岐阜

飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百七十九弾:岐阜県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2019年6月1日−2日
 

滋賀県に足を運び、足を運び、滋賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(多治見、明智、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷)を訪れました。

1日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神自動車道経由して多治見インター下車

多治見:多治見といえば焼き物、とくに織部焼で知られています。町には陶磁器を販売する店がいたるところにあります。とくにオリベストリートは、商家や土蔵などを残しながら、古い街並みを形成しています。しかも重厚さに目を見張ります。
 また新町銀座アーケード街にも蔵造りの商家が見られます。さらに小路町付近、御幸公園付近にも古い町家や蔵が残されています。御幸公園は西浦邸の本宅跡で,付近一帯は多治見陶磁器の発祥の地と言われているそうです。

明智:町の有志がボランティアで、町の活性化のために取り組み、いろいろな事情を克服しながら活動し、また行政もこれにタイアップして進めています。大正村は大正のイメージと心、そして人々の郷愁をこの町に留めるといった、いわば物質的なものより精神的な要素が強く、日本中の人達がその時代を偲ぶメッカとなることを究極と考えています。大正村役場、大正村資料館ほか、大正の文化に関する資料の収集や展示を整備し、総ての人達が大正の風情にひたれる環境をつくるために努力しています。 情報化の激しい波が押し寄せるこの時代にあって、静かな山あいの町、明智町は、製糸を地場産業として栄えた大正の頃の姿そのままに、風俗、建物をはじめ、生活文化そして人情や自然にいたるまで大正のた たずまいを残しています。
日本大正村は、ただ古い物を集めて見せるのではなく、人々の生活が息づく中で「大正」を感じてほしい、町ぐるみ大正の博物館です。

岩村:江戸時代の町並みが残る山間の城下町。慶長6年(1601年)、松平家乗は標高717mの城山を整備し、岩村川の北に武家町、南に町人町を配した。町人町には生活用水・防火用水として天正疎水がつくられた。城の現存物は石垣のみとなったが、城下には岩村本通りを中心に古い町家が多く残り、本町の母屋の約4分の1は江戸時代の建物。秋祭りでは、東の八幡神社と西の武並神社を結ぶ町並みを、御輿渡御が数百メートルの行列となって往復する。

馬籠:馬籠宿は、石畳が敷かれた坂に沿う宿場町。日常から離れ、水のせせらぎ、小鳥のさえずり、街道を横切る風を感じながら、粋なひとときをお過ごしいただけます。宿場の中間地点には、この地が生んだ文豪・島崎藤村の生家跡(本陣)も資料館として馬籠の歴史を伝えています。

関方面に向かう。

関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

2日5:00車で出発。

美濃:上有知の町は金森長近によって造られたもので400年の歴史を持つ。一番町と二番町、それをつなぐ4本の横町によって目の字型となっている。町は上、中、下に三区分され、金森長近が以前に造った高山の町並と似ている。金森長近は長良川の上有知港を開き、それと町を結んで交通の便を図った。上有知町を造った金森氏は在城10年にして断絶し、その後一時幕領となったが、まもなく尾張藩領となって明治に至った。上有知は街道により郡上、飛騨への物資集散地となり、さらに岐阜、桑名方面への舟運によって商業が大繁盛し中濃屈指の町となった。この町は丘の上にあるため水の便が悪く、古来度々の火災に遭った。特に享保8年(1723)の大火によって町は全滅した。その時、町民の防火意識の高揚により一番町、二番町の道幅を従来の二間から四間に拡幅することになった。この時の町並が現在の町並である。特に古い形態を残しているのは、現在の泉町のうだつ連棟と旧今井邸のあたりで、江戸時代の姿をよくとどめている。次に古い町家が残っているのが本住町、魚屋町あたりで、町民のうだつへのあこがれを示す片側だけのうだつの松久邸や完全防火をめざした旧武藤邸の姿など貴重な遺構である。さらに相生町の小坂邸の美しいむくり屋根のある国重文の家は、特に注目をひく。常盤町の重厚な土蔵つくりの構えなど後世に残すべき重要な文化遺産の宝庫といえよう。外部から見るうだつの町はすばらしいが、旧今井邸の内部に見られる店の構えも古い時代の商人の生活がうかがえるのが楽しい。特に美しい庭や茶室に一流商人の庭と茶道に対する趣味の高さと、文人好みの教養の深さが知られる。うだつの町には、それにふさわしい町人文化が発達したことも忘れられない観点であろう。

郡上八幡:岐阜県郡上市の真ん中に位置する「郡上八幡(ぐじょうはちまん)」は、小京都として人気がある城下町。シンボルである郡上八幡城の西南には、職人町や鍛冶屋町などの古い町並みが広がっています。また「水の郷百選」に選ばれた郡上八幡は、名水として知られる宗祇水をはじめ、豊かな湧水に恵まれた清流の町でもあります。町屋の軒下には水路が流れ、水舟の合理的なシステムには感心するばかり。水路や小径が点在する風情あるたたずまいに癒されます。国の重要無形民俗文化財に指定された「郡上おどり」は郡上八幡の夏の風物詩。なかでもお盆の4日間に開催される「徹夜おどり」は、観光客も一緒に踊って明け方まで盛り上がります。

高山:飛騨高山の古い町並は定番の観光スポット!ガイドブックによく載っている、タイムスリップしたかのような光景を見ることができます。高山を訪れたら絶対に外せない散策場所の1つです。上一之町、上二之町、上三之町が「さんまち通り」と呼ばれており、名物のみたらし団子や飛騨牛の握りを食べながら散策するのがおすすめ!商人の町として栄えた江戸時代の雰囲気を楽しめます。宮川朝市は日本三大朝市の1つとしても知られており、地元の人や多くの観光客でにぎわう飛騨高山の名物!高山市の中心を流れる宮川沿いで、ほぼ毎日開催されています。地元の新鮮な野菜を買ったり、食べ歩きの定番みたらし団子を食べたり、ご当地の名産品を味わいましょう。また、もう1つの朝市、陣屋前朝市も徒歩圏内なので、早起きして高山名物である朝市をはしごするのもおすすめです!「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で二つ星を獲得した高山陣屋は、江戸時代の時代劇ファンにはたまらないスポットです!もともと高山城主金森長近の下屋敷だったものが徳川幕府の直轄地となり、江戸から代官や郡代(ぐんだい)が来て役所となりました。この役所は“陣屋”と呼ばれ全国に60ヶ所以上ありましたが、現在、建物が残っているのはなんとここだけです!年貢に関する展示や奉行所でおなじみの“お白洲”、罪人に関する展示なども数多くあり、ぜひ時間を取ってゆっくり立ち寄りたいスポットです。高山陣屋の目の前で開催している陣屋前朝市は、毎朝6時30分頃から12時まで開かれ、地元野菜や山菜などの食品、民芸品などが販売されています。宮川朝市に比べてお店は少ないですが、そのぶん人が少なめなので、落ち着いて買い物をしたい方におすすめです。

飛騨古川:石造りの瀬戸川沿いを、右手に白壁土蔵街、左手には「水呼びの亀」が守る円光寺を見ながらのんびりと散策。飛騨古川の象徴的ともいえる景色が続きます。瀬戸川を悠々と泳ぐ1,000匹もの鯉に餌をあげるのも散策の楽しみのひとつ。絵になる町並みで記念写真を撮りながらじっくりと歩きたくなる道です。

白川郷:岐阜県の白川郷合掌造り集落は、1995年に世界文化遺産に登録されました。ミシュランで3つ星として掲載された日本を代表する人気観光地で、田んぼに囲まれた中に茅葺屋根の家が点在する山村の景色は、まさに日本の原風景。城山展望台、和田家、旧遠山家民俗資料館などは、日本人なら一度は訪れたい定番観光地です

16:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜県に足を運び滋賀県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区9か所(多治見、明智、馬籠、美濃、郡上八幡、高山、飛騨古川、白川郷)を訪れ楽しみました。

城下町、宿場町、商業町、合掌通リの集落、明治大正にかけてのレトロな建物街並み等、歴史的建造物がいっぱいの町を訪れ散策し癒されました。

世界的メジャーで知れ渡っている、高山、世界遺産の白川郷は、多くの外人観光客で賑わっていました。
その他の地区は、外人観光客はほとんどいなく、日本人観光客が数少ないですがぽつりぽり見かけた観光名所でした。
インスタ、ツイーター等で拡散すれば外人観光客が増え賑わうことを願います。

 























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百五十四弾:岐阜県中部四十九薬師霊場&お城・城下町巡り観光
2018年11月17−18日
 

長野県と岐阜県を中心に、山梨・愛知県にまたがりアルプスの山懐にいだかれ、温泉地にも恵まれた大自然の中の巡拝コース中部四十九薬師霊場で岐阜県に点在する霊場10か所、お城11か所を訪れました。

17日12:30車で出発、第二京阪、京滋バイパス、名神経由して小牧インター下車、霊場巡り。

願興寺:縁起 人皇五十二代嵯峨天皇の弘仁六年(815年)天台宗宗祖伝教大師が比叡山より東国巡錫の砌り、御嵩の地にお宿りになりますと、遠近の人々が忽ち集まり仏教信者となり、大師は布施屋(無料宿泊所)を作らしめ、薬師瑠璃光如来の尊像を彫刻して安置された。その後、正暦四年(993年)一条天皇の御代に、皇女が剃髪して行智尼と称し、この地に正宝庵を結んで住まわれ、朝夕本尊薬師如来を礼拝せられたところ長徳二年二月七日(996年)、寺の西南にあたる尼ケ池より金色の御光が四方に輝き亘り一寸八分の御尊像が蟹の背に乗って池の面に浮かばれましたので、行智尼は、この尊像を迎え奉って本尊の腹中に納められました。このこと畏くも天聴に達し勅命により、七堂伽藍を建立し、大寺山願興寺の寺号を賜りました。俗名「蟹薬師可児大寺」はこの因縁によるものです。その後、幾多の兵火あって堂宇は炎上したものの、本尊をはじめ御尊像24体は恙がなくお移し大正三年(1914年)に国宝に指定され、今は国の重要文化財となっている。

