある橋で、嵐山の景観にとけ込んでいる。鵜飼などの川遊びも渡月橋を中心に行われる。当初、橋は現在より100mほど上流にあったと考えられるが、1606年(慶長11)に角倉了以が大堰川上流の保津川開削工事を行った際、今の場所に移された渡月橋をわたる。 1339年(延元4)に足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために建立した、京都五山第1位の寺で、世界文化遺産。創建時は150余の塔頭を数えたが、8回の大火に遭い現在の諸堂は明治時代に再建されたもの。曹源池を中心に嵐山や亀山を借景とする池泉回遊式の庭園(史跡・特別名勝)は、開山の夢窓疎石の作。3段の石滝組などを配し、南北朝時代の禅院を代表する庭園の天龍寺を訪れる。 伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が、潔斎のためにこもった所。クヌギの丸太を組んだ黒木の鳥居や小柴垣の簡素な佇まいの小さな社で、『源氏物語』の「賢木」の巻、謡曲『野宮』などに描かれた当時の様子を彷彿とさせる。今では縁結び、進学の神社として知られるようになった野宮神社を訪れる。 丹下左膳役で有名な昭和初期の俳優、大河内伝次郎の別荘。小倉山の山裾の起伏を利用して、桜や楓、松などを植え込んだ広大な庭は趣が深い。展望台からの眺望もよく、園内の静雲亭でミニ懐石などの食事も楽しめる大河内山荘を訪れる。 小倉山の中腹にある名刹で、秋の紅葉の美しさでも知られている。静寂な寺の佇まいが天台四土の一つ常寂光土を思わせるところから、寺名となった。茅葺きの仁王門には運慶作と伝えられる仁王像が立っている。檜皮葺きの多宝塔(重要文化財)は、江戸時代の建築ながら華麗な桃山様式を伝えている常寂光寺を訪れる。 ひなびた茅葺き屋根の庵は、松尾芭蕉の高弟である向井去来の別宅。ある秋、去来が商人に庭の柿の木になっている実を売る約束をしたが、その夜のうちに嵐ですべて落ちてしまった。その後、去来は自らを落柿舎去来と称するようになったという落柿舎を訪れる。 釈迦如来立像(重要文化財)と阿弥陀如来立像(重要文化財)の2像を本尊とすることから、二尊院と呼ばれる。平安時代初期に嵯峨天皇が慈覚大師を開祖に建立、いったん荒廃したものの法然が庵を結び、弟子の湛空が再興した。常寂光寺と同じく、ここも藤原定家の山荘「時雨亭」があったとされる二尊院を訪れる。 奥嵯峨の竹林の中にひっそりと佇む『平家物語』ゆかりの寺。仏御前の出現で平清盛の愛を失った白拍子の祇王が、母、妹と尼になってここに移り住んだ。後に仏御前も尼になり、ともに晩年をすごしたという。本堂には、大日如来、清盛と4人の像を安置。影が虹色に映る吉野窓も見ものの祗王寺を訪れる。 化野と呼ばれるこの一帯は、かつて亡骸を葬る風葬の地だった。寺の起こりは、弘法大師がこの地に葬られた死者の菩提を弔うために寺を建てたことによる。のちに法然上人が念仏道場に改め、念仏寺と称した。境内には、釈迦の説法に耳を傾ける人々の姿になぞらえて、無縁仏となった約8000体もの石仏や石塔が並ぶ化野念仏寺を訪れる。 |
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京都市京都駅周辺史跡巡り 2010年2月24日 登録された世界文化遺産の社寺が17もある歴史的建造物の宝庫、京都の京都駅周辺の社寺を巡ってきました。 12:30車で近畿名神自動車道経由して京都南インター下車 13:20京都駅南に到達 高さ55mの五重塔(国宝)で知られる東寺の正式名は教王護国寺。平安遷都の際に創建された官寺を、823年(弘仁14)に空海が嵯峨天皇より賜り、真言宗の根本道場とした。土一揆で伽藍のほとんどを焼失したが、室町末期〜江戸初期にかけて再建された。南大門(重要文化財)、金堂(国宝)、講堂(重要文化財)、食堂が一直線に並ぶ伽藍配置は創建当時の特徴を残す。講堂には空海の密教思想を表現し、曼荼羅を立体化した21体の仏像が並ぶ教王護国寺(東寺)を訪れる。 蒸気機関車(SL)を保存展示する博物館。梅小路公園に隣接しており、入口には旧二条駅舎(京都市指定有形文化財)を移築。「C62」や「D51」など、大正から昭和にかけて活躍した蒸気機関車が扇形車庫に収められている梅小路蒸気機関車館を訪ずれる。 浄土真宗本願寺派の本山。親鸞聖人の廟を東山大谷に建てたのが始まりで、1591年(天正19)豊臣秀吉の寄進で現在地に移転。1617年(元和3)の火災で諸堂を焼失し、伏見城や聚楽第から移築されたという、秀吉ゆかりの建造物が華麗な桃山文化を偲ばせる。御影堂(重要文化財)には、親鸞の荼毘の灰を漆にまぜて塗ったと伝わる坐像を安置。