福島

飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百八十一弾2023年9月2−3日福島県南相馬博物館、東日本大震災・原子力災害伝承館、とみおかアーカイブ・ミュージアム、アクアマリンふくしま(ふくしま海洋科学館)、いわき市立草野心平記念文学館、須賀川市立博物館観光 

東北地方の福島県に足を運び、福島県に位置する南相馬博物館、東日本大震災・原子力災害伝承館、とみおかアーカイブ・ミュージアム、アクアマリンふくしま(ふくしま海洋科学館)、いわき市立草野心平記念文学館、須賀川市立博物館を観光しました。

2日16:50伊丹空港出発。
17:55福島空港到達、レンタカーで郡山に向かう。
18:50郡山駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
3日7:00レンタカーで出発、南相馬に向かう。

南相馬博物館:地元の自然・歴史・民俗に関する展示施設です。

東ケ丘公園の中にある博物館。相馬地方の伝統の祭事である国指定重要無形民俗文化財「相馬野馬追」をはじめ、原町周辺の自然、歴史、民俗をテーマにした展示を行なっている。

双葉方面に向かう。

東日本大震災・原子力災害伝承館:東日本大震災と原子力災害の記憶の風化防止のため、未曽有の複合災害の教訓を、国や世代を越えて継承するとともに、復興に向けて進む福島県の姿と、国内外からの支援に対する感謝の思いを発信する情報拠点として、2020年9月にオープンした。27万点におよぶ収蔵資料を活用した展示のほか、語り部講話やフィールドワーク、ワークショップなどの研修プログラムを活用することにより、原子力災害や防災、減災について、正しく理解を深めることができる。

富岡方面に向かう。

とみおかアーカイブ・ミュージアム:当館は、富岡町が整備した博物館です。

富岡町で受け継がれてきた地域資料や、東日本大震災と原発災害で生じた震災遺産を収蔵・展示しています。

館の目標は「複合災害を地域の歴史に位置づける」。

地域で長い時間をかけて積み重ねられてきた日常が覚悟なく奪われた事実を町・町民の目線で伝え、「あの日」を境に起きた地域の変化を紹介しています。

東日本大震災と原発事故の影響拡大による原子力災害の風化防止と経験の発信・継承
富岡町の歴史・文化・地域性を伝える資料・情報の記録・保存と継承

いわき方面に向かう。

アクアマリンふくしま(ふくしま海洋科学館):福島の海の大きな特徴である黒潮と親潮がであう「潮目」をテーマとした水族館です。メインの「潮目の大水槽」では、トンネルを通りながらカツオやマイワシなど、様々な生き物を観察できます。また、釣り場や、裸足になって生き物と触れ合える巨大タッチプール「蛇の目ビーチ」など、体験エリアも充実しています。

いわき市立草野心平記念文学館:カエルの詩人として有名な草野心平の記念文学館

小学校の教科書に掲載されている『春のうた』など、カエルの詩人として有名な草野心平(1903年〜1988年)の記念文学館が、いわき市の小川町にあります。この地は、彼が16歳まで過ごした故郷です。「すべてのものと共に生きる」という独特の共生感が多くの詩に現れており、素朴で純粋な人柄を知ることができる文学館です。いわき市郊外の不便な場所ではありますが、文学館のある高台からは、自然あふれる景色が広がります。

須賀川方面に向かう。

須賀川市立博物館:阿武隈考古館から寄付された考古資料約5万点をはじめ、国史跡上人壇廃寺跡からの出土品を展示。歴史民俗資料館と併設している。

福島空港に向かう。

18:25福島空港出発。

19:35伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に位置する南相馬博物館、東日本大震災・原子力災害伝承館、とみおかアーカイブ・ミュージアム、アクアマリンふくしま(ふくしま海洋科学館)、いわき市立草野心平記念文学館、須賀川市立博物館を観光し楽しみました。

アクアマリンふくしま(ふくしま海洋科学館)は2回目の訪れ、他は初めての訪れでした。

震災資料館が東北地方では至る所に存在します。震災の恐怖、記憶に残る大災害の由来ですね。







飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百八十一弾:福島県福島駅、二本松駅周辺散策観光
2021年7月31−8月1日
 

東北地方の福島県に足を運び、福島県に位置する、福島駅、二本松駅周辺を散策観光しました。

31日16:50伊丹空港出発。
17:55福島空港到達、空港バスで郡山駅に向かう。
19:05郡山駅到達、新幹線で福島駅に向かう。
19:40福島駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

8月1日6:00福島駅周辺散策。

福島駅:福島県立美術館について桜の名所として名高い信夫山公園の西側。福島出身の国際的版画家斎藤清の作品をはじめ、福島ゆかりの大山忠作、吉井忠らの作品が中心。他には関根正二、岸田劉生、アンドリューワイエス、ベン・シャーン、ジョン・スローンなどの作品を収蔵展示。
福島市出身の古関裕而は、戦後の荒廃した社会の中で「とんがり帽子」や「長崎の鐘」等
希望を抱かせる明るい歌謡古関裕而(本名、古関勇治)は、明治42年福島市大町に生まれ、昭和5年9月に日本コロムビア(株)に作曲家として入社、以来、作曲活動を継続し、戦後の荒廃した社会の中にあって「とんがり帽子」「長崎の鐘」等未来へ希望を抱かせる明るい歌謡作品を発表し多くの人々に愛唱されている。また、昭和39年にアジアで初めて開催された東京オリンピックの選手入場行進曲「オリンピック・マーチ」 を作曲した。作曲作品の総数は、5,000曲にもおよび、スポーツ・ラジオドラマ・歌謡曲・演劇・校歌・社歌等、多岐にわたっており、一連の功績によって昭和44年には紫綬褒章を受章。作品を発表し多くの人々に愛唱されている作曲家です。