真光寺:縁起 何時の頃か当地の里人達は、行基菩薩作の薬師如来像を招来してきて、形ばかりの小堂を建立して日夜尊崇怠りなく、このこと次第に近隣に伝わり、皆共々に相携えて参詣日毎に多し、やがて堂宇の狭小を感ずるや、人々相議して堂宇を拡張再建して一寺とした。
 信徒等は、加治田村の龍福寺第四世陽南大和尚を、懇請して開山第一世となす。爾来、順栄、順林、恵珀、道仙、師順、恵湛、玄苗、萬密、文青、穆洲と十世を経て現在第十二代となる。この間、第八代玄苗師の頃、火難に遭い、諸堂全焼、その後間もなく再建されて現在の伽藍とはなったが、そのために創建の年次も不明となった。

洞雲寺:縁起 当山は嘉吉三年(1443)将軍足利義勝公の寄付地により却庵寂永禅師の開基であり、文明十八年以降、瑞浪市開元院より交互性特派遣、慶長九年(1604)開元院十世梵的和尚中興開山となり慶長十三年(1608)西尾丹後守、寺領を寄進、殿宇を再建し永風を唱え大龍峯窟を全備した。
 通称田代山寺と呼ばれ山上にあったのを昭和三十三年に現在地に移転新築した。
 本尊 聖観世音菩薩。 脇仏 地蔵菩薩・昆沙門天
 別仏 東方薬師如来・阿弥陀如来・文珠菩薩・大黒尊天
    弁財尊天・水子地蔵菩薩・稲荷大明神・金比羅大権現
 当山薬師如来は寛永十七年(1640)殿宇と共に建立し今日に至る。又、町内4ケ所に薬師堂あり。
 病苦に悩むものには回春の光明を与え、貪苦に苦しむものには福徳を施与し、身体健全と家門隆昌の薬師如来様であります。

17:00関方面に向かう。
17:30関市内のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
18日7:30車で出発。
霊場、お城巡り

篠脇城:築城年代は定かではないが南北朝時代に東氏村によって築かれたと云われる。 東氏は下総国千葉氏の支族で、承久の乱(1221年)の功により郡上郡山田荘の新補地頭職を得て東胤行が下向して阿千葉城を築いたことに始まる。
四代東氏村は当時勢力を誇っていた鷲見城主鷲見氏との距離が近すぎることと、南朝方の拠点である越前からの来襲に備えるために、篠脇城を築いて居城を移したといわれる。
東氏は代々文武両道で続後撰集、続拾遺集、新続古今集などに入っていた。 応仁の乱が勃発すると東氏は東軍の細川氏に味方したが、美濃国守護の土岐は西軍の山名氏に味方した。この結果、応仁2年(1468年)守護代斎藤妙椿の攻撃を受け、激戦の末落城した。このとき関東に下向していた東常縁は「あるが内に斯かる世ーしも見たりけり、人の昔の猶も恋しき」と詠んだ。人づてに聞いた妙椿は自分に詠を贈ってくれたら所領を返そうと約束すると、「吾世経むしるへと今も頼む哉、みののお山の松の千歳を」をはじめ十首の和歌を贈ったという。これを受けた妙椿は約束通り所領を全て返還したという。
その後、十二代常慶の時、天文9年(1540年)と翌年の天文10年に越前国朝倉氏の攻撃を受け、この時はかろうじて撃退するが、東殿山に赤谷山城を築いて居城を移した。

小鷹利城:築城年代は定かではない。姉小路氏の庶流向氏(小鷹利氏)累代の居城とも云われるが、それを直接示す史料は残っていない。
天正11年(1583年)(あるいは10年)に向家の幼君右近を後見していた牛丸又太郎重親が、逆心を起こして横領を企てた。重臣後藤重元はこれを察知して右近を伴って城を脱し、角川へ逃れたが、重親が差し向けた追っ手に角川村で追いつかれ、重元は防戦して戦死、右近は逃げ延びて母方の縁を頼り常陸の佐竹氏に仕え、向右近宣政と名乗ったという。

蛤城:築城年代は定かではない。 応永年間末期に藤原師言が築いたとの伝承もあるが、天文年間に古川二郎による築城とも云われる。
その後は塩屋筑前守の城となり筑前守は上杉謙信、後は織田信長に従ったが天正11年に討死したという。
その後は一時三木氏の勢力にあったが、三木自綱が金森長近によって討たれると金森氏の城となり、金森可重が入城したが、増島城を築いて居城を移し廃城となった。
この城は「蛤城(はまぐりじょう)」とも呼ばれるが、これは飛騨へ入国した金森氏がこの城へきたとき、城内に蛤石があったため、以後蛤城と呼ばれるようになったのだという。

増島城:築城年代は定かではないが天正15年(1587年)に金森長近によって築かれた。 越前国大野城の金森長近が飛騨国の三木氏を滅ぼして飛騨に入部すると、増島城を築いて蛤城の金森可重を城主とした。
長近が没すると可重は金森氏を継いで高山城へ入り、増島城には長子金森重近を置いた。しかし可重が没した後に金森氏を継いだのは重近ではなく四男の重頼で、この結果重近が京都へ出て茶道に生きた。
元和5年(1619年)一国一城令によって廃城となり、その後は古川旅館として金森氏の別邸として存続されたが、元禄5年(1692年)金森氏は出羽国上山へ転封となり、その領地が天領となって破却された。

小島城:築城年代は定かではないが南北朝時代に姉小路氏によって築かれたと云われる。 姉小路氏は公家で三条実房の子公宣が京の姉小路に住んで姉小路氏を名乗った事に始まる。飛騨の姉小路氏は姉小路家綱が建武新政の際に飛騨国司となり、信包城(向小島城と推定されている)を居城としたことに始まるという。
姉小路家綱は南朝方によって国司に任命されたことから、おもに南朝方として戦っていた。その後、姉小路氏は小島氏・古川氏・向氏の三家にわかれる。
戦国時代になると京極氏の被官であった三木氏が台頭し、小島氏はそれに属していたが、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国に侵攻した越前国大野城の金森長近によって攻められ、小島城は落城した。

江馬下館:築城年代は定かではないが江馬氏によって築かれたと云われる。 江馬氏の出自は定かではないが、鎌倉北条一門または伊豆の江間氏の一族といわれる。
江馬氏下館は南東にある高原諏訪城を詰城とした館である。 江馬氏は高原諏訪城を本城として北飛騨一円に城を築き、北飛騨の雄として勢力を誇っていた。しかし戦国時代には越後国上杉氏、甲斐国武田氏に翻弄される。 江馬時盛ははじめ甲斐の武田氏に通じ、南下して姉小路氏を攻め勢力を延ばしたが、越後の上杉氏が飛騨に侵攻して降伏した。しかし永禄7年(1564年)武田信玄は山県昌景に命じて飛騨に侵攻すると、再び時盛は武田氏に通じ、翌年には武田氏とともに越中へ侵攻した。
武田氏よりの時盛に対して、嫡子輝盛は上杉氏に好意を寄せ父子の関係は悪化、時盛は三男信盛に家督を譲ろうとするが信盛は輝盛にはばかってそれを受けず、時盛は従弟の洞城主麻生野直盛の子慶盛を養子にしようとした。天正元年(1573年)ついに輝盛は父時盛を暗殺し、洞城を攻めて麻生野慶盛を自害させ、弟信盛・貞盛を追放して江馬氏の家督を継ぐ事となった。
天正10年(1582年)三木氏の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で死んだことを機に、輝盛は南飛騨の三木氏を攻めるべく出陣する。しかし吉城郡荒城川において大将江馬輝盛は三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城も落城した。
その後、江馬時政という人物が再興し、天正13年(1585年)飛騨に侵攻した金森長近に協力して姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、同年金森氏に反抗して一揆を起こし、金森氏に滅ぼされた。

高原諏訪城:築城年代は定かではないが江馬氏によって築かれたと云われる。

寿楽寺:縁起 創建は不祥だが所蔵する写本大般若経や祈祷札の墨書から推察するに、応永五年(1399)三月、記載の祈祷札(県指定文化財)に宮谷寺末寿楽寺とある。室町時代すでに寿楽寺が存在したことは確かであろう。元禄二年(1689)高山の素玄寺八世古林道宣和尚が中興開山して以来、曹洞宗を継承して現在に至る。本堂は宝暦五年(1756)六世和和尚の代に再建した。単層入母屋造り、間口七間の見事な構えである。
  本尊の薬師如来は、厨子入り秘仏である。資料によると天保十一年(1840)春三月に御開帳されている。脇間の十六羅漢像も威厳ある像である。棟続きの観音堂は明治十二年(1879)本田家が寄進した。鐘楼は昭和五十九年に建立された。

安国寺:縁起 建武の中興を成した足利尊氏直義は、禅僧、夢窓疎石の薦めで後醍醐天皇と元冠以来幾多の戦乱に露と消えた兵達の霊を弔う為、一国一寺一塔の大願を発し、六十六国二島に安国寺が設立された。
  飛騨の安国寺はその一つとして貞和三年(1347)少林寺を母胎として創設された。当時は七堂伽藍と九ケ寺の塔頭を備え、繁栄していたが、天文・永禄の頃、飛騨戦乱のため兵火にかかり、そのほとんどを焼失した。その後飛騨平定され、寛文の頃、南叟和尚の尽力で再建され今日に至っている。
 当山の薬師如来、日光・月光菩薩は、もと本町半田の山腹にあった横河山安寧寺の御本尊であった。安寧寺は安国寺と同時期に兵火にかかり、御本尊のみ難を逃れ、一時は民家に御座されていたが、安国寺再建の折、当所に移入し、堂宇を新たに建立して安置されたものである。行基菩薩の作と伝えられている。御像は寄木造りで永い間風雪に曝された為か彩色が殆ど剥落し、木地が露わになり、処々に胡粉の跡が伺える。このことが却って当山薬師如来の信仰を深めている趣がある。古来より十七年毎に大開帳を行っている。他に国宝経蔵、重文開山像等がある。