天井や障壁画の絢爛な装飾で知られる書院(国宝)には203畳の対面所、虎渓の庭(史跡・特別名勝)、1581年(天正9)建立の日本最古の能舞台(国宝)がある西本願寺を訪れる。 1598年(慶長3)に62年の生涯を閉じた豊臣秀吉を祀る。のちに徳川家康によって取り壊されたが、1880年(明治13)に再建された。桃山建築を代表する唐門(国宝)や、名工辻与二郎作の鉄灯籠は有名。宝物館には狩野内膳筆の豊国祭礼図屏風(重要文化財)などが展示されている豊国神社を訪れる。 豊臣氏滅亡のきっかけとなった「国家安康の鐘」(重要文化財)で知られる。1586年(天正14)、秀吉が奈良・東大寺を模して建立したが1596年(慶長元)の地震で大破。豊臣秀吉の没後、徳川家康が淀君と秀頼にすすめ再興させたが、大鐘の銘に「国家安康・君臣豊楽」とあったのを口実の一つとし、大坂冬の陣、夏の陣を起こし、豊臣氏を滅亡へと追い込んだ。現在は鐘のみが現存する方広寺を訪れる。 大正から昭和にかけて活躍、文化勲章を断るなど無冠の陶工として知られる河井寛次郎の住居をそのまま記念館としたもの。寛次郎自身の設計で、1階は囲炉裏や吹き抜けのある板の間、2階には書斎や居間がある。中庭の奥には素焼き窯や登り窯、陶房などがそのまま残されており、作品も数多く展示されている河井寛次郎記念館を見学。 七条通を挟んで三十三間堂と向かい合う。1895年(明治28)に建てられたバロック様式の特別展示館(重要文化財)は、現在は特別展覧会の時に利用されている。平常展示館では、京都や奈良の寺社などからの寄託品を含め約1万2000件を収蔵。絵画、書跡・染織などは定期的に入れ替えて展示される。庭園にはロダンの彫刻『考える人』、馬町十三重石塔もある京都国立博物館を見学。 紀州根来寺と関わりの深い、真言宗智山派の総本山。豊臣秀吉が、3歳で没した長子鶴松の菩提を弔うため建立した祥雲禅寺を前身とする。度重なる火災の後、1600年(慶長5)に再興され智積院となり、数々の障壁画や庭園が華麗な桃山文化を今に伝える。名高い長谷川等伯・久蔵一門の描いた楓図・桜図(国宝)は、収蔵庫で見られる。庭園(名勝)は利休好みの庭として知られる、中国廬山をかたどった池泉回遊式庭園の智積院[蓮華王院]を訪れる。 本堂内陣の柱間が33あることから三十三間堂と呼ばれる。1164年(長寛2)、後白河法皇が平清盛に命じて創建したが、大火に遭い焼失。現存の本堂(国宝)は1266年(文永3)に再建されたもの。堂内には二十八部衆立像(国宝)、風神雷神像(国宝)などに守られて、顔立ちの異なる1001体もの千手観音像(重要文化財)がズラリと並ぶ。中心の本尊・千手観音坐像(国宝)は、運慶の長男湛慶[たんけい]作のある蓮華王院(三十三間堂)を訪れる。 JR京都駅の北正面にそびえ立つ展望塔。地上100mの展望室からは碁盤の目のように整然とした京の町並みや、京都盆地を囲む山々を望むことができる京都タワーを訪れる。 17:00終了。 世界遺産の社寺の宝庫、京都の京都駅の周辺の社寺を巡りました。 このエリアにも東寺、西本願寺等の世界遺産の社寺を含めて有名な歴史的建造物が盛りたくさん位置していました。 さすが平安・室町時代の都、京都、歴史の深さを感じた、今回の史跡巡りでした。 |
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京都南東山区観光 2009年12月26日 今回は近場の京都に足を運び、京都駅から南のエリア東山区の寺社巡りしてきました。 12:30京阪電車で京都方面に向かう。 13:45深草駅到達、散策する。 宝永年間(1704〜1711)創建。石仏の寺として知られ、本堂背後の竹林にぽつんぽつんと石仏が立っている。これらは釈迦誕生から涅槃にいたるまでを表す五百羅漢。錦市場の青物問屋に生まれた江戸中期の画家・伊藤若冲(斗米翁)が、この地に隠棲し、下絵を描いたものを石仏にしたといわれる石峰寺を訪れる。 全国で約3万社を超えるお稲荷さんの総本宮。商売繁昌、五穀豊饒の神として有名。大鳥居をくぐると、1589年(天正17)に豊臣秀吉が寄進したと伝える朱塗りの楼門がある。本殿(重要文化財)は、1499年(明応8)再建の檜皮葺き。本殿背後にある鳥居のトンネルをくぐれば奥社奉拝所。稲荷山への登り口である。高さ233mの山には、至る所にお塚がある伏見稲荷大社を訪れる。 1236年(嘉禎2)に建立された禅刹で、京都五山の一つ。境内は広く、日本最古の三門(国宝)、禅宗寺院様式の東司(トイレ)(重要文化財)、堂本印象が竜を天井に描いた本堂などが立つ。方丈の庭園は東西南北それぞれ趣が異なり、苔と角石とが市松模様になっている北庭が特に名高い。洗玉澗に架かる、通天橋付近の紅葉も見ごとの東福寺を訪れる。 