茨城

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十四弾:埼玉県お城・城下町巡り観光
2018年5月26日−27日
  

関東地方の北東部に位置し、南北朝の内乱で、常陸国も2つの勢力に分かれ、激しく火花を散らし、この争乱で北朝方の佐竹氏が発展し、文禄4年の常陸統一につながって行く、関ケ原後、石田三成に協力した佐竹氏は、秋田に国替となった茨城県に足を運び茨城県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れました。

26日13:50新大阪駅新幹線のぞみで出発

16:30東京駅到達、タクシーで東京タワーの近くのホテルに向かう。
16:45ホテル到達。
17:00講演会出席。
19:30講演会終了。
20:00懇親会。
21:30懇親会終了、就寝。
27日7:30タクシーで東京駅八重洲口に向かう。
8:00八重洲口でレンタカーで出発、城めぐり。

守谷城:築城年代は定かではないが相馬氏によって築かれたと云われる。 相馬氏は千葉氏の一族で千葉常胤の子師常が相馬御厨を治めて相馬氏を称した事に始まる。江戸時代に陸奥相馬中村藩となった相馬氏もこの一族である。
相馬氏は大永5年(1525年)には相馬因幡守が守谷城を居城としていたことが確認されている。戦国時代には古河公方に従い梁田氏の配下となっていたが、小田原北条氏の勢力が伸びてくると梁田氏は北条氏に降り、このとき守谷城は北条氏によって接収された。北条氏は永禄11年(1568年)に守谷城を改修している。当初は古河公方足利義氏の御座所となるような話もあったようであるが、結局実現しなかった。天正18年(1590年)北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ相馬氏もまた没落した。
北条氏に変わって徳川家康が関東に入部するとその家臣菅沼(土岐)定政が一万石を領して守谷城主となった。元和3年(1617年)土岐定義のとき摂津国高槻城に転封となり、一時幕府直轄領となったが、元和5年(1619年)定義が没して土岐頼行が家督を継ぐと幼小であったことから一万石に減封され守谷藩へと移された。寛永5年(1628年)土岐頼行は出羽国上山へ転封となり廃城となった。

牛久城:築城年代は定かではないが戦国時代に岡見氏によって築かれたと云われる。 岡見氏は小田氏の一族で常陸国河内郡岡見郷発祥とされ、南北朝時代頃に分流したと考えられている。
岡見氏は代々小田氏に従っており、永禄12年(1569年)手這坂の合戦では岡見山城守も出陣して討死してる。手這坂の合戦で大敗した小田氏は、天正元年(1573年)頃には佐竹氏に臣従したが、岡見氏はその後も独立した勢力を維持している。
小田氏の勢力が衰退し、佐竹氏側の下妻城主多賀谷重経が勢力を拡大してくると、岡見氏はこれに対抗することとなるが、元亀元年(1570年)には谷田部城が落城、天正8年(1580年)には一時谷田部城を取り戻すが、再び攻め取られ、天正15年(1587年)には牛久城主岡見治家の兄宗治の居城である足高城も落城した。こうした情勢のなか、岡見氏は小田原北条氏に支援を要請し、次第にその支配下に属していくようになる。
小田原北条氏は佐竹領に隣接する牛久城を重要視し、天正15年(1587年)頃から下総国小金城主高城氏、下総国布川城主豊島氏、上総国坂田城主井田氏など近隣の国人たちに交代で牛久城を守るよう命じており、牛久番と呼ばれていた。
天正18年(1590年)秀吉による小田原征伐により岡見氏は北条氏とともに滅亡した。
その後は、由良国繁が上野国桐生城から五千四百石余りで牛久城に入った。関ヶ原合戦で国繁は江戸城の守備を命ぜられ、その恩賞として千六百石が加増され七千石の大身旗本となった。しかし、元和7(1621年)由良貞繁が嗣子なく没すると、弟忠繁が家督相続を許されたものの、家禄は千石に減封された。この元和7年(1621年)に廃城になったとされる。

木原城:築城年代は定かではない。 永禄5年(1562年)には江戸崎城主土岐氏の家臣近藤薩摩守が木原の地に取り立てられており、この頃には木原城が築かれていたといわれる。
軍記物などでは天正2年(1574年)に小田氏の家臣江戸崎監物が佐竹氏に寝返り、木原城は攻められて落城、天正11年(1583年)には葦名盛重など佐竹軍によって攻められ落城、天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で木原城主は江戸崎城とともに北条方となり落城と三度落城しているが、「図説 茨城の城郭」によれば、発掘調査では焼土や土塁の作り直しなど激しい戦闘の痕跡は確認されていないという。また同書では、土岐氏あるいはその家臣である近藤氏といった小勢力が、現状のような巨大な城郭を築いた背景として、永禄6年(1563年)に土岐氏と小田原北条氏が同盟関係となり、天正元年(1573年)に佐竹氏が小田氏の支城である宍倉城や戸崎城を攻め落とし、土岐氏の勢力範囲と隣接するにあたって北条氏が土岐氏を支援した結果ではないかと推測している。

