広島

飛行機で国内&海外の観光地巡り第七百十弾2024年4月6−7日広島県比和自然科学博物館、三次もののけミュージアム、辻村寿三郎人形館、広島県立歴史民俗資料館、広島市安佐動物公園、ヌマジ交通ミュージアム観光 

中国地方の広島県に足を運び、広島県に位置する比和自然科学博物館、三次もののけミュージアム、辻村寿三郎人形館、広島県立歴史民俗資料館、広島市安佐動物公園、ヌマジ交通ミュージアムを観光しました。

6日14:02新大阪駅新幹線のぞみで出発。
15:27広島駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

7日8:00レンタカーで出発庄原方面に向かう。

比和自然科学博物館:庄原市比和町は中国山地のほぼ中央に位置しているマチです。ここに暮らす人びとは、豊かで多彩な中国山地の自然の恵みを受けながら、日々の生活を築き上げ、文化を育んできました。当博物館は、広島県内唯一の自然史系博物館として、この中国山地の自然・地理・歴史的背景を踏まえながら、中国山地の情報源・情報発信地にとどまらず、さらに広く西日本の自然史の情報発信地になることを目指しています。

三次方面に向かう。

三次もののけミュージアム:民俗学者で、妖怪研究家でもある湯本豪一氏(1950年~)から寄贈された約5000点のコレクションを展示する博物館。博物館の建つ三次市三次町は、江戸時代中期の妖怪譚《稲生物怪録(いのうもののけろく)》の舞台となった地。古来、日本人が、自然現象による災害や疫病など人知を超えた現象を、「もののけ(妖怪)」に由来するものとして畏れ、時には敬いながら共存してきた「妖怪」を、さまざまな展示により系統的に紹介している。年に数回の企画展のほか、「チームラボ 妖怪遊園地」では、描いた妖怪がスクリーンで動きだす、インタラクティブな作品を体験できる。

辻村寿三郎人形館:三次市で少年時代を過ごした人形作家・辻村寿三郎の作品を展示しています。NHKの「新八犬伝」で人形美術を担当して国内外で活躍、多くの作品を作ってこられました。三次市歴史民俗歴史館の一部を改装して「辻村寿三郎人形館」としてオープンしました。

広島県立歴史民俗資料館:芦田川の中洲から発掘された草戸千軒町遺跡の遺物を中心に、中世の民衆史を紹介している。かつての港の様子が実物大に再現されている。

安佐方面に向かう。

広島市安佐動物公園:アフリカゾウやクロサイ、レッサーパンダなど主にアフリカとアジアの動物150種1100頭を、広い園内でより自然に近い姿で見られる。

ヌマジ交通ミュージアム:古今東西・陸海空の乗り物の模型やしくみなどに関する資料を多数展示し、乗り物の誕生から現在に至るまでの歴史を紹介しています。 路面電車コーナーでは、広島電鉄の現有する路面電車の模型をすべて展示しています。また、屋外には被爆電車650形654号の展示もあります。

広島駅に向かう。

17:03広島駅新幹線のぞみで出発。
18:28新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県に足を運び、広島県に位置する比和自然科学博物館、三次もののけミュージアム、辻村寿三郎人形館、広島県立歴史民俗資料館、広島市安佐動物公園、ヌマジ交通ミュージアムを観光し楽しみました。

全て初めての訪れでした。












 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百六十六弾
2023年5月13−14日広島県立歴史博物館、ふくやま文学館、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)、福山市鞆の浦歴史民俗資料館観光

中国地方の広島県にに足を運び、広島県に位置する広島県立歴史博物館、ふくやま文学館、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)、福山市鞆の浦歴史民俗資料館を観光しました。
13日14:02新大阪駅新幹線のぞみで出発。
15:03福山駅到達、観光。

広島県立歴史博物館:瀬戸内の近世文化と歴史の展示を知るならここ!
芦田川の中洲から発掘された草戸千軒町遺跡の遺物を中心に、中世の民衆史を紹介している。かつての港の様子が実物大に再現されている。

ふくやま文学館:郷土ゆかりの文学者の足跡を辿り顕彰する施設
福山市及び近接市町村ゆかりの文学者の顕彰、資料の収集・展示を行う文学館。建物は展示の中心作家井伏鱒二の郷里の民家をイメージして造られている。

17:30福山駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

14日8:00レンタカーで出発、呉に向かう。


呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム):10分の1の世界最強戦艦「大和」を見に行こう!
戦前には軍港や戦艦大和を建造した海軍工廠があった呉に開館した科学館。呉の歴史と、造船や製鋼をはじめとした科学技術を、当時の生活・文化に触れながら紹介する。館内には戦艦大和を詳細に再現した実物の10分の1サイズの模型が展示されており、同館のシンボルとなっている。また、簡単な工作を通して科学の原理を体験できる実験工作室や艦船に関する資料などを豊富に揃えたライブラリーがある他、呉港が見渡せる展望テラスもあり、運が良ければ航行中の艦船を見ることができる。

鞆の浦に向かう。

福山市鞆の浦歴史民俗資料館:鞆の浦の歴史・産業・芸術などを紹介する資料館
「鞆の浦歴史民俗資料館」は、古くは”潮待ちの港”として栄えてきた鞆の浦の歴史・産業・芸術などを紹介する資料館。鯛網漁のジオラマやイカリづくりの鍛冶場、鞆の浦ゆかりの箏曲家・宮城道雄の愛用琴などが展示されています。


14:30福山駅に向かう。

15:35福山駅新幹線のぞみで出発。
16:37新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県にに足を運び、広島県に位置する広島県立歴史博物館、ふくやま文学館、呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)、福山市鞆の浦歴史民俗資料館を観光し楽しみました。
全て初めての訪れでした。

広島大学総合博物館、おのみち歴史博物館はクローズで見学できませんでした。







 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十五弾:広島県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年5月30−31日
  

中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地7か所(鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)を訪れました。

30日13:38新幹線のぞみで出発、
14:39福山駅到達、レンタカーで出発

鞆の浦:福山駅から南へ14kmの瀬戸内海沿岸のほぼ中央に位置する鞆の浦。古くから潮待ちの港として栄え、万葉集にも詠まれています。また、日本で最初の国立公園に指定された瀬戸内海を代表する景勝地の1つです。波穏やかな瀬戸の海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶのどかな風景は心洗われます。江戸時代には北前船の寄港地としても栄え、朝鮮通信使も幕府の慶賀などのために度々寄港。福禅寺が迎賓の場所として使われました。福禅寺本堂隣の「対潮楼」は1690年頃に客殿として建てられたもので、賓客の宿舎として使われました。座敷からは瀬戸内海の絶景が広がり、朝鮮通信使の従事官の李邦彦が「日東第一形勝」(対馬より東で一番美しい景い勝地という意)と賞賛しました。鞆の浦は国内外との交易で栄えた港で歴史に名高い旧跡や遺構も多く残されています。最近では、映画のロケ地や演歌の舞台となるなど、注目を集めています。2018年5月には、鞆の浦の港町文化をテーマとしたストーリー「瀬戸の夕凪が包む 国内随一の近世港町〜セピア色の港町に日常が溶け込む鞆の浦〜」が日本遺産に認定。一つの地域が国の「重要伝統的建造物群保存地区」、ユネスコ「世界の記憶」と合わせて3つの評価を受けているのは、国内で鞆の浦だけです。

上下:広島県の府中市にある上下町は、かつて石見銀山からの銀の集積中継地であったため、幕府直轄の天領として地域の政治・経済の中心地でした。そのため現在でもその面影を残す白壁・なまこ壁の美しい建物が並ぶロマンあふれる町並みが残っています。
またこの上下は「分水嶺」と呼ばれる山脈の上の境目の町で、ここに降った雨は北は日本海へ、南は瀬戸内海へと2つの川に分かれて流れる、という地理的な特徴を持つ町でもあります。

18:30尾道駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

31日6:00レンタカーで出発

尾道:自然の良港を持つ尾道は、平安時代の嘉応元年(1169年)、備後大田荘(後、高野山領)公認の船津倉敷地、荘園米の積み出し港となって以来、対明貿易船や北前船、内海航行船の寄港地として、中世・近世を通じて繁栄をとげました。港町・商都としての発展は各時代に豪商を生み、多くの神社仏閣の寄進造営が行われました。
 海を望む階段や坂道、路地越しに見える尾道水道、点在する寺院など、歴史を凝縮した景観に魅かれ、この地で「暗夜行路」の草稿を書いた志賀直哉、尾道の女学校に通った「放浪記」作者の林芙美子、この地をこよなく愛し描き続けた小林和作をはじめ、多くの文人墨客が足跡を刻みました。また、近年では数々の映像作品の舞台となり映画のまちとしても有名です。
 明治31年(1898年)、県内では広島市に次いで2番目に市制を施行し、周辺市町村との合併(※)を経ながら市域を拡大して、緑豊かな北部丘陵地域から尾道水道周辺地域を経て独特の多島美を有する瀬戸内海地域に至る、多彩な資源を有するまちになりました。
 歴史と文化に溢れる島々を結び、全長約70kmの海の道をサイクリングで満喫できるしまなみ海道をはじめとする新たな魅力と歴史・伝統に育まれた資源を活かし、他にはない魅力的な価値を持つまちづくりを推進しています。
 瀬戸内のほぼ中央に位置し、山陽自動車道、瀬戸内しまなみ海道に加え、平成27年(2015年)3月に全線開通した中国やまなみ街道(中国横断自動車道尾道松江線)により、広域拠点としての機能は高まり、まさに「瀬戸内の十字路」としての発展が大いに期待される都市です。

竹原:海地区は,古くから海運の要として繁栄した地区であり,JR忠海駅の北側には潮待ち港として港町の歴史ある建築物が多く残っており,南側には大久野島への玄関口である忠海港や瀬戸内特有の風光明媚な自然景観などの地域資源を有しています。

西城:駅の東側に多くの酒造施設が密集し、レトロな洋館社屋を前に構え、赤い煉瓦煙突を看板代わりにした西条独特の酒造会社スタイルの醸造元や、白い漆喰と黒い海鼠壁とのコントラストが美しい土蔵造りの酒蔵群、千本格子の町家造りも残るバラエティに富んだ町並みを散策してみてはいかがでしょう。駅の西側にも二軒の蔵元があり、カフェやレストランなどもやっています。

御手洗:「御手洗(みたらい)」という地名の起こりは、神功皇后が、三韓侵攻の時、この地で手を洗われたという事から、呼ばれるようになったという伝説があります。もう一点は、901年、菅原道真公が大宰府に左遷されたとき、九州に向う途中で、この地に船を着け、天神山の麓で、口をすすぎ、み手を洗われ、お祈りをしたという伝承が残っています。現在、この麓に天満神社が祀られ、「菅公御手洗いの井戸」として、深い信仰を集めています。お正月の書き初めにこの井戸の若水を使うと文字が上手になるといわれています。江戸時代より風待ち、潮待ちの天然の良港とされていた御手洗は人と情報が集まる要衝地として十八世紀に入って急速に発展した。四軒の「茶屋」が置かれ花街として歴史に色を添えた遊女達。夕暮れ時、聞こえる三味の音、無数の宿の灯りなど、海面に映える隆盛の輝きは黄金の島にふさわしい景色だったことでしょう。今は江戸時代の家並みと史跡から伺い知ることが出来ます。

