福井

飛行機で国内&海外の観光地巡り第二百八十七弾:福井県お城・城下町巡り観光  
2014年10月11136日
   

中部地方西部に位置する県。本州の屈曲部に位置し、日本海に面する。北は石川県、東は岐阜県、南西は滋賀県・京都府に隣接する。西部はリアス式海岸の若狭湾で観光・漁業地域。原子力発電所が多い。古くから北陸道の入り口にあたる要衝の地で、現在も京阪神地方・中京地方との結びつきが強い福井県に足を運び、比較的マイナーなお城・城下町16か所を訪れました。

11日12:30車で出発、第二京阪京滋名神北陸自動車道経由して小浜インター下車
15:00小浜到達

小浜城:年(1601)京極高次が着工し、その忠高にいたる33年間に城の大半を造り、寛永十一(1634)酒井忠勝が藩主となり、寛永十五年三層の天守閣を築いた。城域は東西156間(284メートル)、南北145間(264メートル)総地坪数18,937坪(62,492メートル)外濠を除く。
本丸 3,3130坪(10,329メートル)内堀3,755坪(12,391メートル)二の丸 藩主の家族の住宅屋敷 2、249坪(7,422メートル)三の丸 軍用食糧、兵器の倉庫 3,806坪(12,560メートル)北の丸 2,584坪(8,527メートル)西の丸 3,413坪(11,263メートル)在りし日の小浜城  特色は、海と河川とを取合せた要害の海岸城で、平地城としては慶長初期であり古く、石垣の慶長積みは特色である。京極氏の後は寛永十一年から明治四年(1871)まで、酒井氏十五代260年間の居城であった。明治四年十二月この城に大阪鎮台第一分営を設置すべく改造工事中二の丸櫓の工事場から失火し、城の大部分を焼失した。現況は左図のように河川拡張のため旧城地がけずられて縮小され往昔の面影がない。

後瀬山城:後瀬山城は大永二年(1522)戦国争乱の防備として若狭守護武田大膳大夫元光が築城した中世の山城である。城郭は海抜168メートルの山頂に主郭を配置しそれより北側八幡神社の裏山まで400メートルの間に16段の小郭を階段状につくっている。主郭の西南枝峰にも同じく小郭が18段あって、その山麓に武田氏館があった。現在の小浜小学校、空印寺がその跡地。さらに主郭の西側には巾広い空堀を隔てて西郭がある。ここは城の御殿と推定され築山など庭園らしい跡も残されている。城は戦国時代各地につくられたものと大差はないが、西側には斜面にそって四本の竪堀がつくられており、ゆるやかな斜面の守りを固めている。東側は急斜面のため部分的に竪堀をつくるが集中されていない。そのかわり元光は発心寺を造営し北東の城砦的役割を持たせたと思われる。石垣もよく残っています。  城主は元光、信豊、義統、元明と四代続いたが、永禄十一年(1568)越前守護、朝倉義景が、この城を攻め元明は敗れ、越前へ連れ去られた。天正元年(1573)朝倉氏滅亡後、丹羽長秀が国主としてこの城に入り、石垣を積むなどして補修した。現在の石垣はそのときのものである。そののち、浅野長吉、木下勝俊などと豊臣秀吉の家臣が若狭国主としてこの城を利用したが、慶長五年(1600)関ヶ原の攻で京極高次が国主となり、翌六年より小浜城を築城。後瀬山城は廃城となった。

美浜方面に向かう。

国吉城:美浜町指定史跡国吉城址は、若狭国守護大名武田氏の重臣であった粟屋越中勝久によって弘治二年(1556)に築かれた中世の山城である。通称”城山”の最高所(標高197.3メートル)を本丸とし、北西に延びる尾根上には段々の削平地(曲輪)が連続し、その先端に丹後街道が通る椿峠があった。尾根の斜面は切り立って急であり、守り易く攻め難い城であった。実際に、永禄六年(1563)から数年におよぶ勝久と越前朝倉氏との戦いにおいては、城を守り通して名声を内外に轟かせ、その活躍は『若州三潟郡国吉籠城記』などの軍記物にまとめられた。元亀元年(1570)越前攻めのために木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や徳川家康らを伴って国吉城に入城した織田信長は、城を守った勝久を褒め称えたと伝わる。その後、天正十一年(1583)に入城した木村常陸之介定光は、椿峠を越えた丹後街道が集落の中を通るように道筋を付け替えて町割りを行い、佐柿の町を興した。江戸時代に入ると国吉城は廃され、寛永十一年(1634)に若狭国の領主となった酒井忠勝は、町奉行所と藩主休息所として御茶屋屋敷を置いた。以降、佐柿は三方郡の中心、丹後街道の宿場町として繁栄し、現在も当時の景観を色濃く残した古い町家や寺社が現存している。

