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飛行機で国内&海外の観光地巡り第七百二弾2024年2月10−12日福岡県白秋記念館、大牟田市石炭産業科学館、大牟田市動物園、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館、立花家史料館、福岡県青少年科学館、九州歴史史料館、マリンワールド海の中道、宗像大社神宝館、北九州市立いのちのたび博物館、到津の森公園観光 

九州地方の福岡県に足を運び、福岡県に位置する白秋記念館、大牟田市石炭産業科学館、大牟田市動物園、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館、立花家史料館、福岡県青少年科学館、九州歴史史料館、マリンワールド海の中道、宗像大社神宝館、北九州市立いのちのたび博物館、到津の森公園を観光しました。

10日14:23新大阪駅新幹線さくらで出発。
16:42小倉駅到達、レンタカーで黒崎方面に向かう。

17:30黒崎駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

11日7:30レンタカーで出発、柳川方面に向かう。

白秋記念館:柳川に生まれ、多感なときをこの美しいまちで暮らした白秋。ふるさとの豊かな表情は、白秋の心の中に、柔らかで、温かで、穏やかな“情”を育みました。
白秋を偲ぶたくさんの品々、その姿は、彼がこよなく愛した柳川の歴史を偲ぶものなのかも知れません。

立花家史料館:立花家史料館は、江戸時代に柳川を治めていた大名立花家の邸宅があった「御花畑」と呼ばれていたところにあります。敷地全体およそ七千坪は国指定名勝「立花氏庭園」でもあります。そしてこの場所は、現在、文化観光施設「柳川藩主立花邸 御花」となっています。

史料館には、立花家500年に渡る武具甲冑、茶道具、能道具、書画、等々およそ5千点にわたる大名道具と近代伯爵家資料を展示公開しています。 少し堅苦しいお話しになってしまいましたが、実は、当館は史料館としてはなかなかの老舗で、昭和26年秋から「御花歴史資料館」として立花家の大名道具の数々を公開していたことをご存知でしょうか。つまり、大名道具の保存公開については62年の歴史のあるエキスパート館のひとつであると自負しているのです。(現在の史料館棟が建てられたのは19年前のことになります。)

そして当館は立花家の歴史そのものを繋ぐ母体の地にあります。同家が柳川を城地として現在までおよそ400年という変転の歴史の中、たったひとつ変わらなかったことは、立花家の人々がここに留まり、史料が維持されてきたという事実です。旧大名家が暮らした地と歴史的建造物群という<空間>、大名道具という<もの>、立花家文書をはじめとする<記録>という三つの要素に加え、それを伝えてきた立花家の<くらし>というすべてがここに残されてきたことは、現代においてほとんど奇跡的といってよい幸運といえるでしょう。

大牟田方面に向かう。

大牟田市石炭産業科学館:体験して学べる施設!地下400mの坑内探検、ダイナミックトンネルは必見です。

館内には、石炭関連の書籍、写真、道具、機械などを展示している。また、蒸気機関車や石炭利用のストーブなどもある。

大牟田市動物園:動物たちの生活の質の向上を目指して。生き生きと動物が暮らす動物園

「動物と人との体験、ふれあい」がテーマ。孔雀やペリカンの飛交う中の散歩や、小動物とのふれあいのケージがある。

大牟田市立三池カルタ・歴史資料館:カルタ発祥の地・大牟田で、地域カルタやトランプ等の歴史が学べるスポット

大牟田が日本のカルタの発祥地であることにちなんで造られた日本で唯一のカルタの公立記念館。プレイルームもある。

久留米方面に向かう。

福岡県青少年科学館:臨場感あふれるプラネタリウムや人気のイベントや体験が盛り沢山の科学館

直径23メートルのプラネタリウムをはじめ、ロボットやニューメディア等、科学に関する多彩な展示物を誇っている。

小郡方面に向かう。

九州歴史史料館:土・日・祝日は親子で楽しく古代体験を!

福岡県立の歴史系博物館。福岡県の歴史研究の拠点であり、古代九州を統括した太宰府政庁の出土品をはじめ、古文書や仏像などの展示を通じて、古代から近代に至る福岡県の歴史をたどることができる。中庭からは、文化財の修復作業の様子を見ることができる。日曜には、子どもから大人まで楽しめる和同開珎や瓦マグネット作り(有料)、拓本とり、VR体験(無料)などの古代体験があり、歴史を身近に感じることができる。

中道方面に向かう。

マリンワールド海の中道:イルカ・アザラシ・ペンギンとの距離をぐっと縮めた水族館!

近くで見られるアシカショー、開放的な景色の中で楽しめるイルカショー、ラッコやペンギンなど、魚類の展示だけでなく海洋生物全般が間近で見られる魅力ある水族館。

16:30黒崎駅前のホテルに向かう。

17:30黒崎駅前のホテル到着後食事を済ませて就寝。

12日8:00レンタカーで出発、宗像方面に向かう。

宗像大社神宝館:宗像三女神への信仰の尊さに触れることのできる展示空間です

宗像大社辺津宮の境内にあり、4世紀後半から約550年間に沖津宮で行われた大規模な国家祭祀で捧げられた沖ノ島神宝約8万点の国宝を中心に貴重な文化財を収蔵・展示しており、古代から現代まで連綿と続く宗像の神への崇敬を感じて頂けます。

北九州市方面に向かう。

北九州市立いのちのたび博物館:「いのちのたび」をコンセプトにした、西日本最大級の博物館

地球誕生から現代に至るまでの自然と人間の歩みを展示・解説している西日本最大級の自然史・歴史博物館。自然史ゾーン、歴史ゾーン、共通ゾーンの3つからなり、特に自然史ゾーンのアースモールに設置された恐竜骨格標本は子供たちに大人気だ。全長約35mにも及ぶ世界最大級のディプロドクスやティラノサウルスの骨格標本は迫力満点で、他にも太古の北九州が体感できる恐竜のジオラマがあるエンバイラマ館など、恐竜の世界にたっぷり浸れる。また、歴史ゾーンには懐かしい昔の農家を再現した文化学習園や探究館もある。

到津の森公園:「到津の森公園(いとうづのもりこうえん)」は九州の北部・福岡県北九州市小倉北区にある、動物のいる公園です。
基本理念は「市民と自然を結ぶ『窓口』となる公園をめざす」。前身の「到津遊園」閉園から「到津の森公園」開園に繋がった経緯として、52団体、計26万人から存続の要望があるなど、市民活動が大きく影響した経緯があります。

14:00小倉駅に向かう。
15:02新幹線さくらで出発。
17:21新大阪駅到達。

今回の旅行、九州地方の福岡県に足を運び、福岡県に位置する白秋記念館、大牟田市石炭産業科学館、大牟田市動物園、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館、立花家史料館、福岡県青少年科学館、九州歴史史料館、マリンワールド海の中道、宗像大社神宝館、北九州市立いのちのたび博物館、到津の森公園を観光し楽しみました。

全て初めての訪れでした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百五十一弾:
2023年1月21−22日福岡市動植物園、福岡市科学館、福岡市文学館、福岡市博物館、九州国立博物館観光


九州地方の福岡県に足を運び、福岡県に位置する福岡市動植物園、福岡市科学館、福岡市文学館、福岡市博物館、九州国立博物館を観光しました。

21日13:38新大阪駅新幹線のぞみで出発。
16:08博多駅到達、駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
22日8:00レンタカーで出発博多周辺の博物館巡り。

福岡市動植物園:動物と自然とふれあえる動植物園!休憩場所や坂道対策など順次リニューアル!
福岡市動植物園は動物園が約140種、植物園が約2,600種の動植物を所有しています。「アジア熱帯の渓谷エリア」が完成しオランウータンとテナガザルの混合飼育が見られるのは日本でここだけです。餌やり体験や小動物のふれあい広場(モルモットやウサギ)などの動物と触れ合える体験イベントも子どもには人気があります。併設施設にはメリーゴーランドや観覧車などの遊戯施設もあり子どもが楽しめる環境が整っています。

福岡市科学館:ドームシアターや様々な実験や工作室で、見て感じて科学を学ぼう!
「人が育ち、未来をデザインしていく科学館」を理念とする科学館。サイエンスナビやおやこひろばをはじめ、「宇宙」「環境」「生活」「生命」と、未来について考える「フィーチャー」からなる参加体験型の展示や、さまざまなショーが繰り広げられる基本展示室のほか、九州最大級のドームシアターでは、最新鋭光学式投映機と8K相当の高解像度デジタル式投映機を駆使し、自然に限りなく近い星空を再現しているプラネタリウムなどがある。さまざまな活動プログラムも充実し、科学の楽しさや驚きに出会えるワクワクドキドキの科学空間が広がる

福岡市文学館:福岡市文学館は福岡市総合図書館が実施する文学館事業です。
福岡ゆかりの文学に関する資料を収集し、市民向けの文学講座や、
福岡市総合図書館1階ギャラリーで常設展示や毎年秋に企画展示を開催しています。

福岡市博物館:国宝を納めた、福岡市街地の博物館
志賀島から発見された国宝の金印をはじめ、福岡と大陸との関わりの歴史について、多くの資料が展示されている。

太宰府方面に向かう。

九州国立博物館:子どもの博物館デビューにぴったり!いつ訪れても楽しい博物館
東京国立博物館、奈良国立博物館、京都国立博物館に次いで4番目となる国立博物館。文化交流展では、床面積約4000平方mの広さに、旧石器時代から近世末期(開国)まで5つのテーマごとに、アジア、ヨーロッパとの交流の歴史を紹介している。日本の歴史の中で交流のあったアジア諸国の生活文化を体験できる展示室「あじっぱ」も見所のひとつ。1階にはミュージアムホールを併設。太宰府天満宮へは、動く歩道とエスカレーターの「アクセストンネル」で7分でつながっている。

15:00博多駅に向かう。
15:54博多駅新幹線のぞみで出発。
18:22新大阪駅到達。

今回の旅行、九州地方の福岡県に足を運び、福岡県に位置する福岡市動植物園、福岡市科学館、福岡市文学館、福岡市博物館、九州国立博物館を観光し楽しみました。

全て初めての訪れで、印象に残った福岡市動植物園は広大な敷地にアップダウンのある高低差の作りで動植物を観察できました。しいて言えば水生生物のエリアがあれば完璧です。






飛行機で国内&海外の観光地巡り第六百一弾:
2022年1月29-30日福岡県教育大前駅、東郷駅、福間駅、西鉄柳川城駅周辺を散策観光
 

九州地方の中心地福岡県に足を運び、福岡県に位置する教育大前駅、東郷駅、福間駅、西鉄柳川駅周辺を散策観光しました。
29日13:38新大阪駅新幹線のぞみで出発。
16:06博多駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。

30日6:55博多駅出発。
7:35教育大前駅到達、散策観光。

教育大前駅:江戸時代、筑前小倉(北九州)から玄界灘沿岸を通り、肥前唐津(佐賀県唐津市)を結ぶ唐津街道は、
北部九州の交通と物流の大動脈として整備されました。
この街道は、宗像市を通るルートであり、現在も「赤間宿」と「原町」に昔ながらのまちなみが残っています。
唐津街道赤間宿は筑前21宿のうちの一つとして江戸時代から明治期の鉄道開通期までは宿場町として、
宗像地方の物資の集積地として発展しました。今も白壁や格子窓といった昔の家並みが残っています。
出光興産創始者、出光佐三翁の生家も残っており、赤間宿まつりなどでは、好意で生家が公開されています。

8:20教育大前駅出発。
8:35東郷駅到達、バスで宗像大社に向かう。

東郷駅:宗像大社(辺津宮)について宗像神を祀る全国約6200社の総社。
辺津宮は宗像三女神の市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)を祀る。
広大な神苑には、本殿・拝殿を中心に、第二宮(沖津宮)、第三宮(中津宮)、高宮祭場、
そして国宝8万点を収蔵する神宝館が点在している。
2017年7月に世界文化遺産登録された「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産である。

9:05宗像大社到達。

10:17バスで東郷駅に向かう。

10:35東郷駅到達。
10:45東郷駅出発。
11:05福間駅到達、散策観光。

福間駅:宮地嶽神社(福岡県福津市)について商売繁昌・交通安全・家内安全の神様。菖蒲も見事
神功皇后(じんぐうこうごう)・勝村大神(かつむらおおかみ)・勝頼大神(かつよりおおかみ)の三柱を祭っています。
商売繁昌・交通安全・家内安全の神様として各地から多くの参拝者が訪れます。
また、神社の本殿に架けられている大注連縄(おおしめなわ)は、長さ11メートル、直径2.6メートル、重さ3トンで、もちろん日本一。
境内には大鈴・大太鼓もあります。
また、神社の一番奥にある「奥の宮不動神社」は、全長23メートルという大規模な石室で、
高さ幅とも5メートルを超す大きな石を積み重ね造られた古墳で、馬具、刀装具・瑠璃玉などおよそ300点が発見され、
そのうち10数点は重要国宝に指定されています。秋季大祭は毎年9月21日から23日まで。
五穀豊穣・豊漁を祈願し、初日は王朝絵巻さながらの華やかな行列が宮地浜までの参道を美しく飾ります。
境内には、寒緋桜をはじめさまざまな桜や、ほうき桃、藤、ぼたんなど、季節の花が植えられています。
5月下旬には江戸菖蒲約100種類、5万株が咲き、花の名所としても知られています。

12:10福間駅出発、基山駅で甘木鉄道に乗り換え、小郡駅下車、西鉄小郡駅出発。
12:45西鉄柳川駅到達。

西鉄柳川駅: 柳川市は福岡県の南にあり、ゆっくりと時が流れ、四季を愛でる「水郷柳川」としても知られ、
市内には網目のように掘割が張り巡らされ柳川ならではの風土を作り上げています。
江戸時代は美しい城下町でもあり、永い歴史や文化にも触れることができます。
また平成26年には市出身の国民的詩人、北原白秋の詩情を育んだ水郷柳川の風景が国の名勝に指定されており、
北原白秋が数多の作品を描き、またそれらを生み出す源泉となった水郷柳川の優れた風致景観が評価されました。
船頭さんの歌を聞きながら、ゆったりと流れる時間を愉しむ川下りはもちろん、掘割沿いを歩くだけでも四季を通して非日常を感じることが出来ます。