宮島:宮島は、太古からその島の姿と、弥山[みせん]を主峰とする山々と、昼なお暗い原始林に覆われた山容に霊気が感じられたところから、周辺の人々の自然崇拝の対象となっていました。嚴島神社は、社伝によりますと推古元年(593)に佐伯部[さえきべ]の有力者であった佐伯鞍職[さえきくらもと]により現在の場所にご創建されたと伝えられています。大同元年(806)に、僧空海(弘法大師)が唐から帰朝し、京の都へ帰る途中に宮島をご覧になり、島から霊気を感じ、ここは霊場に違いないと弥山に御堂を建て、百日間の求聞持[ぐもんじ]の修法をされました。このとき修法で使われた火が、今なお弥山霊火堂で燃え続けている「消えずの火」です。久安2年(1146)に、平清盛が安芸守に任ぜられました。清盛公は、夢枕に立った老僧から「嚴島神社を造営すれば、きっと位階を極めるであろう。」という示現を受け止め、嚴島神社を深く信仰し、当時の寝殿造りを模して造営され、また舞楽を大阪四天王寺から移したほかに、清盛公をはじめ一門により法華経を写経し、清盛の願文[がんもん]と共に奉納された写経が平家納経で、国宝中の国宝と言われています。このほか甲冑や刀剣をはじめ等美術工芸品を奉納するなど、都の文化を宮島に移しました。また社領を増やすなど厚い庇護をいたしました。都からは、清盛公をはじめ平家一門のほか、後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院・中宮徳子らの皇族や貴族が社参しています。平家は壇ノ浦に滅びましたが、その後の鎌倉幕府や室町幕府、地元の領主大内氏や毛利氏、また、豊臣秀吉も篤く信仰し庇護いたしました。人々が宮島に住み始めたのは、鎌倉時代末と思われます。初めに、神職や供僧が住み、そして庶民が住み始めたと思われます。戦国時代、中国地方の有力者であった大内義隆は、宿老の陶晴賢[すえはるかた]の謀反により長門大寧寺[だいねいじ]で自刃してしまいました。義隆と盟友関係にあった毛利元就は、晴賢に兵を向けましたが、兵力は陶軍がはるかに優勢であったので、策を謀り、宮島の北に位置する宮ノ尾に城を築き陶軍を宮島に誘き寄せました。弘治元年(1555)9月のことです。陶軍は、2万の兵を宮島に上陸させ、まず勝山城(多宝塔付近)に本陣を置き、続いて宮ノ尾城が良く見える塔の岡に置いて攻めたてましたが、守りが堅くなかなか落とすことができませんでした。元就は、10月1日おりからの暴風と暗闇にまぎれて対岸の地御前[じごぜん]から3千5百の兵を引き連れて密かに包ヶ浦[つつみがうら]に上陸し、塔の岡の背後の尾根である博打尾[ばくちお]に登り、一気に陶の本陣めがけて攻め下りました。陶軍は、混乱し戦うすべもなく敗走しました。陶軍の勇将弘中隆包(ひろなかかね)は、絵馬ヶ岳(駒ヶ林)に敗走して自刃し、晴賢はわずかな手勢を引き連れ大江の浦に落ち延びましたが、自刃し果ててしまいました。この戦いを「厳島合戦」といい「日本三奇襲戦」の一つといわれています。毛利氏は、陶氏を滅ぼし中国十カ国のほか豊前や伊予を支配し強大な勢力を誇る戦国大名になりました。毛利元就・隆元父子は、天神社を創建し、反橋[そりばし]や大鳥居の再建や社殿の廻廊を張り替え、また能舞台を寄進し演能するなど、その後の嚴島神社の発展に大きく寄与しています。豊臣秀吉は、天正十五年(1587)戦没将兵の供養のため、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に命じて大経堂(千畳閣)を造立いたしましたが、慶長3年(1598)秀吉が亡くなったため、完成間近で工事は中止されました。完成していれば桃山時代の美術工芸の粋を集めた素晴らしい建物になっていたことでしょう。江戸時代になると、福島正則が安芸国の藩主となり商業・廻船業を保護いたしました。続いて藩主となった浅野氏も継承し、宮島は交易の中継基地として発展し、歌舞伎や大相撲・富くじなどが催され、瀬戸内地方文化の中心地としても栄えました。僧誓真[せいしん]は、広島で米屋を営んでいましたが、一念発起、宮島光明院で仏門に入り了単[りょうたん]上人の導きを受けました。当時から島には多くの貴人・文化人・商人・参拝客が訪れていましたが、これという宮島の産業がないことを嘆き、弁財天の琵琶をヒントに杓子を考案して島民に教え普及いたしました。
また水不足を解消するために井戸を掘り(誓真釣井)、雁木[がんぎ]を造るなど宮島の恩人の一人として今でも慕われ、光明院の近くにはその遺徳を称え誓真大徳碑が建立されました。 慶応元年(1865)尊皇倒幕を推進する長州藩とそれを押さえようとする徳川幕府の間で第二次長州戦争が起こりました。慶応2年(1866)大願寺が休戦交渉の場所となり、幕府海軍奉行勝安房守(勝海舟)と長州の広沢正臣らで休戦会談が行われました。明治元年(1868)神仏分離令が発令され、廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]運動が起こり、宮島に多くあった寺院が廃寺となりましたが、主な7ヶ寺が残り、嚴島神社や千畳閣・五重塔にあった仏像が寺院に移されるなど少なからずの混乱がありました。明治8年(1876)に傷みの進んでいた大鳥居が建て替えられました。何年もかかって主柱となる材料(楠の自然木)を探し出し、宮崎県の現在の西都市と香川県の丸亀市から調達し、他の部材は広島市や宮島内で調達し再建されました。初代の総理大臣伊藤博文(1841〜1909)は、弥山三鬼大権現を篤く信仰し宮島をたびたび訪れています。弥山三鬼堂や大願寺の掲額(現在は歴史民俗資料館に展示)は、伊藤公の直筆といわれています。また、伊藤公は浄財を集め、私財をあてて、弥山登山道を整備いたしました。大正12年(1923)宮島全島が国の史跡名勝に指定され、昭和25年(1950)には瀬戸内海国立公園に指定され、また平成8年12月には、嚴島神社が原爆ド−ムと共にユネスコ(国際連合教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録されました。嚴島神社は、ご創建以来、台風や落雷などの自然災害や厳島合戦・神仏分離令などのため、再建・修復の繰り返しで今日の姿があります。

17:00終了、広島駅に向かう。

18:00広島駅到達。
18:42広島駅新幹線のぞみで出発
20:07新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地7か所(鞆の浦、上下、尾道、竹原、西城、御手洗、宮島)を訪れ楽しみました。

上下、御手洗は初めての訪れで散策巡りました。重要伝統的文化地区の街並みは何処も類似していることが多いですが初めての訪れは新鮮味を感じながら巡り楽しめました。
他の重要伝統的文化地区は何回か訪れたことがあり過去の記憶を確認しながら巡りました。

尚緊急事態宣言解除により、人も車も増えていますがまだ以前の賑やかさには程遠いです。これから徐々に増えていくでしょうね。感染防御対策しながら訪れることですね。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百十六弾:広島県大仏、古墳、塔観光
2020年3月28−29日
  

中国地方の広島家広島県に足を運び、広島県に点在する大仏・塔10箇所(明王院、耕三寺、向上寺、天寧寺、西国寺、浄土寺、厳島神社五重、多宝寺、不動明王、救世観音大尊像)を訪れました。

28日13:38新大阪駅新幹線のぞみで出発
14:39福山駅下車
15:00レンタカーで巡る。 

明王院:愛宕山中腹近くにあり、眼下に草戸千軒町遺跡を見渡す明王院は、中道山円光寺明王院と称し、国宝の「本堂」「五重塔」を有する真言宗大覚寺派の古刹として知られています。
もとは西光山理智院常福寺といい、大同2年(807)弘法大師の開基と伝えられています。
その後、鎌倉時代後期の南都西大寺流律宗の勧進活動や草戸千軒の繁栄の影響もあり、鎌倉時代末期に本堂再建、室町時代前期に五重塔を建立など、"中世・西国屈指の寺院"になります。
元和5年(1619)、水野勝成が福山藩主として入府してからはその庇護を受けます。
三代水野勝貞は常福寺に、城下神島町の歴代藩主の祈願寺となっていた明王院を合併し、当時の住職宥仙は、寺号を明王院と改め今日に至ります。
合併後の明王院は、本山として末寺四十八寺を擁していたといわれます。

耕三寺:浄土真宗本願寺派の寺院・耕三寺を博物館の一部として公開しているほか、快慶作宝冠阿弥陀如来坐像や佐竹本三十六歌仙断簡紀貫之などの重要文化財を含む館蔵品を仏教美術・近代美術・茶道美術の各展示館でご覧いただけます。
また、フォトジェニックスポットとして人気の大理石彫刻庭園・未来心の丘も併せて楽しめます。

救世観音大尊像:本堂東翼廊の左、八角円堂の後方に造顕されている、奈良・法隆寺夢殿の御本尊、秘仏救世観音が手本。像高だけで10m(33尺3寸)あり、宝冠、台座などを加えた総高は15mにもなる大露仏である。
鉄筋コンクリートで固めた基礎の上に鉄心を組み、コンクリートと漆喰を併用し肉付けした上に塗装しているものだが、こうした工程による仏像の造立、同様の技術は例がなく当時、耕三師自ら陣頭に立ち、労苦を惜しむことなくかつて培った鉄の加工技術を遺憾無く発揮され完成に導いている。

向上寺
室町初期建立の曹洞宗のお寺です。
潮音山の山頂にある国宝三重塔は、永享4年(1432)に建立されたもので、全体の高さは19mあります。
和様唐様の混合様式で内部全体にも極彩色が施され、室町初期で最も美しく優れているものの一つに数えられています。


18:30尾道駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

29日7:30レンタカーで出発



天寧寺:尾道三山のひとつ、千光寺山の中腹にある「天寧寺」は、尾道らしい景色が望める定番スポット。国の重要文化財に指定される「三重塔」や、明治初期から寄進され、全部で526体ある「五百羅漢像」などの見どころがあります。天寧寺は、尾道の由緒ある7つの古寺(持光寺・天寧寺・千光寺・大山寺・西國寺・浄土寺・海龍寺)をお参りする「尾道七佛めぐり」のひとつになっており、古寺めぐりをしながら尾道の魅力に触れることができます。

西国寺:天平年中(729?749)、行基菩薩創建と伝えられる真言宗醍醐派の大本山。
山門である仁王門には室町末期作の2体の仁王像が安置されており、その健脚にあやかり2mを超える巨大な草履が奉納されています。
その仁王門ほか金堂や足利六代将軍・義教の寄進と言われる三重塔など数多くの重要文化財を抱える尾道を代表するお寺のひとつです。
柴燈護摩(火渡り神事)や節分会など新春の訪れを告げる祭りや桜が咲くシーズンには、多く人でにぎわいます。
また裏手の西國寺山(摩尼山)には「摩尼山八十八ケ所」として道中に地蔵が安置されており、頂上付近のタンク岩からは尾道の眺望を楽しむこともできます。
「尾道七佛めぐり」のお寺のひとつにも数えられています。

浄土寺:浄土寺は遠くはるか飛鳥の昔、聖徳太子の開創と伝えられ、中国地方屈指の古刹です。瀬戸内海の要津として発展した尾道の里人が心寄せる寺として港の繁栄と共に、それぞれの時代の町の衆に支えられ、鎌倉時代末よりおよそ七百年の時代を重ねております。境内の西に沈む夕日は浄土の世界を想わせるかの如く光り輝き、日の出の光に照らされた 本堂、阿弥陀堂、多宝塔は荘厳の一言です。

不動明王:広島県呉市にある源宗坊寺(真言宗)公式サイト  1906年(明治39年)に稲田源宗坊により建立された本寺院は、独特の仏像が山間の境内に点在し、戦後、駐留外国人も畏敬の念を表し、神々の谷として知られておりました  竹林、紅葉、清らかな名水や鳥の鳴き声等、四季折々の表情を見せる本寺院


厳島神社五重:和様と禅宗様が融合されて,みごとな構成をなす五重塔である。室町時代の応永14年(1407)創建と言われ,露盤(ろばん)下品軒覆の鉄板鋳銘から戦国時代の天文2年(1533)に改修されたことがわかる。九輪を鋳造した廿日市鋳物師(いもじ)山田壱岐守の名もあげられている。
初重の柱は上部を金襴巻(きんらんまき)とした朱漆塗で,それぞれ彩色の寄附者の名が記されている。内陣の天井は雲竜,来迎壁は表に蓮池,裏に白衣観音,周囲の壁板は瀟湘(しょうそう)八景を添景とした真言八祖の壁画である。

厳島神社多宝寺:嚴島神社西の丘にある高さ15.6mの多宝塔は、大永3年(1523年)に建立されたと伝えられます。弘治元年(1555年)の厳島合戦では、陶晴賢が真っ先に陣所を設けた場所です。純和様を基調としながら上層部に天竺様、内部は禅宗様を取り入れた建築様式で、上層は円形、下層は方形、屋根は上下とも方形となっている珍しい構造です。明治の神仏分離令で管理するものがいなくなり一時は朽ち果てかけていましたが、篤志家によって救われ、本尊だった薬師如来像は大願寺に遷されました。周辺は桜の名所で、夜間ライトアップされたその姿は嚴島神社の美しい背景ともなります。