飛騨国分寺:縁起 聖武天皇の勅願により全国六十余州に建立された「金光明四天王護国之寺」は、国分寺と称せられる鎮護国家の祈願道場です。
 当山は、飛騨の国の国分寺として、天平十八年(746)に行基菩薩が開創された当国第一の古刹です。境内には、樹齢一千二百年の大いちょう(天然記念物)が繁っており、創建当初にそぴえていた七重大塔の礎石(国史跡)と共に寺歴を物語っております。
 市内最古の建造物である本堂(国重文)には、行基菩薩御作と伝えられる本尊薬師如来(国重文)をはじめ、旧国分尼寺本尊の聖観音(国重文)、恵心僧都御作と伝えられる阿弥陀如来(県重文)等が安置されており拝観することが出来ます。
 毎月八日の縁日には「薬師如来供祈願会」が巌修され心願成就祈願の信者さんが沢山参詣されます。
  また、当地方の女性は、安産腹帯を本尊薬師如来より授かる習わしが古来より伝えられており、更に母乳の出にくい母親は薬師如来よりいただけると御本尊へ祈願されます。
 境内の三重塔(県重文)は当国唯一の塔建築で、文政四年 (1821)に再建されており、内陣には真言宗の御本尊大日如来が安置されている。

相応院:縁起 当院は明治以前までは隣にある桜山八幡宮の別当寺で長久寺と称しておりましたか、明治初年の排仏毀釈によって廃寺となりました。当時の住職兼神職でありました桜山識雄和尚は、代官所(高山陣屋)へお願い状を出して必死に仏教を守られました。
 その結果高野山での飛騨の大名金森家の菩提寺であった相応院が飛騨の国との御縁でその寺号と金森可長近公寄進の雲上阿弥陀三尊・涅槃図・不動尊図等を譲り受け、現在地に本堂を建立致しました。長久寺は高山の裏鬼門に当るので不動尊像をお祀りして鬼門除けと住民の安全等を祈願する神仏混淆のお寺でしたので、その不動尊像・弘法大師像・歓喜天像・聖観音像・十一面千手観音像・弥勒菩薩像等をお祀りしております。又、当院には円空仏が二体あります。一体は稲荷さんで、もう一体は薬師如来です。高山市史に長久寺は山伏寺とも書いてありますので、円空さんも飛騨へ来られた折に立ち寄られ、何体か刻まれた事と思いますが前述のとおり排仏毀釈で古文書等はなく、縁起は代々伝わっている話のみです。
 円空薬師如来は本堂左側にお祀りしてあり、裏山には修行大師像がお祀りしてあります。

清傅寺:縁起 当山は、清寧天皇(480)までさかのぼると記されていますが、富山での大火で一部が焼失し、詳しいことは解りません。
 又、白山開山と伝えられる泰澄和尚が創設したお寺とも言われております。天平年間 聖武天皇のころ、皇帝健康にすぐれなく、ある時、泰澄和尚が、白山の麓に一堂を創設し、皇帝の病気平癒、国家泰平、万民安穏、五穀豊穣を祈念し、日々白山を見奉り、供養したところ、元気になられた。その後も泰澄和尚は御堂に籠り祈願を続けたと言うことです。堂守六代まで焼きましたが、八十二代後鳥羽帝の時、国乱が起り堂守中絶していたのを、永享五年三月、無量寿院賢興大僧正の高弟子、成伝律師が再興しました。
 その後加賀の守、前田家の祈願所となり、次男利次が富山藩として分家した時、富山へ移り、代々領主の祈願所となっておりました。しかし明治の改正により寺録を失い、同十三年の大火で殆ど焼失、その後、当山第19世下切弘道和尚により飛騨に移され現在に至っております。
 白山の仏の本地は十一面観音菩薩で当山も本尊は十一面観音です。脇仏に薬師如来が祀られています。飛騨仏師「信二良」作です。形像は、鉢を持する薬師様で、法隆寺の薬師様によく似た面長の美しい面であります。寺伝によれば姫薬師と呼ばれ女性に信仰があります。

鍋山城:築城年代は諸説あり定かではないが、一般的には天文年間に平野豊後守安室によって築かれたと云われる。 平野氏は安室の父右衛門尉の時に信濃国より飛騨国へ入国し三仏寺城主となり、安室の時代に鍋山城を築城(または修築)してここに移り、鍋山氏を名乗ったと云う。
安室は家の安泰をはかるため、実子の左近大夫を差し置いて三木氏より三木自綱の弟顕綱を養子に迎えたが、顕綱は安室を毒殺して左近大夫をも追放した。
追放された左近大夫は越前国大野城の金森長近を頼って落ち、天正13年(1585年)羽柴秀吉の命によって飛騨国へ侵攻した金森長近に加わって三木氏を攻め、再び飛騨へ復帰することとなった。しかし金森氏の飛騨入封後、その処遇に不満があり広瀬氏・江馬氏などと呼応して一揆を起こすが、金森可重によって鎮圧された。
飛騨国を制圧した金森長近はこの鍋山城へ入って政務を行ったが、高山城を築いて居城を移し廃城となった。

高山城:築城年代は定かではないが永正年間(1504〜1521年)に高山外記によって築かれた天神山城が前身である。高山氏は飛騨国守護京極氏の家臣で守護代をつとめた多賀出雲守の一族という。
永禄元年(1558年)桜洞城主三木自綱と高堂城主広瀬宗城によって高山氏は滅ぼされると、自綱は叔父の三木久綱を天神山城主とし、天正7年(1575年)松倉城を築いて居城とした。
天正13年(1585年)三木自綱は越中の佐々成政と結んで羽柴秀吉と対立すると、羽柴秀吉の命によって越前国大野城主金森長近が飛騨国へ侵攻し、自綱は高堂城と広瀬城が落城すると降伏、最後に残った三木秀綱の籠る松倉城も落城して三木氏は没落した。
飛騨へ入部した金森長近ははじめ鍋山城を居城としていたが、天正16年(1588年)天神山城を改修して高山城と改称し居城とした。
元禄5年(1692年)金森氏六代金森頼時は出羽国上山へ転封となり、以後飛騨国は江戸幕府直轄領となって高山陣屋によって治められ、高山城は廃城となった。

松倉城:築城年代は定かではないが天正7年(1579年)頃に三木自綱によって築かれたと云われる。また一説に永禄年間(1558年〜1570年)に自綱の父良頼の頃に築かれたとも云われる。
三木氏は応永18年(1411年)京極高員の代官として三木正頼が益田郡竹原郷に下向したことに始まると云われる。四代三木直頼のときに益田郡の大半を横領して桜洞城を築いて居城とした。五代良頼の時代になると大野郡へ進出して飛騨国司の姉小路家を滅ぼし、六代自綱のときには高原諏訪城主の江馬氏などを降して飛騨大半を平定した。
天正13年(1585年)三木氏は秀吉と対立する越中の佐々成政と結んだことから、秀吉の命を受けた越前国大野城主金森長近の侵攻を受けた。このとき自綱は広瀬城におり、松倉城には秀綱が籠城して金森軍と戦ったが内応者が現れ落城し、秀綱は城を脱して信濃へ逃れる途中に土民に襲われ死んだという。
三木氏の後に飛騨に入封した金森氏は高山城を居城として築き、松倉城は廃城となったと云われるが、現在残る主郭部の石垣などの遺構は、他の三木氏に関係する城から高石垣などの遺構が確認できないこともあり、金森氏など織豊系の武将によって改修されたものとも考えられている。

萩原諏訪城:天正13年(1585年)佐藤秀方によって築かれた。 天正13年(1585年)越前国大野城主金森長近は羽柴秀吉に命によって飛騨へ侵攻し、三木自綱を敗って飛騨を平定した。これによって金森氏は飛騨を与えられ高山城を築城して居城とし、姉婿の佐藤秀方に命じて桜洞城を廃して諏訪城を築かせこの地方を治めさせた。
元和の一国一城令によって廃城となったが、その後も金森旅館として存続する。しかし、元禄5年(1692年)金森氏が出羽国上山へ転封となると破却された。

禅昌寺:平安時代の創設と言われる臨済宗妙心寺派の禅寺。中国宋朝の様式を伝える建築物は「天下の名刹」として威容を誇っている。境内には金森宗和が造園した名勝指定の庭園「萬歳洞(ばんざいどう)」や茶室、雪舟筆の大達磨像等多くの寺宝の他、樹齢1200年を超える国指定天然記念物の大杉や勅使手植えのゆかりの梅など見どころ満載。予約をすれば座禅体験もできる。

温泉禅寺:縁起 文永二年(1265)湯ガ峰からの温泉の湧出が突然止まってしまう。その翌年、毎日のように飛騨川の河原に舞い降りる一羽の白鷺に村人が気づく。不思義に思った村人がその場へ行ってみると、温泉が湧いていた。空高く舞い上がつた白鷺は、中根山の中腹の松に止まり、その松の下には光輝く一体の薬師如来が鎮座していた・・・。これが下呂に伝わる白鷺伝説であり温泉寺開創の縁起である。 白鷺に化身し、温泉の湧出を知らせたこの薬師如来を本尊とするのが、瞥王霊山温泉寺である。下呂富士と呼ばれる中根山の中腹に建ち、創建は寛文十一年(1671)。江戸元禄期以降、北海道開拓に尽力したことで知られる初代飛騨屋久兵衛の父、武川久右衛門倍良が、萩原・禅昌寺八世剛山和尚を開山に迎え、建立した寺である。下呂温泉を、草津・有馬とともに天下三名泉として初めて全国に紹介したのが、室町時代の五山僧・万里集九である。(「梅花無尽蔵」より)以来、下呂温泉にはたくさんの湯治客が訪れるようになり、江戸中期には年間三万人を数えた。温泉寺にも、花柳病などの湯治客がお籠りし、朝夕薬師如来を拝みつつ、湯治の未、無事病気平癒した人達の残した絵馬が、今でも本堂に数多く残されている。また、願い叶わずこの地で命絶えた人達の過去帳も残っている。