15:06西鉄柳川駅出発。
15:55西鉄博多駅到達、地下鉄で博多駅に向かう。
16:10博多駅到達。
16:39博多駅新幹線のぞみで出発。
19:07新大阪駅到達。
今回の旅行、
九州地方の中心地福岡県に足を運び、福岡県に位置する教育大前駅、東郷駅、福間駅、西鉄柳川駅周辺を散策観光し楽しみました。
柳川は何回も訪れたことのある観光名所、他は初めての訪れでした。
歩行数37000歩、歩行距離25km堪能しました。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百五十六弾:福岡県門司港駅、小倉駅、博多駅、薬院駅、天神駅、大宰府駅周辺散策観光
2021年1月16−17日
  

九州の福岡県に足を運び、福岡県に位置する門司港駅、小倉駅、博多駅、薬院駅、天神駅、太宰府駅周辺を散策観光しました。

1月16日13:30新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:50小倉駅到着。
15:58小倉駅JR九州鉄道で出発
16:12門司港駅到達、散策。

門司港駅:明治から昭和にかけて国際貿易の拠点として発展し、横浜・神戸と並んで「日本三大港」のひとつにも数えられた門司港。当時建てられたレンガ造りの建物などが今なお残り、レトロな雰囲気が漂う一帯は「門司港レトロ」として、人気の観光地になっています。
モダンとレトロが融合した町並み「門司港レトロ」,「門司港×バナナ」のみやげを探そう「門司港レトロ海峡プラザ」,アインシュタインが宿泊した社交場「旧門司三井倶楽部」,旧門司駅として開業した九州の玄関口「門司港駅」,鉄道ファン&子供たちに大人気「九州鉄道記念館」,シンメトリーな姿が美しい赤煉瓦館「旧門司税関」など。

17:30門司港駅JR九州鉄道で出発。
17:48小倉駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を就寝。

17日7:00出発小倉散策。

小倉駅:約7年もの歳月を費やし、1602年に誕生した小倉城。唐造りの天守閣や石垣などが往時の姿を留めています。また、城内の小倉城の歴史や文化を学べるゾーンや、市街地が一望できる展望ゾーンも必見。周辺には、「松本清張記念館」や八坂神社、商店街などの観光スポットもあります。春には桜、秋には紅葉が小倉城に華を添えています。

8:30小倉駅新幹線みずほで出発。
8:58博多駅到達、散策。

博多駅:博多湾に面し、九州地方の玄関口ともいえる大都市・博多。「キャナルシティ博多」「SHIP’S GARDEN」などの都市型観光施設から、「櫛田神社」などの歴史的名所、「海の中道海浜公園」や「のこのしまアイランドパーク」などの自然豊かな見どころ。

天神駅:王貞治氏の偉業をたたえる「王貞治ベースボールミュージアム(福岡)」,動物園と植物園を同時に満喫「福岡市動植物園」,ようこそ海辺の頂上へ「福岡タワー」,美術館やレストランがある緑に包まれた水の公園「大濠公園」,緑いっぱいのステップガーデン「アクロス福岡」,19世紀のヨーロッパの街並みをイメージ「天神地下街」など。

薬院駅:天神や大名から少し離れた場所に位置する薬院エリア。地下鉄七隈線が南北を、西鉄天神大牟田線が東西を貫く交差点にあたるこの駅の周辺に、今、福岡のカルチャーを色濃く感じられるショップが多く集まっている。 文具店、コーヒーショップ、麺屋、花屋、アトリエ兼ショップ……ジャンルこそバラバラでありながら、根底に流れる福岡の今のカルチャーを感じさせるスポット。

10:30薬院駅出発。
10:58太宰府駅到達、散策。

太宰府駅:「学問・至誠・厄除けの神様」として有名な、菅原道真が祀られている「太宰府天満宮」は、福岡観光で外せない人気スポット。歴史や伝統を感じられる、神聖な場所でありながら、境内に点在するモダンなアート作品や、参道に並ぶおしゃれなカフェなど、感性を刺激される要素が満載です。

12:05太宰府駅出発。

12:56薬院駅到達、バスで博多駅に向かう。

13:20博多駅到達。
13:38博多駅新幹線のぞみで出発。

16:07新大阪駅到達。

今回の旅行、九州の福岡県に足を運び、福岡県に位置する門司港駅、小倉駅、博多駅、薬院駅、天神駅、太宰府駅周辺を散策観光し楽しみました。

何回も訪れたことのある、博多、小倉、門司港、大宰府、特に広い博多エリア、博多駅、天神駅の位置関係歩いて巡りマップを把握することできました。歩数は4万8千歩、歩行距離32kmでした。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第五百七弾:福岡県小京都重要伝統的建造物群保存地区観光
2020年1月25−26日

九州の中心地福岡県に足を運び、福岡県に点在する小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(朝倉秋月、筑後吉井、八女福島、八女黒木、柳川、門司港)を訪れました。

25日13:39新大阪新幹線のぞみで出発。
16:07博多駅到達、駅前のホテル到着後
17:00友人と待ち合わせて夕食。
22:00ホテルに戻り就寝。
26日8:00レンタカーで出発。
朝倉方面に向かう。

秋月:城下町としての秋月の歴史は、鎌倉時代に秋月氏が古処山(こしょざん)に山城を築いたことから始まります。秋月氏16代によって支配された後、江戸時代には福岡藩主となった黒田氏12代によって、秋月の治世が行われました。鎌倉〜江戸を経て明治時代までの長きにわたって城下町として栄えた秋月には、現在も多くの史跡が保存されていることから、重要伝統的建造物群保存地区にも指定されています。
その美しい城下町の景観から、筑前の小京都とも評される秋月。春は桜、秋は紅葉の名所としても名高く、多く人々が観光に訪れていますよ。まるで当時にタイムスリップしたかのような雰囲気を漂わせる城下町の魅力はもちろんのこと、周囲の田園風景と調和した様子は見事です。美しい四季折々の自然の中でゆったりとした時間を楽しむのにぴったりの秋月。季節の訪れと共に訪ねたい福岡県のおすすめ観光名所です。

吉井方面に向かう。

筑後吉井:うきは市吉井町は福岡県南東部の筑後川中流域に位置し、江戸時代を通じて城下町久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿駅として機能した。また、江戸時代中期以降には商品作物の栽培・加工及びその集散や、「吉井銀(よしいがね)」と称された有力商人の金融活動などにより繁栄した。
 うきは市吉井町のほぼ中央部にある筑後吉井保存地区は、豊後街道の街路沿いに漆喰塗の重厚な町屋が連続する町並みと災除川と南新川沿いに広がる屋敷群からなっている。明治2年(1869)の大火を契機として、吉井では草葺きの町屋にかわって瓦葺塗屋造が普及し、経済の最盛期であった大正期にほぼ現在みる町並みが形成された。保存地区の伝統的建造物は街道沿いに建つ町屋や土蔵を主体として、川沿いの屋敷地内に建つ主屋や土蔵・付属屋、要所に建つ社寺建築、川沿いの石積護岸や石段及び石橋等の石造物で構成されている。保存地区では、これら約250件の伝統的建造物と屋敷庭園及び川沿いの樹木について、保存の処置が取られている。
  本保存地区は、町屋や土蔵が連続する町並みと、豊かな緑に包まれた屋敷や社寺建築、さらに吉井の経済基盤を支えてきた河川や水路などが一体となって歴史的風致を形成しており、筑後地方の商業都市として、特色ある歴史的景観を伝えている。

八女方面に向かう。

八女福島: 八女市の中心市街地・福島は天正15年(1587)筑紫広門が築いた福島城を、慶長5年(1600)関が原の戦いで功を上げ、筑後一円32万5千石(柳河城を本拠とした)に抜擢された田中吉政が、支城として大修築し、城下町をつくった後、大きく栄える。福島城は三重の堀によって囲み、中堀・外堀の南半には城を迂回する往還道路に沿って「町人地」を配したと考えられる。町人地の敷地はこの往還道路と中堀・外堀の間に短冊状に地割がなされている。
 元和6年(1620)当地は久留米藩有馬豊氏の支配下となり、福島城は廃城となったが、町人地はその後も八女地方の交通の要衝の地として、また、経済の中心地として発展する。福島は城下町としては短期間であったが、その間に都市の主要な骨格ができたと思われ、今も本丸跡、城堀跡の水路、屈曲した道路網等当時の面影を残している。

八女黒木:
黒木地区は福岡県筑後地方の南東部に江戸期以降の重厚な町家や蔵が旧往還道(旧豊後別路)沿いに残るとともに、矢部川の堰や木橋、町中を流れる水路、矢部川対岸の棚田や石積みなどの水利にまつわる文化遺産が、我が国にとって価値が高いと評価されました。県内では、うきは市筑後吉井(在郷町)、朝倉市秋月(城下町)、八女市八女福島(商家町)に続いて4地区目、全国で85番目の国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。明治41年(1908)、民俗学者の柳田國男は当地を訪れ、路傍の小溝の水が早く流れ清らかなこと、また町並みに並木が植えられた梅やざくろ、やまなしに印象を深くし、知人あての書簡にエピソードとして書き送っています。町並みは、明治後期から大正期にかけて洋風建築もみられるようになり、時代の波にのってクライマックスを迎えました。
柳川方面に向かう。

柳川:柳川の観光といえば、柳川城の堀割をどんこ舟でめぐる川下りを楽しんだあと、史跡や資料館をめぐったり、名物のうなぎのせいろ蒸しを食べたりするのが定番。堀割沿いには柳川ゆかりの作家たちの文学碑や歌碑があり、柳川の歴史を知っておけば、よりいっそう楽しめること間違いなし。下船後にゆっくり歩いてめぐるのもいい。柳川藩主立花家の歴史を紹介する国の名勝「柳川藩主立花邸 御花」の庭園はぜひ見ておきたい。

門司方面に向かう。

門司港:福岡・北九州にある「門司港レトロ」は、大正ロマンの雰囲気が漂うレトロな建物が立ち並んだスポットです。県外からも多くの観光客が訪れる街で、昔懐かしく美しい景観が魅力の港町。レトロな街の雰囲気や潮風を感じながら、街歩き、重要文化財の「門司港駅」や雑貨店やカフェがある「新海運ビル」、実物車両を見られる「九州鉄道博物館」、名物の焼きカレー「ベアフルーツ」や食べログ1位になった「京寿司」などがあります。

小倉駅に向かう。

18:45小倉駅新幹線のぞみで出発。
21:01新大阪駅到達。

今回の旅行、九州の福岡県に足を運び、福岡県に点在する
小京都重要伝統的建造物群保存地区6か所(朝倉秋月、筑後吉井、八女福島、八女黒木、柳川、門司港)を訪れ楽しみました。

6か所とも何回か訪れたことのある観光名所、再確認しながら散策観光しました。

柳川と門司港は観光客で賑わっていましたが他の観光名所は少なく寂しく感じました。




 





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百六十六弾:福岡篠栗八十八ヶ所霊場巡り観光
2019年2月16−17日
 

九州の福岡に足を運び福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八カ所の札所があり、全国から多くの参拝者が集まります。 南蔵院 (Nanzoin)を総本寺とする 篠栗霊場とも言われます。唐から帰国した弘法大師(空海)が修行した霊験あらたかな土地で、1835年 この地を訪れた尼僧慈忍が八十八カ所の創設を発願したのが始まりと言われています篠栗八十八ヶ所霊場の43か所を訪れました。

16日14:05新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:33博多駅到達、駅前のホテルに向かう。
18:30博多駅で友人と待ち合わせ駅前のレストランで食事を済ませる。
21:30友人と別れて22:00ホテル到着就寝。
17日8:00レンタカーで出発、篠栗方面に向かう。
8:30篠栗到達、霊場巡り。

平原観音堂:

丸尾観音堂:

岡部薬師堂:

金剛の滝観音堂:

切幡寺:

荒田阿弥陀堂:

薬師太寺:

荒田観音堂:

荒田阿弥陀堂:

薬師大寺:

天狗岩吉祥寺:

千手院:

三角寺:

中の河内仏木寺:

中の河内虚空蔵堂:

中の河内観音堂:

岡部薬師堂:

田ノ浦阿弥陀造:

田ノ浦観音堂:

田ノ浦薬師堂:

田ノ浦斐玉堂:

田ノ浦栄福堂:

桐の木谷薬師堂:

桐の木谷阿弥陀堂:

桐の木谷大日堂:

本明寺:

山王釈迦堂:

中河内地蔵堂:

二の滝寺:

山手薬師堂:

秀善寺:

一の滝寺:

小浦薬師堂:

大久保薬師寺:

大久保観音堂:

千鶴寺:

祖聖大寺:

郷の原薬師堂:

郷の原地蔵堂:

宝山寺:

紅葉が滝薬師堂:

二瀬川観音寺:

山手阿弥陀堂:

17:00終了、博多駅に向かう。
17:30博多駅到達。
18:19博多駅新幹線のぞみで出発。
20:54新大阪駅到達。

今回の旅行福岡県に点在する篠栗八十八ヶ所の43か所を訪れ楽しみました。
比較的小ぶりですが、しっかり整備しており、案内板も数多くありわかりやすく、又個々の霊場の間隔が少なく集中しており短時間で多くの霊場を巡ることができました。八十八ヶ所巡りの入門コースです。


























飛行機で国内&海外の観光地巡り第四百十九弾:福岡県九州四十九院薬師巡礼観光
2018年1月13日−14日
 

九州の最大の都市のある福岡県に足を運び、古来、九州は大陸との交易の窓口であり、早くから我が国にもたらされた薬師信仰も、九州各地に深く寝ずいている。全行程1600キロ、九州七県にまたがる薬師霊場巡りは、大自然の生気を吸収して心身ともに癒される旅、九州四十九院薬師巡礼の福岡県に点在する霊場8か所を訪れました。

13日17:42新大阪新幹線のぞみで出発
20:10博多駅到達、駅前のホテル到着後?華街を散策し食事を済ませて就寝。
14日  8:00レンタカーで出発、霊場巡り

国分寺:奈良時代、天平13年(741年)聖武天皇は、仏教による地方政治の安定と、文化の交流をはかるため、国ごとに国分寺と国分尼寺の建立を命じられました。この一連の流れに従い、当寺も、筑前の国の国分寺として創立されました。
当初は、絢燭豪華を極める大寺院で、その広大さは現在境内にのこる、大きな柱の礎石にも、容易にうかがい知ることができます。

その後、歴史の流れに従い数々の兵火により、本堂はおろか堂・坊舎まで焼かれ、ほとんど廃絶に近いまで荒廃していた時代もあったとか...