16:00帰路に向かう。

18:00福山駅到達。
18:19福山駅新幹線さくらで出発

19:36新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島家広島県に足を運び、広島県に点在する大仏・塔10箇所(明王院、耕三寺、向上寺、天寧寺、西国寺、浄土寺、厳島神社五重、多宝寺、不動明王、救世観音大尊像)を訪れ楽しみました。

関東茨城県の取手に行く予定でしたが、首都圏コロナウイルス発生増、天候降雪とのことで広島県にシフトしました。

トラブル発生、新幹線で寝過ごして福山に降りれず、広島まで行、引き返して福山に戻りました。
又尾道の寺院周辺の道、両サイド石垣の狭い道、左ドアミラーが石垣に接触し壊れ、テープで止めて走行しました。レンタカーですので、ドアミラーの交換費用と車の休業補償が発生するため、携帯電話でマツダの営業所を探し連絡し、10件目でドアミラーのパーツの在庫がある営業所を見つけ修理していただきました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三十二弾:広島県お城・城下町巡り観光
2018年5月12日−13日
 

中国地方に位置し毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破ったことをきっかけに、中国地方に巨大な勢力が展開され、山陰を抑えた吉川元春、山陽を治めた小早川隆景による毛利両川体制が支配力の拡大に大きく寄与した広島県に足を運び、広島県に点在する比較的マイナーなお城12か所を訪れました。

12日19:08新大阪新幹線さくらで出発
20:14福島駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
13日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

福山城:築城年代は定かではないが柚谷新三郎元家(湯谷又八郎久豊)によって築かれたと云われる。
萩原城の支城として築いたもので、元家の子である湯谷又左衛門実義に守らせた。 永禄12年(1569年)毛利隆元を毒殺した疑いで和智誠春と柚谷元家は厳島に幽閉され、誅殺された。これによって毛利の追討軍が和智氏の城へと向かうとの知らせを受け、福山城では湯谷実義が家臣二十八名とともに自刃して一戦も交えることなく落城したという。

甲山城:築城年代は定かではないが元享年間(1321年〜1324年)頃に山内通資によって築かれたと云われる。 山内氏は始め蔀山城を居城としていたがこれを弟通俊に譲って新たに甲山城を築いて移った。
山内氏は始め比叡尾山城の三吉氏、南天山城の和智氏、大富山城の久代宮氏らと所領の争奪を繰り広げていた。周防国大内氏の勢力が備後に及ぶと大内氏に従ったが、出雲の尼子氏の勢力が増すと尼子氏に属するようになった。
天文9年(1540年)尼子氏が毛利元就の郡山城を攻めると、山内氏はこれに参戦したが尼子氏は敗れた。天文11年(1542年)には逆に大内義隆が尼子氏の月山富田城を攻めたが、このときは大内方として参戦するも、尼子方に寝返り大内氏の大敗となった。
その後、山内氏は毛利に従うようになり、関ヶ原合戦の後は防長二カ国に減封となった毛利氏に従い長門へ移り廃城となった。

蔀山城:正和5年(1316年)山内通資によって築かれたと云われる。 山内氏は相模国鎌倉郡山内荘発祥で源頼朝に従って功を挙げ備後国比婆郡地毘荘の地頭職を得た。
正和5年(1316年)山内首藤家の惣領通資が備後に下向して蔀山城を築き本拠とした。元享年間(1321年〜1324年)に通資は甲山城へ居城を移し、蔀山城は弟の五郎通俊に譲られた。通俊は多賀山氏を称し、多賀山内首藤家として代々蔀山城を居城とする。
大永6年(1526年)多賀山通続のとき、尼子氏から大内氏に鞍替えしたことから尼子氏によって攻められ、享禄2年(1529年)落城した。その後、安芸の毛利元就に従っていたが、天正19年(1591年)多賀山通信のとき毛利輝元によって改易となり、児玉与三郎が城主となった。

五龍城:築城時期に関しては諸説あるが南北町時代に宍戸朝家によって築かれたと云われる。
宍戸氏は源頼朝に仕えた八田知家を祖とする。八田宗綱の女八田局は源義朝の妾となって知家を産んだが、平治の乱によって義朝が誅せられると知家は八田局に抱かれて八田宗綱の元に走り宗綱の猶子として育った。
八田知家の四男家政が常陸国宍戸を領して宍戸氏を名乗り、安芸国高田郡も領した。元弘3年(1333年)知時の子朝家は足利尊氏に従って六波羅を攻め、その功によって安芸国甲立荘を賜わり、建武元年(1334年)甲立に下向し、はじめ柳ヶ城を居城としたが、後に五龍城を築いて移った。
宍戸氏は五龍城を本拠として次第に勢力を広げ郡山城の毛利氏とも争ったが、毛利元就の長女五龍姫が宍戸隆家と婚姻することで和睦した。以後、宍戸氏は毛利一門の筆頭として毛利氏の勢力拡大に貢献し、関ヶ原合戦後に防長二ヶ国に減封となった後は、周防国佐波郡右田へ移り、後に熊毛郡三丘で一万千三百石余りを領した。

猿掛城:築城年代は定かではないが南北朝時代に高橋氏によって築かれたと云われる。 高橋氏は石見国を本拠とした一族で、その勢力は石見のみならず安芸へも及んでおり、その一族が居城した。
大永5年(1525年)高橋大九郎統種の代に内訌が起こると、五龍城主宍戸元源によって攻められ猪掛城は落城した。

鈴尾城:永徳元年・弘和元年(1381年)福原広世によって築かれたと云われる。 福原氏(ふくばら)は大江広元の次男長井時広を祖とする。応安元年(1371年)長井貞広は毛利元春の五男広世を養子に迎えた。広世が家督を継いだ後、実父である毛利元春より福原村を譲られ鈴尾城を築き居城とした。
福原貞俊の妹は毛利弘元に嫁ぎ、毛利興元・毛利元就の生母となった。江戸時代には萩藩の永代家老となった。

今田城:築城年代は定かではない。 永享年間(1429年〜1441年)に山県満政が今田に築城し今田氏を称した。 今田氏は安芸国守護武田氏に属していたが、武田氏の衰退とともに没落し、 後に吉川経高、経忠父子が今田氏を称して吉川氏に属した。

吉川元春館:天正11年(1583年)吉川元春によって築かれた。 天正10年(1582年)嫡男元長に家督を譲った元春が隠居所として築いたのが吉川元春館である。
天正14年(1586年)吉川元春は元長とともに秀吉による九州征伐に従軍していたが、豊前国小倉城で没し、元長も翌15年(1587年)に日向国都於郡で没した。家督は三男広家が継いだが、吉川元春館はこの広家の時代に完成したようである。
天正19年(1591年)吉川広家は出雲国富田城へ転封となり、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で敗れた後は周防国岩国へと移り、安芸国から去っていった。

日野山城:築城年代は定かではないが吉川氏によって築かれた。
毛利元就の次男元春が安芸吉川家に養子に入り家督を継ぐと、天文19年(1550年)に小倉山城から居城を移した。
元春が居城を移す前にも何らかの要害施設があったものと考えられているが、本郭的な城郭整備は元春入城以後も続けられ、元長・広家と三代の居城であった。天正19年(1591年)吉川広家の時に出雲国富田城に居城を移し廃城となった。

小倉山城:築城年代は定かではないが南北朝時代末期に吉川経見によって築かれたと云われる。 駿河国入江荘吉川邑発祥の吉川氏は、経高が安芸国大朝荘に下向したのが始まりで、当初は駿河丸城を居城としたと云われる。その後、経見のとき小倉山城を築いて居城を移した。
その後、代々吉川氏の居城として続いたが、天文19年(1550年)養子に迎えた毛利元就の二男元春のとき、日野山城を築いて居城を移し、小倉山城は廃城となった。

駿河丸城:正和2年(1313年)吉川経高によって築かれたと云われる。 吉川氏は駿河国入江荘吉川邑発祥で、正和2年(1313年)吉川経高が安芸国大朝荘に移り住んだことから安芸吉川氏が始まる。このとき経高は八十歳であったといい、文保3年・元応元年(1319年)に八十六歳で没している。
安芸へ下向した吉川氏が最初に居城としたのがこの駿河丸城とされ、以後四代経見の頃に小倉山城に本城を移すまでの居城であった。

三入高松城:築城年代は定かではない。熊谷氏が居城とする以前に二階堂是藤が居たと云われ、熊谷直時によって追い出されたと云われる。
熊谷氏が伊勢が坪城からこの高松山城に居城を移した時期は詳らかではないが、熊谷信直の頃と考えられている。熊谷氏は安芸国守護職武田氏に従って各地を転戦し、その所領を増やしたが、永正14年(1517年)武田元繁に従って出陣した熊谷元直は有田合戦で毛利・吉川の軍勢に敗れて討死、このとき武田元繁はじめ、八木城主香川行景、己斐城主己斐宗瑞なども討死し、やがて安芸武田氏は滅亡する。
その後、熊谷信直の時に毛利氏に従い、信直の娘は毛利元就の二男吉川元春に嫁いでいる。

18:00終了、広島駅に向かう。
18:30広島駅到達
19;01広島駅、新幹線みずほで出発
20:24新大阪駅到達。

今回の旅行、中国地方の広島県に足を運び、広島県に点在する比較的マイナーなお城12か所を訪れ楽しみました。
生憎雨、雨の中をしっかり12か所の城跡を探し訪れました。

ほとんどが地味な城跡で案内板しかない城跡もありました。






 






飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百二十九弾:広島県中国三十三観音巡り観光
2018年4月7日−8日


中国地方に点在する山陽路から山陰路へとつづく中国三十三観音巡礼の7か所を訪れました。

7日19:08新大阪新幹線さくらで出発
20:14福山到達。駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
8日:8:00レンタカーで出発、霊場巡り。

明王院:平安時代の大同2年(807年)弘法大師が開かれたと伝えています。その頃は福山市の前身である草戸千軒の港町が門前町として栄えていました。本尊十一面観世音菩薩は、伝教大師一刀三礼の霊像で平安初期一木彫の秀作と言われ重要文化財であります。
  鎌倉時代、元応3年、住持頼秀の時、紀貞経の寄進により、国宝の現本堂(観音堂)が再建されました。南北朝時代、貞和4年住持頼秀の時、広く庶民の浄財により五重塔が建立されました。一文勧進の塔と呼ばれ国宝になっています。全国の中5番目の古塔です。
  江戸時代、初代藩主水野勝成は福山城を築き、裏鬼門鎮守のため、当寺を御祈願所と定め、末寺48を統べる大寺とし、五重塔、本堂、大門などの大修理を施すとともに、護摩堂、庫裡、書院、弁天堂、愛宕神社、十王堂等を建立しました。
  昭和時代、昭和34年から昭和大修理が始まり、五重塔本堂の解体修理を始め7棟の文化財修理を終え、防災設備も完了しました。
  京都嵯峨大覚寺を本山とする真言宗寺院です。

浄土寺:尾道三山の一つ瑠璃山を背にした備後の名刹・浄土寺は聖徳太子によって創建(推古天皇の24年)された真言宗泉涌寺(京都、皇室の御菩提所)派大本山です。

 本尊は聖徳太子御作とされる秘仏・十一面観世音菩薩で、古くから『身代わり観音』として信仰されています。
  鎌倉時代末、奈良・西大寺の定証上人が七堂伽藍の堂塔を再興しましたが、20年後に全焼し、当地の富豪・道蓮、道性夫妻により再建されました。

 瀬戸内有数の良港・尾道は、古くから交通・経済などの要地であり、浦人たちの信仰が集まっていた当山は、公武両方から重要な拠点として外護されました。建武の中興の際は、後醍醐天皇から因島地頭職寄進の綸旨を賜り、一方足利尊氏公も参篭し祈祷をしました。以後、足利家の家紋・二つ引き両を寺の定紋としています。室町時代には蓮如上人も参篭され、江戸時代以降は港町尾道の繁栄と共に寺門興隆し現在に至っています。

