神奈川

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十六弾:神奈川県お城・城下町巡り観光
2018年6月9日−10日
 

関東地方に位置し相模国と武蔵国という歴史的に極めて重要な土地を含み、鎌倉幕府はもとより、戦国時代も小田原の北条氏が強烈な存在感を示し、古都鎌倉、小田原城など、歴史散策の見どころが多数ある神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

9日 13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:35東京駅到達、タクシーで東京プリンスホテルに向かう。
16:50東京プリンスホテル到達。
17:00講演会出席。
19:30懇親会。
21:30就寝。
10日7:00タクシーで東京駅向かう。
7:15東京駅レンタカーで出発、お城巡り。

荻野山中藩陣屋:天明3年(1783年)大久保教翅によって築かれた。
荻野山中藩は小田原藩大久保氏の分家で、大久保忠朝の子教寛が徳川綱吉の小姓組番頭に取り立てられ、そこから出世して一万一千石となって駿河国松長藩として大名に列したことに始まる。
松長藩大久保氏の五代が教翅で、この教翅によって相模国愛甲郡中荻野へ陣屋が移され荻野山中藩となり、一万三千石を領した。荻野山中藩は以降、教孝、教義と続いて明治に至る。

小沢城:築城年代は定かではないが金子掃部助によって築かれたと云われる。
金子掃部助は文明9年(1477年)長尾景春の乱に呼応して小沢城に立て籠もった。刻を同じく蜂起した溝呂木城と小磯城は三浦氏らの相模勢が押し寄せるとすぐに自落したが、この小沢城は容易に落城せず二ヶ月ほど持ちこたえ、一度は落城して逃亡したものの再び立て籠もり、翌年小机城が落城するまで持ちこたえたという。

津久井城:築城年代は定かではない。鎌倉時代に筑井太郎次郎義胤が宝ヶ城に築いたのが始まりとの伝承がある。文献に登場するのは戦国時代からで、大永5年(1525年)に武田氏と小田原北条氏が戦っている。
戦国時代には内藤氏が城主で山内上杉氏の家臣であったが、後に小田原北条氏に属して「津久井衆」と呼ばれた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐では、徳川家康の家臣本田忠勝、平岩近吉らによって攻め落とされた。

岡崎城:築城年代は定かではない。 悪四郎と称される岡崎義実が岡崎城を築き居城としたと云われるが、現地の案内板を読むと、それは日本城郭体系に載る「岡崎南部方形囲郭群」を指しているようである。
無量寺周辺を縄張とする岡崎城は三浦道寸で、伊勢宗瑞と長年に渡って争ったが、永正9年(1512年)伊勢宗瑞の猛攻にあって落城した。

今井陣場:天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで徳川家康が布陣した場所である。

石垣山城:天正18年(1590年)豊臣秀吉によって築かれた。
天正18年(1590年)秀吉は小田原北条氏の討伐を開始し、伊豆国山中城などを抜いて早雲寺に本陣を構えた。秀吉は石垣山へ登って検分を済ませると築城を開始した。突貫工事で築城が行われ、完成すると小田原城側の樹木を伐採して、さも一夜にして城が築かれたように見せ、北条方の度肝を抜いた。これが一夜城と呼ばれる由縁である。
北条氏は一夜城が完成すると間もなく降伏し、北条氏政・氏照らは切腹、北条氏直・氏規らは高野山へと送られた。

土肥城:平安時代末期に土肥氏の城と伝えられる。
現在の遺構は戦国時代に小田原北条氏によるものと推測されている。

鷹ノ巣城:関東へ行くには、足柄峠を越える道と箱根を越える道が存在し足柄峠への道には足柄城をそして箱根には鷹之巣城をおいた。 海抜800メートル以上の所にある。箱根などの城は番城(本城の直属の城で城主をおかないこと)であり、鷹之巣城もその一つだった。 天正18年(1590年)の小田原征伐においては徳川家康に攻められ3月29日に落城しその後家康は本陣としたが、今井陣屋に移ったことで廃城になった。

足柄城:足柄城(あしがらじょう)は、静岡県と神奈川県の県境である「足柄峠」付近にある北条家が築城した城です。
最初は小田原城主・北条氏綱が1536年に足柄城を築城したようですが、1555年には北条氏康が、三田郷(厚木市)の百姓に命じて、足柄城改修の普請人足を命じた古文書も発見されています。
更に、甲斐の武田信玄と手切れとなると、足柄古道の防衛が重要となり、1569年から1571年に掛けても石切衆十人を動員して大規模な改修を行っています。
1571年、武田勢によって駿河・深沢城が陥落すると北条綱成が足柄城へ退却したのち、玉縄城まで撤退しました。

河村城:築城年代は定かではないが南北朝時代に河村秀高によって築かれたと云われる。
文和元年・正平7年(1352年)南朝方の河村一族は、新田義興等の軍勢とともに河村城に籠城して、北朝方の畠山国清等と対峙した。城は難攻不落であったが、翌年南原の戦いで南朝方は惨敗を喫して河村一族の多くが討死し、新田義興は越後国へ逃れた。
戦国時代末期には小田原北条氏の属城となっていたが、小田原征伐によって北条氏が滅亡すると廃城となった。

16:00終了、東京駅に向かう。
17:30東京駅到達。
18:00東京駅新幹線のぞみで出発
20:37新大阪駅到達。

今回の旅行関東地方の神奈川県に足を運び、神奈川県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。
平城は城址公園に変貌、山城は案内板のみで地味でした。
今回も地味な城跡巡りでした。














 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十二弾:神奈川県お城・城下町巡り観光
2016年6月18日ー19日
 

関東地方の相模国と武蔵国という「歴史的に極めて重要な土地を含み、鎌倉幕府はもとより、戦国時代も小田原の北条氏が強烈な存在感を示し、古都鎌倉、小田原城など、歴史散策の見どころが多数ある神奈川県に足を運び、点在するお城・城跡10か所を訪れました。 

18日13:50新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:40東京駅到達、タクシーで赤坂のホテルに向かう。
17:00赤坂のホテル到達
17:30品川の新高輪プリンスホテルに向かう。
17:50新高輪プリンスホテル到着
18:00講演会出席
20:00講演会終了、懇親会。
21:00赤坂のホテルに向かう。就寝。
19日8:00レンタカーで神奈川県内お城を巡る。

衣笠城:衣笠城(きぬがさ★★神奈川県横須賀市衣笠町、標高102m、比高80m。)は大谷戸川と深山川に挟まれた半島状の丘陵に位置する。
康平年間(1058-1064)三浦為通によって築城されたといわれ、以後為継・義継・義明の四代にわたり三浦半島経営の中心地であった。
治承四年(1180)八月源頼朝の旗揚げに呼応して、この城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、いわゆる衣笠合戦として名高い。この位置は衣笠城の大手口で、坂を登って滝不動に達する。居館はその附近にあったかと推定され、一段上に不動堂と別当大善寺がある。さらに、その裏山に金峯山蔵王権現を祀った社が存在した。また、その西方の最も高い場所が、この城の詰の場所であったと伝えられている(『横須賀市資料』)。
宝治元年(1247)北条氏によって三浦泰村一族が滅亡し、佐原氏が継承した以後廃城になったとみられている(『日本城郭大系』)。
現在の遺構は削平地以外に明確ではないが、なるほど城郭に適した立地、地形をなしている。
物見に使われたという巨石があり、その下から武器などが出土したという。城址は「衣笠山公園」ではないので注意したい。横浜横須賀道路衣笠ICを出て、坂口集落に進み、大善寺を目指すとよい。

新井城:三浦一族滅亡の地で、面積約128ヘクタール。相模湾に突き出た小半島に位置し、小綱代湾と油壺湾に挟まれて、三方をいずれも海で囲まれ、切り立った断崖である。陸地に通ずる路は、北方約3キロの大手の引き橋で、この橋を切って落とせばどこからも攻め込まれないようになっていた。引き橋は後に地名になったが、ここで北条軍は橋を引かれて渡ることが出来ず、三浦勢に時を稼がれたという。現在は関東大地震による隆起で、往時の面影は薄らいでいるが、当時としては大軍をもっても攻めがたく、わずかの手兵で三年間も持ちこたえた。いずれにしても室町期の居館としての新井城の名残りは、本丸を中心にめぐらされている空堀に往時を偲ぶことができる(『三浦市・現地説明板』)。
築城年代は不明だが、衣笠城を本拠とした三浦氏が滅亡すると、それを継承した佐原氏の拠点として築かれたようである(『三浦半島城郭史』)。明応三年(1494)には、城主・三浦時高と養子・三浦義同の内訌で落城して三浦義同が奪取、彼は一時大田道灌に従ったが、その後、山内上杉氏に属している。戦国期に至った永正九年(1512)から同十三年に亘って、北条早雲と三浦氏はこの城で攻防を繰り広げている。早雲は新井城を力攻めで落とすことができず、持久戦となり、玉縄城を築いて武蔵方面の援軍を断ち切った。兵糧尽きた三浦義同は子・義意と共に城門を開いて打って出て、華々しく討死を遂げ、一族は滅亡した
城址は、ほとんどが東京大学の敷地になり関係者以外は立ち入ることができないが、ハイキングコースから傍観することができ、大規模な空堀と土塁を確認できる。おそらく後北条氏時代の遺構であろうが、周辺は断崖で、その要害ぶりを垣間見る。また近く「内の引き橋」と呼ばれる堀切が配され、さらに3q離れた所に「引き橋」という地名がある。ここまで城域なのかは躊躇するが、三浦半島の城址としては最も優れた史跡であろう。なお「油壺」の由来は滅亡時に三浦一族が投身し、湾が血で覆われたことによるという。

鎌倉城:鎌倉時代、源頼朝の築城。彼が鎌倉に幕府を開いたのは、源氏ゆかりの地であり、三方を馬蹄形の連丘に囲まれた理想的な都城の地形であったことによる。鎌倉城の範囲は広大で、稲村ヶ崎から飯島崎までに連なる丘陵に囲まれ、南は相模湾に面している。また、七ヶ所の切通しを作って出入口とし、防御度を増させている。
鎌倉城での戦いは3回あり、正慶二年(1333)新田義貞によって攻められ、北条高時以下は自刃して幕府は滅亡している。建武(1337)北畠顕家らが攻め込み、杉本城とともに落城。最後は、文和元年(1351)新田義興らが初代鎌倉公方・足利基氏を攻め込み、落城している。
以上の合戦ではいずれも守備側の敗北に終わり、その後、南北朝時代に至ると要害性が失われ、鎌倉城をめぐる攻防戦は行われなくなった(『日本城郭大系』)。
永禄四年(1561)長尾景虎が、上杉憲政から、鶴岡八幡宮にて上杉姓と関東管領職を譲られたのは有名な話である。