17:00終了、帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜県に点在する中部四十九薬師霊場10か所、お城11か所を訪れ楽しみました。
霊場は立派なものが多く、城跡は案内が十分でなく、たどり着くのに時間がかかりました。
帰りの高速道路、紅葉帰りの車が多く渋滞に巻き込まれ時間がかかりました。



 




















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十五弾:岐阜県お城・城下町巡り観光
2017年11月25日−26日
  

今回は中部地方に位置し、下剋上を体験したかのような斎藤道三、義龍親子が美濃の権力を握ったが、龍興の代になって、織田信長に滅ぼされ、一方、飛騨は織田信長が没した後、豊臣秀吉が金森長近を送り込んで支配した岐阜に足を運び、岐阜県に点在する比較的マイナーなお城11か所を訪れました。

25日18:00車で出発、第二京阪京滋バイパス名神高速道路を経由して岐阜羽島インター下車
20:20岐阜羽島駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
26日7:00出発、お城巡り。

高須城:築城年代は定かではない。暦応元年(1338年)美濃国石津郡に地頭職を賜った氏家重国が館を構え、これを高須城の前身とする説がある。

大永2年(1522年)大橋重一が築き、以降、信重、重長と続く。大橋氏は後に勝幡城の織田信秀に属し、天文年間(1532年〜1555年)以降は高津直幸、平野長治、秋山信純など多くの城主が入れ替わった。

関ヶ原合戦後、松ノ木城から徳永寿昌が五万七百石で高須城に入り高須藩となったが、二代徳永昌重は寛永4年(1627年)大坂城改修工事で監督不行届があり、改易され、出羽国鶴岡藩酒井忠勝、さらに出羽国新庄藩戸沢政盛にお預けとなった。同じく嫡男徳永昌勝もお預けの身となっていたが慶安元年(1648年)に赦され、子孫は二千二百石の旗本として速続している。

寛永17年(1640年)下総国関宿から小笠原貞信が二万二千七百石で高須へ移ってきたが、度重なる洪水などに悩まされ、自ら領地替えを幕府に願い出て、元禄4年(1691年)に越前国勝山へ転封となった。

その後は天領となっていたが、元禄13年(1700年)尾張藩主徳川光友の次男で信濃国高井藩主松平義行が高須藩へ転封となり、以降、高須藩三万石として代々続いた。

墨俣城:永録9年(1566年)木下藤吉郎によって築かれた。 稲葉山城攻略のため織田信長は墨俣の地に築城を試みるが、墨俣は当時美濃斎藤領であり稲葉山城と大垣城に挟まれており苦難を強いる。

最初に築城を命ぜられたのは佐久間信盛、続いて柴田勝家が命ぜられるがともに斎藤軍の攻撃により失敗した。 3回目に築城を命ぜられた木下藤吉郎は、建築用材を木曾川上流で加工し河川を利用して運搬し築城に着手する。 始めに柵を造り敵の攻撃に備え、外堀を掘りその土で土台を固め櫓などを組み立てていった。築城完成まで数日であったことから墨俣一夜城とも呼ばれる。

革手城:築城年代は定かではないが正平年間(1346年〜1370年)土岐頼康によって築かれたと云われる。 頼康が将軍家の命によって土岐総領家の当主となり、美濃守護となり、続いて尾張守護を兼ね、仁木義長と争って伊勢守護となると永森城から革手城を築いて拠点とした。

加納城:文安2年(1445年)革手城の支城として斎藤利長が築いたのが始まりとされる。この城は天文7年(1538年)頃に一旦廃城となった。

慶長6年(1601年)徳川家康は岐阜城を廃城とし再び加納城の築城を命じ、天下普請によって築かれた。 この時岐阜城の天守や櫓、石垣等を移築転用している。 最初奥平信昌が上野国宮崎から十万石で入城するが寛永9年(1632年)忠隆が没すると嫡子なく断絶する。続いて武蔵国騎西城から大久保忠職が五万石で入封するが寛永16年(1639年)播磨国明石城に七万石で転封となる。 入れ替わりで戸田光重が播磨国明石城から七万石で入封、戸田光煕の時、山城国淀城に転封となり、備中国松山城から安藤信友が六万五千石で入封する。安藤信成の時、陸奥国磐城平城へ転封となり、武蔵国岩槻城より永井直陳が三万二千石で入封、以後永井氏が六代続いて明治に至る。

鷺山城:鷺山城が最初に築かれたのは文治の頃(1185-90)と言われるから源頼朝の奥州攻めの頃のことになる。そして佐竹常陸介秀義がこの城に居住したと伝えられているそうだ。
 佐竹氏は新羅三郎義光を祖とし、常陸国内で大きな勢力を築いた源氏である。秀義は義光から五代目、佐竹氏を名乗った昌義からは三代目にあたる。
 その佐竹氏がなぜ美濃に城館を構えるに至ったのか。たしかに秀義の子等の子孫が美濃に定着して美濃佐竹氏を称してはいる。その間の経緯でこの城が築かれたのかもしれないが、詳細は分からない。

北方城:築城年代は定かではないが北方太郎左衛門光就によって築かれたと云われる。

西美濃三人衆の一人安藤伊賀守守就は、斎藤義興を見限って織田信長に仕え、姉川合戦などで功を挙げたが、天正8年(1580年)河渡城主であった実子安藤尚就が甲斐の武田氏に内通した嫌疑により、守就父子は武儀郡谷口村に蟄居し、その所領は稲葉一鉄に預けられた。

天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変に倒れると、安藤守就は旧臣を集めて北方城に立て籠もり、稲葉一鉄・貞道父子と戦ったが敗れ自刃して果てた。

曽根城:築城年代は定かではないが永禄年間初期に稲葉良通によって築かれたと云われる。

稲葉氏は伊予国河野氏の一族で稲葉通貞の時に美濃にきて、土岐氏に仕えたと云われる。土岐氏が没落すると斎藤氏に仕え、さらに織田信長、豊臣秀吉に仕え天正16年(1588年)郡上八幡に四万石で移封となった。

稲葉氏のあと西尾光教が二万石で入封、関ヶ原合戦では東軍に属して大垣城攻めの功により揖斐城に三万石で転封となり、曽根城は廃城となった。

揖斐城:築城年代は定かではないが南北朝時代に土岐氏の一族によって築かれたと云われ、興国4年(1343年)に土岐頼清の子頼雄が築いて揖斐氏を称したのが始まりとも云われる。

代々揖斐氏の居城として続いていたが天文16年(1547年)揖斐光親が城主のとき斎藤道三によって攻められ落城したという。

その後、斎藤氏の武将堀池氏が城主となったが、天正11年(1583年)稲葉一鉄によって攻められ落城した。

菩提山城:永禄2年(1559年)一説に天文15年の説もあるが、竹中重元によって築かれた。 重元は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城攻略時に病没した竹中重治(半兵衛)の父である。

この地には岩手氏が勢力を張っていたが、竹中重元が岩手氏を攻め滅ぼして菩提山城を築いた。しかし、翌年には重元は病没し子重治が16歳で家督を継いだ。

重治は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城を攻略中に病没する。子重門は幼少であっだか成人した後、菩提山城を廃して麓の館を移し、竹中陣屋を築いた。

竹中氏陣屋:築城年代は定かではないが竹中重門によって築かれた。 重門は羽柴秀吉に仕えて播磨国三木城攻略時に病没した竹中重治(半兵衛)の子で、成人した後、菩提山城を廃して竹中館を築いた。

関ヶ原合戦後も所領を安堵され五千石を領して旗本として明治まで続いた。

西高木家陣屋:築城年代は定かではないが関一政によって築かれた多羅城がその前身である。 関一政は関盛信の二男で蒲生氏郷の与力として各地を転戦していたが、慶長5年(1600年)美濃国多良三万石の城主となり、信濃国飯山より移った。 関ヶ原合戦後、一政は父盛信が領した旧領の伊勢国亀山へ転封となった。

高木氏は源満仲を祖とする清和源氏で大和から伊勢に出て、斎藤道三に仕えて駒野城主となった。その後、織田信長、織田信孝に仕え今尾城主となったが信孝没後に駒野城へ戻った。小牧長久手合戦では織田信雄に従っていたが、天正18年(1590年)織田信雄が改易となると関東へ移った。その後、徳川家康によって貞利(貞久の二男で西高木家祖)、貞友(貞久の三男で東高木家祖)、貞家(貞久の長男貞家の子で北高木家祖)がそれぞれ召し出され関東に所領を与えられた。

江戸時代の高木家はこの多良に三家あり、いずれも大名格の交替寄合の旗本として江戸時代を過ごしたが、三家を区別する為に、陣屋の位置により西高木家、東高木家、北高木家となっている。 高木家は水奉行と呼ばれ、木曽川水系などの治水や巡見などが命ぜられている。宝暦治水と呼ばれる、宝永4年(1754年)から四年の歳月をかけて行われた木曽川流域の治水工事は薩摩藩主体で行われた難工事であったが、この治水にも高木氏は参加している。

慶長6年(1601年)高木権右衛門貞利が千石を与えられ、西高木家の祖となった。西高木家は貞利の後、貞盛のときに二千三百石に加増され、寛文8年(1668年)三代貞勝以降は三家が隔年で参勤交代するようになった。以後代々高木氏が続き、十代貞広のとき明治に至る。

16:00終了帰路に向かう。

今回の旅行、中部地方岐阜県に足を運び、岐阜県に点在する比較的マイナーなお城11か所をおとずれ楽しみました。

今回のお城、立派なお城が多く、資料館となっている模擬天守閣、城跡公園、立派な石垣、見るべきものがたくさんあり、感動しました。
今まで訪れた城跡巡り、ピカ一でした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百九弾:岐阜県お城・城下町巡り  2015年4月18−19日  