東福寺塔頭のひとつで、1390年(明徳元)創建。重森三玲が復元した九山八海の庭の中央には、熊本藩細川家から贈られた遺愛石がある。この石は寺領五百石を辞退した代わりに拝領したものという。もう一つの臥雲の庭も美しい。また、日露戦争中、ロシア人捕虜を収容し、彼らが木や竹で作った楽器なども陳列している霊雲院を訪れる。 東福寺に境内に立つ。じゅうまん不動と呼ばれ、火除け信仰がある。五大堂に安置されている本尊の平安時代の不動明王像(重要文化財)がある同聚院を訪れる。 皇室とゆかりが深く、御寺とも呼ばれる古刹で、弘法大師が草庵を結んだのが始まり。境内には狩野探幽作の天井絵などが見られる仏殿(重要文化財)がある。大門近くの観音堂には、唐の玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈り造らせたという楊貴妃観音坐像(重要文化財)が祭られ、良縁や安産、美容に御利益があるという泉涌寺を訪れる。 天長年間(823〜834)に空海が十一面観音を安置して開創した。西国三十三カ所第15番札所。高さ16mの多宝塔は、1983年(昭和58)の建立する今熊野観音寺を訪れる。 東大路通に面してクスノキの巨木が目を引く。後白河法皇が1160年(永暦元)に、仙洞御所の法住寺殿のなかに熊野神社を勧請、創祀したのが起こり。1374年(応安7)、足利義満がここで能の勧進興行を行い、演能したのが観阿弥・世阿弥の親子。絵馬は、車馬安全祈願の「八咫烏」の新熊野神社を訪れる。 17:00終了。 今回も近場の京都の南エリア、東山区の寺社を3時間掛けて歩きで巡りました。 紅葉で有名な東福寺周辺は紅葉時に訪れれたことがありますがシーズンオフの訪れも人も疎ら、のんびりと巡ることができ、違った意味で楽しめました。 さて明日からはペルーに出発です。 謎の遺跡群を目の前での観光、期待しています。又結果報告します。 |
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京都桂・松尾観光 2009年11月7日 今回は近場の京都の松尾の山すそ、桂川が流れる自然豊かなエリアに足を運び、美しい建築様式の桂離宮、西芳寺などを訪れました。 12:30車で近畿自動車道経由して京都桂方面に向かう。 13:30桂到達。 もとは八条宮家の別荘として江戸初期に造営された。完成に35年余りを費やし、竹やぶに囲まれた5万6000平方mの敷地には、苑池を設け、松琴亭、賞花亭などの茶亭や書院を配している。庭園と建築の総合美は、世界的に知られる桂離宮を訪れましたが、参観は許可制のため外部から眺めるのみに終わりました。次回許可書をもらい訪れたたいと思います。 足利義満の補佐役だった細川頼之が夢窓国師の高弟宗鏡禅師に帰依して創建した禅寺。4000坪の境内の半分が竹林に覆われていて、竹の寺と呼ばれている。本堂北の方丈からは、杉苔の中に16個の自然石を配し、それを十六羅漢に見立てた平庭式枯山水庭園が観賞できる地蔵院を訪れる。 奈良時代の行基が開祖と伝えられてる古刹で暦応2年(1339)夢窓国師が再興し、天下一の名庭と言われ銀閣寺など作庭の手本とされた、苔が素晴らしい庭園、通称「苔寺」と呼れる西芳寺を訪れる。残念ながらこちらも許可書が必要、外部から眺めて終わりました。 1723年(享保8)鳳潭上人が華厳宗再興を願って創建。飼育された鈴虫が一年中鳴くことから、別名鈴虫寺と呼ばれる。山門横に立つ草鞋を履いた幸福地蔵は、一つだけ願いを叶えてくれるという華巌寺を訪れる。 701年(大宝元)、秦氏が創建したと伝える古社。酒の神として信仰を集めていて、境内には全国の酒造元から奉納された、こもかぶりの酒樽が並ぶ。祭神は酒の神・大山咋神[おおやまぐいのかみ]で、社務所裏には湧き水(亀の井)を加えると酒が腐らないといわれる。室町前期建造で、1542年(天文11)に大改修した本殿(重要文化財)は、松尾造といわれる三間社両流造。重森三玲氏作庭の松風苑は、磐座をイメージした上古の庭、鎌倉風の蓬莱の庭、平安風の曲水の庭と、趣を変えた3つの庭が見られる松尾大社を訪れる。 延喜式では名神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。顕宗三年(四八七)阿閉臣事代が朝鮮半島に遣わされる際に、壱岐で月読尊がよりついて託宣をしたので、これを天皇に奏上して山城国葛野郡歌荒樔田の地に社を創建したとされ、斎衡三年(八五六)に松尾山南麓の現在の地に移ったと伝えます。境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御船社、聖徳太子社などから構成されている月読神社を訪れる。 