玉縄城:甘縄城とも。標高71m、比高45m。
永正九年(1512)北条早雲(伊勢新九郎長氏)築城。当時小田原城にいた早雲は、関八州制覇の過程で、三浦半島の新井城を本拠とする三浦義同と衝突、三浦半島の基部であり交通の要衝であったこの地に向城を築いた。永正十三(1516)新井城に兵糧を送ろうとした上杉朝興の軍勢を早雲は玉縄城の北方に陣取って対抗、まもなく新井城は落城した(『北条五代記』)。
大永六年(1526)二代当主・北条氏綱の弟・氏時が城主となり、房州国・里見氏が鎌倉に乱入した際、彼は玉縄城を背に、戸部川(現・柏尾川)で防戦した。氏時歿後は猛将・北条綱成が城主になる。
永禄四年(1561)上杉景虎(謙信)の小田原城攻撃の帰路、鶴岡八幡宮へ拝賀し管領就任を披露すべく鎌倉へ立ち寄った際に玉縄城は囲まれたが、城主・綱成は不在だったもののその長子・氏繁がよく守ったので越後へ引き上げた。
永禄十二年(1569)武田信玄の小田原攻めの時は、藤沢のおんべ山砦(大谷城)を落としたものの玉縄城は素通りしている(『北条記』)。これは上杉謙信でも落とせなかった堅城ぶりを信玄がよく理解していたからだとされる(『日本城郭大系』)。
綱成の引退後は氏繁が城主となり、天正六年(1578)氏繁が歿するとその子・氏勝が城主となった。天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めのとき、氏勝は山中城へ援軍したが、大軍の前に落城。恥辱を感じた氏勝は、当主・氏政が小田原城に篭城するよう命じたが、「玉縄城を枕にして討死すべし」と答えて玉縄城に籠城。頑強に抵抗したが、徳川家康の策によって、氏勝の叔父である大応寺住職・了達を通して説得し、開城となった。その後、本多正信、水野正忠などが入城したが、元録十六年(1703)に廃城(『日本城郭大系』)。
城は大規模な山城で、後北条氏系城郭有数の堅牢ぶりであったが、本丸跡には清泉女学院が建ち、また周囲も新興住宅地と変貌した。「諏訪壇」など、ところどころに遺構が残ってはいるようだが、細かく散策できない状況である。昭和三十年代の航空写真を見るに、本当に残念なことである。

大庭城:標高42.8mの大規模な平山城。東方を引地川、西方を小糸川に挟まれた要害の地にある。
成立年代は不明で、室町時代後半に相模国で威勢を誇った扇谷上杉氏の拠点されている。明応八年(1499)には、「一人大庭堅其塁、大庭氏館、此去不遠」と記され(『玉隠和尚語録』)、扇谷上杉氏の「一人」が大庭城で守りを固め、大庭氏の居館はその近くにあったことが分かる。(大庭氏館は大庭城址南西の城(たて)にあったと考えられている。)また、その家宰・太田道灌の勢力が及んでいたようでもある。
戦国時代、永正九年(1512)に北条早雲は鎌倉入りしており(『快元僧都記』)、すでに藤沢一帯も後北条氏が領していたとされる。しかし、戦国期の史料も少なく、福島左衛門という人物が城主であったらしい(『小田原衆所領役帳』)ことを知るのみである。
従来、大庭城は玉縄城の支城とされ、後北条氏時代には廃城になっていたともされるが、出土した遺構や城の規模から、後北条氏によって改修された可能性が高い(『日本城郭大系』)。
城址は、かつて約南北800m、東西250の台地の全域を城域とし、北に駒寄・二番構、東に門先、西に裏門・城下などの地名が残ることから、周辺にも城に関連する施設や大規模な城下が存在していたとされる。 しかし1970年代ニュータウン化で北側が宅地化され、現在は南部の450mほどが城址公園として名残りをとどめている。
広大な大庭城址公園だが、意外にも良好に遺構が残存している。現在四つの大郭に、馬出しのような小郭、腰郭、大規模な空堀、土塁などが散見され、城好きには是非とも藪の中に進入して確認されたい。

深見城:境川に面した台地上に築かれている。北側から東側は切り立った急崖となっており、境川との比高は15m程度で、天然の要害を形成している。西側は天竺坂の大規模な掘割り、そして南側は平坦地形を加工して曲折を多用した二重の堀と、土塁構造が密接に連携した東西2つの虎口(門・出入り口)などを構築し、要害地形を形成している。その縄張りは構造は歴史遺構上、高い価値を持つもので、発掘調査の成果から、利用は14世紀末頃より16世紀末頃までの年代幅の中にあることが分かっている。一方、現存する城址の構造をみると、軍学による城制に整合することから、16世紀戦国時代の遺構であると思われ。
一説に、享徳四年(1452)頃、山田伊賀守経光が城主であったという(『新編相模国風土記稿』)が、この人物の詳しいことは分かっていない。
ほとんど手付かずで保存されたようで、遺構がよく確認できる。また、戦国末期の後北条氏の改修と思われ、屈折した空堀を多用した注目に値する城郭である。主郭にふたつの虎口があるのは珍しい。その分、防御力は下がるだろう。また、主郭を巻く二重の空堀の外には、これといった城塞設備が見られない。したがって南側の防御力が薄くなっているが、これは軍事的な城郭として構築されたのではなく、武将の居館を主な目的とされたからではないだろうか。


桝形山城:室町時代の築城で比高57mの山城。その起源は源頼朝の重臣である稲毛氏が枡形山山腹の居館の詰め城として築城したものであったという。鎌倉の北方を防御する山城として重要視された。
その後、北条早雲が関東進出中の永正元年(1504)、今川氏親とともに扇谷上杉朝良に味方した際、この枡形山に布陣した。また後北条氏が関東に勢力を拡大し、江戸城を包囲した時にもこの枡形山が改修されたようである。一説に、永禄12年(1569)、甲斐の武田信玄が後北条氏の小田原城を攻撃した際にこの近くを通過したが、この際にも後北条氏の一拠点として横山弘成という武将が守っていたという。
現在は生田緑地の一角としてハイキングコースにもなっている。城址である頂上部は非常に広大で、展望も抜群である。城としての遺構は認められないものの、すこぶる築城に向いた都心に稀有な地形であり、周囲は切り立った地形であることから特段の防御施設はもともと無かったのかもしれない。

茅ヶ崎城:標高32m、比高20m。200m×100mの山城で、郭・土塁・空堀・虎口が良好に残る。
室町中期以前の上杉氏か、上杉氏に替わって相模を支配した後北条氏による築城でないかという。小机城から約4キロほどの近距離であり、戦国時代にはその支城として重要な役割を果たしていたとされる。。
小机衆のひとりでこの周辺を領していた座間氏が城代に入ったといわれる。後北条氏の勢力が鶴見川流域から早淵川周辺に拡大する中で利用・改修されたと思われる。相模統治が確立し、その勢力が関東一帯に広がるにつれ茅ヶ崎城の重要性は薄れ、大きな改造がなされないまま廃城を迎えたとされている。よって現在残る遺構は後北条時代中期のままなのであろう。
遺構は大変保存度が良い。ただ、小机城と比較すると、空堀はやや小さく、本格的な虎口も見られないことから、小机城よりも早い時期(後北条氏前期)に築城され、その後、大きな改築もなかったものとされている(『日本城郭大系』)。
城址は小高い山全体が要塞化されたもの。しかし、近く公園化の計画もあるようで、重機が荒らした痕跡も見られた。今後の行方が心配である。

小机城:飯田城、根古屋城とも。標高42m、比高22m。築城年代築城者不明だが、室町時代・豪族小机氏が築いた館が発祥ともいう。
城郭としての初見は文明八年(1476)長尾景春の乱で、城主・矢野兵庫助は景春方に味方した。一方、上杉氏配下の太田道灌は、豊島泰経を江古田原の合戦で破り、平塚城、石神井城を落とし豊島氏残党と笠原、小机、矢島氏が籠城する小机城を文明十年(1478)一月に攻撃する。この時、泰経は小机城に逃れていたという。この合戦で道灌としては珍しく2ヶ月という長い期間をかけたらしいが、鶴見川を挟んだ対岸に亀之甲山陣城を敷いて攻め落としたという(『太田道灌状』)。また道灌は「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と詠じて士気を鼓舞したとの伝説もある。
その後廃城となっていたが、戦国時代・後北条氏時代には小机城が重視され、「小机衆」という軍団が組織し、城代に笠原信為を入れて大改修を実施した。また氏康の子である三郎氏秀が城主になるなど関東進出の前線拠点であった。
天正十八年(1590)豊臣秀吉との小田原城合戦では、小机城は笠原虎千代が守備していたが、豊臣軍の攻撃を受けることなく後北条氏が降伏したので、実際に戦いはなかった。徳川家康の関東入封によって小机城は廃城となった。
遺構保存度の芳しくない神奈川県にあっては、全国に誇れる中世城郭である。このような本格的な城郭が新横浜のスタジアムが望める都会に残っているとは驚き。

神奈川台場:慶長十五年(1610)造立。寛永十一年(1633)守殿造営(『新編武蔵国風土記稿』『日本城郭大系』)。
神奈川県には、徳川将軍が鷹狩りや遠出の際に宿泊する施設として、いくつかの御殿が築かれた。(他に中原御殿、藤沢御殿、小杉御殿など)
神奈川御殿も周辺には土塁や空掘を設けて要塞化し、家臣屋敷などが立ち並んでいたと思われる。伝承によれば、「成仏寺」の敷地を徳川家が召し上げて御殿を造営したという。
横浜市神奈川区神奈川本町、「成仏寺」の北側、JR横浜線と京急本線の間の地域が跡地とされるが、他の御殿と同様に遺構は何ら残っていない。近く「仲木戸」という駅名が城塞のあったことをわずかに偲ばせる。

17:00東京駅に向かう。
18:00東京駅到達。
18:10東京駅新幹線のぞみで出発
20:35新大阪駅到達。

今回の旅行、神奈川県に点在するお城10か所をめぐり楽しみました。
大都会の神奈川県、信号・踏切・車の多く渋滞に何度も巻き込まれ移動に時間かかりましたが何とか10か所のお城をめぐることができました。

今回の城跡、数か所の城址公園に変貌している箇所以外はめだった城跡は存在せず、大半が地味なものであり見つけるのが苦労を要しました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百五十七弾:神奈川県箱根観光
2011年8月27−28日