敦賀に向かう。

敦賀城: 天正十一年(1583)、蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いたが、同十七年に頼隆が病死すると、領主は豊臣秀吉配下の大谷吉継と交代した。吉継はこの城を整備拡充するとともに町も整えていった。三層の天守閣をもつこの城は現在の結城町と三島町一丁目にまたがるものであった。慶長五年(1600)年、関ヶ原の合戦で西軍に属した吉継は敗れて自刃した。元和元年(1615)の一国一城令によって城は破却された。寛永元年(1624)、小浜城主の京極忠高が敦賀郡を加増され、同十一年には酒井忠勝が小浜藩主となり敦賀の支配にあたった。そのため旧敦賀城の中心部に藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)町の支配や警察・裁判を行う南北の町奉行所、農村から年貢を取り立てる南北の代官所を設け、目付一名、町奉行二名、代官二名が常駐し、配下の足軽や同心とともにその任務にあたった。
 明治四年(1871)、廃藩置県によって、若狭一国と当時の敦賀・南条・今立三郡を県域とする敦賀県が誕生し、その県庁を旧陣屋に置いた。同六年に足羽県を統合すると庁舎が手狭となり、庁舎を旧奉行所跡に新築移転した。同九年八月に敦賀県が廃止されて滋賀県と石川県とに分割されると、敦賀は滋賀県に属した。同十四年に旧敦賀県を管轄地域とする福井県が誕生するが、県庁が敦賀に戻ることはなかった。その後この地には警察署・裁判所・敦賀病院などがかわるがわる建てられ、結局明治四十二年に敦賀尋常高等小学校が神楽町から新築移転して現在の敦賀西小学校に引き継がれ、今に至っている。

金ヶ崎城:金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、巌なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。南北朝時代の延元元年(1336)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏冶の居城であったここ金ヶ崎城に入城。約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士300余名が亡くなったと伝えられる。戦国時代の元亀元年(1570)四月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起こして徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。またこの殿での危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(1586)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎城での戦いの救援に謝意を表したとされている。すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。焼米が出土した郭。激戦の跡が伺えます  現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(標高86メートル)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことができる

17:30敦賀駅前のホテル到着後繁華街を散策し食事を済ませて就寝。

12日7:30車で出発、

玄蕃尾城:滋賀県と福井県の県境内中尾山の山頂に築かれた玄蕃尾城は、天正11年(1583)に柴田勝家と羽柴秀吉が、信長亡き後の織田軍団の指導権を争って戦った賤ヶ岳の戦いの際に柴田勝家が本陣を構えた所です。曲輪は全部で8つあり、山頂に主曲輪を構え、各曲輪をなだらかな斜面に配しています。
曲輪周囲には空堀を巡らし、曲輪と曲輪の間は土橋で連絡されて、曲輪から空堀を見下ろすと、一見山中城(静岡県)の畝堀を思わせます。主曲輪(約40m×40m)の南北に設けられた虎口には、枡形虎口、あるいは馬出しなどを配して、織豊系城郭技術がこの時期にほぼ完成されていたことを窺い知ることが出来ます。遺構もほぼ完全な形で残っており、滋賀県あるいは福井県に数ある城郭の中でも屈指のものだと思います。また、主曲輪の東側には櫓台(10m×10m)が設けられており天守のようなものが築かれていたと考えられています。この玄蕃尾城の築城時期は天正10年〜11年と特定することが出来、天正期における織豊系城郭の築城技術を考察する上でも非常に意義深い城といえます。

今庄方面に向かう。

杣山城:一帯に築かれた中世の山城。北の比叡山とも呼ばれ、鎌倉末期には瓜生一族の居城となり、その後延元元年(1336)から三年間新田義貞が籠城した南軍の拠点。北朝方との葉原の合戦で破れると、落城した。戦国時代には朝倉氏の家臣・河合宗清が城主になったものの、織田信長の朝倉・浅井討伐の際に落城し、廃城に帰したと思われる。その後、織田氏に抵抗する一向一揆勢が天正二年(1576)にここに籠もったとされる(『現地説明板』『日本の名城・古城事典』等)が、明確な記録は残っておらず、本格的な城郭としての機能は失っていたと思われる。西御殿、東御殿と伝わる平場や、姫穴、袿掛岩などの伝説の地形に、堀切、水場などの遺構も山全体に散在しているが、いずれも城郭の縄張としては極めて簡素である。少なくとも戦国時代に大規模な改修が為されたとは考えられない。


武生方面に向かう。

府中城:藩政時代府中邑主本多氏の館址である。往時の邸地は約八千坪で東邊と北邊を堀で囲みその東一帯に長さ二百八十余間の外堀があり館は南面し、大手門が馬場に通じていた。城の起源は文明の頃越前国守護朝倉氏の府中奉行所の構築に創まると云われ天正年間前田利家が城濠を修築拡張した。前田氏移封の後に丹羽・木村・堀尾の諸氏が相次いで在城したが慶長六年本多富正が居館を定めてから維新廃藩に至るまで本多氏が歴代在城した。明治五年城址に進脩小学校が建てられ後に武生東小学校と改称した。輓近市街の発達と学量増加のため中北府町へ移転すると共に市庁舎が建設された。創学以来十四年である。