その名の通り梅の美しい神社である。子授けの神として有名で、子宝を望む夫婦が季節を問わず参拝に訪れる梅宮大社を散策する。 鷹峯方面に向かう。 陶芸や書道、茶道などに多才を発揮した江戸時代の芸術家・本阿弥光悦が1615年(元和元)に徳川家康からこの地を拝領、多くの工芸職人らと芸術村を営んだのが始まりで、光悦没後、その住まいが寺に改められた。境内には7つの茶室が点在、太虚庵茶室を囲む竹垣は、太い竹を斜めに組んだ独特のもので「光悦垣」と呼ばれる。紅葉の名所でもある光悦寺を訪れる。 1364年、大徳寺の徹翁が隠居所として創建したが、1694年に臨済宗から曹洞宗に改宗された。有名なのが、堂内の「悟り窓」と「迷い窓」。円で大宇宙、悟りとし、禅と円通の心を、四角で人間の生涯、迷いとし、生老病死・四苦八苦を表している源光庵を訪れる。 17:00終了。 今回の史跡巡り、近場の京都の桂・松尾・鷹峯エリアを訪れ、松尾の山すそ、桂川が流れる自然豊かなエリアでの桂離宮、西芳寺、華厳寺、地蔵院、梅宮大社、月読神社、松尾大社の散策、緑多く空気の澄んだ爽やかなエリアの仏教の教えを表したという原光寺の2つの窓、独特の編み方が美しい光悦寺の竹垣などの散策、癒されました。 |
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京都大原&鞍馬&貴船観光 2009年10月28日 今回は近場の京都郊外、京都有数の美庭を鑑賞できる三千院、実光院、宝泉院などが位置する大原、大自然の魅力を歩いて満喫できる京の奥座敷と呼ばれる鞍馬・貴船に足を運びました。 12:30車で近畿名神自動車道経由して 13:30大原到達。 天台五門跡の一つ。最澄が比叡山に建てた小堂に源を発し、明治4年、現在地を本坊とする。境内は自然の傾斜を活かして建物を配置。京都市の名勝に指定されている聚碧園などを眺めながら客殿、宸殿を通り、池泉回遊式庭園の有清園に出る。一面を苔の緑が覆い、秋には見事な紅葉に彩られるこの庭の一角に往生極楽院(重要文化財)が立つ。1148年(久安4)の建立で、狭い堂内に仏像を納めるため船を逆さにしたような船底天井となっている。本尊は金色に輝く阿弥陀三尊像(国宝)。観音・勢至両菩薩の腰をやや浮かせた姿勢が印象的。かつては、堂内は極彩色の壁画で荘厳され、平等院鳳凰堂などとともに極楽浄土の世界を表した三千院門跡(三千院)を訪れる。 天台声明の根本道場として開山された寺。1188年(文治2)、浄土宗祖法然上人が諸学の学僧と宗論をした、「大原問答」の舞台として有名だ。この問答で、阿弥陀仏の名を唱うれば仏様の願力によって衆生が救われると法然が説いたところ、阿弥陀如来が手から光明を放ったといわれる。このことから、本尊を「証拠の阿弥陀」と呼ぶようになった。また、当時をしのばせる問答台が2つ本堂に残っている。子院に実光院と宝泉院がある勝林院を訪れる。 勝林院で声明を修行する学僧の僧坊として建てられた。詩仙堂の三十六詩仙画像の模写が掲げられた客殿の、西側と南側には庭園が広がる。西の庭にある不断桜は、秋から春にかけて花を咲かせ続ける珍しい実光院を訪れる。 声明の道場として開かれた勝林院の塔頭で、書院から見事な庭園を観賞できる。大原の山を背景に楓や桜、竹などが眺められ、まるで絵画を見るよう。廊下の天井は、鳥居元忠一党が自害した伏見城の板間を移したものといわれ、「血天井」と呼ばれる。2005年3月には、新庭園・宝楽園が完成した宝泉院を訪れる。 三千院と並んで大原を代表する寺。平清盛の娘・建礼門院徳子が、わが子、安徳天皇や平家一門の菩提を弔いながら、長い余生を過ごした。後白河法皇が建礼門院を訪れた『平家物語』の大原御幸でも知られる。本尊は木造地蔵菩薩立像(重要文化財)。夏は沙羅の花、秋の紅葉が美しく境内には『平家物語』ゆかりの汀の池、汀の桜などもある寂光院を訪れる。 鞍馬方面に向かう。 奈良末期に鑑真和上の高弟・鑑禎上人が毘沙門天を祭ったのが始まり。牛若丸や天狗伝説でも知られる。山門から本殿までは、清少納言が『枕草子』で「近くて遠きもの」と記した九十九折の道が約1km続く。参道途中には由岐神社や義経供養塔がある。本殿前庭からの眺望がすばらしく、桜や紅葉のシーズンは特に美しい。近くに金星から降臨したという護法魔王尊を祭る光明心殿、毘沙門天(国宝)や経塚遺物(国宝)などの寺宝のほか、与謝野鉄幹・晶子夫妻の遺品などを展示する霊宝殿がある鞍馬寺を訪れる。 940年(天慶3)創建の古社。鞍馬寺本堂へ至る参道途中にあり、鞍馬の火祭の舞台としてよく知られる。境内には樹齢800年と伝わる杉の巨木が立ち、霊気に満ちた気配が漂う。