静岡県に近い神奈川県南西部の一角、箱根カルデラ近辺の一帯を指し、古来東海道の要衝であり、「天下の険」と謳われた難所箱根峠のふもとには宿場や関所が置かれた。近代以降は保養地・観光地として発展。各所に湧く温泉や、芦ノ湖、大涌谷、仙石原などがとりわけ有名であり、1936年に「富士箱根国立公園」(現・富士箱根伊豆国立公園)に指定されている箱根に足を運び、北条氏が隆盛を極めた城下町小田原、歴史と文学薫り立つ箱根の玄関口箱根湯本、レトロな町並みで多彩な温泉の宮ノ下・小涌谷、箱根きっての高級別荘地とほんわか小さな温泉場、強羅・宮城野、穏やかな湖畔から噴煙立ち上がる景勝地大涌谷・桃源台・湖尻、箱根のシンボル芦ノ湖、かつての街道の歴史に思いをはせる旧街道、畑宿・芦之湯、自然&芸術、美に酔いしれるアートなエリア仙石原を訪れました。

27日13:40新幹線ひかりで出発、三島でこだまに乗り換え
16:40小田原到達、レンタカーで小田原観光。

小田原のシンボル・小田原城天守閣がそびえる、石垣と堀に囲まれた公園。園内には、常盤木門や隅櫓、銅門のほか、遊園地などが点在する小田原城址公園を散策する。

小田原城址公園にあり、1960年(昭和35)に復興。3層4階建ての内部には、鎧や刀剣、小田原提灯などが並ぶ展示室と、三浦半島などを望む展望室がある小田原城天守閣[小田原城址公園]を訪れる。

北村透谷、北原白秋、尾崎一雄など、小田原ゆかりの文学者たちの原稿や初版本などを展示。隣接の白秋童謡館では、白秋の直筆原稿などの資料を展示している。文学館・童謡館ともに、建物は元宮内大臣田中光顕の別邸を利用の小田原文学館の前で記念撮影。

地球の誕生や仕組み、46億年の歴史など、地球について楽しく学べる博物館。恐竜の骨格標本や化石、いん石など多彩な展示品は約1万点にも及ぶ神奈川県立生命の星・地球博物館の前で記念撮影。

小田原の約7km北東に広がる中河原梅林、原梅林、別所梅林の3つの梅林の総称。箱根連山や富士山を背景に3万5000本の梅が花を咲かせる2月には梅祭が開催され、流鏑馬や小田原ちょうちん踊りなどが披露される。周辺にはみどころも多く、子宝や縁結びに御利益がある瑞雲寺、曽我兄弟の菩提寺で毎年5月28日に傘焼まつりが行われる城前寺、旧六ケ村の総鎮守宗我神社などがあり、これらのスポットを結ぶ散策路も整備されている曽我梅林を訪れる。

18:30小田原市内のホテル到着、市街地を散策し食事を済ませて就寝。

28日5:00レンタカーで出発、湯河原方面に向かう。

『十津川警部シリーズ』の著者として知られる西村京太郎氏。館内には約500冊もの著書や生原稿、鉄道ジオラマを展示している西村京太郎記念館の前で記念撮影。

温泉街に立つ赤レンガ造りの小さな美術館で、晩年、静養のため湯河原で過ごした日本画家の竹内栖鳳、洋画家の安井會太郎、美人画で有名な伊東深水など、湯河原にゆかりの深い画家の作品を収集・展示している。また、平松礼二館を併設し、常時約20点の作品を展示。日本庭園では、フランス・モネ財団から平松氏に贈られた「モネの睡蓮」を育成中の町立湯河原美術館の前で記念撮影。

箱根町・芦ノ湖方面に向かう。

湖面に富士山や外輪山の陰を落とす芦ノ湖。この湖は箱根の代表的な観光スポットの一つ。湖上では遊覧船をはじめ、ボート遊びが楽しめ、ブラックバスなどの大物釣りにも挑戦できる芦ノ湖を訪れる。

年始の風物詩として毎年100万人近い観衆で賑わう箱根駅伝。その感動を伝えるミュージアム。数々の名場面の写真や、タスキ、トロフィーなど貴重な展示が並ぶ箱根駅伝ミュージアムの前で記念撮影。

箱根の関所は1619年(元和5)、徳川幕府によって西国に対する江戸の防備と治安を守るために設けられた。江戸に在住の諸藩の大名や奥方など、女性の江戸退出に対する取締りが厳しく行われた。2007年春、大番所・上番休息所、京口御門、厩が完全復元され、調度品などが公開されている箱根関所を訪れる。

通行手形・古代道中絵図など、関所に関する資料約1000点を展示。「関を出入る輩笠頭巾をとらせ通すべき」など関所通過の心得を示した高札や、刺股、袖搦み、突棒など関所破りを防ぐための武具、旅人を威圧するために関所詰所に掲げてあったおどし面などがある。箱根関所が「出女」を厳しく取り締まったことを示す女性の通行手形には、髪型から足の裏の灸の跡まで、詳細に書かれていて興味深い箱根関所資料館の前で記念撮影。

芦ノ湖に突き出した塔ケ島にある、敷地面積約16万平方mに及ぶ公園。園内には桜・アジサイ・モミジなどが植えられ、四季折々の風情が感じられる。皇族の避暑や外国からの賓客のための離宮跡地で、公園中央には明治の西洋建築を模した湖畔展望館がある。館内には明治時代に建てられ、関東大震災で倒壊した離宮の設計計画や模型を展示する恩賜箱根公園を散策する。

元箱根から恩賜箱根公園まで約500m続く、箱根旧街道の杉並木。1618年(元和4)、幕命によって川越城主・松平正綱が植林。409本もの杉が連なり、夏の強い日差しや冬の寒風から旅人を守った。樹齢は390年ほどで、なかには幹回り4mの大木も。滝廉太郎の『箱根八里』に「昼なお暗き」と歌われた。杉並木の間から芦ノ湖に映る、さかさ富士も見どころの一つの旧街道杉並木を訪れる。

元箱根・畑宿・芦之湯・箱根園方面に向かう。

現代日本画を代表する画家たちの作品を集めた美術館。平山郁夫をはじめ、加山又造、山本丘人らの作品を展示している。収蔵点数は4000点余。うち80〜100点を展示し、3カ月に1回の割合で展示替えをするほか、特別企画展も開催される。ティーラウンジや展望室があり、大きな窓の向こうには芦ノ湖や富士山が見渡せる成川美術館の前で記念撮影。

エッセイスト、画家、ワイナリーオーナーなど多彩に活躍する玉村豊男氏の作品を展示する個人ミュージアム。長野県東御市の農園ヴィラデストで栽培されたブドウや野菜、草花、パリの街に暮らす人々の情景をモチーフに描いた水彩画が展示されている。版画のコーナーではインテリアにも適した作品に出会うことができ、その場で購入も可能の玉村豊男 ライフ アート ミュージアムの前で記念撮影。

見晴し茶屋から畑宿に向かう県道の途中にあるつづら折りの急坂。江戸時代にはまっすぐな急坂のかしの木坂を登る難所として知られていた。春は沿道の桜がみごろとなる七曲がりを通過する。

腰付き弁当や袖合羽、山駕篭など江戸時代の旅の装束や道具などを展示している。特に、甘酒茶屋の赤穂浪士討ち入りにまつわるエピソードを再現するコーナーは必見。赤穂浪士の神崎与五郎が甘酒茶屋で休憩中、馬喰に因縁をつけられたが、討ち入りを前に騒ぎは起こせず、詫証文を書いたというもの。箱根八里のイラストパネルや江戸時代の旅用品などを紹介するコーナーもある箱根旧街道資料館を訪れる。

畑宿から守源寺に向かう宙吊り石畳の路傍に立ち、江戸から23里目を示す道標。一里塚は江戸幕府が旅人のために目印として1里(約4km)おきに設けたもので、関東では戸塚とここに残るのみの畑宿一里塚を訪れる。

箱根の伝統工芸品、寄木細工は、江戸時代後期に畑宿で考案されたもの。寄木会館は、寄木細工をより多くの人に知ってもらうために建てられた施設。職人による実演が見られるほか、寄木細工に使う道具も展示されている畑宿寄木会館を訪れる。

江戸時代半ばに薬師堂に設けられた茶室。当時の文化サロンで、賀茂真淵、本居宣長などが集まり歌を詠んだ。1871年(明治4)に焼失したが、2001年に復元された。賀茂真淵らの歌碑も残る東光庵熊野権現旧跡を訪れる。

757年(天平宝字元)、神託により、万巻上人が現在の地に里宮として創建。古来、関東総鎮守箱根大権現として尊崇され、交通安全・心願成就・開運厄除に神徳の高い神として信仰される。本殿は朱塗りの権現造。曽我神社、九頭龍神社、恵比寿社などの摂末社も祀られている。宝物殿では、万巻上人坐像や鉄湯釜、浴堂釜、箱根権現縁起絵巻などを常設展示。裏山のヒメシャラの純林(県特別記念物)は、6月下〜7月下旬に可憐な花を咲かせる箱根神社を訪れる。

周囲500mの小さな池で、背後に駒ケ岳を控え樹木に囲まれて深い緑色の水を湛える。湯治に訪れていた男が娘に身を変えた大蛇との約束を破り、池の中に引きずり込まれ命を落としたという伝説が残る。この池から先は鎌倉時代の箱根越えの難所で、極楽浄土と地獄の分かれ道といわれていたという。このため、周辺には旅人が道中の無事を祈ったという石仏が多く残されている精進池を訪れる。

芦之湯史跡探勝歩道の途中にある。3つの五輪塔のうち、左の2つが曽我兄弟の墓(重要文化財)、右が兄・十郎の妻・虎御前の墓(重要文化財)といわれている。しかし、右の塔には永仁3年(1295)12月と刻まれているため、鎌倉後期に地蔵信仰の一つとして建てられたものともいわれる曽我兄弟の墓を訪れる。

淡水魚と海水魚の2つの水族館と、子供たちに人気のバイカルアザラシ広場がある。淡水館には体長2mにもなるというアラパイマや、生きている化石といわれるプロトプテレスなど珍しい淡水魚150種2000匹が飼育されている。海水館には幅17m、奥行き11m、深さ7mの魚類大水槽があり、タカサゴやヨスジフエダイなど約2万匹の海水魚を鑑賞できる。ペンギンやタカアシガニなどもいる箱根園水族館[箱根園]の前で記念撮影。

箱根火山の最後の活動で誕生した山。箱根火山の中央火口丘の一つで、下から見上げると丸みをもった穏やかな山容だ。標高はそれ程高くないが、山頂付近は風が強く、灌木や笹に覆われた茅戸状態。展望台もあり、芦ノ湖をはじめ箱根外輪山、富士山、駿河湾などが見渡せる。山頂からは北にそびえる神山を経て、早雲山に至るハイキングコースもある。富士山を仰ぎ見ながら、ブナやアセビ、ヒメシャラなどが茂る散策道を行く約2時間のコース。ロープウェーを利用し、車窓の景色を楽しみながら手軽に山頂を目指すのもよい駒ケ岳をロープウエイで登る。