たまたま武蔵の国から来られた、廻国の修行僧が、形ばかりの草堂を再建した。
その後、数十年を経て元文年間(1736年)に中興の師、俊了、国中に浄財を募って小堂を建立した。

天明年間(1781年)に至り、僧・忍龍、山門を修理する傍ら、福岡黒田藩の長老・黒田美作より田地の寄付を受け寺の財産とする。

明治24年(1891年)中興一世・原 崇寿・本堂を再建し、坊舎を修繕しようやく一寺としての体裁を備うるようになった。

その後、二世・原 寿海・三世 原 法仙(尼僧)と住職を引き継ぎ昭和27年(1952年)3月 壇徒総代の絶大な協力のもと、台風と白蟻の被害に荒れる本堂を国庫の補助を受けて、大修理を行った。

四世・原 善信は、昭和27年(1952年)7月、母、法仙より住職としての業務を引き継ぎ。
昭和36年(1961年)6月、重要文化財である薬師如来を、火災から完全に守るため、壇信徒の支援を得て、その収蔵庫を完成させ万全を期した。
また、昭和49年(1974年)には、講堂兼庫裏50坪を改築し、壇信徒の集会等の場所を提供した。
なお、前記昭和27年住職の業務を引き継いでから、平成6年(1994年)7月人寂までの間、よく布教の拡大に勉め、納骨堂7堂を建立したほか、斎場兼納骨堂として新館四階建てを建立し、今日にいたっている。

南林寺:桓武天皇の命により、時の比叡山の僧最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)は藤原葛麿を長とした遣唐使の一行として、筑前国那の津(博多港:一説には平戸)から船出した。
途中暴風雨のため入唐断念を余儀なくされた。しかし、最澄は「無事に唐の国に渡ることが出たら、お礼に仏像を刻み、寺を建立し衆生を救うため一生を捧げます。」と祈って無事に唐の国に到着した。
翌年帰国後、最澄は誓願を果たすために筑前の山々を訪ね、夜須郡の白山(現在の朝倉市秋月古処山)の麓で霊木を見出し、七体の薬師像を一刀三礼して謹刻され開眼供養を行った。最初の一体を秋月に安置する予定であったが一夜にして七体の仏様は無くなってしまったのである。

最澄は仏のお告げにより上座郡長洲(朝倉市長洲)に最初の一体を見つけその地に南林寺を建立した。大同元年(西暦806年)のことである。

安国寺:

種因寺:『桂川町史』には、比叡山延暦寺末、弘仁元年(810)伝教大師が開基した。本尊に薬師如来を安置、説に伝教大師が謹刻した七仏薬師の一つであるという。
以来、職盛して大伽藍を有した。古図によると本堂・回廊・楼門・五重塔・鐘楼・仁王門・御供屋などが建ち並ぶ堂々たる構えであった。

こうした大伽藍も、戦国時代に大友宗麟と島津貴久の兵火に擢災。暦応2年(1339)8月、霊山という僧が中興したとあるのは、元号の間違いか、元禄9年(1696)崇福寺古外が撰した縁起一巻を蔵す。

薬師院:

福聚寺:

相円寺::御本尊の薬師如来は、行基作と伝えられている高さ272cmの木造坐像です。山の上の鍾乳洞の中の本堂に安置されています。

本堂まではダム脇の参道を歩き、250余段の石段を登らなければならず、九州四十九院薬師霊場の中で最も難所だと言われていますが、参道脇の数多のお地蔵様を見ることができ、本堂前から見下ろすたっぷりとした水をたたえたダムを抱く景観は、参拝なさった多くの方々に好評です。

4月上旬には境内や寺院周辺の桜、6月下旬から7月上旬にはあじさいが目を楽しませてくれます。

国分寺:豊前国分寺は天平13年(741年)、聖武天皇が天下泰平と鎮護国家の祈願を込め建立を命じた寺院で、全国68箇所(66国と2島)に建立された「国分寺」の一つであり、境内地は、昭和51年(1976年)に国指定史跡に指定されています。

豊前国分寺のシンボルといえる三重塔は、明治29年(1896年)に建立されたもので、昭和32年(1957年)に福岡県の有形文化財に指定され、昭和60年(1985年)に全面解体修理が行われました。

17:00終了、博多駅に向かう。
18:10博多駅到達。
18:33博多駅新幹線のぞみで出発
21:01新大阪駅到達

今回の旅行、九州福岡県に足を運び、福岡県に点在する九州四十九院薬師霊場8か所を訪れたのしみました。
大都会福岡博多ですが郊外に出ると田園風景、見渡す限り田んぼ、畑でいっぱい、田舎を感じます。その中に点在している霊場、車での移動も含めて癒されました。











 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百六十七弾:福岡県篠栗八十八箇所巡り観光
2016年7月23−24日

南の九州福岡県に足を運び、今から千二百年前にお大師様(弘法大師空海)が、真言密教を悟り唐の国(中国)より帰ってきた際に、若杉山(奥の院)を訪れ、加持修法によって人々を救済した地で新四国霊場の一つである篠栗八十八箇所めぐり第二弾篠栗地方に点在する11か所を巡りました。

23日21:26新大阪新幹線のぞみで出発
23:56博多駅到達、駅前のホテルで就寝。
24日10:00講演会出席
12:00講演会終了
12:15懇親会
13:00終了
JRで篠栗方面に向かう。
14:00城戸南蔵院前駅到達、霊場巡り

城戸千手観音堂:

城戸大日堂:

城戸病奪り薬師堂:

田ノ浦排師堂:

城戸釈迦堂:

城戸文殊堂:

南蔵堂:

城戸ノ滝不動堂:

神変寺:

松ヶ瀬地蔵堂:

松ヶ瀬阿弥陀堂:

17:00霊場巡り終了、タクシーで博多駅に向かう。
18:30博多駅新幹線のぞみで出発
21:05新大阪駅到達。

今回の旅行、博多で講演会に出席後、午後から篠栗方面の霊場11か所を歩いて巡りました。
小ぶりですが立派な霊場が多く、訪れる人も多く賑わい活気に満ちていました。

 










飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百五十弾:福岡県九州八十八ヶ所巡り&篠栗八十八ヶ所巡り観光
2016年3月5ー6日

南の九州に足を運び、福岡県を訪れ、九州八十八ヶ所10箇所、観光客を含めると年間百万人が訪れ、霊跡の地に創られた新四国霊場の一つである篠栗八十八ヶ所37箇所を巡りました。

篠栗八十八ヶ所:福岡県糟屋郡篠栗町に広がる景勝地に八十八カ所の札所があり、全国から多くの参拝者が集まります。 南蔵院を総本寺とする 篠栗霊場とも言われます。
唐から帰国した弘法大師(空海)が修行した霊験あらたかな土地で、1835年この地を訪れた尼僧慈忍が八十八カ所の創設を発願したのが始まりと言われています。

5日13:42新大阪駅新幹線のぞみで出発
16:11博多駅到達、レンタカーで霊場巡り。

海心寺: 津東山海心寺(シントウザン カイシンジ)は福岡県福津市にある高野山真言宗のお寺です。開祖 海範和尚により旧津屋崎町東町に草堂を建立し、高野山本覚院より弘法大師像を勧請し本尊としたのが始まり。 その後、二世 勉(ベン)和尚にて信貴山より毘沙門天を勧請され、現在の地に毘沙門天堂が建立されました。いまでは旧津屋崎町東町のお堂を「海心寺奥の院」 宮司のお堂を「毘沙門さん」として地域の皆様に親しまれております。

鎮国寺:長安の青龍寺で恵果和尚から密教の秘法を授かり、大同元年(806)にご帰朝された弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号されました。
宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められ、「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王様のお蔭に他ならず」と謹刻された不動明王立像は、現在護摩堂に安置され、霊験あらたかで遠近から篤い参詣が絶えません。
 境内は一年を通じて色とりどりの風景を楽しむことができます。正月から早咲きの淡紅梅が、2月には早咲きの桜も開花し、梅と桜の競演が楽しめます。4月は約40種類の桜が次々と咲き乱れ、ツツジやシャクナゲも境内を一層賑やかに彩ります。アジサイ、花蓮、彼岸花と続き、秋の紅葉は11月末から12月初旬が見頃です。

鎮国寺奥の院:長安の青龍寺で恵果和尚から密教の秘法を授かり、大同元年(806)にご帰朝された弘法大師は、先ず宗像大社に礼参されました。その時、屏風山に瑞雲棚引くのを見られ、奥の院岩窟にて修法され、「この地こそ鎮護国家の根本道場たるべき霊地」とのお告げをこうむり、一宇を建立し屏風山鎮国寺と号されました。
宗像三柱の御本地仏として、大日如来、釈迦如来、薬師如来の三尊を刻み、本尊と定められ、「真言秘密の大法を伝え得たるは、危難をお救い下さった不動明王様のお蔭に他ならず」と謹刻された不動明王立像は、現在護摩堂に安置され、霊験あらたかで遠近から篤い参詣が絶えません。
 境内は一年を通じて色とりどりの風景を楽しむことができます。正月から早咲きの淡紅梅が、2月には早咲きの桜も開花し、梅と桜の競演が楽しめます。4月は約40種類の桜が次々と咲き乱れ、ツツジやシャクナゲも境内を一層賑やかに彩ります。アジサイ、花蓮、彼岸花と続き、秋の紅葉は11月末から12月初旬が見頃です。

18:30宗像付近のホテル到着し食事を済ませて就寝。

7:00レンタカーで出発、霊場巡り。

宗像観音寺:宗像観音寺は宗像大社の包括に有り、閑静な住宅地で、国道3号線バイパス光岡の信号を北へ入りJR尾園踏切手前約30m位の場所を左折した所にあります。 開基の因は昭和28年に全海僧が外国航海中に度々夢の中に聖観音像が現れ当地に祭るようになり、時を経て全海僧の勧めもあって、妻和子も仏門に帰依して“光染尼”と改名し、現在住職を務めています。
昭和55年高野山の承認を得て、寺号を戴き宗像観音寺となり、平成7年9月本堂を建立。当寺境内には九州二十四地蔵3番札所一言地蔵尊・薬師如来・十三仏像・修行大師像・聖観音像等を祭っております。

観音寺:当地は、もとは鷲尾山といわれ、山頂の鷲尾神社(西暦十二年創建)の別当坊「東林寺」(天台宗、八五九年開創)があった。寛永十一年(一六三四年)黒田二代 藩主忠之公、幕府より謀反の疑惑(黒田騒動、日本三大騒動の一つ)を受け愛宕神に祈願したところ、ほどなく嫌疑が晴れたことから、山頂に愛宕神社を開創 し、別当坊「円満寺」(真言宗)を置いた。同年九月博多東長寺中興・快周大和尚導師のもと御遷座大法要が修行された。
以後、歴代藩主の御祈願所として信仰を集め山岳信仰の拠点として隆盛を極めた。明治三十四年(一九〇一年)の神仏分離令により「東林寺」は「円満寺」 とともに廃寺となり当地に観音堂を残こした。愛宕大権現の本地佛、御本尊勝軍地蔵尊は、この観音堂に迎えた。数々の苦難のたびに出現され奇跡を起こし、難 なく乗り越えられた御本尊様は、「諸難を除く愛宕権現」と詠われ、熱心な信仰を集め、特に、御百度参りや毎月の御1日(おついたち)参り、二十四日の(御 本尊縁日)には多数の信者で賑う。バスの参拝は山頂でバスを降りて階段を下り、参拝の間、バスは山を下り階下に移動して出発するのが便利。

法蔵寺:ベットタウン化する姪ノ浜の地において、高層マンションが立ち並び福岡市の中心になりつつある西区の中で、一歩旧道に入ると昔ながらの町並みが残る。この町並みの一郭に法蔵院がたたずんでいる。昭和初期 開山瑞光尼より建立された当寺は、今では霊場開創の祖と言われる。「
第三世覚誠和尚の誓願」であった「九州の地に八十八ヶ所を開創」し、人々に癒しと心のよりどころの地として、教えを伝承し たくさんの巡礼者をおまちしています。

誓願寺:創建安元元年(1175年)落慶法要導師栄西(開山)本尊は阿弥陀如来、但し誓願寺奥の院は毘沙門天裏山、毘沙門山といい「今津の毘沙門さん」 として、近郷に流布している。最盛期は1山42坊ありましたが、現在は大泉坊のみ現存してます栄西筆「誓願寺盂蘭盆一品経縁起」は国宝その他重要文化財等数多くありますが、国立博物館に寄託中です。 歴史は少々ありますが、お寺自体は質素で「心安らぐ境内」と好む人もボチボチいます

千如寺大悲王院:福岡、佐賀両県にまたがる背振山系の雷山(標高955m)の中腹に位置する千如寺は、寺伝によれば仏教公伝前の成務天皇48年(148)にインドの僧清賀上人によって開創されました。 鎌倉時代には、北に玄海灘を臨む位置にあるため、元寇に対する最前線の祈祷寺院として栄へ、最盛期には三百の僧坊があったと伝えられています。
 その後、室町から戦国の長い戦乱の中で、僧坊は荒廃し、千如寺のみを残すのみとなりましたが、宝暦3年(1753)福岡藩主の黒田継高公によって大悲王院が建立されました。  明治維新の神仏分離令により、雷神社の神宮寺であった千如寺は廃寺となり、本尊を始め全ての仏像、古文書等は大悲王院に移され、現在千如寺の法灯は大悲王院によって守り伝えられています。

隆善寺:隆善寺は玄界灘の美しい海と雷山山脈の深い山々に囲まれた“自然豊かな町”、“福岡のベットタウン”という二面性を持った自然と人工の調和した町、前原市にあります。 厄除開運・商売繁昌・病気平癒・学業上達等、種々の御祈祷・御祈願の寺で参拝者が絶えません。 ご本尊将軍地蔵菩薩は諸々の禍や様々な魔に対して、打ち勝たせてくれる地蔵尊です。 その他、境内には修行大師を始め、
十三仏・文殊菩薩わらべ地蔵などを安置しております。またお腹をくぐりご縁を願うカエルもいます

眞光寺:糸島市は、金印伝説で知られる「魏志倭人伝」に記された、伊都国に属し、当寺は 二丈岳(伝、二上山)登山口の一つに位置します。更に当寺周辺(旧糸島郡二丈町)は古 より神仏習合の地として、又、密教興隆の聖地とされていました。
眞光院は、大正年間、福岡県篠栗に開創、後に福岡市簀子町に移り、さらに平成元 年、仏様の導きとこの地へのご縁により当所へ寺院建立致しました。
この眞光院移築に際し、「因縁転化の道場」として大随求菩薩を御本尊にお迎え致 しました。大随求菩薩尊は「いかなる極悪重罪の人をも救い、いかなる願いをも叶え る」とされており、どんな人でも救ってくださるという大慈悲の仏様です。随求さん にお願いすると願い事が叶う、と熱心な参拝者も多くお見えになります。
また、当山鎮守の尊として清瀧大権現をお祀りしております。清瀧権現様は、「因 縁転化秘法」の主尊でもあり所願成就のため力を発揮してくださいます。また諸堂宇 には倶利伽羅不動明王、お綱大明神を奉安しております。
境内からは姫島が海を隔てて正面に見え、夕日が島々を赤く染め海に沈みゆく様は まさに極楽浄土の世界です。また背後の二丈岳からの清水(伏流水)が境内を潤しています。