10:35福島駅JRで出発。
11:05二本松駅到達、散策。

二本松駅:福島県立霞ヶ城公園(国指定史跡二本松城跡)について二本松藩丹羽十万石の居城跡。戊辰戦争で落城、二本松少年隊の悲話を残す。昭和57年に箕輪門や二階櫓などが再建され、現在は県立自然公園として整備されている。桜、つつじ、紅葉、そして菊人形展と四季折々の景観が楽しめる。南側の高台には智恵子抄詩碑がある。
二本松市智恵子記念館について「智恵子の生家」の裏庭に、当時の酒蔵をイメージした智恵子記念館がある。病に侵された智恵子が制作した紙絵や当時の女性としては珍しい油絵の作品等が展示されている。
智恵子の生家について日本を代表する詩人・彫刻家である高村光太郎の妻 智恵子。洋画家、紙絵作家として有名です。その智恵子が生まれ17歳まで過ごした家です。

14:01二本松駅出発。
14:36郡山駅到達。
15:30郡山駅
バスで出発。
16:40福島空港到達。
18:25福島空港出発。
19:30伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に位置する、福島駅、二本松駅周辺を散策観光し楽しみました。
何回か訪れた観光名所、今回は散策で時間をかけて巡りました。
歩行数35000歩、歩行距離23km堪能しました。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百七十五弾:福島県郡山駅、会津若松駅、喜多方駅周辺散策観光
2021年6月19−20日
   

東北地方の福島県に足を運び、福島県に位置する郡山駅、会津若松駅、喜多方駅を散策観光しました。

6月19日16:50伊丹空港出発。
17:55福島空港到達、空港バスで出発。
18:40郡山駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

20日5:55郡山駅出発、会津若松駅で乗り換え
7:35喜多方駅到達、散策。

喜多方駅:福島県の北西部、会津盆地の北に位置する喜多方市。
喜多方ラーメン発祥の街、そして酒蔵や味噌蔵などの蔵が多く立ち並ぶことから、蔵の街としても知られています。
また、市内には、新宮熊野神社などの歴史ある寺社や、250万本のひまわりが咲き誇る三ノ倉高原の花畑など、
自然と歴史を感じることができる素敵な街です。
会津の中でも米どころとして知られる喜多方市にはいたるところに酒蔵があります。
その中でも老舗中の老舗「大和川酒造店」は、全国新酒鑑評会で8年連続金賞(2011-2018年)を受賞した「弥右衛門」などの銘柄で有名で、
試飲や酒蔵見学をさせてくれます。

9:05喜多方駅出発。

9:20会津若松駅到達、散策。

会津若松駅:会津若松のシンボルといえば、鶴ヶ城です! 
戊辰戦争時に新政府軍が攻め込んできた際、援護も見込まれない状況のなか1ヶ月間も籠城していたという逸話が残る名城の一つ。
結果的に降伏し、新政府の意向で明治7年に石垣だけを残して全解体。
昭和40に多くの寄付によって再建され、平成23年に幕府時代の赤瓦で再現した鶴ヶ城へとリニュアールされました。
ちなみに、日本で唯一の赤瓦天守閣であり、国指定史跡となっているんです!
また、鶴ヶ城に関連して戊辰戦争時に故郷の会津を守ろうと出陣した16歳前後の少年兵「白虎隊」が炎に包まれる鶴ヶ城(正確には誤認してしまった。)
を見て、武士の子として受けた教育に従い自害した話は今なお語り継がれる悲話でもあります。
今から220年前に飯盛山にあったお寺の住職が建立した巻貝のような形をした木造の六角形三階建てのお堂です。
上りと下りが別の階段になっているため、決して人とすれ違わない二重らせん構造が世界的にも珍しい建築様式となっています。
ちなみに、二重らせん構造は、さざえ堂が唯一で国の重要文化財にも指定。
順路には三十三観音や百観音が祀られていて、右回りに3回堂内を参拝すれば、巡礼したのと同じことになるそうです!
一説によると、あのダ・ヴィンチが設計されているとも言われ、謎の多い建築物でもあります……。
先ほどのさざえ堂とも近い場所にあるのが飯盛山・白虎隊十九士の墓です。314メートルの飯盛山からは会津城下町や雄大な会津盆地が目の前に広がります。
そして、戊辰戦争で忠誠心から自害した10代の若き少年白虎隊19隊士の墓所もあります。
白虎隊は40名で結成されていましたが20名が戦死、
残りの20名が鶴ヶ城の燃え盛る光景を見て(実際には武家屋敷の火災)この飯盛山で自刃したとされています。
唯一、奇跡的に飯沼貞夫だけが傷が浅く助け出されました。
そんな悲劇の地として今もなお語り継がれ、県内外から多くの人が飯盛山に足を運び、お墓に線香をあげている姿を目にします。
「ならぬことはならぬ。」と厳しく教育され、幼くして散っていった少年達の純真無垢にはこみ上げるものがありますね。

13:25会津若松駅出発。
14:40郡山駅到達、散策。

郡山駅:開成山公園について明治のはじめ、灌漑用の池として造成された五十鈴湖を中心に、都市公園として整備された。
また、安積開拓の発祥の地としてモニュメントの「開拓者の群像」が平成3年に建設されるなど、
郡山市民のシンボル的な公園として、多くの市民に親しまれている。
【開成山公園のバラ園】昭和46年に市内深沢の遠藤栄一氏により寄贈されたバラを中心に、440種810本のバラが咲き誇る。
見頃となる6月、10月には一般開放される。園内には段差もなく、車椅子の方でも安心。
【開成山公園・開成山大神宮の桜】
明治のはじめに行われた郡山発展の礎、安積開拓時に植樹したもの。日本最古級のソメイヨシノをはじめ、
公園に1,300本、大神宮に約200本の桜が咲き誇る。
映画「時をかける少女」のロケ地としても使用された。露店やライトアップで昼夜ともに楽しめる。

16:40郡山駅空港バスで出発。

17:35福島空港到達。

18:25福島空港出発。
19:35伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に位置する郡山駅、会津若松駅、喜多方駅を散策観光し楽しみました。

会津若松、喜多方は車で何回か訪れたことがあります。今回は散策観光しました。
郡山は初めての観光でした。
歩行数49500歩、歩行距離33km堪能しました。















 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百二十八弾:福島県小京都重要伝統的建造物群保存地区巡り観光
2020年6月20−21日
  

東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方)を訪れました。

20日14:50伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、レンタカーで福島県三春方面に向かう。