芦ノ湖スカイラインの走行し御殿場方面に向かう。

芦ノ湖の西岸の稜線を箱根峠から湖尻まで走り抜ける全長10.7kmの有料道路。標高850〜1100mにあり、富士山をはじめ芦ノ湖、駿河湾などが望める。特に三国展望台からの眺めがいい。眼下に芦ノ湖、目の前に駒ケ岳、その裾野に箱根園が横たわる。後方には、三島・沼津市の彼方に駿河湾、晴れた日には北西に大きく裾野を広げた雄大な富士山がみられる芦ノ湖スカイラインを通過する。

芦ノ湖西岸を長尾峠から湖尻峠まで南北に走る全長5kmのドライブウェイ。東名御殿場IC・箱根仙石原から箱根・伊豆方面へのアクセス道路。料金所の御殿場側手前左側の駐車場からは富士山と愛鷹山の雄大な景観が見渡せ、料金所から南へ2.5km先の駐車場の箱根芦ノ湖展望台からは、眼下に芦ノ湖が大きく横たわる箱根スカイラインを通過する。

秩父宮同妃両殿下の別邸跡地を整備した公園。春は梅や枝垂れ桜、夏はフヨウやサルスベリ、秋はキンモクセイなど、季節ごとの花が楽しめると地元でも人気。築280年以上の重厚感あふれる茅葺きの記念館では、両殿下のご愛用品などが展示されている秩父宮記念公園前で記念撮影。

乙女峠への道の途中、高台に広がる公園で、白亜の仏舎利塔がひときわ目を引く。塔の前には金色の、なでかんのん像や狛犬が立つほか、富士を望む展望台や林間の遊歩道も整備されている。桜、ツツジの名所で、開花期は見事の平和公園を訪れる。

富士山の爆発とともにできた溶岩洞穴のひとつで、総延長409mと規模も富士山麓では最大級。入口部分は天井まで20mもある広々としたホール状。天井の肋骨を思わせる溶岩流の跡や、千畳敷広場などがあり興味深い駒門風穴を訪れる。

足柄山の金太郎で親しまれている坂田金時の生家跡に、金時を祭神として建立されたもの。背後の小山一帯が金時公園として整備されており、金時の産湯として使ったちょろり七滝、第六天社などがある。境内入口に立つ、大きなまさかりがユーモラスの金時神社を訪れる。

仙石原方面に向かう。

フランスを代表する装飾美術工芸家、ルネラリックの生涯にわたる作品を一堂に集めた貴重な展示の数々を、箱根の豊かな自然の中で堪能できる。美術館棟、レストラン棟、ショッピング棟からなり、さまざまな楽しみ方ができるミュージアム箱根ラリック美術館の前で記念撮影。

武家文化を今に伝える美術館で、室町時代〜江戸時代末期にかけての甲冑・武具・浮世絵・美人画など300点を展示。収蔵品は1000点を数え、特別展も開かれる。鎧・兜の試着体験コーナーでは、戦国武将の気分が味わえる箱根武士の里美術館の前で記念撮影。

箱根仙石原湿原の植物群落の保護を兼ねて開園。湿原をはじめ、川・湖沼などの水湿地に生育する植物を中心に集められている。日本各地の湿地帯植物200種のほか、草原や林、高山植物1100種、外国の珍しい山草も含めると1700種にも及ぶ。園内には木道の散策路が設けられ、一周約40分。春は水芭蕉、初夏はカキツバタ、夏はノハナショウブ、秋は紅葉と季節ごとに楽しめる箱根湿生花園を訪れる。

名作『星の王子さま』の世界と、作者サン=テグジュペリの生涯に触れられるミュージアム。敷地内の広場や通りには物語の登場人物の名が付けられ、作者が生まれたというリヨンの街並みも再現。展示ホールでは、手紙や写真などの愛用品を公開している星の王子さまミュージアム 箱根サン=テグジュペリの前で記念撮影。

15〜18世紀のヴェネチアングラスを中心に展示する美術館。ロスチャイルド家に伝わるゴブレットやイタリア・メディチ家の紋章が入ったコンポートなど繊細な美しさに満ちた作品約620点を収蔵、約100点を公開している。水の都ヴェネチアをイメージした庭園にあるカフェでは、時間によって生のカンツォーネも楽しめる箱根ガラスの森の前で記念撮影。

仙石原の中央にそびえる台ケ岳の北西麓一帯は、9月下旬〜10月中旬にかけて秋の箱根の風景を代表するススキの草原が広がり、多くの観光客が訪れる。小道を辿って高台に登ると、ススキの原が一望のもと。3月中旬には、春の訪れを告げる山焼きも行われる。「かながわの景勝50選」に選定の仙石原高原のススキを走行する。

桃源台・湖尻方面に向かう。

約300年の歴史を誇り、ヨーロッパ磁器の最高峰として知られるマイセン窯の作品を約1000点所蔵し、その中から常時約300点展示、色遣いや造形の美しい人形や動物の置物。特に子供のかわいらしい表情や、ドレスのラインなど極め細やかな作りに注目したい。また、庭園内には、英国直輸入の紅茶をマイセンの器で飲める「カフェ・マルコリーニ」がある箱根マイセン庭園美術館の前で記念撮影。

大涌谷方面に向かう。

冠ケ岳の北中腹に広がる。約3000年前に神山の斜面が爆発したときの爆裂火口跡で、今も大地から噴煙が立ち上る。明治になるまでは大地獄といわれ、人々に恐れられていた。現在では一年を通して多くの観光客で賑わう観光地となっている。南西の岩場には閻魔台、北東にはここで涌いた水を温め、強羅や仙石方面へ湯を送っている地獄沢という噴気帯が点在している。どちらも立ち入り禁止だが、閻魔台周辺へは大涌谷自然研究路が通じている。箱根ロープウェイの車窓からは噴煙をあげる地獄沢の光景を見ることができる大涌谷に向かうが渋滞がひどく断念。

宮ノ下・小涌谷・強羅方面に向かう。

ポーラ・オルビスグループのコレクションを展示する美術館。モネやルノワールなど印象派の絵画を中心に、西洋絵画や日本の洋画、日本画、版画、彫刻、東洋陶磁、ガラス工芸、東西の化粧道具など約9500点を収蔵のポーラ美術館を見学。

箱根生まれの写真家・遠藤桂氏の私設美術館。時間や気象条件によってガラリと表情を変える、神秘的な富士山の写真を常設展示。2階では国内外の写真家の企画展や特別展を開催する箱根写真美術館の前で記念撮影。

早雲山の中腹に広がるフランス式整型庭園。噴水を中心に左右対称に造園され、バラやシャクナゲなどの花と緑の木々が調和している。開園は1914年(大正3)。熱帯植物館や茶室などがある箱根強羅公園を訪れる。

1952年(昭和27)、東洋美術の収集につとめた岡田茂吉氏が設立。常滑・瀬戸・信楽・丹波・備前・越前など日本の六古窯の中世陶器や鍋島・伊万里、仁清、乾山など、江戸時代までの日本の古陶磁や中国陶磁などのやきものを中心に約150点を展示している。建物は苔庭や萩の道、竹庭の日本庭園に囲まれ、四季折々の景観も見事の箱根美術館の前で記念撮影。

1969年(昭和44)開館で、野外美術館としては日本の草分け的存在。広々として気持ちのよい緑の芝生の上には、オーギュスト・ロダンやヘンリー・ムーアなどが制作した彫刻作品120余点が展示されている。約7万平方メートルの起伏に富んだ敷地内には、子供が中に入って遊べるような屋外展示作品、ピカソ館や緑陰ギャラリーなどの屋内展示場が点在し、みどころ満載。レストランやショップのほか、一度に30人が作品を鑑賞しながら入れる長さ20mの足湯「ほっとふっと」もある彫刻の森美術館を訪れる。

彫刻の森美術館の展示場。100点以上の彫刻作品が点在する。一番の見どころは、ヘンリー・ムーア・コレクション。20世紀を代表する彫刻家である彼の代表的な作品、『横たわる像:アーチ状の足』『母と子:台座』などを公開。「彫刻を鑑賞するのには野外以上にふさわしいものはない」と語ったムーアの作品は、緑の中でひときわその存在感を示し、見応え充分。ニキ・ド・サン・ファールの『ミス・ブラック・パワー』には圧倒される。なかでもガブリエル・ロアール作のステンドグラスのタワー『幸せをよぶシンフォニー彫刻』は内側から見る光の反射が見事の屋外展示場[彫刻の森美術館]を訪れる。

彫刻の森美術館内にあり、約300点を所蔵しているパブロ・ピカソの作品から、彼の娘マヤ・ピカソから譲り受けた陶器作品を中心に、油絵、素描、版画、タピストリー、銀製コンポート、色ガラスを組み合わせたジェマイユなど、多彩な作品を常設するピカソ館[彫刻の森美術館]を見学。

1883年(明治16)創業の三河屋旅館が所有する、6万6000平方mの庭園。ツツジの名所として知られる。初代当主・榎本恭三が、大正初期に東京の大久保からツツジを移植したのがはじまり。毎年4月下旬〜5月中旬、サツキ・ミヤマキリシマ・ヤマツツジなど約40種類約3万株の花が開花。秋の紅葉も美しい蓬莱園を訪れる。

箱根湯本方面に向かう。

大輪の花を咲かせるスタンドタイプ、天井から吊り下げられたハンギングタイプの球根ベゴニアを中心とする600種1万株を展示。四季折々にイベントを開催していて、いつ遊びに行っても楽しめる箱根ベゴニア園の前で記念撮影。

塔ノ峰の中腹にある古刹で、別名をあじさい寺という。室町時代に大雄山最乗寺の僧安叟が曹洞宗の寺として創建。後に廃寺となり、1604年(慶長9)、弾誓上人によって浄土宗の寺として再建された。山に沿って延びる参道は樹木が鬱蒼と茂り、6月下旬〜7月中旬にかけて3000株のアジサイが彩る散策道となる。本堂には阿弥陀三尊像や皇女和宮ゆかりの像が安置されており、本堂からさらに15分歩いたところにある弾誓上人が修行したという祠・奥の院も見学できる阿弥陀寺を訪れる。

16:30小田原に向かう。
17:05小田原到達
17:37小田原駅新幹線こだまで出発、名古屋でのぞみに乗り換え
21:35新大阪到達

今回の旅行、修学旅行以来2度目の訪れである神奈川県箱根に足を運びました。
全国でも指折りの観光名所、さすがに8月の終わりにもかかわらず、車も人が多く賑わっていました。