島崎城:築城年代は定かではないが島崎氏によって築かれた。 島崎氏は大掾氏の庶流行方氏の一族で、行方景幹の次男高幹二郎が行方郡嶋崎に住んで島崎氏を称した事に始まる。
大永2年(1522年)島崎利幹は同族の長山城主長山幹綱を攻めて自刃させ、天文5年(1536年)にも玉造宗幹を攻め、天正12年(1584年)には麻生城主麻生之幹を攻めてこれを滅ぼすなど、南方三十三館と称された諸豪族の筆頭となった。
天正19年(1591年)佐竹義宣の命によって、島崎安定など南方三十三館の城主は謀殺され島崎氏は滅亡した。

鹿島城:養和元年(1181年)鹿島政幹によって築かれたと云われる。 鹿島氏は常陸大掾氏一族の吉田氏庶流で、吉田清幹の子が鹿島三郎成幹を名乗り粟生城に居たが、その子政幹が吉岡城を築いて移ったという。以後代々鹿島氏の居城となったが、天正19年(1591年)佐竹義宣の「南方三十三館の仕置」によって鹿島晴房は常陸太田城にて謀殺され鹿島氏は滅亡した。

土浦城:築城年代は定かではないが永享年間(1429年〜1441年)に(今泉)若泉三郎によって築かれたと云われる。また、平安時代に平将門によって砦が築かれたとの伝承も残る。
永正13年(1516年)若泉五郎左衛門が城主の時、小田氏の家臣菅谷勝貞によって攻められ、この後は小田氏の家臣菅谷氏の居城となった。
小田氏は小田氏治の頃、佐竹氏に小田城を奪われ、土浦城へ逃れて勢力の回復をはかるが、天正11年(1583年)佐竹氏の軍門に降った。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後に関東に入部した徳川家康は、結城城に結城秀を置き、土浦を支配された。慶長6年(1601年)結城秀康は越前国北庄に転封となった。
慶長6年(1601年)下総国布川より(藤井)松平信一が三万五千石で入封、元和3年(1617年)信吉の時、上野国高崎へ転封。
・元和4年(1618年)上野国白井より西尾忠永が二万石で入封、慶安2年(1649年)忠昭の時、駿河国田中へ転封。
・慶安2年(1649年)下野国鹿沼より朽木稙綱が三万石で入封、寛文9年(1669年)稙昌の時、丹波国福知山へ転封。
・寛文9年(1669年)常陸国宍戸より土屋数直が四万五千石で入封、天和元年(1681年)政直の時、駿河国田中へ転封。
・天和2年(1682年)武蔵国より(大河内)松平信興が二万二千石で入封、貞享4年(1687年)大坂城代として転封。
・貞享4年(1687年)駿河国田中より土屋政直が六万五千石で入封、以後明治に至る。

小田城:築城年代は定かではないが鎌倉時代末期に八田知家によって築かれたと云われる。 八田氏は常陸国久慈郡八田発祥で宇都宮宗綱の子知家が八田氏を名乗ったことに始まるが、八田知家は小田氏の祖となり、小田城は小田氏累代の居城となった。
南北朝時代の城主は小田治久で、暦応元年・延元3年(1338年)北畠親房は吉野から海路常陸国へ入り神宮寺城に籠ったが、佐竹氏に追われ、阿波崎城に逃れるも再び佐竹氏に追われ小田城に入った。
暦応4年・興国2年(1341年)足利尊氏が派遣した高師冬は小田城を攻めたてるが容易に落城しなかった。しかし、小田治久は高師冬の和平交渉に応じて小田城を開城し、北畠親房は関城へ逃れた。
戦国時代末期の城主小田氏治は、拡大する小田原北条氏と越後上杉氏、またそれに対抗する佐竹・多賀谷・結城などの狭間にたたされ、幾度と無く小田城を奪われては、土浦城へ退き、また小田城を奪い返しては奪われることを繰り返していた。永禄12年(1569年)手這坂の合戦で大敗を喫し、さらに真壁軍に小田城へ先回りされ奪われた為、氏治は土浦城へ退き、以後小田城へ帰参することはなかった。

久下田城:天慶3年(940年)藤原秀郷が築いたのが始まりとされる。 藤原秀郷は平将門がおこした承平天慶の乱を討伐するために、上館(久下田城)・中館(伊佐城)・下館(下館城)を築いたという。
戦国時代になり下館城主水谷正村が宇都宮氏に対する備えとして久下田城を築いた。元亀元年(1570年)正村は家督を弟勝俊に譲り、隠居城としてこの久下田城へ移った。元和の一国一城令により廃城となった。

結城城:治承年間(1177年〜1180年)に結城朝光によって築かれたと云われるが定かではない。 結城氏は小山政光の四男で母は源頼朝の乳母寒河尼という。十四歳の時に武蔵隅田宿で陣を張っていた源頼朝に参見してその場で元服し、「朝」の字を賜わり朝光と名乗った。その後、下総国結城郡の地頭職を得て築いたのが結城城の始まりとされる。
16代結城政勝の時には下妻・下館・長沼・小山などに勢力を広げて戦国大名化する。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐には結城晴朝がいち早く参陣し、十万石の安堵を得るとともに、秀吉の養子となっていた徳川家康の二男秀康を養子に迎え、18代結城秀康となった。
慶長6年(1601年)結城秀康は越前国福井六十七万石に転封となって結城城は廃城となり、その後は天領となった。元禄13年(1700年)水野勝長が能登国西谷より一万石で入封。元禄16年(1703年)廃城となっていた結城城を再築して居城とし、以後明治に至る。