 殊に日本三名塔の一つで、国宝の多宝塔をはじめとする文化財の宝庫としても知られ、1400有余年の法燈を継承しています。

西國寺:西國寺は天平年中、行基菩薩創建と伝えられ、真言宗醍醐派の大本山である。
 治暦2年の罹災後、平安朝白河天皇の勅命によりまた正和元年花園天皇より綸旨を受け、法燈は高く輝き、伽藍の規模は正に西国一という意味を込め、西國寺と名付けられ、天仁元年には、勅願寺となる。
 治暦炎上により本尊行基作薬師如来は焼滅したが、永保元年、讃岐善通寺の七仏薬師のご一体が紫雲に乗って来飛、金堂に安座され賜うと伝えられる。現在の本尊・薬師瑠璃光如来である。
 境内の平地面積は、15700平方メートルに及ぶ。
 観光尾道のシンボルとされる長さ約2メートルの大草履の仁王門をくぐり、108段の石段を登れば、緑の中に朱塗の金堂・三重塔・大師堂・不動堂・持仏堂等が並び、さらには幕末の哀歌を語る大方丈と華麗な密教伽藍を配し、眼下に横たわる尾道水道と共に、絢爛たる一大絵巻が四季折々に展開される。
 弘法大師の霊跡として、加持祈祷の道場として年中多くの善男善女を迎えている。

千光寺:大宝山権現院千光寺は大同元年(806年)の開基で中興は源氏の名将多田満仲公と伝えられています。
 大宝山(通称・千光寺山)の中腹、海抜約100mに位置しており、眼下に尾道水道や向島、因島などの瀬戸内海の島々、遠景に四国の連山が眺められる素晴らしい景観です。

 珍しい舞台造りの本堂(貞享3年・1686年)は別名「赤堂」とも呼び親しまれ、林芙美子も放浪記の中で「赤い千光寺の塔が見える」と書いています。
 本尊・千手観世音菩薩は聖徳太子の御作と伝えられ、33年に一度開帳する秘仏。昔から「火伏せの観音」と称せられ、火難除けに霊験あらたかです。今は所願成就の観音様としてお詣りが絶えません。

 尾道は夏は涼しく、冬は暖かい気候で昔から災害も少なく過ごしやすい土地柄です。その上、海の幸に恵まれ人情味豊かな町です。
 尾道は往古より港町として栄え、風光明媚なことから多くの文人墨客が訪れています。中でも頼山陽は「6年重ねて来たる千光寺」と漢詩にも詠んでいます。

向上寺:本四架橋の一つ、尾道・今治ルートの風光明媚な瀬戸内海に浮かぶ小島、生口島。尾道寄りに因島、愛媛県よりの大三島にはさまれた芸予諸島の一つ。この辺りは平安時代より海路の重要な所として数多くの神社仏閣が造営されており、早くより拓けていました。
 向上寺は応永7年(1400年)、地頭・生口守平公が瀬戸田潮音山の観音の霊場に一寺を建立し、臨済宗佛通寺派開山勅特賜仏徳大通禅師愚中周及大和尚(1323〜1409年)を迎えて開く。

 聖観世音菩薩(秘仏)を本尊とし、古来、災害鎮圧と興隆繁栄の祈願寺として崇敬されてきました。
 この向上寺一帯は潮音山公園となり、緑に映えて国宝の朱塗りの三重塔がひときわ異彩を放つ。特に海からの眺めは、紺碧の空と海、松の翠に塔の朱が幅の絵を創ります。
 境内周辺には巨岩が並び、多彩な顔ぶれの先人たちの句が刻まれており「文学のこみち」となっており、 県の重要文化財でもある鐘楼の音色は、除夜の鐘として全国に放送されました。

仏通寺:水墨画によくある中国の風景に似た岩山肌の山間道を、曲りくねった渓流に沿って山中に入ること、山陽道より約8キロ、うっそうと樹木の繁る佛通寺の門前に至る。巨大な千年杉の林立、あたり一帯厳しい禅刹の気魄が漂う。
 御開山大通禅師お手植と伝えられる、羅漢槙の大樹の傍の巨蟒橋(きょもうきょう)を渡ると佛通寺山門。巨蟒橋はその名の通り、聖地の結界に巨大なうわばみが横たわり、仏法を守護せんとしているもの。この橋を渡ることで、偏(ひとえ)に身も心も清浄無垢になり、仏殿に修行を誓う解脱の門に等しい橋となる。
 山門を入ると、仏殿が厳然と鎮まる。碧巌古松(へきがんこしょう)の参禅道場として600年の法灯の歴史を刻む、臨済宗の大本山である。
 千年杉が亭々と林立する石径を上ると多宝塔と石仏の群、開山禅師の塔所・含暉院(たっしょ・がんきいん)は開創当時のただずまいを今に伝える。堂中には佛通禅師と大通禅師、両開山禅師の尊像が尚居ますが、如くに端坐して佛通寺の今日をじっと見守って居られる。

三瀧寺:7つの川を有する広島デルタの北西、三滝山(宗箇山)の中腹に位置する三瀧寺は、原爆によって廃墟と化し、艱難辛苦の後、近代的な都市へと再生した広島には数少ない、趣深き寺である。

 境内入口の上に立つ多宝塔は、元は和歌山県の広八幡神社にあったが、原爆死没者の慰霊のためにこの三瀧寺に移築され、毎年8月6日と秋の多宝塔 本尊・阿弥陀如来御開帳法要の折には、慰霊法要が厳修され、幾十万もの犠牲者の菩提が念じられている。

 街から程遠からぬ場所でありながら、境内は深山幽谷の風情があり、瀬音を耳にしながら苔むした参道を歩むと、日常空間から離れ、仏様の世界に身を置いたようであり、広島市民によっては安らぎの聖地、心の故郷となっている。

 曾ては多くの修行僧が滝にうたれ、岩窟で禅定に入り、幾つもの堂塔を構えていたようであり、今は緑陰の下、静けさが漂い、忘れられた何かを思い起こさせる地となっている。

18:00終了。
19:01広島駅新幹線みずほで出発、
20:24新大阪駅到達。

今回の旅行、広島県に点在する中国三十三観音の7か所をおとずれ楽しみました。
ほとんどの霊場が立派な寺院で感動いたしました。
すべての中国三十三観音巡り終了致しました。


   












飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十五弾:広島県お城・城下町巡り観光
2016年2月6ー7日

毛利元就が厳島の戦いで陶晴賢を破ったことをきっかけに、中国地方に巨大な勢力が展開され、山陰を抑えた吉川元春、山陽を治めた小早川隆景による毛利両川体制が支配の拡大に大きく寄与した広島県に足を運び、比較的マイナーなお城・城下町を巡りました。

6日18:20新大阪新幹線のぞみで出発
19:28福山駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
7日:8:00レンタカーで出発、城跡巡り。

神辺城:神辺城は、建武2年に朝山景連によって築城され、嘉吉の変の時に赤松氏討伐のため山名丈休が修築した。
戦国時代の天文17年に杉原忠興が城主であったが、忠興が大内氏から尼子氏へ属したため、大内義隆の重臣陶隆房によって攻められ落城した。
その後、杉原忠興は毛利元就に従い城主に返り咲くが、永禄7年には毛利元就の7男元康が城主となった。
慶長5年、関ヶ原の戦功により広島城主となった福島正則の持城となり城代が置かれた。 元和5年に福島氏改易の後、大和郡山から水野勝成が入城するが、福山城築城に伴い廃城となった。

桜山城:桜山城は、築城年代や築城者は定かでないが、文応〜文永年間に山名氏正が居城していたが、弟山名備中に殺され、その後備中を氏正の子が討って再び桜山城に居城したと伝えられている。
遺構には中世後半の特徴が見られることから、戦国時代の永禄10年に小早川隆景が三原城を築城するが、この時期に背後の桜山城を三原城の詰の城として修築したと考えられている。

相方城:相方城は、永禄6年に毛利の武将で宮一族の有地元重が、宮氏の本城亀寿山城と相対するようにこの城を築城した。
天正初年、元重が出雲富田月山城主尼子氏に従うと、毛利方の神辺城主杉原盛重が攻めたが容易に落ちず、毛利の援軍が到来して開城した。
有地元盛は、備中猿掛城の合戦、大坂石山の木津川口での海戦、播磨上月城攻めに参陣・奮戦している。
天正15年、豊臣秀吉による山城禁止令によって相方城は廃城となった。 尚、相方城の城門が戸手天王社に移築されている。

鞆城:鞆の浦には、古くから大可島城が村上水軍の拠点としてあった。 鞆城の築城年代には諸説が在るが、天正3年、織田信長によって京を追放された足利義昭はを毛利輝元は鞆城に迎えている。
慶長5年、関ヶ原の戦功により安芸・備後の太守として福島正則が広島城に入城すると、鞆城には重臣大崎玄蕃を入れて、天守の建築などの城の修築を行った。
元和の一国一城令により鞆城は廃城となった。 しかし、廃城後も大手門等は存在し、城としての機能は残った。 福山城主となった水野勝成は、鞆城に嫡男勝俊を居住させている。 その後、福山藩の鞆奉行所となった。

鷲羽山城:建武3年・延元元年(1336年)杉原信平・為平兄弟によって築かれたと云われる。 杉原(椙原)氏は丹波国椙原発祥で桓武平氏。平貞盛を祖としているが、平清盛の四代孫秀衡の子恒平を養子に迎えていることから平秀衡の後裔とも称している。
椙原胤平の子、信平・為平兄弟は再興をかけて九州へ落ちた足利尊氏にしたがって九州の多々良浜の戦いで功を挙げ、木梨十三か村(尾道・後地・栗原・吉和・久山田・木原・猪子迫・白江・三成・市原・木梨・小原・梶山田)を領し鷲尾山城を築いたという。
鷲尾山城主は信平・光守・元盛・元直・光恒と続いたが、天文12年(1543年)尼子晴久の軍勢によって攻められ鷲尾山城は落城、杉原光恒は自刃して果てた。 光恒の子隆盛(始め高盛・元清とも)は大内義隆の助力を得て鷲尾山城主となり釈迦ヶ峰城と改められた。
元亀3年(1572年)石原忠直に攻められ落城。高盛も討死してその子元恒は本郷城主古志豊長を頼り、後に小早川隆景の助力で石原氏を討って釈迦ヶ峰城を取り戻した。
天正12年(1584年)元恒は千光寺山城を築いて移り廃城となった。

三原城:三原城は、永禄10年に毛利両川の小早川隆景によって築かれた。 隆景は、それまでの新高山城から三原城へと移したが、その後も逐次増改築が繰り返され、天正10年まで完成したと言われている。
天正15年、小早川隆景は豊臣秀吉から筑前国を加増されて名島城に居城を移す。 文禄4年、隆景は養子秀秋に家督を譲り、三原城に隠居、慶長2年に没した。
慶長5年に関ヶ原の戦功で福島正則が安芸広島城に入ると、三原城には福島正之が入った。 元和5年、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山から浅野長晟が広島城へ入封する。 三原へは、浅野家筆頭家老浅野長吉が紀伊新宮より入り、代々相続し明治に至った。 

高山城:高山城は、建永元年に源平合戦の時、源頼朝に仕えた土肥実平の子孫小早川茂平が東国から沼田荘に本拠を移して高山城を築城した。 小早川氏は、一族を各所に配して土着させ勢力の拡大を図った。
分家の木村城主竹原小早川氏と嫡流家とは不和になり、応仁の乱の時には、東軍に与した嫡流家を西軍に与した竹原家が2度に渡って高山城を攻めることもあった。
戦国時代の天文19年、沼田の小早川嫡流家の当主繁平は、盲目であったため、繁平の妹婿に分家竹原小早川隆景がなり、嫡流家の養子となって沼田・竹原両小早川氏が合体した。
天文20年に隆景は、竹原小早川氏の居城木村城から高山城へ移る。 そして、翌年に隆景は、中世城郭の縄張りであった高山城を廃し、戦国時代の乱世に適した新城を沼田川を挟んで対岸にある砦を大修築して築いた。 これが新高山城でる。