小丸城:天正三年(1575)に越前一向一揆を平定した織田信長は、越前の抑えとして柴田勝家を置いた。勝家は北ノ庄に築城すると、その補佐役として付けられていた府中三人衆もそれぞれ前田利家が府中城に、不破光治が竜門寺城に、そして佐々成政は小丸城を築城して居城とした。小丸城の石垣には野々宮廃寺の礎石と見られるものが転用されていることが知られているが本丸周辺が工事により破壊されたこともあり詳しくは不明である。また成政が同七年に越中砥山城に転封となったため、わずか4年での廃城となった。そのことから小丸城は未完成な状態であった可能性も考えられている。現在残る城の遺構から考えられる城の規模は、味真野の扇状台地末端に本丸、二の丸、三の丸と環郭式の構造を持つ。高さ約7メートル、50メートル四方の本丸を中心に、基底幅20メートルほどの土塁、幅20メートルの堀などが見られる。また北西の乾櫓からは成政が一揆を成敗した際の様子を刻んだと言われる文字瓦も出土している。

東郷槇山城:東郷槇山城は一乗谷城の北西約3km、足羽川の左岸にあって三峰城,成願寺城,中山城と共に、一乗谷城の支城の一つである。一乗谷の西峰の御茸山とは尾根続きで、下城戸のちょうど真西に位置しており一乗谷の出城的な役割を担っていたと考えられる。東郷槇山城は通称城山と称する槇山に築城されており、槇山の西側から車で二の丸まで登ることができる。城台と称される主曲輪と南に位置する二の丸、および千畳敷は公園として整備され手軽に中世山城を見学することができるが、公園整備が優先され、山城としての魅力は半減してしまっている。唯一、千畳敷に残る土塁と南側の堀切がかろうじて原型を止めているのが救いである。

越前大野方面に向かう。

大野城:越前大野城跡は、大野盆地の西側に位置する標高約250メートルの亀山と、その東側に縄張りを持つ平山城跡です。織田信長の武将、金森長近により天正年間(1573〜1593)の前半に築城されました。越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の大天主と2層2階の小天主・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永四年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政七年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。

勝山方面に向かう。

勝山城:勝山城の名が歴史に登場するのは、天正8年(1580)柴田勝家の一族、柴田勝安が、加賀の一向一揆を討伐し袋田村に城を築き、村岡山の別名勝山にちなみ、勝山城と名付けたのが最初である。
その後天正11年には、丹羽長秀の老臣成田弥左衛門重政、慶長5年(1600)には、結城秀康の家臣林長門定正、寛永元年(1624)には、結城秀康の六男直基、同12年には七男直良とそれぞれ入封するが、いつの時点まで城が存在していたかは不明である。正保元年(1644)勝山は、福井藩領となったが、江戸幕府への上知石高を支配する為代官が派遣され、旧勝山城の池に陣屋が建てられた。元禄4年(1691)小笠原貞信が美濃国高須から2万2777石をもって勝山に入り、幕府代官の残した陣屋跡に居を構えた。貞信は幕府に築城を願出て宝永5年(1708)ようやく許された。設計者は江戸の軍学者、山鹿藤介であった。築城工事は、多額の出費と人夫の徴発に苦しんで容易に進まず、加えて文政5年(1822)城内から出火して建物のほとんどを焼失し、勝山城は未完成のまま廃藩を迎え、廃城となった。廃城後、城地は、町役場、成器男子小学校、西方寺、三の丸製糸場などに判明され、明治22年(1889)本丸跡に最後の城主小笠原長守の筆による「勝山城址之碑」が立てられた。現在は勝山市役所、市民会館、教育福祉会館が建ち並び、中央公園も造成されている。最後まで残っていた天守閣跡、石垣内堀の一部が取り壊されたのは昭和42年市民会館を建てた時である。その後勝山市民の間に勝山城再建の願いが年毎に高まり、ここ幸いにも適地を得て、めでたく天守閣の建設を果たすことができた。

三国方面に向かう。

丸岡藩砲台跡:江戸時代末期の1852年に、丸岡藩が沿岸警備のために築いたという砲台。海に突き出た海岸線上に、弓状に築かれた高さ1.8mの土塁に5つの砲眼が4.5m間隔で設けられている。原形をこれだけしっかり留めた砲台跡は全国でも珍しく貴重らしく、国指定史跡になっている。

朝倉山城:はその名のとおり朝倉氏一族の朝倉景連がいた城だという。景連は一乗谷奉行衆の1人だった。三国に近い鶉地区の173mの朝倉山の山頂に主郭を置き、周囲に郭がめぐる形の城だった。朝倉氏が滅びた後に一向一揆が越前を支配し、織田信長の侵攻を招いた時、この城にも一揆軍が立て籠もった。詳しくは解からないがこの一揆軍はどうなったのだろうか。1561年4月に、この城の近くの棗庄大窪の浜において朝倉義景が犬追物を開催した。義景は伝統行事を復興させることに熱中しており、これもその一環だった。この犬追物は盛大に催され、鎌倉時代源頼朝の由良が浜の犬追物も及ばないものと賞賛されたという。現在は近くの小学校の手作りによる登山表示のある登り易い山だった。また山頂には戦時中の防空監視哨跡もあり、防空壕跡らしき穴もあった。山頂の櫓からの眺めが良く、三国方面から福井市方面まで眺め渡せる。