古河城:築城年代は定かではないか鎌倉時代に下河部行平によって築かれたと云われる。 下河部氏は小山政光の弟行義が下河部氏を名乗った事に始まり、その子行平が城を築いたという。

関東公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺したことがきっかけとなって享徳の乱が勃発すると、室町幕府も上杉方を指示し、駿河守護今川氏によって鎌倉は占拠され、成氏は古河公方館へ身を寄せる。これによって古河公方と呼ばれることとなり、成氏は後に修築した古河城へと入り、代々の御座所となった。

今回の旅行、関東地方の茨城県に足を運び、茨城県に点在する比較的マイナーなお城10か所を訪れ楽しみました。
お城が城址公園に変貌しているところが多く、散策できました。
今回ほとんどが平城でしたが地味な城跡が多いが場所の確認は容易でした。














 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十五弾:茨城県お城・城下町巡り
2016年4月16ー17日


関東地方の南北朝の内乱で、常陸国も2つの勢力に分かれ、激しく火花を散らし、この争乱で北朝方の佐竹氏が発展し、文禄4年の常陸統一につながっていく、関ヶ原後、石田三成に協力した佐竹氏は秋田の国替となる茨城県に足を運び点在する比較的マイナーなお城10箇所を訪れました。

16日13:50新大阪新幹線のぞみで出発
16:16品川駅到達
16:44品川駅特急ひたちで出発
18:07水戸駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
17日8:00レンタカーで出発、お城巡り

那珂西城:藤原秀郷流那珂氏の居城と考えられていたが、現在では大中臣姓(おおなかとみせい)那珂氏の居城とする説が有力となっている。大中臣姓那珂氏の祖はョ継の子宗経で、実経、実久と続く。実久は御家人として常陸国那珂東郡・那珂西郡などの地頭職を得て那珂中左衛門尉を称し、その子時久は那珂三郎左衛門を称している。那珂氏はその後、丹波国天田郡金山郷へと移って行くがその時期は明確ではない。那珂宗泰が足利尊氏に従って丹波へ移った説が有力ではあるが、その祖父経久の時代とも云われる。いずれにしても那珂氏は古くより丹波の地に所領を得ていたようである。

石神城:延徳2年(1490年)小野崎通老によって築かれたと云われる。
延徳元年(1489年)陸奥の伊達・葦名・結城の軍勢が常陸へ侵攻してきたさい、主君の佐竹義治の身代わりとなって小野崎通綱は討死した。この功によって通綱の子通老は河合350貫、石神350貫の地を与えられ、石神城を築いて石神氏を称したという。
天文5年(1536年)石神通長のとき領地の境界を巡って争いとなり、同族の額田城主小野崎額田就通に攻められ石神城は落城した。その後、石神氏は帰城を許され、天正5年(1577年)には石神通実が三百六十騎を率いて佐竹義重に従い結城晴朝を授けた。天正12年(1584年)石神通信は佐竹義重に従って府中を攻め討死、通信の子石神通広のとき、佐竹氏に従って秋田へ移り廃城となった。

太田城:築城年代は定かではないが天仁2年(1109年)に小野崎通延によって築かれたと云われる。 小野崎氏は藤原秀郷流を称し、太田大夫公通が下野国佐野郷より常陸国大田郷にきて初代小野崎氏となり、その子通延も太田大夫を称している。太田城築城に関しては、この通延あるいはその子通成によるものとする説もある。
長承2年(1133年)には佐竹氏初代佐竹義昌が佐竹郷八ヶ村を領して馬坂城主となり、二代佐竹隆義は久安年間(1145年〜1151年)頃に太田城主小野崎通成に圧力をかけ、通成は太田城を明け渡して小野崎城を築いて退き佐竹氏の家臣となった。以後、佐竹氏はこの太田城を居城とし、天正18(1590年)に江戸氏の水戸城を奪い居城を移すまで代々の居城であった。

助川海防城:天保7年(1836年)水戸藩主徳川斉昭によって築かれた。 水戸藩主徳川斉昭は家老の山野辺義観を海防総司に任命し、太平洋を見渡せる高台であるこの地に海防のための城を築かせた。
本丸、二の丸、三の丸を備えた本郭的な城郭であったが、元治元年(1864年)山野辺義芸のとき、天狗党の乱によって落城し焼失した。

龍子山城:築城年代は定かではない。応永年間(1394年〜1428年)に大塚氏がこの辺りを支配して龍子山城を居城としたと云われる。
大塚氏の出自は詳らかではないが佐竹氏の一族あるいは小野崎氏の一族とする説もある。多賀郡大塚郷を発祥とし菅股城主であったが、龍子山城を築いて移ったという。
大塚氏ははじめ佐竹氏に従っていたが、文明17年(1485年)岩城常隆が侵攻して車城を攻め落とすと岩城氏に従った。その後は代々岩城氏に従っていたが、戦国時代末期に佐竹氏の勢力が拡大すると佐竹氏に従った。慶長元年(1596年)大塚隆通のとき、陸奥国楢葉郡折木へ転封となる。慶長7年(1602年)岩城貞隆が所領を没収されると、大塚氏は伊達氏の家臣で陸奥国角田城主の石川昭光を頼って家臣となった。
慶長7年(1602年)佐竹氏が秋田へ転封となると出羽国角館から戸沢政盛が四万石を領して小川城へ入り、慶長11年(1606年)龍子山城を改修して松岡城と改称して居城とし、松岡藩となった。元和8年(1622年)出羽国山形の最上氏改易により出羽国新庄へ六万石で転封となった。
戸沢氏の後は水戸藩領となり、付家老中山氏の所領となった。宝永4年(1707年)中山氏の所領が太田へ移されると太田へ移ったが、享和3年(1803年)再び高萩地方を知行することとなり、松岡館が再建された。