日本の真ん中、数少ない内陸県、戦国時代斉藤道三や織田信長が活躍し、後に徳川家康と石田三成による関が原の合戦の舞台にもなった歴史の一大中心地、岐阜県に足を運び比較的マイナーな8箇所のお城を巡りました。

18日12:30車で出発、第二京阪京滋バイパス名神を経由して岐阜に向かう。
竜王インター手前でエンジン制御装置の警告ランプ点灯認め、竜王インター下車、トヨペット自動車に寄る。点検の結果、ウオーターポンプの故障、修理は明日の夕方になるとのことで、車をトヨペットに預け、レンタカーを借りて岐阜に向かう。
19:10岐阜羽島駅前のホテルに到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

苗木城:苗木城の天守は二つの巨岩のまたがる形で作られ、三層となっていました。
 1階部分の名称は「天守縁下」、板縁を入れて4mx5m(2間x2間半)の広さで、岩の南西側隅にありました。
 2階は「玉蔵」と呼ばれ、岩が敷地を占め、建物の床面自体の大きさは6mx6m(三間四方)でした。ここには1階と3階に通じる階段が設けられていました。
 3階の「天守」は巨岩の上にあり、9mx11m(4間半x5間半)の大きさでした。
 この巨岩の上の柱と梁組みは、苗木城天守3階部分の床面を復元(想定)したもので、岩の柱穴は既存のものを利用しました。
 苗木城天守3階部分を一部復元し、展望台として利用できます。

明智城:宝治元年(1247)源頼朝の重臣、加藤景廉の孫である明知遠山氏の始祖、景重の築城による遠山氏累代の居城であった。天険の地形を巧みに利用した山城で、土盛砦として保壘数大小二十三ケ所を備え、原型のまま残されているのは日本でも数少ない山城として県の指定文化財となっている。
 天正二年(1574)春、武田勝頼二万の大軍を以って、東濃の諸域を攻略、三河、尾張、遠江、駿河への拠点明知城を目指す。城主遠山一行が叔父利景とともに急を織田信長に報じ兵五百とともに之を護る。
 信長、事の重大さを思い明知城を授けんと、子、信忠とともに兵三万を率い明知城の西方鶴岡山に布陣するも、武田の将山県三郎兵衛昌景千騎を以って信長の退路を断つ。信長山岳戦の不利を思い、動かずやがて兵を引く。
 援軍を失った明知城は、落城した。

小里城山城:小里城は、土岐氏一族の小里氏が居城であったとされ、城主小里光忠・光明父子は織田信長に仕えていた。天正二年(1574)に武田氏が明知城を包囲した際信長は救援に赴くが間に合わず落城した。その時に信長は小里城を普請して番手として池田恒興が任ぜられたようだ。(『信長公記』)
 また、天正十年(1582)の本能寺の変後、光明は金山城主森長可に従わず、徳川家康を頼って小里を退去。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦の折には再び小里に入城し東軍として戦った。その功により光明は土岐・恵那郡内に3580石を賜ったが、その子光重の代に嫡流がなく、断絶となった。これにあわせて小里城は廃城となった。(『

妻木城:築城年代は定かではない。暦応2年(1339年)土岐頼貞の孫、土岐明智彦九郎頼重が祖父の遺領を継いで妻木を領し、後に妻木城を築城したものと推測されている。その後、弘定の時に妻木氏を称したという。
天正10年(1582年)本能寺の変で妻木広忠は明智光秀に従っており、近江国坂本にて自刃した。一説に明智光秀の妻は広忠の女という。広忠の子妻木貞徳は織田信長の馬廻を務めていたが本能寺の変後は家督を妻木頼忠に譲り隠居した。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で妻木頼忠は東軍に属し、西軍に属した岩村城主田丸直昌の押さえとなり、土岐口などで田丸軍と戦いこれを敗っている。
妻木氏は土岐郡内にて七千五百石を領し、年代は不明ながら妻木城を廃して麓の妻木陣屋(妻木城士屋敷)を居城とし、交代寄合の旗本となった。 元和9年(1623年)妻木頼忠が没し妻木頼俊が家督を継ぎ、承応元年(1652年)には頼俊の子頼次が家督を継いだ。この時弟幸広に五百石を分知し七千石となったが、万治元年(1658年)頼次が没すると嗣子なく改易となり妻木氏嫡流は滅亡、妻木陣屋も廃された。
万治2年(1659年)先に五百石を分知されていた妻木幸広が妻木に所替えとなったが、その際拠点となった所は定かではない。

長山明智城:築城年代は定かではないが明智頼基によって築かれたと云われる。 明智氏は美濃国守護土岐成頼の子土岐頼基が可児郡明智八郷を領して明智氏を名乗った事に始まる。天文21年(1552年)明智定明は斎藤道三と戦って討死し、一族は離散し、定明の子定政は家臣に守られて菅沼常陸介を頼って落ち、後に徳川家康に仕えて土岐氏に復姓したという。戦国時代に織田信長に仕えた明智光秀の出自については定かではないが、一般的にこの明智氏の一族といわれる。

金山城:天文6年(1537年)斎藤正義によって築かれた。 斎藤正義は斎藤道三の猶子で関白近衛稙家の庶子と云われる。
斎藤道三の命を受けた正義が築城し鳥峰城と名付けた。正義は東美濃に勢力を伸ばして苗木城の遠山氏、加茂堂洞城の岸氏、加治田城の佐藤氏、久々利城の久々利氏らを配下とした。しかし天文17年(1548年)久々利城にて久々利悪五郎によって正義は謀殺された。
永禄8年(1565年)織田信長は東美濃に侵攻して森可成を城主とする。可成は織田信長の上洛の後、近江国宇佐山城主となったが元亀元年(1570年)朝倉・浅井連合軍に攻められ討死した。後を継いだ可成の次男長可は織田信忠に従って信濃へ侵攻し、武田勝頼が滅亡すると信濃四郡を加封されて信濃国海津城へ入城したが、本能寺の変で織田信長が横死すると金山城へ帰還した。
森長可はその後羽柴秀吉に従い、天正12年(1584年)小牧・長久手の合戦に従軍して討死し、末弟の森忠政が家督を継いだ。慶長5年(1600年)森忠政は信濃国川中島十三万七千五百石で転封となり廃城となった。

小倉山城:慶長10年(1605年)金森長近によって築かれた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で東軍に属して郡上八幡城などを攻めた功により、飛騨高山城主金森長近は美濃国武儀郡などに二万石の加増を得た。長近は飛騨高山は養子の金森可重に譲り、自身は小倉山城に築城して別家を興した。
慶長13年(1608年)長近が没すると、二男の金森長光が継いだが慶長16年(1611年)わずか六歳にて没して無嗣改易となり、上有知藩はわずか二代で廃藩となった。
その後は天領になり、元和元年(1615年)からは尾張藩領となって代官所が置かれた。

大桑城:築城年代は定かではない。一説に承久の乱(1221年)の功によって大桑の地を与えられた逸見又太郎義重の子、逸見又三郎重氏が築いたとも云われる。

その後、美濃国守護土岐氏の城となり、天文4年(1535年)頃には守護所を枝広館から、大桑城下へ移したとされ、天文11年(1542年)に土岐頼芸は斎藤道三によって一時美濃を追われた。 頼芸は越前朝倉氏・尾張織田氏の仲介により和議が整い美濃に帰ることができたが、天文21年(1552年)再び美濃を追われ、土岐氏は滅亡した。
15:10竜王のトヨペット自動車に向かう。

16:40竜王のトヨペット自動車到達、修理を待つ。
18:10帰路に向かう。

今回の旅行、岐阜の比較的マイナーな8箇所のお城をめぐり楽しみました。
マイカーのトラブルでレンタカーでのお城巡りとなりましたが、マイナーなお城ですが模擬天守閣があったり見るべきものが有り楽しく巡ることが出来ました。
もっと宣伝すれば多くの観光客が訪れると思われる立派な城跡が幾つか発見できたドライブお城巡りでした。









岐阜県長良川鉄道観光
2013年8月4日


日本のど真ん中にある数少ない内陸県のひとつの岐阜県に足を運び、長良川に並走する美濃太田から北濃までの72.1kmを清流長良川と自然豊かな美しい景色に囲まれながら走り抜けます長良川鉄道のゆらーり眺めて清流列車に乗車しました。

4日7:37新大阪新幹線のぞみで出発
8:31名古屋駅到達
8:43名古屋駅特急ワイドビューひだ3号で出発
9:22美濃太田駅到着
9:50美濃太田駅長良川鉄道ゆらーり眺めて清流列車で出発

岐阜県美濃加茂市の「美濃太田駅」から、郡上市の「北濃駅」までの72.1Kmを南北に貫く長良川鉄道。最大の特徴はその名が示す通り、主に長良川沿いを走ることでしょう。日本三大清流の一つといわれる長良川は、その昔から清らかな水を利用した和紙の生産や、鮎やアマゴを育む漁場として、地域に大きな恩恵をもたらしてきました。季節ごとに表情を変える水辺のさまざまな風景や、自然豊かな山々の表情は、旅に鮮やかな彩りを与えてくれることでしょう。

11:50北濃駅到達、散策。

北濃駅は、岐阜県郡上市白鳥町歩岐島にある長良川鉄道越美南線の駅で、同線の終着駅でもある。当地付近はかつて北濃村(→白鳥町→郡上市)の中心地であった。美濃太田駅から延び、福井県の越美北線と結ばれる予定で建設されている越美南線はこの駅の構内北側で線路が途切れている。

14:10北濃駅出発
16:12美濃太田駅到達
17:15美濃太田駅ワイドビューひだ16号で出発
18:02名古屋駅到達
18:10名古屋駅新幹線ひかりで出発
19:03新大阪駅到達。

今回の旅行、岐阜県に足を運び長良川に並走する長良川鉄道に乗車し美濃太田から終点北濃までの72.1kmを走行し、日本三大清流の一つといわれる長良川の風景を車窓から味わい楽しみました。
以前この区間はトロッコ電車が走っていましたが2003年廃車となり、今はゆらーり眺めて清流列車での観光となりました。
 