三春:樹齢1000年以上と推定される国指定天然記念物のベニシダレザクラで、日本三大桜のひとつに数えられています。薄紅色の小さな花を枝いっぱいに咲かせ、その姿が滝のように見えることから名がついたとも言われています。
場所によってさまざまな表情を見せてくれますが、正面からの花と幹は圧巻です。
福島県のほぼ中央部、阿武隈山系の西裾に位置し、郡山市の北東に隣接している。町のほとんどが標高300〜500mの丘陵地で、ゆるやかな山並みが続いている。気候は内陸性気候で、冬の降雪は少なく、夏もあまり暑くない。

19:00会津若松方面に向かう。
18:00会津若松駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

21日4:00レンタカーで出発

大内宿:福島県南会津【大内宿】は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えました。
現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並び、昭和56年には国選定重要伝統的建造物郡保存地区に指定されています。
この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観の保存にと伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。

前沢:前沢集落は、平成23年6月に「南会津町前沢」として国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
明治40年、集落のほとんどの建物を焼失した大火の後に周辺地域の大工の手により一斉に再建されたため、統一的な意匠による景観が形成されました。
家屋(主屋)は、茅葺屋根でその構造から直家とL字型の中門造(曲家)に分類され、中門造が多くを占めています。
中門造は、かつて家族同様に大切にされてきた農耕馬と人が一緒に生活する構造となっており、妻面には、明かり取りの窓、梁と貫の木組み、前包の彫刻、狐格子など意匠性の高い造りとなっています。
集落内には、中門造り(曲家)13棟を含む伝統的家屋が19棟あり、現在も人々の暮らしが息づいており、日本の原風景を今に残しています。

檜枝岐:檜枝岐村(ひのえまたむら)は、福島県会津地方南西部に位置し、南会津郡に属する村。
1889年(明治22年)4月1日に誕生した。日本有数の「特別豪雪地帯」。平家の落人伝説が残る。村民の姓は「星」「平野」「橘」で占められる。
神にささげる奉納歌舞伎として行われてきた檜枝岐の伝統歌舞伎です。その昔、江戸で歌舞伎を観劇した農民が、見よう見まねで村に伝えたのがはじまりと言われています。以来、親から子へと270余年に渡り継承され、衣装作りから化粧など裏方もすべて村人が行っています。昔のままの歌舞伎の姿を鑑賞できることもあり、現在では遠方からも多くの歌舞伎ファンが訪れています。

会津若松:会津地方の中心、会津若松と言えば鶴ヶ城・白虎隊の飯盛山などが有名で、5年前の大河ドラマ「八重の桜」の舞台でもありますが、市町地の中心、大町四ツ角から西に延びる七日町通りは、観光客をはじめ全国の商店町からも注目を集めています。明治元年の戊辰戦争での戦火で市街の殆どが灰塵と化したあと、明治から昭和初期の繁栄を極めた時代に有力商人が建てた建物が商店町として市内各所に残っていました。この町並みも高度成長期に衰退しましたが、蔵や洋館、木造商家など奇跡的に残っていた建物を再生して、大正浪漫ただよう町並みとして復活されました。喜多方の蔵の町並みとは全く違う雰囲気で、懐かしい気分になれる町歩きができます。秀吉から会津の地を与えられた蒲生氏郷は91万余石を領し、家康・毛利輝元に次ぐ有力大名でした。領主は江戸初期に蒲生〜上杉〜加藤とめまぐるしく代り、寛永20 (1643) 年、保科正之が最上から移封されたあと、松平姓が与えられ、徳川御三家に次ぐ大名として幕末まで続きました。中世の城下町を近世の城下町若松を造ったのは蒲生氏郷で、理想的な自由経済都市建設という信長の夢を実現しようと町づくりに着手しました。武士と町人の雑居が改められて、郭外の町割りを定めて商人・職人の居住地を定め、市を開くことを許しました。これによって武家屋敷と町人町が区別され、今まで郭内にあった、大町・馬場町が郭外に移されました。町並みとしての七日町辺りは、氏郷の城下町整備によって大町が郭内から今の位置に移ってきた時にできた町で、大町札辻より西に行く越後・出羽両国に通じる町道に沿った町でした。交通の要衝なので旅籠屋が多く、幕末には城下全町の旅籠屋95軒中、七日町だけで30軒を数えていました。戊辰戦争での壊滅的な被害の復興を支えた有力商人たちが建てた店舗や店蔵・土蔵・伝統的な様式の民家が、大町から七日町の通りに残ります。只見線の七日町駅の東から国道118号線にぶつかる辺りの1km余りには、土蔵造りの店、レンガ造りの土蔵、洋風な近代建築と、様々な建物が通りに面して建っています。特筆すべきは、明治期以後の洋風建築が数多く残っていることです。

喜多方: 喜多方小田付は、本市の中心市街地に位置し、天正10年(1582年)に町割が行われ、近村から定期市(いち)が移されました。近世には酒や味噌、醤油の醸造業も盛んになり、会津北方の交易の中心地として発展してきました。江戸時代末期までに成立した道路、水路、宅地割が良く残されており、その上に店蔵など多様な土蔵等が建ち並ぶ町並みは、在郷町・醸造町としての特徴的な歴史的風致を形成しています。

15:00仙台空港に向かう。

16:30仙台空港到達。

17:35仙台空港出発
18:55伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、福島県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(三春、大内宿、前沢、檜枝岐、会津若松、喜多方)を訪れ楽しみました。

すべてが今まで訪れたことのある観光名所、時間をかけてゆっくり散策観光しました。

尚福島空港行きの飛行機を予定していましたがコロナの影響で欠航、近くの仙台空港に変更いたしました。
仙台空港から福島県会津若松には車で2時間弱かかります。早朝出発で観光時間を稼ぎ回りました。



























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百三弾:福島県お城・城下町巡り観光
2017年7月8−9日
  

東北地方の相馬地方の相馬氏、会津地方の蘆名氏、県北の伊達氏などが力を誇り、さらに安積郡の伊東氏、岩瀬郡の二階堂氏と多数の勢力が覇権を争い、のちに伊達政宗がほぼ手中にした福島県に足を運び比較的マイナーなお城7か所を訪れました。

8日15:45伊丹空港出発
16:50福島空港到達、レンタカーで出発、須賀川方面に向かう。
17:30須賀川駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
9日7:00レンタカーで出発、お城巡り。