笠間城:元久2年(1202年)笠間時朝によって築かれたと云われる。 笠間氏は常陸国茨城郡笠間発祥で、下野国宇都宮氏の支流塩谷朝業の次男時朝が笠間に住み、笠間氏を名乗ったことに始まる。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、笠間綱家は宗家の意に反して小田原北条氏に味方した為、秀吉は宇都宮国綱に命じて笠間氏を滅ぼした。 その後、宇都宮氏の支配下に置かれたが慶長2年(1597年)宇都宮氏が改易となった後は、下野国宇都宮に入封した蒲生氏郷の家老蒲生氏成が三万石で笠間に入封した。
慶長6年(1601年)武蔵国私市より(松井)松平康重が三万石で入封、慶長13年(1608年)丹波国篠山へ転封。
慶長13年(1608年)下総国佐倉より小笠原吉次が三万石で入封、慶長14年(1609年)改易。
慶長17年(1612年)下総国古河より(戸田)松平康長が三万石で入封、元和2年(1616年)上野国高崎へ転封。
元和3年(1617年)上野国小幡より永井直勝が三万二千石で入封、元和8年(1622年)下総国古河に転封。
元和8年(1622年)常陸国真壁より浅野長重が五万三千石で入封、正保2年(1645年)長直の時、播磨国赤穂に転封。
正保2年(1645年)遠江国横須賀より井上正利が五万石で入封、元禄5年(1692年)正任の時、美濃国八幡に転封。
元禄5年(1692年)下野国足利より(本庄)松平宗資が四万石で入封、元禄15年(1702年)資俊の時、遠江国浜松へ転封。
元禄15年(1702年)常陸国下館より井上正岑が五万石で入封、延享4年(1747年)正経の時、陸奥国磐城平へ転封。
延享4年(1747年)日向国延岡より牧野貞通が八万石で入封、以後明治に至る。

宍戸城:建仁3年(1203年)宍戸家政によって築かれたのが始まりとされる。 宍戸氏は八田知家の四男家政が常陸国宍戸荘地頭職となり、宍戸氏を称したことに始まる。 小田城の小田氏、下野国茂木城の茂木氏などは同族である。
元弘3年(1333年)宍戸知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。この家系が毛利元就の長女五龍局を正室に迎えて一門となった安芸宍戸氏で、江戸時代は一門筆頭として長州藩家老となっている。
宍戸氏は当初小田氏に従っていたが、佐竹氏の勢力が拡大し、小田氏が衰退すると佐竹氏に属していくこととなる。天正18年(1590年)小田原征伐に参陣した佐竹氏は、秀吉より常陸大半の領有権を安堵された。これにより水戸城の江戸氏を攻めると、宍戸義綱は江戸氏に荷担して佐竹氏と戦い討死した。義綱の子義長は鹿島へ逃亡、宍戸宗家は佐竹氏と親密な関係にあった義利が継ぎ、文禄4年(1595年)には海老ヶ島城へ転封となった。 義利が没すると宍戸義長が家督を継いだが、関ヶ原合戦後に佐竹氏は出羽国秋田へ転封となる。しかし宍戸義長は秋田へは従わず土着している。宍戸氏の一族のうち秋田へ移ったものもおり、茂木氏とともに出羽国十二所城に配された。
慶長7年(1602年)出羽国秋田より(安東)秋田実李が五万石に減封され宍戸城に移された。この実季によって近世宍戸城が築かれたものと考えられている。 秋田氏は正保2年(1645年)秋田俊季のとき、陸奥国三春へ五万五千石で転封となり、幕府直轄領となった。
天和2年(1682年)徳川光圀の弟松平頼雄が一万石を与えられて諸侯に列し、宍戸に陣屋を設けて支配した。以後、松平氏が代々続いて明治に至る。

難台山城:この城は、南北朝時代の南朝の勢力が失われようとしていた元中4年(1387)小田第8代孝朝の子、五郎藤綱が小山隆政若犬丸に加担して挙兵したところである。足利方は、上杉朝宗を将として攻めたが、小田五郎はよく奮闘し南朝のため気を吐いした。朝宗は攻撃に手を焼き、近くの舘岸城に拠って持久戦法をとった。一方佐竹氏に真壁方面からの糧道を絶たれるにおよんで万策つき、自らは部下と共に自刃した。この戦を機に、南朝方はその勢力を失った。城跡は、難台山頂近くにあり、雑木林の中にわずかに石を組んだ跡がのこっている。

真壁城:承安2年(1172年)真壁長幹によって築かれたと云われる。 真壁氏は大掾氏の支流で多気直幹の四男長幹が常陸国真壁郡真壁郷を領して真壁氏を名乗ったことに始まる。
真壁氏は初代長幹以後400年余り真壁城を居城として続くが、小田氏・江戸氏・結城氏など諸豪族の狭間にあって領地の維持に奔走している。戦国時代になると常陸国守護佐竹氏が国内統一へ向けて勢力を拡大し、また小田原北条氏が関東へ進出するなど巨大勢力が迫る中、真壁久幹は長男に北条氏政より氏の字受け氏幹、次男には佐竹義昭より義の字を受け義幹と名乗らせている。最終的には佐竹氏に属し、関ヶ原合戦後佐竹氏に従って出羽国秋田へ移り出羽国角館城へと移った。
浅野長政が五万石で入封し長重が継いだが、元和8年(1622年)笠間へ転封となり、寛永元年(1624年)には稲葉正勝が一万石で入封したが、正勝は寛永5年(1628年)に下野国真岡を継ぎ廃藩となり、その後は天領となって廃城となった。