 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第百五十六弾:岐阜県郡上八幡&下呂観光
2011年8月20−21日


日本のど真中に位置し、数少ない内陸県の一つで海は無いが美しい河川、豊かな山々、湯量豊富な温泉などが存在する岐阜県に足を運び、標高900mに位置し季節の花が咲き誇るのどかで美しい光景が広がり高原リゾートを満喫できるひるがの高原、長良川の上流、奥美濃の山々から流れ出る吉田川、小駄良川などの3本の河川の合流地点に位置し、町いたるところに水路が流れ、日本名水百選の第一号に指定された宗祇水で知られる水の町、郡上八幡、有馬・草津とともに天下の三名泉に数えられる下呂温泉を訪れました。

20日12:30車で第二京阪名神中央自動車道経由して
14:30多治見インター下車

盃の産地として知られる多治見市市之倉町にある美術館。幕末〜昭和初期の透けるほど薄く繊細な盃が約1500点並ぶほか、2階巨匠館では、荒川豊蔵、加藤唐九郎、加藤卓男など、地元ゆかりの人間国宝や巨匠の陶芸作品を展示。広いミュージアムショップでは、陶器・木工・金工など、約100人のクラフト作家作品が並ぶ。そのほか、薪の炎で焼き上げる石窯ピザレストラン、ロクロや手びねりなどの作陶、絵付体験、窯元めぐりなどもある市之倉さかづき美術館を訪れる。

貸館スペースである展示ホールやイベントホール、作陶館、ショップなどからなるオリベスクエアと、岐阜県現代陶芸美術館が融合した複合施設セラミックパークMINOを訪れる。

美濃焼の継承、保護、育成のためにつくられた施設で、美濃焼について広く紹介している。館内には、美濃焼の伝統的技術に関する資料や現代作家の作品を展示。作陶施設も併設され、美濃焼を直接肌で感じ体験できる土岐市美濃焼伝統産業会館を見学。

戦時中の地下壕を利用した全長270mの施設。館内では200インチのハイビジョン映像、ジオラマなどにより地球の誕生から現代までの歴史を体験できる地球回廊を訪れる。

恵那方面に向かう。

1906年(明治39)に明智町庁舎として建てられた木造の洋館で、1957年(昭和32)まで町役場として使用。現在2階には、日本大正村に関する写真が展示され、村長の執務室も設けられている。1階は休憩所として開放されており、座敷で自由にお茶を飲むことができる。役場内の公衆電話も大正風の日本大正村役場を訪れる。

「銀行蔵」と「大正の館」のふたつの建物からなる。銀行蔵は1897年(明治30)に建てられた、100畳敷き4階建ての巨大な建物で、当時の明智のシンボル的存在。現在では郷土玩具、明智周辺で盛んだった生糸産業に関する道具や商標、大正時代の蓄音機やレコードの数々を展示している。銀行蔵隣にある大正の館は、明智の名門橋本家の邸宅だった建物の日本大正村資料館を訪れる。

日本大正村初代村長である女優高峰三枝子、初代村会議長春日野清隆(元横綱栃錦)両氏の記念館。高峰氏にゆかりのレコードやステージ衣装、春日野氏の化粧廻し、両氏愛用品などを展示する大正ロマン館を訪れる。

岐阜市内に向かう。

17:30岐阜駅付近のホテル到着後市街地散策し、食事を済ませて就寝。

21日6:00車で出発、ひるがの高原に向かう。

春のチューリップ、夏のラベンダー、秋のコスモスなど、季節の花々で華やかに染まる高原リゾート。アスレチックで身体を動かしたり、羊や山羊と遊んだり、手作り体験に参加してみたりと思い思いに過ごすことができる。濃厚なソフトクリームや焼きたてパンといったジャージー牛のミルク製品、バーベキューなどのグルメも充実のひるがの高原 牧歌の里を訪れる。

火山活動などの結果できた湖が長い年月をかけて火山灰やミズゴケなどが堆積してできた広大な湿地帯。ほとんどが埋め立てられ、今ではわずかな地域が残るのみだが、可憐な高山性湿原植物が見られる。園内には一周10分ほどの木道が設けられ、初夏のワタスゲ、夏のキンコウカ、秋のエゾリンドウなど、高原ならではの花が楽しめるひるがの湿原植物園を訪れる。

日本の滝百選にも選ばれた名滝。高低差は60mあり、轟々と音を立てて水しぶきとともに滝壺へ流れ落ちる様子は、郡上節の一節にも登場している阿弥陀ケ滝を訪れる。

館長の遠山一男氏が集めたコレクションを展示するおもちゃの博物館。全国各地から集めた土鈴約1万6000点余りのほか、郷土玩具2万5000点余りを収蔵。人の顔や動物などさまざまな形の土鈴が並ぶ日本土鈴館を訪れる。

郡上八幡方面に向かう。

小駄良川のほとりにある湧き水。別名・白雲水ともよばれ、「日本名水百選」にも選定されている。かつて連歌の宗匠・飯尾宗祇ぎが、この泉のほとりに草庵を結んでこの清水を愛用したことから名付けられた宗祇水を訪れる。

ロウ細工発祥の地といわれ、食品サンプルの全国シェアの大半を占めている郡上八幡。ここでは製作工程の見学のほか、食品サンプル作り体験ができる。店内には本物そっくりの食品サンプルが陳列され、ミニ食品サンプルが付いたキーホルダーなど、オリジナルグッズも販売している食品サンプル創作館さんぷる工房を訪れる。

やなか水のこみちに集まる、おもだか家民芸館・齋藤美術館・遊童館の3館。敷地内はせせらぎが流れ雰囲気もよいやなか三館を訪れる。

やなか三館のひとつ遊童館は、絵本のさし絵や切り絵、折り紙など幅広い創作活動を行う水野政雄氏の作品を展示するミュージアム。伝統工芸や大名行列を再現した紙人形や油絵など、郷土の民謡や生活をテーマにしたぬくもりのある作品が見られる遊童館[やなか三館]を訪れる。

郡上八幡にある観光スポットやなか三館のひとつで、町中を清らかな小川が流れる、やなか水のこみち沿いに立つ民芸館。鮎を描いた文人画家、水野柳人の絵画約50点を収蔵し、内10点を常時展示している。氏が好んで集めた七ツ玉算盤や火消し装束、行灯などもある奥美濃おもだか家民芸館[やなか三館]を訪れる。

郡上八幡にある観光スポットやなか三館のひとつで、代々茶人を輩出してきた齋藤家が、長年にわたり収集してきたコレクションを紹介。江戸時代から約270年かけて集められた書画、茶道具、掛軸、香炉などの美術品から生活雑器まで、季節ごとにテーマを替えて展示。なかでも、京都の大徳寺の歴代住職が描いた茶掛けは興味深い。茶室前には水琴窟もあり、はかなげな音色が美しい齋藤美術館[やなか三館]を訪れる。

1936年(昭和11)建築。1994年(平成6)まで利用されていた、八幡町役場(国登録有形文化財)の建物を改装。レトロな洋風建築の内部には、観光アドバイスをしてくれるインフォメーションや無料休憩サロンがある郡上八幡旧庁舎記念館を訪れる。

標高354mの八幡山山頂に立つ、4層5階の城。1559年(永禄2)、遠藤盛数により築城。現在の城は、1933年(昭和8)に再建されたものだ。木造再建城としては、全国で最も古い。天守閣からは郡上八幡の町並みを一望。貴重な収蔵品も展示されている郡上八幡城を訪れる。

2億年以上前にできたといわれる竪穴式の鍾乳洞。700m続く洞内鑑賞コースでは、象牙の林や天上界、くじゃくの舞などと名づけられたさまざまな鍾乳石がある。最奥部にある落差30mの大滝が見どころの大滝鍾乳洞を訪れる。

下呂方面に向かう。

下呂温泉合掌村の合掌の里にある資料館。旧岩崎家を利用して、飛騨の民具・農具などを展示している民俗資料館[下呂温泉合掌村]を訪れる。

温泉街を一望する湯ケ峰の中腹にある寺。創建は1671年(寛文11)。傷ついた白鷺に姿を変え、飛騨川で傷を癒して源泉のありかを知らせたという、薬師如来像を本尊としている。173段の石段を登ると、木々に囲まれた本堂がある。境内にはモミジが多く、秋は紅葉の名所としても賑わう。11月中旬には紅葉のライトアップを実施。下呂の歴史を伝える絵馬も奉納されている温泉寺を訪れる。

関を経由して本巣・揖斐川方面に向かう。

801年(延暦20)に伝教大師最澄が創建したと伝えられている寺。本尊には薬師如来像(重要文化財)や大日如来像(重要文化財)などが祭られている。舎利堂には、即身成仏した妙心法師のミイラが安置されている両界山横蔵寺を訪れる。

貯水量は浜名湖の約2倍、ダム堤頂の長さは新幹線のぞみの16両を超える427mと、日本一の規模を誇るダム、徳山ダムを訪れる。

17:00終了、木之本を経由して帰路に向かう。

今回の旅行、日本の中心部にある岐阜県に足を運び、吉田織部の織部好みで知られる美濃焼のふるさと、現在では日本の食器類の大半を生産する一大産地の多治見、標高900mに位置し季節の花が咲き誇るのどかで美しい光景が広がり高原リゾートを満喫できるひるがの高原、長良川の上流、奥美濃の山々から流れ出る吉田川、小駄良川などの3本の河川の合流地点に位置し、町いたるところに水路が流れ、日本名水百選の第一号に指定された宗祇水で知られる水の町、郡上八幡、有馬・草津とともに天下の三名泉に数えられる下呂温泉を訪れ自然と文化に接したドライブ観光満喫しました。