猪苗代城:築城年代は定かではないが佐原経連によって築かれたと云う。 佐原氏は三浦氏の一族で黒川城の蘆名氏とは同族であり後に猪苗代氏を称した。佐原経連が最初に築いたのが八手山城と云われ、その後この猪苗代城を築いたという。

天正16年(1588年)鶴峯城に隠居した猪苗代盛国は当主盛胤が蘆名義広に伺候している隙を付いて猪苗代城を乗っ取り伊達氏に内通した。これを機に天正17年(1589年)伊達氏が猪苗代城に入城し、麿上原で蘆名義広を破り会津を手中に治めた。 しかし、伊達氏は小田原合戦後の奥州仕置によって会津を召し上げられ、会津は蒲生氏郷の治める所となり猪苗代氏は伊達氏に従いこの地を去った。

その後、猪苗代城は一国一城令の例外として会津若松の支城として存続し、各大名の城代が置かれ明治を迎える。

神指城:慶長5年(1600年)上杉景勝によって築かれた。 慶長3年(1598年)上杉景勝は越後国春日より会津に転封となり黒川城へと入ったが、ここは小田山に近く大砲による砲撃に弱い為、新城を築く事にしたと云う。この予見は正しく戊辰戦争では黒川城へ小田山より砲撃が行われた。

当初候補地として北田城が挙げられたが水害の危険性から神指城が築かれたという。 築城は直江兼続が担当し3月18日より本丸、5月10日より二の丸の工事が昼夜兼行で行われたが、完成を見る事無く工事は中断された。これは徳川家康による上杉討伐の機運が高まり、それに対する備えとして国境の城の整備を進める為とされる。

結局、徳川家康による上杉討伐軍は石田三成の挙兵により中止され、上方へ戻った徳川軍と石田軍によって関ヶ原の合戦がおこり、戦後上杉氏は米沢に転封となったため、景勝は神指城には一度も入城しないまま米沢へ移った。

向羽黒山城:永禄4年(1561年)葦名盛氏によって築かれた。 盛氏が隠居城として築いたもので、家督を盛興に譲った後、盛氏は一旦向羽黒山城へと移った。しかし、天正2年(1574年)盛興が26歳の若さで嗣子なく没すると、盛氏は盛興の正室(伊達氏)を自分の養女として、二階堂盛隆を養子に向かえて家督を継がせた。盛氏は後見人として黒川城へ再び移ることとなり廃城となったとされる。

しかしながら、現在の遺構は隠居城というには遙かに壮大で、また虎口などは非常に技巧的かつ規模が大きく、連続して存在するなど、蘆名氏の後に会津を領した、伊達、蒲生、上杉の各領主によって改修されたものと思われる。

鴨山城:築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる。 長沼氏は下野国小山氏の一族で下野国芳賀郡長沼発祥、文治5年(1189年)源頼朝の奥州攻めのに参加して戦功を揚げ南会津に所領を得たものとされる。当初は長沼城を居城としていたが、応永年間(1394年〜1428年)頃に鴫山城を本拠として移ったと見られている。

長禄3年(1459年)山中越中は白河結城勢を密かに導き、長沼氏を鴫山城より追だしたが、長沼氏は葦名氏の力を借りて鴫山城を取り戻したという。

天正17年(1589年)葦名氏が伊達政宗によって滅ぼされると伊達氏に帰属し、先陣として伊達氏に服属しない山内氏や河原田氏を攻めた。天正18年(1590年)豊臣秀吉による奥州仕置き伊達氏が会津から取り除かれると、長沼氏は伊達氏に従って退去した。

その後は会津に入封した蒲生氏郷の家臣小倉作左衛門、ついで上杉氏の家臣大国実頼が城代となり、この頃に大門付近の改修が行われた。再び蒲生氏が会津に入封した時には蒲生主計・蒲生内記が在城したが、寛政4年(1627年)加藤嘉明が会津に入封した後、元和の一国一城令により廃城となった。

久川城:天正17年(1589年)河原田盛次によって築かれたと云われる。 河原田氏は藤原北家秀郷流の下野国小山氏の庶流で下野国都賀郡河原田郷発祥とされる。

河原田盛光が源頼朝に従って奥州合戦で戦功を挙げ、その恩賞として伊南を与えられたのが会津河原田氏の始まりとされる。河原田氏は西館・東館を平治の居館として築き、南背後の駒寄城を詰城として築いたとされる。

天正17年(1589年)葦名義広は摺上原で伊達政宗と戦ったが敗れ、生家である佐竹氏を頼って常陸へ落ちた。政宗は居城を黒川城へと移して所領拡大を計るなか、河原田氏は伊達氏に対抗するために久川城を築いたと云われる。

伊達氏は新たに帰属した鴫山城主長沼氏などを先陣に久川城に攻め寄せたが、攻め落とすことはできず、天正19年(1591年)伊達氏は惣無事令に反したとして会津領は召し上げられ、奥州仕置きによって蒲生氏郷に与えられた。久川城を守りきった河原田氏ではあったが、奥州仕置きにより所領は没収となり、葦名義広を頼って常陸から出羽国角館へ移るもの、帰農して土着したものなど離散した。現在も出羽国角館の武家屋敷群の中に河原田家の武家屋敷があり、この子孫のものである。

会津に蒲生氏が入封すると蒲生郷可、上杉氏の時代には清野助次郎長範、再び蒲生領となると蒲生彦太夫が入城し、慶長15年(1610年)頃に廃城となった。

棚倉城:寛永2年(1625年)丹羽長重によって築かれた。 慶長8年(1603年)立花宗茂が棚倉一万石を領して大名に復帰し、居城としたのは赤館といわれ、宗茂は後に三万五千石に加増され、元和6年(1620年)宗茂は旧領の筑後国柳河へ転封となった。かわって元和8年(1622年)に入封したのが丹羽長重で、常陸国古渡より五万石で入封するとはじめ赤館を居城としていたが、棚倉城を築いて居城を移し赤館は廃城となった。

赤館城:築城年代は定かではない。

建武年間(1324年〜1336年)には伊賀国より下った伊賀隆定の二男定澄が赤館城主となり、赤館氏を名乗り、以後代々赤館氏の居城となった。

永禄3年(1560年)寺山館まで勢力を北上させた佐竹氏に対抗するため、白河結城氏は葦名氏に支援を求め、葦名氏によって赤館が改修され、赤館氏は沢井へ領地替えし、上遠野盛秀を城代とした。