小幡城:築城年代は定かではない。応永24年(1417年)頃に大掾詮幹の三男義幹による築城、あるいは鎌倉時代に小田知重の三男光重が築いたという説などがあるが、いずれも確証はない。
戦国時代には小幡氏がいたが水戸城の江戸氏の支配下に置かれ、府中城の大掾氏との領地境に位置する小幡城は、重要な支城と位置づけられていた。
天正18年(1590年)小田原征伐に参陣しなかった江戸氏は、常陸の大半を安堵された佐竹氏によって瞬く間に滅ぼされ、この小幡城もその役目を終えたと推測される。

18:27水戸駅特急ひたちで出発
19:43東京駅到達
20:00東京駅新幹線のぞみで出発
22:33新大阪駅到達。

今回の旅行、関東地方の茨城県に足を運び、点在するお城10箇所を訪れて楽しみました。
遺残の少ない城跡が多く、又城址公園に変化しているところも多く見受けられました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百八十五弾:茨城県土浦・結城・古河・下館観光
2012年3月31日ー4月1日
 

徳川家ゆかりの水戸、石畳の城下町・古河、紬の里・結城、水郷の町・潮来など、往時の面影を残す町が多い。筑波山や霞ケ浦、奥久慈野の滝など豊かな自然も魅力の茨城県に足を運び、関東の名山・筑波山と、広大な霞ケ浦があり商家の蔵が残る土浦、城下町の面影を残す町が多く室町時代から栄えた古河、土蔵造りの商家や武家屋敷が点在する紬の里・結城、SLの真岡鐵道が走る下館を訪れました。

3月31日13:27新幹線新大阪のぞみで出発、
16:03東京駅到達、山手線で上野経由して
16:30上野駅特急フレッシュひたちで出発予定でしたが強風で遅延、途中の駅松戸で下車し夕食を済ませる。
21:05土浦駅到達、駅付近のホテルで就寝。
4月1日8:00レンタカーで出発、土浦を観光。

土浦城の本丸と二の丸の一部を整備した城址公園。堀に囲まれた城の姿が水に浮かぶ亀に見えたことから、この名が付いたという。櫓門は江戸時代前期の城郭建築で本丸にある櫓門としては関東唯一のもの。亀城公園の東櫓は博物館付属資料館になっている亀城公園を訪れる。

筑波山方面に向かう。

昔から「西の富士、東の筑波」と愛称され、朝夕に山肌の色を変えるところから「紫峰」とも呼ばれている筑波山。男体山と女体山の2つの峰を持ち、古くから信仰の山として栄えてきました。山中には珍しい1,000種以上の植物が群生しており、植物研究の宝庫でもあり、登山・ハイキイングなど年間を通して自然に親しめるのが魅力。また、ロープウェー、ケーブルカーを使えば簡単に山頂にたどり着くことができ、子どもからお年寄りまで、だれもが美しい眺望を楽しめます筑波山を訪れる。

筑波山に鎮座し、伊弉諾尊と伊弉冊尊を祀る神社。男女2神が祀られていることから、縁結びや夫婦和合に御利益があるといわれている。本殿は男体山と女体山の山頂にあり、中腹の拝殿は遥拝所となっていて、筑波山登山の起点でもある。近くには筑波山梅林があり、早春には多くの人で賑わう筑波山神社を訪れる。

下館方面に向かう。

地域交流センター内にある地域密着型の美術館。地元出身の陶芸家・板谷波山や洋画家の森田茂の作品を中心に、地域にゆかりのある作家の作品を収集展示。波山作の『彩磁菊花図額皿』や森田茂の油彩画『黒川能』、人間国宝の漆芸家・大西勲の作品などが鑑賞できるしもだて美術館を訪れる。

陶芸家で初めて文化勲章を受章した、筑西市出身の板谷波山の記念館。自ら築造した三方焚口倒炎式丸窯や作品、資料を見学できる。波山の作風は、力強い中にも花など繊細な風物をとり込んだ、剛と柔の融合が特徴の板谷波山記念館を訪れる。

結城方面に向かう。

はるか悠久の昔から麻や木綿の産地だった結城市。現在も昔ながらの工程を経て織り上げられる結城袖は、国の重要無形文化財の指定を受けている。織りの様子を見学できる観光スポットも多く、織り体験も楽しめる。小ぢんまりとした市内中心部には歴史を感じさせる古社寺が点在し、今も多く残る木造の建物や蔵がしっとりとした佇まいを見せている結城を訪れる。

浄土真宗本願寺派の寺院。評定衆として幕府にも参加した結城家初代・朝光が、親鸞の高弟・真仏を招き開基。寺号の稱名寺とは、朝光が出家して親鸞に賜った法名に由来するという。親鸞の直筆といわれる「往生要集」の断簡、朝光肖像画や木像、御霊屋門、二条門など数々の文化財を所蔵。大きな銀杏の木と親鸞聖人の銅像がある境内の奥には、初代朝光から四代時広までの墓がある称名寺を訪れる。