芦ノ湖を中心とし変化に富んだ地形に、自然と点在する歴史的建造物とアート、膨大な名所に圧倒され、1泊2日では到底回れず、駆け足で訪れ興味ある名所のみ見学し、殆どが外観の写真撮影だけで終わりました。
次回は時間をつくってゆっくり周りたいと思います。

修学旅行以来の訪れで期待していた大涌谷の観光も、残念ながら大渋滞のため訪れることが出来ず残念です。次回期待します。






































飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十九弾:横浜&鎌倉&江ノ島観光
2009年8月8−9日


今回は神奈川県の歴史ある港町山下公園、世界最大のチャイナタウン横浜中華街、かつて外人居留地だった山手、150を超える寺社が点在する古都鎌倉、海沿いの国道134号線のドライブコースの湘南に位置する観光名所、江ノ島に足を運びました。

8日14:00伊丹空港出発
15:10羽田空港到達、レンタカーで東京湾アクアラインを経由して千葉房総半島に向かう。

東京湾をはさむ木更津と川崎を、木更津沖合い4.4km に造られた人工島海ほたるを接点として、海上ルート5.1km と海底ルート約10kmの幹線道路で結ぶ東京湾アクアラインを走行。

木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこには東京湾周辺の景色を360度一望できるパーキングエリア「\海ほたる」\を訪れる。5階建てで中央が吹き抜けになった建物は3階までが駐車場、4階がショップとアミューズメントコーナー、5階にレストランと展望デッキがある

海ほたるにある袖ケ浦市郷土博物館の屋外展示施設の1つ。東京湾アクアライン建設に関する工程や歴史などを、詳細な模型やパネルで展示、紹介。また、東京湾の海上交通や産業の歴史について映像から学ぶこともできるアクアラインなるほど館を見学。

東京湾アクアラインを通過して千葉県房総半島にはいり南下する。

浦賀水道に面した標高120mの大坪山山頂に立つ高さ56mの観音像。地元出身の材木商である宇佐美氏が戦没者慰霊のために4年の歳月をかけて建てたもので、1961年(昭和36)に完成した。胎内に13仏7福神が安置され、314段のらせん階段を上っていく途中、腕、肩、冠にある展望窓から東京湾が望め、冠部分にある展望台からの眺めもよい東京湾観音を訪れる。

富津岬一帯に広がる公園。入口にはヤシが植えられ、海岸沿いには松林が続き明るく広々としている。岬先端にある明治百年記念展望塔からの眺めはすばらしい千葉県立富津公園を散策する。

狸囃子の童謡のモデルとなった寺。浄土真宗本願寺派の学問寺として、また、寺子屋として古くから親しまれてきた。境内で踊っていたタヌキと和尚の伝説にちなみ、野口雨情が作詞、中山晋平が作曲したのが『証誠寺の狸ばやし』の證誠寺を訪れる。

公園西側に広がる木更津海岸は潮干狩りの名所で、3月上旬〜8月まで多くの人で賑わいをみせる。中の島公園と鳥居崎海浜公園を結ぶ長さ236mの中の島大橋は歩行者専用橋なので、東京湾を行き交う船や木更津の町を眼下にゆっくりと眺められる中の島公園を散策する。

東京湾アクアライン経由で川崎方面に向かう。

19:00川崎駅近くのホテル到着後市街地を散策し、食事を済ませて床に就く。

9日5:00レンタカーで出発、天候曇りのち晴れ

川崎大師駅から表参道、仲見世と歩いて来ると、大山門が見えてくる。境内には平安朝様式の大本堂、高さ31.5mの八角五重塔、薬師殿などがあり、国道409号沿いの大師河原には自動車交通安全の祈祷殿がある川崎大師を散策する。

大師公園の中にある中国式公園。瀋秀園とは、中国・瀋陽市のすばらしい景色を集めた庭園という意味だ。川崎市と瀋陽市との友好都市提携5周年を記念して、1987年(昭和62)に造られた。秀湖と名づけられた池のほとりには知春亭、攬翠亭などの建物が点在する。蓮の池や柳の緑、瑠璃瓦の屋根、流れ落ちる滝など、風雅な古典庭園の様式が再現されている瀋秀園を訪れる。

湘南方面に向かう。

日本のヨット発祥地であり歴史と格式を持つ葉山マリーナを訪れる。

ヤシの木が並ぶ敷地にマンションが建ち並び、海にはクルーザーやヨットが浮かぶ厨子マリーナを訪れる。

海沿いの国道134号線を走行して材木座海岸、由比ガ浜、稲村ケ崎、七里ヶ浜を通過して江ノ島方面に向かう。

かつては、干潮時にようやく通行できた難所で、1333年(元弘3)の新田義貞の鎌倉攻めが開始されたという古戦場でもある。義貞が海中に黄金の太刀を投げ入れて龍神に祈ると、潮が引いたため、龍神が敵地への道を示してくれたと思った新田軍は志気が大いに高まり、磯伝いに鎌倉に突入したという故事はあまりにも有名だ。周辺は今は芝生が巡る海浜公園として整備され、江の島や遠く富士山を望める。特に夕日が沈む頃はシルエットが美しい。園内には新田義貞の碑と1910年(明治43)にこの沖合いで遭難した逗子開成中学校の生徒12名の霊を慰めるボート遭難慰霊碑(真白き富士の嶺碑)が立つ稲村ケ崎を訪れる。

最大のみどころは、水深6.5m、底面積144平方m、容量1000トン、厚さ41cmのアクリルガラスを使用した相模湾大水槽の中を泳ぐ約8000匹のマイワシの大群。そのほか深海コーナーでは海洋研究開発機構と協力し、日本初となる深海生物の長期飼育の様子を公開。またクラゲファンタジーホールでは世界で一番大きなクラゲの一つとされるシーネットルをはじめ、常時約15種類のクラゲを公開。イルカやアシカが愉快なパフォーマンスを見せてくれるショースタジアムもあり、遊びながら学ぶことができる、エデュテインメント型の水族館、新江ノ島水族館の前を通過して江ノ島大橋を渡り江ノ島到達。

明治時代、イギリスの貿易商サムエル・コッキング氏が世界各地から珍しい植物を集めて築造した大庭園が原型。苑内には、逆円錐形の江の島展望灯台、明治中期に建造されたれんが造りの温室遺構、藤沢市との姉妹・友好都市コーナーなどがある江の島サムエル・コッキング苑を訪れる。

江の島に伝わる、天女と五頭龍の伝説にちなんで造られた。見晴らしのよい恋人の丘に立ち、カップルの新名所として人気の恋人の丘龍恋の鐘を訪れる。

奥津宮を過ぎ、急な石段を降りたところに広がる幅約50mの海蝕台地。広々とした相模湾の向こうに富士の雄姿が美しい。その昔、建長寺の修行僧・自休と恋に落ちた相承院の稚児・白菊がここに身を投げ、自休も後を追ったという伝説がある稚児ケ淵を訪れる。

稚児ケ淵から断崖沿いに数10m進んだ、江の島最奥部にある海蝕洞窟。江の島信仰の発祥の地で、かつて弘法大師や日蓮聖人も修行したという霊場だ。奥行152mの第一岩屋と奥行112mの第二岩屋があり、神秘的な音響や照明で演出されたうす暗い中を歩いて見学できる江の島岩屋を訪れる。

鎌倉方面に向かう。

由比ケ浜から鶴岡八幡宮まで一直線に延びる大通り。延長約1.8kmで、その間に一ノ鳥居、二ノ鳥居、三ノ鳥居の三つの鳥居がある若宮大路を通過。

若宮大路の二ノ鳥居から三ノ鳥居まで、通りの中央が一段高くなっている長さ457mの歩道。源頼朝が、妻政子の安産を祈願して1182年(寿永元)に築いたもので、鶴岡八幡宮に近付くにつれ道幅が狭くなる遠近法を用いている。両側には桜が植えられ、春は段葛全体がみごとな桜のトンネルとなる
段葛を歩いて通過。

若宮大路を進むと、緑濃い樹木に包まれて朱塗りの社殿が立つ。1063年(康平6)、源頼義が奥州を平定した際に京都の石清水八幡宮を由比郷鶴岡(現在の材木座)に勧請し、由比若宮を建てたのが始まりという。その後1180年(治承4)、源頼朝公が鎌倉に入ると同時に現在地に移し、1191年(建久2)には背後の大臣山中腹に本宮を造営して源氏の氏神としてお祀りした。現在の建物は江戸時代の再建。今も鎌倉のシンボルとして賑わい、特に正月の初詣は全国有数の人出がある鶴岡八幡宮を散策する。

鶴岡八幡宮の三ノ鳥居をくぐるとすぐ左右に源平池があり、中央には石の太鼓橋が架っている。太鼓橋をはさんで東側の源氏池には産を意味する三つの島、西側の平家池には死を意味する四つの島が配されている。夏には紅白のハスが花開く源平池を訪れる。

鶴岡八幡宮境内の源氏池の中の島に鎮座する社。1180年(治承4)の源頼朝公旗上げの際に、弁財天の加護があったといわれている。江の島鎌倉七福神のひとつで、境内には奉納された数多くの旗が立ち並んでいる。社殿裏にある政子石は、夫婦円満、子宝の祈願石とされている旗上弁財天社を訪れる。

奈良の正倉院を模した校倉風の建物で、東鳥居の近くにある。鶴岡八幡宮だけでなく、鎌倉市内の各社寺が所蔵する仏像、工芸品、書画、古文書など貴重な文化財4800点余りを保管、展示している。代表的なものに建長寺の「蘭溪道隆像」[らんけいどうりゅうぞう](国宝)や鶴岡八幡宮の弁才天坐像(重要文化財)などがある鎌倉国宝館を見学。

鶴岡八幡宮の参道途中に立つ朱色も鮮やかな入母屋造の建物。義経の愛妾・静御前が、しずやしず しずのをだまき…と義経を慕って舞ったところと伝えられる舞殿(下拝殿)を訪れる。

鶴岡八幡宮内にあり、舞殿の右側に立つ流権現造の社殿。現在の建物は徳川2代将軍秀忠の命によって1624年(寛永元)に立て替えられたもので、江戸時代初期の建築様式をみることができる若宮(下宮)を訪れる。

鶴岡八幡宮内にあり、本宮へ通じる大石段の途中左手にそびえる、高さ約30m、幹回り約7m、樹齢1000余年という巨木。3代将軍源実朝公が、1219年(承久元)1月の雪の夜に、この木の陰にひそんでいた甥の公暁に暗殺されたという故事で知られ、隠れ銀杏ともよばれている大銀杏を見学。