1610年(慶長15)に豊臣秀頼が再建した檜皮葺きの割拝殿(重要文化財)は、中央を石段がくぐっていて、その先に本殿がある由岐神社を訪れる。 貴船方面に向かう。 京都を流れる鴨川の水源地にあたり、水の供給を司る神様を祀る。創建年代は不詳だが、平安京遷都以来、水源を守る神として皇室からも格別の崇敬を受けてきた古社。日照りや長雨が続いた時には雨乞い・雨止め神事が行われ、現在も農業や菓子・酒造業など水に関わりのあるあらゆる業種の人々の信仰を集めている。平安時代の女流歌人・和泉式部が参拝し、復縁祈願が成就したことから、縁結びの神様としても信仰を集める。本宮境内には、重森三玲作の石庭がある貴船神社を訪れる。 天台宗寺門派の単立寺院。寛喜元年(1229)静基によって開山され、応仁の乱を避け北区紫野より岩倉の地へ移る。床紅葉で有名な実相院を訪れる。 比叡山を借景にした見事な枯山水の庭園(名勝)が有名だ。後水尾上皇の幡枝御殿(はたえだごてん)が1678年(延宝6)に寺に改められたもので、本堂と庭はかつての「下御茶屋」に当たる。苔が敷き詰められた庭には40数個の石が巧みに配置され、低い生け垣の向こうに霊峰比叡山を望む円通寺を訪れる。 17:00終了。 今回の史跡巡り、京都郊外の紫陽花で有名、ビロードのように広がる苔の美しさの本堂を囲むように造られた池泉式庭園も有名で多くの観光客が訪れる三千院。勝林院の塔頭寺院の一つで、池泉鑑賞式庭園と池泉回遊式庭園がある実光院。柱を額に見立てた額縁庭園の美しさは見事の一言の宝泉院。などの京都有数の美庭を鑑賞できる大原。 京の奥座敷と呼ばれる大自然の魅力を歩いて満喫できる、薄暗くひんやしとしていて静寂に包まれ、澄んだ空気が気持ちがいい鞍馬・貴船エリア。 昼から半日でリラクゼーションできる寺社巡り、満喫できました。 |
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京都府丹波亀岡史跡巡り 2009年9月2日 今回は近場の京都府の明智光秀が築いた丹波・亀山城の城下町、亀岡、足利尊氏ゆかりの綾部、鬼退治伝説で有名な千丈ヶ嶽(833m)を最高峰として鳩ヶ峰(746m)、鍋塚(763m)とハイキングコースがあり、大江山連峰の大自然を満喫できる大江山に足を運びました。 12:30車で阪神高速経由して京都西部亀岡方面に向かう。 13:30南丹市の南西部にある約4kmの渓谷。通天湖から流れ落ちる水が清流となり、奇岩や樹木の間を縫う。両岸は、色鮮やかな紅葉の名所。一体は京都府立自然公園指定で遊歩道が整備されているため、ハイキングコースとしても知られている。国名勝るり渓を散策する。 西国三十三カ所霊場第21番札所で、縁起によれば705年(慶雲2)の建立という古刹。本尊聖観音像は33年に一度開扉される秘仏のある穴太寺を訪れる。 明智光秀が丹波平定時に築城し、亀岡は城下町として次第に発展。その後、江戸初期に5層の天守に改築。その美しさから亀宝城とも呼ばれていたが、現在は苔むした石垣と内堀が往時を物語るのみで城跡を含む一帯は現在大本教の敷地内となっている亀山城趾を散策する。 創建は709年(和銅2)という延喜式内名神大社で、丹波国一の宮。足利尊氏が修造したと伝わる本殿(重要文化財)は、三間社流造で檜皮葺きの建物。境内から湧出する御神水は、飲めば幸福を招き長寿になるとされ、真名井水と呼ばれている出雲大神宮を訪れる。 綾部方面に向かう。 足利尊氏の生誕地と言われる古寺。993年(正暦4)頃、恵心僧都作の子安地蔵菩薩を安置して光福寺としたのがはじまりと言われる。尊氏の母は、この地を所領していた上杉氏の娘にあたり、里帰りして尊氏を産んだ。境内には産屋の跡やその傍らに産湯の井戸が残るほか、尊氏と母、妻の墓もある安国寺を訪れる。 大江山方面に向かう。 標高833mの千丈ケ嶽を主峰とする連峰。鬼退治伝説の地として知られ、麓の大江町には鬼をテーマとしたさまざまな施設がある。その一つが、日本の鬼の交流博物館。日本全国はもとより、世界の鬼に関する資料を収蔵・展示している。一帯はレジャーゾーンとして整備され、各種アウトドア体験が楽しめる。大江山八合目、鬼嶽稲荷神社から見る雲海は絶景である大江山を訪れる。 18:00終了、帰路に向かう。 今回の史跡巡り、近場の京都府の戦国武将・明智光秀公が、丹波平定の拠点として亀山城を築き、城下町の整備をはじめた亀岡。 室町幕府を開いた足利尊氏が、上杉荘(安国寺町)で誕生したと伝えられ、尊氏公の生母清子の実家上杉氏の発祥の地である綾部。 酒呑童子の鬼退治伝説で有名、春は新緑、夏は清流遊び、秋は紅葉、冬は雪景色と四季折々の楽しみ方があり、特に鬼嶽稲荷神社から見る雲海は絶景です。 山から流れ出る二瀬川渓流では、奇岩と清流がおりなす風景を散策できるよう遊歩道が完備されている大江山。 3つのエリアの史跡巡り、意外と知らない歴史学習できました。 |