天正3年(1575年)佐竹氏は赤館を攻略し南郷を制圧し、赤館・寺山館・羽黒館・東館をもって南郷衆を組織した。

関ヶ原合戦後に佐竹氏が出羽国秋田へ転封となると一時天領となったが、慶長8年(1603年)立花宗茂が棚倉一万石を領して大名に復帰し、そのとき居城したのがこの赤館といわれる。宗茂は後に三万五千石に加増され、元和6年(1620年)宗茂は旧領の筑後国柳河へ転封となった。元和8年(1622年)丹羽長重が常陸国古渡より五万石で入封すると、新たに棚倉城を築いて居城を移し廃城となった。

16:30終了、帰路に向かう。
17:30福島空港到達。
18:10福島空港出発。
19:20伊丹空港到達。


今回の旅行、福島県に点在する比較的マイナーなお城7か所をおとずれ楽しみました。
城跡は現在公園として利用されているところが多く、気持ちよく散策することができました。
道も広く、車も少なく、信号も少なく、ストレスなく気持ちよくドライブお城巡り満喫しました。





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百七十一弾:福島県お城・城下町巡り観光
2016年9月3−4日
 

相馬地方の相馬氏に、会津地方の廬名氏、県北の伊達氏などが力をほこり、さらに安積郡の伊東氏、岩瀬郡の二階堂氏、白川庄の結城氏と、多勢の勢力が覇権を争い、のちに伊達政宗がほぼ手中した福島県に足を運び、比較的マイナーなお城10か所を訪れました。 

3日15:40伊丹空港出発
16:45福島空港到達、レンタカーで福島市方面に向かう。

小浜城:大内氏は、かつて福井県の小浜に居住していたが、晴継の代である応永年間(1394〜1428)、東安達を統治していた石橋氏の家臣となり当地に移住した。そして、その子宗政が築城した折、地形が本国に似ていることから小浜城と名付けたという。
 その後、戦国の世に弱小の国人領主であった定綱は、大名領主であった伊達・芦名に交互に身を寄せては自分の安全を計っていたが、天正十三年(1585)伊達政宗に背いて芦名に属したことから攻撃を受け敗走した。そして政宗は、畠山氏が居住する二本松城の包囲戦を実行するため、当城に一年ほど在陣している。
 昭和五十六年(1981)三月の発掘調査によって、七棟の掘立柱建物跡が発見された、本丸東側(上段)では小規模な建物跡(物見櫓)を発見、西側(上段)では桁行18.5m・梁行9.2mの南北に庇、西に正方形の付属屋が付く本格的な、政宗の殿舎と推定できる建物跡を発見、軍事の中核拠点であったことが確認されている(『城址説明板』より)
城跡は公園となっており、蒲生氏時代の石垣などの遺構が残る。

19:00福島市内のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

4日7:30レンタカーで出発、時計回りでお城めぐり。

桑拙西山城:築城年代は定かではないが鎌倉時代に伊達朝宗によって築かれたと云われる。 伊達朝宗は藤原氏山蔭流の後裔で仙台藩伊達家の祖である。常陸国新治郡伊佐荘を治めていた豪族で、源頼朝に従って奥州合戦に参加し、その恩賞として陸奥国伊達郡を賜り、常陸国は嫡男為宗が相続し、朝宗と二男宗村が奥州に下向、赤館を築いたという。
応永7年(1400年)伊達大膳大夫政宗は関東公方足利満兼に背き、関東管領上杉氏憲らの攻撃を受けて赤館に籠もり、これを撃退しているが、応永9年(1402年)に降伏している。
天文元年(1532年)伊達稙宗が赤館を改修して西山城を築き、梁川城から居城を移した。 天文11年(1542年)から天文17年(1548年)まで続いた伊達稙宗・晴宗父子による天文の乱では、晴宗は稙宗が鷹狩からの帰路を襲撃し、この桑折西山城へ幽閉している。間もなく小梁川宗朝によって稙宗は救出され石母田城へ逃れるが、天文の乱とよばれる奥州を巻き込んだ伊達家の内訌へと発展していく。
天文17年(1548年)室町将軍足利義輝による仲裁で和睦が成立し、稙宗は家督を晴宗に譲り隠居地として丸山城を築いた。晴宗は米沢へ移り西山城は廃城となった。
延宝7年(1679年)本多忠国が大和郡山から福島藩十五万石に封じられ、西館に築城する予定であったが、天和2年(1682年)播磨国姫路に転封となり実現しなかったと云われる。

梁川城:築城年代は定かではない。築城に関しては伊達氏の祖である伊達常陸介朝宗とか、三代義広であるとか諸説あるが判然としない。ただ九代大膳大夫政宗はこの梁川城で生まれた可能性が高いようである。
天文元年(1532年)伊達稙宗が桑折西山城へ居城を移し、その後は稙宗の八男伊達宗清に与えられ、梁川氏を称した。
天正19年(1591年)小田原合戦の後、伊達政宗は岩出山へ転封となり、梁川は会津に入部した蒲生氏郷領となって蒲生頼郷が城代を務めた。慶長3年(1598年)上杉景勝が会津に入部すると須田長義が梁川城代となる。寛文4年(1664年)上杉氏は十五万石に減封となり、幕府直轄領となった。近世城郭としての梁川城は蒲生氏・上杉氏の時代に改修されたものと考えられている。
その後は本多、松平、白河などの所領となったが文化4年(1807年)に松前領となり、一時幕府領となったが、再び松前領となった後は代々続いて明治に至る。