福井方面に向かう。

黒丸城:日野川と九頭竜川の合流点付近に位置し、三方を川で囲まれた地形を利用して築城され、唯一開いた南東側は深田であったという。現在小黒丸城の石碑の建てられている場所は、河川工事もすすみ、地形的にはなんの変哲もない平地に変わり、遺構はおろか当時を偲ぶ地形すら残っていない。なお、現地の案内板によれば、城址碑は現在地より北方約50mの田んぼの中に建てられていたが、県営圃場整備に伴い現在の位置に移されたとある。 小黒丸城は、大黒丸城と併せて黒丸城と総称される場合と、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城と共に大黒丸城の支城である足羽7城のひとつであるとする説がある。

北庄城:織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正三年(1575)八月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。天正九年(1581)四月、北ノ庄を訪れて来た、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に『此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をして居り、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである・・・・・』と報告している。また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正十一年五月十五日付の書簡の中では、北ノ庄城について『城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候・・・・』と記しており、九層の天守閣であったことが知られる。勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋(九十九橋)を半石半木の橋に架橋したと言われる。柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。

15:00福井駅前のホテル到着

18:00福井駅前の繁華街散策し食事を済ませて就寝。

13日8:00帰路に向かう。

今回の旅行、福井県に点在する比較的マイナーなお城・城下町16か所を巡り楽しみました。

越前大野に位置する大野城は立派な天守閣があり聳え立っていました。あまり知られていないのは不思議なぐらい素晴らしいお城でした。

又驚いた事に最近福井県の山間部にくまが頻繁に出現、ところどころにくま防御の電気線の囲いが見られました。山城のほとんどがこの防御柵が見られ訪れにくい状態でした。





















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百十五弾:福井県越前観光
2010年10月16ー17日


南越前町と敦賀市を隔てる稜線を境に、北部を越前、南部を若さに分けられる福井県の越前に足を運び、美術館や博物館が点在し全国唯一の戦国城下町跡の福井タウン、福井を代表する名勝東尋坊や芦原温泉、歴史ある港町三国、日本最古の天守閣がある丸岡や禅の道場永平寺、恐竜化石の産出日本一の勝山、名水の里として知られる大野を訪れました。

16日13:13新大阪駅ひかりで出発
13:49米原到達
13:59米原しらさぎで出発
15:03福井駅到達、福井市街地を散策する。

約270年間、17代にわたり、越前松平家の繁栄の舞台となった福井城。1606年(慶長11)、初代福井藩主で徳川家康の次男・結城[ゆうき](松平)秀康によって築城された。当時は高さ約37m、4層5重もの雄大な天守閣と三重の堀をもっていたといわれる。現在残る遺構は堀の一部と石垣のみ。本丸跡には県庁が立ち、その敷地内には福井の地名の由来にもなったという説もある井戸跡「福の井」もある福井城址を散策する。

養浩館は福井藩主松平家の別邸。この優雅な書院建築の屋敷を取り巻く回遊式林泉庭園は、江戸中期を代表する名園として知られていたが、1945年(昭和20)、福井大空襲で焼失。その後、国の名勝に指定されたのを機に、1823年(文政6)の古図をもとに建物と庭園が復元された。かつては舟遊びができた広大な池を中心に築山や入江などを配した優美な庭園が蘇った。また、麻の葉模様を透彫にした欄間のある主座敷の御座ノ間や、池に映る月を見るための雲窓の出書院がある御月見ノ間なども見ごたえ充分の養浩館庭園を訪れる。

「アートラボふくい」の愛称で親しまれている美術館。曲線を描くガラス張りの外観が印象的だ。常設展では福井市ゆかりの彫刻家・高田博厚[たかたひろあつ]の作品を展示。ロマンロランや高村光太郎など、国内外を問わず彼と交流のあった画家や詩人たちの肖像、デッサン、また、映像やパネルなどでその作風を多角的に知ることができる福井市美術館を見学。

標高116.8mの足羽山全体が公園。足羽山公園遊園地や福井市自然史博物館のほか、足羽神社や十数基にも及ぶ古墳群などが点在し散策に格好。春は3500本もの桜が咲き、「日本さくら名所100選」にも選定されている。6月中旬には、園内の足羽山アジサイロードのアジサイが満開になる足羽山公園を散策する。

第4代福井藩主・松平光通によって、1658年(万治元)に建立された松平家の菩提寺。建物一帯は国の重要文化財に指定。寺宝も多い。本堂裏には、笏谷石[しゃくだにいし]を1360枚敷き詰めた千畳敷とよばれる歴代藩主の墓地があり、高さ4mもの墓石が並ぶさまは圧巻。気軽に参加できる坐禅コースや四季折々の食材を使用した精進料理もある大安禅寺を訪れる。

18:00福井駅付近のホテルに到着後、市街地を散策し食事を済ませてから就寝。

17日6:00レンタカーで出発、東尋坊方面に向かう。

中国を代表する作家魯迅[ろじん]が師と仰いだ医師・藤野厳九郎の旧宅を三国町から移築したもの。家屋は昭和初期のもので木造2階建て。別棟には資料室があり、医療器具や書簡などの遺品を展示する藤野厳九郎記念館を訪れる。