篠栗方面に向かう。

本明院:

高田虚空蔵堂:

高田阿弥陀堂:

高田観音堂:

高田十一面観音堂:

中町延命寺:

下町薬師堂:

補陀洛寺:第七十九番「補陀洛寺(ふだらくじ)」は篠栗四国霊場の”打ち納め札所”としてJR篠栗駅からすぐの場所に位置する。
御本尊の十一面観世音菩薩は諸病緒難を除き、福徳を授かるといわれている。寺名の「ふだらく」は観世音菩薩の住むという補陀洛山(補陀洛浄土)に由来する。お遍路コースのゴール地点として春秋のお遍路シーズンには多くの参拝者が訪れる。
すぐ近くには旅館とお土産屋も並んでいるのでお遍路さんにとっては便利なお寺だろう。

中町屋島寺:

篠栗公園大日寺:

篠栗恩山寺:

遍照院:明治時代より100年以上の歴史を持つ遍照院。境内には6メートルを超える「修行大師像」が建立されており、この寺院のシンボルとして祀られている。
また、ここでは病気を治してくれるという言い伝えのある「病立切地蔵(やまいたちきりじぞう)」が安置してある。このお地蔵さまは何層にも衣装をまとっているが、ここに来て重い病気が治ったと、お礼の衣装を着せに来る参拝者が後を立たないという。このように県外からの参拝者だけでなくまた、地元の人からの信仰も非常に厚い寺院である。毎月第1日曜日(2・7月以外)午後1時より月例護摩を行っている。

金出大日堂:

珠林寺薬師堂:

金出観音堂:

金出神峰寺:

弘照院:初代住職は、明治35年、針ノ耳親子岩と本尊聖観世音菩薩の霊験にうたれて、札所の小さな庵に入庵して、熱心に布教活動を行なった。大正8年、ご利益を得て子宝に恵まれた夫婦が、子安観音像を奉納され、針ノ耳子安観音として知られるようになり、子宝・安産の仏様として多くの人に信仰されている。もう一つの見所の「十夜ヶ橋(とよがはし)」は、その昔、お大師様が愛媛県大洲地方を訪れた折、その地方はあまりにも貧しく、橋の下で一夜を過された。その夜が十夜のように感じられたことから「十夜ヶ橋」と呼ばれる橋がある。二代目住職が四国巡拝中に感得し、境内に橋を築いて、橋の下にお大師様を勧請した。観音祭は1・7月を除いて毎月18日に行います。また、1月の第4木曜と7月の第2木曜に奥之院参拝、それ以外の月の第2木曜に篠栗参りを行っております。車でお参りし、1年で2周します。初代住職は、明治35年、針ノ耳親子岩と本尊聖観世音菩薩の霊験にうたれて、札所の小さな庵に入庵して、熱心に布教活動を行なった。大正8年、ご利益を得て子宝に恵まれた夫婦が、子安観音像を奉納され、針ノ耳子安観音として知られるようになり、子宝・安産の仏様として多くの人に信仰されている。もう一つの見所の「十夜ヶ橋(とよがはし)」は、その昔、お大師様が愛媛県大洲地方を訪れた折、その地方はあまりにも貧しく、橋の下で一夜を過された。その夜が十夜のように感じられたことから「十夜ヶ橋」と呼ばれる橋がある。二代目住職が四国巡拝中に感得し、境内に橋を築いて、橋の下にお大師様を勧請した。観音祭は1・7月を除いて毎月18日に行います。また、1月の第4木曜と7月の第2木曜に奥之院参拝、それ以外の月の第2木曜に篠栗参りを行っております。車でお参りし、1年で2周します。

妙音寺:

観音坂観音寺:

雷音寺:ここは火伏せのお寺として信仰のある寺院。佐賀にて当時多発していた火災消滅を願って佐賀県の消防団の人たちがお参りを始めたところ、火災が減ったとのことで文化防災デーには毎年参拝しているというほど。また、そのせいかこの寺の住居の屋根下には“これがあると火災が起こらない”と言われる空の大きな蜂の巣があり、広く火伏せの寺として信仰が厚い。ちなみに、この寺名の由来は雷がお釈迦様の説教の音のように聞こえることから「雷音寺」となっているそうだ。毎月第4日曜日に護摩祈願を行っている。

萩尾薬師堂:

萩尾阿弥陀堂:

呑山観音寺:昔から“のみやまさん”の通称で親しまれている霊場「呑山観音寺」。年間の参拝者は100万人を超え、霊験あらたかなお寺としてご利益を求める祈願者が後をたたない。そんな呑山観音寺では年に三つの大きな行事を行っている。3月の第2日曜は「星まつり」では招福開運・商売繁盛を祈る“七福宝銭まき”を行っており、毎年1,500人以上の人でにぎわう。
8月第3日曜には「精霊まつり三大供養会」(流水灌頂会・水子供養万燈会・大施餓鬼会)、10月の第3日曜には千手観音秘法護摩供と大般若経600巻転読による“ご開帳大祈祷会”など大きな行事を行い、信仰を集めている。また、ここの見所としては水子地蔵尊(3,000体以上)や、弘法大師と稲荷大明神が祭られる大師堂と稲荷社などがあり、訪れた際にはぜひ参拝していただきたい。毎月第3日曜日、午前10時半より月例観音護摩法要が行われている。

天王院:もともとは紀州高野山にあった鎌倉時代創建の古刹だったが、明治以降に廃寺となっていたのを昭和48年に、この地に移し再建されたのがこの「天王院」だ。中国から帰国中のお大師さまを海難から救ったという波切不動明王を本尊とし、海上安全、大漁祈願はもとより人生の荒波を鎮めて運を切り開く開運出世の御仏として信仰を集めている。
また、ここの本堂は、篠栗の中でもっとも大きな本堂としても知られ、新緑や紅葉など四季折々の景色を楽しむ参拝者も多い。大きな行事としては、12月の第3土曜の夕方から翌朝にかけて30名の僧侶の介添のもと全国でも珍しい荒行“八千枚不動明王護摩大行”を行っており、篠栗霊場の一年の納め行事として恒例となっている。
また、本堂脇にある愛染堂には恋愛成就の仏様、愛染明王が祀られている。毎月28日、午前10時半より波切不動護摩法要が行われている。

五塔ノ滝観音堂:

大宝寺:鳴淵ダムのふもとに位置する大宝寺。ここは耳鳴平癒祈願の参拝者が多く訪れるお寺。ことのおこりは、ある時、耳鳴りに悩む方が、ここへ日参し、それが治り感謝の気持ちから耳鳴りの鈴が奉納されました。以来、今でも多くの方々がご祈願に参拝されています。また、縁結びのお寺としても有名で、良い縁にめぐり合えなかった参拝者同士がここで出会って結ばれたというなんともおめでたいご縁の寺でもあります。ここでは百萬辺大数珠くりや毎月第三日曜日(2月を除く)には月例護摩祈願祭を行っています。宇宙と自然と観音さまのパワーを授かって下さい。

明石寺:

鳥越観音堂:

山手観音堂:

山手薬師堂:

山王薬師堂:

山王寺:約3メートルの弘法大師坐像を安置する山王寺。これだけ大きな坐像は他に類をみないが、ここでの見所はこれだけではない。大師堂内には映画「無法松の一生」にて坂東妻三郎が実際に使用した人力車が奉納されているのだ。当時北九州からの参拝者であった大森重雄さんから昭和38年に奉納されたもので、過去には石原裕次郎や勝新太郎も使用したという逸話もあり、非常に貴重な人力車である。この他にも、本堂には本尊大日如来像や、本四国より勧請された蔵王権現像を祀っており、ここを訪れた際には一見しておくべきだろう。
毎月第2日曜と28日、午前11時より月例護摩供を行っている

山王釈迦堂:

山王釈迦堂:

山王薬師堂:

延命寺:

篠栗地蔵堂:

17:30博多駅に向かう。
18:35博多駅到達。
18:58博多駅新幹線のぞみで出発。
21:20新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡に足を運び、福岡に点在する九州八十八ヶ所10箇所、篠栗八十八ヶ所37箇所を車で訪れ楽しみました。
九州八十八ヶ所の霊場は比較的立派なお寺が多く、一方篠栗八十八ヶ所の霊場はエリアも狭く、霊場も小ぶりでしたが、ルート、案内板がわかりやすく、駐車場も整備されており、時間のロスもなく巡ることができました。

両方の霊場は位置が集中していてエリアも広くなく、移動に時間がかかりませんでしたので、総霊場47箇所を巡ることが出きました。






















飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百四十弾:四国福岡お城・城下町巡り観光第二弾
2015年12月19ー20日

九州に足を運び九州北部に位置し、古くから中国や朝鮮との貿易を通じて、本州に物資を送り込む拠点、室町時代に大内氏が勢力を拡大するが、やがて大友宗麟が北九州を平定、島津氏の北上に対抗した福岡を訪れ比較的マイナーな10箇所のお城をめぐりました。

19日18:59新大阪新幹線さくらで出発
21:17小倉駅到達、駅前のホテル到着後繁華街散策し食事を済ませて就寝。
20日8:00レンタカーで出発、お城巡り。

門司城:亀城とも。元暦二年(1185)平知盛が源氏との合戦に備え、長門国目代紀井通資が築城の起源との説がある。寛元二年(1244)下総前司親房が平家残党鎮圧の下知奉行として、鎌倉幕府より豊前国代官職に任じられて下向し、門司六ヶ郷と筑前国香椎院内などを拝領した。親房の子孫は地名により門司氏を称し、門司城を本城に領内に足立・吉志・若王子・三角山・金山の5支城を構えてそれぞれ一族が配置された。門司氏はその後およそ350年にわたって北九州の地に続いたものの、南北朝時代には二派に分かれ、門司城には北朝武家方の吉志系門司左近将監親尚が拠り、一方、南朝宮方の伊川系門司若狭守親頼は猿喰城に籠もり内乱の時期を送る(『日本の名城・古城事典』)。

松山城:古記によれば、天平十二年(740)に藤原広嗣によって築城されたと言われ、その後数回の戦乱にみまわれ、何度も城主が変わり、慶長十一年(1606)に廃城になったと伝えられている。
山頂には主郭が、主郭の北側には石垣と石段に続く腰曲輪、二ノ郭との間には石段と石垣が、南には虎口と推測される門の跡がある。三ノ郭からさらに東側には、かつて小城と呼ばれた遺跡があったが、今は土取りのため消滅した。主郭には発掘調査の結果、基壇と礎石をそなえた建物が屋根瓦を葺いて建っていたと推測される。山頂の側面には横堀や竪堀が複雑に確認でき、山頂の遺構から続く土塁が広範囲に広がっている。
松山城跡の全体の構図は主に山頂部の屋根瓦を持つ各郭と門を石段・石垣・横堀が複雑に取り囲んで、さらにその外側には土塁と竪堀が巡らしてあり、まるで松山の半島全体を難攻不落の要塞として造り上げた様子がうかがえる貴重な山城である(『城址案内板』)。


馬ヶ岳城:
京都平野を眼下に一望する豊前の要衝、馬ヶ岳に城が築かれたのは、一説に天慶五年(942)ともいわれるが史料に乏しくはっきりしない。本格的な城の構えができたのは、おそらくもう少し時代が下ってのことであろう。
城の遺構は東西二つの峰を中心に郭が形成され、この西側の峰の平坦地が最も広く本丸跡と考えられる。また東側の峰から北に下る尾根には約
500mにわたる土塁も確認された。
江戸時代に著された軍記物語などには、十四世紀半ばから十五世紀前半にかけて義基、義氏、義高の新田氏三代が在城したことが記されている。南北朝から室町時代を経て豊臣秀吉による九州平定までの動乱の時代、豊前地域をめぐって小弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏などの群雄が覇を競った。この時代に馬ヶ岳城は
香春岳城、苅田町の松山城、添田町の岩石城などとともに戦略上の重要拠点として攻防の舞台となった。

天正十四年(1586)豊臣秀吉が島津氏征討を決めると、馬ヶ岳城主・長野三郎左衛門は秀吉に降った。翌年、遠征軍を率いて自ら九州に上陸した秀吉は小倉城を経て、この城に逗留している。九州平定後、馬ヶ岳城は豊前六郡を与えられた黒田孝高が、拠点を中津に移すまでの居城となった。慶長五年(1600)黒田氏は筑前に移り、豊前は細川忠興の所領となった。このころ馬ヶ岳城も役割を終え長い歴史を閉じた(『城址案内板』)。

城井谷城:
城井谷城(きいだに・★福岡県築上郡築上町大字寒田)は、宇都宮氏が城井谷渓谷の奥に築いて代々居城した。建久七年(1196)、豊前国に地頭職を与えられて下野から宇都宮信房が下向。戦国時代、その子孫の鎮房のころ築かれた。
豊臣秀吉の九州平定のとき、鎮房は秀吉軍として戦功をあげたが、四国への移封を拒否し、一時城を明け渡して他へ移った。その後、城井城代となっていた黒田氏の家臣を追い払って立て籠もった。秀吉は黒田長政らに攻撃させたが敗北する。そこで偽りの講和を結び、当主鎮房を謀殺してしまった。ついで長政は城井谷に攻めよせ、当主を失った城井谷城は落城した。
孝高はこの勇将・城井鎮房を殺害したことを悔いて(中津城に城井鎮房の亡霊が出たためとも)、中津城に城井神社を創建し、その霊を祀ったという