黒木城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1338年)に黒木大膳亮正光によって築かれたと云われる。
黒木氏の発祥は定かではないが、在地土豪説あるいは北畠顕家家臣説があるという。 建武3年(1336年)黒木入道一党が南朝方として挙兵し、霊山城落城後も南朝方の防衛拠点として北朝方の攻撃を防いでいる。
その後、相馬氏に属し黒木弾正信房の頃には中村城に弟黒木大膳義房(中村大膳)を置いて宇多郡をほぼ支配していた。しかし、天文年間(1532年〜1555年)に至り、伊達氏の天文の乱で伊達晴宗に組した黒木氏は伊達稙宗方の田中城を攻めて失敗、天文12年(1543年)同じく稙宗方の相馬顕胤に滅ぼされた。
相馬氏は青田信濃顕治を城代して置いたが、永禄6年(1563年)青田氏一族が離反して伊達氏に走り、代わって相馬三郎胤乗、続いて黒木中務宗元が城代となったが、天正4年(1576年)黒木中務は弟堀内四郎と謀叛を起こして伊達輝宗の元に走った。
その後城代となった門馬上総介貞経は天正18年(1590年)駒ヶ峯城奪還戦で中村城代相馬隆胤などとともに討死し、佐藤丹波信綱が城代となったが後に廃城となった。

中村城:慶長16年(1611年)相馬利胤によって築かれた。 関ヶ原合戦では相馬氏は中立を保っていたが徳川方からは西軍に付いていたとみなされ慶長7年(1602年)領地を没収され居城であった牛越城を太田原氏に明け渡し三春城の蒲生郷成を頼った。
利胤は申し開きをするため江戸に上洛し家康・秀忠父子にお家再興を願いこれが聞き届けられ慶長8年(1603年)牛越城ではなく前の居城であった小高城を一時的に居城として中村城を築城した。
相馬氏は15代続いて明治に至る。

駒ヶ嶺城:駒ヶ嶺城は、天正年間に相馬盛胤によって築かれ、藤崎摂津が城代となった。 
 天正17年、伊達政宗によって攻められ落城した。 政宗は、相馬氏との境目の城として重視し、黒木備前を城代とした。 その後、城代に桜田玄蕃ら伊達氏重臣が任じられ、江戸中期の享保3年に伊達一族宮内主税が城代となり2千石を領して明治に至った。
 幕末の戊辰戦争では、伊達氏の防衛拠点として浜通りを北上する官軍をこの城で迎え撃ったが、官軍の近代火力の前に落城した。

小高城:嘉暦元年(1326年)相馬重胤によって築かれた。 相馬氏は平将門の子孫であると云われ下総国相馬郡に移り相馬氏を称した。 文治5年(1189年)藤原泰衡の討伐に功があり恩賞として行方郡を領していたが重胤の時、小高城を築いて移った。
慶長元年(1596年)義胤の時、牛越城を築き居城を移したが関ヶ原合戦後に改易となりお家再興を幕府に願い出て聞き届けられると再び小高城を居城とした。 慶長16年(1611年)相馬中村城を築き居城を移したので廃城となった。

平城:滝尻城は諏訪神社の境内に比定されており、この参道入口に石碑が建っている。遺構はこの入口に面して土塁が伸びている程度で、今は堀らしき地形は確認できないが、かつては堀があったという。『福島県の中世城館跡』ではこの諏訪神社とは別に鹿島神社の背後一帯に築かれた山城を滝尻城ではないかとしており、こちらは滝尻城を参照。

須賀川城:須賀川城は鎌倉時代に当地の豪族・二階堂氏によって築かれた城である。二階堂氏は会津の蘆名氏と敵対するが劣勢で、当時の当主・盛義は子の盛隆を人質に出し、蘆名氏と和睦した。その盛隆は後に蘆名家の養子となり、蘆名家の当主となった。天正17年(1589)には伊達政宗の攻撃を受け落城し、須賀川城は伊達家の支配下に入った。

長沼城:築城年代は定かではないが南北朝時代に長沼氏によって築かれたと云われる。 長沼氏は下野国小山氏の一族で下野国芳賀郡長沼発祥、文治5年(1189年)源頼朝の奥州攻めのに参加して戦功を揚げ長沼城を居城としていたが、応永年間(1394年〜1428年)頃に鴫山城へ本拠として移ったと見られている。
永禄年間(1558年〜1570年)頃には葦名・伊達・二階堂などの諸勢力が長沼城を巡って激しく争ったが、最終的には葦名盛氏の所領となって新国貞通が城主となった。天正8年(1580年)盛氏が没して二階堂氏からの養子である盛隆が家督を継ぐと船岡館主松本行輔や貞通の弟笈川館主栗村下総とともに謀反を起こした。
天正17年(1589年)には葦名氏を滅ぼした伊達政宗の所領となったが、翌18年の奥州仕置によって会津に入封した蒲生氏郷の家臣蒲生郷安・蒲生主計が城主となった。 氏郷が病没すると慶長3年(1598年)には上杉景勝が会津に入封し信濃国長沼城より島津忠直が城主となった。慶長6年(1601年)には再び蒲生氏の所領となり蒲生郷治・玉井数馬介が城主となったが元和一国一城令によって廃城となった。

16:40福島空港到達

18:15福島空港出発
19:25伊丹空港到達。

今回の旅行、東北地方の福島県に足を運び、比較的マイナーなお城10か所をめぐり楽しみました。
今回も地味な城跡が多く、見つけるのも苦労を要しました。
相馬からいわきまでの海沿いを走行しましたが、原子力の影響がいまだにねずよく、車も人も少なく、お店も閉まっており閑散としていました。いつになれば以前の姿に戻るのでしょうね。














 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第六十三弾:福島県郡山タウン&白河&いわき観光
2009年6月13−14日


今回は全国で3番目に大きい面積を誇り、2つの大きな山脈、阿武隈高地、奥羽山脈を境目として3つのエリアに分けられる福島県のほぼ中央に位置する県内随一のターミナルエリア、郡山タウン、かつては道の奥と呼ばれた東北の玄関口、白河、東北有数のテーマパークが揃っているいわきに足を運びました。

13日14:40伊丹空港出発
16:00仙台空港到達、レンタカーで磐梯高原に向かう。

高湯温泉と土湯峠を結ぶ、全長約29qの観光有料道路。最高標高1,622mの吾妻連峰を縫うように走る、眼下には福島市から伊達郡へと続く信達平野が広がり、吾妻八景に代表される景勝地が続き、日本の道百選にも選ばれ、春の雪の回廊から秋の紅葉まで、季節毎に雄大で変化に富んだ様々な景色を展開してくれる
磐梯吾妻スカイラインを走行。