鶴岡八幡宮内にあり、大銀杏脇の石段を上りつめたところに立つ。流権現造、総朱塗りという華麗な社殿には、極彩色の彫刻が施されている。1828年(文政11)に徳川11代将軍・家斉が再建したもので国の重要文化財に指定。左右に設けられた廻廊の一部は宝物殿となっており、神宝が数多く展示されている本宮(上宮)を訪れる。

東の金沢街道エリアに向かう。

鎌倉随一の萩の寺として有名。9月中旬には参道いっぱいに白萩が咲き乱れる。北条義時以来、執権職についていた北条氏の屋敷があったところで、北条氏滅亡後、その冥福を祈り後醍醐天皇が足利尊氏に命じて1335年(建武2)に建立した天台宗の古刹。本尊の子育経読地蔵大菩薩は地蔵像としては珍しい座像で、国の重要文化財に指定されている。こぢんまりとした境内には、本堂、鐘楼、聖徳太子を祭る太子堂などが立つ。全部で108種あるという椿をはじめ、サルスベリなど四季折々の花が咲く宝戒寺を訪れる。

大蔵幕府跡を見下ろす大倉山の中腹に、笠石を5枚積み重ねた高さ約2mの石塔が立っている。ここは頼朝の持仏堂があったところで、1199年(正治元)に亡くなった後に廟所とされ、法華堂が立っていた。また、頼朝の墓から右手の細い山道を登ると、頼朝の参謀だった大江広元の墓がある源頼朝墓を訪れる。

1104年(長治元)の創建と伝えられる古社。頼朝が大蔵幕府を開いた際に鬼門の守り神として崇拝したという。祭神は学問の神様・菅原道真で合格祈願の絵馬が数多く奉納されている。約100本の梅の木が植えられた境内には、河童を描き続けた漫画家の清水昆ゆかりの筆塚が立つ荏柄天神社を訪れる。

後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良親王を祭神として、1869年(明治2)明治天皇により創建された神社。鎌倉幕府が倒れ、親王は建武中興で征夷大将軍となったが、足利尊氏と対立してこの地に幽閉され殺められた。広い境内には本殿、拝殿、親王の遺品を展示する宝物殿、親王が幽閉されていたという土牢などがある鎌倉宮を訪れる。

鎌倉宮の東、紅葉ケ谷の奥にあり、鎌倉随一の花の寺として名高い。1月のロウバイにはじまり桜、アジサイ、芙蓉、萩など四季折々の花が境内狭しと咲き誇る。ことに梅や水仙が咲く1〜2月や紅葉の時期は多くの参拝者で賑わう。1327年(嘉暦2)の創建で、開山は夢窓国師。後に足利基氏が中興し、以来足利氏4代の菩提所となった。本堂の裏手には、夢窓国師の作といわれる岩肌の斜面を巧みに取り入れた池泉式庭園(名勝)がある。また大宅壮一の評論碑や、久保田万太郎句碑、吉田松陰留跡碑などもある瑞泉寺を訪れる。

1188年(文治4)に足利義兼が創建した鎌倉五山第五位の寺。室町時代には七堂伽藍を備え23の塔頭を数えたが、現在は1756年(宝歴6)に再建された本堂と客殿、庫裏などが立つ。手入れが行き届いた境内にはボタン、ウメ、サルスベリなど花木が多く、また寺宝の開山退耕禅師坐像は国の重要文化財に指定されている浄妙寺を訪れる。

滑川に架かる華の橋を渡った宅間ケ谷にあり、竹の寺として有名。1334年(建武元)足利尊氏の祖父・家時が、天岸慧広を開山として創建したと伝えられる。かつては足利、上杉両氏の菩提寺として栄え、裏山には足利一族の墓といわれるやぐらがある。本堂西側の竹の庭は1000本を越す孟宗竹がみごとな景観を見せている報国寺を訪れる。

滑川に架かる夷堂橋のたもとにある日蓮宗の寺。配流先の佐渡から帰った日蓮上人が身延山に入るまで滞在した夷堂の跡に、日出上人が1436年(永享8)に建立した。2世住職日朝上人の時、身延山から日蓮上人の遺骨を持ち帰り、分骨堂に納めた。以来東身延と称されて栄えたことから、日朝さまともよばれている。境内奥の墓地には、名刀正宗を生み出した刀工岡崎五郎正宗と、2代目貞宗の墓と伝えられる石塔がある本覚寺を訪れる。

北東の北鎌倉エリアに向かう。

臨済宗建長寺派の大本山で鎌倉五山の第一位。1253年(建長5)に5代執権北条時頼が、宋の高僧蘭渓道隆を開山として創建したわが国初の禅宗専門道場。最盛期には七堂伽藍を備え、1000人以上もの修行僧がいたという。たび重なる火災で当初の建物は焼失したが、江戸時代に沢庵禅師によって復興された。現在の堂宇は近世の再建や移築だが総門、三門、仏殿、法堂などが一直線に並び、中国宋時代の典型的な禅宗様式の伽藍配置を残している建長寺を散策する。

建長寺入口にあり、別名巨福門とよばれる。1943年(昭和18)に京都の般舟三昧院から移築されたもので、頭上にかかる額『巨福山』は宋出身の禅僧で10代住職一山一寧の筆によるという。巨の字に点が加えられているのは文字をひきしめるためで、百貫の重みに値するのでこの点を百貫点と称している。総門を入ると、広々とした境内に桜の老樹が立ち並んでいる総門(巨福門)を通過する。

建長寺内にあり、本尊の地蔵菩薩坐像を安置している。建物は、江戸初期の1647年(正保4)、徳川2代将軍・秀忠の夫人崇源院の霊廟を芝の増上寺から移築したもの。仏殿前のビャクシンの巨木は、蘭渓道隆が宋から持ってきて植えたものと伝わる仏殿を訪れる。

建長寺にあり、高さ約30mで入母屋造、裳階付、十二脚門の巨大な楼門。1775年(安永4)に万拙和尚が再建したもので『建長興国禅寺』の額は後深草天皇の宸筆と伝えられている。なお、禅宗では山門ではなく三門とよぶことが多い。悟りに入る3つの法門、つまり三解脱門のことで、この下を通ると心が清められるといわれている三門を訪れる。

建長寺内にあり、総門とともに京都般舟三昧院から移築された江戸後期の建物。方丈背後には、中央にさん碧池(心字形の池)を配した大覚禅師作と伝わる建長寺庭園(名勝)がある方丈を訪れる。

建長寺内にあり、三門右手にある茅葺き屋根の鐘楼に、創建当時の貴重な梵鐘が下がっている。高さ約2m、直径約1.25mの大きな梵鐘は、1255年(建長7)北条時頼が鋳物師物部重光に鋳造させたもの。蘭渓道隆の銘文があり、模様や形など藤原様式の美しさを今に伝えている梵鐘を訪れる。

建長寺裏山の勝上けん(標高145m)の山腹にある鎮守社。1890年(明治23)に、当時の建長寺住職が静岡県の方広寺(奥山半僧坊)から勧請したもので、半僧半俗姿(いわゆる天狗の姿)の半僧坊大権現を祭っている。交通安全、火盗除けなどにご利益があるとされ、参拝者が多い。境内には大天狗・小天狗像10体が立ち、また堂内には天狗の大団扇や下駄などが奉納されて特異な雰囲気。総門から徒歩約15分。さらに上がると勝上けんで、ここから天園にいたる尾根は、鎌倉アルプスとよばれるハイキングコースになっている半僧坊を訪れる。

アジサイ寺として有名な寺。境内には約2000株ものアジサイが植えられ、6月中旬のシーズンには青、紫、白などの花で埋まる。ことに小雨の日には花の色が一段と増して美しい。寺の創建は1160年(永暦元)に建てられた明月庵が始まり。1256年(建長8)に5代執権北条時頼が敷地内に最明寺という隠居所を建造。その後、嫡男の時宗が禅興寺として再興した。禅興寺は明治になって廃絶したが、塔頭の明月院だけが残った。境内には『紫陽花殿』の額がかかる1973年(昭和48)に再建された本堂や北条時頼の墓、鎌倉十井のひとつ瓶ノ井、明月院やぐらなどがある。時頼の墓は高さ約1mの苔むした宝篋印塔で、秋は紅葉に彩られる明月院を訪れる。

臨済宗円覚寺派の禅寺で、鎌倉五山の第四位。1281年(弘安4)、北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために妻とその子師時が建立したという。鎌倉時代には七堂伽藍を備え、塔頭も11院ほどあった。現在は関東大震災後に再建された総門や仏殿などが立つ。すり減った石段を登って鐘楼を兼ねた中国風の山門を入ると、右手に本尊の木造三世仏坐像を安置する仏殿の曇華殿がある。境内には竹林ややぐらなどを巡る散策路が設けられ、禅寺にふさわしい閑寂なたたずまいをみせている。梅や桜、萩など花の寺としても人気。また、参道入口には鎌倉十井のひとつ、甘露ノ井がある浄智寺を訪れる。

鎌倉尼五山で唯一現存。1285年(弘安8)、北条時宗の妻・覚山尼が創建した臨済宗の寺。覚山尼は、妻が寺に駆け込んで3年間修行すれば離縁できるという縁切り寺法を定めたといわれ、以来駆込寺・縁切寺として知られるようになった。歴代の住職には後醍醐天皇の皇女用堂尼、豊臣秀頼の娘天秀尼といった名門出身の尼僧が多く、松ケ岡御所と称されるほど格式も高かった。明治初年に寺法が廃され、1903年(明治36)に男僧寺となった。梅、水仙、ボタン、桜、ハナショウブなど四季の花が咲く境内には、泰平殿や水月堂、松ケ岡宝蔵などが立つ。参道奥の墓地には、学者の西田幾太郎、和辻哲郎、作家の高見順、評論家の小林秀雄ら著名人の墓がある東慶寺を訪れる。

東慶寺内にあり、聖観音立像、離縁状、縁切関係の文書など多数の重要文化財を展示する松ケ岡宝蔵を見学。

臨済宗円覚寺派の大本山で、鎌倉五山の第二位。1282年(弘安5)8代執権北条時宗が、文永・弘安の役(蒙古襲来)の戦死者の霊を弔うため、宋の高僧無学祖元を招いて創建した。約6万平方mもの広大な境内には総門、山門、仏殿、方丈などの伽藍が一直線に並び、さらに夏目漱石や島崎藤村も参禅した帰源院や仏日庵、黄梅院など18の塔頭が山かげにひっそりと点在している。うっそうとした老杉に囲まれた山内は全域が国の史跡。禅林道場らしいすがすがしさと格式が感じられる円覚寺を散策する。

円覚寺内にあり、山門右手の急な石段を登った高台の鐘楼に吊されている。1301年(正安3)、9代執権北条貞時が鋳造させたもので高さ259.4cm、口径142cmの大きさは鎌倉一。常楽寺、建長寺の鐘と共に鎌倉三名鐘とされている洪鐘を訪れる。