越前松島を眼下に望む水族館。マンボウ・リーフィーシードラゴンなど特徴ある魚を中心に、約400種の魚介類を紹介している。人気のフンボルトペンギンのお散歩や楽しいイルカのショーのほか、アザラシとのふれあいタイム、ウミガメや魚へのエサやり、ふれあい館ではサメやエイ、巨大なタコにさわることができる。また、2009年夏に新設された「海洋館」では、イワシの群泳やハンマーヘッドシャークが見ものの「海洋大水槽」と、水面がガラス張りの「シースルー珊瑚礁水槽」で海面浮遊体験ができる。3D立体シアター「くじらワールド」、展望レストランも併設している越前松島水族館の前で記念撮影。

安島漁港の沖合に浮かぶ周囲約2kmの小さな島。安島から島までは、224mの朱塗りの大橋が架かり、歩いて渡ることができる。橋を渡って大きな鳥居をくぐると78段の石段があり、その上には大湊神社が祭られている。境内からは東尋坊が一望でき、社務所の横からは遊歩道が延びる。島の南にそびえる柱状節理を眺めながら島を一周出来る雄島を訪れる。

国の天然記念物にも指定されている北陸屈指の景勝地。輝石安山岩の柱状節理の巨大な岩柱が約1kmにわたって続き、東尋坊大池や千畳敷、ライオン岩といった深淵や奇岩などが壮大な景観を展開している。断崖絶壁に日本海の荒波が打ち寄せるさまは、ダイナミックで迫力満点。冬には、砕けた波しぶきが白い泡状に凍って宙を舞う波の花が見られることもある東尋坊を散策する。

高さ55m、海面から110mの展望台。東尋坊や雄島、越前岬はもちろん、晴れた日には白山連峰や能登半島まで一望できる東尋坊タワー[東尋坊]を訪れる。

断崖に沿って歩きながら東尋坊を探勝する遊歩道で、サンセットビーチ北の米ケ脇から雄島入口の安島までの約4kmを結ぶ。眼下に見下ろす日本海や東尋坊の奇勝を堪能できる。途中には、高見順や三好達治、高浜虚子など地元ゆかりの文学者の文学碑や句碑が立つ荒磯遊歩道を散策する。

もと小学校を復元した郷土資料館。建物は5層8角形のユニークな洋館で、館内には北前船の5分の1の模型や船箪笥、航海用具など三国湊の海の暮らしを伝える資料、勇壮な武者人形を乗せた三国祭りの山車などを展示するみくに龍翔館を訪れる。

永平寺方面に向かう。

1576年(天正4)、柴田勝家の甥である勝豊が築城。天守閣は2層3階建てで、屋根は笏谷石の瓦葺き。上層に望楼があり、現存する天守閣としては愛知県の犬山城とともに最も古い形を残している。天守閣の東北側にある「一筆啓上…」の石碑は、日本一短い手紙として有名。徳川家康の功臣・本多作左衛門重次が、陣中から妻にあてて書き送ったものだ。周囲は霞ケ城公園として整備され、春には400本の桜が咲き誇る桜の名所。園内には、歴代城主ゆかりの武具や古文書などを展示する歴史民俗資料館もある丸岡城(霞ケ城)を訪れる。

豪雪地帯の厳しい寒さに耐えうる良質の真竹や孟宗竹が育つ越前では、古来より竹細工が作られてきた。今や伝統工芸になった竹人形もその一つ。創作竹人形館「黎明」は、さまざまの竹人形が展示された日本で唯一の竹人形館。展示作品は50点を数え、笹鳴りやひぐらし、しだれ桜といった竹人形の名作が並ぶ越前竹人形の里を訪れる。

広さ33万平方mにも及ぶ寺域は樹齢680年の老杉に囲まれ、壮厳な雰囲気が漂う。境内には山門、仏殿、法堂、僧堂(座禅堂)、庫院(台所)、浴室、東司(便所)の七堂伽藍をはじめ大小70余りの堂宇が配され、これらはすべて回廊で結ばれている永平寺を訪れる。

永平寺の境内にあり、必見は2階にある156畳敷の絵天井の大広間。折上格天井にはめ込まれた花鳥彩色画230枚は圧巻の傘松閣[永平寺]を訪れる。

1749年(寛延2)に再建の永平寺でもっとも古い建造物。両側には仏法の守護神・多門天、持国天、広目天、増長天が祭られている山門[永平寺]を訪れる。

永平寺境内にあり、修行僧が朝昼の食事や夜の睡眠をとる修行道場で、一般の立入りは禁止。約90人の修行僧たちが座禅する席が設けられている僧堂[永平寺]を訪れる。

永平寺境内にあり、国土安穏、万邦和楽を願う道場で、寺の本尊である過去、現在、未来を表す3体の釈迦牟尼仏が祭られている仏殿[永平寺]を訪れる。

永平寺境内の法堂は、1843年(天保14)の再建で、420畳敷と、七堂伽藍の中では最大規模を誇る。毎朝の勤経や各種法要が行われる法堂[永平寺]を訪れる。

勝山方面に向かう。

アジアを中心に、世界から集められた恐竜の全身骨格を30体以上も見ることができ、まるで立体の恐竜図鑑のようだ。実物大の恐竜たちが動く古環境復元ジオラマやCGシアターで、恐竜時代にタイムスリップした気分が味わえる。恐竜をはじめとする古生物、地球史の展示も充実する福井県立恐竜博物館を見学。