新高山城:小早川隆景は、天文2年に吉田郡山城主毛利元就の三男に生まれた。 天正10年、13代小早川興景が銀山城(広島市)攻めに出陣中に病死すると、興景夫人が元就の姪であった関係から、天正13年に養子に迎えられ、竹原小早川氏14代を相続した。
隆景は、天正19年に沼田小早川繁平の養子となり、小早川本家をも相続して高山城へと移り、天正21年に新高山城を築いて居城を移した。
隆景の晩年、養子秀秋に筑前名島城と家督を譲ると、慶長元年に三原城を隠居城と定め、新高山城の石垣の巨石を残らず三原城へと運んだと云われている。  

頭崎城:
頭崎城は標高504.3mの頭崎山に築かれている。城域は広く東西約700m、南北約500mと安芸国でも有数の規模を誇る。主郭部は山頂にあり、石垣の残る「甲の丸(本丸)」の南に「二の丸」、南東下の頭崎神社のある所が「三の丸」、その南の高台が南北二段の「太鼓の段」、南西に伸びた尾根にあるのが「煙硝の段」、主郭の北西下に「西の丸」、以上が主郭部の曲輪で看板の建っているものである。他に確認した看板は三の丸から南へ降りた所にある鳥居の段、北西から続く林道側にある「大将の陣」である。西の丸から東へ回り込んだ所には連続竪堀、さらに北東下に降りていくと畝状竪堀群が残っている。南西側の谷間一帯には屋敷跡のような平段遺構が数多く残されており、一部に石積を伴っている。「大将の陣」と呼ばれる所は最高所が林道によって切通されているが、北と南に平段遺構が連なっている。

鏡山城:鏡山城は、長禄・寛正年間に大内氏によって築かれたと云われている。西条盆地は、室町時代には安芸の中心地で、安芸に進出した大内氏の拠点が鏡山城であった。 応仁の乱から戦国時代にかけて、この城の争奪戦がくり広げられた。
大永3年、出雲富田城主尼子経久の芸備進出に対抗して、大内義興は鏡山城に蔵田房信を置いた。 しかし、尼子経久は、毛利元就ら芸備の諸将らを先鋒に城を囲み、城将房信の奮戦もむなしく落城した。

府中出張城:築城年代は定かではないが応永年間(1394年〜1428年)白井胤時によって築かれたと云われる。 白井氏は千葉上総介忠常の後裔義胤が上野国白井山田荘を領して白井氏と名乗り、その子胤時が下向して出張城を築いて居城としたと云う。
白井氏ははじめ安芸国守護の銀山城武田氏に属し、明応4年(1495年)武田元信より「安芸国仁保島海上諸公事」が認められ、仁保島付近を航行する所船からの勘過料を徴収する権利を得ている。
白井氏は主に水軍を持って勢力を張っていたようで、大永7年間(1527年)には周防国大内氏に属し、天文8年(1539年)には武田氏の川内警固衆を敗っている。
陶晴賢が大内義隆を討つと、その後、台頭してきた毛利元就によって追われ、白井氏は大内氏の宇賀島水軍と合流する。弘治元年(1555年)には矢野保木城にて大内方として毛利に抵抗していた野間隆実を援護するため、呉浦や仁保島、海田などを襲撃する。 しかし、陶晴賢が厳島合戦において毛利元就に敗れると、後に白井氏は小早川隆景に降った。

銀山城:
城は北から張り出した尾根の先端にあり、主郭から南の尾根と東の尾根に曲輪を配している。城への登城路は両尾根の谷を北西から南東へと落ちる竪堀とされる。この竪堀は谷の奥で主郭側から落ちる数条の竪堀群と合流するようになっている。主郭部は南から北へ伸びた尾根にあり、三段の曲輪がある。北側が主郭と思われる。 主郭は北側を堀切で断ち、北と西側に土塁があるとされるが、わずかに高くなっている程度である。西側の南端隅部に石積がわずかに残されている。 一番南側の曲輪の北東隅に虎口があり、両側が土塁となっている。この虎口は外側に空間があり、そこから東面を北側へと通路が走り登城路とされる竪堀へと通じる。この南の曲輪の西側面には畝状竪堀があるとされるが薮が深く見付からなかった。東尾根に配された曲輪群は北側に土塁が残り、南側は石垣が部分的に残っている。ここから登城路とされる竪堀を狙うのは容易である。

桜尾城:桜尾城の築城年代は定かではないが、鎌倉時代には厳島神社神主佐伯氏の本拠となっていた。 室町時代には、安芸の守護武田氏は佐西郡の領有をめぐって、佐伯氏としばしば戦っている。
厳島の合戦の前年、天文23年に毛利元就は桜尾城を占拠して、重臣桂元澄に守らせている。 元澄没後、元就の四男穂田元清が城主となり、慶長5年の関ヶ原の合戦後毛利氏が防長に転封するまで、西方の政治・軍事の要衝であった。

亀居城:慶長5年、関ヶ原で西軍に与した毛利輝元は防長2ヶ国に減封され長門萩に移った。 替わって、福島正則が尾張清洲から安芸・備後2ヶ国の領主として広島城に入城した。
正則は、領国に6支城(三原・三次・神辺・鞆・東城・亀居)を構えることにし、小方の地には甥の福島伯耆を配した。
亀居城は、慶長8年から築城を開始し、慶長13年に完成する。 しかし、完成間もない慶長16年に、幕府の圧力により廃城となった。 また、元和5年には、福島正則もまた広島城無届け修築を理由に改易となった。

18:05広島駅に向かう。
18:45広島駅到達。
18:57広島駅新幹線のぞみで出発
20:18新大阪到達。
今回の旅行、広島県に足を運び、福山からスタートし大竹までのお城14箇所を巡り楽しみました。

山城、平城、平山城とタイプの違ったお城を14箇所、時間かけて探し出して訪れました。

今回は遺残の多い城跡が多く、歴史を感じ取ることが出きました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百八十九弾:広島県金輪島・沖野島・斎島・三角島観光  
2014年10月25−26日
  

広島県の瀬戸内海に点在する島々でいままで訪れたことのない金輪島・沖野島・斎島・三角島をフェリーと徒歩で巡りました。

25日
13:45新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:11広島駅到達、レンタカーで広島港に向かう。
15:50広島港市営桟橋到達
16:30広島港市営桟橋から渡船で出発
16:40金輪島港到達、散策。

広島湾の東側、宇品港沖に浮かぶ金輪島は造船の島。宇品(うじな)は明治時代の半ば頃から軍都広島の兵站基地として発展を見せた所で、間近にある金輪島にも日清戦争が始まった明治27年(1894)に造船・船舶の修理を担う陸軍運輸部金輪島工場が設置されています。
金輪島:昭和の時代を迎え太平洋戦争が始まってからは陸軍船舶司令部(暁部隊)野戦船舶本廠に組み込まれ軍事色を強めていきましたが、敗戦でその機能を失うと工場は民間へ払い下げられることとなり、昭和26年(1951)に発足した「金輪船渠株式会社」が造船施設を引き継ぎ、後に「西武造船」を経て現在は「新来島宇品どっく」が船舶の修理等の事業を行っています。島の南側は標高158mの金輪富士を頂点に雑木林の斜面が続き、北東部に「新来島宇品どっく」の工場施設、北部と北西部に民家が点在しています。

17:25金輪島港渡船で出発
17:40広島港市営桟橋到達、レンタカーで広島駅に向かう。
17:50広島駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
26日7:30レンタカーで出発、江田島方面に向かう。
8:40沖野島到達。

沖野島は能美島の南西、大柿町深江の新開地区に接するように浮かぶ島で、能美島とはわずかに島戸瀬戸で隔てられています。かつてはこの狭い瀬戸を船で行き来して、ミカン栽培や水田耕作などが行われていましたが、昭和47年に沖野島橋(24m)が開通してからは道路も整備され島の様相も少しづつ変化が見られるようになっています。特に平成5年に北側の入り江に「沖野島マリーナ」が出来てからはレジャーリゾート的色彩も出てきているようです。
沖野島の西には無人島の大黒神島、そして北側にはカキの養殖筏が並び、その入り江のまた入り江にある静かな海にはヨットやトレジャーボートが並ぶ海洋レクリエーションスポットになっています。

9:00大崎下島方面に向かう。
10:20豊島港到達。
10:55豊島港フェリーで出発。
11:12斎島到達、散策。

斎島は呉市の南東海上に連なる下大崎群島南端の島です。群島の他の島々とは少し距離を置く孤島で、大崎下島の久比港発、豊島経由の定期船が片道28分で運航しています。上から見ると蟹のハサミのような形の島。その北部の入り江に集落があり、高さ100mに満たない山々が取り囲んでいます。古くから神の宿る島として信仰を集め、斎内親王から弊帛料を賜ったことが名前の由来だと伝わります。とは伊勢神宮や賀茂神社に仕える皇族の未婚女子。弊帛料とは神前にお供えする弊帛(絹や木綿)の代わりとなる貨幣のこと。 )寛文年間(1661〜73)、豊島から移住者があり、江戸時代末期にはアビ鳥とその餌となるイカナゴを利用して鯛やスズキを捕獲する「アビ漁(いかり漁)」が盛んになり、港には多くの船が並んだといいます。また昭和の時代を迎える頃には船員を多く輩出する島となり、昭和25年には人口385を数えています。しかし、環境変化によるアビ鳥の減少と後継者不足で「アビ漁」は昭和62年に途絶え、一時期は児童数が60人を超えた斎島小学校は平成7年に閉校、またその跡地にできた保養施設「あびの里いつき」も平成21年3月末に休館となっています。過疎と高齢化が進む島に元気を取り戻そうと、毎年8月に県内外のアマチュアグループが集う「イツキで遊ぼう 島ライブ」が開催されます。「自然豊かな島の魅力を多くの人に知って欲しい」という願いから2005年に始められました。“クックラ、クックラ”と鳴くアビの声に代わって楽しげな人間の歌声が聴こえてきます。

12:40斎島フェリーで出発。
12:57豊島港到達。レンタカーで久比港に向かう。
13:05久比港到達
13:30久比港フェリーで出発。
13:40三角港到達、散策。

三角島は大崎下島・久比地区の北西約500mの位置にあり、久比港から小型フェリーに乗って10分ほどで到着します。島の東側に港と集落、南側には造船所[(株)寺岡(三角工場)]があり、山の斜面にはミカンやレモンなどの柑橘類の畑が広がっています。港の所にある「美加登神社」は、福岡県の宗像神社の祭神「宗像三女神」を安芸の厳島神社へ勧請(かんじょう)する際、仮宮として創建されたと言われています。厳島神社の創建は593年とあることから、この美加登神社もその頃の創建ということになります。実際、美加登神社の裏手には6世紀のものと思われる古墳が2基見つかっており、この頃既に三角島にも古代豪族の支配が及んでいたことが窺われます。また、宝徳3年(1451年)の小早川家文書に「見賀多島」という表記があることから、古くは「みかた島」と呼ばれていたこともあるようで、“見賀多島”や“三方島”などの字が当てられていました。

16:45三角港フェリーで出発
16:55久比港到達、レンタカーで広島駅に向かう。
18:10広島駅到達。
18:51広島駅新幹線さくらで出発
20:25新大阪駅9到達。

今回の旅行、広島県の瀬戸内海に点在する離島、数少ないまだ訪れたことのない4島(金輪島・沖野島・斎島・三角島)をフェリーと徒歩で巡り癒されました。

瀬戸内海の島で訪れていないのは愛媛沖、香川沖の数島のみとなりもうすぐ制覇できそうです。

 








飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十五弾:広島県竹原離島(走島・小佐木島・契島・生野島)観光
2014年3月1−2日
 

広島県に足を運び、鞆の浦沖離島、走島 、三原沖離島、小佐木島、竹原沖離島、契島、生野島を訪れました。

1日14:09新大阪新幹線のぞみで出発
14:49岡山駅到着
15:00岡山駅こだまで出発
15:56三原駅到達、歩いて三原港に向かう。
17:15三原港高速艇で出発
17:29小佐木港到達、散策。