標高1600m。福島市と磐梯高原を結ぶ磐梯吾妻スカイラインの中間に位置。土湯温泉や高湯温泉から溶岩が堆積した山肌をみてのぼってくると、一息平坦になる場所。東に吾妻小富士、北に噴煙をあげる一切経山が見られ、吾妻小富士探勝の起点となる浄土平を訪れる。

磐梯吾妻スカイライン最大の見どころ。火山の噴火でできた山で、ビジタセンター隣のレストハウス前から急斜面の階段を15分ほどのぼると、標高1707mの火口壁。中央の噴火口が摺り鉢状に口を開けているのが見られる。火口に沿って1周すると360度のパノラマが広がり、福島市街や安達太良、蔵王なども見渡せる吾妻小富士を訪れる。

磐梯吾妻スカイラインと磐梯高原を結ぶショートカットルート。金堀〜剣ケ峰間13.1kmで磐梯山を望み、秋元湖・小野川湖を眺め、中津川橋から中津川渓谷を見下ろして檜原湖までの磐梯吾妻レークラインを走行。

猪苗代湖方面に向かう。

周囲55.32km、最大深度93.5m、日本で4番目に大きく、透明度も世界有数の湖だ。標高514mと、湖一帯が比較的高地にあり、気温の変化で霧が発生し、会津若松市の近くまで包んでしまうことも少なくない猪苗代湖を訪れる。

20:00郡山駅付近のホテル到着後郡山タウン散策して居酒屋で食事を済ませて床に就く。

14日7:00レンタカーで出発、天候曇り、郡山南西の羽鳥湖、甲子高原方面に向かう。

会津地方に注ぐ鶴沼川をせき止めて造られた人造湖。屈曲に富む湖岸からは那須連峰が望める。高山植物や野鳥、昆虫の宝庫として知られ、ミズバショウの群生地やモリアオガエルが棲息する湿地帯が点在する羽鳥湖を訪れる。

英国の小さな村をそのまま再現したホテル兼疑似体験型研修センター。ここは本場英国の洗練された情緒・文化・教養を心から愉しめるBritish Hillsを散策。

コテージタイプのホテル。那須連峰の北、羽鳥湖高原に広がる通年型アウトドアレジャーリゾート羽鳥湖高原レジーナの森を散策。

阿武隈川の源流域近くに広がる、原生林と草原に囲まれた高原。シャクナゲやカタクリなど高山植物が多いことでも知られる。川沿いに西の郷遊歩道と新甲子遊歩道があり、滝や奇岩など変化に富んだ散策が楽しめる甲子高原を散策。

新甲子温泉の奥にある樹齢320年、樹高35mの桂の大木。根元から何本も分かれて立つ姿は霊験あらたかな木として信仰を集め、かたわらには祠が祭られている剣桂を訪れる。

阿武隈川の源流に近い雪割渓谷に架かる、アーチ型の赤い鉄橋。長さ81m、谷底からの高さは約50mある。冬の時期に橋から眺める一面の雪景色を、渓谷の流れが割ったように見えるので名がついた雪割橋を訪れる。

東の白河方面に向かう。

1340年(興国元)築城。江戸時代に大改修が施され、1632年(寛永9)白河初代藩主・丹羽長重が完成させた。その後、戊辰戦争で大部分を焼失。石垣と水濠が残るのみだったが、史実に基づき三重櫓と前御門を忠実に復元。復元に使用された杉材は戊辰戦争の激戦地・稲荷山のもので、床や柱に当時の弾痕も見られる白河小峰城を散策。

1915年(大正4)に建築された、ビザンチン様式のギリシャ正教会。堂内にあるイイスス・ハリストス(=イエス・キリスト)やマリアの聖像画50点は貴重なもので、茨城県出身の山下りんのイコン画像7点も含まれる白河ハリストス正教会を訪れる。

1801年(享和元)、藩主・松平定信が築造した日本最古といわれる公園。湖畔に松・楓・桜などを植え、身分の区別なく領民に開放したという南湖公園を散策する。

7世紀なかばに置かれた念珠、勿来と並ぶ奥州三古関のひとつ。隣接して白河関の森公園がある白河の関跡を訪れる。

元和元年(1622年)、常陸国古渡より 棚倉に移封された丹羽長重は、幕府より築城の命を受け寛永元年(1624年)近津明神(都々古別神社)を馬場の地に遷宮し、翌2年その跡地に棚倉城の築城に着手し寛永4年(1627年)完成した。慶応4年(1868年)戊辰戦争で落城するまでの240余年に8家16代の城主交代があった。お濠に住む大亀が水面に浮かぶと決まって殿様が転封されたということから、別名亀ヶ城ともいわれた
棚倉城跡を散策する。

いわき方面に向かう。

紀貫之、小野小町、和泉式部、西行法師といった、馴染み深い歌人が和歌に呼んだ歌枕で、多くの文学作品にその名が残されている。太平洋を見下ろす丘陵には、歌碑をはじめ文学碑が10数基ある。周辺一帯は県立自然公園に指定されている勿来の関跡を散策する。

太平洋側を北上し、体験プログラムが豊富な、見て触れて楽しめる水族館。建物全体がガラスで覆われ、館内に自然光が降り注ぐ。メイン水槽の潮目の大水槽では、世界で初めて採用された三角トンネルを境に、福島県沖の豊かな潮目の海を表現。動物だけではなく植物の展示もあり、多様な生き物を見ることができる環境水族館アクアマリンふくしまを見学。

磐越自動車道を経由して北西に向かい、およそ8,000万年という歳月をかけて創られた大自然の造形美。全長約600mの洞内は、天井から大きく下がる鍾乳石や床下からタケノコのように堆積してできる石筍など千変万化の神秘の世界が続いています。したたり落ちる地下水が自らの溶食作用によって創りあげる様々な造形美にはそれぞれに名前が付けられ、訪れる人を魅了します。三層に分かれる洞内で最大のホール滝根御殿では、クリスタルカーテンやボックスワーク、シールド、洞穴サンゴなど、ここでしか見ることのできない貴重な鍾乳石を間近に鑑賞することができ、また、竜宮殿や月の世界、樹氷、クリスマスツリー、石化の樹林など、見る人を感動させてやまない大自然の神秘が続いているあぶくま洞を散策する。