岩石城:
保元3年(1158年)大宰大弐となった平清盛が大庭平三景親に築かせたのが始まりとされる。応保元年(1161年)豊後の日田陸奥守次男の日田判官宗道が在城。文治2年(1186年)からは筑紫三郎種有、筑紫弥平治種因の居城であった。種有は承久の乱で官軍に従って所領を没収され、大友氏の持城となった。暦応元年(1338年)からは大庭十郎左衛門景道、正平19年・貞治3年(1364年)には岩石城に籠もっていた城井出羽守が菊池勢に攻められ落城した。応安元年(1368年)豊前国守護大内氏の任命により熊井右近将監が守った。永徳元年(1381年)頃より大庭平太景忠が城主となったが、この頃より大内氏と大友氏によって争奪戦が繰り広げられたようであるが、景忠以降、景行、景種、景則、景尚と五代続いたとされる。天正6年(1578年)大友氏が耳川合戦で島津氏に大敗を喫すると、天正13年(1585年)秋月種実によって攻められ、坂本栄仙は奮闘むなしく討死して落城した。 天正15年(1587年)4月豊臣秀吉の九州征伐で前田利長・蒲生氏郷が攻め寄せ、わずか一日にして落城。秋月氏の城将熊井越中守は討死した。九州征伐の後、小倉城に入った毛利勝信は毛利九郎右衛門高頼を城将として岩石城に置いた。関ヶ原合戦後に豊前に入封した細川忠興は、長岡肥後守忠尚を城将として置き、元和の一国一城令によって廃城となった。

香春岳城:保元二年(1157)、平清盛が太宰大弐になると、家臣越中次郎兵衛盛次に命じて香春岳山王宮の東に新たな城を築き、鬼岳城(香春岳中腹)と名づけた。平治二年(1160)、清盛が帰任の後は豊後の人緒方惟義・惟時が居城とした。治承二年(1178)には香春庄司孝義、建長年間(124956)には香春判官友義が居城し、弘安年間(127888)の頃には中尾兵部丞が居城した。建武年間(133438)からは、小弐頼尚、その子刑部少輔頼長、その子右馬頭頼光と三代在城している。応永三年(1396)には千手信濃守興房が少弐頼光を滅ぼして居城したが、同五年に至り、大内盛見に攻められ、城を枕に討死した。
その後原田氏が在城したが、天文年間(
153255)、原田五郎義種が大友氏に滅ぼされ、高橋九郎重種が居城した。天正十四年(1587)までは高橋三河守元種が居城したが、豊臣秀吉の先鋒黒田・小早川氏に囲まれ降伏した。慶長年間(15961615)の頃は、細川兵部大輔藤孝の次男中務少輔が居城し、元和元年(1615)の一国一城令により廃城となった。

障子ヶ岳城:
障子ヶ岳城(☆ 福岡県京都郡みやこ町勝山松田)の創建は、建武三年に足利尊氏の命を受けて一族の足利駿河守統氏が築き、豊前の守護となった。応安元年(1368)、千葉上総介光胤が統氏を討ち居城とした。同六年元旦、千葉氏は、慶賀の宴の最中に大内氏の大軍によって攻撃されて落城し、その後、大内氏の抱城となった。一時、千葉氏が奪還したが、長くは続かず滅亡した。天正年間(157392)の初めには小早川隆景の抱城であったが、天正十五年(1587)の九州征伐に際しては豊臣秀吉の宿舎となった。のち、宇都宮氏が叛旗を翻した時、障子ヶ岳城に居城した添田雅楽介一族は宇都宮方についたため、同十七年に廃城となり破却された。
城址は北の味見峠と南の七曲峠との間に位置し、展望がひらけている。


長野城:
保元2年(1157年)平康盛によって築かれたと云われるが定かではない。 平康盛は平時盛の六男で豊前守に任ぜられ下向し長野城を築いて長野氏を名乗ったという。しかし「門司・小倉の古城史」によれば、それ以前に古くよりこの地にいた中原系長野氏による創築とされる。永禄元年(1558年)大内氏を滅ぼした毛利氏は九州にその食指を伸ばし門司城を攻略する。これによって長野氏も毛利氏に属した。永禄2年(1559年)大友義鎮は門司城を攻め一時奪還するも毛利水軍に補給路を断たれ再び毛利氏に奪われる。永禄4年(1561年)大友氏は再び九州北部に侵攻し門司城を巡って毛利氏と対峙したが敗北し、永禄7年(1564年)毛利氏と大友氏は和睦することとなる。この和睦の条件として門司城は毛利氏の持城とし毛利軍は九州より撤退することとなる。この和睦により大友氏は長野氏に対して長野城の明け渡しを要求したが、長野氏は門司城の支配下にあるとして明け渡しを拒否したため、永禄8年(1565年)大友氏は長野氏討伐の軍を向け長野氏の諸城を攻め落とし長野氏は大友氏に降った。

花尾城:「筑前国続風土記」によると、建久五年(1194)、宇都宮上野介重業が築いたとあります。
文明十年(1478)、大内氏は、麻生氏の家督相続に介入、麻生近江守家延の籠る花尾城を内藤・問田氏ら3万余で攻め寄せ落城させました。
天正一四年(1586)、秀吉の九州平定の時、麻生家氏は降伏し、花尾城は小早川隆景の番城となったと思われます。

山鹿城:
築城年代は定かではないが山鹿氏によって築かれたといわれる。その後、宇都宮信公、天正年間(1573年〜1592年)には桃井右近が城主であったが、桃井氏の時、大友氏によって攻撃され落城したという。


15:00小倉駅に向かう。
16:00小倉駅到達。
16:05小倉駅新幹線のぞみで出発。
18:35新大阪到達。
今回の旅行、九州福岡県に足を運び、比較的マイナーなお城10箇所を巡りました。

見つけるのに難解なお城が多く、ほとんどが山城でした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第三百弾:九州八十八箇所巡り第一弾  2015年2月7−8日 

日本の最西端九州に足を運び、弘法大師が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地の八十八箇所百八霊場23箇所を巡りました。

7日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
16:14博多駅到達。レンタカーで霊場めぐり。

東長寺:大同元年806唐から帰国した弘法大師の創建と言われ、寺宝の木造 千手観音立像は国指定の重要文化財である。境内には仙腰a尚せんがいおしょう や当時の有名人の白筆書画が残る六角堂の建物、 2代藩主黒田忠之ただゆき、3代藩主光之みつゆきの墓がある。

般若寺:宝永4年1707、 立花実山たちばなじつざんが主君三代藩主黒田光之の死後即剃髪、住吉に松月庵を結びそこに入る。 東林寺 のパンフレットによると、同寺の末寺とある。 場所は博多区住吉の住吉神社境内北側にあったと思われるが定かではない。 後述する。 夢遊典 によると博多駅の移転に伴う新幹線の開通を受けて、 昭和39年1964に福岡市南区(現在の地)に移転。その後般若院と改名。

18:10久留米駅付近のホテル到着後周囲を散策食事を済ませて就寝。
8日7:30レンタカーで出発、霊場めぐり。

光明寺:石造九重塔が2基あり、1基は江戸期のもの(西塔)、 もう1基(東塔)は安元元年1175、平重盛建立と伝えられているが、 少し後の鎌倉中期頃の作と考えられているという(福岡県文化財)。 仁王門の仁王像は鎌倉期の仏師運慶の子湛慶たんけい作と伝わる。 江戸期に二度再建されたという。
境内の案内板によれば、 本堂内には木造十王坐像もくぞうじゅうおうざぞう・ 木造葬頭河婆坐像そうずおごうのばばあざぞうが安置されているという。 仁王像と併せて筑後市の指定文化財となっているという。

不動寺:明王院にある養老ヶ滝は、インドの高僧、善無畏ぜんむいが開いた約1300年の歴史を持つ滝である。 弘法大師、伝教大師、慈覚大師もこの滝に訪れたという。 その後、若杉山の修験道の根本道場として栄えたという。 時は流れいつの日か荒廃。 明治38年1905、盲目の僧、P無染師により再建され、現在に至るという。

大日寺:建物の玄関先には大日如来の石造が鎮座。 本堂は玄関を入って階段を登った二階部分にある。 本堂内には御本尊の大日如来像が中央。向って左右に薬師如来像弘法大師像が安置されている。 薬師如来像のさらに左手には怖いお顔をされている不動明王も立っておられる。 本堂裏手には広い駐車場・トイレも完備されている。 そこからは、筑後川の堤防の先に耳納連山を眺めることができる

龍王院:境内は広大な敷地となっている。 山門左脇には、出世稲荷大明神。右脇には不動明王。 広大な駐車場あり。 本堂は鉄筋コンクリート造りである。 本堂に向って右手奥にはお滝場へ下る道があり、坂を下ると多数の石仏の先にお滝場がある。

不動院:当院の開山である瑞光尼の座像も檀信徒の希望により本堂脇に安置しております。又、お大師様のお華「華道高野山」を多くの方にたずさわって頂く為に華道教室も設けています。

浄心院:浄心院は開山の浄心法尼が、当地において不動尊を感得しその霊験により創建されました。「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)つまり神・仏ともに祭祀する寺院です。内陣には身代わり不動・大日如来・釈迦如来などを安置しています。稲荷大明神は弘法大師空海も信仰した神であり、これも浄心法尼が神託によって本堂内に勧請したものです。商売繁昌・所願成就の神様で、二月の初午に初午大祭が行われています

大師寺:大正の初期に当地信者の要請により、 和歌山県高野山福智院の水本坊より本尊をはじめその脇仏等一切、当地に移転してきたのがはじまりの由。

明王寺:日田市のJR久大線日田駅にほど近いところに伽藍を構えている。門前の道を100mほど北に進むと豆田の古い町並みがある。

南琳寺:延暦23年804比叡山の僧最澄さいちょう(伝教大師)は、 仏教興隆のため、僧空海くうかい(弘法大師)と共に、留学僧として渡唐された。 途中航海の平穏を祈って、七仏薬師謹刻の大誓願を立てられた。
帰朝後九州に下り、祈願を果たすべく霊木を求め白山はくさん(秋月古処山)に至り、 榧の木をもって一刀三礼して七体の薬師仏を彫刻され、その■一番の尊像を本尊として、 大同元年8064月6日、長淵(朝倉町)の地に天台宗医王山いおうざん南林寺を建立された。

興徳院:興徳院は秋月・古処山に源を発し筑後川に流れ込む小石原川沿いに伽藍を構えている。 すぐ近くは甘木鉄道線・西鉄甘木線の終点の甘木駅がある。 2012-06-13に参拝。本堂内は信徒さんたちでいっぱいであった。

如意輪寺:天平年間729-748孝謙天皇の勅願により、行基が開いたお寺。 本尊の如意輪観音は全国でも珍しい立像で、行基が勅を奉じて一刀三礼を以て刻んだ希有の名作であり、福岡県の重要文化財に指定されている。 天正14年(1586)島津侵攻の際に兵火によって一時は廃寺となるが、 久留米藩主有馬忠頼によって伽藍が建てられ、また松崎伊予守も祈祷所として崇拝するようになり再興をはたしたという。

隆照寺:隆照寺は、四王寺山の北側の麓の坂の上に伽藍を構えている。 寺前は住宅地となっており、境内からは若杉山・宝満山を一望できる。

明王院:明王院にある養老ヶ滝は、インドの高僧、善無畏ぜんむいが開いた約1300年の歴史を持つ滝である。 弘法大師、伝教大師、慈覚大師もこの滝に訪れたという。 その後、若杉山の修験道の根本道場として栄えたという。 時は流れいつの日か荒廃。 明治38年1905、盲目の僧、P無染師により再建され、現在に至るという。

金剛頂院:大同元年806唐よりご帰朝した弘法大師が、 博多逗留のおり、 当若杉山に登り庵を結んだ地という。 かつては、百八僧坊を構え金堂・宝塔・宝蔵・鐘楼などの諸堂が甍を並べるほどに隆盛を極めていた。 この地には伝教大師を始め多くの高僧が訪れた。 当時、金剛頂院のある若杉山は右谷・左谷に分かれて三百の僧坊が建ち並んでいたといわれるが、 貞和3年1347山内に戦乱が起こり、聖地は焦土化す。 現在の金剛頂院は昭和17年1942に再建されたものという。

正法寺:正法寺は飯塚市の天道駅に程近い交差点の脇に伽藍を構えている。 寺前はかなりの交通量である。寺内はカエルの置物が多数安置されている。 (「カエル部屋」には2000体のカエルが安置されているようである。)正法寺前より数十メートルの所には三菱飯塚炭鉱の遺跡(下写真参照)も見ることができる。

金倉寺:金倉寺は堀池の集落の貴船神社の裏手に伽藍を構えている。 そのすぐ東側は旧長崎街道である。
本堂前の不動明王様は怖いお顔をされているが、どこかやさしさと親しみを感じさせるお顔である。

明観寺:今を去ること1200年、 宗祖弘法大師が渡唐され、西安青龍寺、恵果和尚を師として密教の奥義を極め帰国御真言宗を開かれました。昭和53年当山住職が訪中青龍寺遺跡発掘現場より出土品を頂戴し、その一部の瓦を明観寺本堂に奉埋致しました。寺内に展示してありますのが青龍寺遺跡の出土品で、日本でも稀有の有難い品です。

法善寺:法善寺はJR新飯塚駅の裏手に伽藍を構えている。 明星保育園が併設されている。 山門前は水路が流れ、石橋を渡って山門をくぐる。

西教院: 創建は天暦4年920に願成法印が村の疫病を鎮める為に、 当地に草庵を結び十一面観音を安置した事に始まるという。

東蓮寺:東蓮寺はJR直方駅の南西の丘の上に伽藍を構えている。 この直方には『筑前國続風土記』に記載されているように福岡藩の支藩であった東蓮寺藩があり、その名の由来もこの付近に東蓮寺があったことによるという。

善覚寺:善覚寺は木屋瀬から赤間に向かう旧赤間道の少し北側の高台に伽藍を構えている。 境内には多数の石像があり、そのひとつひとつに名前が表示されている。 本堂前の十二神将像は表情豊かである。 また、納骨堂裏手の不動明王像はすごく派手で見ものである。

18:00博多駅到達。
18:29博多駅新幹線のぞみで出発
20:58新大阪駅到達。

今回の旅行、最西端九州に足を運び、弘法大師が唐から帰国し、都に上洛するまでのあいだ長く滞在されたゆかりの地の八十八箇所百八霊場の23箇所を巡り楽しみました。

小粒の寺院が殆どで険しい山の上のお寺のなく、スムーズに訪れることが出来ました。

今後5−6回に分けて訪れ制覇したいと思います。















飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百六十七弾:福岡県お城&城下町巡り第一弾
2014年3月15−16日
 

九州北部に位置し、古くから中国や朝鮮との貿易を通して、本州に物資を送り込む拠点で、室町時代に大内氏が勢力を拡大するが、やがて大友宗麟が北九州を平定、島津氏の北上に対抗した福岡県に足を運び、福岡県内のお城&城下町(11か所)を巡りました。