あいにくの雨でしたが夏休みでもあり観光客は賑わっていました。

これでほぼ岐阜県は制覇できました。












飛行機で国内&海外の観光地巡り第百八弾:岐阜県飛騨高山観光
2010年8月28ー29日


岐阜県北部の飛騨地方の中心都市、飛騨の小京都とも呼ばれ和の情緒がたっぷりの飛騨高山に足を延ばし、城下町だった町で、江戸時代の面影を残す建物や華やかな祭りが大切に受け継がれている高山、昔ながらの職人気質が根強く残る飛騨古川、雄大な山懐に湧く5つの温泉地の総称、奥飛騨温泉郷を訪れました。

28日13:40新大阪新幹線ひかりで出発
14:48名古屋駅ワイドビューひだに乗り換え出発
17:08高山駅到達、レンタカーで観光

江戸幕府の代官所・郡代役所の遺構。高山城主・金森氏の向屋敷だったが、1692年(元禄5)に幕府直轄領(天領)となり、25代177年間飛騨の政治が行われた。門番所付きの重厚な表門は1832年(天保3)の建築。玄関之間・大広間・吟味所などの一部は、1816年(文化13)の改築当時のもの。1695年(元禄8)、高山城三の丸から移築した御蔵は年貢米を収めた蔵。国内最古・最大の土蔵といわれる。陣屋の為政に絡み、江戸時代には百姓一揆大原騒動、維新後は梅村騒動が起きている高山陣屋を見学。

建物の建築年代は1826年(文政9)と推定され、高山市で最も古い町家の1つ。創建以来ほとんど手を入れていない貴重な住宅として国の重要文化財の指定を受けている。約793平方mの敷地に主屋、米蔵、漬物蔵が立つ。主屋は切妻造の2階建てで、正面の小庇などに高山の町家の原型を見ることができる。松本家は蝋燭で財をなした家で、米蔵には当時の商売道具類を展示している松本家住宅を訪れる。

1605年(慶長10)、飛騨の国守金森長近が、城の鎮守と高山の南側地域の氏神として社地・社殿を寄進した。以来、北の鎮守・桜山八幡宮に対する南の鎮守として崇拝を集めてきた。春の高山祭はこの神社の例祭として行われる。本殿は流造、拝殿は三方に縁の付いた方三間寄棟造になっている。拝殿前の高さ43m、樹齢1000年の大杉は県の天然記念物の日枝神社を訪れる。

高山北部の鎮守社で、秋の高山祭(重要無形民俗文化財)はこの神社の例大祭。創建は仁徳天皇のころで、凶族の征伐にやって来た難波根子武振熊命が戦勝祈願をしたのが始まりと伝えられている。1623年(元和9)、2代目高山城主・金森重頼が社殿を寄進して再興した。現在の総檜造りの社殿は、1976年(昭和51)に新築されたもの。商売繁盛・学問の神・厄除けの神などを祭る5つの社がある。奉納の絵馬、大きな手水鉢、逆さ桐の灯籠など見どころも多い桜山八幡宮を訪れる。

秋の高山祭の屋台を常設展示。巫女の説明を受けながら見学できる。金細工・漆など飛騨の匠の技術を駆使した屋台は、11台すべてが国の重要有形民俗文化財に指定。祭りばやしが流れる館内には祭り装束の人形が配され、臨場感たっぷりだ。高山祭のビデオ上映もある。付設の桜山日光館では、大正時代に造られた日光東照宮の10分の1サイズ模型を展示する高山祭屋台会館を訪れる。

1875年(明治8)の大火後に建てられた建物で、間口6.4m程度のごく標準的な商家。奥行きは22m程度あり、母屋・中庭・土蔵と並んでいる。大新町周辺は越中街道沿いに開けた商人町であったこともあり、伝統的様式の町家が残っているが、なかでも宮地家は改造を加えていないとても貴重なもの。屋号を「宮地屋」といい、かつては農業と商業を営んでいた宮地家住宅を訪れる。

天領時代に代官所の御用商人として栄えた日下部家の町屋住宅を利用した民芸館。奥の土蔵を展示室に使い、日下部家伝来の渋草焼の初期のものなど、美術品や民芸品を公開している。建物は男性的な力強い造りが特徴で、現在の建物は1879年(明治12)、飛騨の名棟梁川尻治助の手により、江戸時代の建築様式を忠実に伝えている。主屋は床面積が1502平方mの総檜造り2階建て。軒の出が深く、梁と束柱の力強い立体的な木組の吹き抜け空間や窓切りの変化など、高山の町屋建築の集大成といわれる。1966年(昭和41)に明治期の民家として国の重要文化財に指定された日下部民藝館を訪れる。

日下部民藝館の北隣にある吉島家は、高山で両替商と造り酒屋として手広く事業を行ってきた豪商。軒下には杉玉が下がり、酒造業時代の名残りをとどめている。現在の建物は、1907年(明治40)に当時の名棟梁西田伊三郎が建てたもので、国の重要文化財に指定されている。飛騨地方の町屋建築の様式を明確に保ち、完成された美しさで知られる。見どころは玄関を入った土間の吹き抜け空間。大黒柱を中心に、梁と束で幾何学的に組まれた木組の空間を造りあげ、高窓から差し込む光が美しいシルエットを描く。各部屋の造作にも粋をこらし、優美なたたずまいになっている吉島家住宅を訪れる。

19:00高山さんまち内のホテル到着後市街地を散策、食事を済ませて床に就く。

29日5:00レンタカーで出発、野麦峠方面に向かう。

飛騨と信州の境に位置する峠、明治時代から大正時代にかけて、長野県の製糸工場へ出稼ぎに行く若い娘たちが命がけで通ったことで知られる野麦峠を訪れる。

標高1400m、飛騨隋一の景観を誇る高原、日和田高原を訪れる。

奥飛騨温泉郷方面に向かう。

飛騨大鍾乳洞を発見した、大橋宣嘉氏が長年収集したコレクションを展示。中国の皇帝が愛用したという龍の置物や、象牙に彫刻された七福神、徳川家ゆかりの品々など、国内外の美術品、工芸品、陶磁器などが一堂に並ぶ。日本各地の銘石・奇岩、南極の石、エベレスト山頂の石なども集められている大橋コレクション館[飛騨大鍾乳洞]を見学。

1965年(昭和40)に偶然発見された日本の観光鍾乳洞の中で最も標高の高い場所にある大鍾乳洞。長さは約800mにおよび、その規模は全国屈指だ。洞内に入るとまず目に飛び込むのが「三段の滝」。さらに見学路を進むと、無数の彫刻が刻まれているようにも見える「楼閣天蓋」、仏像に似た「大円空像」など、変化に富んだ鍾乳石が次々と現われる。左右にねじれながら垂れ下った鍾乳石ヘリクタイトも見ることができる。洞内から発見されたウミユリ・サンゴなどの化石も展示されている飛騨大鍾乳洞を訪れる。

四季折々の表情を見せる幅6m、落差64mの豪快な滝。日本アルプスを世界に紹介したウェストンも訪れている平湯大滝を訪れる。

新穂高ロープウェイの第1ロープウェイを降りた場所が鍋平高原。標高1305mの地点で、2.5kmと1.5kmの自然探索路が設けられている。高山の厳しい環境を模した高山植物庭園が作られており、7〜8月にかけて、北アルプスの登山道などに生育するコマクサやシナノキンバイ、チングルマなどの貴重な高山植物の花を鑑賞することができる。ここから第2ロープウェイのしらかば平駅までは徒歩1分の鍋平高原を訪れる。

第2ロープウェイの終点、西穂高口駅舎マウントビュー千石の前に広がる標高2156mの園地。シラビソの原生林に1.5kmの散策路があり、6〜7月はミズバショウやミツガシワなど湿原の花が見られる。ここで見逃せないのは、駅舎屋上の展望台からの北アルプスの眺め。笠ケ岳(2897m)、槍ケ岳(3180m)、奥穂高岳(3190m)など、穂高連峰3000m級の山岳大パノラマを満喫できる千石園地を訪れる。

高山に戻り飛騨古川方面に向かう。

荒川家は、天正年間(1573〜92)から続くという旧家。主屋と土蔵は江戸中期に建てられたもので、飛騨の匠が腕をふるった建物は見応え充分。国の重要文化財にも指定されている。内部には、民具や伊達政宗が金森長近に宛てた書状などが並ぶ荒川家住宅を見学。

宇津江川中流域に、雄大な王滝や清涼感あふれる上段滝など多くの滝が見られる。四十八滝とはこれらの滝の総称。所要1時間の滝巡りコースもある。展望台からは眺めも抜群。周辺は県立自然公園で、キャンプや温泉入浴が楽しめる宇津江四十八滝を訪れる。

開基は天文元年(1532)、三寺まいりの寺の一つ。総檜造りの本堂は木造建築としては鐘楼とともに飛騨随一。1995年に建立された山門は古川の名工山脇八尋氏の作。飛騨の匠の技が見事の本光寺を訪れる。

広々としたまつり広場と飛騨古川まつり会館が並ぶエリア。起し太鼓で有名な飛騨古川祭をいつでも体験できる。飛騨古川まつり会館には、屋台の人気者カラクリ人形の実演コーナーがあり、コンピュータ制御で人が操るのと同じ演技を披露。起し太鼓を再現する立体映像3Dホールも大迫力だ。広場では、起し太鼓の試し打ちもできる起し太鼓の里を訪れる。

毎年4月19・20日に行われる飛騨古川祭の熱気と興奮が、一年中体験できる祭りのミュージアム。熱気みなぎる起し太鼓や華麗な屋台行列の様子が、迫力ある立体映像3Dホールで上映される。豪華な屋台が展示されており、屋台で演じられるからくり人形の実演も見られる飛騨古川まつり会館[起し太鼓の里]を見学。

大和朝廷の時代から、神社仏閣の造営に活躍した飛騨匠について紹介。彼らが作った町並みや民家・商家の紹介、大工道具の展示、継ぎ手や木組の見本展示コーナーなどがある。千鳥格子を組む体験コーナーも人気の飛騨の匠文化館を見学。