1987年(昭和62)の創建。大仏殿に安置された越前大仏は身の丈17mと、奈良東大寺の大仏を上回る大きさだ。中国洛陽市の郊外にある龍門石窟の坐像をモデルに造られたもので、両側には羅漢像、菩薩像が鎮座する大師山清大寺(越前大仏)を訪れる。

全国から集められた鎌倉時代の刀剣や鎧、兜など貴重な文化遺産を展示する博物館。1992年(平成4)に建てられた5層6階からなる天守閣の形をした建物で、石垣から鯱まで57.8mと日本一の高さだ。6階の展示室からは市街地と九頭竜川、越前大仏、遠く白山連峰などが一望できる勝山城博物館を見学。

白山を開いた泰澄大師が、717年(養老元)に創建した古社。48社36堂の坊舎をもち、白山信仰の一大拠点として栄華を極めたが、一向一揆で全山が焼失。現在は拝殿や本殿などの7つの社殿と、国の名勝の旧玄成院庭園が残る。菩提林とよばれる老杉が約2kmにわたって続く参道は石畳を覆う苔が美しく、「日本の道百選」にも選ばれている平泉寺白山神社を訪れる。

大野方面に向かう。

標高約600m、広さ2.7平方kmに及ぶ雄大な高原。大野盆地の北東に広がり、奥越高原ともよばれる。一帯にはホテルをはじめ、約200頭の乳牛を放牧する牧場、乳製品加工体験ができるミルク工房、温泉とレジャー施設を備えたピクニックガーデン、小動物園、スポーツ施設などが点在。トロン温浴施設うらら館のほか、毎年12月には初心者から上級者まで楽しめるスキー場もオープン。四季を通じてアウトドアレジャーが楽しめる六呂師高原を訪れる。

本願清水は、市街地南部にある湧水の一つ。全国でも数カ所しかない珍しい淡水型イトヨ生息地の南限として、国の天然記念物に指定されている。イトヨはトゲウオ科に属する魚で、主に北日本や北半球の北部に分布。体長は約6cm。背中に3本、腹部に2本、尻びれ前に1本、合計6本のトゲがあり、水が冷たくてきれいな所にしかいない。池に隣接して立つイトヨの里では、イトヨのすむ池を水中から観察できる本願清水イトヨの里を訪れる。

小京都大野の名物の一つとなっている七間朝市。越前大野城を築城した金森長近の時代から400余年の歴史を誇り、春分の日から大晦日までの毎日、町の中心を東西に走る七間通りで開かれる。朝の7時頃になると、地元の農家が丹精込めて育てた新鮮な野菜や果物、花などが路上に敷かれたゴザにズラリ。地元の人が買い出しに訪れ、活気に包まれる。観光客と地元の人とのふれ合いの場でもあり、素朴な懐かしさが感じられる七間朝市を訪れる。

城下町大野のシンボル。織田信長の家臣・金森長近が1575年(天正3)から4年の歳月をかけて築いた平山城で、1775年(安永4)の大火で城は焼失したが、野面積みといわれる技法で造られた石垣だけは当時のまま残っている。現在の天守閣は1968年(昭和43)に再建されたもので、内部には、歴代領主の遺品や古文書などを展示。最上階からは、眼下に大野の町並み、遠くには白山連峰が眺められる越前大野城を訪れる。

地酒やそばがおいしい大野は地下水が豊富。市内のあちこちに湧水池がある。なかでも環境庁の名水百選の一つに選ばれて、透明度が高く味わい豊かな名水。その昔、殿様の御用水として使われていたことから殿様清水ともよばれ、夏はひんやり、冬は温かく感じられる。現在でも地元の人たちが野菜を洗ったり洗濯をするなど、生活用水として使う姿が見られる御清水を訪れる。

福井市に戻る。

1573年(天正元)、城下町として栄華を極めていた一乗谷は、織田信長の攻撃にあい滅亡。1967(昭和42)から館跡や武家屋敷など多数の遺跡が本格的に発掘され、現在278万平方mの範囲が特別史跡として保護されている。遺跡内の4つの庭園は国の特別名勝の一乗谷朝倉氏遺跡を訪れる。

一乗谷朝倉氏遺跡内の中心的存在で5代朝倉義景が住んだ館跡。6400平方mにも及ぶ敷地には一面に礎石が広がり、16棟の建物があった。入口の唐門は、1598年(慶長3)に豊臣秀吉が寄進したものとの説もある朝倉義景館跡[一乗谷朝倉氏遺跡]を訪れる。

一乗谷朝倉氏遺跡にあり、発掘された武家屋敷や町屋などが立体復元され当時の城下町の造りや人々の生活ぶりが見られる復原町並[一乗谷朝倉氏遺跡]を訪れる。

17:00帰路に向かう。
17:30福井駅到達
17:42福井駅サンダーバードで出発
19:36大阪駅到達。

今回の旅行、福井県北部の越前地方に足を運び、美術館や博物館が点在し全国唯一の戦国城下町跡の福井タウン、大らかな海景色の東尋坊や歴史ある港町三国、関西の奥座敷と呼ばれるあわら温泉、禅の道場永平寺、恐竜化石の産出日本一の勝山、名水の里として知られ、古い商家や武家屋敷の残る城下町、大野を訪れ、自然と多くの史跡に触れ満喫できました。
