15日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
16:14博多駅到達、レンタカーでお城めぐり。

名島城:天文年間(1532年〜1555年)立花鑑載によって築かれた。 天正15年(1587年)小早川隆景が筑前一国と筑後、肥前の一部で五十二万数千石を領すると新しく改修した。改修に際しては豊臣秀吉も設計に関わったと言われる。 関ヶ原合戦の後に筑前一国で入部した黒田長政が慶長5年に入城したが慶長7年福岡城を築いて移り廃城となった。 三方を海で囲まれたこの地は水軍を重要視する小早川隆景には優れた土地であったが一国の中心として城下を築くには手狭であった。

立花城:築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1336年)大友貞範によって築かれたと云われる。 大友貞範は豊後国大友氏6代貞宗の子で立花に入部して立花氏を名乗った。永禄11年(1568年)立花鑑範は安芸国毛利氏に通じて大友氏に反旗を翻した。これに対して大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)を将として大軍を送り、三ヶ月に及ぶ攻防の末に落とし、立花鑑範は自刃した。 その後も大友氏と毛利氏の間で争奪戦が繰り広げられたが元亀元年(1570年)大友氏の支配となり、翌2年に戸次鑑連が立花山城主となった。戸次鑑連の養子なった立花宗茂は島津氏の大軍に対して立花山城を守り抜き、天正15年(1587年)筑後国柳河に移封となった。 替わって入部した小早川隆景は名島城を居城とし、浦宗勝を城代として置いた。 慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後に黒田長政が豊前国中津から入部すると廃城となった。

18:30博多駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
16日6:15レンタカーで出発、お城めぐり。

元寇防塁:
建治2年(1276年)鎌倉幕府が九州の御家人に命じて築かれた。 文永11年(1274年)元によって侵攻された鎌倉幕府が、元の再侵攻に備え海岸線に石の防塁を築かせた。現在元寇防塁と呼ばれる防塁は当時は『石築地(いしついじ)』と呼ばれていた。 弘安4年(1281年)に再侵攻してきた元軍は防塁の築かれた博多湾からは上陸することができなかった。九州の御家人は各国ごとに割り当てられた区画があり、所領に応じて防塁を築く長さが決められていた。今宿の元寇防塁は今山の麓から長垂山の麓まで約2.2kmに渡って築かれ、豊前国の御家人が分担した。

柑子ヶ岳城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)頃に大友宗麟によって築かれたと云われる。豊後の大友氏が筑前の志摩地方の拠点として築いたのが柑子岳城で、大友氏一族の臼杵新助鎮続が志摩郡代を兼ねて柑子岳城に入った。永禄11年(1568年)鎮続が宝満山城の高橋鑑種を攻めて大宰府へ出陣した隙に、高祖山城主の原田隆種に攻められ柑子岳城は奪われたが、急遽引き返した鎮続は激戦の末に取り戻している。元亀2年(1571年)鎮続は城代を辞して豊後へ戻ると、後任として臼杵鎮氏が城代となった。元亀3年(1572年)臼杵鎮氏は今津毘沙門天を参拝した原田了栄を待ち伏せして襲撃したが失敗した。同年原田氏と臼杵鎮氏は池田河原で戦い、臼杵氏は敗れて鎮氏は泊城へ逃れる途中、平等寺で自刃した。その後、再び臼杵鎮続と木付鑑実が城代として柑子岳城へ入った。天正7年(1579年)原田氏の攻撃を受けた木付鑑実は柑子岳城に籠城して立花山城に援軍を求めたが、支えきれずに立花山城へ逃れ、柑子岳城は原田氏の手に落ちた。天正14年(1586年)豊臣秀吉の九州征伐の後、原田氏は加藤清正に従って肥後へ移り、柑子岳城は廃城となった

高祖山城:建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は怡土城の一部を利用して築かれている。 原田氏の祖は古処山城秋月氏と同じく藤原純友の乱で名を馳せた大蔵春実であり、大蔵氏は漢の高祖の子孫で阿知使主の末裔と伝わる。 原田氏ははじめ大内氏、陶晴賢謀反後は毛利氏、ついで島津氏と結び反大友勢力としてこの地に根付いていた。 しかし、豊臣秀吉の九州征伐によって落城し廃城となった。 原田氏はその後、加藤清正や寺沢広高らに仕えたが最終的には保科正之に仕えた。

岩屋城:築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に高橋鑑種によって築かれたと云われる。高橋鑑種は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めた。高橋鑑種は武勇に優れた武将であったが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏を離反して毛利氏に付いた。しかし、永禄12年(1569年)毛利氏は山陰で尼子残党が挙兵したこともあって九州から撤退する。これにより後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏に降り、鑑種は高橋家の家督を剥奪された。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)が家督を継いだ。天正14年(1586年)薩摩の島津氏が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋統増が筑紫氏の家臣とともに籠城した。 岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死した。その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、天正15年(1587年)破却された。

水城城:天智天皇3年(664年)に築かれた水城は大宰府の入口、大野城の南西の麓に築かれている。 水城のある場所は現在でも国道3号線、鹿児島本線、九州自動車道など九州の主要幹線が集まる要衝の地である。水城は基底部の幅80m最高13mの土塁、その北側に幅60m深さ4mの濠を設け、この濠へ流し込む水は南側の大宰府方面から木樋と呼ばれる水路を通して送られていた。


久留米城:築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)に在地の土豪によって築かれた篠原城がはじまりと云われる。本郭的な築城は天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐の後、筑後国御井・上妻・三潴三郡を七万五千石を与えられた小早川秀包によるものである。秀包は安芸の毛利元就の九男で、兄である小早川隆景の養子となって小早川秀包とも名乗っていたが、文禄3年(1594年)小早川隆景が豊臣秀吉の養子である木下秀俊(後の小早川秀秋)を養子に迎えたことにより別家をたてることになり、後に毛利姓に復姓している。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で毛利秀包は西軍に属して戦ったが敗れ、わずかな兵力しかいなかった久留米城は黒田孝高や鍋島直茂などに攻められ開城勧告に応じて開城された。毛利秀包は戦後改易となり、代わって三河国岡崎から田中吉政が筑後一国で柳河城に入封し、久留米城は支城として嫡子吉信が入った。元和6年(1620年)田中忠政が嫡子なく除封されると丹波国福知山から有馬豊氏が二十一万六千石で入封し以後明治に至る。

発心城:天正5年(1577年)草野家清によって築かれた。草野氏は筑後国の国司として勢力を持っており戦国期には大友氏に属していたが天正5年(1577年)大友氏が耳川合戦に敗北すると龍造寺氏に寝返り発心城を築き大友氏の攻撃に耐えた。天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐で清家は秀吉に誘殺され草野氏は滅びた。

猫尾城:築城年代は諸説あるが仁安2年(1167年)大蔵大輔源助能によって築かれた説が有力とされる。 助能は徳大寺家の請いによって瀬高荘を管理する為、大隅国根智目(根占)から筑後国上妻郡黒木郷に移り築城したという。この末裔が黒木氏を称し大友氏に属していたが、家永の時に龍造寺氏に従った為、天正12年(1584年)大友宗鱗によって攻められ落城、黒木氏は滅ぼされた。柳河城に田中吉政が入封すると家臣辻勘兵衛が城代となったが元和の一国一城令によって廃城となったという。

益富城:築城年代は定かではないが永享年間(1429年〜1441年)初頭に大内盛見によって築かれたと云われる。その後は大内氏・大友氏などによって争奪戦が繰り広げられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では豊臣軍がわずか一日で岩石城を落とすと、益富城に籠もっていた秋月種実は益富城を破却して古処山城に逃れた。秀吉は付近の人々に命じてかがり火を焚き、さらに障子や戸板を集めて城を修復したように見せかけ、いわゆる「一夜城」を築いて古処山城に籠もる秋月父子を驚かせた。これを見た秋月種実は剃髪して家督を種長に譲り「楢柴」の茶器を秀吉に献上して降伏した。秀吉は村人に華文刺縫陣羽織と佩刀を与え永代貢税を免除したという。関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして後藤又兵衛基次に一万六千石を与えて城主としたが、慶長11年(1606年)に基次が逐電すると、鷹取山城より母里太兵衛友信が移った。元和の一国一城令によって廃城となった。

18:00博多駅到着。
18:55博多駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡県に足を運び、比較的マイナーなお城11か所巡り散策してきました。
皆が城跡で位置を確認するのが一苦労しました。
次回残り10か所の福岡県のお城を巡る予定です。











 
飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百二十一弾:福岡県小倉沖玄界灘離島巡り
2013年1月19ー20日


九州福岡県の九州の玄関口として重要な拠点とされてきた町、江戸時代には豊前小倉藩を細川氏と小笠原氏が始め、多いに栄えた小倉に足を運び、小倉から北10−20km沖にある藍島と馬島を訪れました。

19日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
15:56小倉駅到達、駅付近のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。
20日9:00小倉港渡船で出発藍島に向かう。
9:35藍島到達、散策。

世帯数約100、人口約300人の小さな島です。民宿も数軒あるようです。江戸時代には密貿易船を見張る、見張番所が置かれていて、密貿易船を見つけると大きな旗を掲げて小倉の番所に知らせたという石の旗柱台が残っています。この藍島は全体がフラットであり、高い山はなく道もアップ・ダウンが少なく歩き易いですね。島南端と北端の景色は良く、南端には砂浜も少しばかりあり海水浴やキャンプに適しているが、公共の水道設備等はなく、水は自前で用意する必要があります。

連絡船が着く港から島の最北端までは、寄り道をしなければ、だいたい歩いて30分程度で行けます。途中で遠見番所旗柱台などに寄り道をして、ぶらぶら行けば1時間くらいですね。道はフラットなので歩き易いです。藍島で人家が多いのは大泊地区、そして本村地区、そして寄瀬浦地区です。この3ヶ所に集落があります。島の北部に行く道沿いにも、ちらほら数軒あります。島北部に行く道を行くとNTTの中継タワーがあります。そのNTTの中継タワーの手前から海が見えますが、そこから遠くに白州灯台が見えます。この灯台は砂でできている小さな島(白州)に、明治6年に建設され「日本の灯台50選」にも選ばれている灯台です。

史跡 藍島遠見番所旗柱台を少し先に行くと水道タンクが右に見えます。ここの島の水は遠賀川の水を送ってきているそうです。延々、全長26.4qの距離を陸と海底に水道管を敷設しているようです。その水道タンクの場所を過ぎてしばらく行くと道が2手に分かれています。左が寄瀬浦地区に行き、右は島北端の千畳敷に行きます。その分かれている道の左の道を約100mばかり行くと島北部の寄瀬浦地区があります、ここは漁港を囲むように家が7〜8軒あります。

藍島で一番風光明媚な場所は島の北端の千畳敷の場所です。潮が引くと広い平らな岩が現れます。まさに千畳敷ですね。正面には貝島が見えます。この島は潮が引いた時に歩いて渡れます。渡れるといっても、大潮でなければ少し水が残るので、ひざ小僧くらいまで水に浸かって歩いて渡ることになります。この貝島には6世紀前半から後半にかけて造られた古墳群が14基あるそうです。6世紀と言えば西暦500年代ですから約1500年前から、藍島には人が住んでいたんですね。釣り針や鉄製の漁撈具が多く出土していることから、海人族の墳墓と推定されているようです。

14:30藍島渡船で出発、馬島に向かう。
14:40馬島到達、散策。

馬島は福岡県内の有人島では面積も一番小さな島で人口も一番少なく、民宿等の宿泊施設や店も無いです。あるのは港のそばに飲料水の自動販売機があるだけです。島全体はフラットで山らしいものはなく、あるのはこんもりした丘程度です。島の大きさは周囲約2キロ程度です。馬島港の沖合いに和合良島という小さな無人島があります。また、馬島の西側には片島がありこの近辺の風景もなかなか良い。島の北部には海蝕された海岸岩が続き磯遊びに良いところです。そこからは、目と鼻の先に隣の六連島(山口県)が見えます。

馬島の集落の北部の高台に大山祇神社があります。その入口の鳥居の左になにか、祀ってありましたが、ここの名前は分かりません。この大山祇(おおやまづみ)神社の拝殿の左には、狛犬の代わりに砲弾がありました。この砲弾は、先の大戦のときに空から降って島に落ちたらしいです。島には川が無いので水田はありませんが畑はけっこうあります。その畑は、ほとんどネギ(わけぎ)が植えてありました。家庭で消費するには多すぎるので、出荷しているのだと思います。ネギは水が無くても育つのでしょうかね?
また、診療所の裏に墓地があります。墓地には花が添えてあり綺麗に掃除もされています。この墓地の墓を良く見ると寛政、大化、文政などの古い年号も見えます。ちょっと調べてみると寛政は1789〜1801年となっています。今のように連絡船の無かった時代から自給自足の生活をしてきたのでしょうね。「水はどうしたのかな?」 とか、そうとう苦労してきたであろうことが想像できます。

渡船場からほぼ真っすぐ北に行くと島の北部の海岸に行きます。まあ、小さな島ですから距離としては400mくらいです。そこの海岸からは正面に山口県下関市の六連島が見えます。この島との間が福岡県と山口県の県境になっているわけですね。そこの海岸には少しですが砂浜もあります。マイビーチとして自分たちのみの海岸として遊ぶには良い場所です。そして、この海岸の岩はボコボコに穴が開いており、たぶん溶岩が固まるときに水蒸気が抜けた穴なのだと思います。なにかアールヌーボー風の建築で有名なスペインのガウディ作品にも似た感じがします。崖も海岸の岩も、その溶岩でできた岩が侵食されて、不思議な模様をしています。よくよく見ると貝殻らしい物の化石もありました。いや、ゾウリムシのような虫らしき物も含まれていましたね。

16:43馬島渡船で出発、小倉に向かう。
17:05小倉港到達。
18:17小倉駅新幹線のぞみで出発
20:35新大阪駅到達。

今回の旅行、九州福岡県小倉沖玄界灘に浮かぶ2つの島(藍島、馬島)訪れ、ほぼ全域を歩いて巡りました。
大都市小倉沖の島でもあり、釣り人が多く、藍島は結構民家も住民も多く、活気に満ちておりました。また猫の多いのに驚き、一般的に魚等餌に不自由しない猫が多い離島、他の離島よりはるかに猫が多かったですね。20−30匹が重なり合って遊んでいましたね。のどかさを感じました。