円覚寺内にある、伏見上皇勅筆の圓覚興聖禅寺の額がかかる壮大な楼門。1783年(天明3)に再建されたもので、高さ約20m・木造2層のどっしりとした重厚な構えは円覚寺のシンボルとなっている。県重要文化財に指定の山門を訪れる。

円覚寺内にあり、1964年(昭和39)に再建された唐様禅宗様式の建物。本尊の宝冠釈迦如来座像(頭部は鎌倉時代、胴は江戸初期)や、梵天像、帝釈天像など鎌倉時代の貴重な仏像が安置されている。天井に描かれた巨大な『白龍の図』は前田青邨監修、守屋多々志揮毫によるものの仏殿を訪れる。

西の源氏山エリアに向かう。

臨済宗建長寺派の寺で、鎌倉五山の第三位。源頼朝が亡くなった翌1200年(正治2)に、妻の政子が栄西を開山として創建した。栄西は中国から初めてお茶を持ち帰り『喫茶養生記』を著した禅師。総門をくぐると50mほどの石畳の参道が一直線に続く。参道の正面に仏殿、右手に鐘楼と庫裏などが立つ。山門左手の道を行くと仏殿背後の墓地に北条政子、源実朝の墓と伝わるやぐらや、俳人高浜虚子、作家大佛次郎らの墓がある寿福寺を訪れる。

足利氏満の命を受けた上杉氏定が、空外を開山として1394年(応永元)に再建した臨済宗の寺。鎌倉三十三観音霊場の第二十六番札所。扇ケ谷の静かな住宅街にあり、カイドウをはじめ、梅、水仙、萩など花の寺としても名高い。境内には1785年(天明5)建立の庫裡や、浄智寺から移されたという仏殿、大正時代に再建された本堂などが立つ。山門前右手には鎌倉十井のひとつ底脱ノ井、左手奥の崖下に十六ノ井がある海蔵寺を訪れる。

海蔵寺内仏殿裏の山腹に板戸を閉めたやぐらがあり、直径約70cmのくぼみが4個ずつ4列に16個並んでいる。弘法大師が掘ったものと伝えられ、今も清水をたたえている十六ノ井を訪れる。

源義家が奥州征伐の戦勝を祈願したという源氏山の山頂一帯に造られた自然公園。桜並木や芝生の広場があり、市民の憩いの場として親しまれている。特に春は、3月に咲く彼岸桜から5月の山桜まで数多くの花見客で賑わう。中央広場には、高さ約2mの堂々たる頼朝像が立っている。また大仏ハイキングコースの、格好の休憩ポイントでもある源氏山公園を散策する。

南西の長谷エリアに向かう。

藤原不比等の子藤原房前が、736年(天平8)に徳道上人を開山として創建したと伝えられる浄土宗系の単立寺院。俗に長谷観音の名で知られている。室町期には足利氏によって本堂の再建や本尊の大修理が行われるなど、代々の権力者の保護を受けてきた。広い境内には、本尊の十一面観音像を安置する観音堂をはじめ阿弥陀堂、大黒堂、地蔵堂など6つの堂宇が立つほか、高浜虚子の句碑や久米正雄の胸像、高山樗牛の住居跡の碑などがある。観音堂南側の見晴台からの景色はすばらしく、由比ケ浜をはじめ、鎌倉の町を一望できる長谷寺を散策する。

長谷寺内にあり、高さ2.8mの阿弥陀如来座像を安置している。源頼朝が42歳の時に厄除けのために建立したと伝えられ、別名厄除け阿弥陀ともいう。鎌倉六阿弥陀仏のひとつに数えられている阿弥陀堂を訪れる。

長谷寺内にあり、高さ9.18mもある漆箔・寄木造の十一面観音像を安置している。木造の仏像では日本最大級。右手に錫杖、左手には蓮華をさした華瓶を持ち、金色に輝く姿は実に優美だ。長谷寺の縁起によると霊夢を得た徳道上人の祈願で、721年(養老5)に大和(奈良県)の泊瀬で1本の楠から2体の像が造られ、1つは奈良の長谷寺に安置し、もう1体は縁ある土地で民衆を救ってくれるようにと願いをこめて海に流された。10余年後に三浦半島の長井に漂着したものを、この地に移し創建したといわれている観音堂を見学。

長谷寺内にあり、弘法大師が彫ったと伝わる弁財天が祀られている(現在は宝物館に収蔵)。弁天堂背後にあるうす暗い弁天窟内は、ローソクの炎がゆらめく幻想的な雰囲気。壁面には弁財天と十六童子が刻まれている弁天堂を訪れる。

広い境内の奥に鎮座する大仏は、正式には浄土宗大異山高徳院浄泉寺の本尊の阿弥陀如来坐像(国宝)。5年の歳月をかけて1243年(寛元元)に完成した当初は木造だったが台風で倒壊し、1252年(建長4)に青銅製の大仏の鋳造が始められたといわれている。完成年月日や原型作者などは不明。1498年(明応7)に大仏殿が津波で流されてからは露座になり、大きな礎石だけが境内に残っている。像高は約11.31m、顔だけでも2.35mあり、重さは約121トン。胎内に入ると、下から8層に分けて鋳造の跡がよくわかり興味深い高徳院(鎌倉大仏)を訪れる。

高徳院鎌倉大仏の背後に立つ。朝鮮王朝の月宮殿を移築したもので、高徳院を再興した祐天上人を祭っている観月堂を訪れる。

高徳院鎌倉大仏の観月堂の隣に立つ。女流歌人与謝野晶子が、大仏を見て詠んだ短歌「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かなが刻まれている与謝野晶子歌碑を訪れる。

五代執権北条時頼の家臣宿屋光則が、日蓮の高弟日朗を開山として自邸に建立した寺。光則は日蓮の『立正安国論』を時頼に手渡した人物で、のちに日蓮に帰依した。本堂前には日蓮の直筆を写した高さ約3mの石碑が立つ。境内には梅や椿など四季折々の花木が植えられ、華やいだ雰囲気が漂う。特に高さ約5m、根回り1.2mのカイドウの巨木は有名。4月上旬に、薄紅色の花を咲かせて美しい。また、本堂裏には日蓮が佐渡に流罪になった際、日朗を幽閉した土牢がある光則寺を訪れる。

平安時代後期創立の古社。鎌倉・湘南地帯を開拓、鎌倉権之守として鎌倉武士団を率いた領主・鎌倉権五郎景政公を祀る。境内にはイチョウの大木や樹齢400年のタブの巨木が生い茂り、静寂そのもの。景政公が軽々と持ち上げたという105kgもある手玉石も残る御霊神社を訪れる。

極楽寺切通しの途中、石段を登った小高い丘の上にある真言密教の寺。弘法大師が修行した霊場跡に、1219年(承久元)北条泰時が創建したと伝えられる。本尊は不動明王(縁結び不動)。108段の参道の両側には般若心経の文字数と同じ262株のアジサイが植えられ、明月院と並ぶアジサイの名所。また、参道からは眼下に由比ケ浜の眺望が広がる成就院を訪れる。

貧者救済や病人の治療に尽くしたことで知られる忍性菩薩が、1259年(正元元)に創建した真言律宗の寺。本堂前には忍性菩薩が使用したと伝わる千服石臼や薬鉢がある。往時は七堂伽藍をはじめ49もの塔頭があったが度重なる火災や戦乱で大半が焼失。現在は山門や本堂などが山かげにひっそりと立っているのみだが、宝物殿には木造十大弟子立像(重要文化財)などの古仏像が数多く収蔵されている極楽寺を訪れる。

横浜山手方面に向かう。

1962年(昭和37)、イギリス兵舎のあった土地に開園。園内の展望台と、海側へ向いて置かれたベンチからは、MM21・大さん橋・横浜ベイブリッジまで横浜港を一望。横浜ベイブリッジの夜景が有名だ。北側の森は、フランス山地区とよばれる元フランス軍駐屯地。1971年(昭和46)に横浜市へ譲渡され、パリ中央市場と同じアーチが正面に立つ。イギリス館、山手111番館、大佛次郎記念館、県立神奈川近代文学館も併設する港の見える丘公園を散策する。

1926年(大正15)、米国人ラフィン氏邸として建てられたスペイン風の洋館。地階は鉄筋コンクリート、地上2階は木造の寄棟造り。ホールは開放的な吹き抜けになっている。設計者は、アメリカ人建築家J・H・モーガン。1920年(大正9)、東京・丸ビル建設のために来日。日本を愛したモーガンは横浜に移り住み、数多くの建物の設計を手がけた山手111番館を訪れる。

明治〜大正時代の横浜を今に伝える資料館。1909年(明治42)、和洋併設型住宅として建てられた中澤邸の洋館部分を、1977年(昭和52)に移築。開港当時の様子を描いた錦絵(横浜絵)、マンガの原型・ポンチ絵、ギヤマン、オルガン、蓄音機や外国人墓地全景の150分の1模型を解説付きで展示している山手資料館を見学。

港の見える丘公園の正面にある、外国人専用の墓地。1854年(安政元)に米ペリー戦艦上で事故死した海兵隊員ロバート・ウィリアムスがここに葬られたのが始まり。異郷の地・横浜で没した外国人、40カ国余り約4800人が1万8000平方mの敷地に眠る。生麦事件の犠牲者リチャードソン、旧国鉄の初代技師長モレル、電話技師メーソン、フェリス女学院創立者キダー、日本に漫画を伝えたワーグマンら文明開花の功労者をはじめ、著名人の墓も多い横浜外国人墓地を訪れる。

元町公園内、山手本通りに面して立つ白い洋館。1926年(大正15)、現代建築の父と言われるレーモンドの設計で、スイス人貿易商・エリスマンの私邸として建設。1990年(平成2)、公園内に移築・復元された。邸内では資料展示室のほか、暖炉のある応接室やサンルームなどを見学可、元町公園を一望できるエリスマン邸を訪れる。

1930年(昭和5)に建てられた、イギリス人貿易商ベリックの邸宅。建築家J・Hモーガンの設計でスパニッシュスタイルが基調。戦前に建築されて現存する山手外国人住宅では最も規模が大きい。セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用された後、2001年(平成13)に横浜市の所有となり、翌年から施設を公開している。正面の3連アーチ、瓦屋根を持つ煙突、幾何学模様のタイルなど多彩な装飾が見どころベーリック・ホールを訪れる。

敷地面積約1万3000平方m。石畳、噴水と花壇が美しい公園。明治期にイタリア領事館がおかれたことから、イタリア山と呼ばれる。高台にある展望台からは緑豊かな山手が一望可。園内には、2つの西洋館が移築されている山手イタリア山庭園を散策する。