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京都府八幡寺社史跡巡り 2009年8月12日 今回は近場の大阪の境、京都南部に位置する同志社と古代が混在する街、京田辺、歴史を訪ねながら史跡を巡ったり、木津川・宇治川・桂川の三川合流部に広がる自然の大パノラマや緑豊かな男山で森林浴を楽しんだり、四季を通して、魅力がいっぱい八幡方面に足を運びました。 12:30車で京田辺方面に向かう。 13:30のどかな里山の景観に溶け込んで佇む。天武天皇の勅願で義淵僧正が開基、聖武天皇の願いで良弁僧正が伽藍を増築したという。本尊の十一面観音立像(国宝)は744年(天平16)に安置。天平時代後期に盛んに作られた木心乾漆像で、華やかな天平の息吹を今に伝える。奈良・興福寺の別院でもあったため藤原氏の庇護を受けて隆盛したが、中世に焼失。現在は本堂(大御堂)だけがひっそりと立つ観音寺を訪れる。 一休禅師が晩年を過ごした寺。鎌倉時代、妙勝寺として創建。その後兵火に遭ったが、康正年間(1455〜56)に一休が再興。酬恩庵と号した。苔に覆われ、しっとりと風情のある境内には本堂・方丈・庫裏(すべて重要文化財)が立ち、方丈庭園と虎丘庵庭園は名勝に指定。一休は81歳で大徳寺住職となった時もここから通い、88歳で没した。方丈中央に安置する木造一休禅師像(重要文化財)は逝去の年に高弟に作らせた等身大の像で、髪や髭は一休が自分のものを植え付けたという一休寺(酬恩庵)を散策する。 八幡方面に向かう。 木津川に架かる日本最長級の木造橋。全長356.5m、幅3.3m。川の水が橋桁に達する増水時には、水の抵抗を少なくするため、橋脚にワイヤーロープでつながれた橋板が流されるようになっている。水が引けばワイヤーを手繰り寄せ復元する仕組み。昭和28年の架橋以来10数回にわたり流出した。江戸時代を思わせる素朴な橋は広い河原の白砂によく調和し、時代劇のロケに使われることもしばしば。映画やテレビで見ている人も多いはず。橋のたもとには、近隣の観光の拠点・やわた流れ橋交流プラザ四季彩館があり、地域の食や文化を楽しめる流れ橋を訪れる。 石清水八幡宮の別当だった善法寺宮清が建立。本堂は、八幡宮の旧社殿の一部を移したものと伝わる。宮清の孫・通清の娘で足利義満の母である良子が寺に数多くの楓を寄進したと伝えられ、今でも秋には境内全体が燃えるような紅葉に包まれる。現在は律宗寺院で奈良・唐招提寺の末寺、善法律寺を訪れる。 松花堂は石清水八幡宮の社僧だった松花堂昭乗が1637年(寛永14)、隠棲用に建てた草庵の茶室。もとは八幡宮近くにあったが、明治の神仏分離令で書院、庭園とともに現在地に移された。6600坪の広大な庭にはほかに3棟の茶室があり、昭乗作の書画などを展示する美術館や食の交流棟もある松花堂庭園・美術館を訪れる。 別名らくがき寺といい、境内の大黒堂の壁に自由に願い事を書ける。大黒堂建立にあたって受けた援助に感謝して、大黒様に願い事がよく見えるようにと始められた。白壁はさまざまな願いで埋まるが毎年末に塗り替えられる単伝庵(らくがき寺)を訪れる。 わが国航空界の先駆者である二宮忠八が、1915年(大正4)に全世界の航空殉難者の霊を慰めるために建立。忠八はライト兄弟より早く飛行機の実用化を試みたが、軍の上司に却下されたという。境内には航空関係の資料館もある飛行神社を訪れる。 緑豊かな男山の山上に立つ古社で、創建は859年(貞観元)。王城鎮護のために、平安京の裏鬼門(西南)に当たるこの地に九州から宇佐八幡を勧請したのが始まり。平安期には朝廷の崇敬を受け、のちに源氏の氏神となり頼朝らも訪れたという。現在は厄除けの神様として信仰を集める。朱塗りの社殿は徳川家光の寄進で江戸時代に再建され、本殿、外殿、楼門などすべて重要文化財に指定。動物彫刻などで装飾された豪華絢爛な造りで、桃山文化の特色を伝えている石清水八幡宮を散策する。 男山ケーブルで下山し八幡駅周囲を散策する。 17:00解散。 今回の史跡巡り、近場の京都南部の京田辺と八幡の歴史深い社寺を数箇所巡り、歴史学習出来ました。 全国各地の史跡巡りしていますがさすが関西、古都が築いた歴史建造物の多さ、さすがですね。 関西の方は近場に多くの由緒ある歴史的建造物に触れやすいので恵まれていますね。 皆さんどしどし訪れて歴史学習しましょう。 |