マイナーな史跡がいくつか見かけましたが、やはり離島、素朴で長閑な離島めぐりでした。













飛行機で国内&海外の観光地巡り第百九十七弾:福岡県玄界灘離島相島・大島・地島観光
2012年6月31ー7月1日


福岡県の日本海側の玄界灘に足を運び、史跡と磯遊び、釣りといろいろ楽しめる島で周囲13.5キロの福岡県最大の島、筑前大島、周囲9.3キロの磯漁業・釣漁業が盛んで島内には約6000本のヤブ椿が自生する自然いっぱいの地島、 万葉集・続古今集にも歌われた歴史ある島で玄武岩が海蝕されてつくる独特の海岸風景を創っている相島 を訪れました。

31日13:45新大阪新幹線のぞみで出発
16:13博多駅到達、レンタカーで博多港付近のホテル到達後、近くの ホークスタウンを散策し食事を済ませて就寝。

1日6:30レンタカーで出発、宗像市方面に向かう。

7:15宗像市神湊港到達
7:40神湊港フェリーで出発
8:05大島港到達、散策する。

古代から宗像三神の御一神、端津姫神を祀る神の島として有名であり、船着場そばにある宗像大社中津宮を訪れる。

室町時代連歌師 飯尾宗祇(1421-1502)の「筑紫道中記」に歌われた島。昔の詩情そのままで、海中に立つ朱色の鳥居と島を覆う松の緑が美しいコントラストを見せています夢の小夜島を訪れる。

10:15大島港高速艇で出発
11:10神湊港到達
12:20神湊港高速艇で出発
12:45地島泊港到達、散策

黒田の殿様が、この港に寄港する船に石を10個づつもってこさせ築いた殿様波止を訪れる。

厳島神社は安芸の宮島が有名だが、ここが本家だ。と、言われていました。真実のほどは定かでありません地島厳島神社を訪れる。

ツバキロードと言う名前の遊歩道を通り白浜港に向かう。

14:10白浜港高速艇で出発
14:45神湊港到達、レンタカーで新宮港に向かう。
15:30新宮港到達
16:40新宮港高速艇で出発
16:57相島港到達、散策

朝鮮通信使をもてなした館が建っていた場所、朝鮮通信使客館跡を訪れる。

若宮神社、恵比須神社を訪れる。

17:30相島港高速艇で出発
17:47新宮港到達。レンタカーで博多駅方面に向かう。
18:30博多駅到達
18:55博多駅新幹線のぞみで出発
21:17新大阪駅到達。

今回の旅行九州福岡県に足を運び、玄界灘に点在する歴史深い史跡の多い3つの島、大島・地島・相島を訪れ散策観光してきました。

さすが大都会博多近くの離島、観光名所の案内図はわかりやすく道路も整備され多くの観光客が訪れている模様です。

まして宗像・沖ノ島と関連遺跡群が世界遺産暫定リストに記載され、今後ますますこれらの島は賑わい、多くの観光客が訪れることを予測されます。

観光名所として今後賑わいを期待できそうな福岡県玄界灘離島大島・地島・相島観光旅行でした。








飛行機で国内&海外の観光地巡り第百二十三弾:福岡県久留米&柳川&秋月観光
2010年12月18ー19日


3回目である九州の中心地福岡県に足を運び、中世の豪族・草野氏の城下町として栄え、江戸時代には豊後街道の宿場町として賑わい、当時の白壁の家が並ぶ町久留米、立花藩十二万石の城下町、藩主立花家の和洋折衷の屋敷御花や、なまこ壁の土蔵など古い建物が残り、北原白秋をはじめとした文人を輩出した柳川、黒田藩の支藩だった城下町、筑前の小京都とも呼ばれる秋月を訪れました。

18日13:09新大阪新幹線のぞみで出発
15:44博多駅到達、レンタカーで福岡近郊のリゾート地として知られる・海の中道・志賀島方面に向かう。

350種類約2万点の海の生物が観察できる水族館。高さ7m、幅24mのパノラマ大水槽は日本最大級の規模のマリンワールド海の中道の前で記念撮影。

約249万平方mの広大な敷地を誇る国営公園。早春から晩秋まで、いつ訪れても花のある風景が楽しめる。海を眺めながらバーベキューが楽しめるデイキャンプ場、ポニーやカピバラとふれあえる動物の森、公園のシンボル大観覧車をはじめ、氷点下30℃のアイスワールドなど21のアトラクションが揃う遊園地ワンダーワールドなどが点在。夏は西日本最大級のサンシャインプールも人気の国営海の中道海浜公園を訪れる。

「漢倭奴国王」と刻まれた2.3cm角の金印が、江戸中期の天明4年(1784)に偶然掘り起こされた場所。園内には金印のモニュメントが設置され、現物は福岡市博物館で展示中の金印公園を訪れる。

17:30久留米に向かう。
19:00西鉄久留米駅付近のホテル到達後、繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

19日7:00レンタカーで出発、390年(仁徳天皇78)鎮座、社殿創建は400年(履中天皇1)と伝わる古社。延喜式内名神大社・筑後国一の宮など、古代から高い格式を誇る。久留米藩主・有馬家寄進の現在の社殿と石造大鳥居、伝来の覚一本平家物語は国の重要文化財、高良山神籠石は国の史跡に指定。久留米市街を一望する眺望、夜景は筑後随一の美しさとも言われている高良大社を訪れる。

柳川に向かう。

柳川藩主4代目立花鑑虎の別邸。建物や庭園の大部分は1909年(明治42)に新築されたもの。洋館と和館、立花家に伝わる武家文化コレクションを展示した御花資料館・殿の倉で構成される。特に見応えあるのが、松濤園(名勝)。和館の大広間前の庭園で、宮城県の松島を模して造られたもの。毎年冬には数百羽の野鴨が池に飛来する御花を訪れる。

『落葉松』や童謡『この道』などの詩作で知られる、柳川出身の北原白秋。館内では、柳川の歴史や暮らしを伝える資料の展示、著書や遺品などの資料と3面マルチ画面で白秋の業績を紹介する北原白秋生家・記念館を訪れる。

北原白秋の生家は、当時柳川地方で1、2を争う酒造業を営んでいた。幕末〜明治初期に建てられた屋敷は、母屋との間に堀割りが流れ、その向こうに酒蔵や精米所、池などがあったという。しかし、1901年(明治34)沖端の大火により大半を焼失。現在公開されているのは、かろうじて焼け残った母屋と穀倉を1969年(昭和44)に復元したもの。1990年に母屋にあった隠居部屋も復元されている。なまこ壁に覆われた生家の土間はひんやりと薄暗く、いかにも造り酒屋らしい雰囲気。白秋の著書や遺品などの展示のほか、子供時代の落書が残されていたり、仏間には白秋のデスマスクが安置されていて興味深い北原白秋生家[北原白秋生家・記念館]を訪れる。

1978年(昭和53)からこの散歩道の整備に取り組み、現在は約2.7kmの遊歩道が完成。周辺に点在する文学碑や歌碑を巡ってみるのも柳川ならではの旅の楽しみ。日本の道百選にも選ばれた内堀の散歩道は、白秋の弟子だった宮柊二の歌碑から始まる。日吉神社の近くには名物のウナギを祀ったうなぎ供養碑、地元出身の俳人・木村緑平の句碑、同じくホトドキス派の俳人だった河野静雲の句碑などが並ぶ。長谷健の文学碑は、豆腐をかたどっていてユニークの水辺の散歩道を歩く。

八女に向かう。

江戸時代に建てられた酒屋を整備したその佇まいは八女福島が育んできた固有の文化的景観に調和し、屋内には月ごとに変わるギャラリー、八女と関わりのある現代作家の資料室「ふるさと文庫」、酒井田柿右衛門資料室、集会所として利用できる母屋、人々の交流の場となる「町並み談話室」などがあります。文化の交流拠点、情報の発信施設として、また、人々の集いの場として今後多くの文化イベントが繰り広げられる八女市横町町家交流館を見学。

お茶に関する情報発信基地として、あらゆる面からお茶を紹介する施設茶の文化館を見学。

八女市上陽町の北川内地区を流れる星野川にかけられた「洗玉眼鏡橋」は、有名な名石工・橋本勘五郎の最後の作品となった石橋。アーチの直径は22.5メートルと県内最大で、町内には氏の流れをくむ石工の手がけたものを含め13もの石橋が現存し、そのうち、洗玉橋(一連橋)、寄口橋(二連橋)、大瀬橋(三連橋)、宮ヶ原橋(四連橋)が上陽町の石橋四天王とされ、通称ひ・ふ・み・よ橋を訪れる。

吉井に向かう。

旧豊後街道の道筋だった国道210号沿いには、白壁土蔵の美しい町並みが今なお残っている。鏡田屋敷と居蔵の館は見学が可能。上町交差点そばにある町並み交流館商家では、見学のほか地元食材にこだわった食事も楽しめる吉井の町並みを散策する。

秋月に向かう。

1624(寛永元)年に黒田長政の三男長興が秋月五万石を与えられて築城した。現在は秋月中学校の敷地となり、大手門として使われた黒門や石垣、長屋門が当時の栄華を物語る。県指定史跡の秋月城址を散策する。

秋月城跡にある、黒一色に塗られたかつての大手門。古処山城の搦手門だったのを、黒田長興が入府する1624(寛永元)年に移された。県指定文化財の黒門[秋月城址]を訪れる。

秋月城跡にある黒門の石段を登りつめたところにある神社。創建は1880年(明治13)で、黒田長興が祭られている垂裕神社[秋月城址]を訪れる。

秋月城跡にあり、正しくは内馬場裏御門。かつて側室が住む屋敷の通用門として使われた。県指定文化財の長屋門[秋月城址]を訪れる。

武士たちが馬術の腕を競ったところで、その昔は杉の大樹が繁っていたことからこうよばれるようになった。現在は桜並木になっていて、秋月黒田家の遺品や武器などを展示する秋月郷土館から秋月城へと続き、秋月の代表的な散策コースになっている杉の馬場を通過する。

秋月藩士戸波家の屋敷跡を利用した施設。歴代藩主の資料や民俗資料を陳列する歴史資料館と、ルノワールやシャガール、岸田劉生など国内外の巨匠たちの作品を収蔵する郷土美術館からなる。美術館内には藩主愛用の、甲冑や刀剣なども展示している秋月郷土館を見学。

久留米に戻る。

ブリヂストンの創業者・石橋正二郎のコレクションを中心に、日本近代洋画など約130点を展示している。特に久留米出身の画家・青木繁の『海の幸』や『わだつみのいろこの宮』(ともに重要文化財)、坂本繁二郎の『放牧三馬』、古賀春江の『素朴な月夜』は必見。別館では、雪舟など日本や中国の書画、陶磁器などを展示する石橋美術館を見学。

15:30博多駅に向かう。
16:10博多駅到達。
17:00博多駅新幹線ひかりで出発
19:44新大阪駅到達。

今回の旅行は3回目の九州の中心地福岡県に足を運び、中世の豪族・草野氏の城下町として栄え、江戸時代には豊後街道の宿場町として賑わい、当時の白壁の家が並ぶ町久留米

立花藩十二万石の城下町、藩主立花家の和洋折衷の屋敷御花や、なまこ壁の土蔵など古い建物が残り、北原白秋をはじめとした文人を輩出した柳川

古くから日本茶の栽培が盛んな地域、特に八女郡黒木町から星野村まで栽培される玉露は全国的に評価の高い八女

白亜の御殿が並ぶ歴史薫る宿場町、白壁の町並みの吉井

黒田藩の支藩だった城下町、筑前の小京都とも呼ばれる秋月を訪れ一泊二日のドライブ観光無事終了しました。

福岡県の郊外にはのんびりと散策を楽しめ、歴史ある桜と紅葉で癒される秋月、今回は気温が低いため歩いて巡りましたが舟に揺られて満喫できる城下町の柳川、なかなか癒される2つの郊外での城下町、又訪れたいですね。次回は宿泊してのんびり過ごしてみたいです。











飛行機で国内&海外の観光地巡り第八十三弾:福岡県福岡タウン&大宰府観光
2009年12月19−20日


今回は西の九州の中心となる福岡県に足を運び、歴史ある町ならではの寺社や祭り、人気のショッピングモールなど見所情報いっぱいの福岡タウン、学問の神様として有名な大宰府天満宮を訪れました。

19日13:09新大阪新幹線のぞみで出発
15:44博多到達、博多タウン散策。

弘法大師(七七四〜八三五)が、廷暦二十三年(八〇四)い津に渡り、二年後の大同元年(八〇六)十月、博多に帰ってきて伽藍を設立。平成四年には大仏様ができ、木造坐像では、日本一の大きさで大仏様の裏側には「地獄・極楽めぐり」コースがあり、仏像の横には宝物展示宝もあり、毎日参拝客で賑わっている東長寺 を訪れる

明治・大正時代の、博多町人の暮らしや文化を紹介する歴史資料館。のぞきからくりや博多弁講座などユニークな内容で博多の歴史を学べる展示棟をはじめ、明治中期に建てられた博多織の住居兼工場を移築復元した町家棟、博多人形や名産品を販売するみやげ処の3棟で構成。白壁や格子戸など当時の町並みを復元した建築物が並ぶ職人による張子・曲物・博多人形など、伝統工芸の実演も日替わり(博多織は毎日実施)で開催する「博多町家」ふるさと館を見学。

「お櫛田さん」の愛称で親しまれる博多の街の総鎮守。博多祗園山笠の舞台でもある。境内には飾り山を常設展示する櫛田神社を訪れる。

博多の街に古くからある商店街。140軒ほどの商店が軒を連ね、飲食店や衣料品店などが多い。中程にぜんざい広場がありそこには博多祇園山笠のレプリカが飾ってある川端商店街 を通過する。

博多区下川端地区に99年3月にオープンした2万2千平方メートルの大規模商業文化施設はホテル、スーパーブランドシティー、美術館、劇場、5階のアトリウムガーデンには、リラックスできる緑いっぱいの空間を提供し、多彩な機能を備えた街、博多リバレインを訪れる。

博多リバレインにある演劇専用の公設民営劇場。総客席数1500席。幅20m・奥行き21mの大舞台に廻り舞台や、花道・オーケストラピットなどを備え、多彩なジャンルに対応。県内外から多くの人が集まる博多座を訪れる。

博多リバレインにある、アジア近代・現代美術コレクション専門の美術館。作品展示以外に、アジアの美術作家を招待する滞在型の公開制作も行われている福岡アジア美術館を見学。