山手イタリア山庭園にあるアメリカン・ヴィクトリアン調の洋館。ニューヨーク総領事を務めた明治政府の外交官が住んでいた。食堂、客間、書斎、寝室など、当時の様子を忠実に再現している外交官の家を訪れる。

山手イタリア山庭園入口の右側に立つ、大正末期に建てられた洋館。戦後は山手カトリック教会司祭館として使われていた。木造2階建て。フランス瓦、よろい戸を持つ典型的な外国人住宅。館内には居留地時代の展示資料や図書室もあるブラフ18番館を訪れる。

横浜中華街方面に向かう。

祭られている関羽は三国志で有名な武将だが、商売繁盛の神様としても信仰されている。初代は明治期に建造。現在のものは、1990年(平成2)に再建された4代目だ。北京瑠璃瓦・観音石竜柱など中国清朝時代の伝統的な建築工芸技術が施された絢爛豪華な建物は、中華街のシンボルにふさわしい横浜中華街関帝廟を訪れる。

吉本興業プロデュースのユニークな水族館。中国の南の島、小さな小学校がモチーフになっていて、下駄箱水槽や牢屋水槽などおもしろい水槽の宝庫。73本あるすべての水槽にクイズもついている。さかなの稚魚や卵のみを集めた、さかなの赤ちゃん水族館も併設するよしもとおもしろ水族館を見学。

山下公園方面に向かう。

横浜港を目の前に、大さん橋の東側から山下埠頭まで約1km続く日本最初の臨海公園。1930年(昭和5)、関東大震災の瓦礫を埋め立てて開園。芝生広場やバラ園をはじめ、赤い靴はいてた女の子の像、姉妹都市のサンディエゴから贈られた水の守護神像、かもめの水兵さん歌碑などが点在。園内には氷川丸が係留され、水の階段やステージなどもある山下公園を散策する。

日本最大規模の人形博物館。昭和初期、日米親善のために贈られた親善人形を含む、世界140カ国1300点の貴重な人形を展示。3階の人形ふれあいアトリエでは、人形作りの工程を映像で見ながら素材や道具にふれられるなど、ユニークな展示がたくさんの横浜人形の家を訪れる。

メリケン波止場とも呼ばれる長さ483m、幅約70mの桟橋。豪華客船のクイーンエリザベスIIをはじめ、外国航路の客船が訪れ、入港の際などは、大変な賑わいとなる。2002年に、3万トンクラスの客船が4隻同時に停泊できるターミナルが完成した。屋上広場からは、山下公園や横浜赤レンガ倉庫などミナトヨコハマの風景が一望できる大さん橋を訪れる。

1930年(昭和5)に三菱横浜造船所で造られた、総トン数1万2000トン、全長163.3mの豪華客船。30年にわたり太平洋を横断すること254回、合計2万5000人もの船客を運び、太平洋の女王とも呼ばれた。1961年(昭和36)から山下公園に係留され、アールデコの内装が美しい一等食堂や社交室、チャップリンも泊まった特別室などが見学できる日本郵船氷川丸を見学。

18:00羽田空港に向かう。
19:00羽田空港到達
20:15羽田空港出発
21:30神戸空港到達。

今回の旅行、観光名所の多い横浜に足を運びました。

初日は前回の千葉観光で渋滞で渡れなかった東京アクアラインを走行し、エンターテイメントとグルメスポットで有名な海ほたるによってから千葉県房総半島に入り内房の名所見物、散策して楽しみました。

横浜観光は海沿いのオーシャンビュー、マリンスポーツを楽しめる湘南をドライブし、江島神社や江ノ島展望灯台など見所が盛りたくさんの江ノ島、鶴岡八幡宮、北鎌倉の名刹、鎌倉大仏で知られる高徳院など、由緒ある寺社がたくさんあり、四季折々の花を求めて訪れる人が多い鎌倉、かつて外人居留地で今も当時の面影を残す優雅な洋館を見物しながら巡る山手、料理店の多さでは世界一、200をゆうに越える飲食店の横浜中華街、歴史ある港町のムードを満喫できる山下公園など早朝の5:00から夕刻の18:00までひたすら歩いて数多くの歴史的建造物を巡り堪能いたしました。

尚江ノ島で1時間30分、鎌倉で5時間、山手で1時間30分、横浜中華街で1時間、山下公園で1時間、計10時間歩き回りました。
今まで訪れた観光名所でこれだけ歩いたのは記憶が無いですね。
さすが両足にマメができ、疲労困憊でぐっすり眠ることが出来ました。
何キロ痩せたかな!

観光名所が比較的集中していたため、移動時間にあまり時間を費やす必要がなかったのが多くの名所を回ることができたのでしょうね。
おそらく実動13時間でこれだけ周れたのは過去最高です。
我ながら驚きの盛りたくさんの名所観光旅行でした。

多くの名所を訪れたことは、その結果当然活動記録もかなりの長文になります。
はたして何人の方がこの長文をすべて読みおえる事ができるのかな。
お疲れ様でした。






































飛行機で国内&海外の観光地巡り第四十二弾:横浜みなとみらい&三浦半島観光
2008年10月4−5日


今回は大都市横浜の未来都市、みなとみらいと基地の街、横須賀をはじめとし、海岸沿いに昔のままの自然や素朴な漁村の風景が残る三浦半島に足を運びました。

4日14:30伊丹空港出発
15:40羽田空港到達、京急空港線、京急本線、みなとみらい線経由してみなとみらい駅下車、横浜の未来都市、みなとみらいを散策する。

みなとみらいに係留されている白い帆がシンボルの帆船日本丸と海と船をテーマにした博物館、横浜マリタイムミュージアムを見学。

1993年にオープン、296m、70階の日本一高いビル、横浜ランドマークタワーの69階の日本一高い展望台、スカイガーデンに上り、横浜シティ、東京湾、はるか伊豆半島までの360°の大パノラマを眺望する。

みなとみらい駅直結の複合ビル、オフィスやホテル、コンサートホールなどがあるクイーンズスクエア横浜、3つのホールと会議センターを持つ世界最大級のコンベンションセンター、パシフィック横浜、大観覧車、コスモクロック21をはじめとする約30種類のアトラクションが揃うよこはまコスモワールド、食品、インポートもの、家具売り場が充実、シネマコンプレックスがある横浜ワールドポーターズ、レトロ&スタイリッシュな建物にハイセンスなお店が並び、1911年に施工し、長く横浜港の繁栄を支えてきた赤レンガ倉庫で時代とともにその役割を終えて2002年に文化・商業施設として再生された横浜赤レンガ倉庫を訪れる。

伊勢崎町の方面に向かい、市街を散策して食事を済ませてから宿を取る。

5日天候、晴れ、7:00、大岡川に沿って伊勢崎町の市街地を早朝散策してから
8:00レンタカーで三浦半島に向かう。

横浜横須賀道路を経由して
8:40横須賀到達。

第二次大戦まで軍港があり、戦後は米軍基地の街として発展した横須賀、アメリカ海軍第7艦隊の基地がある横須賀本港と海上自衛隊の司令部がある長浦港、海に面して広がる緑あふれる公園、記念艦みかさが展示されている三笠公園を散策する。
かつては要塞島として重要な拠点だった猿島を沖に望むことが出来る海沿いの公園、遊技場やスポーツ広場や花壇も整備されているうみかぜ公園を散策。

東の観音埼方面に向かう。
目の前が海、三方観音埼の緑に囲まれた場所に日本の近現代美術を収蔵する横須賀美術館を見学する。
三浦半島のほぼ東端、東京湾に突き出た岬に広がる、歴史を物語る要塞跡などが見所の県立観音埼公園を散策。
1869年、フランス人技師、によって造られ、日本で最初の洋式灯台、、展望台から房総半島まで見える観音埼灯台を訪れる。

海岸線を南下して嘉永6年(1853)に米海軍提督ペリーが黒船4隻を率いて浦賀沖に現れ、当時鎖国中だった江戸幕府に開国を求めるため久里浜海岸に上陸し、それを記念して明治34年7月14日完成したペリー上陸記念碑、130種類のハーブ園、ツバキ園、100万本の花が咲き乱れるくりはま花の園を訪れる。

なだらかな砂浜が続く広い海岸、三浦海岸をドライブ通過して、海岸沿いの県道215号を進むと、やがて畑が広がる台地、松輪の野菜畑を走行。
県道215号沿いに二基の風車が風力発電の実験施設として設置されている、芝生の公園、宮川公園を散策。

三浦半島の南端、城ヶ島方面に向かう。
城ヶ島への往復で渡る橋、橋のたもとには、城ヶ島を愛した詩人、北原白秋の詩碑と記念館がある城ヶ島大橋を通過。
東京湾入り口に建つ高さ11.5mの灯台で観音埼灯台と同じフランス人の設計である城ヶ島灯台を訪れる。
城ヶ島の東側に位置する広大な自然公園で太平洋に面した南側には奇岩と断崖が織り成すダイナミックな地形で植物の宝庫でもある県立城ヶ島公園を散策する。

北に向かい、すぐ目の前が海という恵まれた環境で360°のドーナツ型大回遊水槽で泳ぐ魚たちの姿は見ごたえ十分の京急油壺マリンパークを見学。

南仏プロバンスの景観をモチーフにした体験型の総合公園で、まきば、街、水、村の4つのエリアがあり、動物とのふれあいや水遊び、手作り体験などが出来る長井海の手公園ソレイユの丘を散策する。

三浦縦貫道路、横浜横須賀道路を経由して八景島に向かう。
海に浮かぶ島全体がレージャーランド、大人気のシロイルカがいる水族館、アクアファンタジー、スリル満点のアトラクションが人気のプレジャーランド、ふれあい型の水族館、ふれあいラグーン、約500種類、10万点の生物を展示する、海の生き物が大集合するアクアミュージアムなどの豊富な施設が充実する横浜八景島パラダイスを訪れる。

16:30首都高速湾岸線を経由して羽田空港に向かう。
17:30羽田空港到達。
19:25羽田空港出発。
20:30伊丹空港到達。

今回の旅行、大都市横浜の未来都市、みなとみらい、第二次大戦まで軍港があり、戦後は米軍基地の街として発展した横須賀、昔のままの自然や素朴な漁村の風景が残り、南端近くの海岸線は、畑、入り江、岩礁、砂浜等、変化に富む三浦半島、海に浮かぶ島全体がレジャーランド、横浜八景島シーパラダイス、一泊二日の旅、満喫できました。

大都市の近郊のリゾート地、三浦半島は自然のみならず家も人も多く、昔ながらの自然を保ちながら発展していったのがよくわかります。又ロケーションがよく、多くのマリーナが点在し、海の沖には多くのヨット、ボートが賑やかに漂っており、関西の海、西宮沖とはかなり様相が違っていました。