古河方面に向かう。

1920年(大正9)築の石蔵を改装した、篆刻専門の美術館。古河出身の作家・生井子華の作品を常設展示している篆刻美術館を訪れる。

永井路子、小林久三、佐江衆一、和田芳恵、粒来哲蔵、粕谷栄市、沖ななもなど、古河ゆかりの小説家・詩人・歌人・児童文学者の関係資料を展示。別室では、幼児雑誌の金字塔ともいえる「コドモノクニ」の原画を含む資料を見ることができる古河文学館を訪れる。

桃の花の名所として知られるおよそ25万平方mの広大な敷地の総合公園、園内には足利成氏の古河滞在中の別館だった古河公方館跡や延宝2年(1674)頃建築された旧中山家住宅などの史跡もある。また、2000年前の地層から発見された古代ハスの種を発芽させた「大賀蓮」や、3月中旬〜4月上旬には2000本もの花桃など、季節の花も楽しめる古河総合公園を訪れる。

常総方面に向かう。

戦国時代末期、北条氏の北関東進出拠点として築かれた逆井城。豊臣秀吉の小田原征伐により廃墟となったが、現在でも外壁と土塁が残る。当時、二階門と呼ばれていた櫓門を発掘調査を元に復元するなど、主殿や二層櫓がある公園内は戦国時代にタイムスリップしたようだ。園内では春になるとソメイヨシノのほか、一重でピンク色の花びらが可憐な地元生まれの桜・紅猿島も楽しめる逆井城跡公園を訪れる。

茨城県最大の自然環境保全地域「菅生沼」のほとり、約16万平方mの広大で豊かな自然の中にある県立の自然博物館。館内では46億年前の地球の誕生や生物進化をはじめ、宇宙、自然・生命の仕組みや環境をジオラマや映像、さわれる標本等を使って判りやすく解説する。シンボルとして体長9mの松花江マンモスや体長26mのヌオエロサオルスの全身骨格標本(複製)も展示される。自然観察ができる野外施設を併設し、貝化石の発掘などの体験もできるミュージアムパーク茨城県自然博物館を見学。

15:00土浦に戻る。
16:05土浦到達。
16:23土浦駅特急フレッシュひたちで出発、上野山手線経由で
17:15東京駅到達。
17:47東京駅新幹線のぞみで出発
20:23新大阪駅到達。

今回の旅行、3回目の訪れである関東の茨城県に足を運び、広大な霞ケ浦があり商家の蔵が残る土浦、関東の名山・筑波山、、SLの真岡鐵道が走る下館、土蔵造りの商家や武家屋敷が点在する紬の里・結城、城下町の面影を残す町が多く室町時代から栄えた古河を訪れ比較的マイナーで地味ではあるが茨城県の西部のエリアドライブ観光楽しめました。

今回でほぼ茨城県は制覇できました。

  









飛行機で国内&海外の観光地巡り第百十八弾:茨城県つくば&土浦&潮来観光
2010年11月6ー7日


関東地方の北東に位置し、東は太平洋に面する。県庁所在地は水戸市で、国策によって作られた筑波研究学園都市がある茨城県に足を運び、科学の街として知られ、緑溢れる中に洗練された店が点在し、筑波山や周辺の温泉でくつろげる多彩な顔を見せるつくば、千葉県と県境にあり古くから船運で栄えた水瓶の街、アヤメが海辺を彩り、情緒溢れる潮来を訪れました。

6日13:07新大阪駅新幹線のぞみで出発、
15:36東京駅到達、山手線で秋葉原に向かう。
16:15秋葉原駅つくばエクスプレスで出発
17:05つくば駅到達、駅付近のホテル到達後、市街地を散策し食事を済ませて就寝。

7日6:00レンタカーで出発、つくばエリアを巡る。

見て、触って楽しく学べる科学館。宇宙や深海、エネルギーなどに関する体験型の展示を行っている。ドーム径25.6mある世界最大級のプラネタリウムでは、美しい星空と、大ドームいっぱいに広がる迫力の全天周映像が楽しめる。定期的に各種イベントを開催し、市内の研究機関の活動なども紹介。屋外にそびえ立つ、高さ約50mのH-IIロケット実物大模型が目印のつくばエキスポセンターの前で記念撮影。

中央公園の一角に立つ、つくば文化会館アルス1階にある美術館。年2回、国内外の優れた美術品を紹介する館主催の展覧会を開催。それ以外の期間は、貸ギャラリーとして利用されている茨城県近代美術館の前で記念撮影。

日本の宇宙開発における中心的な事業所。宇宙飛行士の養成および人工衛星などの研究開発・試験・追跡を行っている。日本で唯一、本物のHIIロケットを展示。展示室には実際に燃焼実験に使われたロケットエンジンやさまざまな人工衛星の試験モデルが数多く並び、「きぼう」日本実験棟開発用モックアップの中に入ることもできたりと、宇宙開発を間近で見て、感じて、学ぶことができる宇宙航空研究開発機構筑波宇宙センターの前で記念撮影。