1000匹余りの鯉が泳ぐ清らかな瀬戸川に沿って、白壁土蔵や出格子の町屋が並ぶ風情あるエリア。この町並みは、江戸時代、時の増島城主・金森可重が高山と同じ町造りを奨励したことによる。四季折々に見せる景観はそれぞれ美しく、城下町・飛騨古川の顔ともいうべく、人気のスポットとなっている白壁土蔵街を散策する。

高山郊外に向かう。

エミール・ガレやルネ・ラリックらに代表されるアール・ヌーヴォー、アール・デコのガラス芸術作品や家具を展示。国内外のガラス雑貨を集めたショップ、手作りスイーツや欧風ランチが人気のカフェレストランも併設している飛騨高山美術館を見学。

大きな米倉7棟の中に、七福神など一木造りの巨大な木像を一体ずつ安置している展示館。樹齢1200年のケヤキを彫り抜いた全高7.5mの毘沙門天、樹齢1000年の杉を彫って造られた、全高6.5mの福禄寿など、どれも圧倒される迫力の飛騨開運乃森を見学。

国の重要文化財4棟を含む、30余棟が立つ集落博物館。合掌造の民家などが飛騨各地から移築されている飛騨の里を訪れる。

山の斜面を掘削して造った地中ドームに、豪華絢爛な平成まつり屋台6基を展示。ムービングライトに包まれ幻想的な雰囲気だ。5分間隔で7基の屋台からくりも披露される飛騨高山まつりの森を訪れる。

臥龍公園内にあり、幹や枝が作りだす樹形が、臥した龍の姿に似ていることからこの名がついた。樹齢は約1100年、樹高20m、枝張り30m、根回り周囲7mもあるエドヒガンザクラで、国の天然記念物。4月中旬から5月上旬に臥龍桜まつりを開催する臥龍桜を訪れる。

飛騨一ノ宮と崇められてきた古社。現在の社殿は、1935年(昭和10)の再建。島崎藤村の父正樹が宮司を務めた神社でもあり、旧宮村の秋を詠んだ句碑も残されている。初詣をはじめ、飛騨路に春を告げる飛騨生びな祭り、鉦・神代踊、どぶろくが振舞われる例祭など、多くの参拝者で賑わう飛騨一宮水無神社を訪れる。

縄文時代前・中期の集落跡(史跡)のある公園。園内には当時の暮らしを伝える竪穴住居が復元されている。隣接する久々野歴史民俗資料館には、出土品約200点や農具・民具など約350点の資料を展示する堂之上遺跡を訪れる。

18:00高山駅到達。
18:45高山駅ワイドビューひだで出発
21:35名古屋駅新幹線のぞみで出発
22:29新大阪到達。

今回の旅行、飛騨の小京都とも呼ばれる和の情緒がたっぷりの飛騨地方の中心都市、岐阜県北部の高山に足を運び、高山の魅力が凝縮した昔ながらの家造りの家が軒を連ねる一帯のさんまちを散策し、翌日は早朝から奥飛騨穂高方面に向かい、新穂高ロープウエイで西穂高口駅の屋上展望台からの360度の北アルプスの山々の大パノラマは感動でした。昼からは高山郊外の名所をめぐりして有意義な日々を送ることが出来ました。

当日天候は晴れ、絶好の観光日和、視界も抜群で新穂高ロープウエイ西穂高駅の屋上展望からの眺望、北アルプスの笠が岳、槍ヶ岳、西穂高岳、焼岳のみならず遠方の乗鞍岳、白山の山々がクリアにはっきり見え、圧巻で、感無量の観光旅行でした。

高山を拠点として、東は穂高、上高地、北西は白川郷、南は野麦峠、御岳の観光ルートお勧めです。
ぜひ訪れてみてください。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十一弾:岐阜県美濃観光
2009年11月28−29日


今回は日本のど真中に位置し数少ない内陸県の一つで海こそ無いが、美しい河川、豊かな山々、湯量豊富な温泉など、魅力あふれる岐阜県に足を運び、戦国時代に斉藤道三や織田信長が活躍し、後に徳川家康と石田三成による関が原の舞台にもなった歴史的一大中心地、江戸時代には中山道が整備され、馬籠や美濃大田をはじめ当時の趣のある町並みを残す旧宿場町も多く、関鍛冶や美濃焼、美濃和紙、鵜飼、郡上おどりといった伝統や文化も受け継がれている美濃エリアを訪れました。

28日12:30車で近畿名神自動車道経由して関が原インター下車
14:30石灰岩と水によって造り上げられた全長518mの鍾乳洞。洞内には巨人の足や玉華殿など珍しい鍾乳石が見られる関ケ原鍾乳洞を訪れる。

関ケ原駅から北西へ延びる街道沿いがかつての主戦場。向かって前方左手が石田方西軍の笹尾山、後方右手が徳川方東軍の桃配山。戦死者を葬った首塚、各武将の陣跡なども点在する関ケ原古戦場を訪れる。

関ケ原合戦の詳細を解説する資料館。実際に使われた火縄銃やほら貝、軍記の写本や屏風絵などを展示する関ケ原町歴史民俗資料館を見学。

養老山地北部に広がる約78.6万平方mの広大な敷地内に、由緒ある神社・仏閣、霊泉などを有する自然公園。巨岩や老樹に囲まれた養老の滝はこの公園の中心。高さ約30m・幅約4mの清冽な流れは圧巻で、霧のようにたちこめる水しぶきで夏でも肌寒さを感じるほどだ。717年(霊亀3)、元正天皇がその水の清らかさに感動し、若返りの美泉とたたえ年号を養老と改元したと伝えられる菊水泉は養老神社境内にある。木造十一面千手観音立像(重要文化財)をまつる養老寺、養老キャンプセンター、こどもの国などもある養老公園を散策する。

養老公園内にある世界的に有名なアーティストの荒川修作氏と詩人マドリン・ギンズ氏が1万8000平方mの楕円形の窪地に築いた巨大なアート庭園。すり鉢状にくり抜かれ、起伏に富んだ広大な斜面には大小5つの日本列島があり、半球状の小山とくぼみが対をなして点在したり、迷路のように入り組んだ148もの回遊路が交差している。天井から家具がつり下げられ、上下の感覚が麻痺するような「極限で似るものの家」、暗闇を手探りで進む「切り閉じの間」のほか、「想像のへそ」「陥入膜の径」など、10のパビリオンとも不思議な構造でバランス感覚を失いそうになる養老天命反転地を訪れる。

岐阜方面に向かう。

18:00岐阜駅の近くのホテル到着後繁華街を散策して食事を済ませてから床に就く。

29日6:30車で美濃に向かう。

江戸時代から続く趣のある家並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されているうだつの上がる町並みを散策する。美濃は物資集散の一大商業都市として栄え巨万の富を得た豪商らが建てた町並みである。

毎年10月に開催される、美濃和紙あかりアート展を館内に再現。館内は和紙を使ったあかりの幻想的な空間だ。美濃和紙の里会館、美濃和紙あかりアート館に寄る。

江戸時代中期から和紙問屋を営んできた旧今井家。敷地内にある4つの蔵では、うだつ・和紙・美濃まつりに関する展示を行っている旧今井家住宅・美濃史料館による。

南下して

ナイフのみを集めたミュージアム。アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど世界約30カ国の珍しいナイフ約1500点を展示。中でも全長1.5mの世界一大きなナイフは迫力満点のナイフ博物館を見学。

郷土の自然と生い立ちを中心に紹介する博物館。メインホールには恐竜の化石などを展示。県民のコレクション等の展示を行う岐阜県博物館を見学。

標高329mの山頂からは岐阜市内を一望することができる。岐阜城や、自然と触れあえる散策コースもある金華山をロープエイで上る。

戦国時代、斎藤道三の居城だった稲葉山城が、織田信長の占領によって岐阜城と名を変えたのは1567年(永禄10)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、1956年(昭和31)に再建されたものだ。三層四階構造で、内部には甲冑や文献を展示。最上階は展望台になっている岐阜城を訪れる。

飛行機や宇宙船の仕組みや原理、開発の歴史がわかるエアロスペースパーク。屋外の実機展示のほか、ロボット科学や航空科学を学習できるかかみがはら航空宇宙科学博物館を見学。

世界最大級のビッグスケールを誇る淡水魚水族館。各階ごとテーマに沿って趣向を凝らした展示スタイルがとられ、地元岐阜に棲息する淡水魚をはじめ、アジアや南米など世界各国の水辺の生物260種2万8500匹を観察できる岐阜県世界淡水魚園水族館を見学。

ルドンのコレクション約250点をはじめ、岐阜県にゆかりの前田青邨、川合玉堂、熊谷守一のほか、ルノワールの作品など約3千点を収蔵する岐阜県美術館を見学。

大垣方面に向かう。

1535年(天文4)に築城。関ケ原合戦では西軍の本拠地となった。4層4階建て総塗りごめ様式の優美な天守閣からは大垣市内を一望できる大垣城を訪れる。

1985年(昭和60)、関ケ原合戦の後、戸田氏鉄がこの地を治めてから350年を記念して開館。歴代大垣藩主・戸田氏の肖像画や銅像などを展示している。藩主や郷土の先賢の書画など、貴重な美術品も多数所蔵の大垣市郷土館を見学。

17:00終了、大阪に向かう。

今回の旅行、日本のど真中に位置し数少ない内陸県の一つの岐阜県に足を運び、天下分け目の戦いといわれた関が原の戦いの合戦地として有名な関が原。

駅前には再開発で新ランドマークのシティタワー、賑わい度アップの岐阜中心部、郊外には長い歴史を誇るぎふ長良川鵜飼、古い町並みが残る川原町などの岐阜タウン。

物資集散の一大商業都市として栄え巨万の富を得た豪商らが建て、江戸時代から続く趣のある家並みが残る美濃。

水門川を生かした舟運の港町として、東西交通の要として栄えた地、良質で豊かな地下水にも恵まれ水の都とも呼ばれ、俳聖・松尾芭蕉の奥の細道の結びの地としても有名な大垣。

一泊二日で岐阜の中心地の歴史的ゆかりのあるエリアを訪れ、岐阜県の日本でのいちずけを学習、再確認できました。