食事を済ませてから博多駅付近のホテル到達、宿泊。

20日7:00出発、大宰府方面に向かう。

大宰府の中心、府政庁があった跡。広大な敷地に並ぶ建物の礎石が、当時の繁栄ぶりを物語る。現在は歴史公園として整備され市民の憩いの場。発掘で出土した溝を保存公開する展示館も隣接する大宰府政庁跡を訪れる。

746年(天平18)、天智天皇が母・斉明天皇の冥福を祈って建立。80年もの歳月を費やし、完成時は西日本最大の大寺院といわれた。境内には創建当初の梵鐘(国宝)があり、収蔵庫では平安〜鎌倉時代の仏像(重要文化財)などを公開している観世音寺を訪れる。

901(昌泰4)年、京都から大宰府に左遷され、この地で亡くなった菅原道真公を祀る神社。道真公が学問に秀でていたことから学問の神様として崇敬を集め、今も大勢の受験生が参拝する。心字池の太鼓橋、境内の大樟(天然記念物)などが見どころ。道真公を慕い、京から飛んで来たという本殿(重要文化財)向かって右側の神木・飛梅をはじめ、約6000本の梅が咲き誇る梅の名所でもある太宰府天満宮を訪れる。

菅原道真公(菅公)の神霊を御奉祀する神社・太宰府天満宮内に位置するこの宝物殿は、昭和3年に開館、という古い歴史を持つ。菅公の御真筆、御佩刀、国宝「翰苑」を始め、古文書、工芸品、菅公が愛でた梅を描いた日本画など約5万点の宝物を収蔵・展示する太宰府天満宮宝物殿を見学。

東京、奈良、京都に次ぐ4番目の国立博物館。「日本文化の形成をアジア史的観念から捉える」というコンセプトに基づき、アジア諸地域との交流の歴史をわかりやすく紹介している。文化交流展示(常設展)は、テーマに応じて展示品の入れ替えが行われる九州国立博物館を見学。

天神方面に向かう。

鴻瀘館とは奈良〜平安時代にかけて華やかな国際交流の舞台となった古代の迎賓館。1987年(昭和62)にその遺構が舞鶴公園内で発掘され、中国、朝鮮半島の陶器やペルシアのガラス器など貴重な出土品を一般公開している鴻臚館跡展示館を見学。

初代福岡藩主・黒田長政[くろだながまさ]が1601年(慶長6)から7年がかりで築城した福岡城は、大中小の天守台と47の櫓を配した壮大な平山城だった。現在は多門櫓(重要文化財)と大手門、潮見櫓などが当時の面影をとどめている。周辺は舞鶴公園として整備。高台には展望台が設置され、福岡タワーや福岡ドームまで見渡せる福岡城跡を散策する。

古美術から現代美術まで幅広いジャンルの作品を収蔵する。九州ゆかりの画家をはじめ、ミロ、ダリなどシュルレアリスムの作品を常設展示している福岡市美術館を見学。

一帯はもともと大きな入江だったが、筑前五十二万石の領主・黒田長政が、1601年(慶長6)から7年がかりで福岡城を築城する際、一部を埋め立てて外濠として利用。さらに1927年(昭和2)、福岡市が東亜勧業博覧会を催すときに濠を埋め、周囲2kmの池を中心とする公園となった。園内には能楽堂や美術館、日本庭園があり、池を囲む周遊道は格好のジョギングコース。福岡城跡そのものは公園東側の舞鶴公園として整備され、本丸跡の展望台から福岡タワーや市街を一望できる大濠公園を散策する。

日本初の屋根開閉式スタジアム。野球のほか各種イベント・コンサートも開催する福岡 Yahoo! JAPAN ドームを訪れる。

8000枚のハーフミラーで覆われた、高さ234mの福岡のシンボル。地上116mと123mの2カ所にある展望室からは福岡の街並みや玄界灘の大パノラマが楽しめる福岡タワーに昇り眺望する。

東西1400mにわたり、真っ白な人工海浜が広がる公園。市民の憩いのスポットとして多くの人が集い、夏には水遊びやマリンスポーツを楽しむ人々の姿が見られるシーサイドももち海浜公園を散策する。

古代から大陸との交流が盛んだった福岡ならではの資料を多数展示。目玉は志賀島で発見された金印(国宝)と、黒田節で有名な名槍・日本号。体験学習室ではアジアのおもちゃや珍しい楽器に触れることができる福岡市博物館を見学。

姪浜港に向かう。
姪浜港、フェリーで能古島に向かう。

博多湾に浮かぶ風光明媚な島。福岡市内からフェリーで10分の近距離にあり、気軽に訪れることができる。古くは万葉集に島で詠んだと思われる歌が記され、奈良時代には国を守る「防人」が置かれるなど歴史も深い。島にはコンビニやホテルなど近代的な施設はなく、車の排気ガスも少ないため、自然の空気を満喫できる。四季の花が咲く自然公園「のこのしまアイランドパーク」、歴史を学べる「能古博物館」など観光スポットも人気。周囲12kmの島は自然を楽しみながらウォーキングやサイクリングを楽しめる能古島を散策する。

博多湾に浮かぶ島の博物館。島ならではの自然や能古島の歴史、能古出身画家の絵画まで、能古島に関するものを展示している。珍しい長垂の鉱物(天然記念物)も常設展示。郷土の学者、亀井南冥(金印鑑定者)とその一族五世にわたる資料も収集展示している。別館では様々なジャンルの企画・特別展を行い、毎年「能古の風フォトコンクール」を開催。敷地内には、福岡市文化財指定史跡である江戸時代の能古焼古窯跡もある能古博物館を見学。

博多に向かう。

18:00新幹線のぞみで出発
20:36新大阪到達。

今回の旅行、西の九州の中心の県、福岡県に足を運び、レトロな町並みが存する中州やデパート&ファンションビル&屋台を筆頭に何でも揃うグルメの町の天神や周囲に博物館、美術館、公園などが点在する福岡タウン。

7世紀後半に地方政庁が置かれた地で、九州きっての古都として知られる。菅原道真を祀る太宰府天満宮は全国1万2000社ある天満宮の総本山的な存在で、学業祈願を中心に年間600万人以上が訪れている。かつての太宰府政庁跡や日本最古の梵鐘が残る観世音寺、苔寺として知られる光明禅寺、名物の梅ケ枝餅などで有名な太宰府。

一泊二日で福岡の中心部をほぼ制覇しました。

福岡タウンにしても大宰府にしても韓国の方の観光客が目立っていましたね。
日本で最も韓国に近い大都市で交通の便が良く、訪れやすいのでしょうね。
日本語より外国語の方がよく耳にする福岡観光旅行でした。










飛行機で国内&海外の観光地巡り第五十六弾:北九州小倉&門司・山口下関観光
2009年3月28−29日


九州の玄関口として重要拠点とされてきた城下町小倉、国際貿易港として繁栄し、レトロな風情が漂う門司港、本州最西端に位置し、源平の合戦、幕末の馬関戦争、日清講和条約の締結など、数々の歴史の舞台となってきた町、下関に足を運びました。

28日13:04新大阪駅新幹線のぞみで出発
15:31小倉駅到達、小倉タウン散策

陸軍第十二師団軍医部長として小倉に赴任した森鴎外が、1899年(明治32)から約1年半を過ごした家、森鴎外旧居を見学。
1602年(慶長7)細川忠興により築城されたが、戦乱により焼失、現在の天守閣は1959年(昭和34)に復元された小倉城を散策する。
小倉城に隣接し、小笠原流礼法の祖・小笠原氏の下屋敷跡に大名屋敷を再現した北九州市立小倉城庭園を見学。
『点と線』、『砂の器』などの代表作をもつ北九州市出身の作家松本清張の業績をたどる記念館、北九州市立松本清張記念館を見学。
文豪・森鴎外をはじめ、杉田久女、林扶美子、火野葦平など、北九州ゆかりの文学者を自筆の原稿や映像などで紹介している北九州市立文学館を見学。

小倉駅付近のホテルに到達後、繁華街を散策して食事を済ませてから宿に就く。

29日6:30レンタカーで出発、天候曇り、肌寒い、南の郊外、平尾台方面に向かう。
九州最大のカルスト台地、標高400m〜600m、小倉南区から行橋市にかけて、南北6km・東西2kmに及び、緑の中に白い石灰岩が点在する様子が牧草を食む羊の群れのように見えることから、羊群原ともよばれている平尾台を散策する。

九州自動車道経由して門司方面に向かう。

大陸貿易の玄関口として、1889年(明治22)に門司港が開港されると、港の周辺には海運会社や商社などの西洋建築物が次々と建てられ、それらを修復、復元して集めたのが、門司港駅とその周辺エリア、ノスタルジックな洋館のほか、ショップやレストラン、美術館なども続々登場して、今では福岡県有数の観光スポットとして人気を集めている門司港レトロ地区到達後散策。

門司港レトロ地区の起点となる1914年(大正3)に建てられたネオ・ルネッサンス様式の左右対称の木造2階建ての駅舎、駅として全国で初めて国の重要文化財に指定されたJR門司港駅を見学。
1921年(大正10)に三井物産の社交場として建てられたハーフティンバー様式の建物。館内はアールデコ調のデザインが施されている旧門司三井倶楽部を見学。
八角形の塔屋が目を引く大正時代の建物、大陸航路の待合室的存在だった旧大阪商船を見学。

1912年(明治45)に建築されたレンガ造りの重厚な建物、旧門司税関を見学。
1902年(明治35)帝政ロシアが中国・大連に建てたドイツ風の建築物を忠実に再現した北九州市立国際友好記念図書館を見学。
建築家・黒川紀章が設計した、31階建て高層マンションの最上階にある展望台、関門海峡、門司港レトロ地区の町並みを一望できる門司港レトロ展望室を見学。

旧九州鉄道本社を再整備しオープンした記念館、館内には九州を舞台としたパノラマ鉄道模型、電車の運転を疑似体験できる運転シミュレーターなどがあり、屋外には、本物そっくりの運転システムで遊べるミニ鉄道公園、九州各地で活躍した歴代の車両展示の車両展示場がある九州鉄道記念館を見学。

門司港から船で10分、彦島の400m沖に浮かぶ無人島、正式には船島といい、1612年(慶長17)に剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎が決闘した舞台として名高い巌流島を散策する。

風光明媚な関門海峡の下を貫く全長780mの海底トンネル、関門トンネルを通過して下関方面長府に向かう。

1320年(元応2)に創建された古刹、仏殿(国宝)は鎌倉期のもので、わが国最古の唐様禅宗式建築、毛利元就に追われた大内義長はここで自刃し、幕末には京都を追われた三条実美等五卿が潜居していた寺で、高杉晋作が倒幕を目指して決起した地としても知られる功山寺を散策。
功山寺境内にある博物館、覚苑寺の鋳銭所跡から発掘された和同開珎や幕末に鋳造された青銅砲、長府藩主の毛利一族や陸軍大将・乃木希典の遺品など、歴史資料約1万点を収蔵・展示している下関市立長府博物館を見学。

1903年(明治36)に長府毛利家14代元敏が建て、明治天皇の宿泊所としても使われた屋敷、長府毛利邸を見学。

長府毛利藩の家老格であった、西運長の屋敷跡にある廻遊式日本庭園、長府庭園を散策する。

下関出身の狩野芳崖の作品を中心に高島北海、香月泰男、岸田劉生、藤田嗣治など下関ゆかりの画家の作品と、古代オリエントの美術工芸品を展示している下関市立美術館を見学。

下関港方面に向かう。
標高約268mの山で、かつてのろし場があったことからこの名が付き、頂上の展望台からは関門海峡や下関市街、玄界灘や周防灘まで眺められる火の山公園を散策する。

かつて源平の壇之浦の戦いが行われた古戦場で、園内には源義経・平知盛像と、幕末に長州藩が外国船を砲撃した長州砲のレプリカが置かれていて、関門海峡で最も狭い幅約700mの早鞆の瀬戸沿いにあり、関門橋や最速約10ノットという潮流、行き交う船などを間近に眺められるみもすそ川公園を散策。

1185年(寿永4)、壇之浦の戦いに敗れて入水した平清盛の孫・安徳天皇を祀る赤間神宮を訪れる。
1895年(明治28)4月17日、日清戦争の講和会議が開かれた旅館春帆楼の敷地内に立つ日清講和記念館を見学。
関門海峡を望む小高い丘の上に立つ洋館で、日本にオペラの基礎を創りあげた世界的オペラ歌手・藤原義江(1898〜1976)の記念館、藤原義江記念館を見学。

世界のフグ100種が泳ぐ水槽をはじめ、関門海峡をイメージした水槽など下関ならではの演出で海洋生物を展示する下関市立しものせき水族館海響館を見学。

明治〜大正時代、下関は日本の西の玄関口として大いに賑わい、当時の面影を今に伝えるのが、唐戸交差点周辺に残る旧下関英国領事館、旧秋田商会ビル、下関南部町郵便局3つの洋館、唐戸洋館めぐりを見学。

展示見本市会場や国際会議場などを有する海峡メッセ下関のシンボルタワー、高さ143mにある展望室は全面ガラス張りの球体にデザインされ、市街や関門海峡、巌流島、九州側の門司港レトロなど360度の展望が広がる海峡ゆめタワーで眺望する。

中国自動車道、風光明媚な関門海峡に架かる、全長1068mの吊り橋、中国自動車道と九州自動車道を結ぶ高速自動車道で、1973年(昭和48)に開通した関門橋、九州自動車道、北九州高速を経由して小倉到達。食事を済ませてから

17:44新幹線のぞみで出発
19:55新大阪到達。

今回の旅行、本州を眼前に九州の玄関口として重要拠点とされ、江戸時代には豊前小倉藩を細川氏と小笠原氏が治め多いに栄え、近代社会の発展の最先端を走り続けてきた城下町小倉。
明治・大正時代に海外交易の要衡として栄えた門司港、レンガ造りや木造の洋館など当時の面影を残す建物を集め、レトロな町並みとして保存する門司港レトロ地区。
下関市東部に位置し、長府毛利家や高杉普作をはじめとする維新の志士と縁の深い歴史ある閑静な城下町、長府。
本州の最西端に位置し、源平合戦の壇ノ浦の戦いや武蔵と小次郎の巌流島の決闘、幕末の馬関戦争、日清講和条約の締結など、数々の歴史の舞台となってきた町、下関。
古くから交通の要衡として栄え、今もなお、1日700隻もの船が行き交う関門海峡を挟む歴史あるエリア門司・下関、小倉、長府を含めて奥深い町並み、又ゆっくり時間を掛けて訪れてみたいエリアの歴史学習観光旅行でした。