牛久に向かう。

1903年(明治36)、浅草「神谷バー」の名で知られる神谷傳兵衛により創設された、日本初の本格的ワイン醸造場。時計台をあしらった赤レンガ造りの洋館は、日本のワインの歴史そのもの。かつての醸造場は現在では記念館やレストランになり、シャトーカミヤならではのワインや地ビールで料理を楽しみながら過ごせるシャトーカミヤを訪れる。

ギネスブックに登録された高さ120mの青銅製大仏。その迫力ある姿は遠方からでも目にすることができる。胎内は光の世界など5層に分かれており、地上85mまではエレベーターで昇って見学できる。大仏の足元には四季の草花で彩られる花畑が広がり、小動物公園もある牛久大仏を訪れる。

土浦に向かう。

江戸から明治時代に建造された呉服屋と商家の蔵を改修した観光施設、土浦まちかど蔵を訪れる。
霞ヶ浦に沿って潮来に向かう。

潮来市にある市営あやめ園の中で最も規模が大きく、北利根川に注ぐ前川の河口から続く園内にはアヤメや花菖蒲が植えられている。6月には白・紫・黄など色とりどりの花が咲き誇り、縦横にめぐらされた木道を歩いて観賞できる前川あやめ園を訪れる。

源頼朝が鎌倉入りを前にした1185年(文治元)に、武運長久を祈願して創建した臨済宗の名刹。江戸時代に徳川光圀の肝いりで修復整備を行い、唐様建築で茅葺きの仏殿が再建された。境内には北条高時寄進の銅鐘(重要文化財)や、松尾芭蕉が『鹿島紀行』で詠んだ句を刻んだ碑が立っている長勝寺を訪れる。

鹿島に向かう。

紀元前660年(皇紀元)創祀と伝えられる、常陸国一の宮で、国指定の史跡。水戸藩初代藩主・徳川頼房が奉納した鮮やかな朱色の楼門は、熊本県阿蘇神社、福岡県筥崎宮と並ぶ日本三大楼門の一つ。その先には本殿、拝殿(いずれも重要文化財)などが厳かに鎮座している。また、宝物館では我が国最古最長の直刀(国宝)をはじめ、300点余りの文化財を公開している鹿島神宮を訪れる。
2002年ワールドカップの会場にもなった、鹿島アントラーズのホームスタジアム。併設のカシマサッカーミュージアムでは、鹿島アントラーズが獲得した優勝トロフィーやサインジャージを展示。名勝負を大画面で楽しめる映像シアターもあるカシマサッカースタジアムを訪れる。

つくばに向かう。

17:00つくば到達
17:20つくば駅出発
18:05秋葉原到達、山手線で東京駅に向かう。
18:20東京駅新幹線のぞみで出発
21:00新大阪駅到達

今回の旅行、2回目の訪れである北関東の茨城県に足を運び、さまざまな研究機関が集中する、世界の科学都市、未来都市の魅力を体験できるつくば

ギネス公認の世界一の超高層大仏牛久大仏や日本初の本格的なワイン醸造場のシャトー・カミヤなどが位置する牛久、日本第二の広さの淡水湖霞ヶ浦に隣接する土浦

利根川下流の水郷巡りで有名な潮来、勝負の神様で知られる鹿島神宮、鹿島アントラーズのホームタウンでもある鹿島を訪れ広々とした茨城のドライブ観光楽しめました。

初めてのおとずれのつくば、広々とした平野に、大きな建築物が込み合わず点在し、外国に来た気分になりました。進化し続ける世界の未来都市、研究都市つくば、今後の発展、楽しみですね。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第五十八弾:茨城県水戸&袋田&北茨城&大洗観光
2009年4月18−19日


今回は茨城県の県庁所在地でもあり、梅で有名な偕楽園や弘道館など、水戸徳川家ゆかりの史跡や名所が残る水戸、関東最古の焼き物の街、笠間、日本三大名瀑の一つ、袋田の滝のある袋田エリア、六角堂で有名な五浦海岸や磯原海岸のシンボル、二ツ島など県内屈指の景勝地、北茨城、迫力のある海の世界を実感できるアクアワールドのある大洗に足を運びました。

18日13:00新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:36東京駅到達、山手線で上野に向かう
16:00常磐線上野駅から特急スーパーひたちで出発
17:02水戸駅到達、水戸駅北口に水戸黄門の名で知られる水戸2代藩主徳川光圀公の銅像を訪れてからレンタカーで水戸タウン観光巡り。

桜並木の遊歩道に囲まれた周囲約3kmの湖、湖面には白鳥や水鳥が優雅に泳ぐ姿が見られる千波湖を中心とする一帯の千波公園を散策する。
金沢の兼六園、岡山の後楽園と並ぶ日本三名園の一つ。1842年(天保13)、徳川斉昭によって造園され、民と偕に楽しむ場にしたいという願いから偕楽園と名付けられ、12.7万平方mの広々とした園内には、100種3000本の梅が植えられている偕楽園を散策する。

第9代藩主・徳川斉昭により創建された水戸藩の藩校、儒学や武道をはじめ医学、音楽、天文学など幅広い教育を行い、藩士子弟に文武両道の修練を積ませていた当時の藩校としては最大規模で、第15代将軍・徳川慶喜もここで学んだ弘道館と近くの水戸城跡を散策する。