福島空港に向かう。
18:00福島空港到達
19:00福島空港出発
20:10伊丹空港到達

今回の旅行、全国で3番目に大きい面積を誇り、2つの大きな山脈、阿武隈高地、奥羽山脈を境目として3つのエリア、いわき・相馬のある太平洋側の浜通り、福島・郡山がある中心部の中通り、会津・喜多方など歴史ある町の多い会津に分けられる福島県のほぼ中央に位置する県内随一のターミナルエリア、郡山タウン。
那須連峰の東山麓に広がる阿武隈川の源流地帯、原生林におおわれた山々と険しい渓谷が、四季折々の自然景観美を作り出す羽鳥湖高原、甲子高原。
5世紀頃に白河の関が設置され、かつては道の奥と呼ばれた東北の玄関口、江戸時代には松平定信が藩政を治めた歴史ある城下町白河。
東北有数のテーマパークが揃い、新鮮な魚介類を味わえるエリア、いわき。
福島の多くの自然名所と歴史的建造物を巡り堪能しました。

尚今回出発は14:10伊丹空港発、福島空港行きの便に搭乗予定でしたが、航空機の機器トラブル発生のため欠航、急遽14:20伊丹空港発、仙台空港行きの便に変更し、30分遅れで仙台に向かいました。
ana航空会社の航空機トラブル責任のため仙台空港から福島までの交通費を負担していただき、又幸い13日の行程は福島空港の北、磐梯方面のドライブ予定でしたので仙台空港からのアプロ−チも距離的、時間的にも差がなく仙台空港でレンタカーを手配して福島空港で乗り捨てのプランを立て、乗り捨て料金はana航空会社が負担した福島までの交通費でお釣りが出るほどの金額でラッキーでした。
観光も1時間ほど郡山に着くのが遅れましたが予定通り磐梯高原、猪苗代湖を観光ドライブでき満足に過ごすことができました。

旅はいろいろとアクシデントがありますが今回は結果的には問題を生じなかった運のよい観光旅行でした。

次回、これからはどんなアクシデント、ハプニングが起こるのでしょうね。又報告します。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第二十九弾:福島磐梯山&猪苗代&会津若松観光
2008年5月17日−5月18日


今回は東北の福島盆地を遠望する、猪苗代湖畔に抜けるドライブコース磐梯高原と城下町会津若松を訪れました。

5月17日14:20伊丹空港出発、15:25福島空港到達、レンタカーで福島駅に向かう。ホテルに到達後、福島駅市街地を散策、食事を済ませてから宿を取る。

18日天候快晴、絶好の観光日和。
前日からレンタカー借りていたため早朝の日の出と共に5:00出発、磐梯吾妻方面に向かう。

磐梯吾妻スカイライン到達、奥羽山脈の主峰、吾妻連峰を縦断する眺望抜群のスカイラインを通過して、高湯温泉の硫黄臭が鼻をつく、深く切れ込んだ不動沢に向かって、木々が迫るように茂る風景のつばくろ谷を訪れる。
標高1580m、周囲は荒涼とした景色が続いている浄土平訪れ、周囲約1,5kmの火口が口を開けるコニーデ型の小火山、まさにミニ富士を散策。
幾重にも重なる山の尾根沿いに深い木々が陰影を残す風景、天風境に寄る。

磐梯高原の桧原湖、小野川湖、秋元湖の3つを見ることができる磐梯吾妻レークライン通過、秋元湖に流れ込む中津川の標高差1000m以上の急流が作り出した中津川渓谷を訪れる。
磐梯吾妻レークライン随一の景勝地で桧原湖、小野川湖、秋元湖のすべてを見ることができる三湖パラダイスに寄ってから磐梯山噴火100年を記念して建てられた磐梯山の噴火の模様と動植物に与えた影響を模型などで紹介する磐梯山噴火記念館を見学。

磐梯山の西側中腹を磐梯高原から猪苗代に抜ける磐梯山ゴールドラインを通過、途中から雄大な猪苗代湖が一望しながらドライブ。

猪苗代湖に到達、湖岸に沿って移動、野口英世の生家で人類のために大きな貢献をし、世界的な医学者」となった野口英世の数々の功績を身近に観れる野口英世記念館を見学。

西の会津若松方面に向かう。

城下に立ち上る黒煙を見て自刃した白虎隊市一九士の墓が森厳な木立てに囲まれて並ぶ飯盛山を登る。

市内に向かい鶴が翼を広げた美しさと称えられる名城、戊辰戦争の激しい攻防で廃墟となり、昭和40年、市民の熱望で再建された鶴ヶ城を訪れる。

南に向かい川の流れや風雨によって侵食を繰り返してできた奇岩怪石が河岸にそそりたつ塔のへつりを訪れる。

西に向かい明治18年に建築された擬洋風木造建築で一部2階建ての内庭式、昭和46年に現在地に移築され調度品もそのままに当時を再現した郡長室、田島で出土した縄文土器などを展示する旧南会津郡役所、会津と越後の交易路だった八十里越に置かれた番所跡で現存する茅葺きの大屋根の曲がり家は寛政10年1798年築と伝えられ、奥会津地方最大規模の古民家で福島県指定の重要文化財でもある叶津番所跡を見物。

北に向かい国道252号の傍らをゆったりと流れる会津地方きっての大河、只見川に沿って走行、5000年以上前にできた山上のカルデラ湖、沼沢湖によってから1200年の歴史があり門前町として栄えてきた、柳津に存する日本三大虚空蔵尊のひとつとしていわれる福満虚空蔵尊圓蔵寺を訪れる。

16:30福島空港に向かう。
18:00福島空港到達。
19:00出発。
20:10伊丹空港到達。

今回の旅行、初めて東北福島県に足を延ばし、福島市街地から、山越え、峠越えの山岳道路を走り、猪苗代湖畔に抜ける颯爽としたドライブルート、福島盆地を遠望し、磐梯高原に下り湖岸道路を周回して猪苗代の地へ、又戊辰戦争の悲話も残る城下町、会津若松から山深い西会津地方や奥会津の大自然と歴史を訪ねるドライブルート。

朝の日の出の5:00から夕方18:00までの13時間、走行距離500km越え堪能したドライブ観光でした。