飛行機で国内&海外の観光地巡り第百三弾:福井県若狭観光
2010年7月10ー11日


南越前町と敦賀市を隔てる稜線を境に、北部の越前と南部の若狭に分けられる福井県の若狭に足を運び、港町の雰囲気が漂う若狭路の玄関口敦賀、海山と5つの湖に彩られた若狭湾きっての景勝地、三方五湖、京の都と繋がりも深かった鯖街道の拠点、小浜、海と山の豊かな自然に包まれた高浜・おおいを訪れました。

10日22:00大阪市内で大学の同窓会を終えてから車で阪神近畿第二京阪北陸自動車道経由して敦賀方面に向かう。

11日00:15敦賀駅付近のホテル到達、宿泊
6:00車で出発、早朝の敦賀市内を観光する。

702年(大宝2)創建の古社。伊奢沙別命をはじめ7柱の神を祭り、「けひさん」の名で親しまれる。高さ10.9mの大鳥居(重要文化財)は、木造の鳥居では奈良の春日大社、広島の厳島神社と並ぶ日本三大鳥居の一つの氣比神宮を訪れる。

明治から昭和初期にかけて港を中心に国際的な都市として発展した敦賀。その当時の面影を今もとどめる建造物だ。1905年(明治38)に紐育[ニューヨーク]スタンダード石油会社によって建てられた。オランダ製レンガ造りの建物は外国人の設計で、柱6本の内側に壁を設けているため内部は無柱の空間となっていることやフィート単位で造られているのが特徴の赤レンガ倉庫を訪れる。

敦賀まつりの山車3基を展示。迫力ある山車巡行の様子を映し出すスクリーンシアター。敦賀の山車の特徴である、武者人形に飾り付ける実物の鎧、兜、能面なども見学できるみなとつるが山車会館に寄る。

日本三大松原の一つ。敦賀湾に沿って曲線を描く砂浜に、約1万7000本の松林が広がる。夏は海水浴客で賑わう気比の松原を訪れる。

200インチ大画面スーパーシアターでの映像や資料展示で、昆布を紹介するテーマパーク昆布館に寄る。

豪農の柴田権右衛門が、絵師の狩野探幽に地割り設計を依頼したと伝えられる築山回遊式林泉庭園。江戸時代の前期に造られ、参勤交代の時には小浜藩主の休憩場所にもなっていたという。野坂山を借景とした庭が、落ち着いた空間を造りだしている柴田氏庭園を訪れる。

敦賀市街の北西に若狭湾と敦賀湾を分けるように延びる半島。注連縄で結ばれた夫婦岩の姿が伊勢二見と似ていることから、敦賀二見と呼ばれる弁天岩も名所のひとつ。また、西浦海岸は水が美しい海水浴場があり、若狭国定公園に指定されている。半島の先端近くに浮かぶ水島は、海水の透明度が高く、白砂で遠浅の美しいビーチが広がる。夏には色ケ浜と浦底から渡し船が出ている敦賀半島に向かう。

日本の原子力発電所の仕組みや周辺の自然を学べる。近くには猪ケ池野鳥園がある敦賀原子力館に寄る。

美浜町と若狭町にまたがる5つの湖の総称。2005年(平成17)に国際ラムサール条約に登録された。三方湖は淡水、日向湖は海水、水月湖、菅湖、久々子湖は海水と淡水が混じる。それぞれに水質と水深が異なるため水の色が微妙に違い、五色の湖とも呼ばれる。多種多様な魚介類が生息することから釣客も多く訪れる。若狭湾東岸の三方断層下の沈降部に水が溜まってできたといわれ、周囲の山々や海、5つの湖が入り組んで造り出すその美しい四季折々の景観は、『万葉集』にも歌われている。三方五湖方面に向かう。

若狭国定公園内を走る全長約11kmのドライブウェイ。変化に富んだ三方五湖や日本海を見渡せるレインボーライン[三方五湖]を走行する。

常神半島の付け根にある標高395mの山。三方富士の別名を持つ。山頂の公園にバラ園などがあり、展望台からは日本海や三方五湖が見渡せる梅丈岳を訪れる。

縄文時代の遺跡が数多く残る若狭町にある公園。広大な敷地の中に、縄文時代を体感できる若狭三方縄文博物館「DOKIDOKI館」を中心に、野外ステージで各種イベントが行われる縄文コロセウムや野鳥観察小屋、野外アスレチック施設などがある。縄文広場には縄文時代の竪穴住居や縄文の森、畑、環状列石を再現し、縄文文化にふれることができる縄文ロマンパークを訪れる。

縄文ロマンパークにある歴史博物館。「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる鳥浜貝塚をはじめ、周辺の縄文遺跡から出土した土器や剥ぎ取り(本物の遺跡地層の壁)、丸木舟などを展示。縄文時代の技術・くらし・文化を紹介している。丸木舟乗船や土器・土笛・勾玉づくり、火おこしの体験可。天然の冷蔵庫ともいえる遺跡からの発掘品は、数千年前のものとは思えないほど保存状態がよい若狭三方縄文博物館 DOKIDOKI館[縄文ロマンパーク]を見学。