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京都丹波篠山&福知山&美山観光 2009年3月20日 今回は京都の丹波エリアを訪れ、篠山城を中心に栄えた城下町篠山、織田信長の弟、信包が開いた城下町柏原、明智光秀が築城した福知山城を中心とする城下町福知山、足利尊氏ゆかりの寺や私市円山古墳など歴史的みどころがある綾部、茅葺き民家が立ち並ぶ美山に足を運びました。 6:30天候曇り時々小雨、肌寒い、車で出発、近畿中国舞鶴自動車道経由して 7:30丹波篠山市到達、散策する。 1923年に建てられ約70年間にわたって旧篠山町役場として使用されてきた篠山観光の拠点、大正ロマン館を訪れる。 1609年に徳川家康の命により大阪城攻略の拠点として築城された篠山城跡散策、同時期に建てられ1944年に焼失し平成12年に再建され京都の二条城の二の丸御殿に匹敵する大きさの建物、大書院を訪れる。 江戸末期から明治初期の町並みが残された伝統的建造物群保存地区、江戸時代に篠山の商業の中心として栄えた河原町妻入商家群を散策する。 1891年築の木造建築の裁判所としては国内最古である篠山地方裁判所の建物を利用した美術館、篠山市立歴史美術館、1830年ー1844年に建てられた武家屋敷を改修して一般公開している篠山市立武家屋敷、安間家資料館、丹波焼の創成期の平安時代から江戸時代まで、約700年間に作られた丹波焼きの代表的な作品を展示する丹波古陶館、1797年創業の老舗酒蔵、ほろ酔い城下蔵鳳鳴酒蔵、酒造りの名手、杜氏の里として知られる丹波、熟練の技と経験をもつ丹波杜氏の酒造りの様子を紹介する丹波杜氏酒造記念館を訪れる。 柏原方面に向かい、織田信長直系の織田信休が造営した藩邸で国指定の史跡、柏原藩陣屋敷、柏原歴史民俗資料館に併設する1633年に柏原で生まれた女流俳人を紹介する田ステ女記念館を見学する。 旧柏原町役場近くを流れる幅6mの奥村川をまたいで橋のようになったケヤキの根、樹齢1000年以上という大ケヤキで高さ約21m、幹の直径約6mもある県指定天然記念物ケヤキの木の根、1024年京都の石清水八幡宮の別宮として創建され、柏原八幡とも呼ばれる八幡神社を訪れる。 中央分水界とは雨水が日本海と瀬戸内海のどちらに流れるかを分ける境界線のことで標高95mの日本で最も低い中央分水界に位置する水分れ公園を散策する。 徳川3代将軍家光の乳母で春日局となるお福が3歳までの幼少期に過ごしたことでも知られる興禅寺、明智光秀の丹波の攻めの時すべての堂宇が失われたが1645年に再建された石像寺を訪れる。 福知山方面に向かい、福地山は、JR山陰本線や北近畿タンゴ鉄道などの鉄道路線が交差する交通の要衝として発展、SLの巨大な動輪をはじめ、1971年(昭和46)に廃線となった北丹鉄道(福知山〜大江)の資料などを展示し、特に、2号館に展示されている蒸気機関車は必見。鉄道ファンならずとも楽しめる福知山鉄道館ポッポランドを見学。 明智光秀が織田信長の命を受けて、1579年(天正7)に築城し、現在の天守閣は1985年(昭和61)に再建されたもので、内部は明智光秀や福知山城、城下町に関する資料を展示する郷土資料館になっている福知山城を散策する。 綾部方面に向かい、直径70mの大型円墳を整備した歴史公園、1500年前の王の墓といわれる私市円山古墳公園を散策する。 1896年に綾部で創業した総合アパレルメーカー、グンゼの資料館、グンゼ博物苑を見学する。 口径95cmの反射望遠鏡を備え、気象条件に応じて随時観測を実施する綾部天文館、パオを見学する。 美山方面に向かい、夏でも冷たいミネラル分を多く含んでいる名水として知られている美山神田の水を訪れる。 1993年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された50戸の家屋のうち約半数以上が北山型の入母屋造の茅葺き民家が位置するかやぶきの里を散策し、江戸末期の建築で、約30棟の萱葺き民家が残る北地区のほぼ中央にある資料館、美山民俗資料館を見学する。 16:00帰路に向かう。 18:00大阪到達。 今回の車での近場日帰り観光は丹波エリアにある1609年に築城された篠山城を中心に栄え、妻入商家群が軒を連ね、風情あふれる町並みが今も残っている篠山、織田家ゆかりの城下町で古刹や文化財が残り歴史ある見所が多い柏原、古くから交通の要衡として栄え、明智光秀が築城した福知山城や大江山の鬼退治伝説で知られる福知山、足利尊氏ゆかりの寺や私市円山古墳など歴史的みどころがある綾部、今尚、約250棟もの茅葺き民家が残り茅葺きの町として知られ、重要伝統建造物群保存地区に設定されている美山の里を訪れ、緑豊かな自然が広がり、城下町や昔懐かしい民家など訪れてみたい魅力あふれるスポットがある丹波エリア、充実した歴史学習でした。 |