小佐木島は佐木島の北およそ300mの距離に浮かぶ小島で、南東の入り江に集落と静かな港があります。佐木島と同じように昔から漁業が行われず、秋になると斜面の畑でミカンが黄色く輝きます。過疎が進み島民のほとんどがお年寄りの小佐木島。この島から生活の音が消えるのもそう遠くない将来かもしれません。島の起源は定かではありませんが、古代の製塩土器が発掘されたり、江戸時代の宝暦7年(1757)には山守が置かれたという記録があるようです。そして大正から昭和の始め頃にかけて造船の島として賑わいを見せ、昭和30年代には人口が140人程に達し、海水浴場に子供が遊ぶ景色が見られました。その後日本が経済成長期を向かえると、島から都会へと人口流出が始まり、小佐木島にも空き家が目立つようになります。事件はバブルの崩壊が始まる1991年に起きています。7月終わりの暑い夏、14歳の少年と16歳の少女が体罰を理由に鉄のコンテナに閉じ込められ熱射病で命を落とすという事件です(風の子学園事件)。当時の小佐木島の人口は26人。過疎が進む静かな島での出来事として注目を浴びています。今にも消えてしまいそうな小佐木島をアートの島として再生させるという構想が湧き起こっています。明治27年に初点灯を迎えた白亜の石造灯台。明治時代の「板図(船の設計図)」が残されていた荒神社(穀津神社)。懐かしい自然が残される島。そこに現代的なアートが加わるのも面白いことかもしれません。

18:13小佐木港高速艇出発
18:27三原港到達、三原駅付近のホテル到着後繁華街で食事をを済ませて就寝。
2日6:30レンタカーで鞆の浦に向かう。
7:20鞆の浦港到達。
8:00鞆の浦港フェリーで出発
8:30走島港到達、散策。

全体的に100mを超える山々が立ち並び平地の少ない島です。一番高い山は標高180mの高山。漁業が中心でイワシ漁が盛んです。
★福山市鞆港から30分。民宿もたくさんあるし、岩場での釣りも楽しめそうです。

9:00走島港フェリーで出発
9:30鞆の浦港到達、レンタカーで竹原に向かう。
11:15竹原内港到達
11:45竹原内港フェリーで出発
12:15大崎上島白水港到達
13:00白水港フェリーで出発
13:35契島港到達、一般の方は上陸できずフェリーから望む。

関係者以外は自由には立ち入れないようです 島全体が東邦亜鉛(株)契島製錬所の所有になっており、鉛の生産量は現在東洋一を誇っている。島には工場設備が立ち並び遠くから見ると軍艦のようなので軍艦島と呼ばれている。 長崎県の端島も「軍艦島」と呼ばれるているが、あちらはかつての炭鉱の島。

13:55生野島港到達、散策

大崎上島から400mの距離にある佐渡島を小さくしたようなこの島は全体が自然休養村に指定されており、サイクリングロードやテニスコート、シャワー設備もある海水浴場でのんびり過ごせそうです。福浦古墳は町の文化財で箱式石棺古墳だそうです。また椎実観音堂の石造など古きを訪ねることもできそうです。放浪の俳人"種田山頭火”が昭和10年末ごろ、陶工の"迦洞無坪”を訪ねてこの島を訪れています。

16:10生野島港フェリーで出発
16:20白水港到達
17:05白水港フェリーで出発
17:35竹原港到達、レンタカーで三原に向かう。
18:30三原駅到達
19:24三原駅新幹線こだまで出発
2017岡山駅到達
20:33岡山駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達。

今回の旅行、広島県瀬戸内海に点在する4つの離島を訪れ癒されました。
走島、佐木島、生野島は地味で観光名所も余りなく、ただ歩くのみとなりましたが、契島は私有地で一般の方は上陸できず、船上からの眺望になりましたが長崎の軍艦島端島を訪れたことがありますが、まさしく瀬戸内の軍艦島のような容貌で迫力がありました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第百七十八弾:広島県離島似島&阿多田島観光
2012年2月4日ー5日
   

広島県の瀬戸内海に位置する離島、広島港より南に3km、この島にある安芸小富士は広島市民にもっとも親しまれている山であり、自然観察の場所として広く市民に利用されている似島、ほとんど平地はなく阿多田漁港のあたりに集落があり、ハマチやタイ、カキの養殖が盛んの阿多田島を訪れました。

4日13:29新大阪新幹線のぞみで出発
15:05広島駅到達、繁華街を散策し食事を済ませて駅の近くのホテル到達、就寝
5日7:33広島電鉄広島駅出発
8:05広島港宇品到達
8:30広島港宇品航路フェリーで出発
8:50似島港到達、散策する。

似島は、広島市南区内にある島、つまり市内の島です。昭和4年に仁保町の一部として広島市に編入され、昭和8年には似島町として独立しました。(広島市南区似島町)

似島の由来については、統一された正確な記録はありませんが、歴史的文献等の呼称では、「見の島」「二島」「箕島」「二ノ島」「荷の島」「似ノ島」など、いろいろ呼び名が変わる中で、現在の「富士山に似た山がある島」が統一視され「似島」になったと伝えられています。

似島は、世界で初めて被爆した「ヒロシマ」が忘れてはならないキズ跡と、さらに、戦争の加害者としての遺跡を残しています。明治・大正・昭和と三代にわたって、海外の戦場から傷つき疲れ帰国してきた兵士の検疫所として、何千何万の若者を迎え入れた桟橋や、弾薬庫などが今もなお残っています。また、敗戦が濃くなった昭和20年8月6日には、広島に投下された原子爆弾による犠牲者が多く運び込まれ、治療の甲斐もなく死んで行きました。今は慰霊碑が静かに物語っています。

似島の主な産業は海運業(砂利採取運搬)で、以前は全国一の砂利船保有数を誇っていました。現在は四国の家島(えじま)が第一位ですが、かつての活況はないにしても、今でも似島の主産業であることには変わりありません。

似島はカキ養殖も盛んに行われており、現在島内に5軒、他地区に2軒のカキ業者があります。似島周辺にはおよそ250のカキ筏が島を取り巻くように連なっています。これは似島が、広島の川から流れ出る淡水と海水とが混ざり合う、丁度よい場所に位置しているからです。つまりカキ養殖には最適の場所だということです。「広島カキ」の中でも、「似島カキ」と名付けるほど良質のものを生産しています。

漁業は、戦後イワシ網漁が活況を呈した時代もありましたが、今は伝統的な漁法のみで水揚げしています。出荷量はそれほど多くありません。平成14年4月現在で組合員は37人、この中にはカキ業者等も入っており、実際の専業者は10人ほどです。漁は夫婦単位で行い、底引き網・刺し網・一本釣り・タコツボ漁が行われています。漁種はチヌ・カレイ・アイナメ・メバル・タイ・カワハギ等で、冬場の底引き網では、ナマコ漁が盛んです。

10:15似島港出発
10:35広島港宇品到達
10:45広島電鉄で宇品出発
11:50広島駅到達
12:00広島駅出発
12:46大竹駅到達、歩いて小方港に向かう。途中ゆめタウンで時間を費やす。
14:40小方港フェリーで出発
15:10阿多田島港到達、散策する。

高山は標高が204mあり、ほどんど平地は無く阿多田漁港のあたりに集落がある。島民のほとんどが漁業に従事していて、ハマチやタイ、カキの養殖が盛ん。昭和53年には当時の皇太子(現天皇)と美智子様が養殖場などを視察に訪れたようです。岩場が点在し、釣りのポイントも多く釣り人もたくさん訪れる。

阿多田島の東沖合いに無人島猪子島を訪れる。阿多田島とは橋でつながれる。猪子島には鰯工場がある。

15:50阿多田島港出発
16:30小方港到達
17:00広島電鉄玖波駅出発
17:45広島駅到達
18:07広島駅新幹線のぞみで出発
19:35新大阪駅到達。

今回の旅行、多くの島が点在する広島県に足を運び、広島県の離島、かなりマイナーな島3つを訪れました。3つの島、どの島も観光名所が乏しく、ひたすら歩くのみとなりました。
今回で広島県をほぼ制覇できました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第百四十八弾:広島県宮島&三次&帝釈峡観光
2011年6月18−19日


中国・四国地方の中心地、広島県に足を運び、丹波の天橋立、陸前の松島と並んで日本三景のひとつに数えられ、世界遺産の宮島、日本五大名狭の帝釈峡、スケールの大きな自然を体験できる三次・世羅高原を訪れました。

18日13:09新大阪駅新幹線のぞみで出発
14:38広島駅到達、山陽本線に乗り換えて
15:11宮島口到着、歩いて宮島口港に向かう。
15:25宮島口港フェリーで出発
15:35宮島港到達、散策

弥山原生林の麓にある公園で、宮島の紅葉の名所。モミジ、カエデの古木が多く、11月ごろになるとあたり一面が美しく紅葉したカエデに包まれる。なかでも紅葉谷周辺は最も美しいスポットの一つ。休憩施設も整っており、渓谷の流れに沿って散策出来る紅葉谷公園を訪れる。

江戸末期の豪商・旧江上家の母屋(登録有形文化財)と土蔵を利用した資料館。宮島の年中行事や人々の衣食住などを紹介している。弥山頂上の霊火堂から分火した不消の火も必見の宮島歴史民俗資料館を訪れる。

海を敷地に見立てた奇想天外さや、寝殿造の粋を極めた建築美を誇る壮麗な古社。593年(推古元)、推古天皇即位の年の創建と伝えられ、1168年(仁安3)平清盛が、現在ある寝殿造の様式を取り入れた社殿を造営した。本社を中心に、海へ突き出した平舞台(国宝)、高舞台(国宝)、能舞台(重要文化財)、客人神社(国宝)など20棟が、総延長約280mにも及ぶ朱塗りの回廊で結ばれている嚴島神社を訪れる。

平家一門をはじめ、時の権力者が奉納した太刀などの武具、舞楽面、楽器など3500点の美術工芸品を収蔵。なかでも清盛自筆の願文を含む平家納経33巻(国宝)は、一部を秋の特別展で公開するのでぜひ見ておきたい嚴島神社宝物館[嚴島神社]を訪れる。

宮島のシンボルにもなっている高さ約16m、支柱の周囲約10mの朱塗りの大鳥居(重要文化財)。楠の四脚造の鳥居は海中に自重で立っている。本社拝殿から200m先の海中にあり、干潮時は歩いて渡れる。嚴島神社入口・拝観受付に干満時刻表がある。海側の額には厳嶋神社、裏に伊都岐島神社と大書されている大鳥居[嚴島神社]を訪れる。

豊臣秀吉が建立した入母屋造の大経堂。工事の途中で秀吉が死去したため、天井の板張りや壁、正面入口が未完成のまま現在に至っている。畳を敷けば、857畳あるといわれるそのスケールの大きさから、通称千畳閣とよばれている豊国神社(千畳閣)[嚴島神社]を訪れる。

緑の木々を背景に、朱の色も鮮やかにそびえる五重塔の創建は、応永14年(1407)と伝えられている。高さ27m、唐様と和様の建築様式が美しく調和し、ひときわ目を引く。初層の内部は完全な唐様で、柱の上部には、金襴巻きの装飾画、壁には、極彩色の仏画が描かれている五重塔[嚴島神社]を訪れる。

18:30宮島港フェリーで出発
18:40宮島口港到達
18:55宮島口駅出発
19:20広島駅到達、レンタカーで平和公園付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日6:30レンタカーで出発

三次・世羅高原方面に向かう。

地元特産のブドウを使った、三次ワインの製造工程が見学できる。試飲も楽しめ、バーベキューハウスではワインとともに広島牛を堪能できる広島三次ワイナリーを訪れる。

庄原・帝釈峡に向かう。

30ほどある帝釈峡の鍾乳洞のなかで神龍湖下流の天川洞と並ぶ規模をもつ。入口は狭いものの奥行き200mの見学路が整備され鍾乳石、石筍、石柱がライトアップされる白雲洞を訪れる。

帝釈にあるアーチ状の天然橋(天然記念物)。帝釈川の浸食作用で地底にも川ができ空洞が広がって下の川床が陥没、残った部分がアーチ状の橋になった。長さ90m、幅19m、高さ40mの壮大さで神の橋ともいわれ、昔は橋として実際に使用されていた雄橋を訪れる。