水戸駅の近くのホテルに到達後市街地を散策して食事を済ませてから宿に就く。

19日6:00レンタカーで出発、天候快晴、絶好の観光日和、北の袋田方面に向かう。

久慈川の支流、大生瀬川に位置する落差17m、幅12mの滝でせり出した岩場から流れ落ちているので、滝の裏側からも鑑賞できる月待の滝を訪れる。
華厳の滝、那智の滝と並ぶ日本三大名瀑の一つで久慈川の支流・滝川にかかる落差120m、幅73mの滝で、四段に流れ落ちることから別名四度の滝という袋田の滝を訪れる。

東に向かい太平洋側の高萩方面に向かう。
花貫川沿いに、名馬里賀ケ淵・不動滝・汐見滝吊り橋などの奇勝が続く花貫渓谷を散策する。

江戸時代中期ごろに建てられた豪農の住宅で主門、長屋門、前蔵、衣装蔵、庭園からなり、この主屋や庭園は、江戸時代の屋敷絵図にもほぼ現状の姿で描かれており、江戸時代中期の豪農住宅を知るうえで貴重な文化遺産となっている穂積家住宅を訪れる。

北方の北茨城方面に向かう。
1階は童謡『赤い靴』『七つの子』『兎のダンス』などで知られる、詩人野口雨情の書や手紙などを展示する記念館、2階では北茨城市の歴史・民俗資料を展示し、石炭産業から現代産業に至るまでの変遷を紹介している北茨城市歴史民俗資料館・野口雨情記念館を見学。
明治時代に立てられた、2階建ての屋敷、磯原の海を望む抜群の立地で、県の文化財に指定されている野口雨情生家・野口雨情生家資料館を見学。

太平洋の荒波に侵食されできた大小5つの入江が連なり、高さ50mの断崖絶壁が続き、岡倉天心が愛した地としても知られ、日本の渚百景にも選ばれている六角堂や茨城県天心記念五浦美術館がある五浦海岸を散策。

岡倉天心が活動の拠点とした、五浦海岸に立つ施設、明治時代、東京美術学校(現東京芸術大学)の校長として横山大観や下村観山を育て、日本美術院を設立、その天心に関する資料や弟子たちの作品をはじめ、近代日本画などを展示している茨城県天心記念五浦美術館を見学。

南西の笠間方面に向かう。
陶芸美術館、窯業指導所などからなる笠間芸術の森公園内の施設、笠間焼の人間国宝松井康成の作品展示室をはじめ、幅広く作家の作品を集めたショップ、カフェなどの施設があり、陶芸体験21もできる笠間工芸の丘を散策する。

笠間芸術の公園内にある、陶芸専門の美術館、日本の近現代陶芸界で優れた業績を残した文化勲章受章者、人間国宝の作品を常設展示する茨城県陶芸美術館を見学。

銀座・日動画廊の創始者、長谷川仁・林子夫妻のコレクションを基に展示、安井曾太郎、梅原龍三郎ら国内の代表的画家、モネ・ゴッホ・ピカソほか海外の印象派など収蔵作品は約2000点、東郷青児ら、画家が制作時に使用していたパレットのコレクションが興味深い笠間日動美術館を見学。

五穀豊穣、商売繁盛の神として広く信仰を集める神社、創建は651年と伝えられ、京都の伏見稲荷や九州の祐徳稲荷と並び称される笠間稲荷神社を訪れる。

東の大洗方面に向かう。
60の水槽に580種類6万8000匹が泳ぎ、中でもマンボウ専用の巨大水槽と約50種類のサメの展示は日本一を誇るアクアワールド大洗を見学。

幕末から明治にかけての激動の時代を生き抜いた人々をビデオやジオラマ、展示品などで紹介、明治天皇をはじめ、坂本龍馬、勝海舟らの遺品も見られる幕末と明治の博物館を見学。

856年(斉衡3)創建、大己貴命・小彦名命を祀り、古くから医薬の大神、幸福を授け良縁を与える神として信仰されている大洗磯前神社を訪れる。

高さ60メートルの展望室からは、眼下に太平洋をはじめ、遠くには富士山や筑波山という絶景が望める大洗マリンタワーを訪れる。

水戸方面に向かう。
17:00水戸駅到達、食事を済ませてから
18:27常磐線特急スーパーヒタチで出発
19:30上野駅到達、京浜東北線で東京に向かう。
19:57新幹線のぞみで東京駅出発
22:30新大阪駅到達


今回の旅行、関西の方はあまり訪れない茨城県、飛行場も無く、関西からは新幹線、常磐線を乗りついてほぼ4時間かかる関西からは遠方の茨城県、県庁所在地でもあり、梅で有名な偕楽園や弘道館など、水戸徳川家ゆかりの史跡や名所が残る水戸、関東最古の焼き物の街、笠間、水戸から北部のエリアである日本三大名瀑の一つ、袋田の滝のある袋田エリア、六角堂で有名な五浦海岸や磯原海岸のシンボル、二ツ島など県内屈指の景勝地、北茨城、迫力のある海の世界を実感できるアクアワールドのある大洗をドライブ観光で茨城中部から北部エリアをほぼ制覇しました。

東京の近辺にもかかわらず水戸の市街地は町としてはあまり大きくなく、人もまばら、繁華街での人並みも少なく、郊外も道路は整備されているが車は少なくのんびりドライブを楽しむことが出来ました。東京近郊の田舎風を味わうのはいいエリアかもしれませんね。

次回は南部の筑波、潮来、鹿嶋、、結城エリアを攻めてみたいと思います。