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京都長岡京跡&大原野史跡巡り 2008年12月27日 今回は784年から10年間しか続かなかった幻の都といわれている長岡京の跡地、長岡京跡、山中や山すそに見所が多い寺社が点在し四季折々の色鮮やかな花々を楽しめることが出来る京都大原野に足を運びました。 12:30車で出発 13:00学問の神様として信仰される菅原道真を祀る神社、霧島ツツジの名所としても名高く、道真が大宰府に左遷される際、名残を惜しんだといわれ、1941年に平安神宮の旧本殿を移築された長岡天満宮を訪れる。 開創は推古天皇のころといわれ、乙訓地方きっての大寺で、藤原種継暗殺事件に連座した早良親王を兄の桓武天皇が幽閉した所と知られ、幽愁の毘沙門天との異名がある像高1mの立像は国の重要文化財である己訓寺を訪れる。 幻の都といわれていた長岡京、784年から10年間しか続かなかった都の大内裏跡、桓武天皇が奈良からこの地へ都を移したが、不祥事の続出や天災のため、794年平安京に再び遷都し、大極殿跡は全国初の史跡公園に指定された長岡宮跡を散策する。 創建は奈良時代の初期、718年で桜と楓が枝を伸ばして、境内に彩りを添え、三間社流造の本殿は重要文化財で室町時代の代表的な神社建築の様式を残し、東京の明治神宮の原形とされ、市名でもある向日は東山から日が昇り西山に沈むまで陽光を浴びる土地から来ており、古くから農耕が営まれてきた肥沃なこの土地の産土神として、現在でも農家の信仰が厚い向日神社を訪れる。 大原野の西、山中に向かい、源算上人が1029年に開基し、横に枝を延ばした遊龍の松は樹齢600年を越え国の天然記念物に指定され、秋には境内の紅葉は真っ赤に染まり見事な善峯寺を訪れる。 西行法師が植えたと伝えられる西行桜で有名な古刹、天武天皇の命によって役行者が開いたのが始まりで春になると咲き乱れる数多くの桜から花の寺として親しまれている勝持寺を訪れる。 784年長岡京遷都の際、奈良の春日大社の分霊を移して創建した大原野神社を訪れる。 17:00終了。 今回の史跡巡り784年から10年間しか続かなかった幻の都といわれている長岡京の跡地、長岡京跡、山中や山すそに見所が多い寺社が点在し四季折々の色鮮やかな花々を楽しめることが出来る大原野エリアを訪れ、数多くの歴史建造物に触れ、歴史学習でき、楽しめました。 特に広々とした善峯寺の奥の院からの展望は、京都の町を一望できすばらしかった。 京都の史跡巡り、南エリアから北エリアに向かって徐々に攻めて行きます。 次回は桂から嵐山付近を攻めてみたいと思います。 |
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京都宇治&伏見&醍醐史跡巡り 2008年12月13日 今回は近場の源氏物語の舞台として名高い宇治、昔から地下水が豊富で伏水とも呼ばれる水の町、伏見、花に囲まれた華やかな寺が存する醍醐に足を運びました。 13:00車で出発、13:30宇治到達し散策する。 実物大の人形や模型、イメージ映像により光源氏や宇治十帖の世界を分かりやすく紹介し、源氏物語に関する文献、資料が揃う宇治市源氏物語ミュージアムを見学。 平等院の鎮守社、以前は隣の宇治神社と二社一体で、本殿は日本最古の神社建築であり、境内には宇治七名水の一つ、桐原水が湧き出る宇治上神社、10円硬貨に描かれ、光源氏のモデル、源融の別荘地であったとされている平等院、約1200年前に光仁天皇によって創建の三室戸寺を訪れる。 伏見に向かう。 酒造りや清酒の歴史紹介のほか、酒造用具の展示などもある月桂冠大倉記念館、河童の資料や酒造りを見学できるキザクラカッパカントリー、倒幕の武士たちが集結して、決起を企てたという寺田屋事件の舞台となった寺田屋を訪れる。 明治天皇の御陵で、東西127m、南北155mにもわたり、上円下方の形で、それぞれ3段に築成した明治天皇伏見桃山陵を散策する。 醍醐に向かう。 境内は醍醐山全域という広大な敷地を持ち、醍醐天皇の菩提を弔うために建立された五重塔などがみられる醍醐寺、小野小町の住居跡として知られている隋心院、醍醐天皇の生母、藤原胤子の菩提を弔うため900年に創建された歓修寺を訪れる。 17:00終了。 今回の旅行、源氏物語の舞台として名高く、源氏物語ゆかりの碑や古跡が数多く残り、文学好きにはたまらない宇治、昔から地下水が豊富で伏水とも呼ばれる水の町、風情あふれる酒にまつわる町を散策して楽しめる伏見、豊臣秀吉が贅を尽くして700本もの桜を移植させたといわれる醍醐寺をはじめとして、花に囲まれた華やかな寺が存する醍醐、歴史深い建造物をゆっくり散策して訪れ楽しめるエリア、満喫しました。 これから京都の歴史的スポット、大阪に近い南エリアから順に徐々に攻めて行きたいと思います。 |