石灰岩が帝釈川に浸食され、約3億年前に形成された帝釈峡唯一の急流。激流が岩を噛み、渦巻く様が壮観の断魚渓を訪れる。

周囲24km、全長8kmの人造湖。両岸に高さ100mもの岸壁がそびえ、春の新緑、秋の紅葉の時期には観光客で賑わう神龍湖を訪れる。

福山駅に向かう。

17:50福山駅到達
18:31福山駅新幹線のぞみで出発
19:35新大阪駅到達

今回の旅行、中国・四国地方の中心地、広島県に足を運び、世界遺産の宮島、自然のエリア、三次・世羅高原・庄原・帝釈峡をドライブ観光してきました。

さすが世界遺産の宮島、観光名所多く、多くの観光客が訪れ、他の離島のようなのんびりした、素朴なイメージ無く、何回か訪れたことがありますが、派手さのある立派な観光名所でした。

広島は観光名所が多く、北部の自然エリアをはじめて訪れ、ワインや地ビールなどの数多くの産物、430年以上の歴史を持つ鵜飼の三次、古くから園芸が盛んな世羅高原、日本を代表する名狭、国定公園帝釈峡などを訪れ、広範囲のドライブ観光楽しめました。









飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十九弾:広島県瀬戸内芸予諸島観光
2010年3月6ー7日


今回は多くの島が点在する瀬戸内海西部、広島県と愛媛県の間に位置する諸島大小数百の島からなり、そのうち有人島は約50島、それらの島に合計18万人強が住んでいるが、ほぼ全ての島で過疎化、高齢化が進行している。主な産業は造船、観光、柑橘類栽培である芸予諸島の20の島を車とフェリーで巡りました。

6日13:09新大阪駅新幹線のぞみで出発、福山でこだまに乗り換え
15:09三原駅到達、観光

1567年(永禄10)毛利元就の三男・小早川隆景が築いた平城の遺構。本丸をはじめ32の隅櫓、14の城門を築き、海に向かって開かれた船入と街道の入口に寺を配して、町全体が城郭兼軍港の機能を備えていた。現在は本丸跡をJR山陽本線が貫き石垣と堀が往時の名残をとどめる。満潮時、海に浮かぶように見えたため浮城とも呼ばれた三原城跡を散策する。

レンタカーで三原市南部にある筆影山一帯は、瀬戸内海国立公園に指定された景勝地。山頂から瀬戸内海が一望でき、春は桜の名所としても有名だ。その南西に位置する竜王山からも、瀬戸内の雄大な景色が楽しめる筆影山、竜王山の展望台を訪れたがあいにく霧がかかり眺望できませんでした。

尾道方面に向かう。

瀬戸内海に浮かぶ面積2.45km2、周囲約8kmの島で、全域が尾道市に属する。日本一のワケギの産地として知られる。尾道水道を挟んで尾道市街の南側、御幸瀬戸を挟んで向島の西側に位置し、向島とは向島大橋で結ばれている岩子島を一周する。

三原に戻り駅の近くのホテル到達後、市街地を散策して食事を済ませて床に就く。

7日6:00レンタカーで出発
6:30三原港カーフェリーで佐木島に向かう。

芸予諸島の島の一つで、ワケギ日本一の生産量を誇る町であり離島では珍しく漁業ではなく、ワケギ、メロン、トマトなど農業が主産業で戸数464戸・人口1033人の小さな島の佐木島を一周する。

カーフェリーで因島に向かう。

土生港到達、高速艇で4つの島、生名島、弓削島、佐島、岩城島を訪れる。

土生港に戻り高速自動車道で西條に向かう。

12:00西條到達。

西条駅前の東西に延びる、旧山陽道沿い約1kmの通り。白壁やなまこ壁の酒蔵と赤レンガの煙突が織りなす景観が美しい。現在でも酒造りを続ける8軒の蔵元がある酒蔵通りを散策する。

大名や幕府要人などが宿泊に利用した広島藩領内9カ所のなかでも最大規模の御茶屋(本陣)。明治維新後は賀茂郡役所(後に賀茂地方事務所)となり、芸南地方の文化の中心地となった。現在は賀茂鶴酒造の敷地内にある御茶屋跡(本陣跡)を訪れる。

瀬戸内海芸予諸島に向かう。

以前訪れた下蒲刈島、上蒲刈島を通過して広島県呉市にある瀬戸内海の島で、美しい景観と数多くの観光スポット、伝統のある壮麗なお祭り、ひじきなど瀬戸内ならではの美味しい特産品などに恵まれた秘境の豊島を通過。

瀬戸内海のほぼ中央に位置し、大崎上島とともに全国屈指の温州ミカンの産地。山の斜面には石垣を積んだ段々畑が続き、堀には全国でも珍しい農業用の船が浮かぶ。特に東端の御手洗地区は、江戸時代から昭和初期まで瀬戸内航路の宿泊港として栄え、往時のままの美しい町並みを残している大崎下島を訪れる。

国の重要伝統的建造物群保存地区。江戸中期の町屋から昭和初期の洋館まで多様な建造物が残り、なまこ壁の美しい商人の屋敷や千本格子のある町屋、路地など、そのノスタルジックな町並みが往時を偲ばせる。若胡子屋[わかえびすや]跡は、最盛期には100人もの遊女を抱えていたと伝えられる茶屋の跡。地区の南端には江戸時代に築かれた石造りの大波止があり、住吉神社の太鼓橋のたもとには高さ6.18mの高灯籠が立つ御手洗の町並みを散策する。

小長港からフェリーで大崎上島に向かう。

大崎上島は以前クルーザーで訪れたことがあり橋でつながっている長島を訪れてから大西港でカーフェリーに乗り安芸津に向かう。

安芸津港到達後近くの広島県、安芸津町の南西部架橋で結ばれている農業が盛んで、主にミカンやビワが生産されている人口192人の大芝島を訪れる。

18:00三原に向かう。
19:00三原到達、食事を済ませてから
19:49新幹線こだまで出発、福山でひかりに乗り換え
21:25新大阪到達。

今回の旅行、広島県瀬戸内海に多くの島が点在する芸予諸島の20の島をを車とフェリーで訪れました。
瀬戸内海の島々は車とフェリー、クルーザーでいままでかなりの数をおとずれ、まだ足を運んでない島は残り少なくなりました。もう直ぐ制覇できそうです。頑張ります。

瀬戸内の島々は有名な観光名所は少ないですが離島に訪れた開放感、のどかさ、自然いっぱいの離島巡り、なかなか本土と違った楽しいものがあります。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十六弾:広島県福山&鞆の浦&尾道観光
2010年1月23ー24日


今回は広島県の東部に位置する江戸時代に福山城の城下町として栄え、広島市に次いで県第二の規模を持つ産業都市、美術館、博物館などの文化施設が多く、備後地方の政治・経済・文化の中心地になっている福山、福山の南東部、沼隈半島の先端に位置し、古来より景勝地と知られ、潮待ちの港として栄えた町には江戸時代から明治時代の建物が多く残り、港町情緒たっぷりの鞆の浦、石畳の坂道と多くの古寺が点在する風情ある港町、文学と映画の舞台でもある尾道に足を運びました。

23日13:22新大阪駅新幹線ひかりで出発
14:30福山駅到達、散策観光

1619年(元和5)徳川家康の従兄弟・水野勝成が福山十万石の領主となって築城。天守閣は1966年(昭和41)の再建で、博物館として公開している。京都の伏見城から移築されたという伏見櫓(重要文化財)と筋鉄御門(重要文化財)は往時の遺構がある福山城を散策する。

鎌倉時代から室町時代に栄え、長年芦田川の川床に埋もれていた草戸千軒町。その遺跡の発掘調査で出土した陶磁器や木製品を中心に、瀬戸内の歴史と文化にスポットを当て展示している広島県立歴史博物館を見学。

デ・キリコ、クッキ、セガンティーニなど、イタリアの現代画家の作品を展示。日本の近現代画家や瀬戸内海ゆかりの画家の作品も紹介しているふくやま美術館を見学。

『山椒魚』、『黒い雨』で知られる福山市出身の作家・井伏鱒二を中心に、英文学者で随筆家の福原麟太郎、劇作家の小山祐士、詩人の木下夕爾らの資料を展示。『黒い雨』の直筆原稿や鱒二の愛用品をはじめ、書斎も往時そのままに再現されているふくやま文学館を見学。

乗る、触れる、撮るがテーマの体験型博物館。バタンコと呼ばれ親しまれた三輪車、自転車にエンジンを取り付けた原動機付自転車のほか、往年の自動車を動態保存・展示している。4・5・7・8月には、昭和30年代のボンネットバス試乗会も開催される。江戸時代の和時計や古い電化製品の展示もある福山自動車時計博物館を見学。

17:30福山駅の近くのホテル到達。

18:00市街地を散策して食事を済ませて床に就く。

24日7:00レンタカーで出発、鞆の浦方面に向かう。

途中横島、田島の島々を一周してから
8:00鞆の浦観光情報センター到達、車をおいて町を散策する。

平安時代の延喜式にも記載された古社。海を治める大綿津見命、学問の神の須佐之男命が祀られている。能舞台は組立式の珍しいもので、国の重要文化財に指定の沼名前神社を訪れる。

平安時代の826年(天長3)、弘法大師の開基とされる真言宗の古刹。境内からは鞆の浦の町並みと瀬戸内海の美しい島々が一望できる。本尊の薬師如来像は室町時代中期の作がある医王寺を訪れる。

1863年(文久3)、公武合体派に京都を追われた尊王攘夷派の三条実美ら7人の公家は長州への途中、鞆の浦に立ち寄った。彼らが滞在したのが旧保命酒屋の中村家。2階建ての本宅と7棟の蔵からなり、いずれも国の重要文化財に指定されている太田家住宅・鞆七卿落遺跡を訪れる。

1867年(慶応3)坂本龍馬と海援隊を乗せたいろは丸は、鞆の浦沖で紀州藩の軍艦と衝突沈没、龍馬らは鞆の回船問屋升屋に数日滞在した。江戸時代の蔵が展示館で、いろは丸の模型、大理石のドアノブなどの引揚げ物を展示。2階では龍馬の隠れ家を再現しているいろは丸展示館を見学。

かつて潮待ち、風待ちの港として栄えた鞆の浦の歴史・文化に関する資料を展示。鯛網漁のジオラマや漁具、瀬戸内海の美しさをイメージして『春の海』を作曲した宮城道雄の愛用の琴や遺品も見ることができる鞆の浦歴史民俗資料館を見学。

古刹福善寺の客殿で、創建は元禄年間(1688〜1704)。小高い丘の上に建ち、大広間から見る海上の眺めがすばらしい。朝鮮通信使をもてなす迎賓館として利用され、通信使の一人はここからの景色を「日東第一形勝」(対馬から江戸の間で一番美しい景色)と賞賛した対潮楼を訪れる。

鞆の浦沖の島で、仙人も美しさに酔いしれたというのが名前の由来。4つのトレッキングコースがあり、森林浴が楽しい大弥山稜線コースがある仙酔島をフェリーで渡る。

臨済宗の古刹。1270年代(文永年間)、金宝寺として創建。南北朝時代に足利尊氏が再建し、改称した。唐様の釈迦堂、阿弥陀三尊像、法燈国師坐像はいずれも重要文化財。地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像は、国の重要美術品に指定されている備後安国寺を訪れる。

尾道方面に向かう。

616年(推古天皇24)、聖徳太子の創建とされる名刹。国宝の本堂や多宝塔、足利家の家紋が入った重要文化財の山門のほか、名勝庭園や茶室露滴庵がある。宝物館では足利尊氏の古文書や聖徳太子像などを展示する浄土寺を訪れる。

鎌倉時代には浄土寺の曼陀羅堂と呼ばれた真言宗の寺。本尊は鎌倉時代に造られた千手観音菩薩像(県重要文化財)。境内には人形浄瑠璃の小屋主植村文楽軒と義太夫語りの竹本弥太夫の墓があり、技芸上達を祈願して多くの参拝者が訪れる。境内奥には3基の文楽の供養塔が立つ海龍寺を訪れる。

天平年間(729〜749)、行基開基と伝わる真言宗の名刹。金堂、三重塔はともに重要文化財に指定されている。仁王門には足の病に霊験あらたかな2mもの大わらじのほか、奉納された多くのわらじが下がる西國寺を訪れる。

尾道市街の背後にある、標高144.2mの千光寺山南山腹に広がる公園。隣接して千光寺がある。春は桜やツツジ、夏はフジが美しく、尾道水道や向島が一望できる千光寺公園を散策する。