小浜方面に向かう。

急斜面の緑豊かな山並と清流にはさまれた一筋の町並の熊川は,浅野長政の治領下に発展した若狭街道上の宿場町。古い港町小浜と琵琶湖畔の近江今津をつなぐこの地は,京と若狭・北陸の文化交流の接点としても重要な役割を果たしてきた。連なる甍と,塗り篭めの壁,白壁の土蔵,虫篭窓の古い家並。歴史の深い町・熊川には,数々の史跡や,寺社,「御用日記」のような古文書や伝説が多く残る熊川宿を散策する。

鯖街道をはじめとした若狭地方の歴史や祭り、行事、仏教文化などについて展示する資料館。館内は、「若狭のあゆみ」「若狭のみほとけ」「若狭の四季とくらし」の3つのテーマをわかりやすく紹介している。なかでも目を引くのは、約5500年前に造られ、現存するものの中では日本最古といわれる丸木舟のある福井県立若狭歴史民俗資料館を見学。

聖武天皇の勅願によって諸国に建立された国分寺の一つで、1610年建立の釈迦堂のみ現存し、本堂などは遺構が国指定の史跡となっている。木造薬師如来坐像(重要文化財)が安置される国分寺を訪れる。

創建は806年(大同元)といわれるが、国宝に指定された現在の本堂(薬師堂)は、1258年(正嘉2)に再建されたもの。深々とせり出した軒などに、鎌倉時代の密教建築の特徴が表れている。同じく国宝である高さ22mの三重塔は、本堂横の杉木立の中に立つ。平安後期に作られた本尊薬師如来坐像、降三世明王立像、深沙大将立像、不動明王立像の4体は国の重要文化財に指定されており、その迫力に圧倒される明通寺を訪れる。

1602年(慶長7)極楽寺が兵火で焼け、寺名を現在の名に改称。重要文化財の木造阿弥陀如来坐像をを安置している。国の名勝に指定されている庭園は、春は寺の花・ツツジ、秋は「日本の紅葉百選」の一つに選ばれたモミジが美しい萬徳寺を訪れる。

水送りの寺として有名だ。本堂(重要文化財)、仁王門(重要文化財)が立つ。木造男神・女神坐像(重要文化財、非公開)もある神宮寺を訪れる。

本堂は、鎌倉初期に造られた若狭最古の建築物で、寄棟造り檜皮葺。本堂(重要文化財)、木造二十四面千手観音菩薩立像(重要文化財)がある。北陸観音第3番札所、若狭観音第19番札所の妙楽寺を訪れる。

江戸初期に作庭されたという池泉観賞式庭園では、梅雨時にモリアオガエルの産卵が見られる。木造大日如来坐像(重要文化財)、木造不動明王立像(重要文化財)が安置されている円照寺を訪れる。

716年(霊亀2)行基が元正天皇の勅願によって諸堂を建立したのが始まりと伝わる。本尊の十一面観音菩薩立像(重要文化財)は元正天皇の御等身として行基が彫ったとされており、彩色が残り女性的な表情をもつ美しい仏像。天皇の等身大に造られているという。現存する本堂は、1447年(文安4)に奥州十三湊(青森)を本拠地とする安倍(安藤)康季により再建されたもので、重要文化財に指定されている羽賀寺を訪れる。

花崗岩が波に打ち砕かれ、方状節理にそって海蝕してできた
奇岩・洞窟・断崖と、断崖から流れ落ちる滝が約6kmにも及び、その豪壮雄大な姿は、日本海側有数の景勝地となっています蘇洞門を小浜港から遊覧船で海から眺望する。

高浜方面に向かう。

高浜町の海岸の中央に小さく突き出た、半島全域を整備した公園。室町時代に建てられた高浜城があったところで、本丸跡などが残る。「八穴の奇勝」と呼ばれる8つの自然洞穴が園内に点在。なかでも小舟が通れるほどの大きさの明鏡洞が有名で、公園入口からその姿を望め、洞穴や奇岩の眺望が楽しめる遊歩道がある城山公園を訪れる。

内浦半島先端、今戸鼻から押回鼻の間を約2kmにわたって延びる断崖絶壁。海食によってできたもので、最も高い場所は約260mに及ぶ音海大断崖付近を訪れる。

18:00終了、舞鶴中国自動車道経由して帰路に向かう。

今回の旅行、北陸地方の福井県の南部、若狭に足を運び港町の雰囲気が漂う若狭路の玄関口敦賀、海山と5つの湖に彩られた若狭湾きっての景勝地、三方五湖、京の都と繋がりも深かった鯖街道の拠点、小浜、海と山の豊かな自然に包まれた高浜・おおいを訪れました。

若狭は日本海沿いの夏の海水浴が有名ですが、自然だけでなく、鯖街道の宿場町熊川宿、8尊の仏像が有名な小浜の古刹、歴史的文化遺産も豊富な福井県若狭観光でした。