瀬戸内の多島美と情緒あふれる尾道の家並みを一望する、千光寺公園内にある美術館。年間を通して、国内外の美術や尾道ゆかりの美術を紹介している。建物は建築家・安藤忠雄氏設計によるガラスを多用したモダンなデザイン。館内の喫茶コーナーやロビーからも市街を眺めることができる尾道市立美術館を見学。

806年(大同元)開基の名刹。本尊の千手観音(秘仏)は聖徳太子作と伝えられている。山の中腹の崖上に張り出した舞台造の本堂からは尾道の市街が一望でき、除夜の鐘で有名な竜宮造の鐘楼とともに尾道の代表的な景観として親しまれている千光寺を訪れる。

尾道ゆかりの文学者の著作物、肉筆原稿、遺品、資料などを収集展示しており、文学記念室・志賀直哉旧居・文学公園・中村憲吉旧居から構成されているおのみち文学の館を訪れる。

おのみち文学の館の一つで、1933年(昭和8)暮れに病気療養のため尾道を訪れたアララギ派歌人中村憲吉の旧居。外観のみの見学で、資料は文学記念室に展示されている中村憲吉旧居[おのみち文学の館]を見学。

おのみち文学の館の一つで、林芙美子が晩年まで筆を執った東京都新宿区の自宅の書斎、アトリエを再現。ほかに大衆時代小説の高垣眸など尾道ゆかりの作家の遺品も展示する文学記念室を見学。

おのみち文学の館の一つで、直哉が約1年間を過ごした三軒棟割長屋で東端の部屋が直哉の住まい。6畳と3畳の2間に台所と便所の質素な造りで『暗夜行路』の草稿が書かれた。また、敷地内には文学公園も整備されている志賀直哉旧居[おのみち文学の館]を見学。

1367年(貞治6)足利尊氏の子2代将軍義詮が建てた曹洞宗の寺。和様と唐様の折衷様式の高さ20mの三重塔は重要文化財で、海雲塔の名を持つ。本堂脇に立つ五百羅漢が並ぶ羅漢堂も見逃せない天寧寺を訪れる。

承和年間(834〜848)開基の浄土宗の寺。寺宝の絹本着色普賢延命菩薩画像は国宝。願いを込めて掌に粘土をギュッと握って作るにぎり仏作りにも挑戦できる持光寺を訪れる。

明治時代に建てられた白壁の蔵を利用した映画資料館。古い映写機や各種ポスター、台本など尾道が舞台になった映画の資料を展示している。小津安二郎監督の映画作りの過程を示したコーナーや、ミニシアターも充実するおのみち映画資料館を見学。

17:00終了、福山に戻る。
17:30福山駅到達。
18:32新幹線のぞみで出発
19:35新大阪駅到達。

今回の旅行、城下町として栄え広島市に次いで県第二の規模を持つ産業都市福山、古くから港町として賑わい、懐かしさを感じる町並みが残る鞆の浦、文学と映画の舞台で古寺が点在する風光明媚な尾道、十分な歴史散策が出来ました。

2日間で傾斜のきつい歴史街道をかなりの距離を歩きました。
山の麓に点在する多くの古寺が位置する鞆の浦、尾道、結構な運動になった歴史散策観光旅行でした。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第二十五弾:広島呉&江田島観光
2008年4月12−13日


今回は新幹線とレンタカーで広島市内と西瀬戸の島々を観光してきました。

12日13:29新大阪、新幹線のぞみで出発、14:51広島駅到達、市内を徒歩で観光。
天候は晴れ、広島駅の近くに位置する広島藩主浅野長晟が別邸の庭として築成した庭園、池を中心に山や渓谷を配し幾多の勝景を集め、縮小して表現している四季折々の花が美しい名園、縮景園を訪れる。

西に向かい1589年に毛利元就の孫、毛利輝元が築城、1945年原爆によって全壊したが、1958年に再建、かつて国宝に指定されていた5層の天守閣内部には展望室と資料室があり武家文化を伝える品々や昔の広島の資料を展示して又展望台からは広島の街が一望できる広島城を見学。

南の方に向かい、広島球場を通り過ぎて1915年にチェコの建築家ヤン・レツルの設計により建てられた、被爆前は広島産業奨励館として、県産物の展示・即売のほか、美術展といった文化事業などに利用され、原爆はこの建物から南東160m、上空約600mの場所で炸裂、爆風と熱風により大部分が崩壊、かろうじて残った一部の外壁が被爆の悲惨を物語っている原爆ドームを訪れる。

明治・大正・昭和から被爆までの広島の歴史や被爆直後の広島、原子爆弾の開発から投下までの経緯、核兵器の現状、平和への歩みなどを紹介、被爆者の遺品や写真をはじめとするさまざまな被爆資料を展示して、貴重な資料を公開し被爆の悲惨さを語り継ぐ聖地、広島平和記念資料館を訪れる。

市内の宿に寄ってから繁華街を散策して食事を済ませて宿を取る。

13日天候曇り、7:00市内を散策しながら広島駅に向かう。

8:00レンタカーで出発、呉方面に向かう。
9:00呉と倉橋島を結ぶ音戸大橋を通過、平清盛が切り開いた音戸の町に着く。温暖な気候と美しい瀬戸内海に恵まれた倉橋島、能美島、江田島、海とともに歴史を歩む島々は魅力がいっぱい、海辺の景色を楽しみながら数多くの文化を訪れる。

国内随一の和船造船地だった倉橋島、日本初の西洋式ドッグ跡など、その面影がいたるところにある。島の南端に存する現在も厳島神社管弦祭の御座船を管理する倉橋島の造船と歴史を紹介するミュージアムでかつての遣唐使の寄港地の一つで、館内には実物大の復元遣唐使船がみどころの長門の造船歴史館を訪れる。

戻って早瀬大橋を通過して東能美島、西能美島を巡ってから江田島に向かう。

海上自衛隊第1術科学校内には、大正6年築の大講堂や赤レンガの名で呼ばれる幹部候補生学校など旧海軍兵学校の面影が随所に見られる江田島旧海軍兵学校を見学。

音戸大橋から本土に戻り呉市内に向かう。

10分の1のサイズの戦艦大和の模型や零式艦上戦闘機、人間魚雷回天、戦艦金剛のボイラーなどの実物を展示、宇宙戦艦ヤマトをはじめとする松本零士の世界など興味深いヤマトミュージアム、国内で初めて陸揚げ・展示する退役潜水艦あきしおの艦内が見れるてつのくじら館を見学。

優雅な洋風木造建築の旧呉鎮守府司令や海軍工廠塔時計など、明治、大正時代の隆盛ぶりを物語る史跡を伝える呉市入船山記念館を見学。

東に向かい朝鮮通信使の歴史と藻塩の島として注目を集める下蒲刈島、上蒲刈島を巡る。
なかでも朝鮮通信使をもてなした豪華料理を再現した御馳走一番をはじめ、全国から移築した旧家を古伊万里、ランプなどのミュージアムにした松濤園を見学。

南岸の瀬戸内海沿いを東に走り江戸時代後期に製塩、酒造業で栄えた屋敷や由緒あるお寺と町並みが今もそのままのこる竹原に向かう。

西方寺本堂横の高台に位置し、戦国末期に小早川隆景が、京都・清水寺の舞台を模して建てた朱塗りの楼閣の西方寺普明閣、江戸中期から続く酒屋、竹鶴酒造の一部で代々伝わる酒器や酒造りの道具などを展示、又日本のニッカウイスキーの創始者・竹鶴政孝の生家として知られる小笹屋酒の資料館、浜主・塩田経営者として財をなした松阪家の屋敷、江戸末期に建てられ、1879年改修された松坂邸を訪れる。

17:30広島駅に向かう。18:30広島駅到達、夕食を済ませてから17:33新幹線のぞみで大阪に向かう。
20:55新大阪到達。

今回の旅行、広島タウンの世界遺産、原爆ドーム、平和記念公園を散策し、呉に向かい、10分の1の戦艦大和の大和ミュージアム、国内初めての潜水艦艦内を見れる、てつのくじら館、温暖な気候と美しい瀬戸内海に恵まれた島々(倉橋島、能美島、江田島)を巡り、又朝鮮通信使の歴史と藻塩で有名な蒲刈島により、又江戸時代後期に製塩、酒造業で栄えた屋敷が現存する竹原町を巡り充実した観光旅行でした。




飛行機で国内&海外の観光地巡り第十ニ弾:しまなみ海道観光
2007年11月17−18日


今回は飛行機を使わず夜行フェリーとレンタカー、電車での観光旅行でした。

11月18日はヨットレースの予定でしたが人数不足のため中止、急遽しまなみ海道観光に変更しました。
前日の17日は大阪湾一周ボートクルージング&イグレッグボートでフレンチ料理のイベントがあったため皆さんと解散後22:45六甲アイランド発の夜行フェリーで松山に向かいました。

17日22:45六甲アイランド発の夜行フェリーで松山に向かう。
18日7:40松山観光港到達、レンタカーでしまなみ海道に向かう。

9:00来島海峡展望台に到達、急流海峡で名高い来島海峡と三連つり橋、来島海峡大橋を目の前に広がり来島海峡展望館で来島海峡大橋の架橋技術を学ぶ。

しまなみ海道に入り来島海峡大橋通過、最初の島、大島に入る。
大島の南端に位置する亀老山展望台で360°のパノラマで来島海峡大橋の全景を望む。
地域の名産である大島石をふんだんに使った5部屋の展示室からなり郷土出身で、洋画家として人気の高い野間仁根画伯の絵画のほか、地元にゆかりのある武具、民具などの資料の展示もしている郷土文化センター、世界のバラ約400種類6500株が植えられている四国最大級の規模を誇るバラ園、よしうみバラ公園を訪れる。
芸予諸島を支配していた三島村上水軍の戦いや生活をジオラマや映像で紹介、貴重な甲冑、陣羽織などを展示している村上水軍博物館を見学。

伯方・大島大橋を通過して伯方島に入る。
岩ヶ峯の山頂に広がる公園、木浦城を復元した居館では、町内から出土した土器、石器や製塩土器を展示しているほか、島の文化、産業を紹介するふるさと歴史公園見学。

大三島橋を通過して大三島に入る。
鼻栗瀬戸展望台から大三橋を望む、大山積大神を祭る古社、日本国宝、重要文化財の武具の内約8割を有することで知られている大山祇神社、宝物館(紫陽館、国宝館)、樹齢2700年の天然記念物小千命御手植の楠見学。

美しい斜張橋、多々羅大橋のたもとに位置するしまなみの拠点、しまなみ海道沿線の観光案内をしてくれる多々羅インフォメーションセンターのある多々羅しまなみ公園から多々羅を望んでから多々羅大橋通過、生口島に入る。
もと実業家の耕三寺耕三が、母の菩提寺として建立した浄土真宗本願寺派の寺。堂塔は国宝建造物を手本として建てられ、内15棟は国登録有形文化財に指定されている。館内の各展示館では、仏教・茶道・近代美術の名品を展示、現代美術の大理石庭園「未来心の丘」を訪れる。高根島を訪れてから生口橋を通過して因島に入る。

村上水軍の拠点があった場所で。1983年(昭和58)に再現した全国唯一の水軍城、本丸は水軍資料館として小早川隆景から拝領した甲冑や武具などの歴史資料を展示、隅櫓[すみやぐら]は展望台になっている因島水軍城を訪れる。
山頂一帯に約700体の石仏が点在する白滝山を登ってから因島大橋を通過して向島に入る。
国立公園高見山を上りしまなみ海道の島々の360°大パノラマ眺望はすばらしかった。
帰路はしまなみ海道を通って四国に向かう。

18:00新居浜駅に到達、18:29特急しおかぜで岡山に向かう、19:57岡山到達、20:09新幹線のぞみで出発、20:54新大阪駅到達。

今回の旅行、しまなみ海道はクルーザーで数回訪れ、車でも通過したことがあるが島々の観光めぐりは今回初めてでした。
来島海峡の急流海峡、7つの島、7つの橋、歴史ある大島の村上水軍博物館、大三島の大山祇神社、因島の因島水軍城、なかなかの見るところがいっぱいのしまなみ海道観光地でした。